新院崩御
治承五年正月一日、内裏では、東国の戦乱と南都の火災のため、朝拝が取りやめられ、主上のお出ましもなかった。楽器も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず、吉野の国栖も参らず、藤氏の公卿は一人も参上しなかった。氏寺が焼け失せたためである。二日の殿上での酒宴もなかった。男も女もひっそりと静まり、宮中は忌まわしく見えた。仏法も王法も、ともに尽きてしまったことは、あまりにも嘆かわしかった。一院は、次のようにおっしゃった。
「私は、十善の残る功徳によって、万乗の尊い帝位を保ってきた。四代の帝王は、思えば、わが子や孫である。どうして、国のあらゆる政務を止められ、むなしく年月を送っているのだろう」
とお嘆きになった。
同じ五日、南都の僧綱たちは官職を解かれ、公の法会への招請を止められ、所職を取り上げられた。僧たちは、老人も若者も、ある者は射殺され、ある者は斬り殺され、ある者は煙の中から出られず、炎にむせんで、多くが亡くなった。わずかに残った者たちは山林に身を隠し、もとの所にとどまる者は、一人もいなかった。興福寺別当の花林院僧正永円は、仏像や経巻が煙となって上るのを見て、ああ、何ということかと、心が乱れ、心を痛めたことから病みつき、まもなく亡くなられた。この僧正は、優雅で情け深い方だった。ある時、ほととぎすが鳴くのを聞いて、
聞くたびに新鮮に感じられるので、ほととぎすの声は、いつも初音を聞く心地がする。
という歌を詠み、初音僧正と呼ばれた。
せめて形だけでも御斎会は行うべきだとして、参加する僧の名が検討された。南都の僧綱は官職を解かれたので、北の都の僧綱によって行うべきかと、公卿たちが話し合った。しかし、そうだからといって、南都をすっかり見捨てられるわけではなかった。三論宗の学僧、成法已講が、勧修寺に人目を避けて隠れていたのを召し出され、御斎会が、形ばかり行われた。
上皇は、一昨年、法皇が鳥羽殿へおしこめられたこと、去年、高倉宮が討たれたありさま、都遷りという、あきれるほどの天下の乱れなどを、心苦しくお思いになったことから、ご病気になった。いつもお具合が悪いと伺っていたが、東大寺と興福寺が滅びたことをお聞きになると、ご病気はいよいよ重くなられた。法皇が並々ならずお嘆きになる中、同じ正月十四日、六波羅の池殿で、上皇はついに崩御なさった。在位十二年、善政は数えきれないほどあり、詩書や仁義のすたれた道を興し、世を治めて安楽にする、絶えていた道を継がれた。三明六通を備えた羅漢も免れず、幻術によって姿を変える、仮にこの世へ現れた聖者も逃れられない道である。形あるものが移ろい滅びる習いとはいえ、その道理も、あまりにむごいと思われた。その夜のうちに、東山の麓の清閑寺へお移し申し上げ、夕べの煙とともに、春の霞となって上られた。澄憲法印は、御葬送に参列しようと、急いで山から下りてきたが、すでにむなしい煙となられたのを拝見して、
いつも拝見していた君の御幸について、今日尋ねると、帰らぬ旅だと聞いて、悲しいことです。
また、ある女房は、君がお亡くなりになったと伺い、このように思いを詠んだ。
雲の上の宮中で、遠い先まで輝くものと見ていた月の光が消えたと聞くのは、悲しいことです。
御年二十一歳。内には十戒を守り、外には五常を乱さず、礼儀を正しくなさった。末の世の賢王でいらっしゃったので、世の人々がお惜しみ申し上げることは、月や日の光を失ったかのようだった。このように、人の願いもかなわず、民の果報も乏しい人間の世界は、悲しいものである。
紅葉
優雅で、心優しく、人々がお慕い申し上げる点では、おそらく延喜、天暦の帝であっても、どうしてこの君に勝れようか。人々は、次のように語った。一般に、賢王として名を上げ、仁徳をお示しになるのも、君が成人なさり、清いことと濁ったことをお分けになるようになってからのことである。ところが、この君は、ほんの幼い君でいらっしゃった時から、穏やかなご性質をお持ちだった。先の承安のころ、御在位の初めごろ、御年十歳ほどでいらっしゃっただろうか、紅葉をたいそうお愛しになった。北の陣に小山を築かせ、櫨や楓の、美しく紅葉したものを植えさせて、紅葉の山と名づけ、一日中ご覧になっても、なお飽き足りないご様子だった。ところが、ある夜、野分がひどく吹き、紅葉をすっかり吹き散らし、落葉がたいそう乱れていた。殿守の伴の造は、朝の掃除をしようと、これを残らず掃き捨てた。残った枝や散った木の葉をかき集め、風の冷たい朝だったので、綾殿の陣で酒を温めて飲むための薪にしてしまった。担当の蔵人は、行幸より先にと、急いで行って見ると、跡形もなかった。
「どうしたのだ」
と尋ねると、
「これこれ、こういうことです」
と答えた。蔵人は激しく驚き、
「ああ、何ということだ。君が、あれほど大切にお思いだった紅葉を、このようにしてしまったとは、何ということだ。お前たちは、今すぐにも投獄や流罪にされるかもしれない。私も、どれほどのお怒りを受けるだろう」
と嘆いていた。そこへ、主上はたいそう早く、寝所をお出になるや、そこへ行幸なさった。紅葉をご覧になろうとしたが、なかったので、
「どうしたのだ」
とお尋ねになった。蔵人は、何とも申し上げようがなく、ありのままに奏上した。主上は、ことのほかご機嫌よく、お笑いになり、
「林の中で酒を温め、紅葉を焼くという詩の心を、そなたたちには誰が教えたのだ。優雅なことをしたものだな」
とおっしゃった。かえって感心していただいたので、まったくおとがめはなかった。
また、安元のころ、方違えの行幸があった。ただでさえ、暁を告げる鶏人の声に、賢王の眠りも覚まされるほどだったので、何となく目が覚めがちで、まったくお眠りになれなかった。しんしんと冷える霜の夜の寒さは厳しく、延喜の聖代、国の民はどれほど寒いだろうと、帝が御衣をお脱ぎになったことなどまでお思い出しになり、ご自分の帝王としての徳が至らないことをお嘆きになった。夜が更けるころ、かなり遠くで、人の叫ぶ声がした。お供の人々は気づかなかったが、主上はお聞きになり、
「今、叫んでいるのは何者だ。すぐに見て参れ」
とお命じになった。宿直していた殿上人は、当番の者に命じた。走って散り散りに探すと、ある辻で、身分の低い童女が、空になった蓋を提げて泣いていた。
「どうしたのだ」
と尋ねると、
「主人の女房が、院の御所にお仕えしていらっしゃいます。このごろ、ようやくのことでお仕立てになった装束を持って参る途中、たった今、男が二、三人連れ立って来て、奪い取っていってしまいました。今は、装束があってこそ御所にもお仕えになれるのに、きちんと身を寄せられる、親しい方もいらっしゃいません。このことを思い続けて、泣いているのです」
と言った。そこで、その童女を連れて参り、このことを奏上すると、主上はお聞きになり、
「ああ、かわいそうに。どのような者の仕業だろう。堯の世の民は、堯の素直な心を自分たちの心としたため、皆、素直だった。今の世の民は、私の心を自分たちの心とするため、よこしまな者が朝廷にいて、罪を犯す。これは、私の恥ではないか」
とおっしゃった。
「それで、取られた衣は、何色なのだ」
とお尋ねになると、
「これこれの色でございます」
と申し上げた。建礼門院が、まだ中宮でいらっしゃった時のことである。その御方へ、
「このような色の御衣はございますか」
とお尋ねになると、前のものより、はるかに美しいものが届けられた。それを、あの童女にお与えになった。
「まだ夜は深い。また、同じ目に遭うかもしれぬ」
と、当番の者をつけ、主人の女房の局まで送り届けさせたのは、ありがたいことだった。だから、身分の低い男や女に至るまで、ただ、この君の御寿命が千年、万年と続くことを、お祈り申し上げた。
葵前
中でも、心を打たれることは、中宮のもとにお仕えする女房が、身の回りに召し使っていた童女に起こった。思いもよらないことに、天皇のお近くに参ることがあった。ただ、ありふれた、かりそめのご寵愛ではなく、主上はたびたびお召しになった。お志が実に深かったので、主人の女房も召し使わず、かえって主人のように大切に扱った。昔、歌に歌われた言葉がある。女を産んでも悲しむな。男を産んでも喜ぶな。男は侯にさえ封じられず、女は妃となって、宮中に立つという。この人も、女御や后として扱われ、国母、仙院として仰がれるだろう。めでたい幸運だと、葵前という名をつけ、内々には葵女御などと呼んだ。主上はこれをお聞きになり、その後は、お召しにならなかった。
お志が尽きたのではなく、ただ世の非難をはばかられたためである。いつも物思いに沈み、寝所にばかりお入りになっていた。その時の関白、松殿は、心を痛めていらっしゃるようだ、お慰め申し上げようと、急いで参内し、
「そのように、お心に掛けていらっしゃるのに、何の差し障りがございましょう。あの女房を、早くお召しになるがよろしいでしょう。ご寵愛があるのです。家柄を問うには及びません。基房が、すぐに養女にいたしましょう」
と奏上した。主上は、
「いや、そうはいかない。そのことを世の人は非難するが、位を退いてからは、聞いている先例もある。しかし、在位している時に、そのようなことをすれば、後の世の非難となるだろう」
と、お聞き入れにならなかった。関白も、お力が及ばず、涙を抑えて退出なさった。その後、主上は、緑の薄様の、ことに色の美しいものに、古い歌ではあるが、お思い出しになってお書きになった。
隠していても、私の恋は顔色に出てしまった。物思いをしているのですかと、人が尋ねるほどに。
この手習いを、冷泉少将隆房が頂いて取り次ぎ、あの葵前にお渡しになった。葵前は顔を赤らめ、いつもと違う気分になったと言って、里へ帰った。横になって五、六日過ごし、ついに亡くなってしまった。
「君の一日の恵みのために、私は百年の身を損なってしまう」
というのも、このようなことを言うのだろうか。昔、唐の太宗が、鄭仁基の娘を元観殿へ入れようとなさった。魏徴が、
「その娘は、すでに陸氏と婚約しております」
と諫め申し上げたので、殿へ入れるのをおやめになった。そのお心と、少しも変わらないお心遣いである。
小督
主上は、恋い慕う思いに沈んでいらっしゃった。お慰め申し上げようと、中宮のもとから、小督殿という女房を差し上げた。この女房は、桜町中納言重教卿の娘で、宮中一の美人、琴の名手でいらっしゃった。冷泉大納言隆房卿が、まだ少将だった時、見初めた女房である。少将は、初めは歌を詠み、思いを尽くして手紙を書き、恋い慕って嘆かれたが、小督殿は、心を寄せる様子もなかった。それでも、嘆きに心が弱くなったのだろうか、ついには心を寄せられた。しかし、今は君に召され、少将は、どうしようもなく悲しく、心が満たされぬままの別れの涙に、袖が濡れて、乾かすこともできなかった。
少将は、遠くからでも小督殿を拝見できるかもしれないと、たびたび参内した。小督殿のいる局のあたり、御簾のそばを、あちらこちらへ行き通り、たたずんだり歩いたりなさった。しかし、小督殿は、わが君に召されたからには、少将が何と言おうと、言葉を交わし、手紙を見るわけにもいかないと、折に触れての情けさえお掛けにならなかった。少将は、もしやと思い、一首の歌を詠んで、小督殿のいる御簾の中へ投げ入れた。
思いに耐えられず、心はうわの空です。陸奥のちかの塩竃のように、あなたの近くにいても、かいがありません。
小督殿は、すぐに返事をしたいと思われたのだろうが、君に対して、後ろめたくお思いになったのだろうか、手に取ってご覧にさえならなかった。そのまま童女に取らせ、中庭へ投げ出した。少将は、情けがなく、恨めしかったが、人が見るかもしれないと、何となく恐ろしく思われ、急いでこれを取り、懐へ入れて退出なさった。それでも、また引き返し、
手紙を、今はもう、手にさえ取るまいというのですか。たとえ、それほど私を心から捨ててしまったとしても。
今は、この世で逢うことも難しいので、生きて物思いをするより、死にたいとばかり願った。
入道相国は、これをお聞きになった。中宮も自分の娘であり、冷泉少将も婿である。小督殿に二人の婿を取られて、
「いやいや、小督がいる限り、世の中はよくなるまい。呼び出して、殺してしまおう」
とおっしゃった。小督殿は、それを伝え聞き、
「私のことは、どうなってもよいのですが、君のために心苦しいのです」
と、ある夕暮れに内裏を出て、行方も分からず、姿を消された。主上のお嘆きは並々ではなく、昼は寝所にお入りになり、涙にばかりむせび、夜は南殿へお出ましになって、月の光をご覧になり、お心を慰めていらっしゃった。入道相国は、それをお聞きになり、
「君は、小督のために、ふさいでいらっしゃるそうだ。それならば」
と、お世話をする女房たちも参上させず、参内する臣下をもお嫌いになった。人々は入道の権威をはばかり、通う者もいなかった。宮中は、いよいよ忌まわしく見えた。
こうして八月十日過ぎになった。あれほど雲もなく澄んだ空だったが、主上は涙で目が曇り、月の光も、ぼんやりとご覧になっていた。夜が更けるころ、
「誰かいるか」
とお呼びになったが、お返事を申し上げる者もいなかった。弾正少弼仲国が、その夜、宿直に参り、はるか遠くに控えていた。
「仲国でございます」
とお返事を申し上げると、
「近くへ参れ。命じたいことがある」
とおっしゃった。何事だろうと、御前近くへ参上すると、
「そなたは、もしや小督の行方を知っているか」
とお尋ねになった。仲国は、
「どうして存じ上げておりましょう。まったく存じ上げておりません」
と申し上げた。主上は、
「本当だろうか、小督は、嵯峨のあたりの、片折戸というもののある家にいると申す者があるのだ。家の主人の名を知らなくても、探して参ることはできないか」
とおっしゃった。
「主人の名を存じませんでは、どうしてお探し申し上げられましょう」
と申し上げると、
「確かに、そうだ」
と、御顔から涙を流された。仲国は、つくづく考えた。そうだ、小督殿は、琴をお弾きになった。この月の明るさに、君のことをお思い出し申し上げて、琴をお弾きにならないことは、まさかあるまい。御所でお弾きになった時は、仲国が笛の役に召されたので、あの琴の音なら、どこでも聞き分けられる。嵯峨の民家が、どれほどあろう。回って探せば、どうして聞き出せないことがあろうと思い、
「それでは、主人の名は知らなくても、もしやと思い、お探し申し上げてみましょう。ただ、お逢い申し上げたとしても、お手紙を頂かずにお伝えすれば、根拠のないこととお思いになるでしょう。お手紙を頂いて、向かいましょう」
と申し上げた。主上は、確かにそうだと、お手紙をお書きになり、お与えになった。
「寮の御馬に乗って行け」
とお命じになった。仲国は、寮の御馬を頂き、明るい月の下で鞭を揚げた。
「小鹿の鳴く、この山里」
と詠まれた、嵯峨のあたりの秋のころは、あちらこちらが、心にしみたことだろう。片折戸のある家を見つけると、この中にいらっしゃるだろうかと、馬を止め、耳を澄ませたが、琴をお弾きになる所もなかった。御堂などへお参りになっているかもしれないと、釈迦堂をはじめ、御堂を見て回ったが、小督殿に似た女房さえ、お見かけしなかった。むなしく帰って参れば、かえって参らなかったよりも悪いだろう。ここからどこかへ、さまよい出てしまいたいと思っても、どこも君の国土で、身を隠せる宿もない。どうしようかと思い悩んだ。そうだ、法輪は近いので、月の光に誘われて、お参りになっているかもしれないと、その方へ馬を歩ませた。
亀山のそば近く、松がひと群れある方から、かすかに琴が聞こえた。峰の嵐か、松風か、探す人の琴の音かと、はっきりしない思いで、馬を早めて行った。すると、片折戸のある家の中で、琴を澄んだ音でお弾きになっていた。馬を止めて聞くと、少しも聞き違えようのない、小督殿の爪音だった。何の曲かと聞けば、夫を思い、恋い慕うという意味の、想夫恋という曲だった。やはり、君のことをお思い出し申し上げて、曲は多くあるのに、この曲をお弾きになる、そのお心の優しさよ。めったにないことに思い、腰から横笛を抜き出し、少し吹いて、門をとんとんとたたくと、すぐに琴を弾くのをおやめになった。
仲国は、大声で、
「内裏から、仲国が使いとして参りました。お開けください」
と、何度たたいても、答える人はいなかった。しばらくして、中から人が出てくる音がしたので、うれしく思い、待っていた。すると、錠を外し、門をわずかに開け、かわいらしい若い女房が、顔だけを出し、
「お門違いでしょう。ここは、内裏からお使いなどを頂くような所ではございません」
と言った。仲国は、返事をするうちに門を閉められ、錠を掛けられては困ると思い、押し開けて入った。妻戸のそばの縁に座り、
「どうして、このような所にいらっしゃるのでしょう。君は、あなたのためにふさいでいらっしゃって、お命も、すでに危うく見えます。ただ根拠もなく申し上げていると、お思いでしょうか。お手紙を頂いて参りました」
と、取り出して差し上げた。
先ほどの女房が取り次ぎ、小督殿に差し上げた。開いてご覧になると、確かに君のお手紙だった。すぐに返事を書いて結び、女房の装束を一重ね添えて出された。仲国は、女房の装束を肩に掛け、次のように申し上げた。
「ほかの使いでしたら、お返事を頂いたからには、あれこれ申し上げるには及びません。しかし、以前、内裏で御琴をお弾きになった時、仲国が笛の役に召され、お仕えしたことを、どうしてお忘れになれましょう。直接のお返事を伺わずに帰って参るのは、まことに残念でございます」
と申し上げた。小督殿は、確かにそうだとお思いになったのだろうか、ご自分でお返事になった。
「あなたも、お聞きになったでしょう。入道相国が、あまりに恐ろしいことばかりおっしゃると聞いたので、驚き、内裏を逃げ出しました。このごろは、このような住まいなので、琴などを弾くこともありませんでした。しかし、このままでいるわけにもいかず、明日からは、大原の奥へ行こうと思っております。この家の女主人が、今夜限りの名残を惜しみ、もう夜も更けました、立ち聞きする人もいないでしょうなどと勧めましたので、そうですねと、昔の名残も、やはり懐かしく、手慣らしに琴を弾いていました。たやすく聞きつけられてしまいましたね」
と、涙も抑えられなかった。仲国も袖を濡らした。しばらくして、仲国は涙を抑え、次のように申し上げた。
「明日から大原の奥へ行こうとお思いということは、出家などをなさるのでしょう。決して、あってはならないことです。そうして、君のお嘆きを、どのようになさるおつもりですか。この方を、決して外へお出し申し上げるな」
と、供に連れてきた馬部や吉上などを残し、その家を守らせた。寮の御馬に乗り、内裏へ帰って参ると、ほのぼのと夜が明けた。
「もう寝所へお入りになっただろう。誰に取り次いでもらおうか」
と、寮の御馬をつながせ、先ほどの女房の装束を、跳ね馬の描かれた障子に掛け、南殿の方へ参った。主上は、まだ昨夜の御座にいらっしゃった。
南へ飛び、北へ向かう秋の雁に、安否を尋ねる便りも託せない。東に出て、西へ流れる暁の月に、ただ遠く望む思いを寄せる。
と口ずさんでいらっしゃるところへ、仲国が、すっと参上し、小督殿のお返事を差し上げた。主上は、並々ならずお喜びになり、
「そなたが、そのまま、今夜連れて参れ」
とお命じになった。入道相国がお聞きになった時のことは恐ろしかったが、これも天皇のお言葉である。雑色、牛飼、牛車を、きれいに整え、嵯峨へ迎えに行った。小督殿は、参るまいと、さまざまにおっしゃったが、いろいろとなだめ、車にお乗せ申し上げて、内裏へ参った。人目につかない所に隠しておき、夜ごとにお召しになるうち、姫宮がお一人生まれた。この姫宮は、坊門の女院のことである。入道相国は、どうして伝え聞いたのだろうか、
「小督がいなくなったというのは、まったくのうそだったのだ」
と、小督殿を捕らえ、尼にして放した。小督殿は、出家をもとから望んでいたが、自分の意思によらず尼にされた。二十三歳で、濃い墨染の衣を着て、すっかりやつれ、嵯峨のあたりにお住まいになった。情けないことだった。主上は、このようなことから、ご病気になり、ついにお亡くなりになったと聞いている。
法皇は、続けざまのお嘆きばかりが多かった。先の永万には、第一の御子、二条院が崩御なさった。安元二年七月には、御孫の六条院がお亡くなりになった。天に住むなら比翼の鳥、地に住むなら連理の枝となろうと、銀河の星を指し、深くお契りになった建春門院は、秋の霧に侵され、朝の露のように消えてしまわれた。年月が重なっても、昨日、今日のお別れのようにお思いになり、涙も、まだ尽きないうちに、治承四年五月には、第二皇子の高倉宮が討たれた。現世も来世も頼みにお思いだった新院までもが先立たれたので、何につけても、訴える相手もない涙ばかりが、ますます流れた。
「悲しみの、最も悲しいことは、老いてから子に先立たれることより、悲しいものはない。恨みの、最も恨めしいことは、若くして親に先立つことより、恨めしいものはない」
と、あの朝綱相公が、子の澄明に先立たれて書いたという言葉を、今こそ身にしみてお分かりになった。それでも、一乗の尊い経典を読むことは怠らず、三密の修行も、ますます積まれた。天下が喪に服すことになったので、宮中に仕える人々も、皆、華やかな袂が地味になったことだろうか。
廻文
入道相国は、このように、ひどく情けのない振る舞いをしたことを、さすがに恐ろしく思われたのだろうか、法皇をお慰め申し上げようとした。安芸の厳島の内侍が生んだ自分の娘で、十八歳になり、優雅で華やかな方を、法皇へ差し上げた。身分の高い女房たちも、多く選ばれて参上した。公卿や殿上人が大勢お供をし、まるで女御の参入のようだった。上皇がお亡くなりになってから、わずか十四日さえ過ぎないうちに、このようなことはすべきではないと、人々は内々にささやき合った。
そのころ、信濃国に、木曽冠者義仲という源氏がいると聞いていた。亡き六条判官為義の次男、帯刀先生義方の子である。父の義方は、久寿二年八月十六日、鎌倉の悪源太義平に討たれた。その時、二歳だった義仲を、母が泣く泣く抱いて信濃へ越え、木曽中三兼遠のもとへ行き、
「この子を、何とか育て、一人前にして見せてください」
と言った。兼遠は引き取り、かいがいしく、二十余年、養育した。成長するにつれ、力は世に並ぶものがないほど強く、心も比べるものなく勇敢だった。めったにない強弓の精兵で、馬上でも徒歩でも、昔の田村、利仁、余五将軍、致頼、保昌や、先祖の頼光、義家朝臣であっても、どうしてこの者に勝れようかと、人々は言った。ある時、養育役の兼遠を呼び、次のようにおっしゃった。
「兵衛佐頼朝は、すでに謀反を起こし、東八箇国を討ち従えて、東海道から上り、平家を追い落とそうとしている。義仲も、東山道、北陸道の両道を従え、一日でも先に平家を攻め落とし、日本国に二人の将軍がいると、言われたいものだ」
と、それとなくおっしゃった。中三兼遠は、深くかしこまって喜び、
「そのためにこそ、君を、今までお育て申し上げてきました。このようにおっしゃることこそ、本当に八幡殿の子孫でいらっしゃると思われます」
と、そのまま謀反を企てた。義仲は、兼遠に連れられて、たびたび都へ上り、平家の人々の振る舞いやありさまも見ていた。十三歳で元服した時も、八幡へ参り、八幡大菩薩の御前で、
「私の四代前の祖先、義家朝臣は、この神の御子となり、八幡太郎と名乗った。その先例にも従おう」
と、八幡大菩薩の御宝前で鬢を上げ、木曽次郎義仲と名づけた。兼遠は、まず回状を回しましょうと、信濃国では、祢井小弥太滋野行親に相談すると、異存はなかった。この者をはじめ、信濃一国の兵たちは、従わない草木もなかった。上野国では、亡き帯刀先生義方との縁で、田子郡の兵たちが、皆、従った。平家の運が尽きようとする時にめぐり合い、源氏の長年の願いを遂げようとした。
飛脚到来
木曽という所は、信濃の中でも南の端、美濃との境なので、都もたいそう近い。平家の人々は、伝え聞いて、
「東国が背いているだけでも大変なのに、北国までもとは、どうしたことだ」
と騒いだ。入道相国は、次のようにおっしゃった。
「その者は、恐れるほどの者ではない。考えてみれば、信濃一国の兵たちが従うといっても、越後国には、余五将軍の子孫、城太郎助長と、同じく四郎助茂がいる。この者たちは、兄弟とも多くの軍勢を持っている。命じれば、たやすく討って参るだろう」
とおっしゃったので、
「どうなることだろう」
と、内々にささやく者が多かった。
二月二日、越後国の住人、城太郎助長が越後守に任じられた。これは、木曽を討伐させるための計略だと聞いている。同じ七日、大臣以下、それぞれの家で、尊勝陀羅尼を書写し、不動明王の像を描いて供養した。これも、戦乱への備えのためだった。
同じ九日、河内国石川郡に住んでいた武蔵権守入道義基と、その子、石川判官代義兼が、平家に背き、兵衛佐頼朝に心を通わせ、いよいよ東国へ逃れていくという話が聞こえた。入道相国は、すぐに討伐軍を遣わした。討伐軍の大将には、源大夫判官末方と摂津判官盛澄を立て、合わせて三千余騎で向かった。城の中では、武蔵権守入道義基と子の判官代義兼をはじめ、軍勢は百騎ほどを越えなかった。鬨の声を上げ、矢を射交わし、入れ替わり、入れ替わり、数刻戦った。城の中の兵たちは、力の限り戦い、討ち死にする者が多かった。武蔵権守入道義基は討ち死にした。子の石川判官代義兼は、重傷を負い、生け捕りにされた。同じ十一日、義基法師の首が都へ運び込まれ、大路を引き回された。喪に服する期間に賊の首を引き回すのは、堀河天皇が崩御なさった時、前対馬守源義親の首を引き回した先例によると聞いている。
同じ十二日、鎮西から飛脚が到来した。宇佐大宮司公通からの知らせは、九州の者たちが、緒方三郎をはじめ、臼杵、戸次、松浦党に至るまで、ひたすら平家に背き、源氏に味方しているということだった。
「東国、北国が背いているだけでも大変なのに、どうしたことだ」
と、手を打ち、驚き合った。
同じ十六日、伊予国から飛脚が到来した。去年の冬ごろから、河野四郎通清をはじめ、四国の者たちは、皆、平家に背き、源氏に味方していた。備後国の住人、額の入道西寂は、平家への志が深かったので、伊予国へ渡り、道前と道後の境、高直城で、河野四郎通清を討った。子の河野四郎通信は、父が討たれた時、安芸国の住人、奴田次郎が母方の伯父だったので、そのもとへ渡っていて、居合わせなかった。通信は、父を討たれて、穏やかでいられる者ではなかった。何としても西寂を討ち取ろうと、機会をうかがっていた。
額の入道西寂は、河野四郎通清を討った後、四国の乱暴を鎮め、今年正月十五日、備後の鞆へ渡った。游君や遊女たちを集めて、遊び戯れ、酒盛りをして、前後も分からぬほど酔って寝ていた。そこへ、河野四郎は、死を覚悟した者たち百余人と申し合わせ、さっと押し寄せた。西寂の方にも、三百余人がいたが、急なことで、思いもよらず、慌てふためいた。立ち向かう者を射伏せ、斬り伏せ、まず西寂を生け捕りにして、伊予国へ渡った。父が討たれた高直城へ引き連れていき、鋸で首を切ったとも聞いている。また、磔にしたとも聞いている。
入道死去
その後、四国の者たちは、皆、河野四郎に従った。熊野別当湛増も、平家から厚い恩を受けた身だったが、それも背いて、源氏に味方したと聞いている。東国、北国は、すべて背いた。南海、西海も、このありさまである。地方の者たちの蜂起は、聞く人を驚かせ、反乱の前兆が、しきりに奏上された。四方の者たちが、たちまち立ち上がった。世は、今にも滅びてしまうだろうと、平家の一門でなくても、物事の分かる人々で、嘆き悲しまない者はいなかった。
同じ二十三日、公卿たちの話し合いがあった。前右大将宗盛卿は、坂東へ討伐軍は向かったが、これという成果もなかった、今回は宗盛が大将軍の命を受けて向かいたいと申された。公卿たちは、おもねって、
「すばらしいことでございましょう」
と申した。公卿や殿上人も、武官の地位にあり、弓矢に携わる人々は、宗盛卿を大将軍として、東国、北国の反徒たちを討伐するよう、命じられた。
同じ二十七日、前右大将宗盛卿が、源氏を討伐するため、いよいよ東国へ出発すると聞こえていた。ところが、入道相国がお具合を悪くされたので、宗盛はとどまられた。翌二十八日、重病にかかられたというので、京中や六波羅では、
「ああ、何ということをしてしまったのだ」
とささやいた。入道相国は、病みついた日から、水さえ喉へお入れにならず、体の中は、火を燃やしているように熱かった。寝ていらっしゃる所から、四、五間以内へ入る者は、熱さに堪えられなかった。ただ、おっしゃることは、
「熱い、熱い」
というばかりだった。少しも、ただ事とは見えなかった。
比叡山から、千手井の水を汲んで下し、石の水槽に満たした。そこへお入りになって体を冷やすと、水が激しく沸き上がり、まもなく湯になった。もしやお助かりになるかと、筧の水を流しかけると、焼けた石や鉄のように、水がはじけ飛び、寄りつかなかった。直接、体に当たった水は、炎となって燃えたので、黒煙が殿中に満ち、炎が渦を巻いて上った。昔、法蔵僧都という人が、閻王の招きに応じ、母の生まれ変わった所を尋ねた。閻王は憐れみ、獄卒をつけて、焦熱地獄へ遣わされた。鉄の門の中へ入ると、流星のように炎が空へ立ち上がり、何百由旬にも及んだという。それも、今こそ思い知られた。
入道相国の北の方、二位殿が、夢にご覧になったことは、恐ろしかった。おびただしい猛火の燃える車が、門の中へ入ってきた。前後に立つ者は、馬の顔のような者もいれば、牛の顔のような者もいた。車の前には、
「無」
という字だけが見える、鉄の札が立っていた。二位殿は、夢の中で、
「あれは、どこから来たのですか」
とお尋ねになった。すると、
「閻魔の庁から、平家太政入道殿をお迎えに参りました」
と言った。
「それでは、その札は、何という札ですか」
とお尋ねになると、
「南閻浮提の、金銅十六丈の盧遮那仏をお焼きになった罪によって、無間地獄の底へ落ちられることに、閻魔の庁で決まっております。『無』は書かれましたが、『間』の字は、まだ書かれていないのです」
と言った。二位殿は、はっと目を覚まし、汗びっしょりになった。これを人に語られると、聞く人は、皆、身の毛がよだった。霊験ある仏や社へ、金銀七宝を投じ、馬、鞍、鎧、兜、弓矢、太刀、刀に至るまで、取り出し、運び出して祈ったが、効果はなかった。息子や娘たちは、枕元や足元に集まり、どうしようかと嘆き悲しまれたが、願いがかなうとは見えなかった。
閏二月二日、二位殿は、熱くて堪えがたかったが、枕元へ寄り、泣く泣く、次のようにおっしゃった。
「お姿を拝見すると、日がたつにつれ、助かる望みが少なく見えます。この世に心残りのことがあるなら、少し意識のある時に、お言い残しください」
とおっしゃった。入道相国は、日ごろ、あれほど威厳に満ちていらっしゃったが、実に苦しそうで、かすかな息の下から、次のようにおっしゃった。
「私は、保元、平治以来、たびたび朝敵を平らげ、身に余る褒賞を受け、恐れ多くも、天皇の祖父、太政大臣となり、栄華は子孫にまで及んでいる。この世での望みは、一つも残っていない。ただ、心残りなのは、伊豆国の流人、前右兵衛佐頼朝の首を見なかったことが、口惜しい。私が死んだ後は、堂や塔を建てたり、供養をしたりしてはならぬ。すぐに討伐軍を遣わし、頼朝の首をはねて、私の墓の前に掛けよ。それが供養となるだろう」
とおっしゃったのは、罪深いことだった。
同じ四日、病に苦しめられ、せめてものことに、板へ水を注ぎ、そこに寝て、転がられたが、助かる心地にもならなかった。もだえ苦しんで地に倒れ、ついに熱さに苦しんで亡くなられた。馬や車が行き交う音は、天に響き、大地も揺れるほどだった。一人の君、万乗の主に、どのようなことがあっても、これ以上ではあるまいと思われた。今年、六十四歳でいらっしゃった。老衰による死というほどではなかったが、定まった運命が、たちまち尽きたので、大法や秘法の効き目もなく、神々や三宝の威光も消え、諸天も守ってくださらなかった。まして、普通の人の考えや力では、どうにもならない。命に代わり、身に代わろうと、忠義を尽くしていた数万の軍勢は、殿の上や下で泣いていた。しかし、目にも見えず、力の及ばない、命を奪う無常の鬼には、少しの間も戦って追い返せなかった。
二度と帰ってこない死出の山、三瀬川、黄泉や中有への旅路を、ただ、お一人で向かわれたことだろう。日ごろ重ねてきた罪業ばかりが、獄卒となって迎えに来たのだろうか。哀れなことだった。しかし、そのままにしておくわけにもいかず、同じ七日、愛宕で荼毘に付し申し上げた。骨は、円実法眼が首に掛け、摂津国へ下り、経島へ納めた。あれほど日本全国で名を上げ、威勢を振るった人だったが、その身は、ひと時の煙となって、都の空へ立ち上がり、遺骸は、しばらくとどまった後、浜の真砂に戯れ、むなしい土となられた。
築島
葬送の夜には、不思議なことが多くあった。玉を磨き、金銀をちりばめて造った西八条殿が、その夜、急に焼けた。人の家が焼けるのは、よくあることだが、驚くべきことだった。何者の仕業だったのだろうか、放火だと聞いている。また、その夜、六波羅の南の方で、人の声なら二、三十人かと思われる声で、
「うれしいことよ。音を立てる水は、滝の水」
と拍子を取り、舞い踊り、どっと笑う声がした。先の正月には、上皇がお亡くなりになり、天下は喪に服していた。わずか一、二か月を隔て、入道相国が亡くなられた。身分の低い男や女に至るまで、どうして悲しまないことがあろうか。これは、どうしても天狗の仕業だということになり、平家の侍の中の、血気にはやる若者たち百余人が、笑い声をたどって探しに行くと、院の御所、法住寺殿で舞い踊っていた。
御所を管理する備前前司基宗という者がいた。この基宗の知り合いたち二、三十人が、夜に紛れて集まり、酒を飲んでいた。初めは、このような時節なので、声を上げずに飲んでいたが、次第に酔い、このように舞い踊ったのだった。平家の若者たちは、さっと押し寄せ、酔った者たちを、一人も漏らさず、三十人ほど捕らえた。六波羅へ連れて参り、前右大将宗盛卿のいらっしゃる中庭へ引き据えた。宗盛卿は、事情を十分にお尋ねになり、確かに、それほど酔った者たちを斬るわけにもいかないと、皆、お許しになった。人が亡くなった後には、身分の低い者でも、朝夕に鐘を打ち鳴らし、例時や懺法を読むのが、普通の習いである。しかし、この禅門が亡くなった後は、仏に供え物をし、僧に布施をする営みもなかった。朝夕は、ただ戦の計略ばかりで、ほかのことはなかった。最期の病のありさまは、情けないものだったが、普通の人とも思われないことが多かった。日吉社へお参りになった時も、平家やほかの家の公卿が大勢お供をし、摂関の臣が春日へ参詣し、宇治へ出かけるといっても、どうしてこれに勝れようかと、人々は言った。また、何よりも、福原の経島を築き、今の世に至るまで、上り下りする舟に支障がないことは、すばらしかった。あの島は、先の応保元年二月上旬に築き始められたが、同じ年の八月、急に大風が吹き、大波が立ち、すべて波にさらわれて失われた。同じ三年三月下旬、阿波民部重能を奉行として築かせた。人柱を立てるべきだなどと、公卿たちの話し合いがあったが、罪業であるとして、石の表面に一切経を書き、築いたため、経島と名づけたのである。
慈心坊
年老いた人が語ったことには、清盛公は悪人と思われているが、実は慈慧僧正の生まれ変わりである。その理由は、次のとおりである。摂津国に、清澄寺という山寺があった。その寺に住む慈心房尊慧という僧は、もとは叡山の学僧で、長年、法華経を持ち、修行してきた。仏道を求める心を起こして山を離れ、この寺で年月を過ごしていたので、人々は皆、この僧に帰依していた。先の承安二年十二月十二日の夜、脇息に寄りかかり、法華経を読んでいた。丑の刻ごろ、夢とも現実ともつかないうちに、五十歳ほどの男が、浄衣に立烏帽子をつけ、草鞋を履き、脛巾を巻いて、立文を持って来た。尊慧は、
「どちらから来た方ですか」
と尋ねた。すると、
「閻魔王宮からの使いです。宣旨がございます」
と、立文を尊慧に渡した。尊慧が開いて見ると、
「閻浮提大日本国摂津国清澄寺の慈心房尊慧を、謹んでお招きする。来る二十六日、閻魔羅城の大極殿で、十万人の持経者によって、十万部の法華経を転読する。よって、参上するがよい。閻王の仰せによって、以上のとおりお招きする。承安二年十二月十二日 閻魔庁」
と書かれていた。尊慧は、断れることではなかったので、ためらわず、承知した旨の返書を書いて差し上げたと思ったところで、目が覚めた。ただ死ぬのだろうと思い、院主の光影房に、このことを語った。人々は皆、不思議に思った。尊慧は、口では阿弥陀仏の名を唱え、心では、浄土へ導いてくださる慈悲の誓願を念じた。やがて二十五日の夜になり、いつもお祀りする仏の前へ行き、例のように、脇息に寄りかかって、念仏や読経をした。子の刻になり、ひどく眠くなったので、住まいへ帰って横になった。丑の刻ごろ、また前のように、浄衣姿の鬼二人が来て、早く参るよう勧めた。閻王の命を断ろうとすれば、恐れがある。参ろうとすれば、衣も鉢もなかった。このように思っていると、法衣が自然に身を包み、肩に掛かり、天から金の鉢が下りてきた。
二人の童子、二人の従僧、十八人の下僧、七宝の大きな車が、寺の住まいの前に現れた。尊慧は、並々ならず喜び、すぐに車へ乗った。従僧たちは、西北へ向かい、空を駆け、まもなく閻魔王宮へ着いた。王宮のありさまを見ると、外郭は果てしなく広がり、中も広々としていた。その中に、七宝で造られた大極殿があった。高く広く、金色に輝き、普通の人には想像もできないものだった。その日の法会が終わり、僧たちが皆帰る時、尊慧は南の中門に立ち、大極殿を遠く見渡した。冥界の官やその配下たちは、皆、閻魔法王の御前にかしこまっていた。尊慧は、めったにない参詣だ、この機会に、来世のことを尋ねようと、大極殿へ参った。その間、二人の童子が傘を差しかけ、二人の従僧が箱を持ち、十八人の下僧が列をなし、次第に歩み近づいた。閻魔法王も、冥界の官やその配下たちも、皆、下りて迎えた。多聞天と持国天が、二人の童子となり、薬王菩薩と勇施菩薩が、二人の従僧となっていた。十羅刹女が、十八人の下僧の姿となり、付き従って、お世話をしてくださっていた。閻王は、次のように尋ねた。
「ほかの僧は、皆、帰っていった。御房は、どうして来られたのか」
「来世に生まれる所を伺うためです」
「ただし、往生できるか、できないかは、人の信じる心があるか、ないかによる」
などと言った。閻王は、また冥界の官に、次のように命じた。
「この御房の善行を記した文箱が、南の宝蔵にある。取り出し、一生の修行や、人々を導いたことを記す碑文を、お見せせよ」
冥界の官は承知し、南の宝蔵へ行き、文箱を一つ取ってきた。すぐに蓋を開け、そのすべてを読み聞かせた。尊慧は、嘆き、声を上げて泣き、
「ただ、どうか私を憐れんで、生死の輪廻を離れる方法を教え、大いなる悟りを得る、まっすぐな道をお示しください」
と言った。その時、閻王は、憐れんで教え導き、さまざまな偈を唱えた。冥界の官が、筆に墨をつけ、一つ一つを書き記した。
妻子も、王位も、財産も、一族や従者も、死ぬ時には、一つとして来て寄り添わない。ただ、常に従う業の鬼が、私を縛り、苦しみを受けて叫ぶことには、果てがない。
閻王は、この偈を唱え終わり、その文を尊慧へ渡した。尊慧は、並々ならず喜び、
「日本の大相国という方は、摂津国の和田御崎を選び、四方十余町に住まいを造り、今日の十万僧の法会のように、持経者を多くお招きしています。僧たちは、坊ごとに、ずらりと席につき、説法や読経を、念入りに勤めていらっしゃいます」
と申し上げた。閻王は、喜んで感心し、
「その入道は、普通の人ではなく、慈慧僧正の化身である。天台の仏法を守るため、日本に生まれ変わった。ゆえに、毎日三度、その人を礼拝する文がある。この文を、その人に差し上げよ」
と言った。
慈慧大僧正に、謹んで礼拝する。天台の仏法を守る方が、まず将軍の身となって現れ、悪業を重ねる衆生にも、等しく利益を与える。
尊慧はこれを頂き、大極殿の南の中門を出る時、官人たち十人が門の外に立ち、車に乗せて、前後に従った。また、空を駆けて帰ってきた。夢のような心地で、息を吹き返した。尊慧は、この文を持って西八条へ参り、入道相国へ差し上げた。入道相国は、並々ならず喜び、さまざまにもてなし、いろいろな引き出物を与え、その褒賞として、律師にされたと聞いている。こうして、清盛公が慈慧僧正の生まれ変わりだと、人々は知ったのである。
祇園女御
また、ある人が語ったことには、清盛公は忠盛の子ではなく、実は白河院の皇子である。その理由は、次のとおりである。先の永久のころ、祇園女御と呼ばれる、院のご寵愛を受ける方がいた。その女房の住まいは、東山の麓、祇園のあたりだった。白河院は、たびたび御幸なさった。ある時、殿上人を一、二人と、北面を少人数連れ、ひそかに御幸なさった。五月二十日過ぎの、まだ宵のことだったので、目の前を指さしても分からない闇で、五月雨までもが、あたりを暗くし、実に気の晴れない夜だった。あの女房の住まいの近くに、御堂があった。御堂のそばに、光るものが現れた。頭は、銀の針を磨いて立てたようにきらめき、左右の手と思われるものを上げ、片手には槌のようなもの、片手には光るものを持っていた。君も臣も、
「ああ、恐ろしい。これは、本当の鬼と思われる。手に持つものは、聞いている打出の小槌だろう。どうしよう」
と騒いでいらっしゃった。そのころ、忠盛は、まだ北面の下位の者として、お供していたので、院は忠盛を呼び、
「この中では、そなたこそ頼りになろう。あの者を、射殺すなり、斬り倒すなりできるか」
とお命じになった。忠盛は、かしこまって承り、向かっていった。ひそかに考えるには、この者は、それほど猛々しい者とは見えない。狐や狸などだろう。射殺したり、斬り殺したりすれば、あまりに軽率だろう。生け捕りにしようと思い、歩みを速めた。少し経つと、さっと光り、また少し経つと、さっと光った。二、三度したところへ、忠盛は走り寄り、むずと組みついた。組みつかれた者は、
「これは、どうしたことだ」
と騒いだ。化け物ではなく、人だった。その時、身分の高い者も低い者も、それぞれ火をともしてご覧になると、六十歳ほどの法師だった。御堂の承仕法師で、灯明を供えようと、手瓶というものに油を入れ、片手には、土器に火を入れて持っていた。雨は注ぐように降っていたので、濡れないよう、頭に小麦の藁を笠のように結びつけ、かぶっていた。土器の火に、小麦の藁が輝き、銀の針のように見えたのだった。物事の正体が、一つ一つ明らかになった。
「これを射殺したり、斬り殺したりすれば、どれほど軽率だっただろう。忠盛の振る舞いこそ、思慮が深い。弓矢を取る者は、見事なものだ」
と、その褒賞に、あれほど最も愛されていると聞いていた祇園女御を、忠盛にお与えになった。その女房は、院の御子を身ごもっていたので、
「生まれる子が女なら、私の子としよう。男なら、忠盛の子として、弓矢を取る者に育てよ」
とお命じになった。やがて男の子を産んだ。このことを奏上しようと、機会をうかがっていたが、よい折もなかった。ある時、白河院が熊野へ御幸なさった時、紀伊国の糸鹿坂という所で、御輿を下ろさせ、しばらくお休みになった。藪にむかごが多くあったのを、忠盛は袖に盛り入れ、御前へ参り、
芋の子は、もう這うほどになりました。
と申し上げた。院は、すぐに意味をお分かりになり、
忠盛よ、ただ盛り取って、養いとするがよい。
と、続けてお詠みになった。それから、忠盛は自分の子として扱った。この若君が、あまりに夜泣きをなさるので、院はお聞きになり、一首の歌をお詠みになって、下された。
夜泣きをするといっても、忠盛よ、大切に育てよ。末の世には、清く栄えることもあるかもしれない。
こうして、清盛と名乗られた。十二歳で兵衛佐となった。十八歳で四品に上り、四位の兵衛佐と申したのを、事情を知らない人は、
「名門の家の人なら、このようにもなるものだが」
と言った。鳥羽院もご存じで、
「清盛の家柄は、人に劣るまい」
とおっしゃった。
昔も、天智天皇は、身ごもった女御を、大織冠にお与えになる時、
「この女御の産む子が女なら、私の子としよう。男なら、そなたの子とせよ」
とお命じになった。やがて男の子をお産みになった。多武峰の開創を願った定慧和尚が、その子である。昔にも、このような先例があった。末の世にも、平大相国は、本当に白河院の御子だったためだろうか、あれほどの天下の大事、都遷りなどという、はばかりのないことを、お考えになったのだろう。
洲俣合戦
同じ閏二月二十日、五条大納言国綱卿が亡くなられた。平大相国と、あれほど深く結ばれ、志も深かった方である。あまりに深い縁のためだろうか、同じ日に病みつき、同じ月に亡くなられた。この大納言は、兼資中納言から八代の子孫で、前右馬助守国の子である。蔵人にさえならず、進士の雑色としてお仕えしていた。近衛院の御在位の時、仁平のころ、内裏で急に火災が起こった。主上は南殿へお出ましになったが、近衛司は、一人も参上せず、どうしてよいか分からずに立っていらっしゃった。そこへ、この国綱が、腰輿を担がせて参り、
「このような時には、このような御輿にお乗りになるものです」
と申し上げた。主上は、これにお乗りになって、お出になった。
「何者だ」
とお尋ねになったので、
「進士の雑色、藤原国綱でございます」
と名乗り申し上げた。
「このように、機転の利く者がいるのだ。召し使うがよい」
と、その時の殿下、法性寺殿へお話しになった。所領を多く与えるなどして、お召し使いになった。その同じ帝の御代、八幡への行幸があった時、人長が酒に酔って水へ倒れ込み、装束を濡らしたため、御神楽が遅れていた。そこで、この国綱は、
「上等なものではございませんが、人長の装束は持たせております」
と、一揃い取り出した。それを着て、御神楽を整え、奏した。時刻は、少しずれてしまったが、歌声は澄んで高く響き、舞の袖は拍子に合い、すばらしかった。しみじみと心に響く楽しさは、神も人も同じ心である。昔、天の岩戸を押し開いたという、神代の出来事まで、今こそお分かりになった。
この国綱の先祖に、山蔭中納言という方がいた。その子に、如無僧都といって、知恵や才覚に恵まれ、徳を積み、戒律を守る僧がいた。昌泰のころ、寛平法皇が大井河へ御幸なさった時、勧修寺の内大臣高藤公の御子、泉の大将貞国が、小倉山の嵐で、烏帽子を川へ吹き落とされた。袖で鬢を押さえ、どうしようもなく立っていた。そこで、この如無僧都は、三衣箱の中から、烏帽子を一つ取り出されたという。その僧都は、父の山蔭中納言が、大宰大弐となって鎮西へ下った時、二歳だった。継母が憎み、ちょっと抱くふりをして、海へ落として殺そうとした。亡くなった実の母が、生きていた時、桂の鵜飼が、鵜の餌にしようと、亀を捕らえ、殺そうとしていた。それを、着ていた小袖を脱ぎ、亀と引き換えにして、放してやっていた。その亀が、恩を返そうと、海へ落とされた若君のもとへ、水の上に浮かんで来て、甲羅に乗せて助けたのだった。それは昔のことなので、どうだったのだろうか。末の世の国綱卿の手柄は、めったにないものだった。法性寺殿の御代に、中納言になった。法性寺殿がお亡くなりになった後、入道相国は、考えるところがあると、この人に近づき、親しくなった。たいそうな富豪でいらっしゃったので、何でも、必ず毎日一品は、入道相国のもとへ贈られた。入道相国は、この世での親しい相手は、この人に勝る者はいないと、国綱の子を一人、養子にし、清国と名乗らせた。また、入道相国の四男、頭中将重衡は、あの大納言の婿となった。
治承四年の五節は、福原で行われた。殿上人が中宮のもとへ参上した時、ある殿上人が、
竹は、湘浦で斑に染まっている。
という朗詠をなさった。この大納言は立ち聞きし、
「ああ、何ということだ。これは、忌み避けるものだと聞いている。このようなことは、耳に入っても、聞くまい」
と、足音を忍ばせて逃れ出た。この朗詠の意味は、次のとおりである。昔、堯の帝には、二人の姫宮がいた。姉を娥皇といい、妹を女英といい、ともに舜の御門の后だった。舜の御門がお亡くなりになった後、あの蒼梧の野辺へお送りし、荼毘に付し申し上げる時、二人の后は名残を惜しみ、湘浦という所まで付き従った。泣き悲しまれた涙が、岸の竹へ掛かり、斑に染まったのだった。
その後も、たびたびその所へ行き、瑟を弾いて、お心を慰められた。今、その所を見ると、岸の竹は斑に染まって立っているという。琴を奏でた跡には、雲がたなびき、しみじみと悲しい、その心を、橋相公が賦に作ったのである。この大納言は、それほど文章や詩歌に優れた方ではなかったが、このように物事に通じ、このようなことにまで、聞いて気づかれたのだった。
この人が大納言にまでなるとは、思いもよらなかった。母上は、賀茂大明神へ通い、
「どうか、わが子の国綱を、一日でもよいので、蔵人頭にお就けください」
と、百日の間、心を尽くしてお祈りした。ある夜、檳榔の車が来て、自分の家の車寄せに止まる夢を見た。これを人に語られると、
「それは、公卿の北の方におなりになるのでしょう」
と夢を解いた。
「私は、もう年を取っている。今さら、そのようなことがあるとも思えない」
とおっしゃったが、御子の国綱は、蔵人頭はもちろん、正二位の大納言にまで上られたのは、めでたいことだった。
同じ二十二日、法皇は、院の御所、法住寺殿へ御幸なさった。その御所は、先の応保三年四月十五日に造り上げられ、新比叡や新熊野なども、近くに勧請申し上げ、山水や木立に至るまで、お心のままだった。しかし、この二、三年は、平家の悪行によって、御幸もできなかった。前右大将宗盛卿が、壊れた御所も修理して、御幸申し上げるべきだと奏上したので、ほかにどうしようもなく、ただそのようにと承知して、御幸なさった。まず、亡き建春門院のいらっしゃった所をご覧になると、岸の松も、汀の柳も、年月を経たものだと思われた。木が高くなったことにつけても、太液の芙蓉、未央の柳のように、これらを前にして、どうして涙があふれないことがあろう。あの南内、西宮の昔の跡への思いを、今こそお分かりになった。
三月一日、南都の僧綱たちを、もとの官職へ戻し、末寺や荘園も、以前のように支配するよう命じられた。同じ三日、大仏殿の造営が始まった。事始めの奉行は、蔵人左少弁行隆と聞いている。この行隆は、以前、八幡へ参り、夜通しこもったことがあった。夢の中で、御宝殿から、みずらを結った天の童子が出てきて、
「私は、大菩薩の使いである。大仏殿の奉行となる時は、これを持つがよい」
と、笏を与えられる夢を見た。目が覚めてから見ると、実際にそこにあった。
「ああ、不思議だ。今、何事があって、大仏殿の奉行に参ることがあるのだろう」
と、懐へ入れて宿所へ帰り、大切にしまっておいた。ところが、平家の悪行によって、南都が炎上したので、この行隆が、弁の中から選ばれ、事始めの奉行に参った。その前世からの縁は、すばらしいものだった。
同じ三月十日、美濃国の目代が、早馬によって都へ報告したことは、東国の源氏たちが、すでに尾張国まで攻め上り、道をふさいで、人を通さないということだった。すぐに討伐軍が差し向けられた。大将軍には、左兵衛督知盛、左中将清経、小松少将有盛を立て、合わせて三万余騎で向かった。入道相国が亡くなってから、わずか五十日さえ過ぎないうちに、いくら乱れた世とはいえ、嘆かわしいことだった。源氏の方は、十郎蔵人行家と、兵衛佐の弟、卿公義円で、合わせて六千余騎だった。尾張河を間に隔て、源氏と平家が、両岸に陣を取った。
同じ十六日の夜半ごろ、源氏の軍勢六千余騎が川を渡り、平家三万余騎の中へ、声を上げて駆け込んだ。翌十七日の寅の刻から矢を射交わし、夜が明けるまで戦ったが、平家の方は、少しも騒がず、
「敵は川を渡ったので、馬も武具も、皆、濡れている。それを目印に討て」
と、大軍の中へ取り囲み、
「残すな。逃すな」
と攻めたので、源氏の軍勢は、ほとんど討たれ、大将軍行家は、かろうじて命を保ち、川の東へ退いた。卿公義円は、深く攻め入り、討たれた。平家は、そのまま川を渡り、源氏を追いながら射て進んだ。
源氏は、あちこちで引き返し、向き直って防いだが、敵は大軍で、味方は少なかった。かなうとも見えなかった。
「川や沼を背後にしてはならない」
というのに、今度の源氏の計略は愚かだったと、人々は言った。やがて、大将軍十郎蔵人行家は、参河国へ越え、矢矧川の橋を取り外し、垣楯を並べて待ち構えた。平家は、すぐに押し寄せて攻めたので、こらえられず、そこもまた攻め落とされた。平家が、そのまま続けて攻めれば、参河や遠江の軍勢は従っただろうが、大将軍左兵衛督知盛が、病気のため、参河国から都へ帰られた。今度も、わずかに一つの陣を破っただけで、残党を攻めなかったので、何も成し遂げなかったようなものだった。平家は、一昨年、小松大臣が亡くなられ、今年は、また入道相国が亡くなられた。運命が尽きようとしていることが明らかだったので、長年、恩を受けてきた者のほかは、従う者もいなかった。東国では、草も木も、皆、源氏になびいた。
嗄声
そのころ、越後国の住人、城太郎助長が、越後守に任じられた。朝廷の恩をありがたく思い、木曽を討伐するため、合わせて三万余騎で、同じ六月十五日に出発した。翌十六日の卯の刻に、いよいよ進発しようとしたが、夜半ごろ、急に大風が吹き、大雨が降り、雷が激しく鳴った。空が晴れた後、雲の中から、大きなしわがれ声で、
「南閻浮提の、金銅十六丈の盧遮那仏をお焼き申し上げた平家に、味方する者がここにいる。捕らえよ」
と、三度叫びながら通っていった。城太郎をはじめ、これを聞いた者は、皆、身の毛がよだった。郎等たちは、
「これほど恐ろしい天のお告げがございます。どうか、予定を変えて、おとどまりください」
と申し上げた。しかし、弓矢を取る者が、それに従うわけにはいかないと、翌十六日の卯の刻に城を出て、わずか十余町進んだ。黒雲がひと群れ現れ、助長の上を覆ったかと思うと、急に体がすくみ、意識を失って、馬から落ちた。輿へ担ぎ乗せ、館へ帰り、六時間ほど床に伏した後、ついに死んだ。飛脚によって、このことを都へ報告すると、平家の人々は、激しく騒いだ。
同じ七月十四日、改元があり、養和と名づけた。その日、筑後守貞能は、筑前、肥後の両国を与えられ、鎮西の謀反を平らげるため、西国へ向かった。また、その日、特別な大赦が行われ、先の治承三年に流された人々が呼び戻された。松殿入道殿下は備前国から上洛し、太政大臣妙音院は、尾張国からお上りになった。按察大納言資方卿も、信濃国から都へ帰ったと聞いている。
同じ二十八日、妙音院殿が院の御所へ参上した。先の長寛の帰洛には、御前の賓客の席で、賀王恩と還城楽をお弾きになったが、養和の今の帰京には、仙洞で秋風楽をお奏でになった。どちらも、その折の趣にふさわしいものをお選びになった、そのお心遣いは、すばらしかった。按察大納言資方卿も、その日、院の御所へ参上した。法皇は、
「どうだ、夢のように思われる。慣れぬ田舎暮らしをして、俗謡なども、今はすっかり忘れただろうと思うが、まず今様を一つ聞かせてほしい」
とおっしゃった。大納言は、拍子を取り、
信濃にあるという木曽路川。
という今様を、実際にご覧になっていたので、
信濃にあった木曽路川。
とお歌いになったのは、その場にふさわしい、見事なことだった。
横田河原合戦
八月七日、官の庁で、大仁王会が行われた。これは、将門討伐の先例によると聞いている。九月一日には、純友討伐の先例として、鉄の鎧と兜を、伊勢大神宮へ奉納した。勅使は、祭主、神祇権大副大中臣定隆だった。
都を出て、近江国甲賀の駅から病みつき、伊勢の離宮で死んだ。謀反の者たちを調伏するため、五壇の法を命じられて修していた、降三世の大阿闍梨も、大行事の彼岸所で、寝たまま死んだ。神々も三宝も、お受け入れにならないことが、明らかだった。また、大元法を命じられて修していた安祥寺の賢玄阿闍梨が、修法の報告書を差し上げた。開いてご覧になると、平家を調伏した旨が記されていたのは、恐ろしいことだった。
「これは、どうしたことだ」
とおっしゃると、
「朝敵を調伏せよと、お命じになりました。今の世のありさまを見ると、平家こそ、朝敵と思われます。だから、これを調伏しました。何の罪がございましょう」
と申し上げた。
「この法師は、けしからぬ。死罪にするか、流罪にするか」
と言われたが、大きなこと、小さなこと、さまざまな事柄の忙しさに紛れ、その後、処分もなかった。源氏の世になってから、鎌倉殿は、
「殊勝なことだ」
と感心なさり、その褒賞として、大僧正にされたと聞いている。
同じ十二月二十四日、中宮は院号をお受けになり、建礼門院と申した。まだ幼い主上の御代に、母后へ院号を贈るのは、これが初めてだと伺っている。やがて今年も暮れ、養和も二年になった。
二月二十一日、太白が昴星に迫った。『天文要録』には、
「太白が昴星を侵せば、四方の異民族が立ち上がる」
とある。また、
「将軍が勅命を受け、国境を越えて出る」
とも記されている。
三月十日、除目が行われ、平家の人々は、おおかた官職や位が上がった。四月十日、前権少僧都顕真が、日吉の社で、定めどおりの作法によって、法華経一万部を転読した。仏との縁を結ぶため、法皇も御幸なさった。何者が言い出したのだろうか、一院が山門の僧たちに命じ、平家を討伐なさるという話が聞こえたので、兵たちが内裏へ参り、四方の陣の入口を警護した。平氏の一族は、皆、六波羅へ駆け集まった。本三位中将重衡卿は、法皇をお迎えするため、三千余騎で日吉の社へ向かった。山門には、また、平家が山を攻めようと、数百騎を率いて登ってくるという話が聞こえた。僧たちは、皆、東坂本へ下り、
「これは、どうしたことだ」
と話し合った。山の上も洛中も、騒ぎは並々ではなかった。お供の公卿や殿上人は顔色を失い、北面の者の中には、あまりに慌て騒いで、苦い胃液を吐く者が多かった。本三位中将重衡卿は、穴太のあたりで法皇をお迎え申し上げ、御所へお帰り申し上げた。
「このようなことばかりでは、今後は、語らうことさえ、もう思いのままにはできないのだろうか」
と、法皇はおっしゃった。実際には、山門の僧たちが、平家を討伐しようとしたことも、平家が山を攻めようとしたこともなかった。まったく根も葉もない話だった。
「天魔が、ひどく暴れているのだろう」
と、人々は言った。同じ四月二十日、臨時に官僧の任命があった。これは、飢饉や疫病のためだった。
同じ五月二十四日、改元があり、寿永と名づけた。その日、越後国の住人、城四郎助茂が、越後守に任じられた。兄の助長が亡くなったので、不吉であると、しきりに辞退したが、勅命なので、どうすることもできなかった。助茂を、長茂と改名した。
同じ九月二日、城四郎長茂は、木曽を討伐するため、越後、出羽、会津四郡の兵たちを率い、合わせて四万余騎で、信濃国へ向かった。同じ九日、その国の横田河原に陣を取った。木曽は依田城にいたが、これを聞くと、依田城を出て、三千余騎で駆け向かった。信濃源氏の井上九郎光盛の計略で、急いで赤旗を七流れ作り、三千余騎を七手に分けた。あちらの峰、こちらの谷から、赤旗をはっきりと掲げて寄せた。城四郎は、これを見て、
「ああ、この国にも、平家に味方する人がいたのだ」
と、心強く思った。
勇気を奮い起こしていたところ、次第に近づいてきた軍勢は、合図を定め、七手が一つになって、一斉に、どっと鬨の声を上げた。用意していた白旗を、さっと掲げた。越後の軍勢は、これを見て、
「敵は何十万騎いるだろう。どうしよう」
と顔色を失い、慌てふためいた。ある者は川へ追い込まれ、ある者は難所へ追い落とされ、助かる者は少なく、討たれる者が多かった。城四郎が頼みきっていた、越後の山太郎、会津の乗丹房という名高い兵たちも、そこで皆、討たれた。城四郎自身も傷を負い、かろうじて命を保ち、川沿いに、越後国へ退いた。
同じ十六日、都では、平家は、これを何ともお思いにならず、前右大将宗盛卿が、大納言に復帰し、十月三日には、内大臣におなりになった。同じ七日、昇進のお礼を申し上げた。平家の公卿十二人がお供をし、蔵人頭以下、殿上人十六人が先払いをした。東国、北国の源氏たちが、蜂のように次々と立ち上がり、今にも都へ攻め上ろうとする中で、このように、波が立つのか、風が吹くのかも知らない様子で、華やかに振る舞ったことは、かえって、言ってもかいがないと思われた。
やがて、寿永二年になった。節会以下は、いつものとおりだった。内弁は、平家の内大臣宗盛公が務められた。正月六日、主上は朝覲のため、院の御所、法住寺殿へ行幸なさった。鳥羽院が、六歳で朝覲の行幸をなさった、その先例によると聞いている。二月二十二日、宗盛公は従一位に上られた。許しを得て、その日、内大臣の辞表を奉った。戦乱を慎むためだと聞いている。南都、北嶺の僧たち、熊野、金峰山の僧たち、伊勢大神宮の祭主や神官に至るまで、ひたすら平家に背き、源氏と心を通わせていた。四方へ宣旨を下し、諸国へ院宣を遣わしても、院宣も宣旨も、すべて平家の命令だと受け止め、従う者はなかった。



