『平家物語』第2巻 原文全文

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座主流

 治承(ぢしよう)元年(ぐわんねん)五月(ごぐわつ)五日(いつか)、天台座主(てんだいざす)明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)、公請(くじやう)を停止(ちやうじ)せらるゝ上(うへ)、蔵人(くらうど)を御使(おんつかひ)にて如意輪(によいりん)の御本尊(ごほんぞん)をめし返(かへ)して、御持僧(ごぢそう)を改易(かいえき)せらる。即(すなは)ち使庁(しちやう)の使(つかひ)を付(つ)けて、今度(こんど)神輿(みこし)内裏(だいり)へ振(ふ)りたてまつる衆徒(しゆと)の張本(ちやうほん)をめされける。加賀国(かがのくに)に座主(ざす)の御坊領(ごばうりやう)あり。

 国司(こくし)師高(もろたか)これを停廃(ちやうはい)の間(あひだ)、その宿意(しゆくい)によって、大衆(だいしゆ)を語(かた)らひ訴訟(そしよう)をいたさる。すでに朝家(てうか)の御大事(おんだいじ)に及(およ)ぶ由(よし)、西光法師(さいくわうほふし)父子(ふし)が讒奏(ざんそう)によって、法皇(ほふわう)大(おほ)いに逆鱗(げきりん)ありけり。殊(こと)に重科(ぢゆうくわ)に行(おこな)はるべしと聞(き)こゆ。明雲(めいうん)は法皇(ほふわう)の御気色(みけしき)悪(あし)かりければ、印鑰(いんやく)をかへしたてまつって、座主(ざす)を辞(じ)しまうさる。

 同(どう)十一日(じふいちにち)鳥羽院(とばのゐん)七(しち)の宮(みや)、覚快(かくくわい)法(ほふ)親王(しんわう)、天台座主(てんだいざす)にならせたまふ。これは青蓮院(しやうれんゐん)の大僧正(だいそうじやう)行玄(ぎやうげん)の御弟子(おんでし)なり。同(おな)じき十二日(じふににち)先座主(さきのざす)所職(しよしき)を停(とど)めらるゝうへ、検非違使(けびゐし)二人(ふたり)を付(つ)けて、井(ゐ)に蓋(ふた)をし、火(ひ)に水(みづ)をかけ、水火(すゐくわ)のせめに及(およ)ぶ。

 これによって、大衆(だいしゆ)なほ参洛(さんらく)すべき由(よし)聞(き)こえしかば、京中(きやうぢゆう)また噪(さわ)ぎあへり。同(どう)十八日(じふはちにち)太政大臣(だいじやうだいじん)以下(いげ)の公卿(くぎやう)十三人(じふさんにん)参内(さんだい)して、陣(ぢん)の座(ざ)につき、先(さき)の座主(ざす)罪科(ざいくわ)のこと議定(ぎぢやう)あり。八(はち)条(でう)中納言(ちゆうなごん)長方(ながかた)卿(きやう)、その時(とき)はいまだ左大弁(さだいべん)宰相(さいしやう)にて、末座(まつざ)にさうらはれけるが、まうされけるは、

「法家(ほふか)の勘状(かんじやう)に任(まか)せて、死罪一等(しざいいつとう)を減(げん)じて、遠流(をんる)せらるべしと見(み)えてさうらへども、前座主(さきのざす)明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)は、顕密(けんみつ)兼学(けんがく)して、浄行持律(じやうぎやうぢりつ)の上(うへ)、大乗妙経(だいじようめうきやう)を公家(くげ)に授(さづ)けたてまつり、菩薩浄戒(ぼさつじやうかい)を法皇(ほふわう)に持(も)たせたてまつる。御経(おんきやう)の師(し)、御戒(おんかい)の師(し)、重科(ぢゆうくわ)に行(おこな)はれんことは、冥(みやう)の照覧(せうらん)測(はか)り難(がた)し。

還俗(げんぞく)遠流(をんる)を宥(なだ)めらるべきか」

 と、憚(はばか)る処(ところ)もなうまうされければ、当座(たうざ)の公卿(くぎやう)みな長方(ながかた)の議(ぎ)に同(どう)ずとまうしあはれけれども、法皇(ほふわう)の御憤(おんいきどほ)り深(ふか)かりしかば、なほ遠流(をんる)に定(さだ)めらる。太政入道(だいじやうにふだう)もこのことまうさんとて、院参(ゐんざん)せられたりけれども、法皇(ほふわう)御(おん)風(かぜ)の気(き)とて、御前(ごぜん)へもめされたまはねば、本意(ほい)なげにて退出(たいしゆつ)せらる。

 僧(そう)を罪(ざい)する習(なら)ひとて、度縁(どえん)をめし返(かへ)し、還俗(げんぞく)せさせたてまつり、大納言大輔(だいなごんのたいふ)、藤井松枝(ふぢゐのまつえだ)と俗名(ぞくみやう)をぞ付(つ)けられける。この明雲(めいうん)とまうすは、村上天皇(むらかみてんわう)第(だい)七(しち)の皇子(わうじ)、具平親王(ともひらしんわう)より六代(ろくだい)の御末(おんすゑ)、久我(こが)大納言(だいなごん)顕通(あきみち)卿(きやう)の御子(みこ)なり。まことに無双(むさう)の碩徳(せきとく)、天下第一(てんがだいいち)の高僧(かうそう)にておはしたれば、君(きみ)も臣(しん)も尊(たふと)びたまひて、天王寺(てんわうじ)、六勝寺(ろくしようじ)の別当(べつたう)をもかけたまへり。

 されども陰陽頭(おんやうのかみ)安倍泰親(あべのやすちか)がまうしけるは、

「さばかりの智者(ちしや)の明雲(めいうん)と名乗(なの)りたまふこそ心得(こころえ)ね。うへに月日(つきひ)の光(ひかり)を並(なら)べて、下(した)に雲(くも)あり」

 とぞ難(なん)じける。仁安(にんあん)元年(ぐわんねん)二月(にぐわつ)廿日(はつか)、天台(てんだい)の座主(ざす)にならせたまふ。同(どう)三月(さんぐわつ)十五日(じふごにち)御拝堂(ごはいだう)あり。中堂(ちゆうだう)の宝蔵(はうざう)を開(ひら)かれけるに、種々(しゆじゆ)の重宝(ちようほう)どもの中(なか)に、方(はう)一尺(いつしやく)の箱(はこ)あり。白(しろ)い布(ぬの)で包(つつ)まれたり、一生不犯(いつしやうふぼん)の座主(ざす)、かの箱(はこ)を開(ひら)けて見(み)たまふに黄紙(わうし)に書(か)ける文一巻(ふみいつくわん)あり。

 伝教大師(でんげうだいし)、未来(みらい)の座主(ざす)の名字(みやうじ)を兼(か)ねてしるし置(お)かれたり。わが名(な)のあるところまでは見(み)て、それより奥(おく)をば見(み)ず、元(もと)のごとく巻(ま)き返(かへ)して置(お)かるゝ習(なら)ひなり。さればこの僧正(そうじやう)も、さこそおはしけめ。貴(たふと)き人(ひと)なれども、先世(せんぜ)の宿業(しゆくごふ)をば免(まぬか)れたまはず。

 哀(あはれ)なりしことどもなり。同(どう)二十一日(にじふいちにち)配所(はいしよ)伊豆国(いづのくに)と定(さだ)めらる。人々(ひとびと)やうやうにまうしあはれけれども、西光法師(さいくわうほふし)父子(ふし)が讒奏(ざんそう)によって、かやうに行(おこな)はれけり。やがて今日(けふ)都(みやこ)の内(うち)をおひ出(い)ださるべしとて、追立(おつたて)の官人(くわんにん)、白河(しらかは)の御坊(ごばう)に向(む)かっておひたてまつる。

 僧正(そうじやう)なくなく御坊(ごばう)を出(い)でて、粟田口(あはたぐち)の辺(へん)、一切経(いつさいきやう)の別所(べつしよ)へ入(い)らせたまふ。山門(さんもん)には、詮(せん)ずる所(ところ)、われらが敵(かたき)は、西光(さいくわう)父子(ふし)に過(す)ぎたる者(もの)なしとて、かれら親子(おやこ)が名字(みやうじ)を書(か)いて、根本中堂(こんぽんちゆうだう)におはします十二神将(じふにしんしやう)のうち、金毘羅大将(こんぴらたいしやう)の左(ひだり)の御足(おんあし)の下(した)に踏(ふ)ませたてまつり、

「十二神将(じふにしんしやう)、七千夜叉(しちせんやしや)、時刻(じこく)をめぐらさず西光(さいくわう)父子(ふし)が命(いのち)をめし取(と)りたまへや」

 と、喚(わめ)き叫(さけ)んで呪咀(じゆそ)しけるこそ聞(き)くも怖(こは)しけれ。同(どう)廿三日(にじふさんにち)一切経(いつさいきやう)の別所(べつしよ)より配所(はいしよ)へ赴(おもむ)きたまひけり。さばかりの法務(ほふむ)の大僧正(だいそうじやう)ほどの人(ひと)を、追立(おつたて)の勅(ちよく)使(つかひ)が先(さき)にけたてられて、今日(けふ)を限(かぎ)り都(みやこ)を出(い)でて、関(せき)の東(ひんがし)へ趣(おもむ)かれけん心(こころ)の中(なか)推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 大津(おほつ)の打出(うちで)の浜(はま)にもなりしかば、文殊楼(もんじゆろう)の軒端(のきば)の白々(しろじろ)として見(み)えけるを、二目(ふため)とも見(み)たまはず、袖(そで)を顔(かほ)に押(お)し当(あ)て、涙(なみだ)に咽(むせ)びたまひけり。山門(さんもん)に宿老(しゆくらう)碩徳(せきとく)多(おほ)しといへども、澄憲(ちようけん)法(ほふ)印(いん)、その時(とき)はいまだ僧都(そうづ)にておはしけるが、余(あまり)に名残(なごり)を惜(を)しみたてまつり、粟津(あはづ)まで送(おく)りまゐらせ、さてもあるべきならねば、それより暇(いとま)まうしてかへられけるに、僧正(そうじやう)志(こころざし)の切(せつ)なることを感(かん)じて、年来(ねんらい)御心中(ごしんちゆう)に秘(ひ)せられたりし、一心三観(いつしんさんぐわん)の血脈相承(けちみやくさうじよう)をさづけらる。

 この法(ほふ)は釈尊(しやくそん)の附属(ふぞく)、波羅奈国(はらなこく)の馬鳴比丘(めみやうびく)、南天竺(なんてんぢく)の竜樹菩薩(りうじゆぼさつ)より、次第(しだい)に相伝(さうでん)し来(きた)れるを、今日(けふ)の情(なさけ)に授(さづ)けらる。さすが我朝(わがてう)は粟散辺地(ぞくさんへんぢ)の境(さかひ)、濁世末代(ぢよくせまつだい)といひながら、澄憲(ちようけん)これを附属(ふぞく)して、法衣(ほふえ)の袂(たもと)を絞(しぼ)りつゝ、都(みやこ)へ帰(かへ)りのぼられける心(こころ)の中(なか)こそ尊(たふと)けれ。

 山門(さんもん)には大衆(だいしゆ)起(お)こって僉議(せんぎ)す。

「そもそも義真和尚(ぎしんくわしやう)より以降(いかう)、天台座主(てんだいざす)始(はじ)まって、五十五代(ごじふごだい)に至(いた)るまで、いまだ流罪(るざい)の例(れい)を聞(き)かず。つらつらことの心(こころ)を案(あん)ずるに、延暦(えんりやく)のころほひ、皇帝(くわうてい)は帝都(ていと)を立(た)て、大師(だいし)は当山(たうざん)に攀(よ)ぢ上(のぼ)って、四明(しめい)の教法(けうぼふ)をこの所(ところ)に弘(ひろ)めたまひしより以降(いかう)、五障(ごしやう)の女人(によにん)跡(あと)絶(た)えて、三千(さんぜん)の浄侶(じやうりよ)居(きよ)を占(し)めたり。

嶺(みね)には一乗読誦(いちじようどくじゆ)年(とし)経(へ)て、麓(ふもと)には七社(しちしや)の霊験(れいげん)日(ひ)新(あら)たなり。かの月氏(ぐわつし)の霊山(りやうぜん)は、王城(わうじやう)の東北(とうほく)大聖(だいしやう)の幽窟(いうくつ)なり。この日域(じちゐき)の叡岳(えいがく)も、帝都(ていと)の鬼門(きもん)に峙(そばだ)って、護国(ごこく)の霊地(れいち)なり。代々(だいだい)の賢王智臣(けんわうちしん)、この所(ところ)に壇場(だんぢやう)を占(し)む。末代(まつだい)ならんからに、いかでか当山(たうざん)に瑕(きず)をばつくべき。

心(こころ)うし」

 とて、喚(わめ)き叫(さけ)ぶといふほどこそありけれ、満山(まんざん)の大衆(だいしゆ)、みな東坂本(ひがしさかもと)へ降(お)り下(くだ)る。

一行阿闍梨之沙汰

「そもそもわれら粟津(あはづ)へ行(ゆ)き向(む)かって、貫首(くわんじゆ)をうばひとゞめたてまつるべし。ただ追立(おつたて)の勅(ちよく)使(つかひ)領送使(りやうそうし)あるなれば、こと故(こ)なう執(と)り得(え)たてまつらんことありがたし。山王大師(さんわうだいし)の御(おん)力(ちから)の外(ほか)は憑(たの)む方(かた)なし。まことに別(べつ)の仔細(しさい)なく、取(と)りえたてまつるべくは、ここにてまづ瑞相(ずゐさう)を見(み)せしめたまへ」

 と老僧(らうそう)ども肝胆(かんたん)を砕(くだ)いて祈念(きねん)しけり。ここに無動寺(むどうじ)の法師(ほふし)乗円(じようゑん)律師(りつし)が童(わらは)、鶴九(つるく)とて生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)になるが、身心(しんしん)を苦(くる)しめ、五体(ごたい)に汗(あせ)を流(なが)して、にはかに狂(くる)ひ出(い)でたり。

「われ十禅師(じふぜんじ)乗(の)りゐさせたまへり。末代(まつだい)といへども、いかでかわが山(やま)の貫首(くわんじゆ)をば、他国(たこく)へは遷(うつ)さるべき。生々世々(しやうじやうせせ)に心(こころ)憂(う)し。さらむに取(と)っては、われこの麓(ふもと)に跡(あと)をとゞめても、なににかはせん」

 とて、左右(さいう)の袖(そで)を顔(かほ)に押(お)しあてゝ、涙(なみだ)をはらはらと流(なが)す。大衆(だいしゆ)これをあやしみて、

「まことに十禅師(じふぜんじ)権現(ごんげん)の御託宣(ごたくせん)にてあらば、われら験(しるし)をまゐらせん、少(すこ)しもたがへず元(もと)の主(しゆう)に返(かへ)したまへ」

 とて、老僧(らうそう)ども四五百人(しごひやくにん)、手々(てて)に持(も)たる数珠(じゆず)どもを、十禅師(じふぜんじ)の大床(おほゆか)の上(うへ)へぞ投(な)げ上(あ)げたる。この物狂(ものぐるは)、走(はし)りまはって、拾(ひろ)ひ集(あつ)め、少(すこ)しも違(たが)はず、一々(いちいち)にみな元(もと)の主(しゆう)にぞ賦(くば)りける。大衆(だいしゆ)神明(しんめい)の霊験(れいげん)新(あら)たなることの尊(たふと)さに、みな掌(たなごころ)を合(あ)はせて、随喜(ずゐき)の感涙(かんるゐ)をぞ催(もよほ)しける。

「その儀(ぎ)ならば行(ゆ)き向(む)かって奪(うば)ひ留(とど)めたてまつれ」

 といふほどこそありけれ、雲霞(うんか)のごとくに発向(はつかう)す。あるは志賀(しが)唐崎(からさき)の浜路(はまぢ)に歩(あゆ)みつゞける大衆(だいしゆ)もあり。あるは山田(やまだ)矢(や)ばせの湖上(こじやう)に舟(ふね)押(お)し出(いだ)す衆徒(しゆと)もあり。これを見(み)て、さしも緊(きび)しげなりつる追立(おつたて)の勅(ちよく)使(つかひ)領送使(りやうそうし)、四方(しはう)へみな逃(に)げ去(さ)りぬ。

 大衆(だいしゆ)国分寺(こくぶんじ)へまゐり向(む)かふ。前座主(さきのざす)大(おほ)いに驚(おどろ)いて、

「勅勘(ちよくかん)の者(もの)は、月日(つきひ)の光(ひかり)にだにも当(あ)たらずとこそまうせ。いかにいはんや、急(いそ)ぎ都(みやこ)のうちを追(お)ひ出(い)ださるべしと、院宣(ゐんぜん)宣旨(せんじ)のなりたるに、しばしもやすらふべからず。衆徒(しゆと)とうとう帰(かへ)り上(のぼ)りたまへ」

 とて、端近(はしぢか)うゐ出(い)でてのたまひけるは、

「三台槐門(さんたいくわいもん)の家(いへ)をいでて、四明幽渓(しめいいうけい)の窓(まど)に入(い)りしより以降(いかう)、広(ひろ)く円宗(ゑんしう)の教法(けうぼふ)を学(がく)して、顕密両宗(けんみつりやうしゆう)を学(まな)びき。ただわが山(やま)の興隆(こうりゆう)をのみ思(おも)へり。また国家(こくか)を祈(いの)りたてまつることおろそかならず。衆徒(しゆと)を育(はぐく)む志(こころざし)も深(ふか)かりき。両所山王(りやうしよさんわう)定(さだ)めて照覧(せうらん)したまふらん。

わが身(み)にあやまつことなし。無実(むじつ)の罪(つみ)によって、遠流(をんる)の重科(ぢゆうくわ)をかうぶれば、世(よ)をも人(ひと)をも神(かみ)をも仏(ほとけ)をも恨(うら)みたてまつることなし。これまで訪(とぶら)ひ来(き)たまふ衆徒(しゆと)の芳志(はうし)こそ、報(ほう)じ尽(つ)くしがたけれ」

 とて香染(かうぞめ)の御衣(おんぞ)の袖(そで)絞(しぼ)るもあへさせたまはねば、大衆(だいしゆ)もみな涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。御輿(おんこし)さしよせて、

「とうとうめさるべうさうらふ」

 とまうしければ、

「昔(むかし)こそ三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)の貫首(くわんじゆ)たりしが今(いま)はかゝる流人(るにん)の身(み)と成(な)って、いかがやごとなき修学者(しゆがくしや)、智慧(ちゑ)深(ふか)き大衆達(だいしゆたち)には舁(か)き捧(ささ)げられては上(のぼ)るべき。たとひのぼるべきなりとも、鞋(わらぢ)などいふ物(もの)をしばりはき、同(おな)じやうに歩(あゆ)み続(つづ)いてこそ上(のぼ)らめ」

 とてのりたまはず。ここに西塔(さいたふ)の住侶(ぢゆうりよ)、戒浄坊(かいじやうばう)の阿闍梨(あじやり)祐慶(いうけい)といふ悪僧(あくそう)あり。長(たけ)七尺(しちしやく)ばかりありけるが、黒革緘(くろかはをどし)の鎧(よろひ)の、大荒目(おほあらめ)に金(かな)まぜたるを、草摺(くさずり)ながに著(き)なして、冑(かぶと)をば脱(ぬ)ぎ法師原(ほふしばら)に持(も)たせつゝ、白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)杖(つゑ)につき、

「あけられさうらへ」

 とて、大衆(だいしゆ)の中(なか)を押(お)し分(わ)け押(お)し分(わ)け先座主(さきのざす)のおはしける所(ところ)へつとまゐりたり。大(おほ)きな眼(まなこ)を見(み)いからし、しばらくにらまへたてまつり、

「その御心(みこころ)でこそ、かゝる御(おん)目(め)にも逢(あ)はせたまへ。とうとうめさるべうさうらふ」

 とまうしければ、怖(こは)さに急(いそ)ぎのりたまふ。大衆(だいしゆ)取(と)り得(え)たてまつる嬉(うれ)しさに、賤(いや)き法師原(ほふしばら)にはあらで、やんごとなき修学者(しゆがくしや)ども、舁(か)き捧(ささ)げたてまつり喚(わめ)き叫(さけ)んで上(のぼ)りけるに、人(ひと)はかはれども祐慶(いうけい)はかはらず、前輿(さきごし)舁(か)きて、長刀(なぎなた)の柄(え)も輿(こし)の轅(ながえ)も、砕(くだ)けよと取(と)るまゝに、さしも嶮(けは)しき東坂(ひがしざか)平地(へいち)を行(ゆ)くがごとくなり。

 大講堂(だいかうだう)の庭(には)に輿(こし)舁(か)きゐて、僉議(せんぎ)しけるは、

「そもそもわれら粟津(あはづ)に行(ゆ)き向(む)かって、貫首(くわんじゆ)をば奪(うば)ひとゞめたてまつりぬ。すでに勅勘(ちよくかん)をかうぶりて、流罪(るざい)せられたまふ人(ひと)をとりとゞめたてまつって、貫首(くわんじゆ)に用(もち)ゐまうさんこと、いかがあるべからん」

 と僉議(せんぎ)す。戒浄坊(かいじやうばう)阿闍梨(あじやり)、また先(さき)のごとくに進(すす)み出(い)でて僉議(せんぎ)しけるは、

「それ当山(たうざん)は日本(につぽん)無双(むさう)の霊地(れいち)、鎮護国家(ちんごこくか)の道場(だうぢやう)、山王(さんわう)の御威光(ごゐくわう)盛(さか)んにして、仏法王法(ぶつぽふわうぼふ)牛角(ごかく)なり。されば衆徒(しゆと)の意趣(いしゆ)に至(いた)るまで、ならびなく、賤(いや)き法師原(ほふしばら)までも、世(よ)もって軽(かろ)んじめず。いはんや智慧(ちゑ)高貴(かうき)にして、三千(さんぜん)の貫首(くわんじゆ)たり。

今(いま)は徳行(とくぎやう)おもうして一山(いつさん)の和尚(くわしやう)たり。罪(つみ)なくして罪(つみ)をかうぶる。これ山上洛中(さんじやうらくちゆう)の憤(いきどほ)り、興福園城(こうふくをんじやう)の嘲(あざけ)に非(あら)ずや。この時(とき)顕密(けんみつ)の主(しゆ)を失(うしな)って、数輩(すはい)の学侶(がくりよ)、蛍雪(けいせつ)の勤(つと)め怠(おこた)らむこと心(こころ)うかるべし。詮(せん)ずる所(ところ)、祐慶(いうけい)張本(ちやうほん)に称(しよう)せられ、禁獄(きんごく)流罪(るざい)もせられ、首(くび)を刎(はね)られんこと、今生(こんじやう)の面目(めんぼく)冥途(めいど)の思(おも)ひ出(い)なるべし」

 とて、双眼(さうがん)より涙(なみだ)をはらはらと流(なが)す、大衆(だいしゆ)尤々(もつとももつとも)とぞ同(おな)じける。それよりしてこそ、祐慶(いうけい)をばいかめ房(ばう)とはいはれけれ。その弟子(でし)に慧慶(ゑけい)律師(りつし)をば、時(とき)の人(ひと)小(こ)いかめ房(ばう)とぞまうしける。大衆(だいしゆ)先座主(さきのざす)をば、東塔(とうたふ)の南谷(みなみだに)、妙光坊(めうくわうばう)へ入(い)れたてまつる。

 時(とき)の横災(わうさい)は、権化(ごんげ)の人(ひと)ものがれたまはざるやらん。昔(むかし)大唐(だいたう)の一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)は、玄宗(げんそう)皇帝(くわうてい)の御持僧(ごぢそう)にておはしけるが、玄宗(げんそう)の后(きさき)楊貴妃(やうきひ)に名(な)をたちたまへり。昔(むかし)も今(いま)も、大国(たいこく)も小国(せうこく)も、人(ひと)の口(くち)のさがなさは、跡形(あとかた)なきことなりしかども、その疑(うたが)ひによって、果羅国(くわらこく)へ流(なが)されさせたまふ。

 件(くだん)の国(くに)へは三(み)つ道(みち)あり。輪池道(りんちだう)とて、御幸道(ごかうみち)、幽地道(いうちだう)とて、雑人(ざふにん)の通(かよ)ふ道(みち)、暗穴道(あんけつだう)とて、重科(ぢゆうくわ)の者(もの)を遣(つか)はす道(みち)なり。さればかの一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)は大犯(だいぼん)の人(ひと)なればとて、暗穴道(あんけつだう)へぞ遣(つか)はしける。七日七夜(しちにちしちや)が間(あひだ)、月日(つきひ)の光(ひかり)をみずして行(ゆ)く道(みち)なり。

 冥々(めいめい)として人(ひと)もなく、行歩(ぎやうぶ)に前途(ぜんと)迷(まよ)ひ、森森(しんしん)として山(やま)深(ふか)し。ただ淵谷(えんこく)に鳥(とり)の一声(ひとこゑ)ばかりにて、苔(こけ)のぬれ衣(きぬ)ほしあへず、無実(むじつ)の罪(つみ)によって、遠流(をんる)の重科(ぢゆうくわ)をかうむることを、天道(てんだう)憐(あは)れみたまひて、九曜(くえう)の形(かたち)を現(げん)じつゝ、一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)を守(まも)りたまふ。

 時(とき)に一行(いちぎやう)右(みぎ)の指(ゆび)を噬(か)み切(き)って、左(ひだり)の袂(たもと)に九曜(くえう)の形(かたち)を写(うつ)されけり。和漢両朝(わかんりやうてう)に真言(しんごん)の本尊(ほんぞん)たる九曜(くえう)の曼陀羅(まんだら)これなり。

西光被斬

 大衆(だいしゆ)先座主(さきのざす)を取(と)りとゞむる由(よし)、法皇(ほふわう)きこしめして、いとゞやすからずぞおぼしめされける。西光法師(さいくわうほふし)まうしけるは、

「山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、みだりがはしき訴(うつた)へつかまつること、今(いま)にはじめずとまうしながら、今度(こんど)はもっての外(ほか)に覚(おぼ)えさうらふ。これほどの狼藉(らうぜき)いまだうけたまはり及(およ)びさうらはず。よくよくおんいましめさうらへ」

 とぞまうしける。身(み)のたゞ今(いま)滅(ほろ)びんずるをもかへりみず、山王大師(さんわうだいし)の神慮(しんりよ)にもかゝはらず、かやうにまうして宸襟(しんきん)を悩(なや)ましたてまつる。讒臣(ざんしん)は国(くに)を乱(みだ)るといへり。実(まこと)なるかな、

「叢蘭(そうらん)茂(しげ)らんとすれども、秋(あき)の風(かぜ)これを敗(やぶ)り、王者(わうしや)明(あき)らかならんとすれば、讒臣(ざんしん)これを暗(くら)す」

 とも、かやうのことをやまうすべき。このこと新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)以下(いげ)近習(きんじゆ)の人々(ひとびと)におほせ合(あ)はせられ、山(やま)攻(せ)めらるべしと聞(き)こえしかば、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)さのみ王地(わうぢ)に孕(はら)まれて、詔命(せうめい)をそむくべきにあらずとて、内々(ないない)院宣(ゐんぜん)にしたがひたてまつる衆徒(しゆと)もありなど聞(き)こえしかば、前座主(さきのざす)明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)は妙光坊(めうくわうばう)におはしけるが、大衆(だいしゆ)二心(ふたごころ)あるときいて、

「つひにいかなる目(め)にか逢(あ)はむずらん」

 と、心細(こころぼそ)げにぞのたまひける。されども流罪(るざい)の沙汰(さた)はなかりけり。新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、山門(さんもん)の騒動(さうどう)によって、私(わたくし)の宿意(しゆくい)をばしばらくおさへられけり。そも内議(ないぎ)支度(したく)はやうやうなりしかども、義勢(ぎせい)ばかりにては、この謀反(むほん)叶(かな)ふべうも見(み)えざりしかば、さしも憑(たの)まれたりける多田蔵人行綱(ただのくらうどゆきつな)、無(む)益(やく)なりと思(おも)ふ心(こころ)付(つ)きにけり。

 弓袋(ゆぶくろ)の料(れう)に、送(おく)られたりける布(ぬの)どもをば、直垂(ひたたれ)帷(かたびら)に裁(た)ち縫(ぬ)はせて、家子郎等(いへこらうどう)どもに著(き)せつゝ、目(め)うちしばたゝいてゐたりけるが、つらつら平家(へいけ)の繁昌(はんじやう)するありやうをみるに、当時(たうじ)たやすく傾(かたぶ)けがたし。由(よし)なきことに与(くみ)してけり。

 もしこのこともれぬる物(もの)ならば、行綱(ゆきつな)まづ失(うしな)はれなんず。他人(たにん)の口(くち)より漏(も)れぬ先(さき)に廻忠(くわいちゆう)して、命(いのち)生(い)きうと思(おも)ふ心(こころ)ぞ付(つ)きにける。同(どう)五月(ごぐわつ)二十九日(にじふくにち)の小夜(さよ)深方(ふけがた)に、多田蔵人行綱(ただのくらうどゆきつな)、入道相国(にふだうしやうこく)の西八条(にしはちでう)の亭(てい)にまゐって、

「行綱(ゆきつな)こそまうすべきことさうらふ間(あひだ)まゐってさうらへ」

 と、いはせければ、入道(にふだう)

「常(つね)にもまゐらぬ者(もの)が参(さん)じたるはなにごとぞ。あれきけ」

 とて、主馬判官(しゆめのはんぐわん)盛国(もりくに)を出(いだ)されたり。

「人伝(ひとづて)にはまうしまじきことなり」

 といふ間(あひだ)、さらばとて、入道(にふだう)みづから中門(ちゆうもん)の廊(らう)へ出(い)でられたり。

「夜(よ)は遥(はるか)にさらぬらん、ただ今(いま)いかに、なにごとぞや」

 とのたまへば、

「昼(ひる)は人目(ひとめ)の繁(しげ)うさうらふ間(あひだ)、夜(よ)に紛(まぎ)れまゐってさうらふ。このほどに院中(ゐんぢゆう)の人々(ひとびと)の兵具(ひやうぐ)を調(ととの)へ、軍兵(ぐんぴやう)をめされさうらふをば、なんとかきこしめされてさうらふ」

「それは山(やま)攻(せ)めらるべしとこそきけ」

 といとこともなげにぞのたまひける。行綱(ゆきつな)近(ちか)うより、小声(こごゑ)に成(な)ってまうしけるは、

「その儀(ぎ)にてはさうらはず、一向(いつかう)御一家(ごいつけ)の御上(おんうへ)とこそうけたまはりさうらへ」

「さてそれをば法皇(ほふわう)も知(し)ろしめされたるか」

「仔細(しさい)にや及(およ)びさうらふ。成親卿(なりちかのきやう)の軍兵(ぐんぴやう)催(もよほ)されさうらふも、院宣(ゐんぜん)とてこそめされさうらへ。俊寛(しゆんくわん)がかう振舞(ふるま)ひて、康頼(やすより)がかうまうして、西光(さいくわう)がかうまうして」

 などいふことども、始(はじ)めよりありの儘(まま)には差(さ)し過(す)ぎていひ散(ち)らし、暇(いとま)まうしてこそ出(い)でにけれ。入道(にふだう)大(おほ)いに驚(おどろ)き大声(おほごゑ)をもて、侍(さぶらひ)どもよびのゝしりたまふこと聞(き)くもおびたゞし。行綱(ゆきつな)なまじひなることまうし出(いだ)して証人(しようにん)にや引(ひ)かれんずらんとおそろしさに、大野(おほの)に火(ひ)を放(はな)たる心地(ここち)して、人(ひと)も追(お)はぬに執袴(しつこ)して、急(いそ)ぎ門外(もんぐわい)へぞにげ出(い)でける。

 入道(にふだう)、まづ貞能(さだよし)をめして、

「当家(たうけ)傾(かたぶ)けうとする謀反(むほん)の輩(ともがら)、京中(きやうぢゆう)に満々(まんまん)たんなり。一門(いちもん)の人々(ひとびと)にも触(ふ)れまうし、侍(さぶらひ)ども催(もよほ)せ」

 とのたまへば、馳(は)せ廻(めぐ)って催(もよほ)す。右大将(うだいしやう)宗盛(むねもり)卿(きやう)、三位中将(さんみのちゆうじやう)知盛(とももり)、頭中将(とうのちゆうじやう)重衡(しげひら)、その外(ほか)軍兵(ぐんぴやう)雲霞(うんか)のごとくに馳(は)せつどふ。左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)以下(いげ)の人々(ひとびと)、甲冑(かつちう)を鎧ひ(よろひ)、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)し馳(は)せ集(あつ)まる。その夜(よ)の中(なか)に西八条(にしはちでう)には、兵(つはもの)でも六七千騎(ろくしちせんぎ)もあらんとこそ見(み)えたりけれ。

 明(あ)くれば六月(ろくぐわつ)一日(いちにち)なり。いまだ暗(くら)かりけるに、入道(にふだう)、検非違使(けびゐし)安倍資成(あべのすけなり)をめして、

「きと院(ゐん)の御所(ごしよ)へまゐれ。信成(のぶなり)を招(まね)いてまうさんずるやうはよな、近習(きんじゆ)の人々(ひとびと)、この一門(いちもん)を亡(ほろ)ぼして天下(てんが)を乱(みだ)さんとする企(くはだ)てあり。一々(いちいち)にめし取(と)って、尋(たづ)ね沙汰(さた)つかまつるべし。それをば君(きみ)も知(し)ろしめさるまじうさうらふとまうせ」

 とこそのたまひけれ。資成(すけなり)急(いそ)ぎ馳(は)せまゐり、大膳大夫(だいぜんのだいぶ)信成(のぶなり)喚(よ)び出(い)だいて、この由(よし)まうすに、色(いろ)を失(うしな)ふ。御前(ごぜん)へまゐって、このよし奏聞(そうもん)しければ、法皇(ほふわう)、

「あはこれらが内々(ないない)計(はか)りしことの、泄(も)れにけるよ」

 とおぼしめすにあさまし。さるにても、

「こはなにごとぞ」

 とばかりおほせられて、分明(ふんみやう)の御返事(ごへんじ)もなかりけり。資成(すけなり)急(いそ)ぎ馳(は)せ帰(かへ)って、入道相国(にふだうしやうこく)にこの由(よし)まうせば、

「さればこそ。行綱(ゆきつな)は、実(まこと)をいひけり。このこと行綱(ゆきつな)知(し)らせずば、浄海(じやうかい)安穏(あんをん)にあるべしや」

 とて、飛騨守(ひだのかみ)景家(かげいへ)、筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)におほせて、謀反(むほん)の輩(ともがら)、搦(から)め捕(と)るべき由(よし)下知(げぢ)せらる。よって二百余騎(にひやくよき)、三百余騎(さんびやくよき)、あそここゝに押(お)し寄(よ)せ押(お)し寄(よ)せ搦(から)め捕(と)る。太政入道(だいじやうにふだう)まづ雑色(ざふしき)をもて、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の許(もと)へ、

「まうし合(あ)はすべきことあり。きと立(た)ち寄(よ)りたまへ」

 とのたまひつかはされたりければ、大納言(だいなごん)わが身(み)の上(うへ)とは、露(つゆ)しらず、

「あはれこれは法皇(ほふわう)の山(やま)攻(せ)めらるべきよし、御結構(ごけつこう)あるを、まうすとゞめられんずるにこそ。御(おん)いきどほり深(ふか)げなり。いかにもかなふまじきものを」

 とて、なまきよげなる布衣(ほうい)たをやかに著(き)なし、鮮(あざ)やかなる車(くるま)に乗(の)り、侍(さぶらひ)三四人(さんしにん)めし具(ぐ)して、雑色牛飼(ざふしきうしかひ)に至(いた)るまで、常(つね)よりも引(ひ)き繕(つくろ)はれたり。そも最後(さいご)とは後(のち)にこそおもひ知(し)れけれ。西八条(にしはちでう)近(ちか)う成(な)って見(み)たまへば、四五町(しごちやう)に軍兵(ぐんぴやう)満々(まんまん)たり。

 あな夥(おびただ)し。こはなにごとやらんと、胸(むね)打(う)ち騒(さわ)ぎ、車(くるま)より下(くだ)り、門(もん)の内(うち)に差(さ)し入(い)って見(み)たまへば、内(うち)にも、兵(つはもの)ども隙(ひま)はざまもなうぞ満々(まんまん)たる。中門(ちゆうもん)の口(くち)に怖(こは)げなる武士(ぶし)ども、あまた待(ま)ち受(う)けて、大納言(だいなごん)の左右(さいう)の手(て)を取(と)って引(ひ)っ張(ぱ)り、

「縛(しば)るべうさうらはん」

 とまうし、入道相国(にふだうしやうこく)簾(れん)中(ちゆう)より見(み)出(いだ)して、

「あるべうもなし」

 とのたまへば、武士(ぶし)ども前後左右(ぜんごさいう)に立(た)ち囲(かこ)み、縁(えん)の上(うへ)に引(ひ)きのぼせて、一間(ひとま)なる処(ところ)に押(お)し籠(こ)めてけり。大納言(だいなごん)夢(ゆめ)の心地(ここち)して、つやつや物(もの)もおぼえたまはず。供(とも)なりつる侍(さぶらひ)ども、押(お)し隔(へだ)てられて、散々(さんざん)に成(な)りぬ。雑色牛飼(ざふしきうしかひ)色(いろ)を失(うしな)ひ、牛車(ぎつしや)を捨(す)て逃(に)げ去(さ)りぬ。

 さるほどに、近江中将(あふみのちゆうじやう)入道(にふだう)蓮浄(れんじやう)、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)、山城守(やましろのかみ)基兼(もとかね)、式部大輔(しきぶのたいふ)正綱(まさつな)、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)、宗判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)、新平判官資行(しんへいはうぐわんすけゆき)も、捕(と)られて出来(いでき)たり。西光法師(さいくわうほふし)このこと聞(き)いて、わが身(み)の上(うへ)とや思(おも)ひけん、鞭(むち)を挙(あ)げ院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ馳(は)せまゐる。

 平家(へいけ)の侍(さぶらひ)ども、道(みち)にて馳(は)せ向(む)かひ、

「西八条(にしはちでう)へめさるゝぞ。きとまゐれ」

 といひければ、

「奏(そう)すべきことあって、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へまゐる。やがてこそまゐらめ」

 といひければ、

「悪(あ)しき入道(にふだう)かな。なにごとをか奏(そう)すべかんなる。さないはせそ」

 とて、馬(うま)より取(と)って引(ひ)き落(お)とし、中(なか)に縛(しば)って、西八条(にしはちでう)へさげてまゐる。日(ひ)の始(はじ)めより根元(こんげん)与力(よりき)の者(もの)なりければ、殊(こと)によう縛(しば)って、坪(つぼ)の内(うち)にぞ引(ひ)きゐたる。入道相国(にふだうしやうこく)大床(おほゆか)に立(た)って、

「入道(にふだう)傾(かたぶ)けうとする奴(やつ)がなれる姿(すがた)よ。しやつここへ引(ひ)き寄(よ)せよ」

 とて、縁(えん)のきはに引(ひ)き寄(よ)せさせ、物(もの)はきながら、しやつが頬(ほほ)をむずむずとぞふまれける。

「本(もと)より己(おのれ)らがやうなる下臈(げらふ)の果(は)てを君(きみ)のめしつかはせたまひて、なさるまじき官職(くわんしよく)をなしたまひ、父子(ふし)ともに過分(くわぶん)の振舞(ふるまひ)をすると見(み)しに合(あは)せて、あやまたぬ天台座主(てんだいざす)流罪(るざい)にまうし行(おこな)ひ、天下(てんが)の大事(だいじ)引(ひ)き出(い)だいて、あまつさへこの一門(いちもん)ほろぼすべき謀反(むほん)に与(くみ)してける奴(やつ)なり。

ありのまゝにまうせ」

 とこそのたまひけれ。西光(さいくわう)元(もと)より勝(すぐ)れたる大剛(たいかう)の者(もの)なりければ、ちとも色(いろ)も変(へん)ぜず、悪(わる)びれたる景気(けいき)もなし。居(ゐ)直(なほ)り、あざ笑(わら)ってまうしけるは、

「さもさうらはず、入道殿(にふだうどの)こそ過分(くわぶん)のことをばのたまへ。他人(たにん)の前(まへ)はしらず、西光(さいくわう)が聞(き)かん処(ところ)にさやうのことをば、えこそのたまふまじけれ。院中(ゐんぢゆう)にめしつかはるる身(み)なれば、執事(しつし)の別当(べつたう)成親卿(なりちかのきやう)の院宣(ゐんぜん)とてもよほされしことに与(くみ)せずとはまうすべきやうなし。

それは与(くみ)したり。ただし耳(みみ)に留(と)まることをものたまふ物(もの)かな。御辺(ごへん)は故(こ)刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛(ただもり)の子(こ)でおはしかども、十四五(じふしご)までは出仕(しゆつし)もしたまはず、故(こ)中御門(なかのみかど)藤中納言(とうちゆうなごん)家成卿(いへなりのきやう)の辺(へん)に立(た)ち入(い)りたまひしをば、京童部(きやうわらんべ)は高平太(かうへいだ)とこそいひしか。

保延(ほうえん)のころ、大将軍(たいしやうぐん)うけたまはり海賊(かいぞく)の張本(ちやうほん)三十余人(さんじふよにん)、搦(から)め進(しん)ぜられたりし賞(しやう)に四品(しほん)して、四位(しゐ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)とまうししをだに、過分(くわぶん)とこそ時(とき)の人々(ひとびと)はまうし合(あ)はれしか。殿上(てんじやう)の交(まじ)はりをだに嫌(きら)はれし人(ひと)の子孫(しそん)にて太政大臣(だいじやうだいじん)までなりあがったるや過分(くわぶん)なるらむ。

侍品(さぶらひほん)の者(もの)の、受領(じゆりやう)検非違使(けびゐし)に成(な)ること、先例傍例(せんれいばうれい)なきに非(あら)ず。なじかは過分(くわぶん)なるべき」

 と、憚(はばか)る所(ところ)なうまうしければ、入道(にふだう)余(あまり)にいかって、物(もの)ものたまはず。しばらくあって

「しやつが頸(くび)左右(さいう)なう切(き)るな。よくよく戒(いまし)めよ」

 とぞのたまひける。松浦(まつら)太郎(たらう)重俊(しげとし)うけたまはって、足(あし)手(て)を挟(はさ)みやうやうに痛(いた)め問(と)ふ。本(もと)より争(あらそ)がひまうさぬ上(うへ)、糺問(きゆうもん)は緊(きび)かりけり。残(のこ)るなうこそまうしけれ。白状(はくじやう)四五枚(しごまい)に記(しる)され、やがて、しやつが口(くち)をさけとて、口(くち)を裂(さ)かれ、五条朱雀(ごでうすざく)にて、きられにけり。

 嫡子(ちやくし)前(まへ)加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)、尾張(をはり)の井戸田(ゐどた)へ流(なが)されたりけるを、同(どう)国(くに)の住人(ぢゆうにん)小胡麻(こごま)の郡司(ぐんじ)維季(これすゑ)におほせて討(う)たれぬ。次男(じなん)近藤判官(こんどうはうぐわん)師経(もろつね)禁獄(きんごく)せられけるを、獄(ひとや)より引(ひ)き出(いだ)され、六条(ろくでう)河原(かはら)にて誅(ちゆう)せらる。その弟(おとと)左衛門尉(さゑもんのじよう)師平(もろひら)、郎等(らうどう)三人(さんにん)、同(おな)じく首(くび)を刎(はね)られけり。

 これらはいふ甲斐(かひ)なき者(もの)の秀(ひい)でて、いろふまじきことに綺(きら)ひ、あやまたぬ天台座主(てんだいざす)流罪(るざい)にまうし行(おこな)ひ、果報(くわほう)や尽(つ)きにけん、山王大師(さんわうだいし)の神罰冥罰(しんばつみやうばつ)を立処(たちどころ)にかうぶって、かかる目(め)に逢(あ)ひけり。

小教訓

 新大納言(しんだいなごん)は一間(ひとま)なる所(ところ)に押(お)し籠(こ)められ、汗水(あせみづ)に成(な)りつゝ、あはれこれは日比(ひごろ)のありしことの洩(も)れ聞(き)こえけるにこそ。たれ漏(も)らしつらん。定(さだ)めて北面(ほくめん)の者(もの)どもが中(なか)にこそあらむなど、思(おも)はぬことなう案(あん)じ続(つづ)けておはしけるに、後(うしろ)の方(かた)より足音(あしおと)の高(たか)らかにしければ、すはただ今(いま)わが命(いのち)を失(うしな)はむとて、武士(ぶし)どもがまゐるにこそと思(おも)ひたまふに、入道(にふだう)おのづから板敷(いたじき)高(たか)らかに踏(ふ)み鳴(な)らし、大納言(だいなごん)のおはしける後(うしろ)の障子(しやうじ)を、さとあけられたり。

 素絹(そけん)の衣(きぬ)の、短らか(みじからか)なるに、白(しろ)き大口(おほくち)ふみくゝみ、聖柄(ひじりえ)の刀(かたな)押(お)しくつろげてさす儘(まま)に、もっての外(ほか)に怒(いか)れる気色(けしき)にて、大納言(だいなごん)をしばらく睨(にら)まへ、

「そもそも御辺(ごへん)は平治(へいぢ)にもすでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、内府(ないふ)が身(み)にかへてまうし宥(なだ)め、頸(くび)を継(つ)ぎたてまつりしはいかに。なんの遺恨(ゐこん)をもって、この一門(いちもん)ほろぼすべき由(よし)御結構(ごけつこう)はさうらひけるやらん。恩(おん)を知(し)る人(ひと)とはいふぞ、恩(おん)を知(し)らぬをば畜生(ちくしやう)とこそいへ。

されども当家(たうけ)の運命(うんめい)尽(つ)きざるによって、迎(むか)へたてまつったり。日比(ひごろ)の御結構(ごけつこう)の次第(しだい)、直(ぢき)にうけたまはらん」

 とぞのたまひける。大納言(だいなごん)

「全(まつた)くさることさうらはず。人(ひと)の讒言(ざんげん)にてぞさうらむ。よくよくおん尋(たづ)ねさうらへ」

 とまうされければ、道理(だうり)言(い)はせも果(は)てず。

「人(ひと)やある、人(ひと)やある」

 とめされければ、貞能(さだよし)まゐりたり。

「西光(さいくわう)めが白状(はくじやう)まゐらせよ」

 とおほせられければ、持(も)ってまゐりたり。これを取(と)って二三返(にさんべん)押(お)し返(かへ)し押(お)し返(かへ)し読(よ)みきかせ、

「あなにくや、この上(うへ)はなんと陳(ちん)ずべき」

 とて、大納言(だいなごん)の顔(かほ)にさと投(な)げ懸(か)け、障子(しやうじ)をちやうとたててぞ出(い)でられける。入道(にふだう)なほ腹(はら)をゐ兼(か)ねて、

「経遠(つねとほ)、兼康(かねやす)」

 とめせば、瀬尾(せを)太郎(たらう)、難波(なんば)次郎(じらう)、まゐりたり。

「あの男(をとこ)取(と)って、庭(には)へ引(ひ)き落(お)とせ」

 とのたまへば、これらは左右(さいう)なうもしたてまつらず、

「小松殿(こまつどの)の御気色(みけしき)いかゞさうらはんずらん」

 とまうしければ、入道相国(にふだうしやうこく)大(おほ)いにいかって、

「よしよし己(おのれ)らは内府(ないふ)が命(いのち)をば重(おも)して、入道(にふだう)がおほせをば軽(かろ)うじけるござんなれ。その上(うへ)は力(ちから)及(およ)ばず」

 とのたまへば、このことあしかりなんとや思(おも)ひけん、二人(ふたり)の者(もの)ども立(た)ち上(のぼ)って、大納言(だいなごん)を庭(には)へ引(ひ)き落(お)としたてまつる。その時(とき)入道(にふだう)心地(ここち)よげにて、

「取(と)って伏(ふ)せて、喚(わめ)かせよ」

 とぞのたまひける。二人(ふたり)の者(もの)ども、大納言(だいなごん)の左右(さいう)の耳(みみ)に口(くち)をあてて、

「いかやうにも御声(おんこゑ)の出(い)づべうさうらふ」

 とささやいて引(ひ)き伏(ふ)せたてまつれば、一声(ひとこゑ)二声(ふたこゑ)ぞ喚(わめ)かれける。その体(てい)、冥途(めいど)にて娑婆世界(しやばせかい)の罪人(ざいにん)を、あるは業(ごふ)の秤(はかり)にかけ、あるは浄頗梨鏡(じやうはりのかがみ)に引(ひ)き向(む)けて、罪(つみ)の軽重(きやうぢゆう)に任(まか)せつつ、阿防羅刹(あばうらせつ)が呵責(かしやく)すらんも、これには過(す)ぎじとぞ見(み)えし。

 蕭樊(せうはん)囚(とら)はれて韓彭(かんぱう)爼醢(そかい)たり。晁錯(てうそ)戮(りく)をうけて周儀(しうぎ)罪(ざい)せらる。たとへば、蕭何(せうか)、樊噲(はんくわい)、韓信(かんしん)、彭越(はうゑつ)、これらはみな高祖(かうそ)の忠臣(ちゆうしん)なりしかども、小人(せうじん)の讒(ざん)によって、過敗(くわはい)の恥(はぢ)をうくとも、かやうのことをやまうすべき。新大納言(しんだいなごん)はわが身(み)のかくなるにつけても、子息(しそく)丹波(たんば)の少将(せうしやう)成経(なりつね)以下(いげ)、をさなき人々(ひとびと)いかなる目(め)にか遭(あ)ふらむと、おもひやるにもおぼつかなし。

 さばかり熱(あつ)き六月(ろくぐわつ)に装束(しやうぞく)だにもくつろげず、熱(あつ)さもたへがたければ、胸(むね)せき上(のぼ)る心地(ここち)して、汗(あせ)も涙(なみだ)も争(あらそ)ひてぞ流(なが)れける。

「さりとも小松殿(こまつどの)は、おぼしめしはなたじものを」

 とのたまへども、たれしてまうすべしと覚(おぼ)えたまはず。小松大臣(こまつだいじん)は、その後(のち)遥(はるか)にほど経(へ)て、嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけせうしやう)車(くるま)のしりにのせつゝ、衛府(ゑふ)四五人(しごにん)、随身(ずゐじん)二三人(にさんにん)めし具(ぐ)して、兵(つはもの)一人(ひとり)もめし具(ぐ)せられず、殊(こと)に大様(おほやう)げでおはしたり。入道(にふだう)を始(はじ)めたてまつって、人々(ひとびと)みな思(おも)はずげにぞ見(み)たまひける。

 車(くるま)より下(くだ)りたまふ処(ところ)に、貞能(さだよし)つとまゐって、

「などこれほどの御大事(おんだいじ)に、軍兵(ぐんぴやう)をば一人(ひとり)もめし具(ぐ)せられさうらはぬぞ」

 とまうせば、

「大事(だいじ)とは天下(てんが)の大事(だいじ)をこそいへ。かやうのわたくしことを大事(だいじ)といふやうやある」

 とのたまへば、兵仗(ひやうぢやう)を帯(たい)したりける者(もの)どももそゞろいてぞ見(み)えける。そも大納言(だいなごん)をばいづくに置(お)かれたるやらんと、このかのの障子(しやうじ)引(ひ)き明(あ)け引(ひ)き明(あ)け見(み)たまへば、ある障子(しやうじ)の上(うへ)に蜘(くも)手(て)結(むす)びたる所(ところ)あり。ここやらんとて開(ひら)かれたれば、大納言(だいなごん)おはしけり。

 涙(なみだ)に咽(むせ)びうつぶして、目(め)も見(み)合(あ)はせたまはず。

「いかにや」

 とのたまへば、その時(とき)見(み)付(つ)けたてまつり、うれしげに思(おも)はれたる気色(けしき)、地獄(ぢごく)にて罪人(ざいにん)どもが、地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)を見(み)たてまつるらんもかくやと覚(おぼ)えて哀(あはれ)なり。

「なにごとにてさうらふやらん、かゝる目(め)にあひさうらふ。さて渡(わた)らせたまへば、さりともとこそ憑(たの)みまゐらせてさうらへ。平治(へいぢ)にもすでに誅(ちゆう)せらるべきにてさうらひしが、御恩(ごおん)をもって頸(くび)をつがれまゐらせ、正二位(しやうにゐ)の大納言(だいなごん)に上(のぼ)って、歳(とし)すでに四十(しじふ)に余(あま)りさうらふ。

御恩(ごおん)こそ生々世々(しやうじやうせせ)にも報(ほう)じ尽(つ)くしがたうさうらへ。今度(こんど)も同(おな)じくは、かひなき命(いのち)を助(たす)けさせおはしませ。命(いのち)だに生(い)きてさうらはゞ、出家入道(しゆつけにふだう)して、高野粉川(かうやこかは)に閉(と)ぢ籠(こも)り、後世菩提(ごせぼだい)の勤(つと)めを営(いとな)みさうらはん」

 とぞ泣(な)き泣(な)きまうされければ、

「ささうらへども、御命(おんいのち)失(うしな)ひたてまつるまではよもさうらはじ。たとひさはさうらへども、重盛(しげもり)かうてさうらへば、御命(おんいのち)にもかはりたてまつるべし」

 とて出(い)でられけり。父(ちち)の禅門(ぜんもん)の御前(ごぜん)におはして、

「あの成親卿(なりちかのきやう)失(うしな)はれんこと、よくよくおんはからひさうらふべし。先祖(せんぞ)修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)、白河院(しらかはのゐん)にめしつかはれてより以降(いかう)、家(いへ)にその例(れい)なき正二位(しやうにゐ)の大納言(だいなごん)に上(のぼ)って、当時(たうじ)君(きみ)無双(むさう)の御(おん)いとほしみなり。やがて首(くび)を刎(はね)られんこと、いかがさうらふべからん。

都(みやこ)の外(ほか)へ出(い)だされたらんに、こと足(た)りさうらふなん。北野天神(きたのてんじん)は時平大臣(しへいだいじん)の讒奏(ざんそう)にて、憂名(うきな)を四海(しかい)の浪(なみ)に流(なが)し、西宮(にしのみや)の大臣(だいじん)は、多田満仲(ただのまんぢゆう)が讒言(ざんげん)にて、恨(うら)みを山陽(さんやう)の雲(くも)によす。おのおの無実(むじつ)なりしかども、流罪(るざい)せられたまひにき。

これみな延喜(えんぎ)の聖代(せいだい)、安和(あんな)の御門(みかど)の御(おん)僻事(ひがごと)とぞまうし伝(つた)へたる。上古(しやうこ)なほかくのごとし。いはんや末代(まつだい)においてをや。すでにめし置(お)かれぬる上(うへ)は、急(いそ)ぎ失(うしな)はれずとも、なんの苦(くる)しみかさうらふべき。『刑(けい)の疑(うたが)はしきをば軽(かろ)んぜよ。

功(こう)の疑(うたが)はしきをば重(おも)んぜよ』とこそ見(み)えてさうらへ。こと新(あたら)しくさうらへども、重盛(しげもり)かの大納言(だいなごん)が妹(いもうと)に相(あひ)具(ぐ)してさうらふ。維盛(これもり)また聟(むこ)なり。かやうに親(した)しく成(な)ってさうらへば、まうすとやおぼしめされさうらはん。その儀(ぎ)ではさうらはず。

世(よ)のため君(きみ)のため、家(いへ)のためのことをもってまうしさうらふ。一年(いちねん)故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんぜい)が執権(しつけん)の時(とき)に君(きみ)相(あひ)当(あ)たって、我朝(わがてう)には嵯峨(さが)皇帝(くわうてい)の御時(おんとき)、右兵衛督(うひやうゑのかみ)藤原仲成(ふぢはらのなかなり)を誅(ちゆう)られてより以来(いらい)、保元(ほうげん)までは、二十五代(にじふごだい)の間(あひだ)、行(おこな)はれざりし死罪(しざい)を始(はじ)めて執(と)り行(おこな)ひ、宇治(うぢ)の悪左府(あくさふ)の死骸(しかばね)を掘(ほ)りおこして、実検(じつけん)せられたりしことなどは余(あま)りなる御政(おんまつりごと)とこそ覚(おぼ)えさうらひしか。

されば古(いにしへ)の人々(ひとびと)も、『死罪(しざい)を行(おこな)へば、海内(かいだい)に謀反(むほん)の輩(ともがら)絶(た)えず』とこそまうし伝(つた)へてさうらへ。この詞(ことば)に付(つ)けて、中(なか)二年(にねん)あって平治(へいぢ)にまた世(よ)乱(みだ)れて、信西(しんぜい)が埋(うづ)もれたりしを掘(ほ)り出(いだ)し、首(くび)を刎(は)ねて大路(おほぢ)を渡(わた)されさうらふにき。保元(ほうげん)にまうし行(おこな)ひしこと、幾(いく)ほどもなく、身(み)の上(うへ)にむかはりにきと思(おも)へば、怖(こは)しうこそさうらひしか。

これはさせる朝敵(てうてき)にもあらず。かたがた恐(おそ)れあるべし。御栄花(ごえいぐわ)残(のこ)る所(ところ)なければ、おぼしめすことあるまじけれども、子々孫々(ししそんそん)までも繁昌(はんじやう)こそあらまほしうさうらへ。父祖(ふそ)の善悪(ぜんあく)は、かならず子孫(しそん)に及(およ)ぶと見(み)えてさうらふ。積善(せきぜん)の家(いへ)かならず余慶(よけい)あり、積悪(せきあく)の門(もん)にはかならず余殃(よあう)とどまるとこそうけたまはれ。

いかやうにも、今夜(こんや)首(くび)を刎(はね)られんことは、さるべうさうらはず」

 とまうされければ、入道相国(にふだうしやうこく)げにもとや思(おも)はれけん、死罪(しざい)は思(おも)ひとゞまりぬ。その後(のち)大臣(だいじん)中門(ちゆうもん)に出(い)でて、侍(さぶらひ)どもにのたまひけるは、

「おほせなればとて、大納言(だいなごん)左右(さいう)なう失(うしな)ふことあるべからず。入道(にふだう)腹(はら)のたちのまゝに、物(もの)噪(さわ)きことしたまひては、後(のち)にかならず悔(くや)しみたまふべし。僻事(ひがごと)してわれ恨(うら)むな」

 とのたまへば、兵(つはもの)ども、みな舌(した)を振(ふ)って恐(おそ)れ慄(わなな)く。

「さても経遠(つねとほ)、兼康(かねやす)が、けさ大納言(だいなごん)に情(なさけ)なう当(あ)たりけること、かへすがへすも奇怪(きくわい)なり。重盛(しげもり)がかへり聞(き)かん所(ところ)をばなどかは憚(はばか)らざるべき。片田舎(かたゐなか)の者(もの)はかゝるぞとよ」

 とのたまへば、難波(なんば)も瀬尾(せを)も、ともに恐(おそ)れ入(い)りたりけり。大臣(だいじん)はかやうにのたまひて、小松殿(こまつどの)へぞ帰(かへ)られける。さるほどに大納言(だいなごん)のともなりつる侍(さぶらひ)ども、中御門烏丸(なかのみかどからすまる)の宿所(しゆくしよ)へ走(はし)り帰(かへ)って、この由(よし)まうせば、北方(きたのかた)以下(いげ)の女房達(にようばうたち)、声(こゑ)も惜(を)しまず泣(な)き叫(さけ)ぶ。

「すでに武士(ぶし)の向(むか)ひさうらふ。少将殿(せうしやうどの)を始(はじ)めまゐらせて、君達(きんだち)も捕(と)られさせたまふべしとこそ聞(き)こえさうらへ。急(いそ)ぎいづかたへも忍(しの)ばせたまへ」

 とまうしければ、

「今(いま)はこれほどの身(み)に成(な)って、残(のこ)り留(と)まる身(み)とても、安穏(あんをん)にてなにかはせん。ただ同(おな)じ一夜(いちや)の露(つゆ)とも消(き)えんことこそ本意(ほい)なれ。さても今朝(けさ)を限(かぎ)りと知(し)らざりける悲(かな)しさよ」

 とて、臥(ふ)しまろびてぞ泣(な)かれける。すでに武士(ぶし)どもの近付(ちかづ)くよし聞(き)こえしかば、かくてまた恥(はぢ)がましくうたてき目(め)を見(み)んもさすがなればとて、十(じふ)に成(な)りたまふ女子(をんなご)、八歳(はつさい)の男子(をとこご)、車(くるま)に取(と)り乗(の)せ、いづくを差(さ)すともなくやり出(い)だす。

 さてもあるべきならねば、大宮(おほみや)を上(のぼ)りに、北山(きたやま)の辺(へん)雲林院(うんりんゐん)へぞおはしける。その辺(へん)なる僧坊(そうばう)に下(お)ろし置(お)きたてまつって、送(おく)りの者(もの)ども、身(み)の捨(す)てがたさに、暇(いとま)まうして帰(かへ)りけり。今(いま)は幼(をさな)き人々(ひとびと)ばかり残(のこ)りゐて、またこと問(と)ふ人(ひと)もなくしておはしけむ北方(きたのかた)の心(こころ)の中(なか)、推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 暮(く)れ行(ゆ)く影(かげ)を見(み)たまふにつけては、大納言(だいなごん)の露(つゆ)の命(いのち)、この夕(ゆふ)を限(かぎ)りなりと、思(おも)ひやるにも消(き)えぬべし。女房(にようばう)侍(さぶらひ)多(おほ)かりけれども、物(もの)をだに取(と)りしたゝめず、門(もん)をだにおしもたてず。馬(うま)どもは厩(うまや)に並(なら)びたちたれども、草飼(くさか)ふ者(もの)一人(ひとり)もなし。

 夜(よ)明(あ)くれば馬車(うまくるま)門(もん)に立(た)ち並(なら)み、賓客(ひんかく)座(ざ)に列(つら)なって、遊(あそ)び戯れ(たはむれ)舞(ま)ひ躍(をど)り、世(よ)を世(よ)とも思(おも)ひたまはず、近(ちか)き傍(かたはら)の人(ひと)は、物(もの)をだに高(たか)く言(い)はず、怖(おそ)れ畏(かしこ)まってこそ昨日(きのふ)までありしに、夜(よ)の間(あひだ)に変(か)はるありやう、盛者必衰(じやうしやひつすい)の理(り)は目(め)の前(まへ)にこそ顕(あら)はれけれ。

 楽(たの)しみ尽(つ)きて哀(かな)しみ来(く)ると書(か)かれたる江相公(がうしやうこう)の筆(ふで)の跡(あと)、今(いま)こそ思(おも)ひしられけれ。

少将乞請

 丹波少将(たんばのせうしやう)成経(なりつね)は、その夜(よ)しも院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に上臥(うはぶし)して、いまだ出(い)でられざりけるに、大納言(だいなごん)の侍(さぶらひ)ども、急(いそ)ぎ御所(ごしよ)へ馳(は)せまゐって、少将殿(せうしやうどの)を呼(よ)び出(い)だしたてまつり、この由(よし)まうすに、

「などや宰相(さいしやう)の許(もと)より今(いま)まで告(つ)げ知(し)らせざるらん」

 と、のたまふも果(は)てねば、宰相殿(さいしやうどの)よりとて使(つかひ)あり。この宰相(さいしやう)とまうすは、入道相国(にふだうしやうこく)の弟(おとと)なり、宿所(しゆくしよ)は六波羅(ろくはら)の惣門(そうもん)の内(うち)なれば門(もん)脇(わき)の宰相(さいしやう)とぞまうしける。丹波少将(たんばのせうしやう)には舅(しうと)なり。

「なにごとにてさうらふやらん、入道相国(にふだうしやうこく)のきと西八条(にしはちでう)へ具(ぐ)したてまつれとさうらふとまうせ」

 といはせられたりければ、少将(せうしやう)このこと心得(こころえ)て、近習(きんじゆ)の女房達(にようばうたち)呼(よ)び出(い)だしたてまつり、

「夜辺(よべ)なんとなう世(よ)の物(もの)、騒(さわ)がしうさうらひしを、例(れい)の山法師(やまほふし)の下(くだ)るかと余所(よそ)に思(おも)ってさうらへば、早や(はや)成経(なりつね)が身(み)の上(うへ)にてさうらひけり。大納言(だいなごん)よさり斬(き)らるべうさうらふなれば、成経(なりつね)も同(どう)罪(ざい)にてこそさうらはんずらめ。今一度(いまいちど)御所(ごしよ)へまゐって、君(きみ)をも見(み)まゐらせたうさうらへども、すでにかゝる身(み)にまかり成(な)ってさうらへば、憚(はばか)り存(ぞん)じさうらふ」

 とぞまうされける。女房達(にようばうたち)御前(ごぜん)へまゐり、この由(よし)奏(そう)せられければ、法皇(ほふわう)大(おほ)いに驚(おどろ)かせたまひて、

「あはこれらが内々(ないない)謀(はか)りしことの漏(も)れにけるよ」

 とおぼしめすにあさまし。

「さるにてもこれへ」

 と御気色(みけしき)ありければ、まゐられたり。法皇(ほふわう)も御涙(おんなみだ)を流(なが)させたまひて、おほせ下(くだ)さるゝ旨(むね)もなし。少将(せうしやう)も涙(なみだ)に咽(むせ)んでまうしあぐる旨(むね)もなし。ややあってさてもあるべきならねば少将(せうしやう)袖(そで)を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てゝ、泣(な)き泣(な)きまかり出(い)でられけり。

 法皇(ほふわう)は後(うしろ)を遥(はるか)に御覧(ごらん)じ送(おく)らせたまひて、末代(まつだい)こそ心(こころ)憂(う)けれ、これかぎりでまた御覧(ごらん)ぜぬこともやあらんずらんとて、御涙(おんなみだ)を流(なが)させたまふぞ忝(かたじけな)き。院中(ゐんぢゆう)の人々(ひとびと)、少将(せうしやう)の袖(そで)をひかへ、袂(たもと)にすがって名残(なごり)ををしみ、涙(なみだ)を流(なが)さぬはなかりけり。

 舅(しうと)の宰相(さいしやう)の許(もと)へ出(い)でられたれば、北方(きたのかた)は近(ちか)う産(む)すべき人(ひと)にておはしけるが、今朝(けさ)よりこの歎(なげ)きを打(う)ち添(そ)へて、すでに命(いのち)も消(き)え入(い)る心地(ここち)ぞせられける。少将(せうしやう)御所(ごしよ)をまかり出(い)でつるより、流(なが)るゝ涙(なみだ)つきせぬに、北方(きたのかた)のありやうを見(み)たまひてはいとゞせんかたなげにぞ見(み)えられける。

 少将(せうしやう)乳母(めのと)に六条(ろくでう)といふ女房(にようばう)あり。

「御乳(おんち)にまゐり始(はじ)めさうらひて、君(きみ)を褓(むつき)の中(なか)より抱(いだ)き上(あ)げまゐって、月日(つきひ)の重(かさ)なるにしたがひて、わが身(み)の年(とし)の行(ゆ)くをば歎(なげ)かずして、君(きみ)の成人(おとな)しう成(な)らせたまふことをのみうれしう思(おも)ひたてまつり、白地(あからさま)とは思(おも)へども、すでに二十一年(にじふいちねん)、片時(へんじ)も離(はな)れまゐらせず。

院内(ゐんない)へまゐらせたまひて、遅(おそ)う出(い)でさせたまふだにも、覚束(おぼつか)なう思(おも)ひまゐらするに、いかなる御(おん)目(め)にか遭(あ)はせたまはんずらん」

 と泣(な)く。少将(せうしやう)

「いたくな歎(なげ)きそ。宰相(さいしやう)さておはすれば、命(いのち)ばかりはさりとも乞(こ)ひ請(う)けたまはんずらん」

 と、慰(なぐさ)めたまへども、人目(ひとめ)もしらず、泣(な)き悶(もだ)えけり。宰相(さいしやう)さておはすれば、西八条(にしはちでう)殿(どの)より、使(つかひ)しきなみにありければ、宰相(さいしやう)

「行(ゆ)きむかうてこそ、ともかうも成(な)らめ」

 とて出(い)でたまへば、少将(せうしやう)も宰相(さいしやう)の車(くるま)の後(しり)に乗(の)ってぞ出(い)でられける。保元(ほうげん)平治(へいぢ)より以来(いらい)、平家(へいけ)の人々(ひとびと)、楽栄(たのしみさか)えのみあって、愁歎(しうたん)はなかりしに、この宰相(さいしやう)ばかりこそ、由(よし)なき聟(むこ)ゆゑに、かゝる歎(なげ)きをばせられけれ。西八条(にしはちでう)近(ちか)うなって、車(くるま)を停(とど)め、まづ案内(あんない)をまうし入(い)られければ、太政入道(だいじやうにふだう)

「丹波少将(たんばのせうしやう)をばこの内(うち)へは入(い)らるべからず」

 とのたまふ間(あひだ)、その辺(へん)近(ちか)き侍(さぶらひ)の家(いへ)におろし置(お)きつゝ、宰相(さいしやう)ばかりぞ門(もん)の内(うち)へは入(い)りたまふ。少将(せうしやう)をば、いつしか兵(つはもの)ども打(う)ち囲(かこ)んで守護(しゆご)したてまつる。憑(たの)まれつる宰相殿(さいしやうどの)には離(はな)れたまひぬ。少将(せうしやう)の心(こころ)の中(なか)、さこそは便(びん)なかりけめ。

 宰相(さいしやう)中門(ちゆうもん)にゐたまひたれば、入道(にふだう)対面(たいめん)もしたまはず。源大夫判官(げんだいふはうぐわん)季貞(すゑさだ)をもてまうし入(い)られけるは、

「由(よし)なき者(もの)に親(した)しうなって、かへすがへす悔(くや)しうさうらへども、甲斐(かひ)もさうらはず。相(あひ)具(ぐ)せさせてさうらふ者(もの)の、このほど悩(なや)むことのさうらふなるが、今朝(けさ)よりこの歎(なげ)きを打(う)ちそへてはすでに命(いのち)も絶(た)えなんず。なにかはくるしうさうらふべき。

少将(せうしやう)をばしばらく教盛(のりもり)に預(あづ)けさせおはしませ。教盛(のりもり)かうてさうらへば、なじかは僻事(ひがごと)せさせさうらふべき」

 とまうされければ、季貞(すゑさだ)まゐってこの由(よし)まうす。

「あはれ例(れい)の宰相(さいしやう)が、物(もの)に心得(こころえ)ぬ」

 とて、とみに返事(へんじ)ものたまはず。ややあって入道(にふだう)のたまひけるは、

「新大納言(しんだいなごん)成親(なりちか)、この一門(いちもん)を滅(ほろ)ぼして天下(てんが)を乱(みだ)さむとする企(くはだ)てあり。この少将(せうしやう)はすでにかの大納言(だいなごん)が嫡子(ちやくし)なり。疎(うと)くもあれ、親(した)しうもあれ、えこそまうし宥(なだ)めむまじけれ。もしこの謀反(むほん)とげましかば、御辺(ごへん)とてもおだしうやおはすべきとまうせ」

 とこそのたまひけれ。季貞(すゑさだ)帰(かへ)りまゐって、この由(よし)宰相殿(さいしやうどの)にまうしければ、まことに本意(ほい)なげにて、重(かさ)ねてまうされけるは、

「保元(ほうげん)平治(へいぢ)より以降(いかう)、度々(たびたび)の合戦(かつせん)にも、御命(おんいのち)に代(か)はりまゐらせんとこそ存(ぞん)じさうらへ。この後(のち)もあらき風(かぜ)をば、まづ防(ふせ)ぎまゐらせさうらはんずるに、たとひ教盛(のりもり)こそ年老(としお)いてさうらふとも、若(わか)き子供(こども)あまたさうらへば、一方(いつぱう)の御固(おんかた)めにはなどか成(な)らでさうらふべき。

それに成経(なりつね)しばらく預(あづ)からうとまうしを、御容れ(おんいれ)なきは、教盛(のりもり)を一向(いつかう)二心(ふたごころ)ある者(もの)とおぼしめすにこそ。これほど後(うしろ)めたう思(おも)はれまゐらせては、世(よ)にあってもなににかはしさうらふべき。今(いま)はただ身(み)の暇(いとま)を賜(たま)はって、出家入道(しゆつけにふだう)し、片山里(かたやまざと)に籠(こも)って、一筋(ひとすぢ)に後世菩提(ごせぼだい)の勤(つと)めを営(いとな)みさうらはん。

由(よし)なき憂世(うきよ)の交(まじ)はりなり。世(よ)にあれば望(のぞ)みもあれ、望(のぞ)みの叶(かな)はねばこそ恨(うら)みもあれ。しかじ憂世(うきよ)を厭(いと)ひ、真(まこと)の道(みち)に入(い)りなんには」

 とぞのたまひける。季貞(すゑさだ)まゐって、

「宰相殿(さいしやうどの)は早や(はや)おぼしめし切(き)ってさうらふぞ。ともかうもよきやうにおんはからひさうらへ」

 とまうしければ、入道(にふだう)、大(おほ)いに驚(おどろ)いて、

「さればとて出家入道(しゆつけにふだう)まではあまりにけしからず。その儀(ぎ)ならば、少将(せうしやう)をばしばらく御辺(ごへん)に預(あづ)けたてまつるといふべし」

 とこそのたまひけれ。季貞(すゑさだ)帰(かへ)りまゐって、宰相殿(さいしやうどの)にこの由(よし)まうせば、

「あはれ人(ひと)の子(こ)をば持(も)つまじかりける物(もの)かな。わが子(こ)の縁(えん)に結(むす)ばれざらむには、これほど心(こころ)をば砕(くだ)かじものを」

 とて出(い)でられけり。少将(せうしやう)待(ま)ち受(う)けたてまつって、

「さていかゞさうらひつる」

 とまうされければ、

「入道(にふだう)余(あまり)に腹(はら)をたてて、教盛(のりもり)にはつひに対面(たいめん)もしたまはず。叶(かな)ふまじき由(よし)頻(しき)にのたまひつれども、出家入道(しゆつけにふだう)までまうしたればにやらん、しばらく宿所(しゆくしよ)に置(お)きたてまつれとのたまひつれども、始終(しじゆう)よかるべしとも覚(おぼ)えず」

 少将(せうしやう)

「ささうらへばこそ成経(なりつね)も御恩(ごおん)をもて、しばらくの命(いのち)も延(の)びさうらはんずるにこそ。それにつきさうらひては、大納言(だいなごん)がことをばいかゞきこしめされさうらふぞ」

「それまでは思(おも)ひも寄(よ)らず」

 とのたまへば、その時(とき)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)して、

「まことに御恩(ごおん)をもってしばしの命(いのち)もいきさうらはんずることはしかるべうさうらへども、命(いのち)の惜(を)しうさうらふも、父(ちち)を今一度(いまいちど)見(み)ばやと思(おも)ふためなり。大納言(だいなごん)が斬(き)られさうらはんにおいては、成経(なりつね)とても、かひなき命(いのち)を生(い)きてなににかはしさうらふべき。

ただ一所(いつしよ)でいかにもなるやうに、まうしてたばせたまふべうやさうらはん」

 とまうされければ、宰相(さいしやう)世(よ)にも苦(くる)しげにて、

「いさとよ、御辺(ごへん)のことをこそとかうまうしつれ。それまでは思(おも)ひも寄(よ)らねども、大納言殿(だいなごんどの)のおんことをば、今朝(けさ)内(うち)の大臣(だいじん)のやうやうにまうされければ、それもしばらくは心安(こころやす)いやうにこそうけたまはれ」

 とのたまへば、少将(せうしやう)、泣(な)き泣(な)き手(て)を合(あ)はせてぞ悦(よろこ)ばれける。

「子(こ)ならざらむ者(もの)は、たれかただ今(いま)わが身(み)の上(うへ)をさしおいて、これほどまでは悦(よろこ)ぶべき。実(まこと)の契(ちぎ)りは親子(おやこ)の中(なか)にぞありける。子(こ)をば人(ひと)の持(も)つべかりける物(もの)かな」

 とやがて思(おも)ひぞ返(かへ)されける。さて今朝(けさ)のごとくに同車(どうしや)して帰(かへ)られけり。宿所(しゆくしよ)には女房達(にようばうたち)、死(し)にたる人(ひと)の生(い)きかへりたる心地(ここち)して、差(さ)しつどひてみな悦(よろこ)び泣(な)きどもせられけり。

教訓状

 太政入道(だいじやうにふだう)は、かやうに人々(ひとびと)あまた縛(いまし)め置(お)いても、なほ心(こころ)行(ゆ)かずや思(おも)はれけん。すでに赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、黒糸緘(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)の、白金物(しろかなもの)打(う)ちたる胸板(むないた)せめて、先年(せんねん)安芸守(あきのかみ)たりし時(とき)、神拝(じんばい)の次(つぎ)に、霊夢(れいむ)をかうぶって、厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)より現(うつつ)に賜(たま)はられたりける銀(しろがね)の蛭巻(ひるまき)したる小長刀(こなぎなた)、常(つね)の枕(まくら)を放(はな)たず立(た)てられたりしを脇(わき)挟(はさ)み、中門(ちゆうもん)の廊(らう)へぞ出(い)でられける、その気色(けしき)大方(おほかた)ゆゝしうぞ見(み)えし。

 貞能(さだよし)をめす。筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)は木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に緋絨(ひじう)の鎧(よろひ)著(き)て、御前(ごぜん)にかしこまってさうらふ。入道(にふだう)のたまひけるは、

「貞能(さだよし)、このこといかが思(おも)ふ。保元(ほうげん)に平右馬助(へいうまのすけ)を始(はじ)めとして、一門(いちもん)半ば(なかば)過(す)ぎて、新院(しんゐん)の御方(みかた)へまゐりにき。一宮(いちのみや)のおんことは、故(こ)刑部卿(ぎやうぶきやう)殿(どの)の養君(やうくん)にておはししかば、かたがた見(み)放(はな)ちまゐらせ難(がた)かりしかども、故(こ)院(ゐん)の御遺誡(ごゆゐかい)に任(まか)せて、御方(みかた)にて先(さき)を懸(か)けたりき。

これ一(いち)の奉公(ほうこう)なり。次(つぎ)に平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、信頼(のぶより)義朝(よしとも)が院内(ゐんない)を取(と)りたてまつり、大内(だいだい)にたて籠(こも)り天下(てんが)黒闇(こくあん)と成(な)りしに、入道(にふだう)身(み)を捨(す)て、凶徒(きようと)を追(お)ひ落(お)とし、経宗(つねむね)惟(ただ)方(かた)をめし縛(しば)りしに至(いた)るまですでに君(きみ)の御(おん)ために命(いのち)を失(うしな)はんとすること度度(たびたび)に及(およ)ぶ。

たとひ人(ひと)なんとまうせども、七代(しちだい)まではこの一門(いちもん)をばいかでか捨(す)てはてらるべき。それを成親(なりちか)といふ無用(むよう)の徒者(いたづらもの)、西光(さいくわう)といふ下臈(げらふ)の不当人(ふたうじん)めがまうすことに付(つ)かせたまひて、この一門(いちもん)を滅(ほろぼ)すべき由(よし)、法皇(ほふわう)の御結構(ごけつこう)こそ遺恨(ゐこん)の次第(しだい)なれ。

この後(のち)も讒奏(ざんそう)する者(もの)あらば、当家追討(たうけついたう)の院宣(ゐんぜん)下(くだ)されつと覚(おぼ)ゆるぞ。朝敵(てうてき)となって後(のち)は、いかに悔(くや)ゆとも益(やく)あるまじ。世(よ)を静(しづ)めんほど、法皇(ほふわう)を鳥羽(とば)の北殿(きたどの)へ移(うつ)したてまつるか、さらずは、これへまれ、御幸(ごかう)をなしまゐらせんと思(おも)ふはいかに。

おほかた箭(や)をも一つ(ひとつ)射(い)んずらん。その儀(ぎ)ならば、北面(ほくめん)の輩(ともがら)、侍(さぶらひ)どもにその用意(ようい)せよと触(ふ)るべし。大方(おほかた)は入道(にふだう)院(ゐん)方(かた)の奉公(ほうこう)思(おも)ひ切(き)ったり。馬(うま)に鞍(くら)おかせよ。きせながとり出(いだ)せ」

 とぞのたまひける。はや主馬判官(しゆめのはんぐわん)盛国(もりくに)、急(いそ)ぎ小松殿(こまつどの)へ馳(は)せまゐって、

「世(よ)はすでにかうさうらふ」

 とまうしければ、大臣(だいじん)聞(き)くもあへず。

「あは早や(はや)成親卿(なりちかのきやう)が首(くび)を刎(はね)られたるな」

 とのたまへば、

「さはさうらはねども、早や(はや)入道殿(にふだうどの)御著背長(おんきせなが)めされさうらふ。侍(さぶらひ)どももみな打(う)ち立(た)て法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ寄(よ)せんと出(い)でたちさうらふ。法皇(ほふわう)をば鳥羽(とば)殿(どの)へ押(お)し籠(こ)めまゐらせうとさうらふが、内々(ないない)は鎮西(ちんぜい)の方(かた)へ流(なが)しまゐらせうと擬(ぎ)せられさうらふ」

 とまうせば、大臣(だいじん)、いかでかさることあるべきと思(おも)へども、今朝(けさ)の禅門(ぜんもん)の気色(けしき)、さる物狂(ものぐるは)しきこともあるらむとて、車(くるま)を飛(と)ばして、西八条(にしはちでう)へぞおはしたる。門(もん)前(まへ)にて車(くるま)よりおり、門(もん)の内(うち)へ差(さ)し入(い)って見(み)たまへば、入道(にふだう)腹巻(はらまき)を著(き)たまふ上(うへ)は一門(いちもん)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)数十人(すじふにん)、おのおの色々(いろいろ)の直垂(ひたたれ)に、思(おも)ひ思(おも)ひの鎧(よろひ)著(き)て、中門(ちゆうもん)の廊(らう)に二行(にぎやう)に著座(ちやくざ)せられたり。

 その外(ほか)諸国(しよこく)の受領(じゆりやう)衛府(ゑふ)諸司(しよし)などは、縁(えん)にゐ溢(こぼ)れ、庭(には)にもひしと並(なら)びゐたり。旗竿(はたざを)ども引(ひ)きそばめ引(ひ)きそばめ、馬(うま)の腹帯(はるび)を固(かた)め、ただ今(いま)みな打(う)ち立(た)たんずる気色(けしき)どもなるに、甲(かぶと)の緒(を)を縮(しじ)め、小松殿(こまつどの)烏帽子(えぼし)直衣(なほし)に、大文(だいもん)の指貫(さしぬき)のそば取(と)って、さざめき入(い)りたまへば、ことの外(ほか)にぞ見(み)えられける。

 入道(にふだう)ふし目(め)に成(な)って、あはれ例(れい)の内府(ないふ)が、世(よ)をへうするやうに振舞(ふるま)ひ、大(おほ)いに諫(いさ)めばやとこそ思(おも)はれけめども、さすが子(こ)ながらも、内(うち)には五戒(ごかい)を保(たも)って慈悲(じひ)を先(さき)とし、外(ほか)には五常(ごじやう)を乱(みだ)らず、礼儀(れいぎ)を正(ただ)しうしたまふ人(ひと)なれば、あの姿(すがた)に腹巻(はらまき)を著(き)て向(む)かはむこと、面(おもて)はゆう辱(かたじけな)しうや思(おも)はれけん、障子(しやうじ)を少(すこ)し引(ひ)き立(た)て、素絹(そけん)の衣(きぬ)を腹巻(はらまき)の上(うへ)に、あわてぎに著(き)たまひたりけるが、胸板(むないた)の金物(かなもの)の少(すこ)しはづれて見(み)えけるを蔵(かく)さうと、頻(しき)に衣(きぬ)の胸(むね)を引(ひ)きちがへ引(ひ)きちがへぞしたまひける。

 大臣(だいじん)は舎弟(しやてい)宗盛(むねもり)卿(きやう)の座上(ざじやう)につきたまふ。入道(にふだう)ものたまひ出(いだ)さず、大臣(だいじん)もまうしいださるゝこともなし。ややあって入道(にふだう)のたまひけるは、

「成親卿(なりちかのきやう)が謀反(むほん)はことの数(かず)にもあらず。一向(いつかう)法皇(ほふわう)の御結構(ごけつこう)にてありけるぞや。世(よ)をしづめんほど、法皇(ほふわう)を鳥羽(とば)の北殿(きたどの)へ遷(うつ)したてまつるか、さらずば、これへまれ、御幸(ごかう)を成(な)しまゐらせんと思(おも)ふはいかに」

 とのたまへば、大臣(だいじん)聞(き)くもあへず、はらはらとぞ泣(な)かれける。入道(にふだう)、

「いかにいかに」

 とあきれたまふ。大臣(だいじん)涙(なみだ)をおさへてまうされけるは、

「このおほせうけたまはりさうらふに、御運(ごうん)は早や(はや)末(すゑ)に成(な)りぬと覚(おぼ)えさうらふなり。人(ひと)の運命(うんめい)の傾(かたぶ)かんとては、かならず悪事(あくじ)を思(おも)ひ立(た)ちさうらふなり。また御(おん)ありやう、さらに現(うつつ)とも覚(おぼ)えさうらはず。さすが我朝(わがてう)は辺地粟散(へんぢぞくさん)の境(さかひ)とまうしながら、天照大神(あまてらすおほみかみ)の御子孫(おんしそん)、国(くに)の主(しゆう)として、天児屋根命(あまのこやねのみこと)の末(すゑ)、朝(てう)の政(まつりごと)を司(つかさ)どりたまひしより以降(いかう)、太政大臣(だいじやうだいじん)の官(くわん)に至(いた)る人(ひと)の、甲冑(かつちう)をよろふこと礼儀(れいぎ)を背(そむ)くにあらずや。

なかんづくに御出家(ごしゆつけ)の御身(おんみ)なり。それ三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ)を脱(ぬ)ぎ捨(す)てて、たちまちに甲冑(かつちう)を鎧ひ(よろひ)、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)しましまさむこと、内(うち)にはすでに破戒無慚(はかいむざん)の罪(つみ)を招(まね)くのみならず、外(ほか)にはまた仁義礼智信(じんぎれいちしん)の法(ほふ)にも背(そむ)きさうらふなんず。

かたがた恐(おそ)れあるまうすことにてさうらへども、心(こころ)の底(そこ)に旨趣(ししゆ)を残(のこ)すべきに非(あら)ず。まづ世(よ)に四恩(しおん)あり。天地(てんち)の恩(おん)、国王(こくわう)の恩(おん)、父母(ぶも)の恩(おん)、衆生(しゆじやう)の恩(おん)これなり。その中(なか)に最(もつと)も重(おも)きは朝恩(てうおん)なり。普天(ふてん)の下王地(したわうぢ)に非(あら)ずといふことなし。

さればかの頴川(えいせん)の水(みづ)に耳(みみ)を洗(あら)ひ、首陽山(しゆやうざん)に蕨(わらび)を折(を)りし賢人(けんじん)も、勅命(ちよくめい)背(そむ)き難(がた)き礼儀(れいぎ)をば存知(ぞんぢ)すとこそうけたまはれ。いはんや先祖(せんぞ)にもいまだ聞(き)かざりし太政大臣(だいじやうだいじん)を極(きは)めさせたまふ。いはゆる重盛(しげもり)が無才愚闇(むさいぐあん)の身(み)をもて、蓮府槐門(れんぷくわいもん)の位(くらゐ)に至(いた)る。

しかのみならず国郡(こくぐん)半ば(なかば)過(す)ぎて一門(いちもん)の所領(しよりやう)と成(な)り、田園(でんゑん)ことごとく一家(いつか)の進止(しんし)たり。これ希代(きたい)の朝恩(てうおん)に非(あら)ずや。今(いま)これらの莫大(ばくだい)の御恩(ごおん)をおぼしめし忘(わす)れて、みだりがはしく法皇(ほふわう)を傾(かたぶ)けまゐらせたまはんこと、天照大神(あまてらすおほみかみ)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)の神慮(しんりよ)にも背(そむ)きさうらひなんず。

日本(につぽん)はこれ神国(しんこく)なり。神(かみ)は非礼(ひれい)を受(う)けたまはず。しかれば君(きみ)のおぼしめし立(た)つるところ、道理(だうり)半ば(なかば)なきに非(あら)ず。中(なか)にもこの一門(いちもん)は、代々(だいだい)の朝敵(てうてき)を平(たひ)らげて、四海(しかい)の逆浪(ぎやくらう)を静(しづ)むることは無双(むさう)の忠(ちゆう)なれども、その実(まこと)に誇(ほこ)ることは傍若無人(ばうじやくぶじん)ともまうしつべし。

聖徳太子(しやうとくたいし)十七箇条(じふしちかでう)の御憲法(ごけんぱふ)に『人(ひと)みな心(こころ)あり、心(こころ)おのおの執(しつ)あり、かれを是(ぜ)としわれを非(ひ)とし、われを是(ぜ)としかれを非(ひ)とす。是(ぜ)非(ひ)の理(り)たれかよく定(さだ)むべき。相(あひ)ともに賢愚(けんぐ)なり。環(たまき)のごとくして端(はし)なし。ここをもってたとひ人(ひと)怒(いか)るといふとも、かへってわが咎(とが)を懼(おそ)れよ』とこそ見(み)えてさうらへ。

しかれども御運(ごうん)尽(つ)きざるによって、御謀反(ごむほん)すでに露(あら)はれぬ。その上(うへ)おほせ合(あ)はせらるゝ成親卿(なりちかのきやう)をめし置(お)かれぬる上(うへ)は、たとひ君(きみ)いかなる不思議(ふしぎ)をおぼしめし立(た)たせたまふとも、なんの恐(おそ)れかさうらふべき。所当(しよたう)の罪科(ざいくわ)行(おこな)はれん上(うへ)は、退(しりぞ)いてことの由(よし)を陳(ちん)じまうさせたまひて、君(きみ)の御(おん)ためにはいよいよ奉公(ほうこう)の忠勤(ちゆうきん)を尽(つ)くし、民(たみ)のためにはますます撫育(ぶいく)の哀憐(あいれん)を致(いた)させたまはば、神明(しんめい)の加護(かご)に預(あづ)かり仏陀(ぶつだ)の冥慮(みやうりよ)に背(そむ)くべからず。

神明(しんめい)仏陀(ぶつだ)感(かん)応(おう)あらば、君(きみ)もおぼしめしなほすことなどかさうらはざるべき。君(きみ)と臣(しん)とを比(くら)ぶるに親疎(しんそ)別(わ)く方(かた)なし。道理(だうり)と僻事(ひがごと)を並(なら)べんに、いかでか道理(だうり)に付(つ)かざるべき。

烽火之沙汰

 これは君(きみ)の御理(おんことわり)にてさうらへば、叶(かな)はざらむまでも院(ゐん)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を守護(しゆご)しまゐらせさうらふべし。その故(ゆゑ)は重盛(しげもり)叙爵(じよしやく)より今(いま)大臣(だいじん)の大将(だいしやう)に至(いた)るまで、ひとへに君(きみ)の御恩(ごおん)ならずといふことなし。その恩(おん)の重(おも)きことを思(おも)へば、千顆万顆(せんくわまんくわ)の玉(たま)にも越(こ)え、その恩(おん)の深(ふか)き色(いろ)を案(あん)ずれば、一入再入(ひとしほふたしほ)の紅(くれなゐ)にも過(す)ぎたらん。

しかればその儀(ぎ)にてさうらはば、重盛(しげもり)が身(み)に代(か)はり、命(いのち)に代(か)はらんと契(ちぎ)りたる侍(さぶらひ)ども、少(すこ)しさうらはん。これらをめし具(ぐ)して、院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を守護(しゆご)しまゐらせさうらはば、さすがもっての外(ほか)の御大事(おんだいじ)でこそさうらはんずらめ。

悲(かな)しきかな、君(きみ)の御(おん)ために奉公(ほうこう)の忠(ちゆう)を致(いた)さんとすれば、迷盧八万(めいろはちまん)の頂(いただき)よりなほ高(たか)き父(ちち)の恩(おん)たちまちに忘(わす)れんとす。痛(いた)ましきかな、不孝(ふけう)の罪(つみ)を遁(のが)れんとすれば、君(きみ)の御(おん)ためにすでに不(ふ)忠(ちゆう)の逆臣(ぎやくしん)と成(な)りぬべし。進退惟谷(しんたいこれきはま)れり。是(ぜ)非(ひ)いかにも弁(わきま)へ難(がた)し。

まうし請(う)くる所詮(しよせん)は、ただ重盛(しげもり)が頸(くび)をめされさうらへ。院中(ゐんぢゆう)をも守護(しゆご)しまゐらすべからず。院参(ゐんざん)の御供(おんとも)をもつかまつるべからず。かの蕭何(せうか)は大功(たいこう)かたへに越(こ)えたるによって、官(くわん)大相国(だいしやうこく)に至(いた)り、剣(つるぎ)を帯(たい)し沓(くつ)を履(は)きながら殿上(てんじやう)に昇(のぼ)ることを許(ゆる)されしかども、叡慮(えいりよ)に背(そむ)くことあれば、高祖(かうそ)重(おも)う警(いまし)めて、深(ふか)う罪(ざい)せられにき。

かやうの先蹤(せんしよう)を思(おも)ふにも、富貴(ふつき)といひ、栄花(えいぐわ)といひ、朝恩(てうおん)といひ、重職(ぢゆうしよく)といひ、かたがた極(きは)めさせたまへれば、御運(ごうん)の尽(つ)きんこと難(かた)かるべきに非(あら)ず。富貴(ふつき)の家(いへ)には、禄位重畳(ろくゐちようでふ)せり。再(ふたた)び実(み)なる木(き)は、その根(ね)かならず傷(いた)むと見(み)えてさうらふ。

心細(こころぼそ)うこそ覚(おぼ)えさうらへ。いつまでか命(いのち)生(い)きて、乱(みだ)れん世(よ)をも見(み)さうらふべき。ただ末代(まつだい)に生(しやう)を受(う)けて、かゝる憂目(うきめ)に逢(あ)ひさうらふ重盛(しげもり)が果報(くわほう)のほどこそ拙(つたな)うさうらへ。ただ今(いま)侍(さぶらひ)一人(ひとり)におほせ付(つ)けて、御(おん)坪(つぼ)の内(うち)に引(ひ)き出(いだ)されて、重盛(しげもり)が首(くび)の刎(はね)られんことは、易(やす)きほどのことでこそさうらへ。

これおのおの聞(き)きたまへ」

 とて直衣(なほし)の袖(そで)も絞(しぼ)るばかりに涙(なみだ)を流(なが)し、かき口説(くど)かれければ、一門(いちもん)の人々(ひとびと)、心(こころ)あるも心(こころ)なきもみな袖(そで)をぞ湿(しめ)られける。太政入道(だいじやうにふだう)も、頼(たの)み切(き)ったる内府(ないふ)はかやうにのたまふ。力(ちから)もなげにて、

「いやいやこれまでは思(おも)ひも寄(よ)りさうらはず。悪党(あくたう)どもがまうすことにつかせたまひて、僻事(ひがごと)などや出(い)こむずらんと思(おも)ふばかりでこそさうらへ」

 大臣(だいじん)、

「たとひいかなる僻事(ひがごと)出来(しゆつたい)さうらふとも、君(きみ)をばなんとかしまゐらせたまふべき」

 とて、つい立(た)って中門(ちゆうもん)に出(い)で、侍(さぶらひ)どもにおほせられけるは、

「ただ今(いま)重盛(しげもり)がまうしつることをば、なんぢらうけたまはらずや。今朝(けさ)よりこれにさうらうてかやうのことどもまうし静(しづ)むと存(ぞん)じつれども、余(あまり)にひた噪(さわ)ぎに見(み)えつる間(あひだ)帰(かへ)りたりつるなり。院参(ゐんざん)の御供(おんとも)においては、重盛(しげもり)が頸(くび)のめされむを見(み)てつかまつれ。

さらば入(い)りまゐれ」

 とて、小松殿(こまつどの)へぞ帰(かへ)られける。主馬判官(しゆめのはんぐわん)盛国(もりくに)をめして、

「重盛(しげもり)こそ天下(てんが)の大事(だいじ)を別(べつ)して開(ひら)き出(いだ)したれ。われをわれと思(おも)はん者(もの)どもは、みな物具(もののぐ)して馳(は)せまゐれと披露(ひろう)せよ」

 とのたまへば、この由(よし)披露(ひろう)す。

「朧(おぼろ)げにては噪(さわ)がせたまはぬ人(ひと)の、かゝる披露(ひろう)のあるは別(べつ)の仔細(しさい)のあるにこそ」

 と、みな物具(もののぐ)してわれもわれもと馳(は)せまゐる。淀(よど)、羽束師(はつかし)、宇治(うぢ)、岡屋(をかのや)、日野(ひの)、勧修寺(くわんじゆうじ)、醍醐(だいご)、小栗栖(をぐるす)、梅津(うめづ)、桂(かつら)、大原(おほはら)、静原(しづはら)、芹生(せりふ)の里(さと)に溢(こぼ)れゐたる兵(つはもの)どもあるは鎧(よろひ)著(き)て、いまだ甲(かぶと)を著(き)ぬもあり、あるは矢(や)負(お)ひていまだ弓(ゆみ)を持(も)たぬもあり。

 片鐙(かたあぶみ)踏(ふ)むや踏(ふ)まずにて、あわて噪(さわ)いで馳(は)せまゐる。小松殿(こまつどの)に噪(さわ)ぐことありと聞(き)こえしかば、西八条(にしはちでう)に数千騎(すせんぎ)ありける兵(つはもの)ども、入道(にふだう)にかうともまうしも入(い)れず、さざめき連(つ)れて、みな小松殿(こまつどの)へぞ馳(は)せたりける。少(すこ)しも弓箭(きゆうせん)に携(たづさ)はるほどの者(もの)は一人(ひとり)も残(のこ)らず。

 その時(とき)入道(にふだう)大(おほ)いに驚(おどろ)き、貞能(さだよし)をめして、

「内府(ないふ)はなんと思(おも)ひて、これらをば呼(よ)びとるやらん。これで言(い)ひつるやうに、入道(にふだう)が許(もと)へ討手(うつて)などや向(む)かはんずらん」

 とのたまへば、貞能(さだよし)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)して

「人(ひと)も人(ひと)にこそ依(よ)りせたまひさうらへ。いかでかさるおんことさうらふべき。これにてまうさせたまひつることどもも、みな御後悔(ごこうくわい)ぞさうらはん」

 とまうしければ、入道(にふだう)、内府(ないふ)に中(なか)違(たが)うては、悪(あし)かりなんとや思(おも)はれけん。法皇(ほふわう)迎(むか)へまゐらせんことも、はや思(おも)ひとゞまり、腹巻(はらまき)脱(ぬ)ぎおき、素絹(そけん)の衣(きぬ)に袈裟(けさ)打(う)ち掛(か)けて、最(もつと)も心(こころ)にも起(お)こらぬ念誦(ねんじゆ)してこそおはしけれ。小松殿(こまつどの)には、盛国(もりくに)うけたまはって著到(ちやくたう)付(つ)けり。

 馳(は)せまゐりたる勢(せい)ども、一万余騎(いちまんよき)とぞ註(しる)したる。著到(ちやくたう)披見(ひけん)の後(のち)、大臣(だいじん)中門(ちゆうもん)に出(い)でて侍(さぶらひ)どもにのたまひけるは、

「日比(ひごろ)の契約(けいやく)を違(たが)へずしてまゐりたるこそ神妙(しんめう)なれ。異国(いこく)にさるためしあり。周(しう)の幽王(いうわう)、褒姒(はうじ)といふ最愛(さいあい)の后(きさき)をもちたまへり。天下第一(てんがだいいち)の美人(びじん)なり。されども幽王(いうわう)の御心(みこころ)にかなはざりけることは、褒姒(はうじ)笑(ゑ)みをふくまずとて、すべてこの后(きさき)笑(わら)ふことをしたまはず。

異国(いこく)の習(なら)ひには、天下(てんが)に兵革(ひやうかく)起(お)こる時(とき)、所々(ところどころ)に火(ひ)を挙(あ)げ、大鼓(たいこ)を撃(う)って、兵(つはもの)をめす謀(はかりごと)あり。これを烽火(ほうくわ)と名付(なづ)けたり。ある時(とき)天下(てんが)に兵乱(ひやうらん)起(お)こって、烽火(ほうくわ)を揚(あ)げたりければ、后(きさき)これを見(み)たまひて、『あな不思議(ふしぎ)、火(ひ)もあれほど多(おほ)かりけるな』とて、その時(とき)始(はじ)めて笑(わら)ひたまへり。

この后(きさき)一度(いちど)笑(わら)へば百(ひやく)の媚(こび)ありけり。幽王(いうわう)嬉(うれ)しきことにして、そのこととなう、常(つね)に烽火(ほうくわ)を挙(あ)げたまふ。諸侯(しよこう)来(く)るに寇(あだ)なし。寇(あだ)なければすなはち去(さ)りぬ。かやうにすること度々(たびたび)に及(およ)べば、まゐる者(もの)もなかりけり。ある時(とき)隣国(りんこく)より凶賊(きようぞく)起(お)こって、幽王(いうわう)の都(みやこ)を攻(せ)めけるに、烽火(ほうくわ)をあぐれども、例(れい)の后(きさき)の火(ひ)に慣(な)れて、兵(つはもの)もまゐらず。

その時(とき)都(みやこ)傾(かたぶ)きて、幽王(いうわう)つひに亡(ほろ)びにき。さてこの后(きさき)は野干(やかん)と成(な)って走(はし)り失(う)せけるぞ怖(こは)き。かやうのことありなれば、自今以後(じこんいご)も、これよりめさんには、みなかくのごとくにまゐるべし。重盛(しげもり)不思議(ふしぎ)のことを聞(き)き出(いだ)してめしつるなり。

されどもこのこと聞(き)き直(なほ)しつ、僻事(ひがごと)にてありけり。とうとう帰(かへ)れ」

 とて、みな帰(かへ)されけり。実(じつ)にはさせることをも聞(き)き出(いだ)されざりけれども父(ちち)を諫(いさ)めまうされつる詞(ことば)に順(したが)ひ、わが身(み)に勢(せい)の著(つ)くか、著(つ)かぬかのほどをも知(し)り、また父子(ふし)軍(いくさ)をせんとにはあらねども、かくして入道相国(にふだうしやうこく)の謀反(むほん)の志(こころざし)も和(やは)らげたまふとの謀(はかりごと)なり。

「君雖不君不可臣以不臣(きみきみたらずといへどもしんもつてしんたらざるべからず)、父雖不父不可子以不子(ちちちちたらずといへどもこもつてこたらざるべからず)。君(きみ)のためには忠(ちゆう)あって、父(ちち)のためには孝(かう)あれ」

 と文宣王(ぶんせんわう)ののたまひけるに不違(たがはず)。君(きみ)もこの由(よし)きこしめして、

「今(いま)に始(はじ)めぬことなれども、内府(ないふ)が心(こころ)の中(なか)こそ愧(はづか)しけれ。あたをば恩(おん)をもって報(ほう)ぜられたり」

 とぞおほせらる。

「果報(くわほう)こそ目出(めで)たうて、大臣(だいじん)の大将(だいしやう)にこそ至(いた)らめ。容儀(ようぎ)帯佩(たいはい)人(ひと)に勝(すぐ)れ、才智才学(さいちさいがく)さへ世(よ)に超(こ)えたるべしやは」

 とぞ時(とき)の人々(ひとびと)感(かん)じ合(あ)ひける。

「国(くに)に諫(いさ)むる臣(しん)あれば、その国(くに)かならず安(やす)く、家(いへ)に諫(いさ)むる子(こ)あれば、その家(いへ)かならずたゞし」

 といへり。上古(しやうこ)にも末代(まつだい)にもありがたかりし大臣(だいじん)なり。

新大納言被流

 同(どう)六月(ろくぐわつ)二日(ふつか)、新大納言(しんだいなごん)成親卿(なりちかのきやう)をば、公卿(くぎやう)の座(ざ)へ出(い)だしたてまつって、御物(おんもの)まゐらせたりけれども、胸(むね)せき塞(ふさ)がって、御箸(おんはし)をだにもたてられず。御車(おんくるま)を寄(よ)せて、とうとうとまうせば、大納言(だいなごん)心(こころ)ならず乗(の)りたまふ。軍兵(ぐんぴやう)ども前後左右(ぜんごさいう)に打(う)ち囲(かこ)みたり。

 わが方(かた)の者(もの)は一人(ひとり)もなし。

「今一度(いまいちど)小松殿(こまつどの)に見(み)えたてまつらばや」

 とのたまへども、それも叶(かな)はず。

「たとひ重科(ぢゆうくわ)をかうぶって遠国(をんごく)へ行(ゆ)く者(もの)も、人(ひと)一人(ひとり)身(み)に順(したが)へぬ者(もの)やある」

 と車(くるま)の内(うち)にてかき口説(くど)かれければ、守護(しゆご)の武士(ぶし)どももみな鎧(よろひ)の袖(そで)をぞぬらしける。西(にし)の朱雀(すざく)を南(みなみ)へ行(ゆ)けば、大内山(おほうちやま)も今(いま)は余所(よそ)にぞ見(み)たまひける。年来(ねんらい)見(み)馴(な)れたてまつりし雑色牛飼(ざふしきうしかひ)に至(いた)るまで、涙(なみだ)を流(なが)し袖(そで)を絞(しぼ)らぬはなかりけり。

 まして都(みやこ)に残(のこ)りとゞまりたまふ北方(きたのかた)幼(をさな)き人々(ひとびと)の心(こころ)の中(なか)、推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。鳥羽(とば)殿(どの)を過(す)ぎたまふにも、この御所(ごしよ)へ御幸(ごかう)なりしには、一度(いちど)も御供(おんとも)には外(はづ)れざりしものをとて、わが山(やま)庄(しやう)洲浜殿(すはまどの)とてありしをも、余所(よそ)に見(み)てこそ通(とほ)られけれ。

 南(みなみ)の門(もん)へ出(い)でて、舟(ふね)遅(おそ)しとぞ急(いそ)がせける。

「こはいづちへやらん、同(おな)じう失(うしな)はるべくば、都(みやこ)近(ちか)きこの辺(へん)にてもあれかし」

 とのたまひけるぞせめてのことなる。近(ちか)う副(そ)ひたる武士(ぶし)を

「たれそ」

 と問(と)ひたまへば、難波(なんば)次郎(じらう)経遠(つねとほ)とまうす、

「もしこの辺(へん)にわが方(かた)やうの者(もの)やある。舟(ふね)に乗(の)らぬ先(さき)に言(い)ひ置(お)くべきことあり。尋(たづ)ねてまゐらせよ」

 とのたまひければ、その辺(へん)をはしりまはって尋(たづ)ねけれども、われこそ大納言殿(だいなごんどの)の御方(みかた)といふ者(もの)一人(ひとり)もなし。

「わが世(よ)なりし時(とき)は、随(したが)ひついたりし者(もの)ども、一二千人(いちにせんにん)もありつらん。今(いま)は余所(よそ)にてだにもこのありやうを見(み)送(おく)る者(もの)のなかりける悲(かな)しさよ」

 と泣(な)かれければ、猛(たけ)き武士(ぶし)どももみな袖(そで)をぞぬらしける。身(み)にそふ物(もの)とてはたゞつきせぬ涙(なみだ)ばかりなり。熊野詣(くまのまうで)、天王寺(てんわうじ)詣(まうで)などには、二瓦(ふたかわら)の三棟(みつむね)に造(つく)りたる舟(ふね)に乗(の)り、次(つぎ)の船(ふね)二三十艘(にさんじつさう)漕(こ)ぎつゞけてこそありしに、今(いま)は怪(あや)しかるかきすゑ屋形舟(やかたぶね)に、大(おほ)幕(まく)引(ひ)かせ、見(み)もなれぬ兵(つはもの)どもに具(ぐ)せられて、今日(けふ)を限(かぎ)りに都(みやこ)を出(い)でて、浪路(なみぢ)遥(はるか)に赴(おもむ)かれけん心(こころ)の中(なか)、推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 その日(ひ)は摂津国(せつつのくに)大物(だいもつ)の浦(うら)に著(き)たまふ。新大納言(しんだいなごん)、すでに死罪(しざい)に行(おこな)はるべかりし人(ひと)の、流罪(るざい)に宥(なだ)められけることは、小松殿(こまつどの)のやうやうにまうされけるによってなり。この人(ひと)いまだ中納言(ちゆうなごん)にておはしける時(とき)、美濃国(みののくに)を知行(ちぎやう)したまひしに嘉応(かおう)元年(ぐわんねん)の冬(ふゆ)、目代(もくだい)右衛門尉(うゑもんのじよう)正友(まさとも)が許(もと)へ山門(さんもん)の領(りやう)平野庄(ひらののしやう)の神人(じんにん)が葛(くず)を売(う)ってきたりけるに、目代(もくだい)酒(さけ)に飲(の)み酔(ゑ)ひて葛(くず)に墨(すみ)をぞ付(つ)けたりける。

 神人(じんにん)悪口(あくこう)に及(およ)ぶ間(あひだ)、さないはせそとて散々(さんざん)に陵礫(れうりやく)す。さるほどに神人(じんにん)ども数百人(すひやくにん)、目代(もくだい)が許(もと)へ乱入(らんにふ)す。目代(もくだい)法(ほふ)に任(まか)せて防(ふせ)ぎければ、神人(じんにん)等(ら)十余人(じふよにん)打(う)ち殺(ころ)さる。これによって同年(どうねん)の十一月(じふいちぐわつ)三日(みつか)、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)おびたゞしう蜂起(ほうき)して、国司(こくし)成親卿(なりちかのきやう)を流罪(るざい)に処(しよ)せられ、目代(もくだい)右衛門尉(うゑもんのじよう)正友(まさとも)を禁獄(きんごく)せらるべき由(よし)奏聞(そうもん)す。

 すでに成親卿(なりちかのきやう)備中国(びつちゆうのくに)へ流(なが)さるべきにて西(にし)の七条(しちでう)まで出(いだ)されたりしを、君(きみ)いかゞおぼしめされけん、中(なか)五日(いつか)あってめし返(かへ)さる。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)おびただしう呪咀(じゆそ)すと聞(き)こえしかども、同(どう)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)五日(いつか)、右衛門督(うゑもんのかみ)を兼(けん)して、検非違使(けびゐし)の別当(べつたう)に成(な)りたまふ。

 その時(とき)、資方(すけかた)、兼雅卿(かねまさのきやう)越(こ)えられたまへり。資方(すけかた)卿(きやう)はふるい人(ひと)でおはしき。兼雅卿(かねまさのきやう)は栄華(えいぐわ)の人(ひと)なり。家嫡(かちやく)にて越(こ)えられたまひけるこそ遺恨(ゐこん)なれ。これは三条(さんでう)殿(どの)造進(ざうしん)の賞(しやう)なり。同(どう)三年(さんねん)四月(しぐわつ)十二日(じふににち)、正二位(しやうにゐ)に叙(じよ)せらる。その時(とき)は中御門(なかのみかど)中納言(ちゆうなごん)宗家(むねいへ)卿(きやう)越(こ)えられたまへり。

 安元(あんげん)元年(ぐわんねん)十月(じふぐわつ)二十七日(にじふしちにち)、前中納言(さきのちゆうなごん)より権大納言(ごんのだいなごん)に上(のぼ)りたまふ。人(ひと)嘲(あざけ)って、

「山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)にはのろはるべかりけるものを」

 とまうしける。されども、今(いま)はその故(ゆゑ)にや、かゝる憂目(うきめ)に逢(あ)ひたまへり。およそは神明(しんめい)の罰(ばち)も人(ひと)の呪咀(じゆそ)も、疾(と)きもあり、遅(おそ)きもあり、不同(ふどう)なることなり。同(どう)三日(みつか)、大物(だいもつ)の浦(うら)へ京(きやう)より御使(おんつかひ)あるとて衝(つ)きけり。新大納言(しんだいなごん)

「それにて失(うしな)へとの御使(おんつかひ)にや」

 と聞(き)きたまへば、さはなくして、備前(びぜん)の児島(こじま)へ流(なが)すべしとの御使(おんつかひ)なり。小松殿(こまつどの)より御文(おんふみ)あり。

「いかにもして、都(みやこ)近(ちか)き片山里(かたやまざと)にも置(お)きたてまつらばやと、さしもまうしつれども叶(かな)はぬことこそ、世(よ)にありかひもさうらはね。ながらも御命(おんいのち)ばかりはまうし請(う)けてさうらふ」

 とて、難波(なんば)が許(もと)へも、

「構(かま)へてよくよく宮仕(みやづか)へ御心(みこころ)に違(たが)ふな」

 とおほせられ遣(つか)はし、旅(たび)の粧(よそほひ)細々(こまごま)と沙汰(さた)し送(おく)られたり。新大納言(しんだいなごん)はさしも忝(かたじけな)うおぼしめされける君(きみ)にも離(はな)れまゐらせ、つかの間(あひだ)もさりがたう思(おも)はれける北方(きたのかた)幼(をさな)き人々(ひとびと)にも別(わか)れはてゝ、

「こはいづちへさして行(ゆ)きやらん。再(ふたた)びふるさとに帰(かへ)って、妻(つま)子(こ)を相(あひ)見(み)んこともありがたし。一年(いちねん)山門(さんもん)の訴訟(そしよう)によって、流(なが)れしをば君(きみ)惜(を)しませたまひて、西(にし)の七条(しちでう)よりめし還(かへ)されぬ。これはされば君(きみ)のおんいましめにもあらず。

こはいかにしつることぞや」

 と、天(てん)に仰(あふ)ぎ地(ち)に俯(うつむ)いて、泣(な)き悲(かな)しめどもかひぞなき。明(あ)くぬれば舟(ふね)おし出(い)だいて下(くだ)りたまふに、道(みち)すがらもただ涙(なみだ)に咽(むせ)んで、ながらふべしとはおぼえねど、さすが露(つゆ)の命(いのち)は消(き)えやらず。跡(あと)の白浪(しらなみ)隔(へだ)つれば、都(みやこ)は次第(しだい)に遠(とほ)ざかり、日数(ひかず)やうやう重(かさ)なれば、遠国(をんごく)は近付(ちかづ)けり。

 備前(びぜん)の児島(こじま)に漕(こ)ぎよせて、民(たみ)の家(いへ)のあさましげなる柴(しば)の庵(いほり)に置(お)きたてまつる。島(しま)のならひ、後(うしろ)は山(やま)、前(まへ)は海(うみ)、磯(いそ)の松(まつ)風(かぜ)、波(なみ)の音(おと)、いづれも哀(あはれ)は尽(つ)くせず。

阿古屋松

 大納言(だいなごん)一人(ひとり)にもかぎらず、罰(つみ)をかうぶる輩(ともがら)多(おほ)かりけり。近江中将(あふみのちゆうじやう)入道(にふだう)蓮浄(れんじやう)佐渡国(さどのくに)、山城守(やましろのかみ)基兼(もとかね)伯耆国(はうきのくに)、式部大輔(しきぶのたいふ)正綱(まさつな)播磨国(はりまのくに)、宗判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)阿波国(あはのくに)、新平判官資行(しんへいはうぐわんすけゆき)は美作国(みまさかのくに)とぞ聞(き)こえし。そのころ入道相国(にふだうしやうこく)、福(ふく)原(はら)の別業(べつげふ)におはしけるが、同(どう)廿日(はつか)、摂津左衛門(せつつのさゑもん)盛澄(もりすみ)を使者(ししや)として、門(もん)脇(わき)の宰相(さいしやう)の許(もと)へ、

「存(ぞん)ずる旨(むね)あり。丹波少将(たんばのせうしやう)急(いそ)ぎこれへたべ」

 とのたまひ遣(つか)はされたりければ、宰相(さいしやう)、

「さ存(ぞん)ぜらば、たゞありし時(とき)ともかくも成(な)ったりせば、いかゞせむ。今(いま)さら物(もの)を思(おも)はせんこそ悲(かな)しけれ」

 とて、福(ふく)原(はら)へ下(くだ)りたまふべき由(よし)のたまへば、少将(せうしやう)泣(な)き泣(な)き出(い)で立(た)ちたまひけり。女房達(にようばうたち)は、叶(かな)はざらん物(もの)故(ゆゑ)に、なほもただ宰相(さいしやう)のまうされよかしとぞ歎(なげ)かれける。宰相(さいしやう)、

「存(ぞん)ずるほどのことはまうしつ。世(よ)を捨(す)つるより外(ほか)は、今(いま)はなにごとをかまうすべき。されどもたとひいづくの浦(うら)におはすとも、わが命(いのち)のあらん限(かぎ)りは、訪(とぶら)ひたてまつるべし」

 とぞのたまひける。少将(せうしやう)は今年(ことし)三(み)つに成(な)りたまふをさなき人(ひと)を持(も)ちたまへり。日(ひ)ごろはわかき人(ひと)にて君達(きんだち)などのこともさしも心(こころ)にもおはさざりしかども、今(いま)はの時(とき)になりしかば、さすが心(こころ)にやかゝられけん。

「この幼(をさな)き者(もの)を今一度(いまいちど)見(み)ばや」

 とこそのたまひけれ。乳母(めのと)抱(いだ)いてまゐりたり。少将(せうしやう)膝上(ひざのうへ)に置(お)き、髪(かみ)かき撫(な)で、涙(なみだ)をはらはらと流(なが)して、

「哀(あはれ)なんぢ七歳(しちさい)に成(な)らば、男(をとこ)に成(な)して君(きみ)へまゐらせんとこそ思(おも)ひつれ。されども今(いま)はいふかひなし。もし命(いのち)生(い)きて、生(お)ひたちたらば、法師(ほふし)に成(な)り、わが後(のち)の世(よ)弔(とぶら)へよ」

 とのたまへば、いまだ幼(をさな)き心(こころ)に、なにごとをか聞(き)きわきたまふべきなれども、打(う)ち点頭(うなづ)きたまへば、少将(せうしやう)を始(はじ)めたてまつって母上(ははうへ)乳母(めのと)の女房(にようばう)、その座(ざ)に並(なら)びゐたる人々(ひとびと)、心(こころ)あるも心(こころ)なきも、みな袖(そで)をぞ濡(ぬ)らしける。福(ふく)原(はら)の御使(おんつかひ)、やがて今夜(こんや)鳥羽(とば)まで出(いだ)させたまふべき由(よし)まうしければ、

「幾(いく)ほども延(の)びざらん者(もの)故(ゆゑ)に、今宵(こよひ)ばかりは、都(みやこ)の内(うち)にて明(あ)かさばや」

 とのたまへども、頻(しき)にまうせば、その夜(よ)鳥羽(とば)へぞ出(い)でられける。宰相(さいしやう)余(あまり)にうらめしさに、今度(こんど)は乗(の)りも具(ぐ)したまはず。同(どう)廿二日(にじふににち)福(ふく)原(はら)へ下(くだ)り著(つ)きたまひたりければ、太政入道(だいじやうにふだう)瀬尾(せを)太郎(たらう)兼康(かねやす)におほせて、備中国(びつちゆうのくに)へぞ流(なが)されける。

 兼康(かねやす)は宰相(さいしやう)のかへり聞(き)きたまはん所(ところ)を恐(おそ)れて、道(みち)すがらもやうやうに痛(いた)はり慰(なぐさ)めたてまつる。されども、少将(せうしやう)少(すこ)しも慰(なぐさ)みたまふこともなし。夜昼(よるひる)ただ仏(ほとけ)の御(おん)名(な)をのみ唱(とな)へて父(ちち)のことをぞ嘆(なげ)かれける。新大納言(しんだいなごん)は、備前(びぜん)の児島(こじま)におはしけるを、預(あづ)かりの武士(ぶし)難波(なんば)次郎(じらう)経遠(つねとほ)これはなほ舟津(ふなつ)近(ちか)うて悪(あし)かりなんとて、地(ぢ)へ渡(わた)したてまつり、備前備中(びぜんびつちゆう)両国(りやうこく)の境(さかひ)、庭瀬(にはせ)の郷(がう)有木(ありき)の別所(べつしよ)といふ山寺(やまでら)に置(お)きたてまつる。

 備中(びつちゆう)の瀬尾(せを)と、備前(びぜん)の有木(ありき)の別所(べつしよ)の間(あひだ)は、わづか五十町(ごじつちやう)に足(た)らぬ所(ところ)なれば、丹波少将(たんばのせうしやう)その方(かた)の風(かぜ)もさすが懐かし(なつかし)うや思(おも)はれけむ、ある時(とき)兼康(かねやす)をめし

「これより大納言殿(だいなごんどの)の御渡(おんわた)りあるなる備中(びつちゆう)の有木(ありき)の別所(べつしよ)へいかほどの道(みち)ぞ」

 と問(と)ひたまへば、直(ぢき)に知(し)らせたてまつっては、悪(あし)かりなんと思(おも)ひけむ、

「片(かた)道(みち)十二三日(じふにさんにち)でさうらふ」

 とまうし。その時(とき)少将(せうしやう)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)して、

「日本(につぽん)は昔(むかし)三十三箇国(さんじふさんかこく)にてありけるを、中(なか)ごろ六十六箇国(ろくじふろくかこく)には分(わ)けられたんなり。さいふ備前備中(びぜんびつちゆう)備後(びんご)も、本(もと)は一国(いつこく)にてありけるなり。また東(ひんがし)に聞(き)こゆる出羽陸奥(ではみちのく)両国(りやうこく)も、昔(むかし)は六十六郡(ろくじふろくぐん)が一国(いつこく)にてありけるを、その時(とき)十二郡(じふにぐん)を割(さ)り分(わ)けて、出羽(では)の国(くに)とは立(た)てられたり。

されば実方中将(さねかたのちゆうじやう)、奥州(あうしう)へ流(なが)されたりける時(とき)、この国(くに)の名所(めいしよ)阿古耶(あこや)の松(まつ)といふ所(ところ)を見(み)ばやとて、国中(こくぢゆう)を尋(たづ)ねありきけるが、尋(たづ)ねかねて帰(かへ)りける道(みち)に、老翁(らうをう)の一人(ひとり)行(ゆ)き逢(あ)ひたりければ『やゝ御辺(ごへん)はふるい人(ひと)とこそ見(み)たてまつれ、当国(たうこく)の名所(めいしよ)に阿古屋(あこや)の松(まつ)といふ所(ところ)やしりたる』と問(と)ふに、『全(まつた)く当国(たうこく)の内(うち)にはさうらはず、出羽(では)の国(くに)にやさうらはん』とまうしければ、『さては御辺(ごへん)も知(し)らざりけり。

世末(よすゑ)に成(な)って、国(くに)の名所(めいしよ)をも早や(はや)みな呼(よ)び失(うしな)ひけるにこそ』とて、空(むな)しく過(す)ぎんとしければ、老翁(らうをう)中将(ちゆうじやう)の袖(そで)を控(ひか)へて、『あはれ君(きみ)は、

〈みちのくの阿古耶(あこや)の松(まつ)に木隠(こがく)れて、出(い)づべき月(つき)の出(い)でもやらぬか〉

といふ歌(うた)の心(こころ)をもって、当国(たうこく)の名所(めいしよ)阿古耶(あこや)の松(まつ)とはおほせられさうらふか。それは両国(りやうこく)が一国(いつこく)なりしとき詠(よ)み侍(さぶらひ)る歌(うた)なり。十二郡(じふにぐん)を割(さ)り分(わ)けて後(のち)は、出羽国(ではのくに)にやさうらはん』とまうしければ、さらばとて、実方中将(さねかたのちゆうじやう)も出羽国(ではのくに)に越(こ)えてこそ阿古耶(あこや)の松(まつ)をば見(み)たりけれ。

筑紫(つくし)の太宰府(だざいふ)より都(みやこ)へ、腹赤(はらあか)の使(つかひ)の上(のぼ)るこそ、かた路(ぢ)十五日(じふごにち)とは定(さだ)めたれ。すでに十二三日(じふにさんにち)といふは、これよりほとんど鎮西(ちんぜい)へ下向(げかう)でこそあるなれ。遠(とほ)しといふとも、備前備中(びぜんびつちゆう)の間(あひだ)、両三日(りやうさんにち)にはよもすぎじ。近(ちか)きを遠(とほ)うまうすは、大納言殿(だいなごんどの)の御渡(おんわた)りあるなる所(ところ)を成経(なりつね)に知(し)らせじとてこそまうすらめ」

 とて、その後(のち)は恋(こひ)しけれども問(と)ひたまはず。

大納言死去

 さるほどに法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)、この少将(せうしやう)相(あひ)具(ぐ)して薩摩潟(さつまがた)鬼界(きかい)が島(しま)へぞ流(なが)されける。かの島(しま)は、都(みやこ)を出(い)でて遥々(はるばる)と波路(なみぢ)を凌(しの)いで行(ゆ)く処(ところ)なり。おぼろげにては船(ふね)もかよはず。島(しま)には人(ひと)稀(まれ)なり。おのづから人(ひと)はあれども、この土(つち)の人(ひと)にも似(に)ず。

 色(いろ)黒(くろ)うして牛(うし)のごとし。身(み)には頻(しき)に毛(け)生(お)ひつゝ、言詞(ことば)をも聞(き)き知(し)らず。男(をとこ)は烏帽子(えぼし)もせず、女(をんな)は髪(かみ)もさげざりけり。衣裳(いしやう)なければ人(ひと)にも似(に)ず。食(しよく)する物(もの)もなければ、ただ殺生(せつしやう)をのみ先(さき)とす。賤(しづ)が山田(やまだ)をかへさねば、米穀(べいこく)の類(たぐひ)もなく、薗(その)の桑(くは)をとらざれば、絹帛(けんぱく)の類(たぐひ)もなかりけり。

 島(しま)のなかには高(たか)き山(やま)あり。しづかに火(ひ)燃(も)ゆ。硫黄(いわう)といふ物(もの)充満(じゆうまん)せり。かるが故(ゆゑ)に硫黄(いわう)が島(しま)とも名付(なづ)けたり。雷(いかづち)常(つね)に鳴(な)り上(のぼ)り、鳴(な)り下(くだ)り、麓(ふもと)には雨(あめ)しげし。一日(いちにち)片時(へんじ)、人(ひと)の命(いのち)堪(た)へてあるべきやうもなし。さるほどに新大納言(しんだいなごん)は少(すこ)しくつろぐこともやと思(おも)はれけるに、子息(しそく)丹波少将(たんばのせうしやう)成経(なりつね)も、はや鬼界(きかい)が島(しま)へ流(なが)されたまひぬときいて、今(いま)はさのみつれなくなにごとをか期(ご)すべきとて、出家(しゆつけ)の志(こころざし)のさうらふよし、便(びん)に付(つ)けて小松殿(こまつどの)へまうされければ、この由(よし)法皇(ほふわう)に窺(うかが)ひまうして、御免(ごめん)ありけり。

 やがて出家(しゆつけ)したまひぬ。栄花(えいぐわ)の袂(たもと)を引(ひ)きかへて、浮世(うきよ)を余所(よそ)の墨染(すみぞめ)の袖(そで)にぞ窶(やつ)れたまふ。大納言(だいなごん)の北方(きたのかた)は、都(みやこ)の北山(きたやま)雲林院(うんりんゐん)の辺(へん)にしのびてぞおはしける。さらぬだに、住(す)み馴(な)れぬ処(ところ)は物(もの)うきに、いとゞしのばれければ、過(す)ぎ行(ゆ)く月日(つきひ)も明(あ)かし兼(か)ね暮(く)らし煩(わづら)ふやうなりけり。

 女房(にようばう)侍(さぶらひ)多(おほ)かりけれども、あるは世(よ)を恐(おそ)れ、あるは人目(ひとめ)をつゝむほどに、問(と)ひ訪(とぶら)ふ者(もの)一人(ひとり)もなし。されどもその中(なか)に、源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)信俊(のぶとし)といふ侍(さぶらひ)一人(ひとり)、情(なさけ)殊(こと)に深(ふか)かりければ、常(つね)に訪(とぶら)ひたてまつる。ある時(とき)北方(きたのかた)信俊(のぶとし)をめして、

「まことかやこれには備前(びぜん)の児島(こじま)にと聞(き)こえしが、このほど聞(き)かば有木(ありき)の別所(べつしよ)とかやにおはすなり。いかにもして今一度(いまいちど)はかなき筆(ふで)の跡(あと)をもたてまつり、御音信(おんおとづれ)をも聞(き)かばや」

 とこそのたまひけれ。信俊(のぶとし)涙(なみだ)を押(おさ)へまうしけるは、

「幼少(えうせう)より、御憐(おんあは)れみをかうぶって、片時(へんじ)も離(はな)れまゐらせさうらはず。御下り(おんくだり)の時(とき)も、なんともして御供(おんとも)つかまつらうとまうしさうらふしが、六波羅(ろくはら)より容(ゆる)されねば力(ちから)及(およ)びさうらはず。めされさうらひし御声(おんこゑ)も耳(みみ)に留(と)まり、諫(いさ)められまゐらせし御詞(おんことば)も肝(きも)に銘(めい)じて片時(へんじ)も忘(わす)れまゐらせさうらはず。

たとひこの身(み)はいかなる目(め)にも遇(あ)ひさうらへ。とくとく御文(おんふみ)賜(たま)はってまゐりさうらはん」

 とぞまうしける。北方(きたのかた)なのめならず悦(よろこ)んで、やがて書(か)いてぞたうだりける。幼(をさな)き人々(ひとびと)も面々(めんめん)に御文(おんふみ)あり。遥々(はるばる)と備前国(びぜんのくに)有木(ありき)の別所(べつしよ)へ尋(たづ)ね下(くだ)る。預(あづ)かりの武士(ぶし)難波(なんば)次郎(じらう)経遠(つねとほ)に案内(あんない)をいひければ、志(こころざし)のほどを感(かん)じて、やがて見参(げんざん)に入(い)りたりけり。

 大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)は、ただ今(いま)も都(みやこ)のことをのみのたまひ出(いだ)し、歎(なげ)き沈(しづ)んでおはしける所(ところ)に、

「京(きやう)より信俊(のぶとし)がまゐってさうらふ」

 とまうし入(い)りたりければ、

「夢(ゆめ)かや」

 とて聞(き)くもあへず、起(お)きなほり、

「これへこれへ」

 とめされければ、信俊(のぶとし)まゐって見(み)たてまつるに、まづ御住(おんす)まひの心(こころ)にささることにて、墨染(すみぞめ)の御袂(おんたもと)を見(み)たてまつるにぞ、信俊(のぶとし)目(め)もくれ心(こころ)も消(き)えて覚(おぼ)えける。北方(きたのかた)のおほせかうぶりし次第(しだい)、細々(こまごま)とまうして、御文(おんふみ)とりいだいてたてまつる。

 これを開(ひら)けて見(み)たまへば、水茎(みづくき)の跡(あと)は、涙(なみだ)にかき暮(く)れて、そことは見(み)ねども、

「幼(をさな)き人々(ひとびと)の余(あまり)に恋(こ)ひ悲(かな)しみたまふありやう、わが身(み)も尽(つ)きぬ思(おも)ひに堪(た)へ忍(しの)ぶべうもなし」

 と書(か)かれたれば、日来(ひごろ)の恋(こひ)しさは、ことの数(かず)ならずとぞ悲(かな)しみたまふ。かくて四五日(しごにち)過(す)ぎければ、信俊(のぶとし)

「これにさうらひて、御最後(ごさいご)の御(おん)ありやう見(み)まゐらせん」

 とまうしければ、預(あづ)かりの武士(ぶし)難波(なんば)次郎(じらう)経遠(つねとほ)、叶(かな)ふまじき由(よし)頻(しき)にまうせば、力(ちから)及(およ)ばで、

「さらば上(のぼ)れ」

 とこそのたまひけれ。

「われは近(ちか)う失(うしな)はれんずらむ。この世(よ)になき者(もの)と聞(き)かば、相構(あひかま)へてわが後世(ごせ)とぶらへ」

 とぞのたまひける。御返事(ごへんじ)かいてたうだりければ、信俊(のぶとし)これを賜(たま)はって、

「またこそまゐりさうらはめ」

 とて、暇(いとま)まうして出(い)でければ、

「なんぢがまた来(き)ん度(たび)を待(ま)つべしとも覚(おぼ)えぬぞ。あまりにしたはしくおぼゆるに、しばらくしばらく」

 とのたまひて、度々(たびたび)呼(よ)びぞ返(かへ)されける。さてもあるべきならねば、信俊(のぶとし)涙(なみだ)をおさへつゝ、都(みやこ)へ帰(かへ)りのぼりけり。北方(きたのかた)に文(ふみ)まゐらせたりければ、これを開(ひら)いて御覧(ごらん)ずるに、早や(はや)出家(しゆつけ)したまひたると覚(おぼ)しくて、御髪(おんぐし)の一房文(ひとふさふみ)の奥(おく)にありけるを、二目(ふため)とも見(み)たまはず。

 形見(かたみ)こそなかなか今(いま)はあたなれとて、臥(ふ)しまろびてぞ泣(な)かれける。幼(をさな)き人々(ひとびと)も、声々(こゑごゑ)に泣(な)き悲(かな)しみたまひけり。さるほどに大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)をば同(どう)八月(はちぐわつ)十九日(じふくにち)、備前備中(びぜんびつちゆう)両国(りやうこく)の境(さかひ)、庭瀬(にはせ)の郷(がう)、吉備(きび)の中山(なかやま)といふ処(ところ)にてつひに失(うしな)ひたてまつる。

 その最期(さいご)のありやうやうやうに聞(き)こえけり。酒(さけ)に毒(どく)を入(い)れてすゝめたりけれども叶(かな)はざりければ、岸(きし)の二丈(にぢやう)ばかりありける下(した)にひしを植(う)ゑて、上(うへ)より突(つ)き落(お)としたてまつれば、ひしに貫(つらぬ)かれて失(う)せたまひぬ。無下(むげ)にうたてきことどもなり。

 本少(ためしすく)なうぞ覚(おぼ)えける。大納言(だいなごん)の北方(きたのかた)はこの世(よ)になき人(ひと)と聞(き)きたまひて、いかにもして今一度(いまいちど)かはらぬ姿(すがた)を見(み)もし見(み)えんとてこそ、今日(けふ)までやうをも変(か)へざりつれ。今(いま)はなににかはせんとて、菩提院(ぼだいゐん)といふ寺(てら)におはし、やうを変(か)へ、かたのごとくの仏事(ぶつじ)を営(いとな)み後世(ごせ)をぞ弔(とぶら)ひたまひける。

 この北方(きたのかた)とまうすは、山城守(やましろのかみ)敦方(あつかた)の娘(むすめ)なり。勝(すぐ)れたる美人(びじん)にて、後白河(ごしらかは)法皇(ほふわう)の御最愛(ごさいあい)ならびなき御思ひ(おんおもひ)人(ひと)にておはしけるを、成親卿(なりちかのきやう)ありがたき寵愛(ちようあい)の人(ひと)にて、賜(たま)はられたりけるとぞ聞(き)こえし。幼(をさな)き人々(ひとびと)も花(はな)を手(て)折(を)り、閼伽(あか)の水(みづ)を掬(むす)んで、父(ちち)の後世(ごせ)を弔(とぶら)ひたまふぞ哀(あはれ)なる。

 さるほどに時(とき)移(うつ)りこと去(さ)って、世(よ)の替(か)はり行(ゆ)くありやうはただ天人(てんにん)の五衰(ごすゐ)に異(こと)ならず。

徳大寺殿之沙汰

 ここに徳大寺(とくだいじ)の大納言(だいなごん)実定卿(さねさだのきやう)は、平家(へいけ)の次男(じなん)宗盛(むねもり)卿(きやう)に大将(だいしやう)を越(こ)えられて、しばらく籠居(ろうきよ)したまへり。出家(しゆつけ)せんとのたまへば、諸大夫(しよだいぶ)侍(さぶらひ)ども、いかがせんと歎(なげ)き合(あ)へり。その中(なか)に藤蔵人(とうくらんど)重兼(しげかね)といふ諸大夫(しよだいぶ)あり。諸(もろ)ことに心得(こころえ)たる人(ひと)にて、ある月(つき)の夜(よ)、実定卿(さねさだのきやう)南面(なんめん)の御(おん)格子(かうし)上(あ)げさせ、ただ独(ひと)り月(つき)に嘯(うそぶ)いておはしける処(ところ)に、慰(なぐさ)めまゐらせんとや思(おも)ひけん、藤蔵人(とうくらんど)まゐりたり。

「たれそ」

「重兼(しげかね)さうらふ」

「いかになにごとぞ」

 とのたまへば、

「今夜(こんや)は特(こと)に月(つき)さえて心(こころ)のすみさうらふまゝに、まゐってさうらふ」

 とぞまうしける。大納言(だいなごん)、

「神妙(しんめう)にまゐりたり。余(あま)りになんとやらん心細(こころぼそ)うて徒然(つれづれ)なるに」

 とぞおほせられける。その後(のち)なんとなきことどもまうして慰(なぐさ)めたてまつる。大納言(だいなごん)のたまひけるは、

「つらつらこの世(よ)の中(なか)のありやうを見(み)るに、平家(へいけ)の世(よ)はいよいよ盛(さか)んなり。入道相国(にふだうしやうこく)の嫡子(ちやくし)、次男(じなん)、左右(さいう)の大将(だいしやう)にてあり。やがて三男(さんなん)知盛(とももり)、嫡孫(ちやくそん)維盛(これもり)もあるぞかし。かのもこれも次第(しだい)にならば、他家(たけ)の人々(ひとびと)、大将(だいしやう)をいつ当(あ)たり付(つ)くべしともおぼえず。

されば終(つひ)のことなり。出家(しゆつけ)せん」

 とぞのたまひける。重兼(しげかね)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)してまうしけるは、

「君(きみ)の御出家(ごしゆつけ)さうらはゞ、御内(みうち)の上下(じやうげ)みな惑(まど)ふ者(もの)に成(な)りさうらひなんず。重兼(しげかね)、珍(めづら)しきことをこそ案(あん)じ出(いだ)してさうらへ。たとへば安芸(あき)の厳島(いつくしま)をば、平家(へいけ)なのめならず崇(あが)められさうらふに、なにかは苦(くる)しうさうらふべき、かの宮(みや)へ御(おん)まゐりあり、御祈誓(ごきせい)さうらへかし。

七日(しちにち)ばかり御参籠(ごさんろう)さうらはゞ、かの社(やしろ)には内侍(ないし)とて、優(やさ)なる舞姫(まひひめ)どもおほくさうらふ。珍(めづら)しう思(おも)ひまゐらせて、持(も)て成(な)しまゐらせさうらはんずらん。なにごとの御祈誓(ごきせい)に御参籠(ごさんろう)さうらふやらんとまうしさうらはば、ありの儘(まま)におほせさうらへ。

さて御上り(おんのぼり)の時(とき)御(おん)名残(なごり)惜(を)しみまゐらせさうらはんずらん。むねとの内侍(ないし)どもめし具(ぐ)して都(みやこ)まで御上り(おんのぼり)さうらへ。都(みやこ)へ上(のぼ)りなば、西八条(にしはちでう)へぞまゐりさうらはんずらん。『徳大寺殿(とくだいじどの)はなにごとの御祈誓(ごきせい)に厳島(いつくしま)へはまゐらせたまひたりけるやらん』と尋(たづ)ねられさうらはゞ内侍(ないし)どもありの儘(まま)にまうしさうらはんずらん。

入道相国(にふだうしやうこく)はことに物(もの)めでしたまふ人(ひと)にて、わが崇(あが)めたまふ御神(おんかみ)へまゐって、祈(いの)りまうされけるこそ嬉(うれ)しけれとて、よきやうなるはからひもあんぬと覚(おぼ)えさうらふ」

 とまうしければ徳大寺殿(とくだいじどの)

「これこそ思(おも)ひも寄(よ)らざりつれ。ありがたき策(はかりごと)かな。やがてまゐらむ」

 とて、にはかに精進(しやうじん)始(はじ)めつゝ、厳島(いつくしま)へぞまゐられける。まことにかの宮(みや)には内侍(ないし)とて優(やさ)なる女(をんな)ども多(おほ)かりけり。七日(しちにち)参籠(さんろう)せられけるに、夜昼(よるひる)著(つ)き副(そ)ひたてまつりもてなすこと限(かぎ)りなし。七日七夜(しちにちしちや)の間(あひだ)に舞楽(ぶがく)も三度(さんど)までありけり。

 琵琶(びは)、琴(こと)ひき、神楽(かぐら)、舞歌(ぶか)ひなど遊(あそ)びければ、実定卿(さねさだのきやう)も面白(おもしろ)きことにおぼしめし、神明法楽(しんめいほふらく)のために今様(いまやう)、朗詠(らうえい)歌(うた)ひ、風俗(ふぞく)、催馬楽(さいばら)などありがたき郢曲(えいきよく)どもありけり。内侍(ないし)ども

「当社(たうしや)へは、平家(へいけ)の公達(きんだち)こそ御(おん)まゐりさうらふに、この御(おん)まゐりこそ珍(めづら)しうさうらへ。なにごとの御祈誓(ごきせい)、御参籠(ごさんろう)さうらふやらん」

 とまうしければ、

「大将(だいしやう)を人(ひと)に越(こ)えられたる間(あひだ)、その祈(いの)りのためなり」

 とぞおほせられける。さて七日(しちにち)参籠(さんろう)畢(を)はって、大明神(だいみやうじん)に暇(いとま)まうして都(みやこ)へ上(のぼ)らせたまふに、名残(なごり)を惜(を)しみたてまつり、むねとの若(わか)き内侍(ないし)十余人(じふよにん)、船(ふね)押(お)し立(た)てて一日路(いちにちぢ)を送(おく)りたてまつる。暇(いとま)まうしけれども、さりとては余(あまり)に名残(なごり)の惜(を)しきに、今(いま)一日路(いちにちぢ)、今(いま)二日(ふつか)路(ぢ)とおほせられて都(みやこ)までこそ具(ぐ)せられけれ。

 徳大寺(とくだいじ)の邸(やしき)へ入(い)らせたまひて、やうやうにもてなし、やうやうの御引出物(おんひきでもの)どもたうでかへされけり。内侍(ないし)どもこれまで上(のぼ)るほどでは、われらが主(しゆう)の太政入道(だいじやうにふだう)殿(どの)へいかでまゐらであるべきとて、西八条(にしはちでう)へぞ参(さん)じたる。入道相国(にふだうしやうこく)急(いそ)ぎ出(い)で合(あ)ひたまひて

「いかに内侍(ないし)どもはなにごとの列参(れつさん)ぞ」

「徳大寺殿(とくだいじどの)の御(おん)まゐりさうらひたるを、一日路(いちにちぢ)送(おく)りまゐらせてさうらへば、さりとては余(あま)りに、名残(なごり)の惜(を)しきに、今(いま)一日路(いちにちぢ)二日(ふつか)路(ぢ)とおほせられて、これまでめし具(ぐ)せられてさうらふ」

「徳大寺(とくだいじ)はなにごとの祈誓(きせい)に、厳島(いつくしま)まではまゐられたりけるやらん」

 とのたまへば、

「大将(だいしやう)の御祈(おんいの)りのためとこそおほせられさうらひしか」

 その時(とき)入道(にふだう)打(う)ちうなづいて、

「あないとほし、王城(わうじやう)にさしも尊(たふと)き霊仏霊社(れいぶつれいしや)のいくつもおはすを差(さ)し置(お)いて、わが崇(あが)めたてまつる御神(おんかみ)へまゐって祈(いの)りまうされけるこそありがたけれ。これほど志(こころざし)切(せつ)ならむ上(うへ)は」

 とて、嫡子(ちやくし)小松殿(こまつどの)内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてましますけるを辞(じ)せさせたてまつり、次男(じなん)宗盛(むねもり)大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)にておはしけるを超(こ)えさせて、徳大寺(とくだいじ)を左大将(さだいしやう)にぞ成(な)されける。あはれ目出度(めでた)かりける策(はかりごと)かな。新大納言(しんだいなごん)も、かやうに賢(さか)きはからひをばしたまはで、由(よし)なき謀反(むほん)おこして、わが身(み)も滅(ほろ)び、子息所従(しそくしよじゆう)に至(いた)るまで、かゝる憂目(うきめ)を見(み)せたまふこそうたてかりけれ。

堂衆合戦

 さるほどに、法皇(ほふわう)は三井寺(みゐでら)の公顕(こうけん)僧正(そうじやう)を御師範(ごしはん)として、真言(しんごん)の秘法(ひほふ)を伝受(でんじゆ)せさせましましけるが、大日経(だいにちきやう)、金剛頂経(こんがうちやうぎやう)、蘇悉地経(そしつぢきやう)、この三部(さんぶ)の秘法(ひほふ)を受(う)けさせたまひて、九月(くぐわつ)四日(よつか)、三井寺(みゐでら)にて御灌頂(ごくわんぢやう)あるべしとぞ聞(き)こえける。

 山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)憤(いきどほ)りまうし、

「昔(むかし)より御灌頂(ごくわんぢやう)御受戒(ごじゆかい)、みな当山(たうざん)にして遂(と)げさせましますこと先規(せんき)なり。なかんづくに山王(さんわう)の化導(けだう)は、受戒(じゆかい)灌頂(くわんぢやう)のためなり。しかるを今(いま)三井寺(みゐでら)にて遂(と)げさせましまさば、寺(てら)を一向(いつかう)焼(や)き払(はら)ふべし」

 とぞまうしける。これ無(む)益(やく)なりとて、御加行(ごけぎやう)を結願(けちぐわん)しておぼしめし留(と)まらせたまひぬ。さりながらもなほ御本意(ごほい)なればとて、三井寺(みゐでら)の公顕(こうけん)僧正(そうじやう)をめし具(ぐ)して、天王寺(てんわうじ)へ御幸(ごかう)なって、五智光院(ごちくわうゐん)を建(た)て、亀井(かめゐ)の水(みづ)を五瓶(ごびやう)の智水(ちすゐ)として、仏法最初(ぶつぽふさいしよ)の霊地(れいち)にてぞ、伝法(でんぼふ)灌頂(くわんぢやう)は遂(と)げさせましましける。

 山門(さんもん)の騒動(さうどう)を静(しづ)められんがために、三井寺(みゐでら)にて御灌頂(ごくわんぢやう)はなかりしかども、山上(さんじやう)には堂衆(だうしゆ)学生(がくしやう)、不快(ふくわい)のこと出来(いでき)て、合戦(かつせん)度々(たびたび)に及(およ)ぶ。毎度(まいど)に学侶(がくりよ)打(う)ち落(お)されて山門(さんもん)の滅亡(めつばう)、朝家(てうか)の御大事(おんだいじ)とぞ見(み)えし。堂衆(だうしゆ)とまうすは、学生(がくしやう)の所従(しよじゆう)なりける童部(わらんべ)が法師(ほふし)に成(な)ったるや、もしくは中間(ちゆうげん)法師原(ほふしばら)にてありけるが、金剛寿院(こんがうじゆゐん)の座主(ざす)、覚尋(かくじん)権僧正(ごんのそうじやう)治山(ぢさん)の時(とき)より、三塔(さんたふ)に結番(けちばん)して、夏衆(げしゆ)と号(がう)して、仏(ほとけ)に花(はな)しんぜし者(もの)どもなり。

 近年(きんねん)行人(ぎやうにん)とて、大衆(だいしゆ)をもことどもせざりしが、かく度々(たびたび)の軍(いくさ)に打(う)ち勝(か)ちぬ。堂衆(だうしゆ)等(ら)師主(ししゆ)の命(めい)を背(そむ)いて、合戦(かつせん)を企(くはだ)つ、速(すみ)やかに誅罰(ちゆうばつ)せらるべき由(よし)、大衆(だいしゆ)公家(くげ)に奏聞(そうもん)し、武家(ぶけ)へ触(ふ)れ訴(うつた)ふ。これによって太政入道(だいじやうにふだう)院宣(ゐんぜん)をうけたまはり、紀伊国(きいのくに)の住人(ぢゆうにん)、湯浅権守(ゆあさのごんのかみ)宗重(むねしげ)以下(いげ)、畿内(きない)の兵(つはもの)二千余騎(にせんよき)、大衆(だいしゆ)に差(さ)し添(そ)へて、堂衆(だうしゆ)を攻(せ)めらる。

 堂衆(だうしゆ)日来(ひごろ)は東陽坊(とうやうばう)にありしが、近江(あふみ)の国(くに)三箇(さんが)の庄(しやう)に下向(げかう)して、あまたの勢(せい)を率(ひき)ゐし、また登山(とうざん)して、早尾坂(はやをざか)に城(じやう)をして立(た)て籠(こも)る。同(どう)九月(くぐわつ)廿日(はつか)、辰(たつ)の一点(いちてん)に大衆(だいしゆ)三千人(さんぜんにん)、官軍(くわんぐん)二千余騎(にせんよき)、都合(つがふ)その勢(せい)五千余人(ごせんよにん)、早尾坂(はやをざか)に押(お)しよせたり。

 今度(こんど)はさりともと思(おも)ひけるに、大衆(だいしゆ)は官軍(くわんぐん)を先(さき)立(た)てんとし、官軍(くわんぐん)はまた大衆(だいしゆ)を先(さき)立(た)てんと争(あらそ)ふほどに心々(こころごころ)にて、はかばかしうも戦(たたか)はず。城(じやう)の内(うち)より石弓(いしゆみ)弛(はづ)み懸(か)けたりければ、大衆(だいしゆ)官軍(くわんぐん)数(かず)を尽(つ)くして討(う)たれにけり。堂衆(だうしゆ)に語(かたら)ふ悪党(あくたう)といふは、諸国(しよこく)の窃盗(せつたう)、強盗(がうたう)、山賊(さんぞく)、海賊(かいぞく)等(ら)なり。

 欲心(よくしん)熾盛(しじやう)にして、死生不知(ししやうふち)の奴原(やつばら)なれば、われ一人(ひとり)と思(おも)ひ切(き)って戦(たたか)ふほどに、今度(こんど)もまた学生(がくしやう)軍(いくさ)に負(ま)けにけり。

山門滅亡

 その後(のち)は山門(さんもん)いよいよ荒(あ)れはてゝ、十二禅衆(じふにぜんしゆ)の外(ほか)は、止住(しぢゆう)の僧侶(そうりよ)も稀(まれ)なり。谷々(たにだに)の講演(かうえん)磨滅(まめつ)して、堂々(だうだう)の行法(ぎやうぼふ)も退転(たいてん)す。修学(しゆがく)の窓(まど)を閉(と)ぢ、坐禅(ざぜん)の床(ゆか)を空(むな)うせり。四教五時(しけうごじ)の春(はる)の花(はな)も香(にほ)はず、三諦即是(さんだいそくぜ)の秋(あき)の月(つき)も曇(くも)れり。三百余歳(さんびやくよさい)の法灯(ほふとう)を挑(かか)ぐる人(ひと)もなく、六時不断(ろくじふだん)の香(かう)の煙(けぶり)も、絶(た)えやしぬらん。

 堂舎(だうしや)高(たか)く聳(そび)えて、三重(さんぢゆう)の構(かま)へを青漢(せいかん)の内(うち)に挿(はさ)み、棟梁(とうりやう)遥(はる)かに秀(ひい)でて、四面(しめん)の椽(たるき)を白霧(はくむ)の間(あひだ)に懸(か)けたりき。されども今(いま)は供仏(くぶつ)を嶺(みね)の嵐(あらし)に任(まか)せ、金容(こんよう)を紅涙(こうるゐ)に濡(ぬ)らす。夜(よ)の月灯(げつとう)を挑(かか)げて檐(のき)の隙(ひま)より漏(も)り、暁(あかつき)の露珠(ろしゆ)を垂(た)れて蓮座(れんざ)の粧(よそほひ)を添(そ)ふとかや。

 それ末代(まつだい)の俗(ぞく)に至(いた)っては、三国(さんごく)の仏法(ぶつぽふ)も次第(しだい)に衰微(すゐび)せり。遠(とほ)く天(てん)竺(ぢく)に仏跡(ぶつせき)を弔(とぶら)へば、昔(むかし)仏(ほとけ)の法(ほふ)を説(と)きたまひし竹林精舎(ちくりんしやうじや)、給孤独園(ぎつこどくをん)もこのころは狐狼野干(こらうやかん)の栖(すみか)と成(な)って、礎(いしずゑ)のみや残(のこ)るらん。白鷺池(はくろち)には水(みづ)絶(た)えて、草(くさ)のみ深(ふか)くしげれり。

 娑林下葉(しやりんのしたば)の卒都婆(そとば)も苔(こけ)のみむして傾(かたぶ)きぬ。震旦(しんたん)にも天台山(てんだいさん)、五台山(ごだいさん)、白馬寺(はくばじ)、玉泉寺(ぎよくせんじ)も今(いま)は住侶(ぢゆうりよ)なくやうやうに荒(あ)れ果(は)て、大小乗(だいせうじよう)の法門(ほふもん)も、箱(はこ)の底(そこ)にや朽(く)ちぬらん。我朝(わがてう)にも南都七大寺(なんとしちだいじ)荒(あ)れ果(は)て、八宗九宗(はつしうくしう)も跡(あと)絶(た)え、愛宕高雄(あたごたかを)も昔(むかし)は堂塔(だうたふ)軒(のき)を並(なら)べたりしかども、一夜(いちや)の中(なか)に荒(あ)れにしかば、天狗(てんぐ)の栖(すみか)と成(な)り果(は)てぬ。

 さればにや、さしもやんごとなかりつる天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ)も、治承(ぢしよう)の今(いま)に及(およ)んで、亡(ほろ)び果(は)てぬるにやと、心(こころ)ある人(ひと)歎(なげ)き悲(かな)しまずといふことなし。離山(りさん)しける僧(そう)の坊(ばう)の柱(はしら)に、歌(うた)をぞ一首(いつしゆ)書(か)いたりける。

祈(いの)りこしわが立(た)つ杣(そま)のひきかへて、人(ひと)なき嶺(みね)となりや果(は)てなん。

 これは伝教大師(でんげうだいし)、当山(たうざん)草創(さうさう)の昔(むかし)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏(ほとけ)たちに、祈(いの)りまうされけることを、思(おも)ひ出(い)でて詠(よ)みたりけるにや。いと優(やさ)しうぞ聞(き)こえし。八日(やうか)は薬師(やくし)の日(ひ)なれども、南無(なむ)と唱(とな)ふる声(こゑ)もせず。卯月(うづき)は垂跡(すゐしやく)の月(つき)なれども幣帛(へいはく)を捧(ささ)ぐる人(ひと)もなし。

 朱(しゆ)の玉垣(たまがき)神(かみ)さびて、しめ縄(なは)のみや残(のこ)るらん。

善光寺炎上

 そのころ善光寺(ぜんくわうじ)炎上(えんしやう)の由(よし)その聞(き)こえあり。かの如来(によらい)とまうすは昔(むかし)天(てん)竺(ぢく)舎衛国(しやゑこく)に、五種(ごしゆ)の悪病(あくびやう)起(お)こって、人(ひと)多(おほ)く滅(めつ)しに月蓋長者(ぐわつがいちやうじや)が致請(ちしやう)によって、竜宮城(りうぐうじやう)より閻浮檀金(えんぶだごん)を得(え)て、釈尊(しやくそん)、目連(もくれん)、長者(ちやうじや)心(こころ)を一(いち)にして、鋳現(いあらは)したまへる一搩手半(いつたくしゆはん)の弥陀(みだ)の三尊(さんぞん)、閻浮提(えんぶだい)第一(だいいち)の霊像(れいざう)なり。

 仏滅度(ぶつめつど)の後(のち)、天(てん)竺(ぢく)に留(と)まらせたまふこと、五百余歳(ごひやくよさい)、仏法(ぶつぽふ)東漸(とうぜん)の理(り)にて、百済国(くだらこく)に移(うつ)らせたまひて、一千歳(いつせんさい)の後(のち)、百済(くだら)の帝(みかど)斉明王(せいめいわう)、我朝(わがてう)の帝(みかど)欽明天皇(きんめいてんわう)の御宇(ぎよう)に及(およ)んで、かの国(くに)よりこの国(くに)へ移(うつ)らせたまひて、摂津国(せつつのくに)難波(なんば)の浦(うら)にして、星霜(せいさう)を送(おく)らせたまひけり。

 常(つね)は金色(こんじき)の光(ひかり)を放(はな)たせましましければ、これによって年号(ねんがう)を、金光(こんくわう)と号(がう)す。同(どう)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)上旬(じやうじゆん)に信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん)、麻績(をみ)の本太善光(ほんだよしみつ)といふ者(もの)都(みやこ)へ上(のぼ)りたりけるに、かの如来(によらい)に逢(あ)ひたてまつりたりけるに、担(にな)ひていざなひまゐらせて、昼(ひる)は善光(よしみつ)、如来(によらい)を負(お)ひたてまつり、夜(よ)は善光(よしみつ)、如来(によらい)に負(お)はれたてまつって、信濃国(しなののくに)へ下(くだ)り、水内郡(みのちのこほり)に安置(あんち)したてまつりしよりこのかた、星霜(せいさう)すでに五百八十余歳(ごひやくはちじふよさい)、炎上(えんしやう)の例(れい)はこれ始(はじ)めとぞうけたまはる。

「王法(わうぼふ)尽(つ)きんとては、仏法(ぶつぽふ)まづ亡(ばう)ず」

 といへり。さればにや、さしもやんごとなかりつる霊山(りやうぜん)の多(おほ)く滅(ほろ)び失(う)せぬるは、王法(わうぼふ)の末(すゑ)に成(な)りぬる先表(せんべう)やらんとぞまうしける。

康頼祝言

 さるほどに鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)ども、露(つゆ)の命(いのち)草葉(くさば)の末(すゑ)に懸(か)かって、惜(を)しむべき命(いのち)にはありねども、丹波少将(たんばのせうしやう)の舅(しうと)平宰相(へいさいしやう)教盛(のりもり)の領(りやう)、肥前国(ひぜんのくに)鹿瀬(かせ)の庄(しやう)より、衣食(えじき)を常(つね)に送(おく)られければ、それにてぞ俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)も康頼(やすより)も命(いのち)を生(い)きて過(す)ごしける。

 康頼(やすより)は、流(なが)されける時(とき)、周防(すはう)の室(むろ)つみにて出家(しゆつけ)してけり。法名(ほふみやう)は性照(しやうせう)とこそ付(つ)けたりけれ。出家(しゆつけ)は本(もと)よりの望(のぞ)みなりければ、

つひにかくそむきはてける世(よ)の中(なか)を、とくすてざりしことぞくやしき。

 丹波少将(たんばのせうしやう)、康頼(やすより)入道(にふだう)は、本(もと)より熊野(くまの)信心(しんじん)の人(ひと)なれば、いかにもしてこの島(しま)の内(うち)に熊野(くまの)三所権現(さんしよごんげん)を勧請(くわんじやう)したてまつって帰洛(きらく)のことを祈(いの)りまうさばやといふに、僧都(そうづ)は天性(てんしやう)不(ふ)信(しん)第一(だいいち)の人(ひと)にてこれを用(もち)ゐず。二人(ふたり)は同(おな)じ心(こころ)に、もし熊野(くまの)に似(に)たる所(ところ)やあると、島(しま)の内(うち)を尋(たづ)ね廻(めぐ)るに、あるは林塘(りんたう)の妙(たへ)なるあり、紅錦繡(こうきんしう)の粧(よそほひ)品々(しなじな)に、あるは雲嶺(うんれい)の怪(あやし)あり、碧羅綾(へきらりよう)の色(いろ)一つ(ひとつ)に非(あら)ず。

 山(やま)の景色(けしき)樹(き)の木立(こだち)に至(いた)るまで、海外(うみのほか)よりもなほ勝(すぐ)れたり。南(みなみ)を望(のぞ)めば、海漫々(うみまんまん)として、雲(くも)の波(なみ)煙(けぶり)の浪(なみ)深(ふか)く、北(きた)を顧(かへり)みれば、また山嶽(さんがく)の峨々(がが)たるより、百尺(ひやくしやく)の滝水(たきみづ)漲(みなぎ)り落(お)ちたり。滝(たき)の音(おと)殊(こと)に凄(すさ)まじく、松(まつ)風(かぜ)神(かみ)さびたる栖(すみか)、飛滝権現(ひりようごんげん)のおはす那智(なち)の御山(おんやま)にもさも似(に)たりけり。

 さてこそ、やがてそこをば那智(なち)の御山(おんやま)とは名付(なづ)けけれ。この嶺(みね)は本宮(ほんぐう)、かのは新宮(しんぐう)、これはその王子(わうじ)、かの王子(わうじ)など、王子王子(わうじわうじ)の名(な)をまうして、康頼(やすより)入道(にふだう)先達(せんだつ)にて、丹波少将(たんばのせうしやう)相(あひ)具(ぐ)しつゝ、日(ひ)ごとに熊野詣(くまのまうで)の真似(まね)をして、帰洛(きらく)のことをぞ祈(いの)りける。

「南無(なむ)権現(ごんげん)金剛童子(こんがうどうじ)、願(ねが)はくは憐(あは)れみを垂(た)れさせおはして、ふるさとへかへし入(い)れさせたまへ、妻(つま)子(こ)どもをも今一度(いまいちど)見(み)せたまへ」

 とぞ祈(いの)りける。日数(ひかず)積(つ)もりて、裁(た)ちさらすべき浄衣(じやうえ)もなければ、麻(あさ)の衣(きぬ)を身(み)に纒(まと)ひ、沢辺(さはべ)の水(みづ)をこりにかいては、岩田川(いはたがは)の清(きよ)き流(なが)れと思(おも)ひやり、高所(たかきところ)に上(のぼ)っては、発心門(ほつしんもん)とぞ観(くわん)じける。まゐる度毎(たびごと)には康頼(やすより)入道(にふだう)、祝言(しゆくごん)をまうすに、御幣紙(ごへいがみ)もなければ、花(はな)を手(て)折(を)って捧(ささ)げつつ、

「維(これ)当(あ)たれる歳次(さいじ)、治承(ぢしよう)元年(ぐわんねん)丁酉(ひのとのとり)、月(つき)のならび十月二月(とつきふたつき)、日(ひ)の数(かず)三百五十余箇日(さんびやくごじふよかにち)、吉日良辰(きちじつりやうしん)を択(えら)んで、掛(か)けまくも忝(かたじけ)なく、日本(につぽん)第一(だいいち)大霊験(だいれいげん)、熊野(くまの)三所権現(さんしよごんげん)、飛滝大薩埵(ひりようだいさつた)の教令(けうりやう)、宇豆(うづ)の広前(ひろまへ)にして、信心(しんじん)の大施主(だいせしゆ)、羽林(うりん)藤(ふぢ)原(はら)成経(なりつね)、並(なら)びに沙弥(しやみ)性照(しやうせう)、一心清浄(いつしんしやうじやう)のまことを致(いた)し三業相応(さんごふさうおう)の志(こころざし)を抽(ぬき)んでて、謹(つつし)んでもって敬白(けいびやく)す。

それ証誠大菩薩(しようじやうだいぼさつ)は、済度苦海(さいどくかい)の教主(きやうしゆ)、三身円満(さんじんゑんまん)の覚王(かくわう)なり。あるは東方(とうばう)浄瑠璃(じやうるり)医王(いわう)の主(しゆ)、衆病悉除(しゆびやうしつぢよ)の如来(によらい)なり。あるは南方(なんぱう)補陀落(ふだらく)能化(のうけ)の主(しゆ)、入重玄門(にふぢゆうげんもん)の大士(だいじ)、若王子(にやくわうじ)は娑婆世界(しやばせかい)の本主(ほんしゆ)、施無畏者(せむゐしや)の大士(だいじ)。頂上(ちやうじやう)の仏面(ぶつめん)を現(げん)じて、衆生(しゆじやう)の所願(しよぐわん)をみてたまへり。

これによって上一人(かみいちにん)より下万民(しもばんみん)に至(いた)るまで、あるは現世安穏(げんぜあんをん)のため、あるは後生善所(ごしやうぜんしよ)のために朝(あした)には浄水(じやうすゐ)を掬(むす)んで、煩悩(ぼんなう)の垢(あか)を濯(すす)ぎ、夕(ゆふ)には深山(しんざん)に向(む)かって宝号(はうがう)を唱(とな)ふるに、感(かん)応(おう)怠(おこた)ることなし。峨々(がが)たる峰(みね)の高(たか)さをば、神徳(しんとく)の高(たか)きにたとへ、嶮々(けんけん)たる谷(たに)の深(ふか)さをば、弘誓(ぐぜい)の深(ふか)きに准(なぞら)へて、雲(くも)を分(わ)けて上(のぼ)り、露(つゆ)を凌(しの)いでくだる。

ここに利益(りやく)の地(ち)をたのまずんば、いかんが歩(あゆみ)を険難(けんなん)の道(みち)に運(はこ)ばん。権現(ごんげん)の徳(とく)を仰(あふ)がずんば、なんぞかならずしも幽遠(いうゑん)の境(さかひ)にましまさむ。よって証誠大権現(しようじやうだいごんげん)、飛滝大薩埵(ひりようだいさつた)、青蓮(しやうれん)慈悲(じひ)の眸(ひとみ)を相(あひ)並(なら)べ、小鹿(をじし)の御耳(おんみみ)を振(ふ)り立(た)てゝ、われらが無二(むに)の丹誠(たんせい)を知見(ちけん)して、一々(いちいち)の懇志(こんし)を納受(なふじゆ)したまへ。

しかればすなはち、結早玉(ゆひはやたま)の両所権現(りやうしよごんげん)、おのおの機(き)にしたがって、有縁(うえん)の衆生(しゆじやう)を導(みちび)き、無縁(むえん)の群類(ぐんるゐ)を救(すく)はんがために、七宝荘厳(しつぽうしやうごん)の栖(すみか)を捨(す)てゝ、八万四千(はちまんしせん)の光(ひかり)を和(やは)らげ、六道三有(ろくだうさんう)の塵(ちり)に同(おな)じたまへり。かるがゆゑに定業亦能転(ぢやうごふやくのうてん)、求長寿得長寿(ぐちやうじゆとくちやうじゆ)の礼拝(らいはい)、袖(そで)を連(つら)ね、幣帛(へいはく)礼奠(れいてん)を捧(ささ)ぐること隙(ひま)なし。

忍辱(にんにく)の衣(きぬ)を重(かさ)ね、覚道(かくだう)の花(はな)を捧(ささ)げて、神殿(しんでん)の床(ゆか)を動(うご)かし、信心(しんじん)の水(みづ)をすまして、利生(りしやう)の池(いけ)を湛(たた)へたり。神明(しんめい)納受(なふじゆ)したまはゞ、所願(しよぐわん)なんぞ成就(じやうじゆ)せざらん。仰(あふ)ぎ願(ねが)はくは、十二所権現(じふにしよごんげん)、利生(りしやう)の翼(つばさ)を並(なら)べて、遥(はる)かに苦海(くかい)の空(そら)にかけり、左遷(させん)の愁(うれへ)を息(やす)めて、帰洛(きらく)の本懐(ほんくわい)を遂(と)げしめたまへ。

再拝(さいはい)」

 とぞ康頼(やすより)祝言(しゆくごん)をばまうしける。

卒都婆流

 丹波少将(たんばのせうしやう)康頼(やすより)入道(にふだう)、常(つね)は三所権現(さんしよごんげん)の御前(ごぜん)にまゐって、通夜(つや)する折(を)りもありけり。ある時(とき)二人(ふたり)通夜(つや)して、夜(よ)もすがら今様(いまやう)をぞ歌(うた)ひける。暁方(あけがた)に康頼(やすより)入道(にふだう)、ちと目睡(まどろ)みたる夢(ゆめ)に、沖(おき)より白(しろ)い帆(ほ)掛(か)けたる小舟(こぶね)を一艘(いつさう)漕(こ)ぎ寄(よ)せて、舟(ふね)の中(なか)より紅(くれなゐ)の袴(はかま)きたる女房(にようばう)、二三十人(にさんじふにん)あがり、鼓(つづみ)を打(う)ち声(こゑ)を調(ととの)へて、

万(よろづ)の仏(ほとけ)の願(ねが)ひよりも、千手(せんじゆ)の誓(ちか)ひぞたのもしき、枯(か)れたる草木(さうもく)もたちまちに、花(はな)さき実(み)なるとこそきけ。

 と三返(さんべん)歌(うた)ひ澄(す)まして、掻(か)きけすやうにぞ失(う)せにける。夢(ゆめ)覚(さ)めて後(のち)、奇異(きい)の思(おも)ひをなし、康頼(やすより)入道(にふだう)まうしけるは、

「これは竜神(りうじん)の化現(けげん)と覚(おぼ)えたり。三所権現(さんしよごんげん)のうちに、西(にし)の御前(ごぜん)とまうすは、本地(ほんぢ)千手観音(せんじゆくわんおん)にておはします。竜神(りうじん)はすなはち千手(せんじゆ)の廿八部衆(にじふはちぶしゆ)のその一(いち)なれば、もって御納受(ごなふじゆ)こそ頼(たの)もしけれ」

 またある夜(よ)二人(ふたり)通夜(つや)して同(おな)じう目睡(まどろ)みたりける夢(ゆめ)に、沖(おき)より吹(ふ)き来(く)る風(かぜ)の、二人(ふたり)が袂(たもと)に木(き)の葉(は)を二(ふた)つ吹(ふ)き懸(か)けたりけるを、なんとなう取(と)って見(み)ければ、御(おん)熊野(くまの)の南木(なぎ)の葉(は)にてぞありける。かの二(ふたつ)の南木(なぎ)の葉(は)に一首(いつしゆ)の歌(うた)を虫(むし)くひにこそしたりけれ。

ちはやぶる神(かみ)にいのりの繁(しげ)ければ、などか都(みやこ)へ帰(かへ)らざるべき。

 康頼(やすより)入道(にふだう)、ふるさとの恋(こひ)しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本(せんぼん)の卒都婆(そとば)を作(つく)り、キリーク字(じ)の梵字(ぼんじ)、年号(ねんがう)月日(つきひ)、かな、実名(じつみやう)、二首(にしゆ)の歌(うた)をぞ書(か)きたりける。

薩摩潟(さつまがた)沖(おき)の小島(こじま)にわれありと、親(おや)には告(つ)げよ八重(やへ)の汐風(しほかぜ)。

思(おも)ひやれしばしと思(おも)ふ旅(たび)だにも、なほふるさとはこひしき物(もの)を。

 これを浦(うら)に持(も)って出(い)でて、

「南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)、梵天帝釈(ぼんてんたいしやく)、四大天王(しだいてんわう)、けんろう地神(ぢしん)、王城(わうじやう)の鎮守(ちんじゆ)諸(もろ)大明神(だいみやうじん)殊(こと)には熊野権現(くまのごんげん)、厳島(いつくしま)大明神(だいみやうじん)、せめては一本(いつぽん)なりとも、都(みやこ)へ伝(つた)へてたべ」

 とて、沖(おき)つ白波(しらなみ)の、よせては帰(かへ)る度毎(たびごと)に、卒都婆(そとば)を海(うみ)にぞ浮(う)かべける。卒都婆(そとば)を造(つく)り出(いだ)すにしたがって、海(うみ)に入(い)れければ、日数(ひかず)の積(つ)もれば、卒都婆(そとば)の数(かず)もつもりけり。その思(おも)ふ心(こころ)や便(びん)の風(かぜ)とも成(な)ったりけむ。また神明(しんめい)仏陀(ぶつだ)もや送(おく)らせたまひけむ。

 千本(せんぼん)の卒都婆(そとば)のなかに、一本(いつぽん)、安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の大明神(だいみやうじん)の御前(ごぜん)の渚(なぎさ)に打(う)ちあげたり。こゝに康頼(やすより)入道(にふだう)がゆかりありける僧(そう)、しかるべき便(びん)もあらば、いかにもしてかの島(しま)へ渡(わた)って、その行(おこな)へを聞(き)かむとて、西国修行(さいこくしゆぎやう)に出(い)でたりけるが、まづ厳島(いつくしま)へぞまゐりたり。

 ここに宮人(みやびと)とおぼしくて、狩衣装束(かりぎぬしやうぞく)なる俗(ぞく)、一人(ひとり)出来(いでき)たり。この僧(そう)なんとなき物語(ものがたり)しけるに、

「それ和光同塵(わくわうどうぢん)の利生(りしやう)、やうやうなりとまうせども、いかなりける因縁(いんえん)をもって、この御神(おんかみ)は海漫(かいまん)の鱗(うろくづ)に縁(えん)をば結(むす)ばせたまふらん」

 と問(と)ひたてまつる。宮人(みやびと)答(こた)へけるは、

「これはよな、娑竭羅竜王(しやかつらりうわう)の第三(だいさん)の姫宮(ひめみや)、胎蔵界(たいざうかい)の垂跡(すゐしやく)なり」

 この島(しま)へ御影向(ごやうがう)ありし始(はじ)めより済度利生(さいどりしやう)の今(いま)に至(いた)るまで、甚深奇特(じんじんきどく)のことどもをぞ語(かた)りける。さればにや、八社(はつしや)の御殿(ごでん)甍(いらか)を並(なら)べ、社(やしろ)はわたつみの辺(へん)なれば、汐(しほ)の満乾(みちひ)に月(つき)ぞすむ。汐(しほ)満(み)ち来(く)れば、大鳥居(おほとりゐ)緋(ひ)の玉垣(たまがき)瑠璃(るり)のごとし。

 汐(しほ)引(ひ)きぬれば夏(なつ)の夜(よ)なれど、御前(ごぜん)の白洲(しらす)に霜(しも)ぞおく。いよいよ尊(たふと)く覚(おぼ)えて、法施(ほふせ)まゐらせてゐたりけるに、やうやう日(ひ)暮(く)れ月(つき)差(さ)しいでて、汐(しほ)の満(み)ちけるが、そこはかとなき、藻(も)くづどものゆられける中(なか)に、卒都婆(そとば)の形(かたち)の見(み)えけるを、なんとなう取(と)って見(み)ければ、沖(おき)の小島(こじま)にわれありと、書(か)き流(なが)せる言葉(ことば)なり。

 文字(もんじ)をば彫(ゑ)り入(い)れ刻(きざ)み付(つ)けたりければ、波(なみ)にも洗(あら)はれず、あざあざとしてぞ見(み)えける。

「あな、不思議(ふしぎ)」

 とて、これを笈(おひ)のかたにさし、都(みやこ)へ上(のぼ)り、康頼(やすより)が老母(らうぼ)の尼公(あまぎみ)妻(つま)子(こ)どもが、一条(いちでう)の北(きた)、紫野(むらさきの)といふ処(ところ)に忍(しの)びつゝ住(す)みけるに、見(み)せたりければ、

「さらばこの卒都婆(そとば)が唐(たう)の方(かた)へもゆられ行(ゆ)かで、なにしにこれまで伝(つた)ひ来(き)て、今(いま)さら物(もの)を思(おも)はすらん」

 とぞ悲(かな)しみける。遥(はる)かの叡聞(えいぶん)に及(およ)んで、法皇(ほふわう)これを御覧(ごらん)じて、

「あな無慚(むざん)や、さればいまだこの者(もの)どもは命(いのち)の生(い)きてあるにこそ」

 と、御涙(おんなみだ)を流(なが)させたまふぞ忝(かたじけな)き。小松(こまつ)の大臣(だいじん)の許(もと)へ送(おく)らせたまひたりければ、これを父(ちち)の入道相国(にふだうしやうこく)に見(み)たてまつりたまふ。柿本人丸(かきのもとのひとまる)は、島(しま)がくれ行(ゆ)く舟(ふね)を思(おも)ひ、山辺赤人(やまべのあかひと)は、蘆辺(あしべ)の田鶴(たづ)をながめたまふ。住吉明神(すみよしみやうじん)は、かたそぎの思(おも)ひをなし、三輪明神(みわみやうじん)は、杉(すぎ)立(た)てる門(もん)をさす。

 昔(むかし)素盞嗚尊(そさのをのみこと)、三十一字(さんじふいちじ)の和歌(わか)を始(はじ)めおきたまひしより以来(いらい)、もろもろの神明(しんめい)仏陀(ぶつだ)も、かの詠吟(えいぎん)をもって、百千万端(ひやくせんまんたん)の思(おも)ひを述(の)べたまふ。入道(にふだう)も岩木(いはき)ならねば、さすが哀(あはれ)げにぞのたまひける。

蘇武

 入道相国(にふだうしやうこく)の憐(あは)れみたまふ上(うへ)は、京中(きやうぢゆう)の上下(じやうげ)、老(お)いたるも若(わか)きも、鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)の歌(うた)とて、口(くち)ずさまぬはなかりけり。さても千本(せんぼん)まで造(つく)り出(いだ)せる卒都婆(そとば)なれば、さこそは小(ちひ)さうもありけめ。薩摩潟(さつまがた)より遥々(はるばる)と、都(みやこ)まで伝(つた)はりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。

 余(あま)りに思(おも)ふことはかく験(しるし)あるにや。昔(むかし)漢王(かんわう)胡国(ここく)を攻(せ)められけるに、始(はじ)めは李少卿(りせうけい)を大将軍(たいしやうぐん)にて、三十万騎(さんじふまんぎ)むけられたりけるが、漢王(かんわう)の軍(いくさ)弱(よわ)く、胡国(ここく)の戦(いくさ)強(つよ)して、官軍(くわんぐん)みな討(う)ち滅(ほろ)ぼさる。あまつさへ大将軍(たいしやうぐん)李少卿(りせうけい)、胡王(こわう)のために生擒(いけど)らる。

 次(つぎ)に蘇武(そぶ)を大将軍(たいしやうぐん)にて、五十万騎(ごじふまんぎ)を向(む)けらる。なほ漢(かん)の軍(いくさ)弱(よわ)く夷(えびす)の戦(いくさ)強(つよ)して官軍(くわんぐん)みな滅(ほろ)びにけり。兵(つはもの)六千余人(ろくせんよにん)生擒(いけど)らる。その中(なか)に大将軍(たいしやうぐん)蘇武(そぶ)を始(はじ)めとして、むねとの兵(つはもの)六百三十余人(ろつぴやくさんじふよにん)、勝(すぐ)り出(い)だし、一々(いちいち)に片足(かたあし)を切(き)って、追(お)ひ放(はな)つ。

 即死(そくし)する者(もの)もあり、ほどへて死(し)ぬる者(もの)もあり。その中(なか)にされども蘇武(そぶ)は死(し)なざりけり。片足(かたあし)なき身(み)となって、山(やま)に上(のぼ)っては木(き)の実(み)を拾(ひろ)ひ、春(はる)は沢(さは)の根芹(ねぜり)をつみ、秋(あき)は田面(たのも)の落穂(おちぼ)を拾(ひろ)ひなどして露(つゆ)の命(いのち)を過(す)ごしけり。田(た)にいくらもありける鴈(かり)ども、蘇武(そぶ)に見(み)馴(な)れて恐(おそ)れざりければ、これらはみなわがふるさとへ通(かよ)ふ者(もの)ぞかしと懐かし(なつかし)さに、思(おも)ふことを一筆(いつぴつ)書(か)いて、

「相構(あひかま)へてこれ漢王(かんわう)に上(たてまつ)れ」

 といひ含(ふく)め、鴈(かり)の翅(つばさ)に結(むす)びつけてぞ放(はな)ちける。かひがひしくも田面(たのも)の鴈(かり)、秋(あき)はかならずこしぢより都(みやこ)へ通(かよ)ふものなるに、漢(かん)の昭帝(せうてい)上林苑(じやうりんゑん)に御遊(ぎよいう)ありしに、夕(ゆふ)されの空(むな)うす曇(くも)り、なにとなう物(もの)哀(あはれ)なりけるをりふし、一行(いちぎやう)の鴈(かり)飛(と)び渡(わた)る。

 その中(なか)より鴈(かり)一つ(ひとつ)飛(と)びさがって、己(おのれ)が翅(つばさ)に結(むす)び付(つ)けたる玉章(たまづさ)をくひ切(き)ってぞ落(お)としける。官人(くわんにん)これを取(と)って、御門(みかど)に上(たてまつ)る。披(ひら)いて叡覧(えいらん)あれば、

「昔(むかし)は巌窟(がんくつ)の洞(ほら)に籠(こも)られて、三春(さんしゆん)の愁歎(しうたん)を送(おく)り、今(いま)は曠田(くわうでん)の畝(うね)に捨(す)てられて、胡狄(こてき)の一足(いつそく)となれり。たとひ骸(かばね)は胡(こ)の地(ち)に散(さん)ずるといふとも、魂(たましひ)は二度(ふたたび)君辺(くんぺん)に仕(つか)へん」

 とぞ書(か)きたりける。それよりしてぞ文(ふみ)をば鴈書(がんしよ)ともいひ、鴈札(がんさつ)とも名付(なづ)けたる。

「あな無慚(むざん)や蘇武(そぶ)が誉(ほまれ)の跡(あと)なりけり。いまだ胡国(ここく)にあるにこそ」

 とて、今度(こんど)は李広(りくわう)といふ将軍(しやうぐん)におほせて、百万騎(ひやくまんぎ)を差(さ)し遣(つか)はす。今度(こんど)は漢(かん)の戦(いくさ)強(つよ)くして、胡国(ここく)の軍(いくさ)破(やぶ)れにけり。御方(みかた)戦(いくさ)勝(か)ちぬと聞(き)こえしかば、蘇武(そぶ)は曠野(くわうや)の中(なか)より這(は)ひ出(い)でて、

「これこそ昔(むかし)の蘇武(そぶ)よ」

 と名乗(なの)る。十九年(じふくねん)の星霜(せいさう)を送(おく)って、片足(かたあし)は切(き)れながら、輿(こし)に舁(か)かれて、ふるさとへぞ帰(かへ)りける。蘇武(そぶ)十六(じふろく)の歳(とし)より胡国(ここく)へ向(む)けられけるに、御門(みかど)より賜(たまは)りたりける旗(はた)をばなんとしてかかくしたりけん、身(み)を放(はな)たず持(も)ちたりけり。

 今(いま)取(と)り出(い)だして御門(みかど)の見参(げんざん)に入(い)りたりければ、君(きみ)も臣(しん)も感嘆(かんたん)なのめならず。君(きみ)のため大功(たいこう)ならびなかりしかば、大国(たいこく)あまた賜(たまは)り、その上(うへ)典属国(てんぞくこく)といふ司(つかさ)を下(くだ)されけるとぞ聞(き)こえし。李少卿(りせうけい)は、胡国(ここく)に留(と)まって、つひに帰(かへ)らず。

 いかにもして漢朝(かんてう)へ帰(かへ)らんとのみ歎(なげ)けども、胡王(こわう)許(ゆる)さねば叶(かな)はず。漢王(かんわう)これをば知(し)りたまはず、君(きみ)のために不(ふ)忠(ちゆう)の者(もの)なりとて、はかなくなれる二親(ふたおや)の骸(かばね)を掘(ほ)り起(お)こして打(う)たせらる。その外(ほか)六親(ろくしん)をみな罪(ざい)せらる。李少卿(りせうけい)この由(よし)を伝(つた)へ聞(き)いて、恨(うら)み深(ふか)うぞ成(な)りにける。

 君(きみ)に不(ふ)忠(ちゆう)なきやうを一巻の書(いつくわんのしよ)に作(つく)ってまゐらせたりければ、

「さては不愍(ふびん)のことごさんなれ」

 とて、父母(ぶも)が骸(かばね)を掘(ほ)りいだいて打(う)たせられたることをぞ、悔(くや)しみたまひける。漢家(かんか)の蘇武(そぶ)は、書(しよ)を鴈(かり)の翅(つばさ)に付(つ)けて旧里(きうり)へ送(おく)り、本朝(ほんてう)の康頼(やすより)は、浪(なみ)の便(びん)に歌(うた)をふるさとに伝(つた)ふ。かのは一筆(いつぴつ)のすさみ、これは二首(にしゆ)の歌(うた)、かのは上代(じやうだい)、これは末代(まつだい)、胡国(ここく)、鬼界(きかい)が島(しま)、境(さかひ)を隔(へだ)て、世々(よよ)は替(か)はれども、風情(ふぜい)は同(おな)じ風情(ふぜい)。

 ありがたかりしことどもなり。

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