目次
大地震
平家皆滅び果てて西国も静まりぬ。
国は国司に随ひ、庄は領家のままなり。
上下安堵して覚えし程に、同じき七月九日の午刻許に大地おびただしく動きて良久し。
赤県の中白河の辺、六勝寺皆破れ壊る。
九重の塔も上六重を震り落す。
得長寿院も三十三間の御堂を十七間まで振り倒す。
皇居を始めて、人々の家家惣て在々所々の神社仏閣、怪しの民屋、さながら破れ壊るる音は雷の如く、揚がる塵は烟の如し。
天暗うして、日の光も見えず、老少共に魂を銷し、鳥獣ことごとく心を尽くす。
又遠国近国もかくのごとし。
大地裂けて水湧き出で、磐石破れて谷へまろぶ。
山壊れて河を埋み、海漂ひて浜をひたす。
汀漕ぐ船は波にゆられ、陸行く駒は足の立つ処を失へり。
洪水みなぎり来らば、岳にのぼってもなどか助からざらん。
猛火燃え来らば、川を隔てても暫しも去ぬべし。
ただ悲しかりけるは大地震なり。
鳥にあらざれば空をも翔り難く、竜にあらざれば雲にも又上りがたし。
白河六波羅京中に打ち埋もれて死する者幾等といふ数をしらず。
四大種の中に、水火風は常に害をなせども、大地に於いては異なる変をなさず。
こはいかにしつる事ぞやとて上下遣戸障子を立て、天の鳴り地の動く度毎には、ただ今ぞ死ぬるとて声々に念仏申し、をめきさけぶ事おびただし。
七八十、九十の者も、世の滅するなど云ふ事は、さすが今日明日とはおもはずとて大いに噪ぎければ、をさなき者どもも聞いて、泣き悲しむ事限りなし。
法皇はその折しも新熊野へ御幸なりて、人多く打ち殺され触穢出来にければ、急ぎ六波羅へ還御なる。
道すがら君も臣もいかばかり御心を砕かせたまひけん。
主上は鳳輦に召して、池の汀へ行幸なる。
法皇は南庭にあく屋を立てぞましましける。
女院宮々は、御所共皆震り倒しければ或は御輿に召し、或は御車に召して、出させたまふ。
天文の博士共馳せ参りて、夕さりの亥子の刻には必ず大地打ち返すべしと申せば、怖ろしさなども愚なり。
昔文徳天皇の御宇斉衡三年三月八日の大地震には、東大寺の仏の御ぐしを震り落したりけるとかや。
又天慶二年四月五日の大地震には、主上御殿を去りて、常寧殿の前に五丈のあく屋を立ててましましけるとぞ承る。
それは上代の事なれば申すにおよばず。
今度の事はこれより後も類あるべしとも覚えず。
十善帝王都を出させたまひて、御身を海底に沈め、大臣公卿大路を渡してその頸を獄門に懸けらる。
昔より今に至るまで怨霊は怖ろしき事なれば世もいかがあらんずらんとて心ある人の嘆き悲しまぬは無かりけり。
紺掻沙汰
同じき八月二十二日、鎌倉の源二位頼朝卿の父故左馬頭義朝のうるはしき頭とて、高雄の文覚上人頸にかけ、鎌田兵衛が頸をば、弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られける。
去んぬる治承四年のころ取り出して、たてまつりけるは実の左馬頭の首にはあらず。
謀反をすすめ奉らんためのはかりごとに、そぞろなるふるい頭をしろい布に包んでたてまつりけるに、謀反を起こし、世を討ち取って、一向父の頭と信ぜられける処へ又尋ね出してくだりけり。
これは年来義朝の不便にして召し使はれける紺掻の男、年来獄門に懸られて後世弔ふ人もなかりし事をかなしんで時の大理に逢ひ奉り申し給はり取りおろして、兵衛佐殿流人でおはすれども、末たのもしき人なり。
もし世に出でて尋ねらるる事もこそあれとて東山円覚寺といふ所に、深う納めて置きたりけるを、文覚聞き出して、かの紺掻男共に、相具して下りけるとかや。
今日既に鎌倉へ著くと聞こえしかば、源二位片瀬河まで迎へにおはしけり。
それより色の姿になって、泣く泣く鎌倉へ入りたまふ。
聖をば大床に立て、我身は庭に立て、父の頭を請け取りたまふぞ哀なる。
これを見る大名小名、皆涙を流さずと云ふ事なし。
せき巖の峻しきを伐り掃って、新たなる道場を造り、父の御為と供養して、勝長寿院と号せらる。
公家にもかやうの事を哀とおぼしめして、故左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位を贈らる。
勅使は左大弁兼忠とぞ聞こえし。
頼朝卿武勇の名誉長ぜるによって、身を立て家を興すのみならず、亡父聖霊、贈官贈位に及びけるこそ目出たけれ。
平大納言被流
同じき九月二十三日、平家の余党の都にあるを、国々へ遣はさるべき由鎌倉殿より公家へ申されたりければ、平大納言時忠卿能登国、子息讃岐中将時実上総国、内蔵頭信基安芸国、兵部少輔正明隠岐国、二位僧都専親阿波国、法勝寺執行能円備後国、中納言律師忠快武蔵国とぞ聞こえし。
或西海の波の上、或東関の雲の果て、先途いづくを期せず、後会その期を知らず、別の涙を押さへて、面々に赴かれけん心の中推し量られて哀なり。
その中に平大納言は、建礼門院の吉田に渡らせたまふ処に参りて
「時忠こそ責重うして、今日既に配所へ趣き候へ。同じ都の内に候ひて、御当りの御事ども承はらまほしう候つるに、つひにいかなる御有様にて渡らせたまひ候はんずらむと、思ひ置き参らせ候にこそ、行く空も覚ゆまじう候へ」
と、泣く泣く申されければ、女院、
「げにも昔の名残とては、そこばかりこそおはしつれ。今はあはれをもかけ、弔ふ人も誰かはあるべき」
とて御涙せきあへさせたまはず。
この大納言と申すは、出羽前司具信が孫、兵部権大輔贈左大臣時信が子なり。
故建春門院の御せうとにて高倉の上皇の御外戚なり。
世の覚え時のきら目出たかりき。
入道相国の北方、八条の二位殿も姉にておはせしかば、兼官兼職、思ひの如く心の如し。
されば程なくあがって正二位の大納言に至れり。
検非違使別当にも三箇度までなりたまふ。
この人の庁務の時は、窃盗強盗をば召し捕って、様もなく右のかひなをば腕中より打ち落し打ち落し追ひ捨てらる。
されば悪別当とぞ申しける。
主上併せて三種の神器都へ返し入れ奉るべき由西国へ院宣を下されたりけるに院宣の御使、花形がつらに、浪形と云ふ焼験をせられけるも、この大納言のしわざなり。
法皇も故女院の御せうとなれば、御形見に御覧ぜまほしうおぼしめしけれども、加様の悪行によって御憤り浅からず。
九郎判官も親しうなられたりしかば、いかにもして申し宥めばやと思はれけれども叶はず。
子息侍従時家とて、十六になられけるが流罪にも漏れて、伯父の時光卿の許におはしけり。
母上帥のすけ殿の共に、大納言の袂にすがり、袖をひかへて今を限りの名残をぞ惜しみける。
大納言、
「つひにすまじき別かは」
と心強くはのたまへどもさこそは悲しうも思はれけめ。
年闌け齢傾きて後、さしも睦まじかりし妻子にも、別れ果て、住み慣れし都をも、雲井のよそに顧みて、古へは名にのみ聞きし越路の旅に趣き、遙々と下りたまふに、かれは志賀唐崎、これは真野の入江、交田の浦と申しければ、大納言泣く泣く詠じたまひけり。
帰りこん事はかた田に引く網の、目にもたまらぬ我涙かな。
昨日は西海の波の上に漂ひて、怨憎会苦の恨を扁舟の内に積み、今日は北国の雪の下に埋もれて、愛別離苦の悲しみを故郷の雲に重ねたり。
土佐房被斬
さる程に九郎判官には鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々御不審を蒙りたまふ由聞こえしかば、心を合はせて一人づつ皆下り果てにけり。
兄弟なる上、殊に父子の契をして去年の正月木曽義仲を追討せしより以降度々平家を攻め落し、今年の春滅し果てて一天を静め、四海を澄ます。
勧賞行はるべき所に、いかなる仔細あって、かかる聞こえあるらんと、上一人を始め奉り下万民に至るまで、不審をなす。
この事は、去んぬる春摂津国渡辺より舟汰して八島へ渡りたまひし時、逆櫓立てう立てじの論をして、大きに欺かれたりしを、梶原遺恨に思ひて常は讒言しけるに依ってなり。
定めて謀反の心もあるらん。
大名共差し上せば、宇治勢田の橋をも引き、京中の噪ぎとなって、中々悪かりなんとて土佐房正俊を召して
「和僧上って、物詣する様にてたばかり討て」
とのたまひければ正俊畏まって承り、宿所へも帰らず、御前を立ってやがて京へぞ上りける。
同じき九月二十九日土佐房都へついたりけれ共、次の日まで判官殿へもまゐらず。
土佐房がのぼりたる由聞きたまひ、武蔵房弁慶を以て召されければ、やがてつれて参りたり。
判官のたまひけるは、
「いかに鎌倉殿より御文はなきか」
「指したる御事候はぬ間、御文はまゐらせられず候。『御詞にて申せ』と候ひしは『当時まで都に別の仔細なく候事、さて御渡り候故と覚え候。相構へてよく守護せさせたまへ。と申せ』とこそおほせられ候つれ」
判官、
「よもさはあらじ、義経討ちに上る御使なり。大名ども差し上せば、宇治勢田の橋をも引き都の噪ぎとも成って、中々悪かりなん。和僧上せて物詣する様にて、たばかって討てとぞおほせ付けられたるらんな」
とのたまへば、正俊大いに驚きて、
「何に依ってか、ただ今さる事の候べき。聊宿願に依って熊野参詣の為に罷り上って候」
その時判官のたまひけるは、
「景時が讒言に依って義経鎌倉へもいれられず、見参をだにしたまはで追ひ上せらるる事はいかに」
正俊
「その事はいかが候らん、身においては全く御後ぐらう候はず。起請文を書き進らすべき」
由申せば。
判官
「とてもかうても、鎌倉殿によしと思はれ奉ったらばこそ」
とて、以外気色悪しげになりたまふ。
正俊一旦の害をのがれんがために居ながら七枚の起請文を書いて或は焼いて飲み、或は社に納めなどして、ゆりて帰り、大番衆に触れ回してその夜やがて寄せんとす。
判官は磯禅師といふ白拍子の娘しづかと云ふ女を最愛せられけり。
しづかも傍を立ち去る事なし。
しづか申しけるは、
「大路は皆武者で候ふなる。これより催しの無からんに、大番衆の者どものこれ程噪ぐべき様やさぶらふ。あはれこれは昼の起請法師のしわざと覚え候。人を遣して見せさぶらはばや」
とて、六波羅の故入道相国の召し使はれける禿を三四人使はれけるを、二人遣したりけるが、程ふるまで帰らず。
中々女は苦しからじとて半者を一人見せに遣す。
程なく走り帰りて申しけるは、
「禿と覚しきものは、二人ながら土佐房の門に切り伏せられて候。宿所には鞍おき馬ども、ひしと引き立てて、大幕の内には、矢負ひ、弓張り、者共皆具足してただ今寄せんと出で立ち候ふ。少しも物詣の景色とは見え候はず」
と申しければ、判官これを聞いてやがて討ち立ちたまふ。
静著背長取って投げ懸け奉る。
高紐計らって、太刀取って出でたまへば、中門の前に馬に鞍置いて引き立ったり、これに打ち乗って
「門を開けよ」
とて門あけさせ、今や今やと待ちたまふ処に、暫あって直甲四五十騎門の前に推し寄せて、閧をどとぞ作りける。
判官鐙踏ん張り立ちあがり、大音声をあげて、
「夜討にも昼戦にも、義経たやすう討つべき者は、日本国にはおぼえぬものを」
とてただ一騎おめいて懸けたまへば、五十騎ばかりの者共中をあけてぞ通しける。
さる程に、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶など云ふ一人当千の兵共、やがて続いて責め戦ふ。
その後侍共御内に夜討ち入りたりとて、あそこの屋形、爰の宿所より駈来る。
程なく六七十騎集まりければ、土佐房猛く寄せたりけれども、戦に及ばず、散々に懸け散らされて扶かる者はすくなう、討たるる者ぞ多かりける。
正俊希有にしてそこをばのがれて鞍馬の奥ににげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なりければ、かの法師土佐房を搦めて、次の日判官の許へ送りけり。
僧正が谷と云ふ所に隠れ居たりけるとかや。
正俊を大庭に引き居たり。
かちの直垂にすちやう頭巾をぞしたりける。
判官笑ってのたまひけるは
「いかに和僧、起請にはうてたるぞ」
土佐房少しも噪がず、居なほりあざ笑って申しけるは。
「ある事に書いて候へば、うてて候ぞかし」
と申す。
「主君の命を重んじて、私の命を軽んず、志の程最も神妙なり。和僧命惜しくば、鎌倉へかへし遣さんはいかに」
土佐房、
「正なうも御諚候ふ者かな。惜しと申さば、殿は扶けたまはんずるか。鎌倉殿の、法師なれども、己ぞねらはんずる者とて、おほせ蒙りしより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかは取り返し奉るべき。ただ御恩には疾々頭を召され候へ」
と申しければ、
「さらばきれ」
とて、六条河原に引き出して切ってげり。
褒めぬ人こそなかりけれ。
判官都落
ここに足立新三郎といふ雑色は、
「きやつは下臈なれども、以外さかさかしいやつで候。召し使ひたまへ」
とて、判官に参らせられたりけるが
「内々九郎が振舞ひ見て、我に知らせよ」
とぞのたまひける。
正俊がきらるるを見て、新三郎夜を日についではせ下り、鎌倉殿にこの由申しければ、舎弟参河守範頼を、討手に上せたまふべき由おほせられけり。
頻に辞し申されけれども、重ねておほせられける間、力及ばで物具して、暇申すに参られたり。
「わ殿も九郎がまねしたまふなよ」
とおほせられければ、この御詞に恐れて、物具脱ぎ置いて京上はとどまりたまひぬ。
全く不忠なき由一日に十枚づつの起請を昼は書き、夜は御坪の内にて読み上げ読み上げ百日に千枚の起請を書いて参らせられたりけれども、叶はずしてつひに討たれたまひけり。
その後北条四郎時政を大将として討手のぼると聞こえしかば、判官殿鎮西の方へ落ちばやと思ひ立ちたまふ処に緒方三郎維義は平家を九国の内へも入れ奉らず、逐ひ出す程の威勢の者なりければ、判官
「我に憑まれよ」
とのたまひける。
「さ候はば、御内に候ふ菊池次郎高直は、年来の敵で候。たまはって頸を切って憑まれ参らせん」
と申す。
左右なくたうだりければ、六条河原に引き出して切ってげり。
その後維義かひがひしう領状す。
同じき十一月二日、九郎大夫判官院御所へ参りて、大蔵卿泰経朝臣を以て、奏聞しけるは
「義経君の御為に奉公の忠を致す事、事あたらしう始めて申し上ぐるに及び候はず。しかるを頼朝、郎等共が讒言に依って、義経をうたんと仕り候間暫く鎮西の方へ罷り下らばやと存じ候。院の庁の御下文を一通下し預け候ばや」
と申されければ、法皇
「この条頼朝がかへり聞かん事いかがあるべからん」
とて諸卿におほせ合はせられければ、
「義経都に候ひて関東の大勢乱入候はば京都の狼藉絶え候べからず。遠国へ下り候なば暫くその恐れあらず」
とおのおの一同に申されければ、緒方三郎をはじめて、臼杵、戸次、松浦党、惣じて鎮西の者共義経を大将としてその下知にしたがふべき由庁の御下文をたまはってければ、その勢五百余騎明くる三日卯刻に京都に聊の煩ひもなさず、波風も立てずして下りにけり。
摂津の国源氏、太田太郎頼基、
「我門の前を通しながら矢一つ射懸けであるべきか」
とて、河原津と云ふ所に追ひ著いて責め戦ふ。
判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎にてありければ、中に取り籠め
「余すな泄すな」
とて散々に攻めたまへば、太田太郎吾身も手負ひ、家子郎等多く討たせ、馬の腹射させて引き退く。
判官頸共切り懸けて、軍神に祭り、
「門出好し」
と悦んで大物浦より船に乗って下られけるが、折節西の風烈しく吹き住吉の浦に打ち上られて、吉野の奥にぞ籠りける。
吉野法師にせめられて、奈良へ落つ。
奈良法師にせめられて、又都へ帰り入り、北国にかかってつひに奥へぞ下られける。
都より相具したりける女房達十余人、住吉の浦に捨て置きたれば、松の下、砂の上に袴蹈しだき、袖を片敷きて泣き臥したりけるを、住吉の神官共あはれんで、皆京へぞ送りける。
およそ判官の憑まれたりける伯父信太三郎先生義教、十郎蔵人行家、緒方三郎維義が船共、浦々島々に打ち寄せられて、互ひにその行末をしらず。
たちまちに西の風吹ける事も、平家の怨霊の故とぞおぼえける。
同じき十一月七日鎌倉の源二位頼朝卿の代官として北条四郎時政、六万余騎を相具して都へ入る。
明くる八日院参して伊予守源義経、備前守同行家、信太三郎先生同義教、追討すべき由奏聞しければやがて院宣を下されけり。
去んぬる二日は、義経が申し請くる旨に任せて、頼朝を背くべき由庁の御下文なされ、同じき八日は、頼朝卿の申状に依って、義経追討の院宣を下さる。
朝にかはり夕に変ずる世間の不定こそ哀なれ。
さる程に、鎌倉殿日本国の惣追捕使をたまはって、段別に兵粮米を宛行ふべき由、申されければ、
「昔より朝の怨敵を亡したる者は半国をたまはるといふ事、無量義経に見えたり。されども吾朝にはいまだその例なし。これは頼朝が過分の申状なり」
と法皇おほせなりけれども、公卿僉議あって、
「頼朝卿の申さるる処道理半なり」
とて諸卿一同に申されければ、御許されありけるとかや。
諸国に守護を置き、庄園に地頭を補せらる。
一毛許も隠るべき様なかりけり。
鎌倉殿かやうの事、公家にも人多しといへども吉田大納言経房卿をもて奏聞せられけり。
この大納言は、うるはしい人と聞こえたまへり。
平家に結ぼほれたりし人々も、源氏の世の強まりし後は或文を下し、或使者を遣し、さまざま諂ひたまひしかども、この人はさもしたまはず。
されば平家の時も法皇を鳥羽殿に押し籠め参らせて後院の別当を置かれしにも、勘解由小路中納言、この経房卿二人をぞ後院の別当にはなされたりける。
権右中弁光房朝臣の子なり。
十二の年、父の朝臣失せたまひしかば、孤にておはせしかども、次第に昇進滞らず、三事の顕要を兼帯して、夕郎の貫首を経て、参議、大弁、太宰帥正二位大納言に至れり。
人をば越えたまへ共、人には越えられたまはず。
されば人の善悪は、錐嚢をとほすとてつひに隠れなし。
有りがたかりし人なり。
六代
北条四郎策に
「平家の子孫といはん人、尋ね出したらん輩に於いては、所望請ふに依るべし」
と披露せらる。
京中の者共案内は知ったり、
「勧賞蒙らん」
とて、尋ね求むるぞうたてき。
かかりければ、幾等も尋ね出したりけり。
下臈の子なれども、色白う眉目好きをば召し出いて
「これはなんの中将殿の若君、かの少将殿の君達」
と申せば、父母泣き悲しめども、
「あれは介錯が申し候、あれは乳母が申す」
なんど云ふ間、無下にをさなきをば水に入れ、土に埋み、少し長しきをば押し殺し、刺し殺す。
母の悲しみ乳母が嘆き喩へん方ぞなかりける。
北条も子孫さすが多ければ、これをいみじとは思はねど、世に随ふ習ひなれば、力及ばず。
中にも小松三位中将殿若君、六代御前とておはすなり、平家の嫡々なる上、年もおとなしうましますなり。
いかにもしてとり奉らんとて、手を分けてもとめられけれども、求めかねて下らんとせられける所に、或る女房の六波羅に出でて申しけるは
「これより西遍照寺の奥、大覚寺と申す山寺の北の方、菖蒲谷と申す所にこそ、小松三位中将殿の北方、若君、姫君おはしませ」
と申せば、時政やがて人をつけてその辺を窺はせける程に、或坊に女房達少き人あまたゆゆしく忍びたる体にて住まひけり。
まがきの隙よりのぞきければ、白い狗の走り出でたるを取らんとて、美気なる若君の出でたまへば、乳母の女房と覚しくて、
「あな浅まし、人もこそ見参らすれ」
とて、いそぎ引き入れ奉る。
「これぞ一定そにておはしますらん」
と思ひ、急ぎ走り帰りてかくと申せば、次の日北条かしこに打ち向ひ、四方を打ち囲み、人をいれていはせけるは、
「平家小松三位中将殿の若君六代御前、これにおはしますと承はって、鎌倉殿の御代官に北条四郎時政と申す者が、御迎へに参りて候、はやはや出し参らさせたまへ」
と申されければ、母上これを聞きたまふに、つやつや物も覚えたまはず。
斎藤五、斎藤六、走り廻って見けれども、武士ども四方を打ち囲み、いづかたより出し奉るべしともおぼえず。
乳母の女房も、御前に倒臥し、声も惜しまずをめき叫ぶ。
日ごろは物をだにも高く云はず、忍びつつ隠れ居たりつれども、今は家の中にありとあるもの声をととのへて泣き悲しむ。
北条もこれを聞いて世に心くるしげに思ひ、涙拭ひつくづくとぞ待たれける。
ややあって、重ねて申されけるは、
「世もいまだしづまり候はねば、しどけなき事もぞ候とて御迎へに参りて候。別の御事は候まじ。はやはや出し参らさせたまへ」
と申されければ、若君母上に申させたまひけるは、
「つひに逃るまじう候へばとくとく出させおはしませ。武士共うち入って、さがす物ならば、うたて気なる御有様共を見えさせたまひなんず。たとひ罷出で候とも、暫しも候はば、暇乞ひて帰参り候はん。いたくな嘆かせたまひそ」
と。
慰めたまふこそいとほしけれ。
さてもあるべきならねば、母上泣く泣く御ぐし掻き撫で物著せ奉り、既に出し奉らんとしたまひけるが、黒木の珠数のちいさう美しいを取り出して、
「これにていかにも成らんまで、念仏申して、極楽へ参れよ」
とて奉りたまへば、わか君これを取って、
「母御前には今日既に離れ参らせなんず。今はいかにもして、父のおはしまさん所へぞ参りたき」
とのたまひけるこそ哀なれ。
これを聞いて御妹の姫君の十になりたまふが、
「我も父御前の御許へまゐらん」
とて、走り出でたまふを、乳母の女房とり留め奉る。
六代御前、今年は僅に十二にこそなりたまへども尋常の十四五よりは長しく、みめかたち優におはしければ、
「敵に弱げを見えじ」
とて、押ふる袖の隙よりも、余って涙ぞこぼれける。
さて御輿に乗りたまふ。
武士共前後左右に打ち囲んで出でにけり。
斎藤五、斎藤六、御輿の左右に附いてぞ参りける。
北条乗り替へ共下して、乗すれども乗らず、大覚寺より六波羅まで徒跣にてぞ走りける。
母上乳母の女房、天に仰ぎ地に伏して悶え焦れたまひけり。
「この日ごろ平家の子供取り集めて、水に入るるもあり、土に埋むもあり。押し殺し、刺し殺し、さまざまにすと聞こゆれば、我子は、何としてか失はんずらん。少し長しければ、頸をこそ切らんずらめ。人の子は乳母などの許に置きて、時々見る事もあり。それだにも恩愛の道は悲しき習ひぞかし。況やこれは生み落して後、一日片時も身をはなたず。人の持たぬ物を持ちたる様に思ひて、朝夕二人の中にてそだてし者を、憑みをかけし人にもあかで別れしその後は、二人をうらうへにおきてこそ慰みつるに、一人はあれども一人はなし。今日より後はいかがせむ。この三年が間、夜昼肝心を消しつつ思ひ設けつる事なれども、さすが昨日今日とは思ひ寄らず、年ごろ長谷の観音をこそ深う憑み奉りつるに、つひにとられぬる事の悲しさよ。ただ今もや失ひつらん」
と掻き口説き泣くより外の事ぞなき。
さ夜深けれども胸せきあぐる心ちして露もまどろみたまはぬが、ややあって乳母の女房にのたまひけるは、
「ただ今ちと打ち目睡みたりつる夢に、この子が白い馬に乗りて来つるが、『あまりに恋しう思ひ参らせ候へば暫し暇乞うて参りて候』とて、傍につい居て、何とやらん世に恨めしげに思ひてさめざめと泣きつるが、程なく打ちおどろかされて若しやとかたはらを探れども人もなし。夢なりとも暫しもあらで、覚めぬる事の悲しさよ」
とぞ語りたまふ。
乳母の女房も泣きけり。
長き夜もいとど明かしかねて涙に床も浮くばかりなり。
限あれば、鶏人暁を唱へて夜もあけぬ。
斎藤六帰り参りたり。
「さていかにやいかに」
と問ひたまへば
「ただ今までは別の御事も候はず。御文の候」
とて、取り出いて奉る。
あけて御覧ずれば
「いかに御心苦しうおぼしめされ候らん。ただ今までは別の事も候はず。いつしかたれだれも御恋しうこそ候へ」
とよに長しやかに書きたまへり。
母上これを見たまひて、とかうの事ものたまはず。
御文をふどころに引き入れてうつぶしにぞなられける。
まことに心の中さこそはおはしけめと推量られて哀なり。
かくて遙に時刻推し移りければ、斎藤六、
「時の程も覚束なう候に、帰参らん」
と申せば、母上泣く泣く御返事書いてたまうでけり。
斎藤六暇申して罷り出づ。
乳母の女房せめても心のあられずさに、走り出でていづくを指ともなくその辺を足に任せて泣きありく程に、或人の申しけるは、
「この奥に高雄といふ山寺あり。その聖文覚坊と申す人こそ、鎌倉殿にゆゆしき大事の人に思はれ参らせておはしますが、上臈の御子を御弟子にせんとて、ほしがらるなれ」
と申しければ、嬉しき事を聞きぬと思ひて母上にかくとも申さず、ただ一人高雄に尋ね入り、聖に向ひ奉って、
「ちの中よりおほしたて参らせて、今年十二に成らせたまひつる若君を、昨日武士にとられて候。御命乞ひ請け参らせたまひて、御弟子にせさせたまひなんや」
とて、聖の前に倒伏し、声をも惜まず泣き叫ぶ。
まことにせんかたなげにぞ見えたりける。
聖無慚におぼえければ、事の仔細をとひたまふ。
起きあがって泣く泣く申しけるは、
「平家小松三位の中将の北方の親しうまします人の御子を養ひ奉るを、若中将殿の公達とや、人の申し候ひけん。昨日武士の取り参らせて罷り候ひぬるなり」
と申す。
「さて武士をば誰といひつる」
「北条とこそ申し候ひつれ」
聖、
「いでさらば行き向ひて尋ねん」
とて、つき出でぬ。
この詞を憑むべきにはあらねども、聖のかくいへば、今少し人の心ち出来て急ぎ大覚寺へ帰り参り、母上にかくと申せば、
「身を投げに出でぬるやらんと思ひて、我もいかならん淵河にも身を投げんと思ひたれば」
とて、事の仔細を問ひたまふ。
聖の申しつる様をありのままに語りければ、
「あはれ乞ひ請けて、今一度見せよかし」
とて、手を合せてぞ泣かれける。
聖六波羅に行きむかって事の仔細を問ひたまふ。
北条申されけるは、
「鎌倉殿のおほせには、平家の子孫京中に多く忍んでありと聞く。中にも小松三位中将の子息中御門の新大納言の娘の腹にありと聞く。平家の嫡々なる上年もおとなしかんなり。いかにも尋ね出して、失ふべしと、おほせを蒙って候ひしが、この程末々のをさなき人をば少々取り奉って候つれども、この若君は在所をしり奉らず、尋ねかねて既に空しう罷り下らんとし候つるが、思はざる外、一昨日聞き出して、昨日迎へ奉って候へども、斜めならず美しうおはする間、あまりに最愛くて未だともかうもし奉らで置き参らせて候」
と申せば、聖、
「いでさらば見奉らん」
とて、若君のおはしける処へ参りて見参らせたまへば、二重織物の直垂に、黒木の珠数手に貫き入れておはします。
髪のかかり姿骨柄まことにあてに美しくこの世の人とも見えたまはず。
今夜打ちとけて、寝たまはぬと覚しくて、少し面痩せたまへるにつけていとど心苦しうらうたくぞ覚えける。
聖を御覧じて、何とかおぼしけん。
涙ぐみたまへば、聖もこれを見奉ってそぞろに墨染の袖をぞ絞りける。
縦ひ末の世にいかなるあた敵になるとも、いかがこれを失ひ奉るべきと悲しうおぼえければ、北条にのたまひけるは、
「この若君を見奉るに、先世の事にや候らん、あまりに最愛う思ひ奉り候。二十日が命を延べてたうべ。鎌倉殿へ参りて申し預り候はむ。聖鎌倉殿を世にあらせ奉らんとて我身も流人でありながら院宣伺ひ奉らんとて京へ上るに、案内も知らぬ富士川の尻に夜渡り懸けて、既に押し流されんとしたりし事、高市の山にてひはぎにあひ、手をすて命ばかり生き、福原の籠の御所へ参り、前右兵衛督光能卿に付き奉って院宣申し出だして奉りし時の御約束には、いかなる大事をも申せ、聖が申さん事をば、頼朝が一期の間は叶へんとこそのたまひしか。その後も度々の奉公かつは見たまひし事なれば、事新う始めて申すべきにあらず、契を重うし命を軽うす。鎌倉殿に受領神つきたまはずば、よも忘れたまはじ」
とて、その暁立ちにけり。
斎藤五、斎藤六、これをきき聖を生身の仏の如く思ひて、手を合はせて涙を流す。
急ぎ大覚寺へ参りて、この由申しければ、これを聞きたまひける母上の心の中いかばかりかは嬉しかりけん。
されども鎌倉のはからひなれば、いかがあらんずらむと覚束なけれども、当時聖の憑もし気に申して下りぬる上、二十日の命の延びたまふに、母上乳母の女房少し心も取り延べて、偏に観音の御助けなればと憑もしうぞ思はれける。
かくてあかし暮らしたまふ程に、二十日の過ぐるは夢なれや。
聖はいまだ見えざりけり、何となりぬる事やらんとなかなか心苦しうて、今更又悶え焦れたまひけり。
北条も、
「文覚房の約束の日数もすぎぬ、さのみ在京して、年を暮らすべきにもあらず。今は下らん」
とてひしめきければ、斎藤五、斎藤六、手を握り肝魂を砕けども、聖も未だ見えたまはず、使者をだにも上せねば、思ふばかりぞなかりける。
これら大覚寺へ帰り参りて、
「聖も未だ上りたまはず、北条も暁下向仕り候」
とて、左右の袖を顔に押し当てて涙をはらはらと流す。
これを聞きたまひける母上の心の中いかばかりかは悲しかりけむ。
「哀長しやかならん者の聖の行き逢はん所まで六代を具せよと言へかし。若し乞ひ請けても上らんに先に斬りたらん悲しさをばいかがせむずる。さてとく失ひげなるか」
とのたまへば、
「やがてこの暁の程とこそ見えさせたまひ候へ。その故は、この程御とのゐ仕り候つる北条の家子郎等ども、よに名残惜気に思ひ参らせて或は念仏申す者も候。或は涙を流す者も候」
「さてこの子は何としてあるぞ」
とのたまへば、
「人の見まゐらせ候時は、さらぬ様にもてないて、御珠数をくらせおはしまし候が、人の候はぬ時は、御袖を御顔に押し当てて、涙に咽ばせたまひ候」
と申す。
「さこそあるらめ。をさなけれども、心長しやかなる者なり。今夜限りの命と思って、いかに心細かるらん。暫しもあらば、いとま乞ひて参らんといひしかども、二十日にあまるに、あれへも行かず、これへも見えず。今日より後又何れの日何れの時相見るべしともおぼえず。さて汝等はいかが計らふ」
とのたまへば、
「これはいづくまでも御供仕り、むなしうならせたまひて候はば御骨を取り奉り高野の御山に納め奉り、出家入道して後世を弔ひまゐらせんとこそ思ひなって候へ」
と申す。
「さらばあまりに覚束なう覚ゆるに、とう帰れ」
とのたまへば、二人の者泣く泣く暇申して罷り出づ。
さる程に、同十二月十六日北条四郎若君具し奉って既に都を立ちにけり。
斎藤五、斎藤六、涙にくれて行先も見えねども、最後の所までと思ひつつ泣く泣く御供に参りけり。
北条、
「馬に乗れ」
と云へども乗らず。
「最後の供で候へば、苦しう候まじ」
とて、血の涙を流しつつ脚にまかせてぞ下ける。
六代御前はさしも離れ難くおぼしける母上乳母の女房にも別れ果て、住み馴れし都をも雲井のよそに顧みて、今日を限りの東路におもむかれけん心の中、推量られて哀なり。
駒を早むる武士あれば、我頸討たんずるかと肝をけし、物言ひかはす人あれば、既に今やと心を尽くす。
四宮河原と思へ共、関山をも打ち越えて、大津の浦になりにけり。
粟津が原かと窺へども今日もはや暮れにけり。
国々宿々打ち過ぎ打ち過ぎ行く程に、駿河国にもつきたまひぬ。
若君の露の御命、今日を限りとぞ聞こえける。
千本の松原に武士共皆下り居て御輿舁き居させ、敷皮敷いて若君を居させ奉る。
北条四郎若君の御前近う参りて申されけるは、
「これまで具し参らせ候つるは別の事候はず。若道にて聖にもや行き逢ひ候、と待ち過ごし参らせ候つるなり。御心ざしの程は見えまゐらせ候ぬ。山のあなたまでは、鎌倉殿の御心中をも知りがたう候へば、近江国にて失ひ参らせて候由披露仕り候べし。誰申し候共、一業所感の御事なれば、よも叶はじ」
と泣く泣く申しければ、若君ともかうもその返事をばしたまはず。
斎藤五、斎藤六をちかう召して、
「我いかにもなりなん後、汝等都に帰りて、穴賢、道にてきられたりとは申すべからず。その故は、つひには隠れあるまじけれども、正しうこの有様聞いて、あまりに嘆きたまはば、草の影にても心苦しうおぼえて後世の障りともならんずるぞ。鎌倉まで送りつけて参りて候と申すべし」
とのたまへば、二人の者共肝魂も銷え果て暫しは御返事にも及ばず。
稍あって斎藤五
「君におくれまゐらせて後命生きて安穏に都まで上りつくべしとも覚え候はず」
と涙を抑へてふしにけり。
既に今はの時になりしかば、若君御ぐしの肩にかかりたりけるを、よにうつくしき御手をもて前へ打ち越したまひたりければ、守護の武士ども見まゐらせて
「あないとほし。いまだ御心のましますよ」
とて皆袖をぞぬらしける。
その後西にむかひ手を合はせて静かに念仏唱へつつ頸をのべてぞ待ちたまふ。
狩野工藤三親俊切手にえらばれ、太刀を引き側めて左の方より御後に立ち廻り、既に切り奉らんとしけるが、目も暮れ心も消え果て、いづくに太刀を打つくべしとも覚えず、前後不覚になりしかば、
「仕りつとも覚え候はず、他人におほせ付けられ候へ」
とて、太刀を捨て退きにけり。
「さらば、あれ切れ、これ切れ」
とて、切手を選ぶ処に、墨染の衣著て月毛なる馬に乗ったる僧一人、鞭をあげてぞ馳せたりける。
「あないとほし、あの松原の中に、世にうつくしき若君を、北条殿の斬らせたまふぞや」
とて、者どもひしひしと走り集まりければ、この僧
「あな心う」
とて、手をあがいてまねきけるが、なほおぼつかなさに、きたる笠をぬぎ、指し上げてぞ招ける。
北条
「仔細あり」
とて待つ処にこの僧走りついて、急ぎ馬より飛びおり、暫く息を休めて、
「若君許されさせたまひて候。鎌倉殿の御教書これに候」
とて取り出して奉る。
北条披いて見たまへば、まことや、小松三位中将維盛卿子息尋ね出され候なる高雄の聖御房申請けんと候。
疑をなさず預け奉るべし。
北条四郎殿へ 頼朝とあそばして御判あり。
二三遍推し返し推し返し読んで後、
「神妙神妙」
とて打ち置かれければ、斎藤五、斎藤六はいふに及ばず、北条の家子郎等共も皆悦びの涙をぞ流しける。
長谷六代
さる程に、文覚房もつと出で来たり、若君乞ひ請けたりとて、気色まことにゆゆしげなり。
「『この若君の父三位中将殿は、初度の戦の大将軍なり。誰申すとも叶ふまじ』とのたまひつれば『文覚が心を破っては、いかが冥加もおはすべき』など悪口申しつれども、なほ『叶ふまじ』とて、那須野の狩に下りたまひし間、剰文覚も狩場の供して、漸々に申してこひ請けたり。いかに遅うおぼしつらん」
と申されければ、北条
「二十日とおほせられ候ひし御約束の日数も過ぎ候ひぬ。鎌倉殿の御宥されなきよと存じて、具し奉って下る程に、かしこうぞ、爰にて誤ち仕り候らんに」
とて、鞍置いて引かせたる馬共に斎藤五、斎藤六を乗せて上せらる。
我身も遙に打ち送り奉って、
「暫く御供申したう候へども、鎌倉殿に指して申すべき大事ども候。暇申して」
とて打ち別れてぞ下られける。
まことに情け深かりけり。
聖若君を請けとり奉って、夜を日についで馳せ上る程に、尾張国熱田の辺にて、今年も既に暮れぬ。
明くる正月五日の夜に入って、都へ上り著く。
二条猪熊なる所に、文覚坊の宿房ありければ、そこに入れ奉って、暫く休め奉り、夜半ばかり大覚寺へぞおはしける。
門をたたけども、人なければ音もせず。
築地の壊れより若君の飼ひたまひける白い狗の走り出でて、尾を振って向ひけるに、若君
「母上はいづくにましますぞ」
ととはれけるこそせめての事なれ。
斎藤六、築地を越え、門を開けて入れ奉る。
近う人の住んだる所とも見えず。
若君
「いかにもしてかひなき命を生かばやと思ひしも恋しき人を今一度見ばやと思ふ為なり。こはされば何となりたまひけるぞや」
とて夜もすがら泣き悲しみたまふぞまことに理と覚えて哀なる。
夜を待ち明かして近里の者に尋ねたまへば、
「年の内は大仏参りとこそ承り候ひしか。正月の程は、長谷寺に御籠りと聞こえ候しが、その後は御宿所へ人の通ふとも見えたまはず」
と申しければ、斎藤五急ぎ長谷へ参りて尋ねあひ奉り、この由申しければ、母上、乳母の女房つやつや現とも覚えたまはず、
「これはされば夢かや夢か」
とぞのたまひける。
急ぎ大覚寺へ出させたまひ、若君を御覧じて嬉しさにもただ先立つ物は涙なり。
「疾々出家したまへ」
とおほせられけれども、聖惜しみ奉って、出家もせさせ奉らず。
やがて迎へとて高雄に置き奉り、北の方の幽かなる御有様をも訪ひけるとこそ聞こえし。
観音の大慈大悲は、罪あるも罪なきをも助けたまへば昔もかかるためし多しといへども、ありがたかりし事どもなり。
さる程に北条四郎六代御前具し奉って下りけるに、鎌倉殿御使鏡宿にて行き合ったりけるに、
「いかに」
と問へば、
「十郎蔵人殿、信太三郎先生殿、九郎判官殿に同心の由聞こえ候。討ち奉れとの御気色で候」
と申す。
北条
「吾身は大事の召人具したれば」
とて甥の北条平六時貞が送りに下りけるを、おいその森より
「疾く和殿は帰りてこの人々おはす処聞き出して討って参らせよ」
とてとどめらる。
平六都に帰りて尋ぬる程に十郎蔵人殿の在所知ったりといふ法師出来たり。
かの僧に尋ぬれば
「我はくはしうはしらず、知りたるといふ僧こそあれ」
といひければ、押し寄せてかの僧を搦め捕る。
「これはなんの故に搦むるぞ」
「十郎蔵人殿の在所知ったなれば搦むるなり」
「さらば教へよとこそいはめ。さうなうからむる事はいかに。天王寺にとこそ聞け」
「さらばじんじよせよ」
とて、平六が聟の小笠原十郎国久、殖原九郎、桑原次郎、服部平六を先としてその勢三十余騎、天王寺へ発向す。
十郎蔵人の宿は二所あり。
谷の学頭伶人兼春秦六秦七と云ふ者の許なり。
二手に分けても押し寄せたり。
十郎蔵人は兼春が許におはしけるが、物具したる者共の打ち入るを見て後より落ちにけり。
学頭が娘二人あり。
ともに蔵人のおもひものなり。
これらを捕へて蔵人のゆくへを尋ぬれば姉は
「妹に問へ」
といふ。
妹は
「姉に問へ」
といふ。
俄に落ちぬる事なれば、誰にもよも知らせじなれども、具して京へぞ上りける。
蔵人は熊野の方へ落ちけるが、ただ一人ついたりける侍、足を疾めければ、和泉国八木郷といふ処に逗留してこそ居たりけれ。
かの所の主の男、蔵人を見知って夜もすがら京へ馳せ上り、北条平六につげたりければ
「天王寺の手の者はいまだのぼらず、誰をか遣るべき」
とて大源次宗春といふ郎等をようで
「汝が宮立てたりし山僧はいまだあるか」
「さ候」
「さらば呼べ」
とて、喚ばれければ、件の法師出来たり。
「十郎蔵人のまします。討って鎌倉殿に参らせて御恩蒙りたまへ」
と云ひければ、
「承り候ぬ。人をたび候へ」
と申す。
「やがて大源次下れ、人もなきに」
とて舎人雑色人数僅に十四五人相そへてつかはす。
常陸房正明と云ふ者なり。
和泉国に下りつきかの家に走り入って見れどもなし。
板敷打ち破ってさがし、塗ごめの内を見れどもなし。
常陸房大路に立て見れば、百姓の妻とおぼしくて長敷き女の通りけるを捕へて、
「この辺に恠しばうたる旅人のとどまったる処やある。いはずば切って捨てん」
と云へば、
「ただ今さがされ候つる家にこそ夜辺まで世に尋常なる旅人の二人とどまって候つるが、今朝など出でて候ふやらん。あれに見え候ふ大屋にこそ今は候ふなれ」
と云ひければ、常陸房黒革威の腹巻の袖著けたるに大太刀帯いてかの家に走り入ってみれば、歳五十ばかりなる男のかちの直垂に折烏帽子著て唐瓶子菓子などとりさばくり、銚子どももて酒勧めむとする処に、物具したる法師の打ち入るを見て、かいふいて逃げければやがて続いて逐ひ懸けたり。
蔵人
「あの僧。や、それは在ぬぞ。行家はここにあり」
とのたまへば、走り帰りて見るに白い小袖に大口ばかり著て、左の手には金作りの小太刀をもち、右の手には野太刀の大なるを持たれたり。
常陸房
「太刀投げさせたまへ」
と申せば、蔵人大いに笑はれけり。
常陸房走り寄ってむずと切る。
丁と合せて跳り退く。
又寄って切る。
丁と合せてをどりのく。
寄り合ひ寄り逃き一時ばかりぞ戦うたる。
蔵人後なる塗籠の内へしざり入らんとしたまへば、常陸房
「まさなう候。な入らせたまひ候そ」
と申せば、
「行家もさこそ思へ」
とて又跳り出でて戦ふ。
常陸房太刀を棄てむずと組んでどうと臥す。
上になり下になり、ころび合ふ処に、大源次つと出で来たり。
あまりに遽てて帯びたる太刀をば抜いて、石を握って蔵人の額をはたと打って打ち破る。
蔵人大いに笑って
「己は下臈なれば。太刀長刀でこそ敵をばうて。礫にて敵打つ様やある」
常陸房
「足を結へ」
とぞ下知しける。
常陸房は敵が足を結へとこそ申しけるに、あまりに遽てて四の足をぞ結うたりける。
その後蔵人の頸に縄を懸けて搦め引き起して押し居たり。
「水参らせよ」
とのたまへば干飯を洗ひて参らせたり。
水をばめして、干飯をばめさず差し置きたまへば、常陸房取って食うてけり。
「和僧は山法師か」
「山法師で候」
「誰といふぞ」
「西塔の北谷法師常陸房正明と申す者で候」
「さては行家に使はれむといひし僧か」
「さ候」
「頼朝が使か。平六が使か」
「鎌倉殿の御使候。まことに鎌倉殿をば討ち参らせんとおぼしめし候ひしか」
「これ程の身になって後思はざりしといはばいかに、思ひしといはばいかに。手次の程はいかが思ひつる」
とのたまへば、
「山上にて多くの事に逢ひて候に、未だこれ程手剛き事に合ひ候はず、よき敵三人に逢うたる心地こそし候つれ」
と申す。
「さて正明をばいかがおぼしめされ候つる」
と申せば、
「それはとられなん上は」
とぞのたまひける。
「その太刀取り寄せよ」
とて見たまへば、蔵人の太刀は一所も切れず、常陸房が太刀は四十二所切れたりけり。
やがて伝馬立てさせ乗せ奉って上るほどに、その夜は江口の長者が許に泊って夜もすがら使を走らかす。
明くる日の午刻ばかり北条平六その勢百騎ばかり旗ささせて下るほどに淀の赤井河原で行き合ったり。
「都へはいれ奉るべからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御気色もその儀でこそ候へ。はやはや御頸をたまはって鎌倉殿の見参にいれて御恩蒙りたまへ」
といへば、さらばとて赤井河原で十郎蔵人の頸を切る。
信太三郎先生義教は醍醐の山に籠ったる由聞きしかば、おし寄ってさがせどもなし。
伊賀の方へ落ちぬと聞こえしかば、服部平六を先として伊賀国へ発向す。
千度の山寺にありと聞こえし間、押し寄ってからめんとするに袷の小袖に大口ばかり著て金にて打ちくくんだる腰の刀にて腹掻き切ってぞ伏したりける。
頸をば服部平六取ってけり。
やがて持たせて京へ上り、北条平六に見せたりければ
「やがて持たせて下り、鎌倉殿の見参に入って御恩蒙りたまへ」
といひければ常陸房服部各頸共持たせて鎌倉へ下り見参に入れたりければ、
「神妙なり」
とて常陸房は笠井へ流さる。
「下りはては勧賞蒙らんとこそ思ひつるに、さこそ無からめ、剰流罪に処せらるる条存外の次第なり。かかるべしと知りたらば、何しか身命を捨てけん」
と後悔すれども甲斐ぞなき。
されども中二年といふに召し返され
「大将軍討たる者は冥加のなければ一旦戒めつるぞ」
とて但馬国に多田庄、摂津国に葉室二箇所たまはって帰り上る。
服部平六平家の祗候の人たりしかば没官せられたりける服部かへしたまはってけり。
六代被斬
さる程に、六代御前はやうやう、十四五にもなりたまへば、みめ容いよいようつくしく、あたりも照り輝くばかりなり。
母上これを御覧じて
「哀れ世の世にてあらましかば、当時は近衛司にてあらんずるものを」
と、のたまひけるこそ余りの事なれ。
鎌倉殿常は覚束なげにおぼして高雄の聖の許へ便宜毎に、
「さても維盛卿の子息、何と候やらむ。昔頼朝を相したまひし様に、朝の怨敵をも滅し会稽の恥をも雪むべき仁にて候か」
と尋ね申されければ、聖の御返事には、
「これは底もなき不覚仁にて候ぞ。御心安うおぼしめし候へ」
と申されけれども、鎌倉殿なほも御心ゆかずげにて
「謀反をだに起こさば、やがて方人せうずる聖の御房なり。但頼朝一期の程は誰か傾くべき、子孫の末ぞ知らぬ」
とのたまひけるこそ怖ろしけれ、母上これを聞きたまひて、
「いかにも叶ふまじ。はやはや出家したまへ」
とおほせければ、六代御前十六と申し文治五年の春のころ、うつくしげなる髪を肩のまはりに鋏み落し柿の衣袴に笈など拵へ聖に暇乞うて修行に出でられけり。
斎藤五、斎藤六も同じ様に出で立て、御供申しけり。
先づ高野へ参り父の善知識したりける滝口入道に尋ね合ひ御出家の次第臨終の有様、委しく聞きたまひて、かつうはその御跡もゆかしとて、熊野へ参りたまひけり。
浜の宮の御前にて父の渡りたまひける山なりの島を見渡して、渡らまほしくおぼしけれ共、波風向かうて叶はねば、力及ばで、眺めやりたまふにも我父はいづくに沈みたまひけんと、沖より寄する白波にも、問ひまほしくぞ思はれける。
汀の沙も父の御骨やらんとなつかしうおぼしければ、涙に袖はしをれつつ塩くむ海士の衣ならね共、乾く間なくぞ見えたまふ。
渚に一夜逗留して念仏申し経読み指の先にて沙に仏の形をかき現して、明ければ貴き僧を請じて父の御為と供養して、作善の功徳さながら聖霊に廻向して亡者に暇申しつつ泣く泣く都へ上られけり。
小松殿の御子丹後侍従忠房は八島の軍より落ちて行く末も知らずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗重を憑んで湯浅の城にぞ籠られける。
これを聞いて平家に志思ひける越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共著き奉る由聞こえしかば、伊賀、伊勢両国の住人等、我も我もと馳せ集る。
究竟の者共数百騎たてこもったる由聞こえしかば、熊野別当、鎌倉殿よりおほせを蒙って両三月が間、八箇度寄せて責め戦ふ。
城の内の兵共命を惜まず、防ぎければ毎度に御方追ひ散らされ、熊野法師数をつくいて討たれにけり。
熊野別当、鎌倉殿へ飛脚を奉って当国湯浅の合戦の事両三箇月が間に八箇度寄って責め戦ふ。
されども城の内の兵共命を惜まず、防ぐ間毎度に味方おひ落されて、敵をしへたぐるに及ばず。
近国二三箇国をもたまはって攻め落すべき由申したりければ、鎌倉殿
「その条、国の費、人の煩なるべし。楯籠る所の凶徒は定めて海山の盗人にてぞあらん。山賊海賊きびしう守護して城の口を固めて守るべし」
とぞのたまひける。
その定にしたりければ、げにも後には人一人もなかりけり。
鎌倉殿謀に
「小松殿の君達の一人も二人も生き残りたまひたらんをば扶け奉るべし。その故は池の禅尼の使として頼朝を流罪に申し宥められしは偏にかの内府の芳恩なり」
とのたまひければ、丹後侍従六波羅へ出でてなのられけり。
やがて関東へ下し奉る。
鎌倉殿対面して
「都へ御上り候へ。片ほとりに思ひ当て参らする事候」
とてすかし上せ奉り追様に人を上せて勢多の橋の辺にて切ってけり。
小松殿の君達六人の外に土佐守宗実とておはしけり。
三歳より大炊御門の左大臣経宗卿の養子にて異姓他人になり、武芸の道をば打ち棄てて文筆をのみ嗜んで今年は十八になりたまふを鎌倉殿より尋ねはなかりけれども、世に憚って追ひ出されたりければ、先途を失ひ大仏の聖俊乗房のもとにおはして
「我はこれ小松の内府の末の子に土佐守宗実と申す者にて候。三歳より大炊御門左大臣経宗養子にして異姓他人になり、武芸のみちをうち捨て、文筆をのみたしなんで生年十八歳に罷り成り。鎌倉殿より尋ねらるる事は候はねども、世におそれておひ出されて候。聖の御房御弟子にせさせたまへ」
とて髻推し切りたまひぬ。
「それもなほ怖ろしうおぼしめさば鎌倉へ申して、げにも罪深かるべくはいづくへも遣せ」
とのたまひければ、聖最愛く思ひ奉って出家せさせ奉り、東大寺の油倉と云ふ所に暫く置き奉って関東へこの由申されけり。
「何様にも見参してこそともかうもはからはめ。先づ下し奉れ」
とのたまひければ、聖力及ばで関東へ下し奉る。
この人奈良を立ちたまひし日よりして飲食の名字を絶って湯水をも喉へいれず、足柄越えて関本と云ふ所にてつひに失せたまひぬ。
「いかにも叶ふまじき道なれば」
とて思ひ切られけるこそ怖ろしけれ。
さる程に建久元年十一月七日鎌倉殿上洛して、同九日正二位大納言になりたまふ。
同十一日大納言の右大将を兼じたまへり。
やがて両職を辞して十二月四日関東へ下向。
建久三年三月十三日法皇崩御なりにけり。
御歳六十六。
瑜伽振鈴の響はその夜を限り、一乗案誦の御声はその暁に終りぬ。
同六年三月十三日大仏供養あるべしとて二月中に鎌倉殿又御上洛あり。
同十二日大仏殿へ参らせたまひたりけるが、梶原を召して
「手かいの門の南の方に大衆なん十人を隔てて怪しばうだる者の見えつる。召し捕って参らせよ」
とのたまひければ、梶原承ってやがて召し具して参りたり。
鬚をば剃って髻をば切らぬ男なり。
「何者ぞ」
ととひたまへば、
「これ程運命尽き果て候ぬる上はとかう申すに及ばず。これは平家の侍薩摩中務家資と申す者にて候」
「それは何と思ひてかくはなりたるぞ」
「もしやとねらひ申し候つるなり」
「志の程はゆゆしかりけり」
とて供養果てて都へ入らせたまひて、六条河原にて切られにけり。
平家の子孫は去んぬる文治元年冬のころ一つ子二つ子をのこさず腹の内をあけて見ずと云ふばかりに尋ね取って失ひてき。
今は一人もあらじと思ひしに、新中納言の末の子に伊賀大夫知忠とておはしき。
平家都を落ちし時三歳にて棄て置かれたりしを乳母の紀伊次郎兵衛為教養ひ奉ってここかしこに隠れありきけるが、備後国大田といふ所に忍びつつ居たりけり。
やうやう成人したまへば、郡郷の地頭守護恠しみける程に都へ上り法性寺の一の橋なる所に忍んでおはしけり。
爰祖父入道相国自然の事のあらん時城廓にもせんとて堀を二重に堀って四方に竹を栽ゑられたり。
逆茂木引いて昼は人音もせず、夜になれば尋常なる輩多く集まって詩作り歌を読み管絃などして遊びける程に何としてか漏れ聞こえたりけん、そのころ人のおぢ怖れけるは一条の二位入道義泰といふ人なり。
その侍に後藤兵衛基清が子に新兵衛基綱
「一の橋に違勅の者あり」
と聞き出して、建久七年十月七日辰の一点にその勢百四五十騎一の橋へ馳せ向ひ、をめき叫んで攻め戦ふ。
城の内にも三十余人ありける者共大肩脱に袒いで竹の陰より差し詰め引き詰めさんざんに射れば、馬人多く射殺されて面を向ふべき様もなし。
「さる程に一の橋に違勅の者あり」
と聞き伝へ在京の武士共我も我もと馳せつどふ。
程なく一二千騎になりしかば、近辺の小家を壊ち寄せ堀を填めをめき叫んで攻め入りけり。
城の内の兵共打物抜いて走り出で、或は討ち死にする者もあり、或は痛手負うて自害する者もあり。
伊賀大夫知忠は生年十六歳に成られけるが、痛手負うて自害したまひたるを乳母の紀伊次郎兵衛入道膝の上に舁き乗せ、涙をはらはらと流して高声に十念唱へつつ腹掻き切ってぞ死にける。
その子の兵衛太郎、兵衛次郎共に討ち死にしてんげり。
城の内に三十余人ありける者共大略討ち死に自害して館には火を懸けたりけるを武士共馳せ入って手々に討ちける頸共太刀長刀の先に貫き二位入道殿へ馳せ参る。
一条の大路へ車遣はし出して頸共実検せらる。
紀伊次郎兵衛入道の頸をば見知ったる者も少々あり。
伊賀大夫の頸、人いかが見知り奉るべき。
この人の母上は治部卿局とて八条女院に候はれけるを迎へ寄せ奉って見せ奉りたまふ。
「三歳と申す時、故中納言に具せられて西国へ下りし後は生きたり共死にたりともその行方を知らず、但故中納言の思ひ出づる所々のあるはさにこそ」
とて泣かれけるにこそ伊賀大夫の頸とも人知ってげれ。
平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は但馬国へ落ち行きて気比四郎道弘が聟になってぞ居たりける。
道弘越中次郎兵衛とは知らざりけり。
されども錐嚢にたまらぬ風情にて夜になれば、しうとが馬引き出いて馳せ引きしたり。
海の底十四五町二十町潜きなどしければ、地頭守護恠しみける程に何としてか漏れ聞こえたりけん。
鎌倉殿御教書を下されけり。
「但馬国の住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中次郎兵衛盛嗣当国に居住の由きこしめす。めし進らせよ」
とおほせ下さる。
気比四郎は朝倉の大夫が聟なりければ、呼び寄せて
「いかがして搦めんずる」
と議するに、湯屋にてからむべしとて湯に入れてしたたかなる者五六人おろし合せてからめんとするに、取っつけば投げ倒され、起き上がれば蹴倒さる。
互ひに身は湿りたり、取りもためず。
されども衆力に強力叶はぬ事なれば、二三十人はと寄って太刀のみね長刀の柄にて打ち悩まして搦め捕る。
やがて関東へ参らせたりければ、御前に引き居させて事の子細を召し問はる。
「いかに汝は同じ平家の侍と云ひながら故親にてあんなるに、何とてしなざりけるぞ」
「それはあまりに平家の脆く滅びて在し候間、若しやとねらひ参らせ候つるなり。大刀のみの好をも征矢の尻の鉄好をも鎌倉殿の御為とこそ拵へ持って候つれども、これ程に運命尽き果て候ぬる上はとかう申すにおよび候はず」
「志の程はゆゆしかりけり。頼朝を憑まば助けて使はんはいかに」
とおほせければ、
「勇士二主に仕へず。盛嗣程の者に御心許したまひては必ず御後悔候べし。ただ御恩には疾々頸を召され候へ」
と申しければ、
「さらば切れ」
とて由井の浜に引き出いて切ってげり。
ほめぬ者こそなかりけれ。
そのころの主上は御遊びをむねとせさせたまひて、政道は一向卿の局のままなりければ、人の愁嘆もやまず。
呉王剣客を好んじかば、天下に疵を蒙る者たえず。
楚王細腰を愛せしかば、宮中に飢ゑて死する女多かりき。
上の好みに下は随ふ間世の危ふき事を悲しんで有心人々は嘆きあへり。
ここに文覚本より怖ろしき聖にて、いろふまじき事にいろひけり。
二の宮は、御学問怠らせたまはず、正理を先とせさせたまひしかば、いかにもして、この宮を位に即け奉らんとはからひけれども、前右大将頼朝卿のおはせし程は叶はざりけるが、建久十年正月十三日、頼朝卿失せたまひしかば、やがて謀反を起こさんとしける程にたちまちに洩れ聞こえて、二条猪熊の宿所に官人共つけられ召し捕って八十に余って後隠岐国へぞ流されける。
文覚京を出るとて、
「これ程老いの波に望んで、今日明日とも知らぬ身を、縦勅勘なりとも都の片辺には置きたまはで隠岐国まで流さるる及丁冠者こそ安からね。つひには文覚が流さるる国へ迎へ申さんずるものを」
と、申しけるこそ怖ろしけれ。
この君はあまりに毬杖の玉を愛せさせたまひければ文覚かやうに悪口申しけるなり。
されば承久に御謀反起こさせたまひて、国こそ多けれ、隠岐国へうつされたまひけるこそ不思議なれ。
かの国にても文覚が亡霊荒れて、常は御物語申しけるとぞ聞こえし。
さる程に六代御前は、三位禅師とて、高雄に行ひすましておはしけるを、
「さる人の子なり。さる人の弟子なり。首をば剃ったりとも、心をばよも剃らじ」
とて、鎌倉殿より頻に申されければ、安判官資兼におほせて召し捕って、関東へぞ下されける。
駿河国の住人岡辺権守泰綱におほせて、田越河にて、切られてけり。
十二の歳より三十に余るまで保ちけるは、偏に長谷の観音の御利生とぞ聞こえし。
それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ。