第132段「二月官の司に」
二月、官の司に定考と言ふことすなる、何事にかあらむ。孔子など掛け奉りてすることなるべし。聡明とて、上にも宮にも、怪しき物の形など、土器に盛りて参らす。
第133段「頭の弁の御もとより」
頭の弁の御もとより、主殿司、絵などやうなる物を、白き色紙に包みて、梅の花いみじう咲きたるにつけて持て来たり。絵にやあらむと、急ぎ取り入れて見れば、餅餤と言ふ物を二つ並べて包みたるなりけり。添へたる立文には、解文のやうにて、
進上 餅餤一包
例に依りて進上如件
別当 少納言殿
とて、
「みまなのなりゆき」
とて、奥に、
「この男は自ら参らむとするを、昼は形悪しとて参らぬなめり」
と、いみじうをかしげに書いたまへり。御前に参りて御覧ぜさすれば、
「めでたくも書きたるかな。をかしくしたり」
など誉めさせたまひて、解文は取らせたまひつ。
「返事いかがすべからむ。この餅餤持て来るには、物などや取らすらむ。知りたらむ人もがな」
と言ふを、きこしめして、
「惟仲が声のしつるを。呼びて問へ」
と宣はすれば、端に出でて、
「左大弁に物聞こえむ」
と侍ひして呼ばせたれば、いと良くうるはしくして来たり。
「あらず、私事なり。もし、この弁、少納言などのもとに、かかる物持て来る下部どもなどは、することやある」
といへば、
「さることもはべらず。ただ留めてなむ食ひはべる。何しに問はせたまふぞ。もし上官のうちにて得させたまへるか」
と問へば、
「いかがは」
といらへて、返事を、いみじう赤き薄様に、
「自ら持てまうで来ぬ下部は、いと冷淡なりとなむ見ゆ。如何」
とて、めでたき紅梅につけて奉りたる、すなはちおはして、
「しもべ候ふ。しもべ候ふ」
と宣へば、出でたるに、
「さやうの物、空読みして遣せたまへると思ひつるに、美々しくも言ひたりつるかな。女の少し我はと思ひたるは、歌詠みがましくぞある。さらぬこそ語らひ良けれ。まろなどに、さること言はむ人、却りて無心ならむかし」
など宣ふ。
則光、なりやすなど、笑ひて止みにしことを、上の御前に人々いと多かりけるに、語り申したまひければ、
「良く言ひたりとなむ宣はせし」
と、また人の語りしこそ、見苦しき我誉めどもをかし。
第134段「などて官得はじめたる六位の笏に」
「などて、官得始めたる六位の笏に、職の御曹司の辰巳の隅の築土の板はせしぞ。さらば、西東のをもせよかし」
など言ふことを言ひ出でて、
「あぢきなきことどもを。衣などにすずろなる名どもを付けけむ、いと怪し。衣の中に、細長はさも言ひつべし。なぞ、汗衫は尻長と言へかし」
「男の童の着たるやうに、なぞ、唐衣は短衣と言へかし」
「されど、それは唐土の人の着る物なれば」
「上の衣、上の袴は、さも言ふべし。下襲よし。大口、また長さよりは口広ければ、さもありなむ」
「袴、いとあぢきなし。指貫は、なぞ、足の衣と言ふべけれ。もしは、さやうの物をば袋と言へかし」
など、万のことを言ひ罵るを、
「いで、あな、かしがまし。今は言はじ。寝たまひね」
と言ふ、
答へに、夜居の僧の、
「いと悪からむ。夜一夜こそ、なほ宣はめ」
と、憎しと思ひたりし声ざまにて言ひたりしこそ、をかしかりにそへて驚かれにしか。
第135段「故殿の御ために」
故殿の御ために、月毎の十日、経、仏など供養ぜさせたまひしを、九月十日、職の御曹司にてせさせたまふ。上達部、殿上人いと多かり。清範、講師にて、説くこと、はたいとかなしければ、ことに物のあはれ深かるまじき若き人々、皆泣くめり。
果てて、酒飲み、詩誦しなどするに、頭の中将斉信の君の、
「月秋と期して身いづくか」
と言ふことをうち出だしたまへりし、はたいみじうめでたし。いかで、さは思ひ出でたまひけむ。
おはします所に、分け参るほどに、立ち出でさせたまひて、
「めでたしな。いみじう、今日の料に言ひたりけることにこそあれ」
と宣はすれば、
「それ啓しにとて、物見さして参りはべりつるなり。なほいとめでたくこそ覚えはべりつれ」
と啓すれば、
「まいて、さ覚ゆらむかし」
と仰せらる。
わざと呼びも出で、逢ふ所毎にては、
「などか、まろを、誠に近くなむ覚ゆる。かばかし年頃になりぬる得意の、疎くて止むはなし。殿上などに、明け暮れなき折もあらば、何事をか思ひ出でにせむ」
と宣へば、
「さらなり。難かるべきことにもあらぬを、さもあらむのちには、え誉め奉らざらむが、口惜しきなり。上の御前などにても、役と預かりて誉め聞こゆるに、いかでか。ただおはせかし。かたはらいたく、心の鬼出で来て、言ひにくくなりはべりなむ」
といへば、
「などて。さる人をしもこそ、めよりほかに、誉むるたぐひあれ」
と宣へば、
「それが憎からず覚えばこそあらめ。男も女も、けぢかき人思ひかたき、誉め、人のいささか悪しきことなど言へば、腹立ちなどするが、わびしう覚ゆるなり」
といへば、
「頼もしげなのことや」
と宣ふも、いとをかし。
第136段「頭の弁の職に参りたまひて」
頭の弁の、職に参りたまひて、物語などしたまひしに、夜いたう更けぬ。
「明日御物忌なるに籠るべければ、丑になりなば悪しかりなむ」
とて、参りたまひぬ。
つとめて、蔵人所の紙屋紙引き重ねて、
「今日残り多かる心地なむする。夜を通して、昔物語も聞こえ明かさむとせしを、鶏の声に催されてなむ」
と、いみじうこと多く書きたまへる、いとめでたし。
御返しに、
「いと夜深くはべりける鳥の声は、孟嘗君のにや」
と聞こえたれば、立ち返り、
「孟嘗君の鶏は、函谷関を開きて、三千の客僅かに去れりとあれど、これは逢坂の関なり」
とあれば、
「夜をこめて鳥の空音は謀るとも世に逢坂の関は許さじ
心賢き関守はべり」
ときこゆ。
また、立ち返り、
逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか
とありし文どもを、初めのは、僧都の君、いみじう額をさへつきて、取りたまひてき。後々のは御前に。
さて、逢坂の歌は圧されて、返しもえせずなりにき。いと悪し。
さて、
「その文は、殿上人皆見てしは」
と宣へば、
「誠に思しけりと、これにこそ知られぬれ。めでたきことなど、人の言ひ伝へぬは、甲斐なき業ぞかし。また、見苦しきこと散るがわびしければ、御文はいみじう隠して、人につゆ見せはべらず。御志のほどを比ぶるに、等しくこそは」
といへば、
「かく物を思ひ知りて言ふが、なほ人には似ず覚ゆる。思ひ隈なく、悪しうしたりなど、例の女のやうにや言はむとこそ思ひつれ」
など言ひて、笑ひたまふ。
「こはなどて。喜びをこそ聞こえめ」
など言ふ。
「まろが文を隠したまひける、また、なほあはれに嬉しきことなりかし。いかに心憂くつらからまし。いまよりも、さを頼みきこえむ」
など宣ひて、のちに、経房の中将おはして、
「頭の弁はいみじう誉めたまふとは知りたりや。一日の文に、ありしことなど語りたまふ。思ふ人の人に誉めらるるは、いみじう嬉しき」
など、まめまめしう宣ふもをかし。
「嬉しきこと二つにて、かのほめたまふなるに、また、思ふ人のうちにはべりけるをなむ」
といへば、
「それ珍しう、今のことのやうにも喜びたまふかな」
など宣ふ。
第137段「五月ばかり月もなういと暗きに」
五月ばかり、月もなういと暗きに、
「女房や候ひたまふ」
と声々して言へば、
「出でて見よ。例ならず言ふは誰ぞとよ」
と仰せらるれば、
「こは誰そ。いとおどろおどろしう、きはやかなるは」
と言ふ。
物も言はで御簾をもたげて、そよろと差し入るる、呉竹なりけり。
「おい、この君にこそ」
と言ひたるを聞きて、
「いざいざ、これ先づ殿上に行きて語らむ」
とて、式部卿の宮の源中将、六位どもなどありけるは、去ぬ。
頭の弁は留まりたまへり。
「怪しくても去ぬる者どもかな。御前の竹を折りて、歌詠まむとしつるを、同じくは職に参りて女房など呼び出で聞こえてとて来つるに、呉竹の名をいと疾く言はれて去ぬるこそ、いとをかしけれ。誰が教へを聞きて、人のなべて知るべうもあらぬことをば言ふぞ」
など、宣へば、
「竹の名とも知らぬものを。なめしとや思しつらむ」
と言へば、
「誠に、そは知らじを」
など、宣ふ。
まめごとなども言ひ合はせて居たまへるに、
「栽ゑてこの君と称す」
と誦じて、また集まり来たれば、
「殿上にて言ひ期しつる本意もなくては、など、帰りたまひぬるぞと怪しうこそありつれ」
と宣へば、
「さることには、何の答へをかせむ。なかなかならむ。殿上にて言ひ罵るを、上もきこしめして興ぜさせおはしましつ」
と語る。
頭の弁もろともに、同じことを返す返す誦じたまひて、いとをかしければ、人々、皆とりどりに物など言ひ明かして、帰るとてもなほ、同じことを諸声に誦じて、左衛門の陣入るまで聞こゆ。
つとめて、いと疾く、少納言の命婦と言ふが御文参らせたるに、このことを啓したりければ、下なるを召して、
「さることやありし」
と問はせたまへば、
「知らず。何とも知らではべりしを、行成の朝臣の取り成したるにやはべらむ」
と申せば、
「取り成すとも」
とて、うち笑ませたまへり。誰がことをも、殿上人ほめけり、などきこしめすを、さ言はるる人をも喜ばせたまふも、をかし。
第138段「円融院の御はての年」
円融院の御はての年、皆人御服脱ぎなどして、あはれなることを、公より始めて、院の人も、
「花の衣に」
など言ひけむ世の御ことなど思ひ出づるに、雨のいたう降る日、藤三位の局に、蓑虫のやうなる童の大きなる、白き木に立文を付けて、
「これ奉らせむ」
と言ひければ、
「何処よりぞ。今日明日は物忌なれば、蔀もまゐらぬぞ」
とて、下は立てたる蔀より取り入れて、さなむとは聞かせたまへれど、
「物忌なれば見ず」
とて、上についさして置きたるを、つとめて、手洗ひて、
「いで、その昨日の巻数」
とて請ひ出でて、伏し拝みて開けたれば、胡桃色と言ふ色紙の厚肥えたるを、怪しと思ひて開けても行けば、法師のいみじげなる手にて、
これをだに形見と思ふに都には葉がへやしつる椎柴の袖
と書いたり。
いとあさましうねたかりける業かな、誰がしたるにかあらむ、仁和寺の僧正のにや、と思へど、世にかかること宣はじ、藤大納言ぞかの院の別当におはせしかば、そのしたまへることなめり、これを、上の御前、宮などに疾く聞こしめさせばや、と思ふに、いと心もとなく覚ゆれど、なほいと恐ろしう言ひたる物忌し果てむとて、念じ暮らして、またつとめて、藤大納言の御もとに、この返しをして、さし置かれたれば、すなはちまた返しして遣せたまへり。
それを二つながら持て、急ぎ参りて、
「かかることなむはべりし」
と、上もおはします御前にて語り申したまふ。
宮ぞいとつれなく御覧じて、
「藤大納言の手の様にはあらざめり。法師のにこそあめれ。昔の鬼の仕業とこそ覚ゆれ」
など、いとまめやかに宣はすれば、
「さば、こは誰が仕業にか。好き好きしき心ある上達部、僧綱などは誰かはある。それにや、かれにや」
など、おぼめき、ゆかしがり、申したまふに、上の、
「この辺りに見えし色紙にこそいと良く似たれ」
とうち微笑ませたまひて、今一つ御厨子のもとなりけるを取りて、さし賜はせたれば、
「いで、あな、心憂。これ仰せられよ。あな頭痛や。いかで、疾く聞きはべらむ」
と、ただ責めに責め申し、恨み聞こえて、笑ひたまふに、
やうやう仰せられ出でて、
「使に行きける鬼童は、台盤所の刀自と言ふ者のもとなりけるを、小兵衛が語らひ出だして、したるにやありけむ」
など仰せらるれば、宮も笑はせたまふを、引き揺るがし奉りて、
「など、かくは謀られおはしまししぞ。なほ疑ひもなく手をうち洗ひて、伏し拝み奉りしことよ」
と、笑ひねたがり居たまへるさまも、いとほこりかに愛敬づきてをかし。
さて、上の台盤所にても、笑ひ罵りて、局に下りて、この童尋ね出でて、文取り入れし人に見すれば、
「それにこそはべるめれ」
と言ふ。
「誰が文を、誰か取らせし」
と言へど、ともかくも言はで、しれじれしう笑みて走りにける。大納言、後に聞きて、笑ひ興じたまひけり。
第139段「つれづれなるもの」
つれづれなるもの、所避りたる物忌。馬下りぬ双六。除目に司得ぬ人の家。雨うち降りたるは、まいていみじうつれづれなり。
第140段「つれづれなぐさむもの」
つれづれなぐさむもの、碁。双六。物語。三つ四つの稚児の、物をかしう言ふ。また、いと小さき稚児の、物語りし、たがへなど言ふ業したる。果物。男などのうちさるがひ、物良く言ふが来たるを、物忌みなれど入れつかし。
第141段「とり所なきもの」
取所なきもの、形憎さげに、心悪しき人。みそひめの塗りたる。
これ、いみじう万の人の憎むなる物とて、今留むべきにあらず。
また、後火の火箸と言ふこと、などてか、世になきことならねど、この草子を、人の見るべき物と思はざりしかば、怪しきことも、憎きことも、ただ思ふことを書かむと思ひしなり。
第142段「なほめでたきこと」
なほめでたきこと、臨時の祭ばかりのことにかあらむ。試楽もいとをかし。
春は、空の気色のどかにうらうらとあるに、清涼殿の御前に、掃部司の、畳を敷きて、使は北向きに、舞人は御前の方に向きて、これらは僻覚えにもあらむ、所の衆どもの、衝重取りて、前どもに据ゑ渡したる。陪従も、その庭ばかりは御前にて出で入るぞかし。公卿、殿上人、代はり代はり盃取りて、はてには屋久貝と言ふ物して飲みて立つ、すなはち、取喰みと言ふ物、男などのせむだにいとうたてあるを、御前には、女ぞ出で取りける。思ひ掛けず、人あらむとも知らぬ火焼屋より、俄かに出でて、多く取らむと騒ぐ者は、なかなかうち零し扱ふほどに、軽らかにふと取りて往ぬる者には劣りて、かしこき納殿には火焼屋をして、取り入るるこそいとをかしけれ。掃部司の者ども、畳取るや遅しと、主殿寮の官人、手毎に箒取りて砂子ならす。
承香殿の前のほどに、笛吹き立て拍子うちて遊ぶを、疾く出で来なむと待つに、有度浜歌ひて、竹の笆のもとに歩み出でて、御琴打ちたるほど、ただいかにせむとぞ覚ゆるや。一の舞の、いとうるはしう袖を合はせて、二人ばかり出で来て、西によりて向かひて立ちぬ。次々出づるに、足踏みを拍子に合はせて、半臂の緒繕ひ、冠、衣の領など、手もやまず繕ひて、
「あやもなきこま山」
など歌ひて舞ひたるは、すべて、誠にいみじうめでたし。
大輪など舞ふは、日一日見るとも飽くまじきを、果てぬる、いと口惜しけれど、またあべしと思へば、頼もしきを、御琴かきかへして、このたびは、やがて竹の後ろより舞ひ出でたるさまどもは、いみじうこそあれ。掻練のつや、下襲などの乱れ合ひて、こなたかなたにわたりしなどしたる、いでさらに、いへば世の常なり。
このたびは、またもあるまじければにや、いみじうこそ果てなむことは口惜しけれ。上達部なども、皆続きて出でたまひぬれば、さうざうしく口惜しきに、賀茂の臨時の祭は、還立の御神楽などにこそ慰めらるれ。庭燎の煙細くのぼりたるに、神楽の笛のおもしろくわななき吹き澄まされてのぼるに、歌の声もいとあはれに、いみじうおもしろく、寒く冴え凍りて、うちたる衣も冷たう、扇持ちたる手も冷ゆともおぼえず。才の男召して、声ひきたる人長の心地良げさこそいみじけれ。
里なる時は、ただ渡るを見るが飽かねば、御社まで行きて見る折もあり。大いなる木どものもとに車を立てたれば、松の煙のたなびきて、火の影に半臂の緒、衣のつやも、昼よりはこよなう勝りてぞ見ゆる。橋の板を踏み鳴らして、声合はせて舞ふほどもいとをかしきに、水の流るる音、笛の声など合ひたるは、誠に神もめでたしと思すらむかし。頭の中将と言ひける人の、年毎に舞人にて、めでたき物に思ひ染みけるに、亡くなりて上の社の橋の下にあなるを聞けば、ゆゆしう、物をさしも思ひ入れじと思へど、なほこのめでたきことをこそ、さらにえ思ひ捨つまじけれ。
「八幡の臨時の祭の日、名残こそいとつれづれなれ。など帰りてまた舞ふ業をせざりけむ。さらば、をかしからまし。禄を得て、うしろより罷づるこそ口惜しけれ」
など言ふを、上の御前に聞こしめして、
「舞はせむ」
と仰せらる。
「誠にや候ふらむ。さらば、いかにめでたからむ」
など申す。
嬉しがりて、宮の御前にも、
「なほそれ舞はせさせたまへと申させたまへ」
など、集まりて啓しまどひしかば、そのたび、帰りて舞ひしは、いみじう嬉しかりしものかな。
さしもやあらざらむとうち弛みたる舞人、御前に召す、と聞こえたるに、物に当たるばかり騒ぐも、いといと物狂ほし。
下にある人々の惑ひ上るさまこそ。人の従者、殿上人など見るも知らず、裳を頭にうち被きて上るを笑ふもをかし。
第143段「殿などのおはしまさで後」
殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、騒がしうなりて、宮も参らせたまはず、小二条殿といふ所におはしますに、何ともなくうたてありしかば、久しう里に居たり。御前辺りのおぼつかなきにこそ、なほえ絶えてあるまじかりける。
右中将おはして、物語したまふ。
「今日宮に参りたりつれば、いみじう物こそあはれなりつれ。女房の装束、裳、唐衣折に合ひ、たゆまで候ふかな。御簾の傍の開きたりつるより見入れつれば、八九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうて居並みたりつるかな。御前の草のいと茂きを、などか、掻き払はせでこそと言ひつれば、殊更露置かせて御覧ずとてと、宰相の君の声にて答へつるが、をかしうも覚えつるかな。
御里居いと心憂し。かかる所に住ませたまはむほどは、いみじきことありとも、必ず候ふべきものに思し召されたるに、甲斐なくと、数多言ひつる、語り聞かせ奉れとなめりかし。参りて見たまへ。あはれなりつる所の様かな。台の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと」
など宣ふ。
「いさ、人の憎しと思ひたりしが、また憎く覚えはべりしかば」
と答へ聞こゆ。
「おいらかにも」
とて笑ひたまふ。
げにいかならむと思ひ参らする。
御気色にはあらで、候ふ人たちなどの、
「左の大殿方の人、知る筋にてあり」
とて、差し集ひ物など言ふも、下より参る見ては、ふと言ひ止み、放ち出でたる気色なるが、見慣らはず憎ければ、
「参れ」
など、度々ある仰せ言をも過ぐして、げに久しくなりにけるを、また宮の辺には、ただあなたがに言ひ成して、空言なども出で来べし。
例ならず仰せ言などもなくて日頃になれば、心細くてうち眺むるほどに、長女文を持て来たり。
「御前より、宰相の君して、忍びて賜はせたりつる」
と言ひて、ここにてさへ引き忍ぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれて、疾く開けたれば、紙には物も書かせたまはず、山吹の花びらただ一重を包ませたまへり。
それに、
「いはで思ふぞ」
と書かせたまへる、いみじう、日頃の絶間嘆かれつる、皆慰めて嬉しきに、長女もうちまもりて、
「御前には、いかが、物の折毎に、思し出できこえさせたまふなるものを。誰も怪しき御長居とこそはべるめれ。などかは参らせたまはぬ」
と言ひて、
「ここなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」
と言ひて往ぬる後、御返事書きて参らせむとするに、この歌の本さらに忘れたり。
「いと怪し。同じふるごとと言ひながら、知らぬ人やはある。ただここもとに覚えながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」
など言ふを聞きて、前に居たるが、
「下ゆく水とこそ申せ」
と言ひたる、などかく忘れつるならむ。これに教へらるるもをかし。
御返し参らせて、少しほど経て参りたる、いかがと例よりはつつましくて、御几帳にはた隠れて候ふを、
「あれは今参りか」
など笑はせたまひて、
「憎き歌なれど、この折は言ひつべかりけりとなむ思ふを。大方見つけでは、しばしもえこそ慰むまじけれ」
など宣はせて、かはりたる御気色もなし。
童に教へられしことなどを啓すれば、いみじう笑はせたまひて、
「さることぞある。あまり侮るふるごとなどは、さもありぬべし」
など仰せらるる、ついでに、
「なぞなぞ合はせしける、方人にはあらで、さやうのことにりやうりやうじかりけるが、左の一はおのれ言はむ。さ思ひたまへなど頼むるに、さりとも悪きことは言ひ出でじかしと、頼もしく嬉しうて、皆人々作り出だし、選り定むるに、その詞をただ任せて残したまへ。さ申しては、よも口惜しくはあらじと言ふ。げにと推し量るに、日いと近くなりぬ。
なほこのこと宣へ。非常に、同じこともこそあれと言ふを、さば、いさ知らず。な頼まれそなどむつかりければ、おぼつかなながら、その日になりて、皆、方の人、男女居分かれて、見証の人など、いと多く居並みて合はするに、左の一、いみじく用意してもてなしたるさま、いかなることを言ひ出でむと見えたれば、こなたの人、あなたの人、皆心もとなくうちまもりて、なぞ、なぞと言ふほど、心にくし。
天に張り弓と言ひたり。右方の人は、いと興ありてと思ふに、こなたの人は物も覚えず、皆憎く愛敬なくて、あなたによりてことさらに負けさせむとしけるを、など、片時のほどに思ふに、右の人、いと口惜しく、をこなりとうち笑ひて、やや、さらにえ知らずとて、口を引き垂れて、知らぬことよとて、さるがうしかくるに、数ささせつ。
いと怪しきこと。これ知らぬ人は誰かあらむ。さらにかずささるまじと論ずれど、知らずと言ひてむには、などてか負くるにならざらむとて、次々のも、この人なむ皆論じ勝たせける。
いみじく人の知りたることなれども、覚えぬ時はしかこそはあれ。何しにかは、知らずとは言ひし。後に恨みられけること」
など、語り出でさせたまへば、御前なるかぎり、さ思ひつべし。
「口惜しう答へけむ」
「こなたの人の心地、うち聞きはじめけむ、いかが憎かりけむ」
なんど笑ふ。
これは忘れたることかは、ただ皆知りたることとかや。
第144段「正月十よ日のほど」
正月十よ日のほど、空いと黒う、雲も厚く見えながら、さすがに日はけざやかにさし出でたるに、似非者の家の荒畠と言ふ物の、土うるはしうも直からぬ、桃の木の若立ちて、いとしもとがちにさし出でたる、片つ方はいと青く、今片つ方は濃くつややかにて蘇芳の色なるが、日影に、見えたるを、いと細やかなる童の、狩衣はかけやりなどして、髪もうるはしきが上りたれば、引きはこえたる男児、また、こはぎにて半靴はきたるなど、木の下に立ちて、
「我に鞠打ち切りて」
などこふに、また、髪をかしげなる童の、袙ども綻びがちにて、袴萎えたれど、良き袿着たる三四人来て、
「卯槌の木の良からむ、切りて下ろせ。御前にも召す」
など言ひて、下ろしたれば、奪ひしらがひ取りて、さし仰ぎて、
「我に多く」
など言ひたるこそをかしけれ。
黒袴着たる男の走り来て乞ふに、
「待て」
など言へば、木の本を引き揺るがすに、危ふがりて、猿のやうにかいつきて喚くもをかし。
梅などの生りたる折にも、さやうにぞするぞかし。
第145段「きよげなる男の」
清げなる男の、双六を日一日打ちて、なほ飽かぬにや、短き灯台に火を点して、いとあかう掲げて、敵の、賽を責め請ひてとみにも入れねば、筒を盤の上に立てて待つに、狩衣のくびの顔にかかれば、片手しておし入れて、強からぬ烏帽子振り遣りつつ、
「賽いみじく呪ふとも、打ち外してむや」
と、心もとなげにうちまもりたるこそ、ほこりかに見ゆれ。
第146段「碁をやむごとなき人のうつとて」
碁を、やむごとなき人の打つとて、紐うち解き、ないがしろなる気色に拾ひ置くに、劣りたる人の、居住まひも畏まりたる気色にて、碁盤よりは少し遠くて及びて、袖の下はいま片手して控へなどして、うち居たるもをかし。
第147段「恐ろしげなるもの」
恐ろしげなるもの、橡の笠。焼けたる所。水ふぶき。菱。髪多かる男の洗ひて干すほど。
第148段「きよしと見ゆるもの」
清しと見ゆるもの、土器。新しき金鋺。畳に差す薦。水を物に入るる透影。

