
このページでは、『源氏物語』第22帖「玉鬘」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第22帖「玉鬘」原文全文をご覧ください。
忘れられない夕顔
あれから長い年月が過ぎても、源氏は、あまりにも早く失ってしまった夕顔のことを少しも忘れていなかった。その後、さまざまな性格の女性たちと出会い、その人柄を見比べるたびに、「あの人が生きていたら」と、今さらどうにもならないことながら、懐かしく惜しく思い出すのだった。
右近は特別に身分のある女房ではなかったが、源氏は夕顔の形見のように思って可愛がり、昔からの女房の一人として長く仕えさせていた。源氏が須磨へ移った時、二条院の女房たちを紫の上のもとへ託したのをきっかけに、それからはずっと紫の上に仕えている。紫の上も、気立てがよく使いやすい女房として右近を気に入っていた。
けれど右近の心には、今も夕顔への思いが消えなかった。「もしあの方が生きていらしたら、明石の君ほどのお扱いには決して劣らなかったでしょう。源氏の君は、それほど深く愛していなかった女性でさえ見捨てず、長く面倒を見ていらっしゃる。それなら夕顔様は、最高の身分の方々と肩を並べることまではできなくても、今度の六条院へ移る女性たちの一人には、きっと入っていらしたはずなのに」と思うと、今さらながら悲しくてならなかった。
もう一つ、右近には気掛かりなことがあった。夕顔が西の京に残してきた幼い姫君の行方を、今ではまったく知らないのである。夕顔からは生前、「今さらどうにもならないことで私の名前を世間へ漏らさないで」と固く口止めされていたので、それを守って姫君を捜し出そうとも、訪ねようともしてこなかった。そのうち姫君の乳母の夫が少弐となって筑紫へ赴任することになり、姫君も一緒に下ってしまった。姫君が四歳の年のことだった。
夕顔の娘、筑紫へ
乳母たちは、夕顔がいったいどこへ消えたのか知ろうと、あらゆる神仏へ願をかけ、昼も夜も泣きながら恋しがり、心当たりの場所を捜し回った。けれど最後まで何の消息も得られなかった。
「こうなったら仕方がない。せめてこの姫君だけでも、母君の形見として大切にお育てしよう。でも、こんな幼い姫君を私たちのような者に連れられて、はるばる筑紫まで下らせるなんてあまりにもおいたわしい。やはり父君にだけは、それとなくお知らせしたほうがいいのではないか」
そんな相談もした。だが、ちょうどよい伝手がない。「母君がどこへ行かれたのかも知らないのに、もし父君から尋ねられたら、何と申し上げればよいのか」「まだ姫君とはそれほど親しくしていらっしゃらないのだから、幼い子だけを手元へ残されても、かえって心配だろう」「かといって事情を知りながら、『ではそのまま筑紫へ連れていけ』とお許しになるはずもない」――。
あれこれ迷った末、結局誰にも知らせないまま、姫君を舟へ乗せることになった。まだ幼いのに、すでに気品があり、可愛らしく美しい。そんな姫君を、特別な設備もない粗末な舟へ乗せて漕ぎ出す時、乳母たちは胸が痛んだ。
姫君は幼心にも母を忘れておらず、折々に、「母上のところへ行くの?」と尋ねる。そのたび乳母たちは涙が止まらない。乳母の娘たちまで一緒に泣くので、「舟の上でそんな不吉なことをするものではありません」と、互いにたしなめながらの旅だった。
途中、美しい景色を見るたび、「若々しく、何にでも心を動かされる方でしたものね。こんな旅の景色をお見せしたかった」「もし母君が生きていらしたら、私たちだって筑紫へ下ることにはならなかったでしょうに」と夕顔を思い出した。京の方角を振り返れば、岸へ戻ってゆく波さえ羨ましい。
そこへ舟人たちが荒々しい声で、「なんとも物悲しく、遠くまで来たものだ」と歌うのを聞き、乳母たちは向かい合って泣いた。
舟人もたれを恋ふとか大島のうらがなしげに声の聞こゆる
あの舟人たちは、いったい誰を恋しく思っているのでしょう。大島の浦で、あんなにも悲しそうな歌声が聞こえてきます。
来し方も行方も知らぬ沖に出でてあはれいづくに君を恋ふらむ
これまで来た道も、この先どこへ行くのかもわからない沖へ出て、私たちはいったいどこで、あなたを恋しく思い続けるのでしょう。
都を遠く離れていく心を、それぞれ歌にして慰め合ったのである。
金の岬を過ぎるころには、「私たちは決して母君を忘れない」と言うことが、皆の口癖のようになっていた。筑紫へ着いてからは、都との距離があまりにも遠いことを思うにつけ、いっそう夕顔を恋しく思い、姫君だけを生きがいにして明け暮れた。
ごくまれに、夕顔が夢へ現れることもあった。その時、夕顔と同じような姿の女性がそばに付き添っていることがあり、目覚めたあと乳母が気分を悪くして寝込むようなことまであったので、「やはり母君は、もうこの世にはいらっしゃらないのだ」と思うようになった。それが何より悲しかった。
少弐の死と、果たせなかった上京
やがて少弐の任期が終わり、京へ帰る時期になった。だが、筑紫ほど遠い土地から、特別な財力もない人が一族を連れて上京するのは簡単ではない。ぐずぐずと出発できずにいるうち、少弐は重い病にかかってしまった。
死を覚悟した少弐は、十歳ほどになった姫君を見るたび、このうえなく心配した。成長した姫君は、恐ろしいほど美しかった。
「私までこの姫君を残して死んでしまったら、これからどんな暮らしへ落ちていかれることだろう。こんな辺鄙な土地で育てているだけでも申し訳ないと思っていた。何とか早く都へお連れし、しかるべき方にも姫君の存在を知っていただき、そのあとはご自身の運命に任せてお見守りしようと思っていたのだ。都なら広い。何とか暮らしてゆく道もあるだろう。それなのに、ここで私の命が尽きようとは」
少弐には三人の息子がいた。死の床で、その三人へ言い残した。「何よりも、この姫君を都へお連れすることだけを考えてくれ。私の供養などは後回しでいい」
姫君の素性は館の者たちにも知らせていなかった。ただ、「私の孫で、特別に大切に育てなければならない理由のある姫君だ」とだけ言い、人目にも触れさせず、限りなく大切に育ててきた。ところがその少弐が急死すると、一家はすっかり心細くなり、すぐにでも都へ帰ろうとした。
しかし少弐と仲の悪かった土地の有力者も多く、あちこちへ遠慮し、身の危険まで気にしなければならない。そうして身動きが取れないまま、何年も過ぎてしまった。その間にも姫君はますます美しく成長した。母の夕顔以上とも見える清らかな美貌に、父である内大臣の血筋まで加わったためだろうか、品があり、愛らしい。性格もおおらかで、申し分のない女性になっていた。
二十歳になった姫君
姫君の評判を聞きつけ、好色な田舎の男たちが次々に言い寄ってきた。乳母の一家には、どれもとんでもないことに思われ、誰の話も取り合わなかった。
そこで、「顔はそれなりに美しいのですが、ひどい身体の障害がありますので、人にも見せず、このまま尼にして一生手元へ置くつもりなのです」と噂を流した。
すると土地では、「亡くなった少弐の孫娘には、ひどい欠陥があるらしい」「あれほどの美人だというのに、惜しいことだ」と噂された。それを耳にするだけでも、乳母たちには縁起でもなく悲しかった。
「何とかして都へお連れし、本当の父である内大臣にお知らせしなければ。姫君がまだほんの幼いころ、あの方はたいそう可愛がっていらした。今さら姫君のことを知ったとしても、きっと見捨てたりはなさらないはずだ」
そう願い、神仏へ何度も願を立てた。
だが乳母の娘や息子たちは、それぞれ土地での縁ができ、暮らしの基盤を持つようになっていた。心の中では都へ帰らなければと思い続けながら、京は年々遠ざかるばかりだった。
姫君自身も年齢とともに物事がわかるようになり、自分の境遇をひどくつらいものと思うようになった。何度も長期間の精進をしながら祈り続けた。二十歳ほどになるころには、すっかり美しく成長し、このまま埋もれさせるには惜しいほどの女性になっていた。
一家が暮らしていたのは肥前国だった。そのあたりで多少とも名のある男なら、まず少弐の孫娘の噂を聞きつけるほどだった。求婚の話は絶えるどころか、耳がうるさくなるほど次々に舞い込んできた。
大夫監の強引な求婚
中でも厄介だったのが、大夫監という男だった。肥後国に一族を広く持ち、その土地では名も通り、たいそうな勢力を持つ武士である。荒々しい男だったが、妙に色好みなところまであり、顔の美しい女を集めて自分のものにするのを好んでいた。
姫君の噂を聞くと、「どんなひどい欠点があろうと、俺なら目をつぶって妻にしてやろう」と、ひどく熱心に迫ってきた。乳母たちは気味が悪くてたまらず、「そんな話を聞くくらいなら、姫君は尼になってしまいたいとおっしゃっています」と断らせた。
ところが大夫監は、かえって逃げられるのではないかと警戒し、強引に肥前まで乗り込んできた。そして乳母の息子たちを呼び寄せ、「姫君を妻にできたなら、お前たちとは同じ仲間として、互いに力を合わせよう」などと持ちかけた。
三人のうち二人は、大夫監の勢力に心を動かされた。「初めは姫君に似つかわしくないと思って気の毒だったが、俺たちがこれからこの土地で生きるには、あれほど頼もしい後ろ盾もない」「たとえ高貴な血筋の姫君でも、本当の父親から娘として認められず、世間にも知られないままなら何の意味がある。これほど熱心に望んでくれるのだから、今となってはむしろ幸運なのではないか」「どこへ逃げたところで、あの男から本当に逃げ切れるものか」「怒らせたら、何をされるかわからない」などと言い出した。
それを聞いて、三兄弟の真ん中にあたる豊後介だけは強く反対した。「やはり、とんでもない。あまりにも惜しいことだ。亡き父も、姫君を都へお連れするよう言い残している。どんな手を使ってでも、京へお連れしよう」
乳母の娘たちも泣き騒いだ。「母君があのように行方知れずになってしまわれた代わりに、せめてこの姫君だけでも、人並みに幸せな姿を見届けたいと思っているのに」「あんな男たちの中へ入ってしまわれるなんて」
そんな周囲の嘆きなど知らず、大夫監本人は、自分こそこの土地で最高の男だと思い込んでいた。手紙まで送ってくる。字そのものはひどく汚いというほどでもなく、唐の色紙へ香まで焚きしめ、本人としては風流に書いたつもりらしいが、文章はひどく歪んでいて田舎くさかった。
そのうえ、乳母の家の次男まで味方につけ、二人で直接やって来た。
姫君を「后にする」と豪語する男
大夫監は三十歳ほど。背が高く、どっしり太っている。特に不潔な男というわけではなかったが、そう思って見るせいか何とも疎ましく、荒々しい振る舞いを見るだけでぞっとした。血色だけはよく、ひどくしゃがれた声でぺらぺらと喋っている。
本来、女のもとへ通う男は夜の闇に隠れて訪ねるものなのに、この男は春の夕暮れから堂々とやって来た。ずいぶん変わった恋人である。
あからさまに拒絶して怒らせるわけにもいかず、乳母が相手に出た。
大夫監は得意げに言った。「亡くなった少弐殿はたいそう情け深く、立派な方でした。私もぜひ親しくお付き合いしたいと思っていたのですが、その気持ちをお見せする間もなく亡くなってしまわれた。それが悲しくてなりません。そこで今度こそ、その代わりに私が一心にお仕えしようと決意し、今日は無理を承知で参ったわけです。
こちらにいらっしゃる姫君は、並々ならぬ血筋の方だと伺っています。まことに恐れ多い。だからこそ、私だけの大切な君として、頭の上にでもお載せするつもりでお仕えしましょう。あなたがたが渋っていらっしゃるのは、私にほかにも女が大勢いると聞いて、嫌がっておられるからでしょう。しかし、あんな女どもを姫君と同じ扱いなどするものですか。私の姫君を、后の位より低い扱いになどいたしませんよ」
実にもっともらしい顔で言い続ける。
乳母も刺激しないよう、「これほどありがたいお話をいただけるのですから、本当に幸せなことと思っております。ただ、姫君はよほど宿世の悪い方なのでしょうか、少し人にはお見せしにくい事情がありまして、どうして人前へ出られようと、人知れず苦しんでいらっしゃるものですから、私も困っているのです」と答えた。
「何も遠慮することはない。たとえ天下一の盲目で、足まで折れていらしたとしても、私は最後までお世話申し上げます。この国の仏も神も、みんな私の言うことを聞くのですからな」
そんなことまで威張って言う。
「では何日に」と結婚の日取りまで決めようとするので、「今月は季節の変わり目で縁起が悪くて」などと、こちらも田舎風の理屈を持ち出して何とか引き延ばした。
帰り際、大夫監はせめて一首くらい歌を詠んでおこうと思ったらしい。しばらく考え込んだ末、得意げに詠んだ。
君にもし心違はば松浦なる鏡の神をかけて誓はむ
もし私の心があなたに背くようなことがあれば、松浦の鏡の神にかけて罰を受けてもよいと誓いましょう。
「これは、なかなかよい歌をお作り申し上げたと思っております」
自分でそう言って笑うのも、まるで風流人らしくなく、いかにも不慣れだった。
姫君はそんな相手に返歌などする気にもなれない。乳母の娘たちに作らせようとしても、「私にはなおさら何も思いつきません」と逃げている。あまりに長く返事がないので困り果て、乳母が震える声で、思いつくままに返した。
年を経て祈る心の違ひなば鏡の神をつらしとや見む
長い年月、神に祈り続けてきた願いと違うことになってしまったなら、私は鏡の神さえ恨めしく思うことでしょう。
すると大夫監が突然、「待て待て。これはどういう意味でおっしゃったのですかな」と近寄ってきた。乳母は驚いて真っ青になった。娘たちはさすがに気を取り直し、笑ってごまかした。
「この方は少し普通と違ったご事情がおありなのに、それを取り違え、どう受け取ったらよいものかと、年寄りがぼんやりして、神様まで持ち出して妙な歌を申し上げてしまったのですよ」
「おお、そうかそうか」と大夫監は頷いた。「なかなか面白いお言葉ですな。私どもは田舎者と呼ばれこそしますが、つまらない民百姓ではありませんぞ。都の人間だって、どれほどのものか。私は何でも知っております。あまり見くびらないでいただきたい」
もう一首作ろうと考え始めたようだったが、さすがにそれ以上は無理だったらしく、そのまま帰っていった。
大夫監から逃げるため、都へ
家の次男まで大夫監側に取り込まれてしまったのが、乳母たちには何より恐ろしかった。豊後介を責め立てると、彼も頭を抱えた。
「いったいどうすればよいのか。相談できる者さえいません。残った兄弟とも、大夫監に味方しないというので仲違いしてしまった。あの男を敵に回したら、この近辺では身動き一つできなくなるでしょう。逃げようとして、かえってひどい目に遭うかもしれません」
それでも、姫君が人知れず思い詰め、こんな男の妻になるくらいなら生きていたくないと沈み込んでいるのを見ると、それも当然に思えた。豊後介はついに覚悟を決め、命懸けで逃げる支度をした。
乳母の娘たちも、長年暮らしてきた土地で得た生活を捨て、姫君についていくことにした。昔「あてき」と呼ばれていた娘は、今では兵部の君と呼ばれており、その人も一緒だった。
一行は夜のうちに家を抜け出し、舟へ乗った。大夫監は肥後へいったん帰り、四月二十日ごろを吉日として正式に迎えに来るつもりだったので、その隙を突いて逃げ出したのである。
ただ、姉の一人は家族が増え、もう簡単には土地を離れられなかった。互いに別れを惜しみ、もう二度と会えないかもしれないと思うと悲しかった。長年暮らした土地そのものには、今さらどうしても捨てがたいという思いもなかったが、松浦の宮の前の渚と、残していく姉のことだけは、何度も振り返らずにいられなかった。
浮島を漕ぎ離れても行く方やいづく泊りと知らずもあるかな
浮島を舟で離れてゆくけれど、これからどちらへ行き、どこを最後の泊まりとするのかさえ、私にはわかりません。
行く先も見えぬ波路に舟出して風にまかする身こそ浮きたれ
この先どこへ行き着くのかも見えない波の道へ舟を出し、風に任せて漂う私たちの身こそ、本当に頼りないものです。
姫君は、何もかも頼りない気持ちで、舟の中にうつ伏していた。
命懸けの逃避行
逃げたことが知れれば、大夫監は負けず嫌いな性格だけに必ず追ってくる。それを思うと皆、生きた心地もしなかった。特別に用意した速い舟だったうえ、幸い望む方向から風まで吹き、危ないほどの勢いで都を目指した。難所の響灘も、意外なほど穏やかに通過できた。
途中、「海賊の舟ではないか。小さな舟が飛ぶような勢いでこちらへ来るぞ」と言う者がいた。だが海賊よりも、「あの恐ろしい大夫監が追ってきたのではないか」と思うほうが恐ろしい。一行はどうしてよいかわからないほど怯えた。
憂きことに胸のみ騒ぐ響きには響きの灘もさはらざりけり
つらいことばかりに胸が騒ぐ今となっては、あの恐ろしい響灘さえ、私たちの行く手を妨げるものではありませんでした。
「川尻という所がもう近い」と聞いた時、ようやく少し生き返るような気持ちになった。舟人たちはいつものように、「唐泊から川尻を押してゆく間は――」などと歌っている。その何とも無遠慮な歌声まで、今はしみじみと聞こえた。
豊後介も、懐かしい調子で歌を口ずさみ、「ああ、可愛い妻や子のことも忘れられない」と言った。そう口にして初めて、皆を本当に捨ててきたのだと実感した。
「今ごろどうしているだろう。頼りになる郎党は皆こちらへ連れてきてしまった。俺が裏切ったと思われ、残してきた者たちはどんな目に遭わされているだろう。何も振り返らず飛び出してしまった自分は、ずいぶん子どもじみていたものだ」
少し危険が遠のくと、今度は捨ててきた家族のことが胸に迫り、豊後介は泣いた。「異郷の妻子を、むなしく捨ててきてしまった」と漢詩の一句を口ずさむ。それを聞いた兵部の君も、「本当に妙なことになってしまった。長年一緒に暮らしてきた人たちの気持ちに突然背いて逃げ出したのだから、あの人たちは今ごろどう思っているだろう」と、さまざまに思い返した。
それでも戻るわけにはいかない。「戻るといっても、ここが故郷だと言える場所さえない。都へ着いたところで、頼りにできる知人も思い浮かばない。ただこの姫君お一人のために、長年住み慣れた土地も捨て、波風に漂うように出てきてしまった。これから姫君を、いったいどうすればよいのだろう」
考えれば途方に暮れる。それでも今さら引き返すことはできず、一行は急いで都へ入った。
都へ戻ったものの
九条に、昔から知っている者がまだ住んでいるのを探し当て、そこを仮の住まいとした。都の中とはいっても、高貴な人の住むような辺りではない。市女や商人たちが暮らす中で、何とも落ち着かない日々を送った。
季節が秋へ向かうにつれ、これまでのことも、これからのことも、悲しいことばかりが思われた。頼りにしていた豊後介自身も、まるで水鳥が陸へ上げられたように勝手がわからない。慣れない都暮らしには何の手掛かりもなく、かといって筑紫へ帰るのもみっともない。
ついてきた者の中にも、親類を頼って一人、また一人と離れ、元の国へ帰ってしまう者が出た。暮らしを立てる術さえ見えないので、乳母は朝から晩まで嘆いていた。
豊後介は母を慰めた。「私自身のことなどどうにでもなります。この姫君お一人のためなら、私が身代わりになってどこで死のうと構いません。仮に私たちがどれほど出世したところで、姫君をあんな男たちの中へ捨て置いたのでは、何のために生きているかわかりませんから」
「きっと神仏が、姫君をふさわしい道へ導いてくださいます。近くには八幡宮があります。筑紫でお参りしていた松浦や筥崎と同じ神様です。あちらを出る時にも、たくさん願を立てたでしょう。『こうして無事に都まで帰り着きました』と、まずお礼を申し上げなさい」
そう言って姫君を八幡へ参詣させた。昔、乳母の家と親しくしていた僧のうち、今も残っている大徳を探し出し、その僧にも世話を頼んだ。
初瀬観音へ
「神様の次には、仏様の中では初瀬の観音こそ、日本でもとりわけ霊験あらたかだと、遠い唐にまで聞こえているそうです。まして同じこの国の中なのですから。たとえ筑紫という遠い国の果てで長年暮らしていらしたとしても、姫君にはきっと特別なお恵みがあるでしょう」
そう勧められ、今度は初瀬へ参詣することになった。願掛けのため、わざわざ徒歩で行くと決めた。姫君には慣れないことなので、ひどく苦しくつらかったが、言われるまま、ほとんど何も考えられない状態で歩き続けた。
「私はどれほど罪深い身だから、こんなふうに世の中をさすらわなければならないのでしょう。母上がもう亡くなっていらっしゃるとしても、もし私を哀れと思ってくださるなら、どうか母上のいる世界へ私を連れていってください。もしまだこの世にいらっしゃるのなら、どうかお顔を見せてください」
そう観音に祈り続けた。母がどんな姿だったのかさえ記憶には残っていない。ただ、「母が生きていてくれたなら」と、それだけを長年悲しんできた。今は自分の身がどうにもならない境遇にあるため、その思いがいっそう激しく蘇る。
ようやく椿市という所へたどり着いたのは、出発から四日目、巳の刻ごろだった。もう生きている心地もしない。足を前へ出そうとしても足裏が動かないほど疲れ果て、仕方なくそこで休むことになった。
一行は実に小人数だった。頼りになる豊後介に、弓矢を持った男が二人。そのほか下仕えや童が三、四人。女は三人ほどで、壺装束をしている。さらに下働きらしい年老いた女が二人ほど。ひっそりと目立たぬよう旅をしていた。
初瀬へ奉る燈明などの支度をここで追加しているうちに、日が暮れた。宿の主人である法師が、「ほかのお客様を泊める予定の場所に、いったいどなたが勝手に入り込んでいるのです。妙な女たちが好き勝手をして」と文句を言い始めた。腹立たしく聞いていると、本当に別の一行がやって来た。
椿市で出会った一行
その一行も徒歩参詣らしい。身分のありそうな女性が二人、そのほか男女の供が大勢おり、馬も四、五頭引かせている。ひどく目立たないよう装ってはいるものの、供の男たちには身なりのよい者もいる。
法師は何としてもその一行を泊めたいらしく、困り果てて頭を掻きながら歩き回っている。玉鬘の一行も気の毒には思ったが、今さら別の宿を探すのも大変で、奥へ入って荷物などを片側へ寄せ、軟障を立てて場所を分けた。
新しく来た人々も、こちらを露骨に侮るようなことはしなかった。ただ互いにひどく慎重に気配を窺っていた。
実はその一行にいたのは、夕顔を失って以来ずっと姫君のことを思い続けていた右近だった。年齢を重ねるにつれ、自分の身分には華やかな宮仕えも似つかわしくなくなってきたと感じるようになり、初瀬へたびたび参詣していたのである。
何度も歩いている道なので旅の準備には慣れていたが、さすがに徒歩は疲れる。右近が横になって休んでいると、隣の軟障のそばまで豊後介がやって来た。自分で折敷を持ち、「これは姫君のお前へ差し上げてください。御膳の道具も揃っていなくて、まったく見苦しいことだ」などと言っている。
その口調を聞いた右近は、「こちらと同じ程度の身分の人ではなさそうだ」と思い、隙間からそっと覗いた。男の顔に見覚えがある。だが誰だったかすぐには思い出せない。昔見た時はまだ若かったのに、今は太り、日に焼け、旅姿にやつれている。何十年もたっていては、すぐ見分けられないのも当然だった。
その時、「三条、こちらへ」と呼ばれて近寄ってきた女を見て、右近は今度こそはっきり思い出した。「あの人だ。身分の低い女房だったけれど、夕顔様に長く仕えて、あの方が隠れて暮らしていらした五条の家にもいた人だ」
夢を見ているようだった。それなら、こちらの一行の主人はいったい誰なのか。見たくてたまらないが、姿が見えるようにはしていない。「この三条に聞いてみよう。あの男も、昔兵藤太と呼ばれていた人ではないか。もしかすると、姫君がおいでなのでは――」
そう思うとじっとしていられず、三条を呼ばせた。だが三条は食べ物の支度に夢中で、なかなか来ない。そんなことにまで腹が立つのだから、右近も相当気が急いていた。
右近との奇跡の再会
ようやく三条がやって来た。「どうも覚えがございませんね。筑紫で二十年ほども過ごした卑しい身ですのに、私を知っている都の方がおいでなのでしょうか。人違いではございませんか」
田舎風の衣を着て、昔よりずいぶん太っている。右近も、自分自身が年を取ったことを改めて思い知らされ、少し恥ずかしかった。それでも、「もっとこちらを覗いてみて。私が誰だかわかる?」と言って顔を見せた。
三条は手を打った。「まあ、あなた様ではありませんか。なんて嬉しい。どちらからいらしたのです。お方様はご無事なのですか」
大声で泣き出した。若いころ同じ主人に仕えていた時代が蘇り、間に流れた年月が数えられるようで、右近も胸がいっぱいになった。
「まず、乳母殿は生きていらっしゃるの。若君はどうなったの。あてきと呼んでいた人は――」
右近は、肝心の姫君のことだけは、まだ怖くて口にできなかった。
「皆、生きております。姫君も、もう立派な大人になっていらっしゃいます。まず乳母殿へ、あなた様がいらっしゃると申し上げてまいります」
三条が奥へ戻ると、向こうでは皆が仰天した。「夢を見ているようだ」「あれほど恨めしく、どう言いようもないと思っていた人と、ここで会えるなんて」
乳母たちは軟障のそばまでやって来た。それまで遠く隔てていた屏風のような仕切りをすっかり開き、顔を合わせるなり、言葉にならないほど泣き合った。
乳母はただ一つのことを尋ね続けた。「私どもの姫君の母君は、いったいどうなってしまわれたのです。これほど長い年月、夢の中にでもいらっしゃる場所を見せてほしいと大願まで立ててきました。それなのに遠い筑紫にいては、風の便り一つ聞けませんでした。こんな老いぼれた身が生き残っているのもつらく思いながら、それでも母君が残していかれた姫君があまりに可愛く、大切で、この方のことが冥途へ行く妨げになって、今日まで生きてまいりました」
右近には答えにくかった。あの夜、夕顔があまりにも突然死んだ事情は、今さら聞かせてもどうにもならないし、話すだけでもつらい。それでも隠しておくことはできなかった。
「もう、今さらお話ししても仕方のないことです。お方様は、ずっと昔に亡くなってしまわれました」
そう言った途端、二人も三人も一緒にむせ返るように泣き、なかなか涙を止められなかった。
初瀬で明かされる母の死
日が暮れるというので、燈明の支度などを急いで済ませなければならず、せっかく再会したのに、落ち着いて話す暇もなく別れることになった。「一緒に参りませんか」と言い合ったものの、それぞれの供の者に不審に思われるので、豊後介に詳しい事情さえ説明できないまま、皆いったん宿を出た。
右近は人知れず姫君の姿を注意して見た。大勢の中に、ひときわ美しい後ろ姿の女性がいる。ひどく地味な旅装束で、四月ごろの単衣のような簡素な衣を着ているのに、その中に収めた髪の透けるような影まで、惜しいほど美しい。右近は、「こんな暮らしをさせておくなんて」と、胸が痛んだ。
足の強い者たちは先に御堂へ着いていたが、姫君は疲れ切っているので、皆で世話をしながらゆっくり上り、初夜の勤行が始まるころようやく到着した。境内は参詣人でひどく混雑し、騒がしい。
右近の局は仏の右側に近い場所だった。玉鬘の一行が頼んだ僧は、まだ寺での地位が高くなかったのだろう、西側の遠い場所しか取れていなかった。右近は、「どうぞこちらへおいでください」と誘い、男たちを外へ残し、豊後介にも事情を説明して、姫君たちを自分の局へ移した。
「私はこんな大したことのない身ですが、今は太政大臣殿の六条院へお仕えしています。だからこんな混雑したところでも、乱暴な扱いをされることはないでしょう。田舎から来た人は、こういう場所では素性のよくない者から馬鹿にされることもありますから。それでは姫君に申し訳ありません」
本当なら昔話をいくらでもしたい。だが大がかりな勤行の騒がしさに紛れ、まずは観音を拝んだ。
右近は心の中で祈った。「この姫君をどうか捜し出させてくださいと、長い間お願いしてまいりました。それが今、こうしてまず私自身が姫君をお見つけできました。今度は、姫君を捜したいと深く願っておられる大臣殿へお知らせし、この方をどうか幸せにしてくださいますように」
「大弐の北の方に」と願う乳母
初瀬には各国から田舎の人々も大勢集まっていた。その国の国守の北の方も参詣しており、たいそう盛大な一行を従えている。それを見た三条は羨ましくなり、観音へ向かって手を合わせた。
「大悲観音様には、ほかのことは何もお願いしません。どうか私たちの姫君を、大弐の北の方にしてください。それが無理なら、せめてどこかの国守の北の方にしてください。そうなれば私どもも姫君のおかげで栄え、そのご恩に十分お返し申し上げます」
額に手を当て、本気で念じている。右近はそれを聞いて、「なんて縁起でもないことを」と思った。
「あなた、本当にひどい田舎者になってしまったのね。姫君のお父上である中将殿は、昔だってどれほどのご身分だったと思っているの。まして今では天下の政治を担う内大臣でいらっしゃるのよ。そんな方の実の娘を、受領の妻にして、それで身分が定まったなどということになってよいものですか」
ところが三条は、「うるさいですね。大臣だって何だって、少し待ってくださいよ。筑紫の大弐の奥方が清水寺や観世音寺へ参詣なさった時の行列といったら、帝の行幸にだって負けるものですか。まったく」と言い、なお手を離さず一心に拝み続けた。
筑紫から来た一行は三日間籠もる予定だった。右近はそこまで長く籠もるつもりはなかったが、この機会にゆっくり話を聞こうと思い、自分も籠もることにした。
右近が大徳へ、「いつもの藤原の瑠璃君という方のために奉る燈明です。よくお祈りしてください。その方を、このたびようやく見つけることができました。長年の願も、今度こそ果たさなければ」と言うのを聞くと、乳母たちには胸にしみた。僧も、「それは実に尊いことです。長年絶えず祈ってきた、その霊験に違いありません」と答えた。
右近、玉鬘の美しさに驚く
夜が明けると、皆で顔見知りの大徳の坊へ下りた。今度こそ落ち着いて話をするためだった。
玉鬘はひどく質素な姿をしているうえ、都の女房である右近に見られることを恥ずかしがっていた。それでも、その姿は実に美しかった。
右近は感心して言った。「私は思いもしなかったような高貴な世界へお仕えするようになり、大勢の女性を見てきました。それでも、六条院の紫の上ほど美しい方はほかにいらっしゃらないと、長年思っております。また、そこで育っていらっしゃる姫君も、ご両親のことを考えれば当然ながら、本当にお美しい。大切に育てられ方も並ぶものがありません。
けれど、これほど簡素な姿でいらっしゃるあなた様を拝見しても、その方々に決して見劣りするようには見えません。これは本当に珍しいことです。
大臣殿は、父帝の御代から数多くの女御や后、それ以下の女性まで残らずご覧になってきたお目で、『今の帝の母后でいらした藤壺の宮と、今育っていらっしゃる姫君こそ、本当の美人というものなのだろう』とおっしゃいます。
私は藤壺の宮を存じ上げません。今の姫君は本当に清らかですが、まだ成長の途中で、これからどれほど美しくなられるかというお年ごろです。紫の上の美しさには、やはり誰が並べるのだろうと思います。大臣殿も本心では一番だと思っていらっしゃるのでしょうが、口に出してそう褒めることはなさいません。『私と並ぼうなどとは、あなたも身の程知らずですね』などと冗談をおっしゃるくらいです。
あの方々のお姿を見ると寿命が延びるほどですが、だからといって、それとは別の美しさが世にないわけではありません。美しい人だからといって、頭の上から本当に光が出ているわけでもないでしょう。結局、人の美しさというのは、これほどのところを『優れている』と言うものなのだと思います。そういう意味では、姫君もどこが劣っていらっしゃるでしょう」
右近が笑顔でそう言うので、乳母たちも嬉しかった。
「どうか父大臣に知らせてください」
乳母は右近へ頼み込んだ。「これほどの姫君を、危うくあんな田舎の男の妻にしてしまうところでした。それがあまりに惜しく悲しくて、家も財産も捨て、頼りにできる息子や娘たちとまで別れ、逆にこちらのほうが知らない土地のように思われる都へ戻ってまいりました。
あなた様、どうか早く姫君をよい道へ導いてください。高貴な方々に宮仕えしているなら、自然とそういう方々へ話を通す機会もあるでしょう。姫君のお父上である内大臣に、この方の存在をお知らせし、娘の一人として認めていただけるよう、どうか考えてください」
玉鬘は恥ずかしくなり、背を向けた。
右近は答えた。「私など大した女房ではありませんが、大臣殿はおそば近くへ召して使ってくださいます。何かの折に姫君がどうなられたのだろうと私が口にするたび、それを聞いていらして、『私も何とか捜し出したい。もし消息を聞きつけたら必ず知らせなさい』と、昔からおっしゃっています」
乳母たちは、「大臣殿がどれほど素晴らしい方でも、あちらには高貴な奥方が何人もいらっしゃるのでしょう。それより、まず本当のお父上である内大臣にお知らせください」と言った。
そこで右近は、昔の事情を詳しく語った。「大臣殿は夕顔様のことを、今もこの世で忘れられないほど悲しく思っていらっしゃいます。『あの人の代わりとして姫君を見たい。自分には子どもが少なく寂しいから、もし捜し出せたなら、世間には自分の娘として知らせてもよい』と、あのころからおっしゃっていたのです。
私も若く、何もかも人目が気になるころだったので、自分から捜してご報告することができませんでした。少弐になって筑紫へ下られたことは、お名前を聞いて知っていました。都を出る挨拶のため大臣殿の邸へいらした日にも、私はちらりとお姿を見ました。でも、その時も声をかけられませんでした。
それでも姫君だけは、夕顔様がお住まいだった五条の家へ残していかれただろうと、ずっと思い込んでいたのです。まあ、本当に――。危うく姫君がそのまま田舎の人として一生を終えてしまわれるところだったのですね」
その日は一日中、昔話をしたり、念誦をしたりして過ごした。
初瀬川の歌
坊からは、寺へ参詣するさまざまな人々の姿を見下ろすことができた。前を流れる川は、初瀬川という。
右近が玉鬘へ歌を贈った。
二本の杉のたちどを尋ねずは古川野辺に君を見ましや
この初瀬の二本杉の立つ場所を訪ねてこなかったなら、昔から流れ続けるこの川辺で、あなたにお会いすることなどあったでしょうか。
「本当に、嬉しい巡り合わせでした」
玉鬘も返した。
初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへ流れぬ
初瀬川の昔のことは何も知りませんけれど、今日こうしてあなたに会えたこの瀬では、私の身まで涙とともに流れてしまいそうです。
泣きながら歌う玉鬘の姿も、たいそう品がよかった。
右近は改めて思った。「これほど美しい顔立ちなのに、もし話し方や身のこなしまで田舎じみて、がちがちに無骨だったら、どれほど残念だったでしょう。それがこんなにも自然に気品を備えていらっしゃるなんて。いったいどうして、こんなふうに育たれたのだろう」
そして、玉鬘の父である内大臣の血筋というものを頼もしく思った。
母の夕顔は、とにかく若々しく、おっとりして、柔らかく、たおやかな女性だった。それに比べると玉鬘にはもっと堂々とした気高さがあり、身のこなしにも相手が気後れするほどの品がある。長年筑紫で育ったというので田舎っぽさを心配していたのに、昔都で見ていた人々のほうがかえって俗っぽく思えるほどで、右近にも不思議だった。
夕方には再び御堂へ上がり、翌日も一日中祈りを続けた。
谷から秋風が遠く吹き上がり、肌寒い。その空気に触れると、もともと物思いの多い一行には、さまざまなことが次々と胸へ蘇った。今までは、「人並みの暮らしを手に入れるだけでも難しい」と絶望していた玉鬘も、右近から実父である内大臣の現在の様子を聞き、母親の違う多くの子どもたちを皆それぞれ立派に世へ出していると知ると、自分のように世間の下草のように埋もれていた者にも、少しは望みがあるのではないかと思えるようになった。
寺を出る時には、互いの住まいも教え合った。また大夫監に追い回されるようなことがあっては、と右近も心配したのである。右近の家は六条院から遠くない辺りにあり、これからは簡単に連絡を取り合える。それだけでも、初めて頼れる道が開けたようだった。
右近、源氏へ報告する
右近は六条院へ戻った。何とか折を見て、このことを源氏へ申し上げようと気が急いていた。門を入った途端、筑紫から帰ってきたばかりの自分には、邸の気配そのものがまるで違う世界に感じられた。広々とした中を、高貴な人々の車が何台も行き交っている。自分のような者がその中へ出入りすることさえ、まぶしいほどの玉の御殿だった。
その夜は源氏の前へ出ず、あれこれ考えながら休んだ。翌日、里から戻ってきた上臈や若い女房たちの中から、源氏がわざわざ右近を呼び出した。それだけでも晴れがましい。
源氏は右近を見ると、いつものように冗談を言った。「どうしてそんなに長く里へ下がっていたのです。いつもと違って、山歩きをしているうちに、尼たちの中で馬が入れ替わるような面白いことでもあったのではありませんか」
「退出してから七日以上になりましたが、面白いことなど、なかなかございません。ただ、山歩きをしてまいりまして、たいそう心にしみる方をお見つけしたのです」
「誰です」
そう聞かれて、右近は急に迷った。紫の上へまだ話していないのに、源氏へだけ先に打ち明ければ、あとから知った紫の上に、「私には隠していたのですね」と思われるかもしれない。
「また後で申し上げます」
そこへ人々が参ったので、話はいったん途切れた。
夜になり灯火がともされ、源氏と紫の上がくつろいで並んでいる姿は、見ているだけで満足するほど美しかった。紫の上はもう二十七、八歳ほどになっていただろうか。女性として最も美しい盛りにあり、年を経るほど、かえって輝きが増している。
右近は初瀬で玉鬘を見た時、「これほどの方なら、六条院の女性たちにも劣らない」と感心した。けれど今こうして紫の上を改めて見ると、やはり隔たりがあるように感じられた。「幸運に恵まれている人と、恵まれない人とでは、こんなにも違いが出るものなのだろうか」と、つい見比べてしまった。
「夕顔の露のゆかりを見つけました」
寝る前、源氏は右近を足を揉ませるため近くへ呼んだ。「若い女房は、こういうことをさせると疲れたの何のと言って嫌がるらしい。やはり長年仕えてくれた者同士のほうが、気心も知れていていいものですね」
周囲の女房たちは笑う。「そうですよ。いったい誰が、そうやって使い慣れていらっしゃる相手から頼まれて嫌がるでしょう」「大臣様が面倒な冗談ばかりおっしゃるから困るのです」などと言い合う。
源氏はさらに、「紫の上だって、長年連れ添った者同士だからと、あまり馴れ馴れしくしたら、やはり嫌がるのでしょうかね。そうではなさそうな顔をしているから、危ないものです」などと右近へ言って笑った。今では政務の第一線から少し退き、暮らしにもゆとりがあるため、こんなつまらない冗談を言って人の反応を見ることを楽しみ、昔からの女房までからかうのである。年齢を重ねても、愛嬌のある華やかさは少しも失われていなかった。
そしてようやく、「それで、初瀬で見つけたという人は、どういう人なのです。ありがたい修行者でも捕まえて、連れて帰ってきたのですか」と尋ねた。
右近は答えた。「まあ、何ということをおっしゃるのです。あっけなく消えてしまわれた夕顔の露――あの方につながる姫君を、お見つけしたのでございます」
源氏の表情が変わった。「それは本当に、胸にしみる話ですね。これまでどこにいたのです」
筑紫で暮らしていたとそのまま言うのは、右近には少し気の毒に思われた。「人里離れた山里のようなところでございます。昔の人々も何人かそのままおりまして、昔話が出てまいりましたので、私も堪えきれない気持ちになりました」
源氏は、「では、事情をご存じない方もいらっしゃるから」と、紫の上にはまだ詳しく聞かせまいとした。
すると紫の上は、「まあ面倒なこと。私は眠くて、そんな話を聞いていられません」と、袖で耳を塞いでみせた。
源氏は構わず、「顔立ちは、昔の夕顔に劣りませんか」と右近へ尋ねる。
「まさか母君ほどではあるまいと思っておりましたが、むしろずっと美しくお育ちになって見えました」
「それは面白い。誰くらいの美しさです。この姫君――紫の上ほどですか」
「どうして、そこまでとは申せません」
「そうでしょうね。あなたもわかったような顔をしている。もし私に似た娘なら、もっと安心できたでしょうが」
源氏は、もうすっかり父親のような気分で話していた。
「私の娘として六条院へ迎えよう」
一度話を聞いてからは、源氏は右近を一人だけ呼び出して、さらに詳しい事情を聞いた。そして言った。
「それなら、その姫君をこちらへ迎えましょう。長い年月、夕顔のことを思い出すたび、『あの姫君はいったいどうなったのだろう』と残念に思っていました。せっかく消息を聞き出したのに、今になっても会えないままというのでは意味がありません。
本当の父である内大臣へ知らせる必要がありますか。あちらには子どもが大勢いるようです。その中へ、今になって突然一人加わったところで、たいして大切にもされず、かえって中途半端になるかもしれない。
私は子どもが少なくて寂しいのだから、思いもよらないところから娘を捜し出したと言って、私の娘として扱えばよいでしょう。色好みの男たちが、いったいどんなふうに心を尽くして寄ってくるか、その種にして、大切に育ててみたいものです」
右近は半分呆れながらも、まずは姫君が救われることが嬉しかった。「もう、すべて大臣様のお考えにお任せいたします。本当の父大臣へ知らせるといっても、誰が伝えてくださるでしょう。何もできないまま亡くなってしまわれた夕顔様の代わりに、どのような形でも姫君をお助けくださることが、あの方の罪を軽くして差し上げることにもなりましょう」
「ずいぶん私を責める言い方ですね」
源氏は微笑みながらも、目には涙を浮かべていた。
「本当に、はかなく終わった縁だったと思って、長い間忘れられずにきました。今ここへ集めている女性たちの中にも、あの時の夕顔ほど、ひたすら可愛く思った人はいなかった。長生きをして、自分が一度関わった女性を長く世話し続ける性格なのだと我ながら思う相手はたくさんいるけれど、夕顔だけは何もしてやれないまま終わり、右近一人を形見として見てきた。それがずっと心残りだったのです。
今でも忘れる時がない。その娘が生きていて、こうして迎えられるなら、ようやく長年の願いがかなったような気がするでしょう」
源氏はすぐに玉鬘へ手紙を書いた。末摘花の例を思い出すと、長い田舎暮らしでどんなふうに育っているか少し心配でもあり、まずは手紙の書き方を見てみたいという気持ちもあった。内容は真面目で、親らしい落ち着いたものだった。その端に歌を添えた。
知らずとも尋ねて知らむ三島江に生ふる三稜の筋は絶えじを
これまであなたのことを知らずにいたとしても、これから捜し求めて知っていきましょう。三島江に生える三稜の根筋のように、親子につながる縁の筋が絶えることはないのですから。
右近は自ら九条の家へ出向き、源氏がこう言っていると詳しく伝えた。玉鬘や女房たちのための装束まで、さまざまに贈られてきた。紫の上にもすでに話したのだろう。御匣殿などからも必要な品々を集め、色合いや仕立ての特によいものを選ばせてある。筑紫暮らしの長かった人々には、何もかも目を見張るほど珍しかった。
玉鬘から源氏への返歌
けれど玉鬘本人は、簡単には喜ばなかった。「たとえ名目だけでも、本当の父親のような方から迎えに来ていただけるなら嬉しいでしょう。でも、どうしてまったく知らない方のところへ入っていかなければならないの」
不安そうにしているので、右近は今後どうなるかを丁寧に説明した。乳母たちも、「まずはあちらで立派な身分の姫君としてお暮らしになれば、本当の内大臣様も自然にあなたのことを知ることになるでしょう。親子の縁というものは、完全に切れて終わるものではありません」「右近様のような、決して身分の高くない方でさえ、どうしたら姫君を見つけられるだろうと願い続けていたら、神仏のお導きでこうして出会えました。まして皆が無事でさえいれば、きっとこの先も道は開けます」と慰めた。
「まずお返事を」と皆から勧められ、玉鬘は仕方なく筆を取った。「きっと、ひどく田舎じみた字だと思われるでしょう」と恥ずかしがる。よい香りのする唐紙を出してもらい、短く書いた。
数ならぬ三稜や何の筋なれば憂きにしもかく根をとどめけむ
人の数にも入らないような私という三稜は、いったい何の縁につながるものなのでしょう。どうしてこのつらい世に、こんなにも根を残して生きてきたのでしょう。
それだけが、ほのかに書かれていた。筆跡にはまだ十分に慣れていないところがあり、少し頼りなげではあったが、品があり、決して悪いものではない。源氏はそれを見て、まず安心した。
さて、どこへ住ませるか。源氏は六条院を見渡して考えた。南の春の町には空いている対がない。紫の上を中心に華やかに人が住み満ちているので、そこへ突然新しい姫君を住まわせれば目立ちすぎる。秋好中宮の秋の町は比較的静かで、こういう人を置く余地もありそうだが、中宮に仕える女房の一人と誤解されても面白くない。
そこで北東、花散里の住む夏の町の西の対に決めた。今は文殿として使っているものを別の場所へ移せばよい。「花散里なら一緒に住んでも、物静かで、穏やかに受け入れてくれる。玉鬘も気兼ねせず話し相手にできるだろう」と考えたのである。
紫の上に明かされる夕顔のこと
源氏はこの時になって初めて、紫の上へ夕顔との昔のことを詳しく語った。これほど長い間、胸の内へ隠していた話があったことを、紫の上は少し恨めしく思った。
「仕方がないでしょう。世の中にいた女性だからといって、何でも聞かれてもいないのに昔話として語るわけにはいきません。こういうことが起こった時に隠さずお話しするからこそ、私はあなたをほかの人とは違う相手と思っているのですよ」
そう言いながら、源氏は夕顔のことをしみじみ思い出した。
「これまでいろいろな女性を見てきました。思いもしない相手との間でも、女性というものがどれほど深い心を持つか、何度も見聞きしました。それで、もう軽々しい恋などするまいと思ったこともあります。それでも自然とさまざまな縁ができた。その中でも、ただひたすら『可愛い、愛しい』と思わせる点では、夕顔ほどの人はほかに思い出せません。
もし今も生きていたなら、北の町に住んでいる明石の君たちと同じくらいのところへ置いてやれなかったでしょうか。人の性格は本当にそれぞれです。才気があり、何事にも気が利くという人ではなかったけれど、上品で、柔らかく、可愛らしい人だったのです」
紫の上は、「それでも、明石の君と同じほどのお扱いにはなさらなかったでしょう」と言った。やはり明石の君についてだけは、今も少し面白くない気持ちが残っているらしい。
そのそばでは幼い明石の姫君が、何も知らず可愛らしく話を聞いていた。その姿を見ると、紫の上も、「まあ、それはそうよね」と自分の気持ちを改めるのだった。
玉鬘、六条院へ
こうした話が出たのは九月のことだった。とはいえ、すぐ翌日に六条院へ移すというわけにはいかない。人並みの童女や若い女房を新たに探させた。
筑紫にいたころには、都から流れてきた者などの中から、それなりに使える人を探し集めて仕えさせていた。しかし大夫監から逃げ出した時、ほとんど皆を残してきてしまい、今は人手がない。都はさすがに人の多いところなので、市女などを通じて次々に適当な女房を探し出した。玉鬘が内大臣の娘だということは、もちろん誰にも知らせなかった。
まず右近の里である五条の家へ人知れず移し、そこで女房を選び、装束を整え、十月になってようやく六条院へ入った。
源氏は玉鬘の世話を、花散里へ丁寧に頼んだ。「昔、私がたいそう愛しく思った女性がいたのですが、人を避けるようにしてひっそりした所へ隠れてしまった。その人には幼い娘がいて、私は長年、人知れず捜してきました。それでも消息がつかめないまま、その娘が大人になるまで年月がたってしまったのです。それが思いもよらないところから見つかりました。せめて今からでもと思い、こちらへ移すことにしたのです。
母親はもう亡くなっています。夕霧のこともあなたへお願いしているのですから、もう一人増えても悪くないでしょう。同じように後見してやってください。田舎で育ったため、何かと田舎風のところも多いでしょう。折々に、ふさわしいことを教えてやってください」
花散里は穏やかに受け入れた。「まあ、そんな方がいらしたとは、まったく存じませんでした。こちらには姫君がお一人しかいらっしゃらず、少し寂しく思っていましたから、よいことですね」
源氏は、「母親だった人は、驚くほど心のよい女性でした。あなたなら安心してお願いできます」と言った。
花散里も、「こちらには特に私と親しく話してくださるような方も多くありませんから、私にとっても嬉しいことでしょう」と答えた。
六条院の女房たちは、玉鬘を本当に源氏の娘だと思い、「今度はいったいどこから、こんな娘を捜し出していらしたのかしら」「昔の女性の子どもを次々世話するなんて、また面倒なことを」と噂した。
玉鬘の移動には車が三台ほど使われた。右近がついていたので、人々の姿や装束も田舎くさく見えないよう、きちんと整えられている。綾など必要な品も、すべて源氏のほうから贈られていた。
源氏と玉鬘、初めて対面する
玉鬘が六条院へ移ったその夜、源氏はさっそく西の対へやって来た。
玉鬘も昔から「光る源氏」と呼ばれる人の噂くらいは遠い筑紫で聞いていた。しかし長年まったく縁のない世界で生きてきただけに、特別に親しい気持ちを抱いたこともなかった。今、薄暗い灯火の中、几帳のほころびからほんのわずか源氏の姿を見ただけで、あまりにも立派なので、かえって恐ろしく感じられた。
源氏が入ってくる側の戸を右近が開けると、源氏は笑って、「この戸口から入ってよい人間は、普通の者とは違うのでしょうね」と冗談を言い、廂の座へ座った。
「灯りがこんなに暗いと、まるで恋人同士が忍び会っているようではありませんか。親というものは、子どもの顔を見たがるものだと聞きます。あなたはそうは思わないのですか」
そう言って、几帳を少し押しやった。
玉鬘はたまらなく恥ずかしく、横を向いていた。その身のこなしが自然で品よく見えるので、源氏は嬉しくなった。
「もう少し明るくしてくれませんか。あまりに姿を隠されるとかえって気になります」
右近が灯りを少し高くし、玉鬘のそばへ寄せた。
「ずいぶん平気な顔で見られる人ですね」
源氏は少し笑った。だが玉鬘にしてみれば、正面から見る源氏の目元には、息苦しくなるほどの気品がある。
源氏は少しも他人行儀なところを見せず、本当の父親のように語りかけた。「長い年月、あなたがどこにいるのかわからず、心に掛けない時もないほど気になっていました。こうしてようやくお会いできると、夢のようです。昔のことまで次々と思い出され、胸がいっぱいになって、思うようにお話しもできません」
そう言いながら、源氏は目元を拭った。本当に夕顔のことが悲しく蘇ってきたのである。
玉鬘の年齢まで数えながら、源氏は続けた。「これほど長い年月を隔ててしまった親子など、ほかにはあまりないでしょう。ずいぶんつらい運命だったものですね。もう今さら初々しい少女のように恥ずかしがるお年でもないでしょう。これまでどう暮らしてきたか、いろいろなお話を聞きたいのに、どうしてそんなに遠慮なさるのです」
玉鬘は何を言えばよいのかわからず、恥ずかしくてたまらない。それでも小さな声で、「一度世の底へ沈むような暮らしを始めてからは、何もかも、あるともないともわからないような年月でございました」と答えた。
その声が、昔の夕顔によく似ていた。しかも若々しい。源氏は思わず微笑んだ。
「そんなに沈んでしまわれたあなたを、今となっては私以外の誰が哀れと思って差し上げるでしょう」
ただ美しいだけでなく、返事にもそれなりの心がある。源氏は安心し、右近へ今後の世話について細かく言いつけて、その夜は戻った。
玉鬘をめぐる源氏の思惑
玉鬘が思いのほか立派な女性だったので、源氏は喜び、紫の上にも話した。「田舎の人々の中で長く育ったというから、どれほど気の毒な姿になっているだろうと少し見くびっていたのですが、逆にこちらが気後れするほど立派に見えました。
せっかくこんな女性がいるのですから、世間にも存在を知らせて、兵部卿宮など、この六条院の垣根の内側に興味を持っている男たちの心を大いに乱してやりたいものです。このごろの色好みの男たちは、妙に品行方正そうな顔をしてばかり、この辺りへ出入りしている。それも、気持ちを騒がせるような女性が少ないからでしょう。玉鬘を大切に扱って、いろいろな男の反応を見てみたいものですね」
紫の上は呆れた。「本当に変わった父親ですね。まず娘を幸せにすることではなく、男たちの心を煽ることから考えるなんて。まったく」
源氏は笑った。「本当はあなたのことだって、今のような私の心だったなら、一度そういうふうにして大勢の男へ見せてみたかったものです。あまりにも世間知らずのまま、自分だけのものにしてしまったのは惜しいことでしたね」
そう言われて紫の上が顔を赤らめるのが、今も若々しく可愛らしい。
源氏は硯を引き寄せ、何気ない手習いのように書いた。
恋ひわたる身はそれなれど玉かづらいかなる筋を尋ね来つらむ
長い年月、恋しく思い続けてきたのはこの私だけれど、玉鬘よ、あなたはどんな不思議な縁の筋をたどって、私のもとへ帰ってきたのでしょう。
「ああ、本当に……」
源氏がそのまま独り言のように言うので、紫の上も、「やはり本当に深く愛した人の忘れ形見なのね」と感じた。
夕霧には「妹」として
源氏は夕霧にも、「新しく捜し出した姫君がいるから、きちんと気遣い、兄妹として親しく訪ねてやりなさい」と言った。
夕霧はさっそく西の対へ来て、いかにも真面目な調子で挨拶した。「たとえ私など人の数にも入らない弟でも、こういう者がいると、もっと早く呼び寄せていただきたかったものです。こちらへお移りになった時にも、お迎えに参上しなかったのが申し訳ありません」
事情を知っている右近たちには、あまりに本気で兄妹の挨拶をするので、聞いているほうが気恥ずかしいほどだった。
玉鬘にしてみれば、筑紫で精いっぱい心を尽くして暮らしていたつもりでも、今いる六条院の世界とは比べようもない。住まいのしつらえから何から、すべてが今風で高雅である。そのうえ源氏も夕霧も、親兄弟として親しく接してくれる。顔立ちから身のこなしまで、目も眩むように美しい。
それを見るにつけ、三条でさえ、「筑紫の大弐の奥方になれれば」などと願っていた自分が馬鹿らしくなった。ましてあの大夫監の荒々しい息遣いや姿を思い出せば、ぞっとするばかりだった。
玉鬘自身も、豊後介の忠実さがどれほどありがたかったか、今になってよくわかった。右近も同じ思いだった。「曖昧な身分のままでは、やがて世話にも抜けが出るだろう」と、源氏は玉鬘付きの家司を正式に定め、さまざまな仕事を分担させた。そして豊後介も、その家司の一人に取り立てた。
長年田舎で埋もれて暮らし、六条院など仮に見ることさえ一生できない世界だと思っていた豊後介が、今では朝夕自由に出入りし、人を従え、姫君のために仕事を取り仕切る身となった。これ以上ない名誉だと思った。源氏の心配りが、細かなところまで行き届いていることも、本当にありがたかった。
年の暮れ、女性たちへ衣装を選ぶ
年の暮れになると、新年のしつらえや女房たちの装束の準備が始まった。玉鬘も高貴な女性たちと同じ列に置こうと決めていたので、源氏は必要な品を特別に用意させた。「いくら立派でも、長い田舎暮らしで、どこか田舎じみた好みになっているかもしれない」と少し見くびって選んだ品も含まれていた。
各地の織り手たちが我こそはと技を尽くし、さまざまな細長や小袿を持ってくる。源氏はそれを眺め、「ずいぶんたくさん集まったものですね。これならどの方にも、不公平にならないよう十分に分けられそうです」と紫の上へ言った。
御匣殿で仕立てた物も、紫の上のもとで作らせた物も、すべて出された。こういう色や衣装の取り合わせについては、紫の上の感覚はとりわけ優れており、世にないほど美しい色合いに染め上げるので、源氏も改めて感心した。
あちこちの擣殿から届けられた砧打ちの衣も見比べ、濃い色や赤い色などを選んで、衣櫃や衣箱へ分けて入れさせた。年長の上臈たちがそばに控え、「これはあちらへ、これはこちらへ」と一つずつ組み合わせていく。
紫の上もそれを見ながら言った。「どれも、これだけ見ていては大した優劣がないように見えます。だったら着る方のお顔立ちを思い浮かべながら選んで差し上げたらよいのではありませんか。着る人と衣の雰囲気が合わないのは、何となくおかしいでしょう」
源氏は笑った。「涼しい顔をして、人の容貌を品定めしようというのですね。それなら、あなたはどれが誰に似合うと思うのです」
「それは鏡でも見なければ、私には何とも」
紫の上はさすがに少し恥ずかしそうに答えた。
まず紫の上には、紅梅の紋がくっきり浮かぶ葡萄染の小袿と、特に美しい今様色の衣。幼い明石の姫君には、桜襲の細長に、艶やかな掻練を添える。
花散里には、浅縹色の海賦模様の織物。織り方は優美だが色そのものは派手ではなく、そこへたいそう濃い掻練を合わせた。
玉鬘には、曇りのない鮮やかな赤に、山吹の花のような細長を組み合わせた。それを紫の上は、見ていないような顔をしながら、それとなく誰に似合うと考えて選んだのか察した。「内大臣は、華やかで、誰が見てもああ立派な方だと思わせる容貌ではあるけれど、柔らかく優美なところは少ない。その感じに似ていると思ったのかしら」
顔には出さなかったものの、その考えが浮かんだらしい。源氏がちらりと紫の上を見ると、何か思っているのがわかった。
「いやいや、こんなふうに人の顔と衣を結びつけて考えると、誰かが腹を立てそうですね。どれほど美しい衣にも色数には限りがあるけれど、人の顔というものは、一見劣っていても、まだその奥に何かあるものですから」
そう言いながら、末摘花には柳色の織物を選んだ。趣のある唐草模様を乱れ織りにした、とても艶やかなものだった。それを末摘花の姿へ重ねて想像すると、源氏は人知れず笑わずにいられなかった。
明石の君には、梅の折枝や蝶、鳥が飛び交う唐風の模様の白い小袿。それへ艶やかな濃い色を重ねる。いかにも気高い明石の君に似合いそうな取り合わせなのを見て、紫の上にはやはり少し癪に障った。
尼になった空蝉には、趣のある青鈍色の織物を見つけ、さらに源氏自身の衣料の中から、許し色の梔子色の衣を添えた。そして皆へ、同じ日に新しい衣を着るよう消息を送った。なるほど、それぞれに似合うところを見たいという源氏の趣向だったらしい。
末摘花から届いた返歌
女性たちからの返事は、どれも心を尽くしたものだった。使者へ与える褒美も、それぞれに趣向がある。
末摘花は東の院にいるため、六条院の女性たちより少し距離がある。こんな時こそ少し優雅に振る舞えばよいのに、相変わらず何事も古風に、きちんと決まりどおりやる人だった。
使者への褒美として、山吹色の袿を渡したのだが、袖口がひどく煤けている。その古びた衣を、中へ何も入れず、そのまま使者の肩へ掛けた。
手紙は、たいそうよい香りのする陸奥紙だった。ただし少し古く、厚手の紙が黄ばんでいる。
「まあ、いただいたお衣は、かえって――」
着てみれば恨みられけり唐衣返しやりてむ袖を濡らして
せっかくいただいた唐衣を着てみると、かえってあなたが恨めしくなりました。涙で袖を濡らしながら、この衣をお返ししてしまおうかと思うほどです。
文字の書きぶりまで、ことさらに古い時代の趣だった。
源氏はひどく笑いをこらえながら、すぐには手紙を置こうとしなかった。紫の上も、「いったい何の手紙なの」とこちらを見た。
使者へ贈った古びた袿のことを聞くと、源氏はあまりにみっともなくて機嫌を悪くした。使者は居たたまれず、そっと退出した。周りの女房たちは、それぞれ物陰でひどく笑った。
末摘花は、こういうどうしようもなく古風で、人が見て気恥ずかしくなるようなところだけは妙に律儀で、源氏も扱いに困ってしまう。本人のまなざしだけは、こちらが恥じ入りそうなほど真面目なのだから、なおさら厄介だった。
古い和歌をめぐって
源氏は笑いながら言った。「昔風の歌を詠む人というのは、『唐衣』だの『袂が濡れる』だのという言葉から、どうしても離れられないものですね。まあ私だって、その古い仲間の一人ではありますが。
妙に一つの言葉へ執着して、今風の表現にはまるで心を動かされないところが、また憎らしい。人が集まっている場で、その場の題に合わせて即興の歌を詠むような時には、『円居』から離れられない何文字かが決まり文句になる。昔の恋の歌を華やかに競ったころには、『あだ人』という五文字を適当なところへ置けば、そこから言葉が続いていくような気分になったものです。
歌を本当に作るなら、いろいろな草子や歌枕をよく知り、その中から言葉を取り出して詠み込むべきでしょう。それでも、結局いつも同じ言葉へ落ち着いてしまう癖は、なかなか変わらないものです。
昔、常陸宮が書き残していらした紙屋紙の草子を、『読んでみなさい』と送ってくださったことがありました。和歌についての教えが、これでもかというほどぎっしり書いてあって、直したほうがよいところもたくさんありました。もともと和歌の得意でない人が、あれを読んだからといって、かえって身動きも取れなくなるだろうと思って、面倒になって返してしまいましたよ。歌のことを本当によく知る人の口から聞くなら、まだ馴染みやすいのでしょうけれど」
源氏は面白そうに話している。
紫の上は意外に真面目な顔で言った。「どうして返してしまったのです。取っておいて、姫君にもお見せすればよかったのに。こちらにあったそういう本は、虫に食われてずいぶん傷んでしまいました。知らない人にとっては、どんなものでも貴重な手掛かりになるでしょう」
源氏は答えた。「姫君の学問には、それほど役に立たないでしょう。だいたい女性というものは、『私はこれが得意です』と一つのことだけを特別に好み、それへ没頭しすぎるのは、あまり感じのよいものではありません。
もちろん、何をさせてもまるで不似合いで何も知らないのも残念です。ただ、人としての心の筋をしっかり持ち、ふらふらせず落ち着いて、何事にも穏やかであること。それくらいが一番見ていて安心できるのでしょう」
源氏は末摘花へ返歌などする気はほとんどなかった。
けれど紫の上が、「向こうは『返してしまおうか』とまで詠んでいるのですから、こちらから何も返さないのも、かえって妙でしょう」と勧める。
源氏はもともと情を捨てきれない性格なので、結局さらさらと返事を書いた。
返さむと言ふにつけても片敷の夜の衣を思ひこそやれ
衣を返してしまおうとおっしゃるのを聞けば、あなたが一人で片袖を敷いて眠る夜の衣のことまで、つい思いやられてしまいますよ。
「まあ、そう詠むのも当然なのでしょうね」
