万葉集「巻4-555番歌」の原文・現代語訳・作者・万葉歌碑

君がためみし待酒まちざけやすの野に独りや飲まむ友無しにして

『万葉集』の第4巻に収録されているこの歌は、大伴旅人が天平元(729)年頃に丹比たぢひのあがたもりへ贈った餞別の歌です。

当時の大伴旅人は大宰府の長官で、丹比県守は次官。

部下であり、飲み友達でもあった県守は、異動により都へ帰っていきました。

大宰府に残された旅人は、県守と一緒に飲もうと用意していたお酒を独り寂しく飲むのでした。

大伴旅人はお酒が大好きだったかも♪

目次

『万葉集』第4巻555番歌の現代語訳

原文

大宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿謌一首

為君醸之待酒安野尒獨哉将飲友無二思手

読み下し文

大宰帥だざいのそち大伴卿のだい丹比たぢひのあがたもり卿の民部卿に遷任するに贈れるうた一首

君がためみし待酒まちざけやすの野に独りや飲まむ友なしにして

現代語訳

大宰府の長官であった大伴旅人おおとものたびとが、大宰だざいの大弐だいにから民部卿に任命されて都へ帰っていった丹比たぢひのあがたもりに贈った歌

君と一緒に飲むために造っていた接待用の酒を、私は安の野で独りで飲むのでしょうか。飲む友もなく。

語釈

  • かむ【醸む】:醸造する。古くは米をかんで唾液で発酵させていた酒を造っていたことから。
  • まちざけ【待酒】:来る人を待って準備しておいた酒。接待用の酒。
  • やすのの【安の野】:現在の福岡県朝倉郡筑前町安野。合併により安野村 → 夜須村 → 筑前町となった。
  • だざいのそち【太宰帥】:大宰府の長官
  • だざいのだいに【大宰大弐】:大宰府の次官。
  • みんぶきゃう【民部卿】:民部省の長官。民部省は戸籍・田畑・租税など、民政全般をつかさどる役所。

大伴旅人はお酒が大好きだった?

気の合う飲み友達が転勤で去っていくのは寂しいですよね。

大伴旅人は大宰帥という一番偉い立場でしたので、飲みに誘う相手はいくらでもいたと思います。

でもやっぱり、お酒は楽しく飲める人と一緒に飲みたい。

「無理やり部下を連れ出して武勇伝を語るような上司ではなかったかも?」

と思うと、とても好感が持てます。


さて、大伴旅人は『万葉集』の78首もの歌が選出されており、そのうちの13首がお酒バンザイな歌。

第3巻に「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」とまとめられています。

その内容が面白くて、

「昔いた7人の賢者たちも欲しいものは酒だった」とか、

「半端な人間であるぐらいなら酒壺になりたい」とか、

「酒を飲まない人間は猿に見える」とか、

「値をつけられないほどの宝といっても酒一杯にどうしてまさろうか」とかとか、

完全なる酒カス思考。

歴史に名を残す偉人にこれだけ「酒はいいぞ!」といわれると、現世を生きる我ら呑兵衛たちも毎日楽しくお酒を飲めますね♪

大伴旅人が詠んだ讃酒歌十三首

  1. しるしなき物をおもはずは一坏ひとつきにごれる酒を飲むべくあるらし
  2. 酒の名をひじりおほせしいにしへおほき聖のことのよろしさ
  3. いにしへななさかしき人どももりせしものは酒にしあるらし
  4. さかしみと物言ふよりは酒飲みてゑひ泣きするしまさりたるらし
  5. 言はむすべせむすべ知らずきはまりてたふときものは酒にしあるらし
  6. なかなかに人とあらずは酒壺さかつぼに成りにてしかも酒にみなむ
  7. あなみにくさかしらをすと酒飲まぬ人をよく見ばさるにかも似る
  8. あたひ無きたからといふとも一坏ひとつきにごれる酒にあに益さめやも
  9. 夜光よるひかたまといふとも酒飲みて心をやるにあにしかめやも
  10. 世の中の遊びの道にすすしくはゑひきするにあるべくあるらし
  11. このにし楽しくあらばむ生にはむしとりにもわれはなりなむ
  12. 生ける者つひにも死ぬるものにあればこのなるは楽しくをあらな
  13. もだをりてさかしらするは酒飲みてゑひきするになほしかずけり

大伴旅人と丹比県守との関係

大伴旅人は天智天皇4(665)年、丹比県守は天智天皇7(668)年の生まれで3つ違い。

大伴旅人は神亀4(727)年頃、63~64歳で大宰府の長官として赴任しますが、一説には左遷といわれています。

当時は藤原不比等の4人の息子たち、藤原四兄弟が政敵の長屋王を排斥しようとしており、大伴旅人は長屋王側についていました。


丹比県守も同時期に大宰府へ下向していました。

民部卿に任命されて平城京へ戻ることが決まったのは、神亀6(729)年2月11日のこと。

藤原四兄弟によって、長屋王が自害に追い込まれた事件(長屋王の変)の直後でした。

その後は藤原四兄弟の政権下で出世していったことから、藤原氏側とする見方もあります。

また、叔父の三宅麻呂が長屋王によって流罪に処せられていたり、兄の池守が長屋王の変の首謀者の一人であったりと、丹比一族としては反長屋王側であったのかもしれません。


しかし、長屋王をめぐる立場が逆であったとしても、大伴旅人と丹比県守は仲が良かったのではないかと思います。

一つは大伴旅人の妻の一人が、丹比郎女たぢひのいらつめであること。

丹比郎女は県守の娘といわれており、県守は大伴旅人の義父ということになります。

もう一つは二人とも同時期に戦に出ていること。

養老4(720)年、大伴旅人は隼人の反乱鎮圧のため九州へ、丹比県守は蝦夷の反乱鎮圧のため東北へ、両者とも持節大将軍として遠征した経験があります。

持節大将軍に任命したのは長屋王でした。


都から遠く離れた大宰府の地で、上司と部下、3歳違いの先輩後輩、義理の親子であり、持節大将軍として戦争を経験した二人。

お酒を飲みながら、話が尽きることはなかったでしょう。

県守が藤原政権下で出世していったのは兄池守の功績によるものであり、県守自身は長屋王に対して特に悪い感情はなかったのではないかと思います。


大伴旅人は天平2(730)年に大納言として都に戻り、翌年の天平3(731)年7月25日に67歳で亡くなりました。

丹比県守は天平9(737)年6月23日、70歳で臨終。

死因は天然痘といわれています。

天平9(737)年は天然痘が大流行し、藤原四兄弟も全員が死亡。

藤原氏の権勢は急速に衰えていく中、四兄弟の一人であった藤原宇合の息子、藤原広嗣が反乱を起こすなど、時代は変わっていきました。

『万葉集』第4巻555番歌の万葉歌碑

 為君醸之待酒安野尒獨哉将飲友無二思手

 君がためみし待酒まちざけやすの野に独りや飲まむ友なしにして 

現在、この歌が刻まれた万葉歌碑が福岡県朝倉郡筑前町にあります。

筑前町公民館支館の敷地内にあり、車も停められますので、万葉歌碑めぐりが好きな方はぜひ行ってみてください♪

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この記事を書いた人

生きづらさを抱えていた30代の頃、物事の本質を知ろうとしているうちに、古典文学へとたどり着きました。中高生の頃は、受験のためでしかなかった古文・漢文。その魅力にもっと早く気づきたかった人生でした。今はライフワークとして、古典文学の現代語訳や歴史探訪を楽しんでいます。

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