
このページでは、『源氏物語』第17帖「絵合」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第17帖「絵合」原文全文をご覧ください。
前斎宮、冷泉帝の後宮へ
前斎宮を宮中へ入れることについては、藤壺の中宮もご自身のことのように心を配り、話を進めていた。母の六条御息所を亡くした宮には、細々したところまで世話をしてくれる特別な後見人もいない。源氏もそれを気の毒に思っていたが、朱雀院のお耳に入った時のお気持ちを考えると、前斎宮を二条院へ迎えることだけは今回は思いとどまった。表向きは何も知らないような顔をしていたものの、そのほかのことについては、すべて自分が親であるかのように取り仕切った。
朱雀院は、前斎宮が冷泉帝のもとへ入ることをたいそう残念に思っていた。しかし今さら露骨に思いを見せるのも体裁が悪い。いつしか手紙のやり取りまで途絶えていたが、入内の日になると、見事な装束をはじめ、櫛の箱、化粧道具の箱、香壺の箱など、どれも世間並みではないほど美しく整えて贈った。さまざまな薫物や薫衣香の香りは、百歩も離れたところまで漂いそうなほどだった。いずれ源氏も目にするだろうと、前々からことさら心を込めて用意していたのかもしれない。
ちょうど源氏も六条へ来ていたので、女別当が、「院からこのようなものをいただきました」と、目立たないようそっと見せた。源氏が櫛の箱の片側だけを見てみると、どこまでも繊細で艶やかに作られ、見たこともないほど美しい。その挿櫛の箱に添えられた飾りには、朱雀院の歌があった。
別れ路に添へし小櫛をかことにてはるけき仲と神やいさめし
伊勢へお下りになる別れの道で、私が挿して差し上げた小櫛――あれを口実にして、神は私たちを遠く隔てたままにせよと戒められたのでしょうか。
それを見つけた源氏は、さまざまなことを思い巡らせた。あまりにも恐れ多く、朱雀院がお気の毒でもある。つくづく厄介な自分の性分を思い知らされた。前斎宮が伊勢へ下った時、院はどんなお気持ちであの別れを迎えられたのだろう。そして何年もたってようやく宮が帰京し、その思いを叶えられそうになったところへ、今度は自分が横から別の道へ進ませようとしている。院はすでに帝位を退き、静かな暮らしの中で、この世を恨めしく思っていらっしゃるのではないか――。もし自分が院の立場だったなら、これほど心を乱されることはないだろうと思うと、たまらなく気の毒だった。
源氏もかつては朱雀院を恨めしく思ったことがあった。それでも院の人柄には、どこまでも優しく懐かしいところがある。そのことまで思い出され、しばらく黙ったまま物思いに沈んでいた。
「このお歌には、どんなお返事をなさるのでしょう。それに、お手紙には何と書いてあるのですか」
源氏はそう尋ねたが、周囲の女房にはあまりにも気まずく、朱雀院の手紙そのものまでは見せられなかった。前斎宮も体調がすぐれないような様子で、返事を書くのをひどく億劫がっている。それでも女房たちは、「何もお返しにならないのでは、あまりに情けなく、恐れ多いことでございます」と、しきりに勧めていた。
その気配を聞いた源氏も、「それはいけません。ほんのしるしだけでも、お返事は差し上げなさい」と勧めた。宮には源氏からそう言われることさえ恥ずかしかったが、昔を思い返すと、伊勢へ下る時、朱雀帝が若々しく清らかな姿でひどく泣いていらしたことを、自分も幼い心ながら、何ともいえず哀れに感じたのが昨日のことのように思い出される。亡くなった母御息所のことまで次々と胸に浮かび、ようやく一首だけを書いた。
別るとて遥かに言ひし一言もかへりてものは今ぞ悲しき
遠く伊勢へ別れてゆく時に交わした、あの一言まで、今になって再び胸へ返ってきて、悲しく思われます。
おそらく、それだけの返事だったのだろう。使者には身分に応じて十分な褒美を与えた。源氏はその返事をひどく見たかったが、さすがに見せてくれとは言えなかった。
朱雀院の未練と、源氏の思い
朱雀院は、もし自分が女性だったなら、ぜひそばに仕えてお慕いしたいと思わせるような優美なお方だった。前斎宮の気配もそれに劣らず、なるほどこの二人ならよくお似合いだっただろうと思われる。それなのに冷泉帝はまだたいそうお若い。そんな幼い帝のもとへ宮を入れてしまうことを、院は人知れず面白くないと思っていらっしゃるのではないか――そんなことまで想像すると、源氏も胸がどきりとした。
とはいえ、もう今日になって入内を取りやめられるものではない。源氏は万事をしかるべく指図し、親しい修理宰相には細かなところまでよく世話をするよう命じて、自分は先に宮中へ参った。朱雀院を憚り、自分が正式な親代わりとして宮を送り込んだとは見えないよう、表向きはただ六条御息所の娘を気遣っているだけ、という形にしたのである。もともとよい女房の多い宮だったが、これまで里に下がりがちだった者たちも皆集まり、これ以上ないほど立派な入内の構えとなった。
源氏は亡き六条御息所を思った。もしこの方が生きていらしたなら、どれほど張り合いを感じ、心を尽くして娘の世話をしたことだろう。男女の仲という点では、源氏にとって何かと難しい相手だったけれど、教養や風流というところでは、やはり格別の女性だった。何かあるたびにそのことが思い出されると、惜しい人を亡くしたものだと改めて感じられた。
梅壺女御と弘徽殿女御
藤壺の中宮も、そのころは宮中にいらした。冷泉帝は、新しい女性が入内してくると聞いて、たいそう可愛らしく身だしなみに気を配っていた。まだ年齢は若いのに、驚くほど気が利き、大人びている。中宮も、「このようにこちらが恥ずかしくなるほど立派な方がいらっしゃるのですから、あなたもきちんとなさって、お目にかかりなさいませ」と言い聞かせていた。
冷泉帝は内心、大人の女性だから気後れするのではないかと思っていたらしい。前斎宮はかなり夜が更けてから宮中へ入った。たいそう控えめでおっとりとしており、小柄でか弱そうな気配がある。帝はそれをとても愛らしく思った。
弘徽殿女御のほうは以前から見慣れているため、帝には親しみやすく、気楽な相手だった。それに対して前斎宮――梅壺女御は、しっとり落ち着いた人柄で、こちらが恥ずかしくなるような品格があり、しかも源氏からたいそう重々しく扱われている。そのため帝にも軽く接することのできないところがあった。夜の宿直は二人を同じように扱ったものの、昼間、子どものように気を許して遊びに行くのは、どうしても弘徽殿女御のほうが多かった。
権中納言は、自分の娘である弘徽殿女御に大きな期待をかけていた。それだけに前斎宮が入内し、娘と寵愛を競うような形になったことを、さまざまな意味で落ち着かない気持ちで見ていたに違いない。
絵をめぐって深まる寵愛
朱雀院は、前斎宮から櫛の箱への返事を受け取ってからも、やはり心を離すことができなかった。そのころ源氏が院のもとへ参った時には、二人で親しく話を交わした。何かの折に斎宮が伊勢へ下った日のことが話題になり、以前にも院が何度かその話をなさっていたので、源氏もそれとなく話を向けてみた。
院は、かつて宮に心を寄せていたとは、さすがにはっきりおっしゃらない。源氏もまた、そんな院のお気持ちを知っているような顔はせず、ただ、今どんなお気持ちなのだろうと知りたくて、何かと前斎宮の話を出した。すると院のご様子には、決して浅くない思いが見える。源氏はいよいよお気の毒に思った。
一方では、朱雀院がこれほどまで素晴らしいと心に焼きつけている宮とは、いったいどのような美しさなのだろう、と源氏自身も興味をかき立てられた。ところが前斎宮はたいそう重々しい人柄で、子どもっぽい振る舞い一つ見せない。そのため、ふとした隙に姿を垣間見る機会さえなく、神秘的な気配ばかりが深まっていく。源氏は会うほどに、いかにも理想的な女性だと思うようになった。
梅壺女御と弘徽殿女御の二人が、ほとんど隙間なく帝のおそばに仕えているので、兵部卿宮は自分の娘を今すぐ入内させようとは、なかなか思い切れずにいた。帝がもう少し大人になれば、その時には娘を見捨てるようなこともないだろうと考え、時機を待っている。今はこの二人の女御が、それぞれに帝の寵愛を競っていた。
冷泉帝は、何より絵を面白いものとしてお好みになった。それも格別に好きだからなのだろう、帝ご自身も比べる者がないほど見事に描く。梅壺女御も絵がたいそう上手だったので、帝の心はますますこちらへ傾き、頻繁に梅壺へ渡っては、互いに絵を描いて見せ合うようになった。
若い殿上人たちも、帝が絵の巧みな者に目を留め、面白がると知れば、競って絵を習った。まして梅壺女御が、きちんと完成させるのではなく、何気なく筆を走らせ、艶やかに身を横たえながら、どう描こうかと筆を止めて思案している姿などを見ると、その愛らしさそのものに帝は心を奪われる。以前にもまして、梅壺へ通うことが多くなった。
それを聞いた権中納言は、何事につけても才気があり、現代的で華やかな気性の人だけに、自分が人に負けるものかと大いに張り切った。優れた絵師たちを呼び集め、厳しく注文をつけて、ほかにはないほど見事な絵を次々に作らせた。
源氏、須磨・明石の絵日記を紫の上に見せる
「やはり物語絵というものは、描いた人の心まで見えて、見どころのあるものですね」
権中納言はそう言って、内容の面白い物語ばかりを選んで描かせた。普通の月次絵も、見慣れない趣向にし、そこへ言葉を書き連ねて帝に見せた。わざわざ面白く作ってあるので、帝もたいそう喜んで見る。それを弘徽殿女御の側では、誰にでも気軽に見せたりせず、たいそう大切に隠して独占していた。
それを聞いた源氏は、「権中納言のあの若々しい負けず嫌いは、いつまでたっても変わらないようですね」と笑った。「それほど隠して、帝にも気軽にお見せせず焦らすとは、ずいぶんですね。こちらにも昔の立派な絵がございますから、差し上げましょう」と奏上した。
そして二条院へ戻ると、古い絵、新しい絵を収めた厨子をいくつも開かせ、紫の上と一緒に、今の趣味に合うものを一枚ずつ選んでいった。『長恨歌』や『王昭君』のような絵は、美しく心を打つものではあるが、内容に不吉なところがあるので今回は出すまい、と除いた。
そこへ、須磨・明石で暮らしていたころに源氏自身が描いた旅の日記の箱まで取り出した。この機会に初めて、紫の上にもそれを見せたのである。源氏の心を深く知らない人が初めて見たとしても、少しでも物の情趣を知る者なら、涙を惜しまずにはいられないほどの絵だった。まして二人にとっては、一日として忘れることのできない、夢のような別離の日々である。絵を見れば、あのころの悲しみがそのまま戻ってくるようだった。
紫の上は、「どうして今まで、こんなものを私に見せてくださらなかったのです」と恨んだ。
一人ゐて嘆きしよりは海士の住むかたをかくてぞ見るべかりける
都で一人きり、何もわからないまま嘆いているくらいなら、こうして絵の中ででも、あなたが海人の住む浦でどんな暮らしをしていたのか見せていただけばよかったのです。
源氏も深く心を動かされた。
憂きめ見しその折よりも今日はまた過ぎにしかたにかへる涙か
あのつらい目を実際に見ていた時よりも、今日はまた、過ぎ去った日々へ心が戻ってゆくぶん、いっそう涙がこぼれるようです。
「これは中宮にだけはお見せしてもよいでしょう」
源氏はそう言い、見苦しいところのない巻を一帖ずつ選び出した。どれも浦々の景色が鮮やかに描かれている。その選別をしている最中にも、明石で暮らした家は今どうなっているのだろう、と考えずにいられる時はなかった。
宮中を二分する「絵合」
源氏の側でも絵を集めていると知ると、権中納言はいよいよ心を尽くし、軸や表紙、紐の飾りまで美しく整えた。三月十日ごろで、空はうららかに晴れ、人の心ものびやかになる季節だった。宮中でも大きな節会のない時期だったので、女御たちは毎日のように絵を見て過ごしている。それなら、いっそ見せ方にも趣向を凝らして帝へ差し上げよう、ということになった。
集まった絵は左右ともさまざまで、実に数が多い。細やかな趣や親しみ深さでは物語絵に分があるようだった。梅壺女御の側では昔の物語から、名高く由緒あるものばかりを選んでいる。弘徽殿女御の側では、そのころ世間で珍しいと評判になっている、新しく華やかなものばかりを描かせた。そのため、ぱっと見た時の現代的な明るさと華やかさでは、弘徽殿方がはるかに勝っていた。帝付きの女房の中でも風流を解する者たちが、「こちらがよい」「いや、あちらだ」と盛んに批評し合い、それが宮中の大きな話題になっていた。
藤壺の中宮も参内していたころで、どちらの絵も捨てがたいと思われたため、仏道の勤めまでつい後回しにして見入っていた。女房たちがそれぞれ意見を戦わせているのを帝がお聞きになり、とうとう左右に分けて競わせることになった。
梅壺方の左には、平典侍、侍従の内侍、少将の命婦。弘徽殿方の右には、大弐の典侍、中将の命婦、兵衛の命婦という、そのころ特に教養が深いと評判の女房たちがついた。帝はそれぞれが負けまいと議論する言い方まで面白くお聞きになった。
『竹取物語』対『宇津保物語』
最初の取り組みは、物語の始祖ともいうべき『竹取の翁』と、『宇津保物語』の俊蔭の巻だった。
左は『竹取物語』を弁護する。「なよ竹の物語なんて、何代にもわたって古びてしまった話で、面白いところもないように見えるかもしれません。けれどかぐや姫は、この濁った人の世にも汚されず、はるか高い世界へ思いを昇らせる宿世の方です。神代にまで通じるような物語なのですから、並の女には、その高さがわからないのでしょう」
すると右は、『宇津保物語』を持ち上げながら言い返した。「かぐや姫が昇っていった雲の上など、たしかに私たちには手の届かない世界ですから、本当のところは誰にもわかりません。でもこの世で結ばれた縁は竹の中から始まったのですから、結局は身分の低いところから出た人ではありませんか。一軒の家の中くらいは明るく照らしたでしょうけれど、恐れ多い宮中の光には並ぶことができなかったのです。
阿倍御主人が莫大な黄金を投げ出して手に入れた火鼠の皮衣も、火へ入れれば一瞬で燃えてしまう。車持皇子だって、本当の蓬莱がどんなところかを知りながら偽物の玉の枝を作り、そこから嘘が露見しました。それに比べ、俊蔭は荒れ狂う波風に呑まれ、見知らぬ国へ流されても、自分が目指していた道を諦めず、最後には外国の朝廷でもわが国でも類のない才能を広め、後世に名を残しました。その心こそ、昔の物語として立派ではありませんか」
『竹取物語』の絵は巨勢相覧、文字は紀貫之。紙屋紙に唐の綺を裏打ちし、赤紫の表紙に紫檀の軸という、古風で正統的な装いだった。『宇津保物語』は唐土と日本の場面を並べて描いた華やかな構成で、白い色紙、青い表紙、黄色い玉の軸。絵は常則、文字は道風だったから、いかにも新鮮で美しく、目が輝くほどだった。これには左も、なかなかうまい反論ができなかった。
『伊勢物語』をめぐる争い
次には、『伊勢物語』と『正三位』を取り合わせたが、これもなかなか勝負が決まらなかった。右の絵は華やかでにぎやかで、宮中をはじめとした比較的新しい世の中の様子が描かれているので、見る者には親しみやすく、見どころも多い。
平典侍は、『伊勢物語』の側に立って詠んだ。
伊勢の海の深き心をたどらずてふりにし跡と波や消つべき
『伊勢物語』に込められた海のように深い心もたどらず、ただ古びた昔の物語だというだけで、波が跡を消すように忘れ去ってしまってよいものでしょうか。
「ありふれた恋物語をきれいに飾った新しい作品に押されて、業平の名まで朽ちさせてよいのでしょうか」と言う。しかし、さすがに論じきれずにいる。
右の典侍は返した。
雲の上に思ひのぼれる心には千尋の底もはるかにぞ見る
雲の上まで思いを昇らせるほど心の高い人から見れば、海の千尋の底の深ささえ、まだ遥か下に見えることでしょう。
それでも、「兵衛の大君の心の高さもたしかに捨てがたいけれど、在五中将――業平の名まで朽ちさせるわけにはいかないでしょう」といった声も出る。中宮も一首詠んだ。
みるめこそうらふりぬらめ年経にし伊勢をの海人の名をや沈めむ
見た目には古びてしまったように見えても、長い年月を経た『伊勢』の海人――業平の名まで、海の底へ沈めてしまってよいものでしょうか。
こんなふうに女房たちの言葉で賑やかに争っているので、一巻について言葉を尽くしても決着がつかない。まだ若い女房たちは、見たくてたまらず死にそうなほどだったが、帝方の絵も中宮方の絵もほんの一部さえ見せてもらえないほど、厳重に秘蔵されていた。
朱雀院から届いた絵
源氏が参内し、女房たちがそれぞれに言い争っている様子を面白く思って、「それなら同じこと、帝の御前で本当に勝負を決めましょう」と言い出した。こういう展開になるかもしれないと前々から考えていたので、手持ちの中でも特に優れたものはあえて出さずに残してある。中でも須磨と明石の二巻には思うところがあって、最後の勝負に加えることにした。
権中納言のほうも負けず劣らず張り切っている。このころは、世の中全体が立派な紙絵を整えることばかりに夢中になっているようだった。
源氏は、「今になって新しく描かせるのでは、絵合の趣旨に合いません。もともと存在していたものだけを出すべきでしょう」と言っていた。ところが権中納言は、人にも見せず、ひそかな場所で絵師たちに新しく描かせていたらしい。
朱雀院にもこの絵合の話が伝わり、院から梅壺女御へ、秘蔵の絵が贈られてきた。一年の節会の中でも特に美しく趣のある場面を、昔の名人たちがそれぞれ描いたものに、延喜の帝が自らその趣旨を書きつけた巻がある。また朱雀院ご自身の御代の出来事を描いた巻もあった。
その中には、前斎宮が伊勢へ下った日の大極殿での儀式も描かれていた。朱雀院にとって忘れがたい場面だったため、どう描くべきか細かく指示し、公茂に描かせたものだった。それは本当に見事で、艶やかに透き通った沈の箱や、添えられた飾りまで実に現代的で美しい。
手紙らしい手紙はなく、院の殿上に仕える左近中将を使者に立て、言葉だけが伝えられた。絵には、大極殿へ斎宮の御輿を寄せた、神々しい場面に一首が添えられていた。
身こそかくしめの外なれそのかみの心のうちを忘れしもせず
今の私はもう、あなたのいる神聖な結界の外へ離れた身です。それでも、あのころ心に抱いた思いだけは、今も決して忘れてはいません。
何の返事もしないのはあまりに恐れ多い。宮は苦しく思いながらも、昔、伊勢へ下る時につけていた釵の端をほんの少し折り、それに歌を添えて返した。
しめのうちは昔にあらぬ心地して神代のことも今ぞ恋しき
神に仕える結界の内にいた昔とは、今は何もかも違って感じられます。あの神代のように遠くなった日々まで、今になって恋しく思われます。
縹色の唐紙に包んで送り、使者への褒美も実に優雅だった。
朱雀院は返事を見ると、限りなく心を動かされ、いっそ昔を取り戻すことができたなら、とまで思った。源氏を恨めしく感じたこともあっただろう。これも過ぎた日々の報いというものなのだろうか。院の秘蔵する絵は、母后から伝わったものなどもあり、その後、梅壺女御のもとへ多く贈られることになる。また尚侍の君――朧月夜も、こうした趣味では人に勝っており、面白いものを美しく仕立て直しながら数多く集めていた。
帝の御前で始まる絵合
日を決め、急な催しのようでありながら、すべてを趣深く整えて、左右の絵が帝の御前へ運び込まれた。女房の控える場所に帝の座を設け、北と南に左右それぞれが分かれて座る。殿上人は後涼殿の簀子に、それぞれ自分のひいきの側へ心を寄せながら控えていた。
左方は紫檀の箱に蘇芳の花足、敷物には紫地の唐錦、打敷は葡萄染の唐綺。童女は六人で、赤色の装束に桜襲の汗衫、紅の衵に藤襲の織物を重ねている。姿も身のこなしも並々ではない。右方は沈の箱に浅香の下机、青地の高麗錦の打敷。組紐や花足の意匠まで新鮮だった。童女は青色の装束に柳の汗衫、山吹襲の衵を着ている。それらがすべて帝の御前へ並べられ、帝付きの女房たちまで左右に分かれた色目の装束を着ていた。
召されて、内大臣の源氏と権中納言が参内した。その日は帥宮も宮中に来ていた。もともと風流な方で、とりわけ絵がお好きなので、源氏が内々に勧めていたのかもしれない。特別に大げさな召しというわけではなかったが、殿上にいたところを帝から呼ばれて御前へ参り、絵合の判者を務めることになった。
どの絵も、本当にこれ以上描きようがないと思うほど見事で、帥宮にもなかなか優劣を決められない。昔の名人が描いた四季絵などは、優れた場面を選び、筆の勢いも滞りなく流れ、何にもたとえようがない。一方、紙に描く絵では、壮大な山水の深い趣をすべて表現するには限りがある。そのため筆遣いの華やかさや、描き手の工夫によって作り上げられた新しい絵にも、古い名作に恥じないほど明るく華やかで、「なんと面白い」と人を引きつける魅力がある。その日の勝負は、左右それぞれに見どころが尽きなかった。
朝餉の間の障子を開けて、藤壺の中宮までご覧になっている。絵についてはたいそう詳しくていらっしゃるだろうと思うと、源氏でさえ少し気後れするほどだった。各巻の判定がなかなか決まらない時には、源氏も折々に意見を添える。その言葉がまた実に気が利いていて、誰もが感心した。
須磨の巻が勝負を決める
勝負が決まらないまま、とうとう夜になった。左がわずかに一勝だけ上回っていた最後のところで、ついに「須磨」の巻が出された。それを見た瞬間、権中納言は胸が騒いだ。
右方も最後には特別に優れた一巻を残していた。しかし、源氏のような稀代の才能を持つ本人が、心のすべてを澄ませるようにして、自ら静かに描いた須磨の絵には、比べようがなかった。
帥宮をはじめ、その場にいる人々は誰も涙を止められなかった。当時、源氏が都を離れていたことを気の毒に思い、悲しんでいた時以上に、絵を通して見る須磨での暮らし、その時々に源氏自身が胸へ抱えていた思いが、まるで今目の前で起こっていることのようによみがえってくる。
須磨の土地の様子も、見たことのない浦々や磯の景色も、隅々まで鮮やかに描かれていた。草書の文字に仮名をところどころ交え、詳細を一つ残らず記した正式な日記というのではなく、心にしみる歌なども書き添えてある。その何ともいえない趣に、誰もがほかの絵のことなど考えられなくなった。それまでさまざまな絵に向けられていた興味は、すっかりこの一巻へ集まってしまった。
皆が「これはもう」とほかの絵を譲り、結局、左方の勝ちとなった。
絵に映し出された源氏の才
夜明けが近づくころには、誰もがしみじみした気持ちになっていた。酒が出され、昔の話が次々と語られる。源氏も、自分の幼いころを思い出しながら話した。
「私は子どものころから学問には心を入れておりました。父院も、少しは才能がつきそうだとご覧になったのでしょう。ただ、こうおっしゃいました。『学問というものは世間でたいへん重く見られるせいなのか、あまりに深く進んだ者が、その才能と同じほど長い命や幸運に恵まれることはなかなかないものだ。高い身分に生まれ、それだけでも人に劣ることのない身なのだから、何が何でもこの道だけを深く学ぼうとはするな』と。それで本格的な学問だけでなく、さまざまな技芸を教えてくださいましたが、何一つまるで駄目ということもなかった代わりに、『これこそ自分の道だ』と特別に思うものもありませんでした」
「ただ絵を描くことだけは、不思議なほど取るに足りない遊びのようでありながら、時々、どうしたら自分の心が満足するまで描ききれるだろうと思うことがありました。それが思いがけず都を離れ、山里のような暮らしをすることになり、四方の海の、これまで知らなかった深い景色を実際に見ることができた。そのため想像だけでは決して届かなかったところまで知ることができましたが、それでも筆に表せることには限界があります。心に感じたものを、そのまま描ききれないのが残念でした。しかも、わざわざお見せするような機会もありませんでしたから。今こうして出してしまえば、後世にはずいぶん物好きな人だったと評判になるかもしれませんね」
源氏が帥宮へそう話すと、宮は答えた。
「どんな技芸でも、自分の心と無関係に身につけられるものではありません。それでも普通は、それぞれの道に師がいて、学ぶ場所がある。その道がどれほど深いのかはともかく、教えられたものを受け継ぐなら、どこかに手本の跡が残るものです。けれど、絵を描くことと碁を打つことだけは、不思議なほどその人自身の魂のありようが表れる。
深く修練したようにも見えない、ぼんやりした人が、持って生まれたものだけで上手に描いたり打ったりすることもあります。しかしやはり、立派な家に生まれた人々の中では、人より抜きん出た者というのは、何を好んでも結局は身につけるものですね。
亡き院の御前でも、親王方も内親王方も、さまざまな才をお習いにならなかった方はいないでしょう。その中でもあなたは特に院がお心を入れ、直接受け継がせた甲斐があって、漢学の才は今さら言うまでもありません。そのほかでは琴をお弾きになることが第一の才で、次に横笛、琵琶、箏と順にお習いになったと、院もよくおっしゃっていました。
世間でも皆そう思っています。ですから絵だけは、筆を取ったついでの遊びにすぎないのだろうと思っていました。それが、ここまでとは。昔の墨絵の名人たちの跡さえ暗くしてしまいそうなほどお上手なのは、かえってどうかと思うくらいですよ」
帥宮もすっかりくつろいだ調子で語った。酒に酔って涙もろくなったのだろうか、やがて亡き桐壺院の話まで出てきて、その場の人々は皆、しんみりと涙に沈んだ。
夜明けまで続く管弦の遊び
二十日過ぎの月が昇ってきた。こちら側まではまだ明るく照らしていないものの、空全体が美しいころだった。楽器を取り出させ、権中納言には和琴が渡された。何だかんだ言っても、やはりこの人も人並み以上に見事に弾く。帥宮は箏、源氏は琴を弾き、琵琶は少将の命婦が受け持った。殿上人の中でも特に優れた者を呼び、拍子を取らせた。
演奏は実に素晴らしかった。夜が明けてゆくにつれ、花の色も、人々の顔立ちも、薄明かりの中に少しずつ見えるようになる。そこへ鳥のさえずりまで重なり、心ゆくばかりに美しい朝ぼらけとなった。
褒美の品々は藤壺の中宮から下された。帥宮には、さらに衣が重ねて贈られた。
絵合の勝敗と、深まる帝の寵愛
そのころ宮中では、何よりこの絵合が話題になった。源氏は、「あの浦々を描いた巻は、中宮のおそばに置いてください」と申し上げた。あれが始まりである以上、中宮は残りの巻々もぜひ見たいと思ったが、源氏は「いずれ順にお見せいたします」と答えた。
冷泉帝もたいそう満足している。そのご様子を源氏はうれしく見守った。ほんの絵遊びのようなことでも、こうして梅壺女御を盛り立てるよう源氏が取り計らうので、権中納言としては、結局また源氏の勢いに押されることになるのかと、面白くないところもあっただろう。
ただ、冷泉帝が弘徽殿女御へ寄せるお気持ちは、もともと深く根を下ろしたものだった。権中納言も、人知れずそのことをよく見抜いていたので、「いくら何でも、娘がすっかり見捨てられることはないだろう」と、そこは頼もしく思っていた。
源氏は、正式な節会についても、「これは冷泉帝の御代から始まった」と後世の人が語り継ぐような新しい例を加えたいと考えていた。それだけでなく、こうした私的な小さな遊びまで、これまでにない面白い催しへ仕立てていく。まさに何をしても華やかな、盛りの御代だった。
栄華の中で、出家を思う源氏
けれど源氏だけは、世の中というものを相変わらず無常なものだと考えていた。冷泉帝がもう少し大人になられたのを見届けたなら、やはりこの世を離れてしまおう、と深く思っているらしい。
昔の人々の例を見聞きしても、若いうちから官位を高く昇り、世間から抜きん出るほど栄えた人は、その幸運をいつまでも保てないことが多い。自分は今の御代で、身のほどを超えるほどの栄誉を得ている。途中で一度、世の中からいないも同然の身となり、須磨へ沈んだ。その苦しみと引き換えに、今まで命を保つことができたのかもしれない。そう思うと、これからさらに栄えるほど、今度は自分の命のほうが心配になった。
そこで静かな山里を選び、そこへ籠もって来世のための勤めをしながら、同時に少しでも命を延ばしたいと考え、御堂を造らせ、仏像や経巻を整える準備も進めていた。
それでも、まだ若い子どもたちがこの先どのように育ち、それぞれを思いどおりの身分へ送り出すことができるのか、その姿までは自分の目で見届けたいとも思っている。だからすぐに何もかも捨ててしまうことは、やはり難しいらしい。
源氏は、そのあたりをいったいどのように心に決めていたのだろう。人にはなかなか知ることのできないことなのである。
