歌は題の心をよく心得べきなり。俊頼の『髄脳』といふものにぞ記してはべるめる。必ずまはして詠むべき文字、なかなかまはしては悪く聞こゆる文字あり。必ずしも詠み据ゑねども、おのづから知らるる文字もあり。いはゆる暁天落花、雲間郭公、海上明月、これらのごとくは、第二の文字は、必ずしも詠まず。みな下の題を詠むに具して聞こゆる文字なり。また、かすかにて優なる文字あり。これらは教へ習ふべきことにあらず。よく心得つれば、その題を見るにあらはなり。
また、題の歌は必ず、心ざしを深く詠むべし。たとへば、祝ひには限りなく久しき心をいひ、恋にはわりなく浅からぬよしを詠み、もしは命に替へて花を惜しみ、家路を忘れて紅葉を尋ねむごとく、そのものに心ざしを深く詠むべきを、古集の歌どものさしも見えぬは、歌ざまのよろしきによりてその難を許せるなり。もろもろの難ある歌、この会釈によりて選び入るるは、常のことなり。されど、かれをば例とすべからず。いかにも歌合などに、同じほどなるにとりては、今少し題を深く思へるを勝ると定むなり。たとへば、説法する人の、その仏に向かひてよく讃嘆するがごとし。
ただし、題をば必ずもてなすへきぞとて、古く詠まぬほどのことをば心すべし。たとへば、郭公などは、山野を尋ね歩きて聞く心を詠む。鶯ごときは、待つ心をば詠めども、尋ねて聞くよしはいと詠まず。また、鹿の音などは、聞くにもの心細く、あはれなるよしをば詠めども、待つよしをばいともいはず。かやうのこと、ことなる秀句などなくは、必ず去るべし。また、桜をば尋ぬれど、柳をば尋ねず。初雪などをば待つ心を詠みて、時雨、霰などをば待たず。花をば命に替へて惜しむなどいへども、紅葉をばさほどには惜しまず。これらを心得ぬは、故実を知らぬやうなれば、よくよく古歌などをも思ひときて、歌のほどに従ひて、計らふべきことなり。
歌はただ同じ言葉なれど、続けがら、言ひがらにて、良くも悪しくも聞こゆるなり。かの友則が歌に「友まどはせる千鳥鳴くなり」といへる、優に聞こゆるを、同じ古今の恋の歌の中に「恋しきにわびて魂まどひなば」ともいひ、また「身のまどふだに知られざるらむ」などいへるは、ただ同じ言葉なれどおびただしく聞こゆ。これはみな、続けがらなり。
されば、「古歌に確かにしかしかあなり」など証を出だすことは、様によるべし。その歌にとりて、善悪あるべきゆゑなり。曾禰好忠が歌に、
播磨なる飾磨に染むるあながちに人を恋しと思ふ頃かな
「あながちに」といふ言葉は、うちまかせて歌に詠むべしとも覚えぬことぞかし。しかあれど、「飾磨に染むる」と続きて、わざとも艶にやさしく聞こゆるなり。
古今の歌に、
春霞立てるやいづこみ吉野の吉野の山に雪は降りつつ
これは、いとめでたき歌なり。中にも「立てるやいづこ」といへる言葉、すぐれて優なるを、ある人の『社頭の菊』といふ題を詠みはべりしに、
神垣に立てるや菊の枝たわに誰が手向けたる花の白木綿
同じく「立てるや」と詠みたれど、これはわざとも言葉もきかず、手づつげにはべり。
ある所にて歌合しはべりし時、海路を隔つる恋といふ題に、歌は忘れたり。筑紫なる人の恋しきよしを詠めりしに、かたへはこれを難ず。
「さらなり。筑紫は海を隔てたれば、思ひ続くるにはさることなれど、徒歩より行く人のためには、門司の関まで多くの山野を過ぎて、ただいささか海を渡るべければ、題の本意もなく、すこぶる広量なる方々もあり。たとへば、陸奥の国なる人を恋ふるよしを詠みては 、この歌一つにて、野を隔つる恋にも、山を隔つる題にも、もしは里を隔て、河を隔てつるにも用ゐむとやする。題の歌はさもと聞こゆるこそよけれ。あまり座広なり」
と難ず。あるはいはく、
「歌はさのみこそ詠め。まさしく海をだに隔てば、必ずかの磯なる人をこの浦にて見渡すべきことかは。あまりの難なり」
と争ひあへりしを、その座に先達あまたはべりしも、方々分かれて、大きなる論にてなむはべりし。されど、心にくきほどの人多くは、難をば、今少しいはれたり、とぞ定めはべりし。
また、同じ所にて、小因幡といひし女房、夏を契る恋といふ題に、
惜しむべき春をば人にいとはせてそら頼めにやならむとすらむ
と詠めりしを、「よろし」など人々定めはべりしほどに、ある人のいはく、
「『春をば人に』といへるや、少しおぼつかなからむ。ただ、『春をば我に』といひたらば、確かにて勝りなむかし」
と言ふ。これ同ずる人多くはべりしを、俊恵聞きて、
「むげに心劣りせらるることをのたまふかな。『人に』といひたりとても、他人とやは思ひたどるべき。『我に』といひては、うたてことのほかに品なく聞こゆるものを。歌は花麗を先とす。人をば知らず。おのれはたとい難ありとも、『人に』と詠まむ」
とぞ申しはべりし。
晴の歌は必ず人に見せ合はすべきなり。わが心一つにては誤りあるべし。
予、そのかみ、高松の女院の北面に菊合といふことはべりしとき、恋の歌に、
人知れぬ涙の川の瀬を早み崩れにけりな人目つつみは
と詠めりしを、いまだ晴の歌など詠み慣れぬほどにて、勝命入道に見せ合はせはべりしかば、
「この歌、大きなる難あり。御門、后の隠れたまふをば、『崩ず』といふ。その文字をば、『崩る』と読むなり。いかでか、院中にて詠まむ歌に、この言葉をば据うべき」
と申しはべりしかば、あらぬ歌を出だしてやみにき。
その後、ほどなく女院隠れおはしましにき。この歌のさとしとぞ、沙汰せられはべらまし。

九条殿いまだ右大臣と申ししとき、人々に百首詠ませらるることはべりき。その度、いみじき人々僻事詠みて、はてには異名さへ付きたまひにき。近くの徳大寺の左大臣は、無明の酒を「名も無き酒」と詠みたまへりしかば、「名無しの大将」と言はれ、五条の三位入道はこの道の長者にいます。しかれど、富士の鳴沢を「富士のなるさ」と詠みて、「なるさの入道、名無しの大将」と番ひて、人に笑はれたまひしかば、いみじきこの道の遺恨にてなむはべりし。おのおのこれほどのこと、知りたまはぬにはあらじを、思ひわたりたまへりけるにこそ。
同じ度の百首に、伊豆守仲綱の歌に、「ならはし顔」など詠みたりしをば、大弐入道聞きて、
「かやうの言葉など詠まむ人をば、百千の秀歌詠みたりとも、いかが歌詠みとはいはむ。むげにうたてきことなり」
とこそ申されけれ。これらはみな、人に見せ合はせぬ誤りどもなり。
建春門女院の殿上の歌合に、関路落葉といふ題に、頼政卿の歌に、
都にはまた青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関
と詠まれてはべりしを、その度、この題の歌をあまた詠みて、当日まで思ひ煩ひて、俊恵を呼びて見せられければ、
「この歌は、かの能因が『秋風ぞ吹く白河の関』といふ歌に似てはべり。されどこれは出で栄えすべき歌なり。かの歌ならねど、かくもとりなしてむと、べしげに詠めるとこそ見えたれ。似たりとて、難とすべきさまにはあらず」
と、計らひければ、今車さし寄せて乗られけるとき、
「貴房の計らひを信じて、さらばこれを出だすべきにこそ。後の咎はかけ申すべし」
と言ひかけて、出でられにけり。
その度、この歌思ひのごとく出で栄えして勝ちにければ、帰りてすなはち喜び言ひつかはしたりけるとぞ。
「見ると頃ありてしか申したりしかど、勝負聞かざりしほどは、あひなくよそにて胸つぶれはべりしに、いみじき高名したりとなむ、心ばかりは覚えはべりし」
とぞ、俊恵語りはべりし。
同じ度、水鳥近く馴るといふ題に、同じ人、
子を思ふ鳰の浮き巣の揺られ来て捨てじとすれや水隠れもせぬ
この歌、「めづらし」とて勝ちにき。祐盛法師、これを見て大きに難じていはく、
「鳰の浮巣のやうをえ知られぬにこそ。かの浮巣は揺られ歩くべきものにあらず。海の潮は満ち干るものなれば、それを知りて、鳰の巣をくふには、葦の茎を中に籠めて、しかもかれをばくつろげて、めぐりにくひたれば、潮満てば上へ上がり、潮干れば従ひて下るなり。ひとへに揺られ歩かむには、風吹かばいづくともなく揺られ出でて、大波にも砕かれ、人にも取られぬべし。されど、その座に知れる人のなかりけるにこそ、勝に定められにければ、言ふかひなし」
とぞ申しはべりし。
二条院和歌好ませおはしましけるとき、岡崎の三位、御侍読にて候はれけるに、この道の聞こえ高きによりて、清輔朝臣召されて殿上に候ひけり。いみじき面目なりけるを、ある時の御会に、清輔、いづれの山とか、「このもかのも」といふことを詠まれたりければ、三位これを難じていはく、
「筑波山にこそ、『このもかのも』とは詠め。大方、山ごとにいふべきことにはあらず」
と難ぜられければ、清輔申していはく、
「筑波山までは申すべきならず。川などにも詠みはべるべきにこそ」
とつぶやきければ、三位あざ笑ひて、
「証歌をたてまつれ」
と申されけるに、清輔のいはく、
「大井川の会に躬恒が序書けるとき、『大井川のこのもかのも』と書けること、まさしくはべるものを」
と言ひ出でたりければ、諸人口を閉ぢてやみにけり。
荒涼にものをば難ずまじきことなり。
光行、賀茂社歌合とてしはべりしとき、予、月の歌に、
石川や瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む
と、詠みてはべりしを、判者にて師光入道、
「かかる川やはある」
とて、負けになりはべりにき。思ふと頃ありて詠みてはべりしかど、かくなりにしかば、いぶかしく覚えはべりしほどに、
「その度の判者、すべて心得ぬこと多かり」
とて、また改めて顕昭法師に判せさせはべりしとき、この歌の所に判していはく、
「石川、瀬見の小川、いとも聞き及びはべらず。ただし、をかしく続けたり。かかる川などのはべるにや。所の者に尋ねて定むべし」
とて、ことを切らず。
後に顕昭に会ひたりしとき、このこと語り出でて、
「これは賀茂川の異名なり。当社の縁起にはべり」
と申ししかば、驚きて、
「かしこくぞおして難ぜずはべりける。さりとも、顕昭等が聞き及ばぬ名所あらむやはと思ひて、ややもせば難じつべく覚えはべりしかど、誰が歌とは知らねど、歌ざまのよろしく見えしかば、と頃おきてさやうに申してはべりしなり。これすでに老の功なり」
となむ申しはべりし。
その後、このことを聞きて、禰宜祐兼大きに難じはべりき。
「かやうのことは、いみじからむ晴の会、もしは国王、大臣の御前などにてこそ詠まめ、かかる褻事に詠みたる、無念なることなり」
と申しはべりしほどに、隆信朝臣この川を詠む。また、顕昭法師、左大将家の百首の歌合のとき、これを詠む。祐兼いはく、
「さればこそ。我いみじく詠み出だされたりと思はれたれど、代の末には、いづれか先なりけむ、人はいかでか知らむ。何となくまぎれて、やみぬべかめり」
と、本意ながりはべりしを、新古今撰ばれしとき、この歌入れられたり。いと人も知らぬことなるを、取り申す人などのはべりけるにや。すべて、この度の集に十首入りてはべり。これ過分の面目なるうちにも、この歌の入りてはべるが、生死の余執ともなるばかり嬉しくはべるなり。あはれ無益のことどもかな。
千載集には、予が歌一首入れり。
「させる重代にもあらず、詠み口にもあらず。また、時にとりて人に許されたる好士にもあらず。しかあるを、一首にても入れるは、いみじき面目なり」
と喜びはべりしを、故筑洲聞きて、
「このこと、ただなほざりに言はるるかと思ふほどに、たびたびになりぬ。まことに思ひてのたまふことにこそ。さるにては、この道に必ず冥加おはすべき人なり。そのゆゑは、道理はしかあれど、人のしか思ふことはありがたきわざなり。この集を見れば、させることなき人々、みな十首、七、八首、四、五首入れるたぐひ多かり。かれらを見るときは、いかばかりいやましく思はるらむと推し量るに、あまりさへかく喜ばるる、いみじきことなり。道を尊ぶには、まづ心をうるはしく使ふにあるなり。今の世の人はみなしかあらず。身のほども知らず、心高くおごり、かまびすしき憤りを結びて、ことにふれて誤り多かり。今、思ひ合はせられよ」
となむ申しはべりし。
まことに、この道の冥加、身のほどにも過ぎたり。古き人の言へること、必ずゆゑあり。
同じ人、常に教へていはく、
「あなかしこあなかしこ、歌詠みな立てたまひそ。歌はよく心すべき道なり。われらがごとく、あるべきほど定まりぬる者は、いかなる振舞ひをすれども、それによりて身のはふるることはなし。そこなどは重代の家に生まれて、早くみなし子になれり。人こそ用ゐずとも、心ばかりは思ふと頃ありて、身を立てむと骨張るべきなり。しかあるを、歌の道、その身に堪へたることなれば、ここかしこの会に、かまへてかまへてと招請すべし。よろしき歌詠み出でたらば、面目もあり、道の名誉も出で来ぬべし。さはあれど、所々にへつらひ歩きて、人に馴らされたちなば、歌にとりて人に知らるる方々々はありとも、遷度の障りとは必ずなるべかめり。そこたちのやうなる人は、いと人にも知られずして、さし出づる所には誰ぞなど問はるるやうにて、心にくく思はれたるがよきなり。さて、何ことをも好むほどに、その道に優れぬれば、錐、袋にたまらずとて、その聞こえありて、しかるべき所の会にも交はり、雲客月卿の筵の末に臨むこともありぬべし。これこそ、道の遷度にてはあれ。ここかしこの人非人がたぐひに連なりて、人に知られ、名を上げては、何にかはせむ。心にはおもしろくすすましく思ゆとも、必ず所嫌ひして、やうやうしと人に言はれむと思はるべき」
となむ教へはべりし。
今思ひ合はすれば、いみじき恩をかうぶれるなり。さるはかしこきもののならひなれば、わが子などをだに、おぼろけならでは教訓することもなかりしを、かやうにうしろやすく言ひ教へけるは、また異ことにあらず。管絃の道につけて、跡継ぐべき者とて、世にも人にも数へられてあれかしと思ひけるにこそ。のどかに思へば、いとあはれになむ。
俊恵法師が家をば歌林苑と名付けて、月ごとに会しはべりしに、祐盛法師、その会衆にて、寒夜千鳥といふ題に、「千鳥も着けり鶴の毛衣」といふ歌を詠みたりければ、人々、「めづらし」など言ふほどに、素覚といひし人、たびたびこれを詠じて、
「おもしろくはべり。ただし、寸法や合はずはべらん」
と言ひ出でたりけるに、とよみになりて、笑ひののしりければ、ことさめてやみにけり。
「いみじき秀句なれど、かやうになりぬれば、かひなきものなり」
となむ、祐盛語りはべりし。
すべては、この歌の心得ずはべるなり。鳥はみな毛衣を衣とするものなれば、ほどにつけて千鳥もみづから毛衣着ずやはあるべき。必ずしも寸法ことのほかなる借りものすべきにあらず。かの「白妙の鶴の毛衣年経とも」といふ古歌あるにこそあれ。いづれの鳥にも詠まむに憚りあるべからず。先にや申しはべりつる建春門院の殿上の歌合にも、「鴛鴦の毛衣」と詠める歌はべり。いささか疑ふ人ありけれど、判者、咎あるまじきやうになだめられたり。ただし、「鶴の毛衣は毛の心にはあらず。別のことなり。鶴ばかり持たるなり」と申す人はべれど、いまだその証をえ見及びはべらず。弘才の人に尋ぬべし。
祐盛法師いはく、
「妙荘厳王の二子の神変を釈するに、『大身を現ずれば虚空に満ち、小身を現ずれば芥子に入る』と言ふは世の常のことなるを、かの忠胤の説法に、『大身を現ずれば虚空に狭ばたがり、小身を現ずれば芥子の中に所あり』と言へりけるが、いみじき和歌の風情にてはべるなり。歌はかやうに心得て、古ことに色を添へつつ、めづらしくとりなすべきなり。さのみ新しき色はいかがあり、あへて詠まれむ」
となむ語りはべりし。
雨の降りける日、ある人のもとに思ふどちさし集まりて、古きことなど語り出でたりけるついでに、
「ますほのすすきといふは、いかなるすすきぞ」
など言ひしろふほどに、ある老人のいはく、
「渡辺といふ所にこそ、このこと知りたる聖はありと聞きはべりしか」
と、ほのぼの言ひ出でたりけり。
登蓮法師その中にありて、このことを聞きて、言葉少なになりて、また問ふこともなく、主に、
「蓑、笠しばし貸したまへ」
と言ひければ、あやしと思ひながら取り出でたりけり。もの語りをも聞きさして、蓑うち着、藁沓さし履きて、急ぎ出でけるを、人々あやしがりて、そのゆゑを問ふ。
「渡辺へまかるなり。年頃いぶかしく思ひたまへしことを、知れる人ありと聞きて、いかでか尋ねにまからざらむ」
と言ふ。驚きながら、
「さるにても、雨やめて出でたまへ」
と諫めけれど、
「いで、はかなきことをものたまふかな。命はわれも人も、雨の晴れ間など待つべきことかは。何ことも今静かに」
とばかり言ひ捨てて往にけり。いみじかりける数奇者なりかし。さて、本意のごとく尋ね逢ひて、問ひ聞きて、いみじう秘蔵しけり。
このこと、第三代の弟子にて伝へ習ひてはべり。このすすき、同じさまにてあまたはべり。ますほのすすき、まそをのすすき、まそうのすすきとて、三種はべるなり。ますほのすすきといふは、穂の長くて、一尺ばかりあるをいふ。かのます鏡をば、万葉集には十寸の鏡と書けるにて心得べし。まそをのすすきといふは、真麻の心なり。これは俊頼朝臣の歌にぞ詠みてはべる。まそをの糸を繰りかけて、とはべるかとよ。糸などの乱れたるやうなるなり。まそうのすすきとは、まことに蘇芳なりといふ心なり。真蘇芳のすすきといふべきを、言葉を略したるなり。色深きすすきの名なるべし。これ、古集などに確かに見えたることなけれど、和歌の習ひ、かやうの古言を用ゐるも、また世の常のことなり。人あまねく知らず。みだりに説くべからず。
ある人語りていはく、
「ことの縁ありて、井手といふ所にまかりて、一宿つかまつりたることはべりき。所のありさま、井手川の流れたる体、心も及びはべらず。かの井手の大臣の跡なればことわりなれど、川に立ち並びたる石なども十余丁ばかり、さのみやは遠く立て置かれけむ、石ごとにただなほざりのこととは見えず、わざと立てたるやうになむはべりし。そこに古老の者のはべりしを語らひて、昔のことを尋ねはべりしついでに、
『井手の山吹とて名に流れたるを、いと見えはべらぬは、いづくにあるぞ』
と尋ねはべりしかば、
『さることはべり。かの井手の大臣の堂は一年焼けはべりにき。その前におびただしく大きなる山吹、むらむら見えはべりき。その花の輪は小土器の大きさにて、幾重ともなく重なりてなむはべりし。それをさやうに申しおきてはべるにや。また、かの井手川の汀につきて隙もなくはべりしかば、花の盛りには黄金の堤などを築き渡したらむやうにて、他所には優れてなむはべしかば、いづれを申しけるにか、今分きがたくはべり。ただし、下臈のいふかひなくはべることは、かく名高き草とてと頃もおきはべらず、田作るには草を刈り入れたるがよく出で来ると申して、何ともなく刈り取りはべしほどに、今は跡もなくなりてはべる。
それにとりて井手のかはづと申すことこそ、様あることにてはべれ。世の人の思ひてはべるは、ただ蛙をばみなかはづといふぞと思ひてはべるめり。それも違ひはべらず。されど、かはづと申す蛙は他にはさらにはべらず。ただこの井手川にのみはべるなり。色黒きやうにて、いと大きにもあらず。世の常の蛙のやうにあらはに跳り歩くことなどもいとはべらず。常には水にのみ棲みて、夜更くるほどにかれが鳴きたるは、いみじく心澄み、ものあはれなる声にてなむはべる。春夏の頃、必ずおはして聞き給へ』
と申しはべりしかど、その後とかくまぎれて、いまだ尋ねはべらず」
となむ語りはべりし。
このこと心にしみて、いみじく覚えはべりしかど、かひなくて三年にはなりはべりぬ。また、年たけては歩びかなはずして、思ひながらいまだかの声を聞かず。かの登蓮が雨もよに急ぎ出でけむには、たとしへなくなむ。これを思ふに、今より末ざまの人は、たとひおのづからことのたよりありて、かしこに行き臨みたりとも、心とどめて聞かむと思へる人も少なかるべし。人の数寄と情とは、年月を添へて衰へゆくゆゑなり。
ある人いはく、
「逢坂の関の清水といふは、走り井と同じ水ぞと、なべて人知りはべるめり。しかにはあらず。清水は別の所にあり。今は水も無ければ、そことも知れる人だになし。三井寺に円実房の阿闍梨といふ老僧ただ一人、その所を知れり。かかれど、さる跡や知りたると、尋ぬる人もなし。
『われ死なむ後は、知る人もなくてやみぬべきこと』
と、人に会ひて語りけるよし伝へ聞きて、かの阿闍梨知れる人の文を取りて、建暦の初めの年、十月廿日あまりの頃、三井寺へ行く。阿闍梨対面して、
『かやうに古きことを聞かまほしうする人もかたくはべるめるを、めづらしくなむ。いかでか導べつかまつらざらむ』
とて、伴ひて行く。関寺より西へ二、三丁ばかり行きて、道より北のつらに少し立ち上れる所に、一丈ばかりなる石の塔あり。その塔の東へ、三段ばかり下りて窪なる所は、すなはち昔の関の清水の跡なり。道よりも三段ばかりや入りたらむ。今は小家のしりへになりて、当時は水も無くて、見所もなけれど、昔のなごり面影に浮かびて、優になむ覚えはべりし。阿闍梨語りていはく、
『この清水に向かひて、水より北に、薄檜皮葺きたる家、近くまではべりけり。誰人のすみかとは知らねど、いかにもただ人の居所にはあらざりけるなめり』
とそ語りはべりし」。
ある人いはく、
「貫之が年頃住みける家の跡は、勘解由小路よりは北、富小路よりは東の角なり」。
また、業平中将の家は、三条の坊門より南、高倉より西に、高倉面に近くまではべりき。柱なども常にも似ず、ちまき柱といふものにてはべりけるを、いつ頃の人のしわざにか、後に例の柱のやうに削りなしてなむはべりし。長押もみなまろに、角もなくつひなりて、まことに古代の所と見えはべりき。中頃、晴明が封じたりけるとて、火にも焼けずして、その久しさありけれど、世の末にはかひなくて、一年の火に焼けにき。
また、周防内侍の「われさへ軒のしのぶ草」と詠める家は、冷泉堀川の北と西との角なり。
丹後の国与謝の郡に、浅茂川の明神と申す神います。国の守の神拝といふことにも幣なと得たまひて、数まへらるるほどの神にてぞおはすなる。これは昔、浦島の翁の神になれるとなむ言ひ伝へたる。いと興あることなり。ものさはがしく箱開けけむ心に、神と跡をとめたまへるは、さるべき権者などにやありけむ。
逢坂の関の明神と申すは、昔の蝉丸なり。かの藁屋の跡を失はずして、そこに神となりて住みたまふなるべし。今もうち過ぐるたよりに見れば、昔深草の御門の御使にて、和琴習ひに良岑宗貞、良少将とて通はれけむほどのことまで面影に浮かびて、いみじくこそはべれ。
ある人いはく、
「和琴の起こりは、弓六張を引き鳴らして、これを神楽に用ゐけるを煩はしとて、後の人の琴に作りうつせると申し伝へたるを、上総の国の済物の古き注し文の中に弓六張と書きて、注に御神楽の料と書けり」
とぞ。いみじきことなり。
河内の国高安の郡に、在中将の通ひ住みけるよしは、かの伊勢物語にはべり。されど、その跡いづくとも知らぬを、かしこの土民の説に、その跡定かにはべりとなむ。今、中将の垣内と名付けたる、すなはちこれなり。
人麻呂の墓は、大和の国にあり。初瀬へ参る道なり。「人麻呂の墓」と言ひて尋ぬるには、知る人もなし。かの所には「歌塚」とぞいふなる。
俊恵法師語りていはく、
「三条の大相国、非違の別当と聞こえけるとき、二条の帥と二人の人、躬恒、貫之が劣り勝りを論ぜられけり。かたみにさまざま言葉を尽くして争はれけれど、さらにこときるべもあらざりければ、帥いぶかしく思ひて、
『御気色を取りて勝劣きらむ』
とて、白河院に御気色たまはる。仰せていはく、
『我はいかでか定めむ。俊頼などに問へかし』
と仰せごとありければ、ともにその便を待たれけるほどに、二、三日ありて、俊頼参りたりけり。帥このことを語り出でて、初め争ひそめしより、院の仰せのおもむきまで語られければ、俊頼聞きて、たびたびうちうなづきて、
『躬恒をば、なあなづらせたまひそ』
と言ふ。帥思ひのほかに覚えて、
『されば貫之が劣りはべるか。ことをきりたまふべきなり』
と責めけれど、なほなほただ同じやうに、
『躬恒をば、あなづらせたまふまじきぞ』
と言ひければ、
『おほしおほしことがら聞こえはべりにたり。おのれが負けになりぬるにこそ』
とて、からきことにせられけり。まことに躬恒が詠み口、深く思ひ入れたる方は、またたぐひなき者なり」
とぞ。
富家の入道殿に俊頼朝臣候ひける日、鏡の傀儡ども参りて歌つかうまつりけるに、神歌になりて、
世の中は憂き身に添へる影なれや思ひ捨つれど離れざりけり
この歌を歌ひ出でたりければ、「俊頼、至り候ひにけりな」とて居たりけるなむ、いみじかりける。
永縁僧正、このことを伝へ聞きて、羨みて、琵琶法師どもを語らひて、さまざま物取らせなどして、わが詠みたる、「いつも初音の心地こそすれ」といふ歌を、ここかしこにて歌はせければ、時の人、ありがたき数寄人となむ言ひける。
今の敦頼入道、またこれを羨ましくや思ひけむ、物も取らせずして、めくらどもに「歌へ歌へ」と責め歌はせて、世の人に笑はれけりと。
法性寺殿に会ありけるとき、俊頼朝臣参りたりけり。兼昌講師にて歌読み上ぐるに、俊頼の歌に名を書かさりければ、見合はせて、うちしはぶきて、「御名はいかに」と忍びやかに言ひけるを、「ただ読みたまへ」と言はれければ、読みける歌に、
卯の花の身の白髪とも見ゆるかな賤が垣根もとしよりにけり
と書きたるを、兼昌下泣きして、しきりにうなづきつつめで感じけり。殿聞かせたまひて、召して御覧じて、いみじう興ぜさせたまひけりとぞ。かの三首の題を歌一首に詠みたりけむ心ばせには、ややまさりてこそはべれ。
五条三位入道語りていはく、
「そのかみ年二十五なりしとき、基俊の弟子にならむとて、和泉前司道経を中立ちにて、かの人と車に相乗りて、基俊の家に行き向かひたることありき。かの人、その時八十五なり。その夜八月十五夜にて、さへありしかば、亭主ことに興に入りて、歌の上の句を言ふ。
中の秋十日五日の月を見て
と、いとやうやうしくながめ出でられたりしかば、予これを付く。
君が宿にて君と明かさむ
と付けたりけるを、何のめづらしげもなきを、いみじう感ぜられき。さて、のどかに物語りして、
『久しう籠り居て、今の世の人のありさまなどもえ知りたまへず。この頃誰をかもの知りたる人にはつかまつりたる』
と問はれしかば、
『九条大納言(伊通大臣)、中院大臣(雅定大臣)などをこそ、心にくき人には思ひてはべるめれ』
と申ししかば、
あないとほしとて膝を叩きて、扇をなむ高く使はれたりし。かやうに師弟の契りをば申したりしかど、詠み口に至りては、俊頼には及ぶべくもあらず。俊頼いとやむごとなき者なり」
とぞ。
ある人いはく、
「基俊は、俊頼をば蚊虻の人とて、
『さはいふとも、駒の道行くにてこそあらめ』
と言はれけれど、俊頼は返り聞きて、
『文時、朝綱詠みたる秀歌なし。躬恒、貫之作りたる秀句なし』
とぞ、のたまひける」。
またいはく、
「雲居寺の聖のもとに、秋の暮の心を、俊頼朝臣
明けぬともなを秋風の訪づれて野辺の気色よ面変りすな
名を隠したりけれど、これをさよと心得て、基俊いどむ人にて、難じていはく、
『いかにも歌は腰の句の末に、て文字据ゑつるに、はかばかしきことなし。障へていみじう聞きにくきものなり』
と、口開かすべくもなく難ぜられければ、俊頼はともかくも言はざりけり。その座に伊勢の君琳賢がゐたりけるなむ、
『異やうなる証歌こそ、一つ覚えはべれ』
と言ひ出でたりければ、
『いでいで、承はらむ。よもことよろしき歌にはあらじ』
と言ふに、
桜散る木の下風は寒からで
と、はてのて文字を長々とながめたるに、色真青になりて、ものも言はずうつぶきたりける時に、俊頼朝臣は忍びに笑はれけり。
いかなりけるにか、琳賢は基俊と仲の悪しかりければ、たばからむと思ひて、ある時、後撰の恋の歌の中に、人もいと知らず、耳遠きが限り二十首を撰り出して、書き番ひてかの人のもとへ持て往にけり。
『ここに人の異やうなる歌合をして、勝ち負けを知らまほしくつかまつるに、付けてたまはらむ』
とて取り出でたりければ、これを見て、後撰の歌といふこと、ふつと思ひもよらず、思ふさまにやうやうに難ぜられたりけるを、ここかしこに持て歩きて、
『左衛門佐にあひ申したれば、梨壺の五人が計らひもものならず。あはれ、上古にもすぐれたまへる歌仙かな。これ見たまへ』
とて軽慢しければ、見る人いみじう笑ひけり。基俊返り聞きて、やすからず思はれけれど、かひなかりけり」。
俊恵いはく、
「法性寺殿にて歌合ありけるに、俊頼、基俊、二人判者にて、名を隠して当座に判しけるに、俊頼歌に
口惜しや雲井隠れにすむたつも思ふ人には見えけるものを
これを基俊、鶴と心得て、
『鶴は沢にこそ棲め。雲井に棲むことやはある』
と難じて負けになしてけり。されど、俊頼その座には言葉も加へず。そのとき、殿下、
『今宵の判の言葉、おのおの書きて参らせよ』
と仰せられけるときなむ、俊頼朝臣、
『これは田鶴にてはあらず。竜なり。かのなにがしとかやが、竜を見むと思へる心ざしの深かりけるにより、かれがために現れて見えたりしことのはべるを詠めるなり』
と書きたりける。基俊弘才の人なれど、思ひわたりけるにや。すべては思ふはかりもなく、人のことを難ずる癖のはべりければ、ことにふれて失多くぞありける」。
ある人、女のもとより文を得たり。その文に歌二首あり。
「これ返ししてたまはせよ」
とあつらへはべるを見れば、この歌二首ながら古今の恋の歌なり。返しをすべきにあらず。いかがせましと思ひめぐらして、そのいはまほしき心にかなへる古歌二首をなむ教へて書かせてはべりし。
このことをある古き人に語りはべりしかば、
「いみじきことなり。昔、色好みのわざとも好みてしけるわざなり。知らぬを推し量らひたること、往事にかなへる、優なることなり」
となむ感じはべりし。
勝命談りていはく、
「しかるべき所などにて、無心なる女房などの歌詠みかけたる、術無きこと多かり。それは故実のあるなり。まづ、え聞かぬよしに空おぼめきして、たびたび問ふ。されば、後には恥ぢしらひて、定かにも言はず。これを扱ふほどに返し思ひ得たれば言ひつ、詠み得べくもあらねば、やがておぼめきてやみぬる、一つのことなり。また、なま宮仕へ人にもあれ、さるべきされたる女などの、添へことと名付けて、聞き知らぬ歌の一両句などを言ひ掛くることあり。もし心得たらば、いかにも言ひつべし。知らぬことならば、ただよもさしも思されじなど、うち言ひてあるべし。これは何方にも違はぬことなり。深く思ふぞといふ心にも、また、憂し、辛しといふ心にも、おのづから通用しつべし。心づきなきよしに言ひたらむにこそ、心をやりたるやうなるべけれ、それもされたる戯れに言ひなせるさまにもなりぬべきなり」。
ある人いはく、
「田上の下に曽束といふ所あり。そこに猿丸大夫が墓あり。庄の境にて、そこの券に書き載せたれば、みな人知れり。また、志賀の郡に、大道より少し入りて、山ぎはに、黒主の明神と申す神います。これは、昔の黒主が神になれるなり。また、御室戸の奥に、二十余丁ばかり山中へ入りて、宇治山の喜撰が棲みける跡あり。家は無けれど、堂の礎など定かにあり。これら必ず尋ねてみるべきなり」。
ある人いはく、
「宮内卿有賢朝臣、時の殿上人七、八人相伴ひて、大和の国葛城の方へ遊びに行かれたることありけり。その時、ある所に、荒れたる堂の大きにやうやうしきが見えければ、あやしくて、その名を逢ふ人ごとに問ひけれど、知れる人もなかりけり。かかる間に、ことの外に鬢白き翁、一人まみえけり。これはしもやうあらむとて尋ねければ、
『これをば豊浦の寺とぞ申す』
と言ふ。人々、いみじきことなりと返す返す感じて、
『さるにては、この辺に榎葉井といふ井やある』
と問ふ。
『みなあせて、水もはべらねど、跡は今にはべり』
とて、堂より西幾程も去らぬほどに行きて教へければ、人々興に入りて、やがてそこに群れ居て、葛城といふ歌数十返唱ひて、この翁に衣ども脱ぎてかづけたりければ、覚えぬことにあひて、喜びかしこまりて去りにけり」
とぞ。
近く、土御門の内大臣家に、月ごとに影供せられけることのはべりし頃、忍びて御幸などのなるときもはべりき。その会に、古寺月といふ題に詠みてたてまつりし、
古りにける豊浦の寺の榎葉井になほ白玉を残す月影
五条三位入道これを聞きて、
「優しくもつかうまつれるかな。入道がしかるべからんとき、取り出でむと思ひたまへつることを、かなしく先ぜられにたり」
とて、しきりに感ぜられはべりき。このこと、催馬楽の言葉なれば、誰も知りたれど、これより先には歌に詠めること見えず。その後こそ、冷泉の中将定家の歌に詠まれてはべりしか。
俊恵、物語りのついでに問ひていはく、
「遍昭僧正の歌に
たらちねはかかれとてしもむばたまのわが黒髪をなでずやありけむ
この歌の中に、いづれの言葉かことに優れたる。覚えむままにのたまへ」
と言ふ。
予、いはく、
「『かかれとてしも』といひて、『むばたまの』と休めたるほどこそは、ことにめでたくはべれ」
と言ふ。
「かくなり、かくなり。早く歌は境に入られにけり。歌詠みはかやうのことにあるぞ。それにとりて、『月』といはむとて『ひさかた』と置き、『山』といはむとて『あしびき』といふは常のことなり。されど、初めの五文字にてはさせる興なし。腰の句によく続けて言葉の休めに置きたるは、いみじう歌の品も出でき、ふるまへるけすらひともなるなり。古き人、これをば『半臂の句』とぞいひはべりける。半臂はさせる用なきものなれど、装束の中に飾りとなるものなり。歌の三十一字、いくほどもなきうちに思ふことをいひ極めむには、むなしきことをば一文字なりとも増すべくもあらねど、この半臂の句は必ず品となりて、姿を飾るものなり。姿に華麗極まりぬれば、またおのづから余情となる。これを心得るを、境に入るといふべし。よくよくこの歌を案じてみたまへ。半臂の句も詮は次のことぞ。眼はただ『とてしも』といふ四文字なり。かくいはずは、半臂詮なからましとこそ見えたれ」
となむはべりし。
そもそも、楽の中に蘇合といふ曲あり。これを舞ふには、五帖まで帖々をきれぎれに舞ひ、終りてのち破を舞ふ。やがて続けて急を舞ふべきに、急の初め一反をばまことに舞ふことなし。型のごとく拍子ばかりに足を踏み合はせて、うち休みつつ、二反の初めよりうるわしくて舞ふなり。このけすらひは、違はぬ半臂の句の心なり。歌と楽と道異なれど、めでたきことはおのづから通へるなるべし。通はして知らざらむ人は、何とかは思ひ分かむ。型のごとく、両方を心得て思ふためには、ことに興あることなり。されば、蘇合をば半臂の句ある舞といひ。この歌のさまをば蘇合の姿ともいひてむかし。
俊恵いはく、
「歌は秀句を思ひ得たれども、本末いひかなふることの難きなり。後徳大寺左府の御歌に、
なごの海の霞の間よりながむれば入る日を洗ふ沖つ白波
頼政卿の歌に
住吉の松の木間よりながむれば月落ちかかる淡路島山
この両首、ともに上の句思ふやうならぬ歌なり。『入る日を洗ふ』といひ、『月落ちかかる』などいへる、いみじき言葉なれど、胸、腰の句をばえいひかなへず、遺恨のことなり」。
二条中将(雅経)談りていはく、
「歌には、この文字のなくもがなと思ゆることのあるなり。兼資といふ者の歌に、
月は知るや憂き世の中のはかなさをながめてもまたいくめぐりかは
これはよろしく詠めるにとりて、『世の中』の『なか』といふ二つ文字がいみじう悪きなり。ただ、『憂き世のはかなさ』をといはまほしきなり。
また、頼政卿の歌に、
澄みのぼる月の光に横ぎれて渡るあきさの音の寒けさ
これも『ひかり』といふ三文字の悪きなり。『月に横ぎれて』とあらば、今少しきらきらしく聞こゆべきなり。この言葉をば歌の中の疵とやいふべからむ。深く思ひ入れざらむ人はわきまへがたし」。
覚盛法師がいはく、
「歌はあらあらしくとめもあはぬやうなる、一つの姿なり。それをあまり細工みてとかくすれば、はてにはまれまれものめかしかりつると頃さへ失せて、何にてもなき小物になるなり」
と申しし、さもと聞こゆ。
季経卿歌に、
年を経て返しもやらぬ小山田は種貸す人もあらじとぞ思ふ
この歌、艶なるかたこそなけれど、一節いひて、さる体の歌と見たまへしを、年経てのちかの集の中にはべるを見れば、
賤の男が返しもやらぬ小山田にさのみはいかが種を貸すべき
これは直されたりけるにや。いみじうけ劣りて覚えはべるなり。よくよく心すべきことにこそ。
円玄阿闍梨といひし人の歌に、
夕暮れに難波の浦をながむれば霞に浮かぶ沖の釣り舟
この歌は優なれど、主の心劣りせらるる歌なり。そのゆゑは、「霞に浮かぶ沖の釣り舟」といへる、わりなき節を思ひ寄りなむにとりては、いかが「夕暮に難波の浦をながむれば」といふ上の句をば置かむ。まことに無念に見所もなき言葉続きなりかし。同じ浦なりとも、夕暮なりとも、めづらしきやうに思ふと頃ありて続く方もはべりなむものを、さほど手づつにて、いかにして下の句をば思ひ寄りけるにかと覚えはべるなり。
愚詠の中に、
時雨にはつれなくもれし松の色を降りかへてけり今朝の初雪
これを俊恵難じていはく、
「ただ『つれなく見えし』といふべきなり。あまりわりなくわかせるほどに、かへりて耳止まる節となれるなり。ある所の歌合に、霞を俊恵が歌に、
夕なぎに由良の門渡る海女小舟霞のうちに漕ぎぞ入りぬる
その度の会に、清輔朝臣、ただ同じやうに詠みたりしにとりて、かれは『霞の底に』と 詠めりしを、人の『入海かと思とゆ』と難じはべりしなり。のさびなると頃をば、ただ世の常にいひ流すべきをいたく案じ過ぐしつれば、かへりて耳止まる節となるなり。たとへば、糸をよる人の、いたくけうらによらむと、より過ぐしつれば、節となるがごとし。これをよく計らふを上手といふべし。風情はおのづから出で来るものなれば、ほどにつけつつ求め得ることもあれど、かやうのことに上手にて、そのけぢめは見ゆるなり。されば、えせ歌詠みの秀句には、多くは足らぬと頃の出で来るぞかし」。
静縁法師、みづからが歌を語りていはく、
鹿の音を聞くにわれさへ泣かれぬる谷の庵は住み憂かりけり
「とこそつかうまつりてはべれ。いかがはべる」
と言ふ。
予がいはく、
「よろしくはべり。ただし『泣かれぬる』といふ言葉こそ、あまりこけ過ぎていかにぞや覚えはべれ」
と言ふを、静縁法師いはく、
「その言葉をこそこの歌の詮とは思ひたまふるに、この難はことのほかに覚えはべり」
とて、いみじく悪く難ずると思ひげにて去りぬ。
よしなく覚ゆるままにものを言ひて、心すべかりけることを、と悔しく思ふほどに、十日ばかりありて、また来たりて言ふやう、
「一日の歌難じたまひしを、隠れごとなし、心得ず思ひたまへて、いぶかしく覚えはべりしままに、さはいふとも、大夫公のもとに行きてこそ、わが僻事を思ふか、人の悪しく難じたまふか、ことをば切ためと思ひて、行きて語りはべりしかば、『なでふ、御房のかかるこけ歌詠まるるぞとよ。『泣かれぬる』とは何事ぞ。さまでなの心根や』となむ、はしたなめられてはべりし。されば、よく難じたまひけり。我悪しく心得たりけるぞと、おこたり申しにまうでたるなり」
と言ひて帰りはべりにき。心の清さこそありがたくはべれ。
俊恵語りていはく、
「故左京大夫顕輔語りていはく、『後拾遺の恋の歌の中には、
夕暮れは待たれしものを今はただ行くらむ方を思ひこそやれ
これを面歌と思へり。金葉集には、
待ちし夜の更けしを何に嘆きけむ思ひ絶えても過ぐしける身を
これを優れたる恋とせり。わが撰べる言葉花集には、
忘らるる人目ばかりを嘆きにて恋しきことのなからましかば
この歌をかの類にせむとなむ思ひたまふる。いとかれらにも劣らず、けしうはあらずこそはべれ』と言はれけり。しかあるを、俊恵が歌苑抄の中には、
ひと夜とて夜離れし床のさむしろにやがても塵の積もりぬるかな
これをなむ面歌と思ひたまふる、いかがはべらむ」
とぞ。
今これらに心づきて、新古今を見れば、わが心に優れたる歌、三首見ゆ。いづれとも分きがたし。後の人定むべし。
かくてさは命や限りいたづらに寝ぬ夜の月の影をのみ見て
野辺の露は色もなくてやこぼれつる袖より過ぐる荻の上風
帰るさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらの有明の月
俊恵いはく、
「顕輔卿の歌に、
逢ふと見てうつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ命なりける
この歌を俊頼朝臣感じていはく、
『これは椋の葉磨きして、鼻脂引ける御歌なり。世の常の人ならば、うつつのかひはなけれどもはかなき夢ぞ嬉しかりける、とぞ詠ままし。誰がかくは詠まむぞ』
とぞ讃められける」。
俊恵に和歌の師弟の契結びはべりし初めの言葉にいはく、
「歌は極めたる故実のはべるなり。われをまことに師と頼まれば、このこと違へらるな。そこは必ず末の世の歌仙にていますかるべき上に、かやうに契をなさるれば申しはべるなり。あなかしこあなかしこ、われ人に許さるるほどになりたりとも、証得して、われは気色したる歌詠みたまふな。ゆめゆめあるまじきことなり。後徳大寺の大臣は、左右なき手だりにていませしかど、その故実なくて、今は詠み口後手になりたまへり。そのかみ前の大納言など聞こえしとき、道を執し、人を恥ぢて、磨き立てたりしときのままならば、今は肩並ぶ人少なからまし。われ至りにたりとて、この頃詠まるる歌は少しも思ひ入れず、やや心づきなき言葉うち混ぜたれば、何によりてかは秀歌も出で来む。秀逸なければまた人用ゐず。歌は当座にこそ、人がらによりて良くも悪しくも聞こゆれど、後朝に今一度静かに見たる度は、さはいへども、風情もこもり、姿も素直なる歌こそ見通しほしははべれ。かく聞こゆるはをこのためしなれど、俊恵はこの頃もただ初心の頃のごとく歌を案じはべり。また、わが心をば次にして、あやしけれど、人の讃めも謗りもするを用ゐはべるなり。これは古き人の教へはべりしことなり。このことを保てる験にや、さすがに老い果てたれど、俊恵を詠み口ならずと申す人はなきぞかし。また、異事にあらず、この故実を誤たぬゆゑなり」。
歌は名に流れたる歌詠みならねど、理を先として耳近き道なれば、あやしの者の心にもおのづから善悪は聞こゆるなり。長守語りていはく、
「述懐の歌どもあまた詠みはべりし中に、ざれごと歌に、
火おこさぬ夏の炭櫃の心地して人もすさめずすさまじの身や
と詠めるを、十二になる女子のこれを聞きて、
『冬の炭櫃こそ火のなきは今少しすさまじけれ。などさは詠みたまはぬぞ』
と申しはべりしに、難ぜられて述ぶる方なくなむ」
と語りしこそ、げにをかしかりしか。
また、心にいたく思ふことになりぬれば、おのづから歌は詠まるるなり。金葉集に、詠み人知らずとてはべるかとよ。
身の憂さを思ひしとけば冬の夜もとどこほらぬは涙なりけり
この歌は、仁和寺の淡路の阿闍梨といひける人の妹のもとなりける生女房の、いたく世をわびて詠みたりける歌なり。もとより歌詠みならねば、また詠める歌もなし。ただ思ふあまりに、おのづからいはれたりけるにこそ。
俊恵いはく、
「和歌会のありさまの、げにげにしく優に覚えしことは、次の所にとりては、近くは範兼卿の家の会のやうなることはなし。亭主のさる人にて、いみじうもてなして、ことに触れつつれうじならず。人に恥ぢ、道を執して、讃むべきをば感じ、謗るべきをば難じ、ことごとにはえありて、乱れがはしきことゆめにもなかりしかば、さし入る人もみなその趣に従ひて、いかでよろしく詠み出でむと思へりき。さればよき歌も出で来、はかなく珍しき一節を思ひ寄れるにつけても、かひがひしき心地して、いさましくなむありし。兼日の会にはみな歌を懐中して、当日の儀、いたづらに程を経ることなし。もし当座に会あれば、おのおの所々にさし退きつつ、沈思しあひたるさまなどまでも、艶にあらまほしくはべりしかば、させることなき歌も、ことがらに飾られて艶に聞こえはべりき。
この頃、人々の会に連なりてみれば、まづ会所のしつらひより初めて、人の装束のうちとけたるさま、おのおのが気色有様、乱れがはしきこと限りなし。いみじう十日、二十日かけて題を出だしたれど、日頃は何わざをしけるにか、当座にのみ歌を案じて、すずろに夜を更かして興をさまし、披講の時を分かず心々に物語りをし、先達にも恥ぢず、面々に証得したる気色どもははなはだしけれど、げに歌のさまを知りて讃め謗る人はなし。まれまれ古き人の良き悪しきを定むるも、人の気色を計らひて、偏頗を先としたれば、案ずるにつけてもあぢきなく、よろしき歌を詠めるにつけても、夜の錦に異ならず。高く詠ずるを良きこととて、首筋をいららかし、声をよりあはせたるさまなど、いみじう心づきなし。すべて賑ははしきにつけても品なく、優しがるにつけてもわざとびたり。げには人の心の底まで好かずして、ただ人まねに道を好むゆゑなめりとぞ覚えはべる」
とぞ。
五条三位入道いはく、
「俊恵は当世の上手なり。されど、俊頼にはなほ及びがたし。俊頼はまのなく、思ひ至らぬくまなく、一方ならず詠めるが、力も及ばぬなり。今の世には、頼政こそいみじき上手なれ。かれだに座にあれば、目のかけられて、かれにこと一つせられぬと思ゆるなり」。
俊恵いはく、
「頼政卿はいみじかりける歌仙なり。心の底まで歌になりかへりて、常にこれを忘れず心にかけつつ、鳥の一声鳴き、風のそそと吹くにも、まして花の散り、葉の落ち、月の出入、雨・雪などの降るにつけても、立居起き臥しに風情をめぐらさずといふことなし。まことに秀歌の出で来るも理とぞ思えはべりし。かかれば、しかるべき時名上げたる歌ども、多くは擬作にてありけるとかや。大方々々の会の座に連なりて、歌うち詠じ、良き悪しき理などせられたる気色も、深く心に入れることと見えていみじかりしかば、かの人のある座には何こともはえあるやうにはべりしなり」。
勝命いはく、
「清輔朝臣、歌の方の弘才は肩並ぶ人なし。いまだよも見及ばれじと思ゆることを、わざとかまへて求め出でて尋ぬれば、みなもとより沙汰し古されたることどもにてなむはべりし。晴の歌詠まむとては、
『大事はいかにも古集を見てこそ』
と言ひて、万葉集をぞ返す返す見られはべりし」。
俊恵いはく、
「五条三位入道のみもとにまでたりしついでに、
『御詠の中にはいづれをか優れたりと思す。人はよそにて様々に定めはべれど、それをば用ゐはべるべからず。まさしく承はらん』
と聞こえしかば、
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
『これをなん、身にとりて面歌と思ひ給ふる』
と言はれしを、俊恵またいはく、
『世あまねく人の申しはべるには、
面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峰の白雲
これを優れたるやうに申しはべるはいかに』
と聞こゆ。
『いさ、よそにはさもや定めはべらん。知り給へず。なほ、みづからは先の歌には言ひ較ぶべからず』
とぞはべし」
と語りて、これをうちうちに申ししは、
「かの歌は『身にしみて』といふ腰の句のいみじう無念に思ゆるなり。これほどになりぬる歌は、景気をいひ流して、『ただそらに身にしみけんかし』と思はせたるこそ、心にくくも優にもはべれ。いみじくいひもてゆきて、歌の詮とすべき節を、さはさはといひあらはしたれば、無下にこと浅くなりぬるなり」
とぞ。
そのついでに、「わが歌の中に、
み吉野の山かき曇り雪降れば麓の里はうちしぐれつつ
これをなん、かのたぐひにせんと思ひたまふる。もし、世の末におぼつかなく言ふ人もあらば、『かくこそ言ひしか』と語りたまへ」
とぞ。

顕昭いはく、
「この頃の和歌の判は、俊成卿、清輔朝臣、左右なきことなり。しかあるを、ともに偏頗ある判者なるにとりて、その様の変はりたるなり。俊成卿は、われも僻事をすと思ひはまへる気色にて、いともあらがはず、
『世の中の習ひなれば、さなくもいかがは』
などやうに言はれき。清輔朝臣は、外相はいみじう清廉なるやうにて、偏頗といふこと、つゆも気色にあらはさず。おのづから人の傾くことなどもあれば、気色を誤りてあらがひ論ぜられしかば、人のみなそのよしを心得て、さらに言ひ出づることもなかりき」。
大方は、歌を判ずるには作者を隠すといひながら、ひとへに知らぬもゆゆしき大事なり。また、名顕れたるもはばからはしく、表に負くること多かり。ただ隠せるやうにて、内々にいささか心得たるがめでたきなり。
この道に心ざし深かりしことは、道因入道並びなき者なり。七、八十になるまで、秀歌詠ませたまへと祈らむため、徒歩より住吉へ月詣でしたる、いとありがたきことなり。
ある歌合に、清輔判者にて、道因が歌を負かしたりければ、わざと判者のもとにまうでて、まめやかに涙を流しつつ、泣き恨みければ、亭主、言はむ方なく、
「かばかりの大事にこそあはざりつれ」
とぞ語られける。
九十ばかりになりては、耳などもおぼろなりけるにや、会のときはことさらに講師の座の際に分け寄りて、脇元につぶと添ひ居て、みづはさせる姿に耳を傾けつつ、他事なく聞きける気色など、なほざりのこととは見えざりき。
千載集撰ばれはべりしことは、かの入道失せてのちのことなり。されど亡きあとにも、さしも道に心ざし深かりし者なりとて、優して十八首を入れられたりけるに、夢の中に来たりて、涙を落としつつ、喜びいふと見たまひたりければ、ことにあはれがりて、今二首を加へて、二十首になされたりけるとぞ。しかるべかりけることにこそ。
近頃は、隆信、定長と番ひて、若くより人の口に同じやうにいはれはべりき。かの俊恵が家にて、百首を十首づつ十度に詠みて、十座の百首と名付けたることのありけるには、挑みておのおの心を尽くしたりける。げにいづれも劣らざりけり。また、俊成卿の十首歌詠ませはべりける時も、ともによく詠みたりければ、かの卿は、
「世に人の一番に申すよし聞けど、何事かはあらむと思ひて過ぎつるに、この十首の歌にこそ返抄もたびつべく覚ゆれ」
となむ言はれける。
しかあるを、九条殿右大臣と申ししとき、人々に百首を召されしに、隆信作者に入りて、公事なるうちにも日数もなくて、もの騒がしかりければ、いとよろしき歌もなかりけり。その頃定長は出家ののちにて、身の暇もあり、今少しのどやかに案じて、無題の百首を磨きたてて取り出したりけるに、たとしへなく勝りたりければ、その時より「寂蓮左右なし」といふことになりにき。御所辺には、
「いかなるをこの者の、同じ列の詠み口とは番ひそめたるぞ」
とまで仰せられけるとぞ。のちに隆信からきことにして、
「はやく死なましかば、さるほどの歌仙にてやみなまし。よしなき命の長くて、かく道の恥をあらはすこと」
とぞ言はれける。
近く女歌詠みの上手にては、大輔、小侍従とて、とりどりにいはれはべりき。大輔は今少しものなど知りて、根強く詠む方は勝り、侍従は華やかに目驚くと頃詠み据うることの優れたりしなり。中にも歌の返しすることは、誰にも優れたりとぞ。
「本歌にいへることの中に、さもありぬべきと頃をよく見つめて、これを返す心ばせの、あふかたきもなきぞ」
とぞ、俊恵法師は申しはべりし。
今の御所には、俊成卿女と聞こゆる人、宮内卿と、この二人の女房、昔にも恥ぢぬ上手どもなり。歌の詠みやうこそ、ことのほかに変はりてはべりけれ。人の語りはべりしは、俊成卿女は、晴の歌詠まむとては、まづ日頃かけてもろもろの集どもを繰り返しよくよく見て、思ふばかり見終はりぬれば、みな取り置きて、火かすかに灯し、人遠く音なくしてぞ案ぜられける。
宮内卿は初めより終はりまで、草子、巻物取り込みて、切灯台に火近々と灯しつつ、かつがつ書き付け書き付け、夜も昼も怠らずなむ案じける。この人はあまり歌を深く案じて病になりて、一度は死にはずれしたりき。父の禅門、
「何事も身のある上のことにてこそあれ。かくしも病になるまでは、いかに案じたまふぞ」
と諫められけれども用ゐず。つひに命もなくてやみにしは、そのつもりにやありけむ。
寂蓮入道は、ことにことにこのことをいみじがりて、兄人の具親少将(兵衛佐)の歌に心を入れぬをぞ憎みはべりし。
「なにゆゑ身を立てたる人なれば、しかあるらむ。宿直所をまれまれ立ち入りて見れば、晴の御会などのある頃も、『弓よ、ひきべよ』など取り込みて、細工前に据ゑて、歌を大事とも思はぬ」
とて、口惜しきことにぞ言ひはべりし。
御所に朝夕候ひし頃、常にも似ず珍しき御会ありき。
「六首の歌に、みな姿を詠みかへてたてまつれ」
とて、
「春、夏は太く大きに、秋、冬は細く乾び、恋、旅は艶に優しくつかうまつれ。これ、もし思ふやうに詠み仰せずは、其の由をありのままに申し上げよ。歌のさま知れるほどを御覧ずべきためなり」
と仰せられたりしかば、いみじき大事にて、かたへは辞退す。心にくからぬほどの人をば、またもとより召されず。かかれば、まさしくその座に参りて連なれる人、殿下、大僧正御房、定家、家隆、寂蓮、予と、わづかに六人ぞはべりし。
愚詠に、太く大きなる歌に、
雲さそふ天つ春風かをるなり高間の山の花ざかりかも
打ち羽ぶき今も鳴かなむほととぎす卯の花月夜さかり更けゆく
細く乾びたる歌、
宵の間も月の桂の薄紅葉照るとしもなき初秋の空
寂しさはなほ残りけり跡絶ゆる落葉が上に今朝は初雪
艶に優しき歌、
忍ばずよ絞りかねつと語れ人もの思ふ袖の朽ちはてぬ間に
旅衣立つ暁の別れよりしをれしはてや宮城野の露
この中に、春の歌をあまた詠みて、寂蓮入道に見せ申しし時、この高間の歌を「よし」とて、点合はれたりしかば、書きてたてまつりてき。すでに講ぜらるる時に至りてこれを聞けば、かの入道の歌に、同じく高間の花を詠まれたりけり。わが歌に似たらば違へむなど思ふ心もなく、ありのままにことはられける、いとありがたき心なりかし。さるは、まことの心ざまなどをば、いたく神妙なる人ともいはれざりしを、わが得つる道になれば心ばえもよくなるなめり。
そのかみ、宣陽門院の御供花の会の歌に、常夏契り久しといふ題に、「動きなき世のやまとなでしこ」と詠めりしをば、ある先達見て、「わが歌に似たり。詠み替へよ」と、あながちに申しはべりしかば、力なくて当座に詠みかへてき。たとしへなき心なり。
そもそも、人の徳を積めむとするほどに、わがため面目ありし度のことを長々と書き続けてはべる、をかしく。されど、この文の得分に、自讃少々まぜてもいかがはべらむ。
ある人いはく、
「俊頼の髄脳に、定頼中納言、公任大納言に、式部と赤染とが劣り勝りを問はる。大納言いはく、
『式部は、こやとも人をいふべきにと詠める者なり、一つ口にいふべからず、とはべりければ、中納言重ねていはく、式部が歌には、はるかに照らせ山の端の月といふ歌をこそ、世の人は秀歌と申しはべるめれ、と言ふ。大納言いはく、それぞ、世の人の知らぬことをいふよ。暗きより暗きに入ることは、経の文なれば、いふにも及ばず。末の句は、また本に引かれて、易く詠まれぬべし。こやとも人をいふべきにといひて、隙こそなけれ葦の八重葺きといへるこそ、凡夫の思ひ寄るべきことにもあらね、と答へられける由はべるめり。これに二つの不審あり。一には、式部を勝れる由、ことはられたれど、その頃のしかるべき会、晴の歌合などを見れば、赤染をばさかりに賞して、式部は漏れたること多かり。一には式部が二首の歌を今見れば、はるかに照らせといふ歌は、言葉も姿も、ことの外にたけ高く、また景気もあり。いかなれば、大納言は、しかことはられけるにや。かたがたおぼつかなくなんはべる」
と言ふ。
予、試みにこれを会釈す。
式部、赤染が勝劣は、大納言一人定められたるにあらず。世こぞりて、式部を優れたりと思へり。しかあれど、人のしわざは主のある世には、その人柄によりて劣り勝ることあり。歌の方は式部左右なき上手なれど、身のふるまひ、もてなし、心用ゐなどの、赤染には及びがたかりけるにや。紫式部が日記といふものを見はべりしかば、
「和泉式部はけしからぬ方こそあれど、うちとけて文走り書きたるに、その方の才ある方も、はかなき言葉の匂いも見えはべるめり。歌はまことの歌詠みにはあらず。口に任せたることどもに、必ずをかしき一節目とまる、詠み添へはべるめり。されど、人の詠みたらむ歌難じことはりゐたらむ、いでやさまでは心得じ。ただ口に歌詠まるるなめり。恥づかしの歌詠みやとは覚えず。丹波の守の北の方をば、宮、殿など渡りには、匡衡衛門とぞいひはべる。ことにやごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしう歌詠みとて、よろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたる限りは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ」
と書けり。かかれば、その時は人ざまにもち消たれて、歌の方も思ふばかり用ゐられねど、まことには上手なれば、秀歌も多く、ことに触れつつ間のなく詠みおくほどに、撰集どもにもあまた入れるにこそ。
曽祢好忠といふ者、人数にもあらず、円融院の子の日の御幸に推参をさへして、をこの名を上げたる者ぞかし。されど今は、歌の方にはやむごとなき者に思へり。一条院の御時、道々のさかりなることを江帥の記せる中にも、
「歌詠みは、道信、実方、長能、輔親、式部、衛門、曽祢好忠」
と、この七人をこそは記されてはべるめれ。これも、みづからによりて、生ける世には世覚えもなかりけるなるべし。
さて、かの式部が歌にとりての劣り勝りは、公任卿のことはりのいはれぬにもあらず、今の不審の僻事なるにもあらず。これはよく心得て、思ひ分くべきことなり。歌は作りたてたる風情、巧みはゆゆしけれど、その歌の品を定むるとき、さしもなきこともあり。また、思ひ寄れる所は及びがたくしもあらねど、うち聞くに、たけもあり、艶にも思えて、景気浮ぶ歌も侍りかし。されば詮は、歌詠みのほどを正しく定めんには、こやとも人をといふ歌をとるとも、式部が秀歌はいづれぞと選らむには、はるかに照らせといふ歌の勝るべきにこそ。たとへば、道のほとりにてなほざりに見付けたりとも、黄金は宝なるべし。いみじく巧みに作りたてたれど、櫛・針などの類はさらに宝とするに足らず。また、心ばせをいはん日は、黄金求めたる。さらに主の高名にあらず。針の類、宝にあらねど、これを物の上手のしわざとは定むべきがごとくなり。しかあれど、大納言のその心を会せらるべかりけるにや。もしはまた、歌の善悪も世々に変る物なれば、その世にこやとも人をといふ歌の勝る方もありけるを、すなはち人の心得ざりけるにや。後の人定むべし。
ある人問ひていはく、
「この頃の人の歌ざま、二面に分かれたり。中頃の体を執する人は、今の世の歌をばすずろごとのやうに思ひて、やや達磨宗などいふ異名を付けて、そしり嘲る。また、この頃やうを好む人は、中頃の体をば、『俗に近し、見所なし』と嫌ふ。やや宗論の類にて、こと切るべくもあらず。末学のため、是非に惑ひぬべし。いかが心得べき」といふ。
ある人、答へていはく、
「これはこの世の歌仙の大きなる争ひなれば、たやすくいかが定めむ。ただし、人の習ひ、月星の行度をも悟り、鬼神の心をも推し量るものなれば、おぼつかなくとも心の及ぶほど申しはべらむ。また、思はれむに従ひてことはらるべし。
大方、このことを人の水火のごとく思へるが、心も得ず覚えはべるなり。すべて歌のさま、世々に異なり、昔は文字の数も定まらず、思ふさまに口に任せて言ひけり。かの『出雲八重垣』の歌よりこそは、五句、三十文字に定まりにけれど、万葉の頃などまでは、なほ懇ろなる心ざしを述ぶるばかりにて、あながちに姿言葉を選ばざりけるにやと見えたり。中頃、古今の時、花実ともに備はりて、そのさままちまちに分かれたり。後撰には、よろしき歌古今に取り尽くされてのち、いくほども経ざりければ、歌得がたくして、姿をば選ばず、ただ、心を先とせり。拾遺の頃より、その体ことのほかにもの近くなりて、ことわりくまなくあらはれ、姿素直なるをよろしとす。そののち後拾遺の時、今少しやはらぎて、昔の風を忘れたり。ややその時の古き人などは、これをうけざりけるにや、後拾遺姿と名付けて、口惜しきことにしけるとぞ、ある先達語りはべりし。金葉はまた、わざともをかしからむとして、軽々なる歌多かり。言葉花、千載、大略後拾遺の風なるべし。歌の昔より伝はり来たれるやう、かくのごとし。
かかれば、拾遺よりのち、そのさま一つにして久しくなりにけるゆゑに、風情やうやう尽き、言葉世々に古りて、この道時に従ひて衰へゆく。昔はただ花を雲にまがへ、月を氷に似せ、紅葉を錦に思ひ寄する類ををかしきことにせしかど、今はその心言ひ尽くして、雲の中にさまざまの雲を求め、氷にとりてめづらしき心を添へ、錦にことなる節を尋ね、かやうに安からずたしなみて思ひ得れば、めづらしき節は難くなりゆく。まれまれ得たれども、昔をへつらへる意こどもなれば、いやしく、くだけたる様なり。いはんや、言葉に至りては、いひ尽くしてければ、めづらしき言葉もなく、目止る節もなし。異なる秀逸ならねば、五七五を詠むに、七七は空に推し量らるるやうなり。
ここに、今の人、歌のさまの世々に詠み古されにけることを知りて、さらに古風に帰りて、幽玄の体を学ぶことの出で来たるなり。これによりて、中古の流れを習ふともがら、目を驚かして謗り嘲る。しかあれど、まことには心ざしは一つなれば、上手と秀歌とは何方にも背かず。いはゆる清輔、頼政、俊恵、登蓮などか詠み口をば、今の世の人も捨て難くす。今様姿の歌の中にも、よく詠みつるをば謗家ども謗ることなし。えせ歌どもに至りては、またいづれもよろしからず。中頃のさしもなき歌を、この世の歌に並べてみれば、化粧したる人の中に尼顔にて交はるに異ならず。今の世のいとも詠みおほせぬ歌は、あるいは全て心得られず。あるいは悪気はなはだし。されば、一方に偏執すまじきことにこそ」。
問ひていはく、
「今の世の体をば、新しく出で来たるやうに思へるは、僻事にてはべるか」。
答へていはく、
「この難はいはれぬことなり。たとひ新しく出で来たりとても、必ずしもわろかるべからず。唐土には限りある文体だにも、世々に改まるなり。この国の小国にて、人の心ばせの愚かなるにより、もろもろのことを昔に違へじとするにてこそはべれ。まして、歌は心ざしを述べ、耳を悦ばしめむためなれば、時の人のもてあそび、好まむに過ぎたることやははべるべき。いかにいはむや、さらにさらに今巧み出でたることにあらず。万葉まではこと遠し。古今の歌どもをよくも見分かぬ人の、この難をばしはべるなり。かの集の中に、様々の体あり。しかあれば、中古の姿も古今より出でたり。この幽玄の様もこの集より出でたり。たとひ、今の姿を詠み尽して、また改まる世ありとも、ざれごと歌などまでも漏らさず選び載せたれば、なほかの集をば出づべからず。これを一向に耳遠く思ひて謗り卑しむは、ひとへに中古の歌のさまに封ぜられたるなり」。
問ひていはく、
「この二つの体、いづれか詠みやすく、また秀歌をも得つべき」。
答へていはく、
「中頃の体は、学びやすくして、しかも秀歌は難かるべし。言葉古りて、しかも風情ばかりを詮とすべき故なり。今の体は、習ひ難くて、よく心得つれは詠みやすし。その様めづらしきにより、姿と心とに渡りて興あるべき故なり」。
問ひていはく、
「聞くがごとくならば、いづれも良きは良し、悪きは悪かなり。学者はまた、我も我もと争ふ。いかがして、その勝劣をば定むべき」。
答へていはく、
「必ず勝劣を定むべきことかは。ただ、いづ方にもよく詠めるをよしと知りてこそははべらめ。ただし、寂蓮入道申すことはべりき。
『この争ひ、やすくこと切るべきやうあり。その故は、手を習ふも、劣りの人の文字はまねびやすく、我より上りざまの人の手跡は習ひ似すること難しといへり。しかあれば、我らが詠むやうに詠めと言はむには、季経卿、顕昭法師などいへる、案ずとも、えこそ詠まざらめ。われはかの人々の詠むやうには、ただ筆さし濡らして、いとよく書きてん。さてこそことは切らめ、とぞ申されし。
人のことは知らず。身にとりては、中頃の人々、あまたさし集まりてはべりし会に連なりて、人の歌どもを聞きしには、わが思ひ至らぬ風情はいと少なかりき。わが続けたりつるよりは、これはよかりけりなど思ゆることこそありしかど、いささかも心のめぐらぬことはありがたくなむはべりし。しかあるを、御所の御会につかうまつりしには、ふつと思ひも寄らぬことをのみ、人ごとに詠まれしかば、この道ははやく底もなく、際もなきことになりにけりと、怖しくこそ思えはべりしか。
されば、いかにもこの体を心得ることは、骨法ある人の境に入り、峠を越えて後、あるべきことなり。それすらなほ、し外せば、聞きにくきこと多かり。いはんや、風情足らぬ人の、未だ峰まで登りつかずして、推し量りにまねびたる、さるかたはらいたきことなし。化粧をばすべきことと知りて、あやしの賤の女などが、心にまかせてものども塗り付けたらんやうにぞ思えはべりし。かやうの類は、我とはえ作り立てず。人の詠み捨てたる言葉を拾ひて、そのさまを学ぶばかりなり。いはゆる『露さびて』『風吹けて』『心の奥』『あはれの底』『月の有明』『風の夕暮』『春のふるさと』など、初めめづらしく詠める時こそあれ、ふたたびともなれば念もなき言癖どもをぞわづかに学ぶめる。あるはまた、おぼつかなく心こもりて詠まんとするほどに、果てにはみづからもえ心得ず、違はぬまた無心所着になりぬ。かやう列の歌は、幽玄の境にはあらず。げに達磨ともこれらをぞいふべき」。
問ひていはく、
「ことの趣はおろおろ心得はべりにたり。その幽玄とかいふらむ体に至りてこそ、いかなるべしとも心得難くはべれ。そのやうをうけたまはらむ」
と言ふ。
答へていはく、
「すべて歌、口伝、髄脳などにも、難きことどもをば手を取りて教ふばかりに釈したれど、姿に至りては確かに見えたることなし。いはむや、幽玄の体、まづ名を聞くより惑ひぬべし。みづからもいと心得ぬことなれば、定かにいかに申すべしとも覚えはべらねど、よく境に入れる人々の申されし趣は、詮はただ言葉に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし。心にもことわり深く、言葉にも艶極まりぬれば、これらの徳はおのづから備はるにこそ。
たとへば、秋の夕暮の空の気色は、色も無く声も無し。いづくにいかなる故あるべしとも思えねど、すずろに涙こぼるるがごとし。これを心なき列の者は、さらにいみじと思はず。ただ目に見ゆる花・紅葉をぞ、めではべる。また、よき女の、恨めしきことあれど、言葉に現はさず、深く忍びたる気色を、さよとほのぼの見付けたるは、言葉を尽して恨み、袖を絞りて見せんよりも、心ぐるしうあはれ深かかるべきがごとし。これまた、幼き者などは、細々と言はすより外に、いかでか気色を見て知らん。すなはち、この二つの譬へにて、風情少なく、心浅からん人の、悟り難きことをば知りぬべし。
また、幼き子のらうたきが、片言して、そことも聞こえぬこと言ひゐたるは、はかなきにつけても、いとほしく聞きど頃あるに似たることもはべるにや。これらをば、いかでかたやすく学びもし、定かに言ひもあらはさむ。ただ、みづから心得べきことなり。また、霧の絶え間より、秋の山を眺むれば、見ゆる所はほのかなれど、奥ゆかしく、いかばかり紅葉わたりて面白からむと限りなく推し量らるる面影は、ほとほと定かに見んにも優れたるべし。
すべては心ざし言葉に現れて、月を隈なしといひ、花を妙なりと讃めむことは、何かは難からむ。いづくかは歌のただものいふに勝る徳とせむ。一言葉に多くのことわりを込め、表さずして深き心ざしを尽くし、見ぬ世のことを面影に浮かべ、賤しきを借りて優を表し、愚かなるやうにて妙なる言葉を極むればこそ、心も及ばず、言葉も足らぬ時、これにて思ひを述べ、わづかに三十一字がうちに天地を動かす徳を具し、鬼神をなごむる術にてははべれ」。
俊恵いはく、
「世の常のよき歌は、たとへば固文の織物のごとし。よく艶優れぬる歌は浮文の織物などを見るがごとく、そらに景気の浮かべるなり。
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
これこそは余情うちに籠もり、景気空に浮かびてはべれ。また、させる風情もなけれど、言葉よく続けつれば、おのづから姿に飾られて、この徳を具することもあるべし。木工頭の歌に、
鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮れ
これも違はぬ浮文にはべべし。ただし、よき言葉を続けたれど、わざと求めたるやうになりぬるをば、また失とすべし。ある人の歌に、
月冴ゆる氷の上に霰降り心砕くる玉川の里
これは、たとへば石を立つる人の、よき石をえ据ゑずして、小さき石どもを取り集めて、めでたくさし合はせつつ立てたれど、いかにもまことの多きなる石には劣れるやうに、わざとびたるが失にてはべるなり」。
またいはく、
「匡房卿歌に、
白雲と見ゆるにしるしみ吉野の吉野の山の花盛りかも
これこそはよき歌の本とは覚えはべれ。させる秀句もなく、飾れる言葉もなけれど、姿うるはしく清げにいひくだして、たけ高く遠白きなり。たとへば、白き色の異なる匂ひもなけれど、もろもろの色に優れたるがごとし。よろづのこと極まりてかしこきは、淡くすさまじきなり。この体はやすきやうにて極めて難し。一文字も違ひなば、あやしの腰折れになりぬべし。いかにも境に入らずして詠み出で難きさまなり」。
またいはく、
心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春の気色を
「これは初めの歌のやうに、限りなく遠白くなどはあらねど、優深くたをよかなり。たとへは能書の書ける仮名のし文字などのごとし。させる点をば加へ、筆を振へると頃もなけれど、ただ安らかにこと少なにて、しかも妙なるなり」。
またいはく、
思ひかね妹がりゆけば冬の夜の川風さむみ千鳥鳴くなり
「この歌ばかり面影ある類はなし。『六月二十六日の寛算か日も、これをだに詠ずれば寒くなる』とぞ、ある人は申しはべりし。大方、優なる心、言葉なれども、わざと求めたるやうに見ゆるは、歌にとりて失とすべし。ただ、結ばぬ峰の梢、染めぬ野辺の草葉に、春秋につけて、花の色々を現はすがごとく、おのづから寄り来ることを、やすらかにいへるやうなるが秀歌にてはべるなり。歌には故実の体といふことあり。よき風情を思ひ得ぬとき、心のたくみにて作り立つべきやうを習ふなり」
一には、させることなけれど、ただ言葉続き、匂ひ深くいひ流しつれば、よろしく聞こゆ。
風の音に秋の夜深く寝覚めして見果てぬ夢の名残をぞ思ふ
一には、古歌の言葉のわりなきを取りて、をかしくいひなせる、またをかし。
わが背子をかた待つ宵の秋風は荻の上葉をよきて吹かなむ
狩人の朝伏す野辺の草若み隠ろひかねて雉子鳴くなり
また、聞きよからぬ言葉を面白く続けなせる、わざとも秀句となる。
播磨なる飾磨に染むるあながちに人を恋と思ふ頃かな
思ひ草葉末に結ぶ白露のたまたまきては手にもたまらず
一には、秀句なれど、ただ言葉遣ひ面白く続けつれば、また、見所あり。
あさてほすあづま乙女の萱筵敷き忍びても過す頃かな
葦の屋の賤機帯の片結び心やすくもうち解くるかな
今ははや天の戸渡る月の舟また村雲に島隠れすな
一には、名所を取る故実あり。国々の歌枕、数も知らず多かれど、その歌の姿に従ひて詠むべきと頃あるなり。たとへば、山水を造るに、松を植うべき所には岩を立て池を掘り、花を咲かすべき地には山を築き眺望をなすがごとく、その所の名によりて歌の姿を飾るべし。これら、いみじき口伝なり。もし、歌の姿と名所と、かき合はずなりぬれば、こと違ひたるやうにて、いみじき風情あれど、破れて聞こゆるなり。
よそにのみ見てややみなん葛城の高間の山の峰の白雲
照射する宮城が原の下露に花摺衣乾く間ぞなき
東路を朝立ち来れは葛飾や真間の継橋霞わたれり
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
初めの歌は姿清げに遠白ければ、高間の山、ことにかなひて聞こゆ。照射の歌、言葉遣ひ優しければ、宮城が原に思ひ寄れり。東路の歌、わりなく思ふ所ある体なれば、葛飾・真間の継橋、さもと聞こゆ。秋風の歌、もの寂しき姿なるにより、深草の里、ことにたよりあり。尽して書くべからず。これらにて心得つべし。
一には、古歌を取ること、またやうあり。古き歌の中に、をかしき言葉の歌に、立ち入れて飾りとなりぬべきを取りて、わりなく続くべきなり。たとへば、
夏か秋か問へど白玉岩根より離れて落つる谷川の水
これら体なり。しかあるを、古歌を盗むは一の故実とばかり知りて、よきあしき言葉をも見分かず、みだりに取りて、あやしげに続けたる、口惜しきことなり。いかにも現はに取るべし。ほの隠したるはいと悪し。
また、古歌にとりて、ことなる秀句をば取るべからず。なにとなく、隠ろへたる言葉の、をかしくとりなしつべきを見はからふにあるなり。ある人、「空に知られぬ雪ぞ降りける」といふ古言を取りて、月の歌に、「水に知られぬ氷なりけり」と詠めりしをば、「これぞまことの盗みよ。さるほどなるなましんみやうの、衣盗みて、小袖になして着たるやうになん覚ゆる」とこそ、人申しはべりしか。
また、御所の御歌合に、暁の鹿を詠みはべりしとき、
今来んと妻や契し長月の有明の月に牡鹿鳴くなり
この歌は「ことがら優し」とて勝ちにき。されど、定家の朝臣、当座にて難ぜられき。
「かの素性が歌に、わづかに二句こそは変りてはべれ。かやうに多く似たる歌は、その句を置きかへて、上の句を下になしなど、作り改めたるこそよけれ。これはただ本の置き所にて、胸の句と結句とばかり変れるは難とすべし」
となむはべりし。
古人いはく、
「仮名にもの書くことは、歌の序は古今の仮名の序を本とす。日記は大鏡のことざまを習ふ。和歌の言葉は伊勢物語、並びに後撰の歌の言葉をまねぶ。物語は源氏に過ぎたるものはなし。みなこれらを思はへて書くべきなり。
いづれもいづれも、かまへて真名の言葉を書かじとするなり。心の及ぶ限りは、いかにもやはらげ書きて、力なきと頃は真名にて書く。それにとりて、撥ねたる文字、入声の文字の書きにくきなどをば、みな捨てて書くなり。万葉には、新羅をばしらと書けり。古今の序には、喜撰をばきせと書く。これらみなその証なり。
また、言葉の飾りを求めて対を好み書くべからず。わづかに寄り来ると頃ばかりを書くなり。対をしげく書きつれば、真名に似て、仮名の本意にはあらず。これは悪き時のことなり。かの古今の序に、『花に鳴く鶯、水に棲む蛙』などやうに、えさらぬと頃ばかりをおのづから色へたるがめでたきなり。言葉のついでといふは、『菅の根の長き夜』とも、『こゆるぎの急ぎて』とも、『石の上古りぬる』などいふやうなることを、あるいは古きを取り、あるいはめづらしく、巧みなるやうに取りなすべし」。
勝命いはく、
「仮名にもの書くことは、清輔いみじき上手なり。中にも初度の影供の日記、いとをかしく書けり。『花の下に花の客人来たり。柿の下に柿本の影をかけたり』とあるほどなど、ことに見ゆ。仮名の対はかやうに書くべきなり」。
波の名はあまたあり。範綱入道がいひけるとて人の語りしは、
「おなみ、さなみ、ささらなみ、はうのてかへし、はまならし、といふ。みなこれ、波の名なり」
といひけれど、いかなるをしかいふと、分きてはいはざりけり。これは、その国のそのと頃にとりていふことにてはべるにや。歌などは、いとも見及びはべらず。顕昭に問ひはべりしかば、
「さなみ、さざなみ、ささらなみ、といふことあり。これはみな小さき波の名なり。言葉の広略なれば、時に従ひて用ゐるなり」
と申しはべりしを、筑紫のしまとといふ所に通ふ者の、ことのついでに語りはべりしは、
「筑紫にとりて南の方、大隅、薩摩のほど、いづれの国とかや忘れたり。大きなる港はべり。そこには、四月、五月には明け暮れ波立ちて、静まる間もなし。四月に立つをばうなみといひ、五月にたつをばさなみとなむ申しはべる」
と言ひき。卯月、皐月といふゆゑにや。いと興あることなり。
ある人いはく、「あさりといひ、いさりといふは、同じことなり。それにとりて、朝にするをばあさりと名付け、夕にするをばいさりといへり。これ、東の海人の口状なり」
云々。まことに興あることなり。
ある人いはく、
「橘為仲、陸奥国の守にて下りけるとき、五月五日家ごとに菰を葺きければ、あやしくてこれを問ふ。その時庁官いはく、
『この国には、昔より、今日菖蒲葺くといふことを知らず。しかあるを、故中将の御館の御時、今日は菖蒲葺くものを、尋ねて葺け、とはべりければ、この国には菖蒲無きよしを申しはべりけり。その時、さらば、安積の沼の花かつみといふものあらむ、それを葺け、とはべりしより、かく葺き初めてはべるなり』
とぞ言ひける。中将の御館といふは、実方の朝臣なり」。
この為仲、任果てて上りけるとき、宮城野の萩を掘り取りて、長櫃十二合に入れて、持て上りければ、人あまねく聞きて、京へ入りける日は二条の大路にこれを見ものにして、人多く集まりて、車などもあまた立てりけるとぞ。
左衛門尉蔵人頼実は、いみじき数寄者なり。和歌に心ざし深くて、
「五年が命をたてまつらむ。秀歌詠ませ給へ」
と住吉に祈り申しけり。そののち、年経て、重き病を受けたりけるとき、命生くべき祈りどもしけるとき、家にありける女に、住吉の明神憑きたまひて、
「かねて祈り申すことをば忘れたるか、
木の葉散る宿は聞き分くことぞなき時雨する夜も時雨せぬ夜も
といへる秀歌詠ませしは、汝が信をいたして、我に心ざし申ししゆゑなり。されば、この度は、いかにも生くまじきなり」
とぞ仰せられける。
ある人いはく、
「業平朝臣、二条の后の未だただ人におはしましけるとき、盗み取りて行きけるに、兄人たちに取り返されたるよしいへり。このこと、また日本記式にあり。ことざまは、かのもの語にいへるがことくなるにとりて、迎ひ返しけるとき、兄人たち、その憤りを休め難くて、業平の朝臣の髻を切りてけり。しかあれど、誰がためにもよからぬことなれば、人も知らず、心一つにのみ思ひて過ぎけるに、業平朝臣、髪生ほさむとて、籠りて居たりけるほど、歌枕ども見むと数寄にことよせて東の方へ行きにけり。陸奥国に至りて、かそしまといふ所に宿りたりける夜、野の中に歌の上の句を詠ずる声あり。その言葉にいはく、
秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
と言ふ。あやしく覚えて、声を尋ねつつ、これを求むるに、さらに人なし。ただ死人の頭一つあり。明くる朝になほこれを見るに、かの髑髏の目の穴より薄なん一本生ひ出でたりける。その薄の風に靡く音のかく聞こえければ、あやしく思えて、あたりの人にこのことを問ふ。ある人、語りていはく、
『小野小町、この国に下りて、この所して命終りにけり。すなはち、かの頭これなり』
と言ふ。ここに業平、哀れに悲しく思えければ、涙を抑へつつ下の句を付けけり。
小野とはいはじ薄生ひけり
とぞ付けける。その野をば玉造と男言ひけり」
とぞはべる。
玉造の小町と小野の小町と同じ人か、あらぬ者かと、人々おぼつかなきことに申して争ひはべりし時、人の語りはべりしなり。
ある人いはく、
「ある歌合に、五月雨の歌に、『小屋の床寝も浮きぬべきかな』と詠めり。しかあるを、清輔朝臣判者にて、『床寝といふこと、聞きよからず』とて負けたり。この道の博士なれども、このこと心劣りせらる。後撰いはく、
竹近く夜床寝はせじ鶯の鳴く声聞けば朝寝せられず
と詠めり。この歌を思えざるにや」
と云々。
この難、はなはだ拙し。すべて和歌の体を心得ざるなり。そのゆゑは、歌のならひ、世に従ひて用ゐる姿あり。賞する言葉あり。しかあれば、古集の歌とて、みなめでたしと仰ぐべからず。これは古集を軽むるにはあらず。時の風の異なるがゆゑなり。しかあれば、古集の中にさまざまの姿、言葉、一偏ならず。その中に、今の世の風に適へるを見はからひて、これを本として、かつはその体を習ひ、かつはその言葉を盗むべきなり。かの後撰の歌、この頃ならば撰集に入るべくもあらず。題を賞せざるは歌の大きなる失なり。おぼろげの秀逸にあらざれば、これを許さず。次に、「夜床寝はせじ」といひ、「朝寝せられず」といへる、姿、言葉よろしからず。しかあるを、かの「夜床寝」といへる、さしもなき言葉を取りて、なほ夜の字を略して、「床寝」といへる、まことに異様なる言葉なり。これを後撰の威を借りて、僻難と思へるは、よくこの道に暗きなり。

