『源氏物語』第46帖「椎本」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第46帖「椎本」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第46帖「椎本」原文全文をご覧ください。

目次

如月の二十日のほどに

 二月二十日ごろ、兵部卿宮は初瀬へ参詣なさった。ずっと昔から願をかけていたものの、なかなか出かける気にならないまま何年も過ぎていたのだが、今回は宇治のあたりに泊まることへの興味が、かなり大きなきっかけになったらしい。かつて「恨めしい」と言う女がいた里の名まで、今では何となく親しく思われるのだから、人の心というものはおかしなものである。

 参詣には大勢の上達部が供をした。殿上人などは言うまでもなく、都に残る人のほうが少ないのではないかと思えるほどの盛大な一行だった。六条院から伝わって、今は右大臣が所有している宇治の別邸が、川を隔てた向こう側に広々と風情よく造られていたので、そこに兵部卿宮を迎える用意が整えられた。

 右大臣自身も、宮が初瀬から帰る時には宇治まで迎えに出るつもりだったが、急に重い物忌に当たり、厳重に慎まなければならないとの占いが出た。そのため参上できないことを、丁重にお詫び申し上げた。

 兵部卿宮は、少し張り合いがないと思っていた。ところがちょうど、宰相中将――薫が今日の出迎えに来ていたので、かえって気楽になり、以前から気になっていた宇治の八の宮のあたりへも話をつけてもらえるだろうと、すっかり機嫌を直された。右大臣が相手では気安く振る舞いにくく、何事も大げさになってしまうと感じておられたのである。

 宮の兄弟である親王たちをはじめ、右大弁、侍従宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐なども供をしていた。帝も后も特別に大切になさっている宮だから、世間での威勢はこの上ない。まして故六条院につながる人々は、身分の上下を問わず、皆、自分たちの主人のように心を寄せて仕えていた。

所につけて、御しつらひなど

 宇治の別邸では、その土地らしい風情を生かして室内を整え、碁や双六、弾棊の盤などを取り出し、それぞれ好きな遊びをして一日を過ごした。兵部卿宮は、こうした遠出に慣れていないため、さすがに疲れを感じていたし、ここでゆっくり休みたい気持ちも強かった。しばらく横になり、夕方になってから琴などを取り寄せ、管弦の遊びを始められた。

 こういう人里離れた場所では、いつものように川の水音が楽器の音を引き立て、何もかも澄んで聞こえるような気がする。川を隔てた八の宮の山荘までは、そう遠くない。風に乗って管弦の響きが流れてくるのを八の宮がお聞きになると、昔のことが次々と思い出された。

 「ずいぶん見事に笛を吹き通している人がいるものだ。誰だろう。昔、六条院がお吹きになった笛は、実に美しく、どこか愛嬌のある音色だった。今聞こえる笛は、もっと高く澄みきっていて、重々しいところがある。致仕の大臣の一族に伝わる笛の音に似ているようだ」

 などと、八の宮は一人つぶやかれた。

 「懐かしいことだ。もうずいぶん久しくなってしまった。こんな管弦の遊びもせず、生きているのかいないのかわからないように過ごしてきた年月が、それでも振り返ればずいぶん長く積み重なっている。何とも甲斐のないことだ」

 そう言っているうちにも、娘たちのことが惜しくてならなくなった。「こんな山の奥に閉じ込めたまま、一生を終わらせたくはないものだ」と思われる。

 「宰相中将なら、どうせなら身近な縁者として娘たちを任せてみたいと思える人なのに、本人にはそんな気がまるでなさそうだ。まして今どきの浅薄な男などに、どうして任せられるだろう」

 そんなことを思い乱れながら、八の宮は所在なく物思いに沈んでいた。山里で暮らしていると、春の夜はいつまでも明けないように感じられるのに、気晴らしの旅先で酒を飲み、遊んでいる兵部卿宮のほうには、夜はあっという間に明けてしまったように思われた。もう帰らなければならないのが、宮には物足りなかった。

 はるか遠くまで霞のかかった空には、すでに散り始めている桜もあれば、今ようやく咲き始めたものもあり、さまざまな色合いが見渡された。川沿いの柳が風に起き伏しし、その影が水面で揺れる様子も格別に美しい。こういう景色を見慣れない人々は珍しがり、なかなか立ち去りがたく思っていた。

 薫は、「せっかくここまで来たのだから、この機会を逃さず八の宮のもとへ参りたい」と思っていた。だが、大勢の人の目を避けて自分一人だけ舟で川を渡っていくのも、いかにも軽率に見えはしないかとためらっていると、ちょうど八の宮のほうから手紙が届いた。

山風に霞吹きとく声はあれど隔てて見ゆる遠方の白波

山風が霞を吹き払うような美しい音楽の響きはこちらまで聞こえてきますが、白波を隔てた向こうにおられるあなた方の姿は、やはり遠く離れて見えます。

 草書でたいそう美しく書かれていた。兵部卿宮は、「あなたが心を寄せておられる方からでしょう」と薫に見せてもらうと面白く思い、

 「この返事は私がしましょう」

 と言って、自ら歌をお返しになった。

遠方こちの汀に波は隔つともなほ吹きかよへ宇治の川風

こちらとそちらの岸を波が隔てていても、宇治の川風よ、どうか変わらずに吹き通い、私たちの心を結んでおくれ。

中将は参うでたまふ

 やがて薫は八の宮の山荘へ参った。管弦に熱心な若い公達たちも誘い、舟をこちらへ向かわせる。ちょうど「酣酔楽」を奏しているところだった。

 水辺まで張り出した廊から、川へ直接下りられるように造られた階段などにも趣がある。八の宮の住まいは、山荘らしい簡素さの中にも由緒を感じさせる場所だったので、若い公達たちも自然と居ずまいを正しながら舟を降りた。

 邸内はまた、都の華やかな邸とはまったく趣が違っていた。山里らしい網代屏風などを使い、わざと飾りを減らしながら、それでも見栄えのするしつらえにしている。今日は客を迎えるため、普段よりはきれいに掃き清め、念入りに整えてあった。

 昔から伝わる、音色も並ぶもののない名器の数々が、いかにも客のため特別に用意してありましたというふうではなく、何気なく次々と出される。その楽器で壱越調に合わせ、「桜人」を演奏した。

 客たちは、主人の八の宮なら当然、得意の琴を弾くだろうと期待していた。しかし宮は箏の琴を取り、さほど力を入れた様子もなく、時々皆の音に合わせる程度に弾いていた。それでも若い人々には、その耳慣れない音色がかえって深く心にしみ、ひどく味わい深いものに聞こえた。

 土地に合わせたもてなしも、たいそう風情があった。遠くから想像していたほどには落ちぶれきった家ではなく、古くから親王家に仕えるらしい、それなりに品のある人々も大勢いる。年配の四位の者なども、この日ばかりは人目のある機会だからと、前々から宮を気の毒に思っていたのだろう、しかるべき者たちは皆集まっていた。

 酒器を扱う者まで見苦しいところはなく、古風ながらそれなりに風雅に振る舞っている。訪れた若い公達の中には、「この邸の奥には、噂の姫君たちが住んでいるのだ」と想像し、ひそかに心を動かす者もあっただろう。

かの宮は、まいてかやすきほど

 一方、川向こうにいる兵部卿宮は、ただでさえ自由に動けない高貴な身分であることを、いつにもまして窮屈に感じていた。せめてこんな機会くらいは、と気持ちを抑えきれず、美しく咲いた桜の枝を折らせ、供に仕える容姿のよい上童に持たせて八の宮のもとへ届けた。

山桜匂ふあたりに尋ね来て同じかざしを折りてけるかな

山桜の美しく咲くこの里まで訪ねてきて、あなた方と同じ桜の枝を折り、髪に挿すことができました。野辺そのものまで親しいものに思われます。

 とでも書いてあったのだろう。

 姫君たちは、「こんなお方に、どう返事を申し上げればよいのでしょう」と困っていた。

 すると古くから仕える女房たちが、

 「こういう時の返事を、いかにも大ごとのように考えて時間をかけるほうが、かえって感じが悪いものですよ」

 などと勧めたので、中君に返歌を書かせることになった。

かざし折る花のたよりに山賤の垣根を過ぎぬ春の旅人

髪に挿す花を折るついでに、山里の者の粗末な垣根のそばを通り過ぎただけの、春の旅人なのでしょう。わざわざこの野をお選びになったわけでもないでしょうに。

 中君は、たいそう美しく、手慣れた筆で書いた。

 川風は人の身分など分け隔てせず、両岸を吹き通っている。あちらでもこちらでも楽器の音が響き合い、実に美しい管弦となった。

 やがて帝の仰せで、藤大納言が兵部卿宮を迎えに宇治まで参った。人々が大勢集まり、あたりは急に騒がしくなり、宮の一行も華やかに都へ帰っていった。若い公達たちは名残惜しそうに、何度も振り返った。兵部卿宮は、「またよい機会を見つけて来よう」と思っていた。

 ちょうど桜は満開で、四方に霞の広がる景色も見飽きないほど美しかった。その折に詠まれた漢詩や和歌も数多かったのだが、いちいち取り上げるのも煩わしいので、ここでは省かれている。

 あの日は人が多く騒がしかったため、兵部卿宮は思うように姫君たちへ気持ちを伝えることができなかった。それが物足りず、特に仲介を頼まなくても、その後はしきりに手紙を送るようになった。

 八の宮も、

 「やはり、時々はお返事をなさい。こちらからわざと恋文らしく扱うことはありますまい。それではかえって、向こうも本気になってしまうかもしれない。たいそう恋好きでいらっしゃる宮だから、こんな姫君がいると聞かれて、ちょっといつもと違った遊びをしておられるだけなのでしょう」

 と勧める時だけ、中君が返事を書くことがあった。姉の大君は、こうした男女のやり取りには、冗談としてさえ関わろうとしないほど、慎み深い心を持っていた。

 もともと何となく心細い暮らしであるうえ、春の長い一日はますます過ごしにくい。二人の姫君は、年を重ねるにつれて容貌もますます美しくなり、申し分のない姿に成長していた。それを見るにつけ、八の宮はかえって心を痛めた。

 「もしどこか欠けたところのある娘たちだったなら、こんな山に埋もれさせるのが惜しいという気持ちも、少しは薄かっただろうに」

 と、朝夕思い悩まれる。姉の大君は二十五歳、中君は二十三歳になっていた。

宮は、重く慎みたまふべき年

 その年は、八の宮にとって特に慎まなければならない厄年だった。宮自身も何となく心細く感じ、仏道の勤めをいつも以上に怠りなく行っていた。

 もう世の中に未練はない。自分一人なら、いつでもこの世を去る支度を整え、そのまま安らかな仏の道へ向かえるはずだった。ただ二人の娘のことだけが、どうしても気にかかる。

 どれほど強く世を捨てる決心をしていても、いよいよ最期となれば、「この娘たちを置いていくのか」と心が乱れるに違いないと、そばで仕える者たちにも思われていた。

 八の宮の望むような申し分のない相手でなくてもよい。それなりの身分があり、世間から見ても恥ずかしくなく、娘たちを真心から世話してくれる男が現れるなら、自分は知らないふりをして許してしまおうと思っていた。

 二人のうち一人でも、この世で生きていく頼りとなる相手を得られれば、それを見届けたことを慰めにして死んでいける。しかし、そこまで深い気持ちで姫君たちを求めてくる人は誰もいなかった。

 たまに何かのついでに恋文を送ってくる男はいる。だが、まだ若い男が旅の途中の宿で、行き帰りの暇つぶしに思いついただけのような、いい加減な恋である。それでいて、こんな山奥で二人が寂しく暮らしていることを知っているため、どこか見下したような態度まで見せる。それが八の宮には腹立たしく、そんな相手には形式だけの返事さえさせなかった。

 ただ兵部卿宮だけは、「どうしても一度は姫君を見ずにはおくものか」という気持ちが、ますます深くなっていた。これも、そうなる宿縁だったのだろうか。

宰相中将、その秋、中納言に

 宰相中将の薫は、その秋、中納言に昇進した。その身から漂う香りも、いよいよすばらしいものになっていく。

 朝廷での立場が高くなり、世の中の仕事が増えていくにつれて、薫の胸にはかえってさまざまな思いが深くなっていた。自分の出生について何も知らず、不安に思っていた昔より、真相を知った今のほうが、かつて父と母がどれほど苦しい思いをしていたのか想像され、胸が痛む。

 せめて少しでもその罪が軽くなるほど、仏道の勤めをしたいと思うようになった。弁の君のことも大切な人と思い、人目につくほど特別扱いはせず、いろいろと目立たないよう工夫しながら援助し、気にかけていた。

 宇治へ参らないまま、ずいぶん長くなったことに気づき、久しぶりに八の宮を訪ねた。七月ごろだった。

 都にはまだはっきり現れていない秋の気配が、音羽山に近づくにつれて感じられる。風の音は冷ややかで、槙の生える山辺もほんの少し色づき始めていた。やはりわざわざ訪ねてくるだけのことはある、珍しく美しい景色だと薫は思った。

 八の宮は、それ以上に薫の訪れを喜び、いつもより心細そうな話をたくさんなさった。

 「私が亡くなったあと、この娘たちを、何かの折々には気にかけてやってください。どうか、見捨ててしまわず、人として数えてやってください」

 何度もそんなふうに頼まれるので、薫は、

 「以前にも一言、そのお気持ちを伺っております。それを忘れたり、怠ったりするつもりは決してございません。私はこの世にあまり心を留めたくないと思って生きておりますし、自分自身の先行きさえ頼りなく、長く生きるとも思っておりません。それでも、この世に生きております限りは、変わらぬ気持ちをお見せしたいと思っております」

 と答えた。八の宮は心からうれしそうだった。

夜深き月の明らかにさし出でて

 夜が更け、月が明るく昇った。山の端がすぐ近くにあるように見える。八の宮はしみじみと念誦をなさりながら、昔の話を始めた。

 「今ごろの宮中は、どうなっているのだろう。昔は、こんな秋の月の夜、帝の御前で管弦の遊びがあると、名手と呼ばれる人々がそれぞれに腕を競って音を合わせたものだ。

 けれど、正式な演奏そのものより、風流だと評判の女御や更衣の御局で、それぞれが内心では競いながら、表向きは優雅に付き合っている夜のほうが面白いことも多かった。夜も深くなり、人の気配が静まったころ、誰かが悔しそうに楽器の調子を整え、ほんの少し漏れ出してくる音などには、本当に聞きどころがあったものだ。

 何につけても女というものは、はかなく頼りないようでいて、人の心を動かすものなのだろう。だからこそ、罪も深いのかもしれない。

 親が子を思う闇の深さを考えてみても、男の子なら、ここまで親の心を乱さないのかもしれない。女の子は生き方にも制約が多く、もうどうにもならないと諦めるしかない場合でさえ、やはり心配でならないものだ」

 何気なく世間一般の話をしているようではあったが、その胸の中に娘たちへの深い心配があることを、薫がわからないはずもない。気の毒でならなかった。

 薫は、

 「私は本当に世の中を捨てたつもりになっているのでしょうか。自分自身のことについては、何につけても深く感じ入ることが少ないのです。それでも、つまらないことのようですが、美しい音に心を動かされる気持ちだけは捨てられません。聖人として名高い迦葉でさえ、音楽を聞いて思わず立って舞ったというのも、そのためなのでしょう」

 などと言い、以前ほんの一声だけ聞いた姫君たちの琴の音を、もう一度ぜひ聞きたいと強く願った。

 八の宮は、「これほど親しく付き合うようになったのだから、もうよそよそしくする必要もないだろう」と思われたのだろう。自ら姫君たちのいる奥へ入り、ぜひ弾くようにと熱心に勧めた。

 やがて箏の琴が、ごくかすかに一度だけ掻き鳴らされ、すぐにやんだ。

 人の気配も絶え、しみじみとした夜空と山里の景色の中で、特に用意されたわけでもないこの音楽が、かえって深く心にしみた。しかし姫君たちが薫の前で気を許し、本格的に合奏するなど、どうしてできるだろう。

 八の宮は、

 「こうして、ほんの少し親しくなり始めたあとのことは、同じく世に籠もって暮らす者同士に任せるとしましょう」

 と言って、仏前へ入っていかれた。そして、こらえきれないように歌を詠まれた。

われなくて草の庵は荒れぬともこのひとことはかれじとぞ思ふ

私がいなくなり、この草の庵が荒れてしまっても、あなたに娘たちを託したこの一言だけは、枯れて消えてしまわないと思っています。

 「こうしてお目にかかるのも、今回が最後かもしれないと思うと心細くて、我慢できず、愚かなことばかり言ってしまいました」

 そう言って、八の宮は涙を流された。

 薫も返した。

いかならむ世にかかれせむ長き世の契りむすべる草の庵は

どんな世になれば、この草の庵との縁が切れるというのでしょう。長い未来まで続くご縁を、私はここで結んだつもりです。

 「相撲の節会など、朝廷の行事で忙しい時期が過ぎましたら、また必ず伺います」

こなたにて、かの問はず語り

 そのあと薫は、こちらの部屋へ例の弁の君を呼び出し、まだ聞き残していた昔話の続きを語らせた。

 沈みかけた月が隅々まで明るく差し込み、簾越しの人影まで艶やかに見える。姫君たちは奥のほうにいた。

 薫は世間の男のように露骨な恋心を示すのではなく、落ち着いて、心を込めてさまざまな話をする。そのため姫君たちも、必要な時にはそれなりの返事をするようになっていた。

 薫は心の中で、「兵部卿宮は、あれほどこの姫君たちを見たがっているのにな」と思い出した。

 そして自分でも不思議に感じる。

 「我ながら、やはり普通の男とは少し違っているようだ。あれほど宮が心を許し、私に任せてくださっているのに、どうして自分はこんなにも急いで姫君を手に入れようという気にならないのだろう。

 かといって、まるきり男女の縁から離れていたいとも思わない。こうして言葉を交わし、季節の花や紅葉につけて、互いに情趣を感じ合える。それだけでも心ひかれる相手ではある。

 だからもし姫君たちが別の宿縁によって、ほかの男のものになってしまったなら、それはそれで残念に思うに違いない」

 いつの間にか、自分がこの二人をどこか自分の側に属する人のように感じ始めていることにも気づくのだった。

 薫はまだ夜の深いうちに帰った。八の宮がひどく心細そうで、もう先が長くないと思っているらしい様子が気にかかる。「朝廷の忙しい時期が終わったら、すぐまた参ろう」と考えていた。

 兵部卿宮のほうも、この秋のうちに紅葉を見に宇治へ行きたいと、何かよいきっかけがないか考え続けていた。

 宮から姫君たちへの手紙は絶えず届いた。姫君たちは、宮が本気で自分たちを思っているとは考えていなかったので、それほど煩わしいとも感じず、軽い挨拶程度に受け止め、時々返事をしていた。

秋深くなりゆくままに

 秋が深まるにつれて、八の宮はひどく心細く感じるようになった。

 「いつもの静かな場所へ籠もり、何にも紛らわされず念仏をしよう」

 と考え、寺へ行くことを娘たちにも話された。その時、まるで遺言のように言われた。

 「この世に生きる者である以上、最後の別れを逃れることはできないようだ。それでも、あとに慰めとなるものがあれば、人は悲しみから少しずつ目を覚ますこともできるのだろう。

 私にはお前たちを譲っていける相手もいない。こんな心細い身の上のお前たちを置き去りにして死ぬことだけが、どうしてもつらい。

 けれど、その心配に引き止められたために、私自身が死後まで長い闇を迷うことになっては、何にもならない。

 生きてお前たちを見ている今でさえ、世の中にはもう執着を捨てている。私がいなくなったあとのことまで知ることはできないが、お前たちは自分だけの身ではない。亡くなった母君まで恥を受けるような、軽々しいことは決してしてはいけない。

 よほど信頼できる縁でないかぎり、人の言葉に簡単になびいて、この山里を出ていってはいけない。自分たちは人とは違った宿縁を持つ身なのだと思い、この宇治で一生を終えるのだと決めてしまいなさい。

 強くそう思ってしまえば、これまでの年月だって、何ということもなく過ぎてきたではないか。まして女は、人知れず静かに籠もって暮らし、世間から『かわいそうに』と目立って非難されるようなことさえなければ、それが一番よいのだろう」

 姫君たちは、自分たちの将来がどうなるかなど、とても考える余裕はなかった。ただ、「父宮に先立たれてしまったら、自分たちはどうやってこの世に一時でも生きていけるのだろう」と思うだけである。

 父が死んだあとのことを、こんなにも心細い言葉で具体的に語られると、言いようもなく心が乱れた。

 八の宮は心の中ではすでに娘たちへの執着を捨てたつもりだったのかもしれない。けれど姫君たちは、朝も夕も父のそばにいることに慣れてきた。突然別れることになれば、父を責める筋合いではないとわかっていても、やはり恨めしく感じるほどの悲しみになるに違いなかった。

 寺へ入る前日、八の宮はいつになく邸のあちらこちらを歩き回り、じっと眺めていた。

 何ともはかなく、仮の宿のつもりで長年暮らしてきた住まいである。それでも、

 「私が死んだあと、この若い娘たちは、こんな人里離れた場所でどうやって暮らしていくのだろう」

 と思えば涙が浮かぶ。涙ぐみながら念誦する宮の姿は、それでも清らかで美しかった。

 宮は年配の女房たちを呼び出して言った。

 「どうか安心できるように仕えてやってほしい。もともと身分が低く、世間にも知られていない家なら、後になって落ちぶれることも世の常だから、人の目に紛れてしまうだろう。

 しかしこの娘たちほどの身分になれば、本人たちは何とも思わなくても、惨めな姿でさすらうことになれば、もったいなく、気の毒なことが多いに違いない。

 寂しく心細い暮らしをすること自体は、これまでと同じだから仕方がない。生まれた家柄にふさわしい慎みを守って暮らすなら、世間から聞いても、本人たちの心にとっても、過ちのない生き方だろう。

 人を増やし、にぎやかに暮らさせたいと思っても、それがかなわない世の中になったなら、決して軽々しく、よくない男に娘たちを任せるようなことはしないでくれ」

 まだ暗い暁に寺へ向けて出発する時にも、八の宮はもう一度娘たちの部屋へ来た。

 「私がいない間、あまり心細がって嘆いてはいけないよ。気晴らしに音楽でもしていなさい。何事も思いどおりにはならない世の中なのだから、あまり一つのことに思いつめてはいけない」

 何度も振り返りながら、宮は出ていった。

 二人はますます心細くなり、起きていても寝ていても、互いに話し続けた。

 「もし、どちらか一人しかいなかったら、どうやって朝から晩まで過ごせたでしょうね」

 「これから先だって何が起きるかわからない世の中でしょう。もし私たちまで別れることになったら……」

 泣いたり、時には笑ったりしながら、冗談も真面目な話も同じように分け合い、互いを慰めながら過ごした。

かの行ひたまふ三昧

 八の宮の三昧の行も、今日はもう終わるころだろうと、二人が父の帰りを今か今かと待っていた夕暮れ、一人の使いが寺から来た。

 宮からの伝言は、

 「今朝から少し気分が悪く、今日は帰れそうにない。風邪だろうということで、あれこれ手当てをしてもらっているところだ。本当なら、いつも以上に早くお前たちに会いたいのだが」

 というものだった。

 姫君たちは胸がつぶれるほど驚いた。いったい何事なのだろうと嘆き、綿を厚く入れた暖かな着物を急いで用意させ、寺へ届けさせたりした。

 二日、三日たっても病状はよくならない。何度も人を送り、

 「ご容体はいかがですか」

 と尋ねたが、宮からは、

 「特に大変な病気というわけではない。ただ何となく苦しいだけだ。少しでもよくなれば、何とか気力を出して帰るつもりだ」

 という言葉だけが伝えられた。

 阿闍梨はずっと宮のそばに付き添っていた。そして、

 「一見、軽いご病気のようですが、もしかすると、これが最後の時なのかもしれません。姫君たちのことを、今さら何をお嘆きになる必要がありましょう。人は皆、それぞれ異なる宿世を持って生まれるものです。宮がお心にかけてどうにかできることではございません」

 と、ますますこの世への執着を捨てるよう説き聞かせ、

 「今になって山を下り、ご自宅へお戻りになってはいけません」

 と諫めていたのだった。

 八月二十日ごろだった。空の様子までひどくもの悲しい季節である。

 姫君たちは朝も夕も、霧の晴れる間もない宇治の景色を眺めながら、父のことばかり思い嘆いていた。

 有明の月がひときわ明るく差し出し、川の水面も澄みきって見える夜だった。そちら側の蔀を上げさせ、二人が外を眺めていると、寺の鐘の音がかすかに響いてきた。

 「ああ、夜が明けるのだ」

 と思っていた、その時だった。

 寺から人々がやって来て、泣きながら申し上げた。

 「今夜、夜中ごろに、お亡くなりになりました」

 絶えず父のことを気にかけ、「どうしておられるだろう」と思い続けていた二人だった。それでも実際にその言葉を聞いた瞬間には、あまりのことに何もわからなくなった。

 こういう時には、涙さえどこかへ消えてしまうのだろうか。二人とも、ただその場にうつ伏してしまった。

 どんなにつらい死でも、目の前で見送り、最後まで様子がわかっているのが普通である。それさえ許されず、父が遠い寺で亡くなったというわからなさまで加わったのだから、悲しみがいっそう深くなるのも無理はない。

 父に一時でも先立たれ、自分たちだけがこの世に残るなどということを、二人はこれまで一度も考えたことがなかった。

 「どうして私たちだけが生き残れるでしょう。父上のあとを追いたい」

 と泣き沈んだが、人が死ぬ道には越えられない境界がある。どれほど願っても、どうにもならなかった。

阿闍梨、年ごろ契りおきたまひける

 阿闍梨は、八の宮と長年約束していたとおり、死後の仏事も何から何まで引き受けて行った。

 姫君たちは、

 「もう亡き人になられたとしても、せめてそのお姿だけでも、もう一度見たい」

 と願った。

 しかし阿闍梨は、

 「今さら、どうしてそのようなことをなさる必要がありましょう。宮が生きておられた時から、『もう二度と会えないものと思いなさい』と申し上げてきました。まして今は、お互いに執着を残さないよう心を整えることを学ばなければなりません」

 とばかり言った。

 父が最期にどんな様子だったのかを聞くにつけても、姫君たちは、この阿闍梨のあまりに悟りきった聖人ぶりが憎らしく、恨めしく感じられた。

 八の宮は昔から出家を深く願っていた。それでも、ほかに託す相手のいない娘たちを見捨てることができず、生きている間は朝夕そばを離れず見守ってきた。世にも心細い人生の中で、二人の存在は宮にとって大きな慰めであり、どうしても捨てきれないものだった。

 けれど死という避けられない道を前にしては、父が先に逝くことも、娘たちがそのあとを慕うことも、思いどおりにはならないのである。

 薫も八の宮の死を聞いた。

 あまりにもあっけなく、残念でならない。もう一度ゆっくりお目にかかり、聞いておくべきことがたくさんあったのに、それがすべて残されてしまったような気がした。

 八の宮一人の死だけでなく、この世そのもののありさまが次々と思い浮かび、薫は激しく泣いた。

 「もう一度お会いすることは難しいかもしれない」

 と、八の宮は以前からよくおっしゃっていた。

 もともと誰よりもこの世の無常を深く感じている人だったから、その言葉はいつものこととして聞き慣れてしまい、まさか昨日今日のうちに本当に亡くなるとは思っていなかった。それが、かえすがえす悔しく、悲しかった。

 薫は阿闍梨のもとへも、姫君たちのもとへも、心を尽くして弔いの消息を送った。

 父を失ったあと、このように丁寧に弔ってくれる人がほかに一人もいない姫君たちは、何も考えられないほど悲しみに沈みながらも、薫がこれまで何年も変わらず示してきた誠意の深さを、改めて感じるのだった。

 薫は、

 「普通の親子の別れでさえ、その時には、この世にこれ以上の悲しみはないと思って誰もが取り乱すものだ。それなのに、この姫君たちはほかに心を慰める相手さえない。今どんな気持ちでいるのだろう」

 と思いやり、今後必要になる仏事なども考え、阿闍梨へ品々を送った。宇治の邸にも、弁たち年配の女房を通じて、誦経のことなど細かく心を配った。

明けぬ夜の心地ながら

 夜が永遠に明けないような気持ちのまま、九月になった。

 野も山もいよいよ物悲しい色を見せ、ただでさえ涙に濡れる袖へ、さらに時雨まで降りかかりそうな季節である。争うように散っていく木の葉の音も、川の響きも、自分たちの涙の滝も、すべて一つになってしまったようだった。

 姫君たちは朝から晩まで悲しみに暮れ、周囲の女房たちは、

 「このままでは、限りのあるお命まで、いくらもお持ちにならないのでは」

 と心配し、必死に慰めた。

 邸には念仏の僧も控えていた。父がおられた部屋では、残された仏像を形見のように拝み、以前から宮に仕えていた人々のうち、忌中のため邸に籠もっている者たちは、しみじみと仏道の勤めをしながら日を過ごした。

 兵部卿宮からも、何度も弔いの手紙が届いた。

 けれど姫君たちは、そんな手紙に返事を書く気力もない。宮のほうは事情がわからないため、

 「中納言には、ここまで冷たくしてはいないらしい。それなのに私には、やはり心を許してくださらないのだな」

 と恨めしく思っていた。

 本当は紅葉の盛りに宇治へ出かけ、詩などを作らせて遊ぼうと準備までしていた。しかし父を亡くしたばかりの姫君たちの住まいへ紅葉見物に出かけるなど、あまりにも時期が悪い。さすがに思いとどまり、残念に思っていた。

御忌も果てぬ

 やがて父宮の忌も明けた。

 「決められた忌の期間も終わったのだから、少しは涙の絶える時もあるだろうか」

 と兵部卿宮は思い、今度は長い手紙を書いた。

 時雨の降りがちな夕方のことである。

牡鹿鳴く秋の山里いかならむ小萩が露のかかる夕暮

牡鹿の鳴く秋の山里で、あなた方は今どのように過ごしておられるのでしょう。小萩の上に露が置くように、涙に濡れておられる夕暮れなのでしょうか。

 「今の空の様子を、何も感じない顔で見ておられるとは思えません。枯れてゆく野辺まで、ことさら心にしみて眺められる季節です」

 などと書いてあった。

 女房たちは、

 「本当に、あまりにもお気持ちをわからないようにして、何度も返事をしないままになりました。今度こそ、お返事をなさいませ」

 と、いつものように中君を促した。

 中君は、

 「今日まで自分が生き残って、硯などをそばへ引き寄せ、手紙を書くことになるなんて思ってもいなかった。なんてつらく長い日々を過ごしてしまったのだろう」

 と思うと、また目の前が暗くなり、何も見えないような気持ちになって、硯を押しやった。

 「やっぱり、とても書けません。こうして少しずつ起きて座れるようになってきたことさえ、『人の悲しみにも限りがあったのだ』と思えて、自分が嫌になり、つらいのです」

 そう言って、かわいらしいほど力なく泣きしおれている姿が、ひどく痛々しかった。

 夕暮れごろ来ていた兵部卿宮の使いは、少し夜も更けてからようやく返事を待ちに来た。

 「どうして今から帰れるでしょう。今夜はこちらへ泊まりなさい」

 と姫君たちは言わせたが、使いは、

 「どうしても今夜のうちに戻らなければなりません」

 と急ぐ。

 さすがに手ぶらで帰すのも気の毒だった。中君自身、決して気持ちが静まったわけではない。それでも皆が困っているのを見かねて、ようやく筆を取った。

涙のみ霧ふたがれる山里は籬に鹿ぞ諸声に鳴く

涙ばかりが霧のように目の前を閉ざすこの山里では、垣根のあたりで鹿まで私たちと声を合わせるように鳴いております。

 黒い紙なので、夜の薄暗がりでは墨の色さえはっきりしない。書き直すこともせず、ただ筆の動くまま書いて包み、使いに渡した。

御使は、木幡の山のほども

 使いは木幡山のあたりまで来ると、今にも雨が降り出しそうな空で、ひどく恐ろしい道だった。しかし宮が、そんなものを怖がらない者をわざわざ選んでいたのだろう。笹の茂る薄気味悪い道でも馬を止めることなく走らせ、ほんのわずかな時間で宮のもとへ戻った。

 ひどく濡れて帰ってきたので、兵部卿宮は使いに褒美を与えた。

 宮は返事を受け取ると、すぐに開いて見た。

 以前見た筆跡とは違う。こちらのほうがもう少し大人び、風情のある書きぶりだった。

 「いったい、どちらの姫君なのだろう」

 そう思いながら、手紙を置くこともできず、何度も眺め続けている。いつまでも寝ようとしないので、御前の女房たちは、

 「返事を待っておられて、お起きになっていたのね」

 「返事をご覧になるのにも、ずいぶん時間がかかること。どれほどお心にしみたのでしょう」

 などとささやき合い、少し宮を恨めしく思っている。自分たちが眠くて仕方なかったからだろう。

 翌朝、まだ朝霧の深いうちに、兵部卿宮は急いで返歌を書いた。

朝霧に友まどはせる鹿の音をおほかたにやはあはれとも聞く

朝霧の中で連れを見失い、悲しげに鳴く鹿の声を、どうしてただの秋の風情として聞けるでしょう。あなたの悲しみと重ねずにはいられません。

 「私もあなたに劣らず、同じ声で嘆いているつもりです」

 とあった。

 しかし姫君たちは、

 「あまり風流なやり取りにしてしまうのも嫌だ。これまで父上お一人の庇護の下に隠れていることだけを頼りに、何の心配もなく暮らしてきた。父上が思いがけず亡くなられ、もしこれから自分たちが予想もしないことに巻き込まれるようになったら、『娘たちのことが気がかりだ』とばかり思って亡くなられた父上の魂にまで、傷をつけてしまうのではないか」

 と思う。

 何につけても慎ましく、怖ろしく感じられ、今度は返事をしなかった。

 兵部卿宮を普通の軽い男だと見下しているわけでもない。何気なく走り書きした文字や言葉にさえ、艶やかな気品があることは、男を多く知る姫君たちではないものの、十分感じ取っていた。

 それでも、

 「そうした風流で情の深いお方と、自分たちのような世間離れした女が言葉を交わすこと自体、似つかわしくない。もうただ、このまま山伏のように世を離れて暮らしていこう」

 と思うのだった。

中納言殿の御返りばかりは

 ただ薫からの手紙には、薫自身がいつも真面目な調子で書いてくることもあって、こちらからも、それほどよそよそしくはせず返事を交わしていた。

 父宮の忌が明けると、薫は自ら宇治を訪ねた。

 姫君たちは東の廂の少し奥まった所に、喪服姿で静かに座っていた。薫はその近くまで寄り、まず弁の君を呼び出した。

 悲しみの闇に沈んでいる姫君たちの住まいへ、薫が入ってくると、まばゆいほどの美しさと香りがあたりいっぱいに満ちた。

 姫君たちはかえって気後れしてしまい、返事さえ十分にできない。

 そこで薫は、

 「そんなふうに遠く扱わないでください。亡き宮が私に託されたお気持ちに従ってくださるのであれば、こうして直接お話を伺えることにこそ意味があります。

 私は女の方へ気取った恋のそぶりを見せたり、意味ありげに振る舞ったりすることに慣れておりません。人を介してばかり申し上げていると、言葉も思うように続かないのです」

 と言った。

 すると大君は、

 「自分でも呆れるほど、今日まで生き残ってしまいました。それでも、どうやって悲しみから覚めればよいのかわからない夢の中をさまよっているような気持ちでおります。思いがけず外の明るい光を見ることさえためらわれ、部屋の端近くへ出ることもできません」

 と答えた。

 薫は、

 「何を申し上げても、あなたのお悲しみが限りなく深いことはわかっています。けれど月日の光まで、ご自分から明るく受け止めようとなさることが、どうして罪になるでしょう。

 私はどこへ持っていけばよいかわからない思いを抱え、胸が塞がるようです。それに、ほかにもお考えになっていることがおありでしょう。それだけでも、少しは私に打ち明けていただきたいのです」

 と申し上げた。

 弁も、

 「本当にそのとおりでございます。これほど並ぶもののない悲しみの中で、こうしてお慰めしようと心を尽くしてくださる中納言さまのお気持ちが、どれほど深いものか、おわかりになってくださいませ」

 などと姫君たちへ言い聞かせた。

御心地にも、さこそいへ

 大君も、深い悲しみの中にあるとはいえ、日がたつにつれて少しずつ心が落ち着き、さまざまなことが考えられるようになっていた。

 そうなれば、父宮が生きていた昔から、薫がこれほど遠い山道を分け入って何度も訪ねてくれた、その厚意もわかってくる。

 大君は少し御簾の近くへにじり寄った。

 薫は、八の宮が娘たちをどのように思っていたか、自分とどんな約束を交わしたかを、たいそう丁寧に、親しみ深く話した。

 薫は男らしさを押しつけるような荒々しい気配がまるでない人だった。そのため大君も、知らない男に声を聞かせ、頼りにしているような態度を取ることは気恥ずかしく感じながらも、特別に嫌なものとは思わなかった。

 ほんの一言、二言だけ返事をする。その声にも、何もかも悲しみにぼんやりしている様子がはっきり表れていた。薫はそれを聞くたび、深く心を打たれた。

 黒い几帳越しに見える影だけでも、痛ましいほどだった。ましてその奥で喪に沈んでいる姿は、どれほどだろう。

 薫は以前、明け方にほんのわずか垣間見た大君の姿を思い出し、独り言のように詠んだ。

色変はる浅茅を見ても墨染にやつるる袖を思ひこそやれ

秋になって色を変えていく浅茅を見るだけでも、喪の墨染めに身をやつしておられるあなたの袖を思わずにはいられません。

 大君は返した。

色変はる袖をば露の宿りにてわが身ぞさらに置き所なき

色の変わったこの喪の袖は、ただ涙の露が宿る場所になりました。そして私自身は、ますますこの世のどこにも身を置く場所がないように思われます。

 「ほつれていく糸は……」

 と、歌の末はほとんど声にならず消えた。そして、もう悲しみをこらえることができないという気配で、奥へ入ってしまった。

ひきとどめなどすべきほどにも

 引き止めて話を続けられるような時ではない。薫は物足りなく思いながらも、その悲しみの深さに胸を打たれた。

 代わって弁の君が出てきて、昔のこと、今のことを取り混ぜながら、悲しい話を次々と聞かせた。

 弁は、世にも珍しい、信じがたいような出来事まで実際に見てきた人である。今では年老いて衰えた女ではあっても、薫は粗末には扱えず、親しみを込めて語り合った。

 薫は言った。

 「まだ幼かったころに故六条院を亡くし、この世というものは本当に悲しい所なのだと思い知りました。それ以来、大人になるにつれて官位が上がり、世間では華やかな立場になっても、私には何の意味もあるように思えなかったのです。

 ただ八の宮のような静かな住まいだけは、私の心にかなっていると思っていました。それなのに、あまりにもあっけなく亡くなられてしまった。

 そのため、この世はますます仮のものだという思いを強くしました。

 それでも、残された姫君たちのことが気にかかっています。私がそんなことを言えば、男女の縁に心を動かされているようで似つかわしく聞こえるかもしれません。

 けれど生きている限りは、亡き宮から言われたことに背かず、姫君たちのことを見守りたいと思っています。

 それに、あなたから思いもしなかった昔の話を聞いて以来、私はますますこの世に自分の跡を残したいという気持ちさえなくなってしまいました」

 薫が涙を流しながら話すと、弁はそれ以上に激しく泣き、しばらく何も言えなくなった。

 薫の声や気配の一つ一つが、亡くなった柏木その人を思わせる。長い年月のうちに忘れかけていた昔のことまで一度に重なって思い出され、弁は言葉を続けることもできず、涙に溺れるように座り込んでいた。

 この弁は、あの権大納言――柏木の乳母子だった。父は、姫君たちの母である北の方の母方の叔父にあたり、左中弁のまま亡くなった人の息子だった。

 弁自身は長く遠国をさすらっていたため、母を亡くしてからは柏木の家とも縁が薄くなった。その後、八の宮が探し出して自分のもとへ置いたのである。

 特別高い身分の女房ではないが、宮仕えには慣れていた。八の宮も安心して任せられる人と思い、娘たちの後見役のような立場にしていた。

 薫の出生にまつわる昔の秘密については、弁は何年も姫君たちと朝夕一緒に暮らし、何の隔てもなく親しく仕えてきたにもかかわらず、一言も話す機会がなく、ずっと胸の中に隠していた。

 けれど薫は、

 「年寄りが頼まれもしない昔話をするのはよくあることだ。弁があちこち軽々しく言いふらしたとは思わなくても、これほど聡明そうな姫君たちなら、もしかすると何かを聞いて知っているのではないか」

 と推測した。

 そう思うと、恥ずかしくもあり、姫君たちが気の毒でもある。そしてそれがまた、「やはり完全に離れたままではいられない」と、宇治への心を深める一つのきっかけにもなっていった。

今は旅寝もすずろなる心地して

 今となっては宇治での旅寝も何となく落ち着かない。

 帰ろうとする時にも、薫は八の宮が、

 「これが最後の対面になるかもしれない」

 とおっしゃったことを思い出した。

 「あの時、どうして『そこまでのことはあるまい』と安易に思い、すぐまたお訪ねしなかったのだろう。秋が変わってしまったわけでもない。ほんの何日かしかたっていなかったのに、もうどこへ行かれたのかさえわからない人になってしまった。本当にあっけないことだ」

 と悔やまれた。

 八の宮の住まいは、普通の人の邸のような華やかな飾りはなく、何もかも簡素だった。それでもいつも清らかに掃き清められ、周囲まで趣深く整えられていた。

 今では大徳たちが出入りし、あちらこちらを仕切って仏事の準備に使っている。念誦の道具などは以前と変わらず残っているが、仏像はすべて阿闍梨の寺へ移すことになったという。

 そんな話を聞いていると、やがてここから八の宮に仕えた人々の姿まで消え果ててしまうのだろうと思われる。

 そのあと、この山里に残される姫君たちはどんな気持ちになるのだろう。そう考えるだけで、薫の胸は痛んだ。

 供の者が、

 「ずいぶん暗くなってまいりました」

 と申し上げたので、薫は物思いを中断して立ち上がった。

 その時、空を雁が鳴きながら渡っていった。

秋霧の晴れぬ雲居にいとどしくこの世をかりと言ひ知らすらむ

秋霧の晴れない空を雁が鳴きながら渡っていく。その声は、この世がほんの仮の宿にすぎないことを、ますます私に思い知らせようとしているのだろうか。

兵部卿宮に対面したまふ時は

 薫が兵部卿宮に会うと、宮は決まって最初に宇治の姫君たちのことを話題にした。

 父宮が亡くなった今なら、以前よりは自由に近づけるはずだと思い、兵部卿宮はいっそう熱心に手紙を送っていた。

 しかし女の側では、ほんの簡単な返事をするだけでも、どうにも気恥ずかしく、ためらわれる。

 「世間ではひどく恋好きな宮という評判が広まっている。いかにも風流で艶やかな女性を好んでおられるような方に、こんな葎に埋もれた山家から差し出す自分たちの文字など、どれほど不慣れで古くさく見えることだろう」

 と思い、ますます気後れするのだった。

 二人は毎日のように語り合った。

 「それにしても、驚くほど平気で過ぎていくものなのね、月日というものは。

 父上のお命が、こんなにも頼りないものだったなんて、昨日今日のこととしては考えもしなかった。世の中が無常ではかないという話なら、朝も夕も聞いたり見たりしていたのに、自分たちと父上が、実際にこんなふうに先立ったり残されたりするとは思ってもいなかった」

 「これまでの人生を思い返してみても、特に頼りになる世の中だったわけではない。それでも何となく静かに日々を眺めて過ごしてきて、恐ろしいことや、人目を気にして怯えることもなかった。

 それが今では、風の音が荒く聞こえるだけでも怖い。見慣れない人影が何人か連れ立ち、声を立てているだけで、まず胸がどきりとして、不安で、わびしい。そんな怖さまで加わったことが、本当に耐えがたい」

 二人はこうして語り合い、涙の乾く日もないまま過ごしているうちに、その年も暮れた。

雪霰降りしくころは

 雪や霰が降り続くころになると、風の音そのものはどこでも同じはずなのに、二人にはまるで今初めて本当の山住みを始めたように感じられた。

 女房たちの中には、

 「ああ、もうすぐ年も替わってしまいます。なんて心細く、悲しいことでしょう。せめて新しい春を迎えて、少しでも気持ちが変わればよいのですが」

 と、かえって姫君たちの心を暗くするようなことを言う者もいた。

 「そんなことがあるでしょうか」

 二人はそう聞くだけだった。

 向かいの山にある阿闍梨の寺も、以前は八の宮が季節ごとの念仏に籠もっていたからこそ、人々が行き来した。阿闍梨自身も時々、様子はどうかと形式的な便りをくれる程度で、今ではわざわざこちらへ姿を見せる理由もない。

 人の訪れがますます完全に絶えていくのも当然のことだとは思いながら、やはり悲しかった。

 昔は何とも思わなかった山人でさえ、父宮が亡くなってから、たまに邸をのぞきに来ると、それだけで珍しく感じられる。

 冬なので薪や木の実を拾って届ける山人たちもいた。

 阿闍梨の坊からは、炭などを贈ってきて、

 「長い年月、宮さまへお仕えすることに慣れてしまいました。それが今、本当に途絶えてしまうのかと思うと、心細くてなりません」

 と伝えてきた。

 毎年、八の宮は冬になると、寺の者たちへ山風を防げるような綿入れの衣などを贈っていた。そのことを思い出し、姫君たちは今度は自分たちから同じように品々を贈った。

 僧たちや童が雪深い山道を登っていく姿が、見えたり見えなくなったりする。姫君たちは泣きながら外へ出て、その背中を見送った。

 「もし父上が髪を下ろし、本当に出家なさっていたなら、僧としてこの山におられたでしょう。そうだったなら、ああして行き来してくれる人も、自然ともっと多かったでしょうに」

 「どれほど寂しく心細い暮らしでも、父上にお目にかかれることまで、完全になくなることはなかったでしょうに」

 二人はそんな話をした。

君なくて岩のかけ道絶えしより松の雪をもなにとかは見る

父上がいなくなり、岩を伝う山道まで人の行き来が絶えてしまってからは、松に積もる雪を見ても、何の風情があるというのでしょう。

 中君が返した。

奥山の松葉に積もる雪とだに消えにし人を思はましかば

せめて、亡くなった父上が奥山の松葉に積もる雪となって消えたのだと思えるのなら、どんなによかったでしょう。

 雪は、二人の気持ちなど知らないように、その上からさらに降り積もっていった。

中納言の君、新しき年は

 新しい年になると、薫は、

 「年が明けてすぐに便りを送るだけというのも、あまりに味気ない」

 と思い、自ら宇治へやって来た。

 雪が深く積もり、普通の客なら誰一人訪れなくなっているような時期である。それなのに薫ほどの人が、仰々しい一行でもなく、身軽な姿でわざわざ訪ねてきた。

 その気持ちが決して浅いものではないと姫君たちにもわかり、いつもよりは少し丁寧に迎え、御座なども整えさせた。

 喪のため使っていなかった、墨染めではない普通の火桶を奥から取り出し、積もった塵を払い清める。

 そんなことをするだけでも、女房たちは、

 「父宮さまは、中納言さまがお見えになると本当にうれしそうでいらっしゃいましたね」

 などと昔を語り出す。

 姫君たちは薫と直接話すことを、相変わらず気恥ずかしく思っていた。しかし、いつまでもあまりによそよそしくしていると、かえって人から思いやりのない人間だと思われそうである。仕方なく大君が応対した。

 打ち解けきったわけではない。それでも以前よりは少し長く言葉を続け、いろいろと話すようになった。

 その話しぶりは実に感じがよく、奥ゆかしく、人を自然と気後れさせるような品があった。

 薫は、

 「このまま、ただ言葉を交わすだけで一生終わることはできないかもしれない」

 と思い始める。

 しかし同時に、

 「何という唐突な心の動きだろう。自分もやはり、この世の男女の情から逃れられず、いつか心が移ってしまう人間なのだな」

 とも思っていた。

宮の、いとあやしく恨みたまふ

 薫は大君に、兵部卿宮のことを話し出した。

 「兵部卿宮が、私にひどく不思議な恨み言をおっしゃるのです。

 亡き父宮が私にくださった、あの忘れがたいお言葉のことを、何かの折に私が少し漏らしてしまったのでしょうか。それとも宮は非常に察しのよい方ですから、ご自分でお気づきになったのでしょうか。

 『宇治の姫君たちとのことは、何もかもあなたを仲介として頼みにしているのに、そのあなたが冷たい態度を取る。私の邪魔をしているのではないか』と、何度も恨まれるのです。

 私としては本意ではないことなのですが、宇治への案内役という立場では、あまり強く否定することもできません。どうして、そこまで冷たくなさる必要があるでしょう。

 世間では、宮はたいそう恋好きな方だと言われているようです。けれど心の底は不思議なくらい深い方ですよ。

 軽い恋の遊びをしかける相手が、こちらも軽々しくなびいてくると、かえって『ありふれた女だ』と興ざめなさることさえあると聞きます。

 何事にも深く考えず、その場の流れに合わせて生きる人のほうが、世間ではかえって長続きすることもあります。少しくらい思いどおりにならないことがあっても、『まあ仕方がない、こういう運命なのだ』と受け流せますから。

 しかし一度崩れ始めたら、龍田川の濁りのように評判まで汚し、最後には見る影もなくなってしまう。そんな例も世の中には多いでしょう。

 その点、あの宮は、一度本当に心にかなう相手を深く思われたなら、その人が宮の心に大きく背くことさえなければ、途中で軽々しく気持ちを変え、初めと終わりが違ってしまうような姿は、決してお見せにならない方だと思います。

 私は、世間の人が知らない宮のお人柄まで、ずいぶんよく存じています。

 もしあなたが、『あの宮なら自分にもふさわしいかもしれない』と少しでも思われるのでしたら、私はできる限りのお世話をいたします。あなた方の間を取り持つためなら、道中歩き回って足が痛くなろうと構いません」

 薫は冗談ではなく、ひどく真面目な顔で長々と話した。

 大君は、薫自身が自分に心を寄せ始めているなどとは、まったく考えていない。

 「亡き父に代わって、親のような立場で兵部卿宮との縁を勧めてくださっているのだろう」

 と思いながら、どう返事をすればよいか考えた。しかし、やはり適当な言葉が思い浮かばない。

 「何と申し上げればよいのでしょう。そんなふうに意味ありげなお話を続けられますと、かえって私には何も申し上げることが思いつきません」

 そう言って少し笑った。

 おっとりした言い方ながら、その声や気配は何とも美しく感じられた。

かならず御みづから聞こしめし負ふ

 薫はさらに言った。

 「何も、あなたご自身が必ず引き受けなければならない話だと申し上げているわけではありません。

 私については、せめて、この深い雪を踏み分けてここまで訪ねてきた気持ちだけでも、おわかりください。父宮に代わる兄のような気持ちで見ていただくだけでも結構です。

 兵部卿宮が心を寄せておられる相手は、また別にいらっしゃるようにも思えます。宮がそれとなくおっしゃったこともありますが、さて、それも誰のことなのか、他人にはなかなかわかりません。

 ところで、宮へのお返事は、いつもどちらの方がお書きになっているのですか」

 そう尋ねられて、大君は、

 「よかった。これまで冗談にでも、返事を書いているのが誰かなど、口にしなくて。大したことでもないのに、こんなふうに尋ねられただけでも、もし答えていたら、どれほど恥ずかしく胸がつぶれただろう」

 と思い、最後まで返事ができなかった。

 やがて一首を書いて差し出した。

雪深き山のかけはし君ならでまたふみかよふ跡を見ぬかな

雪深いこの山の険しい道を、あなたのほかに、手紙を交わしながら通ってくる方など、私は見たことがありません。

 薫は、

 「そんなふうに否定なさるほうが、かえって私は気になってしまいます」

 と言い、返した。

つららとぢ駒ふみしだく山川をしるべしがてらまづや渡らむ

氷に閉ざされ、馬が踏み砕きながら進むこの山川を、まずは誰かの案内役という名目で、私自身が渡ってみることにしましょう。

 「そうなれば水面に映る私自身の影まで見えるでしょうし、私がここへ通う意味も、決して浅いものではないとおわかりになるでしょう」

 と言われると、大君は思いがけず不快になり、そのことには特に返事をしなかった。

 きっぱりと冷たく、いかにも堅苦しい女性に見えるわけではない。けれど今どきの若い女性のように、艶っぽく相手に調子を合わせることもしない。

 穏やかで感じがよく、落ち着いた心の持ち主なのだろうと、その気配だけでも推し量られた。

 薫には、まさに「こういう女性こそ理想だ」と、自分の思い描いていたものと少しも違わないように感じられた。

 薫が何かにつけて意味ありげに近づこうとしても、大君はまるで気づかないように振る舞う。そのため薫も気後れし、結局は昔の話などを真面目に語るばかりになった。

暮れ果てなば、雪いとど

 やがて供の者たちが、

 「完全に日が暮れてしまえば、雪で空もいっそう閉ざされてしまいそうでございます」

 と声をかけた。

 薫は、そろそろ帰ろうとして言った。

 「見回せば見るほど、気の毒になるようなお住まいです。本当に静かな山里で、人もほとんど行き来しない所ですが、私のほうにも似たような場所があります。もしそちらへ移ることを考えてくださるなら、どれほどうれしいでしょう」

 それを片耳で聞いていた若い女房たちの中には、

 「まあ、なんてすばらしいお話でしょう」

 という顔で笑う者もいた。

 中君はそれを見聞きしながら、

 「なんてみっともないのでしょう。どうしてそんなふうに受け取れるの」

 と苦々しく思っていた。

 果物などが風情よく整えられて出され、供の人々にも、簡素ながら見苦しくない肴と酒が用意された。

 以前、薫から移った香りのせいで周囲に騒がれた、あの宿直の男もまだいた。鬘鬚というのだろうか、あまり感じのよくない顔つきの男である。

 薫は、

 「姫君たちの頼りになる男が、これだけなのか」

 と気の毒に思い、その男を呼び出した。

 「どうだ。宮がお亡くなりになってからは、さぞ心細いだろう」

 と尋ねると、男は顔をしかめ、いかにも心弱そうに泣き出した。

 「この世にほかに頼れる人もない身でございまして、宮さまお一人のお蔭に隠れ、三十年以上も暮らしてまいりました。今となっては、もしこの山を離れて野山をさまようことになっても、いったいどの木の下を頼りにすればよいのでしょう」

 そう言って、ますます見苦しいほど泣いた。

 薫は八の宮がおられた部屋を開けさせた。

 中には塵がずいぶん積もっている。それでも仏前だけは、花の飾りも衰えず、今も宮が修行を続けているように整えられていた。

 かつて宮がお使いになった床などは片づけられ、きれいに掃き清めてある。

 薫は、

 「自分も仏道の本願を遂げる時には、ここを頼りにしたい」

 と八の宮と語り合ったことを思い出した。

立ち寄らむ蔭と頼みし椎が本空しき床になりにけるかな

いつか自分も立ち寄り、その木陰に身を寄せようと頼みにしていた椎の木のもとが、今では主人のいない空しい床になってしまったのだな。

 そう詠み、柱に寄りかかって物思いに沈んでいる薫の姿を、若い女房たちは物陰からのぞき見て、ひたすら美しい方だと感嘆していた。

 日も暮れてきた。

 近くに薫の荘園などを管理する者たちがいるので、供の者が馬の飼料を取りに行ったらしい。薫自身はそんなことを知らなかったが、田舎びた人々が大勢で大げさに連れ立ってやって来た。

 薫は、

 「なんとも場違いで、きまりが悪いことだ」

 と思ったが、年寄りの女房たちを相手にしているふりをしながら、その騒ぎをごまかした。

 そして今後も姫君たちにこうした形で仕えるよう、近隣の者たちへ言いつけて、宇治をあとにした。

年替はりぬれば

 年が替わると空も穏やかになり、川岸の氷も解け始めた。

 女房たちは、それを珍しいものでも見るように眺めていた。

 阿闍梨の坊から、

 「雪の消えた所から摘んだものです」

 と、沢の芹や蕨などが贈られてきた。精進の食事として姫君たちの膳にも出された。

 女房たちは、

 「山里には山里らしく、こうして草木の姿が変わるたびに、過ぎていく月日のしるしがわかるのも風情がありますね」

 などと言う。

 二人には、

 「何が風情のあるものか」

 としか聞こえなかった。

君が折る峰の蕨と見ましかば知られやせまし春のしるしも

父上が峰で折って持ってきてくださった蕨なのだと思えたなら、春が来たというしるしも、少しは心に感じられたでしょうに。

雪深き汀の小芹誰がために摘みかはやさむ親なしにして

雪深い水辺に生えた小芹を、これからいったい誰のために摘み育てればよいのでしょう。もう父上はいらっしゃらないのに。

 そんな何気ない歌を交わしながら、二人は朝夕を過ごした。

 薫からも兵部卿宮からも、季節の折々を逃さず便りが届いた。この時期には何でもない細かな出来事があまりにも多く、物語にもすべては書ききれず、いつものように省かれているらしい。

花盛りのころ

 桜が満開になるころ、兵部卿宮は去年、宇治から桜の枝を送ったことを思い出した。

 その時一緒に八の宮の山荘を訪れた公達たちも、

 「あれほど趣のあった親王のお住まいを、結局あの一度しか見ることができなかったな」

 などと、それぞれ宮の死を惜しんで話している。

 それを聞くと、兵部卿宮はますます宇治へ行きたくなった。

つてに見し宿の桜をこの春は霞隔てず折りてかざさむ

去年は人づてに見ただけだったあなたの宿の桜を、この春こそ霞に隔てられず、自分の手で折って髪に挿したいものです。

 と、すっかり気持ちを先へ走らせて書き送った。

 姫君たちは、

 「そんなことがあってよいはずがない」

 と思った。

 それでも、あまりに所在のない毎日である。せっかく美しく書かれた手紙なのに、形だけの返事さえせず無視するのも気が引け、返歌を送った。

いづことか尋ねて折らむ墨染に霞こめたる宿の桜を

どこの桜をお探しになって折るというのでしょう。父を失った墨染めの悲しみに、霞のように閉ざされたこの宿の桜なのですから。

 相変わらず、こうして遠く突き放すような冷たい態度ばかり見せられるので、兵部卿宮は本当に恨めしく、つらく思い続けていた。

御心にあまりたまひては

 とうとう我慢できなくなると、兵部卿宮は薫に向かって、ああでもないこうでもないと姫君たちのことを持ち出し、責めたり恨んだりした。

 薫はそれを面白く思いながら、すっかり後見人のような顔で応対した。

 そして兵部卿宮が時々、ほかの女性へ軽い気持ちを向けているらしいところを見つけると、

 「そんなふうでいらっしゃるなら、どうして宇治の姫君をお任せできましょう」

 などと言う。

 宮もさすがに、その前では少し振る舞いに気をつけるようになった。

 「まだ本当に心にかなう相手を見つけていないだけだよ」

 と宮は言う。

 右大臣は、兵部卿宮が自分の六の君に本気で心を向けようとしないことを、少し恨めしく思っていた。

 しかし宮のほうでは、

 「いくら気心の知れた親しい家とはいえ、右大臣は何事も大げさで面倒だ。ちょっとした出来事まで見つけて、いちいち咎められそうなのが鬱陶しい」

 と陰では言い、結局その縁を避けていた。

 その年、三条宮が焼け、入道宮も六条院へ移ることになった。何かと騒がしい出来事が続き、その混乱に紛れて、薫もしばらく宇治へ便りを送らない時期ができた。

 しかし薫のような真面目な人の心は、兵部卿宮とはまたまったく違っていた。

 「姫君は、自分の側の人だと思ってもよいほど近い存在になった」

 と心の中では頼みに思いながらも、女性のほうが心を許さない限り、こちらから浮ついた態度を見せて、情のない男と思われることはしたくない。

 ただ、亡き八の宮への気持ちを忘れていないことだけは、いつか深くわかってもらいたいと思っていた。

その年、常よりも暑さを

 その年は、例年より暑さが厳しく、人々は皆うんざりしていた。

 薫はふと、

 「宇治川のほとりなら、きっと涼しいだろう」

 と思い出し、急に宇治へ出かけた。

 朝の涼しいうちに都を出たのだが、到着するころには意地悪なほど日が照りつけ、まぶしく暑い。

 薫は、かつて八の宮がおられた西の廂へ入り、例の宿直の男を呼び出して座っていた。

 その時、姫君たちは、その近くの母屋にある仏前にいた。

 薫が来たと知り、あまり近くを通らないようにして自分たちの部屋へ戻ろうとしたらしい。

 できるだけ音を立てず動いているつもりでも、すぐ近くなので、衣の動く気配などが自然と薫の耳へ届いた。

 薫は以前から、この部屋から向こうへ通じる障子の端、掛け金の近くに、ほんの少し隙間があるのを見つけていた。

 「せっかくこれほど近くにいるのだから、このまま何も見ずにいることもないだろう」

 と、手前に立ててあった屏風をそっと動かし、その隙間からのぞいてみた。

 ところが向こう側には、ちょうどその場所を隠すように几帳が立ててある。

 「ああ、残念だ」

 と思い、いったん顔を引こうとした。

 ちょうどその時、強い風が簾を大きく吹き上げそうになった。

 奥で誰かが、

 「そんなに丸見えになってしまいますよ。その几帳をもっと前へ出したほうがよいでしょう」

 と言った。

 人の部屋をのぞくなど、我ながら愚かなことではある。それでも薫には、うれしい成り行きだった。

 見ていると、高い几帳も低い几帳も、二間にわたる簾の前へ押し出されていく。すると、こちらの障子に向いた場所が開き、姫君たちはそこを通って奥へ戻るらしい。

まづ、一人立ち出でて

 まず一人の姫君が立ち上がった。

 几帳の脇から少し顔を出し、薫の供の人々があちらこちらを行き来しながら、涼を取っている様子を眺めている。

 濃い鈍色の単衣に、萱草色の袴。その喪の色合いが、かえって普通とは違う華やかさを感じさせるのは、着ている本人の美しさのためなのだろう。

 帯はごく軽く結び、数珠は人に見えないよう手元へ隠して持っている。

 背が高く、姿かたちの美しい人だった。

 髪は袿の裾に少し届かないくらいの長さに見え、毛先まで乱れ一つない。豊かでつやつやと美しく、見事だった。

 横顔も、

 「ああ、なんてかわいらしい」

 と思わせる。

 華やかでありながら柔らかく、おっとりした気配がある。

 薫は、以前ほんの少し拝見した冷泉院の女一の宮も、もし気軽な姿でおられたなら、きっとこんなふうなのだろうと思い比べ、思わずため息をついた。

 すると、もう一人の姫君が膝を進めて出てきた。

 「あちらの障子、外から見えてしまうのではないかしら」

 と、薫のいる方向を用心深く見やる。

 その何気ない用心の仕方にも、気を許しきらない慎みと品があった。

 頭の形や髪の生え際などは、先ほどの姫君よりもう少し上品で、艶やかな印象だった。

 若い女房の一人が、何も知らずに、

 「向こう側にも屏風を添えて立ててありますよ。いくら何でも、中納言さまが急いでのぞいたりはなさらないでしょう」

 と言った。

 姫君は、

 「まあ、とんでもないことを言うのね」

 と、やはり心配そうに奥へにじり入った。

 その時の姿には、先ほどの人とはまた違う、気高く奥ゆかしい雰囲気が加わって見えた。

 黒い袷を一襲、似たような色合いで重ねているので、衣装そのものは二人ともほとんど変わらない。それでもこちらの姫君のほうが、親しみ深く艶やかで、どこか悲しげで、こちらまでいたわりたくなるように見えた。

 髪はさらさらと豊かに垂れているらしい。毛先へ行くほど少し細くなり、いわゆる「色」というのだろうか、翡翠を思わせるほど艶のある美しい黒で、まるで一本一本の糸を丁寧に撚り合わせたようだった。

 紫色の紙に書かれた経を片手に持っている。その手は先ほどの姫君よりさらに細く、体も少し痩せているように見えた。

 先ほど立っていた姫君も、障子口のところへ座ったまま、何の話をしているのか、こちらを振り返って笑った。

 その笑顔には、何とも言えない愛嬌があった。

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