『平家物語』原文・現代語訳を全文公開! 品詞分解も順次追加中! 『平家物語』を読む

『平家物語』第5巻 原文全文

  • URLをコピーしました!

目次

都遷

 治承(ぢしやう)四年(よねん)六月(ろくぐわつ)三日(みつか)、福原(ふくはら)へ行幸(ぎやうかう)あるべしとて、京中(きやうぢゆう)ひしめきあへり。この日(ひ)ごろ都(みやこ)うつりあるべしときこえしかども、たちまちに今明(こんみやう)のほどとは思(おも)はざりつるに、こはいかにとて、上下(かみしも)さわぎあへり。あまっさへ三日(みつか)とさだめられたりしが、いま一日(いちにち)ひきあげて二日(ふつか)になりにけり。

 二日(ふつか)の卯刻(うのこく)に、すでに行幸(ぎやうかう)の御輿(おんこし)を寄(よ)せたりければ、主上(しゆしやう)は今年(ことし)三歳(さんざい)、いまだいとけなましうましましければ、なに心(こころ)もなう召(め)されけり。主上(しゆしやう)をさなうわたらせたまふ時(とき)の御同輿(ごどうよ)には、母后(ぼこう)こそまゐらせたまふに、これはその儀(ぎ)なし。

 御(おん)めのと、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)の北(きた)の方(かた)、帥(そつ)のすけ殿(どの)ぞ、一つ(ひとつ)の御輿(おんこし)に参(まゐ)られける。中宮(ちゆうぐう)、一(いち)院(ゐん)、上皇(しやうくわう)、御幸(ごかう)なる。摂政(せつしやう)殿(どの)をはじめたてまつって、太政大臣以下(だじやうだいじんいげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、我(われ)も我(われ)もと供奉(ぐぶ)せらる。三日(みつか)福原(ふくはら)へいらせたまふ。

 池(いけ)の中納言(ちゆうなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)の宿所(しゆくしよ)皇居(くわうきよ)になる。同(おなじき)四日(よつか)、頼盛(よりもり)家(いへ)の賞(しやう)とて正二位(しやうにゐ)したまふ。九条(くでう)殿(どの)の御子(おんこ)、右大将(うだいしやう)良通(よしみち)卿(きやう)こえられたまひけり。摂録(せつろく)の臣(しん)の御子息(ごしそく)、凡人(ぼんにん)の次男(じなん)に加階(かかい)こえられたまふこと、これはじめとぞきこえし。

 さるほどに法皇(ほふわう)を、入道相国(にふだうしやうこく)やうやう思(おも)ひ直(なほ)って、鳥羽殿(とばどの)をいだしたてまつり、都(みやこ)へいれまゐらせられたりしが、高倉(たかくら)宮(みや)御謀反(ごむほん)によって、また大(おほ)きにいきどほり、福原(ふくはら)へ御幸(ごかう)なしたてまつり、四面(しめん)に端板(はたいた)して、口(くち)一つ(ひとつ)あけたるうちに、三間(さんげん)の板(いた)屋(や)をつくって、おしこめまゐらせ、守護(しゆご)の武士(ぶし)には、原田(はらだ)の大夫(だいぶ)種直(たねなほ)ばかりぞさうらひける。

 たやすう人(ひと)の参(まゐ)りかよふこともなければ、童部(わらんべ)は籠(ろう)の御所(ごしよ)とぞ申(まう)しける。聞(き)くもいまいましうおそろしかりしことどもなり。

 法皇(ほふわう)、

「今(いま)は世(よ)の政(まつりごと)しろしめさばやとは露(つゆ)もおぼしめしよらず。ただ山々(やまやま)寺々(てらでら)修行(しゆぎやう)して、御心(おんこころ)のなぐさまばや」

 とぞおほせける。およそ平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)においては悉(ことごと)くきはまりぬ。

「去(さ)る安元(あんげん)より以降(いかう)、おほくの卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、あるいはながしあるいはうしなひ、関白(くわんぱく)ながしたてまつり、わが聟(むこ)を関白(くわんぱく)になし、法皇(ほふわう)を城南(せいなん)の離宮(りきゆう)にうつしたてまつり、第二(だいに)の皇子(わうじ)高倉(たかくら)の宮(みや)をうちたてまつり、いまのこるところの都(みやこ)うつりなれば、かやうにしたまふにや」

 とぞ人(ひと)申(まう)しける。

 都(みやこ)うつりはこれ先蹤(せんしよう)なきにあらず。神武天皇(じんむてんわう)と申(まう)すは、地神(ちじん)五代(ごだい)の帝(みかど)、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)の第(だい)四(し)の王子(わうじ)、御(おん)母(はは)は玉依姫(たまよりひめ)、海人(かいじん)の娘(むすめ)なり。神(かみ)の代(よ)十二代(じふにだい)の跡(あと)をうけ、人代(にんだい)百王(ひやくわう)の帝祖(ていそ)なり。辛酉(かのととり)の歳(とし)、日向国(ひうがのくに)宮崎(みやざき)の郡(こほり)にして、皇王(くわうわう)の宝祚(ほうそ)をつぎ、五十九年(ごじふくねん)といっし己未(つちのとひつじ)歳(とし)十月(じふぐわつ)に、東征(とうせい)して豊蘆原中津国(とよあしはらのなかつくに)にとどまり、このごろ大和国(やまとのくに)と名(な)づけたる畝傍(うねび)の山(やま)を点(てん)じて帝都(ていと)をたて、橿原(かしはら)の地(ち)をきりはらって宮室(きうしつ)をつくりたまへり。

 これを橿原(かしはら)の宮(みや)と名(な)づけたり。それより以降(いかう)、代々(だいだい)の帝王(ていわう)、都(みやこ)を他国(たこく)他所(たしよ)へうつさるること、三十度(さんじふど)にあまり四十度(しじふど)に及(およ)べり。神武天皇(じんむてんわう)より景行天皇(けいかうてんわう)まで十二代(じふにだい)は、大和国(やまとのくに)こほりごほりに都(みやこ)をたて、他国(たこく)へはつひにうつれず。

 しかるを成務天皇(せいむてんわう)元年(ぐわんねん)に、近江国(あふみのくに)にうつって志賀(しが)の郡(こほり)に都(みやこ)をたつ。

 仲哀天皇(ちゆうあいてんわう)二年(にねん)に、長門国(ながとのくに)にうつって、豊浦郡(とよらのこほり)に都(みやこ)をたつ。

 その国(くに)のかの都(みやこ)にて、御門(みかど)かくれさせたまひしかば、きさき神功皇后(じんぐうくわうごう)御(おん)世(よ)をうけとらせたまひ、女帝(によてい)として、鬼界(きかい)、高麗(かうらい)、契丹(きつたん)までせめしたがへさせたまひけり。異国(いこく)のいくさをしづめさせたまひて、帰朝(きてう)の後(のち)、筑前国(ちくぜんのくに)三笠(みかさ)郡(こほり)にして、皇子御誕生(わうじごたんじやう)、その所(ところ)をば宇美宮(うみのみや)とぞ申(まう)したる。

 かけまくもかたじけなく、八幡(やはた)の御(おん)ことこれなり。位(くらゐ)につかせたまひては、応神天皇(おうじんてんわう)とぞ申(まう)しける。その後(のち)神功皇后(じんぐうくわうごう)は、大和国(やまとのくに)にうつって、磐余稚桜宮(いはれわかざくらのみや)にまします。応神天皇(おうじんてんわう)は、同(おなじき)国(くに)軽島明(かるしまあかり)の宮(みや)に住(す)ませたまふ。

 仁徳天皇(にんとくてんわう)元年(ぐわんねん)に、津(つ)国(くに)難波(なには)にうつって、高津(たかつ)の宮(みや)におはします。履中天皇(りちゆうてんわう)二年(にねん)に、大和国(やまとのくに)にうつって、十市(とをち)の郡(こほり)に都(みやこ)をたつ。反正天皇(はんぜいてんわう)元年(ぐわんねん)に、河内国(かうちのくに)にうつって、柴垣(しばがき)の宮(みや)に住(す)ませたまふ。允恭天皇(いんぎようてんわう)四十二年(しじふにねん)に、また大和国(やまとのくに)にうつって、飛鳥(あすか)のあすかの宮(みや)におはします。

 雄略天皇(ゆうりやくてんわう)廿一年(にじふいちねん)に、同(おなじき)国(くに)泊瀬朝倉(はつせあさくら)に宮(みや)居(ゐ)したまふ。継体天皇(けいたいてんわう)五年(ごねん)に山城国(やましろのくに)綴喜(つづき)にうつって十二年(じふにねん)、その後(のち)乙訓(おとくに)に宮(みや)居(ゐ)したまふ。宣化天皇(せんくわてんわう)元年(ぐわんねん)に、また大和国(やまとのくに)にかへって、檜隈(ひのくま)の入(い)野(の)の宮(みや)におはします。孝徳天皇(かうとくてんわう)大化(たいくわ)元年(ぐわんねん)に、摂津国(せつつのくに)長柄(ながら)にうつって、豊崎(とよさき)の宮(みや)に住(す)ませたまふ。

 斉明天皇(さいめいてんわう)二年(にねん)、また大和国(やまとのくに)にかへって、岡本(をかもと)の宮(みや)におはします。天智天皇(てんぢてんわう)六年(ろくねん)に、近江国(あふみのくに)にうつって、大津(おほつ)宮(みや)に住(す)ませたまふ。天武天皇(てんむてんわう)元年(ぐわんねん)に、なほ大和国(やまとのくに)にかへって、岡本(をかもと)の南(みなみ)の宮(みや)に住(す)ませたまふ。これを清見原(きよみばら)の御門(みかど)と申(まう)しき。

 持統(ぢとう)、文武(もんむ)二代(にだい)の聖朝(せいてう)は、同(おなじき)国(くに)藤原(ふぢはら)宮(みや)におはします。元明天皇(げんめいてんわう)より、光仁天皇(くわうにんてんわう)まで七代(しちだい)は、奈良(なら)の都(みやこ)に住(す)ませたまふ。

 しかるを桓武天皇(くわんむてんわう)延暦(えんりやく)三年(さんねん)十月(じふぐわつ)二日(ふつか)、奈良(なら)の京(きやう)、春日(かすが)の里(さと)より、山城国(やましろのくに)長岡(ながをか)にうつって、十年(じふねん)といっし正月(しやうぐわつ)に、大納言(だいなごん)藤原(ふぢはら)小黒丸(をぐろまる)、参(さん)議(ぎ)左大弁(さだいべん)紀(き)の古佐美(こさみ)、大僧都(だいそうづ)玄慶(げんけい)等(ら)をつかはして、当国(たうこく)葛野(かどの)郡(こほり)、宇多(うだ)の村(むら)を見(み)せらるるに、両人(りやうにん)ともに奏(そう)していはく、

「この地(ち)の体(てい)をみるに、左青竜(させいりよう)、右白虎(うびやくこ)、前朱雀(ぜんしゆじやく)、後玄武(ごげんぶ)、四神相応(しじんさうおう)の地(ち)なり。尤(もつと)も帝都(ていと)をさだむるに足(た)れり」

 と申(まう)す。よって愛宕(あたご)郡(こほり)におはします、賀茂(かも)大明神(だいみやうじん)に告(つ)げ申(まう)させたまひて、延暦(えんりやく)十三年(じふさんねん)十一月(じふいちぐわつ)廿一日(にじふいちにち)、長岡(ながをか)の京(きやう)よりこの京(きやう)へうつされて後(のち)、帝王(ていわう)卅二代(さんじふにだい)、星霜(せいさう)は三百八十余歳(さんびやくはちじふよさい)の春秋(しゆんじう)を送(おく)り迎(むか)へ。

「昔(むかし)より代々(だいだい)の帝王(ていわう)、国々(くにぐに)ところどころに、多(おほ)くの都(みやこ)をたてられしかども、かくのごとくの勝地(しようち)はなし」

 とて、桓武天皇(くわんむてんわう)ことに執(しふ)しおぼしめし、大臣(だいじん)公卿(くぎやう)、諸道(しよだう)の才人(さいじん)等(とう)に仰せ(おほせ)あはせ、長久(ちやうきう)なるべきやうとて、土(つち)にて八尺(はつしやく)の人形(ひとがた)をつくり、くろがねの鎧(よろひ)、甲(かぶと)を着(き)せ、同(おな)じくくろがねの弓矢(ゆみや)をもたせて、東山(ひがしやま)の峰(みね)に、西(にし)むきにたててうづまれけり。

 末代(まつだい)にこの都(みやこ)を他国(たこく)へうつす事(こと)あらば、守護神(しゆごじん)となるべしとぞ御約束(おんやくそく)ありける。されば天下(てんか)に事(こと)いでこんとては、この塚(つか)必(かなら)ず鳴動(めいどう)す。将軍(しやうぐん)が塚(つか)とて今(いま)にあり。桓武天皇(くわんむてんわう)と申(まう)すは、平家(へいけ)の曩祖(なうそ)にておはします。なかにもこの京(きやう)をば、平安城(へいあんじやう)と名(な)づけて、平(たひ)らかに安(やす)き都(みやこ)と書(か)けり。

 尤(もつと)も平家(へいけ)のあがむべき都(みやこ)なり。先祖(せんぞ)の御門(みかど)のさしも執(しふ)しおぼしめされたる都(みやこ)を、させるゆゑなく、他国(たこく)他所(たしよ)へうつさるるこそあさましけれ。

 嵯峨(さが)の皇帝(くわうてい)の御時(おんとき)、平城(へいぜい)の先帝(せんてい)、内侍(ないし)のかみのすすめによって、世(よ)を乱(みだ)りたまひし時(とき)、すでにこの京(きやう)を、他国(たこく)へうつさんとさせたまひしを、大臣(だいじん)公卿(くぎやう)、諸国(しよこく)の人民(じんみん)そむき申(まう)ししかば、うつされずしてやみき。一天(いつてん)の君(きみ)、万乗(ばんじよう)の主(あるじ)だにも、うつしえたまはぬ都(みやこ)を、入道相国(にふだうしやうこく)人臣(じんしん)の身(み)として、うつされけるぞおそろしき。

 旧都(きうと)はあはれめでたかりつる都(みやこ)ぞかし。王城(わうじやう)守護(しゆご)の鎮守(ちんじゆ)は、四方(しはう)に光(ひかり)をやはらげ、霊験(れいげん)殊勝(しゆしよう)の寺(てら)は、上下(かみしも)に甍(いらか)をならべたまひ、百姓万民(ひやくせいばんみん)わづらひなく、五畿七道(ごきしちだう)もたよりあり。されども今(いま)は辻々(つじつじ)をみな堀(ほ)りきって、車(くるま)なんどのたやすうゆきかふこともなし。

 たまさかにゆく人(ひと)も、小車(こぐるま)に乗(の)り、道(みち)を歴(へ)てこそとほりけれ。軒(のき)をあらそひし人(ひと)の住(すま)ひ、日(ひ)をへつつあれゆく。家々(いへいへ)は、賀茂河(かもがは)、桂(かつら)河(かは)にこぼちいれ、筏(いかだ)にくみうかべ、資財雑具(しざいざふぐ)舟(ふね)につみ、福原(ふくはら)へとてはこび下(くだ)す。ただなりに花(はな)の都(みやこ)ゐなかになるこそかなしけれ。

 何(なに)者(もの)のしわざにやありけん、ふるき都(みやこ)の内裏(だいり)の柱(はしら)に、二首(にしゆ)の歌(うた)をぞ書(か)いたりける。

百年(ももとせ)を四(し)かへりまでに過(す)ぎ来(き)にし愛宕(あたご)の里(さと)のあれやはてなん

咲(さ)きいづる花(はな)の都(みやこ)をふりすてて風(かぜ)ふく原(はら)のすゑぞあやふき

 同(おなじき)六月(ろくぐわつ)九日(ここのか)、新都(しんと)のことはじめあるべしとて、上卿(じやうけい)には徳大寺(とくだいじ)左大将(さだいしやう)実定卿(さねさだのきやう)、土(つち)御門(みかど)宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)通親(みちちか)卿(きやう)、奉行(ぶぎやう)の弁(べん)には蔵人(くらんど)左小弁(させうべん)行隆(ゆきたか)、官人(くわんにん)ども召(め)し具(ぐ)して、和田(わだ)の松(まつ)原(はら)の西(にし)の野(の)を点(てん)じて、九域(きうゐき)の地(ち)をわられけるに、一条(いちでう)よりしも、五(ご)条(でう)まではその所(ところ)あって、五(ご)条(でう)よりしもはなかりけり。

 行事官(ぎやうじくわん)かへり参(まゐ)ってこのよしを奏聞(そうもん)す。さらば播磨(はりま)の印南野(いなみの)か、なほ摂津国(せつつのくに)の児屋野(こやの)かなんどいふ。公卿僉議(くぎやうせんぎ)ありしかども、事(こと)ゆくべしとも見(み)えざりけり。旧都(きうと)をばすでにうかれぬ、新都(しんと)はいまだ事(こと)ゆかず。ありとしある人(ひと)は、身(み)をうき雲(くも)の思(おもひ)をなす。

 もとこのところに住(す)む者(もの)は、地(ち)をうしなってうれへ、いまうつる人々(ひとびと)は、土木(どぼく)のわづらひをなげきあへり。すべてただ夢(ゆめ)のやうなりしことどもなり。土(つち)御門(みかど)宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)通親(みちちか)卿(きやう)、申(まう)されけるは、

「異国(いこく)には三条(さんでう)の広(ひろ)路(ぢ)をひらいて、十二(じふに)の通(つう)門(もん)をたつと見(み)えたり。いはんや五(ご)条(でう)まであらん都(みやこ)に、などか内裏(だいり)をたてざるべき。かつがつ里(さと)内裏(だいり)つくるべき」

 よし議定(ぎぢやう)あって、五条大納言(ごでうのだいなごん)邦綱(くにつな)卿(きやう)、臨時(りんじ)に周防国(すはうのくに)をたまはって造進(ざうしん)せらるべきよし、入道相国(にふだうしやうこく)はからひ申(まう)されけり。

 この邦綱(くにつな)卿(きやう)は、大福長者(だいふくちやうじや)にておはすれば、つくりいだされん事(こと)左右(さう)に及(およ)ばねども、いかんが国(くに)の費(つひえ)、民(たみ)の煩(わづら)ひなからん、まことにさしあたったる大事(だいじ)、大嘗会(だいじやうゑ)なんどのおこなはるべきをさしおいて、かかる世(よ)の乱(らん)に、遷都造内裏(せんとざうだいり)、すこしも相応(さうおう)せず。

 いにしへのかしこき御代(おんよ)には、すなはち内裏(だいり)に茨(いばら)をふき、軒(のき)をだにもととのへず。煙(けぶり)のともしきを見(み)たまふ時(とき)は、かぎりある御(おん)つき物(もの)をもゆるされき。これすなはち民(たみ)をめぐみ国(くに)をたすけたまふによってなり。

「楚(そ)章花(しやうくわ)の台(たい)をたてて黎民(れいみん)あらけ、秦(しん)阿房(あばう)の殿(どの)をおこして天下(てんか)乱(みだ)る」

 といへり。茅茨(ばうし)きらず、采椽(さいてん)けづらず、舟車(しうしや)かざらず、衣服(いふく)あやなかりける世(よ)もありけんものを。されば唐(たう)の太宗(たいそう)は、驪山宮(りざんきう)をつくって、民(たみ)の費(つひえ)をはばからせたまひけん、つひに臨幸(りんかう)なくして、瓦(かはら)に松(まつ)おひ、墻(かき)に蔦(つた)しげって止(とど)みにけるには、相違(さうゐ)かなとぞ人(ひと)申(まう)しける。

月見

 六月(ろくぐわつ)九日(ここのか)、新都(しんと)のことはじめ、八月(はちぐわつ)十日(とをか)上棟(じやうとう)、十一月(じふいちぐわつ)十二日(じふににち)還幸(くわんかう)とさだめらる。ふるき都(みやこ)はあれゆけば、いまの都(みやこ)は繁昌(はんじやう)す。あさましかりける夏(なつ)も過(す)ぎ、秋(あき)にもすでになりにけり。やうやう秋(あき)もなかばになりゆけば、福原(ふくはら)の新都(しんと)にまします人々(ひとびと)、名所(めいしよ)の月(つき)をみんとて、あるいは源氏(げんじ)の大将(だいしやう)の昔(むかし)の跡(あと)をしのびつつ、須磨(すま)より明石(あかし)の浦(うら)づたひ、淡路(あはぢ)の瀬(せ)戸(と)をおしわたり、絵(ゑ)島(しま)が磯(いそ)の月(つき)をみる。

 あるいは白良(しらら)、吹上(ふきあげ)、和歌(わか)の浦(うら)、住吉(すみよし)、難波(なには)、高砂(たかさご)、尾上(をのへ)の月(つき)のあけぼのを、ながめてかへる人(ひと)もあり。旧都(きうと)にのこる人々(ひとびと)は伏見(ふしみ)、広(ひろ)沢(さは)の月(つき)を見(み)る。

 そのなかにも、徳大寺(とくだいじ)の左大将(さだいしやう)実定卿(さねさだのきやう)は、ふるき都(みやこ)の月(つき)を恋(こ)ひて、八月(はちぐわつ)十日(とをか)あまりに、福原(ふくはら)よりぞのぼりたまふ。なにごとも皆(みな)かはりはてて、まれにのこる家(いへ)は、門前(もんぜん)草(くさ)ふかくして、庭上(ていじやう)露(つゆ)しげし。蓬(よもぎ)が杣(そま)、浅茅(あさぢ)が原(はら)、鳥(とり)のふしどとあれはてて、虫(むし)の声々(こゑごゑ)うらみつつ、黄菊紫蘭(くわうぎくしらん)の野辺(のべ)とぞなりにける。

 故郷(こきやう)の名残(なごり)とては、近衛河原(このゑがはら)の大宮(おほみや)ばかりぞましましける。大将(だいしやう)その御所(ごしよ)に参(まゐ)って、まづ随身(ずゐじん)に惣門(そうもん)をたたかせらるるに、うちより女(をんな)の声(こゑ)して、

「たそや、蓬生(よもぎふ)の露(つゆ)うちはらふ人(ひと)もなき所(ところ)に」

 ととがむれば、

「福原(ふくはら)より大将(だいしやう)殿(どの)の御(おん)参(まゐ)りさうらふ」

 と申(まう)す。

「惣門(そうもん)はじやうのさされてさぶらふぞ。東面(とうめん)の小門(こもん)よりいらせたまへ」

 と申(まう)しければ、大将(だいしやう)さらばとて、東(ひんがし)の門(もん)より参(まゐ)られけり。大宮(おほみや)は御(おん)つれづれに、昔(むかし)をやおぼしめしいでさせたまひけん、南面(なんめん)の御(おん)格子(かうし)あげさせて、御(おん)琵琶(びは)あそばされけるところに、大将(だいしやう)参(まゐ)られたりければ、

「いかに夢(ゆめ)かやうつつか。これへこれへ」

 とぞ仰せ(おほせ)ける。源氏(げんじ)の宇治(うぢ)の巻(くわん)には、優婆塞宮(うばそくのみや)の御娘(おんむすめ)、秋(あき)のなごりを惜(を)しみ、琵琶(びは)をしらべて夜(よ)もすがら、心(こころ)をすましたまひしに、在明(ありあけ)の月(つき)いでけるを、なほたへずやおぼしけん、撥(ばち)にてまねきたまひけんも、いまこそ思(おも)ひ知(し)られけれ。

 待宵(まつよひ)の小侍従(こじじゆう)といふ女房(にようばう)も、この御所(ごしよ)にぞさうらひける。この女房(にようばう)を待宵(まつよひ)と申(まう)しけることは、ある時(とき)御所(ごしよ)にて、

「待(ま)つ宵(よひ)、帰(かへ)る朝(あした)、いづれかあはれはまされる」

 と御(おん)尋(たづ)ねありければ、

待(ま)つ宵(よひ)のふけゆく鐘(かね)の声(こゑ)きけばかへるあしたの鳥(とり)はものかは

 とよみたりけるによってこそ、待宵(まつよひ)とは召(め)されけれ。大将(だいしやう)、かの女房(にようばう)よびいだし、昔(むかし)いまの物語(ものがたり)して、さ夜(よ)もやうやうふけ行(ゆ)けば、ふるき都(みやこ)のあれゆくを、今(いま)やうにこそうたはれけれ。

ふるき都(みやこ)をきてみれば あさぢが原(はら)とぞあれにける 月(つき)の光(ひかり)はくまなくて 秋(あき)風(かぜ)のみぞ身(み)にはしむ

 と、三反(さんべん)うたひすまされければ、大宮(おほみや)をはじめまゐらせて、御所中(ごしよぢゆう)の女房(にようばう)たち、みな袖(そで)をぞぬらされける。

 さるほどに夜(よ)もあけければ、大将(だいしやう)暇(いとま)申(まう)して福原(ふくはら)へこそかへられけれ。御(おん)ともにさうらふ蔵人(くらんど)を召(め)して、

「侍従(じじゆう)があまりなごり惜(を)しげに思(おも)ひたるに、なんぢかへって、なにともいひてこよ」

 と仰せ(おほせ)ければ、蔵人(くらんど)はしりかへって畏(かしこ)まり、

「異(こと)申(まう)せとさうらふ」

 とて、

物(もの)かはと君(きみ)がいひけん鳥(とり)のねの今朝(けさ)しもなぞか悲(かな)しかるらん

 女房(にようばう)涙(なみだ)をおさへて、

またばこそ深行鐘(ふけゆくかね)も物(もの)ならめあかぬわかれの鳥(とり)の音(おと)ぞうき

 蔵人(くらんど)かへり参(まゐ)って、このよし申(まう)したりければ、

「さればこそなんぢをばつかはしつれ」

 とて、大将(だいしやう)大(おほ)きに感(かん)ぜられけり。それよりしてこそ物(もの)かはの蔵人(くらんど)とはいはれけれ。

物怪之沙汰

 福原(ふくはら)へ都(みやこ)をうつされて後(のち)、平家(へいけ)の人々(ひとびと)夢(ゆめ)見(み)もあしう、常(つね)は心(こころ)さわぎのみして、変化(へんげ)の物(もの)どもおほかりけり。ある夜(よ)入道(にふだう)のふしたまへるところに、一間(ひとま)にはばかるほどの物(もの)の面(おもて)いできて、のぞきたてまつる。入道相国(にふだうしやうこく)ちっともさわがず、ちやうどにらまへておはしければ、ただぎえに消(き)えうせぬ。

 岡(をか)の御所(ごしよ)と申(まう)すは、あたらしうつくられたれば、しかるべき大木(たいぼく)もなかりけるに、ある夜(よ)大木(たいぼく)のたふるる音(おと)して、人(ひと)ならば二三十人(にさんじふにん)が声(こゑ)して、どっとわらふことありけり。これはいかさまにも天狗(てんぐ)の所為(しよゐ)といふ沙汰(さた)にて、蟇目(ひきめ)の当番(たうばん)となづけてよる百人(ひやくにん)ひる五十人(ごじふにん)の番(ばん)衆(しゆ)をそろへて、蟇目(ひきめ)を射(い)させらるるに、天狗(てんぐ)のあるかたへむいて射(い)たる時(とき)は音(おと)もせず、無(な)い方(かた)へむいて射(い)たるとおぼしき時(とき)はどっとわらひなんどしけり。

 またあるあした、入道相国(にふだうしやうこく)帳台(ちやうだい)よりいでて、妻戸(つまど)をおしひらき、坪(つぼ)のうちを見(み)たまへば、死人(しにん)のしやれかうべどもが、いくらといふかずも知(し)らず、庭(には)にみちみちて、うへになりしたになり、ころびあひころびのき、はしなるはなかへまろびいり、中(なか)なるははしへいづ。

 おびたたしうからめきあひければ、入道相国(にふだうしやうこく)、

「人(ひと)やある、人(ひと)やある」

 と召(め)されけれども、をりふし人(ひと)も参(まゐ)らず。

 かくしておほくのどくろどもが、一つ(ひとつ)にかたまりあひ、つぼのうちにはばかるほどになって、たかさは十四五丈(じふしごぢやう)もあるらんとおぼゆる、山(やま)のごとくになりにけり。かの一つ(ひとつ)の大頭(だいとう)に、いきたる人(ひと)のまなこのやうに、大(だい)のまなこどもが千万(せんまん)いできて、入道相国(にふだうしやうこく)をちやうどにらまへて、まだたきもせず。

 入道(にふだう)すこしもさわがず、はたとにらまへて、しばらくたたれたり。

 かの大頭(だいとう)、余(あま)りにつよくにらまれたてまつり、霜(しも)露(つゆ)なんどの日(ひ)にあたって消(き)ゆるやうに、跡(あと)かたもなくなりにけり。その外(ほか)に一(いち)の厩(うまや)にたてて、舎人(とねり)あまたつけられ、朝夕(てうせき)ひまなくなでかはれける馬(むま)の尾(を)に、一夜(いちや)のうちに、ねずみ巣(す)をくひ、子(こ)をぞうんだりける。

 これただことにあらずとて、七人(しちにん)の陰陽師(おんやうじ)にうらなはせられければ、おもき御(おん)つつしみとぞ申(まう)しける。この御馬(おんむま)は、相模(さがみ)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、大庭(おほば)三郎(さぶらう)景親(かげちか)が、東八箇国(とうはつかこく)一(いち)の馬(むま)とて、入道相国(にふだうしやうこく)にまゐらせたり。黒(くろ)き馬(むま)の額(ひたひ)白(しろ)かりけり。

 名(な)をば望月(もちづき)とぞつけられたる。陰陽頭(おんやうのかみ)安倍(あべ)の泰親(やすちか)たまはりけり。昔(むかし)天智天皇(てんぢてんわう)の御時(おんとき)、竜(りう)の御馬(おんむま)の尾(を)に、一夜(いちや)の中(なか)に鼠(ねずみ)巣(す)をくひ、子(こ)をうんだりけるには、異国(いこく)の凶賊(きようぞく)蜂起(ほうき)したりけるとぞ、日本紀(につぽんぎ)には見(み)えたる。

 また、源中納言雅頼(げんちゆうなごんまさより)卿(きやう)のもとにさうらひける青侍(あをさぶらひ)が見(み)たりける夢(ゆめ)もおそろしかりけり。たとへば大内(おほうち)の神祇官(じんぎくわん)とおぼしきところに、束帯(そくたい)ただしき上臈(じやうらふ)たちあまたおはして、議定(ぎぢやう)のやうなることのありしに、末座(まつざ)なる人(ひと)の、平家(へいけ)の方人(かたうど)するとおぼしきを、その中(なか)よりおったてらる。

 かの青侍(あをさぶらひ)夢(ゆめ)の心(こころ)に、

「あれはいかなる上臈(じやうらふ)にてましますやらん」

 と、ある老翁(らうをう)に問(と)ひたてまつれば、

「厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)」

 とこたへたまふ。

 その後(のち)座上(ざじやう)にけたかげなる宿老(しゆくらう)のましましけるが、

「この日(ひ)ごろ平家(へいけ)の預(あづ)かりたる節刀(せつたう)をば、今(いま)は伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)頼朝(よりとも)にたばうずるなり」

 と仰せ(おほせ)られければ、その御(おん)そばになほ宿老(しゆくらう)のましましけるが、

「その後(のち)はわが孫(まご)にもたびさうらへ」

 と仰せ(おほせ)らるるといふ夢(ゆめ)を見(み)て、これを次第(しだい)に問(と)ひたてまつる。

「節刀(せつたう)を頼朝(よりとも)にたばうとおほせられつるは、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、その後(のち)はわが孫(まご)にもたびさうらへと仰せ(おほせ)られつるは春日大明神(かすがだいみやうじん)、かう申(まう)す老翁(らうをう)は、武内(たけのうち)の大明神(だいみやうじん)」

 と仰せ(おほせ)らるるといふ夢(ゆめ)を見(み)て、これを人(ひと)にかたるほどに、入道相国(にふだうしやうこく)もれきいて、源大夫判官(げんだいふのはうぐわん)季貞(すゑさだ)をもって、雅頼卿(まさよりのきやう)のもとへ、

「夢(ゆめ)見(み)の青侍(あをさぶらひ)、急(いそ)ぎこれへたべ」

 とのたまひつかはされたりければ、かの夢(ゆめ)見(み)たる青侍(あをさぶらひ)、やがて逐電(ちくでん)してんげり。雅頼卿(まさよりのきやう)いそぎ入道相国(にふだうしやうこく)のもとへゆきむかって、

「まったくさることさうらはず」

 と、陳(ちん)じ申(まう)されければ、その後(のち)さたもなかりけり。それにふしぎなりしことには、清盛公(きよもりこう)いまだ安芸守(あきのかみ)たりし時(とき)、神拝(じんばい)の次(つぎ)に、霊夢(れいむ)をかうぶって、厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)よりうつつにたまはれたりし、銀(しろがね)の蛭巻(ひるまき)したる小長刀(こなぎなた)、常(つね)の枕(まくら)をはなたずたてられたりしが、ある夜(よ)俄(にはか)にうせにけるこそふしぎなれ。

 平家(へいけ)日(ひ)ごろは朝家(てうか)の御(おん)かためにて、天下(てんか)を守護(しゆご)せしかども、今(いま)は勅命(ちよくめい)にそむけば、節刀(せつたう)をも召(め)しかへさるるにや、心(こころ)ぼそうぞきこえし。

 なかにも高野(かうや)におはしける、宰相入道成頼(さいしやうにふだうなりより)、かやうのことどもをつたへきいて、

「すは平家(へいけ)の代(よ)は、やうやう末(すゑ)になりぬるは。厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)の、平家(へいけ)の方人(かたうど)をしたまひけるといふは、そのいはれあり。但(ただ)しそれは、沙羯羅竜王(しやかつらりようわう)の第三(だいさん)の姫宮(ひめみや)なれば、女(をんな)神(かみ)とこそ承(うけたまは)れ。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の、節刀(せつたう)を頼朝(よりとも)にたばうと仰せ(おほせ)られけるは理(ことわり)なり。

春日大明神(かすがだいみやうじん)の、『その後(のち)はわが孫(まご)にもたびさうらへ』と仰せ(おほせ)られけるこそ心(こころ)えね。それも平家(へいけ)ほろび、源氏(げんじ)の世(よ)つきなん後(のち)、大織冠(たいしよくくわん)の御末(おんすゑ)、執柄家(しつぺいけ)の君達(きんだち)の、天下(てんか)の将軍(しやうぐん)になりたまふべきか」

 なんどぞのたまひける。またある僧(そう)のをりふし来(き)たりけるが申(まう)しけるは、

「それ神明(しんめい)は和光垂跡(わくわうすいじやく)の方便(はうべん)まちまちにましませば、ある時(とき)は俗体(ぞくたい)とも現(げん)じ、ある時(とき)は女(をんな)神(かみ)ともなりたまふ。まことに厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)は、女(をんな)神(かみ)とは申(まう)しながら、三明六通(さんみやうろくつう)の霊神(れいじん)にてましませば、俗体(ぞくたい)に現(げん)じたまはんもかたかるべきにあらず」

 とぞ申(まう)しける。うき世(よ)を厭(いと)ひ実(まこと)の道(みち)に入(い)りぬれば、ひとへに後世菩提(ごせぼだい)の外(ほか)は、世(よ)のいとなみあるまじきことなれども、善政(ぜんせい)をきいては感(かん)じ、愁(うれへ)をきいてはなげく、これみな人間(にんげん)の習(ならひ)なり。

早馬

 同(おなじき)九月(くぐわつ)二日(ふつか)、相模(さがみ)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、大庭(おほば)三郎(さぶらう)景親(かげちか)、福原(ふくはら)へ早(はや)馬(むま)をもって申(まう)しけるは、

「去(さ)八月(はちぐわつ)十七日(じふしちにち)、伊豆国(いづのくに)流人(るにん)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、しうと北条(ほうでう)四郎(しらう)時政(ときまさ)をつかはして、伊豆(いづ)の目代(もくだい)、和泉判官兼高(いづみのはうぐわんかねたか)を、やまきが館(たち)で夜(よ)うちにうちたまひぬ。その後(のち)土肥(どひ)、土(つち)屋(や)、岡崎(をかざき)をはじめとして三百余騎(さんびやくよき)、石(いし)橋(はし)山(やま)に立籠(たてこも)ってさうらふところに、景親(かげちか)、御方(みかた)に心(こころ)ざしを存(ぞん)ずる者(もの)ども、一千余騎(せんよき)を引率(いんそつ)して、おし寄(よ)せせめさうらふほどに、兵衛佐(ひやうゑのすけ)七八騎(しちはちき)にうちなされ、大(おほ)童(わらは)にたたひなって、土肥(どひ)の椙山(すぎやま)へにげこもりさうらひぬ。

その後(のち)畠(はたけ)山(やま)五百余騎(ごひやくよき)で御方(みかた)を仕(つかまつ)る。三浦大介(みうらのおほすけ)義明(よしあき)が子(こ)ども、三百余騎(さんびやくよき)で源氏(げんじ)方(かた)をして、湯(ゆ)井(ゐ)、小坪(こつぼ)の浦(うら)でたたかふに、畠(はたけ)山(やま)いくさにまけて、武蔵(むさし)国(くに)へひきしりぞく。その後(のち)畠(はたけ)山(やま)が族(やから)、河越(かはごえ)、稲毛(いなげ)、小山田(をやまだ)、江戸(えど)、葛西(かさい)、そうじてその外(ほか)七(しち)党(たう)の兵(つはもの)ども、三千余騎(さんぜんよき)を相具(あひぐ)して、三(み)浦(うら)衣笠(きぬがさ)の城(じやう)におし寄(よ)せてせめたたかふ。

大介(おほすけ)義明(よしあき)うたれさうらひぬ。子(こ)どもはくり浜(はま)の浦(うら)より舟(ふね)に乗(の)り、安房(あは)、上総(かづさ)へわたりさうらひぬ」

 とこそ申(まう)したれ。

 平家(へいけ)の人々(ひとびと)、都(みやこ)うつりもはや興(きよう)さめぬ。わかき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)は、

「あはれ、とくことのいでこよかし。打手(うって)にむかはう」

 なんどいふぞはかなき。畠(はたけ)山(やま)の庄司(しやうじ)重能(しげよし)、小山田(をやまだ)の別当(べつたう)有重(ありしげ)、宇都宮(うつのみや)左衛門(さゑもん)朝綱(ともつな)、大番役(おほばんやく)にてをりふし在京(ざいきやう)したりけり。畠(はたけ)山(やま)申(まう)しけるは、

「僻(ひが)ことにてぞさうらん。したしうなってさうらふなれば、北条(ほうでう)は知(し)りたまはず、自余(じよ)の輩(ともがら)は、よも朝敵(てうてき)が方人(かたうど)をば仕(つかまつ)りさうらはじ。いまきこしめしなほさんずるものを」

 と申(まう)しければ、

「げにも」

 といふ人(ひと)もあり、

「いやいやただ今(いま)天下(てんか)の大事(だいじ)に及(およ)びなんず」

 と、ささやく者(もの)もおほかりけり。入道相国(にふだうしやうこく)いかられけるやうなのめならず。

「頼朝(よりとも)をばすでに死罪(しざい)におこなはるべかりしを、故(こ)池(いけ)殿(どの)のあながちになげきのたまひしあいだ、流罪(るざい)に申(まう)しなだめたり。しかるにその恩(おん)忘(わす)れて、当家(たうけ)にむかって弓(ゆみ)をひくにこそあんなれ。神明三宝(しんめいさんぽう)も、いかでかゆるさせたまふべき、ただ今(いま)天(てん)の責(せ)めかうむらんずる頼朝(よりとも)なり」

 とぞのたまひける。

朝敵揃

 それわが朝(てう)に朝敵(てうてき)のはじめを尋(たづ)ぬれば、日本磐余彦尊(やまといはれびこのみこと)の御宇(ぎよう)四年(よねん)、紀州(きしう)名草(なぐさ)郡(こほり)、高雄(たかを)村(むら)に一つ(ひとつ)の蜘蛛(くも)あり。身(み)みじかく足(あし)手(て)ながくて、力(ちから)人(ひと)にすぐれたり。人民(じんみん)をおほく損害(そんがい)せしかば、官軍(くわんぐん)発向(はつかう)して、宣旨(せんじ)をよみかけ、葛(くず)の網(あみ)をむすんで、終(つひ)にこれをおほひころす。

 それより以降(いかう)、野心(やしん)をさしはさんで、朝威(てうゐ)をほろぼさんとする輩(ともがら)、大石(おほいし)の山丸(やままる)、大山王子(おほやまわうじ)、守屋(もりや)の大臣(だいじん)、山田(やまだ)の石河(いしかは)、蘇我(そが)の入鹿(いるか)、大友(おほとも)の真鳥(まとり)、文屋(ふんや)の宮田(みやた)、橘(たちばな)の逸勢(はやなり)、氷上(ひかみ)の川継(かはつぐ)、伊予(いよ)の親王(しんわう)、太宰少弐(だざいのせうに)藤原(ふぢはら)の広嗣(ひろつぐ)、恵美(ゑみ)の押勝(おしかつ)、早良(さはら)の太子(たいし)、井上(ゐのへ)の皇后(くわうごう)、藤原仲成(ふぢはらのなかなり)、平(たひら)の将門(まさかど)、藤原(ふぢはら)純友(すみとも)、安倍(あべ)の貞任(さだたう)、宗任(むねたう)、対馬守源義親(つしまのかみみなもとのよしちか)、悪左府(あくさふ)、悪衛門督(あくゑもんのかみ)にいたるまで、すべて廿余人(にじふよにん)、されども一人(ひとり)として、素懐(そくわい)をとぐる者(もの)なし。

 かばねを山野(さんや)にさらし、かうべを獄門(ごくもん)にかけらる。

 この世(よ)にこそ王位(わうゐ)も無下(むげ)にかるけれ、昔(むかし)は宣旨(せんじ)をむかってよみければ、枯(か)れたる草木(さうもく)も花(はな)咲(さ)き実(み)なり、とぶ鳥(とり)もしたがひけり。中(なか)ごろのことぞかし。延喜(えんぎ)御門(みかど)、神泉苑(しんぜんゑん)に行幸(ぎやうかう)あって、池(いけ)のみぎはに鷺(さぎ)のゐたりけるを、六位(ろくゐ)を召(め)して、

「あの鷺(さぎ)とってまゐらせよ」

 と仰せ(おほせ)ければ、いかでかとらんと思(おも)ひたれども、綸言(りんげん)なればあゆみむかふ。鷺(さぎ)はねづくろひしてたたんとす。

「宣旨(せんじ)ぞ」

 と仰(おほ)すれば、ひらんで飛(と)びさらず。これをとって参(まゐ)りたり。

「なんぢが宣旨(せんじ)にしたがって、参(まゐ)りたるこそ神妙(しんめう)なれ。やがて五位(ごゐ)になせ」

 とて、鷺(さぎ)を五位(ごゐ)にぞなされける。今日(けふ)より後(のち)は鷺(さぎ)の中(なか)の王(わう)たるべしといふ札(ふだ)をあそばして、頸(くび)にかけてはなたせたまふ。まったく鷺(さぎ)の御(おん)料(れう)にはあらず、ただ王威(わうゐ)のほどをしろしめさんがためなり。

咸陽宮

 また先蹤(せんしよう)を異国(いこく)に尋(たづ)ぬるに、燕(えん)の太子丹(たいしたん)といふ者(もの)、秦(しん)の始皇(しくわう)にとらはれて、いましめをかうぶる事(こと)十二年(じふにねん)、太子丹(たいしたん)涙(なみだ)をながいて申(まう)しけるは、

「われ本国(ほんごく)に老母(らうぼ)あり。暇(いとま)をたまはってかれを見(み)ん」

 と申(まう)せば、始皇帝(しくわうてい)あざわらって、

「なんぢに暇(いとま)をたばんことは、馬(むま)に角(つの)おひ、烏(からす)の頭(かしら)の白(しろ)くならん時(とき)を待(ま)つべし」

 燕丹(えんたん)天(てん)にあふぎ地(ち)に臥(ふ)して、

「願(ねが)はくは、馬(むま)に角(つの)おひ、烏(からす)の頭(かしら)白(しろ)くなしたべ。故郷(こきやう)にかへって、今一度(いまいちど)母(はは)をみん」

 とぞ祈(いの)りける。かの妙音菩薩(めうおんぼさつ)は、霊山(りやうざん)浄土(じやうど)に詣(けい)して、不孝(ふけう)の輩(ともがら)をいましめ、孔子(こうし)、顔回(がんくわい)は、支那震旦(しなしんたん)に出(い)でて、忠(ちゆう)孝(かう)の道(みち)をはじめたまふ。冥顕(みやうけん)の三宝(さんぼう)孝行(かうかう)の心(こころ)ざしをあはれみたまふことなれば、馬(むま)に角(つの)おひて宮中(きゆうちゆう)に来(きた)り、烏(からす)の頭(かしら)白(しろ)くなって、庭前(ていぜん)の木(き)に住(す)めりけり。

 始皇帝(しくわうてい)、烏頭馬角(うとうばかく)の変(へん)におどろき、綸言(りんげん)かへらざることを信(しん)じて、太子丹(たいしたん)をなだめつつ、本国(ほんごく)へこそかへされけれ。始皇(しくわう)なほ悔(くや)みて、秦(しん)の国(くに)と燕(えん)の国(くに)のさかひに、楚国(そこく)といふ国(くに)あり。大(おほ)きなる河(かは)ながれたり。かの河(かは)にわたせる橋(はし)をば、楚国(そこく)の橋(はし)といへり。

 始皇(しくわう)官軍(くわんぐん)をつかはして、燕丹(えんたん)がわたらん時(とき)、河(かは)なかの橋(はし)をふまばおつるやうにしたためて、燕丹(えんたん)をわたらせけるに、なじかは落(お)ち入(い)らざるべき、河(かは)なかへおち入(い)りぬ。されどもちっとも水(みづ)にもおぼれず、平地(へいち)を行(ゆ)くごとくして、むかへの岸(きし)へつきにけり。

 こはいかにと思(おも)ひて、うしろをかへり見(み)ければ、亀(かめ)どもがいくらといふかずも知(し)らず、水(みづ)の上(うへ)にうかれ来(き)て、甲(こう)をならべてぞあゆませたりける。これも孝行(かうかう)のこころざしを、冥顕(みやうけん)あはれみたまふによってなり。

 太子丹(たいしたん)うらみをふくんで、また始皇帝(しくわうてい)にしたがはず。始皇(しくわう)官軍(くわんぐん)をつかはして、燕丹(えんたん)をうたんとしたまふに、燕丹(えんたん)おそれをののき、荊軻(けいか)といふ兵(つはもの)を語(かた)らうて、大臣(だいじん)になす。また田光先生(でんくわうせんじやう)といふ兵(つはもの)をかたらふ。かの先生(せんじやう)申(まう)しけるは、

「君(きみ)はこの身(み)がわかうさかんなっしことをしろしめされてたのみ仰せ(おほせ)らるるか。麒麟(きりん)は千里(せんり)を飛(と)べども、老(お)いぬれば、駑馬(どば)にもおとれり。いまはいかにもかなひさうらふまじ。兵(つはもの)をこそかたらうてまゐらせめ」

 とてかへらんとするところに、荊軻(けいか)、

「この事(こと)あなかしこ、人(ひと)に披露(ひろう)すな」

 といふ。先生(せんじやう)申(まう)しけるは、

「人(ひと)にうたがはれぬるに過(す)ぎたる恥(はぢ)こそなけれ。このこともれぬる物(もの)ならば、われうたがはれなんず」

 とて、門前(もんぜん)なる李(すもも)の木(き)に、頭(かしら)をつきあて、うちくだいてぞ死(し)ににける。

 また樊於期(はんをき)といふ兵(つはもの)あり。これは秦(しん)の国(くに)の者(もの)なり。始皇(しくわう)のために父(ちち)、伯叔(はくしゆく)、兄弟(きやうだい)をほろぼされて、燕(えん)の国(くに)ににげこもれり。秦皇(しんくわう)四海(しかい)に宣旨(せんじ)をくだいて、樊於期(はんをき)がかうべはねてまゐらせたらん者(もの)には、五百斤(ごひやくきん)の金(きん)をあたへんと披露(ひろう)せらる。

 荊軻(けいか)これを聞(き)き、樊於期(はんをき)がもとにゆいて、

「われ聞(き)く、なんぢがかうべ、五百斤(ごひやくきん)の金(きん)に報(ほう)ぜらる。なんぢが首(くび)われにかせ。取(と)って始皇帝(しくわうてい)にたてまつらん。よろこんで叡覧(えいらん)をへられん時(とき)、つるぎをぬき、胸(むね)をさささんに、やすかりなん」

 といひければ、樊於期(はんをき)をどりあがり、大息(たいそく)をついて申(まう)しけるは、

「われ、父(ちち)、伯叔(はくしゆく)、兄弟(きやうだい)を、始皇(しくわう)のためにほろぼされて、よるひるこれを思(おも)ふに、骨髄(こつずい)にとほって忍(しの)びがたし。げにも始皇帝(しくわうてい)をほろぼすべくは首(くび)をあたへんこと、塵(ちり)あくたよりもなほやすし」

 とて、手(て)づから首(くび)を切(き)ってぞ死(し)ににける。

 また秦舞陽(しんぶやう)といふ兵(つはもの)あり。これも秦(しん)の国(くに)の者(もの)なり。十三(じふさん)の歳(とし)かたきをうって、燕(えん)の国(くに)ににげこもれり。ならびなき兵(つはもの)なり。かれが嗔(いか)ってむかふ時(とき)は、大(だい)の男(をとこ)も絶入(ぜつじゆ)す。また笑(ゑ)んで向(む)かふ時(とき)は、みどり子(こ)もいだかれけり。これを、秦(しん)の都(みやこ)の案内者(あんないしや)にかたらうてぐしてゆくほどに、ある片(かた)山(やま)のほとりに宿(やど)したりける夜(よ)、その辺(ほとり)ちかき里(さと)に、管弦(くわんげん)をするをきいて、調子(てうし)をもって本意(ほい)のことをうらなふに、かたきの方(かた)は水(みづ)なり、我方(わがかた)は火(ひ)なり。

 さるほどに天(てん)もあけぬ。白虹(はくこう)日(ひ)をつらぬいてとほらず。

「われらが本意(ほい)とげんことありがたし」

 とぞ申(まう)しける。

 さりながら帰(かへ)るべきにもあらねば、始皇(しくわう)の都(みやこ)咸陽宮(かんやうきう)にいたりぬ。燕(えん)の指図(さしづ)、ならびに樊於期(はんをき)が首(くび)もって参(まゐ)りたるよし奏(そう)しければ、臣下(しんか)をもって、うけとらんとしたまふ。

「まったく人(ひと)してはまゐらせじ。直(ぢき)にたてまつらん」

 と奏(そう)する間(あひだ)、さらばとて節会(せちゑ)の儀(ぎ)をととのへて、燕(えん)の使(つかひ)を召(め)されけり。咸陽宮(かんやうきう)は都(みやこ)のめぐり一万八千三百八十里(いちまんはつせんさんびやくはちじふり)につもれり。内裏(だいり)をば地(ぢ)より三里(さんり)たかく築(つ)きあげて、その上(うへ)にたてたり。長生殿(ちやうせいでん)、不老門(ふらうもん)あり。金(きん)をもって日(ひ)をつくり、銀(しろがね)をもって月(つき)をつくれり。

 真珠(しんじゆ)のいさご、瑠璃(るり)の沙(いさご)、金(きん)の砂(いさご)をしきみてり。四方(しはう)にはたかさ四十丈(しじふぢやう)の鉄(くろがね)の築地(ついぢ)をつき、殿(どの)の上(うへ)にも同(おな)じく鉄(くろがね)の網(あみ)をぞ張(は)ったりける。これは冥途(めいど)の使(つかひ)をいれじとなり。秋(あき)の田面(たのも)の雁(かり)、春(はる)は越路(こしぢ)へ帰(かへ)るも、飛行(ひぎやう)自在(じざい)のさはりあれば、築地(ついぢ)には雁門(がんもん)となづけて、鉄(くろがね)の門(もん)をあけてぞとほしける。

 そのなかにも阿房(あばう)殿(どの)とて始皇(しくわう)の常(つね)は行幸(ぎやうかう)なって、政道(せいだう)おこなはせたまふ殿(どの)あり。たかさは卅六丈(さんじふろくぢやう)、東西(とうざい)へ九町(くちやう)、南北(なんぼく)へ五町(ごちやう)、大床(おほゆか)の下(した)は五(ご)丈(ぢやう)のはたほこをたてたるが、なほ及(およ)ばぬほどなり。上(うへ)は瑠璃(るり)の瓦(かはら)をもってふき、したは金銀(きんぎん)にてみがきけり。

 荊軻(けいか)は燕(えん)の指図(さしづ)をもち、秦舞陽(しんぶやう)は樊於期(はんをき)が首(くび)をもって、珠(たま)のきざ橋(はし)をのぼりあがる。あまりに内裏(だいり)のおびたたしきを見(み)て、秦舞陽(しんぶやう)わなわなとふるひければ、臣下(しんか)あやしみて、

「舞陽(ぶやう)謀反(むほん)の心(こころ)あり。刑人(けいじん)をば君(きみ)のかたはらにおかず。君子(くんし)は刑人(けいじん)にちかづかず、刑人(けいじん)にちかづくはすなはち死(し)をかろんずる道(みち)なり」

 といへり。荊軻(けいか)たち帰(かへ)って、

「舞陽(ぶやう)はまったく謀反(むほん)の心(こころ)なし。ただ田舎(ゐなか)のいやしきにのみならって、皇居(くわうきよ)になれざるが故(ゆゑ)に、心(こころ)迷惑(めいわく)す」

 と申(まう)しければ、臣下(しんか)みなしづまりぬ。よって王(わう)にちかづきたてまつる。燕(えん)の指図(さしづ)、ならびに樊於期(はんをき)が首(くび)、見参(げんざん)にいるるところに、指図(さしづ)の入(はい)ったる櫃(ひつ)のそこに、氷(こほり)のやうなるつるぎの見(み)えければ、始皇帝(しくわうてい)これを見(み)て、やがてにげんとしたまふ。

 荊軻(けいか)、王(わう)の御(おん)袖(そで)をむずとひかへて、つるぎをむねにさしあてたり。今(いま)はかうぞ見(み)えたりける。数万(すうまん)の兵(つはもの)庭上(ていじやう)に袖(そで)をつらぬといへども、すくはんとする力(ちから)なし。ただ君(きみ)、逆臣(ぎやくしん)にをかされたまはんことをのみかなしみあへり。始皇(しくわう)のたまはく、

「われに暫時(ざんじ)のいとまをえさせよ。わが最愛(さいあい)の后(きさき)の琴(こと)のねを今一度(いまいちど)きかん」

 とのたまへば、荊軻(けいか)しばしをかしたてまつらず。始皇(しくわう)は三千人(さんぜんにん)の后(きさき)をもちたまへり。その中(なか)に華陽夫人(くわやうふじん)とて、すぐれたる琴(こと)の上手(じやうず)おはしけり。およそこの后(きさき)の琴(こと)のねをきいては、武(たけ)きもののふのいかれるもやはらぎ、飛(と)ぶ鳥(とり)もおち、草木(さうもく)もゆるぐほどなり。

 況(いはん)やいまをかぎりの叡聞(えいぶん)にそなへんと、泣(な)く泣(な)くひきたまひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊軻(けいか)も頭(かしら)をうなたれ、耳(みみ)をそばだて、殆(ほとん)ど謀臣(ぼうしん)の思(おもひ)もたゆみにけり。

 その時(とき)后(きさき)はじめてさらに一曲(いつきよく)を奏(そう)す。

「七尺(しちしやく)の屏風(びやうぶ)はたかくとも、躍(をど)らばなどかこえざらん。一条(いちでう)の羅縠(らこく)はつよくとも、ひかばなどかはたえざらん」

 とぞひきたまふ。荊軻(けいか)はこれをきき知(し)らず。始皇(しくわう)はきき知(し)って、御(おん)袖(そで)をひっきり、七尺(しちしやく)の屏風(びやうぶ)を飛(と)びこえて、あかがねの柱(はしら)のかげににげかくれさせたまひぬ。荊軻(けいか)いかってつるぎを投(な)げかけたてまつる。をりふし御前(ごぜん)に番(ばん)の医師(いし)のさうらひけるが、薬(くすり)の袋(ふくろ)を荊軻(けいか)がつるぎに投(な)げあはせたり。

 つるぎ、薬(くすり)の袋(ふくろ)をかけられながら、口(くち)六(ろく)尺(しやく)の銅(あかがね)の柱(はしら)を、なからまでこそきったりけれ。荊軻(けいか)また剣(つるぎ)をもたねば、つづいても投(な)げず。王(わう)たちかへって、わがつるぎを召(め)し寄(よ)せて、荊軻(けいか)を八つ(やつ)ざきにこそしたまひけれ。秦舞陽(しんぶやう)もうたれにけり。

 官軍(くわんぐん)をつかはして、燕丹(えんたん)をほろぼさる。蒼天(さうてん)ゆるしたまはねば、白虹(はくこう)日(ひ)をつらぬいてとほらず。秦(しん)の始皇(しくわう)はのがれて、燕丹(えんたん)つひにほろびにき。

 されば今(いま)の頼朝(よりとも)も、さこそはあらんずらめと、色代(しきたい)する人々(ひとびと)もありけるとかや。

文覚荒行

 そもそもかの頼朝(よりとも)と申(まう)すは、去(さ)る平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、ちち左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が謀反(むほん)によって、年(とし)十四歳(じふしさい)と申(まう)しし永暦(えいりやく)元年(ぐわんねん)三月(さんぐわつ)廿日(はつか)、伊豆国(いづのくに)蛭島(ひるがしま)へながされて、廿余年(にじふよねん)の春秋(しゆんじう)をおくりむかふ。年(とし)ごろもあればこそありけめ、今年(ことし)いかなる心(こころ)にて謀反(むほん)をばおこされけるぞといふに、高雄(たかを)の文覚(もんがく)上人(しやうにん)の申(まう)しすすめられたりけるとかや。

 かの文覚(もんがく)と申(まう)すは、もとは渡辺(わたなべ)の遠藤(ゑんどう)左近将監(さこんのしやうげん)茂遠(もちとほ)が子(こ)、遠藤(ゑんどう)武者(むしや)盛遠(もりとほ)とて、上西門院(じやうさいもんゐん)の衆(しゆ)なり。十九(じふきう)の歳(とし)、道心(だうしん)おこし出家(しゆつけ)して、修行(しゆぎやう)にいでんとしけるが、

「修行(しゆぎやう)といふはいかほどの大事(だいじ)やらん、ためいて見(み)ん」

 とて、六月(ろくぐわつ)の日(ひ)の草(くさ)もゆるがずてったるに、片(かた)山(やま)のやぶのなかにはいり、あふのけにふし、虻(あぶ)ぞ蚊(か)ぞ蜂蟻(はちあり)なんどいふ毒(どく)虫(むし)どもが身(み)にひしととりついて、さしくひなんどしけれども、ちっとも身(み)をもはたらかさず、七日(なぬか)まではおきあがらず、八日(やうか)といふにおきあがって、

「修行(しゆぎやう)といふはこれほどの大事(だいじ)か」

 と人(ひと)に問(と)へば、

「それほどならんには、いかでか命(いのち)もいくべき」

 といふあひだ、

「さてはあんべいござんなれ」

 とて、修行(しゆぎやう)にぞいでにける。

 熊野(くまの)へ参(まゐ)り那智(なち)ごもりせんとしけるが、行(ぎやう)の試(こころ)みに、きこゆる滝(たき)にしばらくうたれてみんとて、滝(たき)もとへぞまいりける。比(ころ)は十二月(じふにぐわつ)十日(とをか)あまりのことなれば、雪(ゆき)ふりつもりつららゐて、谷(たに)の小河(こがは)も音(おと)もせず。峰(みね)の嵐(あらし)ふきこほり滝(たき)の白糸(しらいと)垂氷(たるひ)となり、みな白妙(しろたへ)におしなべて、四方(しはう)の梢(こずゑ)も見(み)えわかず。

 しかるに文覚(もんがく)、滝(たき)つぼにおりひたり、頸(くび)きはつかって慈救(じく)の呪(じゆ)をみてけるが、二三日(にさんにち)こそありけれ、四五日(しごにち)にもなりければこらへずして、文覚(もんがく)うきあがりにけり。数千丈(すうせんぢやう)みなぎりおつる滝(たき)なれば、なじかはたまるべき。ざっとおしおとされて、かたなの刃(は)のごとくに、さしもきびしき岩(いは)かどのなかを、うきぬしづみぬ、五六町(ごろくちやう)こそながれたれ。

 時(とき)にうつくしげなる童子(どうじ)一人(ひとり)来(き)たって、文覚(もんがく)が左右(さう)の手(て)をとってひきあげたまふ。人(ひと)、奇特(きどく)の思(おもひ)をなし、火(ひ)をたきあぶりなんどしければ、定業(ぢやうごふ)ならぬ命(いのち)ではあり、ほどなくいきいでにけり。文覚(もんがく)すこし人(ひと)心地(ここち)いできて、大(だい)のまなこを見(み)いからかし、

「われこの滝(たき)に三七日(さんしちにち)うたれて、慈救(じく)の三洛叉(さんらくしや)をみてうど思(おも)ふ大願(だいぐわん)あり。今日(けふ)はわづかに五日(いつか)になる。七日(なぬか)だにも過(す)ぎざるに、なに者(もの)がここへはとってきたるぞ」

 といひければ、見(み)る人(ひと)身(み)の毛(け)よだってものいはず。また滝(たき)つぼにかへりたってうたれけり。

 第二日(だいににち)といふに、八人(はちにん)の童子(どうじ)来(き)たって、ひきあげんとしたまへども、さんざんにつかみあうてあがらず。三日(みつか)といふに、文覚(もんがく)つひにはかなくなりにけり。滝(たき)つぼをけがさじとや、みづら結(むす)うたる天童(てんどう)二人(ふたり)、滝(たき)のうへよりおりくだり、文覚(もんがく)が頂上(ちやうじやう)より、手(て)足(あし)のつまさき、たなうらにいたるまで、よにあたたかにかうばしき御手(おんて)をもって、なでくだしたまふとおぼえければ、夢(ゆめ)の心地(ここち)していきいでぬ。

「そもそもいかなる人(ひと)にてましませば、かうはあはれみたまふらん」

 と問(と)ひたてまつる。

「われはこれ大聖不動明王(だいしやうふどうみやうわう)の御使(おんつかひ)に、こんがら、せいたかといふ二童子(にどうじ)なり。『文覚(もんがく)無上(むじやう)の願(ぐわん)をおこして、勇猛(ゆうみやう)の行(ぎやう)をくはたつ。ゆいて力(ちから)をあはすべし』と、明王(みやうわう)の勅(ちよく)によって来(きた)れるなり」

 とこたへたまふ。

 文覚(もんがく)声(こゑ)をいからして、

「さて、明王(みやうわう)はいづくにましますぞ」

「兜率天(とそつてん)に」

 とこたへて、雲井(くもゐ)はるかにあがりたまひぬ。たなごころをあはせてこれを拝(はい)したてまつる。さればわが行(ぎやう)をば、大聖不動明王(だいしやうふどうみやうわう)までも、しろしめされたるにこそとたのもしうおぼえて、なほ滝(たき)つぼにかへりたってうたれけり。

 まことにめでたき瑞相(ずゐさう)どもありければ、吹(ふ)きくる風(かぜ)も身(み)にしまず、落(お)ちくる水(みづ)も湯(ゆ)のごとし。かくて三七日(さんしちにち)の大願(だいぐわん)つひにとげにければ、那智(なち)に千日(せんにち)こもり、大(おほ)峰(みね)三度(さんど)、葛城(かつらぎ)二度(にど)、高野(かうや)、粉(こ)河(かは)、金峰山(きんぶせん)、白山(はくさん)、立山(たてやま)、富士(ふじ)の嶽(たけ)、伊豆(いづ)、箱(はこ)根(ね)、信濃(しなの)戸隠(とがくし)、出羽(では)羽黒(はぐろ)、すべて日本国(につぽんこく)のこる所(ところ)なく、おこなひまはって、さすがなほふる里(さと)や恋(こひ)しかりけん、都(みやこ)へのぼりたりければ、およそとぶ鳥(とり)も祈(いの)りおとすほどのやいばの験者(げんじや)とぞきこえし。

勧進帳

 後(のち)には高雄(たかを)といふ山(やま)の奥(おく)に、おこなひすましてぞゐたりける。かの高雄(たかを)に神護寺(じんごじ)といふ山寺(やまでら)あり。昔(むかし)称(しよう)徳(とく)天(てん)皇(わう)の御時(おんとき)、和気清麿(わけのきよまろ)がたてたりし伽藍(がらん)なり。久(ひさ)しく修造(しゆざう)なかりしかば、春(はる)は霞(かすみ)にたちこめられ、秋(あき)は霧(きり)にまじはり、扉(とぼそ)は風(かぜ)に倒(たふ)れて、落葉(らくえふ)のしたにくち、甍(いらか)は雨(あめ)露(つゆ)にをかされて、仏壇(ぶつだん)さらにあらはなり。

 住持(ぢゆうぢ)の僧(そう)もなければ、まれにさし入(い)る物(もの)とては、月日(つきひ)の光(ひかり)ばかりなり。文覚(もんがく)これをいかにもして、修造(しゆざう)せんといふ大願(だいぐわん)をおこし、勧進帳(くわんじんちやう)をささげて、十方(じつぱう)壇那(だんな)をすすめありきけるほどに、ある時(とき)院(ゐん)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へぞ参(まゐ)りたりける。

 御奉加(ごほうが)あるべき由(よし)奏聞(そうもん)しけれども、御遊(ぎよいう)のをりふしできこしめしも入(い)れられず。文覚(もんがく)は天性(てんしやう)不敵(ふてき)第一(だいいち)のあらひじりなり。御前(ごぜん)の骨(ほね)、内証(ないしよう)をば知(し)らず、ただ申(まう)し入(い)れぬぞと心(こころ)えて、是非(ぜひ)なく御坪(おんつぼ)のうちへやぶりいり、大音声(だいおんじやう)をあげて申(まう)しけるは、

「大慈大悲(だいじだいひ)の君(きみ)にておはします。などかきこしめし入(い)れざるべき」

 とて、勧進帳(くわんじんちやう)をひきひろげ、たからかにこそようだりけれ。

 沙弥(しやみ)文覚(もんがく)敬白(けいびやく)す。殊(こと)には貴賤(きせん)道俗(だうぞく)助成(じよせい)を蒙(かうぶ)って、高雄(たかを)山(やま)の霊地(れいち)に、一(いち)院(ゐん)を建立(こんりふ)し、二世(にせ)安楽(あんらく)の大利(だいり)を勤行(ごんぎやう)せんと乞(こ)ふ勧進状(くわんじんじやう)。

 それ以(おもんみ)れば真如(しんによ)広大(くわうだい)なり。生仏(しやうぶつ)の仮名(けみやう)をたつといへども、法性随妄(ほつしやうずいまう)の雲(くも)あつく覆(おほ)って、十二因縁(じふにいんねん)の峰(みね)にたなびいしよりこのかた、本有心蓮(ほんぬしんれん)の月(つき)の光(ひかり)かすかにして、いまだ三徳四曼(さんとくしまん)の大虚(たいきよ)にあらはれず。悲(かな)しきかな仏日(ぶつにち)早(はや)く没(ぼつ)して、生死(しやうじ)流転(るてん)の衢(ちまた)冥々(めいめい)たり。

 ただ色(いろ)に耽(ふけ)り酒(さけ)にふける。誰(たれ)か狂象跳猿(きやうざうてうゑん)の迷(まよひ)を謝(しや)せん。いたづらに人(ひと)を謗(ばう)じ法(ほふ)を誹(ひ)す。あに閻羅獄卒(えんらごくそつ)の責(せめ)をまぬかれんや。ここに文覚(もんがく)たまたま俗塵(ぞくぢん)をうちはらって法衣(ほふえ)をかざるといへども、悪行(あくぎやう)なほ心(こころ)にたくましうして、日夜(にちや)に造(つく)り、善苗(ぜんめう)また耳(みみ)に逆(さか)らって朝暮(てうぼ)にすたる。

 痛(いた)ましきかな再度(さいど)三途(さんづ)の火坑(くわかう)にかへって、ながく四生苦輪(ししやうくりん)にめぐらんことを。この故(ゆゑ)に無二(むに)の顕章(けんしやう)千万軸(せんまんぢく)、軸々(ぢくぢく)に仏種(ぶつしゆ)の因(いん)をあかす。随縁(ずいえん)至誠(しせい)の法(ほふ)、一つ(ひとつ)として菩提(ぼだい)のかの岸(きし)にいたらずといふことなし。かるがゆゑに文覚(もんがく)無常(むじやう)の観(くわん)門(もん)に涙(なみだ)をおとし、上下(じやうげ)の真俗(しんぞく)をすすめて、上品蓮台(じやうぼんれんだい)にあゆみをはこび、等妙覚王(とうめうかくわう)の霊(れい)場(ぢやう)をたてんとなり。

 そもそも高雄(たかを)は、山(やま)うづたかくして鷲峰山(じゆぶせん)の梢(こずゑ)を表(あらは)し、谷(たに)閑(しづ)かにして、商山洞(しやうざんどう)の苔(こけ)をしけり。巌泉(がんせん)咽(むせ)んで布(ぬの)をひき、嶺猿(れいゑん)叫(さけ)んで枝(えだ)にあそぶ。人(ひと)里(さと)とほうして囂塵(がうぢん)なし。咫尺(しせき)好(よ)くして信心(しんじん)のみあり。地形(ぢぎやう)すぐれたり。尤(もつと)も仏天(ぶつてん)をあがむべし。

 奉加(ほうが)すこしきなり。誰(たれ)か助成(じよせい)せざらん。風に聞く(ほのにきく)、聚沙為仏塔(じゆしやゐぶつたふ)、功徳(くどく)たちまちに仏因(ぶついん)を感(かん)ず。況哉(いはんや)一紙半銭(いつしはんせん)の宝財(ほうざい)においてをや。願(ねが)はくは建立(こんりふ)成就(じやうじゆ)して、金闕鳳暦(きんけつほうれき)御願(ごぐわん)円満(ゑんまん)、乃至(ないし)都鄙遠近(とひゑんきん)、隣民(りんみん)親疎(しんそ)、堯舜(げうしゆん)無為(むゐ)の化(け)をうたひ、椿葉再会(ちんえふさいくわい)の咲(ゑみ)をひらかん。

 殊(こと)には聖霊幽儀(しやうりやういうぎ)、先後大小(せんごだいせう)、すみやかに一仏真門(いちぶつしんもん)の台(たい)にいたり、必(かなら)ず三身万徳(さんじんまんとく)の月(つき)をもてあそばん。よって勧進修行(くわんじんしゆぎやう)の趣(おもむき)蓋以如斯(けだしもつてかくのごとし)。

 治承(ぢしやう)三年(さんねん)三月日(さんぐわつにち) 文覚(もんがく)

 とこそよみあげたれ。

文覚被流

 をりふし御前(ごぜん)には太政大臣妙音院(だじやうだいじんめうおんゐん)、琵琶(びは)かきならし朗詠(らうえい)めでたうさせたまふ。按察大納言資賢卿(あぜちのだいなごんすけかたのきやう)拍子(ひやうし)とって、風俗(ふぞく)、催馬楽(さいばら)うたはれけり。右馬頭(うまのかみ)資時(すけとき)、四位(しゐ)侍従(じじゆう)盛定(もりさだ)、和琴(わごん)かきならし、今様(いまやう)とりどりにうたひ、玉(たま)の簾(すだれ)、錦(にしき)の帳(とばり)の中(なか)ざざめきあひ、まことに面白(おもしろ)かりければ、法皇(ほふわう)もつけ歌(うた)せさせおはします。

 それに文覚(もんがく)が大音声(だいおんじやう)いできて、調子(てうし)もたがひ、拍子(ひやうし)もみな乱(みだ)れにけり。

「何(なに)者(もの)ぞ。そくびつけ」

 と仰せ(おほせ)下(くだ)さるるほどこそありけれ、はやりをの若(わか)者(もの)ども、われもわれもとすすみけるなかに、資行判官(すけゆきはんぐわん)といふ者(もの)、はしりいでて、

「なんでう事(こと)申(まう)すぞ、まかりいでよ」

 といひければ、

「高雄(たかを)の神護寺(じんごじ)に庄(しやう)一所(いつしよ)寄(よ)せられざらんほどは、まったく文覚(もんがく)いづまじ」

 とてはたらかず。よってそくびをつかうどしければ、勧進帳(くわんじんちやう)をとりなほし、資行判官(すけゆきはんぐわん)が烏帽子(えぼし)をはたとうってうちおとし、こぶしをにぎってしやむねをついて、のけにつき倒(たふ)す。資行判官(すけゆきはんぐわん)もとどりはなっておめおめと大床(おほゆか)のうへへにげのぼる。

 その後(のち)文覚(もんがく)ふところより馬(むま)の尾(を)で柄(え)まいたる刀(かたな)の、こほりのやうなるをぬきいだいて、よりこん者(もの)をつかうどこそまちかけたれ。左(ひだり)の手(て)には勧進帳(くわんじんちやう)、右(みぎ)の手(て)には刀(かたな)をぬいてはしりまはるあひだ、思(おも)ひまうけぬにはか事(こと)ではあり、左右(さう)の手(て)に刀(かたな)もったるやうにぞ見(み)えたりける。

 公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)も、

「こはいかに、こはいかに」

 とさわがれければ、御遊(ぎよいう)もはや荒(あ)れにけり。院中(ゐんぢゆう)の騒動(さうどう)なのめならず。信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん)、安(やす)藤(ふぢ)武者(むしや)右宗(すゑむね)、そのころ当職(たうしよく)の武者(むしや)所(ところ)でありけるが、なにごとぞとて太刀(たち)をぬいてはしりいでたり。文覚(もんがく)よろこんでかかる所(ところ)を、きってはあしかりなんとや思(おも)ひけん、太刀(たち)のみねをとりなほし、文覚(もんがく)が刀(かたな)もったるかひなをしたたかにうつ。

 うたれてちっとひるむところに、太刀(たち)をすててえたりをうとてくんだりけり。くまれながら文覚(もんがく)、安(やす)藤(ふぢ)武者(むしや)が右(みぎ)のかひなをつく。つかれながらしめたりけり。互(たがひ)におとらぬ大力(だいぢから)なりければ、上(うへ)になり下(した)になり、ころびあふところに、かしこがほに上下(かみしも)よって、文覚(もんがく)がはたらくところのぢやうをがうしてんげり。

 されどもこれをことともせず、いよいよ悪口(あくこう)放(はな)言(い)す。門外(もんぐわい)へひきいだいて庁(ちやう)の下部(しもべ)にたぶ。たまはってひつぱる。ひっぱられて立(た)ちながら御所(ごしよ)の方(かた)をにらまへ、大音声(だいおんじやう)をあげて、

「奉加(ほうが)をこそしたまはざらめ、これほど文覚(もんがく)にからい目(め)を見(み)せたまひつれば、思(おも)ひ知(し)らせ申(まう)さんずる物(もの)を。三界(さんがい)は皆(みな)火宅(くわたく)なり。王宮(わうぐう)といふとも、その難(なん)をのがるべからず。十善(じふぜん)の帝位(ていゐ)にほこったうとも、黄泉(くわうせん)の旅(たび)にいでなん後(のち)は、牛頭馬頭(ごづめづ)の責(せめ)をばまぬかれたまはじ物(もの)を」

 と、躍(をど)りあがり躍(をど)りあがりぞ申(まう)しける。

「この法師(ほふし)、奇怪(きつくわい)なり」

 とて、やがて獄定(ごくぢやう)せられけり。資行判官(すけゆきはんぐわん)は烏帽子(えぼし)打(う)ちおとされて恥(はぢ)がましさに、しばしは出仕(しゆつし)もせず。安(やす)藤(ふぢ)武者(むしや)、文覚(もんがく)くんだる勧賞(けんじやう)に、当座(たうざ)に一臈(いちらふ)を経(へ)ずして、右馬允(うまのじよう)にぞなされける。さるほどにそのころ美福門院(びふくもんゐん)かくれさせたまひて、大赦(だいしや)ありしかば、文覚(もんがく)ほどなくゆるされけり。

 しばらくはどこにもおこなふべかりしが、さはなくして、また勧進帳(くわんじんちやう)をささげてすすめけるが、さらばただもなくして、

「あつぱれこの世(よ)の中(なか)は、ただ今(いま)乱(みだ)れ、君(きみ)も臣(しん)もみなほろびうせんずる物(もの)を」

 なんど、おそろしきことをのみ申(まう)しありくあひだ、伊豆国(いづのくに)へぞながされける。

 源三位入道(げんざんみにふだう)の嫡子(ちやくし)仲綱(なかつな)の、そのころ伊豆守(いづのかみ)にておはしければ、その沙汰(さた)として、東海道(とうかいだう)より舟(ふね)にてくだすべしとて、伊勢国(いせのくに)へゐてまかりけるに、放免(はうめん)両(りやう)三人(さんにん)ぞつけられたる。これらが申(まう)しけるは、

「庁(ちやう)の下部(しもべ)のならひ、かやうのことについてこそ、おのづからの依怙(えこ)もさうらへ。いかに聖(ひじり)の御(おん)房(ばう)、これほどのことに逢(あ)うて、遠国(をんごく)へながされたまふに、知人(しりうと)はもちたまはぬか。土産粮料(どさんらうれう)ごときの物(もの)をもこひたまへかし」

 といひければ、

「文覚(もんがく)はさやうの要事(ようじ)いふべき得意(とくい)ももたず。東山(ひがしやま)の辺(ほとり)にぞ得意(とくい)はある。いでさらばふみをやらう」

 といひければ、けしかる紙(かみ)をたづねてえさせたり。

「かやうの紙(かみ)で物(もの)書(か)くやうなし」

 とて投(な)げかへす。さらばとて厚紙(あつがみ)をたづねてえさせたり。文覚(もんがく)わらって、

「法師(ほふし)は物(もの)をえ書(か)かぬぞ。さらばおれら書(か)け」

 とて書(か)かするやう、

「『文覚(もんがく)こそ高雄(たかを)の神護寺(じんごじ)造立(ざうりふ)供養(くやう)のこころざしあって、すすめさうらひつるほどに、かかる君(きみ)の代(よ)にしも逢(あ)うて、所願(しよぐわん)をこそ成就(じやうじゆ)せざらめ、禁獄(きんごく)せられて、あまっさへ伊豆国(いづのくに)へ流罪(るざい)せられさうらへ。遠路(とほぢ)の間(あひだ)でさうらふ。

土産粮料(どさんらうれう)ごときの物(もの)も大切(たいせつ)にさうらふ。この使(つかひ)にたぶべし』と書(か)け」

 といひければ、いふままに書(か)いて、

「さて誰(たれ)どのへと書(か)きさうらはうぞ」

「清(きよし)水(みづ)の観音房(くわんのんばう)へと書(か)け」

「これは庁(ちやう)の下部(しもべ)をあざむくにこそ」

 と申(まう)せば、

「さりとては文覚(もんがく)は、観音(くわんおん)をこそふかうたのみたてまつたれ。さらでは誰(たれ)にかは用事(ようじ)をばいふべき」

 とぞ申(まう)しける。

 伊勢国(いせのくに)阿濃(あの)の津(つ)より舟(ふね)に乗(の)ってくだりけるが、遠江(とほたふみ)の天竜灘(てんりうなだ)にて、俄(にはか)に大(おほ)風(かぜ)ふき大(おほ)なみたって、すでにこの舟(ふね)をうちかへさんとす。水手(かこ)梶(かぢ)取(と)どもいかにもしてたすからんとしけれども、波(なみ)風(かぜ)いよいよあれければ、あるいは観音(くわんおん)の名号(みやうがう)をとなへ、あるいは最後(さいご)の十(じふ)念(ねん)におよぶ。

 されども文覚(もんがく)これをことともせず、たかいびきかいてふしたりけるが、なにとか思(おも)ひけん、いまはかうとおぼえる時(とき)、かっぱとおき舟(ふね)の舳(へさき)にたって、沖(おき)の方(かた)をにらまへ、大音声(だいおんじやう)をあげて、

「竜(りう)王(わう)やある、竜(りう)王(わう)やある」

 とぞようだりける。

「いかにこれほどの大願(だいぐわん)起(お)こいたる聖(ひじり)が乗(の)ったる舟(ふね)をば、あやまたうどはするぞ。ただいま天(てん)の責(せめ)かうむらんずる竜神(りうじん)どもかな」

 とぞ申(まう)しける。そのゆゑにや波(なみ)風(かぜ)ほどなくしづまって、伊豆国(いづのくに)へつきにけり。文覚(もんがく)京(きやう)をいでける日(ひ)より、祈誓(きせい)することあり。

「われ都(みやこ)にかへって、高雄(たかを)の神護寺(じんごじ)造立(ざうりふ)供養(くやう)すべくは、死(し)ぬべからず。その願(ぐわん)むなしかるべくは、道(みち)にて死(し)ぬべし」

 とて、京(きやう)より伊豆(いづ)へつきけるまで、折節(をりふし)順風(じゆんぷう)なかりければ、浦(うら)づたひ島(しま)づたひして、卅一日(さんじふいちにち)があひだは、一向(いつかう)断食(だんじき)にてぞありける。されども気力(きりよく)すこしもおとらず、おこなひうちしてゐたり。まことにただ人(ひと)ともおぼえぬことどもおほかりけり。

 近藤四郎国高(こんどうしらうくにたか)といふ者(もの)に預(あづ)けられて、伊豆国(いづのくに)奈古屋(なごや)がおくにぞ住(す)みける。

福原院宣

 さるほどに兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)へ常(つね)は参(まゐ)って、昔(むかし)今(いま)の物語(ものがたり)ども申(まう)してなぐさむほどに、ある時(とき)文覚(もんがく)申(まう)しけるは、

「平家(へいけ)には小松(こまつ)のおほいとのこそ心(こころ)も剛(がう)に、はかりこともすぐれておはせしか、平家(へいけ)の運命(うんめい)が末(すゑ)になるやらん、こぞの八月(はちぐわつ)薨(こう)ぜられぬ。いまは源平(げんぺい)のなかに、わとのほど将軍(しやうぐん)の相(さう)もったる人(ひと)はなし。

はやはや謀反(むほん)おこして、日本国(につぽんこく)したがへたまへ」

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)、

「思(おも)ひもよらぬ事(こと)のたまふ聖(ひじり)御坊(おんばう)かな。われは故(こ)池(いけ)尼(あま)御前(ごぜん)に、かひなき命(いのち)をたすけられたてまつってさうらへば、その後世(ごせ)をとぶらはんために、毎日(まいにち)に法花経(ほつけきやう)一部転読(いちぶてんどく)する外(ほか)は他事(たじ)なし」

 とこそのたまひけれ。文覚(もんがく)かさねて申(まう)しけるは、

「天(てん)のあたふるをとらざればかへってそのとがをうく。時(とき)いたっておこなはざればかへってその殃(わざはひ)をうくといふ本文(ほんもん)あり。かう申(まう)せば御辺(ごへん)の心(こころ)をみんとて申(まう)すなんど思(おも)ひたまふか。

御辺(ごへん)に心(こころ)ざしのふかい色(いろ)を見(み)たまへかし」

 とて、ふところより白(しろ)いぬのにつつんだる髑髏(どくろ)を一つ(ひとつ)とりいだす。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、

「あれはいかに」

 とのたまへば、

「これこそわとのの父(ちち)故(こ)左馬頭(さまのかみ)殿(どの)のかうべよ。平治(へいぢ)の後(のち)獄舎(ひとや)のまへなる苔(こけ)のしたにうづもれて、後世(ごせ)とぶらふ人(ひと)もなかりしを、文覚(もんがく)存(ぞん)ずる旨(むね)あって、獄(ひとや)守(かみ)にこうてこの十余年(じふよねん)頸(くび)にかけ、山々(やまやま)寺々(てらでら)をがみまはり、とぶらひたてまつれば、いまは一劫(いつごふ)もたすかりたまひぬらん。

されば文覚(もんがく)は故頭殿(こかうどの)の御(おん)ためにも奉公(ほうこう)の者(もの)でこそさうらへ」

 と申(まう)しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)一定(いちぢやう)とはおぼえねども、父(ちち)のかうべときくなつかしさに、まづ涙(なみだ)をぞながされける。その後(のち)はうちとけて物語(ものがたり)したまふ。

「そもそも頼朝(よりとも)勅勘(ちよくかん)をゆりずしては、争(いか)でか謀反(むほん)をばおこすべき」

 とのたまへば、

「それやすいこと、やがてのぼって申(まう)しゆるいてたてまつらん」

「さもさうず、御(おん)房(ばう)も勅勘(ちよくかん)の身(み)で人(ひと)を申(まう)しゆるさうどのたまふあてがひやうこそおほきにまことしからね」

「わが身(み)の勅勘(ちよくかん)をゆりうど申(まう)さばこそひがことならめ、わとのの事(こと)申(まう)さうはなにか苦(くる)しかるべき。いまの都(みやこ)福原(ふくはら)の新都(しんと)へのぼらうに三日(みつか)に過(す)ぐまじ。院宣(ゐんぜん)うかがはうに一日(いちにち)が逗留(とうりう)ぞあらんずる。都合(つがふ)七日(なぬか)八日(やうか)には過(す)ぐべからず」

 とてつきいでぬ。奈古屋(なごや)にかへって弟子(でし)どもには、伊豆(いづ)の御山(おんやま)に人(ひと)にしのんで七日(なぬか)参籠(さんろう)の心(こころ)ざしありとていでにけり。げにも三日(みつか)といふに福原(ふくはら)の新都(しんと)へのぼりつく。前右兵衛督(さきのうひやうゑのかみ)光能(みつよし)卿(きやう)のもとに、いささかゆかりありければ、それにゆいて、

「伊豆国(いづのくに)の流人前右兵衛佐頼朝(るにんさきのうひやうゑのすけよりとも)こそ、勅勘(ちよくかん)をゆるされて院宣(ゐんぜん)をだにもたまはらば、八箇国(はちかこく)の家人(けにん)ども催(もよほ)しあつめて、平家(へいけ)をほろぼし、天下(てんか)をしづめんと申(まう)しさうらへ」

 兵衛督(ひやうゑのかみ)、

「いさとよ、わが身(み)も当時(たうじ)は三官(さんくわん)ともにとどめられて、心(こころ)苦(くる)しいをりふしなり。法皇(ほふわう)もおしこめられてわたらせたまへば、いかがあらんずらん。さりながらもうかがうてこそ見(み)め」

 とて、この由(よし)ひそかに奏(そう)せられければ、法皇(ほふわう)やがて院宣(ゐんぜん)をこそくだされけれ。聖(ひじり)これをくびにかけ、また三日(みつか)といふに伊豆国(いづのくに)へくだりつく。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)、あつぱれこの聖(ひじり)御(おん)房(ばう)は、なまじひによしなき事(こと)申(まう)しいだして、頼朝(よりとも)またいかなるうき目(め)にかあはんずらんと、思(おも)はじことなう案(あん)じつづけておはしけるところに、八日(やうか)といふ午刻(うまのこく)ばかりくだりついて、

「すは院宣(ゐんぜん)よ」

 とてたてまつる。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、院宣(ゐんぜん)ときくかたじけなさに、手水(てうづ)うがひをして、あたらしき烏帽子(えぼし)、浄衣(じやうえ)着(き)て、院宣(ゐんぜん)を三度(さんど)拝(はい)して、ひらかれたり。

 頃年(けいねん)より以降(いかう)、平氏(へいじ)王化(わうくわ)蔑如(べつじよ)して、政道(せいだう)に憚(はばか)ることなし。仏法(ぶつぽふ)を破滅(はめつ)して朝威(てうゐ)を亡(ほろぼ)さんとす。それ我朝(わがてう)は神国(しんこく)なり。宗廟(そうべう)あひならんで神徳(しんとく)これあらたなり。故(ゆゑ)に朝廷(てうてい)開基(かいき)の後(のち)、数千余歳(すうせんよさい)のあひだ帝猷(ていいう)を傾(かたぶ)け、国家(こくか)を危(あやふ)めんとする者(もの)、みなもって敗北(はいぼく)せずといふことなし。

 然(しか)れば則(すなは)ち且(かつ)は神道(しんたう)の冥助(みやうじよ)にまかせ、且(かつ)は勅宣(ちよくせん)の旨趣(ししゆ)をまもって、はやく平氏(へいじ)の一類(いちるゐ)を誅(ちゆう)して、朝家(てうか)の怨敵(をんてき)をしりぞけよ。譜代(ふだい)弓箭(きゆうせん)の兵略(へいりやく)を継(つ)ぎ、累祖(るゐそ)奉公(ほうこう)の忠勤(ちゆうきん)を抽(ぬき)でて、身(み)をたて家(いへ)をおこすべし。てへれば院宣(ゐんぜん)かくのごとし。

 よって執達如件(しつたつくだんのごとし)。

 治承(ぢしやう)四年(よねん)七月(しちぐわつ)十四日(じふしにち) 前右兵衛督光能奉(さきのうひやうゑのかみみつよしがうけたまはり) 謹上(きんじやう)前右兵衛佐(さきのうひやうゑのすけ)殿(どの) 

 とぞ書(か)かれたる。この院宣(ゐんぜん)をば、錦(にしき)の袋(ふくろ)にいれて、石(いし)橋(はし)山(やま)の合戦(かつせん)の時(とき)も、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)頸(くび)にかけられたりけるとかや。

富士川

 さるほどに福原(ふくはら)には、勢(せい)のつかぬ先(さき)に、いそぎ打手(うって)をくだすべしと、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あって、大将軍(たいしやうぐん)には小松(こまつ)権亮少将(ごんのすけのせうしやう)維盛(これもり)、副将軍(ふくしやうぐん)には薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、都合(つがふ)その勢(せい)三万余騎(さんまんよき)、九月(くぐわつ)十八日(じふはちにち)に都(みやこ)をたって、十九日(じふくにち)には旧都(きうと)につき、やがて廿日(はつか)東国(とうごく)へこそうったたれけれ。

 大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけのせうしやう)維盛(これもり)は、生年(しやうねん)廿三(にじふさん)、容儀(ようぎ)帯佩(たいはい)絵(ゑ)にかくとも筆(ふで)も及(およ)びがたし。重代(ぢゆうだい)の鎧(よろひ)唐皮(からかは)といふ着背長(きせなが)をば、唐櫃(からびつ)に入(い)れてかかせらる。道中(だうちゆう)には赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、萌黄糸威(もえぎいとをどし)の鎧(よろひ)着(き)て、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)に金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)おいて乗(の)りたまへり。

 副将軍(ふくしやうぐん)薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は、紺地(こんぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)着(き)て、黒(くろ)き馬(むま)のふとうたくましいに、沃懸地(いかけぢ)の鞍(くら)おいて乗(の)りたまへり。馬(むま)、鞍(くら)、鎧(よろひ)、甲(かぶと)、弓矢(ゆみや)、太刀(たち)、刀(かたな)にいたるまで、てりかかやくほどにいでたたれたりしかば、めでたかりし見(み)物(もの)なり。

 薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は、年来(ねんらい)ある宮腹(みやばら)のもとへかよはれけるが、ある時(とき)おはしたりけるに、その女房(にようばう)のもとへ、やんごとなき女房(にようばう)客人(まらうど)にきたってやや久(ひさ)しう物語(ものがたり)したまふ。さよもはるかにふけゆくまでに、客人(まらうど)かへりたまはず。忠度(ただのり)軒(のき)ばにしばしやすらひて、扇(あふぎ)をあらくつかはれければ、宮腹(みやばら)の女房(にようばう)、

「野(の)もせにすだく虫(むし)のねよ」

 と、優(いう)にやさしう口(くち)ずさみたまへば、薩摩守(さつまのかみ)やがて扇(あふぎ)をつかひやみてかへられけり。その後(のち)またおはしたりけるに、宮腹(みやばら)の女房(にようばう)、

「さても一日(ひとひ)、なにとて扇(あふぎ)をばつかひやみしぞや」

 と問(と)はれければ、

「いさかしかましなんどきこえさうらひしかば、さてこそつかひやみさうらひしか」

 とぞのたまひける。かの女房(にようばう)のもとより、忠度(ただのり)のもとへ小袖(こそで)を一(ひと)かさねつかはすとて、千里(せんり)のなごりのかなしさに、一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞおくられける。

あづまぢの草葉(くさば)をわけん袖(そで)よりもたたぬたもとの露(つゆ)ぞこぼるる

 薩摩守(さつまのかみ)返事(へんじ)には、

わかれ路(ぢ)をなにかなげかんこえてゆく関(せき)もむかしの跡(あと)と思(おも)へば

「関(せき)も昔(むかし)の跡(あと)」

 とよめることは。平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)、将門(まさかど)追討(ついたう)のために、東国(とうごく)へ下向(げかう)せしことを、思(おも)ひいでてよみたりけるにや。いとやさしうぞきこえし。

 昔(むかし)は朝敵(てうてき)をたひらげに、外土(ぐわいど)へむかふ将軍(しやうぐん)は、まづ参内(さんだい)して、節刀(せつたう)をたまはる。宸儀南殿(しんぎなんでん)に出御(しゆつぎよ)し、近衛(こんゑ)階下(かいか)に陣(ぢん)をひき、内弁(ないべん)外弁(げべん)の公卿(くぎやう)参(さん)列(れつ)して、中儀(ちゆうぎ)の節会(せちゑ)おこなはる。大将軍(たいしやうぐん)副将軍(ふくしやうぐん)おのおの礼儀(れいぎ)をただしうして、これをたまはる。

 承平(しようへい)天慶(てんぎやう)の蹤跡(しようせき)も年(とし)久(ひさ)しうなって、准(なぞら)へがたしとて、今度(こんど)は讃岐守(さぬきのかみ)平(たひら)の正盛(まさもり)が前(まへ)対馬守源義親(つしまのかみみなもとのよしちか)追討(ついたう)のために、出雲国(いづものくに)へ下向(げかう)せし例(れい)として、鈴(すず)ばかりたまはって、皮(かは)の袋(ふくろ)にいれて、雑色(ざふしき)が頸(くび)にかけさせてぞくだられける。いにしへ朝敵(てうてき)をほろぼさんとて、都(みやこ)をいづる将軍(しやうぐん)は、三(み)つの存知(ぞんぢ)あり。

 節刀(せつたう)をたまはる日(ひ)、家(いへ)を忘(わす)れ、家(いへ)をいづるとて妻子(さいし)を忘(わす)れ、戦場(せんぢやう)にして敵(かたき)にたたかふ時(とき)身(み)を忘(わす)る。されば、今(いま)の平氏(へいじ)の大将(だいしやう)、維盛(これもり)、忠度(ただのり)も、定(さだ)めてかやうのことをば存知(ぞんぢ)せられたりけん、あはれなりしことどもなり。

 同(おなじき)二十一日(にじふいちにち)、新院(しんゐん)また安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)へ御幸(ごかう)なる。去(さ)る三月(さんぐわつ)にも御幸(ごかう)ありき。そのゆゑにやなか一両(いちりやう)月(つき)世(よ)もめでたくをさまって、民(たみ)のわづらひもなかりしが、高倉(たかくら)宮(みや)の御謀反(ごむほん)によって、また天下(てんか)乱(みだ)れて世上(せじやう)もしづかならず。これによって且(かつ)は天下(てんか)静謐(せいひつ)のため、且(かつ)は聖代不予(せいたいふよ)の御所(ごしよ)念(ねん)のためとぞきこえし。

 今度(こんど)は福原(ふくはら)よりの御幸(ごかう)なれば、斗藪(とそう)のわづらひもなかりけり。手(て)づからみづから御願文(ごぐわんもん)をあそばいて、清書(せいしよ)をば摂政(せつしやう)殿(どの)せさせおはします。

 蓋聞(けだしきく)、法性雲(ほつしやううん)閑(しづ)かなり、十(じふ)四十五(しじふご)の月(つき)高(たか)く晴(は)れ、権化(ごんげ)智(ち)深(ふか)し、一陰一陽(いちいんいちやう)の風(かぜ)旁(あまね)に扇(あふ)ぐ。それ厳島(いつくしま)の社(やしろ)は、称名(しようみやう)あまねくきこゆるには、効験(かうげん)無双(むさう)の砌(みぎり)なり。遙嶺(えうれい)の社壇(しやだん)をめぐる、おのづから大慈(だいじ)の高(たか)く峙(そばだ)てるを彰(あらは)し、巨海(こかい)の祠宇(しう)におよぶ、空(そら)に弘誓(ぐぜい)の深広(じんくわう)なることを表(あらは)す。

 それ以(おもんみ)れば、初(はじ)め庸昧(ようまい)の身(み)をもって、忝(かたじけな)く皇王(くわうわう)の位(くらゐ)を践(ふ)む。今(いま)賢猷(けんいう)を霊境(れいきやう)の群(くん)に翫(もてあそ)んで、閑坊(かんばう)を射山(やさん)の居(ゐ)にたのしむ。しかるにひそかに一心(いつしん)の清誠(せいせい)を抽(ぬき)で、孤島(こたう)の幽祠(いうし)に詣(まう)で、瑞籬(ずゐり)の下(した)に明恩(みやうおん)を仰(あふ)ぎ、懇念(こんねん)を凝(こら)して汗(あせ)をながし、宝宮(ほうぐう)のうちに霊託(れいたく)を垂(た)る。

 そのつげの心(こころ)に銘(めい)ずるあり。なかんづくことに怖畏謹慎(ふゐきんしん)の期(ご)をさすに、もはら季夏初秋(きかしよしう)の候(こう)にあたる。病痾(びやうあ)たちまちに侵(をか)し、なほ医術(いじゆつ)の験(しるし)を施(ほどこ)すことなし。萍桂(へいけい)頻(しき)りに転(てん)ず。弥(いよいよ)神感(しんかん)の空(むな)しからざることを知(し)んぬ。祈祷(きたう)を求(もと)むといへども霧露(むろ)散(さん)じがたし。

 しかじ心府(しんぷ)の心(こころ)ざしを抽(ぬき)でて、かさねて斗藪(とそう)の行(ぎやう)をくはたてんと思(おも)ふ。漠々(ばくばく)たる寒嵐(かんらん)の底(そこ)、旅泊(りよはく)に臥(ふ)して夢(ゆめ)をやぶり、凄々(せいせい)たる微陽(びやう)のまへ、遠路(ゑんろ)に臨(のぞ)んで、眼(まなこ)をきはむ。つひに枌楡(ふんゆ)の砌(みぎり)について、敬(うやま)って清浄(しやうじやう)の席(むしろ)を展(の)べ、書写(しよしや)したてまつる色紙墨字(しきしぼくじ)の妙法蓮華経(めうほふれんげきやう)一部(いちぶ)、開結二経(かいけつにきやう)、阿弥陀(あみだ)、般若心(はんにやしん)等(とう)の経(きやう)、各(かく)一巻(いちくわん)、手(て)づから自(みづか)ら書写(しよしや)したてまつる金泥(こんでい)の提婆品(だいばほん)一巻(いちくわん)、時(とき)に蒼松蒼柏(さうしようさうはく)の陰(かげ)ともに善理(ぜんり)の種(たね)をそへ、潮去潮来(てうきよてうらい)の響(ひびき)、空(そら)に梵唄(ぼんばい)の声(こゑ)に和(わ)す。

 弟子(でし)北闕(ほくけつ)の雲(くも)を辞(じ)して、八亥涼燠(はちがいりやういく)のおほく廻(めぐ)ることなしといへども、西海(さいかい)の浪(なみ)を凌(しの)ぐ事(こと)二(ふた)たび、深(ふか)く機縁(きえん)のあさからざることを知(し)んぬ。朝(あした)に祈(いの)る客(かく)一(いち)にあらず。夕(ゆふべ)に賽(さい)するもの且千(しやせん)なり。但(ただ)し尊貴(そんき)の帰仰(きぎやう)おほしといへども、院宮(ゐんぐう)の往詣(わうけい)いまだ聞(き)かず。

 禅定法皇(ぜんぢやうほふわう)初(はじ)めてその儀(ぎ)をのこしたまふ。弟子(でし)眇身(べうしん)深(ふか)くその志(こころざし)を運(はこ)び、かの崇高山(こうとうさん)の月(つき)の前(まへ)には、漢武(かんぶ)いまだ和光(わくわう)のかげを拝(はい)せず。蓬莱洞(ほうらいどう)の雲(くも)の底(そこ)にも、天仙(てんせん)むなしく垂跡(すゐしやく)の塵(ちり)をへだつ。仰(あふ)ぎ願(ねが)はくは大明神(だいみやうじん)、伏(ふ)して乞(こ)ふらくは一乗経(いちじようきやう)、新(あらた)に丹祈(たんき)をてらして、唯一(ゆいいつ)の玄応(げんおう)を垂(た)れたまへ。

 治承(ぢしやう)四年(よねん)九月(くぐわつ)廿八日(にじふはちにち) 太上天皇(だいじやうてんわう)

 とぞあそばされたる。

 さるほどに、この人々(ひとびと)は九重(ここのへ)の都(みやこ)をたって、千里(せんり)の東海(とうかい)におもむかれける。たひらかにかへりのぼらんことも、まことにあやふき有様(ありさま)どもにて、あるいは野原(のはら)の露(つゆ)にやどをかり、あるいはたかねの苔(こけ)に旅(たび)ねをし、山(やま)をこえ河(かは)をかさね、日(ひ)かずふれば十月(じふぐわつ)十六日(じふろくにち)には、駿河国(するがのくに)清見(きよみ)が関(せき)にぞつきたまふ。

 都(みやこ)をば三万余騎(さんまんよき)でいでしかど、路次(ろじ)の兵(つはもの)召(め)し具(ぐ)して七万余騎(しちまんよき)とぞきこえし。先陣(せんぢん)は蒲原(かんばら)、富士(ふじ)川(かは)にすすみ、後陣(ごぢん)はいまだ手越(てごし)、宇(う)津(つ)の屋(や)にささへたり。大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけのせうしやう)維盛(これもり)、侍大将(さぶらひだいしやう)上総守忠清(かづさのかみただきよ)を召(め)して、

「ただ維盛(これもり)が存知(ぞんぢ)には、足柄(あしがら)をうちこえて、坂東(ばんどう)にていくさをせん」

 とはやられけるを、上総(かづさ)守(かみ)申(まう)しけるは、

「福原(ふくはら)をたたせたまひし時(とき)、入道殿(にふだうどの)の御定(おんさだめ)には、『いくさをば忠清(ただきよ)にまかせさせたまへ』と仰せ(おほせ)さうらひしぞかし。八箇国(はちかこく)の兵(つはもの)どもみな兵衛佐(ひやうゑのすけ)にしたがひついてさうらふなれば、何(なに)十万騎(じふまんき)かさうらん。御方(みかた)の御(おん)勢(せい)は七万余騎(しちまんよき)とは申(まう)せども、国々(くにぐに)のかり武者(むしや)どもなり。

馬(むま)も人(ひと)もせめふせてさうらふ。伊豆(いづ)、駿河(するが)の勢(せい)の参(まゐ)るべきだにもいまだみえさうらはず。ただ富士(ふじ)川(かは)をまへにあてて、みかたの御(おん)勢(せい)をまたせたまふべうやさうらん」

 と申(まう)しければ、力(ちから)及(およ)ばでゆらへたり。

 さるほどに兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、足柄(あしがら)の山(やま)を打(う)ちこえて、駿河国(するがのくに)黄(き)瀬(せ)河(かは)にこそつきたまへ。甲斐(かひ)、信濃(しなの)の源氏(げんじ)ども、馳(は)せ来(き)たって、一つ(ひとつ)になる。浮島(うきしま)が原(はら)にて勢(せい)ぞろへあり。廿万騎(にじふまんき)とぞ記(しる)いたる。常陸(ひたち)源氏(げんじ)、佐竹太郎(さたけのたらう)が雑色(ざふしき)、主(しゆう)の使(つかひ)に文(ふみ)もって京(きやう)へのぼるを、平家(へいけ)の先陣(せんぢん)上総守忠清(かづさのかみただきよ)、これをとどめてもったる文(ふみ)をばひとり、あけてみれば、女房(にようばう)のもとへの文(ふみ)なり。

 苦(くる)しかるまじとてとらせてんげり。

「そもそも兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の勢(せい)、いかほどあるぞ」

 と問(と)へば、

「およそ八日九日(やうかここのか)の道(みち)にはたとつづいて、野(の)も山(やま)も海(うみ)も河(かは)も武者(むしや)でさうらふ。下臈(げらふ)は四五百千(しごひやくせん)までこそ物(もの)の数(かず)をば知(し)ってさうらへども、それよりうへは知(し)らぬさうらふ。おほいやらうすくないやらうをば知(し)りさうらはず。昨日(きのふ)黄(き)瀬(せ)川(かは)で人(ひと)の申(まう)しさうらひつるは、源氏(げんじ)の御(おん)勢(せい)廿万騎(にじふまんき)とこそ申(まう)しさうらひつれ」

 上総(かづさ)守(かみ)これをきいて、

「あつぱれ大将軍(たいしやうぐん)の、御心(おんこころ)ののびさせたまひたるほど口(くち)惜(を)しい事(こと)さうらはず。いま一日(いちにち)も先(さき)に打手(うって)をくださせたまひたらば、足柄(あしがら)の山(やま)こえて八箇国(はちかこく)へ御出(おんい)でさうらはば、畠(はたけ)山(やま)が一族(いちぞく)、大庭(おほば)兄弟(きやうだい)などか参(まゐ)らでさうらふべき。これらだにも参(まゐ)りなば、坂東(ばんどう)にはなびかぬ草木(さうもく)もさうらふまじ」

 と、後悔(こうくわい)すれどもかひぞなき。

 また大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけのせうしやう)維盛(これもり)、東国(とうごく)の案内者(あんないしや)とて、長井(ながゐ)の斎藤(さいとう)別当(べつたう)実盛(さねもり)を召(め)して、

「やや実盛(さねもり)、なんぢほどの強弓勢兵(つよゆみせいびやう)、八箇国(はちかこく)にはいかほどあるぞ」

 と問(と)ひたまへば、斎藤(さいとう)別当(べつたう)あざわらって申(まう)しけるは、

「ささうらへば君(きみ)は実盛(さねもり)を大矢(おほや)とおぼしめしさうらふか。わづかに十三(じふさん)束(ぞく)こそ仕(つかまつ)りさうらへ。実盛(さねもり)ほどさうらふ者(もの)は、八箇国(はちかこく)にいくらもさうらふ。大矢(おほや)と申(まう)すぢやうの者(もの)の、十五束(じふごそく)におとってひくはさうらはず。弓(ゆみ)のつよさもしたたかなる者(もの)五六人(ごろくにん)してはりさうらふ。

かかるせい兵(つはもの)どもが射(い)さうらへば、鎧(よろひ)の二三両(にさんりやう)をもかさねてたやすう射(い)とほしさうらふなり。大名(だいみやう)一人(ひとり)と申(まう)すは、勢(せい)のすくないぢやう、五百騎(ごひやくき)におとるはさうらはず。馬(むま)に乗(の)っつれば、おつる道(みち)を知(し)らず、悪所(あくしよ)をはすれども、馬(むま)を倒(たふ)さず。

いくさはまた、親(おや)もうたれよ子(こ)もうたれよ。死(し)ぬれば乗(の)りこえ乗(の)りこえたたかふさうらふ。西国(さいこく)のいくさと申(まう)すは、親(おや)うたれぬれば孝養(けうやう)し、忌(いみ)あけて寄(よ)せ、子(こ)うたれぬればその思歎(おもひなげき)に寄(よ)せさうらはず。兵粮米(ひやうらうまい)つきぬれば、春(はる)は田(た)つくり、秋(あき)はかりをさめて寄(よ)せ、夏(なつ)はあつしといひ、冬(ふゆ)はさむしときらひさうらふ。

東国(とうごく)にはすべてその儀(ぎ)さうらはず。甲斐(かひ)、信濃(しなの)の源氏(げんじ)ども、案内(あんない)は知(し)ってさうらふ。富士(ふじ)のすそより、搦手(からめて)にやまはりさうらん。かう申(まう)せば君(きみ)を臆(おく)せさせまゐらせんとて申(まう)すにはさうらはず。いくさは勢(せい)にはよらず、はかりことによるとこそ申(まう)しつたへてさうらへ。

実盛(さねもり)今度(こんど)のいくさに命(いのち)いきて、ふたたび都(みやこ)へ参(まゐ)るべしとも覚(おぼ)えさうらはず」

 と申(まう)しければ、平家(へいけ)の兵(つはもの)どもこれをきいて、みなふるひわななきあへり。

 さるほどに十月(じふぐわつ)廿三日(にじふさんにち)にもなりぬ。あすは源平(げんぺい)富士(ふじ)川(かは)にて矢合(やあはせ)とさだめたりけるに、夜(よ)に入(はい)って、平家(へいけ)の方(かた)より源氏(げんじ)の陣(ぢん)を見(み)わたせば、伊豆(いづ)、駿河(するが)の人民(じんみん)百姓(ひやくせい)等(ら)がいくさにおそれて、あるいは野(の)に入(い)り山(やま)にかくれ、あるいは舟(ふね)にとり乗(の)って、海(うみ)河(かは)にうかび、いとなみの火(ひ)の見(み)えけるを、平家(へいけ)の兵(つはもの)ども、

「あなおびたたしの源氏(げんじ)の陣(ぢん)の遠火(とほび)のおほさよ。げにもまことに野(の)も山(やま)も、海(うみ)も河(かは)も、みなかたきでありけり。いかがせん」

 とぞあわてける。その夜(よ)の夜半(やはん)ばかり、富士(ふじ)の沼(ぬま)に、いくらもむれゐたりける水(みづ)鳥(とり)どもが、なににかおどろきたりけん、ただ一度(いちど)にぱっと立(た)ちける羽(はね)音(おと)の、大(おほ)風(かぜ)いかづちなんどのやうにきこえければ、平家(へいけ)の兵(つはもの)ども、

「すはや源氏(げんじ)の大勢(おほぜい)の寄(よ)するは。斎藤(さいとう)別当(べつたう)が申(まう)しつるやうに、定(さだ)めて搦手(からめて)もまはるらん。とりこめられてはかなふまじ。ここをばひいて、尾張(おはり)河(かは)、洲俣(すのまた)をふせげや」

 とて、とる物(もの)もとりあへず、我(われ)さきにとぞ落(お)ちゆきける。あまりにあわてさわいで、弓(ゆみ)とる者(もの)は矢(や)を知(し)らず、矢(や)とる者(もの)は弓(ゆみ)を知(し)らず、人(ひと)の馬(むま)にはわれ乗(の)り、わが馬(むま)をば人(ひと)に乗(の)らる。あるいはつないだる馬(むま)に乗(の)ってはすれば、杭(くひ)をめぐることかぎりなし。

 ちかき宿々(やどやど)よりむかへとってあそびける游君遊女(いうくんいうぢよ)ども、あるいは頭(かうべ)けわられ、腰(こし)ふみ折(を)られて、をめきさけぶ者(もの)おほかりけり。

 あくる廿四日(にじふしにち)卯刻(うのこく)に、源氏(げんじ)大勢(おほぜい)廿万騎(にじふまんき)、富士(ふじ)川(かは)におし寄(よ)せて、天(てん)もひびき大地(だいぢ)もゆるぐほどに、時(とき)をぞ三箇度(さんがど)、つくりける。

五節之沙汰

 平家(へいけ)の方(かた)には音(おと)もせず。人(ひと)をつかはして見(み)せければ、

「みな落(お)ちてさうらふ」

 と申(まう)す。あるいは敵(かたき)の忘(わす)れたる鎧(よろひ)とって参(まゐ)りたる者(もの)もあり、あるいはかたきのすてたる大(おほ)幕(まく)とって参(まゐ)りたる者(もの)もあり。

「敵(かたき)の陣(ぢん)には蠅(はへ)だにもかけりさうらはず」

 と申(まう)す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)馬(むま)よりおり甲(かぶと)をぬぎ手水(てうづ)うがひをして、王城(わうじやう)の方(かた)をふしをがみ、

「これはまったく頼朝(よりとも)がわたくしの高名(かうみやう)にあらず。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御(おん)はからひなり」

 とぞのたまひける。やがてうっとる所(ところ)なればとて、駿河国(するがのくに)をば、一条次郎忠頼(いちでうのじらうただより)、遠江(とほたふみ)をば安田三郎義定(やすだのさぶらうよしさだ)に預(あづ)けらる。平家(へいけ)をばつづいてもせむべけれども、うしろもさすがおぼつかなしとて、浮島(うきしま)が原(はら)よりひきしりぞき、相模(さがみ)国(くに)へぞかへられける。

 海道(かいだう)宿々(やどやど)の游君遊女(いうくんいうぢよ)ども、

「あないまいまし。打手(うって)の大将軍(たいしやうぐん)の、矢(や)一つ(ひとつ)だにも射(い)ずして、にげのぼりたまふうたてしさよ。いくさには見(み)にげといふことをだに心(こころ)うきことにこそするに、これはききにげしたまひたり」

 とわらひあへり。落書(らくしよ)どもおほかりけり。都(みやこ)の大将軍(たいしやうぐん)をば、宗盛(むねもり)といひ、討手(うつて)の大将(だいしやう)をば、権亮(ごんのすけ)といふ間(あひだ)、平家(へいけ)をひら屋(や)によみなして、

ひらやなるむねもりいかにさわぐらんはしらとたのむすけをおとして

富士(ふじ)河(かは)の瀬々(せぜ)の岩(いは)こす水(みづ)よりもはやくもおつる伊勢平氏(いせへいし)かな

 上総(かづさ)守(かみ)が富士(ふじ)河(かは)に鎧(よろひ)を捨(す)てたりけるをよめり。

富士(ふじ)河(かは)に鎧(よろひ)はすてつ墨染(すみぞめ)の衣(きぬ)ただきよ後(のち)の世(よ)のため

ただきよはにげの馬(むま)にぞ乗(の)りにける上総(かづさ)しりがいかけてかひなし

 同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)八日(やうか)、大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけのせうしやう)維盛(これもり)、福原(ふくはら)の新都(しんと)へのぼりつく。入道相国(にふだうしやうこく)大(おほ)きにいかって、

「大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけのせうしやう)維盛(これもり)をば、鬼界(きかい)が島(しま)へながすべし。侍大将(さぶらひだいしやう)上総守忠清(かづさのかみただきよ)をば、死罪(しざい)におこなへ」

 とぞのたまひける。同(おなじき)九日(ここのか)平家(へいけ)の侍(さぶらひ)ども、老少(らうせう)参(さん)会(くわい)して、忠清(ただきよ)が死罪(しざい)の事(こと)いかがあらんと評定(ひやうぢやう)す。なかに主馬判官(しゆめのはんぐわん)盛国(もりくに)すすみいでて申(まう)しけるは、

「忠清(ただきよ)は昔(むかし)より不覚人(ふかくじん)とは承(うけたまは)り及(およ)びさうらはず。あれが十八(じふはち)の歳(とし)と覚(おぼ)えさうらふ。鳥羽殿(とばどの)の宝蔵(はうざう)に、五畿内(ごきない)一(いち)の悪党(あくたう)二人(ふたり)にげ籠(こも)ってさうらひしを、よってからめうど申(まう)す者(もの)もさうらはざりしに、この忠清(ただきよ)白昼(はくちう)に唯一人(ただひとり)、築地(ついぢ)をこえはね入(はい)って、一人(ひとり)をばうちとり、一人(ひとり)をばいけどって、後代(ごだい)に名(な)をあげたりし者(もの)にてさうらふ。

今度(こんど)の不覚(ふかく)は、ただことともおぼえさうらはず。これにつけてもよくよく兵乱(ひやうらん)の御(おん)つつしみさうらふべし」

 とぞ申(まう)しける。

 同(おなじき)十日(とをか)の日(ひ)、大将軍(たいしやうぐん)権亮少将(ごんのすけのせうしやう)維盛(これもり)、右近衛中将(うこんゑのちゆうじやう)になりたまふ。

「打手(うって)の大将(だいしやう)ときこえしかども、させるしいだしたることもおはせず。これはなにごとの勧賞(けんじやう)ぞや」

 と、人々(ひとびと)ささやきあへり。

 昔(むかし)将門(まさかど)追討(ついたう)のために、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)、田原藤太(たはらのとうた)秀郷(ひでさと)承(うけたまは)って、坂東(ばんどう)へ発向(はつかう)したりしかども、将門(まさかど)たやすうほろびがたかりしかば、かさねて打手(うって)をくだすべしと、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あって、宇治(うぢ)の民部卿(みんぶきやう)忠文(ただぶみ)、清原(きよはら)重藤(しげふぢ)、軍監(ぐんかん)といふ官(くわん)をたまはってくだられけり。

 駿河国(するがのくに)清見(きよみ)が関(せき)に宿(やど)したりける夜(よ)、かの重藤(しげふぢ)、漫々(まんまん)たる海上(かいしやう)を遠見(ゑんけん)して、

「漁舟(ぎよしう)火影(くわえい)寒浪焼(かんらうをやく)、駅路(えきろ)鈴声(れいせい)夜過山(よるやまをすぐ)」

 といふから歌(うた)を、たからかに口(くち)ずさみたまへば、忠文(ただぶみ)優(いう)におぼえて、感涙(かんるゐ)をぞながされける。さるほどに将門(まさかど)をば、貞盛(さだもり)、秀郷(ひでさと)つひに打(う)ちとってんげり。そのかうべをもたせてのぼるほどに、清見(きよみ)が関(せき)にてゆきあうたり。それより先(さき)後(のち)の大将軍(たいしやうぐん)うちつれて上洛(じやうらく)す。

 貞盛(さだもり)、秀郷(ひでさと)に勧賞(けんじやう)おこなはれける時(とき)、忠文(ただぶみ)、重藤(しげふぢ)にも勧賞(けんじやう)あるべきかと、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。九条右丞相(くでうのうじようしやう)師輔(もろすけ)公(こう)の申(まう)させたまひけるは、

「坂東(ばんどう)へ打手(うって)はむかうたりといへども、将門(まさかど)たやすうほろびがたきところに、この人(ひと)ども仰せ(おほせ)をかうむって、関(せき)の東(ひんがし)へおもむく時(とき)、朝敵(てうてき)すでにほろびたり。さればなどか勧賞(けんじやう)なかるべき」

 と申(まう)させたまへども、その時(とき)の執柄(しつぺい)、小野宮(をののみや)殿(どの)、

「うたがはしきをばなすことなかれと、礼記(らいき)の文(ふみ)にさうらへば」

 とて、つひになさせたまはず。忠文(ただぶみ)これを口(くち)惜(を)しきことにして、

「小野宮(をののみや)殿(どの)の御末(おんすゑ)をば、やつこにみなさん。九条(くでう)殿(どの)の御末(おんすゑ)には、いづれの世(よ)までも守護神(しゆごじん)とならん」

 とちかひつつ、ひじににこそしたまひけれ。されば九条(くでう)殿(どの)の御末(おんすゑ)はめでたうさかえさせたまへども、小野宮(をののみや)殿(どの)の御末(おんすゑ)にはしかるべき人(ひと)もましまさず。今(いま)はたえはてたまひけるにこそ。

 さるほどに入道相国(にふだうしやうこく)の四男(しなん)、頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、左近衛中将(さこんゑのちゆうじやう)になりたまふ。同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)十二日(じふににち)、福原(ふくはら)には内裏(だいり)つくりいだして、主上(しゆしやう)御(おん)遷幸(せんかう)あり。大嘗会(だいじやうゑ)あるべかりしかども、大嘗会(だいじやうゑ)は十月(じふぐわつ)のすゑ、東河(とうが)に御幸(ごかう)して御禊(ごけい)あり。大内(おほうち)の北(きた)の野(の)に斎場所(さいぢやうしよ)をつくって、神服神具(しんぷくしんぐ)をととのふ。

 大極殿(だいごくでん)のまへ、竜尾道(りうびだう)の壇(だん)下(した)に、廻立殿(くわいりふでん)をたてて、御湯(おゆ)を召(め)す。同(おなじき)壇(だん)のならびに大嘗宮(だいじやうきう)をつくって神膳(しんぜん)をそなふ。宸宴(しんえん)あり、御遊(ぎよいう)あり。大極殿(だいごくでん)にて大礼(たいれい)あり。清暑堂(せいしよだう)にて、御神楽(みかぐら)あり。豊楽院(ぶらくゐん)にて宴(えん)会(くわい)あり。しかるをこの福原(ふくはら)の新都(しんと)には、大極殿(だいごくでん)もなければ、大礼(たいれい)おこなふべき所(ところ)もなし。

 清暑堂(せいしよだう)もなければ、御神楽(みかぐら)奏(そう)すべきやうもなし。豊楽院(ぶらくゐん)もなければ、宴(えん)会(くわい)もおこなはれず。今年(ことし)はただ新嘗会(しんじやうゑ)、五節(ごせち)ばかりあるべきよし、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あって、なほ新嘗(しんじやう)の祭(まつり)をば、旧都(きうと)の神祇官(じんぎくわん)にしてとげられけり。

 五節(ごせち)はこれ浄見原(きよみはら)のそのかみ、吉野(よしの)の宮(みや)にして、月(つき)白(しろ)く嵐(あらし)はげしかりし夜(よ)、御心(おんこころ)をすましつつ、琴(こと)をひきたまひしに、神女(しんによ)あまくだり、五(ご)たび袖(そで)をひるがへす。これぞ五節(ごせち)のはじめなる。

都帰

 今度(こんど)の都遷(みやこうつり)をば、君(きみ)も臣(しん)も御歎(おんなげき)あり。山(やま)、奈良(なら)をはじめて、諸寺(しよじ)諸社(しよしや)にいたるまで、しかるべからざるよし一同(いちどう)にうったへ申(まう)すあひだ、さしもよこ紙(かみ)をやらるる太政入道(だいじやうにふだう)も、さらば都(みやこ)がへりあるべしとて、京中(きやうぢゆう)ひしめきあへり。

 同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)二日(ふつか)にはかに都(みやこ)がへりありけり。新都(しんと)は北(きた)は山(やま)にそひてたかく、南(みなみ)は海(うみ)ちかくしてくだれり。浪(なみ)の音(おと)常(つね)はかまびすしく、塩風(しほかぜ)はげしき所(ところ)なり。されば新院(しんゐん)いつとなく御悩(ごなう)のみしげかりければ、いそぎ福原(ふくはら)をいでさせたまふ。

 摂政(せつしやう)殿(どの)をはじめたてまつって、太政大臣以下(だじやうだいじんいげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、われもわれもと供奉(ぐぶ)せられける。入道相国(にふだうしやうこく)をはじめとして、平家一門(へいけいちもん)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、われさきにとぞのぼられける。誰(たれ)か心(こころ)うかりつる新都(しんと)に片(かた)ときも残(のこ)るべき。去(さ)る六月(ろくぐわつ)より、屋(や)どもこぼち寄(よ)せ、資財雑具(しざいざふぐ)はこびくだし、形(かたち)のごとくとりたてたりつるに、また物(もの)ぐるはしう都(みやこ)がへりありければ、なんの沙汰(さた)にも及(およ)ばず。

 うちすて打(う)ちすてのぼられけり。おのおのすみかもなくして、八幡(やはた)、賀茂(かも)、嵯峨(さが)、太秦(うづまさ)、西山(にしやま)、東山(ひがしやま)のかたほとりについて、御堂(みだう)の廻廊(くわいらう)、社(やしろ)の拝殿(はいでん)なんどにたち宿(やど)ってぞ、しかるべき人々(ひとびと)もましましける。

 今度(こんど)の都(みやこ)うつりの本意(ほい)をいかにといふに、旧都(きうと)は南都(なんと)北嶺(ほくれい)ちかくして、いささかのことにも、春日(かすが)の神(かみ)木(き)、日吉(ひよし)の神輿(しんよ)なんどいひて、みだりがはし。福原(ふくはら)は山(やま)へだたり江(え)かさなってほどもさすがとほければ、さやうのことたやすからじとて、入道相国(にふだうしやうこく)のはからひいだされたりけるとかや。

 同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)廿三日(にじふさんにち)、近江(あふみ)源氏(げんじ)のそむきしをせめんとて、大将軍(たいしやうぐん)には、左兵衛督知盛(さひやうゑのかみとももり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、都合(つがふ)その勢(せい)二万余騎(にまんよき)で、近江国(あふみのくに)へ発向(はつかう)して、山本(やまもと)、柏木(かしはぎ)、錦古里(にしごり)なんどいふあぶれ源氏(げんじ)ども、一々(いちいち)にみなせめおとし、やがて美濃(みの)、尾張(おはり)へこえたまふ。

奈良炎上

 都(みやこ)にはまた、

「高倉(たかくら)宮(みや)、園城寺(をんじやうじ)へ入御(にゆぎよ)の時(とき)、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、同心(どうしん)して、あまっさへ御(おん)むかへに参(まゐ)る条(でう)、これもって朝敵(てうてき)なり。されば南都(なんと)をも三井寺(みゐでら)をもせめらるべし」

 といふほどこそありけれ、奈良(なら)の大衆(だいしゆ)おびたたしく蜂起(ほうき)す。摂政(せつしやう)殿(どの)より、

「存知(ぞんぢ)の旨(むね)あらば、いくたびも奏聞(そうもん)にこそ及(およ)ばめ」

 と仰せ(おほせ)下(くだ)されけれども、一切(いつせつ)用(もち)ゐたてまつらず。有官(うくわん)の別当(べつたう)忠成(ただなり)を御使(おんつかひ)にくだされたりければ、

「しや乗物(のりもの)よりとってひきおとせ。もとどりきれ」

 と騒動(さうどう)する間(あひだ)、忠成(ただなり)色(いろ)をうしなってにげのぼる。つぎに右衛門(うゑもん)佐(すけ)親雅(ちかまさ)をくださる。これをも、

「もとどりきれ」

 と大衆(だいしゆ)ひしめきければ、とる物(もの)もとりあへずにげのぼる。その時(とき)は勧学院(くわんがくゐん)の雑色(ざふしき)二人(ふたり)がもとどりきられにけり。また南都(なんと)には大(おほ)きなる毬杖(ぎつちやう)の毬(たま)をつくって、これは平(たひら)相国(しやうこく)のかうべとなづけて、

「うて」

「ふめ」

 なんどぞ申(まう)しける。

「詞(ことば)のもらしやすきは、わざはひをまねく媒(なかだち)なり。ことのつつしまざるは、やぶれをとる道(みち)なり」

 といへり。この入道相国(にふだうしやうこく)と申(まう)すは、かけまくもかたじけなく、当今(たうぎん)の外祖(ぐわいそ)にておはします。それをかやうに申(まう)しける南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、およそは天魔(てんま)の所為(しよゐ)とぞみえたりける。

 入道相国(にふだうしやうこく)かやうのことどもつたへききたまひて、いかでかよしと思(おも)はるべき。かつがつ南都(なんと)の狼藉(らうぜき)をしづめんとて、備中国(びつちゆうのくに)住人(ぢゆうにん)、瀬尾太郎兼康(せのをのたらうかねやす)、大和国(やまとのくに)の検非所(けんびしよ)に補(ふ)せらる。兼康(かねやす)五百余騎(ごひやくよき)で南都(なんと)へ発向(はつかう)す。

「相構(あひかま)へて衆徒(しゆと)は狼藉(らうぜき)をいたすとも、汝等(なんぢら)はいたすべからず。物具(もののぐ)なせそ。弓箭(きゆうせん)な帯(たい)しそ」

 とてむけられたりけるに、大衆(だいしゆ)かかる内(うち)儀(ぎ)をば知(し)らず、兼康(かねやす)が余(よ)勢(せい)六十余人(ろくじふよにん)からめとって、一々(いちいち)にみな頸(くび)をきって、猿沢(さるさは)の池(いけ)のはたにぞかけならべたる。入道相国(にふだうしやうこく)大(おほ)きにいかって、さらば南都(なんと)をせめよやとて、大将軍(たいしやうぐん)には頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)、副将軍(ふくしやうぐん)には中宮(ちゆうぐう)亮(すけ)通盛(みちもり)、都合(つがふ)その勢(せい)四万余騎(しまんよき)で、南都(なんと)へ発向(はつかう)す。

 大衆(だいしゆ)も老少(らうせう)きらはず、七千余人(しちせんよにん)、甲(かぶと)の緒(を)をしめ、奈良(なら)坂(さか)、般若寺(はんにやじ)、二箇所(にかしよ)の路(みち)をほりきって、堀(ほり)ほりかいだてかき逆茂木(さかもぎ)ひいて待(ま)ちかけたり。平家(へいけ)は四万余騎(しまんよき)を二(ふた)手(て)にわかって、奈良(なら)坂(さか)、般若寺(はんにやじ)二箇所(にかしよ)の城郭(じやうくわく)におし寄(よ)せて、時(とき)をどっとつくる。

 大衆(だいしゆ)はみなかち立(だち)打物(うちもの)なり。官軍(くわんぐん)は馬(むま)にてかけまはしかけまはし、あそこここにおっかけおっかけさしつめひきつめさんざんに射(い)ければ、ふせぐところの大衆(だいしゆ)、かずをつくいてうたれにけり。卯刻(うのこく)に矢合(やあはせ)して、一日(いちにち)たたかひくらす。

 夜(よ)に入(はい)って奈良(なら)坂(さか)、般若寺(はんにやじ)二箇所(にかしよ)の城郭(じやうくわく)ともにやぶれぬ。おちゆく衆徒(しゆと)のなかに坂(さか)四郎(しらう)永覚(えいかく)といふ悪僧(あくそう)あり。打物(うちもの)もっても弓矢(ゆみや)をとっても、力(ちから)のつよさも、七大寺(しちだいじ)、十五大寺(じふごだいじ)にすぐれたり。萌黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)のうへに、黒糸威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)をかさねてぞ着(き)たりける。

 帽子甲(ばうしかぶと)に五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)をしめて、左右(さう)の手(て)には、茅(ち)の葉(は)のやうにそったる白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)、黒漆(くろうるし)の大太刀(おほだち)もつままに、同宿(どうじゆく)十余人(じふよにん)前後(ぜんご)にたて、てがいの門(もん)よりうっていでたり。これぞしばらくささへたる。おほくの官兵(くわんぴやう)、馬(むま)の足(あし)ながれてうたれにけり。

 されども官軍(くわんぐん)は大勢(おほぜい)にていれかへいれかへせめければ、永覚(えいかく)が前後左右(ぜんごさいう)にふせぐところの同宿(どうじゆく)みなうたれぬ。永覚(えいかく)ただひとりたけけれど、うしろあらはになりければ、南(みなみ)をさいておちぞゆく。

 夜(よ)いくさになって、くらさはくらし、大将軍(たいしやうぐん)頭中将(とうのちゆうじやう)、般若寺(はんにやじ)の門(もん)の前(まへ)にうったって、

「火(ひ)をいだせ」

 とのたまふほどこそありけれ、平家(へいけ)の勢(せい)のなかに、播磨国(はりまのくに)住人(ぢゆうにん)、福(ふく)井(ゐ)庄(しやう)下司(げし)、二郎(じらう)大夫(だいぶ)友方(ともかた)といふ者(もの)、楯(たて)をわり、たい松(まつ)にして、在家(ざいけ)に火(ひ)をぞかけたりける。十二月(じふにぐわつ)廿八日(にじふはちにち)の夜(よ)なりければ、風(かぜ)ははげしし、ほもとは一つ(ひとつ)なりけれども、吹(ふ)きまよふ風(かぜ)に、おほくの伽藍(がらん)に吹(ふ)きかけたり。

 恥(はぢ)をも思(おも)ひ、名(な)をも惜(を)しむほどの者(もの)は、奈良(なら)坂(さか)にてうちじにし、般若寺(はんにやじ)にしてうたれにけり。行歩(ぎやうぶ)にかなへる者(もの)は、吉野十津河(よしのとつかは)の方(かた)へ落(お)ちゆく。あゆみもえぬ老僧(らうそう)や、尋常(じんじやう)なる修学者(しゆがくしや)、児(ちご)ども、をんな童部(わらんべ)は、大仏殿(だいぶつでん)の二階(にかい)の上(うへ)、山階寺(やましなでら)のうちへわれさきにとぞにげゆきける。

 大仏殿(だいぶつでん)の二階(にかい)の上(うへ)には、千余人(せんよにん)のぼりあがり、かたきのつづくをのぼせじと、橋(はし)をばひいてんげり。猛火(まうくわ)はまさしうおしかけたり。をめき叫(さけ)ぶ声(こゑ)、焦熱(せうねつ)大焦熱(だいせうねつ)、無間阿毘(むけんあび)のほのほの底(そこ)の罪人(ざいにん)も、これには過(す)ぎじとぞ見(み)えし。

 興福寺(こうぶくじ)は淡海公(たんかいこう)の御願(ごぐわん)、藤氏累代(とうしるゐだい)の寺(てら)なり。東金堂(とうこんだう)におはします仏法最初(ぶつぽふさいしよ)の釈迦(しやか)の像(ざう)、西金堂(さいこんだう)におはします自然涌出(じねんゆじゆつ)の観世音(くわんぜおん)、瑠璃(るり)をならべし四面(しめん)の廊(らう)、朱(しゆ)丹(たん)をまじへし二階(にかい)の楼(ろう)、九輪(くりん)そらにかかやきし二基(にき)の塔(たふ)、たちまちに煙(けぶり)となるこそかなしけれ。

 東大寺(とうだいじ)は常在不滅(じやうざいふめつ)、実報寂光(じつぽうじやくくわう)の生身(しやうじん)の御仏(みほとけ)とおぼしめしなずらへて、聖武皇帝(しやうむくわうてい)、手(て)づから身(み)づからみがきたてたまひし。金銅十六丈(こんどうじふろくぢやう)の廬遮那仏(るしやなぶつ)、烏瑟(うしつ)たかくあらはれて、半天(はんてん)の雲(くも)にかくれ、白毫(びやくがう)新(あらた)にをがまれたまひし、満月(まんぐわつ)の尊容(そんよう)も、御(おん)頭(かしら)は焼(や)けおちて大地(だいぢ)にあり。

 御身(おんみ)はわきあひて山(やま)のごとし。

 八万四千(はちまんしせん)の相好(さうがう)は、秋(あき)の月(つき)はやく五重(ごぢゆう)の雲(くも)におぼれ、四十一地(しじふいちぢ)の瓔珞(やうらく)は、夜(よ)の星(ほし)むなしく十悪(じふあく)の風(かぜ)にただよふ。煙(けぶり)は中天(ちゆうてん)にみちみち、ほのほは虚空(こくう)にひまもなし。まのあたりに見(み)たてまつる者(もの)、さらにまなこをあてず。はるかにつたへきく人(ひと)は、肝(きも)たましひをうしなへり。

 法相(ほつさう)、三論(さんろん)の法門(ほふもん)聖教(しやうげう)すべて一巻(いちくわん)のこらず。わが朝(てう)はいふに及(およ)ばず、天竺(てんぢく)震旦(しんだん)にもこれほどの法滅(ほふめつ)あるべしともおぼえず。優塡大王(うでんだいわう)の紫磨金(しまこん)をみがき、毘首羯磨(びしゆかつま)が赤栴檀(しやくせんだん)を刻(きざ)むも、わづかに等身(とうしん)の御仏(みほとけ)なり。況哉(いはんや)これは、南閻浮提(なんえんぶだい)のうちには唯一(ゆいいつ)無双(むさう)の御仏(みほとけ)、ながく朽(く)損(そん)の期(ご)あるべしともおぼえざりしに、いま毒(どく)縁(えん)の塵(ちり)にまじはって、ひさしくかなしみをのこしたまへり。

 梵釈四王(ぼんしやくしわう)、竜神(りうじん)八(はち)部(ぶ)、冥(みやう)官(くわん)冥(みやう)衆(しゆ)も驚(おどろ)きさわぎたまふらんぞ見(み)えし。法相(ほつさう)擁護(ようご)の春日(かすが)の大明神(だいみやうじん)、いかなることをかおぼしけん。されば春日(かすが)野(の)の露(つゆ)も色(いろ)かはり、三笠(みかさ)山(やま)の嵐(あらし)の音(おと)、うらむるやうにぞきこえける。

 ほのほの中(なか)にて焼(や)け死(し)ぬる人数(にんじゆ)を記(しる)いたりければ、大仏殿(だいぶつでん)の二階(にかい)の上(うへ)には一千七百人(せんしちひやくにん)余(あまり)、山階寺(やましなでら)には八百余人(はつぴやくよにん)、ある御堂(みだう)には五百余人(ごひやくよにん)、ある御堂(みだう)には三百余人(さんびやくよにん)、つぶさに記(しる)いたりければ、三千五百余人(さんぜんごひやくよにん)なり。戦場(せんぢやう)にしてうたるる大衆(だいしゆ)千余人(せんよにん)、少々(せうせう)は般若寺(はんにやじ)の門(もん)の前(まへ)にきりかけ、少々(せうせう)はもたせて都(みやこ)へのぼりたまふ。

 廿九日(にじふくにち)頭中将(とうのちゆうじやう)南都(なんと)ほろぼして北京(ほくきやう)へ帰(かへ)りいらる。入道相国(にふだうしやうこく)ばかりぞいきどほりはれてよろこばれけれ。中宮(ちゆうぐう)、一(いち)院(ゐん)、上皇(しやうくわう)、摂政(せつしやう)殿(どの)以下(いげ)の人々(ひとびと)は、

「悪僧(あくそう)をこそほろぼすとも、伽藍(がらん)を破滅(はめつ)すべしや」

 とぞ御歎(おんなげき)ありける。衆徒(しゆと)の頸(くび)ども、もとは大路(おほぢ)をわたして、獄門(ごくもん)の木(き)に懸(か)けらるべしときこえしかども、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)のほろびぬるあさましさに、沙汰(さた)にも及(およ)ばず。あそこここの溝(みぞ)や堀(ほり)にぞすておきける。聖武皇帝(しやうむくわうてい)、宸筆(しんぴつ)の御記文(ごきもん)には、

「わが寺(てら)興復(こうふく)せば天下(てんか)も興復(こうふく)し、わが寺(てら)衰微(すゐび)せば天下(てんか)も衰微(すゐび)すべし」

 とあそばされたり。されば天下(てんか)の衰微(すゐび)せんことも疑(うたがひ)なしとぞ見(み)えたりける。あさましかりつる年(とし)も暮(く)れ、治承(ぢしやう)も五年(ごねん)になりにけり。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

PR

目次