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『平家物語』第6巻 原文全文

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目次

新院崩御

 治承(ぢしやう)五年(ごねん)正月(しやうぐわつ)一日(いちにち)のひ、内裏(だいり)には、東国(とうごく)の兵革(ひやうかく)、南都(なんと)の火災(くわさい)によって、朝拝(てうはい)停(とど)められ、主上(しゆしやう)出御(しゆつぎよ)もなし。物(もの)の音(ね)も吹(ふ)き鳴(な)らさず、舞楽(ぶがく)も奏(そう)せず、吉野(よしの)の国栖(くず)も参(まゐ)らず、藤氏(とうじ)の公卿(くぎやう)一人(いちにん)も参(さん)ぜられず、氏寺(うぢでら)焼失(せうしつ)によってなり。二日(ふつか)のひ殿上(てんじやう)の宴酔(えんずい)もなし。男女(なんによ)うちひそめて、禁中(きんちゆう)忌々(ゆゆ)しうぞ見(み)えける。仏法(ぶつぽふ)王法(わうぼふ)ともに尽(つ)きぬることぞあさましき。一院(いちゐん)おほせなりけるは、

「われ十善(じふぜん)の余薫(よくん)によって万乗(ばんじよう)の宝位(ほうゐ)を保(たも)つ。四代(しだい)の帝王(ていわう)、思(おも)へば子(こ)なり孫(まご)なり。いかなれば万機(ばんき)の政務(せいむ)を停(とど)められて、空(むな)しう年月(としつき)を送(おく)るらむ」

 とぞ御嘆(おんなげ)きありける。

 同(おな)じき五日(いつか)のひ、南都(なんと)の僧綱(そうがう)等(ら)、闕官(けつくわん)せられ、公請(くじやう)を停止(ちやうじ)し、所職(しよしよく)を没収(もつしゆ)せらる。衆徒(しゆと)は老(お)いたるも若(わか)きも、あるいは射(い)殺(ころ)され、あるいは斬(き)殺(ころ)され、あるいは煙(けぶり)の中(なか)を出(い)でず、炎(ほのほ)に咽(むせ)んで多(おほ)く亡(ほろ)びにしかば、わづかに残(のこ)る輩(ともがら)は山林(さんりん)に交(まじ)はり、跡(あと)を留(とど)むる者(もの)一人(いちにん)もなし。興福寺(こうふくじ)別当(べつたう)花林院(くわりんゐん)僧正(そうじやう)永円(えいゑん)は、仏像(ぶつざう)経巻(きやうくわん)の煙(けぶり)とのぼりけるを見(み)て、あなあさましさ、心(こころ)うち騒(さわ)ぎ、心(こころ)をくだかれけるより病(や)みついて、幾(いく)ほどもなくつひに失(う)せたまひぬ。この僧正(そうじやう)は優(いう)に情(なさ)け深(ふか)き人(ひと)なり。ある時(とき)郭公(ほととぎす)の鳴(な)くを聞(き)いて、

聞(き)くたびにめづらしければほととぎす、いつも初音(はつね)の心地(ここち)こそすれ。

 といふ歌(うた)を詠(よ)んで、初音(はつね)僧正(そうじやう)とぞいはれたまひける。

 ただしかたのやうにても御斎会(ごさいゑ)はあるべきにて僧名(そうみやう)の沙汰(さた)ありしに、南都(なんと)の僧綱(そうがう)は闕官(けつくわん)せられぬ、北京(ほくきやう)の僧綱(そうがう)をもって行(おこな)はるべきかと公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。さらばとて南都(なんと)をも捨(す)て果(は)てさせたまふべきならねば、三論宗(さんろんしゆう)の学生(がくしやう)、成法(じやうほふ)已講(いかう)が勧修寺(くわんじゆじ)に忍(しの)びつつ隠(かく)れ居(ゐ)たりけるを召(め)し出(いだ)されて、御斎会(ごさいゑ)形(かた)ごとばかりに行(おこな)はる。

 上皇(しやうくわう)は、去々年(さをととし)法皇(ほふわう)の鳥羽殿(とばどの)におしこめられさせたまひし御(おん)こと、去年(きよねん)高倉(たかくら)宮(みや)の討(う)たれさせたまひし御有様(おんありさま)、都遷(みやこうつり)とて浅間(あさま)しうかりし天下(てんか)の乱(みだ)れ、かやうのことども御心苦(みこころぐる)しうおぼしめされけるより御悩(おんなや)みつかせたまひて、常(つね)は煩(わづら)はしうきこえさせたまひしが、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうふくじ)亡(ほろ)びぬるよしきこしめして、御悩(おんなや)み弥(いよいよ)重(かさ)ならせたまふ。法皇(ほふわう)なのめならず御嘆(おんなげ)きあるほどに、同(おな)じき正月(しやうぐわつ)十四日(じふよつか)六波羅(ろくはら)池殿(いけどの)にて、上皇(しやうくわう)つひに崩御(ほうぎよ)なりぬ。御宇十二年(ぎようじふにねん)、徳政(とくせい)千万端(せんばんたん)、詩書(ししよ)仁義(じんぎ)の廃(すた)れぬる道(みち)を興(おこ)し、理世(りせい)安楽(あんらく)の絶(た)えたる跡(あと)を継(つ)ぎたまふ。三明六通(さんみやうろくつう)の羅漢(らかん)も免(まぬか)れたまはず、幻術(げんじゆつ)変化(へんげ)の権者(ごんじや)も遁(のが)れぬ道(みち)なれば、有為無常(うゐむじやう)の習(なら)ひなれども、理(ことわり)過(す)ぎてぞおぼえける。やがてその夜(よ)東山(ひがしやま)の麓(ふもと)、清閑寺(せいかんじ)へ遷(うつ)したてまつり、夕(ゆふ)べの煙(けぶり)をたぐへ、春(はる)の霞(かすみ)と上(のぼ)らせたまひぬ。澄憲(ちようけん)法印(ほふいん)御葬送(おんさうそう)に参(まゐ)り合(あ)はんと、急(いそ)ぎ山(やま)より下(くだ)られけるが、はや空(むな)しき煙(けぶり)にならせたまふを見(み)参(まゐ)らせて、

常(つね)に見(み)し君(きみ)が御幸(ごかう)をけふ問(と)へば、かへらぬ旅(たび)とききて悲(かな)しき。

 またある女房(にようばう)、君(きみ)隠(かく)れさせたまひぬと承(うけたまは)って、かうぞ思(おも)ひつづけける。

雲(くも)の上(うへ)に行末(ゆくすゑ)遠(とほ)く見(み)し月(つき)の、光(ひかり)きえぬときくぞかなしき。

 御年(おんとし)廿一(にじふいち)。内(うち)には十戒(じつかい)を保(たも)ち、外(ほか)には五常(ごじやう)を乱(みだ)らず、礼義(れいぎ)を正(ただ)うせさせたまひけり。末代(まつだい)の賢王(けんわう)にてましましければ、世(よ)の惜(を)しみたてまつること、月日(つきひ)の光(ひかり)を失(うしな)へるがごとし。かやうに人(ひと)の願(ねが)ひも叶(かな)はず、民(たみ)の果報(くわほう)も拙(つたな)き人間(にんげん)の境(さかひ)こそ悲(かな)しけれ。

紅葉

 ゆうに優(やさし)う人(ひと)の思(おも)ひつき参(まゐ)らする方(かた)もおそらくは延喜(えんぎ)天暦(てんりやく)の帝(みかど)と申(まう)すとも、いかでかこれには勝(まさ)るべき。さて人(ひと)申(まう)しける。大方(おほかた)は賢王(けんわう)の名(な)を揚(あ)げ、仁徳(じんとく)の行(ぎやう)を施(ほどこ)させましますことも、君(きみ)御成人(ごせいじん)の後(のち)、清濁(せいだく)を分(わ)たせたまひての上(うへ)の御(おん)ことにてこそあるに、この君(きみ)は無下(むげ)に幼主(えうしゆ)の御時(おんとき)より、性(しやう)を柔和(にうわ)に受(う)けさせたまへり。去(さ)んぬる承安(じようあん)のころほひ、御在位(ございゐ)の始(はじ)めつかた、御年(おんとし)十歳(じつさい)ばかりにもならせたまひけん、あまりに紅葉(もみぢ)を愛(あい)せさせたまひて、北(きた)の陣(ぢん)に小山(こやま)を築(つ)かせ、櫨(はじ)楓(かへで)の、色(いろ)うつくしう紅葉(もみぢ)したるを植(う)ゑさせて、紅葉(もみぢ)の山(やま)と名(な)づけて、終日(ひねもす)に叡覧(えいらん)ありに、なほ飽(あ)き足(た)らせたまはず。しかるをある夜(よ)野分(のわき)はしたなう吹(ふ)いて、紅葉(もみぢ)を皆(みな)吹(ふ)き散(ち)らし、落葉(らくえふ)頗(すこぶる)狼藉(らうぜき)なり。殿守(とのもり)の伴(とも)の造(みやつこ)、朝(あさ)ぎよめすとて、これをことごとく掃(は)き捨(す)てけり。残(のこ)れる枝(えだ)、散(ち)れる木葉(このは)をば掻(か)き聚(あつ)めて、風寒(かぜかん)じかりけるあしたなれば、綾殿(あやどの)の陣(ぢん)にて、酒(さけ)煖(あたた)めてたべける薪(たきぎ)にこそしてんげれ。奉行(ぶぎやう)蔵人(くらんど)、行幸(ぎやうかう)より先(さき)にと、急(いそ)ぎ行(ゆ)きて見(み)るに、跡形(あとかた)なし。

「いかに」

 と問(と)へば、

「しかじか」

 といふ。蔵人(くらんど)大(おほ)きに驚(おどろ)き、

「あなあさまし。君(きみ)のさしも執(しふ)しおぼしめされつる紅葉(もみぢ)をかやうにしけるあさましさよ。知(し)らず、なんぢら、ただ今(いま)禁獄(きんごく)流罪(るざい)にも及(およ)び、わが身(み)もいかなる逆鱗(げきりん)にか預(あづ)からんずらん」

 と、歎(なげ)くところに、主上(しゆしやう)いと疾(と)く夜(よ)のおとどを出(いだ)させたまひも敢(あ)へず、かしこへ行幸(ぎやうかう)なって、紅葉(もみぢ)を叡覧(えいらん)なるに、なかりければ、

「いかに」

 と御尋(おんたづ)ねありに、蔵人(くらんど)奏(そう)すべき方(かた)はなし、ありの儘(まま)に奏聞(そうもん)す。天気(てんき)殊(こと)に御心好(みこころよ)げにうち笑(ゑ)ませたまひて、

「林間(りんかん)に酒(さけ)を煖(あたた)めて紅葉(もみぢ)を焼(や)くといふ詩(し)の心(こころ)をば、そのらには誰(たれ)が教(をし)へけるぞや。ゆうに仕(つかまつ)りける物(もの)かな」

 とて、却(かへ)って叡感(えいかん)に預(あづ)かりし上(うへ)は、敢(あ)て勅勘(ちよくかん)なかりけり。

 また安元(あんげん)のころほひ、御方違(おんかたたがへ)の行幸(ぎやうかう)ありしに、さらでだに鶏人(けいじん)暁唱(げうしやう)、明王(めいわう)の眠(ねむり)を驚(おどろ)かすほどにもなりしかば、なにとなく御寝覚(おんねざめ)がちにて、つやつや御寝(ぎよしん)もならざりけり。沈(しん)や冴(さ)ゆる霜夜(さうや)の烈(はげ)きには、延喜(えんぎ)聖代(せいだい)、国土(こくど)の民(たみ)どもいかに寒(さむ)からんとて御衣(ぎよい)を脱(ぬ)がせたまひけることなどまでおぼしめし出(いだ)して、わが帝徳(ていとく)の至(いた)らぬことをぞ御歎(おんなげ)きありける。やや深更(しんかう)に及(およ)んで、ほど遠(とほ)く人(ひと)の叫(さけ)ぶ声(こゑ)してけり。供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)は聞(き)き付(つ)けられざりけれども、主上(しゆしやう)きこしめして、

「今(いま)叫(さけ)ぶ者(もの)は何者(なにもの)ぞ。きと見(み)て参(まゐ)れ」

 とおほせければ、上臥(うへぶし)したる殿上人(てんじやうびと)、上日(じやうにち)の者(もの)におほす。走(はし)り散(ち)って尋(たづ)ぬれば、ある辻(つじ)に、怪(あやし)の女童(めわらは)のなきものの蓋(ふた)提(さ)げて泣(な)くにてぞありける。

「いかに」

 と問(と)へば、

「主(ぬし)の女房(にようばう)の、院(ゐん)の御所(ごしよ)に侍(さぶら)はせたまふが、このほどやうやうにして、仕立(した)てられつる御装束(おんしやうぞく)持(も)って参(まゐ)るほどに、ただ今(いま)男(をとこ)の二三人(にさんにん)諸(もろ)来(き)て、奪(うば)ひ取(と)って罷(まか)りぬるぞや。今(いま)は御装束(おんしやうぞく)があればこそ、御所(ごしよ)にもさぶらはせたまはめ、はかばかしう立(た)ち宿(やど)せたまふべき親(した)しき御方(おんかた)もましまさず。このこと思(おも)ひつづくるに泣(な)くなり」

 とぞ申(まう)しける。さてかの女童(めわらは)を具(ぐ)して参(まゐ)り、この由(よし)奏聞(そうもん)しければ、主上(しゆしやう)きこしめして、

「あな無慚(むざん)。いかなる者(もの)のしわざにてかあるらん。尭(げう)の代(よ)の民(たみ)は、尭(げう)の心(こころ)のすなほなるを以(もつ)て心(こころ)とするがゆゑに皆(みな)すなほなり。今(いま)の代(よ)の民(たみ)は、朕(ちん)が心(こころ)を以(もつ)て心(こころ)とするがゆゑに、かたましき者(もの)朝(てう)にあって罪(つみ)を犯(をか)す。これわが恥(はぢ)にあらずや」

 とぞおほせける。

「さて取(と)られつらん衣(きぬ)は何色(なにいろ)ぞ」

 と御尋(おんたづ)ねあれば、

「しかじかの色(いろ)」

 と奏(そう)す。建礼門院(けんれいもんゐん)のいまだ中宮(ちゆうぐう)にておはしましける時(とき)なり。その御方(おんかた)へ、

「かやうの色(いろ)したる御衣(ぎよい)やさうらふ」

 とおほせければ、先(さき)のより遥(はるか)に美(うつく)しきが参(まゐ)りたりけるを、件(くだん)の女童(めわらは)にぞ賜(たま)はせける。

「いまだ夜(よ)深(ふか)し、またその日(ひ)にもや逢(あ)ふ」

 とて、上日(じやうにち)の者(もの)をつけて、主(ぬし)の女房(にようばう)の局(つぼね)まで送(おく)らせましましけるぞ忝(かたじけな)き。されば怪(あやし)の賤(しづ)の男(をとこ)、賤(しづ)の女(をんな)に至(いた)るまでただこの君(きみ)千秋万歳(せんしうばんざい)の宝算(ほうさん)をぞ祈(いの)りたてまつる。

葵前

 中(なか)にも哀(あはれ)なりし御(おん)ことは、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)にさうらはせたまふ女房(にようばう)の召(め)し使(つか)ひける上童(うへわらは)、思(おも)はざる外(ほか)、竜顔(りようがん)に咫尺(しせき)することあり。ただ尋常(じんじやう)の白地(あからさま)にてもなくして主上(しゆしやう)常(つね)は召(め)されけり。まめやかに御志(おんこころざし)深(ふか)かりければ、主(ぬし)の女房(にようばう)も召(め)し使(つか)はず、却(かへ)って主(ぬし)の如(ごと)くにぞいつきもてなしける。そのかみ謳歌(おうか)にいへることあり。女(をんな)を生(う)んでもひいさんすることなかれ。男(をとこ)を生(う)んでも喜歓(きくわん)することなかれ。男(をとこ)は侯(こう)にだにも封(ほう)ぜられず、女(をんな)は妃(ひ)たりとて、局(つぼね)に立(た)つといへり。この人(ひと)女御后(にようごきさき)ともてなされ、国母仙院(こくぼせんゐん)ともあふがれなんず。目出(めで)たかりける幸(さいはひ)かなとてその名(な)をば、葵前(あふひのまへ)とぞつけければ、内々(ないない)には葵女御(あふひのにようご)などぞ呼(よ)びける。主上(しゆしやう)これをきこしめして、その後(のち)は召(め)さざりけり。

 御志(おんこころざし)の尽(つ)きぬるにはあらず、ただ世(よ)の謗(そしり)を憚(はばか)らせたまふによってなり。されば常(つね)に御詠(おんなが)めがちにて、夜(よ)のおとどにのみぞ入(い)らせたまふ。その時(とき)の関白(くわんぱく)松殿(まつどの)、御心苦(みこころぐる)しきことにこそあんなれ。申(まう)し慰(なぐさ)め参(まゐ)らせんとて、急(いそ)ぎ御参内(ごさんだい)あって、

「さやうに叡慮(えいりよ)にかからせましまさん事(こと)、何条事(なんでうごと)かさうらふべき。件(くだん)の女房(にようばう)とくとく召(め)さるべし。寵愛(ちようあい)さうらふ。品(しな)尋(たづ)ぬるに及(およ)ばず、基房(もとふさ)やがて猶子(いうし)に仕(つかまつ)りさうらはん」

 と奏(そう)せさせたまへば、主上(しゆしやう)、

「いささよ。そのことに世(よ)は謗(そし)ることなれども、位(くらゐ)を退(の)きて後(のち)は、聞(き)こゆるためしもあんなり。正(ただ)う在位(ざいゐ)の時(とき)、さやうの事(こと)は後代(こうだい)の謗(そしり)となるべし」

 とて、きこしめし入(い)れざりけり。関白(くわんぱく)威力(ゐりよく)及(およ)ばせたまはず御涙(おんなみだ)を抑(おさ)へて、御退出(ごたいしゆつ)あり。その後(のち)主上(しゆしやう)緑(みどり)の薄(うす)やうの殊(こと)に匂(にほ)ひ深(ふか)かりけるに、古(ふる)きことなれどもおぼしめし出(いだ)して遊(あそ)ばせたまひける。

しのぶれど色(いろ)に出(い)でにけりわが恋(こひ)は、物(もの)や思(おも)ふと人(ひと)のとふまで。

 この御手習(おんてならひ)を冷泉(れいぜい)少将(せうしやう)隆房(たかふさ)賜(たま)り継(つ)いで、件(くだん)の葵前(あふひのまへ)に賜(たま)はせたまふれば、顔(かほ)打(う)ち赤(あか)め、例(れい)ならぬ心地(ここち)出来(いでき)たり、とて里(さと)へ帰(かへ)りぬ。打(う)ち臥(ふ)すこと五六日(ごろくにち)してつひにはかなくなりにけり。

「君(きみ)が一日(いちにち)の恩(おん)のために妾(せふ)が百年(ひやくねん)の身(み)を誤(あやま)つ」

 ともかやうの事(こと)をや申(まう)すべき。昔(むかし)唐太宗(たうたいそう)の鄭仁基(ていじんき)が娘(むすめ)を元観殿(げんくわんでん)に入(い)れんとしたまひしを、魏徴(ぎちよう)、

「かの娘(むすめ)既(すで)に陸氏(りくし)に約(やく)せり」

 と諫(いさ)め申(まう)ししかば殿(でん)に入(い)るることをやめられけるには、少(すこ)しも違(たが)はせたまはぬ御心(みこころ)ばせなり。

小督

 主上(しゆしやう)恋慕(れんぼ)の御思(おんおも)ひに沈(しづ)ませおはします。申(まう)し慰(なぐさ)め参(まゐ)らせんとて、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)より小督殿(こがうどの)と申(まう)す女房(にようばう)を参(まゐ)らせらる。この女房(にようばう)は、桜町(さくらまち)中納言(ちゆうなごん)重教(しげのり)卿(きやう)の御娘(おんむすめ)、宮中(きうちゆう)一(いち)の美人(びじん)、琴(こと)の上手(じやうず)にておはしける。冷泉(れいぜい)大納言(だいなごん)隆房(たかふさ)卿(きやう)、いまだ少将(せうしやう)なりし時(とき)、見初(みそ)めたりし女房(にようばう)なり。少将(せうしやう)初(はじ)めは歌(うた)を詠(よ)み文(ふみ)を尽(つ)くし恋(こ)ひ悲(かな)しみたまへども、靡(なび)く気色(けしき)もなかりしが、さすが歎(なげ)きに弱(よわ)る心(こころ)にや、つひには靡(なび)きたまひけり。されども今(いま)は君(きみ)に召(め)され参(まゐ)らせて、し方(かた)もなく悲(かな)しさに、飽(あ)かぬ別(わかれ)の涙(なみだ)には、袖(そで)しほたれてほしもあへず。

 少将(せうしやう)よそながらも小督殿(こがうどの)見(み)たてまつることもやと、常(つね)は参内(さんだい)せられけり。おはしける局(つぼね)の辺(ほとり)、御簾(みす)のあたりをあなたこなたへ行(ゆ)き通(とほ)りたたずみ歩(ある)きたまへども、小督殿(こがうどの)わが君(きみ)に召(め)されん上(うへ)は、少将(せうしやう)いかにいふとも、詞(ことば)をもかはし文(ふみ)を見(み)るべきにもあらずとて、便(つて)の情(なさけ)をだにも懸(か)けられず。少将(せうしやう)もしやと、一首(いつしゆ)の歌(うた)を詠(よ)んで、小督殿(こがうどの)のおはしける御簾(みす)の中(なか)へ投(な)げ入(い)れたり。

思(おも)ひかね心(こころ)は空(そら)にみちのくの、ちかの塩竃(しほがま)近(ちか)きかひなし。

 小督殿(こがうどの)、やがて返事(へんじ)もせばやとおもはれけめども、君(きみ)の御(おん)ため、御後(おんうし)ろめたうやおもはれけん、手(て)にだに取(と)っても見(み)たまはず。やがて上童(うへわらは)に取(と)らせて、坪(つぼ)の内(うち)へぞ投(な)げ出(いだ)す。少将(せうしやう)情(なさ)けなく恨(うら)めしけれども、人(ひと)もこそ見(み)れと、空恐(そらおそ)ろしうおもはれければ、急(いそ)ぎこれを取(と)って懐(ふところ)に入(い)れてぞ出(い)でられける。なほ立(た)ち帰(かへ)って、

玉章(たまづさ)を今(いま)は手(て)にだにとらじとや、さこそ心(こころ)に思(おも)ひすつとも。

 今(いま)はこの世(よ)にて相見(あひみ)んことも難(かた)ければ、生(い)きて物(もの)を思(おも)ふより、死(し)なんとのみぞ願(ねが)ひける。

 入道相国(にふだうしやうこく)これを聞(き)き、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)すも御女(おんむすめ)なり、冷泉(れいぜい)少将(せうしやう)も婿(むこ)なり。小督殿(こがうどの)に、二人(ににん)の婿(むこ)を取(と)られて、

「いやいや小督(こがう)があらん限(かぎ)りは世(よ)の中(なか)好(よ)まじ。召(め)し出(いだ)して失(うしな)はん」

 とぞのたまひける。小督殿(こがうどの)漏(も)れ聞(き)いて、

「わが身(み)のことはいかでもありなん、君(きみ)の御(おん)ため御心苦(みこころぐる)し」

 とてある暮方(くれがた)に内裏(だいり)を出(い)でて、行方(ゆくへ)も知(し)らず失(う)せたまひぬ。主上(しゆしやう)御歎(おんなげ)きなのめならず、昼(ひる)は夜(よ)のおとどに入(い)らせたまひて、御涙(おんなみだ)にのみ咽(むせ)び、夜(よ)は南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)なって、月(つき)の光(ひかり)を御覧(ごらん)じてぞ慰(なぐさ)ませたまひける。入道相国(にふだうしやうこく)これを聞(き)き、

「君(きみ)は、小督(こがう)ゆゑにおぼしめし沈(しづ)ませたまひたんなり。さらむには」

 とて、御介錯(おんかいしやく)の女房達(にようばうたち)をも参(まゐ)らせず、参内(さんだい)したまふ臣下(しんか)をも猜(そね)みたまへば、入道(にふだう)の権威(けんゐ)に憚(はばか)って、通(かよ)ふ人(ひと)もなし。禁中(きんちゆう)、弥(いよいよ)忌々(ゆゆ)しうぞ見(み)えける。

 かくて八月(はちぐわつ)十日(とをか)余(あま)りになりにけり。さしも隈(くま)なき空(そら)なれど、主上(しゆしやう)は御涙(おんなみだ)に曇(くも)りつつ、月(つき)の光(ひかり)も朦朧(もうろう)にぞ御覧(ごらん)ぜられける。やや深更(しんかう)に及(およ)んで、

「人(ひと)やある」

 と召(め)されけれども、御(おん)いらへ申(まう)す者(もの)もなし。弾正少弼(だんじやうせうひつ)仲国(なかくに)その夜(よ)しも御宿直(おんとのゐ)に参(まゐ)って遥(はるか)に遠(とほ)うさうらふが、

「仲国(なかくに)」

 と御(おん)いらへ申(まう)したりければ、

「近(ちか)う参(まゐ)れ。おほせ下(くだ)さるべき事(こと)あり」

 何(なに)ことやらんとて御前(ごぜん)近(ちか)う参(さん)じたりければ、

「なんぢもし小督(こがう)が行方(ゆくへ)や知(し)ったる」

 仲国(なかくに)、

「いかが知(し)り参(まゐ)らせさうらふべき。ゆめゆめ知(し)り参(まゐ)らせずさうらふ」

「まことやらん、小督(こがう)は嵯峨(さが)の辺(ほとり)に片折戸(かたをれど)とかやしたる内(うち)にありと申(まう)す者(もの)のあるぞよ。主(ぬし)が名(な)をば知(し)らずとも、尋(たづ)ねて参(まゐ)らせなんや」

 とおほせければ、

「主(ぬし)が名(な)を知(し)りさうらはでは、いかが尋(たづ)ね参(まゐ)らせさうらふべき」

 と申(まう)せば、

「げにも」

 とて、竜顔(りようがん)より御涙(おんなみだ)を流(なが)させたまふ。仲国(なかくに)つくづくと物(もの)を案(あん)ずるに、まことや、小督殿(こがうどの)は、琴(こと)弾(ひ)きたまひしぞかし。この月(つき)の明(あか)るさに、君(きみ)の御(おん)ことおぼし出(い)で参(まゐ)らせて、琴(こと)弾(ひ)きたまはぬことはよもあらじ。御所(ごしよ)にて弾(ひ)きたまひしには、仲国(なかくに)笛(ふえ)の役(やく)に召(め)されしかば、その琴(こと)の音(ね)は、いづくなりとも聞(き)き知(し)らんずる物(もの)を。嵯峨(さが)の在家(ざいけ)幾(いく)ほどかあるべき。うち廻(めぐ)って尋(たづ)ねんに、なぞか聞(き)き出(い)ださざるべきとおもひければ、

「ささうらはば、主(ぬし)が名(な)は知(し)らずとも、もしやと尋(たづ)ね参(まゐ)らせて見(み)さうらはん。ただし尋(たづ)ね逢(あ)ひ参(まゐ)らせてさうらふとも御書(ごしよ)をたまはらで申(まう)さんにはうはの空(そら)にやおぼしめされさうらはんずらん。御書(ごしよ)を賜(たま)はって向(む)ひさうらはん」

 と申(まう)しければ、まことにもとて、御書(ごしよ)をあそばいてたうだりけり。

「寮(れう)の御馬(おんうま)に乗(の)って行(ゆ)け」

 とぞおほせける。仲国(なかくに)寮(れう)の御馬(おんうま)たまはって、明月(めいげつ)に鞭(むち)を揚(あ)げ、小鹿(をじか)鳴(な)くこの山(やま)里(さと)と詠(よ)じけん、嵯峨(さが)の辺(ほとり)の秋(あき)の比(ころ)、そこここは哀(あはれ)にも覚(おぼ)えけめ、片折戸(かたをれど)したる屋(や)を見付(みつ)けては、この内(うち)にやおはすらんと、ひかへひかへ聞(き)けれども、琴(こと)弾(ひ)きたまふ所(ところ)もなかりけり。御堂(みだう)などへ参(まゐ)りたまへることもやと、釈迦堂(しやかだう)を始(はじ)めて堂々(だうだう)見(み)廻(めぐ)れども、小督殿(こがうどの)に似(に)たる女房(にようばう)だに見(み)えたまはず。空(むな)しう帰(かへ)り参(まゐ)りたらんは、中々(なかなか)参(まゐ)らざらんよりは悪(あし)かるべし。これよりもいづちへも迷(まよ)ひ行(ゆ)かばやとおもへども、いづくか王地(わうぢ)ならぬ身(み)をかくすべき宿(やど)もなし。いかにせんとおもひ煩(わづら)ふ。まことや、法輪(ほふりん)はほど近(ちか)ければ、月(つき)の光(ひかり)に誘(さそ)はれて参(まゐ)りたまへることもやと、その方(かた)に向(む)ってぞ歩(あゆ)ませける。

 亀山(かめやま)の傍(かたはら)近(ちか)く、松(まつ)の一村(ひとむら)ある方(かた)に、幽(かすか)に琴(こと)ぞきこえける。峰(みね)の嵐(あらし)か松風(まつかぜ)か、尋(たづ)ぬる人(ひと)の琴(こと)の音(ね)か、おぼつかなくはおもへども、駒(こま)を早(はや)めて行(ゆ)くほどに、片折戸(かたをれど)したる内(うち)に、琴(こと)をぞ弾(ひ)き澄(す)まされたる。控(ひか)へてこれを聞(き)ければ、少(すこ)しも紛(まぎ)るべうもなき小督殿(こがうどの)の爪音(つまおと)なり。楽(がく)は何(なに)ぞと聞(き)ければ、夫(をつと)を想(おも)って恋(こ)ふると詠(よ)む想夫恋(さうふれん)といふ楽(がく)なり。さればこそ、君(きみ)の御(おん)ことおぼし出(い)で参(まゐ)らせて、楽(がく)こそ多(おほ)けれ、この楽(がく)を弾(ひ)きたまひける優(やさ)しさよ。ありがたう覚(おぼ)えて腰(こし)よりやうでう抜(ぬ)き出(いだ)し、ちと鳴(な)いて、門(もん)をほとほとと敲(たた)けば、やがて弾(ひ)き止(や)めたまひぬ。

 高声(かうしやう)に、

「これは内裏(だいり)より仲国(なかくに)が御使(おんつかひ)に参(まゐ)ってさうらふ。開(ひら)かせたまへ」

 とて、たたけどもたたけども、答(こた)ふる人(ひと)もなかりけり。ややあって、内(うち)より人(ひと)の出(い)づる音(おと)のしければ嬉(うれし)うおもひて待(ま)つ所(ところ)に、鎖子(ぢやう)をはづし、門(もん)を細目(ほそめ)に開(ひら)け、いたいけしたる小女房(こにようばう)、顔(かほ)ばかり指(さ)し出(い)だいて、

「門違(かどたがひ)にてぞさうらふらん。これには、内裏(だいり)より御使(おんつかひ)などたまはるべき所(ところ)にてもさうらはず」

 と申(まう)せば、中々(なかなか)返事(へんじ)して門(もん)立(た)てられ、鎖子(ぢやう)さされては悪(あし)かりなんとおもひて、押(お)し開(ひら)いてぞ入(い)りにける。妻戸(つまど)の際(きは)の縁(えん)に居(ゐ)て、

「いかにかかる所(ところ)には御渡(おんわた)りさうらふやらん。君(きみ)は御(おん)ゆゑにおぼしめし沈(しづ)ませたまひて御命(おんいのち)も既(すで)に危(あやふ)うこそ見(み)えさせおはしましさうらへ。ただうはの空(そら)に申(まう)すとやおぼしめされさうらはん。御書(ごしよ)をたまはって参(まゐ)ってさうらふ」

 とて、取(と)り出(いだ)してたてまつる。

 ありつる女房(にようばう)取(と)り次(つ)いで、小督殿(こがうどの)に参(まゐ)らせたり。開(ひら)いて見(み)たまへば、まことに君(きみ)の御書(ごしよ)なりけり。やがて御返事(おんへんじ)書(か)き引(ひ)き結(むす)び、女房(にようばう)の装束(しやうぞく)一重(ひとかさね)添(そ)へて出(いだ)されたり。仲国(なかくに)、女房(にようばう)の装束(しやうぞく)をば肩(かた)にうちかけ申(まう)しけるは、

「余(ほか)の御使(おんつかひ)でさうらはば御返事(おんへんじ)の上(うへ)はとやかう申(まう)すに及(およ)びさうらはねども、日(ひ)ごろ内裏(だいり)にて御琴(おんこと)遊(あそ)ばしし時(とき)、仲国(なかくに)笛(ふえ)の役(やく)に召(め)されさうらひし奉公(ほうこう)をばいかが御忘(おんわす)れさうらふべき。直(ぢき)の御返事(おんへんじ)を承(うけたまは)らで帰(かへ)り参(まゐ)らんことこそ世(よ)に口惜(くちを)うさうらへ」

 と申(まう)しければ、小督殿(こがうどの)げにもとやおもはれけん、みづから返事(へんじ)したまひけり。

「そこにもきかせたまひつらん、入道相国(にふだうしやうこく)あまりに怖(こは)きことをのみ申(まう)すと聞(き)きしがあさましさに、内裏(だいり)をば逃(に)げ出(い)でて、このほどはかかる栖(すま)ひなれば、琴(こと)など弾(ひ)くことなかりつれども、さてもあるべきならねば、明日(みやうにち)よりは大原(おほはら)の奥(おく)におもひ立(た)つことのさうらへば、主(ぬし)の女房(にようばう)の今夜(こんや)ばかりの名残(なごり)を惜(を)しうで、今(いま)は夜(よ)も更(ふ)けぬ、立(た)ち聞(き)く人(ひと)もあらじなど勧(すす)めれば、さぞな昔(むかし)の名残(なごり)もさすが床(ゆか)しくて、手馴(てな)らし琴(こと)を弾(ひ)くほどに、安(やす)うも聞(き)き出(いだ)されけりな」

 とて、涙(なみだ)もせき敢(あ)へたまはねば、仲国(なかくに)も袖(そで)をぞ濡(ぬ)らしける。ややあって、仲国(なかくに)涙(なみだ)を抑(おさ)へて申(まう)しけるは、

「明日(みやうにち)より大原(おほはら)の奥(おく)におぼしめし立(た)つこととさうらは、御様(おんさま)などを変(か)へさせたまふべきにこそ。ゆめゆめあるべうもさうらはず。さて君(きみ)の御歎(おんなげ)きをば何(なに)とかし参(まゐ)らせたまふべき。こればし出(いだ)し参(まゐ)らすな」

 とて、供(とも)に召(め)し具(ぐ)したる馬部(うまべ)吉上(きちじやう)など留(と)め置(お)き、その屋(や)を守護(しゆご)せさせ、寮(れう)の御馬(おんうま)にうち騎(の)って、内裏(だいり)へ帰(かへ)り参(まゐ)りたれば、ほのぼのと明(あ)けにけり。

「今(いま)は入御(にふぎよ)もなりぬらん。誰(たれ)して申(まう)し入(い)るべき」

 とて、寮(れう)の御馬(おんうま)繋(つな)がせ、ありつる女房(にようばう)の装束(しやうぞく)をばはね馬(むま)の障子(しやうじ)にうち掛(か)け、南殿(なんでん)の方(かた)へ参(まゐ)れば主上(しゆしやう)はいまだ夜辺(よべ)の御座(ぎよざ)にぞましましける。

「南(なん)に翔(と)び北(ほく)に嚮(むか)ふ、寒温(かんをん)を秋鴻(しうこう)に付(つ)け難(かた)し。東(とう)に出(い)で西(せい)に流(なが)れ、ただ瞻望(せんばう)を暁(あかつき)の月(つき)に寄(よ)す」

 と、うち詠(よ)ませたまふところに、仲国(なかくに)つと参(まゐ)りたり。小督殿(こがうどの)の御返事(おんへんじ)をぞ参(まゐ)らせたる。主上(しゆしやう)なのめならず御感(ぎよかん)なって、

「なんぢやがてよさり具(ぐ)して参(まゐ)れ」

 とおほせければ、入道相国(にふだうしやうこく)の還(かへ)り聞(き)きたまはんところ怖(おそ)ろしけれども、これまた綸言(りんげん)なれば、雑色(ざふしき)牛飼(うしかひ)牛車(うしくるま)清(きよ)げに沙汰(さた)して、嵯峨(さが)へ行向(ゆきむか)ひ、参(まゐ)るまじき由(よし)やうやうにのたまへども、さまざまに拵(こしら)へて、車(くるま)にとり乗(の)せたてまつり、内裏(だいり)へ参(まゐ)りたりければ、幽(かすか)なる所(ところ)に忍(しの)ばせて、夜々(よなよな)召(め)されけるほどに、姫宮(ひめみや)御一所(おんひとところ)出来(いでき)させたまひけり。この姫宮(ひめみや)と申(まう)すは坊門(ばうもん)の女院(にようゐん)の御(おん)ことなり。入道相国(にふだうしやうこく)何(なに)としてか漏(も)れ聞(き)いたりけん、

「小督(こがう)が失(う)せたりといふことは、跡形(あとかた)もなき虚言(そらごと)なりけり」

 とて小督殿(こがうどの)を捕(とら)へつつ、尼(あま)になしてぞ放(はな)たる。小督殿(こがうどの)出家(しゆつけ)は元(もと)よりの望(のぞみ)なりけれども、心(こころ)ならず尼(あま)になされて、歳(とし)二十三(にじふさん)、濃墨染(こずみぞめ)に窶(やつ)れ果(は)てて嵯峨(さが)の辺(ほとり)にぞすまれける。うたてかりしことどもなり。主上(しゆしやう)はかやうのことどもに、御悩(おんなや)みはつかせたまひて、遂(つひ)に御隠(おんかく)れありけるとぞきこえし。

 法皇(ほふわう)はうち続(つづ)き御歎(おんなげ)きのみぞ繁(しげ)かりける。去(さ)る永万(えいまん)には第一(だいいち)の御子(おんこ)、二条院(にでうゐん)崩御(ほうぎよ)なりぬ。安元(あんげん)二年(にねん)の七月(しちぐわつ)には御孫(おんまご)六条院(ろくでうゐん)かくれさせたまひぬ。天(てん)に栖(す)まば比翼鳥(ひよくてう)、地(ち)にすまば連理枝(れんりし)とならんと、漢河(かんが)の星(ほし)を指(さ)して、御契(おんちぎり)浅(あさ)からざりし建春門院(けんしゆんもんゐん)、秋(あき)の霧(きり)に侵(をか)されて、朝(あさ)の露(つゆ)と消(き)させたまひぬ。年月(としつき)は重(かさ)なれども、昨日今日(きのふけふ)の御別(おんわかれ)のやうにおぼしめして、御涙(おんなみだ)もいまだ尽(つ)きせぬに、治承(ぢしやう)四年(よねん)五月(ごぐわつ)には、第二皇子(だいにわうじ)高倉(たかくら)宮(みや)討(う)たれさせたまひぬ。現世後生(げんぜごしやう)たのみおぼしめされつる新院(しんゐん)さへ先立(さきだ)たせたまひぬれば、とにかくに、かこつ方(かた)なき御涙(おんなみだ)のみぞ進(すす)みける。

「悲(かな)しみの至(いた)って悲(かな)しきは、老(お)いて後(のち)子(こ)に後(おく)れたるよりも悲(かな)しきはなし。恨(うら)みの至(いた)って恨(うら)めしきは、若(わか)うして親(おや)に先立(さきだ)つよりも恨(うら)めしきはなし」

 と、かの朝綱相公(あさつなしやうこう)の、子息(しそく)澄明(すみあきら)に後(おく)れて、書(か)いたりけん筆(ふで)のあと今(いま)こそおぼしめし知(し)られけれ。さるままにはかの一乗妙典(いちじようめうでん)の御読誦(おんどくじゆ)も、怠(おこた)らせたまはず、三密行法(さんみつぎやうほふ)の御薫修(おんくんじゆ)も、積(つ)もらせたまひけり。天下(てんか)、諒闇(りやうあん)になりしかば、大宮人(おほみやびと)も推並(おしなべ)て、華(はな)の袂(たもと)や窶(やつ)れけん。

廻文

 入道相国(にふだうしやうこく)、かやうに痛(いた)く情(なさ)けなう振舞(ふるま)ひおかれしことを、さすが怖(おそ)ろしとやおもはれけん、法皇(ほふわう)慰(なぐさ)め参(まゐ)らせんとて、安芸(あき)の厳島(いつくしま)の内侍(ないし)が腹(はら)の御娘(おんむすめ)、生年(しやうねん)十八(じふはち)になりたまふが、優(いう)に花(はな)やかにおはしけるを法皇(ほふわう)へ参(まゐ)らせらる。上臈(じやうらふ)女房達(にようばうたち)あまた選(えら)ばれて、参(まゐ)られける。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)多(おほ)く供奉(ぐぶ)して、偏(ひとへ)に女御参(にようござん)の如(ごと)くにてぞありける。上皇(しやうくわう)隠(かく)れさせたまひて後(のち)、僅(わづか)に二七日(ふたなぬか)だにも過(す)ぎざるに、しかるべからずとぞ人々(ひとびと)内々(ないない)は呟(つぶや)きあはれける。

 さるほどに、そのころ信濃国(しなののくに)に、木曽(きそ)冠者(くわんじや)義仲(よしなか)といふ源氏(げんじ)ありときこえけり。故六条判官為義(ころくでうほうぐわんためよし)が次男(じなん)帯刀先生(たちはきのせんじやう)義方(よしかた)が子(こ)なり。父(ちち)義方(よしかた)は、久寿(きうじゆ)二年(にねん)八月(はちぐわつ)十六日(じふろくにち)鎌倉(かまくら)の悪源太(あくげんた)義平(よしひら)がために討(う)たせらる。その時(とき)義仲(よしなか)二歳(にさい)なりしを、母(はは)泣(な)く泣(な)く抱(いだ)いて信濃(しなの)へ越(こ)え、木曽(きそ)中三(ちゆうざう)兼遠(かねとほ)が許(もと)に行(ゆ)き、

「これいかにもして育(そだ)て、人(ひと)になって見(み)せたまへ」

 といひければ、兼遠(かねとほ)請(う)け取(と)ってかひぐしう二十余年(にじふよねん)養育(やういく)す。漸(やうや)く長大(ちやうだい)する儘(まま)に、力(ちから)も世(よ)に勝(まさ)れてつよく、心(こころ)も双(ならび)なく甲(かひ)なりけり。ありがたき強弓(つよゆみ)精兵(せいびやう)、馬(むま)の上(うへ)、かちだち、すべて上古(しやうこ)の田村(たむら)、利仁(としひと)、余五将軍(よごしやうぐん)、致頼(むねより)、保昌(やすまさ)、先祖(せんぞ)頼光(らいくわう)、義家朝臣(よしいへのあそん)といふとも、いかがこれには勝(まさ)るべきとぞ人(ひと)申(まう)しける。ある時(とき)乳母(めのと)の兼遠(かねとほ)を召(め)してのたまひける。

「兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)既(すで)に謀反(むほん)を起(お)し、東八箇国(とうはつかこく)を討(う)ち従(したが)へて、東海道(とうかいだう)より上(のぼ)り、平家(へいけ)を追(お)ひ落(お)さんとするなり。義仲(よしなか)も東山北陸両道(とうせんほくろくりやうだう)を従(したが)へ、今(いま)一日(いちにち)も先(さき)に平家(へいけ)を責(せ)め落(お)し、たとへば日本国(につぽんこく)に、二人(ににん)の将軍(しやうぐん)といはればや」

 とほのめかしければ、中三(ちゆうざう)兼遠(かねとほ)大(おほ)きに畏(かしこ)まり悦(よろこ)んで、

「その料(れう)にこそ、君(きみ)をば今(いま)まで養育(やういく)したてまつれ。かうおほせらるるこそまことに八幡殿(はちまんどの)の御末(おんすゑ)とも覚(おぼ)えさせたまへ」

 とて、やがて謀反(むほん)を企(くはだ)てけり。兼遠(かねとほ)に具(ぐ)せられて常(つね)は都(みやこ)へ上(のぼ)り平家(へいけ)の人々(ひとびと)の振舞(ふるま)ひ有様(ありさま)をも見(み)向(む)ひけり。十三(じふさん)で元服(げんぶく)しけるも、八幡(やはた)へ参(まゐ)り八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御前(ごぜん)にて、

「わが四代(しだい)の祖父(おほぢ)義家朝臣(よしいへのあそん)はこの御神(おんかみ)の御子(おんこ)となって名(な)をば八幡太郎(はちまんたらう)と号(がう)しき。且(かつ)はその跡(あと)を追(お)ふべし」

 とて八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御宝前(ごほうぜん)にて鬢(びん)取(と)り上(あ)げ、木曽(きそ)次郎(じらう)義仲(よしなか)とこそ付(つ)けたりけれ。兼遠(かねとほ)まづ廻文(くわいぶん)さうらふべしとて、信濃国(しなののくに)には、祢井小弥太(ねのこやた)滋野行親(しげののゆきちか)を語(かた)らふに、背(そむ)くことなし。これを始(はじ)めて、信濃(しなの)一国(いつこく)の兵(つはもの)ども、なびかぬ草木(さうもく)もなかりけり。上野国(かうづけのくに)には故(こ)帯刀先生(たちはきのせんじやう)義方(よしかた)が好(よしみ)にて田子郡(たごのこほり)の兵(つはもの)ども、皆(みな)随(したが)ひ付(つ)きにけり。平家(へいけ)の末(すゑ)になる折(をり)を得(え)て、源氏(げんじ)の年来(ねんらい)の素懐(そくわい)を遂(と)げんとす。

飛脚到来

 木曽(きそ)といふ所(ところ)は、信濃(しなの)に取(と)っても南(みなみ)の端(はし)、美濃(みの)境(さかひ)なれば都(みやこ)も無下(むげ)にほど近(ちか)し。平家(へいけ)の人々(ひとびと)漏(も)れ聞(き)いて、

「東国(とうごく)の背(そむ)きだにあるに北国(ほくこく)さへ、こはいかに」

 とぞ噪(さわ)がれける。入道相国(にふだうしやうこく)おほせられけるは、

「その者(もの)心(こころ)にくからず。おもへば信濃(しなの)一国(いつこく)の兵(つはもの)どもこそ、随(したが)ひ付(つ)くといふとも、越後国(ゑちごのくに)には、余五将軍(よごしやうぐん)の末葉(ばつえふ)、城太郎(じやうのたらう)助長(すけなが)、同(おな)じき四郎(しらう)助茂(すけもち)、これらは兄弟(きやうだい)ともに多勢(たぜい)の者(もの)なり。おほせ下(くだ)したらんずるに、安(やす)う討(う)って参(まゐ)らせんず」

 とのたまひければ、

「いかにあらんずらむ」

 と内々(ないない)は呟(つぶや)く者(もの)多(おほ)かりけり。

 二月(にぐわつ)二日(ふつか)のひ、越後国(ゑちごのくに)住人(ぢゆうにん)、城太郎(じやうのたらう)助長(すけなが)、越後守(ゑちごのかみ)に任(にん)ず。これは木曽(きそ)追討(ついたう)せられんずる謀(はかりごと)とぞきこえし。同(おな)じき七日(なぬか)大臣(だいじん)以下(いげ)家々(いへいへ)にて、尊勝陀羅尼(そんしようだらに)、不動明王(ふどうみやうわう)、書(か)き供養(くやう)せらる。これはまた兵乱(ひやうらん)の慎(つつしみ)のためなり。

 同(おな)じき九日(ここのか)、河内国(かはちのくに)石川郡(いしかはのこほり)に居住(きよぢゆう)したりける武蔵権守(むさしのごんのかみ)入道(にふだう)義基(よしもと)、子息(しそく)石川(いしかは)判官代(ほうぐわんだい)義兼(よしかね)、平家(へいけ)を背(そむ)いて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)に心(こころ)を通(かよ)はし既(すで)に東国(とうごく)へ落(お)ち行(ゆ)くべき由(よし)きこえしかば、入道相国(にふだうしやうこく)やがて討手(うつて)を遣(つか)はす。討手(うつて)の大将(だいしやう)には源大夫判官(げんだいふはうぐわん)末方(すゑかた)、摂津判官(せつつのはうぐわん)盛澄(もりずみ)、都合(つがふ)その勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)で発向(はつかう)す。城(しろ)の内(うち)には武蔵権守(むさしのごんのかみ)入道(にふだう)義基(よしもと)子息(しそく)判官代(ほうぐわんだい)義兼(よしかね)を先(さき)として、その勢(せい)百(ひやく)騎(き)ばかりには過(す)ぎざりけり。鬨(とき)作(つく)り矢合(やあはせ)して、入(い)りかへ入(い)りかへ数刻(すうこく)戦(たたか)ふ。城(しろ)の内(うち)の兵(つはもの)ども、手(て)のきは戦(たたか)ひ、討(う)ち死(し)にする者(もの)多(おほ)かりけり。武蔵権守(むさしのごんのかみ)入道(にふだう)義基(よしもと)討(う)ち死(し)にす。子息(しそく)石川(いしかは)判官代(ほうぐわんだい)義兼(よしかね)は、痛手(いたで)負(お)うて生(い)け捕(ど)りにせらる。同(おな)じき十一日(じふいちにち)義基(よしもと)法師(ほふし)が首(くび)都(みやこ)へ入(はい)って大路(おほぢ)を渡(わた)さる。諒闇(りやうあん)に賊首(ぞくしゆ)を渡(わた)さるること、堀河天皇(ほりかはのてんわう)崩御(ほうぎよ)の時(とき)、前対馬守(さきのつしまのかみ)源義親(みなもとのよしちか)が首(くび)ぞ渡(わた)されし例(れい)とぞきこえし。

 同(おな)じき十二日(じふににち)、鎮西(ちんぜい)より飛脚到来(ひきやくたうらい)、宇佐大宮司(うさのだいぐうじ)公通(きんみち)が申(まう)しけるは、九州(きうしう)の者(もの)ども、緒方三郎(をがたのさぶらう)を始(はじ)めとして、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらたう)に至(いた)るまで、一向(いつかう)平家(へいけ)を背(そむ)いて源氏(げんじ)に同心(どうしん)の由(よし)申(まう)したりければ、

「東国(とうごく)北国(ほくこく)の背(そむ)きだにあるに、こはいかに」

 とて、手(て)をうってあざみ合(あ)へり。

 同(おな)じき十六日(じふろくにち)に、伊予国(いよのくに)より飛脚到来(ひきやくたうらい)、去年(きよねん)の冬比(ふゆごろ)より、河野(かうの)四郎(しらう)通清(みちきよ)を始(はじ)めとして、四国(しこく)の者(もの)ども、皆(みな)平家(へいけ)を背(そむ)いて、源氏(げんじ)に同心(どうしん)の間(あひだ)、備後国(びんごのくに)の住人(ぢゆうにん)、額(ぬか)の入道(にふだう)西寂(さいじやく)、平家(へいけ)に志(こころざし)深(ふか)かりければ、伊予国(いよのくに)へおし渡(わた)り、道前道後(だうぜんだうご)のさかひ、高直城(たかなほのしろ)にて、河野(かうの)四郎(しらう)通清(みちきよ)を討(う)ちさうらひぬ。子息(しそく)河野(かうの)四郎(しらう)通信(みちのぶ)父(ちち)が討(う)たれける時(とき)、安芸国(あきのくに)の住人(ぢゆうにん)奴田次郎(ぬたのじらう)は母方(ははかた)の伯父(をぢ)なりければ、そこへ越(こ)えてありあはず。通信(みちのぶ)父(ちち)を討(う)たせて安(やす)からぬ者(もの)なり。いかにもして西寂(さいじやく)を討(う)ち取(と)らんとぞ窺(うかが)ひける。

 額(ぬか)入道(にふだう)西寂(さいじやく)河野(かうの)四郎(しらう)通清(みちきよ)を討(う)って後(のち)、四国(しこく)の狼藉(らうぜき)を鎮(しづ)め、今年(ことし)正月(しやうぐわつ)十五日(じふごにち)に備後(びんご)の鞆(とも)へおし渡(わた)り、遊君遊女(いうくんいうぢよ)ども聚(あつ)めて、遊(あそ)び戯(たはぶ)れ酒(さけ)もりしけるが、前後(ぜんご)も知(し)らず酔(ゑ)ひ臥(ふ)したるところに、河野(かうの)四郎(しらう)思(おも)ひ切(き)ったる者(もの)ども百余人(ひやくよにん)相(あひ)語(かた)って、はっと押(お)し寄(よ)す。西寂(さいじやく)が方(かた)にも三百余人(さんびやくよにん)ありける者(もの)ども、俄(にはか)のことなれば、思(おも)ひも設(まう)けず周章(あわて)ふためきけるを、立(た)ち合(あ)ふ者(もの)をば射(い)伏(ふ)せ切(き)り伏(ふ)せ、まづ西寂(さいじやく)を生(い)け捕(ど)りにして、伊予国(いよのくに)へ押(お)し渡(わた)り、父(ちち)が討(う)たれたる高直城(たかなほのしろ)へさげて行(ゆ)き、鋸(のこぎり)で頸(くび)を切(き)ったりともきこえけり。また磔(はりつけ)にしたりともきこえけり。

入道死去

 その後(のち)四国(しこく)の者(もの)ども、皆(みな)河野(かうの)四郎(しらう)に随(したが)ひ付(つ)く。熊野別当(くまのべつたう)湛増(たんぞう)も、平家(へいけ)の重恩(ぢゆうおん)の身(み)なりしが、それも背(そむ)いて源氏(げんじ)に同心(どうしん)の由(よし)きこえけり。およそ東国(とうごく)北国(ほくこく)ことごとく背(そむ)きぬ。南海西海(なんかいさいかい)かくのごとし。夷狄(いてき)の蜂起(ほうき)耳(みみ)を驚(おどろ)かし、逆乱(ぎやくらん)の先表(せんぺう)頻(しきり)に奏(そう)す。四夷(しい)たちまちに起(お)れり。世(よ)はただ今(いま)失(う)せなんずとて、必(かなら)ず平家(へいけ)の一門(いちもん)ならねども、心(こころ)ある人々(ひとびと)の歎(なげ)き悲(かな)しまぬはなかりけり。

 同(おな)じき廿三日(にじふさんにち)、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)申(まう)されけるは坂東(ばんどう)へ討手(うつて)は向(む)ったりといへども、させるため出(いだ)したることもさうらはず。今度(こんど)は宗盛(むねもり)大将軍(たいしやうぐん)を承(うけたまは)って、向(む)ふべき由(よし)申(まう)されければ、諸卿(しよけい)色代(しきだい)して、

「ゆゆしうさうらはなん」

 と申(まう)されけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)も、武官(ぶくわん)に備(そな)はり、弓箭(きゆうせん)に携(たづさ)はらん人々(ひとびと)は、宗盛卿(むねもりのきやう)を大将軍(たいしやうぐん)にて、東国(とうごく)北国(ほくこく)の凶徒(きようと)等(ら)追討(ついたう)すべき由(よし)おほせ下(くだ)さる。

 同(おな)じき二十七日(にじふしちにち)前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)源氏(げんじ)追討(ついたう)のために、東国(とうごく)へ既(すで)に門出(かどで)ときこえしかば、入道相国(にふだうしやうこく)違例(ゐれい)の心地(ここち)とて、留(とど)まりたまひぬ。明(あく)る廿八日(にじふはちにち)重病(ぢゆうびやう)を受(う)けたまへりとて、京中(きやうぢゆう)六波羅(ろくはら)、

「すは仕(し)つることを」

 と呟(つぶや)けり。入道相国(にふだうしやうこく)病(や)みつきたまひし日(ひ)よりして、水(みづ)をだに喉(のんど)へ入(い)れたまはず、身(み)の内(うち)の熱(あつ)きこと火(ひ)を焼(た)くが如(ごと)し。臥(ふ)したまへる所(ところ)、四五間(しごけん)が内(うち)へ入(い)る者(もの)は、熱(あつ)さ堪(た)へがたし。ただのたまふこととては、

「あたあた」

 とばかりなり。少(すこ)しも徒事(ただごと)とは見(み)えざりけり。

 比叡山(ひえいざん)より、千手井(せんぢゆゐ)の水(みづ)を汲(く)み下(くだ)し、石(いし)の船(ふね)に湛(たた)へて、そこに下(くだ)って冷(ひ)えたまへば、水(みづ)夥(おびただ)う涌(わ)き上(のぼ)って、ほどなく湯(ゆ)にぞなりにける。もしや扶(たす)かりたまふと筧(かけひ)の水(みづ)をまかせたまへば、石(いし)や鉄(くろがね)などの焼(や)けたるやうに、水(みづ)迸(ほとばし)って寄(よ)り付(つ)かず。みづから中(あ)たる水(みづ)は、焔(ほのほ)となって燃(も)えければ、黒煙(くろけぶり)殿中(でんちゆう)に満(み)ち満(み)ちて、炎(ほのほ)渦巻(うづま)いて上(のぼ)りけり。これや昔(むかし)法蔵僧都(ほふざうのそうづ)といひし人(ひと)、閻王(えんわう)の請(しやう)に趣(おもむ)いて、母(はは)の生所(しやうじよ)を尋(たづ)ねしに閻王(えんわう)憐(あは)れみたまひて、獄卒(ごくそつ)を相(あひ)副(そ)へて焦熱地獄(せうねつぢごく)へ遣(つか)はさる。鉄(くろがね)の門(もん)の内(うち)へ差(さ)し入(い)れば、流星(りうせい)などの如(ごと)くに、炎(ほのほ)空(そら)へたちあがり、多百由旬(たひやくゆじゆん)に及(およ)びけんも、今(いま)こそおもひ知(し)られけれ。

 入道相国(にふだうしやうこく)の北(きた)の方(かた)、二位殿(にゐどの)の夢(ゆめ)に見(み)たまひけることこそ恐(おそ)ろしけれ。たとへば、猛火(みやうくわ)の夥(おびただ)う燃(も)えたる車(くるま)を門(もん)の内(うち)へ遣(つか)はし入(い)れたり。前後(ぜんご)に立(た)ったる者(もの)はあるいは馬(むま)の面(つら)のやうなる者(もの)もあり、あるいは牛(うし)の面(つら)のやうなる者(もの)もあり。車(くるま)の前(まへ)には、無(む)といふ文字(もんじ)ばかりぞ見(み)えたる鉄(くろがね)の札(ふだ)をぞ立(た)ったりける。二位殿(にゐどの)夢(ゆめ)の心(こころ)に、

「あれは何(なに)よりぞ」

 と御尋(おんたづ)ねあれば、

「閻魔(えんま)の庁(ちやう)より平家太政入道殿(へいけだいじやうにふだうどの)の御迎(おんむか)へに参(まゐ)ってさうらふ」

 と申(まう)す。

「さて、その札(ふだ)は何(なに)といふ札(ふだ)ぞ」

 と問(と)はせたまへば、

「南閻浮提(なんえんぶだい)金銅十六丈(こんどうじふろくぢやう)の盧遮那仏(るしやなぶつ)焼(や)きたまへる罪(つみ)によって、無間(むけん)の底(そこ)に堕(お)ちたまふべき由(よし)、閻魔(えんま)の庁(ちやう)に御(おん)さだめさうらふが、無(む)をば書(か)かれて、間(けん)の字(じ)をばいまだ書(か)かれぬなり」

 とぞ申(まう)しける。二位殿(にゐどの)うち驚(おどろ)き、汗水(あせみづ)になりこれを人(ひと)に語(かた)りたまへば、聞(き)く人(ひと)皆(みな)身(み)の毛(け)よだちけり。霊仏霊社(れいぶつれいしや)に、金銀七宝(こんごんしつぽう)を投(な)げ、馬鞍鎧(うまくらよろひ)、兜弓箭太刀刀(かぶとゆみやたちかたな)に至(いた)るまで取(と)り出(いだ)し運(はこ)び出(いだ)して祈(いの)られけれども、その験(しるし)もなかりけり。男女(なんによ)の君達(きんだち)、跡枕(あとまくら)に指(さ)しつどひて、いかにせんと歎(なげ)き悲(かな)しみたまへども叶(かな)ふべしとも見(み)えざりけり。

 閏二月(うるふにぐわつ)二日(ふつか)、二位殿(にゐどの)熱(あつ)う堪(た)へ難(かた)けれども、御枕(おんまくら)の上(うへ)に寄(よ)って、泣(な)く泣(な)くのたまひけるは、

「御有様(おんありさま)見(み)たてまつるに、日(ひ)に添(そ)へて憑(たの)み少(すく)なうこそ見(み)えさせたまへ。この世(よ)におぼしめしおくことあらば、少(すこ)し物(もの)の覚(おぼ)えさせたまふ時(とき)、おほせ置(お)け」

 とぞのたまひける。入道相国(にふだうしやうこく)、さしも日(ひ)ごろはゆゆしげにましましかどもまことに苦(くる)げにて、息(いき)の下(した)にのたまひけるは、

「われ保元平治(ほうげんへいぢ)より以来(いらい)、度々(どど)の朝敵(てうてき)を平(たひ)らげ、勧賞(くわんじやう)身(み)に余(あま)り、忝(かたじけな)くも帝祖(ていそ)太政大臣(だいじやうだいじん)に至(いた)り、栄花(えいぐわ)子孫(しそん)に及(およ)ぶ。今生(こんじやう)の望(のぞみ)、一(ひと)ことも残(のこ)る所(ところ)なし。ただし思(おも)ひ置(お)くこととては、伊豆国(いづのくに)の流人前右兵衛佐頼朝(るにんさきのうひやうゑのすけよりとも)が頸(くび)を見(み)ざりつること安(やす)からね。われいかにもなりなん後(のち)は堂塔(だうたふ)をも立(た)て孝養(けうやう)をもすべからず。やがて討手(うつて)を遣(つか)はし、頼朝(よりとも)が頭(かしら)を刎(は)ねて、わが墓(はか)の前(まへ)にかくべし。それぞ孝養(けうやう)にてあらんずる」

 とのたまひけるこそ、罪(つみ)深(ふか)けれ。

 同(おな)じき四日(よつか)、病(やまひ)に責(せ)められ、せめてのことに板(いた)に水(みづ)を沃(い)いで、そこに臥(ふ)し転(ころ)びたまへども扶(たす)かる心地(ここち)もしたまはず、悶絶躃地(もんぜつびやくぢ)して、遂(つひ)にあっち死(し)にぞしたまひける。馬車(うまくるま)の馳(は)せ違(たが)ふ音(おと)天(てん)も響(ひび)き大地(だいぢ)も揺(ゆ)るぐばかりなり。一人(いちにん)の君(きみ)万乗(ばんじよう)の主(ぬし)の、いかなる御(おん)ことおはすともこれには過(す)ぎじとぞ見(み)えし。今年(ことし)は六十四(ろくじふし)にぞなりたまふ。老死(らうし)といふべきにはあらねども、宿運(しゆくうん)たちまちに尽(つ)きたまへば、大法秘法(たいほふひほふ)の効験(かうげん)もなく、神明三宝(しんめいさんぼう)の威光(ゐくわう)も消(き)え、諸天(しよてん)も擁護(ようご)したまはず。況(いはん)や凡慮(ぼんりよ)に於(おい)てをや。命(いのち)に代(か)はり身(み)に代(か)はらんと忠(ちゆう)を存(ぞん)ぜし数万(すうまん)の軍旅(ぐんりよ)は、堂上堂下(だうしやうだうか)に泣(な)き居(ゐ)たれども、これは目(め)にも見(み)えず力(ちから)にも関(かか)はらぬ無常(むじやう)の刹鬼(せつき)をば、暫時(ざんじ)も戦(たたか)ひ返(かへ)さず。

 また帰(かへ)り来(き)ぬ死出(しで)の山(やま)、三瀬川(みつせがは)、黄泉中有(くわうせんちゆうう)の旅(たび)の空(そら)、ただ一所(いつしよ)こそ赴(おもむ)きたまひけめ。日(ひ)ごろ作(つく)り置(お)かれし罪業(ざいごふ)ばかりや、獄卒(ごくそつ)となって迎(むか)へに来(きた)りけん。哀(あはれ)なりしことどもなり。さてもあるべきならねば、同(おな)じき七日(なぬか)に、愛宕(あたご)にて煙(けぶり)になしたてまつり、骨(ほね)をば円実法眼(ゑんじつほふげん)頸(くび)にかけて、摂津国(せつつのくに)へ下(くだ)り、経島(きやうのしま)にぞ納(をさ)めける。さしも日本一州(につぽんいつしう)に名(な)を揚(あ)げ威(ゐ)を振(ふる)ひし人(ひと)なれども身(み)は一時(いつとき)の煙(けぶり)となって都(みやこ)の空(そら)に立(た)ち上(のぼ)り、屍(かばね)は暫(しば)しやすらひて、浜(はま)の真砂(まさご)に戯(たはぶ)れつつ、空(むな)しき土(つち)とぞなりたまふ。

築島

 やがて葬送(さうそう)の夜(よ)不思議(ふしぎ)のことあまたあり。玉(たま)を磨(みが)き金銀(きんぎん)を鏤(ちりば)めて作(つく)られし西八条殿(にしはちでうどの)、その夜(よ)俄(にはか)に焼(や)けぬ。人(ひと)の家(いへ)の焼(や)くるは、常(つね)の習(ならひ)なれども、浅間(あさま)しかりしことどもなり。何者(なにもの)のしわざにやありけん、放火(はうくわ)とぞきこえし。またその夜(よ)六波羅(ろくはら)の南(みなみ)に当(あた)って、人(ひと)ならば二三十人(にさんじふにん)が声(こゑ)して、

「嬉(うれし)や水鳴(みなり)は滝(たき)の水(みづ)」

 といふ拍子(ひやうし)を出(いだ)して、舞(ま)ひ躍(をど)り、どっと笑(わら)ふ声(こゑ)しけり。去(さ)んぬる正月(しやうぐわつ)には、上皇(しやうくわう)隠(かく)れさせたまひて、天下(てんか)諒闇(りやうあん)になりぬ。僅(わづか)に中(なか)一両月(いちりやうげつ)を隔(へだ)て、入道相国(にふだうしやうこく)薨(こう)せられぬ。怪(あやし)の賤(しづ)の男(をとこ)賤(しづ)の女(をんな)に至(いた)るまで、いかにか憂(うれ)へざるべき。これはいかにも天狗(てんぐ)のしわざといふ沙汰(さた)にて、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)の中(なか)にはやりをの若者(わかもの)ども、百余人(ひやくよにん)笑(わら)ふ声(こゑ)について、尋(たづ)ね行(ゆ)き見(み)れば、院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆじどの)にぞ踊(をど)り上(のぼ)りける。

 御所預(ごしよあづかり)備前前司(びぜんのぜんじ)基宗(もとむね)といふ者(もの)あり。かの基宗(もとむね)が相(あひ)知(し)ったる者(もの)ども、二三十人(にさんじふにん)夜(よ)に紛(まぎ)れて来(きた)り集(あつ)まり酒(さけ)を飲(の)むが、初(はじ)めはかやうに折節(をりふし)に音(おと)をはやさで飲(の)むほどに、次第(しだい)に飲(の)み酔(ゑ)ひて、かやうに舞(ま)ひ踊(をど)りけるなり。はと押(お)し寄(よ)せて、酒(さけ)に酔(ゑ)ひたる者(もの)ども、一人(いちにん)も漏(も)らさず三十人(さんじふにん)ばかり搦(から)めて、六波羅(ろくはら)へ将(ゐ)て参(まゐ)り、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)のおはしける坪(つぼ)の内(うち)にぞ引(ひ)き居(ゐ)たる。事(こと)の仔細(しさい)をよくよく尋(たづ)ね聞(き)きたまひてげにもそのほどに酔(ゑ)ひたらんずる者(もの)をば斬(き)るべきにもあらずとて皆(みな)許(ゆる)されけり。人(ひと)の失(う)せぬる跡(あと)には、怪(あやし)の者(もの)も朝夕(てうせき)に鐘(かね)打(う)ち鳴(な)らし、例時懺法(れいじせんぼふ)読(よ)む事(こと)は、常(つね)の習(なら)ひなれども、この禅門(ぜんもん)薨(こう)せられぬる後(のち)は、供仏施僧(くぶつせそう)の営(いとなみ)といふ事(こと)もなし。朝夕(てうせき)はただ軍合戦(いくさかつせん)の策(はかりごと)より外(ほか)は、他事(たじ)なし。およそは最後(さいご)の所労(しよらう)の有様(ありさま)こそうたてけれども、直人(ただうど)とも覚(おぼ)えぬ事(こと)ども多(おほ)かりけり。日吉社(ひよしのやしろ)へ参(まゐ)りたまひしにも、当家他家(たうけたけ)の公卿(くぎやう)多(おほ)く供奉(ぐぶ)して、摂籙(せつろく)の臣(しん)の春日(かすが)御参詣(ごさんけい)、宇治入(うぢいり)などいふとも、これにはいかが勝(まさ)るべきとぞ人(ひと)申(まう)しける。また何(なに)事(こと)よりも福原(ふくはら)の経島(きやうのしま)築(つ)いて今(いま)の世(よ)に至(いた)るまで、上下往来(じやうげわうらい)の船(ふね)の煩(わづら)ひなきこそ目出(めで)たけれ。かの島(しま)は去(さ)る応保(おうほう)元年(ぐわんねん)二月(にぐわつ)上旬(じやうじゆん)に築(つ)き始(はじ)められたりけるが、同年(どうねん)の八月(はちぐわつ)に俄(にはか)に大風(おほかぜ)吹(ふ)き大浪(おほなみ)立(た)って、皆(みな)淘(ゆ)り失(うしな)ひてき。同(おな)じき三年(さんねん)三月(さんぐわつ)下旬(げじゆん)に、阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)を奉行(ぶぎやう)にて、築(つ)かせられけるが、人柱(ひとばしら)立(た)てらるべしなど、公卿僉議(くぎやうせんぎ)ありしかども、罪業(ざいごふ)なりとて、石(いし)の面(おもて)に一切経(いつさいきやう)を書(か)いて、築(つ)かれたりけるゆゑにこそ、経島(きやうのしま)とは名(な)づけたれ。

慈心坊

 古(ふる)い人(ひと)の申(まう)されけるは、清盛公(きよもりこう)は悪人(あくにん)とこそ思(おも)へども、まことは慈慧僧正(じゑそうじやう)の再誕(さいたん)なり。そのゆゑは、摂津国(せつつのくに)清澄寺(せいちやうじ)といふ山寺(やまでら)あり。かの寺(てら)の住僧(ぢゆうそう)慈心房(じしんばう)尊慧(そんゑ)と申(まう)しけるは本(もと)は叡山(えいざん)の学侶(がくりよ)、多年(たねん)法華(ほつけ)の持者(ぢしや)なり。然(しか)るに道心(だうしん)を発(おこ)し離山(りざん)して、この寺(てら)に年月(としつき)を送(おく)りければ、皆(みな)人(ひと)これを帰依(きえ)しけり。去(さ)んぬる承安(じようあん)二年(にねん)十二月(じふにぐわつ)十二日(じふににち)の夜(よ)、脇息(けふそく)に倚(よ)り懸(か)かり、法華経(ほけきやう)読(よ)み奉(たてまつ)りけるに、丑刻(うしのこく)ばかりに夢(ゆめ)ともなく現(うつつ)ともなく、年(とし)五十(ごじふ)ばかりなる男(をとこ)の浄衣(じやうえ)に立烏帽子(たてえぼし)著(き)て、草鞋脛巾(わらぢはばき)したるが、立文(たてぶみ)を持(も)って来(きた)れり。尊慧(そんゑ)、

「あれはいづくよりの人(ひと)ぞ」

 と問(と)はれれば、

「閻魔王宮(えんまわうぐう)よりの御使(おんつかひ)なり。宣旨(せんじ)さうらふ」

 とて、立文(たてぶみ)を尊慧(そんゑ)に渡(わた)す。尊慧(そんゑ)これを開(ひら)いて見(み)れば、

「屈請(くつしやう)、閻浮提(えんぶだい)大日本国(だいにつぽんごく)摂津国(せつつのくに)清澄寺(せいちやうじ)の慈心房(じしんばう)尊慧(そんゑ)、来(きたる)廿六日(にじふろくにち)、閻魔羅城(えんまらじやう)大極殿(だいごくでん)にして、十万人(じふまんにん)の持経者(ぢきやうしや)を以(もつ)て十万部(じふまんぶ)の法華経(ほけきやう)を転読(てんどく)せらるべきなり。よって参勤(さんきん)せらるべし。閻王宣(えんわうせん)に依(よ)て屈請(くつしやう)如件(くだんのごとし)。
承安(じようあん)二年(にねん)十二月(じふにぐわつ)十二日(じふににち) 閻魔庁(えんまちやう)」

 とぞ書(か)かれたる。尊慧(そんゑ)いなみ申(まう)すべき事(こと)ならねば、左右(さう)なう領承(りやうじやう)の請文(うけぶみ)を書(か)いて奉(たてまつ)ると覚(おぼ)えて、覚(さ)めにけり。偏(ひとへ)に死去(しきよ)の思(おも)ひをなして、院主(ゐんじゆ)の光影房(くわうやうばう)にこの事(こと)を語(かた)る。皆(みな)人(ひと)奇特(きどく)の思(おも)ひをなす。尊慧(そんゑ)口(くち)には弥陀(みだ)の名号(みやうがう)を唱(とな)へ、心(こころ)に引摂(いんぜふ)の悲願(ひぐわん)を念(ねん)ず。やうやう二十五日(にじふごにち)の夜陰(やいん)に及(およ)んで常住(じやうぢゆう)の仏前(ぶつぜん)にいたり例(れい)の如(ごと)く脇息(けふそく)に倚(よ)り懸(か)って念仏読経(ねんぶつどきやう)す。子刻(ねのこく)に及(およ)んで眠(ねぶ)り切(せち)なるがゆゑに、住房(ぢゆうばう)に帰(かへ)って打(う)ち臥(ふ)す。丑刻(うしのこく)ばかりにまた先(さき)の如(ごと)くに浄衣(じやうえ)装束(しやうぞく)なる鬼(おに)二人(ににん)来(き)て、はやはや参(まゐ)らるべしと勧(すす)むる間(あひだ)、閻王宣(えんわうせん)を辞(じ)せんとすれば、これその恐(おそれ)あり。参詣(さんけい)せんとすれば、更(さら)に衣鉢(えはつ)なし。この思(おも)ひをなす時(とき)、法衣(ほふえ)自然(じねん)に身(み)に纏(まと)って肩(かた)に懸(か)かり、天(てん)より金(きん)の鉢(はち)下(くだ)る。

 二人(ににん)の童子(どうじ)、二人(ににん)の従僧(じゆうそう)、十八人(じふはちにん)の下僧(げそう)、七宝(しつぽう)の大車(たいしや)、寺坊(じばう)の前(まへ)に現(げん)ず。尊慧(そんゑ)なのめならず喜(よろこ)んで即時(そくじ)に車(くるま)に乗(の)る。従僧(じゆうそう)等(ら)西北(さいほく)の方(かた)に向(む)って空(そら)を翔(か)けて、ほどなく閻魔王宮(えんまわうぐう)にいたりぬ。王宮(わうぐう)の体(てい)を見(み)るに、外郭(ぐわいくわく)渺々(べうべう)として、その内(うち)曠々(くわうくわう)たり。その内(うち)に七宝所成(しつぽうしよじやう)の大極殿(だいごくでん)あり。高広(かうくわう)金色(こんじき)にして、凡夫(ぼんぶ)の慮(おもんばか)る所(ところ)にあらず。その日(ひ)の法会(ほふゑ)終(を)はって後(のち)、諸僧(しよそう)皆(みな)帰(かへ)る時(とき)、尊慧(そんゑ)は南方(なんばう)の中門(ちゆうもん)に立(た)って遥(はるか)に大極殿(だいごくでん)を見(み)渡(わた)せば、冥官(みやうくわん)冥衆(みやうしゆ)、皆(みな)閻魔法王(えんまほふわう)の御前(ごぜん)に畏(かしこ)まる。尊慧(そんゑ)ありがたき参詣(さんけい)なり。このついでに後生(ごしやう)の事(こと)尋(たづ)ね申(まう)さんとて、大極殿(だいごくでん)へ参(まゐ)る。その間(あひだ)に二人(ににん)の童子(どうじ)蓋(かさ)を指(さ)し、二人(ににん)の従僧(じゆうそう)箱(はこ)を持(も)ち、十八人(じふはちにん)の下僧(げそう)列(れつ)を引(ひ)いて、漸々(やうやう)歩(あゆ)み近(ちか)付(づ)く時(とき)、閻魔法王(えんまほふわう)、冥官(みやうくわん)冥衆(みやうしゆ)皆(みな)ことごとく下(お)り迎(むか)ふ。多聞(たもん)持国(ぢこく)二人(ににん)の童子(どうじ)に現(げん)じ、薬王菩薩(やくわうぼさつ)勇施菩薩(ゆせぼさつ)、二人(ににん)の従僧(じゆうそう)に変(へん)ず。十羅刹女(じふらせつによ)十八人(じふはちにん)の下僧(げそう)に現(げん)じて、随逐給仕(ずいちくきふじ)したまへり。閻王(えんわう)問(と)ひていはく、

「余僧(よそう)皆(みな)帰(かへ)り去(さ)りぬ。御房(ごばう)来(く)る事(こと)いかん」

「後生(ごしやう)の在所(ざいしよ)承(うけたまは)らんためなり」

「ただし往生不往生(わうじやうふわうじやう)は、人(ひと)の信不信(しんふしん)にあり」

 云々(うんぬん)。閻王(えんわう)また冥官(みやうくわん)に勅(ちよく)してのたまはく、

「この御房(ごばう)の作善(さぜん)の文箱(ふばこ)南方(なんばう)の宝蔵(ほうざう)にあり。取(と)り出(いだ)して一生(いつしやう)の行(ぎやう)、化他(けた)の碑(ひ)の文(ふみ)見(み)せ奉(たてまつ)れ」

 冥官(みやうくわん)承(うけたまは)って、南方(なんばう)の宝蔵(ほうざう)に行(ゆ)きて、一(ひとつ)の文箱(ふばこ)を取(と)って参(まゐ)りたり。即(すなはち)蓋(ふた)を開(ひら)いてこれをことごとく読(よ)み聞(き)かす。尊慧(そんゑ)悲歎啼泣(ひたんたいきふ)して、

「ただ願(ねが)はくはわれを哀愍(あいみん)して出離生死(しゆつりしやうじ)の方法(はうはふ)を教(をし)へ、証大菩提(しようだいぼだい)の直道(ぢきだう)を示(しめ)したまへ」

 その時(とき)閻王(えんわう)哀愍(あいみん)教化(けうけ)して、種々(しゆじゆ)の偈(げ)を誦(じゆ)す。冥官(みやうくわん)筆(ふで)を染(そ)めて一々(いちいち)にこれを書(か)く。

妻子王位財眷属(さいしわうゐざいけんぞく) 死去無一来相親(しきよむいちらいさうしん) 常随業鬼繋縛我(じやうずいごふきけいばくが) 苦受叫喚無辺際(くじゆけうくわんむへんさい)

 閻王(えんわう)、この偈(げ)を誦(じゆ)し終(を)はって、即(すなは)ちかの文(ふみ)を尊慧(そんゑ)に附属(ふぞく)す。尊慧(そんゑ)なのめならず悦(よろこ)んで、

「日本(にほん)の大相国(だいしやうこく)と申(まう)す人(ひと)摂津国(せつつのくに)和田御崎(わだのみさき)を点(てん)じて、四面(しめん)十余町(じふよちやう)に屋(や)を作(つく)り、今日(けふ)の十万僧会(じふまんそうゑ)の如(ごと)く持経者(ぢきやうしや)を多(おほ)く屈請(くつしやう)して、坊(ばう)ごとに一面(いちめん)に座(ざ)につき、説法読経(せつぽふどきやう)、丁寧(ていねい)に勤行(ごんぎやう)を致(いた)されさうらふ」

 と申(まう)しければ、閻王(えんわう)随喜感歎(ずいきかんたん)して、

「件(くだん)の入道(にふだう)は、ただ人(ひと)にあらず、慈慧僧正(じゑそうじやう)の化身(けしん)なり。天台(てんだい)の仏法護持(ぶつぽふごぢ)のために、日本(にほん)に再誕(さいたん)す。ゆゑに、毎日(まいにち)に三度(さんど)かの人(ひと)を礼(らい)する文(ふみ)あり。すなはちこの文(ふみ)を以(もつ)てかの人(ひと)に奉(たてまつ)るべし」

 とて、

敬礼慈慧大僧正(きやうらいじゑだいそうじやう) 天台仏法擁護者(てんだいぶつぽふようごしや) 示現最初将軍身(じげんさいしよしやうぐんしん) 悪業衆生同利益(あくごふしゆじやうどうりやく)

 尊慧(そんゑ)これをたまはって、大極殿(だいごくでん)の南方(なんばう)の中門(ちゆうもん)を出(い)づる時(とき)、官士(くわんじ)等(ら)十人(じふにん)門外(もんぐわい)に立(た)って、車(くるま)に乗(の)せ、前後(ぜんご)に随(したが)ふ。また、空(そら)を翔(か)けて帰(かへ)り来(く)る。夢(ゆめ)の心地(ここち)して息(いき)出(い)できにけり。尊慧(そんゑ)これを以(もつ)て、西八条(にしはちでう)へ参(まゐ)り、入道相国(にふだうしやうこく)に参(まゐ)らせたりければ、斜(ななめ)ならず悦(よろこ)びて、さまざまもてなし、さまざま引(ひ)き出(で)物(もの)どもたまひて、その勧賞(くわんじやう)に律師(りつし)になされけるとぞ聞(き)こえし。さてこそ、清盛公(きよもりこう)をば、慈慧僧正(じゑそうじやう)の再誕(さいたん)なりと人(ひと)知(し)りてけれ。

祇園女御

 またある人(ひと)の申(まう)しけるは、清盛公(きよもりこう)は忠盛(ただもり)が子(こ)にはあらず、まことには白河院(しらかはのゐん)の皇子(わうじ)なり。そのゆゑは、去(さ)る永久(えいきう)の比(ころ)ほひ、祇園女御(ぎをんのにようご)と聞(き)こえし幸人(かうじん)おはしける。件(くだん)の女房(にようばう)のすまひ所(ところ)は、東山(ひがしやま)の麓(ふもと)祇園(ぎをん)の辺(ほとり)にてぞありける。白河院(しらかはのゐん)常(つね)は御幸(ごかう)なりけり。ある時(とき)殿上人(てんじやうびと)一両人(いちりやうにん)、北面(ほくめん)少々(せうせう)召(め)し具(ぐ)して、しのびの御幸(ごかう)ありしに、これは五月(ごぐわつ)廿日(はつか)余(よ)のまだ宵(よひ)の事(こと)なれば、目(め)ざすとも知(し)らぬ闇(やみ)ではあり、五月雨(さみだれ)さへ掻(か)き暮(く)し、まことにいぶせかりけるに、件(くだん)の女房(にようばう)の宿所(しゆくしよ)近(ちか)く御堂(みだう)あり。御堂(みだう)の傍(かたはら)に光物(ひかりもの)出来(いでき)たり。首(かしら)は、銀(しろがね)の針(はり)を磨(みが)き立(た)ったるやうにきらめき、左右(さう)の手(て)と覚(おぼ)しきを差(さ)し上(あ)げたるが、片手(かたて)には槌(つち)のやうなる物(もの)を持(も)ち、片手(かたて)には光(ひか)る物(もの)をぞ持(も)ったりける。君(きみ)も臣(しん)も、

「あな恐(おそ)ろし、これはまことの鬼(おに)と覚(おぼ)ゆる。手(て)に持(も)ってたる物(もの)は、聞(き)こゆる打出(うちで)の小槌(こづち)なるべし。いかがせん」

 と噪(さわ)がせおはします所(ところ)に、忠盛(ただもり)その比(ころ)はいまだ北面(ほくめん)の下臈(げらふ)にて、供奉(ぐぶ)したりけるを召(め)して、

「この中(なか)にてなんぢこそあるらん。あの者(もの)射(い)もころし、斬(き)りも停(とど)めなどせんや」

 とおほせければ、忠盛(ただもり)畏(かしこ)まり承(うけたまは)って行向(ゆきむか)ふ。内々(ないない)思(おも)ひけるは、この者(もの)さしも猛(たけ)き者(もの)とは見(み)えず。狐狸(こり)などにてぞあるらん。これを射(い)も殺(ころ)し、斬(き)りも殺(ころ)したらんは、無下(むげ)に念(ねん)なかるべし。生(い)け捕(ど)りにせんと思(おも)って、歩(あゆ)み倍(はや)る。と計(ばかり)ありては颯(さつ)と光(ひか)り、と計(ばかり)ありては颯(さつ)と光(ひか)り、二三度(にさんど)しけるを、忠盛(ただもり)走(はし)り寄(よ)って、むずと組(く)む。組(く)まれて、

「こはいかに」

 と騒(さわ)ぐ。変化(へんげ)の者(もの)にはなかりけり、はや人(ひと)にてぞありける。その時(とき)上下(かみしも)手々(てんで)に火(ひ)をともいて、これを御覧(ごらん)じ見(み)たまふに、六十(ろくじふ)ばかりの法師(ほふし)なり。たとへば御堂(みだう)の承仕法師(じようじほふし)でありけるが、御明(みあかし)参(まゐ)らせんとて、手瓶(てがめ)といふ物(もの)に油(あぶら)を入(い)れて、片手(かたて)には土器(かはらけ)に火(ひ)を入(い)れてぞ持(も)ったりける。雨(あめ)は沃(い)にいて降(ふ)る、濡(ぬ)れじとて、かしらに小麦(こむぎ)の藁(わら)を笠(かさ)のやうに引(ひ)き結(むす)うでかついだり、土器(かはらけ)の火(ひ)に小麦(こむぎ)の藁(わら)耀(かがや)いて、銀(しろがね)の針(はり)のやうには見(み)えけるなり。事(こと)の体(てい)一々(いちいち)に露(あら)はれぬ。

「これを射(い)も殺(ころ)し、切(き)りも殺(ころ)したらんは、いかに念(ねん)なからん。忠盛(ただもり)が振舞(ふるま)ひやうこそ思慮(しりよ)深(ふか)けれ。弓矢(ゆみや)取(と)る身(み)は優(やさ)かりけり」

 とて、その勧賞(くわんじやう)にさしも御最愛(ごさいあい)と聞(き)こえし祇園(ぎをん)の女御(にようご)を忠盛(ただもり)にこそたまひたりけれ。さてかの女房(にようばう)院(ゐん)の御子(おんこ)を孕(はら)み奉(たてまつ)りしかば、

「産(う)まらん子(こ)、女子(によし)ならば朕(ちん)が子(こ)にせん。男子(なんし)ならば忠盛(ただもり)が子(こ)にして弓矢(ゆみや)とる身(み)に仕立(した)てよ」

 とおほせけるに、即(すなは)ち男(をとこ)を産(う)めり。この事(こと)奏聞(そうもん)せんと伺(うかが)ひけれども、然(しか)るべき便宜(べんぎ)もなかりけるに、ある時(とき)白河院(しらかはのゐん)熊野(くまの)へ御幸(ごかう)なりけるが紀伊国(きいのくに)糸鹿坂(いとかざか)といふ所(ところ)に、御輿(おんこし)かき居(ゐ)させ暫(しばら)く御休息(ごきうそく)ありけり。藪(やぶ)にぬかごの幾(いく)らもありけるを、忠盛(ただもり)袖(そで)にもり入(い)れて、御前(ごぜん)へ参(まゐ)り、

いもが子(こ)は這(は)ふほどにこそなりにけれ。

 と申(まう)したりければ、院(ゐん)やがて御心得(おんこころえ)ありて、

ただもりとってやしなひにせよ。

 とぞ附(つ)させましましける。それよりしてこそ、わが子(こ)とはもてなしける。この若(わか)君(きみ)あまりに夜啼(よなき)をしたまひければ、院(ゐん)きこしめされて、一首(いつしゆ)の詠(えい)を遊(あそ)ばして下(くだ)されけり。

夜啼(よなき)すとただもりたてよ末(すゑ)の代(よ)は、清(きよ)く盛(さか)る事(こと)もこそあれ。

 さてこそ、清盛(きよもり)とは名(な)乗(の)られけれ。十二(じふに)の歳(とし)兵衛佐(ひやうゑのすけ)になる。十八(じふはち)の歳(とし)四品(しほん)して四位(しゐ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)と申(まう)すを、仔細(しさい)存知(ぞんぢ)せぬ人(ひと)は、

「華族(くわぞく)の人(ひと)こそかうは」

 と申(まう)しけるに、鳥羽院(とばのゐん)もしろしめされて、

「清盛(きよもり)が華族(くわぞく)は、人(ひと)に劣(おと)らじ」

 とぞおほせける。

 昔(むかし)も天智天皇(てんぢのてんわう)孕(はら)みたまへる女御(にようご)を、大織冠(たいしよくくわん)に賜(たま)ふとて、

「この女御(にようご)の産(う)まらん子(こ)女子(によし)ならば朕(ちん)が子(こ)にせん。男子(なんし)ならば臣(しん)が子(こ)にせよ」

 とおほせけるに、即(すなは)ち男(をとこ)を産(う)みたまへり。多武峰(たうのみね)の本願(ほんぐわん)、定慧和尚(ぢやうゑわじやう)これなり。上代(じやうだい)にもかかるためしありければ、末代(まつだい)にも平(へい)大相国(だいしやうこく)、まことに白河院(しらかはのゐん)の御子(おんこ)にておはしければにや、さばかりの天下(てんか)の大事(だいじ)、都遷(みやこうつり)などといふ憚(はばか)らぬ事(こと)ども、思(おも)ひ立(た)たれけるにこそ。

洲俣合戦

 同(おな)じき閏二月(うるふにぐわつ)廿日(はつか)、五条大納言(ごでうのだいなごん)国綱卿(くにつなのきやう)失(う)せたまひぬ。平(へい)大相国(だいしやうこく)と、さしも契(ちぎ)り深(ふか)う志(こころざし)浅(あさ)からざりし人(ひと)なり。せめての契(ちぎ)りの深(ふか)にや、同日(どうじつ)に病(や)み付(つ)いて、同月(どうげつ)にぞ失(う)せられける。この大納言(だいなごん)と申(まう)すは兼資(かねすけ)中納言(ちゆうなごん)より八代(はちだい)の末葉(ばつえふ)、前右馬助(さきのうまのすけ)守国(もりくに)が子(こ)なり。蔵人(くらんど)にだにならず、進士(しんし)の雑色(ざふしき)とてさうらはれし、近衛院(このゑのゐん)御在位(ございゐ)の時(とき)、仁平(にんぺい)の比(ころ)ほひ、内裡(だいり)に俄(にはか)に焼亡(せうまう)出(いで)きたり。主上(しゆしやう)南殿(なんでん)に出御(しゆつぎよ)在(あり)しかども、近衛司(このゑづかさ)一人(いちにん)も参(さん)ぜられず、あきれて立(た)たせおはしましたる所(ところ)に、この国綱(くにつな)腰輿(えうよ)を舁(か)かせて参(まゐ)り、

「かやうの時(とき)は、かかる御輿(おんこし)にこそ召(め)されさうらへ」

 と奏(そう)しければ、主上(しゆしやう)これに召(め)して出御(しゆつぎよ)あり。

「何者(なにもの)ぞ」

 と御尋(おんたづ)ねありければ、

「進士(しんし)の雑色(ざふしき)藤原(ふぢはら)国綱(くにつな)」

 と名(な)乗(の)り申(まう)す。

「かかるさかさかしき者(もの)こそあれ、召(め)し仕(つか)ふべし」

 とその時(とき)の殿下(でんか)法性寺殿(ほつしやうじどの)へおほせ合(あ)はせられければ、御領(ごりやう)あまたたまひなどして召(め)し仕(つか)はれけるほどに、同帝(どうてい)の御代(おんよ)に八幡(やはた)へ行幸(ぎやうかう)ありしに、人長(にんぢやう)が酒(さけ)に酔(ゑ)って水(みづ)に倒(たふ)れ入(い)り、装束(しやうぞく)を濡(ぬ)らし、御神楽(みかぐら)遅々(ちち)したりけるに、この国綱(くにつな)、

「神妙(しんべう)にこそさうらはねども、人長(にんぢやう)が装束(しやうぞく)は持(も)たせてさうらふ」

 とて、一具(いちぐ)取(と)り出(いだ)されたりければ、これを著(き)て御神楽(みかぐら)調(ととの)へ奏(そう)しけり。ほどこそ少(すこ)しも推(お)し移(うつ)りたりけれども、歌(うた)の声(こゑ)もすみのぼり、舞(まひ)の袖(そで)、拍子(ひやうし)に合(あ)って面白(おもしろ)かりけり。物(もの)の身(み)にしみて面白(おもしろ)き事(こと)は神(かみ)も人(ひと)も同(おな)じ心(こころ)なり。昔(むかし)天(てん)の岩戸(いはと)をおしひらかれけん神代(かみよ)の事(こと)わざまでも今(いま)こそおぼしめし知(し)られけれ。

 やがてこの国綱(くにつな)の先祖(せんぞ)に山蔭(やまかげ)中納言(ちゆうなごん)といふ人(ひと)おはしき。その子(こ)に如無僧都(によむそうづ)とて智慧(ちゑ)才覚(さいかく)身(み)に余(あま)り、徳行(とくぎやう)持律(ぢりつ)の僧(そう)おはしけり。昌泰(しやうたい)の比(ころ)ほひ、寛平法皇(くわんぴやうほふわう)、大井河(おほゐがは)へ御幸(ごかう)ありしに、勧修寺(くわんじゆじ)の内大臣(ないだいじん)高藤公(たかふぢこう)の御子(おんこ)、泉(いづみ)の大将(だいしやう)貞国(さだくに)、小倉山(をぐらやま)の嵐(あらし)に烏帽子(えぼし)を河(かは)へ吹(ふ)き入(い)れられ袖(そで)にて鬢(びん)を押(お)へ、し方(かた)なくてぞ立(た)ったりけるに、この如無僧都(によむそうづ)三衣箱(さんえのはこ)の中(なか)より烏帽子(えぼし)一(ひと)つとり出(いだ)されたりけるとかや。かの僧都(そうづ)は、父(ちち)、山蔭(やまかげ)中納言(ちゆうなごん)、大宰大弐(だざいのだいに)になって鎮西(ちんぜい)へ下(くだ)られける時(とき)、二歳(にさい)なりしを、継母(ままはは)悪(にく)んであからさまに抱(いだ)くやうにして、海(うみ)に落(お)し入(い)れ殺(ころ)さんとしけるを、死(し)にけるまことの母(はは)、在生(ざいしやう)の時(とき)、桂(かつら)の鵜飼(うかひ)が鵜(う)の餌(ゑ)にせんとて、亀(かめ)を取(と)って殺(ころ)さんとしけるを著(き)たまへる小袖(こそで)を脱(ぬ)ぎ、亀(かめ)にかへ放(はな)たれたりしが、その恩(おん)を報(ほう)ぜんと、この若(わか)君(きみ)落(お)し入(い)れけるを水(みづ)の上(うへ)に浮(うか)び来(き)て、甲(かふ)に乗(の)って扶(たす)けたりける。それは上代(じやうだい)の事(こと)なればいかにありけん。末代(まつだい)に国綱卿(くにつなのきやう)の高名(かうみやう)ありがたき事(こと)どもなり。法性寺殿(ほつしやうじどの)の御(おん)世(よ)に中納言(ちゆうなごん)になる。法性寺殿(ほつしやうじどの)かくれさせたまひて後(のち)入道相国(にふだうしやうこく)存(ぞん)する旨(むね)ありとて、この人(ひと)に語(かた)らひよりたまへり。大福長者(だいふくちやうじや)にておはしければ、何(なに)にても必(かなら)ず毎日(まいにち)に一種(いつしゆ)をば入道相国(にふだうしやうこく)の許(もと)へ贈(おく)られけり。現世(げんぜ)のとくいこの人(ひと)に過(す)ぐべからずとて、子息(しそく)一人(いちにん)養子(やうし)にして、清国(きよくに)と名(な)乗(の)らせ、また入道相国(にふだうしやうこく)の四男(しなん)、頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)はかの大納言(だいなごん)の婿(むこ)になる。

 治承(ぢしやう)四年(よねん)の五節(ごせち)は福原(ふくはら)にて行(おこな)はれけるに、殿上人(てんじやうびと)中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)へ推参(すいさん)ありしが、ある雲客(うんかく)の、

「竹(たけ)湘浦(しやうほ)に斑(まだら)なり」

 といふ朗詠(らうえい)をせられたりければこの大納言(だいなごん)立(た)ち聞(き)きして、

「あな浅間(あさま)し、これは禁忌(きんき)なりとこそ承(うけたまは)れ。かかる事(こと)きくとも聞(き)じ」

 とて、ぬき足(あし)して遁(のが)れ出(いで)られぬ。たとへば、この朗詠(らうえい)の心(こころ)は、昔(むかし)尭(げう)の帝(みかど)に二人(ににん)の姫宮(ひめみや)ましましき。姉(あね)をば娥皇(がくわう)といひ、妹(いもうと)をば女英(ぢよえい)といふ。ともに舜(しゆん)の御門(みかど)の后(きさき)なり。舜(しゆん)の御門(みかど)かくれたまひて後(のち)、かの蒼梧(さうご)の野辺(のべ)へ送(おく)り奉(たてまつ)り、烟(けぶり)となし奉(たてまつ)る時(とき)、二人(ににん)の后(きさき)名残(なごり)を惜(を)しみ奉(たてまつ)り、湘浦(しやうほ)といふ所(ところ)まで随(したが)ひつつ、泣(な)き悲(かな)しみたまひしに、その涙(なみだ)岸(きし)の竹(たけ)に懸(か)かって斑(まだら)にぞ染(そ)みたりける。

 その後(のち)も常(つね)にはかの所(ところ)におはして瑟(こと)を引(ひ)いて慰(なぐさ)みたまへり。今(いま)かの所(ところ)を見(み)るなれば、岸(きし)の竹(たけ)は斑(まだら)にて立(た)ったり。琴(こと)を調(しら)べし迹(あと)には雲(くも)たなびいて、物(もの)哀(あはれ)なる心(こころ)を橋相公(けうしやうこう)の賦(ふ)に作(つく)れるなり。この大納言(だいなごん)はさせる文才詩歌(ぶんさいしいか)麗(うるは)しうはおはせざりしかども、かかるさかしき人(ひと)にてかやうの事(こと)までも聞(き)き咎(とが)められけるにこそ。

 この人(ひと)大納言(だいなごん)までは思(おも)ひも寄(よ)らざりしを、母(はは)上(うへ)賀茂大明神(かものだいみやうじん)に歩(あゆ)みを運(はこ)び、

「願(ねが)はくは、わが子(こ)の国綱(くにつな)一日(いちにち)でもさうらへ、蔵人頭(くらんどのとう)歴(へ)させたまへ」

 と、百日(ひやくにち)肝胆(かんたん)を砕(くだ)いて祈(いの)り申(まう)されけるが、ある夜(よ)の夢(ゆめ)に檳榔(びらう)の車(くるま)をあて来(き)て、わが家(いへ)の車(くるま)寄(よ)せに立(た)つと夢(ゆめ)を見(み)て、これを人(ひと)に語(かた)りたまへば、

「それは、公卿(くぎやう)の北方(きたのかた)になせたまふべきにこそ」

 とあはせたりければ、

「わが年(とし)已(すで)に闌(た)けたり。今更(いまさら)さやうの振舞(ふるま)ひあるべしとも覚(おぼ)えず」

 とのたまひけるが、御子(おんこ)国綱(くにつな)蔵人頭(くらんどのとう)は事(こと)も宜(よろ)し。正二位(しやうにゐ)大納言(だいなごん)に上(のぼ)りたまふこそ目出(めで)たけれ。

 同(おな)じき廿二日(にじふににち)、法皇(ほふわう)は院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆじどの)へ御幸(ごかう)なる。かの御所(ごしよ)は去(さ)んぬる応保(おうほう)三年(さんねん)四月(しぐわつ)十五日(じふごにち)に造(つく)り出(いだ)されて、新比叡(しんひえい)、新熊野(しんくまの)なども間近(まぢか)う勧請(くわんじやう)し奉(たてまつ)り、山水木立(さんすゐこだち)に至(いた)るまでおぼしめしままなりしが、この二三年(にさんねん)は平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)に依(よ)て、御幸(ごかう)もならず。御所(ごしよ)の破壊(はゑ)したるも修理(しゆり)して、御幸(ごかう)なし奉(たてまつ)るべき由(よし)、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)奏(そう)せられたりければ、何(なに)のやうもあるべからず、たださうさうとて御幸(ごかう)なる。先(さき)故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御方(おんかた)を御覧(ごらん)ずれば、岸(きし)の松(まつ)、汀(みぎは)の柳(やなぎ)年(とし)経(へ)にけりと覚(おぼ)えて、木(き)高(たか)くなれるに付(つ)いても、太液(たいえき)の芙蓉(ふよう)、未央(びあう)の柳(やなぎ)、これに向(む)ふにいかが涙(なみだ)進(すす)まざらん。かの南内西宮(なんだいせいきう)の昔(むかし)の跡(あと)、今(いま)こそおぼしめし知(し)られけれ。

 三月(さんぐわつ)一日(いちにち)南都(なんと)の僧綱(そうがう)等(ら)、本官(ほんくわん)に復(ふく)して末寺庄園(まつじしやうゑん)もとの如(ごと)く知行(ちぎやう)すべき由(よし)おほせ下(くだ)さる。同(おな)じき三日(みつか)大仏殿(だいぶつでん)造(つく)り始(はじ)めらる。事(こと)始(はじ)めの奉行(ぶぎやう)には蔵人(くらんど)左少弁(させうべん)行隆(ゆきたか)とぞ聞(き)こえし。この行隆(ゆきたか)、先年(せんねん)八幡(やはた)へ参(まゐ)り、通夜(つや)せられたりけるが、夢(ゆめ)に御宝殿(ごほうでん)の内(うち)よりびんづら結(むす)ひたる天童(てんどう)の出(い)でて、

「これは大菩薩(だいぼさつ)の使(つかひ)なり。大仏殿(だいぶつでん)奉行(ぶぎやう)の時(とき)はこれを持(も)つべし」

 と、笏(しやく)を賜(たま)はるといふ夢(ゆめ)を見(み)て、覚(さ)めて後(のち)見(み)たまへば、現(うつつ)にありけり。

「あな不思議(ふしぎ)や当時(たうじ)何(なに)事(こと)あってか、大仏殿(だいぶつでん)奉行(ぶぎやう)に参(まゐ)るべき」

 とて、懐中(くわいちゆう)して宿所(しゆくしよ)へ帰(かへ)り、深(ふか)う納(をさ)めて置(お)かれけるが、平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)に依(よ)て、南都(なんと)炎上(えんじやう)の間(あひだ)、この行隆(ゆきたか)、弁(べん)の中(なか)に選(えら)ばれて、事(こと)始(はじ)めの奉行(ぶぎやう)に参(まゐ)られける宿縁(しゆくえん)のほどこそ目出(めで)たけれ。

 同(おな)じき三月(さんぐわつ)十日(とをか)、美濃(みの)国(くに)の目代(もくだい)、都(みやこ)へ早馬(はやうま)を以(もつ)て申(まう)しけるは、東国(とうごく)の源氏(げんじ)どもすでに尾張国(をはりのくに)まで攻(せ)め上(のぼ)り、道(みち)を塞(ふさ)ぎ、人(ひと)を通(とほ)さぬ由(よし)申(まう)したりければ、やがて討手(うつて)を差(さ)し遣(つか)はす。大将軍(たいしやうぐん)には、左兵衛督知盛(さひやうゑのかみとももり)、左中将(さちゆうじやう)清経(きよつね)、小松(こまつ)少将(せうしやう)有盛(ありもり)、都合(つがふ)その勢(せい)三万余騎(さんまんよき)で発向(はつかう)す。入道相国(にふだうしやうこく)うせたまひて後(のち)、纔(わづか)に五旬(ごじゆん)をだにも過(す)ぎざるに、さこそ乱(みだ)れたる代(よ)といひながら、浅(あさ)ましかりし事(こと)どもなり。源氏(げんじ)の方(かた)には十郎蔵人(じふらうくらんど)行家(ゆきいへ)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の弟(おとと)卿公(きやうのきみ)義円(ぎゑん)、都合(つがふ)その勢(せい)六千余騎(ろくせんよき)、尾張河(をはりがは)を中(なか)に隔(へだ)て、源平(げんぺい)両方(りやうはう)に陣(ぢん)をとる。

 同(おな)じき十六日(じふろくにち)の夜半(よなか)ばかり、源氏(げんじ)の勢(せい)六千余騎(ろくせんよき)河(かは)を渡(わた)って、平家(へいけ)三万余騎(さんまんよき)が中(なか)へをめいて懸(か)け入(い)る。明(あ)れば十七日(じふしちにち)寅刻(とらのこく)より矢合(やあはせ)して、夜(よ)の明(あく)るまで戦(たたか)ふに、平家(へいけ)の方(かた)には些(ちつと)も騒(さわ)がず、

「敵(かたき)は河(かは)を渡(わた)いたれば馬物具(うまもののぐ)も皆(みな)濡(ぬ)れたるぞ、それを標(しるし)にして討(う)てや」

 とて、大勢(おほぜい)の中(なか)に取(と)り籠(こ)めて、

「余(あま)すな漏(も)らすな」

 とて責(せ)めたまへば、源氏(げんじ)の勢(せい)残(のこ)り少(すく)なに討(う)ちなされ、大将軍(たいしやうぐん)行家(ゆきいへ)辛(から)き命(いのち)生(い)きて河(かは)より東(ひがし)へ引(ひ)き退(の)く。卿公(きやうのきみ)義円(ぎゑん)は深入(ふかいり)して討(う)たれにけり。平家(へいけ)やがて河(かは)を渡(わた)って、源氏(げんじ)を追物射(おひものい)に射(い)て行(ゆ)く。

 源氏(げんじ)あそこここで帰(かへ)し合(あ)はせ防(ふせ)ぎけれども、敵(かたき)は大勢(おほぜい)、御方(みかた)は無勢(ぶぜい)なり。かなふべしとも見(み)ざりけり。

「水沢(すゐたく)を後(うしろ)にする事(こと)なかれ」

 とこそいふに、今度(こんど)の源氏(げんじ)の策(はかりごと)、愚(をろか)なりとぞ人(ひと)申(まう)しける。去(さ)るほどに大将軍(たいしやうぐん)十郎蔵人(じふらうくらんど)行家(ゆきいへ)参河国(みかはのくに)に打(う)ち越(こ)えて、矢矧川(やはぎがは)の橋(はし)を引(ひ)き、垣楯(かいだて)掻(か)いて待(ま)ち懸(か)けたり。平家(へいけ)やがて押(お)し寄(よ)せ攻(せ)めたまへば、こらへずして、そこをも、また、攻(せ)め落(お)されぬ。平家(へいけ)やがて続(つづ)いて攻(せ)めたまへば、参河(みかは)遠江(とほたふみ)の勢(せい)は、随(したが)ひつくべかりしに大将軍(たいしやうぐん)左兵衛督知盛(さひやうゑのかみとももり)、労(いたはり)あって参河国(みかはのくに)より帰(かへ)り上(のぼ)らる。今度(こんど)も僅(わづか)に一(いち)陣(ぢん)を破(やぶ)るといへども、残党(ざんたう)を攻(せ)めねば、し出(い)だしたる事(こと)なきが如(ごと)し。平家(へいけ)は去々年(さをととし)小松(こまつ)大臣(だいじん)薨(こう)せられぬ。今年(ことし)また入道相国(にふだうしやうこく)失(う)せたまひぬ。運命(うんめい)の末(すゑ)になる事(こと)あらはなりしかば、年来(ねんらい)恩顧(おんこ)の輩(ともがら)の外(ほか)は、随(したが)ひ付(つ)く者(もの)なかりけり。東国(とうごく)には草(くさ)も木(き)も皆(みな)源氏(げんじ)にぞ靡(なび)きける。

嗄声

 去(さ)るほどに越後国(ゑちごのくに)の住人(ぢゆうにん)、城太郎(じやうのたらう)助長(すけなが)、越後守(ゑちごのかみ)に任(にん)ず。朝恩(てうおん)の忝(かたじけな)さに、木曽(きそ)追討(ついたう)のために、都合(つがふ)三万余騎(さんまんよき)同(おな)じき六月(ろくぐわつ)十五日(じふごにち)門出(かどで)して、明(あく)る十六日(じふろくにち)の卯刻(うのこく)にすでに討(う)ち立(た)たんとしけるに、夜半(よなか)ばかり、俄(にはか)に大風(おほかぜ)吹(ふ)き、大雨(おほあめ)降(ふ)り、雷(いかづち)おびたたしう鳴(な)って、天(てん)晴(は)れて後(のち)雲井(くもゐ)に大(おほ)なる声(こゑ)のしはがれたるを以(もつ)て、

「南閻浮提(なんえんぶだい)金銅十六丈(こんどうじふろくぢやう)の盧遮那仏(るしやなぶつ)、焼亡(せうまう)し奉(たてまつ)る平家(へいけ)の方人(かたうど)する者(もの)ここにあり、召(め)し取(と)れや」

 と、三声(みこゑ)叫(さけ)んでぞ通(とほ)りける。城太郎(じやうのたらう)を始(はじ)めとして、これをきく者(もの)、皆(みな)身(み)の毛(け)よだちけり。郎等(らうどう)ども、

「これほど怖(おそ)ろしい天(てん)の告(つ)げのさうらふに、ただ理(ことわり)を枉(ま)げて留(とど)まらせたまへ」

 と申(まう)しけれども、弓矢(ゆみや)取(と)る者(もの)の、それによるべきやうなしとて、明(あく)る十六日(じふろくにち)卯刻(うのこく)に城(しろ)を出(い)でて僅(わづか)に十余町(じふよちやう)ぞ行(ゆ)ったりける。黒雲(くろくも)一村(ひとむら)立(た)ち来(き)て、助長(すけなが)が上(うへ)に掩(おほ)ふとこそ見(み)えけれ、俄(にはか)に身(み)すくみ心(こころ)ほれて落馬(らくば)してけり。輿(こし)に舁(か)き乗(の)せ館(やかた)へ帰(かへ)り、打(う)ち臥(ふ)す事(こと)三時(みとき)ばかりして、遂(つひ)に死(し)にけり。飛脚(ひきやく)を以(もつ)て、この由(よし)都(みやこ)へ申(まう)したりければ、平家(へいけ)の人々(ひとびと)、大(おほ)いに噪(さわ)がれけり。

 同(おな)じき七月(しちぐわつ)十四日(じふよつか)改元(かいげん)あって、養和(やうわ)と号(がう)す。その日(ひ)筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)、筑前肥後両国(ちくぜんひごりやうごく)をたまはって、鎮西(ちんぜい)の謀反(むほん)平(たひ)らげに、西国(さいこく)へ発向(はつかう)す、その日(ひ)また非常(ひじやう)の大赦(たいしや)行(おこな)はれて、去(さ)んぬる治承(ぢしやう)三年(さんねん)に流(なが)されたまひし人々(ひとびと)召(め)し還(かへ)さる。松殿(まつどの)入道殿下(にふだうでんか)備前国(びぜんのくに)より御上洛(ごじやうらく)、太政大臣妙音院(だじやうだいじんめうおんゐん)尾張国(をはりのくに)より上(のぼ)らせたまふ。按察大納言(あぜちのだいなごん)資方卿(すけかたのきやう)信濃国(しなののくに)より帰洛(きらく)とぞ聞(き)こえし。

 同(おな)じき廿八日(にじふはちにち)、妙音院(めうおんゐん)殿(どの)御院参(ごゐんざん)。去(さ)んぬる長寛(ちやうくわん)の帰洛(きらく)には、御前(ごぜん)の賓子(ひんし)にして、賀王恩(がわうおん)、還城楽(げんじやうらく)を弾(ひ)かせたまひしに、養和(やうわ)の今(いま)の帰京(ききやう)には、仙洞(せんとう)にして秋風楽(しうふうらく)をぞ遊(あそ)ばしける。いづれも風情(ふぜい)折(をり)をおぼしめしよらせたまひけん御心(みこころ)のほどこそ目出(めで)たけれ。按察大納言(あぜちのだいなごん)資方卿(すけかたのきやう)も、その日(ひ)院参(ゐんざん)せらる。法皇(ほふわう)、

「いかにや夢(ゆめ)のやうにこそおぼしめし。習(なら)はぬ鄙(ひな)の住(す)まひして、鄙曲(ひきよく)なども、今(いま)は跡(あと)方(かた)あらじとおぼしめせどもまづ今様(いまやう)一(ひと)つあらばや」

 とおほせければ、大納言(だいなごん)拍子(ひやうし)取(と)って、

信濃(しなの)にあるなる木曽路川(きそぢがは)。

 といふ今様(いまやう)を、これは見(み)たまひたりし間(あひだ)、

信濃(しなの)にありし木曽路川(きそぢがは)。

 と歌(うた)はれけるぞ時(とき)に取(と)っての高名(かうみやう)なる。

横田河原合戦

 八月(はちぐわつ)七日(なぬか)の日官(ひのくわん)の庁(ちやう)にて、大仁王会(だいにんわうゑ)行(おこな)はる。これは将門(まさかど)追討(ついたう)の例(れい)とぞ聞(き)こえし。九月(くぐわつ)一日(いちにち)、純友(すみとも)追討(ついたう)の例(れい)とて、鉄(くろがね)の鎧甲(よろひかぶと)を伊勢大神宮(いせだいじんぐう)へ参(まゐ)らせらる。勅使(ちよくし)は祭主(さいしゆ)神祇権大副(じんぎごんのたいふ)大中臣定隆(おほなかとみのさだたか)。

 都(みやこ)を立(た)て近江国(あふみのくに)甲賀(かうが)の駅(うまや)より病(や)み付(つ)き、伊勢(いせ)の離宮(りきう)にして、死(し)にけり。謀反(むほん)の輩(ともがら)調伏(てうぶく)のために、五壇(ごだん)の法(ほふ)、承(うけたまは)って行(おこな)はれける降三世(ごうざんぜ)の大阿闍梨(だいあじやり)、大行事(だいぎやうじ)の彼岸所(ひがんじよ)にして、ね死(し)にしぬ。神明(しんめい)も三宝(さんぼう)も、御納受(ごなふじゆ)なしといふ事(こと)いちじるし。また大元法(だいげんのほふ)、承(うけたまは)って修(しゆ)せられける安祥寺(あんしやうじ)の賢玄阿闍梨(けんげんあじやり)が御巻数(ごくわんじゆ)を進(しん)じたりけるを、披見(ひけん)せられければ、平家(へいけ)調伏(てうぶく)の由(よし)を註進(ちゆうしん)したりけるぞ怖(おそ)ろしき。

「こはいかに」

 とおほせければ、

「朝敵(てうてき)調伏(てうぶく)せよとおほせ下(くだ)さる。当世(たうせい)の体(てい)を見(み)さうらふに、平家(へいけ)専(もつぱ)ら朝敵(てうてき)と見(み)えたまへり。よってこれを調伏(てうぶく)す、何(なに)のとがやさうらふべき」

 とぞ申(まう)しける。

「この法師(ほふし)奇怪(きつくわい)なり。死罪(しざい)か流罪(るざい)か」

 とありしか、大小事(だいせうじ)の怱劇(そうげき)に、打(う)ち紛(まぎ)れてその後(のち)沙汰(さた)もなかりけり。源氏(げんじ)の代(よ)となって後(のち)、鎌倉殿(かまくらどの)、

「神妙(しんべう)なり」

 と感(かん)じおぼしめして、その勧賞(くわんじやう)に大僧正(だいそうじやう)になされけるとぞ聞(き)こえし。

 同(おな)じき十二月(じふにぐわつ)廿四日(にじふよつか)、中宮院号(ちゆうぐうゐんがう)蒙(かうぶ)らせたまひて、建礼門院(けんれいもんゐん)とぞ申(まう)しける。いまだ幼主(えうしゆ)の御時(おんとき)、母后(ぼこう)の院号(ゐんがう)これ始(はじめ)とぞ承(うけたまは)る。さるほどに今年(ことし)も暮(く)れて、養和(やうわ)も二年(にねん)になりにけり。

 二月(にぐわつ)廿一日(にじふいちにち)、太白(たいはく)昴星(ばうせい)を侵(をか)す。天文要録(てんもんえうろく)にいはく、

「太白(たいはく)昴星(ばうせい)を侵(をか)せば、四夷(しい)起(お)る」

 といへり。また、

「将軍(しやうぐん)勅命(ちよくめい)を蒙(かうぶ)って、国(くに)の境(さかひ)を出(い)づ」

 とも見(み)えたり。

 三月(さんぐわつ)十日(とをか)、除目(ぢもく)行(おこな)はれて、平家(へいけ)の人々(ひとびと)大略(たいりやく)官(くわん)加階(かかい)したまふ。四月(しぐわつ)十日(とをか)、前権少僧都顕真(さきのごんのせうそうづけんしん)、日吉(ひよし)の社(やしろ)にして、如法(によほふ)に法華経(ほけきやう)一万部(いちまんぶ)転読(てんどく)する事(こと)ありけり。御結縁(ごけちえん)のために、法皇(ほふわう)も御幸(ごかう)なる。何者(なにもの)の申(まう)し出(いだ)したりけるやらん、一院(いちゐん)山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)におほせて、平家(へいけ)を追討(ついたう)せらるべしと聞(き)こえしほどに、軍兵(ぐんぴやう)内裏(だいり)へ参(まゐ)って、四方(しはう)の陣頭(ぢんとう)を警固(けいご)す。平氏(へいじ)の一類(いちるゐ)、皆(みな)六波羅(ろくはら)へ馳(は)せ集(あつ)まる。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿(きやう)、法皇(ほふわう)の御(おん)むかへにその勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)で日吉(ひよし)の社(やしろ)へ参向(さんかう)す。山門(さんもん)にまた聞(き)こえけるは、平家(へいけ)山(やま)攻(せ)めんとて、数百騎(すうひやくき)の勢(せい)を率(そつ)して登山(とうざん)すと聞(き)こえしかば、大衆(だいしゆ)皆(みな)東坂本(ひがしざかもと)へ下(くだ)りて、

「こはいかに」

 と僉議(せんぎ)す。山上洛中(さんじやうらくちゆう)の騒動(さうどう)斜(ななめ)ならず。供奉(ぐぶ)の公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)色(いろ)を失(うしな)ひ、北面(ほくめん)の者(もの)の中(なか)にはあまりにあわて噪(さわ)いで、黄水(わうず)つく者(もの)多(おほ)かりけり。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿(きやう)、穴太(あのう)の辺(ほとり)にて、法皇(ほふわう)迎(むか)へ取(と)り参(まゐ)らせて還御(くわんぎよ)なし奉(たてまつ)る。

「かくのみあるにはこの後(のち)は御物語(おんものがたり)なども今(いま)は御心(みこころ)に任(まか)すまじき事(こと)やらん」

 とぞおほせける。まことには山門(さんもん)大衆(だいしゆ)平家(へいけ)を追討(ついたう)せんといふ事(こと)もなし。平家(へいけ)山(やま)せめんといふ事(こと)もなし。これ跡形(あとかた)なき事(こと)どもなり。

「天魔(てんま)のよく荒(あ)れたるにこそ」

 とぞ人(ひと)申(まう)しける。同(おな)じき四月(しぐわつ)廿日(はつか)、臨時(りんじ)に官僧(くわんぞう)あり。これは飢饉疾疫(ききんしつえき)に依(よ)てなり。

 同(おな)じき五月(ごぐわつ)二十四日(にじふよつか)改元(かいげん)あって、寿永(じゆえい)と号(がう)す。その日(ひ)また越後国(ゑちごのくに)の住人(ぢゆうにん)城四郎(じやうのしらう)助茂(すけもち)、越後守(ゑちごのかみ)に任(にん)ず。兄(あに)の助長(すけなが)逝去(せいきよ)の間(あひだ)、不吉(ふきつ)なりとて頻(しきり)に辞(じ)しけれども、勅命(ちよくめい)なれば力(ちから)及(およ)ばず。助茂(すけもち)を長茂(ながもち)と改名(かいみやう)す。

 同(おな)じき九月(くぐわつ)二日(ふつか)、城四郎(じやうのしらう)長茂(ながもち)木曽(きそ)追討(ついたう)のために、越後(ゑちご)、出羽(では)、会津(あいづ)四郡(しぐん)の兵(つはもの)どもを引率(いんそつ)して、都合(つがふ)その勢(せい)四万余騎(しまんよき)、信濃国(しなののくに)へ発向(はつかう)す。同(おな)じき九日(ここのか)、当国(たうごく)横田河原(よこたがはら)に陣(ぢん)をとる。木曽(きそ)は依田城(よだのしろ)にありけるが、これを聞(き)いて依田城(よだのしろ)を出(い)でて三千余騎(さんぜんよき)で、馳(は)せ向(む)ふ。信濃(しなの)源氏(げんじ)、井上九郎(ゐのうへのくらう)光盛(みつもり)が謀(はかりごと)に、俄(にはか)に赤旗(あかはた)七旒(しちりう)作(つく)り三千余騎(さんぜんよき)を七手(ななて)に分(わ)かち、あそこの峰(みね)、ここの洞(ほら)より赤旗(あかはた)ども手(て)にくく指(さ)し揚(あ)げて寄(よ)せければ、城四郎(じやうのしらう)これを見(み)て、

「あはやこの国(くに)にも平家(へいけ)の方人(かたうど)する人(ひと)ありけりと、力(ちから)付(つ)きぬ」

 とて、勇(いさみ)のいる所(ところ)に、次第(しだい)に近(ちか)うなりければ、相図(あひづ)を定(さだ)めて、七手(ななて)が一(ひと)つになり、一度(いちど)に閧(とき)をどとぞ作(つく)りける。用意(ようい)したる白旗(しろはた)、さと差(さ)し揚(あ)げたり。越後(ゑちご)の勢(せい)ども、これを見(み)て、

「敵(かたき)何(なに)十万騎(じふまんぎ)あらん、いかがせん」

 と色(いろ)を失(うしな)ひ、あわてふためき、あるは河(かは)に追(お)はめられ、あるは悪所(あくしよ)におひ落(お)され、助(たす)かる者(もの)は少(すく)なう、討(う)たるる者(もの)ぞ多(おほ)かりける。城四郎(じやうのしらう)が頼(たの)み切(き)ったる越後(ゑちご)の山太郎(やまのたらう)、会津(あいづ)の乗丹房(じようたんばう)といふ聞(き)こゆる兵(つはもの)ども、そこにて皆(みな)討(う)たれぬ。わが身(み)手(て)負(お)ひ、辛(から)き命(いのち)生(い)きつつ、河(かは)に伝(つた)うて越後国(ゑちごのくに)へ引(ひ)き退(の)く。

 同(おな)じき十六日(じふろくにち)、都(みやこ)には平家(へいけ)これをば事(こと)ともしたまはず前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、大納言(だいなごん)に還著(げんぢやく)して、十月(じふぐわつ)三日(みつか)、内大臣(ないだいじん)になりたまふ。同(おな)じき七日(なぬか)悦申(よろこびまうし)あり。当家(たうけ)の公卿(くぎやう)十二人(じふににん)扈従(こじゆう)して、蔵人頭(くらんどのとう)以下(いげ)、殿上人(てんじやうびと)十六人(じふろくにん)前駆(ぜんぐ)す。東国(とうごく)北国(ほくこく)の源氏(げんじ)ども、蜂(はち)の如(ごと)くに起(お)き合(あ)ひ、ただ今(いま)都(みやこ)へ責(せ)め上(のぼ)らんとするに、かやうに波(なみ)の立(た)つやらん、風(かぜ)の吹(ふ)くやらんも知(し)らぬ体(てい)にて花(はな)やかなりし事(こと)ども、中々(なかなか)いふかひなうぞ見(み)えたりける。

 さるほどに、寿永(じゆえい)二年(にねん)になりにけり。節会(せちゑ)以下(いげ)常(つね)の如(ごと)し。内弁(ないべん)をば平家(へいけ)の内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)勤(つと)めらる。正月(しやうぐわつ)六日(むいか)主上(しゆしやう)朝覲(てうきん)のために、院(ゐん)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆじどの)へ行幸(ぎやうかう)なる。鳥羽院(とばのゐん)六歳(ろくさい)にて、朝覲(てうきん)行幸(ぎやうかう)、その例(れい)とぞ聞(き)こえし。二月(にぐわつ)廿二日(にじふににち)、宗盛公(むねもりこう)従一位(じゆいちゐ)したまふ。聴(ゆる)してその日(ひ)内大臣(ないだいじん)をば上表(じやうへう)せらる。兵乱(ひやうらん)慎(つつしみ)のゆゑとぞ聞(き)こえし。南都(なんと)北嶺(ほくれい)の大衆(だいしゆ)、熊野(くまの)金峰山(きんぷせん)の僧徒(そうと)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)の祭主神官(さいしゆしんくわん)に至(いた)るまで、一向(いつかう)平家(へいけ)を背(そむ)いて、源氏(げんじ)に心(こころ)を通(かよ)はしける。四方(しはう)に宣旨(せんじ)をなし下(くだ)し、諸国(しよこく)に院宣(ゐんぜん)遣(つか)はせども、院宣(ゐんぜん)宣旨(せんじ)も、皆(みな)平家(へいけ)の下知(げぢ)とのみ心(こころ)得(え)て随(したが)ひ付(つ)く者(もの)なかりけり。

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