
このページでは、『源氏物語』第28帖「野分」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第28帖「野分」原文全文をご覧ください。
秋の六条院を襲う野分
中宮のお住まいの庭には、今年も秋の花々が植えられていたが、その美しさはいつもの年にもまして見事だった。ありとあらゆる種類の花を取り集め、趣のある黒木や赤木の垣根を交ぜて結い、同じ花でも枝ぶりや姿に変化をつけてある。朝夕、露に濡れて光るさままで尋常ではなく、まるで玉を一面に散らしたような野辺が作り上げられていた。
それを眺めていると、春の山の美しささえ忘れてしまいそうになる。涼やかで趣深く、心までどこかへ誘われていくようだった。
昔から春と秋のどちらが優れているかと争えば、秋に心を寄せる人のほうが多かったという。ところが六条院に名高い春の御殿ができてからは、そちらの花園に心を奪われる人も多くなった。それが今、この秋の庭を見て、また秋へと気持ちを移していく。その移ろいやすさは、まるで世の中そのもののようでもあった。
中宮もこの庭をたいそうお気に召し、里に下がっている間に管弦の遊びなども催したいと思っていた。けれど八月は亡き前坊の御忌月なので、そんなことをするわけにもいかない。物足りなく思いながら日を過ごし、いよいよ花の色が深まっていくのを眺めていたところへ、その年は例年にもない激しい野分が、空の色まで変えて吹き出した。
花が風にしおれていくのを、それほど花に執着のない人でさえ、「まあ、ひどい」と気を揉まずにはいられない。まして中宮は、草むらの露の玉が糸を乱すように飛び散っていくのを見るにつけ、気も狂いそうなほど心配になる。こんな時こそ、秋の空を覆ってしまえるほど大きな袖がほしいところだった。
日が暮れるにつれて風はいよいよ荒れ狂い、何も見えないほど吹き乱れる。あまりにも恐ろしいので御格子もすっかり下ろされたが、そうすると今度は庭の花々がどうなっているのか気がかりで、中宮はたまらなく思っていた。
夕霧、風の隙間から紫の上を見る
南の御殿でも、ちょうど庭の草花を手入れさせていたところへ、この野分が吹きつけてきた。まだ枝も十分に茂らない小萩などは、ずいぶん待ち焦がれていた風とはいえ、これではあまりにも激しすぎる。枝は折れ返り、露一つ残りそうもないほど吹き散らされている。
紫の上は少し端近くへ出て、その様子を眺めていた。
そのころ源氏は姫君のお部屋にいた。そこへ夕霧が参上し、東の渡殿を通りかかった。小障子の上から、妻戸が開いている隙間を何気なく覗き込むと、中に大勢の女房たちが見える。夕霧は思わず足を止め、物音も立てずに見入った。
風があまりに激しいため、屏風などは畳んで脇へ寄せてあった。そのため廂の間まで見通せるようになっている。
そこに座っている紫の上は、どんなものの陰にも紛れそうになかった。気高く、清らかで、あたりがぱっと明るくなるような美しさである。春の曙、霞の隙間から鮮やかな樺桜が咲き乱れているのを見た時とは、こんな感じなのだろうか。
その愛らしさと華やかさは、見ている夕霧の顔にまで色が映ってくるようだった。こんな人がこの世にいるのかと思われるほど、珍しく美しい姿だった。
風に御簾が吹き上げられるのを女房たちが必死に押さえている。その何かがおかしかったのだろうか、紫の上がふっと笑った。その顔がまた、言葉にならないほど美しい。
風に痛めつけられる花々も気の毒で、紫の上はそのまま見捨てて奥へ入ることができずにいる。そばにいる女房たちも、どの人もそれぞれ清らかで美しい姿をしているのだが、夕霧の目がほかへ移ることなどなかった。
――父上が、この方をひどく遠ざけ、私などにはほとんど姿を見せないようになさっているのは、なるほどこういうわけだったのか。この姿を見て、何とも思わない男などいるはずがない。そのことを、父上はあの深いお心で、もしやと用心していらしたのだ。
そう思うと、夕霧は自分のしていることまで恐ろしくなり、その場を離れようとした。
ちょうどそこへ、西側から内の障子を開けて源氏が入ってきた。
「これはひどい風だね。御格子を下ろしてしまいなさい。外には男たちもいるだろうから、こんなふうに中が見えては困る」
源氏が紫の上にそう話しているので、夕霧はもう一度そっと覗いた。
何か言われた紫の上を、源氏も微笑みながら見ている。夕霧からすれば父親のはずなのに、到底そんな年には見えない。若々しく清らかで艶があり、今こそ美しさの盛りとしか思えない姿だった。
紫の上もすっかり大人の女性として美しく整い、どこにも足りないところがない。並んだ二人を見ていると胸に染み入るほどだった。
ところが渡殿の格子まで風に吹き放たれ、夕霧自身の立っているところも露わになってしまった。見つかるのが恐ろしくなり、慌ててそこを離れる。今ちょうど参上してきたようにわざと咳払いをしながら、簀子のほうへ歩み出た。
すると源氏は、「やっぱり。さっきは中が見えていたに違いない」と言い、「あの妻戸も開いていたのか」と、そこで初めて気づいた。
夕霧は心の中で、長年こんなことは一度もなかったのに、風というものは本当に岩まで吹き上げるほどの力を持つものなのだな、あれほど用心深い父上や紫の上まで慌てさせ、自分には思いもよらない、嬉しいものを見せてくれた――と感じていた。
夕霧、野分の夜を三条宮で過ごす
やがて人々がやって来て、「これは本当にひどい風になりそうでございます。艮の方角から吹いておりますので、こちらの御殿はまだ穏やかなほうです。馬場の御殿や南の釣殿などは、危ないくらいでございます」と言い、あちらこちらで大騒ぎしながら対策を始めた。
源氏が夕霧に、「中将はどこから来たのだ」と尋ねた。
「三条宮におりましたところ、人々が、風がひどくなりそうだと申しましたので、こちらが心配になって参りました。あちらでは、こちら以上に心細く思っていらっしゃいます。近ごろではかえって幼い子供のように、風の音まで怖がっておられますので、お気の毒ですから、また戻ろうと思います」
夕霧がそう答えると、源氏も、「そうだね。早く行っておあげなさい。年を取っていくうちに、また子供のようになっていくというのも、普通ならありそうもないことだけれど、確かにそういうものなのだろう」と、三条宮を気の毒に思った。
そして宮へも、「このような騒がしい空模様ですが、この朝臣がおそばにおりますので、私は安心してお任せしております」と、夕霧を通して消息を送った。
道中は、体ごと揉みくちゃにされそうな風だった。それでも夕霧は律儀な人で、三条宮と六条院の両方に参上して顔を見せない日はほとんどない。宮中の物忌などでどうしても籠もらなければならない日を除けば、忙しい公務や節会が重なっていても、まず六条院へ参り、三条宮へ寄ってから出仕するのが常だった。
まして今日はこの空模様である。風に吹き飛ばされそうになりながら、あちらこちらへ駆け回っている夕霧の姿には、しみじみとしたものがあった。
三条宮は夕霧が戻ってきたのを本当に喜び、これほど頼もしいことはないというように迎えた。
「こんな年になるまで、まだこれほど騒がしい野分には遭ったことがありません」
そう言いながら、ただ震えに震えていらっしゃる。
「大きな木の枝が折れる音まで、本当に恐ろしいこと。御殿の瓦まで一枚残らず吹き散らされそうなのに、こうしてあなたがいてくれることが――」
宮はそんなことを繰り返した。
昔はあれほど威勢があり、多くの人々に囲まれていた宮が、今ではこの若い孫を唯一頼りになる人のように思っている。世の中とは、まったく無常なものである。今も宮への世間の敬意がなくなったわけではないが、実の息子である内大臣とは、かえって少し心の距離ができていた。
忘れられない紫の上の面影
夕霧は一晩中、荒れ狂う風の音を聞きながら、何となくもの悲しい気持ちでいた。
いつも心にかけて恋しく思っている雲居雁のことさえ、この夜ばかりは脇へ押しやられ、夕方に見た紫の上の面影がどうしても忘れられない。
――いったいこれは何という心なのだ。あってはならない思いまで加わったらどうする。恐ろしいことだ。
夕霧は自分で自分を戒め、ほかのことへ考えを移そうとする。けれど、ふとした瞬間にまたあの姿が浮かんでくる。
――昔からこれから先まで探したところで、あれほどの女性がほかにいるだろうか。あんな方を妻にしていらっしゃる父上のところへ、どうして花散里のような方まで女君の一人として肩を並べられたのだろう。あまりにも比べようがない。花散里にはお気の毒なことだけれど。
そう考えるにつけても、さまざまな女性をそれぞれに大切に扱っている父の心の広さが、夕霧には珍しく、立派なものとして思い知らされた。
夕霧はもともとひどく生真面目な性格なので、紫の上を自分がどうこうしようなどという不相応な考えまでは浮かばない。それでも、「同じ一生を送るのなら、あんな人を朝も夕も見ながら暮らしたいものだ。限りある命だって、きっと少しは延びるだろう」と思わずにはいられなかった。
夜明けの六条院へ戻る夕霧
明け方になると風は少し弱まり、村雨のような雨が降り出した。
「六条院では、離れたところにある建物がいくつか倒れたそうです」
そんな知らせまで入ってくる。
夕霧は驚いた。「あれほど広く、建物も数多い六条院では、父上のお住まいのあたりなら人も大勢いただろうけれど、東の町などは人も少なく、ずいぶん心細かったに違いない」
まだ空がほのぼのと明るみはじめたばかりなのに、夕霧は六条院へ向かった。
道では横殴りの雨が冷たく吹き込んでくる。空の様子ももの寂しく、夕霧は妙に心が宙へ浮いたような気持ちになった。
――これは何なのだ。また、自分の心に一つ、今までなかった思いが加わってしまった。
そう考えれば、やはり紫の上への思いが浮かぶ。
――あまりにも不似合いなことだ。なんと馬鹿げた心なのだろう。
あれこれ自分を責めながら、まず東の御方――花散里のところへ参った。
花散里はすっかり怖がり疲れていた。夕霧はあれこれ言葉をかけて慰め、人を呼んで、壊れたところを修理するよう指図してから、南の御殿へ向かった。
こちらは、まだ御格子も上げられていなかった。
夕霧は源氏のいる部屋の前の高欄に寄りかかり、庭を見渡した。
山の木々はすべて風になぎ倒されるように傾き、枝も数多く折れ伏している。草むらなどは言うまでもない。桧皮や瓦、ところどころの立蔀や透垣まで、あちらこちらへ乱雑に吹き飛ばされていた。
わずかに朝日が差しはじめると、荒れ果てた庭の露が、まるで悲しげな顔をするようにきらきら光った。空には冷たい霧が一面に漂っている。
夕霧はなぜともなく涙がこぼれ、それをそっと拭って隠し、軽く咳払いをした。
すると奥で、「中将が咳払いをしているようね。まだ朝もずいぶん早いでしょうに」と言って、誰かが起きる気配がした。
そのあと、何の話をしているのか、紫の上の声は聞こえてこない。源氏が笑いながら言った。
「昔は、こちらにも知らせないまま、夜明けに帰ってしまうような別れを経験したものだけれど。今さらそんなことに慣れていただくのは、あなたにはお気の毒だろうね」
しばらく、そんなふうに紫の上と睦まじく話している気配がする。それがまた実に趣深かった。
紫の上の返事そのものは聞こえない。それでも、源氏がほのぼのと明るくなってゆく中で、こんなふうに冗談を言いながら話している言葉を聞いているだけで、二人がどれほど隙間なく結ばれた仲なのか、夕霧にもよくわかった。
源氏の使いで秋好中宮のもとへ
やがて源氏が自分の手で御格子を引き上げた。夕霧はあまりにも身近なところにいるのが気恥ずかしく、少し退いて控えた。
源氏が尋ねる。「どうだった。昨夜、三条宮はあなたが戻って、さぞお喜びになっただろう」
「はい。ほんのちょっとしたことにもすぐ涙を流されるようになっていらっしゃいますので、たいそうお気の毒でございました」
夕霧が答えると、源氏は笑った。
「もうあと何年もおいでになるわけではないだろうから、本当に心を尽くしてお仕えしなさい。内大臣は、宮が愚痴をおっしゃっていたように、それほど細やかに世話をする性質ではないのだろう。妙に華やかで、男らしいことを好む人だからね。親孝行にしても、盛大なことをして人を驚かせるようなところには熱心だが、心の底からしみじみと情を尽くすところは薄い人なのだ。
「もっとも、心には隙がなく、本当に頭のよい人で、後の世まで余るほど才能は比類ない。少々うるさいほど切れる人なのだけれどね。人間というものは、何も欠点のない人には、なかなかなれないものだ」
源氏はそんな人物評までした。
そして、「昨夜はあれほどひどい風だったが、中宮のところには、しっかりした宮司たちがきちんと控えていただろうか」と気にかけ、夕霧を使いにして消息を送った。
「昨夜の風の音を、どのようにお聞きになりましたか。こちらもひどく吹き荒れましたうえ、私は持病の発作まで重なりまして、とても堪えがたく、今もしばらく休んでいるところです」
夕霧は御殿から下り、中の廊の戸を通って中宮の御殿へ向かった。朝ぼらけの夕霧の姿は、実に美しく、清らかだった。
東の対の南側に立って中宮の御前のほうを見ると、御格子はまだ二間ほどしか上げられていない。ほの暗い朝ぼらけの中、御簾を巻き上げて女房たちが座っている。
高欄に寄りかかりながら、大勢の若い女房たちが見える。すっかりくつろいだ顔をはっきり見ればどうなのかわからないが、まだよく見分けもつかない曙の薄明かりの中では、それぞれ色の違う姿が、誰彼となく美しく見えた。
童女たちを庭へ下ろし、虫籠に露を入れさせているらしい。
紫苑や撫子の色を思わせる濃淡の衵に、女郎花色の汗衫など、季節にふさわしい装いの童女が四、五人連れ立っている。あちらこちらの草むらへ寄って、色とりどりの籠を手に歩き回り、風に痛めつけられた撫子などの、いかにも哀れな枝を拾い集めて持ってくる。その姿が霧の中に見え隠れするさまは、たいそう艶やかだった。
風がこちらへ吹いてくる。紫苑をはじめ花々の香りが満ちた空気に、薫物の香まで混じっている。それが中宮のお住まいの気配に触れてきたものかと思うと、何とも素晴らしく感じられ、夕霧まで自然と身なりを意識するような気持ちになる。
その場を離れがたかったが、夕霧は静かに声をかけて歩み出た。
女房たちは露骨に驚いた顔こそしなかったものの、皆すっと奥へ引っ込んだ。
中宮が入内されるころ、まだ夕霧が幼い童だった時分から馴染んでいた女房もいるので、まったくよそよそしい仲でもない。源氏からの消息を中宮へ取り次いでもらい、宰相の君や内侍などの気配がすると、夕霧は昔なじみの私的な話も小声で交わした。
それにしても、この御殿にはやはり高貴な方がお住まいになる独特の気配がある。それを感じるにつけても、夕霧にはさまざまなことが思い出された。
源氏、夕霧が紫の上を見たことに気づく
南の御殿ではすっかり御格子を上げ、源氏が、昨夜は見捨てがたいほど美しかった花々が、今日は行方もわからないほどしおれ伏しているのを眺めていた。
夕霧は御階のところに座り、中宮からの返事を伝えた。
「荒れ狂う風まで、こちらからお防ぎいただけるものかと、年甲斐もなく心細く思っておりましたが、今はもう安心いたしました」
そんな御返事だった。
源氏は、「あの宮は妙にか弱くていらっしゃるからね。昨夜は女同士であの恐ろしい風をお聞きになったのだから、確かに、私が何もして差し上げないとお思いになっただろう」と言い、そのまま中宮の御殿へ参上することにした。
直衣などを着替えるため、御簾を引き上げて部屋へ入る。その時、短い御几帳を引き寄せた向こうから、ほんのわずかに女の袖口が見えた。
夕霧は、あれこそ昨日見た紫の上の袖なのだろうと思った。その途端、胸がどきどきと鳴った。それが自分でも嫌で、わざとほかの方向へ目をやった。
源氏は鏡で自分の姿などを見ながら、紫の上にひそひそと話している。
「中将は、朝の姿もずいぶん清らかだね。今くらいの年なら、まだ角ばった少年らしさがあってもよさそうなのに、あまり不格好には見えない。これも親の欲目というものかな」
そう言いながら、自分自身の顔については、まだ老けることもなく悪くない、と見ているらしい。
中宮にお目にかかるため、源氏は念入りに身なりを整えた。
「中宮の前へ出るのは、どうも気恥ずかしいものだよ。特にこれという派手なところをお見せになる方ではないのに、かえって奥深く、こちらが自然と気を配らずにいられない。とてもおっとりした、女らしい方なのに、それでいて物事をよく察していらっしゃるからね」
そう話しながら出て行こうとすると、夕霧が何か深く考え込み、すぐには我に返りそうもない様子で座っているのが目に入った。
人の心を読むことに敏い源氏の目には、どう映ったのだろう。源氏は引き返し、紫の上に尋ねた。
「昨日、あの風の騒ぎに紛れて、中将にあなたの姿を見られたのではないかな。あの戸が開いていたからね」
紫の上は顔を赤らめた。
「どうしてそんなことがありましょう。渡殿のほうには、人の気配などまったくしませんでしたもの」
源氏は「やはり怪しいな」と一人ごち、そのまま中宮の御殿へ向かった。
源氏が御簾の内へ入ってしまうと、夕霧は渡殿の戸口に女房たちの気配がするのをよいことに、近寄って少し話をしたり、冗談を言ったりした。それでも胸の中にはいろいろと思い悩むことがあり、いつもより沈んだ様子で座っていた。
明石の御方の寂しさ
夕霧はそこから北へ通り、明石の御方のお住まいのほうを眺めた。
頼りになりそうな家司などの姿も見えず、慣れた下仕えの女たちが、草の中に入って歩き回っている。童女たちも、かわいらしい衵姿のまま気楽に庭へ出ていた。
明石の御方が特に心を配って植えた龍胆や朝顔の絡み合う垣根も、野分ですっかり散り乱れている。それをあちらこちらから引き起こし、まだ残っている花を探しているらしい。
明石の御方は、荒れた庭を見てしみじみとした気持ちになり、箏の琴を何とはなしに掻き鳴らしながら、少し端近くに座っていた。
そこへ源氏の前駆の声がした。
明石の御方は、くつろいで少しくたびれた姿だったので、急いで小袿を引きかけた。その一瞬で、日常の姿からきちんとした姿へ変わる身のこなしは、さすがに見事である。
源氏は端近くへ少し腰を下ろし、昨夜の風は大丈夫だったかと尋ねただけで、何事もなかったようにまた立ち去ってしまった。
明石の御方には、いかにも物足りなく、残念に思われた。
おほかたに荻の葉は過ぐる風の音も憂き身ひとつにしむ心地して
荻の葉の上を、誰にでも同じように吹き過ぎてゆく風なのに、その音までが、なぜかつらい私一人の身にだけ、深く染みてくるように感じられます。
明石の御方は、一人そう口ずさんだ。
玉鬘を覗き見た夕霧
西の対では、玉鬘が昨夜の風を怖がりながら夜を明かした。その名残で朝寝をしてしまい、今ごろになってようやく鏡などを見て身づくろいをしていた。
源氏は、「大げさに前駆をさせないように」と命じ、ほとんど物音も立てずに入ってきた。
屏風なども皆畳み寄せたままで、室内はまだ少し乱れている。そこへ朝日が明るく差し込み、玉鬘はくっきりと清らかな姿で座っていた。
源氏はすぐそばへ座り、いつものように昨夜の風を話の種にしながら、結局はあの恋心へ話を持っていき、煩わしい冗談を言いかける。
玉鬘はとうとう我慢できなくなり、「こんなふうにいつも困らせられるものですから、昨夜の風にでも、そのままどこかへ吹き飛ばされてしまいたいくらいでございました」と、少しむっとして言った。
源氏は楽しそうに笑った。
「風につられてどこかへ飛んでいってしまうなんて、それではあまりに軽々しいでしょう。それでも、きっとどこか最後に落ち着くところくらいはあるでしょうけれど。だんだんあなたも、こんなことを言い返すようになったんだね。まあ、無理もないことだ」
言ってしまってから玉鬘も、あら、ずいぶん思ったままを口に出してしまった、と気づき、自分でも微笑んだ。
その笑った顔の色艶と輪郭が、また実に美しい。頬は酸漿の実のようにふっくらとして、髪のかかる隙間から見える顔がかわいらしい。ただ、目元があまりにも大らかでやわらかく見えるところだけは、最高に気品がある顔立ちとは少し違った。それ以外は、どこにも欠点をつけようがない。
そのころ夕霧は、女房たちとかなり親しげに話をしていた。以前から、何とか一度この西の対の姫君の顔を見てみたいと思い続けていたのである。
隅の間の御簾には几帳が添えてあるものの、昨日の風のあとでまだ少し乱れている。夕霧はそっと御簾を持ち上げ、隙間から中を覗いた。
邪魔になるものも脇へ片づけられているので、驚くほどよく見える。
源氏が玉鬘に冗談を言いかけている様子は、どう見てもただならない。
――これは妙なことだ。父と娘だと聞いているのに、こんなふうに懐から離さないほど近くにいてよいものだろうか。
夕霧は目を奪われた。
見つかったら大変だと怖くはある。それでも不審に思う心を抑えきれず、そのまま見ている。
玉鬘は柱の陰に少し身をそらすようにしていたが、源氏が近くへ引き寄せる。その時、玉鬘の髪が波のように寄り、さらさらとこぼれかかった。
玉鬘自身はひどく迷惑そうで、苦しそうな顔をしている。それでも性格がおっとりしているので、激しく拒むことはなく、どこか穏やかな姿のまま源氏の近くにいる。
――やはり、これは普通の親子の親しさとは違う。なんということだ。いったいどういう仲なのだろう。父上は、思いも寄らないところにまで心の届く方だから、幼いころから自分の娘として育ててきた人でないだけに、こんな思いまで加わったのだろう。なるほど、そういうことだったのか。いや、なんとも嫌なことだ。
そんなふうに父を非難する自分の心も、夕霧には恥ずかしくなった。
なぜなら、目の前の玉鬘の姿を見れば、「たとえ本当に自分の姉妹だとしても、母親の違う姉妹なのだから」と考えてしまいそうなほど美しい。この姿を前にして、まったく心を誤らずにいられるものだろうか――そんな気さえするのである。
昨日見た紫の上の美しさには、やはり少し及ばない。それでも、見るだけでこちらまで微笑みたくなるような華やかさでは、肩を並べてもよいほどに見えた。
八重山吹が一面に咲き乱れ、その上に露がかかって夕日に輝いている――そんな景色が、ふと心に浮かぶ。季節外れのたとえではあるけれど、それでもそう思わせる美しさだった。
花にはどんなに美しいものでも盛りに限りがあり、乱れたしべなども混じる。けれど、本当に美しい人の顔というものは、たとえるものさえないのだと夕霧は思った。
近くへ女房も出てこないので、源氏は玉鬘とひどく親密に、小声で語り続けていた。やがてどういう気持ちになったのか、少し真面目な様子になって立ち上がった。
その時、玉鬘が小さく口ずさんだ。
吹き乱る風のけしきに女郎花しをれしぬべき心地こそすれ
こんなに荒々しく吹き乱れる風に責められては、女郎花のような私は、このまましおれてしまいそうな気がいたします。
全部はよく聞こえなかったものの、その歌を夕霧はかすかに耳にした。父のすることは腹立たしいのに、それでもこの二人のやり取りにはどこか心を惹かれ、もっと最後まで見届けたい気持ちになる。
けれど、あまり近くにいたことを源氏に知られたくはない。夕霧はそこで立ち去った。
源氏の返歌は――
下露になびかましかば女郎花荒き風にはしをれざらまし
下露である私の思いに素直になびいてくれたなら、女郎花のあなたも、こんな荒い風にしおれることはないでしょうに。
しなやかに風へなびく若竹を御覧なさい。
そんな言葉まで続いたようだが、夕霧が聞き違えたのだろうか。はっきりとは聞き取れなかった。
花散里のもとに見る、もう一つの美しさ
源氏は西の対から、そのまま東の御方――花散里のところへ渡った。
朝の少し冷え込む時刻なので、年配の女房たちが大勢、くつろいだ様子で裁ち物をしている。細櫃のようなものに綿を引きかけ、それを弄びながら作業する若い女房たちもいた。
とても清らかな朽葉色の薄物や、今様色をこの上なく美しく砧で打った布などが、そこらに広げてある。
源氏は、「これは中将の下襲かな。宮中の壺前栽の宴も、これでは中止になっただろうね。あれほど何もかも風に吹き散らされてしまっては、何ができるだろう。今年の秋は、寂しい秋になりそうだ」などと話した。
何に使うものなのだろうか、さまざまな色の布がどれも実に美しく取り合わせてある。
源氏は、こういう色合わせや衣装のことについては、花散里も南の御殿の紫の上に少しも劣らない、と改めて思った。
花文綾を、ちょうどこの時季に摘んだ花で淡く染め出した直衣も、まさにこうあってほしいと思うほど見事な色だった。
「こういうものなら、中将に着せてやるとよいでしょう。若い人が着るのに感じがいい」
源氏はそんな話を花散里としてから、また別の御殿へ渡っていった。
夕霧が垣間見る明石の姫君
父に付き添って、あちらの御殿、こちらの御殿と巡る夕霧は、そろそろ少しじれったくなっていた。書きたい手紙もあるのに、もう日が高くなっている――そんなことを思いながら、姫君のお部屋へ立ち寄った。
乳母が、「姫君はまだあちらにいらっしゃいます。昨夜の風をひどく怖がられまして、今朝はまだ起き上がることもおできになりませんでした」と言った。
夕霧は、「昨夜はあまりに騒がしかったので、こちらで宿直しようかとも思ったのだけれど、三条宮が本当にお心細そうでいらしたからね。それで、雛の御殿のほうはどうだったの」と尋ねた。
女房たちは笑った。
「姫君は、扇の風が少し当たるだけでも大変なことのようにお思いになるのですもの。昨夜など、本当にひどく吹き乱れましたから。雛の御殿を守るのに、こちらも困り果てておりました」
夕霧は、「あまり立派すぎない紙はありませんか。そちらの硯も貸してください」と頼んだ。
女房が御厨子のところへ行き、紙を一巻と、硯の蓋に硯を載せて差し出す。
夕霧は、「いや、これは少し立派すぎるな」と言ったものの、先ほど北の御殿で見たものなどを思えば、これくらいならまあ普通だろうという気がして、手紙を書き始めた。
紫色の薄様だった。
墨も念入りに磨らせ、筆先を確かめながら、一字一字、細やかに書いてゆく。その様子はいかにも風情がある。ただ、文章の言い回しだけは妙に型が決まっていて、少し鼻につくようなところがある人だった。
風騒ぎむら雲まがふ夕べにも忘るる間なく忘られぬ君
風が騒ぎ、群れ雲の乱れた昨夜のような夕べにも、ほんのひとときも忘れることのできなかったあなたです。
風に乱れた苅萱に結びつけると、女房たちは、「交野の少将なら、せめて紙の色くらいは歌に合わせて整えたでしょうに」などとからかった。
夕霧は、「私だって、それくらいの色の違いはわかるよ。いったいどこの野辺の花のことを言っているのだ」などと答える。
こういう女房たちを相手にしていても、夕霧は言葉数が少なく、簡単に気を許した様子を見せない。いかにも生真面目で、気高い若君だった。
さらにもう一通手紙を書き、馬の助に渡した。馬の助が、かわいらしい童や、使い慣れた随身などとひそひそ話をしてから受け取るので、若い女房たちは、いったい誰への手紙なのだろうとひどく気になっている。
その時、「姫君がお渡りになります」と女房たちの間がざわめき、几帳を直したりしはじめた。
夕霧は、昨日から今日にかけて見た美しい女君たちと、この姫君の顔もぜひ比べてみたいと思った。普段ならこんな好奇心は持たない人なのに、この時ばかりは無理をして妻戸の御簾へ身を寄せ、几帳のほころびから覗いた。
多くの人が周りを歩いていて、よく見えない。ほんの一瞬、物の陰から姫君がそのまま通り過ぎる姿が見えただけだった。
薄い色の衣を着て、髪はまだ背丈より少し短く、その毛先が広がるように流れている。体つきはほっそりと小さく、いかにもかわいらしく、守ってあげたくなるような姿だった。
――一昨年ごろ、ほんのたまに少しだけお姿を見た時から、また見違えるほど美しく成長されたらしい。この方が盛りの年になったら、いったいどれほど美しくなるのだろう。
夕霧はそんなことを思った。
昨日から見てきた女性たちを、紫の上は桜、玉鬘は山吹とたとえるなら、この姫君は藤の花だろうか。高い木から咲きかかり、風にやわらかくなびく藤の花の美しさとは、まさにこんな感じなのだろう。
――こういう人たちを、自分の思うままに朝も夕も眺めて暮らせたらどんなにいいだろう。自分だって、この人々を見てもおかしくない身分ではあるのに、一人一人の間にははっきりとした隔てがある。それがつらい。
そんなことを考えているうちに、日ごろの生真面目な心まで、少しばかりどこかへ浮き立っていくような気がする夕霧だった。
三条宮で内大臣と顔を合わせる
夕霧は祖母の三条宮のところへも参った。
宮は静かに仏道のお勤めをしていらした。こちらにもまずまず若い女房などは仕えているものの、六条院の華やかな女君たちの周りとは、立ち居振る舞いも、雰囲気も、衣装も比べようがない。
ただ、顔立ちの美しい尼君たちが、墨染めの衣を着てひっそりと控えているのは、こういう場所ではかえって趣があり、しみじみとした風情があった。
そこへ内大臣も参上した。
灯りなどをともして、皆でゆっくり話をする。
三条宮は、「姫君をもう長いあいだ見ていない。それが情けなくてたまりません」と言って、ただもう泣き続けた。
内大臣は、「近いうちにこちらへ参らせましょう。ただ、本人が自分から物思いをしているような様子で、困ったことにずいぶん痩せてしまっております。娘などというものは、よくよく考えれば持つものではありませんね。何があっても、こちらばかり心を使い果たしてしまいます」と言った。
けれど、その口ぶりにはまだ雲居雁のことをすっかり許したわけではない気配がある。宮はそれをつらく思い、それ以上強く頼むこともできなかった。
内大臣は、そのついでのように、今度は笑いながら言った。
「それに私はこのごろ、ひどく扱いに困る娘を一人手に入れてしまいましてね。もう持て余しております」
三条宮は、「まあ、妙なことを言うものですね。『娘』という名がつくだけで、そんなに性質の悪い人になることがあるのですか」と尋ねた。
内大臣は、「それがもう、実に見苦しいほどなのですよ。何とか一度、宮にも御覧に入れたいものです」と申し上げた――ということである。
