このページでは、『源氏物語』第4帖「夕顔」の現代語訳全文を、わかりやすい口語訳で掲載しています。原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第4帖「夕顔」原文全文をご覧ください。
五条で見つけた夕顔の花
源氏が六条のあたりへ忍んで通っていたころのことです。宮中から退出する途中、幼いころから世話になった大弐の乳母がひどく病み、尼になったと聞いて、見舞おうと五条にある家を訪れました。
ところが車を入れる門には鍵がかかっています。人をやって惟光を呼ばせ、待っているあいだ、源氏はごみごみとした大通りの様子を眺めていました。
すると乳母の家の隣に、新しく作った檜垣があり、その上には四、五間ほど半蔀がずっと上げられています。簾もたいそう白く涼しそうで、その向こうから、きれいな額のあたりをした女たちの顔がいくつも透けて見え、こちらをのぞいていました。
立って動き回っているらしい女たちの下半身を想像すると、妙に背が高そうに感じられます。いったいどんな女たちが集まっている家なのだろうと、源氏は変わった興味を覚えました。
この日は車もひどく目立たないものにしており、先払いの者にも声を立てさせていません。まさか自分だとは分かるまいと気を許し、源氏が少し顔を出してのぞいてみると、その家の門は蔀のような板を押し上げただけのものです。中もすぐに見通せるほど狭く、なんとも頼りない住まいでした。
けれども、住む場所など結局はどこを目指したところで同じことだと思えば、立派な玉の御殿であっても、この小さな家であっても、それほど違うものではないように思われます。
板塀のようなものには、青々とした蔓草が気持ちよさそうに這いかかり、その中で白い花だけが、自分ひとり晴れやかに笑っているように咲いていました。
「あちらの人に尋ねてみたいものだ」
源氏が独り言のようにつぶやくと、そばにひざまずいていた随身が、
「あの白く咲いております花を、夕顔と申します。名前だけは人のようでございますのに、このような粗末な垣根に咲く花なのでございます」
と答えました。
なるほど、あたりは小さな家ばかりがひしめき、あちらこちらの傾きかけた頼りない軒先に、夕顔の蔓がまとわりついて咲いています。
「もったいない運命の花だね。一房折って持ってきておくれ」
源氏に言われ、随身は押し上げてある門から中へ入りました。
すると、粗末な家ではありますが、気の利いた造りの遣戸口から、黄色い生絹の単袴を長く着た、かわいらしい童女が出てきて手招きします。そして、よく香を焚きしめた白い扇を差し出して、
「これに花を載せて差し上げてください。枝のままでは、あまりに風情がありませんから」
と言いました。
随身がその扇を受け取ったところへ、ようやく門が開き、惟光が出てきました。源氏は惟光を通して、その扇に載せた夕顔の花を受け取ります。
「鍵をどこへ置いたか分からなくなりまして、大変失礼いたしました。このあたりには殿のお姿を見分ける者などおりますまいが、それにしても騒がしい大路にお立たせしたままにしてしまいまして」
惟光は恐縮して謝りました。
源氏を中へ迎え、車から降ろします。惟光の兄である阿闍梨や、婿の三河守、娘なども集まっていました。思いもかけず源氏が訪ねてきてくれたことを、この上ないこととして皆が恐縮し、喜びました。
尼となった乳母も起き上がり、弱々しく泣きながら言いました。
「惜しむほどの身ではございませんのに、それでも出家をためらっておりましたのは、ただこうしてあなたさまにお仕えし、お目にかかることができなくなるのが残念に思われたからでございます。けれども出家したおかげでしょうか、命を取り留めることができました。そしてこうしてお越しいただいたお姿まで拝見できましたので、今はもう、阿弥陀仏のお迎えの光も、心安らかに待つことができそうでございます」
源氏も涙ぐんで答えました。
「ずっと病気がよくならないと聞き、心配でたまらなかったのに、こうして世を捨てた姿にまでなってしまわれたのは、本当に悲しく残念です。もっと長く生きて、私がさらに高い位に上るところも見てください。そのうえで極楽の九品の上の位に、何の妨げもなく生まれればよいではありませんか。この世に少しでも心残りを持ったまま死ぬのは、よくないことだと聞いていますよ」
たとえ欠点のある子であっても、乳母のように深く思う人は、驚くほど立派な人だと思ってしまうものです。ましてこの乳母にとって源氏は、長いあいだ誇らしく、親しくお仕えしてきた相手です。病身の自分を見舞ってくれることを、もったいなくありがたく思い、自然と涙がこぼれます。
乳母の子どもたちは、出家して世を捨てたはずの母が、まるでまだこの世に未練があるかのように泣いているのを少しみっともなく思い、互いにつつき合って目配せしていました。
しかし源氏は、乳母を心から気の毒に思っていました。
「私がまだ幼いころ、頼るべき人たちに先立たれたあと、育ててくれる人は大勢いたように思います。それでも、心から親しく慕っていた人は、あなたのほかにはいませんでした。大人になってからは身分上の制約もあって、朝夕いつでも会いに来ることも、思うままに訪ねることもできなくなりました。それでも長く会わずにいると心細く思われるのです。どうか避けられない別れなど、来なければよいのに」
源氏はしみじみとそう語り、涙をぬぐいました。その袖から漂う香りが部屋いっぱいに満ちるほど見事なので、先ほどまで「出家したのに泣いてばかりで」と母を責めるように見ていた子どもたちまで、「本当に、並の人とは違う運命を持って生まれた方なのだ」と感じ、皆涙ぐみました。
源氏は、さらに修法などを始めるよう手配してから帰ろうとしました。そのとき、惟光に紙燭を持ってこさせ、先ほどの扇をよく見てみます。
使い慣らした扇には深く香が染みつき、なんとも懐かしい匂いがします。その上には、趣のある筆跡で歌が書きつけてありました。
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花
――はっきりとは分かりませんが、白露にいっそう光を添えられた夕顔の花を見て、ひょっとしてあなたではないかと思っています。そんな意味の歌です。
誰が書いたとも分からないよう、さりげなく紛らわせてあります。それでも筆跡には上品さと教養が感じられ、源氏は思いがけないことに、とても興味を引かれました。
「この西隣の家には、どんな人が住んでいるのだ。何か聞いているか」
源氏が惟光に尋ねます。惟光は「またいつもの困ったご興味だ」と思いながらも、もちろんそんなことは言えません。
「こちらへ来て五、六日になりますが、病人のことで手いっぱいでしたので、隣のことまでは聞いておりません」
少しそっけなく答えると、源氏は、
「私がこういうことをするのを、また嫌がっているな。しかし、この扇には、どうしても誰なのか確かめたくなる理由がある。やはりこのあたりの事情を知っていそうな者を呼んで聞いてみてくれ」
と言いました。
惟光が家の番をしている男を呼び、尋ねてみると、
「揚名介という人の家でございます。その男主人は地方へ行っておりまして、若い妻が風流好きで、その姉妹なども宮仕えをしていて、こちらへ出入りしているそうです。下人の申すことですので、詳しいことまでは分からないようですが」
ということでした。
「それなら、この歌をよこしたのは、その宮仕えの女なのだろう。ずいぶん事情に通じたような顔をして、慣れた歌を送ってくるものだ」
源氏は、身分としては少し興ざめするほど低い女なのかもしれないと思いました。それでも、自分を名指しするように歌を送ってきた心意気が悪くなく、そのまま無視することができません。こうした恋のことになると、やはり深く考えすぎない源氏なのでした。
そこで自分だとは分かりにくいよう筆跡を変え、畳紙に返歌を書きます。
寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔
――本当に私なのかどうかは、もっと近くまで寄って見てから確かめてください。黄昏時にぼんやり眺めただけの夕顔なのですから、という歌です。
源氏は、先ほどの随身を使いにして届けさせました。
女の側では、源氏の姿をまだ正面から見たわけではありません。それでも、少し見えた横顔から、どうやら身分の高いあの方ではないかと思い当たったのでしょう。思い切って歌を送ってみたものの、しばらく返事がなかったので、少しきまり悪く思っていました。
そこへわざわざ返歌まで届いたため、女房たちは気をよくして、
「どのようにお返事申し上げましょう」
などと相談していたようです。しかし随身は、いつまでも待たされるのは失礼だと思い、そのまま帰ってしまいました。
源氏は先払いの松明もごくわずかに灯させ、ひっそりとその場を出ました。隣の家ではもう半蔀が下ろされています。その隙間から漏れる灯火は蛍よりもさらにかすかで、なんとも心にしみる眺めでした。
その夜、源氏が本来訪ねるつもりだった女性の邸は、木立や庭の植え込みまで世間一般の邸とは違い、ゆったりと奥ゆかしく整えられていました。そこにいる女性の気品ある、気を許さない様子を前にすれば、さきほどの粗末な垣根など思い出しようもありません。
翌朝、源氏は少し寝過ごし、日が高くなってから帰りました。朝の光の中で見る姿は、なるほど誰もが褒めたたえるのも当然と思われる美しさでした。
その日も、源氏はあの半蔀の前を通ります。これまでも何度となく通った道だったのでしょう。それなのに、ほんのちょっとしたきっかけで急に心が引かれ、「どんな人が住んでいる家なのだろう」と、行き帰りのたびに目を向けるようになったのでした。
正体の分からない女への恋
数日たって、惟光が源氏のもとへ参上しました。
「病人がまだ弱っておりますので、あれこれ世話をしておりまして」
などと報告したあと、近くへ寄って声を落とします。
「あのあと、隣の家の事情を知っている者を呼んで尋ねさせましたが、はっきりしたことは申しませんでした。五月ごろから、たいそう人目を忍んで暮らしている女性がいるらしいのですが、家の者にさえ、その方が何者なのか知らせていないそうでございます。
時々、垣根越しにこっそりのぞいてみましたが、たしかに若い女たちの姿が透けて見えます。褶のようなものを形ばかり身につけて、誰か一人の女性を大切に世話しているようでございます。
昨日、夕日が部屋の奥までいっぱいに差し込んでいたとき、手紙を書いていた女性の顔を見ましたが、それはたいそう美しいものでした。物思いに沈んでいる様子で、周囲の女たちも人目を忍んで泣いているのが、はっきり見えました」
源氏は微笑み、ますます「誰なのか知りたい」と思いました。
本来なら、源氏ほど重い身分の人がこんなことをして歩くべきではありません。しかしまだ若く、しかも誰からも好かれ、褒めそやされる年ごろです。恋にまったく関心がないというのも、それはそれで情趣に欠けて寂しいでしょう。普通の男でさえ、ふさわしい女性のことを聞けば興味を持つものなのだから――と、惟光も考えていました。
「ひょっとしたら姿を見ることができるかと思いまして、ちょっとしたきっかけを作り、あちらへ手紙などを送ってみました。書き慣れた筆跡で、すぐに返事が来ました。なかなか悪くない若い女房たちがいるようでございます」
惟光が言うと、源氏は、
「もっと近づいてみてくれ。正体を突き止めないままでは、つまらないではないか」
と言います。
先日の「雨夜の品定め」では、こうした住まいの女は「下の下」とまで言われていました。それでも、そんな中に思いがけず魅力のある女性を見つけられたなら――と、源氏は珍しいものを探すような気持ちになっていたのでした。
その一方で、源氏は空蝉のことも忘れてはいませんでした。あれほど驚くほど冷たく拒み続ける空蝉は、世間の女とは違って思われます。もし素直な女であったなら、一度の過ちとして気の毒に思うだけで終わったでしょう。ところがあれほど逃げられると、負けたままで終わるのが悔しく、いつも心に引っかかっていました。
これまでは、それほど身分の高くない女たちにまで自分から心を向けることはなかったのです。けれど「雨夜の品定め」以来、さまざまな身分の女というものが気になり始め、恋に関してますます隈なく好奇心を向けるようになっていました。
もう一人、あからさまに源氏を待っている様子の女――軒端荻のことも、かわいらしく思わないわけではありません。しかし、自分だけ冷たくしておきながら、あちらにはすぐ会いに行ったと空蝉に知られるのも恥ずかしいので、まず空蝉の心を最後まで確かめようと思っているうちに、伊予介が都へ戻ってきました。
伊予介は帰京すると、真っ先に源氏のもとへ挨拶に来ます。船旅のせいで少し日に焼け、やつれた旅姿は、源氏には野暮ったく気に入りませんでした。しかし出自は決して卑しくなく、年は取っていても顔立ちは整い、どこか品のある雰囲気を持った男です。
伊予の国の話をするのを聞きながら、源氏は、先日軒端荻が碁の目を数えていたことを思い出し、「伊予の湯桁はいくつあるのか」とでも聞いてみたくなりました。しかしさすがに気まずく、口には出しません。
「こんな生真面目な大人の男の妻に、あのようなことをしている自分は、たしかに愚かで、後ろめたいことだ。雨夜の品定めで左馬頭が言っていた、これこそ相当な欠点というものなのだろう」
そう思うと、伊予介が気の毒になります。空蝉の冷たい心は腹立たしいけれど、夫の立場から見れば、彼女の態度こそあっぱれなのだとも思われました。
やがて伊予介が、「娘はふさわしい人に預け、北の方は連れて任国へ下るつもりです」と話すのを聞き、源氏の心は穏やかではありません。「もう一度会うこともできないのだろうか」と小君に頼んでみます。
しかし空蝉の側が心を合わせてくれたとしても、今の状況では簡単に人目を逃れて会えるものではありません。まして空蝉自身が、そんなことは自分に似つかわしくないと考え、「今さら会うなどみっともない」と、すっかり思い切っていました。
それでも完全に源氏を忘れてしまうのは、あまりに情けなくつらいことだと思っています。折に触れて届く源氏の手紙には、親しみのある返事をしました。何気ない筆遣いの中にも、不思議とかわいらしい言葉や、はっと目を引く表現が添えられています。
やはり情趣を感じさせる女なので、源氏にとって空蝉は、冷たく腹立たしいと思いながらも忘れがたい人でした。
一方の軒端荻については、家の主人が戻ってきても以前と変わらず親しくしてくれそうに見えたので、源氏もそれを頼みに何かと便りを送ってみます。しかし、こちらにはどうしても心が深く動かなかったのでした。
季節は秋になりました。源氏自身が招いた恋の悩みで心を乱すことも多く、大殿――妻の葵の上のもとへも、途切れ途切れにしか通いません。葵の上は、それをひたすら恨めしく思っています。
六条の女性にも、あれほど心を尽くして、なかなか打ち解けなかった心をようやくこちらへ向けてもらったのです。それなのに今になって急に冷淡になるのは、あまりに気の毒です。しかし以前、まだ手の届かない相手だったころのように夢中になって通い詰めることもなくなっています。
六条の女性は、物事をあまりに深く思い詰める性格でした。源氏との年齢差も似つかわしくなく、関係が人に漏れ聞かれることへの不安もあります。そのうえ源氏が夜を空けることが増え、ひとり目を覚ましては苦しむことも多く、さまざまな思いに沈んでいました。
深い霧の朝、源氏は周囲から何度も帰るよう促され、眠そうにため息をつきながら六条の邸を出ようとしました。女房の中将のおもとが、格子を一間だけ上げ、主人に源氏を見送っていただこうというのでしょう、几帳を引きのけます。六条の女性は髪を少し持ち上げ、外を眺めました。
色とりどりに乱れて咲く庭の草花の前で、立ち去りがたそうに足を止めている源氏の姿は、まさに比べるものもありません。
源氏が廊の方へ進むと、中将の君が見送りについてきました。秋らしい紫苑色を重ね、薄い絹の裳を鮮やかに結んだ腰つきは、しなやかで美しいものでした。
源氏は振り返り、隅の間の高欄のところに中将の君をしばらく座らせます。きちんとした身のこなしも、垂れた髪の先も目を見張るほど美しいと眺めながら、歌を詠みました。
咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
――咲いている花から花へ心を移す男だという評判は気になりますが、それでも今朝の朝顔は、折らずに通り過ぎるのがつらいのです。つまり、あなたをこのまま残して帰るのは惜しい、という戯れの歌です。
「さて、どうしたものかな」
そう言って中将の君の手を取ると、彼女はこうした応酬にはよく慣れていて、すぐに返しました。
朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて花に心を止めぬとぞ見る
――朝霧が晴れるのさえ待たずに帰ろうとなさるご様子を見れば、花などに心を留めてはいらっしゃらないと分かります。そんな意味に取りなして、あくまで主人へのお仕えとして返したのでした。
かわいらしい侍童が、よく似合った装いを特別に整え、指貫の裾を露に濡らしながら花の中へ入り、朝顔を折って持ってくる様子などは、絵に描きたいほどでした。
ただ遠くから源氏を見るだけの人でさえ、心を引かれない者はいません。風情など知らない山の民でも美しい花の陰では立ち止まりたくなるものです。それほどの光を放つ源氏ですから、その周囲にいる人々は、それぞれの身分なりに、自分が大切にしている娘をぜひ仕えさせたいと思いました。
少しでも見どころのある妹などを持つ人なら、身分の低い者であっても、なんとか源氏のそばに仕えさせたいと思わない者はいません。まして源氏から折に触れて優しい言葉をかけられ、その親しみ深い様子を目にした女で、少しでも男女の情を知る者なら、どうして軽く思うことができたでしょう。いつも気軽に会えるわけではないことを、かえって物足りなく思っていたようです。
さて、惟光に調べさせていた五条の女のことも、ずいぶん詳しく分かってきました。
「その女性が誰なのかは、やはりまったく分かりません。人に正体を知られまいと、ひどく隠れて暮らしているようでございます。
退屈すると南側の半蔀のある長屋へ来て、車の音がすると若い女房たちがのぞくようなのですが、主人と思われる女性も、時々そこへ移ってくることがございます。顔はほんのわずかしか見えませんが、とてもかわいらしく見えます。
ある日、先払いをさせながら通る車がありました。それを女たちがのぞいて、一人の童女が急いで、『右近の君、早くご覧なさい。中将殿がこちらからお通りになりました』と言ったのです。
すると少し年上らしい女も出てきて、『静かになさい』と手で制しながら、自分でも『どうしてそうだと分かったの。さあ、見てみましょう』と言って、こちらへ這うようにやって来ました。
部屋の間には打橋のようなものを渡して行き来しているのですが、その女は急いだものですから、衣の裾を引っかけてよろめき、橋から落ちそうになりました。そして『もう、この葛城の神ときたら、なんて険しい橋を作ったの』などと腹を立て、のぞき見る気も失せたようでした。
通った方は直衣姿で、随身たちもついていました。女たちが何某、誰それと名を挙げていたのは、頭中将の随身や小舎人童でございました」
それを聞いた源氏は、
「その車をはっきり見ておきたかったな」
と言いました。
そして、ふと「ひょっとすると、頭中将が雨夜の品定めで語っていた、今も忘れられないというあの女ではないだろうか」と思い当たります。ますます正体を知りたそうな源氏を見て、惟光は笑いながら話を続けました。
「私も個人的にうまく女房へ言い寄って、家の中のことは残らず調べております。私と親しく話をする若い女房が一人おりますので、その女には何も知らないふりをして、こっそり調べ回っているのでございます。
向こうでは自分たちがうまく隠しているつもりらしく、小さな子どもがうっかり何か口を滑らせそうになっても、すぐ別の話にごまかします。男などまったく出入りしていないように、無理に装っておりますよ」
「尼君を見舞うついでに、私にもあの女をこっそり見せてくれ」
源氏は頼みました。
たとえ一時の仮住まいであっても、あれほど粗末な家に住んでいるのを見ると、「雨夜の品定めで、皆が軽く見ていた『下の品』というのは、まさにこういう女なのだろう。その中に思いがけない魅力があったなら」と、いよいよ興味を引かれます。
惟光は、どんな小さなことでも源氏の望みに背くまいと思っています。それに自分自身も相当な恋好きでした。あれこれ策をめぐらし、熱心に動き回って、とうとう源氏を女のもとへ忍んで通わせるようにしてしまいました。この間の細かな事情は、あまりに長くなるので省いておきましょう。
源氏は女が誰なのか突き止められないままなので、自分も名を明かしません。ひどく目立たない姿に身を変え、普段の身分からは考えられないほど自分の足で出歩きました。
惟光は、それほどまでなさるのだから、よほど女を軽くは思っていないのだろうと考え、自分の馬まで源氏に差し出し、その供をして走り回ります。
「恋人のもとへ通う、この情けない私の足元を誰かに見つけられたら大変ですよ」
惟光は冗談を言いました。
それでも源氏は誰にも知られたくなかったので、あの夕顔の花の名を教えた随身一人と、自分の顔をまったく知らない童一人くらいしか連れて行きませんでした。女が正体を疑うかもしれないと思い、隣の乳母の家に立ち寄ることさえしません。
女の方も、何もかも不思議で、どういうことなのか分からずにいました。源氏から来た使いのあとへ人をつけ、明け方に帰っていく道を尾行させて住まいを突き止めようとしたこともあります。しかし源氏は、そのたびにどこへ行くのか分からないよう巧みにまいてしまいました。
それでも源氏は、どうしても女に会わずにはいられません。こんなことは都合も悪く軽率だと自分で思い直しながらも、何度も何度も通いました。
普通なら、まじめな男でさえ恋に心を乱すことはあります。しかし源氏はこれまで、そういうときにも表向きはうまく自分を抑え、人から非難されるような振る舞いはしませんでした。
ところがこの女については、朝から昼まで離れているだけでも落ち着かなくなるほどです。自分でも「こんなに夢中になるなんて、どうかしている。そこまで心を奪われるほどの女でもないではないか」と必死に気持ちを冷まそうとします。
女は驚くほど柔らかく、おっとりしていました。深く重々しい思慮は少し足りず、ひたすら若々しい感じなのに、まったく世間を知らない少女でもありません。最高に高貴な身分の女性とも思えません。
「いったい、この女のどこに、これほどまで自分の心は引きつけられるのだろう」
源氏は何度も不思議に思いました。
源氏はわざと身なりを変え、目立たない狩衣を着て、顔もほとんど見せません。夜がすっかり更け、人々が寝静まってから出入りするので、女から見れば、昔話に出てくる物の怪か何かのようでもあり、気味悪く不安に思われました。
けれど、その気配だけでも、ただ者でないことは手探りでも分かるほどです。
「いったいどれほどの方なのだろう。やはり、あの惟光という色好みが仕組んだことなのではないか」
女は惟光を疑いながら、あえて何も知らないふりを続けました。そして、自分の方もまったく源氏に心を寄せていないかのように、途切れることなく軽い調子で応対しています。そのため源氏の側も、「これはどういうことなのだろう」と、女の心がつかめません。二人とも、どこか食い違ったまま、不思議な恋の悩みを抱えることになりました。
八月十五夜、荒れた院へ
源氏は考えました。
「このまま何も疑わず油断させておいて、ある日突然この女が姿を消したら、どこを手がかりに探せばよいのだろう。この家も仮の隠れ場所らしい。いつ、どこへ移っていくか分からない」
普通の遊びの恋として割り切れるなら、この程度の関係のままで終わらせてもよいはずです。しかし源氏には、どうしてもそうする気になれませんでした。
人目を気にして通わずにいる夜などは、我慢できないほど苦しく感じます。
「もう、誰とも名を明かさないまま二条院へ連れて行ってしまおうか。もしそれが世間に知られて都合の悪いことになったとしても、それも運命なのだろう。自分でも、これほど人に執着したことはない。いったい前世からどんな縁があったのだろう」
そんなことまで思うようになりました。
「さあ、もっと気楽に過ごせるところへ行って、ゆっくりお話ししましょう」
源氏が誘うと、女はまだ若々しい調子で答えます。
「やっぱり不思議です。そんなふうにおっしゃいますけれど、あなたのお振る舞いは普通ではありませんもの。なんだか怖いのです」
源氏は思わず微笑みました。
「たしかにね。さて、私たちのどちらが狐なのでしょう。ただ私にだまされていてくださいよ」
優しく言われると、女はすっかり心を寄せ、本当に源氏について行ってもよいと思っている様子です。
たとえ普通ではない、欠点のある関係であっても、ひたすら相手に従おうとするところが、源氏にはとてもいじらしく思われました。
そしてやはり、頭中将が「常夏」と呼んで語っていた女ではないかという疑いが浮かびます。頭中将が語っていた女性の性格が、まず思い出されるのです。
けれど、「これほど正体を隠しているのには事情があるのだろう」と考え、無理に問いただしませんでした。女は気位を見せて突然背を向け、姿を隠してしまうような性格ではありません。
「もし自分がしばらく通わずにいたら、そのときは心変わりすることもあるかもしれない。自分の心ながら、少しくらい移ろいがあった方が、かえって情趣があるというものだろう」
源氏はそんなことまで考えていました。
八月十五夜。雲一つない月の光が、隙間だらけの板葺きの屋根から部屋の中へ残らず差し込みます。源氏には、こんな家で過ごすこと自体が珍しい経験でした。
そろそろ明け方なのでしょう。隣の家々で、身分の低い男たちが目を覚まし、話す声が聞こえてきます。
「ああ、ひどく寒いなあ」
「今年は商売もあまりあてにならないし、田舎から入ってくるものも期待できない。なんとも心細いよ。北の家の人、聞いているかい」
そんな声が聞こえます。それぞれが生活のため早くから起き出し、慌ただしく働き始める距離も、すぐそこです。
女は、源氏にこんな暮らしぶりを聞かれることを、ひどく恥ずかしく思っていました。気取った女なら、恥ずかしさのあまり消えてしまいたくなるような住まいでしょう。
しかしこの女は、のんびりしていて、つらいことも悲しいことも、恥ずかしいことも、深く思い詰めている様子がありません。本人の身のこなしは上品で子どものように素直なのに、隣で繰り広げられるあまりに無遠慮な生活の音を、それが何なのかさえよく分かっていないようでした。
そのため、かえって恥ずかしがって取り乱すよりも、源氏には愛すべきものとして見えました。
やがて、雷よりも大きいのではないかと思うほど、どすんどすんと踏み鳴らす唐臼の音が、まるで枕元で鳴っているように響きます。
「ああ、なんてうるさいんだ」
さすがの源氏も、この音には驚きました。何の音なのかさえよく分からず、ただ異様で耳障りな響きとしか聞こえません。
ほかにも生活の細々とした音がいくつも聞こえてきます。白い衣を打つ砧の音も、あちらこちらからかすかに響いていました。空を飛ぶ雁の声まで重なり、秋の夜をもの思わずにはいられないものにしています。
二人がいる場所は家の端近くです。遣戸を開け、一緒に外を眺めました。狭い庭には、風情のある呉竹が植えられています。庭の草木に降りた露だけは、こんな住まいでも高貴な邸と変わらず、美しくきらめいていました。
虫たちは騒がしいほど一斉に鳴いています。宮中では壁の中にいる蟋蟀の声でさえ遠くから聞くことに慣れている源氏には、目の前へ押しつけられるような虫の大合唱も、かえって別世界の趣に感じられました。
それも、ただこの女への思いが浅くないために、この家のあらゆる欠点まで許せてしまうのでしょう。
女は白い袷に、柔らかな薄色の衣を重ねています。華やかではありませんが、とてもかわいらしく、か弱げに見えました。
ここが特別に美しいと取り立てて言えるところがあるわけではありません。それでも細くしなやかな姿で、何かを話す声や気配まで、「ああ、かわいそうに」と感じさせるほど、ただひたすら愛らしく見えるのです。
「もう少しだけ気の利いたところが加わればよいのに」と源氏は思いながらも、もっと気を許した姿を見てみたくなりました。
「さあ、この近くにある別の場所へ行って、気楽に朝まで過ごしましょう。こういうところでばかり会っているのは、あまりにつらい」
女は、
「どうしてそんな。あまりに突然ではありませんか」
と、おっとり言ったまま座っています。
源氏が、この世だけではなく来世まで変わらないとまで約束すると、女の心は不思議なほど素直に打ち解けました。とても世慣れた女とは思えません。
源氏も、世間の人がどう思うかなど考えていられなくなり、右近を呼び出し、随身を呼ばせて、車を中へ入れさせました。女房たちも、源氏の思いが並々でないことだけは分かっていたので、相手が誰なのか分からないながら、この人に主人を任せるしかないと思っています。
もう明け方も近くなっていました。鶏の声は聞こえませんが、御嶽精進でもしているのでしょうか、年老いた男の声で一心に礼拝する声が聞こえます。立ったり座ったりする気配も苦しそうで、それでも懸命に祈っています。
源氏はしみじみと、「朝露と変わらないほどはかない人生なのに、この人は何を求めて、自分のためにここまで祈っているのだろう」と聞いていました。
「南無当来導師」
老人は、未来に現れる弥勒仏を拝んでいるようです。
「あれを聞いてごらんなさい。あの人も、この世のことだけを考えているわけではないのですね」
源氏は感心して、女に歌を詠みました。
優婆塞が行ふ道をしるべにて来む世も深き契り違ふな
――あの優婆塞が祈る道を道しるべにして、来世でも私たちは深く結ばれた約束を違えないようにしましょう、という歌です。
玄宗皇帝と楊貴妃が「天では翼を並べる鳥となり、地では枝を連ねる木になろう」と誓った長生殿の故事は、死を連想させて縁起が悪いのでしょう。源氏はそれよりさらに先、弥勒仏が現れる未来の世まで二人の縁を約束したのです。ずいぶん大げさな将来の誓いでした。
女は返します。
前の世の契り知らるる身の憂さに行く末かねて頼みがたさよ
――前世からの宿縁のつらさを思い知らされているこの身ですから、この先のことまで、あらかじめ信じる気にはなれません。そう答えました。
こうした歌のやり取りを見ると、女は少し頼りなく、行き届かないところもあるようでした。
十六夜の月が空に残っています。女は、突然どこかへ連れ出されることにためらっていました。源氏があれこれ説得しているうち、月は急に雲へ隠れ、夜が明けていく空がたいそう美しくなります。
人に見られてきまりの悪い時間にならないうちにと、源氏はいつものように急ぎ、女を軽々と車へ乗せました。右近も一緒に乗ります。
やって来たのは、そのあたりから近い、ある古い院でした。
管理人を呼び出しているあいだ、荒れた門を見上げると、忍ぶ草が生い茂り、木立のせいで言いようもなく暗くなっています。霧も深く、露に濡れた朝でした。源氏が簾まで上げたため、袖もすっかり濡れてしまいました。
「私もこんなことにはまだ慣れていなかったけれど、恋というものは、本当に心を苦しめるものなのですね」
そう言って、源氏は歌を詠みます。
いにしへもかくやは人の惑ひけむ我がまだ知らぬしののめの道
――昔の人も、恋のためにこんなふうに夜明けの道を迷い歩いたのでしょうか。私はまだ知らなかった道です。
「あなたは慣れていらっしゃるのですか」
そう尋ねると、女は恥ずかしそうに返しました。
山の端の心も知らで行く月はうはの空にて影や絶えなむ
――沈んでいく先の山の端がどんなものかも知らずに進んでいく月のように、私も行く先が分からず、途中で消えてしまいそうで心細いのです。
女がいかにも恐ろしく、不安そうにしているので、源氏は「あの家のように人がぎっしり集まったところで暮らしてきたから、こんな人気のない場所が怖いのだろう」と、おかしく思いました。
車を院の中へ入れ、西の対に座る場所を用意させるあいだ、車を高欄のそばへ寄せたまま待ちました。
右近は、なんとも風情のある場面だと思いながら、昔のことを人知れず思い出していました。管理人が懸命に準備しているうちに、さすがに源氏が誰なのかもすっかり分かってしまいます。
あたりがほのぼの見える明るさになったころ、二人は車から降りました。急な宿ではあっても、部屋はきれいに整えてあります。
「お供の方が誰もいらっしゃらないとは。不自由なことでございますね」
管理人は気を回しました。彼は源氏の家にも仕えている親しい下級家司だったので、
「必要な人をお呼びいたしましょうか」
と申し出ます。
「いや。わざわざ誰も来ない隠れ家を探してここへ来たのだ。絶対に、私の意に反して人へ漏らしてはならない」
源氏は固く口止めしました。
急いで粥などを出させましたが、取り次いで給仕する人さえ足りません。源氏にとっては初めてのような不自由な旅寝です。それでも二人は、末長く変わらない仲を約束することばかり話していました。
かなり日が高くなってから起き、源氏は自分で格子を上げました。
見ると、院はひどく荒れています。人影もなく遠くまで見渡され、古びた木立は不気味なほどです。近くの草木にも特別な見どころはなく、あたり一面が秋の野原のようになっています。池まで水草に埋まり、なんとも人を寄せつけない場所になっていました。
別棟の方には部屋があり、人が住んでいるようですが、二人のいる場所からは離れています。
「ずいぶん気味の悪い場所になっているな。それでも鬼だって、私くらいなら見逃してくれるでしょう」
源氏は冗談めかして言いました。
それまで源氏はまだ顔を隠していました。けれど女がそれをひどくつらいと思っているようなので、「ここまで親しい仲になって、なお顔まで隔てているのはおかしい」と思い直します。そして、とうとう顔を見せて歌いました。
夕露に紐とく花は玉鉾のたよりに見えし縁にこそありけれ
――夕露を受けて開く花のように、こうして心を開いて逢うことになったのも、あの道端で夕顔の花を見た縁があったからなのでしょう。
「あのときの露の光は、いかがでしたか」
女は横目で源氏を見ながら、かすかに答えました。
光ありと見し夕顔のうは露はたそかれ時のそら目なりけり
――光り輝いていると思ったあの夕顔の露も、黄昏時の見間違いだったようです。あなたをすばらしい方と思ったのも見間違いでした、と少し恨みを込めた返歌です。
源氏は、その返しをおもしろく思いました。実際、すっかり気を許して顔を見せた源氏の姿は、この世の人とは思えないほどで、しかも荒れた場所だけに、かえって不吉なほど美しく見えます。
「いつまでも何も教えてくださらないのがつらいから、私も正体を明かすまいと思っていたのですよ。もういい加減、名前を教えてください。あまりに気味が悪いではありませんか」
源氏が言っても、女は、
「私は海人の子のような者ですから」
などと言うだけで、やはりすべてを打ち明けようとはしません。そのかわし方が、かえって色っぽく感じられます。
「まあいい。こうなったのも自分から招いたことだからね」
源氏は恨み言を言いながら、それでも優しく語らい、一日を過ごしました。
やがて惟光が二人の居場所を探し当て、果物などを届けに来ました。惟光は右近に何と言われるかと思うと、さすがに近くへ寄って仕えることができません。
「ここまで夢中になって探し回っていらっしゃるのだから、なるほど、それほど魅力のある女性なのだろう」
そう推測する一方で、
「本当なら私だって、先にこの女へ目をつけてもおかしくなかったのに、殿へお譲りしてしまうとは。我ながらなんと心が広いことだ」
などと、少し不満にも思っていました。
夕方、言葉にできないほど静かな空を二人で眺めました。女が奥の方は暗く気味が悪いと思っているので、源氏は端の簾を上げ、そばに横になります。
二人で夕映えを眺めているうち、女も、自分がこんなところへ連れて来られていることを不思議に思いながら、それまでのあらゆる悩みを忘れ、少しずつ打ち解けてきました。その様子が源氏にはとてもかわいらしく見えます。
一日中ぴったりと源氏のそばを離れず、何かというと怖がっているところも若々しく、いじらしいものでした。
源氏は早めに格子を下ろさせ、大殿油を灯させました。
「もう何も隠していない仲になったというのに、それでも心の中にはまだ秘密を残しているのがつらいのです」
源氏は女を恨みました。
一方では、「宮中では、今ごろ自分をどれほど探していらっしゃるだろう。いったいどこへ行ったと思っているだろう」と考えます。
そして同時に、「自分は何をしているのだろう。六条の女性も、どれほど思い乱れていることだろう。恨まれて当然だ。つらい思いをさせて申し訳ない」と、まず気の毒に思いました。
それでも、目の前で何も疑わず自分と向かい合っている女を愛しく思えば思うほど、六条の女性のようにあまりに思慮深く、相手まで息苦しくなるほどのところを、少し捨ててしまってくれればよいのに――と、二人を比べずにはいられないのでした。
夕顔の突然の死
夜も少し更け、源氏がうとうと眠りに入ったころです。
枕元に、とても美しい女が座っている夢を見ました。
「私はあなたを、本当にすばらしい方だと思ってお慕いしているのに、私のことは訪ねてもくださらず、こんな何の取り柄もない女を連れてきて、かわいがっていらっしゃるなんて。あまりにひどく、恨めしいことです」
そう言いながら、その女が源氏の隣に寝ている夕顔を揺り起こそうとします。
何かに襲われるような感覚に、源氏ははっと目を覚ましました。見ると、灯火まで消えています。
ひどく嫌な感じがしたので、源氏は太刀を抜いてそばへ置き、右近を起こしました。右近も恐ろしそうに近寄ってきます。
「渡殿にいる宿直人を起こして、紙燭をつけて持ってくるよう言っておいで」
「どうして私が行けましょう。真っ暗でございます」
「まったく、子どものように怖がって」
源氏は笑い、手を叩いて人を呼びます。しかし返ってくるのは、山彦のように響く音ばかりで気味が悪く、誰も気づいて来ません。
その間に夕顔はひどく震え、取り乱し、どうしてよいか分からない様子になりました。汗をびっしょりとかき、正気を失いそうに見えます。
「もともと、ひどく怖がりでいらっしゃる方ですから。いったい、どれほど恐ろしく思っておられるのでしょう」
右近が言います。
源氏も、昼間から空ばかり見ていた、か弱い夕顔のことを気の毒に思いました。
「私が人を起こしてくる。手を叩いても山彦のように返ってくるばかりで、うるさい。右近はしばらくここにいて、近くについていてあげて」
源氏は右近を夕顔のそばへ寄せ、自分は西の妻戸へ出ました。戸を押し開けると、渡殿の灯火まで消えています。
少し風が吹いています。人手は少なく、いる者は皆寝ていました。この院の管理人の子で、源氏が親しく使っている若い男と、上童一人、いつもの随身くらいしかいません。
呼ぶと男が起きて返事をしたので、源氏は命じました。
「紙燭をつけて持って来なさい。随身にも、弓の弦を打ち鳴らし、絶えず声を出すように言いなさい。こんな人里離れた場所で、安心しきって眠るものではない。惟光朝臣は来ていたのではなかったか」
「参っておりましたが、特にご命令もございませんでしたので、明け方にお迎えに参りますと申し上げて帰りました」
この男は滝口の武士でした。そこで弓の弦をいかにもそれらしく打ち鳴らし、
「火の用心」
と声を上げながら、管理人の部屋の方へ行きました。
源氏は宮中のことを思い、「名対面はもう終わっただろう。滝口の宿直奏しは今ごろか」と時間を推し量ります。それなら、まだ夜はそれほど深く更けてはいないのでしょう。
部屋へ戻り、暗闇の中を手探りすると、夕顔は先ほどのまま横になっています。右近はそのそばで、うつ伏せに倒れていました。
「これはどうしたのだ。まったく、なんという怖がりようだ。荒れた場所だから、狐のようなものが人を脅かそうとして、恐ろしい気分にさせているのだろう。私がいるのだから、そんなものに脅かされることはないよ」
源氏は右近を起こします。
「本当に気味が悪くて、気分までひどく悪くなってしまいましたので、うつ伏せになっていたのでございます。それより姫君が、どれほど苦しく思っていらっしゃるか」
「そうだ。どうしてこんなことに」
源氏が夕顔を手探りすると、息をしていません。体を動かしても、ただ力なくぐったりしています。
「あまりに子どものように怖がる人だから、何かに魂を奪われたようになっているのだろうか」
源氏はどうしてよいか分からなくなりました。
ようやく紙燭が運ばれてきました。右近も動ける状態ではありません。源氏は近くの几帳を引き寄せ、
「もっとこちらまで持って来なさい」
と言います。
仕える男は、こんな異例の場面で源氏のすぐ近くまで出ることを遠慮し、長押の上に上がることさえできません。
「いいから持って来なさい。こんな時は場所に応じて振る舞えばよいのだ」
源氏は男を近くまで呼び、明かりの中で夕顔を見ました。
すると、その枕元に、夢に現れたのと同じ顔をした女の姿が、一瞬浮かび上がったように見え、すっと消えてしまいました。
「こんなことは昔物語の中でしか聞いたことがない」
源氏は、珍しくもあり、恐ろしくも思いました。しかし何よりも、「この人はどうなってしまったのか」という不安で、自分の身の危険など考える余裕もありません。
夕顔のそばに横たわり、
「もし、もし」
と何度も呼びかけます。
けれど体はただ冷たくなるばかりです。息は、もうとっくに絶えていました。
源氏は言葉もありません。頼りにして、どうしたらよいか相談できる人もいません。こういう時なら僧などが頼りになるのでしょう。しかし源氏は、どれほど普段は気丈に振る舞っていても、まだ若いのです。
夕顔がどうしようもない姿になってしまったのを見ると、悲しみを持て余し、強く抱きしめました。
「あなた、生き返ってください。こんなひどい目に私を遭わせないでください」
けれど夕顔は冷え切り、だんだん生きた人とは違う気配になっていきます。
右近も、それまでただ「気味が悪い」と思っていた恐怖などすべて吹き飛び、声を上げて泣き乱れました。
源氏は、南殿の鬼がある大臣を脅かしたという昔の話を思い出し、なんとか気丈に振る舞います。
「それでも、まさか本当に亡くなってしまわれたわけではあるまい。夜中に大声を出すのはよくない。静かにしなさい」
右近をたしなめながら、源氏自身もあまりの出来事に呆然としていました。
源氏は先ほどの男を呼び、命じました。
「ここに、何かに襲われたらしく、ひどく苦しんでいる人がいる。今すぐ惟光朝臣の泊まっているところへ行き、『急いで参上するように』と伝えなさい。もしあの阿闍梨がそこにいるなら、こちらへ来るよう、ひそかに伝えてくれ。
ただし尼君などの耳に入ると困るから、大げさに言ってはいけない。尼君は、私がこんなふうに忍び歩くことを許してくれない人だから」
源氏はなんとかそう命じました。しかし胸はいっぱいに塞がっています。夕顔をこのまま死なせてしまうことが何より恐ろしく、そのうえ荒れた院そのものの不気味さも、たとえようがありません。
もう夜中を過ぎたのでしょう。風もだんだん荒々しくなり、深い木立の中では松風が大きく響いています。不気味な鳥がしゃがれた声で鳴くのを聞いて、「梟というのは、あれなのだろうか」とさえ思われます。
考えれば考えるほど、どちらを向いても人の気配が遠く、気味が悪いのに、人の声はしません。
「どうして、こんな頼りない宿を選んでしまったのだ」
後悔しても、どうしようもありません。
右近は何も考えられず、源氏にぴったりとしがみつき、震えながら今にも死んでしまいそうです。
「これまで、またどうにかなったら」
源氏は不安でたまらず、右近を支えました。
今、この場で正気を保っているのは自分一人です。それだけに、どこにも頼る相手がいません。
火はかすかにまたたき、母屋の端に立てた屏風の上や、部屋のあちらこちらの暗がりが、不気味に感じられます。何かが足をひしひしと踏み鳴らしながら、背後から近づいてくるような気さえしました。
「惟光、早く来てくれ」
源氏はひたすら願いました。しかし使いの者は、惟光がどこにいるか分からず、あちこち探しているのでしょう。夜が明けるまでの時間が、千夜も待つように長く感じられました。
ようやく遠くで鶏の声が聞こえてきました。
「命までかけて、いったいどんな前世からの縁があって、私はこんな目に遭っているのだろう。こんな恋の道に、身分をわきまえず深入りした報いとして、過去にも未来にも例がないほどの事件を起こしてしまったのだろうか。
どれほど隠しても、この世の出来事は隠し通せない。帝のお耳に入ることをはじめ、世間の人々は何と言うだろう。分別のない子どもたちにまで笑い話として語られ、最後には、なんとも愚かな男だという名を残してしまうのだろうか」
源氏は、そんなことまで考え続けました。
鳥辺野への別れと源氏の病
ようやく惟光がやって来ました。
昼も夜も関係なく源氏の言うままに動く男なのに、よりによって今夜に限ってそばにおらず、呼び出しにさえ遅れたことを、源氏は腹立たしく思いました。
けれど惟光を中へ呼び入れ、いざ何が起きたのか話そうとすると、あまりにあっけない出来事で、すぐには言葉が出ません。
右近は惟光の気配を聞いた途端、初めからの出来事が一気に思い出され、泣き始めました。
それを見た源氏も、もうこらえられません。それまで一人だけ気丈に振る舞い、夕顔を抱きかかえていたのでしょう。惟光が来たことでようやく張り詰めていたものがほどけ、悲しむことさえできるようになりました。
しばらくのあいだ、止めることもできないほど激しく泣きました。
少し落ち着いてから、源氏は言います。
「ここで、とても不思議なことが起きたのだ。驚いたなどという言葉では足りない。こういう急な病には、経を読ませたりするものだろう。それもさせたいし、願も立てさせようと思って、阿闍梨にも来てもらえと言ったのだが」
「阿闍梨は昨日、山へ上ってしまいました。それにしても、なんと不思議なことでございましょう。前からいつもと違って、お具合が悪そうなことなどございましたか」
「そんなことは、何もなかった」
そう答えて泣く源氏の姿は、こんな時でさえ美しく、あまりに痛々しく見えます。惟光も見ていられず、自分まで声を上げて泣いてしまいました。
それでも惟光は源氏より少し年上で、世の中のさまざまな出来事も経験してきています。こういう非常時には、やはり少し頼りになりました。
「この院の管理人たちに知られるのは、非常にまずいことでございます。管理人本人は親しいとしても、その親族などが交じっていますから、誰かが話を漏らすでしょう。まず殿は、この院からお帰りください」
「しかし、ここより人の少ない場所など、どこにあるのだ」
「たしかに、そうでございます。もとの五条の家へお連れすれば、女房たちが悲しみに耐えきれず大騒ぎするでしょう。隣家も多く、怪しむ人もたくさんおりますから、自然と噂になります。
それなら山寺の方が、こういう出来事も時にはあり、ほかのことに紛れやすいでしょう」
惟光は考えた末、
「昔知っていた女房が、今は尼になって東山のあたりに住んでおります。私の父の乳母だった者で、年老いて暮らしているのです。周囲には人家もございますが、家そのものはたいそうひっそりしております。そこへお移ししましょう」
と提案しました。
夜が明けきらないうちに、車を寄せます。
源氏には夕顔の遺体を抱き上げることなどできそうにありません。そこで上蓆に包み込み、惟光が車へ乗せました。
夕顔の体はとても小さく、亡くなった人とは思えないほど、まだかわいらしく見えます。しっかり包むこともできないので髪が外へこぼれ出ています。
源氏は目もくらむほど悲しく、信じられません。最後にどうなるのかまで、自分でついて行って見届けたいと思いました。
しかし惟光は、
「早く馬で二条院へお戻りください。人が騒ぎ出さないうちに」
と言います。
右近を遺体のそばへ乗せ、惟光自身は徒歩で付き添うことになりました。源氏には自分の馬を差し出し、袴の括りを引き上げるなどして、思いもかけない奇妙な葬送へ身を投げ出すようについて行きます。
源氏は何も考えられず、正気を失ったような状態で二条院へ帰り着きました。
邸の人々は、
「いったいどこからお帰りになったのでしょう。ずいぶんお具合が悪そうに見えます」
などと言います。
源氏は答えもせず御帳台の中へ入り、胸を押さえました。悲しみがあまりに激しく、
「どうして自分も車に乗って一緒について行かなかったのだろう。もし生き返ったとき、あの人はどんな気持ちになるだろう。私に見捨てられて、置いて行かれたと思って恨むのではないだろうか」
と、取り乱した心の中で考えます。
そう思うと胸がこみ上げ、頭もひどく痛み、体まで熱くなってきました。苦しくてどうにもならず、
「こんなにあっけなく、自分まで死んでしまうのかもしれない」
とさえ思います。
日が高くなっても起きないので、邸の人々は不思議がりました。粥などを勧めても、苦しくて口にできません。
ひどく心細く思っているところへ、宮中から使いが来ました。前日から源氏の居場所が分からなかったため、帝も心配していらっしゃるのです。
左大臣家の公達たちも見舞いに来ましたが、源氏は頭中将だけを、
「立ったままでよいから、こちらへ入ってください」
と呼び、御簾の内側から事情を説明しました。
「私の乳母で、この五月ごろから重い病気になっていた者がいるのです。髪を剃って戒を受け、そのおかげか一度は持ち直したのですが、最近また病がぶり返して弱ってきました。
『もう一度見舞いに来てほしい』と伝えてきたものですから、幼いころから親しくしてきた者が死ぬ間際に、『冷たい方だ』と思ったらかわいそうだと思い、出かけました。
ところがその家の下人で病気だった者が、急に亡くなってしまったのです。死の穢れを恐れて、遺体を外へ出すのも日が暮れてからになったと聞きました。今は神事の行われている時期でもありますから、なんとも具合の悪いことに触れてしまったと思い、宮中へ参れずにいるのです。
今朝からは咳の病でしょうか、頭がひどく痛くて苦しいので、こんな失礼な姿のままお話ししています」
頭中将は、
「それでしたら、そのように帝へ申し上げましょう。昨夜も管弦のお遊びの席で、たいそうあなたをお探しになり、ご機嫌も悪うございました」
と言って帰りかけました。しかしまた戻ってきて、
「いったい、どんな穢れにお触れになったのですか。そのご説明は、どうも本当のこととは思えませんが」
と尋ねました。
源氏はぎくりとして、
「そんなに細かく申し上げる必要はありません。ただ思いがけず死の穢れに触れたとだけ奏上してください。本当に具合の悪いことになりました」
と答えました。
惟光が、夕顔の様子を知らせに来ました。
「もう、お命は尽きたものと思われます。長くそのまま安置しておくのも都合が悪いので、明日は日もよろしゅうございますから、その後のことは、私の知っているたいそう尊い老僧に頼んでございます」
惟光も泣きながら報告します。
「一緒についていた女は、どうしている」
「あの右近も、このままでは生きていられそうにないほどでございます。『私もあとを追う』と取り乱し、今朝などは谷へ身を投げそうに見えました。もとの家の人たちへ知らせようと申すのですが、『しばらく心を落ち着け、事情をよく考えてからにしなさい』と言って、なんとか説得してまいりました」
源氏はさらに悲しくなり、
「私もひどく具合が悪い。いったいどうなってしまうのだろうと思うほどだ」
と言いました。
「どうしてそのようにお思いになるのです。なるようになるのが世の中でございます。人に漏らすまいと思っておりますので、すべて私が自分で動いて処理いたします」
惟光は励ましました。
「そうだな。私もそう思おうとはしている。しかし、浮ついた心の戯れから、一人の人を死なせてしまったという非難まで背負うことになりそうなのが、何よりつらい。少将の命婦などにも絶対に聞かせてはいけない。まして尼君などは、いつもこういうことを私に注意している人だから、知られたら恥ずかしくて仕方がない」
源氏は固く口止めします。
「ほかの僧たちにも、実際とは違う事情を話してあります」
惟光が言うので、源氏は少し安心しました。
近くで話を漏れ聞いた女房たちは、
「いったい何があったのでしょう。穢れに触れたとおっしゃって宮中にも参らず、そのうえ惟光とひそひそ話しながら、あんなに嘆いていらっしゃるなんて」
と不思議がりました。
「とにかく大げさにせず、何事もなかったように済ませてくれ」
源氏が葬送の手順まで指示すると、惟光は、
「何も大げさにするようなことではございません」
と言って立ち上がります。
しかし惟光が帰ろうとすると、源氏はたまらなく悲しくなりました。
「無茶なことだと思うだろうが、もう一度だけ、あの亡骸を見ないままでいるのがどうしても苦しい。馬で行こうと思う」
惟光は、とんでもないことだと思いました。それでも、源氏がどうしてもそうしたいというなら止められません。
「そこまでお思いになるのでしたら、仕方がございません。早くお出かけになり、夜が更けないうちにお帰りください」
源氏は最近の忍び歩きのために用意していた狩衣へ着替え、出かけました。
心は真っ暗になったようで、悲しみは耐えられないほどです。先ほどあれほど恐ろしい思いをしたばかりなので、またこんな場所へ出かけてよいものかとも迷いました。
それでも悲しさをどうすることもできません。
「今の亡骸を見なければ、次はいったいいつ、あの生きていた姿を見ることができるというのだ」
そう思って自分を奮い立たせ、いつもの惟光と随身を連れて出ました。
道はひどく遠く感じられます。十七日の月が昇り、河原を進む先払いの火はかすかです。鳥辺野の方を見やれば不気味な景色でしたが、源氏にはもう恐ろしいとも感じられません。ただ心がかき乱されたまま、ようやく東山へたどり着きました。
周囲まで寂しく恐ろしい場所です。板葺きの家のそばには小さな堂があり、そこに尼が住んで修行しています。灯明の光がかすかに外へ透けていました。
夕顔を安置した部屋からは、一人の女――右近が泣く声だけが聞こえます。外では二、三人の僧たちが話をしながら、ことさら大声を立てず念仏を唱えていました。
寺々の初夜の勤行もすでに終わり、あたりはひっそりしています。清水寺の方だけは灯火が多く、人の気配も賑やかに見えました。
この尼君の息子である僧の声が尊く響き、経を読んでいます。それを聞くと、源氏の涙はもう残らず流れ落ちるようでした。
部屋へ入ると、灯火は遺体に直接当たらないよう背けられ、右近は屏風を隔てて横たわっています。どれほどつらいことだろうと、源氏は思いました。
夕顔の遺体を見ても、恐ろしいとは感じません。まだとてもかわいらしい姿のままで、少しも変わったところがありません。
源氏はその手を取りました。
「もう一度だけ、せめて声を聞かせてください。前世からいったいどんな縁があったのでしょう。ほんの短いあいだだったのに、心を尽くして愛しく思ったあなたが、私を置き去りにして、こんなに悲しませるなんて」
源氏は声を抑えることもなく、限りなく泣きました。
僧たちは、源氏が誰なのか知りません。それでも、そのあまりの悲しみようを不思議に思いながら、皆涙を流しました。
源氏は右近に、
「さあ、二条院へ一緒に帰ろう」
と言いました。
「私は幼いころから長年、ほんの一時もこの方と離れずにお仕えしてまいりました。それなのに突然お別れして、いったいどこへ帰ればよいのでございましょう。
もとの家の人たちにも、『姫君はどうなったのです』と聞かれたら、何と答えればよいのでしょう。悲しいことももちろんですが、人にあれこれ言われ、大騒ぎされることまで、たまらなくつらいのでございます」
右近は泣き乱れ、
「このまま煙と一緒になって、姫君のあとを追ってまいります」
と言いました。
「気持ちはもっともだ。しかし世の中とは、そういうものなのだ。別れというものに、悲しくない別れなどない。どんな人の命にも、いつか限りは来る。なんとか心を慰めて、これからは私を頼りにしておくれ」
源氏は右近をなだめました。
「そう言っている私自身が、生きてこの先を過ごせるような気がしないのだけれど」
そんなことまで言う源氏も、まったく頼もしくありません。
惟光が、
「もう夜が明けるころでございます。早くお帰りください」
と促します。
源氏は何度も振り返りながら、胸が詰まる思いで、その場を出ました。
道はひどく露に濡れ、さらに深い朝霧まで立ち込めています。どこを進んでいるのか分からないような心地でした。
先ほど見た、夕顔が生前そのままの姿で横たわっていたこと、自分と衣を交換したため、源氏の紅の衣を着ていたことなどが道中ずっと思い出されます。
「いったい、どんな前世からの約束だったのだろう」
そう思い続けました。
源氏は馬にまともに乗っていられる状態ではありません。惟光がまた横から支えながら進ませました。
ところが堤のあたりで、源氏はとうとう馬から滑り降りてしまいます。ひどく気分が悪くなり、
「こんな道の途中で、行き倒れてしまうのだろうか。もう二条院までたどり着けそうにない」
と言いました。
惟光も真っ青になりました。
「たとえ殿が行きたいとおっしゃったからといって、私がもっとしっかりしていれば、こんな道までお連れするべきではなかった」
そう思って慌てます。川の水で手を清め、清水の観音を心に念じても、どうしたらよいか分かりません。
源氏も必死に気力を奮い起こし、心の中で仏を念じます。惟光にあれこれ助けられながら、ようやく二条院へ帰りました。
こんな夜中の外出を知った邸の人々は、
「なんと困ったことでしょう。最近は以前にも増して忍び歩きが続いているうえ、昨日はあれほどお具合が悪そうだったのに。どうしてこんなに出歩いていらっしゃるのでしょう」
と心配し合いました。
実際、源氏は帰るなり寝込んでしまい、ひどく苦しみます。二、三日たつころには、すっかり弱ったように見えました。
帝もそのことをお聞きになり、限りなく心配されます。あちらこちらで祈祷が絶え間なく行われ、祭り、祓い、修法など、数え切れないほどでした。
世に並ぶ者のないほど尊い源氏がこれほど重く病んだので、「このまま長く生きてはいらっしゃらないのではないか」と、世間中が大騒ぎになりました。
そんな苦しい中でも、源氏は右近を近くへ呼び、そばに局を与えて仕えさせました。
惟光も内心では心配でたまりません。それでも気持ちを落ち着け、頼るところを失った右近を何かと世話し、二条院で暮らせるよう助けます。
源氏も少し具合のよい時には右近を呼び、使いなどをさせました。そのうち右近は自然と二条院の女房たちの中へ溶け込んでいきます。
喪に服して真っ黒な衣を着ているので、今は顔色も美しくありませんが、決して見苦しいところのない若い女房でした。
「不思議なほど短い縁だったあの人に引かれて、私までこの世にいられなくなるのかもしれない。
長年頼ってきた主人を失って、おまえも心細いだろう。もし私が生き延びられたなら、その慰めにも、何から何まで面倒を見てあげようと思っていたのに。私まで間もなくあとを追うことになりそうなのが残念だよ」
源氏が静かにそう言い、弱々しく涙を流すので、右近も、自分の主人を失った悲しみはいったん置いて、源氏の命が失われることまでひどく惜しく思いました。
二条院の人々は、地に足もつかないほど心配していました。宮中からの使いは、雨脚よりも激しいほど絶え間なくやって来ます。
帝がこれほど心配してくださっていると聞くと、源氏も恐れ多く思い、なんとか強く生きようという気持ちになりました。
左大臣も懸命に世話をし、毎日のように訪ね、さまざまな祈祷を行わせます。その甲斐があったのでしょうか、二十日あまりまでひどく患ったものの、やがて大きな後遺症もなく回復していくように見えました。
死の穢れを避ける期間も一通り満ちました。帝があまりに心配していらっしゃるので、源氏はまだ完全には回復していないまま、宮中の宿直所へ参上することもあります。
左大臣は自分の車で源氏を迎え、何か物忌でもなさってくださいと、うるさいほど慎ませました。
源氏自身は、まるで別の世界から生き返ってきたような気持ちで、しばらくぼんやりしていました。
明かされた夕顔の素性
九月二十日ごろになって、源氏はようやくすっかり回復しました。
ひどく顔が痩せてしまいましたが、そのためか、かえって以前より艶やかに美しく見えます。それでも物思いに沈みがちで、声を立てて泣いてばかりいました。
その様子を不思議に思う人もおり、
「物の怪のせいなのではないでしょうか」
などと言う者もいます。
静かな夕暮れ、源氏は右近を呼び、ゆっくりと話をしました。
「やはり、どう考えても不思議だ。どうしてあの人は、自分が誰なのか知られまいと、あれほど隠していたのだろう。本当に海人の子のような身分であったとしても、私があれほど思っていることを知りながら心を隔てていたのは、つらかった」
右近は答えました。
「どうして深く隠していらっしゃったということがございましょう。お二人がお会いになってから、まだどれほどもたっておりません。何者でもない自分の名を、いつ申し上げればよかったのでしょう。
それに最初から、あまりに不思議で思いもよらないお出会いでしたので、姫君は『現実のこととも思えません』とおっしゃっていました。
殿もお名前をお隠しでしたので、『これほどの方なのだから、きっと何か事情がおありなのだろう』とは思っていらっしゃいました。それでも、『どうせ私など、ほんの遊びの相手としてごまかしていらっしゃるのだろう』と、それをつらく思っておられたのでございます」
「お互い、無駄な意地の張り合いをしていたのだな。私は、あの人を心から隔てていたわけではない。ただ、こうして人に許されないような忍び歩きをしたことが、これまでほとんどなかったのだ。
帝からお叱りを受けることをはじめ、何かと身を慎まなければならない立場だからね。ほんの軽い冗談を女に言っただけでも、大げさに受け取られ、面倒なことになる身なのだ。
それなのに、あの夕方にほんの少し見ただけで、不思議なほど心から離れなくなった。そして無理にでも会いに行った。それも、こうなる運命の縁があったからなのだろうと思うと、本当に悲しい。
けれど、考え返せばやはりつらい。こんなにも短く終わる縁だったのなら、どうしてあれほど心に染みて、愛しく思わせたのだろう。
もっと詳しく話しておくれ。今となっては何を隠す必要がある。七日ごとに仏を描かせ供養をしても、いったい誰のためだと心の中で念じればよいのかさえ、私は知らないのだから」
源氏にそう言われ、右近はとうとう話しました。
「今となって、何をお隠し申し上げましょう。ただ姫君ご自身が、生前ずっと人に知られないようになさっていたことを、亡くなったあとで私が軽々しく口にするのもどうかと思っていただけでございます。
ご両親は、もう早くに亡くなられました。父君は三位中将と申す方でございました。姫君をたいそうかわいがっていらっしゃいましたが、ご自身の地位がこの先どうなるかを心配していらしたようで、そのうえ命まで長くは続かず、亡くなってしまわれました。
その後、ちょっとした縁から、今の頭中将様が、まだ少将でいらしたころに姫君をお見初めになりました。それから三年ほどは、愛情深く通っていらしたのでございます。
ところが昨年の秋ごろ、右大臣家の方からとても恐ろしいことを言ってよこされたため、もともとひどく怖がりでいらした姫君は、どうしてよいか分からないほど怯えてしまわれました。
そこで西の京に乳母が住んでおりますので、そちらへ身を隠されたのでございます。しかしそこも住み心地が悪く、山里へ移ろうと思っていらっしゃいました。
けれど今年はその方向が塞がっていたため、方違えをするために、あの五条の粗末な家へ移っていらしたのです。
そこで殿に見つかってしまったことを、姫君はひどく嘆いておられました。普通の方とは比べものにならないほど人目を気にする方で、自分が悩んでいる様子を誰かに見られることを、とても恥ずかしいことと思っていらっしゃいました。
ですから、どれほど心の中では思っていらしても、表向きには何でもないように振る舞い、殿の前でもずっと平静な様子を見せていらしたのでございます」
右近の話を聞き、源氏は「やはり、そうだったのか」と、これまでのことを思い合わせました。夕顔への悲しみは、さらに深くなります。
「頭中将が以前、『幼い子まで行方が分からなくなってしまった』と嘆いていたけれど、その子というのは、あの人の子なのか」
「はい。一昨年の春にお生まれになりました。女の子で、とてもかわいらしい姫君でございます」
右近が答えます。
「では、その子は今どこにいるのだ。人には事情を知らせず、私のところへ引き取らせておくれ。あっけなく亡くなってしまったあの人の、大切な形見として育てることができれば、本当にうれしい。
頭中将に知らせるべきなのだろうが、私が口を出せば、かえって何の役にも立たない余計なことをしたと恨まれるかもしれない。それなら私が育てても、誰にも悪いことはないだろう。その子についている乳母などにも、うまく別の事情を話して、こちらへ連れてくるようにしておくれ」
「それでしたら、本当にありがたいことでございます。あのまま西の京でお育ちになるのは、あまりにお気の毒でございます。きちんとお世話できる人もいないからと、あちらに預けられておりますので」
右近も喜びました。
静かな夕暮れです。空の様子はしみじみと美しく、庭の草木は枯れ始めています。虫の声もかすれ、紅葉が少しずつ色づいていく景色は、まるで絵のようでした。
そんな美しい二条院を見渡しながら、源氏は、あの五条の夕顔の家で過ごしたことを思い出します。「自分は、ずいぶん思いがけない世界にまで入り込んだものだ」と、今になって少し恥ずかしくも感じました。
竹の中で、家鳩という鳥が太い声で鳴きました。
それを聞くと、あの荒れた院でもこの鳥が鳴き、夕顔がひどく怖がっていた姿が、かわいらしい面影となってよみがえります。
「あの人は、いくつだったのだ。不思議なほど普通の人とは違って、あまりにか弱く見えたのも、長く生きる運命ではなかったからなのだろうか」
「十九歳におなりだったと思います。
私は、亡くなった乳母が私を残して亡くなってしまったものですから、三位中将様がかわいがってくださり、ずっと姫君のおそばで一緒に育ててくださいました。
そうした年月を思い出しますと、これからいったいどうやって生きていけばよいのか分かりません。どうして私だけが生き残ってしまったのだろうと、悔しく思います。
あんなにはかなげな姫君の心を頼りに、長年暮らしてきたのでございますから」
「あの頼りなさが、かわいかったのだ。賢くて、簡単には人になびかない女など、私はあまり好きではない。
自分自身が、それほどしっかりした性格ではないからなのだろう。女というものは柔らかくて、うっかりすれば人にだまされてしまいそうなのに、それでも慎みはあり、好きになった相手には素直に従うくらいが、いじらしく思える。
そういう人なら、自分の心のままに大切にして、少しずつよい方へ変えていくのも、親しみ深く思えるものだ」
源氏がそんなことを言うので、右近は、
「それなら姫君は、殿のお好みから外れた方ではなかったのでございますね。そう思いますと、なおさら残念でなりません」
と言って泣きました。
空が曇り、風が冷たくなってきました。源氏はいつまでも深く物思いに沈み、ひとり歌を口にします。
見し人の煙を雲と眺むれば夕べの空もむつましきかな
――愛した人を焼いた煙が、今はあの雲になったのだと思って眺めると、夕暮れの空まで懐かしく、親しいものに感じられることだ。
右近は胸がいっぱいになり、返歌することさえできません。
「こんなふうに、姫君が今も生きていらしたなら」
そう思うだけで、胸が塞がります。
あれほどうるさいと思った砧の音まで、今では源氏にとって恋しい思い出です。
「正に長き夜」
源氏は「まさに長い秋の夜だ」という古い詩の一節を口ずさみ、横になりました。
残された人々と夕顔の四十九日
伊予介の家の小君は、時々源氏のもとへ参上していました。しかし源氏から、以前のように空蝉への伝言を頼まれることもなくなったので、「もう姉のことは嫌いになってしまわれたのだ」と思っていました。
小君はそれを気の毒にも思っていましたが、源氏が重い病にかかったと聞くと、空蝉もやはり心を痛め、ため息をつきました。
自分は遠い伊予へ下ることになります。それを思えば、さすがに心細く、源氏はもう自分を忘れてしまったのだろうかと、試すように便りを送りました。
「ご病気と承りました。言葉にしてお見舞い申し上げることさえできずにおりますが――」
問はぬをもなどかと問はでほどふるにいかばかりかは思ひ乱るる
――お見舞いにも来ないのはなぜか、とあなたから問われることもないまま日が過ぎていきます。そんな中で、私がどれほど思い乱れていることか。
そんな意味を込め、「思いは本当に増すばかりです」と書き添えてありました。
久しぶりの空蝉からの便りです。源氏も、その人への思いまで忘れてはいませんでした。
「生きている甲斐もないことだ。いったい誰のために命をつなげばよいのだろう」
そうして返します。
空蝉の世は憂きものと知りにしをまた言の葉にかかる命よ
――あなたとのことですでに、この世はつらいものだと知ってしまいました。それなのに、またあなたの言葉を頼りに生きようとしている私の命は、なんとはかないことでしょう。
病み上がりで、源氏の筆を持つ手まで震えています。そのため乱れた字になっているのに、かえってたいそう美しく見えました。
空蝉は、源氏が今も自分の脱ぎ残した衣を忘れていないのだと思うと、気の毒にも、おかしくも感じます。
このように嫌い合っているわけではないので手紙は交わします。しかし空蝉は、再び源氏と親しい関係になることまでは考えませんでした。それでも、まったく情けのない女としてだけは思われずに終わりたいと考えていたのでした。
一方、あの軒端荻のところには、今は蔵人少将が通っていると、源氏は聞きました。
「妙なものだ。あの女は、今ごろどう思っているのだろう」
蔵人少将の心を思っても少し気の毒であり、また軒端荻自身が今どうしているのかも気になります。そこで小君を使いにし、
「死に返るほどあなたを思っている私の心を、分かってくださっていますか」
と言って、歌を送りました。
ほのかにも軒端の荻を結ばずは露のかことを何にかけまし
――あの夜、ほんのわずかでも軒端の荻のようなあなたと縁を結んでいなかったなら、今こうして露のような涙をこぼし、誰を恨めばよかったのでしょう。
源氏は背の高い荻に歌を結びつけ、
「人目につかないように」
と小君に言いました。
しかし心のどこかでは、「もし間違って蔵人少将が見つけ、自分からの歌だと気づいたとしても、私ならきっと許してくれるだろう」とまで思っています。こんなところにも、身分と人気を頼みにした源氏の自信が表れていました。
小君は蔵人少将のいないときに軒端荻へ見せました。
軒端荻は「今さら」と腹立たしく思いながらも、源氏がこうして思い出してくれたことは、やはりうれしく感じます。そこで、すぐに返事をしたということだけを言い訳にして返歌を渡しました。
ほのめかす風につけても下荻の半ばは霜にむすぼほれつつ
――あなたからほんの少し吹いてくる風のような便りを聞いても、下葉の荻である私は、半ば霜に閉ざされたように心が晴れません。
筆跡はあまり上手ではなく、それをごまかすように気取って書いているところにも、どこか品が足りません。
源氏は、あの夜、灯火の中で見た顔を思い出しました。
「気を許さず向かいに座っていた空蝉の方は、どうしても嫌いになりきれないようなところがあった。こちらの女は、何の思慮もなさそうに、騒いで得意そうにしていたな」
そう思い出してみると、それでも軒端荻も憎くはありません。
結局また懲りもせず、浮名を流しそうな源氏の恋心なのでした。
やがて夕顔の四十九日が来ました。
源氏は人目を忍び、比叡山の法華堂で、手を抜くことなく法要を行わせました。僧たちの装束をはじめ必要な品々も細かく整え、読経などもさせます。
経も仏像の飾りも、決して粗末なものではありません。
惟光の兄の阿闍梨は、たいそう徳の高い僧で、見事に法要を勤めました。
さらに源氏は、漢文を教わっている親しい文章博士を呼び、願文を書かせました。
そこには、あえて誰とは名を記さず、「愛しく思った人がはかなく亡くなったので、その魂を阿弥陀仏にお任せ申し上げる」という趣旨を、源氏自身がしみじみとした言葉で書き出しました。
文章博士も、
「このままで、何も付け加えることはございません」
と申し上げます。
源氏は人前では隠そうとしますが、どうしても涙がこぼれます。その悲しみようを見た人々は、
「いったい、どんな人だったのだろう。名前さえ明かされないのに、これほどまで源氏の君に悲しんでいただけるとは、なんと高い宿縁を持った人だったことか」
と噂しました。
源氏は、ひそかに用意させた法要用の装束の中から袴を取り寄せ、歌を詠みました。
泣く泣くも今日は我が結ふ下紐をいづれの世にかとけて見るべき
――泣きながら今日、供養のために私が結ぶこの袴の下紐を、いったいいつ、どの世で再びあなたと会い、解いて見ることができるのでしょう。
四十九日までは亡くなった人の魂が行き先を定めず漂うということを思い、
「今ごろ、どの道へ行くことになったのだろう」
と夕顔の行く末を思いやりながら、心を込めて念仏を唱えました。
頭中将を見るたび、源氏の胸は理由もなく騒ぎます。夕顔との間に生まれた撫子の姫が今どう育っているのか、教えてあげたいとも思いました。
しかし、自分が余計な非難を受けるのが怖く、どうしても言い出せません。
五条の夕顔の家では、主人がいったいどこへ消えてしまったのかと皆で思い悩んでいました。しかしその後も行方を突き止めることはできません。
右近まで戻らないので、いよいよ不審に思い、嘆き合っています。
相手が誰か確かではありませんが、気配から見て相当な身分の人ではないかと女房たちも噂していました。そのため惟光を問い詰めましたが、惟光はまったく関係がないように振る舞い、その後も以前と同じように女房たちへ言い寄って歩いていたため、皆ますます夢でも見ていたような気持ちになります。
「ひょっとすると受領の息子か何かの色好みが、頭中将様を恐れて、そのまま姫君を連れて地方へ下ってしまったのではないだろうか」
そんなふうに考えるようになりました。
あの五条の家の主人は、西の京にいる夕顔の乳母の娘でした。その家には三人の娘がおり、右近だけは家族ではありません。
そのため、
「右近は自分たちを他人扱いして、姫君がどうなったのか教えてくれないのだ」
と思い、泣いて夕顔を恋しがりました。
右近の方も、大騒ぎされることを恐れています。源氏も「今さら外へ漏らしてはいけない」と秘密にしているので、夕顔の娘である若君のことさえ何も聞くことができません。
幼い姫君がどこにいるのかも分からないまま、時だけが過ぎていきました。
源氏はずっと、
「せめて夢にでも、あの人を見たい」
と思っていました。
四十九日の法要をした次の夜、源氏は夢を見ました。
あの荒れた院がそのまま現れ、あの夜と同じように、夕顔と一緒にいた女の姿まで見えました。
源氏は、
「あの荒れた場所に住んでいた何者かが、私に取りつく機会を得て、そのために夕顔まであんなことになってしまったのだろうか」
と思い出し、ひどく不吉な気持ちになりました。
神無月の一日ごろ、伊予介が任国へ下ることになりました。
空蝉も一緒に下るため、源氏は旅の餞別を特別に用意させました。それとは別に、内々にも心を込めた贈り物をし、風情ある櫛や扇をたくさん選び、旅の幣などと一緒に、かつて空蝉が残していったあの小袿も返しました。
逢ふまでの形見ばかりと見しほどにひたすら袖の朽ちにけるかな
――再びあなたに逢うまでの形見として、あの衣を眺めていようと思っていたのに、とうとう逢えないまま、涙で袖が朽ちてしまいそうになりました。
ほかにも細かな言葉をたくさん書いていましたが、長くなるので省きます。
使いはそのまま帰ってきましたが、小君を通して、小袿についてだけは空蝉から返歌が届きました。
蝉の羽もたちかへてける夏衣かへすを見てもねは泣かれけり
――蝉の羽のようなこの夏衣も、季節が変わって戻ってきてしまいました。返された衣を見るにつけても、声を上げて泣かずにはいられません。
「どれほど思っても、本当に人並みではないほど意志の強い人で、とうとう私から離れていってしまったのだな」
源氏はそう思い続けました。
その日は、ちょうど冬の始まりの日でもありました。それを示すように時雨が降り、空の様子もしみじみと寂しく見えます。
源氏は一日中、物思いに沈みながら歌を詠みました。
過ぎにしも今日別るるも二道に行く方知らぬ秋の暮かな
――すでにこの世を去ってしまった夕顔も、今日遠くへ別れていく空蝉も、それぞれ別の道を行く。その二人がどこへ行くのかも分からないまま迎える、秋の終わりであることよ。
こうして源氏も、人に知られない秘密の恋というものは、やはり苦しいものなのだと身にしみて知ったのでしょう。
ここまでの細かな出来事は、源氏自身があまりにひた隠しにしていたことでもあり、気の毒なので、本当ならすべて語らずにおこうと思っていました。
ところが、
「いくら帝の皇子だからといって、源氏を見る人が皆、欠点一つないように褒めてばかりいるのはおかしい。作り話のようではないか」
と取り沙汰する人までいるものですから、こうして隠していたことまで語ることになったのです。人の噂好きというものは、本当にどうしようもありません。

