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『平家物語』第12巻 原文全文

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目次

大地震

 平家(へいけ)皆(みな)滅(ほろ)び果(は)てて西国(さいこく)も静(しづ)まりぬ。

 国(くに)は国司(こくし)に随(したが)ひ、庄(しやう)は領家(りやうけ)のままなり。

 上下(しやうげ)安堵(あんど)して覚(おぼ)えし程(ほど)に、同(おな)じき七月(しちぐわつ)九日(ここのか)の午刻(うまのこく)許(ばかり)に大地(だいぢ)おびただしく動(うご)きて良久(ややひさ)し。

 赤県(せきけん)の中(なか)白河(しらかは)の辺(へん)、六勝寺(ろくしようじ)皆(みな)破(やぶ)れ壊(くづ)る。

 九重(ここのへ)の塔(たふ)も上六重(かみろくぢゆう)を震(ふる)り落(お)す。

 得長寿院(とくちやうじゆゐん)も三十三間(さんじふさんげん)の御堂(みだう)を十七間(じふしちけん)まで振(ふ)り倒(たふ)す。

 皇居(くわうきよ)を始(はじ)めて、人々(ひとびと)の家家(いへいへ)惣(すべ)て在々所々(ざいざいしよしよ)の神社(じんじや)仏閣(ぶつかく)、怪(あや)しの民屋(みんをく)、さながら破(やぶ)れ壊(くづ)るる音(おと)は雷(いかづち)の如(ごと)く、揚(あ)がる塵(ちり)は烟(けぶり)の如(ごと)し。

 天(てん)暗(くら)うして、日(ひ)の光(ひかり)も見(み)えず、老少(らうせう)共(とも)に魂(たましひ)を銷(け)し、鳥獣(てうじう)ことごとく心(こころ)を尽(つ)くす。

 又(また)遠国(をんごく)近国(きんごく)もかくのごとし。

 大地(だいぢ)裂(さ)けて水(みづ)湧(わ)き出(い)で、磐石(ばんじやく)破(やぶ)れて谷(たに)へまろぶ。

 山(やま)壊(くづ)れて河(かは)を埋(うづ)み、海(うみ)漂(ただよ)ひて浜(はま)をひたす。

 汀(みぎは)漕(こ)ぐ船(ふね)は波(なみ)にゆられ、陸(くが)行(ゆ)く駒(こま)は足(あし)の立(た)つ処(ところ)を失(うしな)へり。

 洪水(こうずゐ)みなぎり来(きた)らば、岳(をか)にのぼってもなどか助(たす)からざらん。

 猛火(みやうくわ)燃(も)え来(きた)らば、川(かは)を隔(へだ)てても暫(しば)しも去(い)ぬべし。

 ただ悲(かな)しかりけるは大地震(だいぢしん)なり。

 鳥(とり)にあらざれば空(そら)をも翔(かけ)り難(かた)く、竜(りう)にあらざれば雲(くも)にも又(また)上(のぼ)りがたし。

 白河(しらかは)六波羅(ろくはら)京中(きやうぢゆう)に打(う)ち埋(うづ)もれて死(し)する者(もの)幾(いく)等(ら)といふ数(かず)をしらず。

 四大種(しだいしゆ)の中(なか)に、水(みづ)火(ひ)風(かぜ)は常(つね)に害(がい)をなせども、大地(だいぢ)に於(おい)いては異(こと)なる変(へん)をなさず。

 こはいかにしつる事(こと)ぞやとて上下(しやうげ)遣戸(やりど)障子(しやうじ)を立(た)て、天(てん)の鳴(な)り地(ち)の動(うご)く度(ど)毎(ごと)には、ただ今(いま)ぞ死(し)ぬるとて声々(こゑごゑ)に念仏(ねんぶつ)申(まう)し、をめきさけぶ事(こと)おびただし。

 七八十(しちはちじふ)、九十(くじふ)の者(もの)も、世(よ)の滅(めつ)するなど云(い)ふ事(こと)は、さすが今日(けふ)明日(あす)とはおもはずとて大(おほ)いに噪(さわ)ぎければ、をさなき者(もの)どもも聞(き)いて、泣(な)き悲(かな)しむ事(こと)限(かぎ)りなし。

 法皇(ほふわう)はその折(をり)しも新熊野(いまくまの)へ御幸(ごかう)なりて、人(ひと)多(おほ)く打(う)ち殺(ころ)され触穢(しよくゑ)出来(いでき)にければ、急(いそ)ぎ六波羅(ろくはら)へ還御(くわんぎよ)なる。

 道(みち)すがら君(きみ)も臣(しん)もいかばかり御心(みこころ)を砕(くだ)かせたまひけん。

 主上(しゆしやう)は鳳輦(ほうれん)に召(め)して、池(いけ)の汀(みぎは)へ行幸(ぎやうかう)なる。

 法皇(ほふわう)は南庭(なんてい)にあく屋(や)を立(た)てぞましましける。

 女院(にようゐん)宮々(みやみや)は、御所(ごしよ)共(ども)皆(みな)震(ふる)り倒(たふ)しければ或(あるい)は御輿(みこし)に召(め)し、或(あるい)は御車(おんくるま)に召(め)して、出(いだ)させたまふ。

 天文(てんもん)の博士(はかせ)共(ども)馳(は)せ参(まゐ)りて、夕(ゆふ)さりの亥子(ゐね)の刻(こく)には必(かなら)ず大地(だいぢ)打(う)ち返(かへ)すべしと申(まう)せば、怖(おそ)ろしさなども愚(をろか)なり。

 昔(むかし)文徳天皇(もんとくてんわう)の御宇(ぎよう)斉衡(さいかう)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)八日(やうか)の大地震(だいぢしん)には、東大寺(とうだいじ)の仏(ほとけ)の御(おん)ぐしを震(ふる)り落(お)したりけるとかや。

 又(また)天慶(てんぎやう)二年(にねん)四月(しぐわつ)五日(いつか)の大地震(だいぢしん)には、主上(しゆしやう)御殿(ごてん)を去(さ)りて、常寧殿(じやうねいでん)の前(まへ)に五丈(ごぢやう)のあく屋(や)を立(た)ててましましけるとぞ承(うけたまは)る。

 それは上代(じやうだい)の事(こと)なれば申(まう)すにおよばず。

 今度(こんど)の事(こと)はこれより後(のち)も類(たぐひ)あるべしとも覚(おぼ)えず。

 十善(じふぜん)帝王(ていわう)都(みやこ)を出(いだ)させたまひて、御身(おんみ)を海底(かいてい)に沈(しづ)め、大臣公卿(だいじんくぎやう)大路(おほぢ)を渡(わた)してその頸(くび)を獄門(ごくもん)に懸(か)けらる。

 昔(むかし)より今(いま)に至(いた)るまで怨霊(をんりやう)は怖(おそ)ろしき事(こと)なれば世(よ)もいかがあらんずらんとて心(こころ)ある人(ひと)の嘆(なげ)き悲(かな)しまぬは無(な)かりけり。

紺掻沙汰

 同(おな)じき八月(はちぐわつ)二十二日(にじふににち)、鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)頼朝(よりとも)卿(きやう)の父(ちち)故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)のうるはしき頭(かしら)とて、高雄(たかを)の文覚(もんがく)上人(しやうにん)頸(くび)にかけ、鎌田兵衛(かまたびやうゑ)が頸(くび)をば、弟子(でし)が頸(くび)にかけさせて、鎌倉(かまくら)へぞ下(くだ)られける。

 去(さ)んぬる治承(ぢしやう)四年(よねん)のころ取(と)り出(いだ)して、たてまつりけるは実(まこと)の左馬頭(さまのかみ)の首(くび)にはあらず。

 謀反(むほん)をすすめ奉(たてまつ)らんためのはかりごとに、そぞろなるふるい頭(かしら)をしろい布(ぬの)に包(つつ)んでたてまつりけるに、謀反(むほん)を起(お)こし、世(よ)を討(う)ち取(と)って、一向(いつかう)父(ちち)の頭(かしら)と信(しん)ぜられける処(ところ)へ又(また)尋(たづ)ね出(いだ)してくだりけり。

 これは年来(ねんらい)義朝(よしとも)の不便(ふびん)にして召(め)し使(つか)はれける紺掻(こんかき)の男(をとこ)、年来(ねんらい)獄門(ごくもん)に懸(か)られて後世(ごせ)弔(とぶら)ふ人(ひと)もなかりし事(こと)をかなしんで時(とき)の大理(だいり)に逢(あ)ひ奉(たてまつ)り申(まう)し給(たま)はり取(と)りおろして、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)流人(るにん)でおはすれども、末(すゑ)たのもしき人(ひと)なり。

 もし世(よ)に出(い)でて尋(たづ)ねらるる事(こと)もこそあれとて東山(ひがしやま)円覚寺(ゑんがくじ)といふ所(ところ)に、深(ふか)う納(をさ)めて置(お)きたりけるを、文覚(もんがく)聞(き)き出(いだ)して、かの紺掻男(こんかきをとこ)共(ども)に、相具(あひぐ)して下(くだ)りけるとかや。

 今日(けふ)既(すで)に鎌倉(かまくら)へ著(つ)くと聞(き)こえしかば、源二位(げんにゐ)片瀬河(かたせがは)まで迎(むか)へにおはしけり。

 それより色(いろ)の姿(すがた)になって、泣(な)く泣(な)く鎌倉(かまくら)へ入(い)りたまふ。

 聖(ひじり)をば大床(おほゆか)に立(た)て、我身(わがみ)は庭(には)に立(た)て、父(ちち)の頭(かしら)を請(う)け取(と)りたまふぞ哀(あはれ)なる。

 これを見(み)る大名小名(だいみやうせうみやう)、皆(みな)涙(なみだ)を流(なが)さずと云(い)ふ事(こと)なし。

 せき巖(いはほ)の峻(けは)しきを伐(き)り掃(は)って、新(あらた)たなる道場(だうぢやう)を造(つく)り、父(ちち)の御為(おんため)と供養(くやう)して、勝長寿院(しようちやうじゆゐん)と号(がう)せらる。

 公家(くげ)にもかやうの事(こと)を哀(あはれ)とおぼしめして、故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の墓(はか)へ、内大臣(ないだいじん)正二位(しやうにゐ)を贈(おく)らる。

 勅使(ちよくし)は左大弁(さだいべん)兼忠(かねただ)とぞ聞(き)こえし。

 頼朝(よりとも)卿(きやう)武勇(ぶゆう)の名誉(めいよ)長(ちやう)ぜるによって、身(み)を立(た)て家(いへ)を興(おこ)すのみならず、亡父(ばうふ)聖霊(しやうりやう)、贈官贈位(ぞうくわんぞうゐ)に及(およ)びけるこそ目出(めで)たけれ。

平大納言被流

 同(おな)じき九月(くぐわつ)二十三日(にじふさんにち)、平家(へいけ)の余(よ)党(たう)の都(みやこ)にあるを、国々(くにぐに)へ遣(つか)はさるべき由(よし)鎌倉殿(かまくらどの)より公家(くげ)へ申(まう)されたりければ、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)能登(のと)国(くに)、子息(しそく)讃岐(さぬき)中将(ちゆうじやう)時実(ときざね)上総(かづさ)国(くに)、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)安芸国(あきのくに)、兵部少輔(ひやうぶのせう)正明(まさあき)隠岐(おき)国(くに)、二位(にゐ)僧都(そうづ)専親(せんしん)阿波国(あはのくに)、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん)備後国(びんごのくに)、中納言(ちゆうなごん)律師(りつし)忠快(ちゆうくわい)武蔵国(むさしのくに)とぞ聞(き)こえし。

 或(ある)西海(さいかい)の波(なみ)の上(うへ)、或(ある)東関(とうくわん)の雲(くも)の果(は)て、先途(せんど)いづくを期(き)せず、後会(ごくわい)その期(き)を知(し)らず、別(わかれ)の涙(なみだ)を押(お)さへて、面々(めんめん)に赴(おもむ)かれけん心(こころ)の中(なか)推(お)し量(はか)られて哀(あはれ)なり。

 その中(なか)に平大納言(へいだいなごん)は、建礼門院(けんれいもんゐん)の吉田(よしだ)に渡(わた)らせたまふ処(ところ)に参(まゐ)りて

「時忠(ときただ)こそ責(せめ)重(おも)うして、今日(けふ)既(すで)に配所(はいしよ)へ趣(おもむ)き候(さうら)へ。同(おな)じ都(みやこ)の内(うち)に候(さうら)ひて、御(おん)当(あた)りの御事(おんこと)ども承(うけたま)はらまほしう候(さうらひ)つるに、つひにいかなる御有様(おんありさま)にて渡(わた)らせたまひ候(さうら)はんずらむと、思(おも)ひ置(お)き参(まゐ)らせ候(さうらふ)にこそ、行(ゆ)く空(そら)も覚(おぼ)ゆまじう候(さうら)へ」

 と、泣(な)く泣(な)く申(まう)されければ、女院(にようゐん)、

「げにも昔(むかし)の名残(なごり)とては、そこばかりこそおはしつれ。今(いま)はあはれをもかけ、弔(とぶら)ふ人(ひと)も誰(たれ)かはあるべき」

 とて御涙(おんなみだ)せきあへさせたまはず。

 この大納言(だいなごん)と申(まう)すは、出羽前司(ではのぜんじ)具信(とものぶ)が孫(まご)、兵部権大輔(ひやうぶのごんのたいふ)贈左大臣(ぞうさだいじん)時信(ときのぶ)が子(こ)なり。

 故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御(おん)せうとにて高倉(たかくら)の上皇(しやうくわう)の御外戚(ごぐわいせき)なり。

 世(よ)の覚(おぼ)え時(とき)のきら目出(めで)たかりき。

 入道相国(にふだうしやうこく)の北方(きたのかた)、八条(はちでう)の二位殿(にゐどの)も姉(あね)にておはせしかば、兼官兼職(けんくわんけんしよく)、思(おも)ひの如(ごと)く心(こころ)の如(ごと)し。

 されば程(ほど)なくあがって正二位(しやうにゐ)の大納言(だいなごん)に至(いた)れり。

 検非違使(けびゐし)別当(べつたう)にも三箇度(さんがど)までなりたまふ。

 この人(ひと)の庁務(ちやうむ)の時(とき)は、窃盗(せつたう)強盗(がうだう)をば召(め)し捕(とら)って、様(さま)もなく右(みぎ)のかひなをば腕中(わんなか)より打(う)ち落(お)し打(う)ち落(お)し追(お)ひ捨(す)てらる。

 されば悪別当(あくべつたう)とぞ申(まう)しける。

 主上(しゆしやう)併(あは)せて三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)都(みやこ)へ返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)るべき由(よし)西国(さいこく)へ院宣(ゐんぜん)を下(くだ)されたりけるに院宣(ゐんぜん)の御使(おんつかひ)、花形(はながた)がつらに、浪形(なみがた)と云(い)ふ焼験(やきじるし)をせられけるも、この大納言(だいなごん)のしわざなり。

 法皇(ほふわう)も故(こ)女院(にようゐん)の御(おん)せうとなれば、御形見(おんかたみ)に御覧(ごらん)ぜまほしうおぼしめしけれども、加様(かやう)の悪行(あくぎやう)によって御憤(おんいきどほ)り浅(あさ)からず。

 九郎(くらう)判官(はうぐわん)も親(した)しうなられたりしかば、いかにもして申(まう)し宥(なだ)めばやと思(おも)はれけれども叶(かな)はず。

 子息(しそく)侍従(じじゆう)時家(ときいへ)とて、十六(じふろく)になられけるが流罪(るざい)にも漏(も)れて、伯父(をぢ)の時光(ときみつ)卿(きやう)の許(もと)におはしけり。

 母(はは)上(うへ)帥(そつ)のすけ殿(どの)の共(とも)に、大納言(だいなごん)の袂(たもと)にすがり、袖(そで)をひかへて今(いま)を限(かぎ)りの名残(なごり)をぞ惜(を)しみける。

 大納言(だいなごん)、

「つひにすまじき別(わかれ)かは」

 と心(こころ)強(つよ)くはのたまへどもさこそは悲(かな)しうも思(おも)はれけめ。

 年(とし)闌(たけ)け齢(よはひ)傾(かたぶ)きて後(のち)、さしも睦(むつ)まじかりし妻子(さいし)にも、別(わか)れ果(は)て、住(す)み慣(な)れし都(みやこ)をも、雲井(くもゐ)のよそに顧(かへり)みて、古(いにし)へは名(な)にのみ聞(き)きし越路(こしぢ)の旅(たび)に趣(おもむ)き、遙々(はるばる)と下(くだ)りたまふに、かれは志賀(しが)唐崎(からさき)、これは真野(まの)の入江(いりえ)、交田(かたた)の浦(うら)と申(まう)しければ、大納言(だいなごん)泣(な)く泣(な)く詠(えい)じたまひけり。

帰(かへ)りこん事(こと)はかた田(た)に引(ひ)く網(あみ)の、目(め)にもたまらぬ我(われ)涙(なみだ)かな。

 昨日(きのふ)は西海(さいかい)の波(なみ)の上(うへ)に漂(ただよ)ひて、怨憎会苦(をんぞうゑく)の恨(うらみ)を扁舟(へんしう)の内(うち)に積(つ)み、今日(けふ)は北国(ほくこく)の雪(ゆき)の下(した)に埋(うづ)もれて、愛別離苦(あいべつりく)の悲(かな)しみを故郷(こきやう)の雲(くも)に重(かさ)ねたり。

土佐房被斬

 さる程(ほど)に九郎(くらう)判官(はうぐわん)には鎌倉殿(かまくらどの)より大名(だいみやう)十人(じふにん)つけられたりけれども、内々(ないない)御(おん)不審(ふしん)を蒙(かうぶ)りたまふ由(よし)聞(き)こえしかば、心(こころ)を合(あ)はせて一人(ひとり)づつ皆(みな)下(くだ)り果(は)てにけり。

 兄弟(きやうだい)なる上(うへ)、殊(こと)に父子(ふし)の契(ちぎり)をして去年(きよねん)の正月(しやうぐわつ)木曽(きそ)義仲(よしなか)を追討(ついたう)せしより以降(いかう)度々(たびたび)平家(へいけ)を攻(せ)め落(お)し、今年(ことし)の春(はる)滅(ほろ)し果(は)てて一天(いつてん)を静(しづ)め、四海(しかい)を澄(す)ます。

 勧賞(くわんじやう)行(おこな)はるべき所(ところ)に、いかなる仔細(しさい)あって、かかる聞(き)こえあるらんと、上一人(かみいちにん)を始(はじ)め奉(たてまつ)り下万民(しもばんみん)に至(いた)るまで、不審(ふしん)をなす。

 この事(こと)は、去(さ)んぬる春(はる)摂津国(せつつのくに)渡辺(わたなべ)より舟汰(ふなぞろ)して八島(やしま)へ渡(わた)りたまひし時(とき)、逆櫓(さかろ)立(た)てう立(た)てじの論(ろん)をして、大(おほ)きに欺(あざむ)かれたりしを、梶原(かぢはら)遺恨(ゐこん)に思(おも)ひて常(つね)は讒言(ざんげん)しけるに依(よ)ってなり。

 定(さだ)めて謀反(むほん)の心(こころ)もあるらん。

 大名(だいみやう)共(ども)差(さ)し上(のぼ)せば、宇治(うぢ)勢田(せた)の橋(はし)をも引(ひ)き、京中(きやうぢゆう)の噪(さわ)ぎとなって、中々(なかなか)悪(あし)かりなんとて土佐房(とさばう)正俊(まさとし)を召(め)して

「和僧(わそう)上(のぼ)って、物詣(ものまうで)する様(さま)にてたばかり討(う)て」

 とのたまひければ正俊(まさとし)畏(かしこ)まって承(うけたまは)り、宿所(しゆくしよ)へも帰(かへ)らず、御前(ごぜん)を立(た)ってやがて京(きやう)へぞ上(のぼ)りける。

 同(おな)じき九月(くぐわつ)二十(にじふ)九日(ここのか)土佐房(とさばう)都(みやこ)へついたりけれ共(ども)、次(つぎ)の日(ひ)まで判官(はうぐわん)殿(どの)へもまゐらず。

 土佐房(とさばう)がのぼりたる由(よし)聞(き)きたまひ、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)を以(もつ)て召(め)されければ、やがてつれて参(まゐ)りたり。

 判官(はうぐわん)のたまひけるは、

「いかに鎌倉殿(かまくらどの)より御文(おんふみ)はなきか」

「指(さ)したる御事(おんこと)候(さうら)はぬ間(あひだ)、御文(おんふみ)はまゐらせられず候(さうらふ)。『御詞(おんことば)にて申(まう)せ』と候(さうら)ひしは『当時(たうじ)まで都(みやこ)に別(わかれ)の仔細(しさい)なく候(さうらふ)事(こと)、さて御渡(おんわた)り候(さうらふ)故(ゆゑ)と覚(おぼ)え候(さうらふ)。相構(あひかま)へてよく守護(しゆご)せさせたまへ。と申(まう)せ』とこそおほせられ候(さうらひ)つれ」

 判官(はうぐわん)、

「よもさはあらじ、義経(よしつね)討(う)ちに上(のぼ)る御使(おんつかひ)なり。大名(だいみやう)ども差(さ)し上(のぼ)せば、宇治(うぢ)勢田(せた)の橋(はし)をも引(ひ)き都(みやこ)の噪(さわ)ぎとも成(な)って、中々(なかなか)悪(あし)かりなん。和僧(わそう)上(のぼ)せて物詣(ものまうで)する様(さま)にて、たばかって討(う)てとぞおほせ付(つ)けられたるらんな」

 とのたまへば、正俊(まさとし)大(おほ)いに驚(おどろ)きて、

「何(なに)に依(よ)ってか、ただ今(いま)さる事(こと)の候(さうらふ)べき。聊(いささか)宿願(しゆくぐわん)に依(よ)って熊野(くまの)参詣(さんけい)の為(ため)に罷(まか)り上(のぼ)って候(さうらふ)」

 その時(とき)判官(はうぐわん)のたまひけるは、

「景時(かげとき)が讒言(ざんげん)に依(よ)って義経(よしつね)鎌倉(かまくら)へもいれられず、見参(げんざん)をだにしたまはで追(お)ひ上(のぼ)せらるる事(こと)はいかに」

 正俊(まさとし)

「その事(こと)はいかが候(さうらふ)らん、身(み)においては全(まつた)く御後(おんうしろ)ぐらう候(さうら)はず。起請文(きしやうもん)を書(か)き進(まゐ)らすべき」

 由(よし)申(まう)せば。

 判官(はうぐわん)

「とてもかうても、鎌倉殿(かまくらどの)によしと思(おも)はれ奉(たてまつ)ったらばこそ」

 とて、以外(いぐわい)気色(けしき)悪(あし)しげになりたまふ。

 正俊(まさとし)一旦(いつたん)の害(がい)をのがれんがために居(ゐ)ながら七(しち)枚(まい)の起請文(きしやうもん)を書(か)いて或(あるい)は焼(や)いて飲(の)み、或(あるい)は社(やしろ)に納(をさ)めなどして、ゆりて帰(かへ)り、大番衆(おほばんしゆ)に触(ふ)れ回(まは)してその夜(よ)やがて寄(よ)せんとす。

 判官(はうぐわん)は磯禅師(いそのぜんじ)といふ白拍子(しらびやうし)の娘(むすめ)しづかと云(い)ふ女(をんな)を最愛(もあい)せられけり。

 しづかも傍(かたはら)を立(た)ち去(さ)る事(こと)なし。

 しづか申(まう)しけるは、

「大路(おほぢ)は皆(みな)武者(むしや)で候(さうら)ふなる。これより催(もよほ)しの無(な)からんに、大番衆(おほばんしゆ)の者(もの)どものこれ程(ほど)噪(さわ)ぐべき様(さま)やさぶらふ。あはれこれは昼(ひる)の起請(きしやう)法師(ほふし)のしわざと覚(おぼ)え候(さうらふ)。人(ひと)を遣(つか)して見(み)せさぶらはばや」

 とて、六波羅(ろくはら)の故(こ)入道相国(にふだうしやうこく)の召(め)し使(つか)はれける禿(かぶろ)を三四人(さんしにん)使(つか)はれけるを、二人(ふたり)遣(つか)したりけるが、程(ほど)ふるまで帰(かへ)らず。

 中々(なかなか)女(をんな)は苦(くる)しからじとて半者(はした)を一人(ひとり)見(み)せに遣(つか)す。

 程(ほど)なく走(はし)り帰(かへ)りて申(まう)しけるは、

「禿(かぶろ)と覚(おぼ)しきものは、二人(ふたり)ながら土佐房(とさばう)の門(もん)に切(き)り伏(ふ)せられて候(さうらふ)。宿所(しゆくしよ)には鞍(くら)おき馬(むま)ども、ひしと引(ひ)き立(た)てて、大(おほ)幕(まく)の内(うち)には、矢(や)負(お)ひ、弓(ゆみ)張(は)り、者(もの)共(ども)皆(みな)具足(ぐそく)してただ今(いま)寄(よ)せんと出(い)で立(た)ち候(さうら)ふ。少(すこ)しも物詣(ものまうで)の景色(けしき)とは見(み)え候(さうら)はず」

 と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)これを聞(き)いてやがて討(う)ち立(た)ちたまふ。

 静(しづか)著背長(きせなが)取(と)って投(な)げ懸(か)け奉(たてまつ)る。

 高紐(たかひも)計(はか)らって、太刀(たち)取(と)って出(い)でたまへば、中門(ちゆうもん)の前(まへ)に馬(むま)に鞍(くら)置(お)いて引(ひ)き立(た)ったり、これに打(う)ち乗(の)って

「門(もん)を開(ひら)けよ」

 とて門(もん)あけさせ、今(いま)や今(いま)やと待(ま)ちたまふ処(ところ)に、暫(しばらく)あって直甲(ひたかぶと)四五十騎(しごじつき)門(もん)の前(まへ)に推(お)し寄(よ)せて、閧(とき)をどとぞ作(つく)りける。

 判官(はうぐわん)鐙(あぶみ)踏(ふ)ん張(は)り立(た)ちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて、

「夜討(ようち)にも昼戦(ひるいくさ)にも、義経(よしつね)たやすう討(う)つべき者(もの)は、日本国(につぽんこく)にはおぼえぬものを」

 とてただ一騎(いつき)おめいて懸(か)けたまへば、五十騎(ごじつき)ばかりの者(もの)共(ども)中(なか)をあけてぞ通(とほ)しける。

 さる程(ほど)に、江田源三(えだげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)、武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)など云(い)ふ一人当千(いちにんたうせん)の兵(つはもの)共(ども)、やがて続(つづ)いて責(せ)め戦(たたか)ふ。

 その後(のち)侍(さぶらひ)共(ども)御(おん)内(うち)に夜討(ようち)ち入(い)りたりとて、あそこの屋形(やかた)、爰(ここ)の宿所(しゆくしよ)より駈(か)来(く)る。

 程(ほど)なく六七十騎(ろくしちじつき)集(あつ)まりければ、土佐房(とさばう)猛(たけ)く寄(よ)せたりけれども、戦(たたか)に及(およ)ばず、散々(さんざん)に懸(か)け散(ち)らされて扶(たす)かる者(もの)はすくなう、討(う)たるる者(もの)ぞ多(おほ)かりける。

 正俊(まさとし)希有(けう)にしてそこをばのがれて鞍馬(くらま)の奥(おく)ににげ籠(ろう)りたりけるが、鞍馬(くらま)は判官(はうぐわん)の故山(こざん)なりければ、かの法師(ほふし)土佐房(とさばう)を搦(から)めて、次(つぎ)の日(ひ)判官(はうぐわん)の許(もと)へ送(おく)りけり。

 僧正(そうじやう)が谷(たに)と云(い)ふ所(ところ)に隠(かく)れ居(ゐ)たりけるとかや。

 正俊(まさとし)を大庭(おほには)に引(ひ)き居(ゐ)たり。

 かちの直垂(ひたたれ)にすちやう頭巾(づきん)をぞしたりける。

 判官(はうぐわん)笑(わら)ってのたまひけるは

「いかに和僧(わそう)、起請(きしやう)にはうてたるぞ」

 土佐房(とさばう)少(すこ)しも噪(さわ)がず、居(ゐ)なほりあざ笑(わら)って申(まう)しけるは。

「ある事(こと)に書(か)いて候(さうら)へば、うてて候(さうらふ)ぞかし」

 と申(まう)す。

「主君(しゆくん)の命(いのち)を重(かさ)んじて、私(わたくし)の命(いのち)を軽(かる)んず、志(こころざし)の程(ほど)最(もつと)も神妙(しんべう)なり。和僧(わそう)命(いのち)惜(を)しくば、鎌倉(かまくら)へかへし遣(つか)さんはいかに」

 土佐房(とさばう)、

「正(ただ)なうも御諚(ごぢやう)候(さうら)ふ者(もの)かな。惜(を)しと申(まう)さば、殿(どの)は扶(たす)けたまはんずるか。鎌倉殿(かまくらどの)の、法師(ほふし)なれども、己(おのれ)ぞねらはんずる者(もの)とて、おほせ蒙(かうぶ)りしより、命(いのち)をば鎌倉殿(かまくらどの)に奉(たてまつ)りぬ。なじかは取(と)り返(かへ)し奉(たてまつ)るべき。ただ御恩(ごおん)には疾々(とくとく)頭(かしら)を召(め)され候(さうら)へ」

 と申(まう)しければ、

「さらばきれ」

 とて、六条(ろくでう)河原(かはら)に引(ひ)き出(いだ)して切(き)ってげり。

 褒(ほ)めぬ人(ひと)こそなかりけれ。

判官都落

 ここに足立(あだち)新三郎(しんざぶらう)といふ雑色(ざふしき)は、

「きやつは下臈(げらふ)なれども、以外(いぐわい)さかさかしいやつで候(さうらふ)。召(め)し使(つか)ひたまへ」

 とて、判官(はうぐわん)に参(まゐ)らせられたりけるが

「内々(ないない)九郎(くらう)が振舞(ふるま)ひ見(み)て、我(われ)に知(し)らせよ」

 とぞのたまひける。

 正俊(まさとし)がきらるるを見(み)て、新三郎(しんざぶらう)夜(よ)を日(ひ)についではせ下(くだ)り、鎌倉殿(かまくらどの)にこの由(よし)申(まう)しければ、舎弟(しやてい)参河守(みかはのかみ)範頼(のりより)を、討手(うつて)に上(のぼ)せたまふべき由(よし)おほせられけり。

 頻(しき)に辞(じ)し申(まう)されけれども、重(かさ)ねておほせられける間(あひだ)、力(ちから)及(およ)ばで物具(もののぐ)して、暇(いとま)申(まう)すに参(まゐ)られたり。

「わ殿(どの)も九郎(くらう)がまねしたまふなよ」

 とおほせられければ、この御詞(おんことば)に恐(おそ)れて、物具(もののぐ)脱(ぬ)ぎ置(お)いて京上(きやうのぼり)はとどまりたまひぬ。

 全(まつた)く不忠(ふちゆう)なき由(よし)一日(いちにち)に十(じふ)枚(まい)づつの起請(きしやう)を昼(ひる)は書(か)き、夜(よ)は御坪(おんつぼ)の内(うち)にて読(よ)み上(あ)げ読(よ)み上(あ)げ百日(ひやくにち)に千枚(せんまい)の起請(きしやう)を書(か)いて参(まゐ)らせられたりけれども、叶(かな)はずしてつひに討(う)たれたまひけり。

 その後(のち)北条(ほうでう)四郎(しらう)時政(ときまさ)を大将(たいしやう)として討手(うつて)のぼると聞(き)こえしかば、判官(はうぐわん)殿(どの)鎮西(ちんぜい)の方(かた)へ落(お)ちばやと思(おも)ひ立(た)ちたまふ処(ところ)に緒方三郎(をがたのさぶらう)維義(これよし)は平家(へいけ)を九国(きうこく)の内(うち)へも入(い)れ奉(たてまつ)らず、逐(お)ひ出(いだ)す程(ほど)の威勢(ゐせい)の者(もの)なりければ、判官(はうぐわん)

「我(われ)に憑(たの)まれよ」

 とのたまひける。

「さ候(さうら)はば、御(おん)内(うち)に候(さうら)ふ菊池次郎(きくちじらう)高直(たかなほ)は、年来(ねんらい)の敵(かたき)で候(さうらふ)。たまはって頸(くび)を切(き)って憑(たの)まれ参(まゐ)らせん」

 と申(まう)す。

 左右(さゆう)なくたうだりければ、六条(ろくでう)河原(かはら)に引(ひ)き出(いだ)して切(き)ってげり。

 その後(のち)維義(これよし)かひがひしう領状(りやうじやう)す。

 同(おな)じき十一月(じふいちぐわつ)二日(ふつか)、九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)院(ゐん)御所(ごしよ)へ参(まゐ)りて、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経(やすつね)朝臣(あそん)を以(もつ)て、奏聞(そうもん)しけるは

「義経(よしつね)君(きみ)の御為(おんため)に奉公(ほうこう)の忠(ちゆう)を致(いた)す事(こと)、事(こと)あたらしう始(はじ)めて申(まう)し上(うへ)ぐるに及(およ)び候(さうら)はず。しかるを頼朝(よりとも)、郎等(らうどう)共(ども)が讒言(ざんげん)に依(よ)って、義経(よしつね)をうたんと仕(つかまつ)り候(さうらふ)間(あひだ)暫(しばら)く鎮西(ちんぜい)の方(かた)へ罷(まか)り下(くだ)らばやと存(ぞん)じ候(さうらふ)。院(ゐん)の庁(ちやう)の御下文(おんくだしぶみ)を一通(いつつう)下(くだ)し預(あづか)け候(さうらふ)ばや」

 と申(まう)されければ、法皇(ほふわう)

「この条(でう)頼朝(よりとも)がかへり聞(き)かん事(こと)いかがあるべからん」

 とて諸卿(しよけい)におほせ合(あ)はせられければ、

「義経(よしつね)都(みやこ)に候(さうら)ひて関東(くわんとう)の大勢(おほぜい)乱入(らんにふ)候(さうら)はば京都(きやうと)の狼藉(らうぜき)絶(た)え候(さうらふ)べからず。遠国(をんごく)へ下(くだ)り候(さうらふ)なば暫(しばら)くその恐(おそ)れあらず」

 とおのおの一同(いちどう)に申(まう)されければ、緒方三郎(をがたのさぶらう)をはじめて、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらたう)、惣(そう)じて鎮西(ちんぜい)の者(もの)共(ども)義経(よしつね)を大将(たいしやう)としてその下知(げぢ)にしたがふべき由(よし)庁(ちやう)の御下文(おんくだしぶみ)をたまはってければ、その勢(せい)五百余騎(ごひやくよき)明(あ)くる三日(みつか)卯刻(うのこく)に京都(きやうと)に聊(いささか)の煩(わづら)ひもなさず、波風(なみかぜ)も立(た)てずして下(くだ)りにけり。

 摂津(せつつ)の国(くに)源氏(げんじ)、太田太郎(おほたたらう)頼基(よりもと)、

「我(われ)門(もん)の前(まへ)を通(とほ)しながら矢(や)一(ひと)つ射(い)懸(か)けであるべきか」

 とて、河原津(かはらづ)と云(い)ふ所(ところ)に追(お)ひ著(き)いて責(せ)め戦(たたか)ふ。

 判官(はうぐわん)は五百余騎(ごひやくよき)、太田太郎(おほたたらう)は六十(ろくじふ)余騎(よき)にてありければ、中(なか)に取(と)り籠(こ)め

「余(あま)すな泄(もら)すな」

 とて散々(さんざん)に攻(せ)めたまへば、太田太郎(おほたたらう)吾(わが)身(み)も手負(てお)ひ、家子郎等(いへのこらうどう)多(おほ)く討(う)たせ、馬(むま)の腹(はら)射(い)させて引(ひ)き退(しりぞ)く。

 判官(はうぐわん)頸(くび)共(ども)切(き)り懸(か)けて、軍神(いくさがみ)に祭(まつ)り、

「門出(かどで)好(よ)し」

 と悦(よろこ)んで大物浦(だいもつのうら)より船(ふね)に乗(の)って下(くだ)られけるが、折節(をりふし)西(にし)の風(かぜ)烈(はげ)しく吹(ふ)き住吉(すみよし)の浦(うら)に打(う)ち上(のぼ)られて、吉野(よしの)の奥(おく)にぞ籠(ろう)りける。

 吉野(よしの)法師(ほふし)にせめられて、奈良(なら)へ落(お)つ。

 奈良(なら)法師(ほふし)にせめられて、又(また)都(みやこ)へ帰(かへ)り入(い)り、北国(ほくこく)にかかってつひに奥(おく)へぞ下(くだ)られける。

 都(みやこ)より相具(あひぐ)したりける女房達(にようばうたち)十余人(じふよにん)、住吉(すみよし)の浦(うら)に捨(す)て置(お)きたれば、松(まつ)の下(した)、砂(いさご)の上(うへ)に袴(はかま)蹈(ふ)しだき、袖(そで)を片(かた)敷(し)きて泣(な)き臥(ふ)したりけるを、住吉(すみよし)の神官(しんくわん)共(ども)あはれんで、皆(みな)京(きやう)へぞ送(おく)りける。

 およそ判官(はうぐわん)の憑(たの)まれたりける伯父(をぢ)信太(しだ)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義教(よしのり)、十郎蔵人(じふらうくらんど)行家(ゆきいへ)、緒方三郎(をがたのさぶらう)維義(これよし)が船(ふね)共(ども)、浦々(うらうら)島々(しまじま)に打(う)ち寄(よ)せられて、互(たが)ひにその行末(ゆくすゑ)をしらず。

 たちまちに西(にし)の風(かぜ)吹(ふ)ける事(こと)も、平家(へいけ)の怨霊(をんりやう)の故(ゆゑ)とぞおぼえける。

 同(おな)じき十一月(じふいちぐわつ)七日(なぬか)鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)頼朝(よりとも)卿(きやう)の代官(だいくわん)として北条(ほうでう)四郎(しらう)時政(ときまさ)、六万余騎(ろくまんよき)を相具(あひぐ)して都(みやこ)へ入(い)る。

 明(あ)くる八日(やうか)院参(ゐんざん)して伊予(いよ)守(かみ)源義経(みなもとのよしつね)、備前(びぜん)守(かみ)同行家(おなじくゆきいへ)、信太(しだ)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)同義教(おなじくよしのり)、追討(ついたう)すべき由(よし)奏聞(そうもん)しければやがて院宣(ゐんぜん)を下(くだ)されけり。

 去(さ)んぬる二日(ふつか)は、義経(よしつね)が申(まう)し請(う)くる旨(むね)に任(まか)せて、頼朝(よりとも)を背(そむ)くべき由(よし)庁(ちやう)の御下文(おんくだしぶみ)なされ、同(おな)じき八日(やうか)は、頼朝(よりとも)卿(きやう)の申状(まうしじやう)に依(よ)って、義経(よしつね)追討(ついたう)の院宣(ゐんぜん)を下(くだ)さる。

 朝(あさ)にかはり夕(ゆふべ)に変(へん)ずる世間(せけん)の不定(ふぢやう)こそ哀(あはれ)なれ。

 さる程(ほど)に、鎌倉殿(かまくらどの)日本国(につぽんこく)の惣追捕使(そうついぶし)をたまはって、段別(たんべつ)に兵粮米(ひやうらうまい)を宛行(あてが)ふべき由(よし)、申(まう)されければ、

「昔(むかし)より朝(てう)の怨敵(をんてき)を亡(ほろぼ)したる者(もの)は半(なかば)国(くに)をたまはるといふ事(こと)、無量義経(むりやうぎきやう)に見(み)えたり。されども吾朝(わがてう)にはいまだその例(れい)なし。これは頼朝(よりとも)が過分(くわぶん)の申状(まうしじやう)なり」

 と法皇(ほふわう)おほせなりけれども、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あって、

「頼朝(よりとも)卿(きやう)の申(まう)さるる処(ところ)道理(だうり)半(なかば)なり」

 とて諸卿(しよけい)一同(いちどう)に申(まう)されければ、御許(おんゆる)されありけるとかや。

 諸国(しよこく)に守護(しゆご)を置(お)き、庄園(しやうゑん)に地(ち)頭(かしら)を補(ほ)せらる。

 一(いち)毛(け)許(ばかり)も隠(かく)るべき様(さま)なかりけり。

 鎌倉殿(かまくらどの)かやうの事(こと)、公家(くげ)にも人(ひと)多(おほ)しといへども吉田(よしだ)大納言(だいなごん)経房(つねふさ)卿(きやう)をもて奏聞(そうもん)せられけり。

 この大納言(だいなごん)は、うるはしい人(ひと)と聞(き)こえたまへり。

 平家(へいけ)に結(むす)ぼほれたりし人々(ひとびと)も、源氏(げんじ)の世(よ)の強(つよ)まりし後(のち)は或(ある)文(ふみ)を下(くだ)し、或(ある)使者(ししや)を遣(つか)し、さまざま諂(へつら)ひたまひしかども、この人(ひと)はさもしたまはず。

 されば平家(へいけ)の時(とき)も法皇(ほふわう)を鳥羽殿(とばどの)に押(お)し籠(こ)め参(まゐ)らせて後院(ごゐん)の別当(べつたう)を置(お)かれしにも、勘解由小路(かでのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)、この経房(つねふさ)卿(きやう)二人(ふたり)をぞ後院(ごゐん)の別当(べつたう)にはなされたりける。

 権右中弁(ごんのうちゆうべん)光房(みつふさ)朝臣(あそん)の子(こ)なり。

 十二(じふに)の年(とし)、父(ちち)の朝臣(あそん)失(う)せたまひしかば、孤(みなしご)にておはせしかども、次第(しだい)に昇進(しようじん)滞(とどこほ)らず、三事(さんじ)の顕要(けんえう)を兼帯(けんたい)して、夕郎(せきらう)の貫首(くわんじゆ)を経(へ)て、参議(さんぎ)、大(おほ)弁(べん)、太宰帥(だざいのそち)正二位(しやうにゐ)大納言(だいなごん)に至(いた)れり。

 人(ひと)をば越(こ)えたまへ共(ども)、人(ひと)には越(こ)えられたまはず。

 されば人(ひと)の善悪(ぜんあく)は、錐嚢(きりふくろ)をとほすとてつひに隠(かく)れなし。

 有(あ)りがたかりし人(ひと)なり。

六代

 北条(ほうでう)四郎(しらう)策(はかりごと)に

「平家(へいけ)の子孫(しそん)といはん人(ひと)、尋(たづ)ね出(いだ)したらん輩(ともがら)に於(おい)いては、所望(しよまう)請(う)ふに依(よ)るべし」

 と披露(ひろう)せらる。

 京中(きやうぢゆう)の者(もの)共(ども)案内(あんない)は知(し)ったり、

「勧賞(くわんじやう)蒙(かうぶ)らん」

 とて、尋(たづ)ね求(もと)むるぞうたてき。

 かかりければ、幾(いく)等(ら)も尋(たづ)ね出(いだ)したりけり。

 下臈(げらふ)の子(こ)なれども、色(いろ)白(しろ)う眉目(みめ)好(よ)きをば召(め)し出(い)いて

「これはなんの中将(ちゆうじやう)殿(どの)の若君(わかぎみ)、かの少将(せうしやう)殿(どの)の君達(きんだち)」

 と申(まう)せば、父(ちち)母(はは)泣(な)き悲(かな)しめども、

「あれは介錯(かいしやく)が申(まう)し候(さうらふ)、あれは乳母(めのと)が申(まう)す」

 なんど云(い)ふ間(あひだ)、無下(むげ)にをさなきをば水(みづ)に入(い)れ、土(つち)に埋(うづ)み、少(すこ)し長(た)しきをば押(お)し殺(ころ)し、刺(さ)し殺(ころ)す。

 母(はは)の悲(かな)しみ乳母(めのと)が嘆(なげ)き喩(たと)へん方(かた)ぞなかりける。

 北条(ほうでう)も子孫(しそん)さすが多(おほ)ければ、これをいみじとは思(おも)はねど、世(よ)に随(したが)ふ習(なら)ひなれば、力(ちから)及(およ)ばず。

 中(なか)にも小松(こまつ)三位中将(さんみのちゆうじやう)殿(どの)若君(わかぎみ)、六代(ろくだい)御前(ごぜん)とておはすなり、平家(へいけ)の嫡々(ちやくちやく)なる上(うへ)、年(とし)もおとなしうましますなり。

 いかにもしてとり奉(たてまつ)らんとて、手(て)を分(わ)けてもとめられけれども、求(もと)めかねて下(くだ)らんとせられける所(ところ)に、或(ある)る女房(にようばう)の六波羅(ろくはら)に出(い)でて申(まう)しけるは

「これより西(にし)遍照寺(へんぜうじ)の奥(おく)、大覚寺(だいかくじ)と申(まう)す山寺(やまでら)の北(きた)の方(かた)、菖蒲谷(しやうぶだに)と申(まう)す所(ところ)にこそ、小松(こまつ)三位中将(さんみのちゆうじやう)殿(どの)の北方(きたのかた)、若君(わかぎみ)、姫君(ひめぎみ)おはしませ」

 と申(まう)せば、時政(ときまさ)やがて人(ひと)をつけてその辺(へん)を窺(うかが)はせける程(ほど)に、或(ある)坊(ばう)に女房達(にようばうたち)少(すくな)き人(ひと)あまたゆゆしく忍(しの)びたる体(てい)にて住(す)まひけり。

 まがきの隙(ひま)よりのぞきければ、白(しろ)い狗(いぬ)の走(はし)り出(い)でたるを取(と)らんとて、美気(うつくしげ)なる若君(わかぎみ)の出(い)でたまへば、乳母(めのと)の女房(にようばう)と覚(おぼ)しくて、

「あな浅(あさ)まし、人(ひと)もこそ見参(げんざん)らすれ」

 とて、いそぎ引(ひ)き入(い)れ奉(たてまつ)る。

「これぞ一定(いちぢやう)そにておはしますらん」

 と思(おも)ひ、急(いそ)ぎ走(はし)り帰(かへ)りてかくと申(まう)せば、次(つぎ)の日(ひ)北条(ほうでう)かしこに打(う)ち向(むか)ひ、四方(しはう)を打(う)ち囲(かこ)み、人(ひと)をいれていはせけるは、

「平家(へいけ)小松(こまつ)三位中将(さんみのちゆうじやう)殿(どの)の若君(わかぎみ)六代(ろくだい)御前(ごぜん)、これにおはしますと承(うけたま)はって、鎌倉殿(かまくらどの)の御代官(おんだいくわん)に北条(ほうでう)四郎(しらう)時政(ときまさ)と申(まう)す者(もの)が、御迎(おんむか)へに参(まゐ)りて候(さうらふ)、はやはや出(いだ)し参(まゐ)らさせたまへ」

 と申(まう)されければ、母(はは)上(うへ)これを聞(き)きたまふに、つやつや物(もの)も覚(おぼ)えたまはず。

 斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)、走(はし)り廻(めぐ)って見(み)けれども、武士(ぶし)ども四方(しはう)を打(う)ち囲(かこ)み、いづかたより出(いだ)し奉(たてまつ)るべしともおぼえず。

 乳母(めのと)の女房(にようばう)も、御前(ごぜん)に倒(たふ)臥(ふ)し、声(こゑ)も惜(を)しまずをめき叫(さけ)ぶ。

 日(ひ)ごろは物(もの)をだにも高(たか)く云(い)はず、忍(しの)びつつ隠(かく)れ居(ゐ)たりつれども、今(いま)は家(いへ)の中(なか)にありとあるもの声(こゑ)をととのへて泣(な)き悲(かな)しむ。

 北条(ほうでう)もこれを聞(き)いて世(よ)に心(こころ)くるしげに思(おも)ひ、涙(なみだ)拭(のご)ひつくづくとぞ待(ま)たれける。

 ややあって、重(かさ)ねて申(まう)されけるは、

「世(よ)もいまだしづまり候(さうら)はねば、しどけなき事(こと)もぞ候(さうらふ)とて御迎(おんむか)へに参(まゐ)りて候(さうらふ)。別(べち)の御事(おんこと)は候(さうらふ)まじ。はやはや出(いだ)し参(まゐ)らさせたまへ」

 と申(まう)されければ、若君(わかぎみ)母(はは)上(うへ)に申(まう)させたまひけるは、

「つひに逃(に)るまじう候(さうら)へばとくとく出(いだ)させおはしませ。武士(ぶし)共(ども)うち入(はい)って、さがす物(もの)ならば、うたて気(げ)なる御有様(おんありさま)共(ども)を見(み)えさせたまひなんず。たとひ罷(まか)出(い)で候(さうらふ)とも、暫(しば)しも候(さうら)はば、暇(いとま)乞(こ)ひて帰(かへ)参(まゐ)り候(さうら)はん。いたくな嘆(なげ)かせたまひそ」

 と。

 慰(なぐさ)めたまふこそいとほしけれ。

 さてもあるべきならねば、母(はは)上(うへ)泣(な)く泣(な)く御(おん)ぐし掻(か)き撫(な)で物(もの)著(き)せ奉(たてまつ)り、既(すで)に出(いだ)し奉(たてまつ)らんとしたまひけるが、黒木(くろき)の珠数(じゆず)のちいさう美(うつく)しいを取(と)り出(いだ)して、

「これにていかにも成(な)らんまで、念仏(ねんぶつ)申(まう)して、極楽(ごくらく)へ参(まゐ)れよ」

 とて奉(たてまつ)りたまへば、わか君(きみ)これを取(と)って、

「母御前(ははごぜ)には今日(けふ)既(すで)に離(はな)れ参(まゐ)らせなんず。今(いま)はいかにもして、父(ちち)のおはしまさん所(ところ)へぞ参(まゐ)りたき」

 とのたまひけるこそ哀(あはれ)なれ。

 これを聞(き)いて御妹(おんいもうと)の姫君(ひめぎみ)の十(じふ)になりたまふが、

「我(われ)も父御前(ちちごぜ)の御許(おんもと)へまゐらん」

 とて、走(はし)り出(い)でたまふを、乳母(めのと)の女房(にようばう)とり留(と)め奉(たてまつ)る。

 六代(ろくだい)御前(ごぜん)、今年(ことし)は僅(わづか)に十二(じふに)にこそなりたまへども尋常(じんじやう)の十四五(じふしご)よりは長(た)しく、みめかたち優(いう)におはしければ、

「敵(かたき)に弱(よわ)げを見(み)えじ」

 とて、押(お)ふる袖(そで)の隙(ひま)よりも、余(よ)って涙(なみだ)ぞこぼれける。

 さて御輿(みこし)に乗(の)りたまふ。

 武士(ぶし)共(ども)前後左右(ぜんごさいう)に打(う)ち囲(かこ)んで出(い)でにけり。

 斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)、御輿(みこし)の左右(さゆう)に附(つ)いてぞ参(まゐ)りける。

 北条(ほうでう)乗(の)り替(か)へ共(ども)下(くだ)して、乗(の)すれども乗(の)らず、大覚寺(だいかくじ)より六波羅(ろくはら)まで徒跣(とがち)にてぞ走(はし)りける。

 母(はは)上(うへ)乳母(めのと)の女房(にようばう)、天(てん)に仰(あふ)ぎ地(ち)に伏(ふ)して悶(もだ)え焦(こが)れたまひけり。

「この日(ひ)ごろ平家(へいけ)の子供(こども)取(と)り集(あつ)めて、水(みづ)に入(い)るるもあり、土(つち)に埋(うづ)むもあり。押(お)し殺(ころ)し、刺(さ)し殺(ころ)し、さまざまにすと聞(き)こゆれば、我(われ)子(こ)は、何(なに)としてか失(うしな)はんずらん。少(すこ)し長(た)しければ、頸(くび)をこそ切(き)らんずらめ。人(ひと)の子(こ)は乳母(めのと)などの許(もと)に置(お)きて、時々(ときどき)見(み)る事(こと)もあり。それだにも恩愛(おんあい)の道(みち)は悲(かな)しき習(なら)ひぞかし。況(いはん)やこれは生(う)み落(お)して後(のち)、一日(いちにち)片時(かたとき)も身(み)をはなたず。人(ひと)の持(も)たぬ物(もの)を持(も)ちたる様(さま)に思(おも)ひて、朝夕(あさゆふ)二人(ふたり)の中(なか)にてそだてし者(もの)を、憑(たの)みをかけし人(ひと)にもあかで別(わか)れしその後(のち)は、二人(ふたり)をうらうへにおきてこそ慰(なぐさ)みつるに、一人(ひとり)はあれども一人(ひとり)はなし。今日(けふ)より後(のち)はいかがせむ。この三年(さんねん)が間(あひだ)、夜(よ)昼(ひる)肝心(かんじん)を消(き)しつつ思(おも)ひ設(まう)けつる事(こと)なれども、さすが昨日今日(きのふけふ)とは思(おも)ひ寄(よ)らず、年(とし)ごろ長谷(はせ)の観音(くわんおん)をこそ深(ふか)う憑(たの)み奉(たてまつ)りつるに、つひにとられぬる事(こと)の悲(かな)しさよ。ただ今(いま)もや失(うしな)ひつらん」

 と掻(か)き口説(くど)き泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞなき。

 さ夜(よ)深(ふか)けれども胸(むね)せきあぐる心(こころ)ちして露(つゆ)もまどろみたまはぬが、ややあって乳母(めのと)の女房(にようばう)にのたまひけるは、

「ただ今(いま)ちと打(う)ち目(め)睡(ねぶ)みたりつる夢(ゆめ)に、この子(こ)が白(しろ)い馬(むま)に乗(の)りて来(く)つるが、『あまりに恋(こひ)しう思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)へば暫(しば)し暇(いとま)乞(こ)うて参(まゐ)りて候(さうらふ)』とて、傍(かたはら)につい居(ゐ)て、何(なに)とやらん世(よ)に恨(うら)めしげに思(おも)ひてさめざめと泣(な)きつるが、程(ほど)なく打(う)ちおどろかされて若(も)しやとかたはらを探(さぐ)れども人(ひと)もなし。夢(ゆめ)なりとも暫(しば)しもあらで、覚(さ)めぬる事(こと)の悲(かな)しさよ」

 とぞ語(かた)りたまふ。

 乳母(めのと)の女房(にようばう)も泣(な)きけり。

 長(なが)き夜(よ)もいとど明(あか)かしかねて涙(なみだ)に床(ゆか)も浮(うか)くばかりなり。

 限(かぎり)あれば、鶏人(けいじん)暁(あかつき)を唱(とな)へて夜(よ)もあけぬ。

 斎藤六(さいとうろく)帰(かへ)り参(まゐ)りたり。

「さていかにやいかに」

 と問(と)ひたまへば

「ただ今(いま)までは別(べち)の御事(おんこと)も候(さうら)はず。御文(おんふみ)の候(さうらふ)」

 とて、取(と)り出(い)いて奉(たてまつ)る。

 あけて御覧(ごらん)ずれば

「いかに御心苦(みこころぐる)しうおぼしめされ候(さうらふ)らん。ただ今(いま)までは別(べち)の事(こと)も候(さうら)はず。いつしかたれだれも御(おん)恋(こひ)しうこそ候(さうら)へ」

 とよに長(た)しやかに書(か)きたまへり。

 母(はは)上(うへ)これを見(み)たまひて、とかうの事(こと)ものたまはず。

 御文(おんふみ)をふどころに引(ひ)き入(い)れてうつぶしにぞなられける。

 まことに心(こころ)の中(なか)さこそはおはしけめと推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 かくて遙(はるか)に時刻(じこく)推(お)し移(うつ)りければ、斎藤六(さいとうろく)、

「時(とき)の程(ほど)も覚束(おぼつか)なう候(さうらふ)に、帰(かへ)参(まゐ)らん」

 と申(まう)せば、母(はは)上(うへ)泣(な)く泣(な)く御返事(おんへんじ)書(か)いてたまうでけり。

 斎藤六(さいとうろく)暇(いとま)申(まう)して罷(まか)り出(い)づ。

 乳母(めのと)の女房(にようばう)せめても心(こころ)のあられずさに、走(はし)り出(い)でていづくを指(さ)ともなくその辺(へん)を足(あし)に任(まか)せて泣(な)きありく程(ほど)に、或(ある)人(ひと)の申(まう)しけるは、

「この奥(おく)に高雄(たかを)といふ山寺(やまでら)あり。その聖(ひじり)文覚(もんがく)坊(ばう)と申(まう)す人(ひと)こそ、鎌倉殿(かまくらどの)にゆゆしき大事(だいじ)の人(ひと)に思(おも)はれ参(まゐ)らせておはしますが、上臈(じやうらふ)の御子(おんこ)を御弟子(おんでし)にせんとて、ほしがらるなれ」

 と申(まう)しければ、嬉(うれ)しき事(こと)を聞(き)きぬと思(おも)ひて母(はは)上(うへ)にかくとも申(まう)さず、ただ一人(ひとり)高雄(たかを)に尋(たづ)ね入(い)り、聖(ひじり)に向(むか)ひ奉(たてまつ)って、

「ちの中(なか)よりおほしたて参(まゐ)らせて、今年(ことし)十二(じふに)に成(な)らせたまひつる若君(わかぎみ)を、昨日(きのふ)武士(ぶし)にとられて候(さうらふ)。御命(おんいのち)乞(こ)ひ請(う)け参(まゐ)らせたまひて、御弟子(おんでし)にせさせたまひなんや」

 とて、聖(ひじり)の前(まへ)に倒(たふ)伏(ふ)し、声(こゑ)をも惜(をし)まず泣(な)き叫(さけ)ぶ。

 まことにせんかたなげにぞ見(み)えたりける。

 聖(ひじり)無慚(むざん)におぼえければ、事(こと)の仔細(しさい)をとひたまふ。

 起(お)きあがって泣(な)く泣(な)く申(まう)しけるは、

「平家(へいけ)小松(こまつ)三位(さんみ)の中将(ちゆうじやう)の北方(きたのかた)の親(した)しうまします人(ひと)の御子(おんこ)を養(やしな)ひ奉(たてまつ)るを、若(わか)中将(ちゆうじやう)殿(どの)の公達(きんだち)とや、人(ひと)の申(まう)し候(さうら)ひけん。昨日(きのふ)武士(ぶし)の取(と)り参(まゐ)らせて罷(まか)り候(さうら)ひぬるなり」

 と申(まう)す。

「さて武士(ぶし)をば誰(たれ)といひつる」

「北条(ほうでう)とこそ申(まう)し候(さうら)ひつれ」

 聖(ひじり)、

「いでさらば行(ゆ)き向(むか)ひて尋(たづ)ねん」

 とて、つき出(い)でぬ。

 この詞(ことば)を憑(たの)むべきにはあらねども、聖(ひじり)のかくいへば、今(いま)少(すこ)し人(ひと)の心(こころ)ち出来(いでき)て急(いそ)ぎ大覚寺(だいかくじ)へ帰(かへ)り参(まゐ)り、母(はは)上(うへ)にかくと申(まう)せば、

「身(み)を投(な)げに出(い)でぬるやらんと思(おも)ひて、我(われ)もいかならん淵(ふち)河(かは)にも身(み)を投(な)げんと思(おも)ひたれば」

 とて、事(こと)の仔細(しさい)を問(と)ひたまふ。

 聖(ひじり)の申(まう)しつる様(さま)をありのままに語(かた)りければ、

「あはれ乞(こ)ひ請(う)けて、今一度(いまいちど)見(み)せよかし」

 とて、手(て)を合(あ)せてぞ泣(な)かれける。

 聖(ひじり)六波羅(ろくはら)に行(ゆ)きむかって事(こと)の仔細(しさい)を問(と)ひたまふ。

 北条(ほうでう)申(まう)されけるは、

「鎌倉殿(かまくらどの)のおほせには、平家(へいけ)の子孫(しそん)京中(きやうぢゆう)に多(おほ)く忍(しの)んでありと聞(き)く。中(なか)にも小松(こまつ)三位中将(さんみのちゆうじやう)の子息(しそく)中御門(なかみかど)の新大納言(しんだいなごん)の娘(むすめ)の腹(はら)にありと聞(き)く。平家(へいけ)の嫡々(ちやくちやく)なる上(うへ)年(とし)もおとなしかんなり。いかにも尋(たづ)ね出(いだ)して、失(うしな)ふべしと、おほせを蒙(かうぶ)って候(さうら)ひしが、この程(ほど)末々(すゑずゑ)のをさなき人(ひと)をば少々(せうせう)取(と)り奉(たてまつ)って候(さうらひ)つれども、この若君(わかぎみ)は在所(ざいしよ)をしり奉(たてまつ)らず、尋(たづ)ねかねて既(すで)に空(むな)しう罷(まか)り下(くだ)らんとし候(さうらひ)つるが、思(おも)はざる外(ほか)、一昨日(をととひ)聞(き)き出(いだ)して、昨日(きのふ)迎(むか)へ奉(たてまつ)って候(さうら)へども、斜(なな)めならず美(うつく)しうおはする間(あひだ)、あまりに最愛(もあい)くて未(いま)だともかうもし奉(たてまつ)らで置(お)き参(まゐ)らせて候(さうらふ)」

 と申(まう)せば、聖(ひじり)、

「いでさらば見(み)奉(たてまつ)らん」

 とて、若君(わかぎみ)のおはしける処(ところ)へ参(まゐ)りて見参(げんざん)らせたまへば、二重織物(ふたへおりもの)の直垂(ひたたれ)に、黒木(くろき)の珠数(じゆず)手(て)に貫(つらぬ)き入(い)れておはします。

 髪(かみ)のかかり姿(すがた)骨柄(こつがら)まことにあてに美(うつく)しくこの世(よ)の人(ひと)とも見(み)えたまはず。

 今夜(こんや)打(う)ちとけて、寝(ね)たまはぬと覚(おぼ)しくて、少(すこ)し面痩(おもや)せたまへるにつけていとど心(こころ)苦(くる)しうらうたくぞ覚(おぼ)えける。

 聖(ひじり)を御覧(ごらん)じて、何(なに)とかおぼしけん。

 涙(なみだ)ぐみたまへば、聖(ひじり)もこれを見(み)奉(たてまつ)ってそぞろに墨染(すみぞめ)の袖(そで)をぞ絞(しぼ)りける。

 縦(たと)ひ末(すゑ)の世(よ)にいかなるあた敵(かたき)になるとも、いかがこれを失(うしな)ひ奉(たてまつ)るべきと悲(かな)しうおぼえければ、北条(ほうでう)にのたまひけるは、

「この若君(わかぎみ)を見(み)奉(たてまつ)るに、先世(せんぜ)の事(こと)にや候(さうらふ)らん、あまりに最愛(もあい)う思(おも)ひ奉(たてまつ)り候(さうらふ)。二十日(はつか)が命(いのち)を延(の)べてたうべ。鎌倉殿(かまくらどの)へ参(まゐ)りて申(まう)し預(あづか)り候(さうら)はむ。聖(ひじり)鎌倉殿(かまくらどの)を世(よ)にあらせ奉(たてまつ)らんとて我身(わがみ)も流人(るにん)でありながら院宣(ゐんぜん)伺(うかが)ひ奉(たてまつ)らんとて京(きやう)へ上(のぼ)るに、案内(あんない)も知(し)らぬ富士(ふじ)川(かは)の尻(じり)に夜(よ)渡(わた)り懸(か)けて、既(すで)に押(お)し流(なが)されんとしたりし事(こと)、高市(たけち)の山(やま)にてひはぎにあひ、手(て)をすて命(いのち)ばかり生(い)き、福原(ふくはら)の籠(ろう)の御所(ごしよ)へ参(まゐ)り、前右兵衛督(さきのうひやうゑのかみ)光能(みつよし)卿(きやう)に付(つ)き奉(たてまつ)って院宣(ゐんぜん)申(まう)し出(い)だして奉(たてまつ)りし時(とき)の御約束(おんやくそく)には、いかなる大事(だいじ)をも申(まう)せ、聖(ひじり)が申(まう)さん事(こと)をば、頼朝(よりとも)が一期(いちご)の間(あひだ)は叶(かな)へんとこそのたまひしか。その後(のち)も度々(たびたび)の奉公(ほうこう)かつは見(み)たまひし事(こと)なれば、事新(ことあたらし)う始(はじ)めて申(まう)すべきにあらず、契(ちぎり)を重(おも)うし命(いのち)を軽(かる)うす。鎌倉殿(かまくらどの)に受領神(ずりやうがみ)つきたまはずば、よも忘(わす)れたまはじ」

 とて、その暁(あかつき)立(た)ちにけり。

 斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)、これをきき聖(ひじり)を生身(しやうじん)の仏(ほとけ)の如(ごと)く思(おも)ひて、手(て)を合(あ)はせて涙(なみだ)を流(なが)す。

 急(いそ)ぎ大覚寺(だいかくじ)へ参(まゐ)りて、この由(よし)申(まう)しければ、これを聞(き)きたまひける母(はは)上(うへ)の心(こころ)の中(なか)いかばかりかは嬉(うれ)しかりけん。

 されども鎌倉(かまくら)のはからひなれば、いかがあらんずらむと覚束(おぼつか)なけれども、当時(たうじ)聖(ひじり)の憑(たのみ)もし気(げ)に申(まう)して下(くだ)りぬる上(うへ)、二十日(はつか)の命(いのち)の延(の)びたまふに、母(はは)上(うへ)乳母(めのと)の女房(にようばう)少(すこ)し心(こころ)も取(と)り延(の)べて、偏(ひとへ)に観音(くわんおん)の御助(おんたす)けなればと憑(たのみ)もしうぞ思(おも)はれける。

 かくてあかし暮(く)らしたまふ程(ほど)に、二十日(はつか)の過(す)ぐるは夢(ゆめ)なれや。

 聖(ひじり)はいまだ見(み)えざりけり、何(なに)となりぬる事(こと)やらんとなかなか心(こころ)苦(くる)しうて、今更(いまさら)又(また)悶(もだ)え焦(こが)れたまひけり。

 北条(ほうでう)も、

「文覚(もんがく)房(ばう)の約束(やくそく)の日数(ひかず)もすぎぬ、さのみ在京(ざいきやう)して、年(とし)を暮(く)らすべきにもあらず。今(いま)は下(くだ)らん」

 とてひしめきければ、斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)、手(て)を握(にぎ)り肝魂(きもたましひ)を砕(くだ)けども、聖(ひじり)も未(いま)だ見(み)えたまはず、使者(ししや)をだにも上(のぼ)せねば、思(おも)ふばかりぞなかりける。

 これら大覚寺(だいかくじ)へ帰(かへ)り参(まゐ)りて、

「聖(ひじり)も未(いま)だ上(のぼ)りたまはず、北条(ほうでう)も暁(あかつき)下向(げかう)仕(つかまつ)り候(さうらふ)」

 とて、左右(さゆう)の袖(そで)を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて涙(なみだ)をはらはらと流(なが)す。

 これを聞(き)きたまひける母(はは)上(うへ)の心(こころ)の中(なか)いかばかりかは悲(かな)しかりけむ。

「哀(あはれ)長(た)しやかならん者(もの)の聖(ひじり)の行(ゆ)き逢(あ)はん所(ところ)まで六代(ろくだい)を具(ぐ)せよと言(い)へかし。若(も)し乞(こ)ひ請(う)けても上(のぼ)らんに先(さき)に斬(き)りたらん悲(かな)しさをばいかがせむずる。さてとく失(うしな)ひげなるか」

 とのたまへば、

「やがてこの暁(あかつき)の程(ほど)とこそ見(み)えさせたまひ候(さうら)へ。その故(ゆゑ)は、この程(ほど)御(おん)とのゐ仕(つかまつ)り候(さうらひ)つる北条(ほうでう)の家子郎等(いへのこらうどう)ども、よに名残(なごり)惜(をし)気(げ)に思(おも)ひ参(まゐ)らせて或(あるい)は念仏(ねんぶつ)申(まう)す者(もの)も候(さうらふ)。或(あるい)は涙(なみだ)を流(なが)す者(もの)も候(さうらふ)」

「さてこの子(こ)は何(なに)としてあるぞ」

 とのたまへば、

「人(ひと)の見(み)まゐらせ候(さうらふ)時(とき)は、さらぬ様(さま)にもてないて、御珠数(おんじゆず)をくらせおはしまし候(さうらふ)が、人(ひと)の候(さうら)はぬ時(とき)は、御(おん)袖(そで)を御(おん)顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、涙(なみだ)に咽(むせ)ばせたまひ候(さうらふ)」

 と申(まう)す。

「さこそあるらめ。をさなけれども、心(こころ)長(た)しやかなる者(もの)なり。今夜(こんや)限(かぎ)りの命(いのち)と思(おも)って、いかに心細(こころぼそ)かるらん。暫(しば)しもあらば、いとま乞(こ)ひて参(まゐ)らんといひしかども、二十日(はつか)にあまるに、あれへも行(ゆ)かず、これへも見(み)えず。今日(けふ)より後(のち)又(また)何(いづ)れの日(ひ)何(いづ)れの時(とき)相見(あひみ)るべしともおぼえず。さて汝等(なんぢら)はいかが計(はか)らふ」

 とのたまへば、

「これはいづくまでも御供(おんとも)仕(つかまつ)り、むなしうならせたまひて候(さうら)はば御(おん)骨(ほね)を取(と)り奉(たてまつ)り高野(かうや)の御山(おんやま)に納(をさ)め奉(たてまつ)り、出家(しゆつけ)入道(にふだう)して後世(ごせ)を弔(とぶら)ひまゐらせんとこそ思(おも)ひなって候(さうら)へ」

 と申(まう)す。

「さらばあまりに覚束(おぼつか)なう覚(おぼ)ゆるに、とう帰(かへ)れ」

 とのたまへば、二人(ふたり)の者(もの)泣(な)く泣(な)く暇(いとま)申(まう)して罷(まか)り出(い)づ。

 さる程(ほど)に、同十二月(おなじくじふにぐわつ)十六日(じふろくにち)北条(ほうでう)四郎(しらう)若君(わかぎみ)具(ぐ)し奉(たてまつ)って既(すで)に都(みやこ)を立(た)ちにけり。

 斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)、涙(なみだ)にくれて行(ゆ)先(さき)も見(み)えねども、最後(さいご)の所(ところ)までと思(おも)ひつつ泣(な)く泣(な)く御供(おんとも)に参(まゐ)りけり。

 北条(ほうでう)、

「馬(むま)に乗(の)れ」

 と云(い)へども乗(の)らず。

「最後(さいご)の供(とも)で候(さうら)へば、苦(くる)しう候(さうらふ)まじ」

 とて、血(ち)の涙(なみだ)を流(なが)しつつ脚(あし)にまかせてぞ下(くだり)ける。

 六代(ろくだい)御前(ごぜん)はさしも離(はな)れ難(かた)くおぼしける母(はは)上(うへ)乳母(めのと)の女房(にようばう)にも別(わか)れ果(は)て、住(す)み馴(な)れし都(みやこ)をも雲井(くもゐ)のよそに顧(かへり)みて、今日(けふ)を限(かぎ)りの東(ひがし)路(ぢ)におもむかれけん心(こころ)の中(なか)、推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 駒(こま)を早(はや)むる武士(ぶし)あれば、我(われ)頸(くび)討(う)たんずるかと肝(きも)をけし、物(もの)言(い)ひかはす人(ひと)あれば、既(すで)に今(いま)やと心(こころ)を尽(つ)くす。

 四宮河原(しのみやがはら)と思(おも)へ共(ども)、関山(せきやま)をも打(う)ち越(こ)えて、大津(おほつ)の浦(うら)になりにけり。

 粟津(あはづ)が原(はら)かと窺(うかが)へども今日(けふ)もはや暮(く)れにけり。

 国々(くにぐに)宿々(やどやど)打(う)ち過(す)ぎ打(う)ち過(す)ぎ行(ゆ)く程(ほど)に、駿河国(するがのくに)にもつきたまひぬ。

 若君(わかぎみ)の露(つゆ)の御命(おんいのち)、今日(けふ)を限(かぎ)りとぞ聞(き)こえける。

 千本(せんぼん)の松(まつ)原(はら)に武士(ぶし)共(ども)皆(みな)下(くだ)り居(ゐ)て御輿(みこし)舁(か)き居(ゐ)させ、敷(し)皮(かは)敷(し)いて若君(わかぎみ)を居(ゐ)させ奉(たてまつ)る。

 北条(ほうでう)四郎(しらう)若君(わかぎみ)の御前(ごぜん)近(ちか)う参(まゐ)りて申(まう)されけるは、

「これまで具(ぐ)し参(まゐ)らせ候(さうらひ)つるは別(べち)の事(こと)候(さうら)はず。若(も)道(みち)にて聖(ひじり)にもや行(ゆ)き逢(あ)ひ候(さうらふ)、と待(ま)ち過(す)ごし参(まゐ)らせ候(さうらひ)つるなり。御心(みこころ)ざしの程(ほど)は見(み)えまゐらせ候(さうらひ)ぬ。山(やま)のあなたまでは、鎌倉殿(かまくらどの)の御心中(ごしんちゆう)をも知(し)りがたう候(さうら)へば、近江国(あふみのくに)にて失(うしな)ひ参(まゐ)らせて候(さうらふ)由(よし)披露(ひろう)仕(つかまつ)り候(さうらふ)べし。誰(たれ)申(まう)し候(さうらふ)共(とも)、一業所感(いちごふしよかん)の御事(おんこと)なれば、よも叶(かな)はじ」

 と泣(な)く泣(な)く申(まう)しければ、若君(わかぎみ)ともかうもその返事(へんじ)をばしたまはず。

 斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)をちかう召(め)して、

「我(われ)いかにもなりなん後(のち)、汝等(なんぢら)都(みやこ)に帰(かへ)りて、穴(あな)賢(かしこ)、道(みち)にてきられたりとは申(まう)すべからず。その故(ゆゑ)は、つひには隠(かく)れあるまじけれども、正(ただ)しうこの有様(ありさま)聞(き)いて、あまりに嘆(なげ)きたまはば、草(くさ)の影(かげ)にても心(こころ)苦(くる)しうおぼえて後世(ごせ)の障(さは)りともならんずるぞ。鎌倉(かまくら)まで送(おく)りつけて参(まゐ)りて候(さうらふ)と申(まう)すべし」

 とのたまへば、二人(ふたり)の者(もの)共(ども)肝魂(きもたましひ)も銷(け)え果(は)て暫(しば)しは御返事(おんへんじ)にも及(およ)ばず。

 稍(やや)あって斎藤五(さいとうご)

「君(きみ)におくれまゐらせて後(のち)命(いのち)生(い)きて安穏(あんをん)に都(みやこ)まで上(のぼ)りつくべしとも覚(おぼ)え候(さうら)はず」

 と涙(なみだ)を抑(おさ)へてふしにけり。

 既(すで)に今(いま)はの時(とき)になりしかば、若君(わかぎみ)御(おん)ぐしの肩(かた)にかかりたりけるを、よにうつくしき御手(おんて)をもて前(まへ)へ打(う)ち越(こ)したまひたりければ、守護(しゆご)の武士(ぶし)ども見(み)まゐらせて

「あないとほし。いまだ御心(みこころ)のましますよ」

 とて皆(みな)袖(そで)をぞぬらしける。

 その後(のち)西(にし)にむかひ手(て)を合(あ)はせて静(しづか)かに念仏(ねんぶつ)唱(とな)へつつ頸(くび)をのべてぞ待(ま)ちたまふ。

 狩野(かの)工藤三(くどうざう)親俊(ちかとし)切(き)手(て)にえらばれ、太刀(たち)を引(ひ)き側(そば)めて左(ひだり)の方(かた)より御後(おんうしろ)に立(た)ち廻(めぐ)り、既(すで)に切(き)り奉(たてまつ)らんとしけるが、目(め)も暮(く)れ心(こころ)も消(き)え果(は)て、いづくに太刀(たち)を打(う)つくべしとも覚(おぼ)えず、前後(ぜんご)不覚(ふかく)になりしかば、

「仕(つかまつ)りつとも覚(おぼ)え候(さうら)はず、他(ほか)人(ひと)におほせ付(つ)けられ候(さうら)へ」

 とて、太刀(たち)を捨(す)て退(しりぞ)きにけり。

「さらば、あれ切(き)れ、これ切(き)れ」

 とて、切(き)手(て)を選(えら)ぶ処(ところ)に、墨染(すみぞめ)の衣(きぬ)著(き)て月(つき)毛(け)なる馬(むま)に乗(の)ったる僧(そう)一人(ひとり)、鞭(むち)をあげてぞ馳(は)せたりける。

「あないとほし、あの松(まつ)原(はら)の中(なか)に、世(よ)にうつくしき若君(わかぎみ)を、北条(ほうでう)殿(どの)の斬(き)らせたまふぞや」

 とて、者(もの)どもひしひしと走(はし)り集(あつ)まりければ、この僧(そう)

「あな心(こころ)う」

 とて、手(て)をあがいてまねきけるが、なほおぼつかなさに、きたる笠(かさ)をぬぎ、指(さ)し上(あ)げてぞ招(まね)ける。

 北条(ほうでう)

「仔細(しさい)あり」

 とて待(ま)つ処(ところ)にこの僧(そう)走(はし)りついて、急(いそ)ぎ馬(むま)より飛(と)びおり、暫(しばら)く息(いき)を休(やす)めて、

「若君(わかぎみ)許(ゆる)されさせたまひて候(さうらふ)。鎌倉殿(かまくらどの)の御教書(みぎやうしよ)これに候(さうらふ)」

 とて取(と)り出(いだ)して奉(たてまつ)る。

 北条(ほうでう)披(ひら)いて見(み)たまへば、まことや、小松(こまつ)三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛(これもり)卿(きやう)子息(しそく)尋(たづ)ね出(いだ)され候(さうらふ)なる高雄(たかを)の聖(ひじり)御房(ごばう)申請(まうしう)けんと候(さうらふ)。

 疑(うたがひ)をなさず預(あづか)け奉(たてまつ)るべし。

 北条(ほうでう)四郎(しらう)殿(どの)へ    頼朝(よりとも)とあそばして御(おん)判(はん)あり。

 二(に)三(さん)遍(へん)推(お)し返(かへ)し推(お)し返(かへ)し読(よ)んで後(のち)、

「神妙(しんべう)神妙(しんべう)」

 とて打(う)ち置(お)かれければ、斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)はいふに及(およ)ばず、北条(ほうでう)の家子郎等(いへのこらうどう)共(ども)も皆(みな)悦(よろこ)びの涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。

長谷六代

 さる程(ほど)に、文覚(もんがく)房(ばう)もつと出(い)で来(き)たり、若君(わかぎみ)乞(こ)ひ請(う)けたりとて、気色(けしき)まことにゆゆしげなり。

「『この若君(わかぎみ)の父(ちち)三位中将(さんみのちゆうじやう)殿(どの)は、初度(しよど)の戦(たたか)の大将軍(たいしやうぐん)なり。誰(たれ)申(まう)すとも叶(かな)ふまじ』とのたまひつれば『文覚(もんがく)が心(こころ)を破(やぶ)っては、いかが冥加(みやうが)もおはすべき』など悪口(あくこう)申(まう)しつれども、なほ『叶(かな)ふまじ』とて、那須野(なすの)の狩(かり)に下(くだ)りたまひし間(あひだ)、剰(あまつさ)文覚(もんがく)も狩場(かりば)の供(とも)して、漸々(やうやう)に申(まう)してこひ請(う)けたり。いかに遅(おそ)うおぼしつらん」

 と申(まう)されければ、北条(ほうでう)

「二十日(はつか)とおほせられ候(さうら)ひし御約束(おんやくそく)の日数(ひかず)も過(す)ぎ候(さうら)ひぬ。鎌倉殿(かまくらどの)の御宥(おんゆる)されなきよと存(ぞん)じて、具(ぐ)し奉(たてまつ)って下(くだ)る程(ほど)に、かしこうぞ、爰(ここ)にて誤(あやま)ち仕(つかまつ)り候(さうらふ)らんに」

 とて、鞍(くら)置(お)いて引(ひ)かせたる馬(むま)共(ども)に斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)を乗(の)せて上(のぼ)せらる。

 我身(わがみ)も遙(はるか)に打(う)ち送(おく)り奉(たてまつ)って、

「暫(しばら)く御供(おんとも)申(まう)したう候(さうら)へども、鎌倉殿(かまくらどの)に指(さ)して申(まう)すべき大事(だいじ)ども候(さうらふ)。暇(いとま)申(まう)して」

 とて打(う)ち別(わか)れてぞ下(くだ)られける。

 まことに情(なさ)け深(ふか)かりけり。

 聖(ひじり)若君(わかぎみ)を請(う)けとり奉(たてまつ)って、夜(よ)を日(ひ)についで馳(は)せ上(のぼ)る程(ほど)に、尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)の辺(へん)にて、今年(ことし)も既(すで)に暮(く)れぬ。

 明(あ)くる正月(しやうぐわつ)五日(いつか)の夜(よ)に入(はい)って、都(みやこ)へ上(のぼ)り著(つ)く。

 二条(にでう)猪熊(ゐのくま)なる所(ところ)に、文覚(もんがく)坊(ばう)の宿房(しゆくばう)ありければ、そこに入(い)れ奉(たてまつ)って、暫(しばら)く休(やす)め奉(たてまつ)り、夜半(よなか)ばかり大覚寺(だいかくじ)へぞおはしける。

 門(もん)をたたけども、人(ひと)なければ音(おと)もせず。

 築地(ついぢ)の壊(くづ)れより若君(わかぎみ)の飼(か)ひたまひける白(しろ)い狗(いぬ)の走(はし)り出(い)でて、尾(を)を振(ふ)って向(むか)ひけるに、若君(わかぎみ)

「母(はは)上(うへ)はいづくにましますぞ」

 ととはれけるこそせめての事(こと)なれ。

 斎藤六(さいとうろく)、築地(ついぢ)を越(こ)え、門(もん)を開(ひら)けて入(い)れ奉(たてまつ)る。

 近(ちか)う人(ひと)の住(す)んだる所(ところ)とも見(み)えず。

 若君(わかぎみ)

「いかにもしてかひなき命(いのち)を生(い)かばやと思(おも)ひしも恋(こひ)しき人(ひと)を今一度(いまいちど)見(み)ばやと思(おも)ふ為(ため)なり。こはされば何(なに)となりたまひけるぞや」

 とて夜(よ)もすがら泣(な)き悲(かな)しみたまふぞまことに理(ことわり)と覚(おぼ)えて哀(あはれ)なる。

 夜(よ)を待(ま)ち明(あか)かして近里(きんり)の者(もの)に尋(たづ)ねたまへば、

「年(とし)の内(うち)は大仏(だいぶつ)参(まゐ)りとこそ承(うけたまは)り候(さうら)ひしか。正月(しやうぐわつ)の程(ほど)は、長谷寺(はせでら)に御(おん)籠(ろう)りと聞(き)こえ候(さうらひ)しが、その後(のち)は御(おん)宿所(しゆくしよ)へ人(ひと)の通(かよ)ふとも見(み)えたまはず」

 と申(まう)しければ、斎藤五(さいとうご)急(いそ)ぎ長谷(はせ)へ参(まゐ)りて尋(たづ)ねあひ奉(たてまつ)り、この由(よし)申(まう)しければ、母(はは)上(うへ)、乳母(めのと)の女房(にようばう)つやつや現(うつつ)とも覚(おぼ)えたまはず、

「これはされば夢(ゆめ)かや夢(ゆめ)か」

 とぞのたまひける。

 急(いそ)ぎ大覚寺(だいかくじ)へ出(いだ)させたまひ、若君(わかぎみ)を御覧(ごらん)じて嬉(うれ)しさにもただ先立(さきだ)つ物(もの)は涙(なみだ)なり。

「疾々(とくとく)出家(しゆつけ)したまへ」

 とおほせられけれども、聖(ひじり)惜(を)しみ奉(たてまつ)って、出家(しゆつけ)もせさせ奉(たてまつ)らず。

 やがて迎(むか)へとて高雄(たかを)に置(お)き奉(たてまつ)り、北(きた)の方(かた)の幽(かすか)かなる御有様(おんありさま)をも訪(とぶら)ひけるとこそ聞(き)こえし。

 観音(くわんおん)の大慈大悲(だいじだいひ)は、罪(つみ)あるも罪(つみ)なきをも助(たす)けたまへば昔(むかし)もかかるためし多(おほ)しといへども、ありがたかりし事(こと)どもなり。

 さる程(ほど)に北条(ほうでう)四郎(しらう)六代(ろくだい)御前(ごぜん)具(ぐ)し奉(たてまつ)って下(くだ)りけるに、鎌倉殿(かまくらどの)御使(おんつかひ)鏡宿(かがみのしゆく)にて行(ゆ)き合(あ)ったりけるに、

「いかに」

 と問(と)へば、

「十郎蔵人(じふらうくらんど)殿(どの)、信太(しだ)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)殿(どの)、九郎(くらう)判官(はうぐわん)殿(どの)に同心(どうしん)の由(よし)聞(き)こえ候(さうらふ)。討(う)ち奉(たてまつ)れとの御気色(ごきしよく)で候(さうらふ)」

 と申(まう)す。

 北条(ほうでう)

「吾(わが)身(み)は大事(だいじ)の召(め)人(ひと)具(ぐ)したれば」

 とて甥(をひ)の北条(ほうでう)平六(へいろく)時貞(ときさだ)が送(おく)りに下(くだ)りけるを、おいその森(もり)より

「疾(と)く和殿(わどの)は帰(かへ)りてこの人々(ひとびと)おはす処(ところ)聞(き)き出(いだ)して討(う)って参(まゐ)らせよ」

 とてとどめらる。

 平六(へいろく)都(みやこ)に帰(かへ)りて尋(たづ)ぬる程(ほど)に十郎蔵人(じふらうくらんど)殿(どの)の在所(ざいしよ)知(し)ったりといふ法師(ほふし)出来(いでき)たり。

 かの僧(そう)に尋(たづ)ぬれば

「我(われ)はくはしうはしらず、知(し)りたるといふ僧(そう)こそあれ」

 といひければ、押(お)し寄(よ)せてかの僧(そう)を搦(から)め捕(とら)る。

「これはなんの故(ゆゑ)に搦(から)むるぞ」

「十郎蔵人(じふらうくらんど)殿(どの)の在所(ざいしよ)知(し)ったなれば搦(から)むるなり」

「さらば教(をし)へよとこそいはめ。さうなうからむる事(こと)はいかに。天王寺(てんわうじ)にとこそ聞(き)け」

「さらばじんじよせよ」

 とて、平六(へいろく)が聟(むこ)の小笠原(をがさはら)十(じふ)郎(らう)国久(くにひさ)、殖原(うゑはら)九郎(くらう)、桑原(くははら)次郎(じらう)、服部(はつとり)平六(へいろく)を先(さき)としてその勢(せい)三十(さんじふ)余騎(よき)、天王寺(てんわうじ)へ発向(はつかう)す。

 十郎蔵人(じふらうくらんど)の宿(やど)は二(に)所(ところ)あり。

 谷(たに)の学頭(がくとう)伶人(れいじん)兼春(かねはる)秦六(はだろく)秦七(はだしち)と云(い)ふ者(もの)の許(もと)なり。

 二(に)手(て)に分(わ)けても押(お)し寄(よ)せたり。

 十郎蔵人(じふらうくらんど)は兼春(かねはる)が許(もと)におはしけるが、物具(もののぐ)したる者(もの)共(ども)の打(う)ち入(い)るを見(み)て後(のち)より落(お)ちにけり。

 学頭(がくとう)が娘(むすめ)二人(ふたり)あり。

 ともに蔵人(くらんど)のおもひものなり。

 これらを捕(とら)へて蔵人(くらんど)のゆくへを尋(たづ)ぬれば姉(あね)は

「妹(いもうと)に問(と)へ」

 といふ。

 妹(いもうと)は

「姉(あね)に問(と)へ」

 といふ。

 俄(にはか)に落(お)ちぬる事(こと)なれば、誰(たれ)にもよも知(し)らせじなれども、具(ぐ)して京(きやう)へぞ上(のぼ)りける。

 蔵人(くらんど)は熊野(くまの)の方(かた)へ落(お)ちけるが、ただ一人(ひとり)ついたりける侍(さぶらひ)、足(あし)を疾(と)めければ、和泉国(いづみのくに)八木郷(やぎのがう)といふ処(ところ)に逗留(とうりう)してこそ居(ゐ)たりけれ。

 かの所(ところ)の主(ぬし)の男(をとこ)、蔵人(くらんど)を見(み)知(し)って夜(よ)もすがら京(きやう)へ馳(は)せ上(のぼ)り、北条(ほうでう)平六(へいろく)につげたりければ

「天王寺(てんわうじ)の手(て)の者(もの)はいまだのぼらず、誰(たれ)をか遣(や)るべき」

 とて大源次(おほげんじ)宗春(むねはる)といふ郎等(らうどう)をようで

「汝(なんぢ)が宮(みや)立(た)てたりし山僧(さんぞう)はいまだあるか」

「さ候(さうらふ)」

「さらば呼(よ)べ」

 とて、喚(よ)ばれければ、件(くだん)の法師(ほふし)出来(いでき)たり。

「十郎蔵人(じふらうくらんど)のまします。討(う)って鎌倉殿(かまくらどの)に参(まゐ)らせて御恩(ごおん)蒙(かうぶ)りたまへ」

 と云(い)ひければ、

「承(うけたまは)り候(さうらひ)ぬ。人(ひと)をたび候(さうら)へ」

 と申(まう)す。

「やがて大源次(おほげんじ)下(くだ)れ、人(ひと)もなきに」

 とて舎人(とねり)雑色(ざふしき)人数(にんじゆ)僅(わづか)に十四五(じふしご)人(ひと)相(あひ)そへてつかはす。

 常陸(ひたち)房(ばう)正明(まさあき)と云(い)ふ者(もの)なり。

 和泉国(いづみのくに)に下(くだ)りつきかの家(いへ)に走(はし)り入(はい)って見(み)れどもなし。

 板敷(いたじき)打(う)ち破(やぶ)ってさがし、塗(ぬり)ごめの内(うち)を見(み)れどもなし。

 常陸(ひたち)房(ばう)大路(おほぢ)に立(た)て見(み)れば、百姓(ひやくしやう)の妻(つま)とおぼしくて長敷(ながし)き女(をんな)の通(とほ)りけるを捕(とら)へて、

「この辺(へん)に恠(あや)しばうたる旅(たび)人(ひと)のとどまったる処(ところ)やある。いはずば切(き)って捨(す)てん」

 と云(い)へば、

「ただ今(いま)さがされ候(さうらひ)つる家(いへ)にこそ夜辺(よべ)まで世(よ)に尋常(じんじやう)なる旅(たび)人(ひと)の二人(ふたり)とどまって候(さうらひ)つるが、今朝(けさ)など出(い)でて候(さうら)ふやらん。あれに見(み)え候(さうら)ふ大屋(おほや)にこそ今(いま)は候(さうら)ふなれ」

 と云(い)ひければ、常陸(ひたち)房(ばう)黒革威(くろかはをどし)の腹巻(はらまき)の袖(そで)著(つ)けたるに大太刀(おほだち)帯(は)いてかの家(いへ)に走(はし)り入(はい)ってみれば、歳(とし)五十(ごじふ)ばかりなる男(をとこ)のかちの直垂(ひたたれ)に折烏帽子(をりえぼし)著(き)て唐瓶子(からへいじ)菓子(くわし)などとりさばくり、銚子(てうし)どももて酒(さけ)勧(すす)めむとする処(ところ)に、物具(もののぐ)したる法師(ほふし)の打(う)ち入(い)るを見(み)て、かいふいて逃(に)げければやがて続(つづ)いて逐(お)ひ懸(か)けたり。

 蔵人(くらんど)

「あの僧(そう)。や、それは在(あ)ぬぞ。行家(ゆきいへ)はここにあり」

 とのたまへば、走(はし)り帰(かへ)りて見(み)るに白(しろ)い小袖(こそで)に大口(おほくち)ばかり著(き)て、左(ひだり)の手(て)には金作(こがねづくり)りの小(こ)太刀(たち)をもち、右(みぎ)の手(て)には野太刀(のだち)の大(おほ)なるを持(も)たれたり。

 常陸(ひたち)房(ばう)

「太刀(たち)投(な)げさせたまへ」

 と申(まう)せば、蔵人(くらんど)大(おほ)いに笑(わら)はれけり。

 常陸(ひたち)房(ばう)走(はし)り寄(よ)ってむずと切(き)る。

 丁(ちやう)と合(あ)せて跳(をど)り退(の)く。

 又(また)寄(よ)って切(き)る。

 丁(ちやう)と合(あ)せてをどりのく。

 寄(よ)り合(あ)ひ寄(よ)り逃(に)き一時(いちじ)ばかりぞ戦(たたか)うたる。

 蔵人(くらんど)後(うしろ)なる塗籠(ぬりごめ)の内(うち)へしざり入(い)らんとしたまへば、常陸(ひたち)房(ばう)

「まさなう候(さうらふ)。な入(い)らせたまひ候(さうらふ)そ」

 と申(まう)せば、

「行家(ゆきいへ)もさこそ思(おも)へ」

 とて又(また)跳(をど)り出(い)でて戦(たたか)ふ。

 常陸(ひたち)房(ばう)太刀(たち)を棄(す)てむずと組(く)んでどうと臥(ふ)す。

 上(うへ)になり下(した)になり、ころび合(あ)ふ処(ところ)に、大源次(おほげんじ)つと出(い)で来(き)たり。

 あまりに遽(あわ)てて帯(お)びたる太刀(たち)をば抜(ぬ)いて、石(いし)を握(にぎ)って蔵人(くらんど)の額(ひたひ)をはたと打(う)って打(う)ち破(やぶ)る。

 蔵人(くらんど)大(おほ)いに笑(わら)って

「己(おのれ)は下臈(げらふ)なれば。太刀長刀(たちなぎなた)でこそ敵(かたき)をばうて。礫(つぶて)にて敵(かたき)打(う)つ様(さま)やある」

 常陸(ひたち)房(ばう)

「足(あし)を結(むす)へ」

 とぞ下知(げぢ)しける。

 常陸(ひたち)房(ばう)は敵(かたき)が足(あし)を結(むす)へとこそ申(まう)しけるに、あまりに遽(あわ)てて四(よつ)の足(あし)をぞ結(むす)うたりける。

 その後(のち)蔵人(くらんど)の頸(くび)に縄(なは)を懸(か)けて搦(から)め引(ひ)き起(お)して押(お)し居(ゐ)たり。

「水(みづ)参(まゐ)らせよ」

 とのたまへば干飯(ほしいひ)を洗(あら)ひて参(まゐ)らせたり。

 水(みづ)をばめして、干飯(ほしいひ)をばめさず差(さ)し置(お)きたまへば、常陸(ひたち)房(ばう)取(と)って食(く)うてけり。

「和僧(わそう)は山(やま)法師(ほふし)か」

「山(やま)法師(ほふし)で候(さうらふ)」

「誰(たれ)といふぞ」

「西(にし)塔(たふ)の北(きた)谷(たに)法師(ほふし)常陸(ひたち)房(ばう)正明(まさあき)と申(まう)す者(もの)で候(さうらふ)」

「さては行家(ゆきいへ)に使(つか)はれむといひし僧(そう)か」

「さ候(さうらふ)」

「頼朝(よりとも)が使(つかひ)か。平六(へいろく)が使(つかひ)か」

「鎌倉殿(かまくらどの)の御使(おんつかひ)候(さうらふ)。まことに鎌倉殿(かまくらどの)をば討(う)ち参(まゐ)らせんとおぼしめし候(さうら)ひしか」

「これ程(ほど)の身(み)になって後(のち)思(おも)はざりしといはばいかに、思(おも)ひしといはばいかに。手次(てつぎ)の程(ほど)はいかが思(おも)ひつる」

 とのたまへば、

「山上(さんじやう)にて多(おほ)くの事(こと)に逢(あ)ひて候(さうらふ)に、未(いま)だこれ程(ほど)手剛(てごは)き事(こと)に合(あ)ひ候(さうら)はず、よき敵(かたき)三人(さんにん)に逢(あ)うたる心地(ここち)こそし候(さうらひ)つれ」

 と申(まう)す。

「さて正明(まさあき)をばいかがおぼしめされ候(さうらひ)つる」

 と申(まう)せば、

「それはとられなん上(うへ)は」

 とぞのたまひける。

「その太刀(たち)取(と)り寄(よ)せよ」

 とて見(み)たまへば、蔵人(くらんど)の太刀(たち)は一所(いつしよ)も切(き)れず、常陸(ひたち)房(ばう)が太刀(たち)は四十二所(しじふにしよ)切(き)れたりけり。

 やがて伝馬(てんま)立(た)てさせ乗(の)せ奉(たてまつ)って上(のぼ)るほどに、その夜(よ)は江口(えぐち)の長者(ちやうじや)が許(もと)に泊(とま)って夜(よ)もすがら使(つかひ)を走(はし)らかす。

 明(あ)くる日(ひ)の午刻(うまのこく)ばかり北条(ほうでう)平六(へいろく)その勢(せい)百(ひやく)騎(き)ばかり旗(はた)ささせて下(くだ)るほどに淀(よど)の赤井河原(あかゐがはら)で行(ゆ)き合(あ)ったり。

「都(みやこ)へはいれ奉(たてまつ)るべからずといふ院宣(ゐんぜん)で候(さうらふ)。鎌倉殿(かまくらどの)の御気色(ごきしよく)もその儀(ぎ)でこそ候(さうら)へ。はやはや御頸(おんくび)をたまはって鎌倉殿(かまくらどの)の見参(げんざん)にいれて御恩(ごおん)蒙(かうぶ)りたまへ」

 といへば、さらばとて赤井河原(あかゐがはら)で十郎蔵人(じふらうくらんど)の頸(くび)を切(き)る。

 信太(しだ)三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義教(よしのり)は醍醐(だいご)の山(やま)に籠(ろう)ったる由(よし)聞(き)きしかば、おし寄(よ)ってさがせどもなし。

 伊賀(いが)の方(かた)へ落(お)ちぬと聞(き)こえしかば、服部(はつとり)平六(へいろく)を先(さき)として伊賀(いが)国(くに)へ発向(はつかう)す。

 千度(せんど)の山寺(やまでら)にありと聞(き)こえし間(あひだ)、押(お)し寄(よ)ってからめんとするに袷(あはせ)の小袖(こそで)に大口(おほくち)ばかり著(き)て金(きん)にて打(う)ちくくんだる腰(こし)の刀(かたな)にて腹(はら)掻(か)き切(き)ってぞ伏(ふ)したりける。

 頸(くび)をば服部(はつとり)平六(へいろく)取(と)ってけり。

 やがて持(も)たせて京(きやう)へ上(のぼ)り、北条(ほうでう)平六(へいろく)に見(み)せたりければ

「やがて持(も)たせて下(くだ)り、鎌倉殿(かまくらどの)の見参(げんざん)に入(はい)って御恩(ごおん)蒙(かうぶ)りたまへ」

 といひければ常陸(ひたち)房(ばう)服部(はつとり)各(おのおの)頸(くび)共(ども)持(も)たせて鎌倉(かまくら)へ下(くだ)り見参(げんざん)に入(い)れたりければ、

「神妙(しんべう)なり」

 とて常陸(ひたち)房(ばう)は笠井(かさい)へ流(なが)さる。

「下(くだ)りはては勧賞(くわんじやう)蒙(かうぶ)らんとこそ思(おも)ひつるに、さこそ無(な)からめ、剰(あまつさ)流罪(るざい)に処(ところ)せらるる条(でう)存(ぞん)外(ほか)の次第(しだい)なり。かかるべしと知(し)りたらば、何(なに)しか身命(しんみやう)を捨(す)てけん」

 と後悔(こうくわい)すれども甲斐(かひ)ぞなき。

 されども中(なか)二年(にねん)といふに召(め)し返(かへ)され

「大将軍(たいしやうぐん)討(う)たる者(もの)は冥加(みやうが)のなければ一旦(いつたん)戒(かい)めつるぞ」

 とて但馬国(たぢまのくに)に多田庄(ただのしやう)、摂津国(せつつのくに)に葉室(はむろ)二箇所(にかしよ)たまはって帰(かへ)り上(のぼ)る。

 服部(はつとり)平六(へいろく)平家(へいけ)の祗候(しこう)の人(ひと)たりしかば没官(もつくわん)せられたりける服部(はつとり)かへしたまはってけり。

六代被斬

 さる程(ほど)に、六代(ろくだい)御前(ごぜん)はやうやう、十四五(じふしご)にもなりたまへば、みめ容(かたち)いよいようつくしく、あたりも照(て)り輝(かがや)くばかりなり。

 母(はは)上(うへ)これを御覧(ごらん)じて

「哀(あは)れ世(よ)の世(よ)にてあらましかば、当時(たうじ)は近衛司(このゑづかさ)にてあらんずるものを」

 と、のたまひけるこそ余(あま)りの事(こと)なれ。

 鎌倉殿(かまくらどの)常(つね)は覚束(おぼつか)なげにおぼして高雄(たかを)の聖(ひじり)の許(もと)へ便宜(べんぎ)毎(ごと)に、

「さても維盛(これもり)卿(きやう)の子息(しそく)、何(なに)と候(さうらふ)やらむ。昔(むかし)頼朝(よりとも)を相(さう)したまひし様(さま)に、朝(てう)の怨敵(をんてき)をも滅(ほろ)し会稽(くわいけい)の恥(はぢ)をも雪(きよ)むべき仁(じん)にて候(さうらふ)か」

 と尋(たづ)ね申(まう)されければ、聖(ひじり)の御返事(おんへんじ)には、

「これは底(そこ)もなき不覚(ふかく)仁(じん)にて候(さうらふ)ぞ。御心(みこころ)安(やす)うおぼしめし候(さうら)へ」

 と申(まう)されけれども、鎌倉殿(かまくらどの)なほも御心(みこころ)ゆかずげにて

「謀反(むほん)をだに起(お)こさば、やがて方人(かたうど)せうずる聖(ひじり)の御房(ごばう)なり。但(ただ)頼朝(よりとも)一期(いちご)の程(ほど)は誰(たれ)か傾(かたぶ)くべき、子孫(しそん)の末(すゑ)ぞ知(し)らぬ」

 とのたまひけるこそ怖(おそ)ろしけれ、母(はは)上(うへ)これを聞(き)きたまひて、

「いかにも叶(かな)ふまじ。はやはや出家(しゆつけ)したまへ」

 とおほせければ、六代(ろくだい)御前(ごぜん)十六(じふろく)と申(まう)し文治(ぶんぢ)五年(ごねん)の春(はる)のころ、うつくしげなる髪(かみ)を肩(かた)のまはりに鋏(はさ)み落(お)し柿(かき)の衣袴(きぬばかま)に笈(おひ)など拵(こしら)へ聖(ひじり)に暇(いとま)乞(こ)うて修行(しゆぎやう)に出(い)でられけり。

 斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)も同(おな)じ様(さま)に出(い)で立(た)て、御供(おんとも)申(まう)しけり。

 先(ま)づ高野(かうや)へ参(まゐ)り父(ちち)の善知識(ぜんぢしき)したりける滝口入道(たきぐちにふだう)に尋(たづ)ね合(あ)ひ御出家(ごしゆつけ)の次第(しだい)臨終(りんじゆう)の有様(ありさま)、委(くは)しく聞(き)きたまひて、かつうはその御(おん)跡(あと)もゆかしとて、熊野(くまの)へ参(まゐ)りたまひけり。

 浜(はま)の宮(みや)の御前(ごぜん)にて父(ちち)の渡(わた)りたまひける山(やま)なりの島(しま)を見(み)渡(わた)して、渡(わた)らまほしくおぼしけれ共(ども)、波風(なみかぜ)向(むか)かうて叶(かな)はねば、力(ちから)及(およ)ばで、眺(なが)めやりたまふにも我(われ)父(ちち)はいづくに沈(しづ)みたまひけんと、沖(おき)より寄(よ)する白波(しらなみ)にも、問(と)ひまほしくぞ思(おも)はれける。

 汀(みぎは)の沙(いさご)も父(ちち)の御(おん)骨(ほね)やらんとなつかしうおぼしければ、涙(なみだ)に袖(そで)はしをれつつ塩(しほ)くむ海士(あま)の衣(きぬ)ならね共(ども)、乾(かわ)く間(あひだ)なくぞ見(み)えたまふ。

 渚(なぎさ)に一夜(いちや)逗留(とうりう)して念仏(ねんぶつ)申(まう)し経(きやう)読(よ)み指(さ)の先(さき)にて沙(いさご)に仏(ほとけ)の形(かたち)をかき現(あらは)して、明(あ)ければ貴(たふと)き僧(そう)を請(しやう)じて父(ちち)の御為(おんため)と供養(くやう)して、作善(さぜん)の功徳(くどく)さながら聖霊(しやうりやう)に廻(めぐ)向(むか)して亡(ばう)者(もの)に暇(いとま)申(まう)しつつ泣(な)く泣(な)く都(みやこ)へ上(のぼ)られけり。

 小松(こまつ)殿(どの)の御子(おんこ)丹後(たんご)侍従(じじゆう)忠房(ただふさ)は八島(やしま)の軍(いくさ)より落(お)ちて行(ゆ)く末(すゑ)も知(し)らずおはせしが、紀伊国(きいのくに)の住人(ぢゆうにん)湯浅権守宗重(ゆあさのごんのかみむねしげ)を憑(たの)んで湯浅(ゆあさ)の城(しろ)にぞ籠(ろう)られける。

 これを聞(き)いて平家(へいけ)に志(こころざし)思(おも)ひける越中次郎兵衛(ゑつちゆうじらうびやうゑ)、上総五郎兵衛(かづさのごらうびやうゑ)、悪七兵衛(あくしちびやうゑ)、飛騨(ひだ)四郎(しらう)兵衛(ひやうゑ)以下(いげ)の兵(つはもの)共(ども)著(つ)き奉(たてまつ)る由(よし)聞(き)こえしかば、伊賀(いが)、伊勢(いせ)両国(りやうごく)の住人(ぢゆうにん)等(ら)、我(われ)も我(われ)もと馳(は)せ集(あつ)る。

 究竟(くつきやう)の者(もの)共(ども)数百騎(すうひやくき)たてこもったる由(よし)聞(き)こえしかば、熊野別当(くまのべつたう)、鎌倉殿(かまくらどの)よりおほせを蒙(かうぶ)って両(りやう)三月(さんぐわつ)が間(あひだ)、八(はち)箇(か)度(ど)寄(よ)せて責(せ)め戦(たたか)ふ。

 城(しろ)の内(うち)の兵(つはもの)共(ども)命(いのち)を惜(をし)まず、防(ふせ)ぎければ毎(ごと)度(ど)に御方(みかた)追(お)ひ散(ち)らされ、熊野(くまの)法師(ほふし)数(かず)をつくいて討(う)たれにけり。

 熊野別当(くまのべつたう)、鎌倉殿(かまくらどの)へ飛脚(ひきやく)を奉(たてまつ)って当国(たうごく)湯浅(ゆあさ)の合戦(かつせん)の事(こと)両(りやう)三(さん)箇(か)月(つき)が間(あひだ)に八(はち)箇(か)度(ど)寄(よ)って責(せ)め戦(たたか)ふ。

 されども城(しろ)の内(うち)の兵(つはもの)共(ども)命(いのち)を惜(をし)まず、防(ふせ)ぐ間(あひだ)毎(ごと)度(ど)に味方(みかた)おひ落(お)されて、敵(かたき)をしへたぐるに及(およ)ばず。

 近国(きんごく)二(に)三箇国(さんがこく)をもたまはって攻(せ)め落(お)すべき由(よし)申(まう)したりければ、鎌倉殿(かまくらどの)

「その条(でう)、国(くに)の費(つひえ)、人(ひと)の煩(わづら)なるべし。楯(たて)籠(ろう)る所(ところ)の凶徒(きようと)は定(さだ)めて海(うみ)山(やま)の盗人(ぬすびと)にてぞあらん。山賊(さんぞく)海賊(かいぞく)きびしう守護(しゆご)して城(しろ)の口(くち)を固(かた)めて守(かみ)るべし」

 とぞのたまひける。

 その定(さだ)にしたりければ、げにも後(のち)には人(ひと)一人(ひとり)もなかりけり。

 鎌倉殿(かまくらどの)謀(はかりごと)に

「小松(こまつ)殿(どの)の君達(きんだち)の一人(ひとり)も二人(ふたり)も生(い)き残(のこ)りたまひたらんをば扶(たす)け奉(たてまつ)るべし。その故(ゆゑ)は池(いけ)の禅尼(ぜんに)の使(つかひ)として頼朝(よりとも)を流罪(るざい)に申(まう)し宥(なだ)められしは偏(ひとへ)にかの内府(ないふ)の芳恩(はうおん)なり」

 とのたまひければ、丹後(たんご)侍従(じじゆう)六波羅(ろくはら)へ出(い)でてなのられけり。

 やがて関東(くわんとう)へ下(くだ)し奉(たてまつ)る。

 鎌倉殿(かまくらどの)対面(たいめん)して

「都(みやこ)へ御(おん)上(のぼ)り候(さうら)へ。片(かた)ほとりに思(おも)ひ当(あ)て参(まゐ)らする事(こと)候(さうらふ)」

 とてすかし上(のぼ)せ奉(たてまつ)り追様(あとざま)に人(ひと)を上(のぼ)せて勢多(せた)の橋(はし)の辺(へん)にて切(き)ってけり。

 小松(こまつ)殿(どの)の君達(きんだち)六(ろく)人(ひと)の外(ほか)に土佐守(とさのかみ)宗実(むねざね)とておはしけり。

 三歳(さんざい)より大炊御門(おほひのみかど)の左大臣(さだいじん)経宗(つねむね)卿(きやう)の養子(やうし)にて異姓他人(いせいたにん)になり、武芸(ぶげい)の道(みち)をば打(う)ち棄(す)てて文筆(ぶんぴつ)をのみ嗜(たしな)んで今年(ことし)は十八(じふはち)になりたまふを鎌倉殿(かまくらどの)より尋(たづ)ねはなかりけれども、世(よ)に憚(はばか)って追(お)ひ出(いだ)されたりければ、先途(せんど)を失(うしな)ひ大仏(だいぶつ)の聖(ひじり)俊乗房(しゆんじようばう)のもとにおはして

「我(われ)はこれ小松(こまつ)の内府(ないふ)の末(すゑ)の子(こ)に土佐守(とさのかみ)宗実(むねざね)と申(まう)す者(もの)にて候(さうらふ)。三歳(さんざい)より大炊御門(おほひのみかど)左大臣(さだいじん)経宗(つねむね)養子(やうし)にして異姓他人(いせいたにん)になり、武芸(ぶげい)のみちをうち捨(す)て、文筆(ぶんぴつ)をのみたしなんで生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)に罷(まか)り成(な)り。鎌倉殿(かまくらどの)より尋(たづ)ねらるる事(こと)は候(さうら)はねども、世(よ)におそれておひ出(いだ)されて候(さうらふ)。聖(ひじり)の御房(ごばう)御弟子(おんでし)にせさせたまへ」

 とて髻(もとどり)推(お)し切(き)りたまひぬ。

「それもなほ怖(おそ)ろしうおぼしめさば鎌倉(かまくら)へ申(まう)して、げにも罪(つみ)深(ふか)かるべくはいづくへも遣(つか)せ」

 とのたまひければ、聖(ひじり)最愛(もあい)く思(おも)ひ奉(たてまつ)って出家(しゆつけ)せさせ奉(たてまつ)り、東大寺(とうだいじ)の油倉(あぶらぐら)と云(い)ふ所(ところ)に暫(しばら)く置(お)き奉(たてまつ)って関東(くわんとう)へこの由(よし)申(まう)されけり。

「何(なに)様(さま)にも見参(げんざん)してこそともかうもはからはめ。先(ま)づ下(くだ)し奉(たてまつ)れ」

 とのたまひければ、聖(ひじり)力(ちから)及(およ)ばで関東(くわんとう)へ下(くだ)し奉(たてまつ)る。

 この人(ひと)奈良(なら)を立(た)ちたまひし日(ひ)よりして飲食(おんじき)の名字(みやうじ)を絶(た)って湯水(ゆみづ)をも喉(のんど)へいれず、足柄(あしがら)越(こ)えて関本(せきもと)と云(い)ふ所(ところ)にてつひに失(う)せたまひぬ。

「いかにも叶(かな)ふまじき道(みち)なれば」

 とて思(おも)ひ切(き)られけるこそ怖(おそ)ろしけれ。

 さる程(ほど)に建久(けんきう)元年(ぐわんねん)十一月(じふいちぐわつ)七日(なぬか)鎌倉殿(かまくらどの)上洛(じやうらく)して、同九日(おなじくここのか)正二位(しやうにゐ)大納言(だいなごん)になりたまふ。

 同十一日(おなじくじふいちにち)大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)を兼(けん)じたまへり。

 やがて両職(りやうしよく)を辞(じ)して十二月(じふにぐわつ)四日(よつか)関東(くわんとう)へ下向(げかう)。

 建久(けんきう)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)十三日(じふさんにち)法皇(ほふわう)崩御(ほうぎよ)なりにけり。

 御歳(おんとし)六十(ろくじふ)六(ろく)。

 瑜伽振鈴(ゆがしんれい)の響(ひびき)はその夜(よ)を限(かぎ)り、一乗案誦(いちじようあんじゆ)の御声(おんこゑ)はその暁(あかつき)に終(をは)りぬ。

 同六年(おなじくろくねん)三月(さんぐわつ)十三日(じふさんにち)大仏(だいぶつ)供養(くやう)あるべしとて二月(にぐわつ)中(なか)に鎌倉殿(かまくらどの)又(また)御上洛(ごじやうらく)あり。

 同十二日(おなじくじふににち)大仏殿(だいぶつでん)へ参(まゐ)らせたまひたりけるが、梶原(かぢはら)を召(め)して

「手(て)かいの門(もん)の南(みなみ)の方(かた)に大衆(だいしゆ)なん十人(じふにん)を隔(へだ)てて怪(あや)しばうだる者(もの)の見(み)えつる。召(め)し捕(とら)って参(まゐ)らせよ」

 とのたまひければ、梶原(かぢはら)承(うけたまは)ってやがて召(め)し具(ぐ)して参(まゐ)りたり。

 鬚(ひげ)をば剃(そ)って髻(もとどり)をば切(き)らぬ男(をとこ)なり。

「何者(なにもの)ぞ」

 ととひたまへば、

「これ程(ほど)運命(うんめい)尽(つく)き果(は)て候(さうらひ)ぬる上(うへ)はとかう申(まう)すに及(およ)ばず。これは平家(へいけ)の侍(さぶらひ)薩摩(さつま)中務(なかつかさ)家資(いへすけ)と申(まう)す者(もの)にて候(さうらふ)」

「それは何(なに)と思(おも)ひてかくはなりたるぞ」

「もしやとねらひ申(まう)し候(さうらひ)つるなり」

「志(こころざし)の程(ほど)はゆゆしかりけり」

 とて供養(くやう)果(は)てて都(みやこ)へ入(い)らせたまひて、六条(ろくでう)河原(かはら)にて切(き)られにけり。

 平家(へいけ)の子孫(しそん)は去(さ)んぬる文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)冬(ふゆ)のころ一(ひと)つ子(こ)二(ふた)つ子(こ)をのこさず腹(はら)の内(うち)をあけて見(み)ずと云(い)ふばかりに尋(たづ)ね取(と)って失(うしな)ひてき。

 今(いま)は一人(ひとり)もあらじと思(おも)ひしに、新中納言(しんちゆうなごん)の末(すゑ)の子(こ)に伊賀大夫(いがのたいふ)知忠(ともただ)とておはしき。

 平家(へいけ)都(みやこ)を落(お)ちし時(とき)三歳(さんざい)にて棄(す)て置(お)かれたりしを乳母(めのと)の紀伊(きい)次郎(じらう)兵衛(びやうゑ)為教(ためのり)養(やしな)ひ奉(たてまつ)ってここかしこに隠(かく)れありきけるが、備後国(びんごのくに)大田(おほた)といふ所(ところ)に忍(しの)びつつ居(ゐ)たりけり。

 やうやう成(な)人(ひと)したまへば、郡郷(ぐんがう)の地(ち)頭(かしら)守護(しゆご)恠(あや)しみける程(ほど)に都(みやこ)へ上(のぼ)り法性寺(ほつしやうじ)の一(いち)の橋(はし)なる所(ところ)に忍(しの)んでおはしけり。

 爰(ここ)祖父(おほぢ)入道相国(にふだうしやうこく)自然(じねん)の事(こと)のあらん時(とき)城廓(じやうくわく)にもせんとて堀(ほり)を二重(ふたへ)に堀(ほ)って四方(しはう)に竹(たけ)を栽(う)ゑられたり。

 逆茂木(さかもぎ)引(ひ)いて昼(ひる)は人(ひと)音(おと)もせず、夜(よ)になれば尋常(じんじやう)なる輩(ともがら)多(おほ)く集(あつ)まって詩(し)作(つく)り歌(うた)を読(よ)み管絃(くわんげん)などして遊(あそ)びける程(ほど)に何(なに)としてか漏(も)れ聞(き)こえたりけん、そのころ人(ひと)のおぢ怖(こは)れけるは一条(いちでう)の二位(にゐ)入道(にふだう)義泰(よしやす)といふ人(ひと)なり。

 その侍(さぶらひ)に後藤兵衛(ごとうびやうゑ)基清(もときよ)が子(こ)に新兵衛(しんびやうゑ)基綱(もとつな)

「一(いち)の橋(はし)に違勅(ゐちよく)の者(もの)あり」

 と聞(き)き出(いだ)して、建久(けんきう)七(しち)年(とし)十月(じふぐわつ)七日(なぬか)辰(たつ)の一点(いつてん)にその勢(せい)百四五十騎(ひやくしごじつき)一(いち)の橋(はし)へ馳(は)せ向(むか)ひ、をめき叫(さけ)んで攻(せ)め戦(たたか)ふ。

 城(しろ)の内(うち)にも三十余人(さんじふよにん)ありける者(もの)共(ども)大肩脱(おほかたぬぎ)に袒(はだぬ)いで竹(たけ)の陰(かげ)より差(さ)し詰(つ)め引(ひ)き詰(つ)めさんざんに射(い)れば、馬(むま)人(ひと)多(おほ)く射(い)殺(ころ)されて面(おもて)を向(むか)ふべき様(さま)もなし。

「さる程(ほど)に一(いち)の橋(はし)に違勅(ゐちよく)の者(もの)あり」

 と聞(き)き伝(つた)へ在京(ざいきやう)の武士(ぶし)共(ども)我(われ)も我(われ)もと馳(は)せつどふ。

 程(ほど)なく一二千騎(いちにせんき)になりしかば、近(ちか)辺(へん)の小(こ)家(いへ)を壊(こぼ)ち寄(よ)せ堀(ほり)を填(うづ)めをめき叫(さけ)んで攻(せ)め入(い)りけり。

 城(しろ)の内(うち)の兵(つはもの)共(ども)打物(うちもの)抜(ぬ)いて走(はし)り出(い)で、或(あるい)は討(う)ち死(し)にする者(もの)もあり、或(あるい)は痛手(いたで)負(お)うて自害(じがい)する者(もの)もあり。

 伊賀大夫(いがのたいふ)知忠(ともただ)は生年(しやうねん)十六(じふろく)歳(とし)に成(な)られけるが、痛手(いたで)負(お)うて自害(じがい)したまひたるを乳母(めのと)の紀伊(きい)次郎(じらう)兵衛(びやうゑ)入道(にふだう)膝(ひざ)の上(うへ)に舁(か)き乗(の)せ、涙(なみだ)をはらはらと流(なが)して高声(かうしやう)に十念(じふねん)唱(とな)へつつ腹(はら)掻(か)き切(き)ってぞ死(し)にける。

 その子(こ)の兵衛(ひやうゑ)太郎(たらう)、兵衛(ひやうゑ)次郎(じらう)共(とも)に討(う)ち死(し)にしてんげり。

 城(しろ)の内(うち)に三十余人(さんじふよにん)ありける者(もの)共(ども)大略(たいりやく)討(う)ち死(し)に自害(じがい)して館(たち)には火(ひ)を懸(か)けたりけるを武士(ぶし)共(ども)馳(は)せ入(はい)って手々(てんで)に討(う)ちける頸(くび)共(ども)太刀長刀(たちなぎなた)の先(さき)に貫(つらぬ)き二位(にゐ)入道殿(にふだうどの)へ馳(は)せ参(まゐ)る。

 一条(いちでう)の大路(おほぢ)へ車遣(くるまや)はし出(いだ)して頸(くび)共(ども)実検(じつけん)せらる。

 紀伊(きい)次郎(じらう)兵衛(びやうゑ)入道(にふだう)の頸(くび)をば見(み)知(し)ったる者(もの)も少々(せうせう)あり。

 伊賀大夫(いがのたいふ)の頸(くび)、人(ひと)いかが見(み)知(し)り奉(たてまつ)るべき。

 この人(ひと)の母(はは)上(うへ)は治部卿局(ぢぶきやうのつぼね)とて八条女院(はちでうのにようゐん)に候(さうら)はれけるを迎(むか)へ寄(よ)せ奉(たてまつ)って見(み)せ奉(たてまつ)りたまふ。

「三歳(さんざい)と申(まう)す時(とき)、故(こ)中納言(ちゆうなごん)に具(ぐ)せられて西国(さいこく)へ下(くだ)りし後(のち)は生(い)きたり共(とも)死(し)にたりともその行方(ゆくへ)を知(し)らず、但(ただ)故(こ)中納言(ちゆうなごん)の思(おも)ひ出(い)づる所々(ところどころ)のあるはさにこそ」

 とて泣(な)かれけるにこそ伊賀大夫(いがのたいふ)の頸(くび)とも人(ひと)知(し)ってげれ。

 平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中次郎兵衛(ゑつちゆうじらうびやうゑ)盛嗣(もりつぐ)は但馬国(たぢまのくに)へ落(お)ち行(ゆ)きて気比(けひ)四郎(しらう)道弘(みちひろ)が聟(むこ)になってぞ居(ゐ)たりける。

 道弘(みちひろ)越中次郎兵衛(ゑつちゆうじらうびやうゑ)とは知(し)らざりけり。

 されども錐嚢(きりふくろ)にたまらぬ風情(ふぜい)にて夜(よ)になれば、しうとが馬(むま)引(ひ)き出(い)いて馳(は)せ引(ひ)きしたり。

 海(うみ)の底(そこ)十四五(じふしご)町(ちやう)二十町(にじつちやう)潜(かづ)きなどしければ、地(ち)頭(かしら)守護(しゆご)恠(あや)しみける程(ほど)に何(なに)としてか漏(も)れ聞(き)こえたりけん。

 鎌倉殿(かまくらどの)御教書(みぎやうしよ)を下(くだ)されけり。

「但馬国(たぢまのくに)の住人(ぢゆうにん)朝倉(あさくら)太郎(たらう)大夫(たいふ)高清(たかきよ)、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中次郎兵衛(ゑつちゆうじらうびやうゑ)盛嗣(もりつぐ)当国(たうごく)に居住(きよぢゆう)の由(よし)きこしめす。めし進(まゐ)らせよ」

 とおほせ下(くだ)さる。

 気比(けひ)四郎(しらう)は朝倉(あさくら)の大夫(たいふ)が聟(むこ)なりければ、呼(よ)び寄(よ)せて

「いかがして搦(から)めんずる」

 と議(ぎ)するに、湯屋(ゆや)にてからむべしとて湯(ゆ)に入(い)れてしたたかなる者(もの)五六人(ごろくにん)おろし合(あ)せてからめんとするに、取(と)っつけば投(な)げ倒(たふ)され、起(お)き上(あ)がれば蹴(け)倒(たふ)さる。

 互(たが)ひに身(み)は湿(しめ)りたり、取(と)りもためず。

 されども衆力(しゆりき)に強力(がうりき)叶(かな)はぬ事(こと)なれば、二三十人(にさんじふにん)はと寄(よ)って太刀(たち)のみね長刀(なぎなた)の柄(え)にて打(う)ち悩(なや)まして搦(から)め捕(とら)る。

 やがて関東(くわんとう)へ参(まゐ)らせたりければ、御前(ごぜん)に引(ひ)き居(ゐ)させて事(こと)の子細(しさい)を召(め)し問(と)はる。

「いかに汝(なんぢ)は同(おな)じ平家(へいけ)の侍(さぶらひ)と云(い)ひながら故親(こしん)にてあんなるに、何(なに)とてしなざりけるぞ」

「それはあまりに平家(へいけ)の脆(もろ)く滅(ほろ)びて在(ましま)し候(さうらふ)間(あひだ)、若(も)しやとねらひ参(まゐ)らせ候(さうらひ)つるなり。大刀(たち)のみの好(よき)をも征矢(そや)の尻(じり)の鉄好(かねよき)をも鎌倉殿(かまくらどの)の御為(おんため)とこそ拵(こしら)へ持(も)って候(さうらひ)つれども、これ程(ほど)に運命(うんめい)尽(つく)き果(は)て候(さうらひ)ぬる上(うへ)はとかう申(まう)すにおよび候(さうら)はず」

「志(こころざし)の程(ほど)はゆゆしかりけり。頼朝(よりとも)を憑(たの)まば助(たす)けて使(つか)はんはいかに」

 とおほせければ、

「勇士(ゆうし)二(に)主(ぬし)に仕(つか)へず。盛嗣(もりつぐ)程(ほど)の者(もの)に御心(みこころ)許(ゆる)したまひては必(かなら)ず御後悔(ごこうくわい)候(さうらふ)べし。ただ御恩(ごおん)には疾々(とくとく)頸(くび)を召(め)され候(さうら)へ」

 と申(まう)しければ、

「さらば切(き)れ」

 とて由井(ゆゐ)の浜(はま)に引(ひ)き出(い)いて切(き)ってげり。

 ほめぬ者(もの)こそなかりけれ。

 そのころの主上(しゆしやう)は御遊(おんあそ)びをむねとせさせたまひて、政道(せいだう)は一向(いつかう)卿(きやう)の局(つぼね)のままなりければ、人(ひと)の愁嘆(しうたん)もやまず。

 呉王(ごわう)剣客(けんかく)を好(この)んじかば、天下(てんか)に疵(きず)を蒙(かうぶ)る者(もの)たえず。

 楚王(そわう)細腰(さいえう)を愛(あい)せしかば、宮中(きうちゆう)に飢(う)ゑて死(し)する女(をんな)多(おほ)かりき。

 上(うへ)の好(この)みに下(した)は随(したが)ふ間(あひだ)世(よ)の危(あやふ)ふき事(こと)を悲(かな)しんで有心人々(うしんのひとびと)は嘆(なげ)きあへり。

 ここに文覚(もんがく)本(もと)より怖(おそ)ろしき聖(ひじり)にて、いろふまじき事(こと)にいろひけり。

 二(に)の宮(みや)は、御学問(おんがくもん)怠(おこた)らせたまはず、正理(しやうり)を先(さき)とせさせたまひしかば、いかにもして、この宮(みや)を位(くらゐ)に即(つ)け奉(たてまつ)らんとはからひけれども、前右大将(さきのうだいしやう)頼朝(よりとも)卿(きやう)のおはせし程(ほど)は叶(かな)はざりけるが、建久(けんきう)十年(じふねん)正月(しやうぐわつ)十三日(じふさんにち)、頼朝(よりとも)卿(きやう)失(う)せたまひしかば、やがて謀反(むほん)を起(お)こさんとしける程(ほど)にたちまちに洩(も)れ聞(き)こえて、二条(にでう)猪熊(ゐのくま)の宿所(しゆくしよ)に官人(くわんにん)共(ども)つけられ召(め)し捕(とら)って八十(はちじふ)に余(よ)って後(のち)隠岐(おき)国(くに)へぞ流(なが)されける。

 文覚(もんがく)京(きやう)を出(いで)るとて、

「これ程(ほど)老(お)いの波(なみ)に望(のぞ)んで、今日(けふ)明日(あす)とも知(し)らぬ身(み)を、縦(たとひ)勅勘(ちよくかん)なりとも都(みやこ)の片辺(かたほと)には置(お)きたまはで隠岐(おき)国(くに)まで流(なが)さるる及丁冠者(およびちやうくわんじや)こそ安(やす)からね。つひには文覚(もんがく)が流(なが)さるる国(くに)へ迎(むか)へ申(まう)さんずるものを」

 と、申(まう)しけるこそ怖(おそ)ろしけれ。

 この君(きみ)はあまりに毬杖(ぎつちやう)の玉(たま)を愛(あい)せさせたまひければ文覚(もんがく)かやうに悪口(あくこう)申(まう)しけるなり。

 されば承久(じようきう)に御謀反(ごむほん)起(お)こさせたまひて、国(くに)こそ多(おほ)けれ、隠岐(おき)国(くに)へうつされたまひけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。

 かの国(くに)にても文覚(もんがく)が亡霊(ばうりやう)荒(あ)れて、常(つね)は御物語(おんものがたり)申(まう)しけるとぞ聞(き)こえし。

 さる程(ほど)に六代(ろくだい)御前(ごぜん)は、三位禅師(さんみのぜんじ)とて、高雄(たかを)に行(おこな)ひすましておはしけるを、

「さる人(ひと)の子(こ)なり。さる人(ひと)の弟子(でし)なり。首(くび)をば剃(そ)ったりとも、心(こころ)をばよも剃(そ)らじ」

 とて、鎌倉殿(かまくらどの)より頻(しき)に申(まう)されければ、安判官(あんはうぐわん)資兼(すけかね)におほせて召(め)し捕(とら)って、関東(くわんとう)へぞ下(くだ)されける。

 駿河国(するがのくに)の住人(ぢゆうにん)岡辺(をかべ)権守(ごんのかみ)泰綱(やすつな)におほせて、田越河(たごえがは)にて、切(き)られてけり。

 十二(じふに)の歳(とし)より三十(さんじふ)に余(よ)るまで保(たも)ちけるは、偏(ひとへ)に長谷(はせ)の観音(くわんおん)の御(おん)利生(りしやう)とぞ聞(き)こえし。

 それよりしてこそ平家(へいけ)の子孫(しそん)は永(なが)く絶(た)えにけれ。

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