厳島御幸
治承四年正月一日、鳥羽殿には、相国もゆるさず、法皇もおそれさせましましければ、元日元三の間参入する人もなし。されども故少納言入道信西の子息、桜町中納言重教卿、その弟左京大夫長教ばかりぞゆるされて参られける。
同正月廿日、東宮御袴着、ならびに御真魚始とて、めでたきことどもありしかども、法皇は鳥羽殿にて、御耳のよそにぞきこしめす。
二月廿一日、主上ことなる御つつがもわたらせたまはぬを、おしおろしたてまつり、春宮践祚あり。これは入道相国、よろづ思ふやうなるが致すところなり。時よくなりぬとてひしめきあへり。内侍所、神璽、宝剣わたしたてまつる。
上達部陣にあつまって、ふるきことども先例にまかせておこなひしに、弁内侍御剣とってあゆみいづ。清涼殿の西面にて、実通中将うけとる。備中の内侍、しるしの御箱とりいづ。隆房の少将うけとる。内侍所しるしの御箱、こよひばかりや手をもかけんと思ひあへりけむ、内侍の心のうちども、さこそはとおぼえて、あはれおほかりけるなかに、しるしの御箱をば、少納言の内侍とりいづべかりしを、こよひこれに手をもかけては、ながくあたらしき内侍にはなるまじきよし、人の申しけるをきいて、その期に辞し申してとりいでざりけり。
年すでにたけたり、二たびさかりを期すべきにもあらずとて、人々にくみあへりしに、備中の内侍とて、生年十六歳、いまだいとけなき身ながら、その期にわざとのぞみ申してとりいでける、やさしかりしためしなり。つたはれる御物ども、しなじなつかさづかさうけとって、新帝の皇居、五条内裏へわたしたてまつる。
閑院殿には、火の影もかすかに、鶏人の声もとどまり、滝口の文爵もたえにければ、ふるき人々心ぼそくおぼえて、めでたきいはひのなかに、涙をながし心をいたましむ。左大臣陣にいでて、御位ゆづりのことども仰せしをきいて、心ある人々は、涙をながし袖をうるほす。
われと御位を、儲の君にゆづりたてまつり、麻姑射の山のうちも閑になんどおぼしめすさきざきだにも、哀はおほき習ぞかし。況やこれは御心ならずおしおろされさせたまひけん、あはれさ申すもなかなかおろかなり。
新帝今年は三歳、
「あはれいつしかなる譲位かな」
と、時の人々申しあはせけり。平大納言時忠卿は、内の御めのと、帥のすけの夫たるによって、
「今度の譲位、いつしかなりと誰かかたむけ申すべき。異国には、周成王三歳、晋の穆帝二歳、わが朝には、近衛院三歳、六条院二歳、これみな襁褓のなかにつつまれて、衣帯をただしうせざっしかども、あるいは摂政負うて位につけ、あるいは母后抱いて朝にのぞむとみえたり。
後漢の孝殤皇帝は、生れて百日といふに、践祚あり。天子位をふむ先蹤、和漢かくのごとし」
と申されければ、その時の有職の人々、
「あなおそろし、物な申されそ。さればそれはよき例どもかや」
とぞつぶやきあはれける。春宮位につかせたまひしかば、入道相国夫婦ともに、外祖父、外祖母とて、准三后の宣旨をかうぶり、年官年爵をたまはって、上日の者を召しつかふ。絵かき花つけたる侍どもいで入りて、ひとへに院宮ごとくにてぞありける。
出家入道の後も、栄耀はつきせずとぞみえし。出家の人の准三后の宣旨を蒙ることは、法興院の大入道殿兼家公の御例なり。
同三月上旬に、上皇安芸国厳島へ御幸なるべしときこえけり。帝王位をすべらせたまひて、諸社の御幸のはじめには、八幡、賀茂、春日なんどへこそならせたまふに、安芸国までの御幸は、いかにと人不審をなす。ある人の申しけるは、
「白河院は熊野へ御幸、後白河は日吉社へ御幸なる。すでに知んぬ、叡慮にありといふことを。御心中にふかき御立願あり。その上この厳島をば、平家なのめならずあがめうやまひたまふあひだ、うへには平家に御同心、下には法皇のなんとなう鳥羽殿におしこめられわたらせたまふ、入道相国の謀反の心をもやはらげたまへとの、御祈念のため」
とぞきこえし。山門大衆いきどほり申す。
「石清水、賀茂、春日へならずは、わが山の山王へこそ御幸はなるべけれ。安芸国への御幸は、いつのならひぞや。その義ならば、神輿をふりくだしたてまつりて、御幸をとどめたてまつれ」
と僉議しければ、これによってしばらく御延引ありけり。太政入道やうやうになだめたまへば、山門の大衆しづまりぬ。
同十七日、厳島御幸の御門出とて、入道相国の西八条の亭へいらせたまふ。その日の暮れ方に、前右大将宗盛卿を召して、
「明日御幸の次に、鳥羽殿へ参って、法皇の見参に入らばやとおぼしめすはいかに。相国禅門に知らせずしてはあしかりなんや」
と仰せければ、宗盛卿涙をはらはらとながいて、
「なんでうことかさうらふべき」
と申されければ、
「さらば宗盛そのやうをやがて今夜鳥羽殿へ申せかし」
とぞ仰せける。前右大将宗盛卿、いそぎ鳥羽殿へ参って、このよし奏聞せられければ、法皇はあまりにおぼしめす御ことにて、
「夢やらん」
とぞ仰せける。
同十九日、大宮大納言隆季卿、いまだ夜ふかう参って、御幸もよほされけり。この日ごろきこえさせたまひつる厳島の御幸、西八条よりすでにとげさせおはします。やよひもなかば過ぎぬれど、霞にくもる在明の月はなほおぼろなり。
こし地をさしてかへる雁の、雲井におとづれゆくも、折ふしあはれにきこしめす。いまだ夜のうちに、鳥羽殿へ御幸なる。
門前にて御車よりおりさせたまひ、門のうちへさしいらせたまふに、人まれにして木ぐらく、物さびしげなる御住ひ、まづあはれにぞおぼしめす。春すでに暮れなんとす。夏木立にもなりにけり。梢の花色おとろへて、宮の鶯声老いたり。
去年の正月六日、朝覲のために、法住寺殿へ行幸ありしには、楽屋に乱声を奏し、諸卿列に立って、諸衛陣をひき、院司の公卿参りむかって、幔門をひらき、掃部寮、縁道をしき、ただしかりし儀式、一事もなし。今日はただ夢とのみぞおぼしめす。
重教中納言、御気色申されたりければ、法皇寝殿の階隠の間へ御幸なって、待ちまゐらっさせたまひけり。上皇は今年、御年廿、あけがたの月の光にはえさせたまひて、玉体もいとどうつくしうぞみえさせおはします。御母儀建春門院にいたく似まゐらっさせたまひたりければ、法皇まづ故女院の御ことおぼしめしいでて、御涙せきあへさせたまはず。
両院の御座ちかくしつらはれたり。御問答は人承るに及ばず。御前には尼ぜばかりぞさうらはれける。
やや久しう御物語せさせたまふ。はるかに日たけて、御暇申させたまひ、鳥羽の草津より、御舟に召されけり。上皇は法皇の離宮、故亭幽閑寂寞の御住ひ、御心苦しく御覧じおかせたまへば、法皇はまた上皇の旅泊の行宮の浪の上、舟の中の御有様、おぼつかなくてぞおぼしめす。
まことに宗廟、八幡、賀茂なんどをさしおいて、はるばると安芸国までの御幸をば、神明もなどか御納受なかるべき。御願成就うたがひなしとぞみえたりける。
還御
同廿六日、厳島へ御参着、入道相国の最愛の内侍が宿所、御所になる。なか二日御逗留あって、経会、舞楽おこなはれけり。導師には、三井寺の公乗僧正とぞきこえし。高座にのぼり鐘うちならし、表白の詞にいはく、
「九重の都をいでて、八重の塩路をわきもってまゐらせたまふ、御心ざしのかたじけなさ」
と、たからかに申されたりければ、君も臣も感涙をもよほされけり。大宮、客人をはじめまゐらせて、社々所々へみな御幸なる。大宮より五町ばかり山をまはって、滝の宮へまゐらせたまふ。公乗僧正、一首の歌ようで、拝殿の柱に書きつけられたり。
雲井よりおちくる滝のしらいとにちぎりをむすぶことぞうれしき
神主佐伯の景広、加階従上の五位、国司藤原有綱、しなあげられて加階従下の四品、院の殿上ゆるさる。座主尊永、法印になさる。神慮もうごき、太政入道の心もはたらきぬらんとぞみえし。
同廿九日、上皇御舟かざって、還御なる。風はげしかりければ、御舟こぎもどし、厳島のうち、ありの浦にとどまらせたまふ。上皇、
「大明神の御名残惜しみに、歌仕れ」
と仰せければ、隆房の少将、
たちかへるなごりもありの浦なれば神もめぐみをかくる白浪
夜半ばかりより浪もしづかに、風もしづまりければ、御舟こぎいだし、その日は備後国、しき名の泊につかせたまふ。この所は去る応保のころほひ、一院御幸の時、国司藤原の為成がつくったる御所のありけるを、入道相国まうけにしつらはれたりしかども、上皇それへはあがらせたまはず。
「今日は卯月一日、衣がへといふことのあるぞかし」
とて、おのおの都の方を思ひやり、あそびたまふに、岸にいろふかき藤の松に咲きかかりたるを、上皇叡覧あって、隆季の大納言を召して、
「あの花折につかはせ」
と仰せければ、左史生中原康定がはし舟に乗って、御前をこぎとほりけるを召して、折りにつかはす。藤の花を手折り、松の枝につけながら、もって参りたり。
「心ばせあり」
なんど仰せられて、御感ありけり。
「この花にて歌あるべし」
と仰せければ、隆季の大納言、
千とせへん君がよはひに藤なみの松のえだにもかかりぬるかな
その後御前に人々あまたさうらはせたまひて、御たはぶれごとのありしに、上皇、
「白ききぬ着たる内侍が、国綱卿に心をかけたるな」
とてわらはせおはしましければ、大納言大きにあらがひ申さるるところに、ふみもったる便女が参って、
「五条大納言殿へ」
とてさしあげたり。
「さればこそ」
とて、満座興あることに申しあはれけり。大納言これをとってみたまへば、
しらなみの衣の袖をしぼりつつきみゆゑにこそたちもはれね
上皇、
「やさしうこそおぼしめせ。この返事はあるべきぞ」
とて、やがて御硯をくださせたまふ。大納言返事には、
思ひやれ君がおもかげたつなみのよせくるたびにぬるるたもとを
それより備前国小島の泊につかせたまふ。
五日、天晴れ風しづかに、海上ものどかなりければ、御所の御舟をはじめまゐらせて、人々の舟どもみないだしつつ、雲の浪煙の浪をわけ過ぎさせたまひて、その日の酉剋に、播磨国山田の浦につかせたまふ。それより御輿に召して、福原へいらせおはします。
六日は供奉の人々、いま一日も都へとくといそがれけれども、新院御逗留あって、福原のところどころ歴覧ありけり。池の中納言頼盛卿の山庄あら田まで御覧ぜらる。七日、福原を出でさせたまふに、隆季の大納言、勅定を承って、入道相国の家の賞おこなはる。
入道の養子、丹波守清国、正下の五位、同入道の孫。越前少将資盛、四位の従上とぞきこえし。その日てら井につかせたまふ。八日都へいらせたまふに、御むかへの公卿殿上人、鳥羽の草津へぞ参られける。還御の時は、鳥羽殿へは御幸もならず、入道相国の西八条の亭へいらせたまふ。
同四月廿二日、新帝の御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、一年炎上の後は、いまだつくりもいだされず。太政官の庁にておこなはるべしとさだめられたりけるを、その時の九条殿申されたまひけるは、
「太政官の庁は、凡人の家にとらば、公文所ていの所なり。大極殿なからん上は、紫宸殿にてこそ御即位はあるべけれ」
と申させたまひければ、紫宸殿にてぞ御即位はありける。
「去んじ康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にてありしは、主上御邪気によって、大極殿へ行幸かなはざりし故なり。その例いかがあるべからん。ただ後三条の院の延久佳例にまかせ、太政官の庁にておこなはるべき物を」
と、人々申しあはれけれども、九条殿の御はからひのうへは、左右に及ばず。中宮、弘徽殿より仁寿殿へうつらせたまひて、たかみくらへまゐらせたまひける、御有様めでたかりけり。平家の人々、みな出仕せられけるなかに、小松殿の公達は、こぞおとどうせたまひしあひだ、いろにて籠居せられたり。
源氏揃
蔵人衛門権佐定長、今度の御即位に、違乱なくめでたきさまを、厚紙十枚ばかりにこまごまと記いて、入道相国の北の方、八条の二位殿へまゐらせたりければ、ゑみをふくんでぞよろこばれける。かやうにはなやかにめでたきことどもありしかども、世間はなほしづかならず。
そのころ一院第二の皇子、以仁の王と申ししは、御母加賀大納言季成卿の御娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。去んじ永万元年十二月十六日、御年十五にて、忍びつつ近衛河原の大宮の御所にて、御元服ありけり。
御手跡うつくしうあそばし、御才学すぐれてましましければ、位にもつかせたまふべきに、故建春門院の御そねみにて、おしこめられさせたまひつつ、花のもとの春の遊には、紫毫をふるって手づから御作を書き、月の前の秋の宴には、玉笛を吹いて身づから雅音をあやつりたまふ。
かくしてあかしくらしたまふほどに、治承四年には、御年卅にぞならせましましける。
そのころ近衛河原にさうらひける源三位入道頼政、ある夜ひそかにこの宮の御所に参って申しけることこそおそろしけれ。
「君は天照太神四十八世の御末、神武天皇より七十八代にあたらせたまふ。太子にもたち、位にもつかせたまふべきに、卅まで宮にてわたらせたまふ御ことをば、心うしとはおぼしめさずや。当世のていをみさうらふに、うへにはしたがひたるやうなれども、内々は平家をそねまぬ者やさうらふ。
御謀反おこさせたまひて、平家をほろぼし、法皇のなんとなう鳥羽殿におしこめられてわたらせたまふ御心をも、やすめまゐらせ、君も位につかせたまふべし。これ御孝行のいたりにてこそさうらはんずれ。もしおぼしめしたたせたまひて、令旨を下させたまふ物ならば、悦をなして参らむずる源氏どもこそおほうさうらへ」
とて申しつづく。
「まづ京都には、出羽前司光信が子ども、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能、熊野には、故六条判官為義が末子、十郎義盛とてかくれてさうらふ。摂津国には、多田蔵人行綱こそさうらへども、新大納言成親卿の謀反の時、同心しながらかへり忠したる不当人でさうらへば、申すに及ばず。
さりながらその弟、多田二郎朝実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基、河内国には、武蔵権守入道義基、子息石河判官代義兼、大和国には、宇野七郎親治が子ども、太郎有治、二郎清治、三郎成治、四郎義治、近江国には、山本、柏木、錦古里、美濃、尾張には、山田次郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、その子太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、その子太郎重行、甲斐国には、逸見冠者義清、その子太郎清光、武田太郎信義、加賀見二郎遠光、同小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃国には、大内太郎惟義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子四郎義信、故帯刀先生義賢が次男、木曽冠者義仲、伊豆国には、流人前右兵衛佐頼朝、常陸国には、信太三郎先生義憲、佐竹冠者正義、その子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国には、故左馬頭義朝が末子、九郎冠者義経、これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲が後胤なり。
朝敵をもたひらげ、宿望をとげしことは、源平いづれ勝劣なかりしかども、今は雲泥まじはりをへだてて、主従の礼にもなほおとれり。国には国司にしたがひ、庄には預所につかはれ、公事雑事にかりたてられて、やすい思ひもさうらはず。
いかばかり心うくさうらん。君もしおぼしめしたたせたまひて、令旨をたうづるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさんこと、時日をめぐらすべからず。入道も年こそよってさうらふとも、子供引き具して参りさうらふべし」
とぞ申したる。
宮はこの事いかがあるべからんとて、しばしは御承引もなかりけるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後前司季通が子、少納言伊長と申しさうらふ、勝たる相人なりければ、時の人相少納言とぞ申しける。その人がこの宮を見まゐらせて、
「位に即かせたまふべき相まします。天下の事おぼしめしはなたせたまふべからず」
と申しけるうへ、源三位入道も、かやうに申されければ、
「さてはしかるべし、天照大神の御告やらん」
とて、ひしひしとおぼしめしたたせたまひけり。熊野にさうらふ十郎義盛を召して、蔵人になさる。行家と改名して、令旨の御使に東国へぞ下りける。
同四月廿八日、都をたって近江国よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに次第にふれゆくほどに、五月十日、伊豆の北条にくだりつき、流人前兵衛佐殿に令旨たてまつり、信太三郎先生義憲は、兄なればとらせんとて、常陸国信太浮島へくだる。
木曽冠者義仲は、甥なればたばんとて、東山道へぞおもむきける。
そのころの熊野別当湛増は、平家に心ざしふかかりけるが、何としてかもれきいたりけん、
「新宮十郎義盛こそ、高倉宮の令旨たまはって、美濃、尾張の源氏ども、ふれもよほし、すでに謀反をおこすなれ。那智新宮の者どもは、さだめて源氏の方人をぞせんずらん。湛増は、平家の御恩を天山と蒙ったれば、いかでか背きたてまつるべき。
那智新宮の者どもに、矢一つ射かけて、平家へ子細を申さん」
とて、ひた甲一千人、新宮の湊へ発向す。新宮には、鳥井の法眼、高坊の法眼、侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲、那智には、執行法眼以下、都合その勢二千余人なり。時つくり矢合して、源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れとて、矢さけびの声の退転もなく、鏑の鳴りやむひまもなく、三日がほどこそたたかうたれ。
熊野別当湛増、家子郎等おほくうたせ、わが身手おひ、からき命をいきつつ、本宮へこそにげのぼりけれ。
鼬沙汰
さるほどに法皇は、
「とほき国へもながされ、はるかの島へうつされんずるにや」
と仰せけれども、城南の離宮にして、今年は二年にならせたまふ。
同五月十二日、午剋ばかり、御所中にはいたちおびたたしうはしりさわぐ。法皇大きに驚きおぼしめし、御占形をあそばいて、近江守仲兼、そのころはいまだ鶴蔵人と召されけるを召して、
「この占形もって、泰親がもとへゆけ。きっと勘へさせて、勘状をとって参れ」
とぞ仰せける。仲兼これをたまはって、陰陽守安倍泰親がもとへゆく。をりふし宿所にはなかりけり。
「白河なる所へ」
といひければ、それへたづねゆき、泰親にあうて、勅定のおもむき仰すれば、やがて勘状をまゐらせけり。仲兼、鳥羽殿にかへり参って、門より参らうどすれば、守護の武士どもゆるさず。案内は知ったり、築地をこえ、大床のしたをはうて、きり板より泰親が勘状をこそまゐらせたれ。
法皇これをあけて御覧ずれば、
「いま三日がうちの御悦、ならびに御歎」
とぞ申したる。法皇、
「御よろこびはしかるべし。これほどの御身になって、またいかなる御歎のあらんずるやらん」
とぞ仰せける。
さるほどに、前右大将宗盛卿、法皇の御ことを、たりふし申されければ、入道相国、やうやう思ひなほって、同十三日、鳥羽殿をいだしたてまつり、八条烏丸の美福門院の御所へ御幸なしたてまつる。
「いま三日がうちの御悦」
とは泰親これをぞ申しける。
かかりけるところに、熊野別当湛増、飛脚をもって、高倉宮の御謀反のよし、都へ申したりければ、前右大将宗盛卿大きにさわいで、入道相国折ふし福原におはしけるに、このよし申されたりければ、ききもあへず、やがて都へはせのぼり、
「是非に及ぶべからず。高倉宮からめとって、土佐の畑へながせ」
とこそのたまひけれ。上卿は三条大納言実房、職事は頭弁光雅とぞきこえし。源大夫判官兼綱、出羽判官光長、承って、宮の御所へぞむかひける。この源大夫判官と申すは、三位入道の次男なり。しかるをこの人数に入れられけるは、高倉の宮の御謀反を、三位入道すすめ申したりと、平家いまだ知らざりけるによってなり。
信連
宮は五月十五夜の雲間の月をながめさせたまひ、なんのゆくゑもおぼしめしよらざりけるに、源三位入道の使者とて、ふみもっていそがしげにいできたり。宮の御めのと子、六条の佐の大夫宗信、これをとって、御前へ参り、ひらいてみるに、
「君の御謀反すでにあらはされたまひて、土佐の畑へながし参らすべしとて、官人ども御むかへに参りさうらふ。いそぎ御所をいでさせたまひて、三井寺へいらせおはしませ。入道もやがて参りさうらふべし」
とぞ書いたりける。
「こはいかがせん」
とて、さわがせおはしますところに、宮の侍、長兵衛尉信連といふ者あり。
「ただ別のやうさうらふまじ。女房装束にていでさせたまへ」
と申しければ、しかるべしとて御ぐしを乱し、かさねたる御衣に、市女笠をぞ召されける。六条の佐大夫宗信、唐笠もって御供仕る。鶴丸といふ童、袋にものいれていただいたり。譬へば青侍の女をむかへてゆくやうに、いでたたせたまひて、高倉を北へおちさせたまふに、大きなる溝のありけるを、いともの軽うこえさせたまへば、みちゆき人たちどまって、
「はしたなの女房の溝のこえやうや」
とて、あやしげにみまゐらせければ、いとどあしばやに過ぎさせたまふ。
長兵衛尉信連は、御所の留守にぞおかれたる。女房達の少々おはしけるを、かしこここへたちしのばせて、見苦しき物あらば、とりしたためむとて、みるほどに、宮のさしも御秘蔵ありける、小枝ときこえし御笛を、ただ今しも、常の御所の御枕にとり忘れさせたまひたりけるぞ、立ちかへってもとらまほしうおぼしめす、信連これをみつけて、
「あなあさまし。君のさしも御秘蔵ある御笛を」
と申して、五町がうちにおっついてまゐらせたり。宮なのめならず御感あって、
「われ死なば、この笛をば御棺にいれよ」
とぞ仰せける。
「やがて御供にさうらへ」
と仰せければ、信連申しけるは、
「ただ今御所へ官人どもが御むかへに参りさうらふなるに、御前に人一人もさうらはざらんが、無下にうたてしうさうらふ。信連がこの御所にさうらふとは、上下みな知られたることにてさうらふに、今夜さうらはざらんは、それもその夜はにげたりけりなんどいはれんこと、弓矢をとる身はかりにも名こそ惜しうさうらへ。
官人どもしばらくあひしらひさうらうて、打ち破ってやがて参りさうらはん」
とて、はしりかへる。
長兵衛がその日の装束には、うすあをの狩衣のしたに、萌黄威の腹巻を着て、衛府の太刀をぞはいたりける。三条面の惣門をも、高倉面の小門をもともにひらいて待ちかけたり。
源大夫判官兼綱、出羽判官光長、都合その勢三百余騎、十五日の夜の子の剋に、宮の御所へぞ押し寄せたる。源大夫判官は、存ずる旨ありとおぼえて、はるかの門前にひかへたり。出羽判官光長は、馬に乗りながら、門のうちに打ち入り、庭にひかへて大音声をあげて申しけるは、
「御謀反のきこえさうらふによって、官人ども別当宣を承り、御むかへに参ってさうらふ。いそぎ御出でさうらへ」
と申しければ、長兵衛尉大床に立って、
「これは当時は御所でもさうらはず。御物まうででさうらふぞ。なにごとぞ、ことの子細を申されよ」
といひければ、
「なんでう、この御所ならでは、いづくへかわたらせたまふべかんなる。さないはせそ。下部ども参ってさがしたてまつれ」
とぞ申しける。
長兵衛尉これを聞いて、
「物もおぼえぬ官人どもが申すやうかな。馬に乗りながら門のうちへ参るだにも奇怪なるに、『下部ども参ってさがしまゐらせよ』とはいかで申すぞ。左兵衛尉長谷部信連がさうらふぞ。ちかう寄ってあやまちすな」
とぞ申しける。庁の下部のなかに、金武といふ大力の剛の者、長兵衛に目をかけて、大床のうへへとびのぼる。これをみて同隷ども十四五人ぞつづいたる。長兵衛は狩衣の帯紐ひっきってすつるままに、衛府の太刀なれども、身をば心えてつくらせたるをぬきあはせて、さんざんにこそきったりけれ。
かたきは大太刀、大長刀でふるまへども、信連が衛府の太刀に切りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭へさっとぞおりたりける。
五月十五夜の雲間の月のあらはれいでて、あかかりけるに、かたきは無案内なり、信連は案内者なり。あそこの面廊におっかけてははたときり、ここのつまりにおっつめてはちやうどきる。
「いかに宣旨の御使をばかうはするぞ」
といひければ、
「宣旨とはなんぞ」
とて、太刀ゆがめばをどりのき、おしなほし、ふみなほし、たちどころによき者ども、十四五人こそきりふせたれ。太刀のさき三寸ばかりうち折って、腹をきらんと腰をさぐれば、鞘巻おちてなかりけり。力およばず、大手をひろげて、高倉面の小門より、はしりいでんとするところに、大長刀もったる男、一人寄りあひたり。
信連長刀に乗らんととんでかかるが、乗りそんじて、ももをぬひさまにつらぬかれて、心はたけく思へども、大勢の中にとりこめられて、いけどりにこそせられけれ。その後御所をさがせども、宮わたらせたまはず。信連ばかりからめて、六波羅へゐて参る。
入道相国は、簾中にゐたまへり。前右大将宗盛卿、大床にたって、信連を大庭にひっすゑさせ、
「まことにわ男は、『宣旨とはなんぞ』とてきったりけるか。おほくの庁の下部を、刃傷殺害したんなり。せむずるところ、糺問して、よくよくことの子細をたづね問ひ、その後河原にひきいだいて、かうべをはねさうらへ」
とぞのたまひける。信連すこしもさわがず、あざわらって申しけるは、
「このほどよなよなあの御所を者がうかがひさうらふ時に、なにごとのあるべきと存じて、用意も仕りさうらはぬところに、よろうたる者どもが、うち入ってさうらふを、『何者ぞ』と問ひさうらへば、『宣旨の御使』となのりさうらふ。
山賊、海賊、強盗なんど申すやつ原は、あるいは、『公達のいらせたまふぞ』、あるいは、『宣旨の御使』なんどなのりさうらふと、かねがね承ってさうらへば、『宣旨とはなんぞ』とて、きったるさうらふ。およそは物具をも思ふやうに仕り、かねよき太刀をももって、さうらはば、官人どもを、よも一人も安穏ではかへしさうらはじ。
また宮の御在所はいづくにかわたらせたまふらん、知りまゐらせさうらはず。たとひ知りまゐらせてさうらふとも、さぶらひほんの者の、申さじと思ひきってんこと、糺問におよんで申すべしや」
とて、その後は物も申さず。いくらもなみゐたりける平家のさぶらひども
「あっぱれ剛の者かな。あったらをのこを、きられむずらんむざんさよ」
と申しあへり。その中にある人の申しけるは、
「あれは先年ところにありし時も、大番衆がとどめかねたりし強盗六人、ただ一人おっかかって、四人きりふせ、二人いけどりにして、その時なされたる左兵衛尉ぞかし。これをこそ一人当千の兵者ともいふべけれ」
とて、口々に惜しみあへりければ、入道相国、いかが思はれけん、伯耆の日野へぞながされける。
源氏の世になって、東国へくだり、梶原平三景時について、ことの根元一々次第に申しければ、鎌倉殿神妙なりと感じおぼしめして、能登国に御恩かうべりけるとぞきこえし。
競
宮は高倉を北へ、近衛を東へ、賀茂河をわたらせたまひて、如意山へいらせおはします。昔清見原の天皇の、いまだ東宮の御時、賊徒におそはれさせたまひて、吉野山へいらせたまひけるにこそ、をとめのすがたをば、からせたまひけるなれ。
いまこの君の御有様も、それにはたがはせたまはず。知らぬ山路を夜もすがらわけいらせたまふに、いつならはしの御ことなれば、御あしよりいづる血は、いさごをそめて紅のごとし。夏草のしげみがなかの露けさも、さこそはところせうおぼしめされけめ。
かくして暁方に三井寺へいらせおはします。
「かひなき命の惜しさに、衆徒をたのんで、入御あり」
と仰せければ、大衆畏れ悦んで、法輪院に御所をしつらひ、それにいれたてまつって、かたのごとくの供御したててまゐらせけり。
あくれば十六日、高倉の宮の御謀反おこさせたまひて、うせさせたまひぬと申すほどこそありけれ、京中の騒動なのめならず。法皇これをきこしめして、
「鳥羽殿を御いであるは、御悦なり。ならびに御歎と、泰親が勘状をまゐらせたるは、これを申しけり」
とぞ仰せける。
そもそも源三位入道、年ごろ日ごろもあればこそありけめ、今年いかなる心に、謀反をばおこしけるぞといふに、平家の次男、前右大将宗盛卿、すまじきことをしたまへり。されば人の世にあればとて、すぞろにすまじきことをもし、いふまじきことをもいふは、よくよく思慮あるべき物なり。
たとへば源三位入道の嫡子、仲綱のもとに、九重にきこえたる名馬あり。鹿毛なる馬の、ならびなき逸物、乗りはしり心むき、またあるべしとも覚えず。名をば木の下とぞいはれける。前右大将これをつたへきき、仲綱のもとへ使者たて、
「きこえさうらふ名馬を、みさうらはばや」
とのたまひつかはされたりければ、伊豆守の返事には、
「さる馬はもってさうらひつれども、このほどあまりに、乗り損じてさうらひつるあひだ、しばらくいたはらせさうらはんとて、田舎へつかはしてさうらふ」
「さらんには力なし」
とて、その後沙汰もなかりしを、おほくなみゐたりける平家の侍ども、
「あっぱれその馬は、をととひまではさうらひし物を」
、
「昨日もさうらひし」
、
「けさも庭乗りしさうらひつる」
なんど申しければ、
「さては惜しむござんなれ。にくし、こへ」
とて、侍してはせさせ、ふみなんどしても、一日がうちに、五六度、七八度なんど、こはれければ、三位入道これを聞き、伊豆守よび寄せ、
「たとひこがねをまろめたる馬なりとも、それほどに人のこはう物を、惜しむべきやうやある。すみやかにその馬、六波羅へつかはせ」
とこそのたまひけれ。伊豆守力およばで、一首の歌を書きそへて、六波羅へつかはす。
こひしくはきてもみよかし身にそへるかげをばいかがはなちやるべき
宗盛卿、歌の返事をばしたまはで、
「あっぱれ馬や。馬はまことによい馬でありけり。されども、あまりに主が惜しみつるがにくきに、やがて主が名のりを、金焼にせよ」
とて、仲綱といふ金焼をして、むまやにたてられけり。客人来たって、
「きこえさうらふ名馬を、みさうらはばや」
と申しければ、
「その仲綱めに、鞍をおいてひきだせ、仲綱め乗れ、仲綱めうて、はれ」
なんどのたまひければ、伊豆守これをつたへきき、身にかへて思ふ馬なれども、権威について、とらるるだにもあるに、馬ゆゑ仲綱が、天下のわらはれぐさとならんずるこそやすからねとて、大きにいきどほられければ、三位入道これを聞き、伊豆守に向かって、
「なにごとのあるべきと、思ひあなづって、平家の人どもが、さやうのしれことをいふにこそあんなれ。その儀ならば、いのちいきてもなにかせん。便宜をうかがふでこそあらめ」
とて、わたくしには思ひたたず、宮をすすめ申したりけるとぞ、後にはきこえし。
これにつけても、天下の人、小松のおとどの御ことをぞ、しのび申しける。ある時小松殿、参内の次に、中宮の御方へまゐらせたまひたりけるに、八尺ばかりありける蛇が、おとどの指貫の左の輪をはひまはりけるを、重盛さわがば、女房達もさわぎ、中宮もおどろかせたまひなんずとおぼしめし、左の手で、蛇の尾をおさへ、右の手で、頭をとり、直衣の袖のうちにひきいれ、ちっともさわがず、つい立って、
「六位やさうらふ、六位やさうらふ」
と召されければ、伊豆守、そのころはいまだ衛府蔵人でおはしけるが、
「仲綱」
と名のって、参られたるに、この蛇をたぶ。たまはって弓場殿をへて、殿上の小庭にいでつつ、御倉の小舎人を召して、
「これたまはれ」
といはれければ、大きに頭をふってにげさりぬ。力およばで、わが郎等、競の滝口を召して、これをたぶ。たまはってすててんげり。そのあした、小松殿よい馬に鞍おいて、伊豆守のもとへつかはすとて、
「さても昨日のふるまひこそ、優にさうらひしか。これは乗一の馬でさうらふ。夜陰に及んで、陣外より傾城のもとへかよはれむ時、用ゐらるべし」
とて、つかはさる。伊豆守、大臣の御返事なれば、
「御馬かしこまってたまはりさうらひぬ。昨日のふるまひは、還城楽にこそ似てさうらひしか」
とぞ申されける。いかなれば、小松のおとどはかうこそゆゆしうおはせしに、宗盛卿は、さこそなからめ、あまっさへ人の惜しむ馬こひとって、天下の大事に及びぬるこそうたてけれ。
同十六日の夜に入って、源三位入道頼政、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光以下、都合その勢三百余騎、館に火かけ、焼きあげて、三井寺へこそ参られけれ。
三位入道の侍に渡辺の源三滝口競といふ者あり。はせおくれてとどまったりけるを、前右大将、競を召して、
「いかになんぢは、三位入道のともをばせで、とどまったるぞ」
とのたまひければ、競畏って申しけるは、
「自然の事さうらはば、まっさきかけて、命をたてまつらんとこそ、日ごろは存じてさうらひつれども、何と思はれさうらひけるやらむ、かうともおほせられさうらはず」
「そもそも朝敵頼政法師に同心せむとや思ふ。またこれにも兼参の者ぞかし。先途後栄を存じて、当家に奉公いたさんとや思ふ。ありのままに申せ」
とこそのたまひければ、競涙をはらはらとながいて、
「相伝のよしみはさることにてさうらへども、いかんが朝敵となれる人に同心をばしさうらふべき。殿中に奉公仕らうずるさうらふ」
と申しければ、
「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん恩には、ちっともおとるまじきぞ」
とて入りたまひぬ。
「侍に、競はあるか」
、
「さうらふ」
、
「さうらふ」
とて、あしたよりゆふべに及ぶまで、祗候す。やうやう日も暮れければ、大将いでられたり。競かしこまって申しけるは、
「三位入道殿、三井寺にときこえさうらふ。さだめて打手むけられさうらはんずらん。心にくうもさうらはず。三井寺法師、さては渡辺のしたしいやつ原こそさうらめ。えりうちなんどもしさうらふべきに、乗ってことにあふべき馬もさうらひつる、したしいやつめにぬすまれてさうらふ。
御馬一疋くだしあづかるべうやさうらん」
と申しければ、大将、
「もっともさるべし」
とて、白葦毛なる馬の、煖延とて、秘蔵せられたりけるに、よい鞍おいてぞたうだりける。競屋形にかへって、
「はや日の暮よかし。この馬に打ち乗って、三井寺へはせ参り、三位入道殿のまっさきかけて、打ち死にせん」
とぞ申しける。日もやうやう暮れければ、妻子どもかしこここへ立ちしのばせて、三井寺へ出で立ちける、心の中こそむざんなれ。ひやうもんの狩衣の、菊とぢおほきらかにしたるに、重代の着背長の、緋威の鎧に、星白の甲の緒をしめ、いか物づくりの大太刀はき、廿四さいたる大中黒の矢おひ、滝口の骨法忘れじとや、鷹の羽にてはいだりける、的矢一手ぞさしそへたる。
滋藤の弓もって、煖延にうち乗り、乗りがへ一騎うちぐし、舎人男に持楯わきばさませ、屋形に火かけ、焼きあげて、三井寺へこそ馳せたりけれ。
山門牒状
三井寺には貝鐘ならいて、大衆僉議す。
「近日世上の体を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、まさにこの時にあたれり。
今度清盛入道が暴悪をいましめずは、いづれの日をか期すべき。宮ここに入御の御こと、正八幡宮の衛護、新羅大明神の冥助にあらずや。天衆地類も影向をたれ、仏力神力も降伏をくはへましますこと、などかなかるべき。
そもそも北嶺は円宗一味の学地、南都は夏臈得度の戒場なり。牒奏のところに、などかくみせざるべき」
と、一味同心に僉議して、山へも奈良へも牒状をこそおくりけれ。山門への状にいはく、
園城寺牒す。延暦寺の衙。
殊に合力をいたして、当寺の破滅を助けられむと思ふ状。
右入道浄海、ほしいままに王法をうしなひ、仏法をほろぼさんとす。愁嘆極まり無きところに、去る十五日の夜、一院第二の皇子、ひそかに入寺せしめたまふ。ここに院宣と号して、いだしたてまつるべきよし、責めありといへども、出したてまつるにあたはず。
よって官軍をはなちつかはすべきむね、聞えあり。当寺の破滅まさにこの時にあたれり。諸縁なんぞ愁嘆せざらんや。なかんづく延暦、園城両寺は、門跡二つに相分かるといへども、学するところは、これ円頓一味の教門に同じ。
たとへば鳥の左右の翅のごとし。また車の二つの輪に似たり。一方闕けんにおいては、いかでかその歎なからんや。しかれば、ことに合力をいたして、当寺の破滅をたすけられば、早く年来の遺恨を忘れて、住山の昔に復せん。
衆徒の僉議かくのごとし。よって牒奏件のごとし。
治承四年五月十八日 大衆等
とぞ書いたりける。
南都牒状
山門の大衆、この状を披見して、
「こはいかに、当山の末寺でありながら、鳥の左右の翅のごとし、また車の二つの輪に似たりと、おさへて書く条奇怪なり」
とて、返牒をおくらず。その上入道相国、天台座主明雲大僧正に、衆徒をしづめらるべきよし、のたまひければ、座主いそぎ登山して、大衆をしづめたまふ。
かかりし間、宮の御方へは、不定のよしをぞ申しける。また入道相国、近江米二万石、北国のおりのべぎぬ三千疋、往来に寄せらる。これを谷々峰々にひかれけるに、俄の事ではあり、一人してあまたをとる大衆もあり、また手をむなしうして一つもとらぬ衆徒もあり。
何者のしわざにやありけん、落書をぞしたりける。
山法師おりのべ衣うすくして恥をばえこそかくさざりけれ
またきぬにもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、
おりのべを一きれもえぬわれらさへうすはぢをかくかずに入るかな
また南都の状にいはく、
園城寺牒す、興福寺の衙。
殊に合力をいたして、当寺の破滅を助けられんと乞ふ状。
右仏法の殊勝なることは、王法をまぼらんがため、王法また長久なることは、すなはち仏法による。ここに入道前太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、ほしいままに国威をひそかにし、朝政を乱り、内につけ外につけ、恨をなし歎をなす間、今月十五日の夜、一院第二の皇子、不慮の難をのがれんがために、にはかに入寺せしめたまふ。
ここに院宣と号して、出したてまつるべきむね、責めありといへども、衆徒一向これを惜しみたてまつる。よってかの禅門、武士を当寺にいれんとす。仏法といひ、王法といひ、一時にまさに破滅せんとす。昔唐の会昌天子軍兵をもって、仏法をほろぼさしめし時、清涼山の衆、合戦をいたして、これをふせぐ。
王権なほかくのごとし。なにに況や、謀反八逆の輩においてをや。なかんづく南京は例なくて、罪なき長者を配流せらる。今度にあらずは、いづれの日か会稽をとげん。ねがはくは衆徒、内には仏法の破滅をたすけ、外には悪逆の伴類を退けば、同心のいたり、本懐に足んぬべし。
衆徒の僉議かくのごとし。よって牒奏件のごとし。
治承四年五月十八日 大衆等
とぞ書いたりける。
南都の大衆この状を披見して、やがて、返牒をおくる。その返牒にいはく、
興福寺牒す、園城寺の衙。
来牒一紙に載せられたり。右入道浄海が為に、貴寺の仏法をほろぼさんとするよしのこと。
牒す。玉泉、玉花、両家の宗義を立つといへども、金章、金句、同じく一代教門より出でたり。南京、北京、ともにもって如来の弟子たり。自寺他寺、互に調達が魔障を伏すべし。そもそも清盛入道は、平氏の糟糠、武家の塵芥なり。
祖父正盛、蔵人五位の家に仕へて、諸国受領の鞭をとる。大蔵卿為房、加州刺史のいにしへ、検非所に補し、修理大夫顕季、播磨太守たりし昔、厩別当職に任ず。しかるを親父忠盛、昇殿をゆるされし時、都鄙の老少、みな蓬壺の瑕瑾を惜しみ、内外の英豪、おのおの馬台の讖文に啼く。
忠盛青雲の翔を刷ふといへども世の民なほ白屋の種をかろんず。名を惜しむ青侍、その家にのぞむことなし。しかるを去る平治元年十二月、太上天皇、一戦の功を感じて、不次の賞を授けたまひしよりこのかた、たかく相国にのぼり、兼ねて兵仗をたまはる。
男子あるいは台階をかたじけなうし、あるいは羽林につらなる。女子あるいは中宮職にそなはり、あるいは准后宣を蒙る。群兄庶子、みな棘路にあゆみ、その孫かの甥ことごとく竹符をさく。しかのみならず九州を統領し百司を進退して、奴婢みな僕従となす。
一毛心にたがへば、王侯といへどもこれをとらへ、片言耳にさかふれば、公卿といへどもこれをからむ。これによって、あるいは一旦の身命をのべんがため、あるいは片時の凌蹂をのがれんと思って、万乗の聖主、なほ面諛の媚をなし、重代の家君、かへって膝行の礼をいたす。
代々相伝の家領を奪ふといへども、上宰もおそれて舌をまき、宮々相承の庄園をとるといへども、権威にはばかって、物いふことなし。勝つに乗るあまり、去年の冬十一月、太上皇のすみかを追捕し、博陸公の身をおしながす。
反逆の甚しいこと、まことに古今に絶えたり。その時われらすべからく、賊衆にゆき向って、その罪を問ふべしといへども、あるいは神慮にあひはばかり、あるいは綸言と称ずるによって、鬱陶をおさへ、光陰を送るあひだ、かさねて軍兵をおこして、一院第二の親王宮をうちかこむところに、八幡三所、春日の大明神、ひそかに影向をたれ、仙蹕をささげたてまつり、貴寺におくりつけて、新羅の扉に預けたてまつる。
王法つきべからざるむねあきらけし。随ってまた貴寺身命をすてて、守護したてまつる条、含識のたぐひ、誰か随喜せざらん。われら遠域にあって、そのなさけを感ずるところに、清盛入道、なほ凶器をおこして、貴寺に入らんとするよし、ほのかに承り及ぶをもって、兼ねて用意をいたす。
十八日辰の一点に大衆をおこし、諸寺に牒奏し、末寺に下知し、軍士をえて後、案内を達せんとするところに、青鳥飛び来たって、芳翰を投げたり。数日の鬱念一時に解散す。かの唐家清涼一山の苾芻、なほ武宗の官兵を帰す。
況や和国南北両門の衆徒、なんぞ謀臣の邪類をはらはざらんや。よく梁園左右の陣をかためて、よろしくわれらが進発の告を待つべし。状を察して、疑殆をなすことなかれ。もって牒す。
治承四年五月廿一日 大衆等
とぞ書いたりける。
永僉議
三井寺にはまた大衆おこって僉議す。
「山門は心がはりしつ。南都はいまだ参らず。このことのびてはあしかりなん。いざや六波羅におし寄せて、夜打にせん。その儀ならば、老少二手にわかって、老僧どもは、如意が峰より、搦手にむかふべし。足軽ども四五百人さきだて、白河の在家に火をかけて、焼きあげば、在京人、六波羅の武士、『あはや事いできたり』とて、はせむかはんずらん。
その時岩坂、桜本にひっかけひっかけ、しばしささへてたたかはんまに、大手は伊豆守を大将軍にて、悪僧ども六波羅におし寄せ、風うへに火かけ、一もみもうでせめんに、などか太政入道、焼きだいてうたざるべき」
とぞ、僉議しける。
そのなかに平家のいのりしける、一如房の阿闍梨真海、弟子、同宿数十人をひき具し、僉議の庭にすすみいでて申しけるは、
「かう申せば、平家の方人とやおぼしめされさうらん。たとひさもさうらへ、いかんが衆徒の儀をもやぶり、われらの名をも惜しまではさうらふべき。昔は源平左右にあらそひて、朝家の御まぼりたりしかども、ちかごろは源氏の運かたぶき、平家世をとって、廿余年、天下になびかぬ草木もさうらはず。
内々の館の有様も、小勢にてはたやすうせめおとしがたし。さればよくよく外にはかりことをめぐらして勢をもよほし、後日に寄せさせたまふべうやさうらん」
と、ほどをのばさんがために、ながながとぞ僉議したる。
ここに乗円房の阿闍梨慶秀といふ老僧あり。衣のしたに腹巻を着、大きなる打刀、まへだれにさし、法師頭つつむで、白柄の大長刀杖につき、僉議の庭にすすみいでて申しけるは、
「証拠を外にひくべからず。われらの本願、天武天皇は、いまだ東宮の御時、大友の皇子にはばからせたまひて、吉野のおくをいでさせたまひ、大和国宇多郡を過ぎさせたまひけるには、その勢はつかに十七騎、されども伊賀、伊勢にうちこへ、美濃、尾張の勢をもって、大友の皇子をほろぼして、つひに位につかせたまひき。
『窮鳥懐に入る、人倫これをあはれむ』といふ本文あり。自余は知らず、慶秀が門徒においては、今夜六波羅におし寄せて、打ち死にせよや」
とぞ僉議しける。円満院大輔源覧、すすみいでて申しけるは、
「僉議はしおほし。夜のふくるに、いそげやすすめ」
とぞ申しける。
大衆揃
搦手にむかふ老僧ども、大将軍には源三位入道頼政、乗円房阿闍梨慶秀、律成房阿闍梨日胤、帥法印禅智、禅智が弟子義宝、禅永をはじめとして、都合その勢一千人、手々にたい松もって、如意が峰へぞむかひける。大手の大将軍には、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光、大衆には、円満院の大輔源覧、成喜院の荒土佐、律成房伊賀公、法輪院の鬼佐渡、これらは力のつよさ、打物もっては、鬼にも神にもあはうどいふ、一人当千のつはものなり。
平等院には、因幡堅者荒大夫、角六郎房、島の阿闍梨、筒井法師に、卿阿闍梨、悪少納言、北院には、金光院の六天狗、式部、大輔、能登、加賀、佐渡、備後等なり。松井の肥後、証南院の筑後、賀屋の筑前、大矢の俊長、五智院の但馬、乗円房の阿闍梨慶秀が房人六十人のうち、加賀光乗、刑部春秀、法師原には、一来法師にしかざりき。
堂衆には、筒井の浄妙明秀、小蔵尊月、慈慶、楽住、鉄拳玄永、武士には、渡辺省、播磨次郎授、薩摩兵衛長七唱、競滝口、与右馬允、続源太、清、勧を先として、都合その勢一千五百余人、三井寺をこそうったちけれ。
宮いらせたまひて後は、大関小関ほりきって、堀ほり逆茂木ひいたれば、堀に橋わたし、逆茂木ひきのくるなんどしけるほどに、時剋おしうつって、関路のには鳥なきあへり。伊豆守のたまひけるは、
「ここで鳥ないては、六波羅は白昼にこそ寄せんずれ。いかがせん」
とのたまへば、円満院大輔源覧、またさきのごとくすすみいでて僉議しけるは、
「昔秦の昭王のとき、孟嘗君召しいましめられたりしに、きさきの御たすけによって、兵者三千人をひきぐして、にげまぬかれけるに、函谷関にいたれり。鶏なかぬかぎりは、関の戸をひらくことなし。孟嘗君が三千の客のなかに、てんかつといふ兵者あり。
鶏のなくまねをありがたくしければ、鶏鳴ともいはれけり。かの鶏鳴たかき所にはしりあがり、にはとりのなくまねをしたりければ、関路のにはとり聞きつたへて、みななきぬ。その時関守鳥のそらねにばかされて、関の戸あけてぞとほしける。
これもかたきのはかりことにやなかすらん。ただ寄せよ」
とぞ申しける。かかりしほどに、五月のみじか夜ほのぼのとこそあけにけれ。伊豆守のたまひけるは、
「夜うちにこそさりともと思ひつれども、ひるいくさにはかなふまじ。あれよびかへせや」
とて、搦手如意が峰よりよびかへす。大手は松坂よりとってかへす。若大衆ども、
「これは、一如房阿闍梨が、なが僉議にこそ夜はあけたれ。おし寄せてその坊きれ」
とて、坊をさんざんにきる。ふせぐところの弟子同宿数十人うたれぬ。一如坊阿闍梨、はふはふ六波羅に参って、老眼より涙をながいて、この由うったへ申しけれども、六波羅には軍兵数万騎馳せあつまって、さわぐこともなかりけり。
同廿三日の暁、宮は、
「この寺ばかりではかなふまじ。山門は心がはりしつ、南都はいまだ参らず。後日になってはあしかりなん」
とて、三井寺をいでさせたまひて、南都へいらせおはします。この宮は、蝉折、小枝ときこえし漢竹の笛を、二つもたせたまへり。かの蝉折と申すは、昔鳥羽院の御時、こがねを千両、宋朝の御門へおくらせたまひたりければ、返報とおぼしくて、いきたる蝉のごとくに、ふしのついたる笛竹を、一よおくらせたまふ。
「いかんがこれほどの重宝を、左右なうはゑらすべき」
とて、三井寺の大進僧正覚宗に仰せて、檀上にたて、七日加持して、ゑらせたまへる御笛なり。ある時高松の中納言実平卿参って、この御笛をふかれけるが、よの常の笛のやうに思ひ忘れて、ひざよりしもにおかれたりければ、笛やとがめけん、その時蝉折れにけり。
さてこそ蝉折とはつけられたれ。笛の御器量たるによって、この宮御相伝ありけり。されどもいまをかぎりとやおぼしめされけん、金堂の弥勒にまゐらっさせおはします。竜花の暁、値遇の御ためかとおぼえて、あはれなりしことどもなり。
老僧どもには、みないとまたうで、とどめさせおはします。しかるべき若大衆、悪僧どもは参りけり。源三位入道の一類ひきぐして、その勢一千人とぞきこえし。乗円房阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがって、宮の御まへに参り、老眼より涙をはらはらとながいて申しけるは、
「いづくまでも御供仕るべうさうらへども、齢すでに八旬にたけて、行歩かなひがたうさうらふ。弟子でさうらふ刑部房俊秀を、まゐらせさうらふ。これは一年、平治の合戦の時、故左馬頭義朝が手にさうらひて、六条河原で打ち死に仕りさうらひし、相模国住人、山内須藤刑部丞俊通が子でさうらふ。
いささかゆかりさうらふあひだ、跡ふところでおほしたてて、心のそこまでよくよく知ってさうらふ。いづくまでも召しぐせられさうらふべし」
とて、涙をおさへてとどまりぬ。宮もあはれにおぼしめし、
「いつのよしみをかうは申すらん」
とて、御涙せきあへさせたまはず。
橋合戦
宮は宇治と寺とのあひだにて、六度まで御落馬ありけり。これは去る夜、御寝のならざりしゆゑなりとて、宇治橋三間ひきはづし、平等院にいれたてまつって、しばらく御休息ありけり。六波羅には、
「すはや宮こそ南都へおちさせたまふなれ。おっかけてうちたてまつれ」
とて、大将軍には、左兵衛督知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛、薩摩守忠度、侍大将には、上総守忠清、その子上総太郎判官忠綱、飛騨守景家、その子飛騨太郎判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛尉盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、都合その勢二万八千余騎、木幡山うちこえて、宇治橋のつめにぞおし寄せたる。
かたき平等院にとみてんげれば、時をつくる事三箇度、宮の御方にも時の声をぞあはせたる。先陣が、
「橋をひいたぞ、あやまちすな。橋をひいたぞ、あやまちすな」
とどよみけれども、後陣はこれをききつけず、われさきにとすすむほどに、先陣二百余騎、おしおとされ、水におぼれてながれけり。
橋の両方のつめにうったって、矢合す。宮御方には、大矢の俊長、五智院の但馬、渡辺の省、授、続の源太が射ける矢ぞ、鎧もかけず、楯もたまらずとほりける。源三位入道は、長絹の鎧直垂に、しながはをどしの鎧なり。
その日を最後とや思はれけん、わざと甲は着たまはず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸脅の鎧なり。弓をつようひかんとて、これも甲は着ざりけり。ここに五智院の但馬、大長刀の鞘をはづいて、ただ一騎橋の上にぞすすんだる。
平家の方にはこれをみて、
「あれ射とれや者ども」
とて、究竟の弓の上手どもが、矢さきをそろへて、さしつめひきつめ、さんざんに射る。但馬すこしもさわがず、あがる矢をばついくぐり、さがる矢をばをどりこえ、むかってくるをば、長刀できっておとす。かたきもみかたも見物す。
それよりしてこそ矢切の但馬とはいはれけれ。
堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀は、かちの直垂に、黒革威の鎧着て、五枚甲の緒をしめ、黒漆の太刀をはき、廿四さいたる黒ぼろの矢おひ、塗籠籐の弓に、このむ白柄の大長刀とりそへて、橋のうへにぞすすんだる。大音声をあげて、名のりけるは、
「日ごろはおとにもききつらむ、いまは目にもみたまへ。三井寺にはそのかくれなし。堂衆のなかに、筒井の浄妙明秀といふ、一人当千の兵者ぞや。われと思はむ人々は、寄りあへや、見参せむ」
とて、廿四さいたる矢を、さしつめひきつめさんざんに射る。やにはに十二人射ころして、十一人に手おほせたれば、箙に一つぞのこったる。弓をばからと投げすて、箙もといてすててんげり。つらぬきぬいではだしになり、橋のゆきげたを、さらさらさらとはしりわたる。
人はおそれてわたらねども、浄妙房が心地には、一条二条の大路とこそふるまうたれ。長刀でむかふかたき、五人なぎふせ、六人にあたるかたきにあうて、長刀なかよりうち折って、すててんげり。その後太刀をぬいて、たたかふに、かたきは大勢なり、くもで、かくなは、十文字、とんばうかへり、水車、八方すかさずきったりけり。
やにはに八人きりふせ、九人にあたるかたきが甲の鉢に、あまりにつよううちあてて、目貫のもとよりちやうど折れ、くっとぬけて、河へざぶと入りにけり。たのむところは腰刀、ひとへに死なんとぞくるひける。
ここに乗円坊の阿闍梨慶秀が召しつかひける、一来法師といふ、大力のはやわざありけり。つづいてうしろにたたかふが、ゆきげたはせばし、そばとほるべきやうはなし。浄妙房が甲の手さきに手をおいて、
「あしうさうらふ、浄妙房」
とて、肩をづんどをどりこえてぞたたかひける。一来法師打ち死にしてんげり。浄妙房はふはふかへって、平等院の門のまへなる芝のうへに物具ぬぎすて、鎧にたったる矢目をかぞへたりければ、六十三、うらかく矢五所。
されども大事の手ならねば、ところどころに灸治して、首からげ浄衣着て、弓うちきり杖につき、ひらあしだはき、阿弥陀仏申して、奈良の方へぞまかりける。浄妙房がわたるを手本にして、三井寺の大衆、渡辺党、はしりつづきはしりつづき、われもわれもとゆきげたをこそわたりけれ。
あるいは分どりしてかへる者もあり、あるいはいた手おうて腹かききり、河へ飛びいる者もあり。橋のうへのいくさ、火いづるほどぞたたかひける。これをみて平家の方の侍大将、上総守忠清、大将軍が御まへに参って、
「あれ御覧さうらへ。橋のうへのいくさ、手いたうさうらふ。いまは河をわたすべきでさうらふが、をりふし五月雨のころで、水まさってさうらふ。わたさば馬人おほくうせさうらひなんず。淀、一口へやむかひさうらふべき。
河内路へやまはりさうらふべき」
と申すところに、下野国住人、足利又太郎忠綱、すすみいでて申しけるは、
「淀、一口、河内路をば、天竺、震旦の武士を召して、むけられさうらはんずるか。それもわれらこそむかひさうらはんずれ。目にかけたるかたきをうたずして、南都へいれまゐらせさうらひなば、吉野、十津川の勢ども馳せ集って、いよいよ御大事でこそさうらはんずらめ。
武蔵と上野のさかひに、利根河と申しさうらふ大河さうらふ。秩父、足利、なかをたがひ、常は合戦をしさうらひしに、大手は長井のわたり、搦手は故我、杉のわたりより寄せさうらひしに、上野国の住人、新田入道、足利にかたらはれて、杉の渡りより寄せんとて、まうけたる舟どもを、秩父が方よりみなわられて、申しさうらひしは、『ただいまここをわたさずは、長弓箭の疵なるべし。
水におぼれて死なば死ね。いざわたさん』とて、馬筏をつくって、わたせばこそわたしけめ。坂東武者の習として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬きらふやうやある。この河のふかさはやさ、利根河にいくほどのおとりまさりはよもあらじ。
つづけや殿原」
とて、まっさきにこそうち入れたれ。つづく人ども、大胡、大室、渋須、山上、那波太郎、佐貫広綱四郎大夫、小野寺前司太郎、辺屋子の四郎、郎等には、宇夫方次郎、切生の六郎、田中の宗太をはじめとして、三百余騎ぞつづきける。
足利大音声をあげて、
「つよき馬をばうは手にたてよ。よわき馬をばした手になせ。馬の足のおよばうほどは、手綱をくれてあゆませよ。はづまばかいくっておよがせよ。さがらう者をば、弓のはずにとりつかせよ。手をとりくみ、肩をならべてわたすべし。
鞍壺によく乗りさだまって、鐙をつようふめ。馬の頭しづまば、ひきあげよ。いたうひいてひっかづくな。水しとまば、三頭のうへに乗りかかれ。馬にはよわう、水にはつようあたるべし。河なかで弓ひくな。かたき射るともあひびきすな。
常に錣をかたぶけよ。いたうかたむけて、手へん射さすな。かねにわたいておしおとさるな。水にしなうてわたせやわたせ」
とおきてて、三百余騎一騎もながさず、むかへの岸へざっとわたす。
宮御最後
足利は朽葉の綾の直垂に赤皮威の鎧着て、高角うったる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、切斑の矢おひ、滋籐の弓もって、連銭葦毛なる馬に、柏木に耳づくうったる黄覆輪の鞍おいてぞ乗ったりける。鐙ふんばりたちあがり、大音声あげてなのりけるは、
「とほくには音にもきき、ちかくは目にもみたまへ。昔朝敵将門をほろぼし、勧賞かうぶっし俵藤太秀郷に十代、足利太郎俊綱が子、又太郎忠綱、生年十七歳。かやうに無官無位なる者の、宮にむかひまゐらせて、弓をひき矢を放つこと、天のおそれすくなからずさうらへども、弓も矢も冥加のほども、平家の御身のうへにこそさうらめ。
三位入道殿の御かたに、われと思はん人々は、寄りあへや、見参せん」
とて、平等院の門のうちへ、せめ入りせめ入りたたかひけり。
これをみて大将軍左兵衛督知盛、
「わたせやわたせ」
と下知せられければ、二万八千余騎、みなうちいれてわたしけり。馬や人にせかれて、さばかり早き宇治河の、水はかみにぞたたへたる。おのづからもはづるる水には、なにもたまらずながれけり。雑人どもは馬のした手にとりつきわたりければ、ひざよりかみをばぬらさぬ者もおほかりけり。
いかがしたりけん、伊賀、伊勢両国の官兵、馬いかだおしやぶられ、水におぼれて六百余騎ぞながれける。萌黄、緋威、赤威、いろいろの鎧の、うきぬしづみぬゆられけるは、神南備山の紅葉葉の、峰の風にさそはれて、竜田河の秋のくれ、ゐせきにかかって、ながれもやらぬにことならず。
その中に緋威の鎧着たる武者が三人、網代にながれかかってゆられけるを、伊豆守みたまひて、
伊勢武者はみなひをどしの鎧着て宇治の網代にかかりぬるかな
これらは三人ながら伊勢国の住人なり。黒田後平四郎、日野十郎、乙部弥七といふ者なり。そのなかに日野の十郎は、ふる者にてありければ、弓のはずを岩のはざまにねぢたてて、かきあがり、二人の者どもひきあげてたすけたりけるとぞきこえし。
おほぜいみなわたして、平等院の門のうちへ、いれかへいれかへたたかひけり。このまぎれに、宮をば南都へせきだてまゐらせ、源三位入道の一類のこって、ふせぎ矢射たまふ。
三位入道七十にあまって、いくさして、弓手のひざ口を射させ、いたでなれば心しづかに自害せんとて、平等院の門の内へひき退いて、かたきおそひかかりければ、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、唐綾威の鎧着て、白葦毛なる馬に乗り、父をのばさんとかへしあはせかへしあはせ、ふせぎたたかふ。
上総太郎判官が射ける矢に、兼綱内甲を射させてひるむところに、上総守が童、次郎丸といふしたたか者、おしならべてひっくんでどうとおつ。源大夫判官は、内甲もいた手なれども、きこゆる大力なりければ、童をとっておさへて頸をかき、立ちあがらんとするところに、平家の兵者ども十四五騎、ひしひしとおちかさなって、つひに兼綱をばうってんげり。
伊豆守仲綱も、いた手あまたおひ、平等院の釣殿にて自害す。その頸をば、下河辺の藤三郎清親とって、大床のしたへぞ投げ入れける。六条蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光も、さんざんにたたかひ、分どりあまたして、つひに打ち死にしてんげり。
この仲家と申すは、故帯刀の先生義賢が嫡子なり。みなし子にてありしを、三位入道養子にして、不便にしたまひしが、日ごろの契を変せず、一所にて死ににけるこそむざんなれ。
三位入道は、渡辺長七唱を召して、
「わが頸うて」
とのたまひければ、主のいけくびうたんことのかなしさに、涙をはらはらとながいて、
「仕るともおぼえさうらはず。御自害さうらはば、その後こそたまはりさうらはめ」
と申しければ、
「まことにも」
とて西にむかひ声高に十念となへ、最後の詞ぞあはれなる。
埋木の花さくこともなかりにし身のなるはてぞかなしかりける
これを最後の詞にて、太刀の先を腹につきたて、うつぶさまにつらぬかってぞうせられける。その時に歌よむべうはなかりしかども、わかうよりあながちにすいたる道なれば、最後の時も、忘れたまはず。その頸をば唱取って、泣く泣く石にくくりあはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治河のふかき所にしづめてんげり。
競の滝口をば、平家の侍ども、いかにもしていけどりにせんとうかがひけれども、競もさきに心えて、さんざんにたたかひ、大事の手おひ、腹かききってぞ死ににける。円満院の大輔源覧、いまは宮もはるかにのびさせたまひぬらんとや思ひけん、大太刀大長刀左右にもって、敵のなかうちやぶり、宇治河へとんでいり、物具一つもすてず、水の底をくぐってむかへの岸にわたりつき、たかき所にのぼりあがり、大音声をあげて、
「いかに平家の君達、これまでは御大事か、よう」
とて、三井寺へこそかへりけれ。
飛騨守景家は、ふる兵者にてありければ、このまぎれに宮は南都へやさきだたせたまふらんとて、いくさをばせず、その勢五百余騎、鞭鐙をあはせておっかけたてまつる。案のごとく宮は卅騎ばかりで落ちさせたまひけるを、光明山の鳥居のまへにて、おっつきたてまつり、雨のふるやうに射まゐらせければ、いづれが矢とはおぼえねど、宮の左の御そば腹に矢一すぢたちければ、御馬より落ちさせたまひて、御頸とられさせたまひなり。
これをみて、御供にさうらひける、鬼佐渡、荒土佐、あら大夫、理智城房の伊賀公、刑部俊秀、金光院の六天狗、いつのために命をば惜しむべきとて、をめきさけんで打ち死にす。
そのなかに宮の御めのと子、六条大夫宗信、かたきはつづく、馬はよわし、に井野の池へ飛んでいり、うき草かほにとりおほひ、ふるひゐたれば、かたきはまへをうち過ぎぬ。しばしあって、兵者どもの四五百騎ざざめいてうちかへりけるなかに、浄衣着たる死人の頸もないを、蔀のもとにかいていできたりけるを、たれやらんとみたてまつれば、宮にてぞましましける。
「われ死なば、この笛をば御棺にいれよ」
と仰せける、小枝ときこえし御笛も、いまだ御腰にさされたり。はしりいでてとりもつきまゐらせばやと思へども、おそろしければそれもかなはず。かたきみなかへって後、池よりあがり、ぬれたる物どもしぼり着て、泣く泣く京へのぼりたれば、にくまぬ者こそなかりけれ。
さるほどに南都の大衆、ひた甲七千余人、宮の御むかへに参る。先陣は木津にすすみ、後陣はいまだ興福寺の南大門にゆらへたり。宮ははや光明山の鳥居のまへにて、うたれさせたまひぬときこえしかば、大衆みな力及ばず、涙をおさへてとどまりぬ。
いま五十町ばかりまちつけさせたまはで、うたれさせたまひけん、宮の御運のほどこそうたてけれ。
若宮出家
平家の人々は、宮ならびに三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百余人が頸、太刀、長刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、夕に及んで、六波羅へかへりいる。兵者どもいさみののしること、おそろしなんどもおろかなり。
そのなかに源三位入道の頸は、長七唱がとって、宇治河のふかき所にしづめてんげれば、それはみえざりけり。子供の頸は、あそこここよりみな尋ねいだされたり。なかに宮の御頸は、年来参りよる人もなければ、見知りまゐらせたる人もなし。
先年典薬頭定成こそ御療治のために召されたりしかば、それぞ見知りまゐらせたるらんとて、召されけれども、現所労とて参らず。宮の常に召されける女房とて、六波羅へ尋ねいだされたり。さしもあさからずおぼしめされて、御子をうみまゐらせ、最愛ありしかば、いかでかみそんじたてまつるべき、ただ一目みまゐらせて、袖をかほにおしあてて、涙をながされけるにこそ、宮の御頸とは知りてんげれ。
この宮は、腹々に御子の宮たちあまたわたらせたまひけり。八条女院に、伊予守盛章が娘、三位局とてさうらはれける女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮ましましけり。入道相国、おとと池の中納言頼盛卿をもって、八条女院へ申されけるは、
「高倉の宮の御子の宮達のあまたわたらせたまひさうらふなる。姫宮の御ことは申すに及ばず。若宮をばとうとういだしまゐらっさせたまへ」
と申されたりければ、女院御返事には、
「かかるきこえのありし暁、御乳人なんどが心をさなう具したてまつってうせにけるにや、まったくこの御所にはわたらせたまはず」
と仰せければ、頼盛卿力及ばで、このよしを入道相国に申されけり。
「なんでうその御所ならでは、いづくへかわたらせたまふべかんなる。その儀ならば武士ども参ってさがしたてまつれ」
とぞのたまひける。この中納言は、女院の御めのと子、宰相殿と申す女房に相具して、常に参りかよはれければ、日ごろはなつかしうこそおぼしめされけるに、この宮の御こと申しに参られたれば、いまはあらぬ人のやうに、うとましうおぼしめされける。
若宮、女院に申させたまひけるは、
「これほどの御大事に及びさうらうへは、つひにのがれさうらふまじ。とうとういださせおはしませ」
と申されたまひければ、女院御涙をはらはらとながさせたまひて、
「人の七つ八つは、なにごともいまだ思ひわかぬほどぞかし。それにわれゆゑ大事のいでいたることを、かたはらいたく思ひて、かやうにのたまふいとほしさよ。よしなかりける人を、この六七年手ならして、かかるうき目をみるよ」
とて、御涙をせきあへさせたまはず。
頼盛卿、宮いだしまゐらっさせたまふべきよし、かさねて申されければ、女院力およばせたまはで、つひに宮をいだしまゐらっさせたまひけり。御母三位の局、今をかぎりに別れなれば、さこそは御名残惜しう思はれけめ。
泣く泣く御衣着せたてまつり、御ぐしかきなで、いだしまゐらせたまふも、ただ夢とのみぞ思はれける。女院をはじめまゐらせて、局の女房、女の童にいたるまで、涙をながし袖をしぼらぬはなかりけり。頼盛卿、宮うけとりまゐらせ、御車に乗せたてまつって、六波羅へわたしたてまつる。
前右大将宗盛卿、この宮をみまゐらせて、父の相国禅門の御まへにおはして、
「なにとさうらふやらん、この宮をみたてまつるが、あまりにいとほしう思ひまゐらせさうらふ。理をまげてこの宮の御命をば、宗盛にたびさうらへ」
と申されければ、入道、
「さらばとうとう出家をせさせたてまつれ」
とぞのたまひける。宗盛卿このよしを八条女院に申されければ、女院、
「なにのやうもあるべからず。ただとうとう」
とて法師になしたてまつり、釈氏にさだまらせたまひて、仁和寺の御室の御弟子になしまゐらっさせたまひけり。後には東寺の一の長者、安井の宮の僧正道尊と申ししは、この宮の御ことなり。
通乗沙汰
また奈良にも一所ましましけり。御めのと讃岐守重秀が、御出家せさせたてまつり、具しまゐらせて北国へ落ちくだりたりしを、木曽義仲上洛の時、主にまゐらせんとて具したてまつって都へのぼり、御元服せさせまゐらせたりしかば、木曽が宮とも申しけり。
また還俗の宮とも申しけり。後には嵯峨のへん、野依にわたらせたまひしかば、野依の宮とも申しけり。
昔通乗という相人あり。宇治殿、二条殿をば、
「君三代の関白、ともに御年八十」
と申したりしもたがはず、帥のうちのおとどをば、
「流罪の相まします」
と申したりしもたがはず。聖徳太子の崇峻天皇を、
「横死の相まします」
と申させたまひたりしが、馬子の大臣にころされたまひにき。さもしかるべき人々は、必ず相人としもにあらねども、かうこそめでたかりしか、これは相少納言が不覚にはあらずや。中ごろ兼明親王、具平親王と申ししは、前中書王、後中書王とて、ともに賢王聖主の皇子にてわたらせたまひしかども、位にもつかせたまはず。
されどもいつしかは謀叛をおこさせたまひし。また後三条院の第三の皇子、輔仁の親王も、御才学すぐれてましましければ、白河院いまだ東宮にてましましし時、
「御位の後はこの宮を位につけまゐらっさせたまへ」
と、後三条院御遺詔ありしかども、白河院いかがおぼしめされけん、つひに位にもつけまゐらっさせたまはず。せめてもの御ことには、輔仁親王の御子に、源氏の姓をさづけまゐらっさせたまひて、無位より一度に三位に叙して、やがて中将になしまゐらっさせたまひけり。
一世の源氏、無位より三位にすること、嵯峨の皇帝の御子、陽院の大納言定卿の外は、これはじめとぞ承る。花園左大臣有仁公の御ことなり。
高倉の宮御謀叛の間、調伏の法承って修せられける高僧達に勧賞おこなはる。前右大将宗盛卿の子息、侍従清宗三位して三位侍従とぞ申しける。今年わづかに十二歳、父の卿もこのよはひでは、兵衛佐にてこそおはせしか。
たちまちに上達部にあがりたまふこと、一の人の公達の外は、いまに承り及ばず。
「源以仁、頼政法師父子追討の賞」
とぞ除書にはありける。源以仁とは高倉宮を申しけり。まさしい太上法皇の皇子をうちたてまつるだにあるに、凡人にさへなしたてまつるぞあさましき。
鵼
そもそも源三位入道頼政と申すは、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子なり。保元の合戦の時、御方にて先をかけたりしかども、させる賞にもあづからず。また平治の逆乱にも、親類を捨てて参じたりしかども、恩賞これおろそかなりき。
大内守護にて年ひさしうありしかども、昇殿をばゆるされず。年たけよはひ傾いて後、述懐の和歌一首ようでこそ、昇殿をばゆるされけれ。
人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月をみるかな
この歌によって、昇殿ゆるされ、正下四位にしばらくありしが、三位を心にかけつつ、
のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐを拾ひて世をわたるかな
さてこそ三位はしたりけれ。やがて出家して、源三位入道とて、今年は七十五にぞなりける。
この人一期の高名とおぼえしことは、近衛院御在位の時、仁平のころほひ、主上よなよなおびえたまぎらせたまふことありけり。有験の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修せられけれども、そのしるしなし。御悩は丑の剋ばかりでありけるに、東三条の森の方より、黒雲一村たち来たって、御殿の上におほへば、かならずおびえさせたまひけり。
これによって、公卿僉議あり。去る寛治のころほひ、堀河天皇御在位の時、しかのごとく主上よなよなおびえさせたまふことありけり。その時の将軍義家朝臣、南殿の大床にさうらはれけるが、御悩の剋限に及んで、鳴弦する事三度の後、高声に、
「前陸奥守源義家」
と名のったりければ、人々皆身の毛よだって、御悩おこたらせたまひけり。
しかればすなはち先例にまかせて、武士に仰せて警固あるべしとて、源平両家の兵者どものなかを、撰ぜられけるに、頼政をえらびいだされたりけるとぞきこえし。その時はいまだ兵庫頭とぞ申しける。頼政申しけるは、
「昔より朝家に武士をおかるることは、逆反の者をしりぞけ、違勅の者をほろぼさんが為なり。目にもみえぬ変化のもの仕れと、仰せ下さるること、いまだ承り及びさうらはず」
と申しながら、勅定なれば召に応じて参内す。頼政はたのみきったる郎等、遠江国住人、井早太に、ほろの風切はいだる矢おはせて、ただ一人ぞぐしたりける。わが身は二重の狩衣に、山鳥の尾をもってはいだるとがり矢二すぢ、滋藤の弓にとりそへて、南殿の大床に伺候す。
頼政矢を二つたばさみけることは、雅頼卿、その時はいまだ左小弁にておはしけるが、
「変化の物仕らんずる仁は、頼政ぞさうらふ」
と、えらび申されたるあひだ、一の矢に変化の物を射そんずる物ならば、二の矢には雅頼の弁の、しや頸の骨を射んとなり。
日ごろ人の申すにたがはず、御悩の剋限に及んで、東三条の森の方より、黒雲一村たち来たって、御殿の上にたなびいたり。頼政きっとみあげたれば、雲のなかにあやしき物の姿あり。これを射そんずる物ならば、世にあるべしとは思はざりけり。
さりながらも矢とってつがひ、
「南無八幡大菩薩」
と心のうちに祈念して、よっぴいてひやうど射る。手ごたへしてはたとあたる。
「えたり、おう」
と矢さけびをこそしたりけれ。井の早太つっと寄り、おつるところをとっておさへて、つづけさまに九かたなぞさいたりける。その時上下手々に火をともいて、これを御覧じみたまふに、頭は猿、むくろは狸、尾は蛇、手足は虎の姿なり。
なく声鵼にぞ似たりける。おそろしなんどもおろかなり。主上御感のあまりに、獅子王といふ御剣をくだされけり。宇治の左大臣これをたまはりついで、頼政にたばんとて、御前の階をなからばかりおりさせたまへるところに、比は卯月十日あまりのことなれば、雲井に郭公二声三声音づれてぞとほりける。
その時左大臣殿、
ほととぎす名をも雲井にあぐるかな
とおほせられかけたりければ、頼政右の膝をつき、左の袖をひろげ、月をすこしそばめにかけつつ、
弓はり月のいるにまかせて
と仕り、御剣をたまはって、まかりいづ。
「弓矢をとってならびなきのみならず、歌道もすぐれたりけり」
とぞ、君も臣も御感ありける。さてかの変化の物をば、うつほ舟にいれて、ながされけるとぞきこえし。
去る応保のころほひ、二条院御在位の時、鵼といふ化鳥、禁中にないて、しばしば宸襟をなやますことありき。先例をもって、頼政を召されけり。比は五月廿日あまりのまだよひのことなるに、鵼ただ一声おとづれて、二声ともなかざりけり。
目さすとも知らぬ闇ではあり、すがたかたちもみえざれば、矢つぼをいづくともさだめがたし。頼政はかりことに、まづ大鏑をとってつがひ、鵼の声しつる内裏のうへへぞ射あげたる。鵼、鏑のおとにおどろいて、虚空にしばしひひめいたり。
二の矢に小鏑とってつがひ、ひいふつと射きって、鵼と鏑とならべて前にぞおとしたる。禁中ざざめきあひ、御感なのめならず、御衣をかづけさせたまひけるに、その時は大炊御門の右大臣公能公これをたまはりついで、頼政にかづけたまふとて、
「昔の養由は、雲の外の雁を射き。今の頼政は、雨の中に鵼を射たり」
とぞ感ぜられける。
五月闇名をあらはせるこよひかな
と仰せられかけたりければ、頼政、
たそかれ時も過ぎぬと思ふに
と仕り、御衣を肩にかけて、退出す。その後伊豆国たまはり、子息仲綱、受領になし、わが身三位して、丹波の五箇庄、若狭のさう宮河知行して、さておはすべかりし人の、よしなき謀叛おこして、宮をもうしなひまゐらせ、わが身もほろびぬるこそうたてけれ。
三井寺炎上
日ごろは山門の大衆こそ、みだりがはしきうったへ仕るに、今度は穏便を存じて、おともせず。南都、三井寺、あるいは宮うけとりたてまつり、あるいは宮の御むかへに参る。これもって朝敵なり。されば三井寺をも南都をも、せめらるべしとて、同五月廿七日、大将軍には入道の四男頭中将重衡、副将軍には薩摩守忠度、都合その勢一万余騎で、園城寺へ発向す。
寺にも堀ほりかいだてかき、逆茂木ひいて待ちかけたり。卯剋に矢合して、一日たたかひくらす。ふせぐところの大衆以下の法師原三百余人までうたれにけり。夜いくさになって暗さは暗し、官軍寺にせめ入りて火をはなつ。
焼くるところ、本覚院、成喜院、真如院、花園院、普賢堂、大宝院、清滝院、教待和尚本坊、ならびに本尊等、八間四面の大講堂、鐘楼、経蔵、灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の御宝殿、そうじて堂舎塔廟六百三十七宇、大津の在家一千八百五十三宇、智証のわたしたまへる一切経七千余巻、仏像二千余体、たちまちに煙となるこそかなしけれ。
諸天五妙のたのしみもこの時ながくつき、竜神三熱の苦しみもいよいよさかんなるらんとぞみえし。
それ三井寺は、近江の擬大領が私の寺たりしを、天武天皇に寄せたてまつって、御願となす。本仏もかの御門の御本尊、しかるを生身の弥勒ときこえたまひし教待和尚、百六十年おこなうて、大師に付属したまへり。都史多天上摩尼宝殿より、あまくだり、はるかに竜花下生の暁をまたせたまふとこそききつるに、こはいかにしつることどもぞや。
大師このところを、伝法灌頂の霊跡として、井花水のみづをむすびたまひしゆゑにこそ、三井寺とは名づけたれ。かかるめでたき聖跡なれども、今はなにならず。顕密須臾にほろびて、伽藍さらに跡もなし。三密道場もなければ、鈴の声もきこえず。
一夏の花もなければ、閼伽のおともせざりけり。宿老碩徳の名師は行学におこたり、受法相承の弟子はまた、経教に倦んだり。寺の長吏円恵法親王、天王寺の別当をとどめらる。その外僧綱十三人闕官ぜられて、みな検非違使に預けらる。
悪僧は筒井の浄妙明秀にいたるまで、二十余人ながされたり。
「かかる天下の乱、国土のさわぎ、ただことともおぼえず。平家の世末になりぬる先表やらん」
とぞ人申しける。



