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『源氏物語』第12帖「須磨」原文全文

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出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第12帖「須磨」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第12帖「須磨」現代語訳全文をご覧ください。

目次

世の中いとわづらはしく

 世よの中なかいとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、せめて知しらず顔かほにあり経へても、これよりまさることもや、とおぼしなりぬ。かの須磨すまは、昔むかしこそ人ひとの住処すみかなどもありけれ、今いまは、いと里離さとばなれ心こころすごくて、海人あまの家いへだにまれに、など聞ききたまへど、人ひとしげく、ひたたけたらむ住すまひは、いと本意ほいなかるべし、さりとて都みやこを遠とほざからむも、故里ふるさとおぼつかなかるべきを、人ひとわるくぞおぼし乱みだるる。

 よろづのこと、来きし方かた行ゆく末すゑ、思おもひ続つづけたまふに、悲かなしきこといとさまざまなり。憂うきものと思おもひ捨すてつる世よも、今いまはと住すみ離はなれなむことをおぼすには、いと捨すてがたきこと多おほかるなかにも、姫君ひめぎみの、明あけ暮くれにそへては思おもひ嘆なげきたまへるさまの、心こころ苦くるしうあはれなるを、行ゆきめぐりても、また逢あひ見みむことをかならず、とおぼさむにてだに、なほ一ひとひ、二日ふつかのほど、よそよそに明あかし暮くらす折々をりをりだに、おぼつかなきものにおぼえ、女君をんなぎみも心こころ細ほそうのみ思おもひたまへるを、幾年いくとせそのほどと限かぎりある道みちにもあらず、逢あふを限かぎりに隔へだたりゆかむも、定さだめなき世よにやがて別わかるべき門出かどでにもや、といみじうおぼえたまへば、忍しのびてもろともにもやとおぼし寄よる折をりあれど、さる心こころ細ほそからむ海うみづらの、波なみ風かぜよりほかに立たちまじる人ひともなからむに、かくらうたき御おほんさまにて引ひき具ぐしたまへらむもいとつきなく、わが心こころにも、なかなか、もの思おもひのつまなるべきを、などおぼし返かへすを、女君をんなぎみは、

「いみじからむ道みちにも、おくれきこえずだにあらば」

 とおもむけて、恨うらめしげに思おもいたり。

 かの花散里はなちるさとにも、おはし通かよふことこそまれなれ、心こころ細ほそくあはれなる御おほんありさまを、この御蔭おほんかげに隠かくれてものしたまへば、おぼし嘆なげきたるさまもいとことわりなり。なほざりにても、ほのかに見みたてまつり通かよひたまひし所々ところどころ、人ひと知しれぬ心こころをくだきたまふ人ひとぞ多おほかりける。

 入道にふだうの宮みやよりも、ものの聞きこえやまたいかがとりなさむと、わが御おほんためつつましけれど、忍しのびつつ御おほんとぶらひ常つねにあり。昔むかし、かやうに相あひ思おぼし、あはれをも見みせたまはましかば、とうち思おもひ出いでたまふにも、さもさまざまに、心こころをのみ尽つくすべかりける人ひとの御契おほんちぎりかな、とつらく思おもひきこえたまふ。

三月二十日あまりのほどになむ

 三月やよひ二十日はつかあまりのほどになむ、都みやこを離はなれたまひける。人ひとにいつとしも知しらせたまはず、ただいと近ちかう仕つかうまつり馴なれたる限かぎり、七しち、八人はちにんばかり御供おほんともにて、いとかすかに出いで立たちたまふ。さるべき所々ところどころに、御文おほんふみばかり、うち忍しのびたまひしにも、あはれと忍しのばるばかり尽つくいたまへるは、見みどころもありぬべかりしかど、その折をりの心地ここちの紛まぎれに、はかばかしうも聞きき置おかずなりにけり。

 二ふつか、三日みかかねて、夜よに隠かくれて大殿おほいどのに渡わたりたまへり。網代車あじろぐるまのうちやつれたるにて、女車をんなぐるまのやうにて隠かくろへ入いりたまふも、いとあはれに、夢ゆめとのみ見みゆ。御方おほんかた、いと寂さびしげにうち荒あれたる心地ここちして、若君わかぎみの御乳母おほんめのとども、昔むかしさぶらひし人ひとのなかにまかで散ちらぬ限かぎり、かく渡わたりたまへるをめづらしがりきこえて、参まう上のぼり集あつひて見みたてまつるにつけても、ことにもの深ふかからぬ若わかき人々ひとびとさへ、世よの常つねなさ思おもひ知しられて、涙なみだにくれたり。若君わかぎみはいとうつくしうて、され走はしりおはしたり。

「久ひさしきほどに、忘わすれぬこそ、あはれなれ」

 とて、膝ひざに据すゑたまへる御みけしき、忍しのびがたげなり。

 大臣おとど、こなたに渡わたりたまひて、対面たいめんしたまへり。

「つれづれに籠こもらせたまへらむほど、何なにとはべらぬ昔物語むかしものがたりも、参まゐり来きて聞きこえさせむと思おもふたまふれど、身みの病やまひ重おもきにより、朝廷おほやけにも仕つかうまつらず、位くらゐをも返かへしたてまつりてはべるに、私わたくしざまには腰こしのべてなむと、ものの聞きこえひがひがしかるべきを、今いまは世よの中なか憚はばかるべき身みにもはべらねど、いちはやき世よのいと恐おそろしうはべるなり。かかる御おほんことを見みたまふるにつけて、命いのち長ながきは心憂こころうく思おもふたまへらるる世よの末すゑにもはべるかな。天あめの下したをさかさまになしても、思おもふたまへ寄よらざりし御おほんありさまを見みたまふれば、よろづいとあぢきなくなむ」

 と聞きこえたまひて、いたうしほたれたまふ。

「とあることもかかることも、前さきの世よの報むくいにこそはべるなれば、言いひもてゆけばただみづからのおこたりになむはべる。さしてかく官爵くゎんしゃくを取とられず、あさはかなることにかかづらひてだに、朝廷おほやけのかしこまりなる人ひとの、うつしざまにて世よの中なかにあり経ふるは、咎とが重おもきわざに人ひとの国くににもしはべるなるを、遠とほく放はなちつかはすべき定さだめなどもはべるなるは、さま異ことなる罪つみに当あたるべきにこそはべるなれ。濁にごりなき心こころにまかせて、つれなく過すぐしはべらむも、いと憚はばかり多おほく、これより大おほきなる恥はにのぞまぬさきに、世よを逃のがれなむと思おもふたまへ立たちぬる」

 など、こまやかに聞きこえたまふ。

 昔むかしの御物語おほんものがたり、院ゐんの御おほんこと、おぼしのたまはせし御心みこころばへなど聞きこえ出いでたまひて、御直衣おほんなほしの袖そでもえ引ひき放はなちたまはぬに、君きみも、え心強こころづよくもてなしたまはず。若君わかぎみの何心なにごころなく紛まぎれありきて、これかれに馴なれきこえたまふを、いみじと思おもいたり。

「過すぎはべりにし人ひとを、世よに思おもふたまへ忘わするる世よなくのみ、今いまに悲かなしびはべるを、この御おほんことになむ、もしはべる世よならましかば、いかやうに思おもひ嘆なげきはべらまし。よくぞ短みじかくて、かかる夢ゆめを見みずなりにけると、思おもふたまへ慰なぐさめはべる。幼をさなくものしたまふが、かく齢よはひ過すぎぬるなかにとまりたまひて、なづさひきこえぬ月日つきひや隔へだたりたまはむと思おもひたまふるをなむ、よろづのことよりも悲かなしうはべる。いにしへの人ひとも、まことに犯をかしあるにてしも、かかることにあたらざりけり。なほさるべきにて、人ひとの朝廷おほやけにもかかるたぐひ多おほうはべりけり。されど、言いひ出いづる節ふしありてこそ、さることもはべりけれ、とざまかうざまに思おもひたまへ寄よらむかたなくなむ」

 など、多おほくの御物語おほんものがたり聞きこえたまふ。三位中将さんゐのちうじゃうも参まゐりあひたまひて、大御酒おほみきなど参まゐりたまふに、夜更よふけぬれば、泊とままりたまひて、人々ひとびと御前おまへにさぶらはせたまひて、物語ものがたりなどせさせたまふ。人ひとよりはこよなう忍しのびおぼす中納言ちうなごんの君きみ、言いへばえに悲かなしう思おもへるさまを、人ひと知しれずあはれとおぼす。人ひと皆みな静しづまりぬるに、とりわきて語かたらひたまふ。これにより泊とままりたまへるなるべし。

 明あけぬれば、夜深よぶかう出いでたまふに、有明ありあけの月つきいとをかし。花はなの木きどもやうやう盛さかり過すぎて、わづかなる木き蔭かげの、いと白しろき庭にはに薄うすく霧きりりわたりたる、そこはかとなく霞かすみみあひて、秋あきの夜よのあはれにおほくたちまされり。隅すみの高欄かうらんにおしかかりて、とばかり、眺ながめたまふ。

 中納言ちうなごんの君きみ、見みたてまつり送おくらむとにや、妻戸つまどおし開あけてゐたり。

「また対面たいめんあらむことこそ、思おもへばいと難かたけれ。かかりける世よを知しらで、心こころやすくもありぬべかりし月つきごろ、さしも急いそがで隔へだてしよ」

 などのたまへば、ものも聞きこえず泣なく。

 若君わかぎみの御乳母おほんめのとの宰相さいしゃうの君きみして、宮みやの御前おまへより御消息おほんせうそこ聞きこえたまへり。

「みづからも聞きこえまほしきを、かきくらす乱みだり心地ここちためらひはべるほどに、いと夜深よぶかう出いでさせたまふなるも、さま変かはりたる心地ここちのみしはべるかな。心こころ苦くるしき人ひとのいぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで」

 と聞きこえたまへれば、うち泣なきたまひて、

「鳥辺山とりべやま燃もえし煙けぶりもまがふやと海人あまの塩しほ焼やく浦うら見みにぞ行ゆく」

 御返おほんかへりともなくうち誦ずじたまひて、

「暁あかつきの別わかれは、かうのみや心尽こころづくしなる。思おもひ知しりたまへる人ひともあらむかし」

 とのたまへば、

「いつとなく、別わかれといふ文字もじこそうたてはべるなるなかにも、今朝けさはなほたぐひあるまじう思おもふたまへらるるほどかな」

 と、鼻はな声こゑにて、げに浅あさからず思おもへり。

「聞きこえさせまほしきことも、返かへす返かへす思おもふたまへながら、ただに結むすぼほれはべるほど、おしはからせたまへ。いぎたなき人ひとは、見みたまへむにつけても、なかなか憂うき世よ逃のがれがたう思おもふたまへられぬべければ、心強こころづよう思おもふたまへなして、急いそぎまかではべり」

 と聞きこえたまふ。

 出いでたまふほどを、人々ひとびとのぞきて見みたてまつる。入いり方かたの月つきいと明あきに、いとどなまめかしうきよらにて、ものを思おもいたるさま、虎とら、狼おほかみだに泣なきぬべし。まして、いはけなくおはせしほどより見みたてまつりそめてし人々ひとびとなれば、たとしへなき御おほんありさまをいみじと思おもふ。まことや、御返おほんかへり、

「亡なき人ひとの別わかれやいとど隔へだたらむ煙けぶりとなりし雲居くもゐならでは」

 取とり添そへて、あはれのみ尽つきせず、出いでたまひぬる名残なごり、ゆゆしきまで泣なきあへり。

殿におはしたれば

 殿とのにおはしたれば、わが御方おほんかたの人々ひとびとも、まどろまざりけるけしきにて、所々ところどころに群むれゐて、あさましとのみ世よを思おもへるけしきなり。侍さぶらひには、親おやしう仕つかまつる限かぎりは、御供おほんともに参まゐるべき心こころまうけして、私わたくしの別わかれ惜をしむほどにや、人ひともなし。さらぬ人ひとは、とぶらひ参まゐるも重おもき咎とがめあり、わづらはしきことまされば、所狭ところせく集あつひし馬むま、車くるまの方かたもなく、寂さびしきに、世よは憂うきものなりけりとおぼし知しらる。台盤だいばんなども、かたへは塵ちりばみて、畳たた、所々ところどころ引ひき返かへしたり。見みるほどだにかかり、ましていかに荒あれゆかむとおぼす。

 西にしの対たいに渡わたりたまへれば、御格子みかうしも参まゐらで、眺ながめ明あかしたまひければ、簀子すのこなどに、若わかき童女わらはべ、所々ところどころに臥ふして、今いまぞ起おき騒さわぐ。宿直とのゐ姿すがたどもをかしうてゐるを見みたまふにも、心こころ細ほそう、年月としつき経へば、かかる人々ひとびとも、えしもあり果はてでや、行ゆき散ちらむなど、さしもあるまじきことさへ、御目おほんめのみとまりけり。

「昨夜よべはしかしかして夜更よふけにしかばなむ。例れいの思おもはずなるさまにやおぼしなしつる。かくてはべるほどだに御目おほんめ離はなれずと思おもふを、かく世よを離はなるる際きはには、心こころ苦くるしきことのおのづから多おほかりける、ひたやごもりにてやは。常つねなき世よに、人ひとにも情なさけなきものと心こころおかれ果はてむと、いとほしうてなむ」

 と聞きこえたまへば、

「かかる世よを見みるよりほかに、思おもはずなることは、何なにごとにか」

 とばかりのたまひて、いみじとおぼし入いれたるさま、人ひとよりことなるを、ことわりぞかし、父ちち親王みこ、いとおろかにもとよりおぼしつきにけるに、まして、世よの聞きこえをわづらはしがりて、訪おとづれきこえたまはず、御おほんとぶらひにだに渡わたりたまはぬを、人ひとの見みるらむことも恥はづかしく、なかなか知しられたてまつらでやみなましを、継母ままははの北きたの方かたなどの、

「にはかなりし幸さいはひのあわたたしさ。あな、ゆゆしや。思おもふ人ひと、方々かたがたにつけて別わかれたまふ人ひとかな」

 とのたまひけるを、さる便たよりありて漏もり聞ききたまふにも、いみじう心憂こころうければ、これよりも絶たえて訪おとづれきこえたまはず。また頼たのもしき人ひともなく、げにぞ、あはれなる御おほんありさまなる。

「なほ世よに許ゆるされがたうて、年月としつきを経へば、巌いはほの中なかにも迎むかへたてまつらむ。ただ今いまは、人聞ひとぎきのいとつきなかるべきなり。朝廷おほやけにかしこまりきこゆる人ひとは、明あらかなる月日つきひの影かげをだに見みず、安やすらかに身みを振ふる舞まふことも、いと罪つみ重おもかなり。過すちなけれど、さるべきにこそかかることもあらめと思おもふに、まして思おもふ人ひと具ぐするは、例れいなきことなるを、ひたおもむきにものぐるほしき世よにて、立たちまさることもありなむ」

 など聞きこえ知しらせたまふ。日ひたくるまで大殿おほいどの籠こもれり。

 帥宮そちのみや、三位中将さんゐのちうじゃうなどおはしたり。対面たいめんしたまはむとて、御直衣おほんなほしなどたてまつる。

「位くらゐなき人ひとは」

 とて、無紋むもんの直衣なほし、なかなかいとなつかしきを着きたまひてうちやつれたまへる、いとめでたし。御鬢みびんかきたまふとて、鏡台きゃうだいに寄よりたまへるに、面痩おもやせたまへる影かげの、我われながらいとあてにきよらなれば、

「こよなうこそ、おとろへにけれ。この影かげのやうにや痩やせてはべる。あはれなるわざかな」

 とのたまへば、女君をんなぎみ、涙なみだ一目ひとめうけて、見みおこせたまへる、いと忍しのびがたし。

「身みはかくてさすらへぬとも君きみがあたり去さらぬ鏡かがみの影かげは離はなれじ」

 と、聞きこえたまへば、

「別わかれても影かげだにとまるものならば鏡かがみを見みても慰なぐさめてまし」

 柱はしら隠かくれにゐ隠かくれて、涙なみだを紛まぎらはしたまへるさま、なほここら見みるなかにたぐひなかりけりと、おぼし知しらるる人ひとの御おほんありさまなり。親王みこはあはれなる御物語おほんものがたり聞きこえたまひて、暮くるるほどに帰かへりたまひぬ。

花散里の心細げにおぼして

 花散里はなちるさとの心こころ細ほそげにおぼして、常つねに聞きこえたまふもことわりにて、かの人ひとも、今いまひとたび見みずは、つらしとや思おもはむと思おぼせば、その夜よは、また出いでたまふものから、いともの憂うくて、いたう更ふかしておはしたれば、女御にょうご、

「かく数かずまへたまひて、立たち寄よらせたまへること」

 と、よろこびきこえたまふさま、書かき続つづけむもうるさし。いといみじう心こころ細ほそき御おほんありさま、ただ御蔭おほんかげに隠かくれて過すぐいたまへる年月としつき、いとど荒あれまさらむほどおぼしやられて、殿とのの内うち、いとかすかなり。月つきおぼろにさし出いでて、池いけ広ひろく、山やま木き深ふかきわたり、心こころ細ほそげに見みゆるにも、住すみ離はなれたらむ巌いはほのなか、おぼしやらる。

 西面にしおもてには、かうしも渡わたりたまはずやとうち屈くしておぼしけるに、あはれ添そへたる月影つきかげの、なまめかしうしめやかなるに、うち振ふる舞まひたまへるにほひ、似にるものなくて、いと忍しのびやかに入いりたまへば、すこしゐざり出いでて、やがて月つきを見みておはす。またここに御物語おほんものがたりのほどに、明あけ方かた近ちかうなりにけり。

「短夜みじかよのほどや。かばかりの対面たいめんも、またはえしもやと思おもふこそ、ことなしにて過すぐしつる年としごろも悔くやしう、来きし方かた行ゆく先さきのためしになるべき身みにて、何なにとなく心こころのどまる世よなくこそありけれ」

 と、過すぎにし方かたのことどものたまひて、鶏とりもしばしば鳴なけば、世よにつつみて急いそぎ出いでたまふ。例れいの、月つきの入いり果はつるほど、よそへられて、あはれなり。女君をんなぎみの濃こき御衣おほんぞに映はりて、げに、漏もるる顔かほなれば、

「月影つきかげの宿やどれる袖そではせばくともとめても見みばやあかぬ光ひかりを」

 いみじと思おもいたるが、心こころ苦くるしければ、かつは慰なぐさめきこえたまふ。

「行ゆきめぐりつひにすむべき月影つきかげのしばし雲くもらむ空そらな眺ながめそ

思おもへば、はかなしや。ただ、知しらぬ涙なみだのみこそ、心こころを昏くららすものなれ」

 などのたまひて、明あけぐれのほどに出いでたまひぬ。

よろづのことどもしたためさせたまふ

 よろづのことどもしたためさせたまふ。親おやしう仕つかまつり、世よになびかぬ限かぎりの人々ひとびと、殿とのの事こととり行おこななふべき上下かみしも、定さだめ置おかせたまふ。御供おほんともに慕したひきこゆる限かぎりは、また選えり出いでたまへり。かの山里やまざとの御住おほんすみかの具ぐは、えさらずとり使つかひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書かども文集もんじふなど入いりたる箱はこ、さては琴きん一ひとつぞ持もたせたまふ。所狭ところせき御調度みてうど、はなやかなる御おほんよそひなど、さらに具ぐしたまはず、あやしの山賤やまがつめきてもてなしたまふ。

 さぶらふ人々ひとびとよりはじめ、よろづのこと、みな西にしの対たいに聞きこえわたしたまふ。領りゃうじたまふ御荘みさう、御牧みまきよりはじめて、さるべき所々ところどころ、券けんなど、みなたてまつり置おきたまふ。それよりほかの御倉町みくらまち、納殿をさめどのなどいふことまで、少納言せうなごんをはかばかしきものに見み置おきたまへれば、親おやしき家司けいしども具ぐして、しろしめすべきさまどものたまひ預あづく。わが御方おほんかたの中務なかつかさ、中将ちうじゃうなどやうの人々ひとびと、つれなき御おほんもてなしながら、見みたてまつるほどこそ慰なぐさめつれ、何なにごとにつけてかと思おもへども、

「命いのちありてこの世よにまた帰かへるやうもあらむを、待まちつけむと思おもはむ人ひとは、こなたにさぶらへ」

 とのたまひて、上下かみしも、皆みな参まう上のぼらせたまふ。若君わかぎみの御乳母おほんめのとたち、花散里はなちるさとなども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしき筋すぢにおぼし寄よらぬことなし。

 尚侍ないしのかみの御おほんもとに、わりなくして聞きこえたまふ。

「問とはせたまはぬも、ことわりに思おもひたまへながら、今いまはと、世よを思おもひ果はつるほどの憂うさもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。

逢あふ瀬せなき涙なみだの河かはに沈しづみしや流ながるる澪みをの初はじめなりけむ

と思おもひたまへ出いづるのみなむ、罪つみ逃のがれがたうはべりける」

 道みちのほども危あやふければ、こまかには聞きこえたまはず。女をんな、いといみじうおぼえたまひて、忍しのびたまへど、御袖おほんそでよりあまるも所狭ところせうなむ。

「涙なみだ河かは浮うかぶ水みづ泡あわも消きえぬべし流ながれて後のちの瀬せをも待またずて」

 泣なく泣なく乱みだれ書かきたまへる御手おほんて、いとをかしげなり。今いまひとたび対面たいめんなくやとおぼすは、なほ口惜くちをしけれど、おぼし返かへして、憂うしとおぼしなすゆかり多おほうて、おぼろけならず忍しのびたまへば、いとあながちにも聞きこえたまはずなりぬ。

明日とて、暮には院の御墓拝み

 明日あすとて、暮くには院ゐんの御墓おほんはか拝をがみたてまつりたまふとて、北きた山やまへ詣まうでたまふ。暁あかつきかけて月つき出いづるころなれば、まづ、入道にふだうの宮みやに参まうでたまふ。近ちかき御簾みすの前まへに御座おまし参まゐりて、御おほんみづから聞きこえさせたまふ。春宮とうぐうの御事おほんことをいみじううしろめたきものに思おもひきこえたまふ。かたみに心こころ深ふかきどちの御物語おほんものがたりは、よろづあはれまさりけむかし。なつかしうめでたき御おほんけはひの昔むかしに変かはらぬに、つらかりし御心みこころばへも、かすめきこえさせまほしけれど、今いまさらにうたてとおぼさるべし、わが御心みこころにも、なかなか今いまひときは乱みだれまさりぬべければ、念ねんじ返かへして、ただ、

「かく思おもひかけぬ罪つみに当あたりはべるも、思おもふたまへあはすることの一ひと節ふしになむ、空そらも恐おそろしうはべる。惜をしげなき身みはなきになしても、宮みやの御世みよにだに、ことなくおはしまさば」

 とのみ聞きこえたまふぞ、ことわりなるや。

 宮みやも、みなおぼし知しらるることにしあれば、御心みこころのみ動うごきて、聞きこえやりたまはず。大将だいしゃう、よろづのことかき集あつめおぼし続つづけて、泣なきたまへるけしき、いと尽つきせずなまめきたり。

「御山みやまに参まゐりはべるを、御おほんことつてや」

 と聞きこえたまふに、とみにものも聞きこえたまはず、わりなくためらひたまふ御みけしきなり。

「見みしはなくあるは悲かなしき世よの果はてを背そむきしかひもなくなくぞ経ふる」

 いみじき御心みこころ惑まどひどもに、おぼし集あつむることどもも、えぞ続つづけさせたまはぬ。

「別わかれしに悲かなしきことは尽つきにしをまたぞこの世よの憂うさはまされる」

月待ち出でて出でたまふ

 月つき待まち出いでて出いでたまふ。御供おほんともにただ五ご、六人ろくにんばかり、下人しもびともむつましき限かぎりして、御馬おほんむまにてぞおはする。さらなることなれど、ありし世よの御おほんありきに異ことなり、皆みないと悲かなしう思おもふなり。なかに、かの御禊ごけいの日ひ、仮かりの御随身みずいじんにて仕つかうまつりし右近うこんの将監ぞうの蔵人くらうど、得えべきかうぶりもほど過すぎつるを、つひに御簡みふだ削そられ、官つかさも取とられて、はしたなければ、御供おほんともに参まゐるうちなり。賀茂かもの下しもの御社みやしろを、かれと見渡みわたすほど、ふと思おもひ出いでられて、下おりて、御馬おほんむまの口くちを取とる。

「ひき連つれて葵あふひかざししそのかみを思おもへばつらし賀茂かもの瑞垣みづがき」

 と言いふを、「げに、いかに思おもふらむ。人ひとよりけにはなやかなりしものを」とおぼすも、心こころ苦くるし。君きみも、御馬おほんむまより下おりたまひて、御社みやしろのかた拝をがみたまふ。神かみにまかり申まうしたまふ。

「憂うき世よをば今いまぞ別わかるるとどまらむ名なをば糺ただすの神かみにまかせて」

 とのたまふさま、ものめでする若わかき人ひとにて、身みにしみてあはれにめでたしと見みたてまつる。

 御山みやまにまうでたまひて、おはしましし御おほんありさま、ただ目めの前まへのやうにおぼし出いでらる。限かぎりなきにても、世よに亡なくなりぬる人ひとぞ、言いはむかたなく口惜くちをしきわざなりける。よろづのことを泣なく泣なく申まうしたまひても、そのことわりをあらはに承うけたまはりたまはねば、さばかりおぼしのたまはせしさまざまの御遺言おほんゆいごんは、いづちか消きえ失うせにけむと、いふかひなし。御墓おほんはかは、道みちの草くさ茂しげくなりて、分わけ入いりたまふほど、いとど露つゆけきに、月つきも隠かくれて、森もりの木立こだち、木き深ふかく心こころすごし。帰かへり出いでむ方かたもなき心地ここちして、拝をがみたまふに、ありし御おほん面影おもかげ、さやかに見みえたまへる、そぞろ寒さむきほどなり。

「亡なき影かげやいかが見みるらむよそへつつ眺ながむる月つきも雲隠くもがくれぬる」

明け果つるほどに帰りたまひて

 明あけ果はつるほどに帰かへりたまひて、春宮とうぐうにも御消息おほんせうそこ聞きこえたまふ。王命婦わうみゃうぶを御代みよはりにてさぶらはせたまへば、その御局みつぼねにとて、

「今日けふなむ、都みやこ離はなれはべる。また参まゐりはべらずなりぬるなむ、あまたの憂うへにまさりて思おもふたまへられはべる。よろづ推おし量はかりて啓けいしたまへ。

いつかまた春はるの都みやこの花はなを見みむ時とき失うへる山賤やまがつにして」

 桜さくらの散ちりすきたる枝えだにつけたまへり。

「かくなむ」

 と御覧ごらんぜさすれば、幼をさなき御心地みここちにもまめだちておはします。

「御返おほんかへりいかがものしたまふらむ」

 と啓けいすれば、

「しばし見みぬだに恋こひしきものを、遠とほくはましていかに、と言いへかし」

 とのたまはす。ものはかなの御返おほんかへりやと、あはれに見みたてまつる。あぢきなきことに御心みこころをくだきたまひし昔むかしのこと、折々をりをりの御おほんありさま、思おもひ続つづけらるるにも、もの思おもひなくて我われも人ひとも過すぐいたまひつべかりける世よを、心こころとおぼし嘆なげきけるを悔くやしう、わが心こころひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる。御返おほんかへりは、

「さらに聞きこえさせやりはべらず。御前おまへには啓けいしはべりぬ。心こころ細ほそげにおぼし召めしたる御みけしきもいみじくなむ」

 と、そこはかとなく、心こころの乱みだれけるなるべし。

「咲さきてとく散ちるは憂うけれどゆく春はるは花はなの都みやこを立たち帰かへり見みよ

時ときしあらば」

 と聞きこえて、名残なごりもあはれなる物語ものがたりをしつつ、一宮ひとみやのうち、忍しのびて泣なきあへり。一目ひとめも見みたてまつれる人ひとは、かくおぼしくづほれぬる御おほんありさまを、嘆なげき惜をしみきこえぬ人ひとなし。まして、常つねに参まゐり馴なれたりしは、知しり及およびたまふまじき長女をさめ、御厠人みかはやうどまで、ありがたき御おほん顧かへりみの下したなりつるを、しばしにても、見みたてまつらぬほどや経へむと、思おもひ嘆なげきけり。

 大方おほかたの世よの人ひとも、誰たれかはよろしく思おもひきこえむ。七ななつになりたまひしこのかた、帝みかどの御前おまへに夜昼よるひるさぶらひたまひて、奏そうしたまふことのならぬはなかりしかば、この御おほんいたはりにかからぬ人ひとなく、御徳おほんとくをよろこばぬやはありし。やむごとなき上達部かむだちめ、弁官べんくわんなどのなかにも多おほかり。それより下したは数かず知しらぬを、思おもひ知しらぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやき世よを思おもひ憚はばかりて、参まゐり寄よるもなし。世よゆすりて惜をしみきこえ、下したに朝廷おほやけをそしり、恨うらみたてまつれど、身みを捨すててとぶらひ参まゐらむにも、何なにのかひかはと思おもふにや、かかる折をりは人悪ひとわろく、恨うらめしき人ひと多おほく、世よの中なかはあぢきなきものかなとのみ、よろづにつけておぼす。

その日は女君に

 その日ひは女君をんなぎみに、御物語おほんものがたりのどかに聞きこえ暮くらしたまひて、例れいの、夜深よぶかく出いでたまふ。狩かりの御衣おほんぞなど、旅たびの御おほんよそひ、いたくやつしたまひて、

「月つき出いでにけりな。なほすこし出いでて、見みだに送おくりたまへかし。いかに聞きこゆべきこと多おほくつもりにけりとおぼえむとすらむ。一日ひとひ、二日ふつかたまさかに隔へだたる折をりだに、あやしういぶせき心地ここちするものを」

 とて、御簾みす巻まき上あげて、端はしにいざなひきこえたまへば、女君をんなぎみ、泣なき沈しづみたまへるを、ためらひて、ゐざり出いでたまへる、月影つきかげに、いみじうをかしげにてゐたまへり。わが身みかくてはかなき世よを別わかれなば、いかなるさまにさすらへたまはむと、うしろめたく悲かなしけれど、おぼし入いりたるに、いとどしかるべければ、

「生おける世よの別わかれを知しらで契ちぎりつつ命いのちを人ひとに限かぎりけるかな

はかなし」

 など、あさはかに聞きこえなしたまへば、

「惜をしからぬ命いのちに代かへて目めの前まへの別わかれをしばしとどめてしがな」

 げに、さぞおぼさるらむと、いと見捨みすてがたけれど、明あけ果はてなば、はしたなかるべきにより、急いそぎ出いでたまひぬ。

 道みちすがら、面影おもかげにつと添そひて、胸むねもふたがりながら、御おほん舟ふねに乗のりたまひぬ。日ひ長ながきころなれば、追風おひかぜさへ添そひて、まだ申さるの時ときばかりに、かの浦うらに着つきたまひぬ。かりそめの道みちにても、かかる旅たびをならひたまはぬ心地ここちに、心こころ細ほそさもをかしさもめづらかなり。大江殿おほえどのと言いひける所ところは、いたう荒あれて、松まつばかりぞしるしなる。

「唐国からくにに名なを残のこしける人ひとよりも行方ゆくへ知しられぬ家居いへゐをやせむ」

 渚なぎさに寄よる波なみのかつ返かへるを見みたまひて、

「うらやましくも」

 とうち誦ずじたまへるさま、さる世よの古言ふることなれど、珍めづらしう聞ききなされ、悲かなしとのみ御供おほんともの人々ひとびと思おもへり。うち顧かへりみたまへるに、来きし方かたの山やまは霞かすみはるかにて、まことに三千里さんぜんりの外ほかの心地ここちするに、櫂かいの雫しづくも堪たへがたし。

「故郷ふるさとを峰みねの霞かすみは隔へだつれど眺ながむる空そらは同おなじ雲居くもゐか」

 つらからぬものなくなむ。

おはすべき所は、行平の中納言の

 おはすべき所ところは、行平ゆきひらの中納言ちうなごんの、藻塩もしほ垂たれつつ侘わびびける家居いへゐ近ちかきわたりなりけり。海うみづらはやや入いりて、あはれにすごげなる山やま中なかなり。垣かきのさまよりはじめて、めづらかに見みたまふ。茅屋かややども、葦あし葺ふける廊らうめく屋やなど、をかしうしつらひなしたり。所ところにつけたる御住おほんすまひ、やう変かはりて、かからぬ折をりならば、をかしうもありなましと、昔むかしの御心みこころのすさびおぼし出いづ。

 近ちかき所々ところどころの御荘みさうの司召つかさめしして、さるべきことどもなど、良清朝臣よしきよのあそん、親おやしき家司けいしにて、仰おほせ行おこななふもあはれなり。時ときの間まに、いと見所みどころありてしなさせたまふ。水みづ深ふかう遣つかりなし、植う木きどもなどして、今いまはと静しづまりたまふ心地ここち、うつつならず。国くにの守かみも親おやしき殿との人ひとなれば、忍しのびて心寄こころよせ仕つかうまつる。かかる旅所たびどころともなう、人ひと騒さわがしけれども、はかばかしう物ものをものたまひあはすべき人ひとしなければ、知しらぬ国くにの心地ここちして、いと埋うづれいたく、いかで年月としつきを過すぐさましとおぼしやらる。

やうやう事静まりゆくに

 やうやう事こと静しづまりゆくに、長雨ながあめのころになりて、京きゃうのこともおぼしやらるるに、恋こひしき人ひと多おほく、女君をんなぎみのおぼしたりしさま、春宮とうぐうの御事おほんこと、若君わかぎみの何心なにごころもなく紛まぎれたまひしなどをはじめ、ここかしこ思おもひやりきこえたまふ。京きゃうへ人ひと出いだし立たてたまふ。二条院にでうのゐんへたてまつりたまふと、入道にふだうの宮みやのとは、書かきもやりたまはず、昏くらされたまへり。宮みやには、

「松まつ島しまの海人あまの苫屋とまやもいかならむ須磨すまの浦うら人ひとしほたるるころ

いつとはべらぬなかにも、来きし方かた行ゆく先さきかきくらし、汀みぎはまさりてなむ」

 尚侍ないしのかみの御おほんもとに、例れいの、中納言ちうなごんの君きみの私わたくし事ことのやうにて、中なかなるに、

「つれづれと過すぎにし方かたの思おもひたまへ出いでらるるにつけても、

こりずまの浦うらのみるめのゆかしきを塩しほ焼やく海人あまやいかが思おもはむ」

 さまざま書かき尽つくしたまふ言いの葉は、思おもひやるべし。大殿おほいどのにも、宰相さいしゃうの乳母めのとにも、仕つかうまつるべきことなど書かきつかはす。

 京きゃうには、この御文おほんふみ、所々ところどころに見みたまひつつ、御心みこころ乱みだれたまふ人々ひとびとのみ多おほかり。二条院にでうのゐんの君きみは、そのままに起おきも上あがりたまはず、尽つきせぬさまにおぼしこがるれば、さぶらふ人々ひとびともこしらへわびつつ、心こころ細ほそう思おもひあへり。もてならしたまひし御調度みてうどども、弾ひきならしたまひし御琴おほんこと、脱ぬぎ捨すてたまひつる御衣おほんぞの匂にほひなどにつけても、今いまはと世よになからむ人ひとのやうにのみおぼしたれば、かつはゆゆしうて、少納言せうなごんは、僧都そうづに御祈おほんいのりのことなど聞きこゆ。二方ふたかたに御修法みずほふなどせさせたまふ。かつは、かくおぼし嘆なげく御心みこころ静しづめたまひて、思おもひなき世よにあらせたてまつりたまへと、心こころ苦くるしきままに祈いのり申まうしたまふ。

 旅たびの御宿おほんやど直なほ物ものなど、調てうじてたてまつりたまふ。かとりの御直衣おほんなほし、指貫さしぬき、さま変かはりたる心地ここちするもいみじきに、「去さらぬ鏡かがみ」とのたまひし面影おもかげの、げに身みに添そひたまへるもかひなし。出いで入いりたまひし方かた、寄よりゐたまひし真木柱まきばしらなどを見みたまふにも、胸むねのみふたがりて、ものをとかう思おもひめぐらし、世よにしほじみぬる齢よはひの人ひとだにあり、まして、馴なれむつびきこえ、父ちち母ははにもなりて生おほし立たてならはしたまへれば、恋こひしう思おもひきこえたまへる、ことわりなり。ひたすら世よになくなりなむは、言いはむ方かたなくて、やうやう忘わすれ草くさも生おひやすらむ、聞きくほどは近ちかけれど、いつまでと限かぎりある御おほん別わかれにもあらで、おぼすに尽つきせずなむ。

 入道宮にふだうのみやにも、春宮とうぐうの御事おほんことによりおぼし嘆なげくさま、いとさらなり。御宿世おほんすくせのほどをおぼすには、いかが浅あさくおぼされむ。年としごろはただものの聞きこえなどのつつましさに、すこし情なさあるけしき見みせば、それにつけて人ひとのとがめ出いづることもこそ、とのみひとへにおぼし忍しのびつつ、あはれをも多おほう御覧ごらんじ過すぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、かばかり憂うき世よの人ひと言いなれど、かけてもこの方かたには言いひ出いづることなくて止とみぬるばかりの、人ひとの御おほんおもむけも、あながちなりし心こころの引ひく方かたにまかせず、かつはめやすくもて隠かくしつるぞかし、あはれに恋こひしうも、いかがおぼし出いでざらむ。御返おほんかへりも、すこしこまやかにて、

「このころはいとど、

塩しほ垂たるることをやくにて松まつ島しまに年としふる海人あまも嘆なげきをぞつむ」

 尚侍ないしのかみ君きみの御返おほんかへりには、

「浦うらにたく海人あまだにつつむ恋こひなればくゆる煙けぶりよ行ゆく方かたぞなき

さらなることどもは、えなむ」

 とばかり、いささかにて中納言ちうなごんの君きみの中なかにあり。おぼし嘆なげくさまなど、いみじう言いひたり。あはれと思おもひきこえたまふ節々ふしぶしもあれば、うち泣なかれたまひぬ。

 姫君ひめぎみの御文おほんふみは、心こころことにこまかなりし御返おほんかへりなれば、あはれなること多おほくて、

「浦うら人ひとの潮しほくむ袖そでに比くらべ見みよ波なみ路ぢへだつる夜よの衣きぬを」

 ものの色いろ、したまへるさまなど、いときよらなり。何なにごともらうらうじうものしたまふを、思おもふさまにて、今いまは他ほか事ことに心こころあわたたしう、行ゆきかかづらふ方かたもなく、しめやかにてあるべきものをとおぼすに、いみじう口惜くちをしう、夜昼よるひる面影おもかげにおぼえて、堪たへがたう思おもひ出いでられたまへば、なほ忍しのびてや迎むかへましとおぼす。またうち返かへし、なぞや、かく憂うき世よに、罪つみをだに失うはむと思おぼせば、やがて御精進おほんさうじんにて、明あけ暮くれ行おこななひておはす。大殿おほいどのの若君わかぎみの御事おほんことなどあるにも、いと悲かなしけれど、おのづから逢あひ見みてむ。頼たのもしき人々ひとびとものしたまへば、うしろめたうはあらずと、おぼしなさるるは、なかなか、子この道みちの惑まどはれぬにやあらむ。

まことや、騒がしかりしほどの紛れに

 まことや、騒さわがしかりしほどの紛まぎれに漏もらしてけり。かの伊勢いせの宮みやへも御使おほんつかひありけり。かれよりも、ふりはへ尋たづね参まゐれり。浅あさからぬことども書かきたまへり。言いの葉は、筆ふでづかひなどは、人ひとよりことになまめかしく、いたり深ふかう見みえたり。

「なほうつつとは思おもひたまへられぬ御住おほんすひをうけたまはるも、明あけぬ夜よの心惑こころまどひかとなむ。さりとも、年月としつき隔へだてたまはじと、思おもひやりきこえさするにも、罪深つみふかき身みのみこそ、また聞きこえさせむこともはるかなるべけれ。

うきめかる伊勢いせをの海人あまを思おもひやれ藻塩もしほ垂たるてふ須磨すまの浦うらにて

よろづに思おもひたまへ乱みだるる世よのありさまも、なほいかになり果はつべきにか」

 と多おほかり。

「伊勢いせ島しまや潮しほ干ひの潟かたに漁あさりてもいふかひなきは我われが身みなりけり」

 ものをあはれとおぼしけるままに、うち置おきうち置おき書かきたまへる、白しろき唐からの紙かみ、四し、五ご枚まいばかりを巻まき続つづけて、墨すみつきなど見所みどころあり。あはれに思おもひきこえし人ひとを、ひとふし憂うしと思おもひきこえし心こころあやまりに、かの御息所みやすんどころも思おもひ倦うじて別わかれたまひにし、と思おぼせば、今いまにいとほしうかたじけなきものに思おもひきこえたまふ。折をりからの御文おほんふみ、いとあはれなれば、御使おほんつかひさへむつましうて、二ふつか、三日みか据すゑさせたまひて、かしこの物語ものがたりなどせさせて聞きこしめす。若わかやかにけしきある侍さぶらひの人ひとなりけり。かくあはれなる御住おほんすまひなれば、かやうの人ひともおのづからもの遠とほからで、ほの見みたてまつる御おほんさま、容貌かたちを、いみじうめでたし、と涙なみだ落おしをりけり。御返おほんかへり書かきたまふ、言いの葉は、思おもひやるべし。

「かく世よを離はなるべき身みと、思おもひたまへましかば、同おなじくは慕したひきこえましものを、などなむ。つれづれと、心こころ細ほそきままに、

伊勢いせ人ひとの波なみの上うへ漕こぐ小ちひ舟ふねにもうきめは刈からで乗のらましものを

海人あまがつむなげきのなかに塩しほ垂たれていつまで須磨すまの浦うらに眺ながめむ

聞きこえさせむことの、いつともはべらぬこそ、尽つきせぬ心地ここちしはべれ」

 などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからず聞きこえかはしたまふ。

 花散里はなちるさとも、悲かなしとおぼしけるままに書かき集あつめたまへる御心々みこころごころ見みたまふ、をかしきも目めなれぬ心地ここちして、いづれもうち見みつつ慰なぐさめたまへど、もの思おもひのもよほしぐさなめり。

「荒あれまさる軒のきのしのぶを眺ながめつつしげくも露つゆのかかる袖そでかな」

 とあるを、げに葎むぐらよりほかの後見うしろみもなきさまにておはすらむとおぼしやりて、長雨ながあめに築地ついぢ所々ところどころ崩かくれてなむと聞ききたまへば、京きゃうの家司けいしのもとに仰おほせつかはして、近ちかき国々くにぐにの御荘みさうの者ものなどもよほさせて、仕つかうまつるべき由よしのたまはす。

尚侍の君は、人笑へに

 尚侍ないしのかみの君きみは、人ひと笑ゑへにいみじうおぼしくづほるるを、大臣おとどいとかなしうしたまふ君きみにて、切せちに、宮みやにも内裏うちにも奏そうしたまひければ、限かぎりある女御にょうご、御息所みやすんどころにもおはせず、公おほやけざまの宮仕みやづかへとおぼし直なほり、また、かの憎にくかりしゆゑこそ、いかめしきことも出いで来きしか許ゆるされたまひて、参まゐりたまふべきにつけても、なほ心こころに染そみにし方かたぞ、あはれにおぼえたまける。

 七月ふづきになりて参まゐりたまふ。いみじかりし御思おほんおもひの名残なごりなれば、人ひとのそしりもしろしめされず、例れいの、主上うへにつとさぶらはせたまひて、よろづに怨うらみ、かつはあはれに契ちぎらせたまふ。御おほんさま容貌かたちもいとなまめかしうきよらなれど、思おもひ出いづることのみ多おほかる心こころのうちぞ、かたじけなき。御遊おほんあそびのついでに、

「その人ひとのなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさ思おもふ人ひと多おほからむ。何なにごとも光ひかりなき心地ここちするかな」

 とのたまはせて、

「院ゐんのおぼしのたまはせし御心みこころを違たがへつるかな。罪つみ得えらむかし」

 とて、涙なみだぐませたまふに、え念ねんじたまはず。

「世よの中なかこそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、と思おもひ知しるままに、久ひさしく世よにあらむものとなむ、さらに思おもはぬ。さもなりなむに、いかがおぼさるべき。近ちかきほどの別わかれに思おもひ落おとされむこそ、ねたけれ。生おける世よにとは、げに、よからぬ人ひとの言いひ置おきけむ」

 と、いとなつかしき御おほんさまにて、ものをまことにあはれとおぼし入いりてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ出いづれば、

「さりや。いづれに落おつるにか」

 とのたまはす。

「今いままで御子みこたちのなきこそ、さうざうしけれ。春宮とうぐうを院ゐんののたまはせしさまに思おもへど、よからぬことども出いで来こめれば、心こころ苦くるしう」

 など、世よを御心みこころのほかにまつりごちなしたまふ人々ひとびとのあるに、若わかき御心みこころの、強つよきところなきほどにて、いとほしとおぼしたることも多おほかり。

須磨には、いとど心尽くしの秋風に

 須磨すまには、いとど心尽こころづくしの秋風あきかぜに、海うみはすこし遠とほけれど、行平ゆきひら中納言ちうなごんの、「関せき吹ふき越こゆる」と言いひけむ浦波うらなみ、夜々よなよなはげにいと近ちかく聞きこえて、またなくあはれなるものは、かかる所ところの秋あきなりけり。御前おまへにいと人少ひとずくなにて、うち休やすみわたれるに、一人ひとり目めを覚さまして、枕まくらをそばだてて四方よもの嵐あらしを聞ききたまふに、波なみただここもとに立たちくる心地ここちして、涙なみだ落おつともおぼえぬに、枕まくら浮うくばかりになりにけり。琴きんをすこしかき鳴ならしたまへるが、我われながらいとすごう聞きこゆれば、弾ひきさしたまひて、

「恋こひひわびて泣なく音ねにまがふ浦波うらなみは思おもふ方かたより風かぜや吹ふくらむ」

 と歌うたひたまへるに、人々ひとびとおどろきて、めでたうおぼゆるに、忍しのばれで、あいなう起おきゐつつ、鼻はなを忍しのびやかにかみわたす。

 げに、いかに思おもふらむ。我われが身みひとつにより、親おや、兄弟はらから、片時かたとき立たち離はなれがたく、ほどにつけつつ思おもふらむ家いへを別わかれて、かく惑まどひあへるとおぼすに、いみじくて、いとかく思おもひ沈しづむさまを、心こころ細ほそしと思おもふらむと思おぼせば、昼ひるは何なにくれとうちのたまひ紛まぎらはし、つれづれなるままに、色々いろいろの紙かみを継つぎつつ、手習てならひをしたまひ、めづらしきさまなる唐からの綾あやなどに、さまざまの絵ゑどもを描かきすさびたまへる屏風びゃうぶの面おもてどもなど、いとめでたく見所みどころあり。人々ひとびとの語かたり聞きこえし海うみ山やまのありさまを、遥はるかにおぼしやりしを、御目おほんめに近ちかくては、げに及およばぬ磯いそのたたずまひ、二になく描かき集あつめたまへり。

「このころの上手じゃうずにすめる千ち枝えだ、常つね則のりなどを召めして、作つくり絵ゑ仕つかうまつらせばや」

 と、心こころもとながりあへり。なつかしうめでたき御おほんさまに、世よのもの思おもひ忘わすれて、近ちかう馴なれ仕つかうまつるをうれしきことにて、四し、五人ごにんばかりぞ、つとさぶらひける。

 前栽せんざいの花はな、色々いろいろ咲さき乱みだれ、おもしろき夕暮ゆふぐれれに、海うみ見みやらるる廊らうに出いでたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、所ところからは、ましてこの世よのものと見みえたまはず。白しろき綾あやのなよよかなる、紫苑色しをんいろなどたてまつりて、こまやかなる御直衣おほんなほし、帯おびしどけなくうち乱みだれたまへる御おほんさまにて、

「釈迦牟尼仏しゃかむにぶつの弟子でし」

 と名なのりて、ゆるるかに読よみたまへる、また世よに知しらず聞きこゆ。沖おきより舟ふねどもの歌うたひののしりて漕こぎ行ゆくなども聞きこゆ。ほのかに、ただ小ちひさき鳥とりの浮うかべると見みやらるるも、心こころ細ほそげなるに、雁かりの連つねて鳴なく声こゑ、楫かぢの音おとにまがへるを、うち眺ながめたまひて、涙なみだこぼるるをかき払はらひたまへる御手おほんてつき、黒くろき御おほん数珠ずずに映はえたまへる、故郷ふるさとの女をんな恋こひしき人々ひとびと、心こころみな慰なぐさみにけり。

「初はじ雁かりは恋こひしき人ひとの列つらなれや旅たびの空そら飛とぶ声こゑの悲かなしき」

 とのたまへば、良清よしきよ、

「かきつらね昔むかしのことぞ思おもほゆる雁かりはその世よの友ともならねども」

 民部大輔みんぶのたいふ、

「心こころから常世とこよを捨すてて鳴なく雁かりを雲くものよそにも思おもひけるかな」

 前右近将督さきのうこんのじやう、

「常世とこよ出いでて旅たびの空そらなる雁かりがねも列つらに遅おくれぬほどぞ慰なぐさむ

友ともまどはしては、いかにはべらまし」

 と言いふ。親おやの常陸ひたちになりて、下おりしにも誘さそはれで、参まゐれるなりけり。下したには思おもひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。

月のいとはなやかにさし出でたるに

 月つきのいとはなやかにさし出いでたるに、今宵こよひは十五夜じふごやなりけりとおぼし出いでて、殿上てんじゃうの御遊おほんあそび恋こひしく、所々ところどころ眺ながめたまふらむかしと思おもひやりたまふにつけても、月つきの顔かほのみまもられたまふ。

「二千里にせんり外ほか故人こじん心こころ」

 と誦ずじたまへる、例れいの涙なみだもとどめられず。入道にふだうの宮みやの、「霧きりや隔へだつる」とのたまはせしほど、言いはむ方かたなく恋こひしく、折々をりをりのこと思おもひ出いでたまふに、よよと、泣なかれたまふ。

「夜更よふけはべりぬ」

 と聞きこゆれど、なほ入いりたまはず。

「見みるほどぞしばし慰なぐさむめぐりあはむ月つきの都みやこは遥はるかなれども」

 その夜よ、主上うへのいとなつかしう昔物語むかしものがたりなどしたまひし御おほんさまの、院ゐんに似にたてまつりたまへりしも、恋こひしく思おもひ出いできこえたまひて、

「恩賜おんしの御衣おほんぞは今いま此ここに在あり」

 と誦ずじつつ入いりたまひぬ。御衣おほんぞはまことに身みを放はなたず、かたはらに置おきたまへり。

「憂うしとのみひとへにものは思おもほえで左右ひだりみぎにも濡ぬるる袖そでかな」

そのころ、大弐は上りける

 そのころ、大弐だいには上のぼりける。いかめしく類るい広ひろく、娘むすめがちにて所狭ところせかりければ、北きたの方かたは舟ふねにて上のぼる。浦うらづたひに逍遥せうえうしつつ来くるに、他ほかよりもおもしろきわたりなれば、心こころとまるに、大将だいしゃうかくておはすと聞きけば、あいなう、好すいたる若わかき娘むすめたちは、舟ふねの内うちさへ恥はづかしう、心懸想こころげさうせらる。まして、五節ごせちの君きみは、綱つな手て引ひき過すぐるも口惜くちをしきに、琴きんの声こゑ、風かぜにつきて遥はるかに聞きこゆるに、所ところのさま、人ひとの御おほんほど、物ものの音ねの心こころ細ほそさ、取とり集あつめ、心こころある限かぎりみな泣なきにけり。帥そち、御消息おほんせうそこ聞きこえたり。

「いと遥はるかなるほどよりまかり上のぼりては、まづいつしかさぶらひて、都みやこの御物語おほんものがたりもとこそ、思おもひたまへはべりつれ、思おもひの外ほかに、かくておはしましける御宿おほんやどをまかり過すぎはべる、かたじけなう悲かなしうもはべるかな。あひ知しりてはべる人々ひとびと、さるべきこれかれ、参まうで来き向むひてあまたはべれば、所狭ところせさを思おもひたまへ憚はばかりはべることどもはべりて、えさぶらはぬこと。ことさらに参まゐりはべらむ」

 など聞きこえたり。子この筑前守ちくぜんのかみぞ参まゐれる。この殿とのの、蔵人くらうどになし顧かへりみたまひし人ひとなれば、いとも悲かなし、いみじと思おもへども、また見みる人々ひとびとのあれば、聞きこえを思おもひて、しばしもえ立たち止とまらず。

「都みやこ離はなれて後のち、昔むかし親おやしかりし人々ひとびと、あひ見みること難かたうのみなりにたるに、かくわざと立たち寄よりものしたること」

 とのたまふ。御返おほんかへりもさやうになむ。守かみ、泣なく泣なく帰かへりて、おはする御おほんありさま語かたる。帥そちよりはじめ、迎むかへの人々ひとびと、まがまがしう泣なき満みちたり。五節ごせちは、とかくして聞きこえたり。

「琴ことの音ねに弾ひきとめらるる綱手縄つなてなはたゆたふ心こころ君きみ知しるらめや

好すき好すきしさも、人ひとな咎とがめそ」

 と聞きこえたり。ほほ笑ゑみて見みたまふ、いと恥はづかしげなり。

「心こころありて引ひき手ての綱つなのたゆたはばうち過すぎましや須磨すまの浦波うらなみ

いさりせむとは思おもはざりしはや」

 とあり。駅むまやの長ながに句詩くし取とらする人ひともありけるを、まして、落おちとまりぬべくなむおぼえける。

都には、月日過ぐるままに

 都みやこには、月日つきひ過すぐるままに、帝みかどを初はじめたてまつりて、恋こひひきこゆる折をりふし多おほかり。春宮とうぐうは、まして、常つねにおぼし出いでつつ忍しのびて泣なきたまふ。見みたてまつる御乳母おほんめのと、まして命婦みゃうぶの君きみは、いみじうあはれに見みたてまつる。入道にふだうの宮みやは、春宮とうぐうの御おほんことをゆゆしうのみおぼししに、大将だいしゃうもかくさすらへたまひぬるを、いみじうおぼし嘆なげかる。御兄弟おほんはらからの親王みこたち、むつましう聞きこえたまひし上達部かむだちめなど、初はじめつ方かたはとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなる文ふみを作つくり交かはし、それにつけても、世よの中なかにのみめでられたまへば、后きさいの宮みや聞きこしめして、いみじうのたまひけり。

「朝廷おほやけの勘かんが事ことなる人ひとは、心こころに任まかせてこの世よのあぢはひをだに知しること難かたうこそあなれ。おもしろき家居いへゐして、世よの中なかを誹そしりもどきて、かの鹿しかを馬むまと言いひけむ人ひとのひがめるやうに追お従したがついしようする」

 など、悪あしきことども聞きこえければ、わづらはしとて、消息せうそこ聞きこえたまふ人ひとなし。

 二条院にでうのゐんの姫君ひめぎみは、ほど経ふるままに、おぼし慰なぐさむ折をりなし。東ひむがしの対たいにさぶらひし人々ひとびとも、みな渡わたり参まゐりし初はじめは、などかさしもあらむと思おもひしかど、見みたてまつり馴なるるままに、なつかしうをかしき御おほんありさま、まめやかなる御心みこころばへも、思おもひやり深ふかうあはれなれば、まかで散ちるもなし。なべてならぬ際きはの人々ひとびとには、ほの見みえなどしたまふ。そこらのなかにすぐれたる御心みこころざしもことわりなりけりと見みたてまつる。

かの御住まひには、久しくなるままに

 かの御住おほんすまひには、久ひさしくなるままに、え念ねんじ過すぐすまじうおぼえたまへど、我われが身みだにあさましき宿世すくせとおぼゆる住すまひに、いかでかは、うち具ぐしては、つきなからむさまを思おもひ返かへしたまふ。所ところにつけて、よろづのことさま変かはり、見みたまへ知しらぬ下人しもびとのうへをも、見みたまひ慣ならはぬ御心地みここちに、めざましうかたじけなう、みづからおぼさる。煙けぶりのいと近ちかく時々ときどき立たち来くるを、これや海人あまの塩しほ焼やくならむとおぼしわたるは、おはします後うしろの山やまに、柴しばといふものふすぶるなりけり。めづらかにて、

「山賤やまがつの庵いほりに焚たけるしばしばも言い問とひ来こなむ恋こひふる里人さとびと」

 冬ふゆになりて雪ゆき降ふり荒あれたるころ、空そらのけしきもことにすごく眺ながめたまひて、琴きんを弾ひきすさびたまひて、良清よしきよに歌うたはせ、大輔たいふ、横笛よこぶえ吹ふきて、遊あそびたまふ。心こころとどめてあはれなる手てなど弾ひきたまへるに、他ほか物ものの声こゑどもはやめて、涙なみだをのごひあへり。

 昔むかし、胡この国くにに遣つかしけむ女をんなをおぼしやりて、ましていかなりけむ。この世よに我われが思おもひきこゆる人ひとなどをさやうに放はなちやりたらむことなど思おもふも、あらむことのやうにゆゆしうて、

「霜しもの後のちの夢ゆめ」

 と誦ずじたまふ。月つきいと明あうさし入いりて、はかなき旅たびの御座所おましどころ、奥おくまで隈くまなし。床とこの上うへに夜深よぶかき空そらも見みゆ。入いり方かたの月影つきかげ、すごく見みゆるに、

「ただ是これれ西にしに行ゆくなり」

 と、ひとりごちたまて、

「いづ方かたの雲くも路ぢに我われも迷まよひなむ月つきの見みるらむことも恥はづかし」

 例れいのまどろまれぬ暁あかつきの空そらに、千鳥ちどりいとあはれに鳴なく。

「友とも千鳥ちどり諸声もろこゑに鳴なく暁あかつきはひとり寝覚ねざめの床とこも頼たのもし」

 また起おきたる人ひともなければ、返かへす返かへすひとりごちて臥ふしたまへり。夜深よぶかく御手水おほんてうづ参まゐり、御念誦おほんねんずなどしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え見みたてまつり捨すてず、家いへにあからさまにもえ出いでざりけり。

明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば

 明石あかしの浦うらは、ただはひ渡わたるほどなれば、良清よしきよの朝臣あそん、かの入道にふだうの娘むすめを思おもひ出いでて、文ふみなど遣つかりけれど、返かへり事こともせず、父ちち入道にふだうぞ、

「聞きこゆべきことなむ。あからさまに対面たいめんもがな」

 と言いひけれど、うけひかざらむものゆゑ、行ゆきかかりて、むなしく帰かへらむ後手うしろでもをこなるべしと、屈くじいたうて行ゆかず。

 世よに知しらず心こころ高たかく思おもへるに、国くにの内うちは守かみのゆかりのみこそはかしこきことにすめれど、ひがめる心こころはさらにさも思おもはで年月としつきを経へけるに、この君きみかくておはすと聞ききて、母君ははぎみに語かたらふやう、

「桐壺きりつぼの更ふ衣きぬの御おほん腹はらの、源氏げんじの光ひかりる君きみこそ、朝廷おほやけの御おほんかしこまりにて、須磨すまの浦うらにものしたまふなれ。吾子あこの御宿世おほんすくせにて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、この君きみにをたてまつらむ」

 と言いふ。母はは、

「あなかたはや。京きゃうの人ひとの語かたるを聞きけば、やむごとなき御妻おほんつまども、いと多おほく持もちたまひて、そのあまり、忍しのび忍しのび帝みかどの御妻おほんつまさへあやまちたまひて、かくも騒さわがれたまふなる人ひとは、まさにかくあやしき山賤やまがつを、心こころとどめたまひてむや」

 と言いふ。腹立はらだちて、

「え知しりたまはじ。思おもふ心こころことなり。さる心こころをしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせむ」

 と、心こころをやりて言いふもかたくなしく見みゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。

 母君ははぎみ、

「などか、めでたくとも、ものの初はじめに、罪つみに当あたりて流ながされておはしたらむ人ひとをしも思おもひかけむ。さても心こころをとどめたまふべくはこそあらめ、たはぶれにてもあるまじきことなり」

 と言いふを、いといたくつぶやく。

「罪つみに当あたることは、唐土もろこしにも我われが朝廷おほやけにも、かく世よにすぐれ、何なにごとも人ひとにことになりぬる人ひとの、かならずあることなり。いかにものしたまふ君きみぞ。故こ母はは御息所みやすんどころは、おのが叔父をぢにものしたまひし按察使大納言あぜちのだいなごんの娘むすめなり。いとかうざくなる名なをとりて、宮仕みやづかへに出いだしたまへりしに、国王こくわうすぐれて時ときめかしたまふこと、並ならびなかりけるほどに、人ひとの嫉そねみ重おもくて亡なせたまひにしかど、この君きみのとまりたまへる、いとめでたしかし。女をんなは心こころ高たかくつかふべきものなり。おのれ、かかる田舎人ゐなかびとなりとて、おぼし捨すてじ」

 など言いひゐたり。

 この娘むすめ、すぐれたる容貌かたちならねど、なつかしうあてはかに、心こころばせあるさまなどぞ、げに、やむごとなき人ひとに劣おとるまじかりける。身みのありさまを、口惜くちをしきものに思おもひ知しりて、高たかき人ひとは、我われを何なにの数かずにもおぼさじ。ほどにつけたる世よをばさらに見みじ。命いのち長ながくて、思おもふ人々ひとびとに後おくれなば、尼あまにもなりなむ、海うみの底そこにも入いりなむ、などぞ思おもひける。父ちち君きみ、所狭ところせく思おもひかしづきて、年としに二ふたたび、住吉すみよしに詣まうでさせけり。神かみの御おほんしるしをぞ、人ひと知しれず頼たのみ思おもひける。

須磨には、年返りて

 須磨すまには、年とし返かへりて、日ひ長ながくつれづれなるに、植うゑし若わか木きの桜さくらほのかに咲さき初はじめて、空そらのけしきうららかなるに、よろづのことおぼし出いでられて、うち泣なきたまふ折をり多おほかり。二月きさらぎ二十日はつかあまり、去さにし年とし、京きゃうを別わかれし時とき、心こころ苦くるしかりし人々ひとびとの御おほんありさまなど、いと恋こひしく、南殿なでんの桜さくら、盛さかりになりぬらむ。一年ひととせの花はなの宴えんに、院ゐんの御みけしき、内裏うちの主上うへのいときよらになまめいて、わが作つくれる句くを誦ずじたまひしも、思おもひ出いできこえたまふ。

「いつとなく大宮人おほみやびとの恋こひしきに桜さくらかざしし今日けふも来きにけり」

 いとつれづれなるに、大殿おほいどのの三位中将さんゐのちうじゃうは、今いまは宰相さいしゃうになりて、人柄ひとがらのいとよければ、時とき世よのおぼえ重おもくてものしたまへど、世よの中なかあはれにあぢきなく、ものの折をりごとに恋こひしくおぼえたまへば、ことの聞きこえありて罪つみに当あたるともいかがはせむとおぼしなして、にはかに参まうでたまふ。うち見みるより、めづらしううれしきにも、ひとつ涙なみだぞこぼれける。

 住すまひたまへるさま、言いはむかたなく唐からめいたり。所ところのさま、絵ゑに描かきたらむやうなるに、竹たけ編あめる垣かきしわたして、石いしの階はし、松まつの柱はしら、おろそかなるものから、めづらかにをかし。山賤やまがつめきて、ゆるし色いろの黄きがちなるに、青鈍あをにびの狩衣かりぎぬ、指貫さしぬき、うちやつれて、ことさらに田舎ゐなかびもてなしたまへるしも、いみじう、見みるに笑ゑまれてきよらなり。取とり使つかひたまへる調度てうども、かりそめにしなして、御座所おましどころもあらはに見入みいれらる。碁ご、双六すごろく盤ばん、調度てうど、弾棊たぎの具ぐなど、田舎ゐなかわざにしなして、念誦ねんずの具ぐ、行おこななひ勤つとめたまひけりと見みえたり。もの参まゐれるなど、ことさら所ところにつけ、興きょうありてしなしたり。

 海人あまども漁あさりして、貝かひつ物もの持もて参まゐれるを、召めし出いでて御覧ごらんず。浦うらに年とし経ふるさまなど問とはせたまふに、さまざま安やすげなき身みの愁うれへを申まうす。そこはかとなくさへづるも、心こころの行方ゆくへは同おなじこと。何なにか異ことなると、あはれに見みたまふ。御衣おほんぞどもなどかづけさせたまふを、生おけるかひありと思おもへり。御馬おほんむまども近ちかう立たてて、見みやりなる倉くらか何なにぞなる稲いね取とり出いでて飼かふなど、めづらしう見みたまふ。

 飛鳥井あすかゐすこし歌うたひて、月つきごろの御物語おほんものがたり、泣なきみ笑ゑひみ、若君わかぎみの何なにとも世よをおぼさでものしたまふ悲かなしさを、大臣おとどの明あけ暮くれにつけておぼし嘆なげく、など語かたりたまふに、堪たへがたくおぼしたり。尽つきすべくもあらねば、なかなか片端かたはしもえまねばず。夜よもすがらまどろまず、文ふみ作つくり明あかしたまふ。さ言いひながらも、ものの聞きこえをつつみて、急いそぎ帰かへりたまふ。いとなかなかなり。御土器かはらけ参まゐりて、

「酔ゑひの悲かなしび涙なみだそそく春はるの盃さかづきの裏うら」

 と、諸声もろこゑに誦ずじたまふ。御供おほんともの人ひとも涙なみだを流ながす。おのがじし、はつかなる別わかれ惜をしむべかめり。朝あさぼらけの空そらに雁かり連つれて渡わたる。主人あるじの君きみ、

「故郷ふるさとをいづれの春はるか行ゆきて見みむうらやましきは帰かへる雁かりがね」

 宰相さいしゃう、さらに立たち出いでむ心地ここちせで、

「あかなくに雁かりの常世とこよを立たち別わかれ花はなの都みやこに道みちや惑まどはむ」

 さるべき都みやこの土つち産うつとなど、由よしあるさまにてあり。主人あるじの君きみ、かくかたじけなき御送おほんおくりにとて、黒くろ駒こまたてまつりたまふ。

「ゆゆしうおぼされぬべけれど、風かぜに当あたりては、嘶いばえぬべければなむ」

 と申まうしたまふ。世よにありがたげなる御馬おほんむまのさまなり。

「形見かたみに偲しのびたまへ」

 とて、いみじき笛ふえの名なありけるなどばかり、人ひと咎とがめつべきことは、かたみにえしたまはず。

 日ひやうやうさし上あがりて、心こころあわたたしければ、顧かへりみのみしつつ出いでたまふを、見送みおくりたまふけしき、いとなかなかなり。

「いつまた対面たいめんたまはらむとすらむ。さりとも、かくてはや」

 と申まうしたまふに、主人あるじ、

「雲くも近ちかく飛とび交かふ鶴たづも空そらに見みよ我われは春はる日ひの曇くもりなき身みぞ

かつは頼たのまれながら、かくなりぬる人ひと、昔むかしのかしこき人ひとだに、はかばかしう世よにまたまじらふこと難かたくはべりければ、何なにか、都みやこのさかひをまた見みむとなむ思おもひはべらぬ」

 などのたまふ。宰相さいしゃう、

「たづかなき雲居くもゐにひとり音ねをぞ鳴なく翼はね並ならべし友ともを恋こひひつつ

かたじけなく馴なれきこえはべりて、いとしもと悔くやしう思おもひたまへらるる折をり多おほく」

 など、しめやかにもあらで帰かへりたまひぬる名残なごり、いとど悲かなしう眺ながめ暮くらしたまふ。

弥生の朔日に出で来たる巳の日

 弥生やよひの朔日ついたちに出いで来きたる巳みの日ひ、

「今日けふなむ、かくおぼすことある人ひとは、御禊ごけいしたまふべき」

 と、なまさかしき人ひとの聞きこゆれば、海うみづらもゆかしうて出いでたまふ。いとおろそかに、軟障ぜじゃうばかりを引ひきめぐらして、この国くにに通かよひける陰陽師おんみゃうじ召めして、祓はらへせさせたまふ。舟ふねにことことしき人形ひとがた乗のせて流ながすを見みたまふに、よそへられて、

「知しらざりし大海おほうみの原はらに流ながれ来きてひとかたにやはものは悲かなしき」

 とて、ゐたまへる御おほんさま、さる晴はれに出いでて、言いふよしなく見みえたまふ。

 海うみの面おもてうらうらと凪なぎわたりて、行方ゆくへも知しらぬに、来きし方かた行ゆく先さきおぼし続つづけられて、

「八百やほよろづ神かみもあはれと思おもふらむ犯をかせる罪つみのそれとなければ」

 とのたまふに、にはかに風かぜ吹ふき出いでて、空そらもかき暮くれぬ。御祓おほんはらへへもし果はてず、立たち騒さわぎたり。肱笠雨ひぢがさあめとか降ふりきて、いとあわたたしければ、みな帰かへりたまはむとするに、笠かさも取とりあへず。さる心こころもなきに、よろづ吹ふき散ちらし、またなき風かぜなり。波なみいといかめしう立たちて、人々ひとびとの足あしをそらなり。海うみの面おもては、衾ふすまを張はりたらむやうに光ひかりり満みちて、雷いかづち鳴なりひらめく。落おちかかる心地ここちして、からうしてたどり来きて、

「かかる目めは見みずもあるかな。風かぜなどは吹ふくも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり」

 と惑まどふに、なほ止とまず鳴なりみちて、雨あめの脚あし当あたる所ところ、徹とほりぬべく、はらめき落おつ。かくて世よは尽つきぬるにやと、心こころ細ほそく思おもひ惑まどふに、君きみは、のどやかに経きゃううち誦ずじておはす。暮くれぬれば、雷いかづちすこし鳴なり止とみて、風かぜぞ、夜よも吹ふく。

「多おほく立たてつる願ぐわんの力ちからなるべし。今いましばし、かくあらば、波なみに引ひかれて入いりぬべかりけり。高たか潮しほといふものになむ、とりあへず人ひとそこなはるるとは聞きけど、いと、かかることは、まだ知しらず」

 と言いひあへり。

 暁あかつき方かた、みなうち休やすみたり。君きみもいささか寝入ねいりたまへれば、そのさまとも見みえぬ人ひと来きて、

「など、宮みやより召めしあるには参まゐりたまはぬ」

 とて、たどりありくと見みるに、おどろきて、さは、海うみの中なかの龍王りうわうの、いといたうものめでするものにて、見入みいれたるなりけり、とおぼすに、いとものむつかしう、この住すまひ堪たへがたくおぼしなりぬ。

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