『源氏物語』第48帖「早蕨」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第48帖「早蕨」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第48帖「早蕨」原文全文をご覧ください。

目次

春を迎えた宇治

 藪の中にまで春の光が差すようになった。それを見るにつけても、中君は、「私はどうして、こんなに長く生きてきてしまったのだろう」と、これまでの月日がただ夢のように思われた。

 季節が移るたび、花の色も鳥の声も、大君とはいつも同じ心で眺めてきた。朝も夕も一緒に過ごし、どんなささやかなことでも初めから終わりまで話し合った。心細い身の上のつらさも語り合えば、それだけで慰められた。美しいものを見ても、しみじみ心を打たれることがあっても、今はもう、それを同じように感じてくれる人がいない。

 何もかもが目の前を暗くし、中君は一人で心を砕いていた。父宮を失った時の悲しみよりも、今では大君を恋しく思う苦しさのほうが、少し勝っているほどだった。

 「これから私はどうすればいいのだろう」

 朝になったのか夜になったのかもわからないほど途方に暮れている。それでも、人にはこの世に残らなければならない時間というものがあるらしく、悲しみのまま死ぬことさえできない。それが中君には不思議でならなかった。

 そんなころ、阿闍梨から便りが来た。

 「年も改まりましたが、いかがお過ごしでしょう。御祈祷は絶えず続けております。今は残されたお一方のことだけを、心安からず祈り申し上げております」

 そう書き、蕨やつくしを風情のある籠に入れて、

 「これは童たちが仏に供えました初穂でございます」

 と送ってきた。

 字はひどく下手だったが、歌だけはわざと改まったように、少し離して書いてある。

君にとてあまたの春を摘みしかば常を忘れぬ初蕨なり

あなた方のために幾年もの春を摘んできましたから、昔からの習わしを忘れず、今年もこの初蕨をお届けします。

 「御前でお詠ませください」

 ともあった。

 きっと阿闍梨なりに大変なことだと思って、あれこれ考えながら詠んだのだろう。そう思うと、歌の巧拙より、その心が中君にはしみじみとうれしかった。

 どこか義理だけで書かれたように見える、文章も筆跡も華麗な人の手紙などより、はるかに心に残った。涙までこぼれ、中君は返事を書かせた。

この春は誰にか見せむ亡き人のかたみに摘める峰の早蕨

この春の早蕨を、いったい誰と一緒に眺めればよいのでしょう。亡くなった人の形見のように、峰で摘まれたこの早蕨を。

 使いには禄を取らせた。

 もともと若さの盛りで、華やかな美しさのある中君だったが、さまざまな物思いのために少し頬が痩せた。それがかえって気品となまめかしさを増し、ふとした時には大君を思わせるほどだった。

 二人が並んでいたころには、それぞれ違った美しさがあって、それほど似ているとは見えなかった。それなのに今は、気を抜いて見れば一瞬、大君がそこにいるのかと思うほどよく似ている。

 女房たちは、

 「中納言さまは、『せめて亡き姫君のお姿だけでも残っていたなら』と朝夕恋しがっていらっしゃるそうなのに。同じことなら、今の中君さまをお近くでご覧になれる御縁だったらよかったのに」

 と残念がった。

 薫の周囲から宇治へ来る人があるたび、中君は薫の様子を絶えず聞いていた。

 大君を失って以来、薫はいつまでたっても悲しみに沈み、新年になっても気持ちは改まらず、ますます痩せているという。

 それを聞くにつけ、中君は、

 ――あの方の大君へのお気持ちは、決して一時の浅いものではなかったのだ。

 と、今になっていっそう深く思い知らされた。

 一方、匂宮は皇子という身分のため、宇治までたびたび通うことがひどく不自由だった。そこでついに、中君を京へ迎えようと決心していた。

薫と匂宮、大君を語る

 内宴などの騒がしい時期が一段落すると、薫は、

 ――胸にあふれるこの思いを、ほかに誰へ話せばよいのだろう。

 と思いわび、兵部卿宮――匂宮のもとを訪ねた。

 しめやかな夕暮れだった。匂宮は端近くに座り、物思いにふけっている。箏を軽く鳴らしながら、いつものようにお気に入りの梅の香を楽しんでいた。

 薫が下枝を一枝折って持ってくると、薫自身の香りと梅の匂いが溶け合い、なんとも艶やかだった。匂宮は折もちょうどよいと思い、歌を詠んだ。

折る人の心にかよふ花なれや色には出でず下に匂へる

この梅は、折ったあなたの心に似た花なのでしょうか。目に見える色には表さず、心の奥でひそかに香っている。

 薫も返した。

見る人にかこと寄せける花の枝を心してこそ折るべかりけれ

見る人の心にまで、あれこれ言いがかりをつけられる花の枝だったのなら、もっと用心して折るべきでしたね。

 「困ったものです」

 などと冗談を交わす二人は、まことに絵になる取り合わせだった。

 やがて話が深くなると、匂宮はまず宇治の中君がどうしているかを尋ねた。

 薫も、昔のことを思い返せば、今も足りないことばかりで悲しいのだと語った。大君を知ったころから今日まで、思いが一日も絶えたことがない。その時々の出来事につけ、大君をしみじみと思い出したこと、時にはおかしく懐かしく思い出したことまで、泣いたり笑ったりするように話した。

 もともと情が深く涙もろい匂宮は、他人の恋の話でさえ本気で泣ける人である。まして親しい薫の話なので、袖を絞るほど涙を流しながら、熱心に話を聞いた。

 空まで人の悲しみを知っているように、霞が一面にたなびいていた。

 夜になると激しい風が吹き始め、まだ冬の名残を感じるほど寒い。大殿油まで何度も消え、暗闇の中では互いの顔もよく見えない。それでも二人は話を途中でやめる気になれず、尽きることのない昔話を続けているうち、夜もすっかり更けた。

 薫と大君の間には、世にも珍しいほど深い心の結びつきがあった。

 匂宮は、それでも、

 「そうは言っても、本当にそこまで何もなかったというわけではないのでしょう」

 と、何かまだ隠していることがあるように尋ねる。

 それは恋のこととなると、どうしてもその方向へ考えずにはいられない匂宮の性分なのだろう。

 けれど宮は、人の気持ちを理解することには長けていた。薫の嘆きを解きほぐすように慰めたり、逆にあまり思いつめないよう諭したり、さまざまに話してくれる。その魅力ある人柄につられ、薫も胸の中だけでは抱えきれなくなっていたことを少しずつ語った。

 そうしていると、胸の中にようやく隙間ができたような気がした。

 匂宮は、中君を近いうちに京へ迎えるつもりだという話もした。

 薫は心から喜んだ。

 「それは本当にうれしいことでございます。今となっては、私自身が過ちを犯したような気持ちさえしているのです。

 昔をいくら惜しんでも、大君をもう一度尋ねることはできません。それだけに中君のことは、何事につけても心を寄せ、お世話申し上げるべき方だと思っております。ただ、私があまり出過ぎては、宮のお気に障ることもあるのではないかと……」

 薫は、大君からかつて、

 「中君を他人と思って分け隔てしないで」

 と託されたことも少し話した。

 ただ、あの夜の微妙な出来事についてだけは話さなかった。

 心の中では、

 ――これほど慰めようもない大君の形見なのだから、最初から中君のことも、もっとあの人の代わりのように大切にしていればよかったのかもしれない。

 という悔いが少しずつ大きくなっていた。

 だが今さらどうにもならない。

 「いつまでもこんなことばかり考えていたら、いずれ持ってはならない心まで起こるかもしれない。それでは誰のためにもならず、自分でも愚かだ」

 薫はそう思って、なんとか心を離そうとした。

 それでも、中君が京へ移ったあと、本当に心を込めて後見する人がほかに誰かいるだろうかと思うと、やはり放っておけない。

 薫は中君の移転に必要なことまで、自分のことのように準備するようになった。

宇治を離れる準備

 宇治でも、若く気の利く女房や童女を新しく探し出し、周囲の人々は嬉しそうに京へ移る支度をしていた。

 けれど中君だけは、

 ――いよいよここを離れるのか。

 と思うたび、宇治の家をこのまま荒れ果てさせることがひどく心細かった。

 悲しいことは尽きない。

 だからといって、これ以上意地を張って宇治に閉じ籠もり続けることもできない。匂宮からも、

 「これほど深い縁まで、このまま絶えてしまいそうな所へいつまでいようとなさるのです」

 と恨まれる。

 その言い分にも一理あるので、中君はどうすべきか、ますます思い乱れた。

 二月一日ごろに京へ移る予定だった。

 日が近づくにつれ、庭の木々も春めき始めた。これから咲く花も、峰に立つ霞も、すべて見捨ててゆかなければならない。

 ――ここが永遠に暮らすべき場所だったわけではない。それでも、今度の京の暮らしだって、結局は仮の宿ではないか。そこで思いがけない恥ずかしいことが起こり、人から笑われるような身になったら。

 中君はそんなことまで心配し、一人で考えながら夜を明かし、日を暮らした。

 大君の喪に服する期間にも限りがある。

 とうとう喪服を脱がなければならなくなったが、中君には、悲しみを清める禊などほんの浅いものにしか思えない。

 実の父宮とは長い間別れて暮らしていたため、亡くなった時にも、恋しさは今ほど身近ではなかった。その父宮の分まで、今度こそ喪の色を深く染めたいと心では思う。

 けれど大君は姉であって、正式にはそのように喪を深くする理由もない。思うままにできないことが、中君にはいっそう悲しかった。

 薫からは移転用の車や供の人々、必要な人員が送られてきた。

 手紙には歌があった。

はかなしや霞の衣裁ちしまに花のひもとく折も来にけり

なんとはかないのでしょう。霞のような喪の衣を仕立てている、そのわずかな間に、もう花の蕾がほどける春が来てしまいました。

 贈られてきた物は、たしかに色とりどりで美しかった。移る時に女房たちへ与える被け物なども、大げさではないのに、それぞれの身分に合わせて細かく考えられ、数多く用意してある。

 女房たちは、

 「折々につけ、決してこちらをお忘れにならない中納言さまのお心は本当にありがたいことです。実の兄弟でも、ここまでしてくださる方はなかなかいないでしょう」

 と感心した。

 古くから仕える女房たちは、とりわけこうした薫の真面目な心遣いを頼もしく感じていた。

 一方、若い女房たちは薫の姿を折々に見慣れているだけに、中君が京へ移り、これまでとは違う暮らしになることを寂しがった。

 「中納言さまも、どんなにこちらを恋しくお思いになるでしょう」

 と話し合っていた。

移る前日、薫が宇治を訪ねる

 中君が京へ移る、その前日の早朝。薫自身も宇治へやって来た。

 いつもの客人用の場所に座ると、今ではこの家にもすっかり馴染んでいる。

 「最初にこの家へ心を寄せたのは自分だった」

 と思い、初めて宇治を訪れたころのこと、大君の姿や、言われた言葉を次々と思い出した。

 ――あの人は、私をまるで別世界の人間のように冷たく突き放したわけではなかった。それなのに、自分の心の持ちよう一つで、どうしてこんなに隔たってしまったのだろう。

 薫は胸が痛くなった。

 昔、大君を垣間見た障子の穴まで思い出し、近寄って覗いてみる。

 けれど今は内側がすっかり閉ざされ、何も見ることはできなかった。

 家の中でも女房たちが昔のことを思い出し、皆ひそかに泣いている。

 まして中君は、思い出すたびあふれる涙のために、明日の出立さえ現実のこととは思えず、ぼんやりと横になっていた。

 薫から言葉があった。

 「この数か月、積もっている思いは、何がどうという一つのことではありません。ただ胸の中が晴れずにおります。せめてその一端でもお話しして、少しでも心を慰めたい。

 いつものように、私をよそよそしく遠くへ置かないでください。明日からは、ますますこの世から離れてしまわれるような気がするのです」

 中君は苦しそうに答えた。

 「あなたに失礼だと思われたいわけではございません。ただ、どうも今日は気分までいつもと違い、何もかも心が乱れております。ろくでもないことを口にしてしまうのではないかと思うと、気が引けまして」

 周囲の女房たちも、

 「せっかくいらしたのに、お気の毒でございます」

 などと言い、中の障子口で二人を対面させた。

 現れた薫は、気後れするほど気品があり、なまめかしい。

 中君には、今度はまた一段と大人び、目を見張るほど美しさと香りが増したように見えた。

 何事にも人とは違うほどの慎みを見せる。

 ――なんて立派な方なのだろう。

 中君はそう思うにつけても、大君のことまで思い出し、胸を打たれた。

 薫は、

 「いくら話しても尽きない昔話も、今日は縁起を気にして言わないほうがよいのでしょうか」

 などと言いかけてから、続けた。

 「今度お住まいになる所の近くへ、私もこのごろ移ることになっております。夜中でも暁でも、親しい間柄なら訪ねても不自然でない距離になります。

 何かあるたび、これまでどおり私を遠い人と思わず、何でもお話しください。私がこの世にいる限り、あなたのお話を聞き、こちらからもお話ししながら過ごしたいと思っています。

 ただ、人の心はさまざまなものですから、私がそんなふうにすることを宮がどうお考えになるのか、その点だけは一方的に安心することができません」

 中君は、ところどころ声を詰まらせながら答えた。

 「この宿との縁まで絶やすまいと思う心は、私にも深くございます。それなのに、『これからはお近くに』などとおっしゃるのを聞くと、昔のこともこれからのことも、一度に胸へ浮かんでしまって……。何と申し上げればよいのかわかりません」

 中君が本当に深く悲しんでいることが、その声からよくわかる。

 薫は、

 ――自分自身のせいで、この人をよその男の妻にしてしまったのだ。

 と、たまらなく悔しかった。

 しかし今となってはどうにもならない。

 あの夜のことなどはまったく口にせず、まるでもう忘れてしまったように、はっきりと節度を保って振る舞った。

紅梅の香と、昔の人

 御前近くの紅梅は、色も香りも親しみ深く美しい。

 鶯でさえ見過ごせないように鳴きながら飛んでいく。

 まして、

 ――春は昔と同じなのに。

 と心を乱す二人が昔話をするには、あまりにも胸にしみる折だった。

 風がさっと吹き入る。

 梅の花の香と薫自身の香りが漂ってきた。橘の香ではないけれど、それでも昔の人の袖を思い出させるきっかけとなる。

 ――大君は、退屈を紛らわせる時にも、この世のつらさを慰める時にも、花や香りを心に留めて愛でていた。

 その思いが中君の胸にあふれ、ほとんど独り言のように、かすかな声で歌った。

見る人もあらしにまよふ山里に昔おぼゆる花の香ぞする

見る人さえもういない、嵐に花の散り迷うこの山里で、昔のあの人を思い出させる花の香がしています。

 途切れ途切れにしか聞こえない歌を、薫は優しく引き取るように口ずさみ、返した。

袖ふれし梅は変らぬ匂ひにて根ごめ移ろふ宿やことなる

昔袖を触れた梅の香は今も変わらない。それなのに、根ごと移ってしまうように、人の住む宿だけが変わってゆくのですね。

 薫はこらえきれない涙を、見苦しくないようそっと拭い隠した。

 多くは語らず、

 「これからも、こうして何でも私へお話しください。それが一番よいのです」

 と言い残して席を立った。

 中君の移転後に必要となることも、女房たちへ細かく言いつけた。

 宇治の家には、あの髭の多い宿直人などを残すことになっている。薫は近隣の自分の荘園の者にも、今後の管理を頼み、細かなことまで一つ一つ決めていった。

弁の尼との別れ

 弁は、

 「こんな皆さまのお供まで見送りながら、思いもしなかったほど長く生きている自分の命が、本当につらく思われます。けれど、人から縁起でもない姿と思われてもいけません。今後はもう、この世に生きている者だと人に知られないようにいたします」

 と言い、すでに髪を下ろし、尼姿になっていた。

 薫は無理に彼女を呼び出し、深い感慨をもってその姿を見た。

 いつものように昔話をさせ、

 「私は今後も、ここへ時々参るつもりです。何もかもなくなってしまえば、本当に頼りなく、心細い場所になるでしょう。あなたがこうして残っていてくださるのは、しみじみありがたく、うれしいことです」

 と、最後まで言い切れずに泣いた。

 弁も、

 「世を嫌えば嫌うほど、逆に長引いてしまうこの命がつらくてなりません。宮さまは、いったいどうしろと私だけを残してお亡くなりになったのだろう、と恨めしく、世の中すべてを悲しく思っております。こんな心では、私の罪もどれほど深いことでしょう」

 と、これまで胸にためてきたことを薫へ訴えた。

 少し頑固なほど悲しみにとらわれているようにも見えるが、薫は実にうまく言葉を尽くして慰めた。

 弁もすっかり年を取った。

 それでも昔、美しい女房だった面影は残っている。髪を削ぎ落として額のあたりが以前とは変わったせいか、かえって少し若くなったように見え、尼姿なりの上品さがあった。

 薫は、

 ――大君もあれほど思いつめたのなら、なぜこのように尼にして差し上げなかったのだろう。そうすれば命が延びることもあったかもしれない。出家したあとなら、どれほど深く、心を隔てず話し合えただろう。

 と思う。

 そんなことまで考えると、今ではこの弁の身の上さえ羨ましく感じられた。

 薫は自分との間を隔てていた几帳を少し引きやり、弁と親しく話し込んだ。

 弁は悲しみのため、ひどくぼんやりしているようではある。それでも、言葉を口にする時の様子や心遣いには見苦しいところがない。昔、由緒ある家に仕えた人の名残が感じられた。

 弁は泣きながら歌った。

さきに立つ涙の川に身を投げば人におくれぬ命ならまし

先に流れ始めた涙の川へ、その時この身を投げてしまっていたなら、大切な方々に取り残されて、こんなに生きることもなかったでしょうに。

 薫は、

 「それではあまりに罪が深い。川へ身を沈めるより、どうして彼岸へ渡ろうと思わないのです。こんなことでさえ深い底へ沈んだまま過ごすのは、つまらないことです。何事も結局はむなしいのだと、思い切るべき世の中なのでしょう」

 と諭した。

 弁はさらに、

身を投げむ涙の川に沈みても恋しき瀬々に忘れしもせじ

たとえこの身を涙の川に投げて沈んだとしても、その流れのどの瀬にあっても、恋しい方々を忘れることなどできないでしょう。

 「いったいどんな世になれば、少しでもこの悲しみが慰められるのでしょう」

 と言う。

 薫自身も、悲しみに終わりがないような気がした。

 このままここに泊まりたいほど名残惜しかったが、意味もなく旅寝をすれば人から怪しまれるだろう。それも煩わしく、日が暮れてから薫は帰った。

宇治を出る日

 薫がどんなふうに別れを惜しみ、何を言って帰ったかを弁が話すと、中君はますます慰められず、悲しみに暮れた。

 ほかの女房たちは皆、京へ移れるのが楽しみな様子で、衣を縫ったり、身なりを整えたりしている。年老いて顔も歪んだような女房まで、自分の年を忘れたように支度をしていた。

 そんな中で弁だけは、ますます尼らしく地味な姿になり、中君へ訴えた。

人はみないそぎたつめる袖の浦に一人藻塩を垂るる海人かな

皆は旅立ちを楽しみに袖を整えているのに、その袖の浦で、私だけが涙の藻塩を垂らしている海人のようでございます。

 中君も返した。

塩垂るる海人の衣に異なれや浮きたる波に濡るるわが袖

涙に濡れているのは海人の衣だけでしょうか。私の袖も、浮き立つ世の波に濡れているのです。

 そして言った。

 「私が京で落ち着いて暮らせるとも、とても思えません。ですから、その時々の事情に合わせて、この宇治の家だけは荒れ果てさせまいと思っています。そうすれば、またあなたと会えるでしょう。

 けれど、ほんのしばらくでも一人ここへ残るあなたを見送ると思うと、どうにも心が晴れないのです。

 尼になった人でも、必ずしも完全に人との縁を断つものではないそうです。どうか世間普通のことと思って、時々は私のところへ姿を見せてください」

 中君は本当に優しく、親しみを込めて話した。

 大君が使っていた由緒ある調度類も、すべて弁へ残してやった。

 「あなたが誰よりも深く悲しみに沈んでいるのを見ると、前世から姉上とは特別な縁があったのではないかとさえ思われます。それだけに、私にもあなたが近しく、愛しく思われるのです」

 そう言われると、弁はいよいよ子どもが恋しい人を求めて泣くように、心を抑えることもできず、泣き伏していた。

 いよいよ出発となった。

 家の中をすっかり片づけ、必要なものを取りまとめ、車が何台も寄せられた。供をする四位、五位の人々も非常に多い。

 匂宮自身は、本当なら迎えに来たくてたまらなかった。

 けれど宮が直々に宇治まで来れば、あまりに大げさになり、かえって具合が悪い。そこで人目を忍ぶ形にとどめ、京で待ちながら、まだかまだかと落ち着かずにいた。

 薫からも供の者が大勢送られている。

 大まかな準備は匂宮から十分になされていたが、日常の細かいところまで、思いつかないことがないほど気を配っているのは、やはり薫だった。

 「日が暮れてしまいます」

 と、家の内外から出発をせかされる。

 中君は慌ただしい気持ちの中で、

 ――私はこれから、いったいどこへ行くのだろう。

 と考えた。

 何もかもがはかなく悲しい。

 車に乗る大輔の君という女房が、少し笑いながら歌った。

ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを身を宇治川に投げてましかば

生きていれば、こんなうれしい時にも巡り会えるものですね。あの時もし宇治川へ身を投げていたなら、この日を見ることもなかったでしょうに。

 中君は、

 ――弁の尼とは、なんて心の違う人なのだろう。

 と、少し不愉快に思った。

 もう一人の古女房も詠んだ。

過ぎにしが恋しきことも忘れねど今日はたまづもゆく心かな

亡くなった方が恋しいことを忘れたわけではありません。それでも今日は、心まで先へ先へと旅立ってゆくようでございます。

 二人とも長年仕えてきた女房で、以前は大君のほうへ深く心を寄せていたはずだった。

 それが今では気持ちを切り替え、縁起の悪いことを言わないようにしている。

 ――つくづく、つらい世の中だ。

 中君はそう思うと、何も答えられなかった。

 京への道は思った以上に遠く、山道は険しかった。

 その道を実際に進みながら、中君は初めて、これまで匂宮の訪れが途絶えることをただつらいとばかり思っていた自分を振り返った。

 ――こんな道だったのなら、間が空いたのも無理のないことだったのだ。

 と少しわかった。

 七日の月が明るく差し出し、霞んだ空に美しく浮かんでいる。

 中君は長い旅に慣れておらず、苦しくなって、ぼんやり月を眺めた。

眺むれば山より出でて行く月も世に住みわびて山にこそ入れ

眺めていると、山から出て世を照らしてゆく月でさえ、やがてこの世に住みわびたように、また山へ入ってゆくのですね。

 自分もいつか姿を変え、尼になるのではないか。

 そんな未来ばかりが危うく思われた。

 ――これまで私は、いったい何を考えて生きてきたのだろう。

 できるなら、何もかも元へ取り返したいほどだった。

二条院へ

 二条院へ着いたのは、宵を少し過ぎたころだった。

 中君には何もかも見知らぬものだった。

 目がまばゆくなるほど美しく造られた御殿が三棟、四棟と並ぶ中へ車が入っていく。

 匂宮は、いつ着くかと待ち続けていた。

 車が止まると、自らそのそばまで出迎え、中君を降ろした。

 室内のしつらいも、できる限りのものが整えられている。女房一人一人の局にまで宮が心を配ったことがはっきりわかり、まことに申し分のない住まいだった。

 これほどの扱いを受ける女性とは、それまで誰も思っていなかった。

 それなのに突然、中君の地位がこれほどしっかり定まったので、世間でも、

 「宮はよほど特別に思っていらっしゃるらしい」

 と感心し、驚いた。

 薫はちょうどこのころ、二十日過ぎには三条宮へ移るつもりで、毎日のようにそちらへ行き、様子を見ていた。

 三条宮から二条院は近い。

 そのため今夜も、中君がどんな様子で迎えられるのか、少しでも気配を聞きたいと思い、夜が更けるまで三条宮にいた。

 やがて中君へ付けて送った薫の供の者たちが帰ってきて、二条院での様子を詳しく話した。

 匂宮がたいそう心を入れ、中君を大切にしているという。

 薫はそれを聞いて、安心し、うれしく思った。

 けれどその一方で、自分でも馬鹿らしいと思うほど胸が締めつけられ、

 ――もし何か、自分にも残されていたなら。

 と何度も独り言を言った。

 そして、口に出すならこんな歌になりそうだった。

しなてるや鳰の湖に漕ぐ舟のまほならねどもあひ見しものを

琵琶湖をゆく舟が真帆を上げた姿ではなかったように、私たちも完全に結ばれた仲ではなかった。それでも、たしかにお会いして心を通わせたことはあったのに。

六の君をめぐる右大臣の思惑

 右大臣は、六の君を匂宮へ差し上げることを、この月のうちにと決めていた。

 ところが匂宮は、その前に思いもかけない中君を大切に迎え入れ、今は六条院から離れ、二条院に住んでいる。

 右大臣がひどく面白くなさそうにしているという噂を匂宮も聞いた。

 さすがに気の毒になり、宮は時々六の君へ手紙を送っていた。

 六の君の裳着の準備は、すでに世間でも評判になるほど進んでいる。今さら延期すれば人に笑われる。

 そこで右大臣は二十日過ぎに、予定どおり裳着をさせた。

 そして考えた。

 ――匂宮と同じように皇族につながる人というだけでは、今さら珍しくもない。それより、あの薫中納言をまったくの他人の婿に取られてしまうほうが惜しい。

 「いっそ六の君を薫にどうだろう。長年、人知れず思い続けた女性まで亡くして、今はひどく心細そうに暮らしているというではないか」

 右大臣はそう思い、しかるべき人を通して薫の気持ちを探らせた。

 しかし薫は、

 「この世のはかなさを、つい最近、目の前で思い知らされました。あまりにもつらく、自分の身まで不吉なものに思われますので、どういう形であれ、今はそのような縁談を考える気にはなれません」

 と、まるで興味がないような返事をした。

 右大臣は、

 「どうしてこの君まで、こちらが大まじめに申し出ていることを、そんなに嫌がるのだ」

 と恨んだ。

 けれど薫とは親しい間柄ではあっても、薫自身が人を気後れさせるほど品格のある人なので、無理に話を押しつけ、心を動かすことまではできなかった。

花盛りの二条院

 桜の盛りになった。

 薫が二条院の桜を眺めると、まず思い出すのは、主人を失った宇治の家だった。

 「中君は、少しは心安く暮らしているだろうか」

 そんな独り言まで口から漏れ、薫は匂宮のもとを訪ねた。

 匂宮は今では二条院にいることが多く、すっかり住み慣れたようだった。

 薫も、

 ――これなら中君も安心だ。

 と思う。

 それなのに、やはり胸のどこかには、何とも言えない複雑な感情が残っている。

 自分でも不思議だった。

 とはいえ本心では、匂宮を深く信頼し、中君を安心して任せていた。

 薫と匂宮はあれこれ話を交わした。

 夕方になると、匂宮は内裏へ参るため、車の用意をさせた。人々も大勢集まり始めた。

 薫は宮のところを辞し、中君の住む対へ向かった。

 そこは、宇治の山里とはまるで違っていた。

 御簾の内は奥ゆかしく、美しく住み整えられている。かわいらしい童女の姿まで、御簾越しにかすかに見えた。

 薫が訪れを告げさせると、茵を出してくれた。

 昔から薫をよく知る女房なのだろう、一人出てきて返事を伝えた。

 薫は中君へ言った。

 「朝夕さえ隔てる必要のないほど近くへお移りになったのに、これという用事もなく伺えば、かえって馴れ馴れしいと咎められるのではないかと遠慮しているうち、まるで世の中が変わってしまったような気さえしております。

 御前の梢まで霞に隔てられて見えるこの季節には、昔を思ってしみじみすることが本当に多いですね」

 薫はそう言いながら、ぼんやり物思いに沈んでいる。

 その気配が中君には痛々しく感じられた。

 ――姉上が生きていたなら。

 中君も思う。

 大君がいたなら、薫は今も心置きなく宇治と京を行き来し、季節ごとに花の色や鳥の声を互いに語りながら、少しは満たされた人生を送れただろう。

 かつて宇治へ閉じ籠もっていた時の心細さより、今では大君がいないことのほうが、ずっと悲しく、残念に思われた。

 女房たちは中君へ、

 「いつまでも昔のように、あまりに改まった扱いをなさいますな。中納言さまがどれほど深いお心をお持ちか、今こそあなたさまのほうからも、きちんとわかっているとお見せになる時でしょう」

 などと勧めた。

 けれど中君は、人伝てではなく自分から薫へ直接言葉をかけることには、やはり気恥ずかしさがあった。

 どうしようかとためらっているところへ、内裏へ出かけようとしていた匂宮が、別れの挨拶のため中君のもとへ渡ってきた。

 美しく装い、きちんと化粧した宮の姿は、まことに見ごたえがあった。

匂宮と薫、中君をめぐって

 匂宮は、薫が中君のところにいると知ると、

 「どうしてそんなに遠くへ離して、客人のように座らせているのです。

 この御方のことでは、中納言ほど安心して頼れる人はいないと、私だって思っていたのですよ。

 私の立場から言えば、自分の妻とほかの男が親しくするのを勧めるなど、少し馬鹿げたことにも思えます。でも、だからといってあまりに隔てばかり多くしては、かえって罪なことでしょう。

 もっと近くで、昔の宇治の話などもお二人でなさったらいい」

 そう言った。

 ところが、すぐまた言い直す。

 「とはいえ、あまりに気を許されるのも、それはそれでどうでしょうね。どうも私は、心の底では疑ってしまうところもあるのですよ」

 冗談とも本気ともつかない。

 中君には、どちらへ答えても困る話だった。

 けれど中君自身も、大君が薫へ寄せていた深い信頼を、今になって軽く扱ってよいとは思わない。

 ――姉上や薫が考えていたように、この方を昔の姉上の代わりとなるほど親しい人と思い、私もあの人の心をわかっているのだと、少しくらい示すことがあってもよいのかもしれない。

 中君はそうも思う。

 それでも匂宮からは、あちらからもこちらからも落ち着かない言い方をされる。

 どう振る舞ってよいのかわからず、中君にはひどく苦しく思われるのだった。

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