歌は題の心をよく心得べきなり
和歌を詠むなら、まずお題が何を求めているのか、きちんとつかまなければならない。俊頼の『俊頼髄脳』にも、そう書いてあるらしい。
お題にある言葉には、歌の中へ必ず入れたほうがいいものもあれば、かえってその言葉をそのまま入れると、ぎこちなく聞こえるものもある。
また、歌の中にわざわざ入れなくても、自然にその意味が伝わる言葉もある。たとえば「暁天落花」「雲間郭公」「海上名月」といった題なら、二字目の「天」「間」「上」を必ずしも詠み込む必要はない。「落花」「郭公」「名月」のほうをきちんと詠めば、その場所や状況まで自然に伝わるからだ。
こういうことは、人から一つ一つ教わるものではない。お題の扱い方が身につけば、題を見ただけでわかるようになる。
それから題詠では、お題に対する思いを深く詠むことが大切だ。祝いの歌なら「いつまでも限りなく続いてほしい」と願い、恋の歌なら「どうしようもないほど深く愛している」と詠む。花なら命に代えても惜しみ、紅葉なら家へ帰ることも忘れて探し歩く。それくらい、その対象へ心を傾けて詠むべきなのである。
昔の歌集には、そこまで深く詠んでいない歌もある。しかし、そういう歌は歌そのものの出来がよかったため、欠点を大目に見てもらったのだ。多少難のある歌でも、全体が優れていれば歌集に選ばれることはよくある。だからといって、それを普通の基準にしてはいけない。歌合で二首の出来が同じくらいなら、お題をより深く受け止めた歌のほうを勝ちとする。仏について説法する人が、その仏を心からたたえるようなものだ。
ただし「とにかくお題を強く打ち出せばいい」というわけでもない。昔から歌に詠まないことまで、むやみに詠んではいけない。たとえば郭公は、山野を探し歩いて、その声を聞くものとして詠む。ところが鶯は、鳴き声を待つ心は詠んでも、わざわざ探し歩いて聞くとはあまり詠まない。鹿の声は、聞けば心細く、しみじみ悲しいものとして詠むが、鳴くのを待つとはほとんどいわない。よほど見事な句でも思いつかないかぎり、こうした決まりから外れないほうがいい。
桜は訪ねるが、柳は訪ねない。初雪は待つものだ。「花は命に代えても惜しい」とはいっても、紅葉はそこまで激しく惜しまない。こうした違いを知らないと、和歌のしきたりを知らない人に見えてしまう。だから過去の歌合で負けた歌などもよく研究し、その歌の出来に応じて判断しなければならない。
歌はただ同じ詞なれど、続けがら・言ひがらにて、良くも聞こゆるなり
和歌では同じ言葉を使っていても、前後のつなげ方や言い回しによって、すばらしく聞こえることもあれば、ひどく聞こえることもある。
友則の歌に「仲間とはぐれ、途方に暮れた千鳥が鳴いている」という表現がある。これはとても優雅に聞こえる。ところが同じ『古今集』の恋の歌にある「恋しさに苦しみ、魂まで迷ってしまったなら」や「自分が思い迷っていることさえ、あの人には知られないのだろう」といった表現は、同じ「迷う」でも、ずいぶん大げさに聞こえる。違いを生むのは、言葉のつなぎ方なのだ。
だから「昔の歌にも、確かにこういう例があります」と先例を持ち出すときは注意がいる。同じ言葉でも、使い方によって歌の良し悪しが変わるからだ。
曽祢好忠に、こんな歌がある。
「播磨の飾磨で布を染めるように、今の私は、むやみやたらとあの人を恋しく思っていることだ」
「あながち」という言葉は、普通なら歌に向くとは思えない。けれども、この歌では「飾磨に染むる」と続くことで、わざと選んだような艶のある、上品な表現に聞こえる。
また『古今集』には、こんな歌がある。
「春霞が立っているのはいったいどこだろう。吉野の山には、今も雪が降り続いている」
これは実にすばらしい歌で、とりわけ「立てるやいづこ」という言葉が抜群に優雅だ。ところが、ある人が「神社の菊」という題で、こう詠んだ。
「神垣の内に立っているのは菊だろうか。枝もしなるほど咲く白い花は、誰が神に手向けた白木綿なのだろう」
こちらも同じ「立てるや」を使っているのに、言葉がまるで生きていない。いかにも不慣れな人が、ただ元の歌をまねてつないだだけに聞こえる。
ある所にて歌合し侍し時
ある所で歌合が開かれたとき、「海路を隔てた恋」という題が出た。歌そのものは忘れてしまったが、ある人が「筑紫にいる人が恋しい」という内容を詠んだ。すると片方の人々が、この歌を批判した。
「これは駄目だ。たしかに筑紫との間には海があるから、離れた相手を思うという点では題に合っている。だが都から歩いて行くなら、門司の沖へ着くまでに長い山道や野道を越え、最後にほんの少し海を渡るだけだ。これでは『海路を隔てた恋』という題の中心を外しているし、かなり雑な詠み方でもある。
たとえば陸奥にいる人を恋う歌を一首作り、それを『野を隔てた恋』にも『山を隔てた恋』にも、『里を隔てた恋』にも『川を隔てた恋』にも使い回すつもりなのか。題詠なら、聞いた人が『なるほど、まさにその題だ』と思える歌でなければならない。これはあまりに大ざっぱだ」
すると別の人々が反論した。
「歌というものは、そのくらいの詠み方をするものだ。本当に海だけを隔てるなら、こちらの浜から向こうの浜にいる恋人が見えるような場所でなければならないのか。そこまで求めるのは、いくらなんでも難癖だ」
その場には和歌の先達が大勢いたが、意見は真っ二つに分かれ、大論争になった。
ただ、物のわかった人の多くは「批判した側のほうが、もう少し筋が通っている」と判断した。
また同じ所にて、こくなはといひし女房
同じ歌合で、こくなはという女房が「夏を契る」という題に、こう詠んだ。
「惜しまれるはずの春を、あの人には嫌いにならせておいて、そのうえ夏まで待ってくれという口約束を、私はむなしく信じることになるのだろうか」
人々が「なかなかよい歌だ」と評していると、ある人がいった。
「『春をば人に』という部分は、少し意味がぼやけている。ここは『春をば我に』とすれば、意味がはっきりして、もっとよくなるだろう」
これに賛成する人は多かった。しかし俊恵は、それを聞くといった。
「なんとも情趣のないことをおっしゃる。『人に』とあっても、誰が赤の他人を思い浮かべるだろうか。恋の相手に決まっている。それを『我に』としてしまったら、いやに露骨で、ひどく品のない歌になる。和歌は華やかで美しいことが第一だ。他の人は知らないが、私なら多少の難があっても、やはり『人に』と詠む」
晴の歌は必ず人に見せ合はすべきなり
正式な場に出す歌は、必ず前もって人に見せたほうがいい。自分一人で考えていると、思わぬ間違いに気づかないことがある。
昔、高松女院の御所で菊合が開かれたとき、私は恋の歌として、こう詠んだ。
「人知れず流した涙の川は、流れがあまりに速いため、とうとう人目を防ぐ堤まで崩れてしまったことだ」
そのころの私は、晴れの場に出す歌をまだ詠み慣れていなかった。そこで勝命入道に見せると、こういわれた。
「この歌には大きな問題がある。天皇や后がお亡くなりになることを『崩ず』といい、その字は『くずる』と読む。院の御所で出す歌に、どうしてそんな言葉を置けるのか」
それで私は別の歌を出し、この歌は引っ込めた。
その後まもなく、女院はお亡くなりになった。もしあの歌を出していたら、「あれは不幸の前触れだった」と、きっと大騒ぎになっていただろう。
九条殿いまだ右大臣と申すとき
九条殿がまだ右大臣だったころ、人々に百首歌を詠ませたことがあった。ところがそのとき、名高い歌人たちまで次々にとんでもない間違いをし、しまいにはあだ名まで付けられてしまった。
近年の徳大寺左大臣は、「無明の酒」という言葉を「名前のない酒」という意味に取り違えて詠んだため、「名無しの大将」と呼ばれた。
五条三位入道は和歌の世界の第一人者だったが、「富士の鳴沢」を「富士のなるさ」と誤って詠み、「なるさの入道」と呼ばれた。しかも「名無しの大将」と一組にして笑われたので、和歌の道ではたいへんな不名誉になった。
二人とも、そんな基本的なことを知らなかったはずはない。考えに考え続けているうちに、かえって間違えてしまったのだろう。
同じ度の百首に、伊豆の守仲綱の歌に
同じ百首歌で、伊豆守仲綱が「ならわし顔」という言葉を使った。これを聞いた大弐入道は、ひどく厳しいことをいった。
「こんな言葉を歌に使う人は、たとえ百首、千首の秀歌を詠んだとしても、歌人と呼べるだろうか。まったくひどいものだ」
これらはどれも、前もって誰かに歌を見せなかったために起きた失敗である。
建春門女院の、殿上の歌合に
建春門女院の御所で開かれた殿上の歌合に、「関路の落葉」という題が出た。頼政卿は、こう詠んだ。
「都ではまだ青葉だったのに、ここまで来れば紅葉が散り敷いている、白河の関よ」
頼政はこの題で何首も作り、歌合の当日まで、どの歌を出すか悩み続けていた。そこで俊恵を呼んで、この歌を見せた。
俊恵は答えた。
「この歌は、能因の『秋風ぞ吹く白河の関』という歌に似ています。しかし人前に出せば、きっと映える歌です。能因の歌があったからといって、無理に寄せた感じはしません。むしろ自分の歌として見事に作り直しているように見えます。似ていることを欠点にするほどではありません」
ちょうど車が寄せられ、頼政が乗ろうとするときだった。頼政は俊恵にこういい残して出かけた。
「あなたの判断を信じて、この歌を出すことにしよう。あとで問題になったら、その責任はあなたに取ってもらうからな」
歌は狙いどおり人々の目を引き、勝ちとなった。頼政は帰ると、すぐ俊恵へ喜びの知らせを送ったという。
俊恵は後に語った。
「考えがあってあのように申し上げたのですが、結果を聞くまでは、関係のない私まで胸がつぶれそうでした。勝ったと聞いたときは、自分が大手柄を立てたような気分でしたよ」
同じ度、「水鳥近く馴る」といふ題に
同じ歌合で「水鳥が人の近くに慣れ親しむ」という題が出た。頼政は、こう詠んだ。
「子を思う鳰の浮き巣が、波に揺られて人の近くまで来た。子を捨てまいとしているからだろうか。人を恐れて水に隠れようともしない」
この歌は「発想が珍しい」と評価され、勝ちになった。
ところが祐盛法師は、この歌を見て強く批判した。
「鳰の浮き巣がどんなものか、知らずに詠んだのだろう。あの巣は、波のままに漂い歩くものではない。海には潮の満ち引きがある。だから鳰が巣を作るときは、中央に葦の茎を通し、巣が上下に動けるよう、周囲をゆるく編んでおく。潮が満ちれば茎に沿って上がり、潮が引けば一緒に下がるのだ。
もし本当に漂う巣なら、風が吹いただけでどこかへ流され、大波に砕かれるか、人に取られてしまうだろう」
しかし、その場には浮き巣のことを知る人がいなかったのだろう。すでに勝ちと決まってしまったので、祐盛は「もう何をいっても仕方がない」といった。
二条院、和歌好ませおはしましけるとき
二条院が和歌を好まれていたころ、岡崎三位は院の書物を講ずる侍読として仕えていた。一方、清輔朝臣も和歌で名高かったため、召されて殿上に仕えていた。
清輔にとって、これ以上ない名誉だった。ところがある歌会で、清輔がどこかの山について「この面、かの面」と詠んだ。すると岡崎三位が、そこを批判した。
「『この面、かの面』という言葉を使うのは筑波山だけだ。どの山にも使ってよい表現ではない」
清輔は小声で反論した。
「筑波山にしか使えないということはありません。川などにも詠めるはずです」
三位はあざ笑っていった。
「では、その証拠となる歌を出してみなさい」
清輔は答えた。
「大井川の歌会で躬恒が序文を書いたとき、たしかに『大井川のこの面、かの面』と書いています」
その瞬間、その場にいた全員が黙り込み、議論は終わった。よく知らないことを、軽々しく批判してはいけない。
光行、賀茂社歌合とてし侍りし時
光行が賀茂社歌合を開いたとき、私は月の歌として、こう詠んだ。
「石川よ、瀬見の小川の流れが清いので、月までその流れを訪ね、澄んだ光を宿している」
ところが判者の師光入道は「そんな川が本当にあるのか」といい、この歌を負けにした。私には根拠があって詠んだ歌なので、納得がいかなかった。
その後「あの歌合の判定には、わかっていないところが多すぎる」ということになり、顕昭法師があらためて判定し直した。顕昭は私の歌について、こう書いた。
「石川も瀬見の小川も、私は聞いたことがない。しかし言葉のつなぎ方はおもしろい。実在する川なのかもしれないから、土地の人に尋ねたうえで判定するべきだ」
顕昭は、そこで結論を出さなかった。
後に顕昭と会ったとき、私はこの話を持ち出した。
「瀬見の小川は賀茂川の別名です。賀茂社の縁起に書かれています」
顕昭は驚いていった。
「危なかった。用心して批判しなかったのは正解でしたよ。『この顕昭さえ聞いたことのない名所など、あるはずがない』と思って、もう少しで難じるところでした。しかし作者が誰かは知らなくても、歌そのものがよく見えたので、念のため余地を残したのです。これこそ年を取って身につけた経験の力ですね」
この話を聞いた賀茂社の禰宜、祐兼は、今度は私を強く批判した。
「そんな秘伝の名所は、よほど大切な晴れの歌会か、天皇や大臣の御前でこそ詠むべきです。こんな内輪の歌合で使ってしまうとは、なんとも惜しいことをしましたね」
そうしているうちに、隆信朝臣も瀬見の小川を歌に詠み、顕昭法師も左大将家の百首歌で詠んだ。
祐兼はいった。
「だからいったではありませんか。あなたは自分で初めて見つけて詠んだと思っていても、後の世の人には誰が最初だったのかわかりません。そのうち、みんなの歌に紛れて終わってしまいますよ」
私も残念に思っていたが、『新古今集』が編まれたとき、この歌が選ばれた。ほとんど誰も知らない歌だったから、推薦してくれた人がいたのだろうか。『新古今集』には私の歌が全部で十首入った。
身に余る名誉だが、なかでもこの歌が入ったことは、生まれ変わっても執着し続けそうなほど嬉しい。もっとも、死後までこんなことにこだわるなんて、本当にむなしい話ではある。
千載集には予が歌一首入れり
『千載集』には、私の歌が一首だけ入っている。
私はいつも、こういって喜んでいた。
「私は代々続く歌人の家の出身でもないし、これといった独自の詠みぶりがあるわけでもない。当代きっての風流人として世間に認められているわけでもない。それなのに一首でも勅撰集に入ったのだから、たいへんな名誉だ」
それを聞いた亡き筑州は、こういった。
「初めは謙遜でいっているだけかと思ったが、何度も同じことをいう。どうやら本気で喜んでいるらしい。それなら、あなたはきっと和歌の神の加護を受ける人だ。
理屈では一首でも名誉だとわかっていても、心からそう思える人はめったにいない。『千載集』を見ると、大したことのない人でも十首、七、八首、四、五首と入っている例が多い。そういう人たちを見れば、普通なら『自分の一首がどれほどみすぼらしく見えるだろう』と思うものだ。それでも、これほど喜べるのはすばらしい。
一つの道を尊ぶには、何より心をまっすぐに保つことが大切だ。今の人はそうではない。自分の実力もわきまえず、思い上がり、やかましいほど恨みを募らせ、そのたびに間違いを起こしている。よく覚えておきなさい」
本当に私は、実力以上に和歌の神の恵みを受けてきた。昔の人の言葉には、必ず理由があるものだ。
同じ人、常に教へていはく
同じ筑州は、いつも私にこう教えた。
「くれぐれも、自分から歌人として売り出そうとしてはいけない。和歌は、身の処し方までよく考えなければならない道なのだ。
私のように、もう身分も人生もだいたい決まってしまった者なら、何をしても、そのために出世を失うことはない。しかしあなたは代々続く家に生まれながら、早くに親を失った。世間が重く用いてくれなくても、自分の中には志を持ち、何とか身を立てようと努力しなければならない。
あなたには和歌の才能があるから、あちこちの歌会から『ぜひ来てくれ』と招かれるだろう。そこでよい歌を詠めば面目も立ち、歌人として名も上がる。だが、あちこちへ出向いて機嫌を取り、人に顔を売って歩けば、出世の妨げになるに違いない。
あなたのような人は、普段はあまり名を知られず、正式な場に出たとき『あの人は誰だ』と尋ねられるくらいで、奥ゆかしく思われるのがいい。何かを本気で好み、その道で本当に優れれば、『錐は袋の中に隠しておけない』というように、評判は自然に外へ出る。やがて格式ある歌会にも呼ばれ、公卿たちの席の末に連なることもあるだろう。それこそが、和歌の道を通して身を立てるということだ。
あちこちの身分も怪しい人々に交じり、顔と名前だけを売って、何になる。歌会はおもしろく、つい参加したくなるだろう。しかし必ず出る場所を選び、『あの人は軽々しくない、堂々とした人だ』と思われるようにしなさい」
今になって思えば、私は本当に大きな恩を受けた。筑州ほどの立派な人は、自分の子でさえ、よほどのことがなければ細かく教えたりしないものだ。それなのに私には、将来の心配までして、こんなに率直に教えてくれた。
それはほかでもない。私を管絃の道の跡継ぎと見込み、「世間から一人前の人間として扱われてほしい」と願ってくれていたからだろう。しみじみ考えると、胸に迫るものがある。
俊恵法師が家をば歌林苑と名付けて
俊恵法師は自分の家を「歌林苑」と名付け、毎月歌会を開いていた。祐盛法師もその仲間で、「寒い夜の千鳥」という題に、「千鳥も鶴の毛衣を着た」という句を詠んだ。
人々が「珍しい表現だ」と感心していると、素覚という人が何度もその句を口ずさみ、こういった。
「おもしろいですね。ただ、千鳥に鶴の服では、寸法が合わないのではありませんか」
これを聞いた一座は、どっと沸いた。みんなが大声で笑ったため、せっかくの歌もすっかり興ざめになってしまった。
祐盛は後に、「どれほど見事な句でも、あんなふうに笑いの種にされてしまえば、もうおしまいです」と語った。
しかし、そもそも素覚はこの歌の意味をわかっていない。鳥はみな、自分の羽毛を衣にしている。千鳥だって体の大きさに合った自前の毛衣を着ているのであって、鶴から大きすぎる服を借りるわけではない。
たしかに「真っ白な鶴の毛衣は、何年たっても」という古歌はあるが、だからといって「毛衣」を鶴にしか使えないわけではない。どの鳥を詠むときにも、使って差し支えないはずだ。
先に話した建春門院の殿上歌合でも、「おしどりの毛衣」と詠んだ歌があった。少し疑う人はいたが、判者は問題がないように取りなした。
ただ「鶴の毛衣の『毛衣』は、羽毛という意味ではなく、鶴だけが持つ特別なものだ」という人もいる。だが私は、まだその根拠を見たことがない。博識な人に尋ねるべきだろう。
祐盛法師いはく
祐盛法師は、こんな話をした。
「妙荘厳王の二人の王子が見せた神通力を説明するとき、普通は『大きな姿を現せば大空いっぱいに満ち、小さな姿を現せば芥子粒の中にまで入る』といいます。
ところが忠胤は説法で、『大きな姿を現せば大空が窮屈になり、小さな姿を現せば芥子粒の中にさえ、まだ余るほどの場所がある』といった。これはまさに、すばらしい和歌と同じ発想です。
歌もこのように考え、昔からある話に少し色を添え、新鮮な表現に作り変えるべきです。世の中に、まったく新しい題材など、そうそうあるでしょうか。何の土台もなく歌を作ることなど、できるものではありません」
雨の降りける日、ある人のもとに
雨の降る日、気心の知れた人々がある家に集まり、昔のことを語り合っていた。そのうち「『ますほのすすき』とは、いったいどんな薄なのだろう」という話になった。
すると一人の老人が、「渡辺という所に、そのことを知っている僧がいると聞いたことがあります」と、何気なく口にした。
登蓮法師もその場にいた。話を聞いたとたん急に口数が減り、それ以上は何も尋ねず、家の主人にいった。
「蓑と笠を、しばらく貸してください」
主人は不思議に思いながらも、蓑笠を出した。登蓮は話の途中だというのに蓑を着て、わら靴を履き、急いで外へ出ようとした。人々が驚いて理由を尋ねると、登蓮は答えた。
「渡辺へ行くのです。長年ずっと知りたいと思っていたことを、知っている人がいると聞いた。どうして尋ねに行かずにいられますか」
人々はさらに驚き、「それにしても、雨がやんでから出かけてはどうです」と引き止めた。
「何をのんきなことをいうのです。私の命もその人の命も、雨がやむまで待ってくれると思いますか。では皆さん、ごゆっくり」
登蓮はそれだけいい残して、出ていった。まったく並外れた風流人である。登蓮は思いどおりその僧を探し当て、詳しく教わると、その知識をたいせつに守った。
私はこの話を、登蓮から数えて三代目の弟子として教わった。よく似た名の薄には、「ますほのすすき」「まそおのすすき」「まそうのすすき」の三種類がある。
「ますほのすすき」は、穂が長く、一尺ほどある薄をいう。「ます鏡」を『万葉集』では「十寸の鏡」と書くので、それを手がかりにすればよい。
「まそおのすすき」の「まそお」は、真麻、つまり麻のことだ。俊頼朝臣の歌にも「まそおの糸を繰りかけて」といった表現があったはずで、麻糸が乱れたような姿の薄をいう。
「まそうのすすき」は、「本当に蘇芳色である」という意味だ。本来の「真蘇芳のすすき」を短くした言葉で、色の濃い薄の名なのだろう。
これは昔の歌集にも確かに書かれている。しかし和歌の世界では、こうした古い知識を使うのはごく普通のことなのに、誰もが知っているわけではない。だから、よく知らないまま勝手な説を唱えてはいけない。
ある人語りていはく
ある人が、こんな話をした。
「ある用事で井手という所へ行き、一晩泊まったことがあります。土地のたたずまいも、井手川の流れる姿も、想像以上に見事でした。昔の井手左大臣ゆかりの地なのですから、当然なのかもしれません。
川には十町あまりにわたって石が並んでいました。そんな遠くからわざわざ運んだとも思えませんが、どの石も偶然そこにあるようには見えず、人が意図して置いたようでした。
そこにいた老人と話をして、昔のことを尋ねました。そのついでに、『井手の山吹はたいへん有名なのに、ほとんど見当たりません。どこにあるのですか』と聞いてみました。
老人は答えました。
『たしかにそうですね。井手左大臣のお堂は、ある年に焼けてしまいました。その前には、驚くほど大きな山吹が、あちこちに群れて咲いていました。花は小さな素焼きの杯ほどもあり、花びらが何重にも重なっていました。それを「井手の山吹」といったのかもしれません。
また井手川の岸にも、隙間がないほど山吹が咲いていました。花盛りには、黄金の堤をずっと築いたように見え、ほかの土地とは比べものになりませんでした。どちらを「井手の山吹」と呼んだのか、今ではわかりません。
ところが身分の低い者たちは、これほど名高い草だからといって大切にはしません。「田を作るなら、草は刈って鋤き込んだほうが作物がよく育つ」といって、何とも思わず刈ってしまうのです。
それから「井手の河鹿」には、きちんと由来があります。世間の人は、ただ蛙の古い呼び名が「かわず」なのだと思っているようです。それも間違いではありません。しかし本当の「河鹿」という蛙は、ほかの場所にはおらず、この井手川だけにいるのです。
やや黒っぽく、それほど大きくはありません。普通の蛙のように、人目につく場所を跳び回ることもほとんどありません。いつも水の中にすみ、夜が更けるころに鳴きます。その声は心が澄むように美しく、しみじみと胸に響きます。春か夏に、ぜひ聞きにいらしてください』
そう勧められたのですが、その後は何かと取り紛れ、まだ行っていません」
この話を聞いた私は、すっかり心を引かれた。それなのに、何もできないまま三年がたってしまった。年を取ると遠くまで歩けなくなり、行きたいと思いながら、今もその声を聞いていない。
雨の中をすぐ出発した登蓮とは、比べものにもならない。
考えてみれば、これから後の時代の人は、たまたま井手を訪れる機会があっても、河鹿の声に心を留め、聞こうと思う人さえ少なくなるだろう。人の風流を愛する心も、もののあわれを感じる心も、年月とともに衰えていくからだ。
ある人いはく、「逢坂の関の清水といふは」
ある人が、こんな話をした。
「世間では、逢坂の関の清水と走井は同じ水だと思われています。しかし実際は違います。関の清水は別の場所にありました。
今は水が枯れ、その場所を知る人さえいません。ただ一人、三井寺の円実房阿闍梨という老僧だけが知っていました。しかし『その跡をご存じですか』と尋ねる人もいない。阿闍梨が人に会うたび、『私が死んだら、この場所を知る人はいなくなり、すべて忘れられてしまうだろう』と話している、と聞きました。
そこで阿闍梨の知人に紹介状を書いてもらい、建暦元年十月二十日過ぎに三井寺へ行き、阿闍梨に会いました。
阿闍梨は『こんな古いことを知りたいという人は、今ではめったにいません。珍しいことです。もちろん案内しましょう』といって、私を連れていきました。
関寺から西へ二、三町ほど進むと、道の北側の少し高くなった所に、高さ一丈ほどの石塔があります。その塔の東へ三段ほど下りた窪地が、昔の関の清水の跡でした。道から奥へも三段ほど入った所だったでしょうか。
今では小さな家の裏になり、水もなく、目を引くものは何もありません。それでも昔の姿が目に浮かび、なんとも風情のある場所に感じられました。
阿闍梨はさらに話しました。
『この清水に向かって北側には、薄い檜皮で屋根を葺いた家が、近年まで残っていました。誰の住まいだったかはわかりませんが、とても普通の人の家とは思えない建物でした』」
ある人いはく、「貫之が年来住みける家の跡は」
ある人によると、紀貫之が長年住んでいた家の跡は、勘解由小路より北、富小路より東の角にあるという。
また、業平中将の家は
在原業平の家は、三条坊門より南、高倉より西で、高倉通にかなり近い所にあった。
柱は普通のものとは違い、「粽柱」と呼ばれる古い形だった。ところが、いつの時代の誰がしたのか、後に普通の柱のように削られてしまった。長押もすべて丸く、角がすっかりなくなっていて、まさに遠い昔の建物に見えた。
後の時代に、安倍晴明が術で封じたため火事にも焼けず、長く残ってきたという。しかし末世になってはその力も及ばず、ある年の火事で焼けてしまった。
また、周防内侍の「我さへ軒のしのぶ草」と詠める家は
周防内侍が「私までもが軒の忍ぶ草のように、昔を懐かしく思う」と詠んだ家は、冷泉通と堀川通が交わる角の北西側にあった。
丹後の国与謝の郡に、浅茂川の明神と申す神います
丹後国与謝郡には、浅茂川明神という神がいる。国司が国内の神々を拝む行事でも御幣を受けるほど、正式に数えられた神だという。
言い伝えでは、昔の浦島太郎が神になったものだそうだ。実におもしろい話である。
玉手箱を慌ただしく開けてしまった浦島が、こうして神として跡を残したのだから、実は人々を救うために仮の姿で現れた菩薩のような存在だったのかもしれない。
逢坂の関の明神と申すは
逢坂関明神というのは、昔の蝉丸である。蝉丸が住んだ藁屋の跡を失わず、その場所で神となり、今も暮らしているのだろう。
今でも関の前を通るとき、ついでに社を見るだけで、昔の姿が目に浮かぶ。深草帝の使いとして、良少将と呼ばれた良峰宗貞が、蝉丸に和琴を習うため通っていたころのことまで思い出され、本当に感慨深い。
ある人いはく、「和琴のおこりは」
ある人が、こんな話をした。
「和琴の始まりは、六張りの弓の弦を鳴らし、それを神楽に使ったことだと伝えられています。ところが扱いが面倒なので、後の人が一つの琴に作り替えたというのです。
この話を裏付けるように、上総国から納められた品について記した古文書に『弓六張』とあり、その脇には『神楽用』と注記されていました」
実に貴重な話である。
河内の国高安の郡に
在原業平が河内国高安郡の女のもとへ通い、その土地に住んだことは、『伊勢物語』に書かれている。
ただ、その家の跡がどこなのかは長くわからなかった。ところが土地の人は「場所ははっきりしています」といい、今も「中将の垣内」と呼んでいる。そこが業平の住んだ跡だという。
人麻呂の墓は大和の国にあり
柿本人麻呂の墓は大和国にあり、初瀬へ参詣する道の途中にある。
ただし「人麻呂の墓はどこですか」と尋ねても、知っている人はいない。その土地では「歌塚」と呼ばれているからだ。
俊恵法師、語りていはく
俊恵法師が、こんな話をした。
「三条大相国が検非違使別当だったころ、二条帥と二人で、『紀貫之と凡河内躬恒はどちらが優れているか』を論じました。互いに言葉を尽くして争いましたが、いつまでたっても決着しません。
二条帥はしびれを切らし、『院のお考えを伺って、勝負を決めよう』と、白河院にお尋ねしました。
すると院は、『私に決められるものか。俊頼あたりに聞けばよい』とおっしゃいました。
二人が俊頼に会える機会を待っていると、二、三日後に俊頼がやって来ました。二条帥は、二人が議論を始めたところから白河院のお言葉まで、すべて話しました。
俊頼は何度もうなずきながら、ただ一言、『躬恒を軽く見てはいけません』といいました。
二条帥は思いがけない答えに驚き、『では貫之のほうが劣るのですか。はっきり決めてください』と迫りました。しかし俊頼は、やはり『躬恒を軽く見てはいけません』と繰り返すだけでした。
すると二条帥は、『お考えはよくわかりました。どうやら私の負けのようですね』と、とても悔しがりました。
たしかに躬恒の歌には、心の奥深くまで思いを沈めて詠む点で、ほかに並ぶ者がありません」
富家の入道殿に、俊頼朝臣候ひける日
俊頼朝臣が富家入道殿のもとに伺候していた日、加賀美の傀儡女たちがやって来て、歌を披露した。神歌を歌う段になって、こんな歌を歌い出した。
「世の中というものは、つらい我が身に付きまとう影なのだろうか。もう捨てたと思っても、決して離れてくれない」
俊頼はそれを聞くと、「私の歌も、とうとうここまで来たか」と感慨深そうに座っていた。それが、なんとも立派だった。
永縁僧正はこの話を聞くと、うらやましくなった。そこで琵琶法師たちにいろいろな物を与え、自作の「いつ聞いても初音のように新鮮な心地がする」という歌を、あちこちで歌わせた。当時の人々は、それを見て「なんと熱心な風流人だ」と評した。
今の敦頼入道も、その評判がうらやましくなったのだろうか。こちらは何も与えず、盲人たちに「歌え、歌え」と無理に歌わせたため、世間の笑いものになったという。
法性寺殿に会ありけるとき
法性寺殿で歌会が開かれ、俊頼朝臣も参加した。兼昌が講師として歌を読み上げていたが、俊頼の歌には作者名が書かれていなかった。
兼昌は俊頼の顔を見て軽く咳払いし、小声で「お名前は、何とお読みすれば」と尋ねた。俊頼は「そのまま歌だけ読んでください」と答えた。
そこで兼昌が歌を読むと、こう書かれていた。
「卯の花は、まるで私の白髪のように見える。賤しい家の垣根まで、すっかり年を取って白くなったことだ」
「年を取る」という意味の「年寄る」に、自分の名「俊頼」を重ねた歌だった。兼昌は声を立てずに泣き、何度もうなずいて感動した。
法性寺殿も話を聞くと、歌を取り寄せて御覧になり、たいへんおもしろがられたという。一首の中に題だけでなく自分の名まで自然に詠み込んだ機転は、やはり並外れている。
五条三位入道、語りていはく
五条三位入道、つまり藤原俊成が、こんな話をした。
「私が二十五歳のころ、『藤原基俊の弟子になろう』と思い、和泉前司道経に仲立ちを頼みました。道経と同じ車に乗り、基俊の家へ向かったのです。基俊は当時、八十五歳でした。
その夜は八月十五夜で、月がひときわ澄んでいました。主人の基俊はすっかり興に乗り、連歌の上の句を、いかにも重々しく口にしました。
『秋の真ん中、十五夜の月を見て』
そこで私は、こう付けました。
『あなたのお屋敷で、あなたと夜を明かしたい』
特に珍しい句ではありませんでしたが、基俊はひどく感心してくれました。
その後ゆっくり話をしていると、基俊は尋ねました。
『私は長く家にこもっていて、今の世の人の様子がよくわからない。最近では、誰が物のわかった人物とされているのですか』
私は『九条大納言伊通や中院大臣雅定などを、奥ゆかしい人物と思っております』と答えました。
すると基俊は『ああ、なんと気の毒な』といい、膝をたたき、扇を高く振り上げました。私が高く評価していた人々を、基俊はまるで認めていなかったのです。
こうして私は基俊と師弟の約束を結びました。しかし歌の詠みぶりについていえば、基俊も俊頼にはまったく及びません。俊頼は本当に並外れた歌人です」
ある人いはく、「基俊は、俊頼をば」
ある人によると、基俊は俊頼を「蚊虻の人」と呼んでいた。「蚊虻」は「文盲」と音が通じる。つまり俊頼を、漢学の教養がない人だとばかにしていたのである。
基俊はさらに、「それでも老馬が道を知っているように、長年の経験で和歌の道を歩いている程度ではあるのだろう」と評した。
それを伝え聞いた俊頼は、こういい返した。
「大江文時や大江朝綱には、すぐれた歌が一首もない。躬恒や貫之には、気の利いた秀句が一つもない」
漢詩文の大家だからといって秀歌を詠めるわけではなく、和歌の大家だからといって漢詩文風の秀句を作れるわけでもない。俊頼は、基俊の学問自慢そのものを皮肉ったのである。
またいはく、「雲居寺の聖のもとに」
また、こんな話がある。
雲居寺の聖のもとで「秋の暮れ」という題が出され、俊頼朝臣は作者名を隠して、こう詠んだ。
「たとえ夜が明けても、なお秋風よ、野辺を訪れておくれ。野の景色よ、どうかすっかり変わってしまわないでくれ」
基俊は作者が俊頼だと察した。もともと俊頼と張り合っていたので、口を挟む隙も与えない勢いで批判した。
「歌の第三句、つまり腰の句の末に『て』を置いて、よい歌になった例などない。流れがつかえて、実に聞き苦しいものだ」
俊頼は何もいい返さなかった。
ところがその座にいた伊勢公琳賢が、「少し変わった証拠の歌なら、一首覚えています」といい出した。
基俊は「ほうほう、聞かせてもらおう。どうせ大した歌ではあるまい」と応じた。
琳賢は『古今集』の名高い歌を、「桜散る木の下風は寒からで――」と、「で」の音をことさらに長く伸ばして読み上げた。
第三句の末に、まさに基俊が駄目だといった「て」の濁音が置かれている。基俊は顔が真っ青になり、うつむいたまま何もいえなくなった。俊頼はそれを見て、ひそかに笑っていたという。
いかなりける時にか、琳賢は基俊と仲の悪しかりければ
いつのころか、琳賢は基俊と仲が悪くなり、「一度だましてやろう」と考えた。
そこで『後撰集』の恋歌から、世間に知られていない珍しい歌ばかり二十首を選び、左右に組み合わせて基俊のもとへ持っていった。
「ある人が、少し変わった歌合をしました。どちらを勝ちにすればよいかわからないので、判定していただけませんか」
基俊は、それが『後撰集』の歌だとは夢にも思わない。思う存分、あれこれと欠点を挙げて批判した。
琳賢はその判詞をあちこちへ持ち歩き、人々に見せて回った。
「左衛門佐殿にお会いしたら、『後撰集』を選んだ梨壺の五人など問題にならないほどの判定をしてくださいました。ああ、なんと昔の歌仙よりも優れた方でしょう。ぜひこれを御覧ください」
見る人はみな、大笑いした。後で話を聞いた基俊は腹を立てたが、もうどうにもならなかった。
俊恵いはく、「法性寺殿にて歌合ありけるに」
俊恵が、こんな話をした。
「法性寺殿で歌合があったとき、俊頼と基俊が判者を務めました。作者名は伏せ、その場で判定していきます。俊頼の歌に、こんな一首がありました。
『残念なことだ。雲の中に隠れ住む竜でさえ、心から見たいと願う人には姿を見せたというのに、あの人は私に会ってくれない』
基俊は「たつ」を鶴の古名「たづ」だと思い込みました。
『鶴が住むのは沢だ。空の雲の中に住むものか』
そう批判して、俊頼の歌を負けにしました。しかし俊頼は、その場では何もいいませんでした。
その夜、法性寺殿が『今夜の判定の言葉を、それぞれ書いて提出せよ』と命じました。そこで俊頼は、こう書きました。
『これは鶴ではなく、竜です。昔、ある人が竜を見たいと深く願ったため、その人の前に竜が姿を現したという話を詠んだものです』
基俊は博識な人でしたが、考えすぎて間違えたのでしょうか。それにしても、基俊には深く考えず人の歌を批判する癖があり、そのせいで何度も失敗していました」
ある人、女のもとより文を得たり
ある男のもとへ、女から手紙が届いた。手紙には和歌が二首書かれ、「この返歌を作ってください」と頼まれた。
しかし見れば、二首とも『古今集』にある恋歌だった。相手が自作した歌ではないのだから、普通に返歌を作るわけにはいかない。
私はどうすればよいか考え、男が伝えたい気持ちに合う古歌を二首選んで教え、それを書いて送らせた。
後にこの話をある老人にすると、たいへん感心していった。
「それは見事だ。昔の風流人が、わざわざ好んでやった方法である。知らずに考え出したことが、昔の作法とぴたりと一致した。実に優雅なことだ」
勝命談りていはく
勝命が、こんな話をした。
「身分ある方の邸などで、和歌をよく知らない女房から突然歌を詠みかけられ、返事に困ることがよくあります。そういうときには、昔からの対処法があります。
まず聞こえなかったふりをして、何度も聞き返すのです。そうすれば女のほうも恥ずかしくなり、最後にははっきりいわなくなります。そのやり取りをしている間に返歌を思いつけば、その場で答えればよい。どうしても詠めそうになければ、最後までよく聞き取れなかったふりをして終わらせます。これが一つの方法です。
また、宮仕えを始めたばかりの女でも、場慣れした女でも、『添え言』といって、こちらの知らない歌の一、二句を会話に交ぜてくることがあります。元の歌がわかれば、それに合わせて返せばよい。しかし知らない歌なら、ただ『まさか、それほどには思っていらっしゃらないでしょう』といっておけばよいのです。
この返事なら、たいていどんな歌にも外れません。『あなたを深く思っている』という歌にも、『つらい、恨めしい』という歌にも、それなりに通じます。
もし相手が『あなたなんて嫌いだ』という意味でいったのなら、こちらが思い上がった返事をしたようにも見えますが、それも男女のしゃれた冗談として済ませられるでしょう」
ある人いはく、「田上の下に曽束といふ所あり」
ある人によると、田上の南に曽束という所があり、そこに猿丸大夫の墓があるという。荘園の境界にあたり、そのことが土地の証文にも書かれているため、地元の人はみな知っている。
また、志賀の郡に
志賀郡では、大きな道から少し入った山際に、黒主明神という神がいる。これは昔の歌人、大友黒主が神になったものだという。
また、御室戸の奥に
御室戸のさらに奥、山の中へ二十町あまり入った所には、宇治山の喜撰法師が住んだ跡がある。家はもうないが、堂の礎石などがはっきり残っている。
こうした場所は、ぜひ実際に訪ねて見るべきである。
ある人いはく、「宮内卿有賢朝臣」
ある人が、こんな話をした。
「宮内卿有賢朝臣が、当時の殿上人七、八人を連れ、大和国葛城のあたりへ遊びに行ったことがありました。
途中で、荒れ果ててはいるものの、大きく堂々としたお堂が見えました。不思議に思い、出会う人ごとに建物の名を尋ねましたが、誰も知りません。
そうしていると、ひどく髪の白い老人が一人現れました。『この老人なら、何かわけを知っているだろう』と思って尋ねると、『これは豊浦寺と申します』と答えました。
人々は『それはすばらしい』と何度も感動し、『では、この近くに「榎の葉井」という井戸がありますか』と尋ねました。
老人は『すっかり涸れて水もありませんが、今も残っています』といい、お堂から西へ、それほど離れていない場所まで案内してくれました。
人々は大喜びし、その場に車座になって、催馬楽の「葛城」を何十回も歌いました。それから着ていた衣を脱ぎ、褒美として老人にかぶせました。
老人は思いがけない幸運に出会い、喜んで何度も礼をし、立ち去りました」
近年、土御門内大臣の家で、毎月、柿本人麻呂の肖像を掛けて歌会を開いていたころ、天皇がひそかにお出ましになることもあった。その歌会で「古寺の月」という題が出たので、私はこう詠んで差し上げた。
「すっかり古びた豊浦寺。その榎の葉井には水が涸れた今も、月の光だけが白い玉となって残っている」
五条三位入道はこれを聞くと、しきりに感心していった。
「なんとも優雅にお詠みになったものだ。私も、これぞという機会に出そうと思っていた題材なのに、残念ながら先を越されてしまった」
豊浦寺と榎の葉井は催馬楽の詞にあるため、誰でも知っている。しかし、これ以前に和歌へ詠み込んだ例は見当たらない。その後になって、冷泉中将定家が歌に詠んでいる。
俊恵、物語のついでに、問ひていはく
俊恵は話の途中で、私に尋ねた。
「遍昭僧正に、こんな歌があります。
『母は、私がこうなることを願って、ぬばたまのように黒い髪を撫でて育ててくれたのだろうか』
この歌の中で、どの言葉が特に優れていると思いますか。感じたままに答えてください」
私は答えた。
「『こうなれと思って』といったあと、『ぬばたまの』と置いて、そこでふっと調子を休めたところが、特にすばらしいと思います」
すると俊恵は喜んだ。
「そのとおり、そのとおり。あなたも、もう歌の奥深い境地に入っています。歌人の目というのは、まさにこういうところに現れるのです。
月をいう前に『ひさかたの』と置き、山をいう前に『あしひきの』と置くのは、ごく普通の使い方です。しかし、それを歌の最初の五文字に置くだけでは、大しておもしろくありません。
ところが第三句の終わりにうまく続け、言葉を一度休ませるために置くと、歌に品格が生まれ、装いを整える飾りになります。昔の人は、これを『半臂の句』と呼びました。
半臂という装束は、それ自体に大きな実用性があるわけではありませんが、正装の中では大切な飾りになります。和歌はたった三十一文字です。その短さで思いのすべてをいい切ろうとするなら、普通は一文字でも無駄にできません。しかし半臂の句だけは、一見意味が薄くても、必ず歌に品を与え、その姿を飾ります。
姿の華やかさが極まると、言葉にしなかった余情まで自然に生まれます。これを理解できるようになることを、『歌の境地に入る』というのです。
もう一度この歌をよく考えてください。半臂の句も大切ですが、結局のところ本当の眼目は、その前の『とてしも』という四文字にあります。この言葉がなければ、半臂の句もこれほど効かなかったでしょう」
そもそも、楽の中に蘇合といふ曲あり
雅楽には「蘇合」という曲がある。この曲を舞うときは、第五帖まで一帖ずつ区切って舞い、それから「破」を舞う。
本来なら続けて「急」を舞うところだが、「急」の第一反は、きちんと舞わない。形だけ拍子に足を合わせ、ときどき動きを休めながら進み、第二反から本格的に美しく舞い始める。
この最初の抑えた動きは、和歌でいう「半臂の句」とまったく同じ働きをする。
和歌と音楽は別の道だが、すばらしいものの原理は自然に通じ合うのだろう。両方を知らない人には、この共通点はわからない。少しでも二つの道を心得た者が考えると、とてもおもしろい。
だから蘇合を「半臂の句を持つ舞」と呼んでもよいし、先ほどのような和歌を「蘇合の姿」と呼んでもよいだろう。
俊恵いはく、「歌は秀句を思ひ得たれども」
俊恵がいった。
「和歌では、すばらしい一句を思いついても、残りの部分をそれに釣り合わせるのが難しいのです。
後徳大寺左大臣には、こんな歌があります。
『名児の海を霞の間から眺めると、沖の白波が沈む夕日を洗っている』
また頼政卿には、こんな歌があります。
『住吉の松の木の間から眺めると、月が淡路島山へ今にも落ちかかっている』
二首とも、上の句が思いどおりに仕上がらなかった歌です。『夕日を洗う』や『月が落ちかかる』は、実に見事な言葉です。それなのに第二句、第三句を、その言葉に釣り合うほどには作れなかった。なんとも残念なことです」
二条中将談りていはく
二条中将雅経が、こんな話をした。
「和歌には、『この言葉さえなければよいのに』と思う箇所があります。
兼資という人に、こんな歌があります。
『月は知っているだろうか。このつらい世の中のむなしさを。月を眺めながら、私はあと何度、その満ち欠けを見るのだろう』
なかなかよく詠めていますが、『世の中』の『中』という一字がひどく悪い。ここは、ただ『つらい世のむなしさ』といいたいところです。
また頼政卿には、こんな歌があります。
『澄みながら空へ上る月の光を横切って、秋の雁が渡っていく。その声のなんと寒々しいことか』
この歌も『光』という言葉がよくありません。『月を横切って』とすれば、もう少し鮮やかに聞こえたでしょう。
こういう言葉を、歌の中の小さな傷というのでしょう。深く考え抜いた人でなければ、なかなか見分けられません」
覚盛法師のいはく
覚盛法師がいった。
「和歌には、少し荒々しく、最後まで形が整っていないように見える歌もあります。それを細かく直しすぎると、わずかに光っていたところまで消え、最後には何の味もない小さな歌になってしまいます」
まったくそのとおりだと思う。
季経卿に、こんな歌があった。
「何年たっても借りた種を返そうとしない小さな山田には、もう種を貸す人もいないだろう」
優雅な歌ではないが、ぴりりと利いたところがあり、これはこれで一つの型になっていた。
何年も後に季経の家集を見ると、同じ歌がこうなっていた。
「賤しい男が借りた種を返そうとしない小さな山田に、これ以上どうして種を貸せるだろう」
後から直したのだろうか。前の歌より、ひどく劣って見える。歌を直すときには、よくよく注意しなければならない。
円玄阿闍梨といひし人の歌に
円玄阿闍梨という人に、こんな歌がある。
「夕暮れに難波の浦を眺めると、沖の釣舟が霞の中に浮かんでいる」
歌そのものは優雅だが、これを詠んだ人の力量を、かえって低く見せてしまう歌である。
なぜなら「霞の中に浮かぶ沖の釣舟」という、これほど見事な下の句を思いついた人が、どうして上の句を「夕暮れに難波の浦を眺めれば」という、ありふれた言葉で済ませてしまったのかと思うからだ。何の工夫もなく、見るべきところがない。
同じ難波の浦、同じ夕暮れを使うとしても、何か新しく感じさせるつなぎ方はあったはずだ。あまりに不器用な上の句を見ると、いったいどうやって下の句だけを思いついたのか、不思議でならない。
愚詠の中に
私のつたない歌の一つに、こういうものがある。
「時雨には冷たく濡れずにいた松の色を、今朝の初雪が降り返して白く変えてしまった」
これを見た俊恵は批判した。
「ここは普通に『時雨にも変わらず見えた松の色』といえばよいのです。無理にひねった表現を作ったため、かえってそこだけが耳に引っかかります。
ある歌合で、霞という題に、私はこう詠みました。
『風の止んだ夕方、由良の瀬戸を渡る漁師の小舟が、霞の中へ漕ぎ入っていった』
同じ歌合で清輔朝臣も、ほとんど同じような歌を詠みました。ただ、清輔は『霞の底へ』と表現したため、ある人に『まるで霞が水をたたえた入り江のように聞こえる』と批判されました。
特に見どころのない部分は、普通の言葉でさらりと流せばよいのです。考えすぎると、かえって不自然な節ができてしまいます。
糸を撚る人が、きれいに仕上げようとして撚りすぎると、そこにこぶができるようなものです。その加減をうまく見きわめる人を、名人というのでしょう。
題材や発想は、ある程度探せば見つかることもあります。しかし、こういう細部にこそ本当の上手と下手の差が出ます。だから、にわか歌人の思いついた秀句には、多くの場合どこか足りないところが出てくるのです」
静縁法師、みづからが歌を語りていはく
静縁法師が、自分の歌について尋ねた。
「私はこう詠みました。
『鹿の声を聞くと、私まで思わず泣いてしまった。この谷の庵は、なんとも住みづらい所だ』
いかがでしょう」
私は答えた。
「なかなかよいと思います。ただ『思わず泣いてしまった』という表現が、少し素朴すぎて、どうかと思います」
静縁は不満そうにいった。
「私はその言葉こそ、この歌のいちばん大切なところだと思っているのです。その批判は、あまりにも意外です」
「ひどい批判をされた」と思った様子で、静縁は帰ってしまった。
私は「聞かれたからといって、余計なことをいってしまった。もう少し相手の気持ちを考えるべきだった」と後悔した。
十日ほどたつと、静縁がまたやって来た。
「先日の歌を批判されたとき、正直にいえば、私は納得できませんでした。本当に私が間違っているのか、それともあなたの批判が悪いのか、大夫公のもとへ行って決めてもらおうと思いました。
そこで歌を見せたところ、『どうしてあなたは、こんな子どもじみた歌を詠むのです。「泣いてしまった」とは何事ですか。そこまで幼い心なのですか』と、きつく叱られました。
やはり、あなたの批判が正しかった。私が間違って受け取っていたのです。それで、おわびに参りました」
そういって、静縁は帰っていった。自分の誤りを素直に認める、その心の清さは本当に珍しい。
俊恵語りていはく
俊恵が、こんな話をした。
「亡き左京大夫顕輔は、こう話していました。
『私は、『後拾遺集』の恋歌では、次の歌を代表歌と思っている。
「夕暮れになると、昔はあの人が来るのを待っていた。今ではただ、私のもとを離れて、どこへ向かっているのだろうと思いやるばかりだ」
『金葉集』では、次の歌を最も優れた恋歌としたい。
「あの人を待った夜が更けていくのを、どうしてあれほど嘆いたのだろう。今の私は、あの人を諦めたまま日々を過ごしているというのに」
そして私が選んだ『詞花集』では、次の歌をその二首に並ぶものとしたい。
「あの人に忘れられ、人目に触れなくなったことだけが悲しみで、恋しいという思いまで消えてくれたならよいのに」
この歌も二首にそれほど劣らず、悪くないと思う』
けれども私、俊恵は、自分の『歌苑抄』では、次の歌を代表的な恋歌と思っています。
『たった一夜だけといって離れて寝た床の小さな敷物に、そのまま幾日も過ぎ、とうとう塵まで積もってしまったことだ』
いかがでしょうか」
この話を心に留めて、あらためて『新古今集』を見てみると、私の心に響く恋歌が三首あった。どれが一番とも決めがたい。後の人に選んでもらいたい。
「このまま、むなしく眠れない夜の月ばかり眺めながら、命が尽きてしまうのだろうか」
「野辺の露は、色もなくこぼれたのだろうか。それとも荻の上を吹く風が、私の袖から涙を運んだのだろうか」
「帰り道の月だと、あの人は眺めているのだろうか。私には、待ち続ける夜のまま空に残る有明の月なのに」
俊恵は、さらにこんな話をした。
「顕輔卿に、こういう歌があります。
『夢の中ではあの人に会えた。現実には何の甲斐もないけれど、そのはかない夢だけが、今の私を生かしている』
俊頼朝臣はこの歌に感心して、『これは椋の葉で磨いたあと、鼻の脂まで塗って仕上げたような、念入りでつややかな歌だ。普通の人なら最後を「はかない夢が嬉しかった」と詠むだろう。それを「夢こそ命だ」とまでいった。いったい誰に、こんな詠み方ができるだろう』と、ほめていました」
俊恵に和歌の師弟の契結び侍りし始めの言葉にいはく
私が俊恵と和歌の師弟の約束を結んだとき、俊恵は最初にこういった。
「和歌には、何より大切な心得があります。私を本当に師と思うなら、これだけは破らないでください。あなたはきっと末の世に名を残す歌人になる方ですし、こうして師弟の約束を結んだからこそ申し上げます。
どれほど世間に認められるようになっても、『自分はもう和歌を悟った』と思い、得意顔で歌を詠んではいけません。絶対にしてはならないことです。
後徳大寺大臣は、並ぶ者のない名手でした。しかし、この心得を知らなかったため、今では詠みぶりが後退してしまいました。前大納言と呼ばれていたころのように、和歌の道に打ち込み、人に恥じないよう自分を磨き続けていたなら、今ごろ肩を並べる人はほとんどいなかったでしょう。
ところが『自分はもう頂点に達した』と思ったのでしょう。最近の歌は少しも深く考えず、ときには感じの悪い言葉まで混じっています。それでは秀歌が生まれるはずもありません。秀歌がなければ、人からも認められなくなります。
歌は、その場では作者の人柄や身分によって、よくも悪くも聞こえます。しかし翌朝、静かな気持ちでもう一度読めば、やはり発想が深く、姿が素直な歌こそ、長くよく見えるものです。
自分のことをいうのは愚かな例ですが、私は今でも初心者だったころと同じように、一首一首を考え抜いています。自分の判断を後回しにし、たとえ相手がどんな人でも、ほめられたり批判されたりすれば、その意見を聞きます。昔の人に、そう教わったからです。
この心得を守ってきたおかげでしょうか。私はすっかり年を取りましたが、それでも『俊恵はもう詠みぶりを失った』という人はいません。特別な秘密があるわけではありません。ただ、この一つの教えを破らなかったからです」
歌は名に流れたる歌詠みならねど
和歌は、名高い歌人でなくても、道理を第一にする身近な芸である。そのため、ごく普通の人が聞いても、よい歌と悪い歌は自然にわかる。
長守が、こんな話をした。
「自分の不遇を嘆く歌をたくさん詠んだ中に、冗談めかして、こんな歌を作りました。
『火をおこさない夏の炭櫃のように、誰にも相手にされない、なんと寂しい我が身だろう』
すると十二歳の娘がそれを聞いて、『火がないのなら、冬の炭櫃のほうがもっと寂しいでしょう。どうして、そうお詠みにならなかったのですか』といいました。子どもに急所を突かれて、私は一言も返せませんでした」
なんともおもしろい話である。
また、心にいたく思ふことになりぬれば
心の底から深く思うことがあれば、歌人でなくても、歌は自然に口から生まれる。
『金葉集』に「詠み人知らず」として、次の歌があったはずだ。
「我が身のつらさを思いほぐそうとしても、冬の長い夜に少しも止まらず流れるのは、私の涙だった」
この歌は、仁和寺の淡路阿闍梨という人の妹のもとにいた、まだ一人前ともいえない女房が、世の中をひどくつらく思って詠んだものだ。
もともと歌人ではなかったので、ほかに詠んだ歌は一首もない。ただ思いがあふれ、自然に言葉になったのだろう。
俊恵いはく、「和歌会の有様の」
俊恵がいった。
「歌会というものが本当に本格的で、しかも優雅に感じられた例は、近年なら範兼卿の家の会に勝るものはありません。
主人の範兼自身が立派な人で、客を心からもてなし、どんな場面でも冗談半分にはしませんでした。人に恥じないよう和歌の道を大切にし、ほめるべき歌には感動し、批判すべき歌にはきちんと意見をいう。何をするにも華やかさがあり、乱れたところなど少しもありませんでした。
参加する人々も自然にその姿勢に従い、『何とかよい歌を詠もう』と真剣になります。だから実際によい歌も生まれました。ほんの小さくても新しい発想を思いつけば、努力した甲斐があったと感じ、気持ちが奮い立ちました。
前もって題が出ている会では、全員が歌を書いて懐に入れてきたため、当日の儀式が無駄に長引くこともありません。その場で題が出る会なら、各自があちこちへ静かに退き、深く考えている姿まで、優雅で理想的でした。
そのため大したことのない歌でさえ、会全体の雰囲気に飾られ、どこか美しく聞こえたものです」
このごろ、人々の会に連なりてみれば
俊恵は続けて、近ごろの歌会をこう批判した。
「最近の歌会に出てみると、まず会場のしつらえからして乱れています。参加者の服装はだらしなく、一人一人の態度も表情も、まとまりがありません。
十日も二十日も前に題が出ているのに、それまで何をしていたのでしょう。当日になって初めて歌を考え、むやみに夜を更かして場をしらけさせます。
歌を読み上げている最中なのに、時間も考えず、それぞれ勝手に話をする。先輩を敬う気持ちもなく、誰もが『自分はもう和歌を極めた』という顔をしている。それなのに、本当に歌のあり方を知って、正しくほめたり批判したりできる人はいません。
まれに古老が歌の良し悪しを判定しても、周囲の顔色を読み、えこひいきを第一にします。そんな場では、歌を考えること自体がむなしくなる。よい歌を詠んでも、誰にも知られない夜道で錦を着るのと同じで、何の甲斐もありません。
声高く歌を読むのがよいと思い、首筋を突っ張らせ、みんなで声を無理にそろえる。その様子も実に不愉快です。にぎやかにすれば品がなく、優雅に見せようとすれば、わざとらしくなる。
結局、心の底から和歌を好きなのではなく、ただ人のまねをして、和歌好きのふりをしているからなのでしょう」
五条三位入道いはく
五条三位入道は、こういった。
「俊恵は今の世の名人です。しかし、それでも俊頼には及びません。俊頼は間を置かず、あらゆるところまで思いが届き、一つの型だけでなく、さまざまな歌を詠みました。とても普通の人の力が及ぶ相手ではありません。
今の世では、頼政こそ実にすぐれた名人です。頼政が同じ席にいるだけで、誰もが意識してしまい、『この人に一つ上を行かれた』と感じさせられます」
俊恵いはく、「頼政卿はいみじかりける歌仙なり」
俊恵がいった。
「頼政卿は本当にすぐれた歌人でした。心の底まで和歌そのものになり、いつも歌を忘れず、考え続けていました。
鳥が一声鳴いても、風がそっと吹いても、そこに歌の趣を探します。まして花が散り、葉が落ち、月が出入りし、雨や雪が降れば、立っていても座っていても、起きても寝ても、歌の発想をめぐらせないときがありません。
あれほどの秀歌が生まれたのも当然です。大切な場で評判になった歌の多くは、普段から作りためておいたものだったとも聞きます。
普通の歌会で人々と一緒に座り、歌を口ずさみ、良し悪しの理由を話している様子からも、和歌を深く心に入れていることが伝わりました。頼政がいるだけで、その座のすべてが華やかに見えたものです」
勝命いはく、「清輔朝臣」
勝命がいった。
「清輔朝臣の和歌に関する博識は、並ぶ人がいません。『さすがの清輔も、これはまだ知らないだろう』と思うことを、わざわざ苦労して探し出して尋ねても、清輔にとってはすべて、とうの昔に論じ尽くした話ばかりでした。
正式な場に出す歌を詠むときには、『大切な歌を作るなら、何といっても古い歌集を読まなくては』といい、『万葉集』を何度も繰り返し見ていました」
俊恵いはく、「五条三位入道のみもとにまゐでたりしついでに」
俊恵が、こんな話をした。
「五条三位入道、つまり俊成卿のところへ伺ったとき、お尋ねしました。
『御自分の歌の中では、どれを最も優れているとお思いですか。世間の人はいろいろに評していますが、私は他人の評価を聞きたいのではありません。御本人から、はっきり伺いたいのです』
すると俊成卿は、次の歌を挙げました。
『夕暮れになると、野辺を渡る秋風が身にしみる。深草の里では、鶉が寂しげに鳴いている』
『私は、この歌を自分の代表歌だと思っています』とおっしゃいました。
そこで私は、さらに尋ねました。
『世間では、次の歌のほうが優れていると広く申しておりますが、どうお考えですか。
「心に浮かぶ桜の姿を先に立たせ、いくつもの峰を越えて来た。麓から白雲に見えていた、あの花を訪ねて」』
俊成卿は答えました。
『さあ、世間ではそう決めているのでしょうか。私は知りません。やはり自分では、先ほどの歌と比べものにならないと思っています』」
かの歌は「身にしみて」といふ腰の句の
俊恵は内々に、俊成の代表歌をこう批判した。
「あの歌は、第三句の『身にしみて』が、実に残念です。
あれほどの歌なら、景色だけをさらりと描き、読む人に『きっと秋風が、言葉にできないほど身にしみたのだろう』と思わせたほうが、奥ゆかしく優雅になります。
ところが、せっかく見事に運んできた歌の一番大切なところを、『身にしみる』とはっきり説明してしまった。そのため、まるで浅い歌になってしまいました」
そのついでに
その話のついでに、俊恵はいった。
「私の歌では、次の一首を、あのような余情のある歌にしたいと思っています。
『吉野の山を雲が一面に覆い、雪が降ると、麓の里では時雨が降り続いている』
もし後の世に、この歌について疑問をいう人がいたら、『俊恵本人はこういっていた』と伝えてください」
顕昭いはく、「このごろの和歌の判は」
顕昭がいった。
「近ごろ歌合の判者として、俊成卿と清輔朝臣に並ぶ人はいません。しかし二人とも、えこひいきをする判者でした。ただ、そのやり方がまったく違っていました。
俊成卿は、自分でも『私は時々、公平でない判定をしますよ』と認めているような態度でした。人に指摘されても強く争わず、『世の中とはそういうものですから。そうしないわけにもいかないでしょう』といった調子でした。
一方の清輔朝臣は、表向きは実に清廉な人のように振る舞い、えこひいきなど一切していない顔をしていました。誰かが判定に疑問を示すと、急に顔色を変えて激しく反論します。みんな事情を察していたので、やがて誰も何もいわなくなりました」
大方は、歌を判するには作者を隠すといひながら
そもそも歌を判定するときは、作者名を隠すことになっている。しかし本当に何も知らないまま判定するのは、たいへん危険だ。
反対に作者名が公になっていると遠慮が生まれ、表面上だけその歌を負けにすることも多い。
だから理想は、表向きは作者を知らないことにしながら、内々には少しだけ察している状態なのである。
この道に心ざし深かりしことは
和歌の道への志の深さでは、道因入道に並ぶ人はいない。
七、八十歳になっても「どうか秀歌を詠ませてください」と祈るため、毎月歩いて住吉大社へ参詣した。本当にめったにないほどの熱心さである。
ある歌合で、判者の清輔が道因の歌を負けにした。すると道因は、わざわざ清輔の家へ行き、本気で涙を流しながら恨み言をいった。
清輔はどう答えてよいかわからず、「これほど重大な事件に出会ったことはありませんよ」と、後に人へ語ったという。
道因が九十歳ほどになると、耳もかなり遠くなっていたようだ。それでも歌会では、わざわざ歌を読み上げる講師のすぐそばまで座を分けてもらい、脇にぴったり寄り添って座った。
年老いた姿で耳を傾け、ほかのことには目もくれず、一心に歌を聞く。その様子は、とても形だけの和歌好きには見えなかった。
『千載集』が編まれたのは、道因が亡くなった後だった。それでも「これほど和歌に志の深い人だったのだから」と特別に配慮され、十八首も選ばれた。
すると道因が夢に現れ、涙を流しながら喜んで礼をいった。選者はその夢にいっそう心を動かされ、さらに二首を加えて、全部で二十首にしたという。
それだけ報われるのが当然の人だったのだろう。
近ごろは、隆信・定長と番ひて
近年、藤原隆信と藤原定長は一組のように扱われ、若いころから同じくらいの歌人として評判になっていた。
俊恵の家で、百首を十首ずつ十回に分けて詠む「十座の百首」が行われたとき、二人は競い合い、それぞれ力を尽くした。実際、どちらも互いに劣らなかった。
俊成卿が十首歌を詠ませたときも、二人はそろってよい歌を詠んだ。俊成卿はこういった。
「世間で二人を一組にするとは聞いていたが、これまでは『それほどのことだろうか』と思っていた。しかし、この十首を見ると、なるほど互いに引けを取らないと思える」
ところが九条殿が右大臣だったころ、人々に百首歌を詠ませたことがあった。隆信も作者に選ばれたが、公務の合間で日数も少なく、何かと慌ただしかったため、さほどよい歌を作れなかった。
そのころ定長は出家して寂蓮と名乗り、時間にも余裕があった。そこで無題の百首をゆっくり考え、入念に磨いて提出した。その出来が比べものにならないほど優れていたため、そのときから「寂蓮に並ぶ者はいない」といわれるようになった。
天皇のおそばでは、「どこの愚か者が、これほど違う二人を同じくらいだといい始めたのだ」とまでいわれたという。
後に隆信はひどく悔しがり、こういった。
「もっと早く死んでいれば、そのまま立派な歌仙として名を残せたのに。無駄に長生きしたため、和歌の道でこんな恥までさらしてしまった」
近く女歌詠みの上手にては
近年の女流歌人では、殷富門院大輔と小侍従が名人として、それぞれに評判だった。
大輔は、ものをよく知り、どっしりと芯のある歌を詠む点で勝っていた。小侍従は、華やかで、はっと目を引く表現を歌の中へ置くことに優れていた。
なかでも小侍従は、相手の歌に返歌をするのが抜群にうまかった。
俊恵法師は、「相手の歌に詠まれた内容の中から、返事に使えそうなところを見事に見抜き、そこを裏返して返す。その機転に並ぶ人はいない」といっていた。
今の御所には、俊成卿女と聞こゆる人
今の御所には、俊成卿女と呼ばれる人と宮内卿という、二人の女房がいる。どちらも昔の名歌人に恥じないほどの名手だが、歌の作り方はまったく違っていた。
人から聞いたところでは、俊成卿女が正式な場に出す歌を作るときは、まず何日もかけて、さまざまな歌集を繰り返し読む。思う存分読み終えると、すべて片づけ、灯火をかすかにともし、人を遠ざけ、物音一つない中で静かに考えたという。
一方の宮内卿は、初めから終わりまで本や巻物を周囲に広げた。切灯台の火をすぐ近くに置き、思いつくたびに書き留め、昼も夜も休まず考え続けた。
宮内卿は歌をあまりに深く考えすぎて病気になり、一度は死にかけたことさえあった。父の禅門は、「何事も、生きていてこそできるのだ。どうして病気になるまで考えるのか」と止めたが、宮内卿は聞かなかった。
若くして亡くなってしまったのも、こうした無理が積み重なったためだろうか。
寂蓮入道は、宮内卿のこの熱心さを特に高く評価していた。
兄人の具親少将の歌に心を入れぬをぞ
その一方で寂蓮は、兄の具親少将が和歌に本気で取り組まないことを嫌っていた。
「いったい何の力で身を立てた人だから、あんな態度でいられるのでしょう。たまに宿直所へ行って様子を見ると、大切な御前の歌会が近い時期でさえ、『弓だ、鏑矢だ』と道具を持ち込み、職人を目の前に座らせて細工ばかりさせています。歌を大事なものと思っていないのです」
寂蓮は、それを残念なことだといっていた。
御所に朝夕候ひしころ
私が朝夕、御所に仕えていたころ、いつもとは違う珍しい歌会があった。
「六首すべてを違う姿で詠みなさい。春と夏の歌は太く雄大に、秋と冬は細く枯れた味わいに、恋と旅は艶やかで優雅に詠むこと。もし思うように詠めないなら、その理由を正直に申し上げなさい。歌の型をどこまで理解しているか見るためです」
そう命じられたため、たいへんな難題になり、半数ほどの人は辞退した。もともと力量の足りない人は召されてもいなかった。
結局、その座に参加したのは、殿下良経、大僧正慈円、定家、家隆、寂蓮、そして私の、わずか六人だった。
私が「太く雄大な歌」として詠んだのは、次の二首である。
「雲まで誘って吹く空の春風が、花の香を運んでくる。高間の山は今、花盛りなのだ」
「翼を打ち鳴らし、今こそ鳴いてほしい、郭公よ。卯の花を照らす月夜は、もう盛りを過ぎようとしている」
「細く枯れた味わいの歌」は、次の二首である。
「宵のわずかな間にも、月の桂は薄く紅葉していく。まだ光が照り映えるほどでもない、初秋の空よ」
「寂しさは、なお消えずに残っている。人の通う跡も絶えた落葉の上に、今朝は初雪まで降った」
「艶やかで優雅な歌」は、次の二首である。
「隠さずに伝えておくれ。『涙をこらえきれなかった』と。恋の思いに濡れる私の袖が、朽ち果ててしまわないうちに」
「旅立つ暁の別れから、私の旅衣は涙にしおれた。最後には宮城野の露に濡れて、すっかりしおれてしまうのだろうか」
この中に、春の歌をあまた詠みて
この六首のうち、春の歌は何首も下書きを作り、寂蓮入道に見せた。寂蓮が「高間の山の歌がよい」と印を付けたので、私はそれを清書して提出した。
いよいよ歌が読み上げられる段になり、聞いてみると、寂蓮自身も高間山の花を詠んでいた。
自分の歌に似ているから私の歌を別のものに変えさせよう、などとは少しも思わず、ありのまま公平に判断してくれたのである。本当にめったにない、立派な心だ。
寂蓮は普段の人柄まで、特別にすばらしい人物とはいわれていなかった。しかし自分が身につけた和歌の道では、心のあり方までよくなっていたのだろう。
以前、宣陽門院の供花の歌会で、「常夏の契りは久しい」という題に、私は「揺るぎなく続くこの世の、大和撫子よ」と詠んだ。
すると、ある先輩が私の歌を見て、「私の歌に似ている。別の歌に詠み直しなさい」と無理に迫った。仕方なく、私はその場で作り直した。
寂蓮とは、まったく比べものにならない心である。
それにしても、人の長所をほめるつもりが、いつの間にか自分が名誉を得た歌会の話を長々と書いてしまったのは、おかしなことだ。しかしこの本の役得として、少しくらい自慢を混ぜても許してもらえるだろうか。
ある人いはく、「俊頼の髄脳に」
ある人が、こんな疑問を口にした。
「『俊頼髄脳』によれば、定頼中納言が公任大納言に、『和泉式部と赤染衛門では、どちらが優れていますか』と尋ねたそうです。
公任はこう答えました。
『和泉式部は、「いっそ、この小屋を人と呼びたいのに。幾重にも葦で葺いた屋根には、隙間一つない」と詠んだ人だ。赤染衛門と同列には置けない』
定頼は重ねて、『和泉式部の歌なら、「仏の光よ、はるか遠くまで照らせ。山の端の月のように」という歌を、世間では秀歌としています』といいました。
すると公任は答えました。
『そこが世間の人にはわかっていない。「暗い所から、さらに暗い所へ入る」という発想は経典の言葉なのだから、珍しくない。後半も、その言葉に導かれれば簡単に作れる。
それより「この小屋を人と呼びたいのに」といっておいて、「葦の八重葺きに隙間はない」と続けた発想こそ、普通の人には思いつけない』
この話には、二つ疑問があります。
一つ目は、公任が和泉式部を上だと判断したのに、当時の正式な歌会などを見ると、赤染衛門は盛んに評価され、和泉式部の歌は選から漏れることが多いことです。
二つ目は、和泉式部の二首を今あらためて読むと、『はるかに照らせ』の歌のほうが、言葉も姿も格段に高く、情景も浮かびます。なぜ公任は、もう一首のほうを高く評価したのでしょう。どちらもよくわかりません」
そこで私は、試しにこの疑問を解いてみよう。
和泉式部と赤染衛門の優劣は、公任一人だけの判断ではない。世間全体が、歌の才能では和泉式部のほうが優れていると思っていた。
ただし、作者が生きている時代には、作品の評価がその人の人柄に左右されることがある。和歌の才能では、和泉式部は並ぶ者のない名人だった。しかし普段の振る舞い、身のこなし、心の持ち方では、赤染衛門に及ばなかったのだろう。
『紫式部日記』を見ると、だいたい次のように書かれている。
「和泉式部には感心できないところがある。しかし気楽な手紙を走り書きしたときにも、文章の才能があり、ちょっとした言葉にまで美しい色合いが見える。
ただし本当の意味で和歌を深く学んだ歌人ではない。口に任せて詠んだ歌にも、必ず目を引く一句を添える。しかし人の歌を批評し、きちんと理由を説明できるかといえば、そこまで理解してはいないだろう。ただ自然に歌が口から出る人なのだ。こちらが恥ずかしくなるほどの教養ある歌人とは思えない。
丹波守の妻、赤染衛門は、宮中では夫の名にちなんで『匡衡衛門』と呼ばれている。特別に高い身分ではないが、本当に風格のある歌人だ。何にでも歌を詠み散らすことはなく、世間に伝わった歌は、ちょっとした折の一首まで、こちらが気後れするほど見事な詠みぶりである」
このように和泉式部は、当時は人柄のせいで評価を抑えられ、和歌の面でも実力ほどには用いられなかった。しかし本当は名手だから秀歌が多く、何かにつけて次々と歌を詠み残した。そのため後の勅撰集にも、たくさん選ばれたのだ。
曽祢好忠も、当時はまともな人物として扱われなかった。円融院の子の日の行幸へ招かれてもいないのに押しかけ、愚か者として名を上げたほどである。
しかし今では、和歌の世界でたいへん重要な歌人とされている。一条院の時代、各分野で優れた人を大江匡衡が記した中にも、歌人として道信、実方、長能、輔親、和泉式部、赤染衛門、曽祢好忠の七人が挙げられている。好忠も自分の人柄のせいで、生きている間は世間から評価されなかったのだろう。
だから和泉式部の二首についても、公任の判断がまったく的外れなわけではないし、先ほどの人の疑問も間違いではない。二つの基準を、きちんと分けて考えなければならない。
和歌には、作り上げた発想や技巧はたいへん見事でも、作品そのものの格を考えると、それほどでもない歌がある。
反対に、発想だけなら誰にも思いつけないほどではなくても、聞いた瞬間に格調があり、艶やかに感じられ、情景が鮮やかに浮かぶ歌もある。
つまり和泉式部という歌人の腕前を正しく測るなら、「この小屋を人と呼びたい」の歌を取るべきだ。しかし「和泉式部の秀歌はどれか」と一首を選ぶなら、「はるかに照らせ」の歌のほうが優れている。
たとえば道端で偶然見つけたとしても、黄金は宝である。反対に、どれほど巧みに作られていても、櫛や針は宝とは呼べない。
しかし作り手の技を評価するなら、黄金を拾った人に手柄はない。針は宝ではなくても、見事な針を作った人は名工だと判断できる。それと同じである。
もっとも公任も、そこまで理由を説明するべきだったのかもしれない。あるいは歌の良し悪しの基準は時代ごとに変わるから、当時は本当に「この小屋を人と呼びたい」の歌のほうが優れて聞こえ、後の人にその感覚がわからなくなったのかもしれない。最終的には、さらに後の人が判断すればよい。
ある人、問ひていはく
ある人が尋ねた。
「最近の和歌は、二つの流派に分かれています。少し前までの詠み方を守る人は、今風の歌を意味のわからないたわごとのように考え、『達磨宗の歌』などとあだ名を付けて、悪くいいます。
反対に今風の歌を好む人は、少し前までの歌を『俗っぽくて、見るべきところがない』と嫌います。宗教の教義争いのようで、決着がつきそうにありません。学び始めたばかりの人は、どちらが正しいのか迷ってしまいます。どう考えればよいのでしょう」
ある人が答えた。
「これは当代の歌人たちが激しく争っている問題ですから、簡単に決められることではありません。
しかし人間は、月や星の動きさえ理解し、鬼神の心まで推し量ろうとするものです。確信はなくても、自分の考えが届く範囲で話してみましょう。あとは、あなた自身が考えて判断してください。
そもそも二つの詠み方を、水と火のように絶対に相いれないものと思っていることが、私には理解できません。
和歌の形は、時代ごとに変わってきました。大昔は文字数さえ決まっておらず、思うまま、口に任せていったのです。「八雲立つ出雲八重垣」の歌から五句三十文字ほどの形が定まったとされますが、『万葉集』のころまでは、心からの思いを述べることが中心で、姿や言葉を厳しく選んではいなかったように見えます。
『古今集』の時代になると、内容と表現の両方がそろい、歌の姿もさまざまに分かれました。
『後撰集』は、『古今集』がよい歌を選び尽くしてからそれほど時がたっていなかったため、新たによい歌を得るのが難しかったのでしょう。姿をあまり選ばず、心を第一にしました。
『拾遺集』のころからは、歌がぐっと身近になり、意味が隅々まではっきりわかり、姿が素直な歌をよしとしました。
『後拾遺集』ではさらにやわらかくなり、古い時代の風格を忘れてしまいました。当時の古老たちは受け入れられなかったらしく、『後拾遺風』と名付け、残念な詠み方だといったそうです。
『金葉集』には、おもしろい歌を作ろうと意識しすぎて、軽々しい歌が多くなりました。『詞花集』と『千載集』は、だいたい『後拾遺集』の流れでしょう。
和歌の形が昔から変化してきた道筋は、このようなものです。
『拾遺集』以後、同じような詠み方が長く続きました。そのため発想は少しずつ使い尽くされ、言葉も時代とともに古び、和歌の道は衰えていきました。
昔なら花を雲に見立て、月を氷にたとえ、紅葉を錦だといえば、それだけでおもしろい歌になりました。しかし今では、その程度の発想はすべて詠み尽くされています。
そこで雲を詠むにも、普通とは違う雲の見方を探し、氷には新しい意味を添え、錦には誰もいわなかった特徴を見つけようとする。これほど苦労して考えても、新しい一句はますます得にくくなります。
たまに新しい表現を思いついても、昔の歌に機嫌を取るような心から作ったものなので、卑しく、形の崩れた歌になりがちです。
まして言葉はほとんど使い尽くされ、新しい言葉も、はっと目を留める表現もありません。特別な秀歌でなければ、上の五・七・五を聞いただけで、下の七・七まで予想できるようになりました。
そこで今の歌人たちは、長い間に歌の形が詠み古されてしまったことに気づき、もう一度古い時代へ戻って、「幽玄」の歌を学ぼうとし始めたのです。
それを見て、少し前までの詠み方を学んだ人々は驚き、今風の歌をあざ笑います。
しかし本当は、どちらも目指すところは一つです。名人と秀歌は、どちらの流派にもあります。清輔、頼政、俊恵、登蓮など、少し前の名手たちの詠みぶりを、今の人も捨ててはいません。反対に今風の歌でも、よくできたものなら、批判する側も悪くはいえません。
駄目な歌は、どちらの流派でも駄目です。少し前の平凡な歌を今の歌と並べれば、きれいに化粧した人々の中へ、化粧を落とした尼僧の顔で交じるように地味に見えます。一方、今風の歌をうまく詠み切れなければ、まったく意味がわからなかったり、ひどく気味の悪い歌になったりします。
だから、どちらか一方だけに執着してはいけません」
質問した人が、さらに尋ねた。
「今風の歌を、まったく新しく現れたものだと思うのは間違いですか」
答える人はいった。
「その批判には理由がありません。たとえ本当に新しく生まれたとしても、新しいというだけで悪いはずはないでしょう。
中国でさえ、一定の決まりがある文章の形を時代ごとに変えています。日本は小国で、人の考えも狭いため、何事も昔と変えてはいけないと思い込みがちなのです。
まして和歌は、自分の思いを述べ、人の耳を楽しませるためのものです。その時代の人が愛し、好むもの以上に大切な基準があるでしょうか。
しかも今風の歌は、本当に新しく発明されたものではありません。『万葉集』まで戻る必要さえない。『古今集』をよく読み分けられない人が、新しいと批判しているだけです。
『古今集』の中には、さまざまな形の歌があります。少し前までの詠み方も『古今集』から生まれ、今の幽玄の姿も、同じ『古今集』から生まれました。
たとえ今風の歌まで詠み尽くされ、さらに別の流行が生まれても、『古今集』は冗談の歌まで漏らさず選んでいます。結局、そこから外へ出ることはないでしょう。
今風の歌を耳慣れないといって卑しむのは、ただ少し前までの歌の形と違うからにすぎません」
質問した人が尋ねた。
「二つの詠み方では、どちらが作りやすく、秀歌を得やすいのでしょう」
答える人はいった。
「少し前までの詠み方は学びやすいのですが、秀歌を作るのは難しいでしょう。言葉が古びているため、発想だけで勝負しなければならないからです。
今風の詠み方は、身につけるまでが難しい。しかし本当に理解すれば、かえって詠みやすくなります。形そのものに新しさがあるため、姿と心の両方に、おもしろさを生み出せるからです」
質問した人は、また尋ねた。
「お話のとおりなら、結局どちらも、よい歌はよく、悪い歌は悪いということですね。それでも歌人たちは、自分の流派こそ上だと争います。どうやって優劣を決めればよいのでしょう」
答える人はいった。
「必ず優劣を決めなければならないのでしょうか。どちらの形でも、よく詠めた歌をよいと認めれば、それでよいはずです。
ただ寂蓮入道は、『この争いを簡単に決着させる方法がある』といいました。
『書を習うとき、自分より下手な人の字は簡単にまねられるが、自分より上手な人の字は、なかなか似せられないといいます。
それと同じです。私たちが季経卿や顕昭法師に「私たちのような今風の歌を詠んでみなさい」といっても、どれほど考えたところで詠めないでしょう。しかし私は、あの人たちのような歌なら、筆を墨で濡らすだけで、いくらでもうまく書けます。これで勝負は決まるでしょう』
ほかの人は知りませんが、私自身の経験でも、少し前の歌人が大勢集まる歌会で人の歌を聞いたとき、自分がまったく思いつかなかった発想は、ほとんどありませんでした。
『自分の言葉のつなぎ方より、こちらのほうがよかった』と思うことはあっても、自分の考えが少しも届かなかった歌は、めったになかったのです。
ところが御所の歌会に出たときは、どの人も私にはまったく思いつかないことばかり詠みました。私は、『和歌の道は、いつの間にか底も境界もないほど深くなっていたのか』と恐ろしく感じました。
この今風の詠み方を本当に理解するには、まず歌の基本を持つ人が深い境地へ入り、一つの峠を越えなければなりません。それほどの人でも失敗すれば、聞き苦しい歌が多くなります。
まして発想の乏しい人が、まだ山頂にも着かないうちに、想像だけでまねれば、これほど見苦しいことはありません。
化粧をするべきだとだけ聞いた田舎の女が、思うまま顔中へいろいろなものを塗り付けたように見えます。
こういう人は、自分で新しい歌の形を作れません。ほかの歌人が使い捨てた言葉を拾い、表面だけまねるのです。
『露が古びて』『風が吹き抜けて』『心の奥』『あわれの底』『有明の月』『夕暮れの風』『春のふるさと』など、最初に詠まれたときは新鮮だった表現を、二度目、三度目も深く考えず、決まり文句としてわずかにまねています。
また意味ありげで奥深い歌を作ろうとするあまり、最後には作者自身にも意味がわからなくなり、何にも心を留めない歌になってしまうことがあります。
そういう歌は、幽玄の境地ではありません。本当に『達磨宗の歌』と呼ぶべきなのは、これらの出来損ないでしょう」
質問した人はいった。
「お話の大筋は、だいたいわかりました。ただ『幽玄』と呼ばれる歌がどんなものなのかは、まだわかりません。その姿を教えてください」
答える人はいった。
「歌の指南書や秘伝書は、難しい作法については手を取るように細かく説明しています。しかし歌の『姿』について、はっきり書いたものはありません。まして幽玄は、名前を聞いただけでも迷ってしまうでしょう。
私自身も十分に理解しているとはいえず、はっきりこうだと説明する自信はありません。ただ、歌の奥深い境地に達した人々の話をまとめれば、幽玄とは結局、言葉の表面には現れない余情、歌の姿には直接見えない情景の気配なのでしょう。
心に深い道理があり、言葉が艶やかさを極めれば、その二つは自然に備わります。
たとえば秋の夕暮れの空を考えてください。特別な色もなく、音もありません。どこに、涙を誘う理由があるのか、はっきりとはわからない。それでもなぜか、涙がこぼれます。
情趣を解さない人は、その景色を少しもすばらしいと思わず、ただ目に見える桜や紅葉だけをほめます。
また美しい女性が、恨めしいことがあっても言葉には出さず、深くこらえている。その気配を恋人が夜明け前の薄明かりに、ふと見つけたとします。
言葉を尽くして相手を責め、涙で濡れた袖を絞って見せるよりも、そのほうがずっと心苦しく、深いあわれを感じさせるでしょう。
しかし幼い者には、細かく言葉で説明されなければ、その表情だけから気持ちを読み取れません。
この二つのたとえからも、発想が乏しく心の浅い人には、幽玄を理解しにくいことがわかるでしょう。
また、かわいらしい幼子が片言で、意味もよくわからないことを話している。その頼りなさがかえって愛おしく、聞きどころになることがあります。幽玄には、それに似たところもあるのかもしれません。
こうした味わいを、どうして簡単にまねたり、明確な言葉で説明したりできるでしょう。最後は、自分の心で感じ取るしかありません。
霧の切れ間から秋の山を眺めると、見える部分はわずかです。それでも奥ゆかしく、『霧の向こうには、どれほど紅葉が広がり、美しいのだろう』と、どこまでも想像が膨らみます。その心の中に浮かぶ姿は、山全体をはっきり見るより優れているでしょう。
思いをそのまま言葉にし、月を『曇りなく美しい』といい、花を『すばらしい』とほめるだけなら、何も難しくありません。それでは普通の会話より、和歌が優れているところはどこにあるのでしょう。
一つの言葉に多くの意味を込め、すべてを明かさずに深い思いを尽くす。見たこともない昔の世を、目の前に浮かべる。卑しいものを借りて優雅さを表し、愚かに見える言葉で、言いようのない美しさを極める。
だからこそ、自分の心も言葉も足りないとき、和歌によって思いを伝えられるのです。わずか三十一文字の中に天地を動かす力を備え、鬼神さえなごませる術となるのです」
俊恵いはく、「世の常のよき歌は」
俊恵がいった。
「普通によい歌は、たとえば模様をかっちり織り込んだ織物のようなものです。艶と優雅さが極まった歌は、模様が表面にふわりと浮く織物のように、読む人の心へ情景が浮かびます。
『ほのかな夜明け、明石の浦の朝霧の中を、島の陰へ隠れていく舟。その姿がしみじみと思われる』
『月は昔の月ではないのか。春は去年の春ではないのか。私だけは昔と同じ私なのに』
この二首には、言葉の奥に余情がこもり、何もない空間へ情景が浮かんでいます。
また特別な発想がなくても、言葉をうまくつなげれば、歌の姿に自然な飾りが生まれ、同じ力を持つことがあります。俊頼の歌に、こういうものがあります。
『鶉が鳴く真野の入江。浜風が吹くと、薄の穂が白波のように寄せる、秋の夕暮れよ』
これも、まさに模様が浮き上がる織物のような歌です。
ただし、よい言葉を集めても、わざわざ探して並べたように見えれば、それは欠点になります。ある人に、こんな歌があります。
『月が冴える氷の上に霰が降り、玉が砕けるように散る、玉川の里よ』
これは庭石を立てる人が、よい大石を手に入れられず、小さな美しい石を集め、巧みに組み合わせたようなものです。どれほど整っていても、本物の堂々とした大石にはかないません。作為が見えることが、この歌の欠点です」
俊恵は、またいった。
「大江匡房卿に、こんな歌があります。
『白雲のように見えるので、それとわかる。吉野の山は今、花盛りなのだ』
私はこの歌こそ、よい歌の手本だと思います。特別な秀句も、飾り立てた言葉もありません。それでも姿は美しく清らかで、自然にいい切っている。格調が高く、遠くまで白く開けるような印象があります。
白という色には、ほかの色のような派手な味わいはありません。それでも、あらゆる色に勝ることがあります。何事も極まったものは、淡く、少し寂しいのです。
この形は簡単に見えて、実はきわめて難しい。一文字でも違えば、たちまちひどい駄作になります。歌の深い境地に入らなければ、詠めない姿です」
さらに俊恵はいった。
「『風流を解する人に見せたいものだ。摂津国、難波あたりの春の景色を』
この歌は、先ほどの吉野の歌ほど、果てしなく遠く開ける感じはありません。しかし優雅さが深く、やわらかで上品です。
名筆家が書いた仮名の『し』の字のようなものです。特別に点を加えたり、筆を大きく振るったりしていない。ただ穏やかに、わずかな動きだけで書かれているのに、実に美しいのです」
俊恵は、またいった。
「『恋しさに耐えきれず、愛しい人のもとへ向かう。冬の夜、川風があまりに寒く、千鳥が鳴いている』
これほど情景がはっきり浮かぶ歌は、ほかにありません。ある人は、『六月二十六日の最も暑い日でも、この歌を口ずさめば寒くなる』といったほどです。
だいたいにおいて、どれほど心と言葉が優雅でも、苦労して探し出した跡が見えるのは、歌の欠点です。
人が結んだわけでもない峰の梢、人が染めたわけでもない野辺の草葉が、春秋になると自然にさまざまな色を見せる。それと同じように、心へ自然に寄ってきたものを、のびのびといった歌こそ秀歌なのです」
和歌には「作り方の型」というものもある。よい発想が浮かばないとき、心の技巧によって一首を組み立てる方法である。
一つ目は、特別な内容がなくても、言葉を美しくつなぎ、深い余韻が出るよう流していく方法である。
「風の音に秋の夜更け、ふと目を覚まし、最後まで見られなかった夢の名残を思う」
二つ目は、古歌にある少し無理な表現を借り、おもしろく作り直す方法である。
「恋しいあの人をひたすら待つ宵、秋風よ、どうか荻の上の葉だけは避けて吹いてくれ。葉音を人の訪れと聞き違えたくないから」
「狩人が朝早く野に伏せると、草がまだ若く短いため隠れきれず、雉が鳴いている」
また、普通なら歌に向かない言葉をおもしろくつなげれば、それ自体が見事な一句になる。
「播磨の飾磨で布を染めるように、今の私は、むやみやたらとあの人を恋しく思っている」
「思い草の葉先に結んだ白露は、たまたま訪れても、手に取ればたまらずこぼれてしまう」
さらに、特別な秀句がなくても、言葉の使い方とつなぎ方がおもしろければ、歌には見るべきところが生まれる。
「あさって干そうと東国の乙女が編む萱の敷物。その目のように、私は人目を忍びながら日々を過ごしている」
「葦葺きの家に住む女が織った帯の片結び。そのひもを解くように、あなたも安心して心を開いてくれないだろうか」
「もう今は、天の戸を渡る月の舟よ。どうかまた群雲の島陰へ隠れないでおくれ」
一には、名所を取る故実あり
名所を歌に取り入れるにも、作法がある。
国々の歌枕は数え切れないほど多いが、どの名所を使うかは、歌全体の姿に合わせなければならない。
庭に山水を作るとき、松を植える場所には岩を立て、池を掘り、花を咲かせる場所には山を築いて、眺めを整える。それと同じように、土地の名が持つ印象で歌の姿を飾るのである。
これは、とても大切な秘伝である。歌の姿と名所の印象が合わなければ、どれほどよい発想があっても、何かが食い違い、壊れた歌に聞こえる。
たとえば、次のような歌がある。
「遠くから見るだけで終わるのだろうか。葛城の高間山、その峰にたなびく白雲を」
「鹿を照らして狩る宮城野の草、その下葉に置く露のため、色鮮やかな花摺衣は乾く間もない」
「東国への道を朝早く来ると、葛飾の真間の継橋に、霞が一面にかかっていた」
「夕暮れになると、野辺の秋風が身にしみる。深草の里では鶉が鳴いている」
最初の歌は、清らかで遠く開ける姿なので、「高間山」という名がよく合う。二首目は言葉遣いが優雅なため、「宮城野」がふさわしい。三首目は心細さのある姿なので、「葛飾」と「真間の継橋」がいかにも合う。四首目は寂しい姿だから、「深草の里」が特によく響く。
すべてを書き尽くすことはできない。この例から、考え方をつかんでほしい。
一には、古歌を取ること、またやうあり
古歌の言葉を取り入れるにも、方法がある。
昔の歌にあるおもしろい言葉のうち、自分の歌へ入れれば飾りとなり、無理なくつながるものを選ぶべきだ。たとえば、こんな歌である。
「今は夏なのか秋なのかと尋ねても、白玉のような谷川の水は、岩を離れてただ落ちていく」
ところが「古歌から言葉を盗むのが和歌の技法だ」とだけ覚え、よい言葉か悪い言葉かも見分けず、むやみに借りて不自然につなぐ人がいる。実に残念なことだ。
古歌を取るなら、元歌がわかるよう、はっきり取るほうがよい。こっそり隠そうとするのは、とても悪い。
また古歌の中でも、特に有名な秀句そのものを取ってはいけない。一見目立たない言葉の中から、自分の歌でおもしろく作り変えられそうなものを見つけるのである。
ある人が「空にも知られない雪が降っている」という古い表現を借り、月の歌で「水にも知られない氷だった」と詠んだ。
人々はこれを見て、「これこそ本当の盗みだ。そこそこ立派な僧の法衣を盗み、小袖に仕立て直して着ているように見える」と批判した。
また御所の歌合で「夜明けの鹿」という題が出たとき、私はこう詠んだ。
「すぐ来ると妻は約束したのだろうか。九月の有明の月の下、牡鹿が妻を求めて鳴いている」
この歌は「姿が優雅だ」として勝ちになった。しかし定家朝臣は、その場で批判した。
「素性法師の有名な歌と、違うのはわずか二句だけです。これほど元歌に似ているなら、句の場所を入れ替え、元歌の上の句を下へ回すなど、全体を作り変えるべきでした。
この歌は元歌と同じ位置のまま、第二句と最後の句だけを変えています。そこは欠点とするべきです」
古人いはく、「仮名に物書くことは」
昔の人は、こういった。
「仮名で文章を書くとき、和歌の序文は『古今集』の仮名序を手本とする。日記は『大鏡』の語り方を学ぶ。和歌の言葉は『伊勢物語』と『後撰集』の歌をまねる。物語は『源氏物語』に勝るものがない。どんな文章も、これらの作品をよく思い浮かべて書くべきだ。
何を書くときにも、できるだけ漢文そのままの言葉を使わないようにする。自分の力が及ぶかぎり、やわらかな和文で書き、どうしても無理なところだけ漢語を使う。
また仮名では書きにくい、詰まる音や跳ねる音は省いてよい。『万葉集』では「新羅」を「しら」と書き、『古今集』の序では「喜撰」を「きせ」と書いている。これが証拠である。
言葉を飾ろうとして、漢文のような対句をむやみに作ってはいけない。自然に対になったところだけを書く。
対句が多すぎると漢文のようになり、仮名文の本来の味わいから外れる。悪い時代の書き方である。
『古今集』仮名序の「花に鳴く鶯、水に住む蛙」のように、どうしても対になるところだけを、自然に彩るのがすばらしい。
また言葉をつなぐときは、『菅の根の長い夜』『こゆるぎの、急いで』『石の上の、古びて』というような掛詞を、古い例から取ったり、新しく巧みに作ったりするとよい」
勝命はいった。
「仮名文を書くことでは、清輔がたいへんな名人です。『花の下には花見の客が来た。柿の木の下には柿本人麻呂の肖像を掛けた』と書いたあたりなど、特に見事です。仮名文の対句は、このように書くべきです」
波の名はあまたあり
波には、たくさんの名がある。
範綱入道が話したこととして、ある人から「おなみ、さなみ、ささらなみ、ほうのてがえし、はまならしは、すべて波の名だ」と聞いた。しかし、どんな波をそれぞれの名で呼ぶのかまでは、教えてもらえなかった。
その土地ごとに使われる名なのだろうか。私は、これらを詠んだ歌も見たことがない。
顕昭に尋ねると、こう答えた。
「さなみ、さざなみ、ささらなみという言葉があります。どれも小さな波の名です。同じ言葉を長くいったり短くいったりしたもので、歌の調子に合わせて使い分けます」
ところが筑紫の「しまと」という所へ通う人が、別の話をした。
「筑紫から南、大隅か薩摩のあたりだったと思いますが、大きな港があります。そこでは四月と五月、朝から晩まで波が立ち、静まる間がありません。四月に立つ波を『うなみ』、五月に立つ波を『さなみ』と呼びます」
「うづきの波」「さつきの波」ということなのだろうか。とてもおもしろい話である。
ある人いはく、「あさりといひ、いさりといふは」
ある人がいった。
「『あさり』と『いさり』は、どちらも漁をするという同じ意味です。ただ朝にする漁を『あさり』、夕方にする漁を『いさり』と呼びます。東国の漁師が、そう説明しました」
実におもしろい話である。
ある人いはく、「橘為仲、陸奥国の守にて下りけるとき」
ある人が、こんな話をした。
橘為仲が陸奥守として下向していたとき、五月五日になると、どの家でも菰を屋根に葺いていた。都では菖蒲を葺く日なので、為仲は不思議に思って役人に理由を尋ねた。
役人は答えた。
「この国では昔から、今日、菖蒲を屋根に葺くという習慣を知りませんでした。ところが亡き実方中将が国司だったとき、『今日は菖蒲を葺く日だ。探して葺きなさい』と命じました。
この国には菖蒲がありません、と申し上げると、『それなら安積沼に花かつみという草があるだろう。それを葺きなさい』とおっしゃいました。それ以来、こうして花かつみを葺くようになったのです」
「亡き中将」とは、藤原実方朝臣のことである。
この為仲、任果てて上りけるとき
橘為仲が陸奥守の任期を終え、都へ戻るとき、宮城野の萩を掘り取った。それを十二個もの長櫃に詰め、都へ持ち帰った。
話は広く知れ渡り、為仲が京へ入る日には、二条大路へ見物人が大勢集まった。見物の車も、数多く並んだという。
左衛門尉蔵人頼実は
左衛門尉で蔵人でもあった頼実は、たいへんな風流人だった。
和歌への志が深く、住吉明神に「私の寿命を五年差し上げます。どうか秀歌を一首、詠ませてください」と祈った。
それから何年か後、頼実は重い病気になった。家の者が命を救う祈祷をしていると、家にいた女へ住吉明神が乗り移り、こう告げた。
「以前、自分が何を願ったのか忘れたのか。
『木の葉が散る家では、音だけでは聞き分けられない。時雨が降る夜なのか、それとも時雨の降らない夜なのか』
この秀歌を詠ませたのは、おまえが信心を尽くし、私に強く願ったからだ。だから今度ばかりは、どうしても生き延びることはできない」
ある人いはく、「業平朝臣」
ある人が、こんな話をした。
在原業平朝臣が、後の二条后を、まだ后になる前に連れ出したところ、后の兄たちに取り返されたという話がある。このことは、別の記録にも書かれている。
話の大筋は『伊勢物語』と同じだが、兄たちは妹を連れ戻すとき、怒りを抑えられず、業平の髻を切ってしまった。
しかし、この事件が明るみに出ても誰のためにもならない。そのため業平は胸の内だけに収め、何もいわずに過ごした。
髪を伸ばすため家にこもっている間、業平は「各地の歌枕を見て回る」という風流な旅を口実に、東国へ出かけた。
陸奥国まで行き、「かそしま」という所に泊まった夜、野の中から歌の上の句を詠む声が聞こえた。
「秋風が吹くたびに、ああ、目が痛い、目が痛い」
不思議に思った業平は、声をたどって人を探した。しかし、どこにも人はいない。ただ死人の頭蓋骨が一つ、転がっているだけだった。
翌朝もう一度よく見ると、髑髏の目の穴から、薄が一本生えていた。薄が風になびく音が、歌の声のように聞こえていたのである。
業平が近くの人に尋ねると、ある人が話した。
「小野小町はこの国まで下り、この場所で亡くなりました。その頭蓋骨が、これです」
業平は、ひどく悲しく、あわれに思った。涙をこらえながら、上の句へ続きを付けた。
小野とはいはじ薄生ひけり
「小野小町とは、もういうまい。髑髏の目から、小野の薄が生えているのだから」
その野を、土地の男は「玉造」と呼んでいたという。
玉造小町と小野小町は同じ人なのか、それとも別人なのか。人々が疑問に思い、議論していたとき、ある人がこの話を教えてくれた。
ある人いはく、「ある歌合に、五月雨の歌に」
ある人が、こんな話をした。
ある歌合で、五月雨の歌に「小屋の寝床まで、水に浮いてしまいそうだ」と詠んだ人がいた。
判者の清輔朝臣は、「『床寝』という言葉は聞き苦しい」として、その歌を負けにした。
清輔は和歌の学問に詳しい人だが、この判断については理解が足りなかったのではないか。『後撰集』には、こんな歌がある。
「竹の近くでは夜の床に寝まい。鶯の鳴く声を聞くと、朝寝もできなくなるから」
清輔は、この歌を思い出さなかったのだろうか――というのである。
しかし、この批判のほうが、ひどくつたない。和歌の本質を、まったくわかっていない。
和歌には、その時代ごとに使われる姿があり、高く評価される言葉がある。だから古い歌集に入っているからといって、その歌のすべてを無条件にすばらしいと仰いではいけない。
これは古い歌集を軽んじるという意味ではない。時代によって、歌の好みが違うからである。
古い歌集には、さまざまな姿と言葉があり、どれか一つだけではない。その中から、今の時代の歌風に合うものを選び、手本にする。歌の形を学び、必要なら言葉を借りればよい。
先ほどの『後撰集』の歌は、今の時代なら勅撰集へ入ることさえできないだろう。
まず、鶯という題の本質を十分に生かしていない。題を大切にしないことは、和歌の大きな欠点である。よほど並外れた秀歌でなければ、許されない。
次に「夜の床に寝まい」といい、さらに「朝寝もできない」と続ける、その歌の姿と言葉がよくない。
それなのに、その歌にある大してよくもない「夜床寝」という言葉を借り、さらに「夜」の字まで省いて「床寝」とした。これは本当に奇妙な言葉である。
『後撰集』の権威だけを借り、それを知らなかった清輔の判定は間違いだと決めつける。そんな批判をする人こそ、和歌の道を深く知らないのである。

