無名抄「晴の歌は人に見せ合はすべき」現代語訳・原文・語釈

晴の歌は、必ず人に見せ合はすべきなり

「公式の晴れ舞台で詠む歌は、必ず人に見せて相談するべきである」

という一文から始まる『無名抄』の章段は、若かりし頃の鴨長明が「恋の歌」を詠もうとして、危うく大失態をおかしそうになった話が記されています。

無名抄「晴の歌は人に見せ合はすべき」の現代語訳と、鴨長明と高松女院の関係、そして安元の大火へと続く不幸の連鎖についてもわかりやすく解説します。

目次

原文・語釈・現代語訳

晴の歌は、必ず人に見せ合はすべきなり

原文

 はれの歌は、必ず人に見せ合はすべきなり。わが心一つにては誤りあるべし。

 予、そのかみ、高松の女院の北面きたおもて菊合きくあはせといふことはべりしとき、恋の歌に、

語釈

  • はれの歌:公式の場で読む和歌。
  • そのかみ:その昔。
  • 高松の女院:姝子内親王(二条天皇の中宮、女院)。幼少期の長明に従五位下の位を授け、庇護していた。
  • 北面きたおもて:女院の御所を警固する武士の詰所。
  • 菊合きくあはせ:菊の花の美しさと、その菊に添える歌の優劣を競う催し。

現代語訳

 公式の晴れ舞台で詠む歌は、必ず人に見せて相談するべきである。自分の心一つで判断しては誤りが起こるであろう。

 私はその昔、高松女院の北面で菊合という催しがありました時、恋の歌に、

人知れぬ涙の河の瀬を早み

原文

人知れぬ涙の河の瀬を早みくづれにけりな人目つつみは

 と詠めりしを、いまだはれの歌など詠み慣れぬほどにて、勝命しようみやう入道にふだうに見せ合はせはべりしかば、

語釈

  • 人目つつみ:人目を隠す堤。
  • 勝命しようみやう:俗名は藤原親重。長明の父長嗣の歌友で、長明を幼少期から見守っていた人物と考えられている。

現代語訳

人に知られないように流していた涙が川となり、瀬の流れを速めて、人目から隠していた堤が崩れてしまったよ

 と、詠んだのを、まだ晴の歌など詠み慣れていない頃だったので、勝命入道に見せて相談しましたら、

この歌、大きなる難あり

原文

「この歌、大きなる難あり。御門みかど、后の隠れたまふをば、『ほうず』といふ。その文字をば、『くづる』と読むなり。いかでか、院中にて詠まむ歌に、この言葉をばうべき」

 と申しはべりしかば、あらぬ歌をだしてやみにき。

語釈

  • 隠る:(身分の高い人が)死ぬ。亡くなる。
  • ほうず:天皇・皇后などがお亡くなりになる。崩御する。
  • あらぬ:別の
  • さとし:前兆。お告げ。
  • 沙汰さた:うわさ。論議すること。

現代語訳

「この歌は大きな難がある。帝や后がお亡くなりになることを『ほうず』という。その文字を『くづる』と読んでいるのだ。どうして、院中で詠もうという歌に、この言葉を据えられようか」

 と、おっしゃったので、別の歌を出して事なきを得た。

その後、ほどなく

原文

 その後、ほどなく、女院隠れおはしましにき。この歌のさとしとぞ、沙汰さたせられはべらまし。

語釈

  • 隠る:(身分の高い人が)死ぬ。亡くなる。
  • ほうず:天皇・皇后などがお亡くなりになる。崩御する。
  • あらぬ:別の
  • さとし:前兆。お告げ。
  • 沙汰さた:うわさ。論議すること。

現代語訳

 その後、ほどなくして、高松女院は崩御されました。もしこのまま出していたら、この歌が予兆であったと物議をかもしたでありましょう。

原文全文

 はれの歌は必ず人に見せ合はすべきなり。わが心一つにては誤りあるべし。

 予、そのかみ、高松の女院の北面きたおもて菊合きくあはせといふことはべりしとき、恋の歌に、

人知れぬ涙の河の瀬を早みくづれにけりな人目つつみは

 と詠めりしを、いまだはれの歌など詠み慣れぬほどにて、勝命しようみやう入道にふだうに見せ合はせはべりしかば、

「この歌、大きなる難あり。御門みかど、后の隠れたまふをば、『ほうず』といふ。その文字をば、『くづる』と読むなり。いかでか、院中にて詠まむ歌に、この言葉をばうべき」

 と申しはべりしかば、あらぬ歌をだしてやみにき。

 その後、ほどなく女院隠れおはしましにき。この歌のさとしとぞ、沙汰さたせられはべらまし。

現代語訳全文

 公式の晴れ舞台で詠む歌は、必ず人に見せて相談するべきである。自分の心一つで判断しては誤りが起こるであろう。

 私はその昔、高松女院の北面で菊合という催しがありました時、恋の歌に、

人知れぬ涙の河の瀬を早みくづれにけりな人目つつみは

人に知られないように流していた涙が川となり、瀬の流れを速めて、人目から隠していた堤が崩れてしまったよ

 と、詠んだのを、まだ晴の歌など詠み慣れていない頃だったので、勝命入道に見せて相談しましたら、

「この歌は大きな難がある。帝や后がお亡くなりになることを『ほうず』という。その文字を『くづる』と読んでいるのだ。どうして、院中で詠もうという歌に、この言葉を据えられようか」

 と、おっしゃったので、別の歌を出して事なきを得た。

 その後、ほどなくして、高松女院は崩御されました。もしこのまま出していたら、この歌が予兆であったと物議をかもしたでありましょう。

解説

鴨長明と高松女院の関係

鴨長明にとって、高松女院は特別な存在でした。

高松女院こと姝子内親王は、永治元(1141)年生まれ。

仁平3(1153)年または久寿2(1155)年生まれとされる長明より、12〜14歳ほど年上にあたります。

高松女院は、長明が幼いころから目をかけていたようです。

応保元(1161)10月17日、まだ6歳または8歳だった長明は、当時20歳の高松女院によって従五位下に叙されています。

本文に出てくる高松女院での菊合は、安元元(1175)年に開かれました。

この時の長明は20~22歳、高松女院は34歳です。

まだ若く、経験も浅い長明にとって、公式の晴れ舞台で、しかも高松女院の前とあらば、さぞ力が入ったことでしょう。

長明が詠もうとした、

人知れぬ涙の川の瀬を早みくづれにけりな人目つつみは

という恋の歌。

「密かな恋心があらわになってしまった」というこの歌は、もしかすると高松女院に向けた歌だったのかも? などと妄想してしまいます。

高松女院の崩御と安元の大火

高松女院はこの菊合の翌年、安元2(1176)年6月13日に崩御しました。

それからひと月も経たない安元2(1176)年7月8日には、後白河法皇の后である建春門院(平滋子)が亡くなります。

さらにその約2か月後には、近衛天皇の皇后であった九条院(藤原呈子)も崩御。

そして翌年の安元3(1177)年4月28日、平安京の3分の1が焼け落ちたという「安元の大火」が起こります。

もし長明があの歌を出していたら、炎上どころの騒ぎでは済まなかったかもしれません。

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この記事を書いた人

生きづらさを抱えていた30代の頃、物事の本質を知ろうとしているうちに、古典文学へとたどり着きました。中高生の頃は、受験のためでしかなかった古文・漢文。その魅力にもっと早く気づきたかった人生でした。今はライフワークとして、古典文学の現代語訳や歴史探訪を楽しんでいます。

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