『平家物語』第1巻 原文全文

目次

祇園精舎

 祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声(こゑ)、諸行無常(しよぎやうむじやう)の響(ひび)きあり。娑羅双樹(しやらさうじゆ)の花(はな)の色(いろ)、盛者必衰(じやうしやひつすい)のことわりをあらはす。おごれる人(ひと)も久(ひさ)しからず、ただ春(はる)の夜(よ)の夢(ゆめ)のごとし。たけき者(もの)もつひにほろびぬ、ひとへに風(かぜ)の前(まへ)の塵(ちり)に同(おな)じ。遠(とほ)く異朝(いてう)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(てうかう)、漢(かん)の王莽(わうまう)、梁(りやう)の周伊(しうい)、唐(たう)の禄山(ろくさん)、これらはみな旧主先皇(きうしゆせんくわう)の政(まつりごと)にもしたがはず、楽(たの)しみをきはめ、諫(いさ)めをおもひいれず、天下(てんが)のみだれむことをさとらずして、民間(みんかん)の愁(うれ)ふるところをしらざりしかば、久(ひさ)しからずして亡(ぼう)じし者(もの)どもなり。近(ちか)く本朝(ほんてう)をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(よしちか)、平治(へいぢ)の信頼(のぶより)、これらはおごれる心(こころ)もたけきこともみなとりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅(ろくはら)の入道(にふだう)、前(さきの)太政大臣(だいじやうだいじん)平朝臣(たひらのあそん)清盛公(きよもりこう)と申(まう)し人(ひと)のありさま、伝(つた)へうけたまはるこそ心(こころ)も詞(ことば)も及(およ)ばれね。

 その先祖(せんぞ)を尋(たづ)ぬれば、桓武天皇(くわんむてんわう)第五(だいご)の皇子(わうじ)、一品(いつぽん)式部卿(しきぶきやう)葛原親王(かづらはらしんわう)九代(きうだい)の後胤(こういん)讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(まご)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛朝臣(ただもりのあそん)の嫡男(ちやくなん)なり。かの親王(しんわう)の御子(みこ)、高視王(たかみのわう)無官無位(むくわんむゐ)にして、うせたまひぬ。その御子(みこ)高望(たかもち)の王(わう)のとき始(はじ)めて平(たひら)の姓(しやう)をたまひて、上総介(かづさのすけ)になりたまひしより、たちまちに王氏(わうし)を出(い)でて人臣(じんしん)につらなる。その子(こ)鎮守府将軍(ちんじゆふしやうぐん)義茂(よしもち)後(のち)には国香(くにか)とあらたむ。国香(くにか)より正盛(まさもり)に至(いた)るまで、六代(ろくだい)は諸国(しよこく)の受領(じゆりやう)たりしかども、殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき)をばいまだゆるされず。

殿上闇討

 しかるを忠盛(ただもり)備前守(びぜんのかみ)たりしとき、鳥羽院(とばのゐん)の御願(ごぐわん)得長寿院(とくちやうじゆゐん)を造進(ざうしん)して三十三間(さんじふさんげん)の御堂(みだう)をたて、一千一体(いつせんいつたい)の御仏(みほとけ)をすゑたてまつる。供養(くやう)は天承元年(てんじようぐわんねん)三月(さんぐわつ)十三日(じふさんにち)なり。勧賞(けんじやう)には欠国(けつこく)をたまふべき由(よし)おほせ下(くだ)されける。境節(をりふし)但馬国(たぢまのくに)のあきたりけるをたまひにけり。上皇(しやうくわう)御感(ぎよかん)のあまりに内(うち)の昇殿(しようでん)をゆるさる。忠盛(ただもり)三十六(さんじふろく)にて始(はじ)めて昇殿(しようでん)す。雲(くも)の上人(うへびと)これを嫉(そね)み、同(おな)じき年(とし)の十一月(じふいちぐわつ)廿三日(にじふさんにち)、五節(ごせち)豊明(とよのあかり)の節会(せちゑ)の夜(よ)、忠盛(ただもり)を闇(やみ)討(う)ちにせむとぞ擬(ぎ)せられける。忠盛(ただもり)これを伝(つた)へ聞(き)きて、

「われ右筆(うひつ)の身(み)にあらず、武勇(ぶゆう)の家(いへ)に生(う)まれて、今(いま)不慮(ふりよ)の恥(はぢ)にあはむこと、家(いへ)のため、身(み)のため、こころうかるべし。せむずるところ、身(み)を全(まつた)うして君(きみ)に仕(つか)ふといふ本文(ほんもん)あり」

 とて、兼(か)ねて用意(ようい)をいたす。参内(さんだい)のはじめより大(おほ)きなる鞘巻(さやまき)を用意(ようい)して束帯(そくたい)のしたにしどけなげにさし、火(ひ)のほのくらき方(かた)にむかひて、やはら、この刀(かたな)をぬき出(い)だし、鬢(びん)にひきあてられけるが、氷(こほり)などのやうにぞみえける。諸人(しよにん)目(め)をすましけり。その上(うへ)忠盛(ただもり)の郎等(らうどう)もとは一門(いちもん)たりし木工助(もくのすけ)平貞光(たひらのさだみつ)が孫(まご)しんの三郎太夫(さぶらうたいふ)家房(いへふさ)が子(こ)、左兵衛尉(さひやうゑのじよう)家貞(いへさだ)といふ者(もの)ありけり。薄青(うすあを)の狩衣(かりぎぬ)の下(した)に萌黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)をき、弦袋(つるぶくろ)つけたる太刀(たち)脇(わき)はさんで、殿上(てんじやう)の小庭(こには)にかしこまりてぞさうらひける。貫首(くわんじゆ)以下(いげ)あやしみをなし、

「うつぼ柱(はしら)よりうち、鈴(すず)の綱(つな)のへんに布衣(ほうい)の者(もの)のさうらふはなにものぞ。狼藉(らうぜき)なり。まかり出(い)でよ」

 と、六位(ろくゐ)をもていはせければ、家貞(いへさだ)申(まう)しけるは

「相伝(さうでん)の主(しゆう)、備前守(びぜんのかみ)殿(どの)今夜(こんや)闇(やみ)討(う)ちにせられたまふべき由(よし)うけたまはりさうらふあひだ、それならむやうを見(み)むとて、かくてさうらふ。えこそまかり出(い)づまじけれ」

 とてかしこまりてさうらひければ、これらをよしなしとやおもはれけん、その夜(よ)の闇(やみ)討(う)ちなかりけり。

 忠盛(ただもり)御前(ごぜん)のめしにまはれければ、人々(ひとびと)拍子(ひやうし)をかへて

「伊勢平氏(いせへいし)はすがめなりけり」

 とぞはやされける。この人々(ひとびと)はかけまくもかたじけなく柏原天皇(かしはばらてんわう)の御末(おんすゑ)とは申(まう)しながら、中比(なかごろ)は都(みやこ)の住居(すまひ)もうとうとしく、地下(ぢげ)にのみ振(ふ)る舞(ま)ひなれて伊勢国(いせのくに)に仕国(ぢうこく)ふかかりしかば、その国(くに)の器(うつはもの)にことよせて、伊勢平氏(いせへいし)とぞ申(まう)しける。そのうへ忠盛(ただもり)目(め)のすがまれたりければ、かやうにはやされけり。いかにすべきやうもなくして、御遊(ぎよいう)もいまだをはらざるに、ひそかにまかり出(い)でらるとて、よこたへさされたりける刀(かたな)をば紫宸殿(ししんでん)の御後(おんうしろ)にして、かたへの殿上人(てんじやうびと)のみられける所(ところ)にて、主殿司(とのもづかさ)をめしてあづけ置(お)きてぞ出(い)でられける。家貞(いへさだ)待(ま)ちうけたてまつって、

「さていかがさうらひつる」

 と申(まう)しければ、かくともいはまほしう思(おも)はれけれども、いひつるものならば、殿上(てんじやう)までもやがてきりのぼらんずる者(もの)にてあるあひだ、

「別(べつ)のこともなし」

 とぞ答(こた)へられける。

 五節(ごせち)には、

「白薄様(しろうすやう)、こぜむじの紙(かみ)、巻上(まきあげ)の筆(ふで)、鞆絵(ともゑ)ゑがいたる筆(ふで)の軸(ぢく)」

 なんどさまざま面白(おもしろ)きことをのみこそうたひまはるるに、中比(なかごろ)太宰権帥(だざいのごんのそつ)季仲卿(すゑなかのきやう)といふ人(ひと)ありけり。あまりに色(いろ)のくろかりければ、見(み)る人(ひと)黒帥(くろそつ)とぞ申(まう)しける。その人(ひと)いまだ蔵人頭(くらうどのとう)なりしとき、五節(ごせち)にまはれければ、それも拍子(ひやうし)をかへて、

「あなくろぐろ、くろき頭(かしら)かな。いかなる人(ひと)のうるしぬりけむ」

 とぞはやされける。また花山院(くわざんのゐん)前(さきの)太政大臣(だいじやうだいじん)忠雅公(ただまさこう)、いまだ十歳(じつさい)と申(まう)しとき、父(ちち)中納言(ちゆうなごん)忠宗卿(ただむねのきやう)におくれたてまつって孤(みなしご)にておはしけるを、故(こ)中御門(なかのみかど)藤中納言(とうちゆうなごん)家成卿(いへなりのきやう)いまだ播磨守(はりまのかみ)たりしとき、婿(むこ)に執(と)りて、声花(せいくわ)にもてなされければ、それも五節(ごせち)に

「播磨米(はりまよね)はとくさか、むくの葉(は)か、人(ひと)のきらをみがくは」

 とぞはやされける。上古(しやうこ)にはかやうにありしかどもこといでこず。末代(まつだい)いかがあらんずらむ、おぼつかなしとぞ人(ひと)申(まう)しける。

 案(あん)のごとく五節(ごせち)はてにしかば、殿上人(てんじやうびと)一同(いちどう)に申(まう)されけるは、

「それ雄剣(ゆうけん)を帯(たい)して公宴(こうえん)に列(れつ)し、兵仗(ひやうぢやう)をたまひて、宮中(きゆうちゆう)を出入(しゆつにふ)するはみな格式(きやくしき)の礼(れい)をまもる綸命(りんめい)よしある先規(せんき)なり。しかるを忠盛朝臣(ただもりのあそん)あるいは相伝(さうでん)の郎従(らうじゆう)と号(がう)して布衣(ほうい)の兵(つはもの)を殿上(てんじやう)の小庭(こには)にめしおき、あるいは腰(こし)の刀(かたな)を横(よこ)たへさいて節会(せちゑ)の座(ざ)につらなる。両条(りやうでう)希代(きたい)いまだきかざる狼藉(らうぜき)なり。ことすでに重畳(ぢゆうでふ)せり。罪科(ざいくわ)尤(もつと)ものがれがたし。早(はや)く御札(おんふだ)をけづって欠官停任(けつくわんちやうにん)せらるべき由(よし)」

 おのおの訴(うつた)へ申(まう)されければ、上皇(しやうくわう)大(おほ)いに驚(おどろ)きおぼしめし、忠盛(ただもり)をめしておんたづねあり。陳(ちん)じ申(まう)しけるは、

「まづ郎従(らうじゆう)小庭(こには)に祗候(しこう)の由(よし)、全(まつた)く覚悟(かくご)つかまつらず。ただし、近日(きんじつ)人々(ひとびと)あひたくまるる旨(むね)子細(しさい)あるかの間(あひだ)、年来(ねんらい)の家人(けにん)、ことをつたへきくかによってその恥(はぢ)をたすけむがために、忠盛(ただもり)にしられずしてひそかにまゐりさうらふの条(でう)力(ちから)及(およ)ばざる次第(しだい)なり。もしなほその咎(とが)あるべくば、かの身(み)をめししんずべきか。次(つぎ)に刀(かたな)のこと、主殿司(とのもづかさ)に預(あづ)け置(お)きをはぬ。これをめし出(い)だされ刀(かたな)の実否(じつぷ)について咎(とが)の左右(さいう)あるべきか」

 と申(まう)す。しかるべしとて、その刀(かたな)をめし出(い)だして叡覧(えいらん)あれば、上(うへ)は鞘巻(さやまき)のくろくぬりたりけるが、中(なか)は木刀(きがたな)に銀薄(ぎんぱく)をぞおしたりける。

「当座(たうざ)の恥辱(ちじよく)をのがれんために刀(かたな)を帯(たい)する由(よし)あらはすといへども、後日(ごにち)の訴訟(そしよう)を存知(ぞんぢ)して、木刀(きがたな)を帯(は)きしける用意(ようい)のほどこそ神妙(しんめう)なれ。弓箭(きゆうせん)に携(たづさ)はらむ者(もの)のはかりごとは尤(もつとも)かうこそあらまほしけれ。兼(か)ねてはまた郎従(らうじゆう)小庭(こには)に祗候(しこう)の条(でう)かつは武士(ぶし)の郎等(らうどう)のならひなり。忠盛(ただもり)が咎(とが)にあらず」

 とてかへって叡感(えいかん)にあづかりしうへはあへて罪科(ざいくわ)の沙汰(さた)もなかりけり。

鱸

 その子(こ)どもは諸衛(しよゑ)の佐(すけ)になり、昇殿(しようでん)せしに殿上(てんじやう)のまじはりを人(ひと)きらふに及(およ)ばず。

 そのころ、忠盛(ただもり)、備前国(びぜんのくに)より都(みやこ)へのぼりたりけるに、鳥羽院(とばのゐん)

「明石浦(あかしのうら)はいかに」

 とおんたづねありければ、

あり明(あ)けの月(つき)もあかしのうら風(かぜ)に、浪(なみ)ばかりこそよると見(み)えしか。

 と申(まう)したりければ、御感(ぎよかん)ありけり。この歌(うた)は金葉集(きんえふしふ)にぞ入(い)られける。

 忠盛(ただもり)また仙洞(せんとう)に最愛(さいあい)の女房(にようばう)をもてかよはれけるが、あるとき、その女房(にようばう)のつぼねに、つまに月(つき)出(い)だしたる扇(あふぎ)をわすれて出(い)でられたりければ、かたへの女房(にようばう)たち

「これはいづくよりの月影(つきかげ)ぞや。出(で)どころおぼつかなし」

 などわらひあはれければ、かの女房(にようばう)、

雲井(くもゐ)よりただもりきたる月(つき)なれば、おぼろげにてはいはじとぞ思(おも)ふ。

 とよみたりければ、いとどあさからずぞおもはれける。薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)の母(はは)、これなり。にるを友(とも)とかやの風情(ふぜい)に忠盛(ただもり)もすいたりければ、かの女房(にようばう)も優(いう)なりけり。かくて忠盛(ただもり)刑部卿(ぎやうぶきやう)になって、仁平(にんぺい)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)十五日(じふごにち)歳(とし)五十八(ごじふはち)にてうせにき。清盛(きよもり)嫡男(ちやくなん)たるによってその迹(あと)をつぐ。

 保元(ほうげん)元年(ぐわんねん)七月(しちぐわつ)に宇治(うぢ)の左府代(さふだい)をみだりたまひしとき、安芸守(あきのかみ)とて御方(みかた)にて勲功(くんこう)ありしかば、播磨守(はりまのかみ)にうつって同(どう)三年(さんねん)太宰大弐(だざいのだいに)になる。次(つぎ)に平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、信頼(のぶより)卿(きやう)が謀反(むほん)のとき、御方(みかた)にて賊徒(ぞくと)をうちたひらげ、勲功(くんこう)一(いち)にあらず、恩賞(おんしやう)これおもかるべしとて、次(つぎ)の年(とし)正三位(しやうさんみ)に叙(じよ)せられ、うちつづき、宰相(さいしやう)、衛府督(ゑふのかみ)、検非違使別当(けびゐしのべつたう)、中納言(ちゆうなごん)、大納言(だいなごん)に歴(へ)てあがって、あまつさへ丞相(じようしやう)の位(くらゐ)にいたり、左右(さいう)を歴(へ)ずして内大臣(ないだいじん)より太政大臣(だいじやうだいじん)従一位(じゆいちゐ)にあがる。大将(だいしやう)にあらねども、兵仗(ひやうぢやう)をたまはって随身(ずいじん)をめし具(ぐ)す。牛車(ぎつしや)輦車(れんしや)の宣旨(せんじ)をかうぶりて、のりながら宮中(きゆうちゆう)を出入(しゆつにふ)す。ひとへに執政(しつせい)の臣(しん)のごとし。

「太政大臣(だいじやうだいじん)は一人(ひとり)に師範(しはん)として四海(しかい)に儀刑(ぎけい)せり。国(くに)を治(をさ)め、道(みち)を論(ろん)じ、陰陽(いんやう)をやはらげをさむ。その人(ひと)にあらずばすなはち欠(か)けよ」

 といへり。されば則欠(そくけつ)の官(くわん)とも名(な)付(づ)けたり。その人(ひと)ならではけがすべき官(くわん)ならねども、一天(いつてん)四海(しかい)を掌(たなごころ)の内(うち)ににぎられしうへは子細(しさい)に及(およ)ばず。

 平家(へいけ)かやうに繁昌(はんじやう)せられけるも熊野権現(くまのごんげん)の御利生(ごりしやう)とぞきこえし。その故(ゆゑ)は、古(いにしへ)へ清盛公(きよもりこう)、いまだ安芸守(あきのかみ)たりしとき、伊勢(いせ)の海(うみ)より船(ふね)にて熊野(くまの)へまゐられけるに、大(おほ)きなる鱸(すずき)の船(ふね)にをどり入(い)りたりけるを、先達(せんだつ)申(まう)しけるは、

「これは権現(ごんげん)の御利生(ごりしやう)なり。いそぎまゐるべし」

 と申(まう)しければ、清盛(きよもり)のたまひけるは、

「昔(むかし)、周(しう)の武王(ぶわう)の船(ふね)にこそ白魚(はくぎよ)は躍(をど)り入(い)りたりけるなれ。これ吉事(きちじ)なり」

 とて、さばかり十戒(じつかい)をたもちて、精進潔斎(しやうじんけつさい)の道(みち)なれども、調味(てうみ)して家(いへ)の子(こ)、侍(さぶらひ)ともにくはせられけり。その故(ゆゑ)にや吉事(きちじ)のみうちつづいて太政大臣(だいじやうだいじん)まできはめたまへり。子孫(しそん)の官途(くわんど)も竜(りう)の雲(くも)に上(のぼ)るよりはなほすみやかなり。九代(きうだい)の先蹤(せんしよう)をこえたまふこそ目出(めで)たけれ。

禿髪

 かくて清盛公(きよもりこう)、仁安(にんあん)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)十一日(じふいちにち)歳(とし)五十一(ごじふいち)にて病(やまひ)にをかされ、存命(ぞんめい)のためにたちまちに出家(しゆつけ)入道(にふだう)す。法名(ほふみやう)は浄海(じやうかい)とこそなのられけれ。そのしるしにや、宿病(しゆくびやう)たちどころにいえて、天命(てんめい)を全(まつた)うす。人(ひと)のしたがひつくこと吹(ふ)く風(かぜ)の草木(さうもく)をなびかすがごとし。世(よ)のあまねく仰(あふ)げることふる雨(あめ)の国土(こくど)をうるほすに同(おな)じ。

 六波羅(ろくはら)殿(どの)の御一家(ごいつけ)の君達(きんだち)といひてしかば、花族(くわぞく)も英雄(えいゆう)も面(おもて)をむかへ肩(かた)をならぶる人(ひと)なし。されば入道(にふだう)相国(しやうこく)のこしうと、平大納言(へいだいなごん)時忠卿(ときただのきやう)ののたまひけるは

「この一門(いちもん)にあらざらむ人(ひと)はみな人非人(にんぴにん)なるべし」

 とぞのたまひける。かかりしかば、いかなる人(ひと)も相構(あひかま)へてそのゆかりにむすぼほれんとぞしける。衣文(えもん)のかきやう烏帽子(えぼし)のためやうよりはじめて何事(なにごと)も六波羅(ろくはら)やうといひてければ、一天(いつてん)四海(しかい)の人(ひと)みなこれをまなぶ。

 またいかなる賢王(けんわう)聖主(せいしゆ)の御政(おんまつりごと)も摂政(せつしやう)関白(くわんぱく)の御成敗(ごせいばい)も世(よ)にあまされたるいたづら者(もの)などの、人(ひと)のきかぬ処(ところ)にてなにとなうそしり傾(かたぶ)け申(まう)すことは常(つね)の習(なら)ひなれども、この禅門(ぜんもん)世(よ)ざかりのほどはいささかいるかせにも申(まう)す者(もの)なし。その故(ゆゑ)は入道(にふだう)相国(しやうこく)のはかりごとに十四五六(じふしごろく)の童部(わらはべ)を三百人(さんびやくにん)そろへて、髪(かみ)をかぶろにきりまはし、あかき直垂(ひたたれ)をきせて、めしつかはれけるが、京中(きやうぢゆう)にみちみちて、往反(わうへん)しけり。おのづから平家(へいけ)のことあしざまに申(まう)す者(もの)あれば、一人(ひとり)きき出(い)ださぬほどこそありけれ、余党(よたう)に触(ふ)れ回(まは)して、その家(いへ)に乱入(らんにふ)し資材雑具(しざいざふぐ)を追捕(ついぶ)し、その奴(やつ)を搦(から)めとりて、六波羅(ろくはら)へゐてまゐる。されば目(め)に見(み)、心(こころ)に知(し)るといへども、詞(ことば)にあらはれて申(まう)す者(もの)なし。六波羅(ろくはら)殿(どの)の禿(かぶろ)といひてしかば、道(みち)をすぐる馬車(うまくるま)もよぎてぞ、通(とほ)りける。禁門(きんもん)を出入(しゆつにふ)すといへども姓名(せいめい)を尋(たづ)ねらるるに及(およ)ばず、京師(けいし)の長吏(ちやうり)これがために目(め)を側(そば)むとみえたり。

吾身栄花

 わがみの栄花(えいぐわ)を極(きは)むるのみならず、一門(いちもん)ともに繁昌(はんじやう)して、嫡子(ちやくし)重盛(しげもり)、内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)、次男(じなん)宗盛(むねもり)、中納言(ちゆうなごん)の右大将(うだいしやう)、三男(さんなん)知盛(とももり)、三位中将(さんみのちゆうじやう)、嫡孫(ちやくそん)維盛(これもり)、四位少将(しゐのせうしやう)、すべて一門(いちもん)の公卿(くぎやう)十六人(じふろくにん)、殿上人(てんじやうびと)三十余人(さんじふよにん)、諸国(しよこく)の受領(じゆりやう)、衛府(ゑふ)、諸司(しよし)、都合(つがふ)六十余人(ろくじふよにん)なり。世(よ)にはまた人(ひと)なくぞ見(み)えられける。

 昔(むかし)奈良(なら)の御門(みかど)の御時(おんとき)、神亀(じんき)五年(ごねん)、朝家(てうか)に中衛(ちゆうゑ)の大将(だいしやう)をはじめおかれ、大同四年(だいどうしねん)に中衛(ちゆうゑ)を近衛(こんゑ)と改(あらた)められしよりこのかた、兄弟(きやうだい)左右(さいう)に相(あひ)並(なら)ぶことわづかに三四箇度(さんしかど)なり。文徳天皇(もんとくてんわう)の御時(おんとき)は左(ひだり)に良房(よしふさ)右大臣(うだいじん)左大将(さだいしやう)、右(みぎ)に良相(よしみ)、大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)、これは閑院(かんゐん)の左大臣(さだいじん)冬嗣(ふゆつぐ)の御子(みこ)なり。朱雀院(しゆじやくゐん)の御宇(ぎよう)には左(ひだり)に実頼(さねより)、小野宮(をののみや)殿(どの)、右(みぎ)に師輔(もろすけ)、九条(くでう)殿(どの)、貞信公(ていしんこう)の御子(みこ)なり。御冷泉院(ごれいぜいゐん)の御時(おんとき)は、左(ひだり)に教通(のりみち)、大二条(おほにでう)殿(どの)、右(みぎ)に頼宗(よりむね)、堀河(ほりかは)殿(どの)、御堂(みだう)の関白(くわんぱく)の御子(みこ)なり。二条院(にでうゐん)の御宇(ぎよう)には左(ひだり)に基房(もとふさ)、松殿(まつどの)、右(みぎ)に兼実(かねざね)、月輪殿(つきのわどの)、法性寺(ほつしやうじ)殿(どの)の御子(みこ)なり。これみな摂籙(せつろく)の臣(しん)の御子息(ごしそく)、凡人(ぼんにん)にとりてはその例(ためし)なし。殿上(てんじやう)の交(まじ)はりをだにきらはれし人(ひと)の子孫(しそん)にて禁色雑袍(きんじきざつぱう)をゆり、綾羅錦繍(りようらきんしう)を身(み)にまとひ、大臣(だいじん)大将(だいしやう)になって、兄弟(きやうだい)、左右(さいう)に相(あひ)並(なら)ぶこと、末代(まつだい)とはいひながら不思議(ふしぎ)なりしことどもなり。

 その外(ほか)御娘(おんむすめ)八人(はちにん)おはしき。みなとりどりに幸(さいは)ひたまへり。一人(ひとり)は桜町(さくらまち)の中納言(ちゆうなごん)重教卿(しげのりのきやう)の北(きた)の方(かた)にておはすべかりしが、八歳(はつさい)のとき約束(やくそく)ばかりにて平治(へいぢ)の乱(らん)以後(いご)ひきちがへられ、花山院(くわざんのゐん)の左大臣(さだいじん)殿(どの)の御台盤所(みだいばんどころ)にならせたまひて君達(きんだち)あまたましましけり。

 そもそもこの重教卿(しげのりのきやう)を桜町(さくらまち)の中納言(ちゆうなごん)と申(まう)しけることはすぐれて心数奇(こころすき)たまへる人(ひと)にて、つねは吉野山(よしのやま)をこひ、町(まち)に桜(さくら)をうゑならべ、その内(うち)に屋(や)を立(た)て、すみたまひしかば、来(く)る年(とし)の春(はる)ごとに、みる人(ひと)桜町(さくらまち)とぞ申(まう)しける。桜(さくら)はさいて七箇日(しちかにち)にちるを、名残(なごり)を惜(を)しみ天照御神(あまてらすおんかみ)に祈(いの)り申(まう)されければ、三七日(さんしちにち)まで名残(なごり)ありけり。君(きみ)も賢王(けんわう)にてましませば神(かみ)も神徳(しんとく)を輝(かがや)かし、花(はな)も心(こころ)ありければ、二十日(はつか)の齢(よはひ)をたもちけり。

 一人(ひとり)は后(きさき)にたたせたまふ。王子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ありて皇太子(くわうたいし)に立(た)ち、位(くらゐ)につかせたまひしかば、院号(ゐんがう)かうぶらせたまひて、建礼門院(けんれいもんゐん)とぞ申(まう)しける。入道(にふだう)相国(しやうこく)の御娘(おんむすめ)なるうへ、天下(てんが)の国母(こくも)にてましましければとかう申(まう)すにおよばず。一人(ひとり)は六条(ろくでう)の摂政(せつしやう)殿(どの)の北政所(きたのまんどころ)にならせたまふ。高倉院(たかくらのゐん)御在位(ございゐ)のとき御母代(おんぼだい)とて准三后(じゆさんごう)の宣旨(せんじ)をかうぶり、白河殿(しらかはどの)とておもき人(ひと)にてましましけり。一人(ひとり)は普賢寺(ふげんじ)殿(どの)の北の政所(きたのまんどころ)にならせたまふ。一人(ひとり)は冷泉(れいぜい)大納言(だいなごん)隆房卿(たかふさのきやう)の北方(きたのかた)。一人(ひとり)は七条(しちでう)修理大夫(しゆりのだいぶ)信隆卿(のぶたかのきやう)に相(さう)具(ぐ)したまへり。また安芸国(あきのくに)厳島(いつくしま)の内侍(ないし)が腹(はら)に一人(ひとり)おはせしは、後白河(ごしらかは)の法皇(ほふわう)へまゐらせたまひて女御(にようご)のやうにてぞましましける。その外(ほか)九条院(くでうゐん)の雑仕(ざふし)常葉(ときは)が腹(はら)に一人(ひとり)。これは花山院(くわざんのゐん)殿(どの)に上臈女房(じやうらふにようばう)にて廊(らう)の御方(おんかた)とぞ申(まう)しける。

 日本(につぽん)秋津島(あきつしま)はわづかに六十六箇国(ろくじふろくかこく)、平家(へいけ)知行(ちぎやう)の国(くに)三十(さんじふ)余(よ)箇国(かこく)、すでに半国(はんこく)にこえたり。その外(ほか)荘園田畠(しやうゑんでんぱく)いくらといふ数(かず)をしらず。綺羅(きら)充満(じゆうまん)して、堂上(たうじやう)花(はな)のごとし。軒騎(けんき)群集(ぐんじゆ)して門前市(もんぜんいち)をなす。楊州(やうしう)の金(きん)、荊州(けいしう)の珠(たま)、呉郡(ごぐん)の綾(あや)、蜀江(しよくかう)の錦(にしき)、七珍万宝(しつちんまんぽう)一(ひとつ)として欠(か)けたることなし。歌堂舞閣(かだうぶかく)の基(もとゐ)、魚竜爵馬(ぎよりうしやくば)の翫物(ぐわんぶつ)、恐(おそ)らくは帝闕(ていけつ)も仙洞(せんとう)もこれにはすぎじとぞ見(み)えし。

祇王

 入道(にふだう)相国(しやうこく)、一天(いつてん)四海(しかい)をたなごころのうちににぎりたまひし間(あひだ)、世(よ)のそしりをもはばからず、人(ひと)の嘲(あざけ)りをもかへり見(み)ず、不思議(ふしぎ)のことをのみしたまへり。たとへばそのころ都(みやこ)にきこえたる白拍子(しらびやうし)の上手(じやうず)、祇王(ぎわう)祇女(ぎによ)とて兄弟(きやうだい)あり、とぢといふ白拍子(しらびやうし)が娘(むすめ)なり。姉(あね)の祇王(ぎわう)を入道(にふだう)相国(しやうこく)最愛(さいあい)せられければ、これによって妹(いもうと)の祇女(ぎによ)をも世(よ)の人(ひと)もてなすことなのめならず。母(はは)とぢにもよき屋(や)つくってとらせ、毎月(まいつき)百石百貫(ひやくこくひやくくわん)をおくられければ、家内富貴(かないふつき)してたのしいことなのめならず。

 そもそも我朝(わがてう)に白拍子(しらびやうし)のはじまりけることは、昔(むかし)鳥羽院(とばのゐん)の御宇(ぎよう)に島(しま)の千歳(せんざい)和歌(わか)の前(まへ)とてこれら二人(ふたり)がまひいだしたりけるなり。始(はじ)めは水干(すゐかん)に立烏帽子(たてえぼし)、白(しら)鞘巻(さやまき)をさいて、舞(ま)ひければ、男舞(をとこまひ)とぞ申(まう)しける。さるを中比(なかごろ)より烏帽子(えぼし)、刀(かたな)をのけられ、水干(すゐかん)ばかりをもちゐたり、さてこそ白拍子(しらびやうし)とは名(な)付(づ)けれ。

 京中(きやうぢゆう)の白拍子(しらびやうし)ども祇王(ぎわう)が幸(さいは)ひの目出度(めでた)きやうをきいてうらやむ者(もの)もあり、そねむ者(もの)もありけり。羨(うらや)む者(もの)どもは

「あなめでたの祇王(ぎわう)御前(ごぜん)が幸(さいは)ひや。おなじあそび女(をんな)とならば、たれもみなあのやうでこそありたけれ。いかさまこれは祇(ぎ)といふ文字(もんじ)を名(な)についてかくはめでたきやらん。いざわれらもついて見(み)む」

 とてあるいは祇一(ぎいち)と付(つ)き、祇二(ぎに)と付(つ)き、あるいは祗福(ぎふく)祗徳(ぎとく)などいふ者(もの)もありけり。そねむ者(もの)どもは

「なん条(でう)名(な)により、文字(もんじ)にはよるべき。幸(さいは)ひはただ前世(ぜんぜ)の生(う)まれつきにてこそあんなれ」

 とてつかぬ者(もの)もおほかりけり。

 かくて三年(さんねん)と申(まう)すにまた都(みやこ)にきこえたる白拍子(しらびやうし)の上手(じやうず)一人(ひとり)出(い)で来(き)たり。加賀国(かがのくに)のものなり。名(な)をば仏(ほとけ)とぞ申(まう)しける。年(とし)十六(じふろく)とぞきこえし。

「昔(むかし)よりおほくの白拍子(しらびやうし)ありしかども、かかる舞(まひ)は、いまだ見(み)ず」

 とて京中(きやうぢゆう)の上下(じやうげ)もてなすことなのめならず。仏御前(ほとけごぜん)申(まう)しけるは

「われ天下(てんが)にきこえたれども、当時(たうじ)さしもめでたうさかえさせたまふ平家(へいけ)太政(だいじやう)の入道(にふだう)殿(どの)へめされぬことこそ本意(ほい)なけれ。あそびもののならひ、なにかはくるしかるべき。推参(すゐさん)して見(み)む」

 とて、あるとき西八条(にしはちでう)へぞまゐりたる。人(ひと)まゐって

「当時(たうじ)都(みやこ)にきこえさうらふ仏御前(ほとけごぜん)こそまゐってさうらへ」

 と申(まう)しければ、入道(にふだう)

「なんでうさやうのあそびものは人(ひと)のめしにしたがひてこそまゐれ。左右(さいう)なう推参(すゐさん)するやうやある。祇王(ぎわう)があらん処(ところ)へは神(かみ)ともいへ、仏(ほとけ)ともいへ、かなふまじきぞ。とうとうまかり出(い)でよ」

 とぞのたまひける。仏御前(ほとけごぜん)はすげなういはれたてまつって、すでにいでんとしけるを、祇王(ぎわう)、入道(にふだう)殿(どの)に申(まう)しけるは

「あそび者(もの)の推参(すゐさん)は常(つね)の習(なら)ひでこそさうらへ。その上(うへ)、年(とし)もいまだをさなうさうらふなるが、たまたま思(おも)ひたてまゐりてさうらふを、すげなうおほせられてかへさせたまはんことこそ不(ふ)便(びん)なれ。いかばかりはづかしうかたはらいたくもさうらふらむ。わがたてし道(みち)なれば、人(ひと)の上(うへ)ともおぼえず。たとひ舞(まひ)をごらんじ、歌(うた)をきこしめさずとも、御対面(ごたいめん)ばかりさぶらうてかへさせたまひたらば、ありがたき御情(おんなさけ)でこそさうらはんずれ。ただ理(ことわり)をまげて、めしかへして御対面(ごたいめん)さぶらへ」

 と申(まう)しければ、入道(にふだう)、

「いでいで、我御前(わごぜん)があまりにいふことなれば、見参(げんざん)してかへさむ」

 とてつかひを立(た)てぞめされける。仏御前(ほとけごぜん)はすげなういはれたてまつって車(くるま)に乗(の)ってすでにいでんとしけるが、めされて帰(かへ)りまゐりたり。入道(にふだう)出(い)であひ対(たい)面(めん)して

「今日(けふ)の見参(げんざん)はあるまじかりつるを、祇王(ぎわう)がなにと思(おも)ふやらん、余(あま)りに申(まう)すすむるあひだ、かやうに見参(げんざん)しつ。見参(げんざん)するほどにてはいかで声(こゑ)をもきかであるべきぞ。今様(いまやう)一(ひと)つうたへかし」

 とのたまへば、仏御前(ほとけごぜん)

「うけたまはりさぶらふ」

 とて今様(いまやう)一(ひと)つぞ歌(うた)うたる。

君(きみ)をはじめて見(み)るをりは、千代(せんだい)も歴(へ)ぬべし姫(ひめ)小松(こまつ)、御前(ごぜん)の池(いけ)なる亀(かめ)岡(をか)に、鶴(つる)こそ群(む)れゐて遊(あそ)ぶめれ。

 とおし返(かへ)し返(かへ)し三返(さんべん)歌(うた)ひすましたりければ、見聞(けんもん)の人々(ひとびと)みな耳目(じもく)をおどろかす。入道(にふだう)もおもしろげに思(おも)ひたまひて、

「我御前(わごぜん)は今様(いまやう)は上手(じやうず)でありけるよ。この定(てい)では舞(まひ)も定(さだ)めてよかるらん。一番(いちばん)見(み)ばや。鼓(つづみ)打(う)ちめせ」

 とてめされけり。うたせて一番(いちばん)舞(ま)ひたりけり。

 仏御前(ほとけごぜん)は髪(かみ)姿(すがた)よりはじめてみめ形(かたち)うつくしく声(こゑ)よく節(ふし)も上手(じやうず)でありければ、なじかは舞(まひ)もそんずべき。心(こころ)も及(およ)ばず舞(ま)ひすましたりければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)舞(まひ)にめでたまひて仏(ほとけ)に心(こころ)をうつされけり。仏御前(ほとけごぜん)

「こはされば何事(なにごと)さぶらふぞや。もとよりわらはは、推参(すゐさん)の者(もの)にていだされまゐらせさぶらひしを、祇王(ぎわう)御前(ごぜん)の申(まう)しじやうによってこそめし返(かへ)されてもさうらふに、かやうにめしおかれなば、祇王(ぎわう)御前(ごぜん)の思(おも)ひたまはん心(こころ)のうちはづかしうさぶらふ。はやはや暇(いとま)をたうで出(い)ださせおはしませ」

 と申(まう)しければ、入道(にふだう)、

「すべてその儀(ぎ)あるまじ。ただ祇王(ぎわう)があるをはばかるか。その儀(ぎ)ならば祇王(ぎわう)をこそいださめ」

 とのたまひける。仏御前(ほとけごぜん)

「それまたいかでかさるおんことさうらふべき。諸(もろ)ともにめしおかれんだに心(こころ)ううさうらふべきに、まして祇王(ぎわう)御前(ごぜん)を出(い)ださせたまひて、わらは一人(ひとり)めしおかれなば、祇王(ぎわう)御前(ごぜん)の心(こころ)のうちはづかしうさうらふべし。おのづから後(のち)までわすれぬおんことならば、めされてまたはまゐるとも、今日(けふ)は暇(いとま)をたぶらむ」

 とぞ申(まう)しける。入道(にふだう)

「なんでうその儀(ぎ)あるべき。祇王(ぎわう)とうとうまかり出(い)でよ」

 と御(おん)使(つかひ)かさねて三度(さんど)までこそ立(た)てられけれ。祇王(ぎわう)もとよりおもひ設(まう)けたる道(みち)なれども、さすがに昨日(きのふ)今日(けふ)とは思(おも)ひよらず。いそぎ出(い)づべき由(よし)頻(しき)りにのたまふあひだ、はき拭(のご)ひ、塵(ちり)ひろはせ、見(み)苦(くる)しき物(もの)どもとりしたためて出(い)づべきにこそ定(さだ)まりけれ。一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り合(あ)ひ、同(おな)じ流(なが)れをむすぶだに別(わか)れはかなしき習(なら)ひぞかし。ましてこの三年(さんねん)が間(あひだ)住(す)みなれし処(ところ)なれば、名残(なごり)もをしう悲(かな)しくて、かひなき涙(なみだ)ぞこぼれける。さてもあるべきことならねば、祇王(ぎわう)すでに、今(いま)はかうとて、出(い)でけるが、なからん跡(あと)の忘(わす)れ形見(かたみ)にもとや思(おも)ひけむ、障子(しやうじ)になくなく一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞかきつけける。

萌(もえ)出(い)づるも枯(か)るるも同(おな)じ野辺(のべ)の草(くさ)、いづれか秋(あき)にあはではつべき。

 さて車(くるま)に乗(の)って宿所(しゆくしよ)に帰(かへ)り、障子(しやうじ)の内(うち)に倒(たふ)れ臥(ふ)し、ただ泣(な)くより外(ほか)のことぞなき。母(はは)や妹(いもうと)これをみて

「いかにやいかに」

 ととひけれども、とかうの返事(へんじ)にも及(およ)ばず。具(ぐ)したる女(をんな)に尋(たづ)ねてぞさることありともしりてける。さるほどに毎月(まいつき)に送(おく)られつる百石百貫(ひやくこくひやくくわん)をも今(いま)はとどめられて、仏御前(ほとけごぜん)がゆかりの者(もの)どもぞ、始(はじ)めて、楽(たの)しみ栄(さか)えける。京中(きやうぢゆう)の上下(じやうげ)、

「祇王(ぎわう)こそ入道(にふだう)殿(どの)よりいとまたまはって出(い)でたんなれ。いざ見参(げんざん)して遊(あそ)ばむ」

 とて、あるいは文(ふみ)をつかはす人(ひと)もあり、あるいは使(つかひ)を立(た)つる者(もの)もあり。祇王(ぎわう)さればとて今(いま)さら人(ひと)に対(たい)面(めん)してあそびたはぶるべきにもあらねば、文(ふみ)を取(と)り入(い)るることもなく、まして使(つかひ)にあひしらふまでもなかりけり。これにつけても悲(かな)しくていとど涙(なみだ)にのみぞしづみける。

 かくて今年(ことし)も暮(く)れぬ。あくる春(はる)のころ、入道(にふだう)相国(しやうこく)、祇王(ぎわう)が許(もと)へ使者(ししや)を立(た)てて、

「いかにその後(のち)何事(なにごと)かある。仏御前(ほとけごぜん)があまりにつれづれげに見(み)ゆるに、まゐって今様(いまやう)をもうたひ、舞(まひ)などをも舞(ま)ひて仏(ほとけ)なぐさめよ」

 とぞのたまひける。祇王(ぎわう)とかうの御返事(ごへんじ)にも及(およ)ばず。入道(にふだう)

「など祇王(ぎわう)は返事(へんじ)はせぬぞ。まゐるまじいか。まゐるまじくば、そのやうを申(まう)せ。浄海(じやうかい)もはからふ旨(むね)あり」

 とぞのたまひける。母(はは)とぢこれを聞(き)くにかなしくて、いかなるべしともおぼえず、なくなく教訓(けうくん)しけるは、

「いかに祇王(ぎわう)御前(ごぜん)、ともかくも御返事(ごへんじ)を申(まう)せかし、さやうにしかられまゐらせんよりは」

 といへば、祇王(ぎわう)

「まゐらんとおもふ道(みち)ならばこそやがてまゐるとも申(まう)さめ。まゐらざらんもの故(ゆゑ)になにと御返事(ごへんじ)を申(まう)すべしともおぼえず。この度(たび)めさんにまゐらずばはからふ旨(むね)ありとおほせらるるは、都(みやこ)の外(ほか)へ出(い)ださるるか、さらずば命(いのち)をめさるるか、これ二(ふた)つによも過(す)ぎじ。たとひ都(みやこ)を出(い)ださるるとも、歎(なげ)くべきにあらず。たとひ命(いのち)をめさるるとも、惜(を)しかるべきまたわが身(み)かは。一度(いちど)憂(う)きものに思(おも)はれまゐらせて二度(にど)面(おもて)をむかふべきにもあらず」

 とて、なほ御返事(ごへんじ)をも申(まう)さざりけるを、母(はは)とぢ重(かさ)ねて教訓(けうくん)しけるは、

「天(あめ)が下(した)に住(す)まんほどはともかうも入道(にふだう)殿(どの)のおほせをば背(そむ)くまじきことにてあるぞ。男女(なんによ)の縁(えん)宿世(すくせ)今(いま)にはじめぬことぞかし。千年(せんねん)万年(まんねん)と契(ちぎ)れども、やがて離(はな)るる中(なか)もあり。あからさまとは思(おも)へどもながらへ果(は)つることもあり。世(よ)に定(さだ)めなきものは男女(なんによ)の習(なら)ひなり。それに我御前(わごぜん)はこの三年(さんねん)まで思(おも)はれまゐらせたれば、ありがたき御情(おんなさけ)でこそあれ。めさんにまゐらねばとて命(いのち)をうしなはるるまではよもあらじ。ただ都(みやこ)の外(ほか)へぞ出(い)だされんずらん。たとひ都(みやこ)を出(い)ださるとも、我御前(わごぜん)たちは年(とし)若(わか)ければ、いかならん岩木(いはき)のはざまにても過(す)ごさんこと安(やす)かるべし。年(とし)老(お)い衰(おとろ)へたる母(はは)都(みやこ)の外(ほか)へぞ出(い)だされんずらん。習(なら)はぬ旅(たび)の住居(すまひ)こそかねて思(おも)ふも悲(かな)しけれ。ただわれを都(みやこ)の内(うち)にて住(す)み果(は)てさせよ。それぞ今生(こんじやう)後生(ごしやう)の孝養(けうやう)と思(おも)はむずる」

 といへば、祇王(ぎわう)うしと思(おも)ひし道(みち)なれども、親(おや)の命(めい)を背(そむ)かじと、なくなくまた出(い)で立(た)ちける心(こころ)の中(なか)こそ無慚(むざん)なれ。一人(ひとり)まゐらむはあまりにものうしとて妹(いもうと)の祇女(ぎによ)をも相(さう)具(ぐ)しけり。その外(ほか)白拍子(しらびやうし)二人(ふたり)、惣(そう)じて四人(よにん)一車(ひとくるま)に乗(の)って、西八条(にしはちでう)へぞまゐりたる。さきざきめされたる処(ところ)へはいれられずして、遥(はるか)に下(くだ)りたる処(ところ)に座(ざ)敷(しき)しつらうて置(お)かれたり。祇王(ぎわう)

「こは、されば、何事(なにごと)ぞや。わがみに過(あやま)つことはなけれども、すてられたてまつるだにあるに、座(ざ)敷(じき)をさへ下(さ)げらるることの心(こころ)うさよ。いかにせむ」

 と思(おも)ふに、知(し)らせじと押(お)さふる袖(そで)のひまよりも余(あま)りて涙(なみだ)ぞこぼれける。仏御前(ほとけごぜん)これを見(み)て、あまりにあはれに思(おも)ひければ、

「あれはいかに、日頃(ひごろ)めされぬ所(ところ)にてもさうらはばこそ。これへめされさうらへかし。さらずばわらはに暇(いとま)をたまふべ。出(い)でて見参(げんざん)せん」

 と申(まう)しければ、入道(にふだう)

「すべてその儀(ぎ)あるまじ」

 とのたまふあひだ、力(ちから)及(およ)ばで出(い)でざりけり。その後(のち)入道(にふだう)は祇王(ぎわう)が心(こころ)の内(うち)をも知(し)りたまはず、

「いかにその後(のち)何事(なにごと)かある。さては仏御前(ほとけごぜん)があまりにつれづれげに見(み)ゆるに、今様(いまやう)一(ひと)つ歌(うた)へかし」

 とのたまへば、祇王(ぎわう)まゐるほどでは、ともかうも入道(にふだう)殿(どの)のおほせをば背(そむ)くまじと思(おも)ひければ、落(お)つる涙(なみだ)をおさへて、今様(いまやう)一(ひと)つぞ歌(うた)うたる。

仏(ほとけ)も昔(むかし)は凡夫(ぼんぶ)なり、われらもつひには仏(ほとけ)なり、いづれも仏性(ぶつしやう)具(ぐ)せる身(み)を、隔(へだ)つるのみこそ悲(かな)しけれ。

 と泣(な)く泣(な)く二返(にへん)歌(うた)うたりければ、その座(ざ)にいくらも並(な)みゐたまへる平家一門(へいけいちもん)の公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)、諸大夫(しよだいぶ)、侍(さぶらひ)に至(いた)るまでみな感涙(かんるゐ)をぞ流(なが)されける。入道(にふだう)も面白(おもしろ)げにおもひたまひて

「ときにとては神妙(しんめう)に申(まう)したり。さては舞(まひ)も見(み)たけれども、今日(けふ)は紛(まぎ)るることいできたり。この後(のち)はめさずとも、常(つね)にまゐりて今様(いまやう)をも歌(うた)ひ、舞(まひ)などを舞(ま)ひて仏(ほとけ)なぐさめよ」

 とぞのたまひける。祇王(ぎわう)とかくの返事(へんじ)にも及(およ)ばず、涙(なみだ)を押(お)さへて出(い)でにけり。

「親(おや)の命(めい)を背(そむ)かじとつらき道(みち)におもむいて、二度(にど)、うき目(め)を見(み)つることの心(こころ)うさよ。かくてこの世(よ)にあるならば、また憂(う)き目(め)をも見(み)むずらん。今(いま)はただ身(み)を投(な)げんとおもふなり」

 といへば妹(いもうと)の祇女(ぎによ)も

「姉(あね)身(み)を投(な)げば、われもともに身(み)を投(な)げん」

 といふ。母(はは)とぢ、これをきくに悲(かな)しくていかなるべしともおぼえず。泣々(なくなく)また教訓(けうくん)しけるは

「まことに我御前(わごぜん)の恨(うら)むるもことわりなり。さやうのことあるべしとも知(し)らずして教訓(けうくん)してまゐらせつることの心(こころ)うさよ。ただ我御前(わごぜん)身(み)を投(な)げば、妹(いもうと)もともに身(み)を投(な)げんといふ。二人(ふたり)の娘(むすめ)ともに後(おく)れなん後(のち)、年(とし)老(お)い衰(おとろ)へたる母(はは)命(いのち)いきてもなににかはせむなれば、われもともに身(み)を投(な)げむとおもふなり。いまだ死期(しご)も来(き)たらぬ親(おや)に身(み)を投(な)げさせんこと五逆罪(ごぎやくざい)にやあらんずらむ。この世(よ)は仮(かり)の宿(やど)なり。慚(は)ぢても慚(は)ぢてもなにならず。ただ長(なが)き世(よ)の闇(やみ)こそ心(こころ)うけれ。今生(こんじやう)でこそあらめ。後生(ごしやう)でだに悪道(あくだう)へ趣(おもむ)かんずることの悲(かな)しさよ」

 とさめざめとかき口説(くど)ければ、祇王(ぎわう)なみだをおさへて

「げにもさやうにさぶらはば五逆罪(ごぎやくざい)疑(うたが)ひなし。さらば自害(じがい)は思(おも)ひ止(とど)まりさうらひぬ。かくて都(みやこ)にあるならば、またうき目(め)をも見(み)むずらん。今(いま)は都(みやこ)の外(ほか)へ出(い)でん」

 とて祇王(ぎわう)二十一(にじふいち)にて尼(あま)になり、嵯峨野(さがの)の奥(おく)なる山里(やまざと)に柴(しば)の庵(いほり)をひきむすび念仏(ねんぶつ)してこそゐたりけれ。妹(いもうと)の祇女(ぎによ)も

「姉(あね)身(み)を投(な)げば、われもともに身(み)を投(な)げんとこそ契(ちぎ)りしか、まして世(よ)を厭(いと)はむにたれかは劣(おと)るべき」

 とて十九(じふきう)にてやうをかへ、姉(あね)と一所(いつしよ)に籠(こ)もりゐて後世(ごせ)を願(ねが)ふぞあはれなる。母(はは)とぢこれをみて若(わか)き娘(むすめ)どもだにやうを替(か)はる世中(よのなか)に年(とし)老(お)い衰(おとろ)へたる母(はは)白髪(しらが)をつけてもなににかはせむとて四十五(しじふご)にて髪(かみ)を剃(そ)り、二人(ふたり)の娘(むすめ)諸(もろ)ともに一向専修(いつかうせんじゆ)に念仏(ねんぶつ)して、ひとへに後世(ごせ)をぞ願(ねが)ひける。

 かくて春(はる)過(す)ぎ夏(なつ)闌(た)けぬ、秋(あき)の初(はつ)風(かぜ)吹(ふ)きぬれば、星合(ほしあひ)の空(そら)をながめつつ、天(あま)のと渡(わた)る梶(かぢ)の葉(は)に思(おも)ふことかくころなれや。夕日(ゆふひ)の影(かげ)の西(にし)の山(やま)の端(は)に隠(かく)るるを見(み)ても、日(ひ)の入(い)りたまふ所(ところ)は西方浄土(さいはうじやうど)にてあんなり。いつかわれらもかしこに生(う)まれて物(もの)を思(おも)はですぐさんずらんと、かかるにつけても過(す)ぎにし方(かた)の憂(う)きことども思(おも)ひ続(つづ)けて、ただ尽(つ)くせぬ物(もの)は涙(なみだ)なり。黄昏時(たそがれどき)も過(す)ぎぬれば竹(たけ)の編戸(あみど)を閉(と)じ塞(ふさ)ぎ、灯(ともしび)かすかにかきたてて、親子(おやこ)三人(さんにん)念仏(ねんぶつ)してゐたるところに、竹(たけ)の編戸(あみど)を、ほとほとと打(う)ちたたく者(もの)出(い)できたり。そのとき尼(あま)ども胆(きも)をけし

「あはれ、これはいひかひなきわれらが念仏(ねんぶつ)してゐたるを妨(さまた)げんとて、魔縁(まえん)のきたるにてぞあるらん。昼(ひる)だにも人(ひと)の問(と)ひ来(こ)ぬ山里(やまざと)の柴(しば)の庵(いほり)の内(うち)なれば、夜(よ)深(ふ)けてたれかは尋(たづ)ぬべき。わづかの竹(たけ)の編戸(あみど)なれば、あけずとも推(お)し破(やぶ)らんこと安(やす)かるべし。なかなかただあけていれんと思(おも)ふなり。それに情(なさけ)をかけずして、命(いのち)を失(うしな)ふものならば、年(とし)ころ頼(たの)みたてまつる弥陀(みだ)の本願(ほんぐわん)を強(つよ)く信(しん)じて、ひまなく名号(みやうがう)を唱(とな)へたてまつるべし。声(こゑ)を尋(たづ)ねて迎(むか)へたまふなる聖衆(しやうじゆ)の来迎(らいかう)にてましませば、などか引接(いんぜふ)なかるべき。相構(あひかま)へて念仏(ねんぶつ)怠(おこた)りたまふな」

 と、互(たがひ)に心(こころ)をいましめて、竹(たけ)の編戸(あみど)をあけたれば、魔縁(まえん)にてはなかりけり、仏御前(ほとけごぜん)ぞ出(い)できたる。祇王(ぎわう)

「あれはいかに。仏御前(ほとけごぜん)と見(み)たてまつるは夢(ゆめ)かや、うつつか」

 といひければ、仏御前(ほとけごぜん)涙(なみだ)をおさへて、

「かやうのこと申(まう)せば、ことあたらしうさうらへども、申(まう)さずば、また思(おも)ひ知(し)らぬ身(み)ともなりぬべければ、始(はじ)めよりして申(まう)すなり。もとよりわらは推参(すゐさん)の者(もの)にて、出(い)だされまゐらせさうらひしを、祇王(ぎわう)御前(ごぜん)の申(まう)しじやうによってこそ、めし返(かへ)されてもさうらふに、女(をんな)のかひなきこと、わがみを心(こころ)に任(まか)せずして、おしとどめられまゐらせしこと心(こころ)ううさぶらひしが、いつぞやまためされまゐらせていまやううたひたまひしにも思(おも)ひしられてこそさぶらへ。いつかわがみの上(うへ)ならんと思(おも)へば、嬉(うれ)しとはさらにおもはず。障子(しやうじ)にまた、『いづれか秋(あき)にあはではつべき』と書(か)き置(お)きたまひし筆(ふで)の跡(あと)、げにもと思(おも)ひさぶらひしぞや。その後(のち)は在所(ありどころ)をいづくとも知(し)りまゐらせざりつるに、かやうにさまを替(か)へて、一処(いつしよ)にとうけたまはって後(のち)は、あまりに羨(うらや)ましくて常(つね)は暇(いとま)を申(まう)しかども、入道(にふだう)殿(どの)さらに御(おん)用(もち)ゐましまさず。つくづく物(もの)を案(あん)ずるに、娑婆(しやば)の栄花(えいぐわ)は夢(ゆめ)の夢(ゆめ)、楽(たの)しみ栄(さか)えてなにかせん。人身(にんしん)は受(う)け難(がた)く、仏教(ぶつけう)には遇(あ)ひ難(がた)し。この度(たび)泥梨(ないり)に沈(しづ)みては、多生曠劫(たしやうくわうごふ)をば隔(へだ)つとも、浮(う)かみ上(のぼ)らんこと難(かた)し。年(とし)の若(わか)きを憑(たの)むべきにあらず。老少不定(らうせうふぢやう)のさかひ、出(い)づる息(いき)の入(い)るをも待(ま)つべからず。かげろふ稲妻(いなづま)よりもなほはかなし。一旦(いつたん)の楽(たの)しみに誇(ほこ)りて、後生(ごしやう)を知(し)らざらんことの悲(かな)しさに、今朝(けさ)まぎれ出(い)でて、かくなりてこそまゐりたれ」

 とて、かつぎたる衣(きぬ)を打(う)ちのけたるを見(み)れば、尼(あま)になってぞ出(い)できたる。

「かやうにやうをかへてまゐりたれば、日比(ひごろ)の科(とが)をば許(ゆる)したまへ。許(ゆる)さんとおほせられば、諸(もろ)ともに念仏(ねんぶつ)して、一蓮(いちれん)の身(み)とならん。それになほ心(こころ)行(ゆ)かずば、これよりいづちへも迷(まよ)ひ行(ゆ)き、いかならん苔(こけ)の席(むしろ)、松(まつ)が根(ね)にも倒(たふ)れ臥(ふ)し、命(いのち)のあらんかぎり念仏(ねんぶつ)して、往生(わうじやう)の素懐(そくわい)を遂(と)げんとおもふなり」

 とさめざめとかきくどきければ、祇王(ぎわう)涙(なみだ)をおさへて、

「まことにわごぜのこれほどに思(おも)ひたまひけるとは。夢(ゆめ)にだに知(し)らず、憂(う)き世(よ)の中(なか)のさがなれば、身(み)の憂(う)さとこそおもふべきに、ともすれば、わごぜのことのみうらめしくて往生(わうじやう)の素懐(そくわい)を遂(と)げんことかなふべしともおぼえず、今生(こんじやう)も後生(ごしやう)も、なまじひに仕損(しそん)じたるここちにてありつるに、かやうにさまをかへておはしたれば、日比(ひごろ)の咎(とが)は露(つゆ)塵(ちり)ほども残(のこ)らず、今(いま)は往生(わうじやう)疑(うたが)ひなし。この度(たび)素懐(そくわい)を遂(と)げんこそなによりもまた嬉(うれ)しけれ。われらが尼(あま)になりしをこそ世(よ)にためしなきことのやうに、人(ひと)もいひわがみにもまた思(おも)ひしか。それは世(よ)を恨(うら)み身(み)を恨(うら)みて成(な)りしかば、やうを替(か)はるも理(ことわり)なり。今(いま)わごぜの出家(しゆつけ)にくらぶればことの数(かず)にもあらざりけり。わごぜは恨(うら)みもなし歎(なげ)きもなし。今年(ことし)はわづかに十七(じふしち)にこそなる人(ひと)の、かやうに穢土(ゑど)を厭(いと)ひ、浄土(じやうど)を願(ねが)はんと、深(ふか)く思(おも)ひいれたまふこそ、まことの大道心(だいだうしん)とはおぼえたれ。嬉(うれ)しかりける善知識(ぜんぢしき)かな。いざ諸(もろ)ともに願(ねが)はん」

 とて、四人(よにん)一所(いつしよ)に籠(こ)もりゐて、朝夕(てうせき)仏前(ぶつぜん)に花香(くわかう)を供(そな)へ、余念(よねん)なく願(ねが)ひければ、遅速(ちそく)こそありけれ、四人(よにん)の尼(あま)どもみな往生(わうじやう)の素懐(そくわい)を遂(と)げけるとぞきこえし。されば、後白河(ごしらかは)の法皇(ほふわう)の、長講堂(ちやうかうだう)の過去帳(くわこちやう)にも、祇王(ぎわう)、祇女(ぎによ)、仏(ほとけ)、とぢらが尊霊(そんりやう)と四人(よにん)一所(いつしよ)に入(い)れられけり。あはれなりしことどもなり。

二代后

 昔(むかし)より今(いま)に至(いた)るまで、源平(げんぺい)両氏(りやうじ)朝家(てうか)にめしつかはれて、王化(わうくわ)に随(したが)はず、自朝権(じてうけん)を軽(かろ)んずる者(もの)には、互(たがひ)に誡(いまし)めを加(くは)へしかば、代(よ)の乱(みだ)れもなかりしに、保元(ほうげん)に為義(ためよし)きられ、平治(へいぢ)に義朝(よしとも)誅(ちゆう)せられて後(のち)は、末々(すゑずゑ)の源氏(げんじ)ども、あるいは流(なが)され、あるいは失(うしな)はれ、今(いま)は平家(へいけ)の一類(いちるゐ)のみ繁昌(はんじやう)して、頭(かしら)をさし出(い)だす者(もの)なし。いかならん末(すゑ)の代(よ)までも、何事(なにごと)かあらむとぞ見(み)えし。されども鳥羽院(とばのゐん)、御晏駕(ごあんが)の後(のち)は、兵革(ひやうかく)打(う)ち続(つづ)き、死罪(しざい)、流刑(るけい)、欠官(けつくわん)、停任(ちやうにん)、常(つね)に行(おこな)はれて、海内(かいだい)も静(しづ)かならず。世間(せけん)も末(すゑ)落居(らくきよ)せず。なかんづくに永暦(えいりやく)応保(おうほう)のころよりして、院(ゐん)の近習者(きんじゆしや)をば、内(うち)より御(おん)誡(いまし)めあり、内(うち)の近習者(きんじゆしや)をば、院(ゐん)より誡(いまし)めらるるあひだ、上下(じやうげ)おそれをののいて、安(やす)い心(こころ)もなし。ただ深淵(しんえん)にのぞんで薄氷(はくひよう)をふむに同(おな)じ、主上(しゆしやう)上皇(しやうくわう)、父子(ふし)の御(おん)間(あひだ)には何事(なにごと)の御(おん)隔(へだ)てかあるべきなれども、思(おも)ひの外(ほか)のことどもありけり。これも世(よ)澆季(げうき)に及(およ)んで、人(ひと)梟悪(けうあく)を先(さき)とする故(ゆゑ)なり。主上(しゆしやう)院(ゐん)のおほせを常(つね)に申(まう)しかへさせおはしましける中(なか)にも、人(ひと)耳目(じもく)を驚(おどろ)かし、世(よ)もつて大(おほ)きに傾(かたぶ)け申(まう)すことありけり。

 故(こ)近衛院(こんゑのゐん)の后(きさき)、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)と申(まう)しは大炊御門(おほひのみかど)右大臣(うだいじん)公能公(きんよしこう)の御娘(おんむすめ)なり。先帝(せんてい)に後(おく)れたてまつらせたまひて後(のち)は、九重(ここのへ)の外(ほか)、近衛(こんゑ)川原(かはら)の御所(ごしよ)にぞ移(うつ)り住(す)ませたまひける。前(まへ)の后(きさき)の宮(みや)にて、幽(かすか)なる御在様(ございやう)にて渡(わた)らせたまひしが、永暦(えいりやく)のころほひは、御年(おんとし)二十二三(にじふにさん)にもやならせたまひけん、御(おん)盛(さか)りも少(すこ)し過(す)ぎさせおはしますほどなり。されども、天下(てんが)第一(だいいち)の美人(びじん)のきこえましましければ、主上(しゆしやう)色(いろ)にのみ染(そ)める御心(みこころ)にて、ひそかに高力士(かうりきし)に詔(せう)して、外宮(ぐわいきゆう)に引(ひ)き求(もと)めしむるに及(およ)んで、この大宮(おほみや)へ御艶書(ごえんしよ)あり。大宮(おほみや)あへてきこしめしもいれず。されば、ひたすらはやほに現(あら)はれて、后(きさき)御(おん)入内(じゆだい)あるべきよし、右大臣(うだいじん)家(いへ)に宣旨(せんじ)を下(くだ)さる。このこと天下(てんが)において、異(こと)なる勝事(しようじ)なれば、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり、おのおの意見(いけん)をいふ。

「先(ま)づ異朝(いてう)の先蹤(せんしよう)をとぶらふに、震旦(しんたん)の則天皇后(そくてんくわうごう)は、唐(たう)の太宗(たいそう)の后(きさき)、高宗皇帝(かうそうくわうてい)の継母(けいぼ)なり。太宗(たいそう)崩御(ほうぎよ)の後(のち)、高宗(かうそう)の后(きさき)に立(た)ちたまへることあり。それは異朝(いてう)の先規(せんき)たる上(うへ)、別段(べちだん)のことなり。されども我朝(わがてう)には、神武天皇(じんむてんわう)より以降(いかう)、人皇(にんわう)七十余代(しちじふよだい)に及(およ)ぶまで、いまだ二代(にだい)の后(きさき)に立(た)たせたまへる例(ためし)を聞(き)かず」

 と、諸卿(しよきやう)一同(いちどう)に申(まう)されけり。上皇(しやうくわう)もさるべからざるよし、こしらへ申(まう)させたまへば、主上(しゆしやう)おほせなりけるは、

「天子(てんし)に父母(ぶも)なし、われ十善(じふぜん)の戒功(かいこう)によって、万乗(ばんじよう)の宝位(ほうゐ)をたもつ、これほどのこと、などか叡慮(えいりよ)に任(まか)せざるべき」

 とて、やがて御(おん)入内(じゆだい)の日(ひ)、宣下(せんげ)せられける上(うへ)は、力(ちから)及(およ)ばせたまはず。

 大宮(おほみや)かくときこしめされけるより、御涙(おんなみだ)に沈(しづ)ませおはします。先帝(せんてい)に後(おく)れさせまゐらせにし久寿(きうじゆ)の秋(あき)のはじめ、同(おな)じ野原(のはら)の露(つゆ)と消(き)え、家(いへ)をも出(い)で、世(よ)をも遁(のが)れたりせば、かかる憂(う)き耳(みみ)をば聞(き)かざらましとぞ、御(おん)歎(なげ)きありける。父(ちち)の大臣(だいじん)、こしらへ申(まう)させたまひけるは、

「世(よ)に従(したが)はざるをもつて、狂人(きやうじん)とすと見(み)えたり。すでに詔命(せうめい)を下(くだ)さる。仔細(しさい)を申(まう)すにところなし。ただ速(すみやか)にまゐらせたまふべきなり。もし皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ありて、君(きみ)も国母(こくも)といはれ、愚老(ぐらう)も外祖(ぐわいそ)と仰(あふ)がるべき瑞相(ずゐさう)にてもやさうらふらむ。これひとへに愚老(ぐらう)をたすけさせおはします御(おん)孝行(かうかう)の御(おん)至(いた)りなるべし」

 と、申(まう)させたまへども、御返事(ごへんじ)もなかりけり。大宮(おほみや)そのころ、なにとなき御手(おんて)習(なら)ひの次(つ)いでに、

うきふしにしづみもやらで河竹(かはたけ)の、世(よ)にためしなき名(な)をやながさん。

 世(よ)にはいかにして漏(も)れけるやらん、哀(あはれ)にやさしきためしにぞ人々(ひとびと)申(まう)しあへりける。

 すでに御(おん)入内(じゆだい)の日(ひ)になりしかば、父(ちち)の大臣(だいじん)供奉(ぐぶ)の上達部(かんだちめ)、出車(いだしぐるま)の儀式(ぎしき)など、心(こころ)ことにだしたてまゐらせたまひけり。大宮(おほみや)ものうき御出立(おんいでたち)なれば、とみにもたてまつらず。遥(はるか)に夜(よ)も深(ふ)け、小夜(さよ)も半(なかば)になって後(のち)、御車(おんくるま)に抜(ぬ)け乗(の)せられたまひけり。御(おん)入内(じゆだい)の後(のち)は、麗景殿(れいけいでん)にぞましましける。ひたすら、朝政(てうせい)をすすめ申(まう)させたまふ御在様(ございやう)なり。かの紫宸殿(ししんでん)の皇居(くわうきよ)には、賢聖(けんじやう)の障子(しやうじ)を立(た)てられたり。伊尹(いいん)、第伍倫(だいごりん)、虞世南(ぐせいなん)、太公望(たいこうばう)、甪里先生(ろくりせんせい)、李勣(りせき)、司馬(しば)、手長(てなが)、足長(あしなが)、馬形(うまがた)の障子(しやうじ)、鬼(おに)の間(ま)、李将軍(りしやうぐん)が姿(すがた)をさながら写(うつ)せる障子(しやうじ)もあり。尾張守(をはりのかみ)小野道風(をののたうふう)が、七回賢聖(しちくわいけんじやう)の障子(しやうじ)と書(か)けるも、理(ことわり)とぞ見(み)えし。かの清涼殿(せいりやうでん)の画図(ぐわづ)の御(おん)障子(しやうじ)には、昔(むかし)金岡(かなをか)が書(か)きたりし遠(とほ)山(やま)の在明(ありあけ)の月(つき)もありとかや。故(こ)院(ゐん)のいまだ幼主(えうしゆ)にてましましけるそのかみ、なにとなき御手(おんて)まさぐりの次(つぎ)に、かきくもらかさせたまひしが、ありしながらに少(すこ)しもたがはぬをごらんじて、先帝(せんてい)の昔(むかし)もや御(おん)恋(こひ)しくおぼしめされけん。

思(おも)ひきや憂(う)き身(み)ながらにめぐり来(き)て、おなじ雲井(くもゐ)の月(つき)を見(み)むとは。

 その間(あひだ)の御(おん)ながらへ、いひしらず哀(あはれ)にやさしかりしおんことなり。

 さるほどに、永万(えいまん)元年(ぐわんねん)の春(はる)のころより、主上(しゆしやう)御不予(ごふよ)のおんことときこえさせたまひしが、夏(なつ)の初(はじ)めになりしかば、ことの外(ほか)に重(おも)らせたまふ。これによって、大蔵(おほくら)の大輔(たいふ)伊吉兼盛(いきのかねもり)が娘(むすめ)の腹(はら)に、今上(きんじやう)の一(いち)の宮(みや)の二歳(にさい)にならせたまふがましましけるを、太子(たいし)にたてまゐらせたまふべしときこえしほどに、同(どう)六月(ろくぐわつ)二十五日(にじふごにち)、にはかに親王(しんわう)の宣旨(せんじ)下(くだ)されて、やがてその夜(よ)受禅(じゆぜん)ありしかば、天下(てんが)なにとなうあわてたるさまなり。そのときの有職(いうしよく)の人々(ひとびと)申(まう)しあはれけるは、本朝(ほんてう)に、童帝(どうてい)の例(ためし)を尋(たづ)ぬれば、清和天皇(せいわてんわう)九歳(きうさい)にして、文徳天皇(もんとくてんわう)の御禅(ごぜん)を受(う)けさせたまふ。それはかの周公旦(しうこうたん)の成王(せいわう)に代(かは)り、南面(なんめん)にして、一日(いちにち)万機(ばんき)の政(まつりごと)を治(をさ)めたまひしに准(なぞら)へて、外祖(ぐわいそ)忠仁公(ちゆうじんこう)、幼主(えうしゆ)を扶持(ふぢ)したまへり。これぞ摂政(せつしやう)のはじめなる。鳥羽院(とばのゐん)五歳(ごさい)、近衛院(こんゑのゐん)三歳(さんさい)にて践祚(せんそ)あり。かれをこそいつしかなりと申(まう)しに、これは二歳(にさい)にならせたまふ。先例(せんれい)なし。物(もの)さわがしともおろかなり。

額打論

 さるほどに、同(どう)七月(しちぐわつ)廿七日(にじふしちにち)、上皇(しやうくわう)つひに崩御(ほうぎよ)なりぬ。御歳(おんとし)二十三(にじふさん)。蕾(つぼ)める花(はな)の散(ち)れるがごとし。玉(たま)の簾(すだれ)、錦(にしき)の帳(とばり)のうち、みな御涙(おんなみだ)に咽(むせ)ばせたまふ。やがて、その夜(よ)、香隆寺(かうりゆうじ)の艮(うしとら)、蓮台野(れんだいの)の奥(おく)、船岡山(ふなをかやま)にをさめたてまつる。御葬送(ごさうそう)のとき、延暦寺(えんりやくじ)、興福寺(こうふくじ)の大衆(だいしゆ)、額打論(がくうちろん)といふことしいだして、互(たがひ)に狼藉(らうぜき)に及(およ)ぶ。一天(いつてん)の君(きみ)崩御(ほうぎよ)なって後(のち)、御墓所(ごぼしよ)へわたしたてまつるときの作法(さほふ)は、南北二京(なんぼくにきやう)の大衆(だいしゆ)ことごとく供奉(ぐぶ)して、御墓所(ごぼしよ)の回(めぐ)りに、わが寺々(てらでら)の額(がく)をうつことあり。先(ま)づ聖武天皇(しやうむてんわう)の御願(ごぐわん)、争(あらそ)ふべき寺(てら)なければ、東大寺(とうだいじ)の額(がく)をうつ。次(つぎ)に淡海公(たんかいこう)の御願(ごぐわん)とて、興福寺(こうふくじ)の額(がく)をうつ。北京(ほつきやう)には、興福寺(こうふくじ)に向(むか)へて延暦寺(えんりやくじ)の額(がく)をうつ。次(つぎ)に天武天皇(てんむてんわう)の御願(ごぐわん)、教待和尚(けうたいくわしやう)、智証大師(ちしようだいし)の草創(さうさう)とて、園城寺(をんじやうじ)の額(がく)をうつ。さるを山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、いかがおもひけん、先例(せんれい)を背(そむ)きて、東大寺(とうだいじ)の次(つ)ぎ、興福寺(こうふくじ)のうへに、延暦寺(えんりやくじ)の額(がく)を打(う)つ間(あひだ)、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、とやせましかやうせましと僉議(せんぎ)するところに、興福寺(こうふくじ)の西金堂(さいこんだう)の衆(しゆ)、観音房(くわんのんばう)、勢至房(せいしばう)とてきこえたる大悪僧(だいあくそう)二人(ふたり)ありけり。観音房(くわんのんばう)は黒糸威(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)に、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)くきみじかに取(と)り、勢至房(せいしばう)は、萌黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)に、黒漆(くろうるし)の大太刀(おほだち)もて、二人(ふたり)つと走(はし)り出(い)で、延暦寺(えんりやくじ)の額(がく)をきって落(お)とし、散々(さんざん)に打(う)ちわり、

「うれしや水(みづ)、なるは滝(たき)の水(みづ)、日(ひ)はてるとも、絶(た)えずとうたへ」

 とはやしつつ、南都(なんと)の衆徒(しゆと)の中(なか)へぞ入(い)りにける。

清水寺炎上

 山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、狼藉(らうぜき)をいたさば、手向(てむか)へすべき処(ところ)に、心(こころ)深(ふか)うねらふ方(かた)もやありけん。一詞(ひとこと)も出(い)ださず。御門(みかど)かくれさせたまひては、心(こころ)なき草木(さうもく)までも、愁(うれ)へたる色(いろ)にてこそあるべきに、この騒動(さうどう)のあさましさに、高(たか)きも賤(いや)しきも、肝魂(きもたましひ)を失(うしな)ひて四方(しはう)へみな退散(たいさん)す。同(どう)二十九日(にじふくにち)の午(うま)の刻(こく)ばかり、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)おびただしう下洛(げらく)すときこえしかば、武士(ぶし)、検非違使(けびゐし)、西坂本(にしさかもと)に馳(は)せ向(むか)ひて、防(ふせ)ぎけれども、ことともせずおしやぶって乱入(らんにふ)す。なに者(もの)の申(まう)し出(い)だしたりけるやらむ、一(いち)院(ゐん)、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)におほせて、平家(へいけ)を追討(ついたう)せらるべしときこえしほどに、軍兵(ぐんぴやう)内裏(だいり)にさんじて、四方(しはう)の陣頭(ぢんとう)を警固(けいご)す。平氏(へいし)の一類(いちるゐ)、みな六波羅(ろくはら)へ馳(は)せ集(あつ)まる。一(いち)院(ゐん)も、急(いそ)ぎ六波羅(ろくはら)へ御幸(ごかう)なる。清盛公(きよもりこう)そのころ、いまだ大納言(だいなごん)にておはしけるが、大(おほ)いに恐(おそ)れさわがれけり。小松殿(こまつどの)

「なにによってか、ただ今(いま)さることあるべき」

 と、しづめられけれども、上下(じやうげ)ののしりさわぐことおびただし。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、六波羅(ろくはら)へは寄(よ)せずして、すずろなる清水寺(きよみづでら)におしよせて、仏閣僧房(ぶつかくそうばう)一宇(いちう)も残(のこ)さず焼(や)きはらふ。これはさんぬる御葬送(ごさうそう)の夜(よ)の会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を雪(きよ)めんがためとぞきこえし。清水寺(きよみづでら)は、興福寺(こうふくじ)の末寺(まつじ)たるによってなり。清水寺(きよみづでら)焼(や)けたりける朝(あした)、なに者(もの)の態(わざ)にやありけん、

「観音火坑変成池(くわんのんくわきやうへんじやうち)はいかに」

 と札(ふだ)に書(か)きて、大門(だいもん)の前(まへ)にたてたりければ、次(つぎ)の日(ひ)、また

「歴劫不思議力不及(りやくごふふしぎりきふきふ)」

 と、返(かへ)しの札(ふだ)をぞ打(う)ちたりける。

 衆徒(しゆと)返(かへ)り上(のぼ)りければ、一(いち)院(ゐん)六波羅(ろくはら)より還御(くわんぎよ)なる。重盛(しげもり)卿(きやう)ばかりぞ、御(おん)ともにはまゐられける。父(ちち)の卿(きやう)はまゐられず。なほ用心(ようじん)のためかとぞきこえし。重盛(しげもり)卿(きやう)、御(おん)送(おく)りよりかへられたりければ、父(ちち)の大納言(だいなごん)のたまひけるは、

「一(いち)院(ゐん)の御幸(ごかう)こそ大(おほ)きに恐(おそ)れおぼゆれ。かねてもおぼしめしより、おほせらるる旨(むね)のあればこそかうはきこゆらめ、それにも打(う)ち解(と)けたまふまじ」

 とのたまへば、重盛(しげもり)卿(きやう)申(まう)されけるは、

「このことゆめゆめ御(おん)けしきにも、御(おん)詞(ことば)にも出(い)ださせたまふべからず、人(ひと)に心(こころ)附(つ)けがほに、なかなか悪(あ)しきおんことなり。それにつけても叡慮(えいりよ)に背(そむ)きたまはで、人(ひと)のために御(おん)なさけを施(ほどこ)させましまさば、神明三宝(しんめいさんぽう)加護(かご)あるべし。さらんにとては、御身(おんみ)の恐(おそ)れさうらふまじ」

 とて、立(た)たれければ

「重盛(しげもり)卿(きやう)は、ゆゆしく大様(おほやう)なるものかな」

 とぞ父(ちち)の卿(きやう)ものたまひける。

 一(いち)院(ゐん)還御(くわんぎよ)の後(のち)、御前(ごぜん)にうとからぬ近習者(きんじゆしや)達(たち)あまたさうらはれけるに、

「さても不思議(ふしぎ)のことを申(まう)し出(い)だしたるものかな。露(つゆ)もおぼしめしよらぬものを」

 とおほせければ、院中(ゐんぢゆう)の切者(きれもの)に西光法師(さいくわうほふし)といふ者(もの)あり。境節(をりふし)御前(ごぜん)近(ちか)うさうらひけるが、

「天(てん)に口(くち)なし、人(ひと)をもつていはせよと申(まう)す。平家(へいけ)以外(もつてのほか)に過分(くわぶん)にさうらふ間(あひだ)、天(てん)のおんはからひにや」

 とぞ申(まう)しける。人々(ひとびと)

「このことよしなし。壁(かべ)に耳(みみ)あり、おそろしおそろし」

 とぞ申(まう)しあはれける。

東宮立

 さるほどに、その年(とし)は諒闇(りやうあん)なりければ、御禊(ごけい)大嘗会(だいじやうゑ)も行(おこな)はれず。同(どう)十二月(じふにぐわつ)二十四日(にじふよつか)、建春門院(けんしゆんもんゐん)そのころはいまだ東(ひんがし)の御方(おんかた)と申(まう)しける御(おん)腹(はら)に、一(いち)院(ゐん)の宮(みや)ましましけるが、親王(しんわう)の宣旨(せんじ)下(くだ)されたまふ。

 明(あ)くれば、改元(かいげん)ありて仁安(にんあん)と号(がう)す。同年(どうねん)の十月(じふぐわつ)八日(やうか)、去(さる)年(とし)親王(しんわう)の宣旨(せんじ)かうぶらせたまひし皇子(わうじ)、東三条(ひがしさんでう)にて春宮(とうぐう)に立(た)たせたまふ。春宮(とうぐう)は御伯父(おんをぢ)六歳(ろくさい)、主上(しゆしやう)は御甥(おんをひ)三歳(さんさい)、いづれも昭穆(せうぼく)に相叶(あひかな)はず。ただし寛和(くわんわ)二年(にねん)、一条院(いちでうゐん)七歳(しちさい)にて御即位(ごそくゐ)。三条院(さんでうゐん)十一歳(じふいつさい)にて東宮(とうぐう)に立(た)たせたまふ。先例(せんれい)なきにしもあらず。主上(しゆしやう)は二歳(にさい)にて御禅(ごぜん)を受(う)けさせたまひ、わづかに五歳(ごさい)と申(まう)す二月(にぐわつ)十九日(じふきうにち)、東宮(とうぐう)践祚(せんそ)ありしかば、位(くらゐ)をすべらせたまひて、新院(しんゐん)とぞ申(まう)しける。いまだ御元服(ごげんぶく)もなくして、太上天皇(だいじやうてんわう)の尊号(そんがう)あり。漢家(かんか)本朝(ほんてう)これやはじめならむ。

 仁安(にんあん)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)二十日(はつか)、新帝(しんてい)大極殿(だいこくでん)にして御即位(ごそくゐ)あり。この君(きみ)の位(くらゐ)につかせたまひぬるは、いよいよ平家(へいけ)の栄花(えいぐわ)とぞ見(み)えし。御母儀(ごぼぎ)建春門院(けんしゆんもんゐん)と申(まう)すは、平家(へいけ)の一門(いちもん)にてましますうへ、とりわき入道(にふだう)相国(しやうこく)の北(きた)の方(かた)、二位(にゐ)殿(どの)の御(おん)妹(いもうと)なり。また平大納言(へいだいなごん)時忠卿(ときただのきやう)と申(まう)すも、女院(によゐん)の御兄(おんあに)なれば、内(うち)の御外戚(ごぐわいせき)なり。内外(ないぐわい)につけたる執権(しつけん)の臣(しん)とぞ見(み)えし。叙位除目(じよゐぢもく)と申(まう)すも、ひとへにこの時忠卿(ときただのきやう)のままなり。楊貴妃(やうきひ)が幸(さいは)ひしとき、楊国忠(やうこくちゆう)が盛(さか)えしごとし。世(よ)のおぼえ、時(とき)のきら、めでたかりき。入道(にふだう)相国(しやうこく)天下(てんが)の大小事(だいせうじ)をのたまひあはせられければ、時(とき)の人(ひと)平関白(へいくわんぱく)とぞ申(まう)しける。

殿下乗合

 さるほどに、嘉応(かおう)元年(ぐわんねん)七月(しちぐわつ)十六日(じふろくにち)、一(いち)院(ゐん)御出家(ごしゆつけ)あり。御出家(ごしゆつけ)の後(のち)も、万機(ばんき)の政(まつりごと)をきこめしされしあひだ、院内(ゐんない)わく方(かた)なし。院中(ゐんぢゆう)にちかくめしつかはるる公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、上下(じやうげ)の北面(ほくめん)に至(いた)るまで、官位俸禄(くわんゐほうろく)、みな身(み)に余(あま)るばかりなり。されども人(ひと)の心(こころ)の習(なら)ひなれば、なほ飽(あ)きたらで、

「あはれその人(ひと)の亡(ほろ)びたらば、その国(くに)はあきなむ、その人(ひと)失(う)せたらば、その官(くわん)にはなりなん」

 など、疎(うと)からぬどちは、寄(よ)り合(あ)ひ寄(よ)り合(あ)ひささやきあへり。法皇(ほふわう)も内々(ないない)おほせなりけるは、

「昔(むかし)より代々(だいだい)の朝敵(てうてき)を平(たひら)ぐるもの多(おほ)しといへども、いまだかやうのことなし。貞盛(さだもり)、秀郷(ひでさと)が、将門(まさかど)を討(う)ち、頼義(よりよし)が貞任(さだたふ)、宗任(むねたふ)を亡(ほろぼ)し、義家(よしいへ)が武平(たけひら)、家平(いへひら)を攻(せ)めたりしも、勧賞(けんじやう)行(おこな)はれしこと、受領(じゆりやう)には過(す)ぎざりき。清盛(きよもり)がかく心(こころ)のままにふるまふこそさるべからね。これも世末(よすゑ)になりて、王法(わうぼふ)の尽(つ)きぬる故(ゆゑ)なり」

 とおほせなりけれども、次(つい)でなければ御(おん)いましめもなし。平家(へいけ)もまた別(べち)して、朝家(てうか)を恨(うら)みたてまつることもなかりしほどに、世(よ)の乱(みだ)れそめける根本(こんぽん)は、去(さ)んじ嘉応(かおう)二年(にねん)十月(じふぐわつ)十六日(じふろくにち)に、小松殿(こまつどの)の次男(じなん)新三位中将(しんさんみのちゆうじやう)資盛卿(すけもりのきやう)、そのときはいまだ越前守(ゑちぜんのかみ)とて十三(じふさん)になられけるが、雪(ゆき)ははだれに降(ふ)りたりけり。枯野(かれの)の景色(けしき)まことに面白(おもしろ)かりければ、わかき侍(さぶらひ)ども三十騎(さんじふき)ばかりめし具(ぐ)して、蓮台野(れんだいの)や、紫野(むらさきの)、右近馬場(うこんのばば)に打(う)ち出(い)でて、鷹(たか)どもあまたすゑさせ、鶉(うづら)、雲雀(ひばり)をおたておたて、終日(ひねもす)にかり暮(く)らし、薄暮(はくぼ)に及(およ)んで六波羅(ろくはら)へこそ帰(かへ)られけれ。そのときの御(おん)摂籙(せつろく)は、松殿(まつどの)にてましましけるが、中御門(なかのみかど)東洞院(ひがしのとうゐん)の御所(ごしよ)より御(おん)参内(さんだい)ありけり。郁芳門(いくはうもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、東洞院(ひがしのとうゐん)を南(みなみ)へ、大炊御門(おほひのみかど)を西(にし)へ御出(ぎよしゆつ)なる。資盛(すけもり)朝臣(あそん)、大炊御門(おほひのみかど)猪熊(ゐのくま)にて、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に鼻(はな)突(つ)きにまゐりあふ。御供(おんとも)の人々(ひとびと)

「なに者(もの)ぞ、狼藉(らうぜき)なり。御出(ぎよしゆつ)なるに、乗物(のりもの)より下(くだ)りさうらへさうらへ」

 と、いひてけれども、余(よ)に誇(ほこ)り勇(いさ)み、世(よ)を世(よ)ともせざりける上(うへ)、めし具(ぐ)したる侍(さぶらひ)ども、みな二十(にじふ)より内(うち)の若(わか)物(もの)どもなり、礼義骨法(れいぎこつぱう)弁(わきま)へたる者(もの)一人(ひとり)もなし。殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)ともいはず、一切(いつせつ)下馬(げば)の礼(れい)義(ぎ)にも及(およ)ばず、駆(か)け破(やぶ)りて通(とほ)らむとするあひだ、暗(くら)さはくらし、つやつや入道(にふだう)の孫(まご)とも知(し)らず。また少々(せうせう)は知(し)りたれども、空(そら)しらずして、資盛(すけもり)朝臣(あそん)を始(はじ)めとして、侍(さぶらひ)どもみな馬(うま)より取(と)りて引(ひ)き落(お)とし、すこぶる恥辱(ちじよく)に及(およ)びけり。資盛(すけもり)朝臣(あそん)、はふはふ六波羅(ろくはら)へおはして、祖父(おほぢ)の相国(しやうこく)禅門(ぜんもん)に、この由(よし)訴(うつた)へ申(まう)されければ、入道(にふだう)大(おほ)きに怒(いか)りて、

「たとひ殿下(てんが)なりとも、浄海(じやうかい)があたりをば憚(はばか)りたまふべきに、少者(せうじや)に左右(さいう)なく、恥辱(ちじよく)を与(あた)へられけるこそ遺恨(ゐこん)の次第(しだい)なれ。かかることよりして、人(ひと)にはあざむかるるぞ。このこと思(おも)ひ知(し)らせたてまつらでは、えこそあるまじけれ。殿下(てんが)を恨(うら)みたてまつらばや」

 とのたまへば、重盛(しげもり)卿(きやう)申(まう)されけるは

「これは少(すこ)しも苦(くる)しうさうらふまじ。頼政(よりまさ)、光基(みつもと)など申(まう)す源氏(げんじ)どもにあざむかれてさうらはんには、まことに一門(いちもん)の恥辱(ちじよく)でもさうらふべし。重盛(しげもり)が子(こ)どもとてさうらはんずるものの、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)にまゐりあひて、乗物(のりもの)より下(お)りさうらはぬこそ尾籠(びろう)にさうらへ」

 とて、そのときことにあうたる侍(さぶらひ)どもめしよせ、

「自今以後(じこんいご)も、なんぢらよくよく心(こころ)得(え)べし、誤(あやま)って、殿下(てんが)へ無礼(ぶれい)の由(よし)を申(まう)さばやとこそ思(おも)へ」

 とて帰(かへ)られけり。

 その後(のち)、入道(にふだう)相国(しやうこく)小松殿(こまつどの)にはおほせられもあはせず、片田舎(かたゐなか)の侍(さぶらひ)どものこはらかにて、入道(にふだう)殿(どの)のおほせより外(ほか)は、また恐(おそ)ろしきことなしと思(おも)ふ者(もの)ども、難波(なんば)妹尾(せのを)を始(はじ)めとして、都合(つがふ)六十余人(ろくじふよにん)めし寄(よ)せ、

「来(らい)二十一日(にじふいちにち)、主上(しゆしやう)御元服(ごげんぶく)のおんさだめのために殿下(てんが)御出(ぎよしゆつ)あるべかんなり。いづくにても待(ま)ちかけたてまつり、前駆(ぜんぐ)御随身(ごずいじん)どもが髻(もとどり)きって、資盛(すけもり)が恥(はぢ)雪(すす)げ」

 とぞのたまひける。殿下(てんが)、これをば夢(ゆめ)にもしろしめさず、主上(しゆしやう)、明年(みやうねん)御元服(ごげんぶく)、御加冠(ごかくわん)、拝官(はいくわん)のおんさだめのために、御直盧(おんぢきろ)にしばらく御座(ござ)あるべきにて、常(つね)の御出(ぎよしゆつ)よりも引(ひ)き繕(つくろ)はせたまひ、今度(こんど)は待賢門(たいけんもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、中御門(なかのみかど)を西(にし)へ御出(ぎよしゆつ)なる。猪熊(ゐのくま)堀川(ほりかは)の辺(へん)に、六波羅(ろくはら)の兵(つはもの)ども、直冑(ひたかぶと)三百余騎(さんびやくよき)待(ま)ち受(う)けたてまつり、殿下(てんが)を中(なか)に取(と)りこめまゐらせて、前後(ぜんご)より一度(いちど)に、鬨(とき)をどとぞつくりける。前駆(ぜんぐ)御随身(ごずいじん)どもが今日(けふ)を晴(は)れとしやうぞいたるを、あそこに追(お)ひかけ、ここに追(お)ひつめ、馬(うま)よりとって引(ひ)き落(お)とし、散々(さんざん)に陵礫(りようりやく)して、一々(いちいち)に髻(もとどり)をきる。随身(ずいじん)十人(じふにん)が中(なか)、右(みぎ)の府生(ふしやう)武基(たけもと)が髻(もとどり)もきられにけり。その中(なか)に、藤蔵人大夫(とうくらうどのたいふ)隆教(たかのり)が髻(もとどり)をきるとて、

「これはなんぢが髻(もとどり)と思(おも)ふべからず、主(しゆう)の髻(もとどり)と思(おも)ふべし」

 と、いひ含(ふく)めてきってけり。その後(のち)に御車(おんくるま)の内(うち)へも、弓(ゆみ)の筈(はず)つき入(い)れなどして、簾(すだれ)かなぐり落(お)とし、御(おん)牛(うし)の鞦(しりがい)、胸懸(むながい)切(き)りはなち散々(さんざん)にし散(さん)じて、悦(よろこ)びのときをつくり、六波羅(ろくはら)へこそまゐりけれ。入道(にふだう)

「神妙(しんめう)なり」

 とぞのたまひける。御車(おんくるま)副(ぞひ)には、因幡(いなば)のさい使(つかひ)、鳥羽(とば)の国久丸(くにひさまる)といふをのこ、下臈(げらふ)なれども、なさけある者(もの)にて、泣々(なくなく)御車(おんくるま)つかまつって、中御門(なかのみかど)の御所(ごしよ)へ還御(くわんぎよ)なしたてまつる。束帯(そくたい)の御(おん)袖(そで)にて、御涙(おんなみだ)をおさへつつ、還御(くわんぎよ)の儀式(ぎしき)あさましさ、申(まう)すもなかなかおろかなり。大織冠(たいしよくくわん)、淡海公(たんかいこう)のおんことは、挙(あ)げて申(まう)すに及(およ)ばず、忠仁公(ちゆうじんこう)、昭宣公(せうせんこう)より以降(いかう)、摂政(せつしやう)関白(くわんぱく)の、かかる御(おん)目(め)にあはせたまふこと、いまだうけたまはり及(およ)ばず。これこそ平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)の始(はじ)めなれ。

 小松殿(こまつどの)こそ大(おほ)いに噪(さわ)がれけれ。行(ゆ)き向(むか)ひたる侍(さぶらひ)ども、みな勘当(かんだう)せらる。

「たとひ入道(にふだう)いかなる不思議(ふしぎ)を下知(げぢ)したまふとも、など重盛(しげもり)に夢(ゆめ)をば見(み)せざりけるぞ。およそは資盛(すけもり)奇怪(きくわい)なり、旃檀(せんだん)は二葉(ふたば)よりかうばしとこそ見(み)えたれ。すでに十二三歳(じふにさんさい)にならむずる者(もの)が、今(いま)は礼(れい)義(ぎ)を存知(ぞんぢ)してこそ振(ふ)る舞(ま)ふべきに、かやうに尾籠(びろう)を現(げん)じて、入道(にふだう)の悪名(あくみやう)を立(た)つ、不孝(ふけう)のいたり、なんぢ一人(ひとり)にありけり」

 とて、しばらく伊勢(いせ)の国(くに)に追(お)ひ下(くだ)さる。さればこの大将(だいしやう)をば、君(きみ)も臣(しん)も御感(ぎよかん)ありけるとぞきこえし。

鹿谷

 これによって主上(しゆしやう)御元服(ごげんぶく)のおんさだめ、その日(ひ)は延(の)べさせたまひぬ。同(どう)廿五日(にじふごにち)、院(ゐん)の殿上(てんじやう)にてぞ、御元服(ごげんぶく)の定(さだ)めはありける。摂政(せつしやう)殿(どの)さても渡(わた)らせたまふべきならねば、同(どう)十二月(じふにぐわつ)九日(ここのか)、兼(かね)宣旨(せんじ)をかうぶり、十四日(じふよつか)太政大臣(だいじやうだいじん)にあがらせたまふ。やがて同(どう)十七日(じふしちにち)慶(よろこ)び申(まう)しありしかども、世(よ)の中(なか)はにがにがしうぞ見(み)えし。

 さるほどに今歳(こんさい)も暮(く)れぬ。明(あ)くれば嘉応(かおう)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)五日(いつか)、主上(しゆしやう)御元服(ごげんぶく)あり。同(どう)十三日(じふさんにち)朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうかう)ありけり。法皇(ほふわう)、女院(によゐん)、待(ま)ち受(う)けまゐらせさせたまひて、初冠(うひかうぶり)のおんよそほひいかばかりらうたくおぼしめされけん。入道(にふだう)相国(しやうこく)の御娘(おんむすめ)、女御(にようご)にまゐらせたまひけり。御歳(おんとし)十五歳(じふごさい)。法皇(ほふわう)御猶子(おんゆうし)の儀(ぎ)なり。

 そのころ妙音院(めうおんゐん)の太政(だいじやう)のおほいとの、そのときはいまだ内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてましましけるが、大将(だいしやう)を辞(じ)し申(まう)させたまふことありけり。ときに徳大寺(とくだいじ)の大納言(だいなごん)実定卿(さねさだのきやう)、その仁(じん)に当(あた)りたまふ由(よし)きこゆ。また花山院(くわざんのゐん)の中納言(ちゆうなごん)兼雅卿(かねまさのきやう)も所望(しよまう)あり。その外(ほか)、故(こ)中御門(なかのみかど)の藤中納言(とうちゆうなごん)家成卿(いへなりのきやう)の三男(さんなん)、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)もひらに申(まう)されけり。院(ゐん)の御気色(みけしき)よかりければ、やうやうの祈(いの)りをぞ始(はじ)められける。先(ま)づ八幡(やはた)に百人(ひやくにん)の僧(そう)を籠(こ)めて、真読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を七日(なのか)読(よ)ませられける最中(さいちゆう)に、甲良(かふら)の大明神(だいみやうじん)の御前(ごぜん)なる橘(たちばな)の木(き)に、男山(をとこやま)の方(かた)より山鳩(やまばと)三(み)つ飛(と)び来(き)て、食(く)ひ合(あ)ひてぞ死(し)にける。鳩(はと)は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の第一(だいいち)の仕者(ししや)なり。宮寺(みやでら)にかかる不思議(ふしぎ)なしとて、時(とき)の検校(けんげう)匡清法印(きやうせいほふいん)奏聞(そうもん)す。神祇官(じんぎくわん)にして御占(みうら)あり。天下(てんが)の噪(さわ)ぎと占(うら)申(まう)す。

「ただし君(きみ)の慎(つつし)みにあらず、臣下(しんか)のつつしみ」

 とぞ申(まう)しける。新(しん)大納言(だいなごん)これに恐(おそ)れをも致(いた)されず、昼(ひる)は人(ひと)目(め)の滋(しげ)ければ、夜(よ)な夜(よ)な歩行(かち)にて、中御門(なかのみかど)烏丸(からすま)の宿所(しゆくしよ)より、賀茂(かも)の上(うへ)の社(やしろ)へ七夜(しちや)続(つづ)けてまゐられけり。七夜(しちや)に満(みん)ずる夜(よ)、宿所(しゆくしよ)に下向(げかう)して、苦(くる)しさに、うちふし、ちと目(め)睡(まどろ)みたまへる夢(ゆめ)に、賀茂(かも)の上(うへ)の社(やしろ)へまゐりたるとおぼしくて、御宝殿(ごほうでん)の御戸(おんと)推(お)し開(ひら)き、ゆゆしくけだかげなる御(おん)声(こゑ)にて

桜花(さくらばな)賀茂(かも)の川(かは)かぜうらむなよ、散(ち)るをばえこそとどめざりけれ。

 新(しん)大納言(だいなごん)なほ恐(おそ)れをも致(いた)されず、賀茂(かも)の上(うへ)の社(やしろ)に、ある聖(ひじり)を籠(こ)めて、御宝殿(ごほうでん)の御後(おんうしろ)なる杉(すぎ)の洞(ほら)に壇(だん)を立(た)てて、拏吉尼(だきに)の法(ほふ)を百日(ひやくにち)行(おこな)はせられけるほどに、かの大(おほ)杉(すぎ)に雷(いかづち)落(お)ちかかり、雷(いかづち)火(ひ)おびただしく燃(も)え上(のぼ)りて、宮中(きゆうちゆう)すでに危(あやふ)く見(み)えけるを、宮人(みやびと)ども多(おほ)く走(はし)り集(あつ)まりて、これを打(う)ち消(き)つ。かの外法(げほふ)行(おこな)ひける聖(ひじり)を、追(お)ひ出(い)だせんとしければ、

「われ当社(たうしや)に百日(ひやくにち)参籠(さんろう)の大願(だいぐわん)あり、今日(けふ)は七十五日(しちじふごにち)になる。全(まつた)く出(い)づまじ」

 とてはたらかず。この由(よし)を社家(しやけ)より内裏(だいり)へ奏聞(そうもん)しければ

「ただ法(ほふ)に任(まか)せて追(お)ひ出(い)だせよ」

 と宣旨(せんじ)を下(くだ)さる。そのとき神人(じんにん)白杖(はくぢやう)をもつて、かの聖(ひじり)がうなじをしらけ、一条(いちでう)の大路(おほぢ)より南(みなみ)へ追(お)ひ出(い)だしてけり。神(かみ)は非礼(ひれい)をうけたまはずと申(まう)すに、この大納言(だいなごん)、非分(ひぶん)の大将(だいしやう)を祈(いの)り申(まう)されければにや、かかる不思議(ふしぎ)も出(い)で来(き)にけり。

 そのころの叙位除目(じよゐぢもく)と申(まう)すは、院内(ゐんない)の御(おん)はからひにもあらず、摂政(せつしやう)関白(くわんぱく)の御成敗(ごせいばい)にも及(およ)ばず、ただ一向(いつかう)平家(へいけ)のままにてありしかば、徳大寺(とくだいじ)、花山院(くわざんのゐん)もなりたまはず、入道(にふだう)相国(しやうこく)の嫡男(ちやくなん)小松殿(こまつどの)、右大将(うだいしやう)にておはしけるが、左(ひだり)に移(うつ)りて、次男(じなん)宗盛(むねもり)、中納言(ちゆうなごん)におはせしが、数輩(すはい)の上臈(じやうらふ)を超越(てうえつ)して、右(みぎ)に加(くは)はられけるこそ、申(まう)すばかりもなかりしか。中(なか)にも徳大寺(とくだいじ)殿(どの)は、一(いち)の大納言(だいなごん)にて華族(くわぞく)、英雄(えいゆう)、才学雄長(さいがくゆうちやう)、家嫡(かちやく)にてましましけるが、越(こ)えられたまひけるこそ遺恨(ゐこん)なれ。定(さだ)めて御出家(ごしゆつけ)などやあらむずらむと、人々(ひとびと)内々(ないない)は申(まう)しあへりしかども、しばらく世(よ)のならむやうを見(み)んとて、大納言(だいなごん)を辞(じ)し申(まう)して、籠(こ)もりゐとぞきこえし。

 新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)のたまひけるは、

「徳大寺(とくだいじ)、花山院(くわざんのゐん)に越(こ)えられたらむは、いかがせん。平家(へいけ)の次男(じなん)に越(こ)えらるるこそ安(やす)からね。これも万(よろ)づ思(おも)ふさまなるがいたすところなり。いかにもして平家(へいけ)を亡(ほろぼ)し本望(ほんまう)を遂(と)げむ」

 とのたまひけるこそ怖(おそろ)しけれ。父(ちち)の卿(きやう)は中納言(ちゆうなごん)までこそ至(いた)られしか。その末子(ばつし)にて、位(くらゐ)正二位(しやうにゐ)、官(くわん)大納言(だいなごん)にあがり、大国(たいこく)あまたたまはって、子息(しそく)所従(しよじゆう)朝恩(てうおん)に誇(ほこ)れり。なにの不足(ふそく)に、かかる心(こころ)つかれけん。これひとへに天魔(てんま)の所為(しよゐ)とぞ見(み)えし。平治(へいぢ)にも、越後中将(ゑちごのちゆうじやう)とて、信頼(のぶより)卿(きやう)に同心(どうしん)のあひだ、すでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、小松殿(こまつどの)やうやうに申(まう)して、首(くび)をつぎたまへり。さるにその恩(おん)を忘(わす)れて、外人(ぐわいじん)もなき所(ところ)に兵具(ひやうぐ)をととのへ、軍兵(ぐんぴやう)を語(かた)らひおき、その営(いとな)みの外(ほか)は他事(たじ)なし。

 東山(ひがしやま)の麓(ふもと)鹿(しし)の谷(たに)といふ所(ところ)は、後(のち)は三井寺(みゐでら)に続(つづ)いて、ゆゆしき城郭(じやうくわく)にてぞありける。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)の山(やま)庄(しやう)あり。かれに常(つね)は寄(よ)りあひあひ、平家(へいけ)滅(ほろぼ)さむずる謀(はかりごと)をぞ回(めぐら)しける。あるとき法皇(ほふわう)も御幸(ごかう)なる。故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんぜい)が子息(しそく)、浄憲法印(じやうけんほふいん)御供(おんとも)つかまつる。その夜(よ)の酒宴(しゆえん)に、この由(よし)を浄憲法印(じやうけんほふいん)におほせあはせられければ、

「あなあさましや、人(ひと)あまたうけたまはりさうらひぬ。ただ今(いま)漏(も)れきこえて、天下(てんが)の大事(だいじ)に及(およ)びさうらひなんず」

 と大(おほ)いに噪(さわ)ぎ申(まう)しければ、新(しん)大納言(だいなごん)気色(けしき)かはりて、さと立(た)たれけるが、御前(ごぜん)にさうらひける瓶子(へいじ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)にかけて引(ひ)きたふされたりけるを、法皇(ほふわう)

「あれはいかに」

 とおほせければ大納言(だいなごん)立(た)ちかへって、

「平氏(へいし)たふれさうらひぬ」

 と申(まう)されける。法皇(ほふわう)ゑつぼに入(い)らせおはしまして、

「物(もの)どもまゐりて猿楽(さるがく)つかまつれ」

 とおほせければ、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)まゐりて、

「ああ余(よ)にへいじの多(おほ)うさうらふに、もて酔(ゑ)ひてさうらふ」

 と申(まう)す。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)

「さてそれをいかがつかまつらむずる」

 と申(まう)されければ、西光法師(さいくわうほふし)

「頸(くび)を取(と)るにはしかじ」

 とて、瓶子(へいじ)の首(くび)を取(と)りてぞ入(い)りにける。浄憲法印(じやうけんほふいん)余(あま)りのあさましさに、つやつや物(もの)も申(まう)されず。返(かへ)す返(かへ)すも恐(おそ)ろしかりしことどもなり。与力(よりき)の輩(ともがら)たれたれぞ。近江中将(あふみのちゆうじやう)入道(にふだう)蓮浄(れんじやう)俗名(ぞくみやう)成正(なりまさ)、法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)、山城守(やましろのかみ)基兼(もとかね)、式部大輔(しきぶのたいふ)雅綱(まさつな)、平判官康頼(へいはうぐわんやすより)、宗判官信房(そうはうぐわんのぶふさ)、新平判官資行(しんへいはうぐわんすけゆき)、摂津国(せつつのくに)源氏(げんじ)多田蔵人行綱(ただのくらうどゆきつな)を始(はじ)めとして北面(ほくめん)の輩(ともがら)多(おほ)く与力(よりき)したりけり。

鵜川軍

 この法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)と申(まう)すは、京極(きやうごく)の源大納言雅俊(げんだいなごんまさとし)の卿(きやう)の孫(まご)、木寺(きでら)の法印寛雅(ほふいんくわんが)には子(こ)なりけり。祖父(おほぢ)大納言(だいなごん)させる弓箭(きゆうせん)を取(と)る家(いへ)にはあらねども、あまりに腹(はら)あしき人(ひと)にて、三条(さんでう)坊(ばう)門(もん)京極(きやうごく)の宿所(しゆくしよ)の前(まへ)をば、人(ひと)をもやすく通(とほ)さず、つねは中門(ちゆうもん)にたたずみ、歯(は)をくひしばり、怒(いか)りてぞおはしける。かかる人(ひと)の孫(まご)なればにや、この俊寛(しゆんくわん)も僧(そう)なれども、心(こころ)も猛(たけ)くおごれる人(ひと)にて、よしなき謀反(むほん)にも与(くみ)しけるにこそ。新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、多田(ただ)の蔵人(くらうど)行綱(ゆきつな)を呼(よ)びて、

「御辺(ごへん)をば、一方(いつぱう)の大将(だいしやう)に憑(たの)むなり。このことしおほせつるものならば、国(くに)をも庄(しやう)をも所望(しよまう)によるべし。先(ま)づ弓袋(ゆぶくろ)の料(れう)に」

 とて、白布(しらぬの)五十端(ごじつたん)送(おく)られたり。

 安元(あんげん)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)五日(いつか)、妙音院(めうおんゐん)殿(どの)、太政大臣(だいじやうだいじん)に転(てん)じたまへるかはりに、大納言(だいなごん)定房(さだふさ)卿(きやう)を越(こ)えて、小松殿(こまつどの)、内大臣(ないだいじん)になりたまふ。大臣(だいじん)の大将(だいしやう)めでたかりき。やがて大饗(だいきやう)行(おこな)はる。尊者(そんじや)には、大炊御門(おほひのみかど)左大臣(さだいじん)経宗(つねむね)公(こう)とぞきこえし。一(いち)のかみこそ先途(せんど)なれども、父(ちち)宇治(うぢ)の悪左府(あくさふ)の御例(ごれい)憚(はばか)りあり。

 北面(ほくめん)は上古(しやうこ)にはなかりけり。白河院(しらかはのゐん)の御時(おんとき)、始(はじ)め置(お)かれてより以降(いかう)、衛府(ゑふ)どもあまたさうらひけり。為俊(ためとし)、盛重(もりしげ)、童(わらは)より千手丸(せんじゆまる)、今犬丸(いまいぬまる)とて、これらは左右(さいう)なき切者(きれもの)にてぞありける。鳥羽院(とばのゐん)の御時(おんとき)も、季教(すゑのり)、季頼(すゑより)父子(ふし)、ともに朝家(てうか)にめしつかはれ伝奏(てんそう)する折(をり)もありなどきこえしかども、みな身(み)のほどをばふるまうてこそありしに、このときの北面(ほくめん)の輩(ともがら)は、以外(もつてのほか)に過分(くわぶん)にて、公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)をも物(もの)ともせず、礼(れい)儀(ぎ)礼節(れいせつ)もなし。下北面(げほくめん)より上北面(じやうほくめん)にあがり、上北面(じやうほくめん)より殿上(てんじやう)の交(まじ)はりを許(ゆる)さるる者(もの)もあり。かくのみ行(おこな)はるるあひだ、おごれる心(こころ)どもも出(い)できて、よしなき謀反(むほん)にも与(くみ)しけるにこそ。中(なか)にも故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんぜい)が許(もと)にめしつかひける師光(もろみつ)成景(なりかげ)といふものあり。師光(もろみつ)は阿波(あは)の国(くに)の在庁(ざいちやう)、成景(なりかげ)は京(きやう)の者(もの)、熟根(じゆくこん)賤(いや)しき下臈(げらふ)なり。健児童(こんでいわらは)、もしは恪勤者(かくごんのもの)などにてめしつかはれけるが、賢々(さかさか)しかりしによりて、師光(もろみつ)は左衛門尉(さゑもんのじよう)、成景(なりかげ)は右衛門尉(うゑもんのじよう)とて、二人(ふたり)一度(いちど)に靱負尉(ゆげひのじよう)になりぬ。信西(しんぜい)がことにあひしとき、二人(ふたり)ともに出家(しゆつけ)して、左衛門(さゑもん)入道(にふだう)西光(さいくわう)、右衛門(うゑもん)入道(にふだう)西敬(さいきやう)とて、これらは出家(しゆつけ)の後(のち)も、院(ゐん)の御倉預(みくらあづ)かりにてぞありける。

 かの西光(さいくわう)が子(こ)に、師高(もろたか)といふ者(もの)あり。これも切者(きれもの)にて、検非違使(けびゐし)五位尉(ごゐのじよう)に歴(へ)て上(のぼ)りて、安元(あんげん)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)廿九日(にじふきうにち)、追儺(つゐな)の除目(ぢもく)に加賀守(かがのかみ)にぞなされける。国務(こくむ)を行(おこな)ふあひだ、非法(ひほふ)非礼(ひれい)を張行(ちやうぎやう)し、神社仏寺(じんじやぶつじ)、権門勢家(けんもんせいか)の庄領(しやうりやう)を没倒(もつたう)し、散々(さんざん)のことどもにてぞありける。たとひせう公(こう)が跡(あと)を隔(へだ)つといふとも、穏便(をんびん)の政(まつりごと)を行(おこな)ふべかりしに、かく心(こころ)のままにふるまひしほどに、同(どう)二年(にねん)夏(なつ)のころ、国司(こくし)師高(もろたか)が弟(おとと)、近藤判官(こんどうはうぐわん)師経(もろつね)、加賀(かが)の目代(もくだい)に補(ぶ)せらる。目代(もくだい)下著(げちやく)のはじめ、国府(こくふ)の辺(へん)に鵜川(うかは)といふ山寺(やまでら)あり。寺僧(じそう)どもが境節(をりふし)湯(ゆ)をわかいて浴(あ)びけるを、乱入(らんにふ)しておひあげ、わがみあび、雑人(ざふにん)どもおろし、馬(うま)洗(あら)はせなどしけり。寺僧(じそう)怒(いか)りをなして、

「昔(むかし)よりこの処(ところ)は国方(くにがた)の者(もの)入部(にふぶ)することなし。速(すみやか)に先例(せんれい)に任(まか)せて、入部(にふぶ)の押妨(あふばう)をとどめよ」

 とぞ申(まう)しける。

「先(さき)先(さき)の目代(もくだい)は、不覚(ふかく)でこそいやしまれたれ。当目代(たうもくだい)はその儀(ぎ)あるまじ。ただ法(ほふ)に任(まか)せよ」

 といふほどこそありけれ、寺僧(じそう)どもは、国方(くにがた)の者(もの)を追(お)ひ出(い)だせむとす。国方(くにがた)の者(もの)どもは次(つい)でをもつて、乱入(らんにふ)せんとす。うちあひ張(は)り合(あ)ひしけるほどに、目代(もくだい)師経(もろつね)が秘蔵(ひざう)しける馬(うま)の足(あし)をぞ打(う)ち折(を)りける。その後(のち)は互(たがひ)に弓箭(きゆうせん)兵仗(ひやうぢやう)をたいして、射(い)合(あ)ひ截(き)り合(あ)ひ数刻(すこく)戦(たたか)ふ。目代(もくだい)かなはじとや思(おも)ひけむ、夜(よ)に入(い)りて引(ひ)き退(しりぞ)く。その後(のち)当国(たうこく)の在庁(ざいちやう)ども催(もよほ)し集(あつ)め、その勢(せい)一千(いつせん)余(よ)騎(き)鵜川(うかは)に押(お)し寄(よ)せて、坊舎(ばうしや)一宇(いちう)も残(のこ)さず焼(や)き払(はら)ふ。鵜川(うかは)といふは、白山(はくさん)の末寺(まつじ)なり。このこと訴(うつた)へんとて進(すす)む老僧(らうそう)たれたれぞ。智釈(ちしやく)、学明(がくめい)、宝台房(ほうだいばう)、正智(しやうち)、学音(がくおん)、土佐阿闍梨(とさのあじやり)ぞ進(すす)みける。白山三社(はくさんさんしや)、八院(はちゐん)の大衆(だいしゆ)、ことごとく起(お)こりあひ、都合(つがふ)その勢(せい)二千(にせん)余人(よにん)、同(どう)七月(しちぐわつ)九日(ここのか)の暮(く)れ方(かた)に、目代(もくだい)師経(もろつね)が館(やかた)近(ちか)うこそ押(お)し寄(よ)せたれ。今日(けふ)は日(ひ)暮(く)れぬ。明日(あす)の軍(いくさ)と定(さだ)めて、その日(ひ)はよせでゆらへたり。露(つゆ)ふき結(むす)ぶ秋(あき)風(かぜ)は、射向(いむけ)の袖(そで)を翻(ひるがへ)し、雲井(くもゐ)を照(て)らす稲妻(いなづま)は冑(かぶと)の星(ほし)を耀(かがや)かす。目代(もくだい)かなはじとや思(おも)ひけん、夜逃(よにげ)にして京(きやう)へのぼる。明(あ)くる卯刻(うのこく)に押(お)し寄(よ)せて、閧(とき)をどとつくる。城(じやう)の中(なか)には音(おと)もせず。人(ひと)を入(い)れて見(み)せければ、みな落(お)ちてさうらふと申(まう)す。大衆(だいしゆ)力(ちから)及(およ)ばで引(ひ)き退(しりぞ)く。さらば山門(さんもん)へ訴(うつた)へんとて、白山中宮(はくさんちゆうぐう)の神輿(みこし)をかざりたてまつり、比叡山(ひえいざん)へふりあげたてまつる。同(どう)八月(はちぐわつ)十二日(じふににち)の午(うま)刻(こく)ばかり、白山(はくさん)の神輿(みこし)、すでに比叡山(ひえいざん)東坂本(ひがしさかもと)につかせたまふといふほどこそありけれ。北国(ほくこく)の方(かた)より雷(いかづち)おびただしく鳴(な)りて、都(みやこ)をさして鳴(な)りのぼる。白雪(しらゆき)くだりて地(ち)を埋(うづ)み、山上洛中(さんじやうらくちゆう)おしなべて、常葉(ときは)の山(やま)の梢(こずゑ)までみな白妙(しろたへ)になりけり。

願立

 神輿(みこし)をば、客人(まらうど)の宮(みや)へ入(い)れたてまつる。客人(まらうど)と申(まう)すは、白山妙理権現(はくさんめうりごんげん)にておはします。申(まう)せば父子(ふし)の御中(おんなか)なり。まづ沙汰(さた)の成否(じやうふ)は知(し)らず、生前(しやうぜん)のおんよろこび、ただこのことにあり。浦島(うらしま)が子(こ)の七世(しちせ)の孫(まご)に遭(あ)へりしにも過(す)ぎ、胎内(たいない)の者(もの)の霊山(りやうぜん)の父(ちち)を見(み)しにも超(こ)えたり。三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)踵(きびす)をつぎ、七社(しちしや)の神人(じんにん)袖(そで)を列(つら)ね、時々刻々(じじこくこく)の法施(ほつせ)、祈念(きねん)、言語道断(ごんごだうだん)のことどもなり。

 山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、国司(こくし)加賀(かが)の守(かみ)師高(もろたか)を流罪(るざい)に処(しよ)せられ、目代(もくだい)近藤判官(こんどうはうぐわん)師経(もろつね)を禁獄(きんごく)せらるべき由(よし)奏聞(そうもん)す。御裁断(ごさいだん)遅(おそ)かりければ、さも可然(しかるべき)公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)は、

「あはれとく御裁許(ごさいきよ)あるべきものを、昔(むかし)より山門(さんもん)の訴訟(そしよう)は他(た)に異(こと)なり、大蔵卿為房(おほくらのきやうためふさ)、太宰(だざい)の権帥(ごんのそつ)季仲(すゑなか)は、さしも朝家(てうか)の重臣(ぢゆうしん)たりしかども、山門(さんもん)の訴訟(そしよう)によって、流罪(るざい)せられにき。いはんや師高(もろたか)などは、ことの数(かず)にやはあるべきに、子細(しさい)にや及(およ)ぶべき」

 と申(まう)しあはれけれども、

「大臣(だいじん)は禄(ろく)を重(おも)んじて諫(いさ)めず、小臣(せうしん)は罪(つみ)に恐(おそ)れて申(まう)さず」

 といふことなれば、おのおの口(くち)を閉(と)ぢたまへり。

「賀茂(かも)川(かは)の水(みづ)、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまほふし)、これぞわが心(こころ)にかなはぬもの」

 と白河院(しらかはのゐん)もおほせなりけるとかや。鳥羽院(とばのゐん)の御時(おんとき)、越前(ゑちぜん)の平泉寺(へいせんじ)を、山門(さんもん)へつけられけるには、当山(たうざん)を御帰依(ごきえ)浅(あさ)からざるによって、

「非(ひ)をもつて理(ことわり)とす」

 とこそ、宣下(せんげ)せられて、院宣(ゐんぜん)をば下(くだ)されけれ。江帥匡房(がうのそつまさふさ)卿(きやう)の申(まう)されしやうに、

「神輿(みこし)を陣頭(ぢんとう)へ振(ふ)りたてまつりて、訴(うつた)へ申(まう)さんには、君(きみ)はいかがおんはからひさうらふべき」

 と申(まう)されければ、

「げにも山門(さんもん)の訴訟(そしよう)はもだしがたし」

 とぞおほせける。

 去(さ)んじ嘉保(かほう)二年(にねん)三月(さんぐわつ)二日(ふつか)、美濃守源義綱朝臣(みののかみみなもとのよしつなのあそん)、当国(たうこく)新立(しんりふ)の庄(しやう)を倒(たふ)すあひだ、山(やま)の久住者(くぢうしや)円応(ゑんおう)を殺害(せつがい)す。これによって日吉(ひよし)の社司(しやし)、延暦寺(えんりやくじ)の寺官(じくわん)、都合(つがふ)三十余人(さんじふよにん)、申(まう)し文(ふみ)をささげて陣頭(ぢんとう)へさんじけるを後二条関白(ごにでうのくわんぱく)殿(どの)、大和源氏(やまとげんじ)中務権少輔頼春(なかつかさのごんのせうふよりはる)におほせてふせがせらる。頼春(よりはる)が郎等(らうどう)矢(や)を放(はな)つ。矢庭(やには)に射殺(いころ)さるる者(もの)八人(はちにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者(もの)十(じふ)余人(よにん)、社司(しやし)諸司(しよし)四方(しはう)へちりぬ。山門(さんもん)の上綱(じやうかう)ら、仔細(しさい)を奏聞(そうもん)のために下洛(げらく)すときこえしかば、武士(ぶし)、検非違使(けびゐし)、西坂本(にしさかもと)に馳(は)せ向(むか)ひて、みなおかへす。

 山門(さんもん)には、御裁断(ごさいだん)遅々(ちち)のあひだ、七社(しちしや)の神輿(みこし)を根本中堂(こんぽんちゆうだう)に振(ふ)り上(あ)げたてまつり、その御前(ごぜん)にて、真読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を七日(なのか)読(よ)んで、関白(くわんぱく)殿(どの)を呪咀(じゆそ)したてまつる。結願(けちぐわん)の導師(だうし)には、仲胤法印(ちゆういんほふいん)、そのころはいまだ仲胤供奉(ちゆういんぐぶ)と申(まう)しが、高座(かうざ)に上(のぼ)り、かね打(う)ちならし、表白(へうびやく)の詞(ことば)にいはく、

「われらなたねの二葉(ふたば)よりおふし立(た)てたまふ神達(かんだち)、後二条(ごにでう)の関白(くわんぱく)殿(どの)に、鏑矢(かぶらや)一(ひと)つ放(はな)ち当(あ)てたまへ、大八王子権現(だいはちわうじごんげん)」

 と高(たか)らかにぞ祈誓(きせい)したりける。やがてその夜(よ)不思議(ふしぎ)のことあり。八王子(はちわうじ)の御殿(おんとの)より、鏑矢(かぶらや)の声(こゑ)いでて、王城(わうじやう)をさしてなん行(ゆ)くとぞ、人(ひと)の夢(ゆめ)には見(み)たりける。そのあした、関白(くわんぱく)殿(どの)の御所(ごしよ)の御(おん)格子(かうし)をあげけるに、ただ今(いま)山(やま)よりとってきたるやうに、露(つゆ)にぬれたる樒(しきみ)、一枝(ひとえだ)たったりけるこそ怖(おそろ)しけれ。やがて山王(さんわう)の御(おん)咎(とが)めとて、後二条(ごにでう)の関白(くわんぱく)殿(どの)、重(おも)き御病(ごびやう)をうけさせたまひしかば、母上(ははうへ)、大殿(おほとの)の北の政所(きたのまんどころ)大(おほ)いに歎(なげ)かせたまひつつ、御(おん)やうをやつし、賤(いや)しき下臈(げらふ)のまねをして、日吉(ひよし)の社(やしろ)に御(おん)参籠(さんろう)あって、七日(なのか)七夜(しちや)が間(あひだ)祈(いの)り申(まう)させたまひけり。あらはれての御(おん)祈(いの)りには、百(ひやく)番(ばん)の芝田楽(しばでんがく)、百(ひやく)番(ばん)の一物(いちもつ)、競馬(くらべうま)、流鏑馬(やぶさめ)、相撲(すまひ)おのおの百(ひやく)番(ばん)、百座(ひやくざ)の仁王講(にんわうかう)、百座(ひやくざ)の薬師講(やくしかう)、一搩手半(いちちやくしゆはん)の薬師(やくし)百体(ひやくたい)、等身(とうしん)の薬師(やくし)一体(いつたい)並(なら)びに釈迦(しやか)、阿弥陀(あみだ)の像(ざう)、おのおの造立(ざうりふ)供養(くやう)せられけり。また御心中(ごしんちゆう)に、三(み)つの御立願(ごりふぐわん)あり。御心(みこころ)のうちのことなれば、人(ひと)いかで知(し)りたてまつるべき。それに不思議(ふしぎ)なりしことは、七日(なのか)に満(みん)ずる夜(よ)、八王子(はちわうじ)の御社(おんやしろ)にいくらもありけるまゐる人(ひと)どもの中(なか)に、陸奥(みちのく)より遥々(はるばる)と上(のぼ)りたりける童神子(わらはみこ)、夜半(やはん)ばかりににはかにたえ入(い)りけり。遥(はるか)にかき出(い)だして祈(いの)りければ、ほどなくいき出(い)でて、やがて立(た)って舞(ま)ひかなづ。人(ひと)奇特(きどく)の思(おも)ひをなしてこれを見(み)る。半時(はんとき)ばかり舞(ま)ひて後(のち)、山王(さんわう)おりさせたまひて、やうやうの御託宣(ごたくせん)こそ恐(おそ)ろしけれ。

「衆生等(しゆじやうら)確(たしか)にうけたまはれ。大殿(おほとの)の北の政所(きたのまんどころ)、今日(けふ)七日(なのか)わが御前(ごぜん)に籠(こ)もらせたまひたり。御立願(ごりふぐわん)三(み)つあり。一(ひと)つには今度(こんど)殿下(てんが)の寿命(じゆみやう)を助(たす)けてたべ、さもさうらはば、下殿(しもどの)にさうらふ諸(もろもろ)のかたはうどに交(まじ)はりて、一千日(いつせんにち)が間(あひだ)、朝夕(てうせき)宮仕(みやじ)申(まう)さんとなり。大殿(おほとの)の北の政所(きたのまんどころ)にて、世(よ)を世(よ)ともおぼしめさで、すごさせたまふ御心(みこころ)に、子(こ)を思(おも)ふ道(みち)にまよひぬれば、いぶせきことも忘(わす)れて、あさましげなるかたはうどに交(まじ)はって、一千日(いつせんにち)が間(あひだ)、朝夕(てうせき)宮仕(みやじ)申(まう)さむとおほせらるるこそ、まことに哀(あはれ)におぼしめせ。二(ふた)つには、大宮(おほみや)の波止土濃(はしとどの)より八王子(はちわうじ)の御社(おんやしろ)まで、回廊(くわいらう)作(つく)りてまゐらせむとなり。三千人(さんぜんにん)の大衆(だいしゆ)、降(ふ)りにも照(て)りにも、社参(しやさん)のときいたはしうおぼゆるに、回廊(くわいらう)作(つく)られたらば、いかにめでたからん。三(み)つには今度(こんど)の殿下(てんが)の寿命(じゆみやう)を助(たす)けさせたまはば、八王子(はちわうじ)の御社(おんやしろ)にて、法花問答講(ほつけもんだふかう)毎日(まいにち)退転(たいてん)なく行(おこな)ふべしとなり。いづれもおろかならねども、かみ二(ふた)つはさなくともありなむ。毎日(まいにち)法花問答講(ほつけもんだふかう)は、まことにあらまほしうこそおぼしめせ。ただ今度(こんど)の訴訟(そしよう)は、むげに安(やす)かりぬべきことにてありつるを、御裁許(ごさいきよ)なくして、神人(じんにん)宮仕(みやじ)射殺(いころ)され、疵(きず)を被(かうぶ)り、泣(な)く泣(な)くまゐりて訴(うつた)へ申(まう)すことの余(よ)に心(こころ)憂(う)くて、いかならむ世(よ)までも忘(わす)るべしともおぼえず。その上(うへ)かれらに当(あ)たる処(ところ)の矢(や)は、しかしながら和光垂跡(わくわうすいじやく)の御膚(おんはだ)に立(た)たるなり。まことか虚言(そらごと)かこれを見(み)よ」

 とて、肩(かた)ぬいだるを見(み)れば、左(ひだり)の脇(わき)の下(した)、大(おほ)きなるかはらけの口(くち)ばかりうげのいてぞ見(み)えたりける。

「これが余(よ)に心(こころ)憂(う)ければ、いかに申(まう)すとも、始終(しじゆう)のことは叶(かな)ふまじ。法花問答講(ほつけもんだふかう)一定(いちぢやう)あるべくば、三年(さんねん)が命(いのち)を延(の)べてたてまつらむ。それを不足(ふそく)におぼしめさば、力(ちから)及(およ)ばず」

 とて山王(さんわう)あがらせたまひけり。母上(ははうへ)は御立願(ごりふぐわん)のこと、人(ひと)にも語(かた)らせたまはねばたれ漏(も)らしつらむと、少(すこ)しも疑(うたが)ふ方(かた)もましまさず。御心(みこころ)の内(うち)のことどもを、ありのままに御託宣(ごたくせん)ありければ、心肝(しんかん)にそうて、ことに貴(たふと)くおぼしめし、泣々(なくなく)申(まう)させたまひけるは

「たとひ一日(いちにち)片時(へんじ)にてさうらふとも、ありがたうこそさうらふべきに、まして三年(さんねん)が命(いのち)を延(の)べてたぶらむことしかるべうさうらふ」

 とて、泣々(なくなく)御下向(ごげかう)あり。急(いそ)ぎ都(みやこ)へ入(い)らせたまひて、殿下(てんが)の御領紀伊国(ごりやうきいのくに)に、田中庄(たなかのしやう)といふ所(ところ)を、八王子(はちわうじ)の御社(おんやしろ)へ永代寄進(えいたいきしん)せらる。それよりして法花問答講(ほつけもんだふかう)、今(いま)の世(よ)に至(いた)るまで毎日(まいにち)退転(たいてん)なしとぞうけたまはる。

 かかりしほどに、後二条関白(ごにでうのくわんぱく)殿(どの)、御病(ごびやう)かろませたまひて、もとのごとくにならせたまふ。上下(じやうげ)喜(よろこ)びあはれしほどに、三年(さんねん)の過(す)ぐるは夢(ゆめ)なれや、永長(えいちやう)二年(にねん)になりにけり。六月(ろくぐわつ)二十一日(にじふいちにち)、また後二条(ごにでう)の関白(くわんぱく)殿(どの)、御髪(おんぐし)の際(きは)に悪(あ)しき御瘡(おんかさ)出(い)できさせたまひて、打(う)ち臥(ふ)させたまひしが、同(どう)二十七日(にじふしちにち)、御年(おんとし)三十八(さんじふはち)にてつひにかくれさせたまひぬ。御心(みこころ)の猛(たけ)さ、理(ことわり)の強(つよ)さ、さしもゆゆしき人(ひと)にてましましけれども、まめやかにことの急(きふ)になりしかば、御命(おんいのち)を惜(を)しませたまひけるなり。まことに惜(を)しかるべし。四十(しじふ)にだにも満(み)たせたまはで、大殿(おほとの)に先(さき)立(た)ちまゐらせたまふこそ悲(かな)しけれ。かならずしも父(ちち)を先(さき)立(た)つべしといふことはなけれども、生死(しやうじ)のおきてに順(したが)ふならひ、万徳円満(まんとくゑんまん)の世尊(せそん)、十地究竟(じふぢくきやう)の大士達(だいしだち)も、力(ちから)及(およ)びたまはぬことどもなり、慈悲具足(じひぐそく)の山王(さんわう)、利物(りもつ)の方便(はうべん)にてましませば、御(おん)咎(とが)めなかるべしとも覚(おぼ)えず。

御輿振

 さるほどに山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、国司(こくし)加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)を流罪(るざい)に処(しよ)せられ、目代(もくだい)近藤判官(こんどうはうぐわん)師経(もろつね)を禁獄(きんごく)せらるべき由(よし)、奏聞(そうもん)度々(たびたび)に及(およ)ぶといへども、御裁許(ごさいきよ)なかりければ、日吉(ひよし)の祭礼(さいれい)を打(う)ち留(とど)めて、安元(あんげん)三年(さんねん)四月(しぐわつ)十三日(じふさんにち)辰(たつ)の一点(いちてん)に、十禅師(じふぜんじ)、客人(まらうど)、八王子(はちわうじ)三社(さんしや)の神輿(みこし)かざりたてまつりて、陣頭(ぢんとう)へ振(ふ)りたてまつる。下松(さがりまつ)、きれ堤(づつみ)、賀茂(かも)の川原(かはら)、糺(ただす)、梅(うめ)ただ、柳原(やなぎはら)、東北院(とうほくゐん)の辺(へん)に、しら大衆(だいしゆ)、神人(じんにん)、宮仕(みやじ)、専当(せんだう)みちみちて、幾(いく)らといふ数(かず)を知(し)らず、神輿(みこし)は一条(いちでう)を西(にし)へいらせたまふ。御神宝(ぎよしんぽう)天(てん)にかがやいて、日月(じつげつ)地(ち)に落(お)ちたまふかと驚(おどろ)かる。これによって、源平両家(げんぺいりやうけ)の大将軍(だいしやうぐん)、四方(しはう)の陣頭(ぢんとう)を固(かた)めて、大衆(だいしゆ)防(ふせ)ぐべきよしおほせ下(くだ)さる。平家(へいけ)には、小松(こまつ)の内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)重盛(しげもり)公(こう)、その勢(せい)三千(さんぜん)余(よ)騎(き)にて、大宮面(おほみやおもて)の陽明(やうめい)、待賢(たいけん)、郁芳(いくはう)、三(み)つの門(もん)をかためたまふ。弟(おとと)宗盛(むねもり)、知盛(とももり)、重衡(しげひら)、伯父(をぢ)頼盛(よりもり)、教盛(のりもり)、経盛(つねもり)などは、西南(せいなん)の陣(ぢん)を固(かた)められけり。源氏(げんじ)には、大内守護(おほうちしゆご)の源三位頼政卿(げんさんみよりまさのきやう)、渡辺(わたなべ)の省授(はぶく)をむねとして、その勢(せい)わづかに三百余騎(さんびやくよき)、北(きた)の門(もん)、縫殿(ぬひどの)の陣(ぢん)を固(かた)めたまふ。処(ところ)は広(ひろ)し、勢(せい)は少(すこ)し、まばらにこそ見(み)えたりけれ。

 大衆(だいしゆ)無勢(むせい)たるによって、北(きた)の門(もん)、縫殿(ぬひどの)の陣(ぢん)より、神輿(みこし)を入(い)れたてまつらんとす。頼政(よりまさ)卿(きやう)さる人(ひと)にて、馬(うま)よりおり冑(かぶと)をぬいで、神輿(みこし)を拝(はい)したてまつる。兵(つはもの)どもみなかくのごとし。衆徒(しゆと)の中(なか)へ使者(ししや)を立(た)てて、申(まう)し送(おく)る旨(むね)あり。その使(つかひ)は、渡辺(わたなべ)の長七唱(ちやうしちとなふ)といふ者(もの)なり。唱(となふ)その日(ひ)は、きちんの直垂(ひたたれ)に、小桜(こざくら)を黄(き)にかへいたる鎧(よろひ)著(き)て、赤銅作(しやくどうづくり)の太刀(たち)を帯(は)き、白羽(しらは)の箭(や)負(お)ひ、滋籐(しげどう)の弓(ゆみ)脇(わき)にはさみ、冑(かぶと)をばぬぎ高紐(たかひも)に掛(か)け、神輿(みこし)の御前(ごぜん)にかしこまりて申(まう)しけるは、

「衆徒(しゆと)の御中(おんなか)へ源(みなもと)三位(さんゐ)殿(どの)の申(まう)せとさうらふ。今度(こんど)山門(さんもん)の御(おん)訴訟(そしよう)、理運(りうん)の条(でう)勿論(もちろん)にさうらふ。御成敗(ごせいばい)遅々(ちち)こそよそにても遺恨(ゐこん)に覚(おぼ)えさうらへ。さては神輿(みこし)入(い)れたてまつらむこと仔細(しさい)に及(およ)びさうらはず。ただ頼政(よりまさ)無(む)勢(せい)にさうらふ。その上(うへ)明(あ)けて入(い)れたてまつる陣(ぢん)より入(い)らせたまひてさうらはば、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)は目(め)たりがほしけりなど、京童(きやうわらんべ)の申(まう)さうらはむこと、後日(ごじつ)の難(なん)にやさうらはんずらむ。神輿(みこし)を入(い)れたてまつらば、宣旨(せんじ)を背(そむ)くに似(に)たり。また防(ふせ)ぎたてまつらば年来(ねんらい)医王(いわう)、山王(さんわう)に首(くび)を傾(かたぶ)けたてまつりてさうらふ身(み)が、今日(けふ)より後(のち)、弓箭(きゆうせん)の道(みち)に分(わか)れさうらひなむず。あれぞいひ、これぞいひ、かたがた難治(なんぢ)のやうにさうらふ。東(ひがし)の陣(ぢん)は、小松殿(こまつどの)大勢(おほぜい)で固(かた)められてさうらふ。その陣(ぢん)より入(い)らせたまふべうもやさうらふらむ」

 と、いひ送(おく)りたりければ、唱(となふ)がかくいふに防(ふせ)がれて、神人(じんにん)、宮仕(みやじ)しばらくゆらへたり。

 若(わか)大衆(だいしゆ)どもは、

「なにでうその義(ぎ)あるべき、ただこの陣(ぢん)より神輿(みこし)を入(い)れたてまつれ」

 といふ族(やから)多(おほ)かりけれども、老僧(らうそう)のなかに、三塔(さんたふ)一(いち)の僉議者(せんぎしや)ときこえし、摂津(せつつ)の堅者豪雲(けんじやがううん)進(すす)み出(い)でて申(まう)しけるは、

「尤(もつと)もさいはれたり。神輿(みこし)を先(さき)立(た)てまゐらせて、訴訟(そしよう)をいたさば、大勢(おほぜい)の中(なか)をうち破(やぶ)りてこそ、後代(こうだい)のきこえもあらむずれ。なかんづくにこの頼政(よりまさ)の卿(きやう)は、六孫王(ろくそんわう)より以降(いかう)、源氏(げんじ)嫡々(ちやくちやく)の正統(しやうとう)、弓矢(ゆみや)を取(と)りていまだその不覚(ふかく)を聞(き)かず。凡武芸(およそぶげい)にも限(かぎ)らず、歌道(かだう)にも勝(すぐ)れたり。近衛院(こんゑのゐん)御在位(ございゐ)のとき、当座(たうざ)の御(おん)会(くわい)ありしに、『深山花(しんざんのはな)』といふ題(だい)を出(い)だされたりけるに、人々(ひとびと)読(よ)み煩(わづら)ひしに、この頼政(よりまさ)卿(きやう)、

深山木(みやまぎ)のその梢(こずゑ)とも見(み)えざりし、桜(さくら)ははなにあらはれにけり。

といふ名歌(めいか)つかまつりて、御感(ぎよかん)に預(あづ)かるほどのやさしき男(をとこ)に、時(とき)に臨(のぞ)んで、いかがなさけなう恥辱(ちじよく)をば与(あた)ふべき。この神輿(みこし)かき返(かへ)したてまつれや」

 と僉議(せんぎ)しければ、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)、先陣(せんぢん)より後陣(ごぢん)まで、みな尤々(もつとももつとも)とぞ同(どう)じける。さて神輿(みこし)を先(さき)立(た)てまゐらせて、東(ひがし)の陣頭(ぢんとう)待賢門(たいけんもん)より入(い)れたてまつらむとしければ、狼藉(らうぜき)たちまちに出(い)で来(き)て、武士(ぶし)ども散々(さんざん)に射(い)たてまつる。十禅師(じふぜんじ)の御輿(みこし)にも、矢(や)どもあまた射(い)立(た)ちたり。神人(じんにん)宮仕(みやじ)射殺(いころ)され、衆徒(しゆと)多(おほ)く疵(きず)を被(かうぶ)る。をめき叫(さけ)ぶ声(こゑ)梵天(ぼんてん)までもきこえ、堅牢地神(けんらうぢしん)も驚(おどろ)くらんとぞ覚(おぼ)えける。大衆(だいしゆ)神輿(みこし)をば、陣頭(ぢんとう)に振(ふ)り棄(す)てたてまつり、泣(な)く泣(な)く本山(ほんざん)へ帰(かへ)り上(のぼ)る。

内裏炎上

 蔵人(くらうど)の左少弁(させうべん)兼光(かねみつ)におほせて、殿上(てんじやう)にて、にはかに公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。保安(ほうあん)四年(しねん)七月(しちぐわつ)に、神輿(みこし)入洛(じゆらく)のときは座主(ざす)におほせて、赤山(せきざん)の社(やしろ)へ入(い)れたてまつる。また保延(ほうえん)四年(しねん)四月(しぐわつ)に、神輿(みこし)入洛(じゆらく)のときは、祇園(ぎをん)の別当(べつたう)におほせて、祇園(ぎをん)の社(やしろ)へ入(い)れたてまつる。今度(こんど)は保延(ほうえん)の例(ためし)たるべしとて、祇園(ぎをん)の別当(べつたう)権大僧都澄兼(ごんのだいそうづちようけん)におほせて、秉燭(へいしよく)に及(およ)んで、祇園(ぎをん)の社(やしろ)へ入(い)れたてまつる。神輿(みこし)に立(た)つところの箭(や)をば、神人(じんにん)してこれを抜(ぬ)かせらる。山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、日吉(ひよし)の神輿(みこし)を陣頭(ぢんとう)へ振(ふ)りたてまつること、永久(えいきう)より以降(いかう)、治承(ぢしよう)までは六箇度(ろくかど)なり。毎度(まいど)に武士(ぶし)をめしてこそ防(ふせ)がれけれども神輿(みこし)射(い)たてまつること、これ始(はじ)めとぞうけたまはる。

「霊神(れいじん)怒(いか)りをなせば、災害(さいがい)岐(ちまた)に満(み)つといへり。怖(おそろ)し怖(おそろ)し」

 とぞ人々(ひとびと)申(まう)し合(あ)はれける。

 同(どう)十四日(じふよつか)夜半(やはん)ばかり、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)、また下洛(げらく)すときこえしかば、夜中(やちゆう)に主上(しゆしやう)腰輿(えうよ)にめして、院(ゐん)の御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸(ぎやうかう)なる。中宮(ちゆうぐう)は御車(おんくるま)にたてまつりて、行啓(ぎやうけい)あり。小松(こまつ)の大臣(だいじん)、直衣(なほし)に箭(や)負(お)ひて供奉(ぐぶ)せらる。嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけせうしやう)維盛(これもり)、束帯(そくたい)に平胡録(ひらやなぐひ)負(お)ひてまゐられけり。関白(くわんぱく)殿(どの)を始(はじ)めたてまつりて、太政大臣(だいじやうだいじん)以下(いげ)の公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)、われもわれもと馳(は)せまゐる。およそ京中(きやうぢゆう)の貴賤(きせん)、禁中(きんちゆう)の上下(じやうげ)、噪(さわ)ぎののしること夥(おびただ)し。山門(さんもん)には神輿(みこし)に箭(や)立(た)ち、神人(じんにん)宮仕(みやじ)射殺(いころ)され、衆徒(しゆと)多(おほ)く疵(きず)を被(かうぶ)りしかば、大宮(おほみや)、二宮(にぐう)以下(いげ)、講堂(かうだう)、中堂(ちゆうだう)、すべて諸堂(しよだう)一宇(いちう)も残(のこ)さずみな焼(や)き払(はら)ひて、山野(さんや)にまじはるべきよし、三千一同(さんぜんいちどう)に僉議(せんぎ)しけり。これによって大衆(だいしゆ)の申(まう)すところ、御(おん)はからひあるべしときこえしかば、山門(さんもん)の上綱(じやうかう)ら、子細(しさい)を衆徒(しゆと)に触(ふ)れむとて、登山(とうざん)したりけるを、大衆(だいしゆ)おこって西坂本(にしさかもと)よりみなおかへす。

 平大納言(へいだいなごん)時忠卿(ときただのきやう)、そのときはいまだ左衛門督(さゑもんのかみ)にておはしけるが、上卿(しやうけい)に立(た)つ。大講堂(だいかうだう)の庭(には)に三塔会合(さんたふくわいがふ)して、上卿(しやうけい)を取(と)りてひはらんとす。

「しや冠(かぶり)打(う)ち落(お)とせ、その身(み)を搦(から)めて、湖(うみ)に沈(しづ)めよ」

 などぞ僉議(せんぎ)しける。すでにかうと見(み)えけるに、時忠卿(ときただのきやう)、

「しばらくしづまられさうらへ。衆徒(しゆと)の御中(おんなか)へ申(まう)すべきことあり」

 とて、懐(ふところ)より小硯(こすずり)畳紙(たたうがみ)を取(と)り出(い)だし、一筆(いつぴつ)書(か)いて大衆(だいしゆ)の中(なか)へ遣(つか)はす。これを披(ひら)いて見(み)れば、

「衆徒(しゆと)の濫悪(らんあく)を致(いた)すは魔縁(まえん)の所行(しよぎやう)なり。明王(めいわう)の制止(せいし)を加(くは)ふるは、善逝(ぜんぜい)の加護(かご)なり」

 とこそ書(か)かれたれ。これを見(み)て、ひはるに及(およ)ばず、みな尤々(もつとももつとも)と同(どう)じて、谷々(たにだに)へおり、坊々(ばうばう)へぞ入(い)りにける。一紙一句(いつしいつく)をもて、三塔(さんたふ)三千(さんぜん)の憤(いきどほ)りをやすめ、公私(こうし)の恥(はぢ)を逃(のが)れたまへる時忠卿(ときただのきやう)こそゆゆしけれ。人々(ひとびと)も山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)は、発向(はつかう)のかまびすしきばかりかと思(おも)ひたれば、理(ことわり)も存知(ぞんぢ)したりけりとぞ、感(かん)ぜられける。

 同(どう)廿日(はつか)、花山院権中納言忠親卿(くわざんのゐんごんのちゆうなごんただちかのきやう)を上卿(しやうけい)にて、国司(こくし)加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)つひに欠官(けつくわん)せられて、尾張(をはり)の井戸田(ゐどた)へ流(なが)されけり。目代(もくだい)近藤判官(こんどうはうぐわん)師経(もろつね)禁獄(きんごく)せらる。また去(さ)る十三日(じふさんにち)神輿(みこし)射(い)たてまつりし武士(ぶし)六人(ろくにん)獄定(ごくぢやう)せらる。左衛門尉藤原正純(さゑもんのじようふぢはらのまさずみ)、右衛門尉正季(うゑもんのじようまさすゑ)、左衛門尉(さゑもんのじよう)大江家兼(おほえのいへかね)、右衛門尉(うゑもんのじよう)同家国(どういへくに)、左兵衛尉(さひやうゑのじよう)清原康家(きよはらのやすいへ)、右兵衛尉(うひやうゑのじよう)同康友(どうやすとも)、これらはみな小松殿(こまつどの)の侍(さぶらひ)なり。

 同(どう)四月(しぐわつ)二十八日(にじふはちにち)亥刻(ゐのこく)ばかりに、樋口富小路(ひぐちとみのこうぢ)より火(ひ)出(い)で来(き)て、辰巳(たつみ)の風(かぜ)烈(はげ)しう吹(ふ)きければ、京中(きやうぢゆう)多(おほ)く焼(や)けにけり。大(おほ)きなる車輪(しやりん)のごとくなるほむらが、三町(さんちやう)五町(ごちやう)を隔(へだ)てて、戌亥(いぬゐ)の方(かた)へすぢかへに、飛(と)び越(こ)え越(こ)え焼(や)け行(ゆ)けば、怖(おそろ)しなどもおろかなり。あるいは具平親王(ともひらしんわう)の千種殿(ちぐさどの)、あるいは北(きた)野(の)の天神(てんじん)の紅梅殿(こうばいどの)、橘逸勢(たちばなのはやなり)のはひ松殿(まつどの)、鬼(おに)殿(どの)、高(たか)松殿(まつどの)、鴨居殿(かもゐどの)、東三条(ひがしさんでう)、冬嗣(ふゆつぐ)の大臣(だいじん)の閑院(かんゐん)殿(どの)、昭宣公(せうせんこう)の堀川(ほりかは)殿(どの)、これを始(はじ)めて、昔(むかし)今(いま)の名所(めいしよ)三十(さんじふ)余(よ)箇所(かしよ)、公卿(くぎやう)の家(いへ)だにも、十六箇所(じふろくかしよ)まで焼(や)けにけり。その外(ほか)殿上人(てんじやうびと)、諸大夫(しよだいぶ)の家々(いへいへ)は注(ちゆう)すに及(およ)ばず。はては大内(だいだい)に吹(ふ)きつけて、朱雀門(しゆじやくもん)より始(はじ)めて、応天門(おうてんもん)、会昌門(くわいしやうもん)、大極殿(だいこくでん)、豊楽院(ぶらくゐん)、諸司(しよし)、八省(はつしやう)、朝所(てうしよ)、一時(いつとき)がうちに灰燼(くわいじん)の地(ち)とぞなりにける。家々(いへいへ)の日記(につき)、代々(だいだい)の文書(もんじよ)、七珍万宝(しつちんまんぽう)さながら塵灰(ぢんくわい)となりぬ。その間(あひだ)の費(つひえ)いかばかりぞ。人(ひと)の焼(や)け死(し)ぬること数百人(すひやくにん)、牛馬(ぎうば)の類(たぐひ)は数(かず)を知(し)らず。これ徒事(ただごと)にあらず、山王(さんわう)の御(おん)咎(とが)とて、比叡山(ひえいざん)より大(おほ)きなる猿(さる)どもが、二三千(にさんぜん)おりくだり、手(て)に手(て)に松火(たいまつ)をともして、京中(きやうぢゆう)を焼(や)くとぞ、人(ひと)の夢(ゆめ)には見(み)えたりける。大極殿(だいこくでん)は清和天皇(せいわてんわう)の御宇(ぎよう)、貞観(ぢやうぐわん)十八年(じふはちねん)に始(はじ)めて焼(や)けたりければ、同(どう)十九年(じふくねん)正月(しやうぐわつ)三日(みつか)、陽成院(やうぜいゐん)の御即位(ごそくゐ)は、豊楽院(ぶらくゐん)にてぞありける。元慶(ぐわんぎやう)元年(ぐわんねん)四月(しぐわつ)九日(ここのか)事始(ことはじめ)ありて同(どう)二年(にねん)十月(じふぐわつ)八日(やうか)にぞ造(つく)り出(い)だされたりける。後冷泉院(ごれいぜいゐん)の御宇(ぎよう)、天喜(てんぎ)五年(ごねん)二月(にぐわつ)二十六日(にじふろくにち)、またやけにけり。治歴(ぢりやく)四年(しねん)八月(はちぐわつ)十四日(じふよつか)事始(ことはじめ)ありしかども、造(つく)りいだされずして、後冷泉院(ごれいぜいゐん)崩御(ほうぎよ)なりぬ。後三条院(ごさんでうゐん)の御宇(ぎよう)、延久(えんきう)四年(しねん)四月(しぐわつ)十五日(じふごにち)造(つく)り出(い)だして、文人詩(ぶんじんし)を作(つく)りたてまつり、伶人(れいじん)楽(がく)を奏(そう)して遷幸(せんかう)なしたてまつる。今(いま)は世末(よすゑ)になって、国(くに)の力(ちから)もみな衰(おとろ)へたれば、その後(のち)はつひに造(つく)られず。

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