都遷
治承四年六月三日、福原へ行幸あるべしとて、京中ひしめきあへり。この日ごろ都うつりあるべしときこえしかども、たちまちに今明のほどとは思はざりつるに、こはいかにとて、上下さわぎあへり。あまっさへ三日とさだめられたりしが、いま一日ひきあげて二日になりにけり。
二日の卯刻に、すでに行幸の御輿を寄せたりければ、主上は今年三歳、いまだいとけなましうましましければ、なに心もなう召されけり。主上をさなうわたらせたまふ時の御同輿には、母后こそまゐらせたまふに、これはその儀なし。
御めのと、平大納言時忠卿の北の方、帥のすけ殿ぞ、一つの御輿に参られける。中宮、一院、上皇、御幸なる。摂政殿をはじめたてまつって、太政大臣以下の公卿殿上人、我も我もと供奉せらる。三日福原へいらせたまふ。
池の中納言頼盛卿の宿所皇居になる。同四日、頼盛家の賞とて正二位したまふ。九条殿の御子、右大将良通卿こえられたまひけり。摂録の臣の御子息、凡人の次男に加階こえられたまふこと、これはじめとぞきこえし。
さるほどに法皇を、入道相国やうやう思ひ直って、鳥羽殿をいだしたてまつり、都へいれまゐらせられたりしが、高倉宮御謀反によって、また大きにいきどほり、福原へ御幸なしたてまつり、四面に端板して、口一つあけたるうちに、三間の板屋をつくって、おしこめまゐらせ、守護の武士には、原田の大夫種直ばかりぞさうらひける。
たやすう人の参りかよふこともなければ、童部は籠の御所とぞ申しける。聞くもいまいましうおそろしかりしことどもなり。
法皇、
「今は世の政しろしめさばやとは露もおぼしめしよらず。ただ山々寺々修行して、御心のなぐさまばや」
とぞおほせける。およそ平家の悪行においては悉くきはまりぬ。
「去る安元より以降、おほくの卿相雲客、あるいはながしあるいはうしなひ、関白ながしたてまつり、わが聟を関白になし、法皇を城南の離宮にうつしたてまつり、第二の皇子高倉の宮をうちたてまつり、いまのこるところの都うつりなれば、かやうにしたまふにや」
とぞ人申しける。
都うつりはこれ先蹤なきにあらず。神武天皇と申すは、地神五代の帝、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四の王子、御母は玉依姫、海人の娘なり。神の代十二代の跡をうけ、人代百王の帝祖なり。辛酉の歳、日向国宮崎の郡にして、皇王の宝祚をつぎ、五十九年といっし己未歳十月に、東征して豊蘆原中津国にとどまり、このごろ大和国と名づけたる畝傍の山を点じて帝都をたて、橿原の地をきりはらって宮室をつくりたまへり。
これを橿原の宮と名づけたり。それより以降、代々の帝王、都を他国他所へうつさるること、三十度にあまり四十度に及べり。神武天皇より景行天皇まで十二代は、大和国こほりごほりに都をたて、他国へはつひにうつれず。
しかるを成務天皇元年に、近江国にうつって志賀の郡に都をたつ。
仲哀天皇二年に、長門国にうつって、豊浦郡に都をたつ。
その国のかの都にて、御門かくれさせたまひしかば、きさき神功皇后御世をうけとらせたまひ、女帝として、鬼界、高麗、契丹までせめしたがへさせたまひけり。異国のいくさをしづめさせたまひて、帰朝の後、筑前国三笠郡にして、皇子御誕生、その所をば宇美宮とぞ申したる。
かけまくもかたじけなく、八幡の御ことこれなり。位につかせたまひては、応神天皇とぞ申しける。その後神功皇后は、大和国にうつって、磐余稚桜宮にまします。応神天皇は、同国軽島明の宮に住ませたまふ。
仁徳天皇元年に、津国難波にうつって、高津の宮におはします。履中天皇二年に、大和国にうつって、十市の郡に都をたつ。反正天皇元年に、河内国にうつって、柴垣の宮に住ませたまふ。允恭天皇四十二年に、また大和国にうつって、飛鳥のあすかの宮におはします。
雄略天皇廿一年に、同国泊瀬朝倉に宮居したまふ。継体天皇五年に山城国綴喜にうつって十二年、その後乙訓に宮居したまふ。宣化天皇元年に、また大和国にかへって、檜隈の入野の宮におはします。孝徳天皇大化元年に、摂津国長柄にうつって、豊崎の宮に住ませたまふ。
斉明天皇二年、また大和国にかへって、岡本の宮におはします。天智天皇六年に、近江国にうつって、大津宮に住ませたまふ。天武天皇元年に、なほ大和国にかへって、岡本の南の宮に住ませたまふ。これを清見原の御門と申しき。
持統、文武二代の聖朝は、同国藤原宮におはします。元明天皇より、光仁天皇まで七代は、奈良の都に住ませたまふ。
しかるを桓武天皇延暦三年十月二日、奈良の京、春日の里より、山城国長岡にうつって、十年といっし正月に、大納言藤原小黒丸、参議左大弁紀の古佐美、大僧都玄慶等をつかはして、当国葛野郡、宇多の村を見せらるるに、両人ともに奏していはく、
「この地の体をみるに、左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の地なり。尤も帝都をさだむるに足れり」
と申す。よって愛宕郡におはします、賀茂大明神に告げ申させたまひて、延暦十三年十一月廿一日、長岡の京よりこの京へうつされて後、帝王卅二代、星霜は三百八十余歳の春秋を送り迎へ。
「昔より代々の帝王、国々ところどころに、多くの都をたてられしかども、かくのごとくの勝地はなし」
とて、桓武天皇ことに執しおぼしめし、大臣公卿、諸道の才人等に仰せあはせ、長久なるべきやうとて、土にて八尺の人形をつくり、くろがねの鎧、甲を着せ、同じくくろがねの弓矢をもたせて、東山の峰に、西むきにたててうづまれけり。
末代にこの都を他国へうつす事あらば、守護神となるべしとぞ御約束ありける。されば天下に事いでこんとては、この塚必ず鳴動す。将軍が塚とて今にあり。桓武天皇と申すは、平家の曩祖にておはします。なかにもこの京をば、平安城と名づけて、平らかに安き都と書けり。
尤も平家のあがむべき都なり。先祖の御門のさしも執しおぼしめされたる都を、させるゆゑなく、他国他所へうつさるるこそあさましけれ。
嵯峨の皇帝の御時、平城の先帝、内侍のかみのすすめによって、世を乱りたまひし時、すでにこの京を、他国へうつさんとさせたまひしを、大臣公卿、諸国の人民そむき申ししかば、うつされずしてやみき。一天の君、万乗の主だにも、うつしえたまはぬ都を、入道相国人臣の身として、うつされけるぞおそろしき。
旧都はあはれめでたかりつる都ぞかし。王城守護の鎮守は、四方に光をやはらげ、霊験殊勝の寺は、上下に甍をならべたまひ、百姓万民わづらひなく、五畿七道もたよりあり。されども今は辻々をみな堀りきって、車なんどのたやすうゆきかふこともなし。
たまさかにゆく人も、小車に乗り、道を歴てこそとほりけれ。軒をあらそひし人の住ひ、日をへつつあれゆく。家々は、賀茂河、桂河にこぼちいれ、筏にくみうかべ、資財雑具舟につみ、福原へとてはこび下す。ただなりに花の都ゐなかになるこそかなしけれ。
何者のしわざにやありけん、ふるき都の内裏の柱に、二首の歌をぞ書いたりける。
百年を四かへりまでに過ぎ来にし愛宕の里のあれやはてなん
咲きいづる花の都をふりすてて風ふく原のすゑぞあやふき
同六月九日、新都のことはじめあるべしとて、上卿には徳大寺左大将実定卿、土御門宰相中将通親卿、奉行の弁には蔵人左小弁行隆、官人ども召し具して、和田の松原の西の野を点じて、九域の地をわられけるに、一条よりしも、五条まではその所あって、五条よりしもはなかりけり。
行事官かへり参ってこのよしを奏聞す。さらば播磨の印南野か、なほ摂津国の児屋野かなんどいふ。公卿僉議ありしかども、事ゆくべしとも見えざりけり。旧都をばすでにうかれぬ、新都はいまだ事ゆかず。ありとしある人は、身をうき雲の思をなす。
もとこのところに住む者は、地をうしなってうれへ、いまうつる人々は、土木のわづらひをなげきあへり。すべてただ夢のやうなりしことどもなり。土御門宰相中将通親卿、申されけるは、
「異国には三条の広路をひらいて、十二の通門をたつと見えたり。いはんや五条まであらん都に、などか内裏をたてざるべき。かつがつ里内裏つくるべき」
よし議定あって、五条大納言邦綱卿、臨時に周防国をたまはって造進せらるべきよし、入道相国はからひ申されけり。
この邦綱卿は、大福長者にておはすれば、つくりいだされん事左右に及ばねども、いかんが国の費、民の煩ひなからん、まことにさしあたったる大事、大嘗会なんどのおこなはるべきをさしおいて、かかる世の乱に、遷都造内裏、すこしも相応せず。
いにしへのかしこき御代には、すなはち内裏に茨をふき、軒をだにもととのへず。煙のともしきを見たまふ時は、かぎりある御つき物をもゆるされき。これすなはち民をめぐみ国をたすけたまふによってなり。
「楚章花の台をたてて黎民あらけ、秦阿房の殿をおこして天下乱る」
といへり。茅茨きらず、采椽けづらず、舟車かざらず、衣服あやなかりける世もありけんものを。されば唐の太宗は、驪山宮をつくって、民の費をはばからせたまひけん、つひに臨幸なくして、瓦に松おひ、墻に蔦しげって止みにけるには、相違かなとぞ人申しける。
月見
六月九日、新都のことはじめ、八月十日上棟、十一月十二日還幸とさだめらる。ふるき都はあれゆけば、いまの都は繁昌す。あさましかりける夏も過ぎ、秋にもすでになりにけり。やうやう秋もなかばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月をみんとて、あるいは源氏の大将の昔の跡をしのびつつ、須磨より明石の浦づたひ、淡路の瀬戸をおしわたり、絵島が磯の月をみる。
あるいは白良、吹上、和歌の浦、住吉、難波、高砂、尾上の月のあけぼのを、ながめてかへる人もあり。旧都にのこる人々は伏見、広沢の月を見る。
そのなかにも、徳大寺の左大将実定卿は、ふるき都の月を恋ひて、八月十日あまりに、福原よりぞのぼりたまふ。なにごとも皆かはりはてて、まれにのこる家は、門前草ふかくして、庭上露しげし。蓬が杣、浅茅が原、鳥のふしどとあれはてて、虫の声々うらみつつ、黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける。
故郷の名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞましましける。大将その御所に参って、まづ随身に惣門をたたかせらるるに、うちより女の声して、
「たそや、蓬生の露うちはらふ人もなき所に」
ととがむれば、
「福原より大将殿の御参りさうらふ」
と申す。
「惣門はじやうのさされてさぶらふぞ。東面の小門よりいらせたまへ」
と申しければ、大将さらばとて、東の門より参られけり。大宮は御つれづれに、昔をやおぼしめしいでさせたまひけん、南面の御格子あげさせて、御琵琶あそばされけるところに、大将参られたりければ、
「いかに夢かやうつつか。これへこれへ」
とぞ仰せける。源氏の宇治の巻には、優婆塞宮の御娘、秋のなごりを惜しみ、琵琶をしらべて夜もすがら、心をすましたまひしに、在明の月いでけるを、なほたへずやおぼしけん、撥にてまねきたまひけんも、いまこそ思ひ知られけれ。
待宵の小侍従といふ女房も、この御所にぞさうらひける。この女房を待宵と申しけることは、ある時御所にて、
「待つ宵、帰る朝、いづれかあはれはまされる」
と御尋ねありければ、
待つ宵のふけゆく鐘の声きけばかへるあしたの鳥はものかは
とよみたりけるによってこそ、待宵とは召されけれ。大将、かの女房よびいだし、昔いまの物語して、さ夜もやうやうふけ行けば、ふるき都のあれゆくを、今やうにこそうたはれけれ。
ふるき都をきてみれば あさぢが原とぞあれにける 月の光はくまなくて 秋風のみぞ身にはしむ
と、三反うたひすまされければ、大宮をはじめまゐらせて、御所中の女房たち、みな袖をぞぬらされける。
さるほどに夜もあけければ、大将暇申して福原へこそかへられけれ。御ともにさうらふ蔵人を召して、
「侍従があまりなごり惜しげに思ひたるに、なんぢかへって、なにともいひてこよ」
と仰せければ、蔵人はしりかへって畏まり、
「異申せとさうらふ」
とて、
物かはと君がいひけん鳥のねの今朝しもなぞか悲しかるらん
女房涙をおさへて、
またばこそ深行鐘も物ならめあかぬわかれの鳥の音ぞうき
蔵人かへり参って、このよし申したりければ、
「さればこそなんぢをばつかはしつれ」
とて、大将大きに感ぜられけり。それよりしてこそ物かはの蔵人とはいはれけれ。
物怪之沙汰
福原へ都をうつされて後、平家の人々夢見もあしう、常は心さわぎのみして、変化の物どもおほかりけり。ある夜入道のふしたまへるところに、一間にはばかるほどの物の面いできて、のぞきたてまつる。入道相国ちっともさわがず、ちやうどにらまへておはしければ、ただぎえに消えうせぬ。
岡の御所と申すは、あたらしうつくられたれば、しかるべき大木もなかりけるに、ある夜大木のたふるる音して、人ならば二三十人が声して、どっとわらふことありけり。これはいかさまにも天狗の所為といふ沙汰にて、蟇目の当番となづけてよる百人ひる五十人の番衆をそろへて、蟇目を射させらるるに、天狗のあるかたへむいて射たる時は音もせず、無い方へむいて射たるとおぼしき時はどっとわらひなんどしけり。
またあるあした、入道相国帳台よりいでて、妻戸をおしひらき、坪のうちを見たまへば、死人のしやれかうべどもが、いくらといふかずも知らず、庭にみちみちて、うへになりしたになり、ころびあひころびのき、はしなるはなかへまろびいり、中なるははしへいづ。
おびたたしうからめきあひければ、入道相国、
「人やある、人やある」
と召されけれども、をりふし人も参らず。
かくしておほくのどくろどもが、一つにかたまりあひ、つぼのうちにはばかるほどになって、たかさは十四五丈もあるらんとおぼゆる、山のごとくになりにけり。かの一つの大頭に、いきたる人のまなこのやうに、大のまなこどもが千万いできて、入道相国をちやうどにらまへて、まだたきもせず。
入道すこしもさわがず、はたとにらまへて、しばらくたたれたり。
かの大頭、余りにつよくにらまれたてまつり、霜露なんどの日にあたって消ゆるやうに、跡かたもなくなりにけり。その外に一の厩にたてて、舎人あまたつけられ、朝夕ひまなくなでかはれける馬の尾に、一夜のうちに、ねずみ巣をくひ、子をぞうんだりける。
これただことにあらずとて、七人の陰陽師にうらなはせられければ、おもき御つつしみとぞ申しける。この御馬は、相模国の住人、大庭三郎景親が、東八箇国一の馬とて、入道相国にまゐらせたり。黒き馬の額白かりけり。
名をば望月とぞつけられたる。陰陽頭安倍の泰親たまはりけり。昔天智天皇の御時、竜の御馬の尾に、一夜の中に鼠巣をくひ、子をうんだりけるには、異国の凶賊蜂起したりけるとぞ、日本紀には見えたる。
また、源中納言雅頼卿のもとにさうらひける青侍が見たりける夢もおそろしかりけり。たとへば大内の神祇官とおぼしきところに、束帯ただしき上臈たちあまたおはして、議定のやうなることのありしに、末座なる人の、平家の方人するとおぼしきを、その中よりおったてらる。
かの青侍夢の心に、
「あれはいかなる上臈にてましますやらん」
と、ある老翁に問ひたてまつれば、
「厳島の大明神」
とこたへたまふ。
その後座上にけたかげなる宿老のましましけるが、
「この日ごろ平家の預かりたる節刀をば、今は伊豆国の流人頼朝にたばうずるなり」
と仰せられければ、その御そばになほ宿老のましましけるが、
「その後はわが孫にもたびさうらへ」
と仰せらるるといふ夢を見て、これを次第に問ひたてまつる。
「節刀を頼朝にたばうとおほせられつるは、八幡大菩薩、その後はわが孫にもたびさうらへと仰せられつるは春日大明神、かう申す老翁は、武内の大明神」
と仰せらるるといふ夢を見て、これを人にかたるほどに、入道相国もれきいて、源大夫判官季貞をもって、雅頼卿のもとへ、
「夢見の青侍、急ぎこれへたべ」
とのたまひつかはされたりければ、かの夢見たる青侍、やがて逐電してんげり。雅頼卿いそぎ入道相国のもとへゆきむかって、
「まったくさることさうらはず」
と、陳じ申されければ、その後さたもなかりけり。それにふしぎなりしことには、清盛公いまだ安芸守たりし時、神拝の次に、霊夢をかうぶって、厳島の大明神よりうつつにたまはれたりし、銀の蛭巻したる小長刀、常の枕をはなたずたてられたりしが、ある夜俄にうせにけるこそふしぎなれ。
平家日ごろは朝家の御かためにて、天下を守護せしかども、今は勅命にそむけば、節刀をも召しかへさるるにや、心ぼそうぞきこえし。
なかにも高野におはしける、宰相入道成頼、かやうのことどもをつたへきいて、
「すは平家の代は、やうやう末になりぬるは。厳島の大明神の、平家の方人をしたまひけるといふは、そのいはれあり。但しそれは、沙羯羅竜王の第三の姫宮なれば、女神とこそ承れ。八幡大菩薩の、節刀を頼朝にたばうと仰せられけるは理なり。
春日大明神の、『その後はわが孫にもたびさうらへ』と仰せられけるこそ心えね。それも平家ほろび、源氏の世つきなん後、大織冠の御末、執柄家の君達の、天下の将軍になりたまふべきか」
なんどぞのたまひける。またある僧のをりふし来たりけるが申しけるは、
「それ神明は和光垂跡の方便まちまちにましませば、ある時は俗体とも現じ、ある時は女神ともなりたまふ。まことに厳島の大明神は、女神とは申しながら、三明六通の霊神にてましませば、俗体に現じたまはんもかたかるべきにあらず」
とぞ申しける。うき世を厭ひ実の道に入りぬれば、ひとへに後世菩提の外は、世のいとなみあるまじきことなれども、善政をきいては感じ、愁をきいてはなげく、これみな人間の習なり。
早馬
同九月二日、相模国の住人、大庭三郎景親、福原へ早馬をもって申しけるは、
「去八月十七日、伊豆国流人右兵衛佐頼朝、しうと北条四郎時政をつかはして、伊豆の目代、和泉判官兼高を、やまきが館で夜うちにうちたまひぬ。その後土肥、土屋、岡崎をはじめとして三百余騎、石橋山に立籠ってさうらふところに、景親、御方に心ざしを存ずる者ども、一千余騎を引率して、おし寄せせめさうらふほどに、兵衛佐七八騎にうちなされ、大童にたたひなって、土肥の椙山へにげこもりさうらひぬ。
その後畠山五百余騎で御方を仕る。三浦大介義明が子ども、三百余騎で源氏方をして、湯井、小坪の浦でたたかふに、畠山いくさにまけて、武蔵国へひきしりぞく。その後畠山が族、河越、稲毛、小山田、江戸、葛西、そうじてその外七党の兵ども、三千余騎を相具して、三浦衣笠の城におし寄せてせめたたかふ。
大介義明うたれさうらひぬ。子どもはくり浜の浦より舟に乗り、安房、上総へわたりさうらひぬ」
とこそ申したれ。
平家の人々、都うつりもはや興さめぬ。わかき公卿殿上人は、
「あはれ、とくことのいでこよかし。打手にむかはう」
なんどいふぞはかなき。畠山の庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝綱、大番役にてをりふし在京したりけり。畠山申しけるは、
「僻ことにてぞさうらん。したしうなってさうらふなれば、北条は知りたまはず、自余の輩は、よも朝敵が方人をば仕りさうらはじ。いまきこしめしなほさんずるものを」
と申しければ、
「げにも」
といふ人もあり、
「いやいやただ今天下の大事に及びなんず」
と、ささやく者もおほかりけり。入道相国いかられけるやうなのめならず。
「頼朝をばすでに死罪におこなはるべかりしを、故池殿のあながちになげきのたまひしあいだ、流罪に申しなだめたり。しかるにその恩忘れて、当家にむかって弓をひくにこそあんなれ。神明三宝も、いかでかゆるさせたまふべき、ただ今天の責めかうむらんずる頼朝なり」
とぞのたまひける。
朝敵揃
それわが朝に朝敵のはじめを尋ぬれば、日本磐余彦尊の御宇四年、紀州名草郡、高雄村に一つの蜘蛛あり。身みじかく足手ながくて、力人にすぐれたり。人民をおほく損害せしかば、官軍発向して、宣旨をよみかけ、葛の網をむすんで、終にこれをおほひころす。
それより以降、野心をさしはさんで、朝威をほろぼさんとする輩、大石の山丸、大山王子、守屋の大臣、山田の石河、蘇我の入鹿、大友の真鳥、文屋の宮田、橘の逸勢、氷上の川継、伊予の親王、太宰少弐藤原の広嗣、恵美の押勝、早良の太子、井上の皇后、藤原仲成、平の将門、藤原純友、安倍の貞任、宗任、対馬守源義親、悪左府、悪衛門督にいたるまで、すべて廿余人、されども一人として、素懐をとぐる者なし。
かばねを山野にさらし、かうべを獄門にかけらる。
この世にこそ王位も無下にかるけれ、昔は宣旨をむかってよみければ、枯れたる草木も花咲き実なり、とぶ鳥もしたがひけり。中ごろのことぞかし。延喜御門、神泉苑に行幸あって、池のみぎはに鷺のゐたりけるを、六位を召して、
「あの鷺とってまゐらせよ」
と仰せければ、いかでかとらんと思ひたれども、綸言なればあゆみむかふ。鷺はねづくろひしてたたんとす。
「宣旨ぞ」
と仰すれば、ひらんで飛びさらず。これをとって参りたり。
「なんぢが宣旨にしたがって、参りたるこそ神妙なれ。やがて五位になせ」
とて、鷺を五位にぞなされける。今日より後は鷺の中の王たるべしといふ札をあそばして、頸にかけてはなたせたまふ。まったく鷺の御料にはあらず、ただ王威のほどをしろしめさんがためなり。
咸陽宮
また先蹤を異国に尋ぬるに、燕の太子丹といふ者、秦の始皇にとらはれて、いましめをかうぶる事十二年、太子丹涙をながいて申しけるは、
「われ本国に老母あり。暇をたまはってかれを見ん」
と申せば、始皇帝あざわらって、
「なんぢに暇をたばんことは、馬に角おひ、烏の頭の白くならん時を待つべし」
燕丹天にあふぎ地に臥して、
「願はくは、馬に角おひ、烏の頭白くなしたべ。故郷にかへって、今一度母をみん」
とぞ祈りける。かの妙音菩薩は、霊山浄土に詣して、不孝の輩をいましめ、孔子、顔回は、支那震旦に出でて、忠孝の道をはじめたまふ。冥顕の三宝孝行の心ざしをあはれみたまふことなれば、馬に角おひて宮中に来り、烏の頭白くなって、庭前の木に住めりけり。
始皇帝、烏頭馬角の変におどろき、綸言かへらざることを信じて、太子丹をなだめつつ、本国へこそかへされけれ。始皇なほ悔みて、秦の国と燕の国のさかひに、楚国といふ国あり。大きなる河ながれたり。かの河にわたせる橋をば、楚国の橋といへり。
始皇官軍をつかはして、燕丹がわたらん時、河なかの橋をふまばおつるやうにしたためて、燕丹をわたらせけるに、なじかは落ち入らざるべき、河なかへおち入りぬ。されどもちっとも水にもおぼれず、平地を行くごとくして、むかへの岸へつきにけり。
こはいかにと思ひて、うしろをかへり見ければ、亀どもがいくらといふかずも知らず、水の上にうかれ来て、甲をならべてぞあゆませたりける。これも孝行のこころざしを、冥顕あはれみたまふによってなり。
太子丹うらみをふくんで、また始皇帝にしたがはず。始皇官軍をつかはして、燕丹をうたんとしたまふに、燕丹おそれをののき、荊軻といふ兵を語らうて、大臣になす。また田光先生といふ兵をかたらふ。かの先生申しけるは、
「君はこの身がわかうさかんなっしことをしろしめされてたのみ仰せらるるか。麒麟は千里を飛べども、老いぬれば、駑馬にもおとれり。いまはいかにもかなひさうらふまじ。兵をこそかたらうてまゐらせめ」
とてかへらんとするところに、荊軻、
「この事あなかしこ、人に披露すな」
といふ。先生申しけるは、
「人にうたがはれぬるに過ぎたる恥こそなけれ。このこともれぬる物ならば、われうたがはれなんず」
とて、門前なる李の木に、頭をつきあて、うちくだいてぞ死ににける。
また樊於期といふ兵あり。これは秦の国の者なり。始皇のために父、伯叔、兄弟をほろぼされて、燕の国ににげこもれり。秦皇四海に宣旨をくだいて、樊於期がかうべはねてまゐらせたらん者には、五百斤の金をあたへんと披露せらる。
荊軻これを聞き、樊於期がもとにゆいて、
「われ聞く、なんぢがかうべ、五百斤の金に報ぜらる。なんぢが首われにかせ。取って始皇帝にたてまつらん。よろこんで叡覧をへられん時、つるぎをぬき、胸をさささんに、やすかりなん」
といひければ、樊於期をどりあがり、大息をついて申しけるは、
「われ、父、伯叔、兄弟を、始皇のためにほろぼされて、よるひるこれを思ふに、骨髄にとほって忍びがたし。げにも始皇帝をほろぼすべくは首をあたへんこと、塵あくたよりもなほやすし」
とて、手づから首を切ってぞ死ににける。
また秦舞陽といふ兵あり。これも秦の国の者なり。十三の歳かたきをうって、燕の国ににげこもれり。ならびなき兵なり。かれが嗔ってむかふ時は、大の男も絶入す。また笑んで向かふ時は、みどり子もいだかれけり。これを、秦の都の案内者にかたらうてぐしてゆくほどに、ある片山のほとりに宿したりける夜、その辺ちかき里に、管弦をするをきいて、調子をもって本意のことをうらなふに、かたきの方は水なり、我方は火なり。
さるほどに天もあけぬ。白虹日をつらぬいてとほらず。
「われらが本意とげんことありがたし」
とぞ申しける。
さりながら帰るべきにもあらねば、始皇の都咸陽宮にいたりぬ。燕の指図、ならびに樊於期が首もって参りたるよし奏しければ、臣下をもって、うけとらんとしたまふ。
「まったく人してはまゐらせじ。直にたてまつらん」
と奏する間、さらばとて節会の儀をととのへて、燕の使を召されけり。咸陽宮は都のめぐり一万八千三百八十里につもれり。内裏をば地より三里たかく築きあげて、その上にたてたり。長生殿、不老門あり。金をもって日をつくり、銀をもって月をつくれり。
真珠のいさご、瑠璃の沙、金の砂をしきみてり。四方にはたかさ四十丈の鉄の築地をつき、殿の上にも同じく鉄の網をぞ張ったりける。これは冥途の使をいれじとなり。秋の田面の雁、春は越路へ帰るも、飛行自在のさはりあれば、築地には雁門となづけて、鉄の門をあけてぞとほしける。
そのなかにも阿房殿とて始皇の常は行幸なって、政道おこなはせたまふ殿あり。たかさは卅六丈、東西へ九町、南北へ五町、大床の下は五丈のはたほこをたてたるが、なほ及ばぬほどなり。上は瑠璃の瓦をもってふき、したは金銀にてみがきけり。
荊軻は燕の指図をもち、秦舞陽は樊於期が首をもって、珠のきざ橋をのぼりあがる。あまりに内裏のおびたたしきを見て、秦舞陽わなわなとふるひければ、臣下あやしみて、
「舞陽謀反の心あり。刑人をば君のかたはらにおかず。君子は刑人にちかづかず、刑人にちかづくはすなはち死をかろんずる道なり」
といへり。荊軻たち帰って、
「舞陽はまったく謀反の心なし。ただ田舎のいやしきにのみならって、皇居になれざるが故に、心迷惑す」
と申しければ、臣下みなしづまりぬ。よって王にちかづきたてまつる。燕の指図、ならびに樊於期が首、見参にいるるところに、指図の入ったる櫃のそこに、氷のやうなるつるぎの見えければ、始皇帝これを見て、やがてにげんとしたまふ。
荊軻、王の御袖をむずとひかへて、つるぎをむねにさしあてたり。今はかうぞ見えたりける。数万の兵庭上に袖をつらぬといへども、すくはんとする力なし。ただ君、逆臣にをかされたまはんことをのみかなしみあへり。始皇のたまはく、
「われに暫時のいとまをえさせよ。わが最愛の后の琴のねを今一度きかん」
とのたまへば、荊軻しばしをかしたてまつらず。始皇は三千人の后をもちたまへり。その中に華陽夫人とて、すぐれたる琴の上手おはしけり。およそこの后の琴のねをきいては、武きもののふのいかれるもやはらぎ、飛ぶ鳥もおち、草木もゆるぐほどなり。
況やいまをかぎりの叡聞にそなへんと、泣く泣くひきたまひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊軻も頭をうなたれ、耳をそばだて、殆ど謀臣の思もたゆみにけり。
その時后はじめてさらに一曲を奏す。
「七尺の屏風はたかくとも、躍らばなどかこえざらん。一条の羅縠はつよくとも、ひかばなどかはたえざらん」
とぞひきたまふ。荊軻はこれをきき知らず。始皇はきき知って、御袖をひっきり、七尺の屏風を飛びこえて、あかがねの柱のかげににげかくれさせたまひぬ。荊軻いかってつるぎを投げかけたてまつる。をりふし御前に番の医師のさうらひけるが、薬の袋を荊軻がつるぎに投げあはせたり。
つるぎ、薬の袋をかけられながら、口六尺の銅の柱を、なからまでこそきったりけれ。荊軻また剣をもたねば、つづいても投げず。王たちかへって、わがつるぎを召し寄せて、荊軻を八つざきにこそしたまひけれ。秦舞陽もうたれにけり。
官軍をつかはして、燕丹をほろぼさる。蒼天ゆるしたまはねば、白虹日をつらぬいてとほらず。秦の始皇はのがれて、燕丹つひにほろびにき。
されば今の頼朝も、さこそはあらんずらめと、色代する人々もありけるとかや。
文覚荒行
そもそもかの頼朝と申すは、去る平治元年十二月、ちち左馬頭義朝が謀反によって、年十四歳と申しし永暦元年三月廿日、伊豆国蛭島へながされて、廿余年の春秋をおくりむかふ。年ごろもあればこそありけめ、今年いかなる心にて謀反をばおこされけるぞといふに、高雄の文覚上人の申しすすめられたりけるとかや。
かの文覚と申すは、もとは渡辺の遠藤左近将監茂遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆なり。十九の歳、道心おこし出家して、修行にいでんとしけるが、
「修行といふはいかほどの大事やらん、ためいて見ん」
とて、六月の日の草もゆるがずてったるに、片山のやぶのなかにはいり、あふのけにふし、虻ぞ蚊ぞ蜂蟻なんどいふ毒虫どもが身にひしととりついて、さしくひなんどしけれども、ちっとも身をもはたらかさず、七日まではおきあがらず、八日といふにおきあがって、
「修行といふはこれほどの大事か」
と人に問へば、
「それほどならんには、いかでか命もいくべき」
といふあひだ、
「さてはあんべいござんなれ」
とて、修行にぞいでにける。
熊野へ参り那智ごもりせんとしけるが、行の試みに、きこゆる滝にしばらくうたれてみんとて、滝もとへぞまいりける。比は十二月十日あまりのことなれば、雪ふりつもりつららゐて、谷の小河も音もせず。峰の嵐ふきこほり滝の白糸垂氷となり、みな白妙におしなべて、四方の梢も見えわかず。
しかるに文覚、滝つぼにおりひたり、頸きはつかって慈救の呪をみてけるが、二三日こそありけれ、四五日にもなりければこらへずして、文覚うきあがりにけり。数千丈みなぎりおつる滝なれば、なじかはたまるべき。ざっとおしおとされて、かたなの刃のごとくに、さしもきびしき岩かどのなかを、うきぬしづみぬ、五六町こそながれたれ。
時にうつくしげなる童子一人来たって、文覚が左右の手をとってひきあげたまふ。人、奇特の思をなし、火をたきあぶりなんどしければ、定業ならぬ命ではあり、ほどなくいきいでにけり。文覚すこし人心地いできて、大のまなこを見いからかし、
「われこの滝に三七日うたれて、慈救の三洛叉をみてうど思ふ大願あり。今日はわづかに五日になる。七日だにも過ぎざるに、なに者がここへはとってきたるぞ」
といひければ、見る人身の毛よだってものいはず。また滝つぼにかへりたってうたれけり。
第二日といふに、八人の童子来たって、ひきあげんとしたまへども、さんざんにつかみあうてあがらず。三日といふに、文覚つひにはかなくなりにけり。滝つぼをけがさじとや、みづら結うたる天童二人、滝のうへよりおりくだり、文覚が頂上より、手足のつまさき、たなうらにいたるまで、よにあたたかにかうばしき御手をもって、なでくだしたまふとおぼえければ、夢の心地していきいでぬ。
「そもそもいかなる人にてましませば、かうはあはれみたまふらん」
と問ひたてまつる。
「われはこれ大聖不動明王の御使に、こんがら、せいたかといふ二童子なり。『文覚無上の願をおこして、勇猛の行をくはたつ。ゆいて力をあはすべし』と、明王の勅によって来れるなり」
とこたへたまふ。
文覚声をいからして、
「さて、明王はいづくにましますぞ」
「兜率天に」
とこたへて、雲井はるかにあがりたまひぬ。たなごころをあはせてこれを拝したてまつる。さればわが行をば、大聖不動明王までも、しろしめされたるにこそとたのもしうおぼえて、なほ滝つぼにかへりたってうたれけり。
まことにめでたき瑞相どもありければ、吹きくる風も身にしまず、落ちくる水も湯のごとし。かくて三七日の大願つひにとげにければ、那智に千日こもり、大峰三度、葛城二度、高野、粉河、金峰山、白山、立山、富士の嶽、伊豆、箱根、信濃戸隠、出羽羽黒、すべて日本国のこる所なく、おこなひまはって、さすがなほふる里や恋しかりけん、都へのぼりたりければ、およそとぶ鳥も祈りおとすほどのやいばの験者とぞきこえし。
勧進帳
後には高雄といふ山の奥に、おこなひすましてぞゐたりける。かの高雄に神護寺といふ山寺あり。昔称徳天皇の御時、和気清麿がたてたりし伽藍なり。久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧にまじはり、扉は風に倒れて、落葉のしたにくち、甍は雨露にをかされて、仏壇さらにあらはなり。
住持の僧もなければ、まれにさし入る物とては、月日の光ばかりなり。文覚これをいかにもして、修造せんといふ大願をおこし、勧進帳をささげて、十方壇那をすすめありきけるほどに、ある時院御所法住寺殿へぞ参りたりける。
御奉加あるべき由奏聞しけれども、御遊のをりふしできこしめしも入れられず。文覚は天性不敵第一のあらひじりなり。御前の骨、内証をば知らず、ただ申し入れぬぞと心えて、是非なく御坪のうちへやぶりいり、大音声をあげて申しけるは、
「大慈大悲の君にておはします。などかきこしめし入れざるべき」
とて、勧進帳をひきひろげ、たからかにこそようだりけれ。
沙弥文覚敬白す。殊には貴賤道俗助成を蒙って、高雄山の霊地に、一院を建立し、二世安楽の大利を勤行せんと乞ふ勧進状。
それ以れば真如広大なり。生仏の仮名をたつといへども、法性随妄の雲あつく覆って、十二因縁の峰にたなびいしよりこのかた、本有心蓮の月の光かすかにして、いまだ三徳四曼の大虚にあらはれず。悲しきかな仏日早く没して、生死流転の衢冥々たり。
ただ色に耽り酒にふける。誰か狂象跳猿の迷を謝せん。いたづらに人を謗じ法を誹す。あに閻羅獄卒の責をまぬかれんや。ここに文覚たまたま俗塵をうちはらって法衣をかざるといへども、悪行なほ心にたくましうして、日夜に造り、善苗また耳に逆らって朝暮にすたる。
痛ましきかな再度三途の火坑にかへって、ながく四生苦輪にめぐらんことを。この故に無二の顕章千万軸、軸々に仏種の因をあかす。随縁至誠の法、一つとして菩提のかの岸にいたらずといふことなし。かるがゆゑに文覚無常の観門に涙をおとし、上下の真俗をすすめて、上品蓮台にあゆみをはこび、等妙覚王の霊場をたてんとなり。
そもそも高雄は、山うづたかくして鷲峰山の梢を表し、谷閑かにして、商山洞の苔をしけり。巌泉咽んで布をひき、嶺猿叫んで枝にあそぶ。人里とほうして囂塵なし。咫尺好くして信心のみあり。地形すぐれたり。尤も仏天をあがむべし。
奉加すこしきなり。誰か助成せざらん。風に聞く、聚沙為仏塔、功徳たちまちに仏因を感ず。況哉一紙半銭の宝財においてをや。願はくは建立成就して、金闕鳳暦御願円満、乃至都鄙遠近、隣民親疎、堯舜無為の化をうたひ、椿葉再会の咲をひらかん。
殊には聖霊幽儀、先後大小、すみやかに一仏真門の台にいたり、必ず三身万徳の月をもてあそばん。よって勧進修行の趣蓋以如斯。
治承三年三月日 文覚
とこそよみあげたれ。
文覚被流
をりふし御前には太政大臣妙音院、琵琶かきならし朗詠めでたうさせたまふ。按察大納言資賢卿拍子とって、風俗、催馬楽うたはれけり。右馬頭資時、四位侍従盛定、和琴かきならし、今様とりどりにうたひ、玉の簾、錦の帳の中ざざめきあひ、まことに面白かりければ、法皇もつけ歌せさせおはします。
それに文覚が大音声いできて、調子もたがひ、拍子もみな乱れにけり。
「何者ぞ。そくびつけ」
と仰せ下さるるほどこそありけれ、はやりをの若者ども、われもわれもとすすみけるなかに、資行判官といふ者、はしりいでて、
「なんでう事申すぞ、まかりいでよ」
といひければ、
「高雄の神護寺に庄一所寄せられざらんほどは、まったく文覚いづまじ」
とてはたらかず。よってそくびをつかうどしければ、勧進帳をとりなほし、資行判官が烏帽子をはたとうってうちおとし、こぶしをにぎってしやむねをついて、のけにつき倒す。資行判官もとどりはなっておめおめと大床のうへへにげのぼる。
その後文覚ふところより馬の尾で柄まいたる刀の、こほりのやうなるをぬきいだいて、よりこん者をつかうどこそまちかけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀をぬいてはしりまはるあひだ、思ひまうけぬにはか事ではあり、左右の手に刀もったるやうにぞ見えたりける。
公卿殿上人も、
「こはいかに、こはいかに」
とさわがれければ、御遊もはや荒れにけり。院中の騒動なのめならず。信濃国の住人、安藤武者右宗、そのころ当職の武者所でありけるが、なにごとぞとて太刀をぬいてはしりいでたり。文覚よろこんでかかる所を、きってはあしかりなんとや思ひけん、太刀のみねをとりなほし、文覚が刀もったるかひなをしたたかにうつ。
うたれてちっとひるむところに、太刀をすててえたりをうとてくんだりけり。くまれながら文覚、安藤武者が右のかひなをつく。つかれながらしめたりけり。互におとらぬ大力なりければ、上になり下になり、ころびあふところに、かしこがほに上下よって、文覚がはたらくところのぢやうをがうしてんげり。
されどもこれをことともせず、いよいよ悪口放言す。門外へひきいだいて庁の下部にたぶ。たまはってひつぱる。ひっぱられて立ちながら御所の方をにらまへ、大音声をあげて、
「奉加をこそしたまはざらめ、これほど文覚にからい目を見せたまひつれば、思ひ知らせ申さんずる物を。三界は皆火宅なり。王宮といふとも、その難をのがるべからず。十善の帝位にほこったうとも、黄泉の旅にいでなん後は、牛頭馬頭の責をばまぬかれたまはじ物を」
と、躍りあがり躍りあがりぞ申しける。
「この法師、奇怪なり」
とて、やがて獄定せられけり。資行判官は烏帽子打ちおとされて恥がましさに、しばしは出仕もせず。安藤武者、文覚くんだる勧賞に、当座に一臈を経ずして、右馬允にぞなされける。さるほどにそのころ美福門院かくれさせたまひて、大赦ありしかば、文覚ほどなくゆるされけり。
しばらくはどこにもおこなふべかりしが、さはなくして、また勧進帳をささげてすすめけるが、さらばただもなくして、
「あつぱれこの世の中は、ただ今乱れ、君も臣もみなほろびうせんずる物を」
なんど、おそろしきことをのみ申しありくあひだ、伊豆国へぞながされける。
源三位入道の嫡子仲綱の、そのころ伊豆守にておはしければ、その沙汰として、東海道より舟にてくだすべしとて、伊勢国へゐてまかりけるに、放免両三人ぞつけられたる。これらが申しけるは、
「庁の下部のならひ、かやうのことについてこそ、おのづからの依怙もさうらへ。いかに聖の御房、これほどのことに逢うて、遠国へながされたまふに、知人はもちたまはぬか。土産粮料ごときの物をもこひたまへかし」
といひければ、
「文覚はさやうの要事いふべき得意ももたず。東山の辺にぞ得意はある。いでさらばふみをやらう」
といひければ、けしかる紙をたづねてえさせたり。
「かやうの紙で物書くやうなし」
とて投げかへす。さらばとて厚紙をたづねてえさせたり。文覚わらって、
「法師は物をえ書かぬぞ。さらばおれら書け」
とて書かするやう、
「『文覚こそ高雄の神護寺造立供養のこころざしあって、すすめさうらひつるほどに、かかる君の代にしも逢うて、所願をこそ成就せざらめ、禁獄せられて、あまっさへ伊豆国へ流罪せられさうらへ。遠路の間でさうらふ。
土産粮料ごときの物も大切にさうらふ。この使にたぶべし』と書け」
といひければ、いふままに書いて、
「さて誰どのへと書きさうらはうぞ」
「清水の観音房へと書け」
「これは庁の下部をあざむくにこそ」
と申せば、
「さりとては文覚は、観音をこそふかうたのみたてまつたれ。さらでは誰にかは用事をばいふべき」
とぞ申しける。
伊勢国阿濃の津より舟に乗ってくだりけるが、遠江の天竜灘にて、俄に大風ふき大なみたって、すでにこの舟をうちかへさんとす。水手梶取どもいかにもしてたすからんとしけれども、波風いよいよあれければ、あるいは観音の名号をとなへ、あるいは最後の十念におよぶ。
されども文覚これをことともせず、たかいびきかいてふしたりけるが、なにとか思ひけん、いまはかうとおぼえる時、かっぱとおき舟の舳にたって、沖の方をにらまへ、大音声をあげて、
「竜王やある、竜王やある」
とぞようだりける。
「いかにこれほどの大願起こいたる聖が乗ったる舟をば、あやまたうどはするぞ。ただいま天の責かうむらんずる竜神どもかな」
とぞ申しける。そのゆゑにや波風ほどなくしづまって、伊豆国へつきにけり。文覚京をいでける日より、祈誓することあり。
「われ都にかへって、高雄の神護寺造立供養すべくは、死ぬべからず。その願むなしかるべくは、道にて死ぬべし」
とて、京より伊豆へつきけるまで、折節順風なかりければ、浦づたひ島づたひして、卅一日があひだは、一向断食にてぞありける。されども気力すこしもおとらず、おこなひうちしてゐたり。まことにただ人ともおぼえぬことどもおほかりけり。
近藤四郎国高といふ者に預けられて、伊豆国奈古屋がおくにぞ住みける。
福原院宣
さるほどに兵衛佐殿へ常は参って、昔今の物語ども申してなぐさむほどに、ある時文覚申しけるは、
「平家には小松のおほいとのこそ心も剛に、はかりこともすぐれておはせしか、平家の運命が末になるやらん、こぞの八月薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、わとのほど将軍の相もったる人はなし。
はやはや謀反おこして、日本国したがへたまへ」
兵衛佐、
「思ひもよらぬ事のたまふ聖御坊かな。われは故池尼御前に、かひなき命をたすけられたてまつってさうらへば、その後世をとぶらはんために、毎日に法花経一部転読する外は他事なし」
とこそのたまひけれ。文覚かさねて申しけるは、
「天のあたふるをとらざればかへってそのとがをうく。時いたっておこなはざればかへってその殃をうくといふ本文あり。かう申せば御辺の心をみんとて申すなんど思ひたまふか。
御辺に心ざしのふかい色を見たまへかし」
とて、ふところより白いぬのにつつんだる髑髏を一つとりいだす。兵衛佐、
「あれはいかに」
とのたまへば、
「これこそわとのの父故左馬頭殿のかうべよ。平治の後獄舎のまへなる苔のしたにうづもれて、後世とぶらふ人もなかりしを、文覚存ずる旨あって、獄守にこうてこの十余年頸にかけ、山々寺々をがみまはり、とぶらひたてまつれば、いまは一劫もたすかりたまひぬらん。
されば文覚は故頭殿の御ためにも奉公の者でこそさうらへ」
と申しければ、兵衛佐殿一定とはおぼえねども、父のかうべときくなつかしさに、まづ涙をぞながされける。その後はうちとけて物語したまふ。
「そもそも頼朝勅勘をゆりずしては、争でか謀反をばおこすべき」
とのたまへば、
「それやすいこと、やがてのぼって申しゆるいてたてまつらん」
「さもさうず、御房も勅勘の身で人を申しゆるさうどのたまふあてがひやうこそおほきにまことしからね」
「わが身の勅勘をゆりうど申さばこそひがことならめ、わとのの事申さうはなにか苦しかるべき。いまの都福原の新都へのぼらうに三日に過ぐまじ。院宣うかがはうに一日が逗留ぞあらんずる。都合七日八日には過ぐべからず」
とてつきいでぬ。奈古屋にかへって弟子どもには、伊豆の御山に人にしのんで七日参籠の心ざしありとていでにけり。げにも三日といふに福原の新都へのぼりつく。前右兵衛督光能卿のもとに、いささかゆかりありければ、それにゆいて、
「伊豆国の流人前右兵衛佐頼朝こそ、勅勘をゆるされて院宣をだにもたまはらば、八箇国の家人ども催しあつめて、平家をほろぼし、天下をしづめんと申しさうらへ」
兵衛督、
「いさとよ、わが身も当時は三官ともにとどめられて、心苦しいをりふしなり。法皇もおしこめられてわたらせたまへば、いかがあらんずらん。さりながらもうかがうてこそ見め」
とて、この由ひそかに奏せられければ、法皇やがて院宣をこそくだされけれ。聖これをくびにかけ、また三日といふに伊豆国へくだりつく。
兵衛佐、あつぱれこの聖御房は、なまじひによしなき事申しいだして、頼朝またいかなるうき目にかあはんずらんと、思はじことなう案じつづけておはしけるところに、八日といふ午刻ばかりくだりついて、
「すは院宣よ」
とてたてまつる。兵衛佐、院宣ときくかたじけなさに、手水うがひをして、あたらしき烏帽子、浄衣着て、院宣を三度拝して、ひらかれたり。
頃年より以降、平氏王化蔑如して、政道に憚ることなし。仏法を破滅して朝威を亡さんとす。それ我朝は神国なり。宗廟あひならんで神徳これあらたなり。故に朝廷開基の後、数千余歳のあひだ帝猷を傾け、国家を危めんとする者、みなもって敗北せずといふことなし。
然れば則ち且は神道の冥助にまかせ、且は勅宣の旨趣をまもって、はやく平氏の一類を誅して、朝家の怨敵をしりぞけよ。譜代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽でて、身をたて家をおこすべし。てへれば院宣かくのごとし。
よって執達如件。
治承四年七月十四日 前右兵衛督光能奉 謹上前右兵衛佐殿
とぞ書かれたる。この院宣をば、錦の袋にいれて、石橋山の合戦の時も、兵衛佐殿頸にかけられたりけるとかや。
富士川
さるほどに福原には、勢のつかぬ先に、いそぎ打手をくだすべしと、公卿僉議あって、大将軍には小松権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠度、都合その勢三万余騎、九月十八日に都をたって、十九日には旧都につき、やがて廿日東国へこそうったたれけれ。
大将軍権亮少将維盛は、生年廿三、容儀帯佩絵にかくとも筆も及びがたし。重代の鎧唐皮といふ着背長をば、唐櫃に入れてかかせらる。道中には赤地の錦の直垂に、萌黄糸威の鎧着て、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍おいて乗りたまへり。
副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸威の鎧着て、黒き馬のふとうたくましいに、沃懸地の鞍おいて乗りたまへり。馬、鞍、鎧、甲、弓矢、太刀、刀にいたるまで、てりかかやくほどにいでたたれたりしかば、めでたかりし見物なり。
薩摩守忠度は、年来ある宮腹のもとへかよはれけるが、ある時おはしたりけるに、その女房のもとへ、やんごとなき女房客人にきたってやや久しう物語したまふ。さよもはるかにふけゆくまでに、客人かへりたまはず。忠度軒ばにしばしやすらひて、扇をあらくつかはれければ、宮腹の女房、
「野もせにすだく虫のねよ」
と、優にやさしう口ずさみたまへば、薩摩守やがて扇をつかひやみてかへられけり。その後またおはしたりけるに、宮腹の女房、
「さても一日、なにとて扇をばつかひやみしぞや」
と問はれければ、
「いさかしかましなんどきこえさうらひしかば、さてこそつかひやみさうらひしか」
とぞのたまひける。かの女房のもとより、忠度のもとへ小袖を一かさねつかはすとて、千里のなごりのかなしさに、一首の歌をぞおくられける。
あづまぢの草葉をわけん袖よりもたたぬたもとの露ぞこぼるる
薩摩守返事には、
わかれ路をなにかなげかんこえてゆく関もむかしの跡と思へば
「関も昔の跡」
とよめることは。平将軍貞盛、将門追討のために、東国へ下向せしことを、思ひいでてよみたりけるにや。いとやさしうぞきこえし。
昔は朝敵をたひらげに、外土へむかふ将軍は、まづ参内して、節刀をたまはる。宸儀南殿に出御し、近衛階下に陣をひき、内弁外弁の公卿参列して、中儀の節会おこなはる。大将軍副将軍おのおの礼儀をただしうして、これをたまはる。
承平天慶の蹤跡も年久しうなって、准へがたしとて、今度は讃岐守平の正盛が前対馬守源義親追討のために、出雲国へ下向せし例として、鈴ばかりたまはって、皮の袋にいれて、雑色が頸にかけさせてぞくだられける。いにしへ朝敵をほろぼさんとて、都をいづる将軍は、三つの存知あり。
節刀をたまはる日、家を忘れ、家をいづるとて妻子を忘れ、戦場にして敵にたたかふ時身を忘る。されば、今の平氏の大将、維盛、忠度も、定めてかやうのことをば存知せられたりけん、あはれなりしことどもなり。
同二十一日、新院また安芸国厳島へ御幸なる。去る三月にも御幸ありき。そのゆゑにやなか一両月世もめでたくをさまって、民のわづらひもなかりしが、高倉宮の御謀反によって、また天下乱れて世上もしづかならず。これによって且は天下静謐のため、且は聖代不予の御所念のためとぞきこえし。
今度は福原よりの御幸なれば、斗藪のわづらひもなかりけり。手づからみづから御願文をあそばいて、清書をば摂政殿せさせおはします。
蓋聞、法性雲閑かなり、十四十五の月高く晴れ、権化智深し、一陰一陽の風旁に扇ぐ。それ厳島の社は、称名あまねくきこゆるには、効験無双の砌なり。遙嶺の社壇をめぐる、おのづから大慈の高く峙てるを彰し、巨海の祠宇におよぶ、空に弘誓の深広なることを表す。
それ以れば、初め庸昧の身をもって、忝く皇王の位を践む。今賢猷を霊境の群に翫んで、閑坊を射山の居にたのしむ。しかるにひそかに一心の清誠を抽で、孤島の幽祠に詣で、瑞籬の下に明恩を仰ぎ、懇念を凝して汗をながし、宝宮のうちに霊託を垂る。
そのつげの心に銘ずるあり。なかんづくことに怖畏謹慎の期をさすに、もはら季夏初秋の候にあたる。病痾たちまちに侵し、なほ医術の験を施すことなし。萍桂頻りに転ず。弥神感の空しからざることを知んぬ。祈祷を求むといへども霧露散じがたし。
しかじ心府の心ざしを抽でて、かさねて斗藪の行をくはたてんと思ふ。漠々たる寒嵐の底、旅泊に臥して夢をやぶり、凄々たる微陽のまへ、遠路に臨んで、眼をきはむ。つひに枌楡の砌について、敬って清浄の席を展べ、書写したてまつる色紙墨字の妙法蓮華経一部、開結二経、阿弥陀、般若心等の経、各一巻、手づから自ら書写したてまつる金泥の提婆品一巻、時に蒼松蒼柏の陰ともに善理の種をそへ、潮去潮来の響、空に梵唄の声に和す。
弟子北闕の雲を辞して、八亥涼燠のおほく廻ることなしといへども、西海の浪を凌ぐ事二たび、深く機縁のあさからざることを知んぬ。朝に祈る客一にあらず。夕に賽するもの且千なり。但し尊貴の帰仰おほしといへども、院宮の往詣いまだ聞かず。
禅定法皇初めてその儀をのこしたまふ。弟子眇身深くその志を運び、かの崇高山の月の前には、漢武いまだ和光のかげを拝せず。蓬莱洞の雲の底にも、天仙むなしく垂跡の塵をへだつ。仰ぎ願はくは大明神、伏して乞ふらくは一乗経、新に丹祈をてらして、唯一の玄応を垂れたまへ。
治承四年九月廿八日 太上天皇
とぞあそばされたる。
さるほどに、この人々は九重の都をたって、千里の東海におもむかれける。たひらかにかへりのぼらんことも、まことにあやふき有様どもにて、あるいは野原の露にやどをかり、あるいはたかねの苔に旅ねをし、山をこえ河をかさね、日かずふれば十月十六日には、駿河国清見が関にぞつきたまふ。
都をば三万余騎でいでしかど、路次の兵召し具して七万余騎とぞきこえし。先陣は蒲原、富士川にすすみ、後陣はいまだ手越、宇津の屋にささへたり。大将軍権亮少将維盛、侍大将上総守忠清を召して、
「ただ維盛が存知には、足柄をうちこえて、坂東にていくさをせん」
とはやられけるを、上総守申しけるは、
「福原をたたせたまひし時、入道殿の御定には、『いくさをば忠清にまかせさせたまへ』と仰せさうらひしぞかし。八箇国の兵どもみな兵衛佐にしたがひついてさうらふなれば、何十万騎かさうらん。御方の御勢は七万余騎とは申せども、国々のかり武者どもなり。
馬も人もせめふせてさうらふ。伊豆、駿河の勢の参るべきだにもいまだみえさうらはず。ただ富士川をまへにあてて、みかたの御勢をまたせたまふべうやさうらん」
と申しければ、力及ばでゆらへたり。
さるほどに兵衛佐は、足柄の山を打ちこえて、駿河国黄瀬河にこそつきたまへ。甲斐、信濃の源氏ども、馳せ来たって、一つになる。浮島が原にて勢ぞろへあり。廿万騎とぞ記いたる。常陸源氏、佐竹太郎が雑色、主の使に文もって京へのぼるを、平家の先陣上総守忠清、これをとどめてもったる文をばひとり、あけてみれば、女房のもとへの文なり。
苦しかるまじとてとらせてんげり。
「そもそも兵衛佐殿の勢、いかほどあるぞ」
と問へば、
「およそ八日九日の道にはたとつづいて、野も山も海も河も武者でさうらふ。下臈は四五百千までこそ物の数をば知ってさうらへども、それよりうへは知らぬさうらふ。おほいやらうすくないやらうをば知りさうらはず。昨日黄瀬川で人の申しさうらひつるは、源氏の御勢廿万騎とこそ申しさうらひつれ」
上総守これをきいて、
「あつぱれ大将軍の、御心ののびさせたまひたるほど口惜しい事さうらはず。いま一日も先に打手をくださせたまひたらば、足柄の山こえて八箇国へ御出でさうらはば、畠山が一族、大庭兄弟などか参らでさうらふべき。これらだにも参りなば、坂東にはなびかぬ草木もさうらふまじ」
と、後悔すれどもかひぞなき。
また大将軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛を召して、
「やや実盛、なんぢほどの強弓勢兵、八箇国にはいかほどあるぞ」
と問ひたまへば、斎藤別当あざわらって申しけるは、
「ささうらへば君は実盛を大矢とおぼしめしさうらふか。わづかに十三束こそ仕りさうらへ。実盛ほどさうらふ者は、八箇国にいくらもさうらふ。大矢と申すぢやうの者の、十五束におとってひくはさうらはず。弓のつよさもしたたかなる者五六人してはりさうらふ。
かかるせい兵どもが射さうらへば、鎧の二三両をもかさねてたやすう射とほしさうらふなり。大名一人と申すは、勢のすくないぢやう、五百騎におとるはさうらはず。馬に乗っつれば、おつる道を知らず、悪所をはすれども、馬を倒さず。
いくさはまた、親もうたれよ子もうたれよ。死ぬれば乗りこえ乗りこえたたかふさうらふ。西国のいくさと申すは、親うたれぬれば孝養し、忌あけて寄せ、子うたれぬればその思歎に寄せさうらはず。兵粮米つきぬれば、春は田つくり、秋はかりをさめて寄せ、夏はあつしといひ、冬はさむしときらひさうらふ。
東国にはすべてその儀さうらはず。甲斐、信濃の源氏ども、案内は知ってさうらふ。富士のすそより、搦手にやまはりさうらん。かう申せば君を臆せさせまゐらせんとて申すにはさうらはず。いくさは勢にはよらず、はかりことによるとこそ申しつたへてさうらへ。
実盛今度のいくさに命いきて、ふたたび都へ参るべしとも覚えさうらはず」
と申しければ、平家の兵どもこれをきいて、みなふるひわななきあへり。
さるほどに十月廿三日にもなりぬ。あすは源平富士川にて矢合とさだめたりけるに、夜に入って、平家の方より源氏の陣を見わたせば、伊豆、駿河の人民百姓等がいくさにおそれて、あるいは野に入り山にかくれ、あるいは舟にとり乗って、海河にうかび、いとなみの火の見えけるを、平家の兵ども、
「あなおびたたしの源氏の陣の遠火のおほさよ。げにもまことに野も山も、海も河も、みなかたきでありけり。いかがせん」
とぞあわてける。その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらもむれゐたりける水鳥どもが、なににかおどろきたりけん、ただ一度にぱっと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうにきこえければ、平家の兵ども、
「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤別当が申しつるやうに、定めて搦手もまはるらん。とりこめられてはかなふまじ。ここをばひいて、尾張河、洲俣をふせげや」
とて、とる物もとりあへず、我さきにとぞ落ちゆきける。あまりにあわてさわいで、弓とる者は矢を知らず、矢とる者は弓を知らず、人の馬にはわれ乗り、わが馬をば人に乗らる。あるいはつないだる馬に乗ってはすれば、杭をめぐることかぎりなし。
ちかき宿々よりむかへとってあそびける游君遊女ども、あるいは頭けわられ、腰ふみ折られて、をめきさけぶ者おほかりけり。
あくる廿四日卯刻に、源氏大勢廿万騎、富士川におし寄せて、天もひびき大地もゆるぐほどに、時をぞ三箇度、つくりける。
五節之沙汰
平家の方には音もせず。人をつかはして見せければ、
「みな落ちてさうらふ」
と申す。あるいは敵の忘れたる鎧とって参りたる者もあり、あるいはかたきのすてたる大幕とって参りたる者もあり。
「敵の陣には蠅だにもかけりさうらはず」
と申す。兵衛佐馬よりおり甲をぬぎ手水うがひをして、王城の方をふしをがみ、
「これはまったく頼朝がわたくしの高名にあらず。八幡大菩薩の御はからひなり」
とぞのたまひける。やがてうっとる所なればとて、駿河国をば、一条次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定に預けらる。平家をばつづいてもせむべけれども、うしろもさすがおぼつかなしとて、浮島が原よりひきしりぞき、相模国へぞかへられける。
海道宿々の游君遊女ども、
「あないまいまし。打手の大将軍の、矢一つだにも射ずして、にげのぼりたまふうたてしさよ。いくさには見にげといふことをだに心うきことにこそするに、これはききにげしたまひたり」
とわらひあへり。落書どもおほかりけり。都の大将軍をば、宗盛といひ、討手の大将をば、権亮といふ間、平家をひら屋によみなして、
ひらやなるむねもりいかにさわぐらんはしらとたのむすけをおとして
富士河の瀬々の岩こす水よりもはやくもおつる伊勢平氏かな
上総守が富士河に鎧を捨てたりけるをよめり。
富士河に鎧はすてつ墨染の衣ただきよ後の世のため
ただきよはにげの馬にぞ乗りにける上総しりがいかけてかひなし
同十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原の新都へのぼりつく。入道相国大きにいかって、
「大将軍権亮少将維盛をば、鬼界が島へながすべし。侍大将上総守忠清をば、死罪におこなへ」
とぞのたまひける。同九日平家の侍ども、老少参会して、忠清が死罪の事いかがあらんと評定す。なかに主馬判官盛国すすみいでて申しけるは、
「忠清は昔より不覚人とは承り及びさうらはず。あれが十八の歳と覚えさうらふ。鳥羽殿の宝蔵に、五畿内一の悪党二人にげ籠ってさうらひしを、よってからめうど申す者もさうらはざりしに、この忠清白昼に唯一人、築地をこえはね入って、一人をばうちとり、一人をばいけどって、後代に名をあげたりし者にてさうらふ。
今度の不覚は、ただことともおぼえさうらはず。これにつけてもよくよく兵乱の御つつしみさうらふべし」
とぞ申しける。
同十日の日、大将軍権亮少将維盛、右近衛中将になりたまふ。
「打手の大将ときこえしかども、させるしいだしたることもおはせず。これはなにごとの勧賞ぞや」
と、人々ささやきあへり。
昔将門追討のために、平将軍貞盛、田原藤太秀郷承って、坂東へ発向したりしかども、将門たやすうほろびがたかりしかば、かさねて打手をくだすべしと、公卿僉議あって、宇治の民部卿忠文、清原重藤、軍監といふ官をたまはってくだられけり。
駿河国清見が関に宿したりける夜、かの重藤、漫々たる海上を遠見して、
「漁舟火影寒浪焼、駅路鈴声夜過山」
といふから歌を、たからかに口ずさみたまへば、忠文優におぼえて、感涙をぞながされける。さるほどに将門をば、貞盛、秀郷つひに打ちとってんげり。そのかうべをもたせてのぼるほどに、清見が関にてゆきあうたり。それより先後の大将軍うちつれて上洛す。
貞盛、秀郷に勧賞おこなはれける時、忠文、重藤にも勧賞あるべきかと、公卿僉議あり。九条右丞相師輔公の申させたまひけるは、
「坂東へ打手はむかうたりといへども、将門たやすうほろびがたきところに、この人ども仰せをかうむって、関の東へおもむく時、朝敵すでにほろびたり。さればなどか勧賞なかるべき」
と申させたまへども、その時の執柄、小野宮殿、
「うたがはしきをばなすことなかれと、礼記の文にさうらへば」
とて、つひになさせたまはず。忠文これを口惜しきことにして、
「小野宮殿の御末をば、やつこにみなさん。九条殿の御末には、いづれの世までも守護神とならん」
とちかひつつ、ひじににこそしたまひけれ。されば九条殿の御末はめでたうさかえさせたまへども、小野宮殿の御末にはしかるべき人もましまさず。今はたえはてたまひけるにこそ。
さるほどに入道相国の四男、頭中将重衡、左近衛中将になりたまふ。同十一月十二日、福原には内裏つくりいだして、主上御遷幸あり。大嘗会あるべかりしかども、大嘗会は十月のすゑ、東河に御幸して御禊あり。大内の北の野に斎場所をつくって、神服神具をととのふ。
大極殿のまへ、竜尾道の壇下に、廻立殿をたてて、御湯を召す。同壇のならびに大嘗宮をつくって神膳をそなふ。宸宴あり、御遊あり。大極殿にて大礼あり。清暑堂にて、御神楽あり。豊楽院にて宴会あり。しかるをこの福原の新都には、大極殿もなければ、大礼おこなふべき所もなし。
清暑堂もなければ、御神楽奏すべきやうもなし。豊楽院もなければ、宴会もおこなはれず。今年はただ新嘗会、五節ばかりあるべきよし、公卿僉議あって、なほ新嘗の祭をば、旧都の神祇官にしてとげられけり。
五節はこれ浄見原のそのかみ、吉野の宮にして、月白く嵐はげしかりし夜、御心をすましつつ、琴をひきたまひしに、神女あまくだり、五たび袖をひるがへす。これぞ五節のはじめなる。
都帰
今度の都遷をば、君も臣も御歎あり。山、奈良をはじめて、諸寺諸社にいたるまで、しかるべからざるよし一同にうったへ申すあひだ、さしもよこ紙をやらるる太政入道も、さらば都がへりあるべしとて、京中ひしめきあへり。
同十二月二日にはかに都がへりありけり。新都は北は山にそひてたかく、南は海ちかくしてくだれり。浪の音常はかまびすしく、塩風はげしき所なり。されば新院いつとなく御悩のみしげかりければ、いそぎ福原をいでさせたまふ。
摂政殿をはじめたてまつって、太政大臣以下の公卿殿上人、われもわれもと供奉せられける。入道相国をはじめとして、平家一門の公卿殿上人、われさきにとぞのぼられける。誰か心うかりつる新都に片ときも残るべき。去る六月より、屋どもこぼち寄せ、資財雑具はこびくだし、形のごとくとりたてたりつるに、また物ぐるはしう都がへりありければ、なんの沙汰にも及ばず。
うちすて打ちすてのぼられけり。おのおのすみかもなくして、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山のかたほとりについて、御堂の廻廊、社の拝殿なんどにたち宿ってぞ、しかるべき人々もましましける。
今度の都うつりの本意をいかにといふに、旧都は南都北嶺ちかくして、いささかのことにも、春日の神木、日吉の神輿なんどいひて、みだりがはし。福原は山へだたり江かさなってほどもさすがとほければ、さやうのことたやすからじとて、入道相国のはからひいだされたりけるとかや。
同十二月廿三日、近江源氏のそむきしをせめんとて、大将軍には、左兵衛督知盛、薩摩守忠度、都合その勢二万余騎で、近江国へ発向して、山本、柏木、錦古里なんどいふあぶれ源氏ども、一々にみなせめおとし、やがて美濃、尾張へこえたまふ。
奈良炎上
都にはまた、
「高倉宮、園城寺へ入御の時、南都の大衆、同心して、あまっさへ御むかへに参る条、これもって朝敵なり。されば南都をも三井寺をもせめらるべし」
といふほどこそありけれ、奈良の大衆おびたたしく蜂起す。摂政殿より、
「存知の旨あらば、いくたびも奏聞にこそ及ばめ」
と仰せ下されけれども、一切用ゐたてまつらず。有官の別当忠成を御使にくだされたりければ、
「しや乗物よりとってひきおとせ。もとどりきれ」
と騒動する間、忠成色をうしなってにげのぼる。つぎに右衛門佐親雅をくださる。これをも、
「もとどりきれ」
と大衆ひしめきければ、とる物もとりあへずにげのぼる。その時は勧学院の雑色二人がもとどりきられにけり。また南都には大きなる毬杖の毬をつくって、これは平相国のかうべとなづけて、
「うて」
「ふめ」
なんどぞ申しける。
「詞のもらしやすきは、わざはひをまねく媒なり。ことのつつしまざるは、やぶれをとる道なり」
といへり。この入道相国と申すは、かけまくもかたじけなく、当今の外祖にておはします。それをかやうに申しける南都の大衆、およそは天魔の所為とぞみえたりける。
入道相国かやうのことどもつたへききたまひて、いかでかよしと思はるべき。かつがつ南都の狼藉をしづめんとて、備中国住人、瀬尾太郎兼康、大和国の検非所に補せらる。兼康五百余騎で南都へ発向す。
「相構へて衆徒は狼藉をいたすとも、汝等はいたすべからず。物具なせそ。弓箭な帯しそ」
とてむけられたりけるに、大衆かかる内儀をば知らず、兼康が余勢六十余人からめとって、一々にみな頸をきって、猿沢の池のはたにぞかけならべたる。入道相国大きにいかって、さらば南都をせめよやとて、大将軍には頭中将重衡、副将軍には中宮亮通盛、都合その勢四万余騎で、南都へ発向す。
大衆も老少きらはず、七千余人、甲の緒をしめ、奈良坂、般若寺、二箇所の路をほりきって、堀ほりかいだてかき逆茂木ひいて待ちかけたり。平家は四万余騎を二手にわかって、奈良坂、般若寺二箇所の城郭におし寄せて、時をどっとつくる。
大衆はみなかち立打物なり。官軍は馬にてかけまはしかけまはし、あそこここにおっかけおっかけさしつめひきつめさんざんに射ければ、ふせぐところの大衆、かずをつくいてうたれにけり。卯刻に矢合して、一日たたかひくらす。
夜に入って奈良坂、般若寺二箇所の城郭ともにやぶれぬ。おちゆく衆徒のなかに坂四郎永覚といふ悪僧あり。打物もっても弓矢をとっても、力のつよさも、七大寺、十五大寺にすぐれたり。萌黄威の腹巻のうへに、黒糸威の鎧をかさねてぞ着たりける。
帽子甲に五枚甲の緒をしめて、左右の手には、茅の葉のやうにそったる白柄の大長刀、黒漆の大太刀もつままに、同宿十余人前後にたて、てがいの門よりうっていでたり。これぞしばらくささへたる。おほくの官兵、馬の足ながれてうたれにけり。
されども官軍は大勢にていれかへいれかへせめければ、永覚が前後左右にふせぐところの同宿みなうたれぬ。永覚ただひとりたけけれど、うしろあらはになりければ、南をさいておちぞゆく。
夜いくさになって、くらさはくらし、大将軍頭中将、般若寺の門の前にうったって、
「火をいだせ」
とのたまふほどこそありけれ、平家の勢のなかに、播磨国住人、福井庄下司、二郎大夫友方といふ者、楯をわり、たい松にして、在家に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なりければ、風ははげしし、ほもとは一つなりけれども、吹きまよふ風に、おほくの伽藍に吹きかけたり。
恥をも思ひ、名をも惜しむほどの者は、奈良坂にてうちじにし、般若寺にしてうたれにけり。行歩にかなへる者は、吉野十津河の方へ落ちゆく。あゆみもえぬ老僧や、尋常なる修学者、児ども、をんな童部は、大仏殿の二階の上、山階寺のうちへわれさきにとぞにげゆきける。
大仏殿の二階の上には、千余人のぼりあがり、かたきのつづくをのぼせじと、橋をばひいてんげり。猛火はまさしうおしかけたり。をめき叫ぶ声、焦熱大焦熱、無間阿毘のほのほの底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。
興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺なり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃をならべし四面の廊、朱丹をまじへし二階の楼、九輪そらにかかやきし二基の塔、たちまちに煙となるこそかなしけれ。
東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏とおぼしめしなずらへて、聖武皇帝、手づから身づからみがきたてたまひし。金銅十六丈の廬遮那仏、烏瑟たかくあらはれて、半天の雲にかくれ、白毫新にをがまれたまひし、満月の尊容も、御頭は焼けおちて大地にあり。
御身はわきあひて山のごとし。
八万四千の相好は、秋の月はやく五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしく十悪の風にただよふ。煙は中天にみちみち、ほのほは虚空にひまもなし。まのあたりに見たてまつる者、さらにまなこをあてず。はるかにつたへきく人は、肝たましひをうしなへり。
法相、三論の法門聖教すべて一巻のこらず。わが朝はいふに及ばず、天竺震旦にもこれほどの法滅あるべしともおぼえず。優塡大王の紫磨金をみがき、毘首羯磨が赤栴檀を刻むも、わづかに等身の御仏なり。況哉これは、南閻浮提のうちには唯一無双の御仏、ながく朽損の期あるべしともおぼえざりしに、いま毒縁の塵にまじはって、ひさしくかなしみをのこしたまへり。
梵釈四王、竜神八部、冥官冥衆も驚きさわぎたまふらんぞ見えし。法相擁護の春日の大明神、いかなることをかおぼしけん。されば春日野の露も色かはり、三笠山の嵐の音、うらむるやうにぞきこえける。
ほのほの中にて焼け死ぬる人数を記いたりければ、大仏殿の二階の上には一千七百人余、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、ある御堂には三百余人、つぶさに記いたりければ、三千五百余人なり。戦場にしてうたるる大衆千余人、少々は般若寺の門の前にきりかけ、少々はもたせて都へのぼりたまふ。
廿九日頭中将南都ほろぼして北京へ帰りいらる。入道相国ばかりぞいきどほりはれてよろこばれけれ。中宮、一院、上皇、摂政殿以下の人々は、
「悪僧をこそほろぼすとも、伽藍を破滅すべしや」
とぞ御歎ありける。衆徒の頸ども、もとは大路をわたして、獄門の木に懸けらるべしときこえしかども、東大寺、興福寺のほろびぬるあさましさに、沙汰にも及ばず。あそこここの溝や堀にぞすておきける。聖武皇帝、宸筆の御記文には、
「わが寺興復せば天下も興復し、わが寺衰微せば天下も衰微すべし」
とあそばされたり。されば天下の衰微せんことも疑なしとぞ見えたりける。あさましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり。



