
このページでは、『源氏物語』第39帖「夕霧」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第39帖「夕霧」原文全文をご覧ください。
「まじめな男」夕霧が、落葉宮への思いを深めていく
誰からも「まじめな人」と見られ、自分でも分別のある男として振る舞ってきた夕霧だったが、一条宮の落葉宮のことだけは、やはり理想的な女性として心から離れなかった。世間には、亡き柏木との友情を忘れず、その未亡人を親切に見舞っているだけのように見せながら、胸の内では、このまま何も起こらず終わるつもりなどなく、月日が経つほど思いはいっそう強くなっていた。
落葉宮の母、一条御息所も、「本当に珍しいほど情の深い御心だこと」と感謝していた。ただでさえ夫を亡くした娘とともに寂しい日々を送っているところへ、夕霧が絶えず訪ねてくれるので、慰められることも多かった。夕霧は最初から恋人らしい言葉を露骨にかけたわけではない。「今さら急に恋めいた態度を取るのもみっともない。まずは自分の深い思いをわかっていただき、宮が少しでも心を許される時を待とう」と考え、何かの折ごとに宮の様子をうかがいながらも、自分から直接思いを告げることは控えていた。
ところが御息所が物の怪にひどく悩まされるようになり、小野というところに持っていた山荘へ移った。以前から祈祷を頼んでいた律師が、山籠りして二度と里へ下りないと誓っていたため、その麓近くまで行き、特別に呼び下ろすためだった。御息所の車をはじめ、供の者に必要なものなども夕霧が用意した。むしろ血縁の近い人々のほうが、それぞれの公務や暮らしに追われて十分に気を配れないほどで、夕霧の世話は際立っていた。
夕霧は修法をすると聞けば僧への布施や浄衣まで細かく贈った。病床の御息所本人は返事を書くこともできないので、落葉宮が代わりに返事をする。わずか一行ほどの、ゆったりした筆跡と優しい言葉を見るだけで、夕霧はますます宮を見たくなり、手紙を送る回数も増えた。雲居雁も、「やはり、最後には何か起こる仲なのでは」と気づき始めていたので、夕霧にはそれも面倒だった。小野へ行きたいと思いながら、しばらくはすぐに出かけることもできなかった。
八月、小野の山里へ
八月十日過ぎ、ちょうど野辺の秋が美しくなるころだった。小野の山里がどうしても見たくなった夕霧は、「例の律師が珍しく山を下りているそうなので、ぜひ相談したいことがある。御息所の御病気も見舞いながら行ってこよう」と表向きはもっともらしい理由をつけ、供も親しい者五、六人ほどだけを狩衣姿で連れて出発した。
そこまで険しい山路ではないが、松ヶ崎あたりの小山にもすでに秋の色が見える。都で贅を尽くした邸とは違い、素朴な山里にはそれだけでしみじみした趣があった。粗末な柴垣まで風情あるものに整えられ、仮住まいながら品よく暮らしている。寝殿らしい東の放出には修法の壇が設けられ、御息所は北の廂、落葉宮は西側にいた。
御息所は物の怪が宮へ移ることを恐れて少し離れていたが、宮は母を一人にできず、一緒に山里まで来ていた。夕霧を正式に迎える客間もないので、落葉宮の御簾の前へ案内し、上臈の女房たちが御息所との消息を取り次いだ。御息所は、「こんなところまでわざわざお越しくださるとは、もったいないことです。もしこのまま死んでしまえば、この御厚意へのお礼すら申し上げられないと思いますと、それだけでも、もう少し生きていたいという気持ちになります」と伝えた。
夕霧も、もっと早く見舞いに来るつもりだったが六条院で用事があったことなどを詫びた。落葉宮は奥深く忍ぶようにしていたものの、簡素な旅先のしつらえでは人の気配を完全に隠すことはできない。柔らかく身じろぎする衣擦れの音だけでも、「そこにいらっしゃるのだ」と夕霧にはわかった。それだけで心は落ち着かなくなる。
夕霧は女房たちに、「こうしてこちらへ伺うようになって、もう何年にもなるというのに、ずいぶんよそよそしく扱われるものですね。御簾の外から、人づての返事をほんの少し聞くだけとは。もう少し若いころ、色恋に慣れた男だったら、こんなに初心な気分にはならなかったでしょう。これほど生真面目なまま年を取った男も、ほかにはいないでしょうね」と冗談めかして訴えた。
女房たちがその恨みを宮へ伝えると、落葉宮は、「母の病気があまりにひどく、それだけで生きた心地もしないので、御返事もできないのです」とだけ答えた。夕霧は、その言葉が宮自身からのものだと知ると姿勢を正し、「御息所の御病気を、私も身に代えたいほど心配しています。それというのも、御息所がお元気になり、宮が晴れやかな暮らしへお戻りになるところまで見届けたいからです。私の長年の思いを、ただあちらの御方への親切だけだと思って、宮御自身が少しもお気づきにならないのは残念でなりません」と、少しずつ本心を匂わせた。
夕霧の名のように立ちこめる霧
日が暮れていくにつれ、あたり一面に霧が立ちこめ、山の陰は薄暗くなった。ひぐらしがしきりに鳴き、柴垣の撫子が風になびいている。前栽の花は思うままに咲き乱れ、涼しい水音に山おろし、深い松の響きまで重なる。不断経の声が変わり、鐘が鳴り、人の立つ声、座る気配まで一つに混じって、何とも尊く、心細い。夕霧はすっかりその情景に心を捕らえられ、帰る気になれなかった。
御息所のところでは律師が加持を続け、人々もそちらへ集まっているため、落葉宮のあたりはひどく人が少ない。「今なら、自分の思いを直接口にできるのではないか」と夕霧が思っているところへ、霧は軒先まで深く流れてきた。
山里のあはれを添ふる夕霧に立ち出でむ空もなき心地して
この山里の寂しさをいっそう深くする夕霧に閉ざされて、もう立ち去る空さえないような気がします。
すると御簾の奥から、落葉宮の声がほんのかすかに聞こえた。
山賤の籬をこめて立つ霧も心そらなる人はとどめず
山里の垣根をすっかり包んで立つ霧であっても、心ここにあらずで帰ろうとする人を引き止めることはできません。
その声を聞けただけで夕霧は嬉しくなり、本当に帰ることを忘れそうになった。「家への道は霧で見えないのに、こちらの霧の垣根からは、さっさと帰れとおっしゃる。居場所のない男というのは、こんなものなのでしょうか」とためらいながら、とうとう長年忍び続けた思いまでほのめかした。しかし宮は、以前から何となく察していないわけではなかったものの、ずっと知らないふりをしてきた。それを言葉にはっきり出されると、いっそう煩わしく思い、返事をしなくなった。
夕霧は、「軽薄な男と思われたところで、もう仕方がない。せめて、どれほど長く思い続けてきたかだけでも知っていただこう」と決意した。供の将監を呼び寄せ、律師に話があるので今夜はこちらへ泊まる、初夜の勤行が終わったころ律師のいるところへ行くと伝えた。ほかの供は近くの荘へやり、馬に秣でも食わせておけ、ここで大勢で騒ぐな、と命じる。将監も「これは何かあるな」と察して立ち去った。
御簾の奥へ入り込む夕霧
夕霧はそのまま、「道も霧でよく見えませんから、しばらくこちらへ泊めてください。できれば御簾のそばで、律師が下りてくるころまで」と何食わぬ顔で言った。普段の夕霧なら、いつまでも居座って色めいた素振りを見せるような男ではない。落葉宮は「何ということ」と思ったが、いかにも逃げるように別の部屋へ移るのも女房たちの目にみっともないと思い、そのまま黙っていた。
ところが、宮への伝言を取り次ぐ女房が奥へ入っていく、その影について、夕霧まで御簾の内へ入り込んでしまった。まだ夕暮れで、深い霧のため室内は暗い。宮は驚いて振り返り、恐ろしくなって北側の障子の向こうへ逃げようとしたが、夕霧はすぐ追いつき、引き止めた。宮自身は向こうへ入りきったものの、衣の裾がこちらへ残っている。障子には向こう側から掛ける鍵もなく、宮はただ引き立てた障子を押さえ、水のように震えていた。
女房たちも呆然とし、どうすればよいかわからない。こちらからなら錠を掛けられるが、荒々しく宮を引きずり出すようなことなどできるはずもない。落葉宮は泣き出しそうな声で、「こんなことをなさるとは、思ってもみませんでした」と訴えた。
夕霧はあくまで落ち着き、「これほどそばにいることさえ、ほかの人以上に疎ましく、不愉快に思われるのでしょうか。取るに足りない私でも、長年声くらいは聞き慣れていただいたはずです」と言い、これまでの思いを穏やかな言葉で語り続けた。
宮には聞き入れる気などまったくない。ただ「どうして、こんなことに」と悔しく、それだけで胸がいっぱいだった。
夕霧は、「本当に子供のようなお振る舞いですね。私にある罪といえば、人知れず思い余るほど恋しく思ってきた、それだけでしょう。これ以上のことは、あなたの御許しがない限り決していたしません。ただ、このまま何も知らない顔をされながら朽ちていくほど苦しい思いをしてきたことだけは、はっきり知っていただきたいのです」と、なおも分別のある男らしく振る舞いながら訴えた。
薄い障子一枚を押さえているだけなのだから、力ずくならどうにでもなる。それでも夕霧は開けようとはしない。「そこまで、このわずかな隔てにこだわられるところが、かえって哀れですね」と苦笑した。近くで感じる落葉宮は、やはり優しく気品があり、艶やかだった。長く悲しみに沈んできたせいか、痩せて華奢で、無造作な袖のあたりまで柔らかく、身体に染みた香りも親しみ深い。そうしたすべてが集まって、いかにも愛らしく感じられた。
夜が更けるにつれ、風はいっそう心細く吹き、虫の声、鹿の声、滝の音までが入り乱れた。入る月は格子を閉めていない室内まで明るく照らしている。何の悩みもない人でさえ眠れなくなりそうな夜だった。夕霧は、「こうして何もわからないように振る舞っておられるほうが、かえって心が浅いように思われますよ。世間のことを何一つ御存じないわけでもないでしょう」と迫った。
落葉宮には、世慣れた女ならもっと気楽に応じるものだと言われることまで腹立たしい。「本当に、自分ほど不幸な女はいない」と思ううち、死んでしまいたいほどつらくなった。
我のみや憂き世を知れるためしにて濡れそふ袖の名を朽たすべき
この世のつらさを知る女は、私一人だけなのでしょうか。そのうえ涙に濡れ続けた袖に、さらに悪い噂まで着せられなければならないのでしょうか。
宮がほとんど独り言のように詠むと、夕霧は「これはまずいことを言ってしまった」と少し笑ったような気配で返した。
おほかたは我濡衣を着せずとも朽ちにし袖の名やは隠るる
私が新しく濡れ衣を着せなくても、すでに涙に濡れてきたあなたの袖の名が、今さら隠れるものでしょうか。
もう思い切って、私の心を受け入れてくださればよいのです。
そう言って月の明るいところへ誘うのも、宮には信じられないほど厚かましく思われた。それでも夕霧は、強く拒む宮を無理にどうこうすることだけはせず、軽く抱き寄せる程度にとどめ、「これほど誰にも負けない思いを知ってくださった上で、安心して私に接してください。あなたの御許しなしに、それ以上のことは決して、決していたしません」とはっきり約束した。そうしているうち、もう明け方近くになっていた。
朝霧の別れと、消えない「濡れ衣」
月は隈なく澄み渡り、霧にも隠れず部屋へ差し込んでいた。山荘の廂は浅く、ほとんど月と向き合っているような心細さである。落葉宮が明るい光を避けようとする姿まで、言葉にならないほど美しかった。夕霧は亡き柏木のことなども少し持ち出し、ようやく穏やかな話をする。けれど宮が、やはり自分を亡夫より下に見ているように感じると、夕霧は恨めしかった。
落葉宮のほうは、「柏木でさえ、まだそれほど高い官位ではなかったころから父院をはじめ皆に許され、自然に夫となった。それでも自分はあの結婚をつらいと思ったのに、まして今度は、六条院や大臣をはじめ、世間じゅうが何と思うだろう」と考えていた。自分一人の感情だけで済む問題ではない。御息所にまで知られれば、心ない娘と思われるのも苦しい。「どうか夜が明ける前にお帰りください」と、それしか言えなかった。
夕霧は、「明け方の露に濡れて帰れば、人は何と思うでしょう。これでもなお私に濡れ衣を着せるおつもりですか」と嘆きながら、それでもこのまま居座れば本当に噂になってしまうので、深い霧に身を隠して出ていった。
荻原や軒端の露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき
荻原や軒端の露にびっしょり濡れながら、幾重にも立ちこめる霧を分けて、私は帰っていかなければならないのですね。
「こんなに無理に追い返されるのだから、濡れ衣まで乾かせそうにありません」と夕霧が言うと、宮は冷たく返した。
分け行かむ草葉の露をかことにてなほ濡衣をかけむとや思ふ
帰り道の草葉の露に濡れることを口実にして、それでもまだ私に濡れ衣を着せようというのですか。
夕霧はその恥じらいと気高さに、ますます心を惹かれた。長いあいだ、人とは違うほど実直な男として振る舞い、さまざまな女性の誘いにも動かなかった自分が、今になってここまで恋に乱れるのを、「これほど強く求めて、あとになって自分が馬鹿を見ることにならないだろうか」と自分でも思う。それでも気持ちはどうにも収まらず、露の深い山道を帰っていった。
そのまま三条殿へ帰れば、雲居雁が濡れた衣を見て怪しむに決まっている。そこで夕霧は六条院の東の御殿へ寄り、衣を着替えてから朝の御前へ出た。一方、小野へはすぐに手紙を送ったが、落葉宮は開こうともしない。昨夜の出来事があまりに突然で、恥ずかしく腹立たしい。しかも母に知られることを思えば、いっそうつらかった。
夕霧の手紙には、長年堪えてきた思いがあふれていた。
魂をつれなき袖に留めおきてわが心から惑はるるかな
私の魂は、冷たいあなたの袖のもとへ置き去りにしたまま、身体だけが帰ってきました。今こうして迷い続けているのも、すべて自分の心のせいなのでしょう。
女房たちは、いつもの恋文とは少し違う真剣な気配に、「いったい何があったのだろう」と心配した。しかし御息所はまだ何も知らなかった。
御息所に知れた、小野の一夜
御息所は重く病んではいたが、少し気分のよい時には意識もしっかりしていた。加持を終えた律師が、「大日如来は嘘をおつきにならない。これほど心を尽くした修法に効験がないはずはありません」と荒々しい声で言ったあと、突然、「ところで、あの大将殿はいつからこちらへ通っておられるのですか」と尋ねた。
御息所が「そんなことはありません。亡き大納言と特に仲がよかったので、その縁を忘れず、この数年何かと親切にしてくださっているだけです。先日も病気を見舞いにお立ち寄りくださったので、ありがたいことと思っておりました」と答えると、律師は笑い飛ばした。
「いやいや、私に隠したって無駄ですよ。今朝、後夜の勤行に上がった時、西の妻戸から実に立派な男君が出ていらした。霧が深くて私は見分けられなかったが、弟子たちが『大将殿だ』と言っていました。昨夜は車まで帰して泊まっていらしたとか。たいそうよい香りがあたり一面に満ちて、頭が痛くなるほどだったから、なるほどあの方だったのでしょう。いつも本当によい香りを身につけていらっしゃる。
「しかし、これはよくない。大将殿には立派な本妻がいらっしゃる。今を時めく家の御方で、お子様も七、八人になっておられる。皇女だからといって、あの北の方を押しのけることなどできません。女というものは、こういう罪によって長い闇をさまよう身になるのです。相手の奥方の恨みを受ければ、それが来世までの深い絆になってしまいます。私は賛成いたしませんよ」と、頭を振りながら言いたい放題に言った。
御息所は、「そんなはずは……。本当に実直で堅い方です。旅先で少し休んだだけだと女房たちから聞いています」と打ち消しながらも、胸の中では不安になった。夕霧からただならぬ気配を感じたことがなかったわけではない。それでも落葉宮は人一倍慎み深く、世間から後ろ指をさされるようなことを許すはずがないと思いきっていた。ところが、人の少ない山里で、夕霧が無理に入り込んだのではないか――。そう考えると、胸が騒いだ。
律師が帰ると、御息所は小少将を呼び、事情を尋ねた。小少将は仕方なく最初からありのままを話し、今朝の夕霧の手紙や、落葉宮がほのかに漏らしたことまで説明した。「長年忍んでこられた思いを、直接お知らせしたかっただけなのでしょう。最後までそれ以上のことはなく、夜が明けきる前にお帰りになりました」と言ったが、御息所の衝撃は大きかった。
「障子は閉めていた」と女房たちが懸命に取り繕っても、御息所は、「そんなことではない。そこまで無防備に男の目に触れるようなことになった、そのこと自体が大変なのです。こちらの心が潔白でも、世間の人がそう見てくれるとは限らない。まして、あの律師の弟子や下働きの者たちが黙っているものですか。私が娘を高貴な身として大切にしてきたのに、軽々しい評判を立てられてしまう」と、涙をこぼした。
そして、「少し気分がよいうちに、こちらへ来るよう宮へ言ってください。もう長いこと顔を見ていないような気がする」と、泣きながら娘を呼んだ。落葉宮は母が事情を知ったことを察し、恥ずかしさと苦しさで、すぐには動くこともできなかった。
ようやく夕方、母のところへ渡ると、御息所は病床でありながらいつもの礼儀を崩さず起き上がり、「この二、三日お会いしなかっただけなのに、何年も離れていたような気がします。これから先、必ずまた会えるとは限らない世の中なのですね」と泣いた。宮もさまざまな悲しみが一度に込み上げ、何も言えない。御息所は宮を責めようとはしなかった。ただ娘の羞恥を思えば気の毒で、何があったのか直接尋ねることさえできなかった。
雲居雁が奪った手紙
そのころ夕霧は三条殿にいた。今夜また小野へ戻ろうと思っていたが、「いかにも何事かあったように、すぐ翌晩また行くのも世間に聞き苦しい」と我慢していた。そのため、長年会えなかったころ以上に思いが募り、胸の中には幾重にも物思いが重なっていた。
雲居雁は夫のこのごろの外出の気配を聞いて、不愉快に思いながらも知らない顔をし、子供たちと遊びながら昼の座に横になっていた。夜になって、小野から返事が届く。字が乱れ、いつもの手紙とは違うので、夕霧は灯りを近づけて読み解こうとした。その瞬間、雲居雁はもう見つけていて、這うように近寄ると夫の背後から手紙を奪い取った。
夕霧は驚きながらも、「何をするのです。まあ、みっともない。これは六条院の東の上からの手紙ですよ。今朝お具合が悪かったので、どうなったかと尋ねた返事です。見てみなさい。恋文らしい書き方ですか」と平然と嘘をついた。しかも強く奪い返そうとはしないので、雲居雁もすぐには開かなかった。
「年月が経つほど、私を軽く見ることまで身についてしまったようですね」と雲居雁が言うと、夕霧は笑いながら、「世間の男で、これほど一人の妻だけを守って、飼いならされた鷹のようにおとなしくしている者がいますか。むしろあなたにとっても、少しくらいほかの女性より抜きん出た扱いをされるほうが、世間から見ても張り合いがあるのではありませんか。こんな老人の番人に守られているようでは、あなたのためにも格好がつきませんよ」と、何とか手紙を取り戻そうと調子のよいことを言った。
雲居雁も、若々しく笑って、「いかにも、御自分が華やかな男になられたこと。今さらそんなお姿を見せられても、私は慣れていませんから困ります。前もって少しずつ慣らしてくださればよかったのに」と嫌味を返した。それでも夕霧は、結局手紙を奪い返せないまま眠ったふりをした。
ところが眠れるはずがない。雲居雁が寝たあと、昨夜の寝床の下までそっと探したが見つからない。朝になり、子供たちが起きてきて部屋じゅうを騒がしく走り回り、人形を作ったり文字を書いたりするうち、雲居雁自身は手紙を取ったことさえ忘れてしまった。夕霧だけが気になって仕方がなく、「あの返事には何が書いてあったのだろう。読まないまま散らしてしまったと思われるのもまずい」と一日中落ち着かなかった。
夕方、ひぐらしの声を聞いて、小野はもう深い霧に閉ざされているだろうと思うと、どうしても返事だけは送りたくなった。試しに座の奥を持ち上げてみると、そこに手紙が挟まれていた。見つけた嬉しさより、内容を読んだ衝撃のほうが大きかった。書いたのは一条御息所だった。
女郎花萎るる野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ
女郎花がしおれているこの野辺を、いったいどんな場所だと思って、一夜の宿などお借りになったのでしょう。
御息所があの夜のことを知り、心を痛めているのだとわかった。しかも苦しい病の中で、字もろくに書けないまま、これほど思い詰めて書いたのだ。夕霧は胸を潰された。「昨夜から、どんな思いで返事を待っていらしたのだろう。それなのに今日一日、手紙一つ送らなかった」。自分でも言いようのないほど申し訳なくなった。
夕霧はすぐ返事を書いた。
秋の野の草の茂みは分けしかど仮寝の枕結びやはせし
たしかに秋の野の草を分けて中へ入りはしました。しかし、そこで一夜を共にする枕を結んだわけではありません。
「昨夜の罪は、ただお邸に籠もっていただけのことです」と弁明し、宮へも長い手紙を書いた。使者には、「昨夜から六条院にいて、今ようやく退出したと言いなさい」と細かく口裏まで教えた。
御息所の死
しかし小野では、昨夜の夕霧の態度があまりにひどかった上、翌日の暮れまで返事さえ来ないので、一条御息所は、「いったいどれほど冷たい心なのだろう」と思い詰め、せっかく少し良くなっていた病がまた急に重くなった。
落葉宮本人は、一夜の出来事を母が考えているほど重大なものとは受け止めていなかった。ただ、思いもよらない男の前で、あれほど無防備な姿を見られたことだけが恥ずかしく、悔しかった。ところが母があまりにも深く悩み、それを自分の娘の軽率さのせいだと恥じていることが、宮にはかえってつらかった。
御息所は娘へ、「これまで私は、取るに足りない身ながらも、できるだけあなたを大切に育て、もう世の中のことも判断できる年齢になったのだから、あとのことは安心だと思っていました。それなのに、まだこんなに幼く、しっかりした意志を持っていなかったとは。普通の女性でさえ、夫を二人持つと世間から軽薄と言われるのです。ましてあなたほどの御身分なら、誰もが簡単に近づけるはずがない。それなのに、思ってもみないことがまた一つ加わり、あなたにも私にも、世間から聞き苦しい噂が立つかもしれない。
「亡くなった柏木との結婚も、初めから私の望みどおりだったわけではありません。けれど朱雀院をはじめ周囲も認め、父大臣も許される様子だったからこそ、『そういう宿命なのだろう』と私一人で反対しきれなかったのです。あの結婚のつらさだけでも、私はずっと見守ってきた。それなのに今度は、あなたの落ち度でもないのに、世間へさらに聞き苦しいことが加わろうとしている。せめてこれからは、しっかり心を持ってください」と、涙ながらに言い続けた。
落葉宮は何も言い返せず、ただ泣くばかりだった。「どうして、自分はこんなに落ち着かない宿命を背負っているのだろう」と、御息所自身も宮を見守りながら苦しんだ。その心の弱りにつけ込むように物の怪まで力を得たのか、御息所は突然意識を失い、身体が冷え切っていった。
律師たちは慌てて願を立て、激しく祈った。落葉宮は母にぴったり寄り添い、「自分だけ生き残るまい」と思い詰めている。そんな中へ夕霧の手紙が届いたことだけが、宮の耳へほのかに入った。「今夜も来ないのだろう」と御息所は涙をこぼし、「自分がどうしてあんな言葉を残してしまったのだろう」と、さまざまな後悔を胸に抱いたまま、とうとう息絶えてしまった。
もともと御息所は物の怪のため、何度も「もうこれまで」と思われるほど重くなったことがあった。そのため皆、今回もいつものように物の怪に一時引き込まれただけだと思って加持を続けた。しかし今度ばかりは、本当に最期だった。
母を失った落葉宮
御息所が亡くなったという知らせは瞬く間に広がり、六条院、致仕の大臣、そして山の朱雀院からも次々と弔問が届いた。朱雀院は特に心のこもった手紙を送り、「長く重く患っているとは聞いていましたが、いつものことのように思い、油断していました。今となっては何を言っても甲斐がありませんが、あなたがどれほど嘆いているかと思うだけで、胸が痛みます。どうか世の常の別れと思って、少しでも心を慰めてください」と娘を励ました。
落葉宮は、その父の手紙でようやく頭を上げることができた。御息所が以前から望んでいたとおり、その日のうちに葬送することになり、甥の大和守がすべてを取り仕切った。宮はせめて亡骸だけでももうしばらく見ていたいと願ったが、それで母が戻るわけでもない。皆が慌ただしく準備する中、夕霧が駆けつけた。
夕霧は、「今日は日取りもよくないのだから、こんなに急ぐ必要はないでしょう」と表向きは言いながら、何より落葉宮がどれほど嘆いているかを思い、いてもたってもいられず山里まで来た。薄暗い山荘は、葬送のための幕やしつらえでさらに物々しく、見るだけでも心細い。大和守が泣きながら出迎えた。夕霧は簀子に座り、女房を呼び出したが、皆が泣き崩れ、まともに話せる状態ではない。
小少将がようやく出てくると、夕霧もすぐには言葉が出なかった。「少しよくなっていらっしゃると聞いて、安心していたのに。夢にも、こんなことになるとは思いませんでした」と言う。落葉宮には、母が死ぬほどまで心を乱した原因の一つが夕霧にあるという思いがある。それだけに、その声を聞いても返事をする気になれない。
女房たちは、「これほどわざわざ深い山までお越しくださった御心を、まったくわからないようにしていらっしゃるのも、あまりです」と宮へ勧めたが、宮は「もう何を言えばよいのかわからない」と横になったままだった。夕霧は、「今はあまりにお心が乱れていらっしゃるのでしょう。少し落ち着かれてから、また参ります」と言い残し、葬送に必要な人や物を自分の荘から急いで出すよう命じた。突然のことで不足していた準備は、夕霧の手配によって格段に整った。大和守も、その厚意に何度も礼を言った。
母を送ったあと、落葉宮はそのまま小野に住み続けようと思っていた。せめて母の煙の上がった峰を近くに感じながら、ここで一生を終えたい。しかし周囲は、こんな寂しい山里にいつまでも置いておけないと心配した。
小野に通い続ける夕霧
九月になり、山おろしはいよいよ激しく、木々の葉は隠れるところもなく散っていった。宮はこの世のすべてが嫌になり、「命さえ自分の思いどおりにならない」と日夜泣き続けていた。供の女房たちも、山里の寂しさと主人の悲しみに、皆沈み込んでいる。
夕霧は毎日のように見舞いを送り、寂しい念仏僧たちの慰めになる品まで贈った。宮へは心を尽くした長い手紙を書き続け、あの一夜以来の思いも訴える。しかし宮は一行の返事さえしない。初めは「まだ母を失った悲しみに我を忘れているのだろう」と待っていた夕霧も、あまりに日が経つと恨めしくなった。
「悲しみにも限りはあるはずなのに。花や蝶を持ち出すような色恋の手紙なら、無視されても仕方がない。でも私は、あなたが悲しんでいることを心から気遣っているのです。自分が悲しい時に、『どうしていますか』と聞いてくれる人は、それだけでも親しくありがたいものではないでしょうか」。そんなことを考えながら、夕霧自身も亡き柏木を思い出した。
かつて大宮が亡くなった時、夕霧は深く悲しんだ。ところが父である致仕の大臣は、世間の習慣どおりに葬送を整えるだけで、夕霧ほど深く嘆くようには見えなかった。それが当時は冷たく思われたのに、六条院の源氏だけは、血のつながった家族以上に心を込めて大宮の死後の供養をしてくれた。その時、同じように人一倍深く悲しんでくれたのが柏木だった。もともと落ち着いて物事を深く考える男だっただけに、その情の深さが胸に残り、それからいっそう親しく思うようになったのだ。夕霧はそんな昔まで思い出し、一日中物思いに沈んだ。
雲居雁はなお、夫と落葉宮との関係を理解しきれず、「御息所とばかり、あれほど細かく手紙を交わしていたようだったのに」と不思議に思っていた。ある夕暮れ、物思いをしている雲居雁のもとへ、夕霧は子供を使いにして歌を送った。
あはれをもいかに知りてか慰めむあるや恋しき亡きや悲しき
どんな悲しみなのか、私にどうしてわかるでしょう。それでも、今生きているあなたが恋しいのか、亡くなった方が悲しいのか、その心を少しでも慰めたいのです。
雲居雁は、「また私と亡くなった人を妙な具合に並べるのね」と少し笑い、深刻になりすぎないよう返した。
いづれとか分きて眺めむ消えかへる露も草葉のうへと見ぬ世を
いったい何を特別に悲しいと選べるでしょう。この世そのものが、草葉の上から今にも消える露のようなものなのですから。
それでも夕霧は、「やはり、こんなふうに心を隔てるのか」と別のことばかり嘆いていた。
とうとう我慢しきれず、御忌が明けるまで待とうと思っていた決心も破り、夕霧は再び小野へ向かった。「もう悪い噂が立つことばかり恐れても仕方がない。結局は世間の夫婦として自分の思いをかなえるべきなのだ」と心を決めていた。雲居雁も夫の気持ちがそこまで進んでいることを感じ取り、今さら激しく止めようとはしなかった。
鹿の声に重なる二人の嘆き
九月十日過ぎ。山を深く知らない人でも、この時期の野山を見れば心を動かされずにはいられない。山風に耐えきれず木々の梢も峰の葛葉も競うように散っていく。その間から尊い読経や念仏の声だけがかすかに聞こえ、人の気配はほとんどない。木枯らしに吹き払われた庭には鹿が柴垣のそばまで来て、山田の鳴子にも驚かず、色濃い稲の中に交じって悲しげに鳴いている。
滝の音はいっそう激しく、物思いする人を責めるように轟いていた。草むらの虫は頼りなく声を弱め、枯れ草の下から龍胆だけが一人長く生き残ったように顔を出し、露に濡れている。どれも毎年の秋に見るものなのに、この場所、この時だからこそ、耐え難いほど悲しく感じられた。
夕霧は以前と同じ妻戸のそばへ立ち、しばらく庭を眺めた。柔らかな直衣に濃い色の衣、よく砧で打たれた生地が美しく透け、弱くなった夕日に照らされている。眩しそうにさりげなく扇を顔へかざす姿を女房たちは見て、「女だって、あれほど美しくありたいものなのに、とてもかなわない」と感嘆した。
夕霧は小少将を呼び寄せ、「もっと近くへ来てください。そんなに離れないで。これほど深い山を分けて来る思いに、まだ隔てが残っているはずがありますか。霧もこんなに深い」と言い、落葉宮への変わらない思いと、まったく返事をもらえない恨みを延々と訴えた。さらに、柏木が死ぬ間際に残した手紙のことまで話しながら涙を流した。
小少将も泣き、「あの夜、お返事を御覧にならないまま御息所は意識を失い、そのまま亡くなられました。弱ったところへいつもの物の怪までつけ込んだのでしょう。宮は御息所と一緒に沈むように、何もわからず暮らしておられました」と語った。
夕霧は、「だからこそ、宮は今、誰を頼りにすればよいのでしょう。朱雀院は世を捨てて深い山へ入り、便りを交わすことさえ難しい。どれほどこの世を嫌っても、人は自分の思いだけで死ぬことはできません。まして母君との別れだって、宮が望んで起きたことではなかったでしょう。どうか、私の思いをお伝えください」と頼んだ。
鹿がひどく鳴くのを聞き、夕霧は「私だって負けてはいられない」と詠んだ。
里遠み小野の篠原分けて来て我も鹿こそ声も惜しまね
人里遠い小野の篠原を分けて、ここまで訪ねてきた私も、あの鹿と同じように、声を惜しまず泣いているのです。
小少将は返した。
藤衣露けき秋の山人は鹿の鳴く音に音をぞ添へつる
喪の藤衣を露に濡らして暮らすこの山の人々は、鹿の鳴き声に自分たちの泣く声まで添えているのです。
風情のある歌というほどではないが、この場では小さく忍んだ声まで、夕霧にはしみじみと聞こえた。それでも落葉宮自身の返事は、「今はまだ、この悪夢のような世から少しでも目を覚ます時が来ましたら、その時には絶えずお見舞いくださる御心にもお答えできるでしょう」と、ひどく素っ気ないものだった。夕霧は「本当に張り合いのない御心だ」と嘆きながら帰った。
帰り道、十三夜の月が鮮やかに昇った。一条宮のそばを通るので、夕霧は荒れた邸を覗いた。未申の方は崩れ、人影もなく、月だけが遣水の面を澄み渡って照らしている。ここで柏木と音楽を楽しんだ昔が思い出された。
見し人の影澄み果てぬ池水にひとり宿守る秋の夜の月
昔ここで見た人の面影は、もう跡形もなく消えてしまった。この池水には、秋の夜の月だけが一人、家を守るように映っています。
三条殿へ帰ってからも、夕霧の心は小野へ飛んだままだった。雲居雁は本気で不愉快になっている。「昔から六条院の女君たちを、何かというとすばらしい例に持ち出し、浮気な人間を嫌ってきた方なのに。私はあなたこそ世間の手本になるような誠実な男だと信じていた。それが最後の最後になって、私に恥をかかせるようなことになるのでしょうか」と、深く嘆いた。
二人は背を向け合ったまま夜を明かした。夕霧は夜明け前、小野への手紙を急いで書いた。
いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢覚めてとか言ひしひとこと
いったいいつになったら、あなたは私へ声をかけてくださるのでしょう。「この明けない夜の夢から目を覚ましたら」とおっしゃった、あの一言を私は待ち続けています。
返事を持ってきたのは昼も遅くなってからだった。小少将からのものだけで、宮自身は相変わらず返事をしない。ただ、夕霧を気の毒に思った小少将が、宮の手習いを盗んで破り取り、手紙の中へ入れてくれていた。「宮御自身も、手紙だけは御覧になったらしい」とわかるだけで、夕霧は情けないほど喜んだ。
そこには、物思いに任せたような文字で――
朝夕に泣く音を立つる小野山は絶えぬ涙や音無の滝
朝も夕も泣く声ばかりが絶えないこの小野山では、流れ続ける涙こそ「音無の滝」なのでしょうか。
夕霧は、今まで他人の恋を見て、「あんなに心を焦がすなんて正気ではない」と思っていた。それがいざ自分の身になってみれば、本当に耐え難いものなのだと、今さら思い知った。
小野から一条宮へ戻される落葉宮
この噂は六条院の耳にも入った。源氏は、夕霧が大人らしく何事にも分別を働かせ、人から非難されるところなく暮らしているのを、若いころ浮名を流した自分の汚名まで晴らしてくれるようで誇らしく思ってきた。それだけに、「どちらの女性にも気の毒な話になったものだ。一条宮はまったく他人というわけでもなく、致仕の大臣も事情を察していないはずがない。結局、宿世というものから逃れることはできない。ここで自分が口を挟むべきではない」と思った。
紫の上にも、自分たちの過去やこれからを思いながら、「こういう話を聞くほど、もし私が先に死んだら、あなたのことが心配でならない」と話す。紫の上は顔を赤らめ、「そんなにまで私を後へ残すおつもりなのですか」とつらく思った。
ある時夕霧が参上すると、源氏は御息所の四十九日や一条宮の様子を尋ねた。夕霧は御息所の供養を大和守一人が取り仕切っていることを話し、「身近にしっかりした後見のない人は、生きている間だけでなく、こうした死後のことまで心細いのだと、つくづく思います」と答えた。源氏は落葉宮について、「朱雀院も特にかわいがっていらした皇女だった。人柄も悪くない方なのでしょう」と言ったが、夕霧は「御息所は行き届いた方でした」とだけ答え、宮本人については何も言わなかった。
源氏は、「これほど実直な男が本気で思い込んだのなら、止めたところで聞くまい」と判断し、それ以上は何も言わなかった。
落葉宮は、このまま小野で一生を終えたいと思っていた。しかしその話が朱雀院の耳に入ると、「それはいけません」と何度も諭された。「世の中が嫌になったからといって、すぐ出家するのはかえって見苦しいものです。女三の宮まで尼となっているのに、姉宮まで同じようになれば、人は何と言うでしょう。まして妙な噂が立ったあとで出家すれば、『そのために世を捨てた』と言われかねない。もう少し心を静めてから考えなさい」と言われたのである。
夕霧も、「今さら『御息所が二人の仲を知っておられた』と世間には思わせてしまえばよい。亡くなった方に少しだけ責任を引き受けていただいて、いつから始まったともわからないようにしてしまおう。これから新しく恋人のように通い、涙を流して求愛し続けるのも、あまりに初心すぎる」と腹を決めた。そして落葉宮を一条宮へ戻す日まで自分で決め、大和守を呼んで邸内の準備を命じた。荒れていた一条宮をすっかり磨き上げ、壁代、屏風、几帳、御座に至るまで美しく整えさせた。
移る日には、夕霧自身が小野へ迎えに行き、車や前駆まで用意した。しかし落葉宮は「絶対に戻らない」と言う。大和守も、「私は国へ下ることになっています。このまま宮を山里へ残し、誰が御世話をするのです。女性お一人のお心だけで、御自身の身をきちんと守り通せる世の中ではありません。どれほど賢く深いお考えをお持ちでも、周囲の人に支えられてこそなのです」と必死に説得した。
とうとう女房たちが皆で宮へ美しい衣を着せ替えさせた。宮は自分の髪を見ると、六尺ほどの長さはあるものの、以前より細くなっている。「なんという衰えた姿だろう。とても人に見せられるようなものではない」と嘆き、また横になってしまった。髪を切り、出家したい気持ちはいよいよ強かったが、刃物などはすべて女房たちが隠していた。
人々はもう荷物を先に運んでしまい、宮一人を山里へ残すことなどできない。宮は泣きながら車へ乗った。かつて小野へ来る時、病んでいた母が髪を撫で整え、自ら車を降りるのを助けてくれたことが思い出され、目の前が涙で霞む。傍らには柏木の形見として残した螺鈿の経箱が置かれていた。
のぼりにし峰の煙に立ちまじり思はぬ方になびかずもがな
母の煙が昇っていったあの峰の煙に私も混じって、望んでもいない方へ流されずにいられたらよいのに。
恋しさの慰めがたき形見にて涙にくもる玉の筥かな
どうしても慰められない恋しさの形見として残された、この美しい箱まで、涙に曇って見えます。
一条宮へ着いてみれば、邸は人で賑わい、以前とはまるで違う。宮にはもはや自分の家という気がせず、疎ましくさえ感じられ、車からなかなか降りようとしなかった。夕霧は東の対の南面を自分の居場所のように整え、すでに主人顔で待っていた。
夕霧、ついに落葉宮のもとへ
夕霧は小少将へ、「本当に長く私を思ってくださるなら、今日明日だけでも静かにしてから宮へ申し上げてください」と頼んだが、小少将は、「宮はますます物思いに沈み、亡くなった方のように横になっています。こちらが慰めようとしても、それさえおつらいと思っていらっしゃるので、何も申し上げられません」と困り果てた。
「まったく理解のできない御心だ」と夕霧は思った。「それほど私を憎く、見たくもない人間と思われているのか。こんなにまで拒絶される理由を、誰かに判断してもらいたいくらいだ」と嘆きながらも、もう引き下がるつもりはなかった。
落葉宮は夕霧の強引さを、「なんて情けなく、薄情で軽々しい人なのだろう」と憎み、若々しく騒いだと言われてもよいと、塗籠へ一人で入り、内側から戸を閉めてしまった。夕霧は悔しく思ったが、「いつまでもこれが続くわけではない」と、比較的のんびり構えて一晩を明かした。
明け方になっても、「ほんの少しだけでも戸を開けてください」とどれだけ頼んでも、宮は動かない。
怨みわび胸あきがたき冬の夜にまた鎖しまさる関の岩門
恨み続けても胸の晴れない長い冬の夜に、あなたはさらに固く、この関の岩戸を閉ざしてしまわれるのですね。
夕霧は泣きながら一度六条院へ引き上げた。しかし結局、女房たちも「いつまでもこのままでは、かえって世間から不自然に思われます」と宮へ勧めるようになった。夕霧からも、「あなたのお気持ちどおりにするから、せめて御喪の間だけは静かに過ごしたい、ということなら、それでもかまいません。ただ、今さら完全に私を遠ざければ、あなた御自身の評判まで気の毒になります」と言わせてくる。
宮は、「この悲しみの中へ、こんな無理なことまで重ねてくるのが本当に恨めしい」と拒み続けた。しかし最後には、小少将たちまで、「このままではかえって宮のためにならない」と考え、人が出入りする塗籠の北口から夕霧を中へ入れてしまった。
宮は、信じていた女房たちにまで裏切られたように感じた。「こういう世の中なのなら、これ以上にひどい目に遭うことだってあるのだろう。自分にはもう頼れる人が一人もいない」。母を失った身が、返す返すも悲しかった。
夕霧は、宮にも理解してほしいと思う道理をあれこれ語り、情のこもった言葉を尽くした。しかし落葉宮には、ただ「つらい、嫌だ」という思いしかない。
夕霧は、「それほどまで、言葉にできないほど嫌な人間と思われているのなら、本当に恥ずかしい。こんな思いを抱き始めてしまったこと自体を悔やみたいくらいです。でも、もう元に戻すことはできない。今さら、何を守り抜いたという立派な評判が残るでしょう。もう、すべてを失った身だと思ってください。思いどおりにならない時には身を投げる人さえいるといいます。私のこの深い思いを、あなたのために身を投げた淵だとでも思ってください」と説いた。
落葉宮は髪まで巻き込み、単衣を引きかぶって声を上げて泣いた。その姿があまりに深く痛々しいので、夕霧も「どうして、こんなにまで嫌われるのだろう。どれほど愛していた相手でも、ここまで関係が進めば少しは心が和らぐものなのに。岩や木よりも動かないということは、よほど自分との縁が遠く、憎く思っているのだろうか」とつらくなった。
同時に、三条殿にいる雲居雁のことが思い出される。幼いころから互いに何の疑いもなく思い合い、長い年月を経て、今では完全に夫を頼りきっている。その妻を自分から苦しめているのだと思えば、夕霧自身もやりきれない。結局、その夜はそれ以上強く宮をなだめようともせず、嘆きながら明かした。
それでも、いつまでも出たり入ったりするだけでは不自然なので、翌日も一条宮にとどまった。塗籠には香の唐櫃や厨子などわずかな調度しかない。朝日の気配が漏れてくる中、夕霧は宮の衣を少しよけ、乱れた長い髪を掻きやって、初めて近くからその姿を見た。非常に上品で女性らしく、優艶な人だった。夕霧自身も、きちんと威儀を整えている時以上に、くつろいだ姿は限りなく美しい。
けれど宮には、「柏木でさえ、自分の容貌は完璧ではないと心のどこかで思っているようなところがあった。それなのに、夫を失って痩せ衰えた今の自分を、この人がいつまで見続けていられるのだろう」と、恥ずかしさばかりが募った。何より、あちらにもこちらにも世間から非難される余地しかなく、母を失った直後という時まで悪い。そのため、夕霧の思いを受け入れる気持ちにはなれなかった。
雲居雁、三条殿を出る
夕霧が一条宮で、無理にも昔から住み慣れた夫のような顔をして過ごしているころ、三条殿の雲居雁は、「これでもう終わりなのだろうか。まさかそこまではと思っていたのに、『まじめな男が心を変える時は跡形もない』と言うのは、本当だったのね」と思い知らされた。とてもこのまま侮られた姿を見せ続ける気にはなれず、父の大邸へ方違えに行くという名目で移ってしまった。
夕霧がその話を聞き三条殿へ戻ると、子供たちの半分ほどは残されていた。幼い姫君たちは父を見つけて喜び、まとわりつく。母を恋しがって泣く子もいる。夕霧はかわいそうになり、雲居雁へ何度も使いを送って迎えようとしたが、返事さえない。
さすがに父大臣の耳へ入ることも考え、夕霧は自ら雲居雁のいる邸へ出向いた。寝殿にいるというので、いつもの部屋には女房と幼い子供たちしかいない。
夕霧は、「今さら、なんて子供じみたことをなさるのです。こんなに大勢の子供をあちらこちらに置き去りにして。昔からあなたが、こういう融通の利かない性格だとは知っています。それでも幼いころからどうしても心から離れず、今ではこれほどたくさんの子供までいるのだから、互いに見捨てるようなことはないと信じてきた。それなのに、たった一つのことで、こんなふうになさるのですか」と責めた。
雲居雁は、「何を言われても、もう愛想を尽かされた身なのでしょう。今さら私が元へ戻ることもありません。あちらに残っている子供たちだけでも、見捨てずにいてくだされば、それで結構です」と答えた。
夕霧は、「ずいぶん穏やかな御返事だこと。結局、誰の名誉が傷つくと思っているのです」と言ったものの、その夜は無理に連れ戻そうとはせず、一人で寝た。「いったい、なんという中途半端な時期なのだろう。小野の人はあれほど心を閉ざし、三条の妻はこちらへ来てしまった。こういうことを面白がる男というのは、どんな人間なのだ」と、さすがの夕霧も懲り懲りするような思いだった。
翌朝、夕霧は少し脅すように、「世間にこんな若々しい喧嘩を見られるのもみっともない。あなたが本当にこれで終わりだと言うなら、それも試してみましょう。三条に残っている子たちは皆あなたを恋しがっていました。あの子たちまで私が引き取ってしまってもよいのですか」と言った。そして幼い姫君へ、「こちらへ来なさい。あなたを見にこんなふうに何度も来るのも格好が悪いから、あちらの兄弟たちと一緒に暮らしましょう」と誘った。
さらに、「母君の言うことを何でもそのまま習ってはいけませんよ。意地を張って何も考えなくなるのは、とても悪いことです」と幼い娘にまで言い聞かせた。
柏木の父から落葉宮へ
致仕の大臣も、一連の騒ぎを聞き、「世間の笑いもののようではないか」と嘆いた。「しばらくそのままにして様子を見るがよい。雲居雁の側にも考えるところがあるのだろう。女があまり激しく行動するのも、かえって軽く見えるものだ。いったん出てきた以上、すぐ愚かに戻る必要もない。やがて夕霧の本当の心も見えてくるだろう」と言った。
その一方で大臣は、亡き柏木の妻だった落葉宮のこともやはり忘れることができず、蔵人少将を使者にして一条宮へ手紙を送った。
契りあれや君を心にとどめおきてあはれと思ふ恨めしと聞く
やはり何か深い縁があるのでしょうか。今もあなたのことが心から離れず、つらい思いをしていると聞けば、かわいそうに思われてなりません。
「今でも、あなたを見放すことはできません」と添えてあった。蔵人少将は柏木の弟でもあり、昔からこの邸に出入りしていたので、懐かしそうにあたりを眺めた。「以前から参り慣れているので、今さらよそよそしい気持ちはしません。それなのに、もうこちらでは昔のように許してくださらないのでしょうか」と、少し意味ありげなことまで言う。
落葉宮は返事を書くことさえつらかった。「もし亡き母が生きていたなら、このことを嫌だと思いながらも、きっと世間から私を守ってくれただろうに」。そう思うと涙ばかりが先に立つ。ようやく、心に浮かんだままを書いた。
何ゆゑか世に数ならぬ身ひとつを憂しとも思ひかなしとも聞く
どうして、この世で数にも入らない私一人のことを、つらい思いをしている、悲しんでいるとまでお聞きになるのでしょう。
少将は女房たちと昔話をし、「今までは御簾の前へ来ても、何とも頼るところのない気がしましたが、これからは自分にも御縁ができたような気がして、時々参りますよ」と、さらに思わせぶりなことまで言って帰った。
雲居雁と藤典侍――「人の上」だった悲しみが自分へ
雲居雁はますます機嫌を悪くし、夫と離れたまま日を過ごした。夕霧も日が経つほど思い悩むことが増えていく。
そんな騒ぎを聞いた藤典侍は、「夕霧は昔から、私のことをいつまでたっても正式な相手としては許してくださらないようにおっしゃる。それなのに、今度はこんな簡単には侮れない相手まで現れたのね」と思い、時々雲居雁へ手紙を送るようになった。
数ならば身に知られまし世の憂さを人のためにも濡らす袖かな
もし私が正式な妻として数に入る身なら、この世のつらさを自分自身の身で知っていたのでしょう。それでも今は、あなたのことを思って私の袖まで涙に濡れています。
雲居雁には少し生意気にも感じられたが、この悲しい時の退屈の中では、「この人だって、今まで何とも思わずに過ごしてきたわけではなかったのだろう」と、少し心を寄せるようになった。
人の世の憂きをあはれと見しかども身にかへむとは思はざりしを
これまでは、ほかの人が味わうこの世のつらさを、かわいそうだと眺めていただけでした。それがまさか、自分自身の身に返ってくるとは思ってもいませんでした。
そのままの心を書いた歌だと、藤典侍も哀れに読んだ。
昔、夕霧と雲居雁の仲が引き離されていたころ、夕霧が人知れず心を寄せていた女性は、ほとんどこの藤典侍一人だった。しかし雲居雁と正式に結婚したあとは、夕霧の通いもめったになくなり、以前よりずっと素っ気なくなった。それでも二人の間には、いつの間にか大勢の子が生まれていた。
雲居雁との間には、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君。藤典侍との間には、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君。合わせて十二人である。どの子にも目立った欠点はなく、それぞれかわいらしく成長していた。中でも藤典侍腹の子供たちは顔立ちがよく、才気もあり、皆すぐれていた。三の君と次郎君は六条院の東の御殿で特に大切に育てられ、源氏も見慣れるうち、たいそうかわいがっていた。
こうして夕霧をめぐる女たちの仲は、何とも言いようのない状態になっていったのである。
