『発心集』第2巻(第13話~第25話)現代語訳全文|わかりやすい口語訳で読む

 このページでは、鴨長明『発心集』第2巻(第13話~第25話)の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容を保ちながら、わかりやすく読みやすい口語訳にしました。人名・地名・仏教語などの読みにくい漢字には、現代仮名遣いのふりがなを付けています。

 原文とあわせて読みたい方は、『発心集』第2巻(第13話~第25話)原文全文をご覧ください。

目次

第13話 安居院の聖と隠居の僧

 近ごろ、安居院に住む聖がいた。用事があって都へ出た道すがら、大路に面した井戸のそばで、身分の低い尼が物を洗っていた。その尼が聖を見て、

「ここに、あなたにお会いしたいという方がおられます」

 と言った。

「どなたという方ですか」

 と尋ねると、

「お会いになれば、ご本人がおっしゃるでしょう」

 と言って、さらに、

「とにかく、ちょっとお立ち寄りください」

 としきりに勧めるので、不思議に思いながらも尼を先に立てて入って行った。すると、ずっと奥まった所に小さく造った家があり、年老いた僧が一人住んでいた。

 その僧の話を聞くと、こうであった。

「まだ一度もお目にかかったことがないのに、このようなお願いをするのは唐突ですが、私はここで、形ばかりながら後世のための勤めをしてまいりました。しかし、知り合いもなく、善知識と頼む人もおりません。また、私が死んだ後のことを取り計らってくれる人も思い当たりませんので、『誰でも、後世を願う人と見える方が通りかかったら、必ずお呼びしなさい』と、この尼に漠然と頼んでおいたのです。さて、もしお引き受けくださるなら、このような粗末な所ではありますが、あとに残る者もおりませんので、『あなたにお譲りしよう』と思っています。ここに住んでいること自体は悪くありません。むしろ静かでございます。ただ、隣に検非違使が住んでいて、罪人を責め問いただす声などが聞こえ、うるさくてなりませんので、『どこかへ移りたい』とも思うのですが、そうはいっても『もう長くはないこの身なのだから』と思い、どうしたものかと迷っているのです」

 などと、細かに語った。

 この聖は、

「このようなお話を承ったのも、きっと何かの縁なのでしょう。おっしゃることは、私にとって少しも難しいことではありません」

 と言って固く約束し、その後も間を置きすぎないように訪ねては様子を見ながら過ごした。

 それからほどなく、その僧が亡くなった時には、約束どおり行き会って、臨終の世話をした。僧は弥勒を信仰する持者であったので、弥勒の名号を唱え、真言なども所定の数だけ唱えて、望んだとおりの臨終を迎えた。僧が言っていたとおり、葬送などについて口出しする者もいなかった。

 しかし、この家はあの尼に与えた。そして聖が、その尼に、

「あの方は、どのような人でいらしたのですか。また、何を頼りに暮らしておられたのですか」

 などと尋ねると、

「私も詳しいことは知りません。思いがけない縁でお仕えするようになり、長年お世話をしてまいりましたが、どなたという方だったのかもわかりません。また、知り合いが訪ねて来ることもありませんでした。ただ、いつも一人きりで静かに暮らしておられました。暮らし向きは二人分ほどのものを、誰とも知れない人が、なくなりそうになる頃合いを見計らって届けてくださって、それで過ごしておられました」

 と語ったという。

 これも、何かいわれのある人だったのであろう。

第14話 禅林寺の永観律師

 永観律師という人がいた。長年、念仏を願う心が深く、名誉や利益を求めず、世を捨てたような暮らしをしていたが、それでも情は深く、世話になった人を忘れることがなかったので、ことさらに深山へ入ろうとはしなかった。東山の禅林寺という所に籠もって暮らし、人に物を貸すことを、日々の暮らしを支えるほどの仕事としていた。

 物を貸す時も返してもらう時も、ただ相手の心に任せて扱ったので、「仏の物だから」といって、少しも道理に背くことはしなかった。ひどく貧しくて返せない者は、自分の前へ呼び、その物の価値に応じた回数だけ念仏を唱えさせ、それを返済の代わりにした。

 東大寺の別当が空席になった時、白河院はこの人を別当に任じられた。聞いた人々は耳を疑い、「まさか引き受けまい」と言っていたが、意外にも永観は辞退しなかった。

 その時、長年の弟子や召し使ってきた者たちは、「私にも、私にも」と争って東大寺の荘園を望んだが、永観は一か所も彼らのためにはせず、すべて寺の修理費に充てた。自分が東大寺へ行く時には、見栄えのしない馬に乗り、寺に滞在する間の食料を小法師に持たせて入った。

 こうして三年のうちに修理を終えると、すぐに辞任を申し出た。院もそれについて何もおっしゃらず、別の人を別当に任じられた。

 あまりによく双方の考えが一致したような成り行きだったので、当時の人々は、「寺が荒れているのを御覧になって、『この人でなければ、安心して修理を任せられる者はいない』と院がお考えになって命じられたのを、律師もそのお心を理解しておられたのだろう」と言ったという。

 永観は深く罪を恐れていたので、長年寺の仕事をしたけれども、寺の物をほんのわずかも私用に使うことなく終えた。

 この禅林寺に梅の木があった。実のなる時期になると、実をむだに落とさず、毎年取って、薬王寺という所に多くいる病人へ日々施させたので、近くの人々はこの木を「悲田梅」と名づけた。

 今ではたいそうな老木となり、花もわずかしか咲かず、木も傾きながら、昔の形見として残っているという。

 ある時、その堂へ客人が参詣して来たところ、永観は算木をいくつともなく広げて並べ、人の方へ目を向けることさえなかった。客人は、「『律師は貸し付けをして、それで生活しておられる』と聞いているから、その利息を計算しているのだろう」と思って見ていた。やがて永観は算木を並べ終えて片づけ、客人と対面した。

 そこで客人が、

「先ほど算木を並べておられたのは、何のためだったのですか」

 と尋ねると、

「長年唱えためてきた念仏の数が、わからなくなってしまったので」

 と答えられた。

 それだけなら驚くほどのことではないが、この人がしたことだと思うと尊く感じられた、と後に人が語ったのである。

第15話 内記入道寂心という人

 村上天皇の御代に、内記入道寂心という人がいた。宮中に仕えていたころから仏道を求め願う心を持ち、何につけても慈悲深い人であった。

 大内記として記録すべき用事があって内裏へ参った時、左衛門の陣の辺りで、一人の女が涙を流して泣きながら立っていた。

「何があって泣いているのですか」

 と尋ねると、

「主人の使いで、石の帯を人から借りて持って帰る途中に落としてしまいました。主人からもひどく叱られるでしょう。あれほど大切な物をなくした悲しさに、帰る気にもなれず、どうしてよいかわからないのです」

 と言った。

 寂心は心の中で、「なるほど、それはつらいだろう」と気の毒に思い、自分が締めていた帯を解いて女に与えた。「元の帯ではないけれど、何もなくして申し開きのしようがないよりは、これを持って帰れば、罪も少しは軽くなるだろう」と言うと、女は手をすり合わせて喜び、帰って行った。

 寂心は、その場では帯がなくなったので人目を避けていたが、行事が始まると、「遅い、遅い」とせき立てられたため、ほかの人の帯を借りて、その公務を務めた。

 中務宮が漢文を学ばれていた時にも、少し教え申し上げては、その合間ごとに目を閉じ、いつも仏を念じ申し上げていた。

 ある時、その宮から馬を賜ったので、それに乗って参上した。道中、堂や塔は言うまでもなく、たった一本の卒塔婆が立つ所でも必ず馬から下り、恭しく礼拝した。また草の見える所ごとに馬が立ち止まって食べるのを、そのまま馬の心に任せ、あちらこちらへ寄り道しながら進んだので、朝に家を出たのに、未の刻から申の刻ごろになってしまった。

 舎人はひどく腹立たしく思い、馬を荒々しく打った。すると寂心は涙を流し、声を上げて泣き悲しんで言った。

「数多くいる畜生の中で、この馬がこのように私と近しい関係になったのも、深い宿縁があるからではないか。過去世の父母であるかもしれない。それなのに、どうしてそんな大きな罪を作るのだ。まことに悲しいことだ」

 と驚き騒いだので、舎人は言葉もなく、そこから帰って行った。

 このような心の人だったので、『池亭記』という書き残した文章にも、「身は朝廷にありながら、心は隠遁にある」と書いてあるという。

 年を取った後、髪を剃って横川へ上り、仏法を学んだ。増賀上人がまだ横川に住んでおられたころ、この寂心を教えようとして、「止観の明らかで静かなことは、これまでの時代にも聞いたことがない」と読み上げると、寂心はただ泣き続けた。増賀は、「そんな心で、どうしてこんなに早く泣くのだ。まったく、かわいげのある僧の道心だことよ」と言い、拳を握って打たれたので、寂心は、「私も困りますし、ほかの人の迷惑にもなりましょう」と言って立ち去った。

 しばらくして、「このままではいられません。この文を教えていただきたい」と言った。増賀が「それならば」と思って読まれると、また前と同じように泣いた。再び厳しく叱られたため、その後の言葉も聞かないまま終わってしまった。

 何日かたっても懲りず、増賀の機嫌をうかがいながら恐る恐る教えを受けたが、やはり同じように、前にもまして泣いた。その時には増賀も涙をこぼし、「本当に深い御法を尊く感じているからなのだ」と心を打たれ、今度は静かに教え授けられた。

 このようにして修行を重ね、ついにはたいへん高い徳を得たので、御堂関白の入道殿も寂心から戒を受けられた。

 さて、この聖人が往生した時、入道殿は御諷誦などをなさり、さらし布を百、千というほどお与えになった。その請文には、三河入道が秀句を書き留めたという。

 昔、隋の煬帝が智者大師に報いた時には、千人の僧のうち一人分を余した。

 今、左丞相が寂公を弔うさらし布は、百千という数に満ちている。

 と書かれていたという。

第16話 三河聖人寂照の入唐と往生

 三河の聖というのは、大江定基という博士のことである。

 三河守になった時、もとの妻を捨て、この上なく愛しく思った別の女を連れて任国へ下った。ところが、その国で女が病にかかり、ついには亡くなってしまったので、定基の嘆き悲しみは限りなかった。

 恋い慕うあまり、遺体を葬ることさえせずに何日も過ごし、日に日に変わってゆく姿を見ているうちに、ますますこのつらい世の厭わしさを思い知らされ、仏道を求める心を起こしたのである。

 髪を剃った後、乞食をしながら歩いていたが、「自分の道心が本当に起こったものか試してみよう」と思い、かつての妻のもとへ行って物を乞うた。妻は定基を見て、「私につらい思いをさせた報いに、こうなればよいと思っていました」と恨みを言って向き合った。しかし定基は何とも感じなかったので、妻は「あなたの徳によって、きっと仏になられるでしょう」と言い、手をすり合わせて喜んで出て行った。

 その後、あの内記の聖、寂心の弟子となって東山の如意輪寺に住んだ。さらに横川へ上り、源信僧都にお会いして、深い仏法を学んだ。

 こうしてついに唐へ渡り、言葉では言い尽くせないほどの霊験を現したので、大師の名を得て、「円通大師」と呼ばれた。

 往生した時には、仏が迎えに来る音楽を聞いて漢詩を作り、和歌を詠んだということが、唐から書き送られてきた。

 笙や歌の音が、はるかな一片の雲の上から聞こえる。

 聖衆が迎えに来られるのは、日が沈む前である。

 雲の上から、はるかに音楽の音が聞こえてくる。ほかの人にも聞こえているのだろうか。それとも私の聞き違いなのだろうか。

第17話 仙命上人と覚尊上人

 近ごろ、比叡山に仙命聖人という尊い人がいた。その修行は理観を中心とし、いつも念仏を唱えていた。

 ある時、持仏堂で観念していると、空から声がして、

「ああ、尊いことばかり観じておられることだ」

 と言った。不思議に思って、

「どなたが、そのようにおっしゃるのですか」

 と尋ねると、

「私たちは、この地の三聖である。あなたが発心された時から、一日に三度、空を飛んで来てお守りしている」

 と答えられたという。

 この聖は、自分の日々の食事のことなどまったく気にしなかった。一人使っていた小法師が山の坊々を一度ずつ回り、一日分の食事を乞うて養う以外には、何一つ人の施しを受けなかった。時の后の宮が願を起こし、「世にすぐれて尊い僧を供養しよう」と思って広く探されたところ、この聖がたいへん尊いと聞かれた。そこで后ご自身が布の袈裟を縫われたが、「本当のことを言えば、きっと受け取るまい」と思われ、あれこれ工夫して小法師と相談し、「思いがけない人からいただいたものです」と言って差し上げさせた。聖はそれを受け取り、よくよく見て、「三世の仏がお受け取りください」と言い、谷へ投げ捨ててしまったので、どうしようもなく、そのままになった。

 おおむね、人から求められた物は、何一つ惜しむことがなかった。板敷きの板を欲しがる人がいると、自分の坊の板を二、三枚外して与えたこともあった。そのため、東塔の鎌倉に住む覚尊聖人が、親しい間柄なので暗い夜に訪ねて来た時、板がなくなっていることを知らずに落ち込んでしまい、

「ああ、痛い」

 と言った。それを聞いた仙命は、

「あなたは油断の多い人ですね。もしそのまま死ぬことになっても不思議ではない身ではありませんか。『ああ、痛い』などという言葉を、最期の言葉にしてよいものですか。『南無阿弥陀仏』とこそ唱えるべきでしょう」

 などと言った。

 この仙命上人が、覚尊の住む鎌倉へ行った時のことである。覚尊は急な用事ができ、客である仙命を残したまま、「ちょっと外へ行ってきます」と急いで出ようとした。ところが、また中へ戻り、しばらく何かをしていた。不思議に思い、覚尊が出た後で中を見てみると、あらゆる物にことごとく封をしてあった。仙命は、「何とも感じの悪いことだ。外出するたび、いつもこんなに厳重にするわけではあるまい。私を疑っているに違いない。早く帰って来ればよい。このことを指摘して恥をかかせてやろう」と思った。

 そう思っているうちに、覚尊が帰って来た。言おうと待ち構えていたので、姿を見るやいなや、このことを言った。覚尊は答えた。

「いつも、このように封をしているわけではありません。また、人に物を取られるのを惜しんでいるのでもありません。ただ、あなたがおられるので、このように片づけたのです。というのは、もしこれらの物が少しでもなくなったなら、私は凡夫ですから、あなたを疑う心が起こるかもしれません。それはたいへんな罪障になると思われるので、自分の心が信用できないためにしたことなのです。いったい、どれほどの物を惜しむというのでしょう」

 と言ったという。

 その後、「鎌倉の聖、覚尊が先に亡くなった」と聞くと、仙命聖人は、「きっと往生しただろう。物に封を付けたほど、自分の心を巧みに用心した人なのだから」と言った。

 その後、夢の中で覚尊に会った。仙命は、まず最初に、

「どの位に往生したのですか」

 と尋ねると、

「下品下生です。それさえ、もう少しでかなわないところでしたが、あなたのおかげで往生を遂げました。日ごろ橋を架けたり、道を作ったりした行いだけでは、かなわなかったでしょう。あなたに勧められて、時々念仏を唱えていたので往生できたのです」

 と答えたという。

 また、覚尊が、

「仙命の往生はかなうでしょうか」

 と尋ねた。

「そのことに疑いはない。もう上品上生に決まっておられる」

 と答えたように夢に見えたという。

第18話 摂津国妙法寺の楽西聖人

 摂津国和田の奥に、妙法寺という山寺がある。そこに楽西という聖人が住んでいた。もとは出雲国の人である。

 まだ俗人であった時、人が田を耕すため、耐え難そうにしている牛を打ち責めながら鋤を引かせているのを見て、「このように生き物を苦しめながら、無理をして作り上げたものを、何もせずに受け取って使うのは、たいそう罪深いことだ」と思った。それをきっかけに発心し、そのまま出家した。

 その後、「住む所を探そう」と国中を見て歩いたところ、縁があったのであろう、この場所が心にかなったので、「ここに住もう」と思った。ある僧の庵を訪ねると、主人は少しの間外出しており、ほだという薪のような物が重ねて置いてあった。楽西は何も断らずに中へ入り、木をたくさんくべて、背中を火で温めながら座っていた。

 主人が帰って来て言った。

「何者なのだ。人の家へ来て、何の断りもなく、勝手な顔をして火を焚いて座っているとは」

 と言い、「何というひどいことをするのだ」と腹を立てたので、楽西は言った。

「私は、少しばかり仏道を求める心を起こし、さまよい歩く修行者だ。おまえも私も、ともに仏の弟子ではないか。知り合いかどうかを、それほど問題にすべきことだろうか。風邪をひいて苦しく、この火を見過ごせなかったので座っているのだ。木をどれほど焚いたというのか。惜しいと思うなら、薪を取って返そう。また、それでもこの火に当たるなというのなら、立ち去ろう。物惜しみする者の火には当たらずにいればよい。簡単なことだ。出て行こう」

 と言った。

 主人も少しは道心のある者だったので、

「事情を知らなかったので、そう言っただけです。あなたのおっしゃることにも道理があります。それなら、ゆっくりしていってください」

 と言い、事情を尋ねた。楽西が自分の志などを話すうちに、この僧と親しくなり、そのまま山中の人里離れた所を切り開いて、形ばかりの庵を結び、住み始めたのである。

 こうして尊い修行を続け、何年もたったころ、近くの福原入道大臣がこの聖のことを聞き、「本当に尊い人だ。どのような様子か見てこい」と、守俊を使者にして手紙を送られた。「近い所にこのように住んでいるので、頼りに思っている。何か必要なことがあれば、必ず言ってほしい」などと、丁重に伝えさせ、贈り物もされた。

 聖人は答えた。

「お言葉はありがたく承ります。ただ、私には修行も徳もありませんので、このようなお言葉をいただくような身では決してありません。どのようにお聞きになって、気軽に御使いなどを下されたのでしょうか。このことを驚いております。お贈りくださった品もお返しすべきところですが、御厚意を無下にするのも恐れ多いので、今回だけは受け取ります。今後はお贈りくださらないでください。私からお願いするような用事はまったくありません。また、お知りおきいただいても、お役に立てることは少しもありません」

 と、たいそうきっぱり申し上げた。

 使者が帰ってこのことを申し上げると、入道は、「本当に尊い人なのだな。しかし、あれほど離れようとする人をどうしようもない。こちらからなお何か言えば、かえってその心に背くことになろう」と言い、それからは訪ねることもなく、そのままになった。

 さて、聖はこの贈り物を寺の僧たちにあちこち分け与え、自分では少しも取らなかった。ある僧が不思議に思って、

「どうして、これをお受け取りにならないのですか。貧しい者が苦しい暮らしの中から、わずかな物を差し上げる時には、その志を重く見て、受け取っておられるようです。これほどの品々でも、あの殿にとってはいったい何ほどの物でしょう」

 と言うと、楽西は答えた。

「おっしゃることには道理があります。確かに、貧しい人の志は重い信施です。しかし、私が受け取らなければ、誰がそのわずかな物を受け取り、できる限りその志に報いようとするでしょう。それを返してしまうなら、自分の罪だけを恐れて、人を救う心を欠くことになるでしょう。ですから、『それでは、きっと仏のお心にも背くことになるだろう』と思い、しかたなく受け取るのです。ところが、この入道殿が功徳をなさろうとするなら、思いどおりにならないことが何かありましょうか。善知識を探すにしても、修行も徳も高い人は多くいます。誰が参上しないでしょう。この私のことなど御存じなくても、少しも困ることはありません。たいそう大きな権勢をお持ちのようですから、きっと罪もおありでしょう。『これといった徳もない自分が、その施しを一身に引き受けても仕方がない』と思って、お断りしたのです」

 と言ったという。

 あちらこちらから物を得て、たくさんになると、寺の僧たちを呼び集めて施した。後のために蓄えようという考えはまったくなかった。その山寺の近くに、独り身の年老いた女で、耐え難いほど貧しい者がいた。聖はこの女を哀れみ、いつも物を与えていた。師走の大晦日、人を通じて餅をたくさんもらった時、その老婆を思い出し、夜がたいそう更けてから、自分で持って行った。その途中、長年持っていた念珠を落としてしまった。

 帰ってから思い出したが、木の茂る山を分けて行く道なので、どこへ落としたかわからず、探しにも行かなかった。「長年修行の功徳を込めてきた念珠なのに」と嘆きながら、新しい数珠を作ってもらおうと人に頼もうとしていた時、烏が何かをくわえ、堂の上でからからと音を立てているのを見ると、それは自分が落とした念珠であった。「烏まで、なんとありがたいことか」と言って、念珠を返してもらった。

 それ以来、この烏は聖になつき、人が物を持って来る時には必ずやって来て鳴いた。烏の止まる遠さを見て、「あと何日で来る」と見当をつけると、少しも違わなかった。ほとんど護法神とでも言えそうな様子であった。

 また、この庵の前には小さな池があった。蓮が多く、花盛りには水面も見えず、まるで紅梅色の絹を一面に覆ったようであった。ある年の夏、花が一つも咲かなかったので、人が不思議に思うと、聖は、「今年は、私はこの世を去る年なので、『私が行く所で咲こう』と思って、ここには咲かないのだ」と答えた。本当にその年、正念を保った見事な臨終を迎えて亡くなった。

 このような不思議なことを多く聞いているが、煩雑になるので記さない。

第19話 相真、死後に袈裟を返す

 摂津国の渡辺という所に、長柄の別所という寺がある。そこに近ごろ、暹俊という僧がいた。若いころは比叡山で学問などをしていたが、いつの間にかこの寺に住みついたのである。

 この僧がどのように伝え持っていたのか、昔、文殊菩薩が法を説かれた時の御袈裟だという、蓮の糸で織った袈裟があった。もとは比叡山の禅瑜僧都が伝えていたもので、池上の皇慶阿闍梨の時、乙護法に命じて無熱池で洗わせたと伝えられる袈裟である。

 暹俊は八十歳ほどになるまで、これといった弟子がいなかった。その近くの柳津の別所という所に、相真という六十歳を過ぎた僧がいた。この袈裟の由緒がたいそう尊いことを聞き、「これを譲り受けたい」と思って、暹俊の弟子になった。

 暹俊が言った。

「袈裟を受け継ぐために弟子になられた志は、並々ではありません。それなら三衣のうち、まず五条袈裟を今お譲りしましょう。残りは私の死後に受け継いでください」

 と言った。相真は喜び、それを受け取って帰った。

 ところがその後、思いがけず相真の方が先に病気になった。死ぬ時、この袈裟を掛け、弟子たちに言った。

「私が死んだら、この袈裟を必ず一緒に埋めなさい」

 と言い残して亡くなったので、弟子たちは言われたとおりにして、日が過ぎた。

 その後、暹俊は相真の弟子たちへ言い送った。

「袈裟はすべて亡くなった相真に譲ると約束していましたが、思いがけず先立たれてしまったので、袈裟が分かれたままであるべきではありません。返してください」

 と言った。弟子たちは、亡くなった相真が言い残したことなどをありのままに説明したが、暹俊はなお信じず、重ねて尋ねた。そのため相真の弟子たちは、「このような疑いを受けるのは困る」と、誓文を書いて送った。

 そこまでされては、これ以上言うこともできないので、暹俊は嘆きながら年月を過ごした。そうして一年がたった長寛二年の秋、夢の中に亡くなった相真が現れて言った。

「私は、この袈裟を掛けた功徳によって兜率天の内院に生まれました。ただ、袈裟は私が言い残したとおり一緒に埋めてもらいましたが、三衣がそろわないことをあなたが深く嘆いておられるので、お返しします。早く、もとの箱を開けて御覧なさい」

 と言った。

 夢から覚めて三衣の箱を開けてみると、袈裟はもとのように畳まれて、箱の中にあった。本当に不思議なことなので、暹俊は涙を流しながら恭しく礼拝した。

 その後、暹俊が亡くなる時にも、この袈裟を掛けて往生した。その弟子の弁永という僧がこれを受け継ぎ、また同じように往生した。弁永が往生したのは十年以内のことであったので、誰もが聞き伝えていたことである。

 昔の物語などには不思議なことが多いが、その名残は年とともに滅びてゆく。まれに残ったものも、世が末になり、人の力が衰えて、不思議なことを現すのは難しい。これは濁った末世に、まことに類の少ない出来事である。そこで、仏縁を結ぶため、わざわざ参詣してこの袈裟を拝む人も多いのであろう。

第20話 真浄房、しばらく天狗となる

 近ごろ、鳥羽の僧正と呼ばれる、たいへん尊い人がおられた。その弟子で、長年同じ所に住んでいた僧がいた。名を真浄房といった。

 極楽往生を願う心が深く、師の僧正に申し上げた。

「月日がたつにつれ、後世のことが恐ろしくてなりませんので、『学問の道を捨て、ひたすら念仏に励もう』と思っております。ちょうど法勝寺の三昧僧の役が空いております。そこへ入れるよう、お取り計らいください。身を非人の身分として、その三昧僧の仕事で命をつなぎ、後世の救いを得たいと思います」

 と申し上げると、

「そこまで思い定めたとは、感心なことだ」

 と言って、すぐにそのように取り計らわれた。

 その後、真浄房は望みどおり、静かに三昧僧の坊に住み、絶え間なく念仏を唱えて月日を送った。

 隣の坊には叡泉房という僧がいた。同じく後世を思う人ではあったが、修行の仕方は異なっていた。叡泉房は地蔵を本尊として、さまざまな行を行った。多くの病人や物乞いを哀れみ、朝夕、物を施した。真浄房の方は阿弥陀仏を頼み、絶え間なく名号を唱えて極楽を願った。また乞食を哀れんだので、さまざまな乞食が争うように集まった。二人の道心者はすぐ近くに、垣一つを隔てて住んでいたが、それぞれに習慣ができていたため、病人は真浄房の方へ姿を見せず、乞食も隣へ行こうとはしなかった。

 そんな時、あの鳥羽の僧正が病気になって危篤だと聞き、真浄房は見舞いに参った。僧正はひどく弱って臥しておられたが、真浄房を近くへ呼び入れて言われた。

「長年、親しく思い慣れてきたのに、この二、三年は離れていて、それだけでも恋しく思っていた。そのうえ今、長い別れをしようとしている。今日が最期なのだろうか」

 と、最後まで言い切れずに泣かれた。真浄房もたいそう悲しく思い、涙を抑えて、

「そのようにお思いにならないでください。今日お別れ申し上げるとしても、後の世では必ずお会いして、お仕えいたします」

 と申し上げた。

「同じ心でそう思っていてくれたとは、ますますうれしいことだ」

 と言って僧正が横になられたので、真浄房は泣く泣く帰った。それからほどなく、僧正は亡くなられた。

 こうして何年かたったころ、隣の叡泉房も病気になり、二十四日の明け方、地蔵の御名を唱えながら、たいそう見事な臨終を迎えたので、見聞きした人々は皆、尊んだ。

 真浄房もそれに劣らぬほど後世を願う人であったので、誰もが「必ず往生する人だ」と思っていた。ところが二年ほどして、まったく理解しがたい物狂いのような病を患って亡くなってしまった。

 近くの人々は不思議に思い、残念なことだと感じながら年月を過ごした。そのうち、真浄房の老いた母が一人残って嘆いていたが、ある時また、もののけに取り憑かれたような異変が起こった。親しい人々が集まって騒いでいると、その母の口を借りて、こう言った。

「私は、ただのもののけではない。亡くなった真浄房が参っているのだ。私の死にざまを誰もが理解しがたく思っているようなので、そのことも申し上げようと思って来た。私は、ひたすら名誉や利益を捨て、後世のための勤め以外には何もしていなかったので、本来なら生死の迷いにとどまるはずの身ではなかった。ところが、師の僧正が別れを惜しまれた時、『後の世では必ず参り会って、お従いします』と申し上げた。この言葉を今、証文のようにされて、『あの時そう言ったではないか』と、どうしても暇をくださらない。そのため、思いもしなかった道へ引き入れられたのである。仏のように頼み申し上げていたために、よけいなことを言い、このような思いがけない目にあった。ただ、天狗というものは実際にいる。来年で六年になる。『その月には、どうにかこの道を抜け出して、極楽へ参りたい』と思っているので、必ず妨げなく苦しみを免れられるよう、供養してほしい。それにしても、生きていた時には、『望みどおり母より後に死ねたなら、母の善知識となって後世を弔おう。もし思いがけず先立ったなら、母を浄土へ導こう』と願っていた。ところが思いもよらず今はこのような身となり、母に近づいて来れば、かえって苦しませてしまう」

 と言い終えることもできず、さめざめと泣いた。聞く人々も皆、涙を流して哀れんだ。

 しばらくゆっくり話した後、たびたびあくびをし、やがて母は普通の状態に戻った。そこで人々は、力の及ぶかぎり仏像や経などを書写して供養した。

 そうしているうちに年が改まった。その冬、また母が病気になった。あれこれ話しているうちに、母の口を借りて言った。

「皆さん、あれほどのことがあった真浄房が、また参って来た。そのわけは、『心をこめて後世を弔ってくださったお礼を申し上げたい』と思うからである。そのうえ、明け方には、すでにこの天狗の身を離れることができた。それをどうしてわかるか、そのしるしをお見せしよう。これまで、私の身の臭く穢れたにおいを嗅いでみなさい」

 と言って息をためて吹き出すと、家中がひどく臭くなり、耐え忍ぶこともできないほどだった。

 その後、夜通し話をし、明け方になると、「今だ。すでにこの不浄の身を改め、極楽へ参る」と言って、また息を吐いた。すると今度はたいそう香ばしく、家中に芳香が満ちた。

 この話を聞いた人は、「たとえどれほど修行の徳が高い人であっても、『来世でも必ずこの人と会おう』という誓いは立てるべきではなかったのだ。真浄房はその約束につまずき、悪い道へ入ってしまったから、思いがけずこのようなことになったのだ」と言ったという。

第21話 助重、一声の念仏により往生する

 承久のころ、前滝口の助重という者がいた。近江国蒲生郡の人である。

 盗人に出会って射殺されたが、その矢が背中に当たった時、声を上げて、「南無阿弥陀仏」とただ一声唱えて死んだ。その声は高く、隣の里にまで聞こえた。

 人が来て見ると、助重は西に向かい、座ったまま目を閉じていた。

 そのころ、入道寂因という者がいた。助重の知人であったが、家が近くなかったので、この出来事を知らなかった。その夜、夢の中で広い野を歩いていると、そばに死人があり、多くの僧が集まって、「ここに往生した人がいる。おまえもこれを見なさい」と言った。行って見ると、「助重ではないか」と思ったところで夢が覚めた。「不思議な夢だ」と思っていると、朝になって助重に仕えていた童が来て、その死を知らせた。

 また、ある僧が近江国を修行していた。夢の中で人が、「今、往生した人がいる。行って仏縁を結びなさい」と告げた。その場所は助重の家であった。月日もまったく一致していた。

 先の真浄房の長年の修行と、助重の一声の念仏とでは、その積み重ねはまるで違う。それなのに、真浄房は悪道にとどまり、助重は浄土に生まれた。このことからわかる。凡夫の愚かな心では、人の徳の深さを計ることはできないのである。

第22話 橘大夫、発願により往生する

 少し昔、常磐橘大夫守助という者がいた。八十歳を過ぎても仏法を知らず、斎日にも精進せず、法師を見ても尊ぶ心がなかった。教え勧める人がいれば、かえってその人をあざけった。まったく愚かな心の極まった人だと見られていた。

 ところが伊予国に所領があり、そこへ下った。永長年間の秋のことで、これといった病気もないまま、正念を保って臨終を迎え、往生した。須磨の方から紫の雲が現れ、芳しい香りが満ちて、見事な瑞相がはっきりと現れた。

 これを見た人々は不思議に思い、その妻に、

「どのような修行をしていたのですか」

 と尋ねた。妻は答えた。

「もともと考えが邪で、功徳を積むようなことは何もしませんでした。ただ、一昨年の六月から、毎晩、身の清浄不浄にもかまわず、衣服を整えることもせず、西に向かって一枚ほどの文を読み、手を合わせて拝むことだけはしておりました」

 と言った。

 その文を探し出して見ると、発願文であった。その言葉には、こう書かれていた。

「弟子である私は、謹んで西方極楽の教主、阿弥陀如来、観音・勢至、そのほかすべての聖衆に申し上げます。私は得がたい人の身を受け、たまたま仏法に出会いましたが、もともと心が愚かで、まったく修行することがありません。ただむなしく日を送り、このまま三悪道へ帰ろうとしています。ところが阿弥陀如来は、私と深い縁がおありになるため、濁った末世の衆生を救おうとして大願を起こされました。その本願を尋ねてみると、『たとえ四重・五逆の罪を犯した人であっても、命が終わろうとする時、「わが国に生まれたい」と願い、「南無阿弥陀仏」と十度唱えるなら、必ず迎えよう』と誓っておられます。今、私はこの本願を頼むので、今日から命の限り、毎晩西に向かい、阿弥陀仏の名号を唱えます。願わくは、今夜眠っている間に命が尽きることがあれば、これを最期の十念として、本願に違わず極楽へ迎えてください。たとえ命が残って今夜を過ごしたとしても、最期が願いどおりにならず、阿弥陀仏を唱えることができなかったなら、日ごろの念仏を最期の十念としてお受けください。私は罪が重いといっても、まだ五逆罪を犯してはいません。功徳は少ないといっても、深く極楽を願っています。つまり、本願に背くところはありません。必ずお迎えください」

 と書いてあった。

 これを見た人々は涙を流して尊んだ。

 その後、多くの人がこの文を書き写し、信じて実行し、霊験を見た人も多かったという。

 また、ある聖人は、このような発願文を読むことはなかったが、夜眠っている時以外は、時刻が変わるたびに今が最期だと思って十念を唱え、これだけを修行として往生を遂げたという。

 修行することが少なくても、いつも無常を思い、往生を心にかけていることこそ、最も大切なことである。「もし人が心に忘れることなく極楽を思っていれば、命が終わる時には必ずそこに生まれる。たとえば、木が曲がっている方へ倒れるようなものだ」などと言われている。

第23話 ある聖人、客人に会わない

 長年、仏道を求める心が深く、念仏を怠らない聖がいた。

 知り合いの人が、「お会いしたい」と言って、わざわざ訪ねて来たところ、聖は、

「たいへん大切なことで手が離せませんので、お会いすることができません」

 と言った。

 弟子は「おかしい」と思い、その人が帰った後に、

「せっかく来られたのに、お会いにならず帰されたのですね。差し迫った用事があるようにも見えませんでしたのに」

 と言うと、聖は答えた。

「得がたい人の身を得ることができた。この一生で生死の迷いを離れ、極楽に生まれようと思っている。これこそ、自分にとってこの上なく大切な営みである。いったい、これより大事なことが何かあるだろうか」

 と言ったという。

 この話をあまりにも厳しすぎると思うのは、私の心がそこまで及ばないからなのであろう。

坐禅三昧経には、こうある。

 今日、この事を営む。

 明日、あの事を行う。

 楽しみに執着して苦しみを見ようとせず、

 死という賊が来ることにも気づかない、などとある。

 世の中に生きる人も、さすがに後世をまったく思わない者はいない。「今日はこれをしよう。明日はあれをしよう」と考えているうちに、無常という敵が次第に近づき、命を失うことには気づかないのである。

第24話 舎衛国の老翁、宿善を顕さない

 昔、釈迦如来が舎衛国におられた時、弟子の阿難尊者を連れて城の外へ出られると、みすぼらしい老人が、老女と二人連れで道を歩いていて、仏にお会いした。二人とも髪は白く、顔は皺だらけで、骨と皮ばかりになって黒ずみ、衰えていた。身には汚れた物をわずかに結び合わせて着ていたが、肌さえ隠れていなかった。少し歩いては大きく息をつき、絶えず苦しそうに息をしていた。

 仏はこれを御覧になって、

「阿難、この老人が見えるか。この老人には、たいへん大きな宿善がある。まだ若く盛んな時に努めて、この世の幸いを願っていたなら、舎衛国第一の長者になっていただろう。迷いの世界を離れるために努めていたなら、三明六通を得た阿羅漢になっていただろう。次の盛んな時に努めていたなら、第二の長者となり、悟りを得ようと願ったなら阿那含の聖者になっていただろう。さらにその次の盛んな時に努めていたなら、第三の長者となり、悟りの果を得ようと志したなら斯陀含の聖者になっていただろう。しかし愚かにも怠けて、その盛りの時を過ごし、宿善を持ちながら何も願わなかったために、今このようにみじめな身となって、得がたい人間としての一生をむなしく過ごしてしまったのである」

 と仰せになった。

 私たちも、たまたま法華経に出会い、阿弥陀仏の慈悲の誓願を聞きながら、修行せず、むなしく惜しい月日を過ごしている。少しも違うところなく、この物乞いの老人と同じなのである。

第25話 善導和尚、仏を見る

 唐の善導和尚は、道綽禅師の弟子である。しかし、その師にもまさり、禅定の中で阿弥陀仏を拝し、わからないことを尋ね申し上げて、確かな証を得られた。

 師の道綽が善導に頼んで言った。

「私は朝夕、極楽往生を願っているが、それはかなうだろうか。このことが、どうしてもわからない。仏にお尋ね申し上げて、聞いてきてください」

 とおっしゃったので、善導はたちまち禅定に入り、このことを仏に尋ね申し上げた。

 仏は、

「木を切るなら、斧を下ろし続けよ。家に帰るなら、苦しみを嫌ってはならない」

 とおっしゃった。善導はこの二つの言葉を聞き、道綽に語られたという。

 この言葉の意味はこうである。木を切る時には、どれほど大きな木であっても、怠らず切り続ければ、最後まで切り倒せないということはない。途中で怠り、切るのを休んではならない。また家へ帰る時には、「苦しいから」といって途中にとどまってはならない。這ってでも、必ずたどり着かなければならない。

 志を深く持ち、怠らず続けるなら、往生には疑いがないということを教えられたのである。この教えは道綽だけに限るものではない。すべての行者に同じことである。

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