無名抄「古典の聖地」原文・語釈・現代語訳
貫之の家
原文
ある人いはく、
「貫之が年ごろ住みける家の跡は、勘解由小路よりは北、富小路よりは東の角なり」。
語釈
- 貫之:紀貫之。平安時代前期の歌人。生年不詳(870年前後)。
- 年ごろ:長年。
現代語訳
ある人が言うには、
「紀貫之が長年住んでいた家の跡は、勘解由小路よりは北、富小路よりは東の角である」。
業平の家
原文
また、業平中将の家は、三条の坊門より南、高倉より西に、高倉面に近くまではべりき。柱なども常にも似ず、ちまき柱といふものにてはべりけるを、いつ頃の人のしわざにか、後に例の柱のやうに削りなしてなむはべりし。長押もみなまろに、角もなくつひなりて、まことに古代の所と見えはべりき。中頃、晴明が封じたりけるとて、火にも焼けずして、その久しさありけれど、世の末にはかひなくて、一年の火に焼けにき。
語釈
- 業平中将:在原業平。天長2(825)年生まれの歌人。六歌仙の一人。
- ちまき柱:丸柱の上下または上を細くした柱。
- 例の:いつもの。普通の。
- 長押:寝殿造りの建物で、間仕切りとして柱と柱を水平につなぐ横木。
- まろ:丸いようす。
- 古代:古風である。
- 中頃:あまり遠くない昔。
- 晴明:安倍晴明。延喜21(921)年生まれの陰陽師。
- 一年:ある年。先年。
現代語訳
また、在原業平中将の家は、三条の坊門より南、高倉より西に、高倉に面した場所に最近までありました。柱なども普通のとは違い、ちまき柱というものでありましたが、いつ頃の人のしたことか、後に普通の柱のように削ってしまいました。長押もみな丸く、角もなくくすんで、誠に古風な所と見えました。そう遠くない昔に、安倍晴明が封じ込めたということで、火に焼けることもなく、長らくあったけれど、世の末にはどうしようもなくて、ある年の火事で焼けてしまった。
周防内侍の家
原文
また、周防内侍の「われさへ軒のしのぶ草」と詠める家は、冷泉堀川の北と西との角なり。
語釈
- 周防内侍:長暦元(1037)年頃生まれの歌人。女房三十六歌仙の一人。
現代語訳
また、周防内侍が「われさへ軒のしのぶ草」と詠んだ家は、冷泉堀川の北と西との角である。
浅茂川の明神
原文
丹後の国与謝の郡に、浅茂川の明神と申す神います。国の守の神拝といふことにも、幣など得たまひて、数まへらるるほどの神にてぞおはすなる。これは昔、浦島の翁の神になれるとなむ言ひ伝へたる。いと興あることなり。もの騒がしく箱開けけむ心に、神と跡をとめたまへるは、さるべき権者などにやありけむ。
語釈
- 浅茂川の明神:現在の京都府京丹後市網野町に鎮座する網野神社。
- 神拝:その地に着任した国司が、最初にその国の主要な神社に参拝すること。
- 幣:神にささげる物の総称。
- 数まふ:数え入れる。
- 浦島の翁:浦島太郎。
- 興あり:おもしろい。興味深い。
- もの騒がし:せっかちだ。気が早い。
- 権者:⦅仏教語⦆衆生を救うために仮の人間の姿で現れた仏や菩薩。
現代語訳
丹後の国与謝の郡に、浅茂川の明神と申す神がいます。国主の神拝ということにも、神への捧げ物を奉納されて、数え入れられるほどの神としていらっしゃるようです。これは昔、浦島の翁が神になったと言い伝えられているのは、とても興味深いことです。気を早めて箱を開けた心を持ちながら、神として跡を残されたことは、しかるべき権者などであったのだろうか。
逢坂の関の明神
原文
逢坂の関の明神と申すは、昔の蝉丸なり。かの藁屋の跡を失はずして、そこに神となりて住みたまふなるべし。今もうち過ぐるたよりに見れば、昔、深草の御門の御使にて、和琴習ひに良岑宗貞、良少将とて通はれけむほどのことまで面影に浮かびて、いみじくこそはべれ。
語釈
- 逢坂の関の明神:現在の滋賀県大津市逢坂に鎮座する関蝉丸神社。
- 蝉丸:平安時代前期の伝説的な歌人。逢坂の関の近くに庵を結んだといわれている。
- 深草の御門:仁明天皇。弘仁元(810)年生まれ。
- 良岑宗貞:遍昭の俗名。弘仁7(816)年生まれの歌人。六歌仙の一人。
- 良少将:良岑宗貞の別称。承和13(846)年に左近衛少将に任ぜられた。
現代語訳
逢坂の関の明神と申すのは、昔の蝉丸のことである。かの藁屋の跡を失うことなく、神となって住んでおられるのであろう。今も関を通過するついでに見ると、その昔、深草の帝こと仁明天皇の御使として、和琴を習いに良岑宗貞が、良少将として通われていた時のことまで面影に浮かんで、とても尊い場所でございます。
和琴の起こり
原文
ある人いはく、
「和琴の起こりは、弓六張を引き鳴らして、これを神楽に用ゐけるを煩はしとて、後の人の琴に作りうつせると申し伝へたるを、上総の国の済物の古き注し文の中に弓六張と書きて、注に御神楽の料と書けり」
とぞ。いみじきことなり。
語釈
- 上総の国:現在の千葉県の中央部。
- 済物:租税・年貢などの貢納物。
- 注し文:書き付け。メモ。
現代語訳
ある人が言うには、
「和琴の始まりは、弓六張を引き鳴らして、これを神楽に用いていたのを面倒だとして、後代の人が琴に作り変えたと申し伝えられているが、上総の国の貢納物の古い書き付けの中に弓六張と書いて、注釈に御神楽で使うものと書いてある」
ということだ。大変面白いことである。
中将の垣内
原文
河内の国高安の郡に、在中将の通ひ住みけるよしは、かの伊勢物語にはべり。されど、その跡いづくとも知らぬを、かしこの土民の説に、その跡定かにはべりとなむ。今、中将の垣内と名付けたる、すなはちこれなり。
語釈
- 河内の国:現在の大阪府八尾市。
- 在中将:在原業平。
- 伊勢物語:作者、成立ともに未詳。在原業平が主人公のモデルといわれている。
- 注し文:書き付け。メモ。
現代語訳
河内の国高安の郡に、在原業平中将が通って住んでいたことは、かの『伊勢物語』にあります。しかし、その跡がどこかもわからなかったのが、その辺りの土地に住む人の説によると、その跡は確かにあるというのです。今、中将の垣内と名付けられているのが、すなわちこれである。
人麻呂の墓
原文
人麻呂の墓は、大和の国にあり。初瀬へ参る道なり。人麻呂の墓と言ひて尋ぬるには、知る人もなし。かの所には歌塚とぞいふなる。
語釈
- 人麻呂:柿本人麻呂。飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。
- 初瀬:現在の奈良県桜井市初瀬に鎮座する長谷寺。
現代語訳
柿本人麻呂の墓は、大和の国にある。初瀬の長谷寺へ参る道である。人麻呂の墓と言って尋ねても、知っている人もいない。その土地では歌塚と言うそうだ。
無名抄「古典の聖地」原文全文
ある人いはく、
「貫之が年ごろ住みける家の跡は、勘解由小路よりは北、富小路よりは東の角なり」。
また、業平中将の家は、三条の坊門より南、高倉より西に、高倉面に近くまではべりき。柱なども常にも似ず、ちまき柱といふものにてはべりけるを、いつ頃の人のしわざにか、後に例の柱のやうに削りなしてなむはべりし。長押もみなまろに、角もなくつひなりて、まことに古代の所と見えはべりき。中頃、晴明が封じたりけるとて、火にも焼けずして、その久しさありけれど、世の末にはかひなくて、一年の火に焼けにき。
また、周防内侍の「われさへ軒のしのぶ草」と詠める家は、冷泉堀川の北と西との角なり。
丹後の国与謝の郡に、浅茂川の明神と申す神います。国の守の神拝といふことにも、幣など得たまひて、数まへらるるほどの神にてぞおはすなる。これは昔、浦島の翁の神になれるとなむ言ひ伝へたる。いと興あることなり。もの騒がしく箱開けけむ心に、神と跡をとめたまへるは、さるべき権者などにやありけむ。
逢坂の関の明神と申すは、昔の蝉丸なり。かの藁屋の跡を失はずして、そこに神となりて住みたまふなるべし。今もうち過ぐるたよりに見れば、昔、深草の御門の御使にて、和琴習ひに良岑宗貞、良少将とて通はれけむほどのことまで面影に浮かびて、いみじくこそはべれ。
ある人いはく、
「和琴の起こりは、弓六張を引き鳴らして、これを神楽に用ゐけるを煩はしとて、後の人の琴に作りうつせると申し伝へたるを、上総の国の済物の古き注し文の中に弓六張と書きて、注に御神楽の料と書けり」
とぞ。いみじきことなり。
河内の国高安の郡に、在中将の通ひ住みけるよしは、かの伊勢物語にはべり。されど、その跡いづくとも知らぬを、かしこの土民の説に、その跡定かにはべりとなむ。今、中将の垣内と名付けたる、すなはちこれなり。
人麻呂の墓は、大和の国にあり。初瀬へ参る道なり。人麻呂の墓と言ひて尋ぬるには、知る人もなし。かの所には歌塚とぞいふなる。

無名抄「古典の聖地」現代語訳全文
ある人が言うには、
「紀貫之が長年住んでいた家の跡は、勘解由小路よりは北、富小路よりは東の角である」。
また、在原業平中将の家は、三条の坊門より南、高倉より西に、高倉に面した場所に最近までありました。柱なども普通のとは違い、ちまき柱というものでありましたが、いつ頃の人のしたことか、後に普通の柱のように削ってしまいました。長押もみな丸く、角もなくくすんで、誠に古風な所と見えました。そう遠くない昔に、安倍晴明が封じ込めたということで、火に焼けることもなく、長らくあったけれど、世の末にはどうしようもなくて、ある年の火事で焼けてしまった。
また、周防内侍が「われさへ軒のしのぶ草」と詠んだ家は、冷泉堀川の北と西との角である。
丹後の国与謝の郡に、浅茂川の明神と申す神がいます。国主の神拝ということにも、神への捧げ物を奉納されて、数え入れられるほどの神としていらっしゃるようです。これは昔、浦島の翁が神になったと言い伝えられているのは、とても興味深いことです。気を早めて箱を開けた心を持ちながら、神として跡を残されたことは、しかるべき権者などであったのだろうか。
逢坂の関の明神と申すのは、昔の蝉丸のことである。かの藁屋の跡を失うことなく、神となって住んでおられるのであろう。今も関を通過するついでに見ると、その昔、深草の帝こと仁明天皇の御使として、和琴を習いに良岑宗貞が、良少将として通われていた時のことまで面影に浮かんで、とても尊い場所でございます。
ある人が言うには、
「和琴の始まりは、弓六張を引き鳴らして、これを神楽に用いていたのを面倒だとして、後代の人が琴に作り変えたと申し伝えられているが、上総の国の貢納物の古い書き付けの中に弓六張と書いて、注釈に御神楽で使うものと書いてある」
ということだ。大変面白いことである。
河内の国高安の郡に、在原業平中将が通って住んでいたことは、かの『伊勢物語』にあります。しかし、その跡がどこかもわからなかったのが、その辺りの土地に住む人の説によると、その跡は確かにあるというのです。今、中将の垣内と名付けられているのが、すなわちこれである。
柿本人麻呂の墓は、大和の国にある。初瀬の長谷寺へ参る道である。人麻呂の墓と言って尋ねても、知っている人もいない。その土地では歌塚と言うそうだ。

