『枕草子』原文全文を読む(14)第279段~第319段|読みやすいふりがな付き

目次

第279段「たふときこと」

 尊たふとき事こと、九条くでうの錫杖しやくぢやう。念仏ねんぶつの回向ゑかう。

第280段「歌は」

 歌うたは、風俗ふぞく。中なかにも、杉すぎ立たてる門かど。神楽歌かぐらうたもをかし。今様歌いまやううたは長ながうて癖付くせづいたり。

第281段「指貫は」

 指貫さしぬきは、紫むらさきの濃こき。萌黄もえぎ。夏なつは二藍ふたあゐ。いと暑あつき頃ころ、夏虫なつむしの色いろしたるも涼すずしげなり。

第282段「狩衣は」

 狩衣かりぎぬは、香染かうぞめの薄うすき。白しろき。ふくさ。赤色あかいろ。松まつの葉色はいろ。青葉あをば。桜さくら。柳やなぎ。また青あをき。藤ふぢ。男をとこは何なにの色いろの衣きぬをも着きたれ。

第283段「単は」

 単ひとへは、白しろき。日ひの装束さうぞくの、紅くれなゐの単ひとへの袙あこめなど、仮初かりそめに着きたるはよし。されど、なほ白しろきを。

 黄きばみたる単ひとへなど着きたる人ひとは、いみじう心付こころづきなし。

 練色ねりいろの衣きぬどもなど着きたれど、なほ単ひとへは白しろうてこそ。

第284段「下襲は」

 下襲したがさねは、冬ふゆは躑躅つつじ。桜さくら。掻練襲かいねりがさね。蘇芳襲すはうがさね。夏なつは二藍ふたあゐ。白襲しらがさね。

第285段「扇の骨は」

 扇あふぎの骨ほねは、朴ほほ。色いろは赤あかき。紫むらさき。緑みどり。

第286段「檜扇は」

 檜扇ひあふぎは、無紋むもん。唐絵からゑ。

第287段「神は」

 神かみは、松まつの尾を。

 八幡やはた、この国くにの帝みかどにておはしけむこそめでたけれ。行幸みゆきなどに、なぎの花はなの御輿みこしにたてまつる、いとめでたし。

 大原野おほはらの、春日かすがいとめでたくおはします。

 平野ひらのは、徒屋いたづらやのありしを、

「なにする所ところぞ」

 と問とひしに、

「御輿宿みこしやどり」

 と言いひしも、いとめでたし。

 斎垣いがきに蔦つたなどのいと多おほくかかりて、紅葉もみぢの色々いろいろありしも、

「秋あきにはあへず」

 と貫之つらゆきが歌うた思おもひ出いでられて、つくづくと久ひさしうこそ立たてられしか。

 みこもりの神かみ、またをかし。

 賀茂かも、さらなり。

 稲荷いなり。

第288段「崎は」

 崎さきは、唐崎からさき。三保みほが崎さき。

第289段「屋は」

 屋やは、まろ屋や。あつま屋や。

第290段「時奏するいみじうをかし」

 時奏ときそうする、いみじうをかし。いみじう寒さむき夜中よなかばかりごほごほとごほめき、沓くつ摺すり来きて、弦つるうち鳴ならしてなむ、

「何なにの某なにがし、時とき丑うし三みつ、子ね四よつ」

 など、遥はるかなる声こゑに言いひて、時ときの杭くひ差さす音おとなど、いみじうをかし。

「子ね九ここのつ、丑うし八やつ」

 などぞ、さとびたる人ひとは言いふ。すべて、何なにも何なにも、ただ四よつのみぞ、杭くひには差さしける。

第291段「日のうらうらとある昼つ方」

 日ひのうらうらとある昼ひるつ方かた、また、いといたう更ふけて、子ねの刻ときなど言いふほどにもなりぬらむかし、大殿籠おほとのごもりおはしましてにやなど、思おもひ参まゐらするほどに、

「男共をのこども」

 と召めしたるこそ、いとめでたけれ。

 夜中よなかばかりに、御笛おふえの声こゑ聞きこえたる、またいとめでたし。

第292段「成信の中将は」

 成信なりのぶの中将ちゆうじやうは、入道にふだう兵部卿ひやうぶきやうの宮みやの御子みこにて、形かたちいとをかしげに、心こころばへもをかしうおはす。伊予いよの守かみ兼資かねすけが女むすめ忘わすれて、親おやの伊予いよへ率ゐてくだりしほど、いかにあはれなりけむとこそ覚おぼえしか。暁あかつきに行ゆくとて、今宵こよひおはして、有明ありあけの月つきに帰かへり給たまひけむ直衣なほし姿すがたなどよ。

 その君きみ、常つねに居ゐて物言ものいひ、人ひとの上うへなど、悪わるきは悪わるしなど宣のたまひしに、物忌ものいみ奇くすしう、つのかめなどにたてて食くふ物ものまつかいけなどする物ものの名なを姓さうにて持もたる人ひとのあるが、こと人ひとの子こになりて、平たひらなど言いへど、ただそのもとの姓さうを、若わかき人々ひとびと言種ことぐさにて笑わらふ。有様ありさまも異ことなる事こともなし、をかしき方かたなども遠とほきが、さすがに人ひとに差さし交まじり、心こころなどのあるを、御前おまへわたりも、見苦みぐるしなど仰おほせらるれど、腹汚はらぎたなきにや、告つぐる人ひともなし。

 一条いちでうの院ゐんに作つくらせたまひたる一間ひとまの所ところには、憎にくき人ひとはさらに寄よせず。東ひむがしの御門みかどにつと向むかひて、いとをかしき小廂こびさしに、式部しきぶのおもとともろに夜よるも昼ひるもあれば、上うへも常つねに物もの御覧ごらんじに入いらせ給たまふ。

「今宵こよひは、うちに寝ねなむ」

 とて、南みなみの廂ひさしに二人ふたり臥ふしぬる後のちに、いみじう呼よぶ人ひとのあるを、煩うるさしなど言いひ合あはせて、寝ねたるやうにてあれば、なほいみじうかしがましう呼よぶを、

「それ、起おこせ。空寝そらねならむ」

 と仰おほせられければ、この兵部ひやうぶ来きて起おこせど、いみじう寝入ねいりたるさまなれば、

「さらに起おきたまはざめり」

 と言いひに行ゆきたるに、やがて居付ゐつきて、物言ものいふなり。

 しばしかと思おもふに、夜よいたう更ふけぬ。

「権中将ごんのちゆうじやうにこそあなれ。こは何事なにごとを、かゐては言いふぞ」

 とて、密みそかに、ただいみじう笑わらふも、いかでかは知しらむ。暁あかつきまで言いひ明あかして帰かへる。

 また、

「この君きみ、いとゆゆしかりけり。更さらに、寄よりおはせむに物もの言いはじ。何事なにごとを、さは言いひ明あかすぞ」

 など言いひ笑わらふに、遣戸やりど開あけて、女をんなは入いり来きぬ。

 つとめて、廂ひさしに人ひとの物言ものいふを聞きけば、

「雨あめいみじう降ふる折をに来きたる人ひとなむあはれなる。日頃ひごろおぼつかなく、辛つらき事ことありとも、さて濡ぬれて来きたらむは、憂うき事こともみな忘わすれぬべし」

 とは、などて言いふにかあらむ。

 さあらむを、昨夜よべも、昨日きのふの夜よるも、そがあなたの夜よるも、すべて、この頃ごろ、うち頻しきり見みゆる人ひとの、今宵こよひいみじからむ雨あめにさはらで来きたらむは、なほ一夜ひとよも隔へだてじと思おもふなめりと哀あはれになりなむ。さらで、日頃ひごろも見みず、おぼつかなくて過すぐさむ人ひとの、かかる折をにしも来こむは、さらに志こころざしのあるにはせじとこそ覚おぼゆれ。人ひとの心々こころごころなるものなればにや。物見知ものみしり、思おもひ知しりたる女をんなの、心こころありと見みゆるなどを語かたらひて、あまた行ゆく所ところもあり、もとよりの縁よすがなどもあれば、繁しげくも見みえぬを、なほさるいみじかりし折をに来きたりし、など、人ひとにも語かたり継つがせ、褒ほめられむと思おもふ人ひとの仕業しわざにや。

 それも、むげに志こころざしなからむには、げに何なにしにかは、作つくり事ごとにても見みえむとも思おもはむ。されど、雨あめのふる時ときに、ただむつかしう、今朝けさまで晴々はればれしかりつる空そらとも覚おぼえず、にくくて、いみじき細殿ほそどの、めでたき所ところと覚おぼえず。まいて、いとさらぬ家いへなどは、疾とく降ふり止やみねかしとこそ覚おぼゆれ。

 をかしきこと、あはれなることもなきものを、さて、月つきの明あかきはしも、過すぎにし方かた、行ゆく末すゑまで、思おもひ残のこさるることなく、心こころも憧あくがれ、めでたく、あはれなること、類たぐひなく覚おぼゆ。それに来きたらむ人ひとは、十日とをか、二十日はつか、一月ひとつき、もしは一年ひととせも、まいて七八年ななやとせありて思おもひ出いでたらむは、いみじうをかしと覚おぼえて、えあるまじうわりなき所ところ、人目ひとめ慎つつむべきやうありとも、必かならず立たちながらも、物言ものいひてかへし、また、留とまるべからむは、留とどめなどもしつべし。

 月つきの明あかき見みるばかり、ものの遠とほく思おもひ遣やられて、過すぎにし事ことの憂うかりしも、嬉うれしかりしも、をかしと覚おぼえしも、ただ今いまのやうに覚おぼゆる折をやはある。こま野のの物語ものがたりは、なにばかりをかしきこともなく、言葉ことばも古ふるめき、見所みどころ多おほからぬも、月つきに昔むかしを思おもひ出いでて、むしばみたる蝙蝠かはほり取とり出いでて、

「もと見みしこまに」

 と言いひて尋たづねたるが、あはれなるなり。

 雨あめは心こころもとなきものと思おもひしみたればにや、片時かたとき降ふるもいと憎にくくぞある。やむごとなきこと、面白おもしろかるべきこと、尊たふとうめでたかべい事ことも、雨あめだに降ふれば、言いふ甲斐かひなく口惜くちをしきに、なにか、その濡ぬれて託かこち来きたらむがめでたからむ。

 交野かたのの少将せうしやうもどきたる落窪おちくぼの少将せうしやうなどはをかし。昨夜よべ、一昨日をととひの夜よるもありしかばこそ、それもをかしけれ。足あし洗あらひたるぞ憎にくき。汚きたなかりけむ。

 風かぜなどの吹ふき、荒々あらあらしき夜よる来きたるは、頼たのもしくて、嬉うれしうもありなむ。

 雪ゆきこそめでたけれ。

「忘わすれめや」

 など独ひとり言ごちて、忍しのびたることはさらなり、いとさあらむ所ところも、直衣なほしなどはさらにも言いはず、表衣うへのきぬ、蔵人くらうどの青色あをいろなどの、いと冷ひややかに濡ぬれたらむは、いみじうをかしかべし。緑衫ろうさうなりとも、雪ゆきにだにぬれなばにくかるまじ。昔むかしの蔵人くらうどは、夜よるなど、人ひとの元もとにも、ただ青色あをいろを着きて、雨あめに濡ぬれても、絞しぼりなどしけるとか。今いまは昼ひるだに着きざめり。ただ緑衫ろうさうのみうち被かづきてこそあめれ。衛府ゑふなどの着きたるは、まいていみじうをかしかりしものを。かく聞ききて、雨あめに歩ありかぬ人ひとやあらむとすらむ。

 月つきのいみじう明あかき夜よる、紙かみのまたいみじう赤あかきに、ただ、

「あらずとも」

 と書かきたるを、廂ひさしに差さし入いりたる月つきにあてて、人ひとの見みしこそをかしかりしか。雨あめ降ふらむ折をは、さはありなむや。

第293段「つねに文おこする人の」

 常つねに文ふみ遣おこする人ひとの、

「なにかは。言いふにも甲斐かひなし。いまは」

 と言いひて、またの日ひ音おともせねば、さすがに、明あけ立たてば差さし出いづる文ふみの見みえぬこそ寂さうざうしけれ、と思おもひて、

「さても、際々きはきはしかりける心こころかな」

 と言いひて暮くらしつ。

 またの日ひ、雨あめのいたく降ふる、昼ひるまで音おともせねば、

「むげに思おもひ絶たえにける」

 など言いひて、端はしの方かたに居ゐたる、夕暮ゆふぐれに、傘かさ差さしたる者ものの持もて来きたる文ふみを、つねよりも疾とく開あけて見みれば、ただ、

「水みづ増ます雨あめの」

 とある、いと多おほく詠よみ出いだしつる歌うたどもよりもをかし。

第294段「今朝はさしも見えざりつる空の」

 今朝けさはさしも見みえざりつる空そらの、いと暗くらう掻かき曇くもりて、雪ゆきの掻かき暗くらし降ふるに、いと心細こころぼそく見み出いだすほどもなく、白しろう積つもりて、なほいみじう降ふるに、随身ずいじんめきて細ほそやかなる男をとこの、傘かさ差さして、側そばの方かたなる塀へいの戸とより入いりて、文ふみを差さし入いれたるこそをかしけれ。

 いと白しろきみちのくに紙かみ、白しろき色紙しきしの結ゆびたる、上うへに引ひき渡わたしける墨すみのふと凍こほりにければ、末薄すゑうすになりたるをあけたれば、いと細ほそく巻まきて結ゆびたる、巻目まきめは細々こまごまと窪くぼみたるに、墨すみのいと黒くろう、薄うすく、行くだりせば、裏表うらおもて書かき乱みだりたるを、うち返かへし久ひさしう見みるこそ、何事なにごとなからむと、余所よそに見遣みやりたるもをかしけれ。

 まいて、うち微笑ほほゑむ所ところはいとゆかしけれど、遠とほう居ゐたるは、黒くろき文字もじなどばかりぞ、さなめりと覚おぼゆるかし。

 額髪ひたひがみ長ながやかに、面様おもてやう良よき人ひとの、暗くらきほどに文ふみを得えて、火ひ灯ともすほども心こころもとなきにや、火桶ひをけの火ひを挟はさみ上あげて、辿々たどたどしげに見み居ゐたるこそをかしけれ。

第295段「きらきらしきもの」

 きらきらしきもの、大将だいしやうの御前駆おんさき追おひたる。孔雀経くじやくきやうの御読経みどきやう。御修法みずほふ。五大尊ごだいそんのも。御斎会ごさいゑ。

 蔵人くらうどの式部しきぶの丞ぞうの、白馬あをうまの日ひ大路おほぢ練ねりたる。その日ひ、靫負ゆげひの佐すけの摺衣すりぎぬやうする。

 尊勝王そんしやうわうの御修法みずほふ。季きの御読経みどきやう。熾盛光しじやうくわうの御読経みどきやう。

第296段「神のいたう鳴るをりに」

 神かみのいたう鳴なる折をりに、雷鳴かんなりの陣ぢんこそいみじう恐おそろしけれ。左右さうの大将だいしやう、中なか、少将せうしやうなどの御格子みかうしの元もとに候さぶらひ給たまふ、いといとほし。鳴なり果はてぬる折をり、大将だいしやう仰おほせて、

「下おり」

 と宣のたまふ。

第297段「坤元録の御屏風こそ」

 坤元録こんげんろくの御屏風みびやうぶこそをかしう覚おぼゆれ。漢書かんじよの屏風びやうぶは雄々ををしくぞ聞きこえたる。月並つきなみの御屏風みびやうぶもをかし。

第298段「節分違へなどして夜深く帰る」

 節分せちぶん違たがへなどして夜深よふかく帰かへる、寒さむきこといとわりなく、頤おとがひなど落おちぬべきを、からうじて来着きつきて、火桶ひをけ引ひき寄よせたるに、火ひの大おほきにて、つゆ黒くろみたる所ところもなくめでたきを、細こまかなる灰はひの中なかより起おこし出いでたるこそ、いみじうをかしけれ。

 また、物ものなど言いひて、火ひの消きゆらむも知しらず居ゐたるに、こと人ひとの来きて、炭すみ入いれて起おこすこそいと憎にくけれ。されど、巡めぐりに置おきて、中なかに火ひをあらせたるはよし。みな外様ほかざまに火ひを掻かき遣やりて、炭すみを重かさね置おきたる頂いただきに火ひを置おきたる、いとむつかし。

第299段「雪のいと高う降りたるを」

 雪ゆきのいと高たかう降ふりたるを、例れいならず御格子みかうし参まゐりて、炭櫃すびつに火ひ起おこして、物語ものがたりなどして、集あつまり候さぶらふに、

「少納言せうなごんよ、香炉峰かうろほうの雪ゆき、いかならむ」

 と、仰おほせらるれば、御格子みかうし上あげさせて、御簾みすを高たかく上あげたれば、笑わらはせ給たまふ。

 人々ひとびとも、

「さることは知しり、歌うたなどにさへ歌うたへど、思おもひこそ寄よらざりつれ。なほ、この宮みやの人ひとには、さるべきなめり」

 と言いふ。

第300段「陰陽師のもとなる小童べこそ」

 陰陽師おんやうじのもとなる小童部こわらはべこそ、いみじう物ものは知しりたれ。祓はらへなどしに出いでたれば、祭文さいもんなど読よむを、人ひとはなほこそ聞きけ、ちうと立たち走はしりて、

「酒さけ、水みづいかけさせよ」

 とも言いはぬに、し歩ありくさまの、例れい知しり、いささか主ぬしに物言ものいはせぬこそ羨うらやましけれ。さらむ者ものがな、使つかはむとこそ覚おぼゆれ。

第301段「三月ばかり物忌しにとて」

 三月やよひばかり、物忌ものいみしにとて、仮初かりそめなる所ところに、人ひとの家いへに行ゆきたれば、木きどもなどのはかばかしからぬ中なかに、柳やなぎと言いひて、例れいのやうになまめかしはあらず、広ひろく見みえて憎にくげなるを、

「あらぬ物ものなめり」

 と言いへど、

「かかるもあり」

 など言いふに、

さかしらに柳やなぎの眉まゆの広ひろごりて春はるの面おもてを伏ふする宿やどかな

 とこそ見みゆれ。

 その頃ころ、また同おなじ物忌ものいみしに、さやうの所ところに出いで来くるに、二日ふつかと言いふ日ひの昼ひるつ方かた、いと徒然つれづれまさりて、ただ今いまも参まゐりぬべき心地ここちするほどしも、仰おほせ言ごとのあれば、いと嬉うれしくて見みる。浅緑あさみどりの紙かみに、宰相さいしやうの君きみいとをかしげに書かい給たまへり。

いかにして過すぎにし方かたを過すぐしけむ暮くらし煩わづらふ昨日今日きのふけふかな

 となむ。私わたくしには、

「今日けふしも千年ちとせの心地ここちするに、暁あかつきには疾とく」

 とあり。この君きみの宣のたまひたらむだにをかしかるべきに、まして、仰おほせ言ごとのさまは疎おろかならぬ心地ここちすれば、

雲くもの上うへも暮くらしかねける春はるの日ひを所ところがらともながめつるかな

 私わたくしには、

「今宵こよひのほども、少将せうしやうにやなり侍はべらむとすらむ」

 とて、暁あかつきに参まゐりたれば、

「昨日きのふの返かへし、かねけるいと憎にくし。いみじう謗そしりき」

 と仰おほせらる、いと侘わびし。誠まことにさることなり。

第302段「十二月廿四日」

 十二月廿四日しはすにじふよか、宮みやの御仏名おぶつみやうの半夜はんやの導師だうし聞ききて出いづる人ひとは、夜中よなかばかりも過すぎにけむかし。

 日頃ひごろ降ふりつる雪ゆきの今日けふはやみて、風かぜなどいたう吹ふきつれば、垂氷たるひいみじう垂しだり、地つちなどこそむらむら白しろき所ところがちなれ、屋やの上うへは、ただ押並おしなべて白しろきに、怪あやしき賤しづの屋やも雪ゆきにみな面隠おもてかくしして、有明ありあけの月つきの隈くまなきに、いみじうをかし。

 白銀しろがねなどを葺ふきたるやうなるに、水晶すゐしやうの滝たきなど言いはましやうにて、長ながく、短みじかく、殊更ことさらに掛かけ渡わたしたると見みえて、言いふにも余あまりてめでたきに、下簾したすだれもかけぬ車くるまの、簾すだれをいと高たかう上あげたれば、奥おくまで差さし入いりたる月つきに、薄色うすいろ、白しろき、紅梅こうばいなど、七ななつ八やつばかり着きたる上うへに、濃こき衣きぬのいと鮮あざやかなる、艶つやなど月つきに映はえて、をかしう見みゆる、傍かたはらに、葡萄染えびぞめの固紋かたもんの指貫さしぬき、白しろき衣きぬどもあまた、山吹やまぶき、紅くれなゐなど着き溢こぼして、直衣なほしのいと白しろき、紐ひもを解ときたれば脱ぬぎ垂たれられ、いみじう溢こぼれ出いでたり。指貫さしぬきの片かたつ方かたは軾しきみのもとに踏ふみ出いだしたるなど、道みちに人ひと逢あひたらば、をかしと見みつべし。

 月影つきのかげのはしたなさに、後様うしろざまに滑すべり入いるを、常つねに引ひき寄よせ、顕あらはに成なされて侘わぶるもをかし。

「凛々りんりんとして氷こほり鋪しけり」

 と言いふ事ことを、返々かへすがへす誦ずしておはするは、いみじうをかしうて、夜一夜よひとよも在ありかまほしきに、行ゆく所ところの近ちかうなるも口惜くちをし。

第303段「宮仕へする人々の出で集りて」

 宮仕みやづかへする人々ひとびとの出いで集あつまりて、己おのが君々きみぎみの御事おんこと愛めで聞きこえ、宮みやの内うち、殿とのばらのことども、互かたみに語かたり合あはせたるを、その家いへの主あるじにて聞きくこそをかしけれ。

 家いへ広ひろく清きよげにて、我わが親族しんぞくはさらなり、うち語かたらひなどする人ひとも、宮仕みやづかへ人びとを方々かたがたに据すゑてこそあらせまほしけれ。さべき折をは一所ひとところに集あつまり居ゐて物語ものがたりし、人ひとの詠よみたりし歌うた、なにくれと語かたり合あはせて、人ひとの文ふみなど持もて来くるも、諸共もろともに見み、返事かへりごとを書かき、また、睦むつまじう来くる人ひともあるは、清きよげにうち設しつらひて、雨あめなど降ふりてえ帰かへらぬも、をかしうもてなし、参まゐらむ折をは、その事こと見入みいれ、思おもはむさまにして出いだしいでなどせばや。

 良よき人ひとのおはします有様ありさまなどのいとゆかしきこそ、怪けしからぬ心こころにや。

第304段「見ならひするもの」

 見習みならひするもの、欠伸あくび。稚児ちごども。

第305段「うちとくまじきもの」

 うち解とくまじきもの、えせ者もの。さるは、良よしと人ひとに言いはるる人ひとよりも、裏無うらなくぞ見みゆる。船ふねの路みち。

第306段「日のいとうららかなるに」

 日ひのいとうららかなるに、海うみの面おもてのいみじう長閑のどかに、浅緑あさみどり打うちたるを引ひき渡わたしたるやうにて、いささか恐おそろしき気色けしきもなきに、若わかき女をんななどの、袙あこめ、袴はかまなど着きたる、侍さぶらひの者ものの若わかやかなるなど、櫓ろと言いふもの押おして、歌うたをいみじう謡うたひたるは、いとをかしう、やむごとなき人ひとなどにも見みせ奉たてまつらまほしう思おもひ行ゆくに、風かぜいたう吹ふき、海うみの面おもてただ悪あしに悪あしうなるに、物ものも覚おぼえず、泊とまるべき所ところに漕こぎ着きくるほどに、船ふねに浪なみのかけたるさまなど、片時かたときに、さばかりなごかりつる海うみとも見みえずかし。

 思おもへば、船ふねに乗のりて歩ありく人ひとばかり、浅あさましうゆゆしき物ものこそなけれ。宜よろしき深ふかさなどにてだに、さるはかなき物ものに乗のりて漕こぎ出いづべきにもあらぬや。まいて、底そこひも知しらず、千尋ちひろなどあらむよ。

 物ものをいと多おほく積つみ入いれたれば、水際みづぎははただ一尺いつしやくばかりだになきに、下衆げすどものいささか恐おそろしとも思おもはで走はしり歩ありき、つゆ悪あしうもせば沈しづみやせむと思おもふを、大おほきなる松まつの木きなどの二三尺にさんじやくにて円まろなる、五いつつ六むつ、ほうほうと投なげ入いれなどするこそいみじけれ。

 屋形やかたと言いふものの方かたにて押おす。されど、奥おくなるは頼たのもし。端はたにて立たてる者ものこそ目眩めくるる心地ここちすれ。早緒はやをとつけて、櫓ろとかにすげたるものの弱よわげさよ。かれが絶たえば、何なににかならむ。ふと落おち入いりなむを。それだに太ふとくなどもあらず。我わが乗のりたるは、清きよげに造つくり、妻戸つまど開あけ、格子かうし上あげなどして、さ水みづと等ひとしう下おりげになどあらねば、ただ家いへの小ちひさきにてあり。

 小舟をぶねを見遣みやるこそいみじけれ。遠とほきは誠まことに笹ささの葉はを作つくりてうち散ちらしたるにこそいと良よう似にたれ。泊とまりたる所ところにて、船毎ふねごとに灯ともしたる火ひは、またいとをかしう見みゆ。

 はし舟ふねとつけて、いみじう小ちひさきに乗のりて漕こぎ歩ありく、つとめてなどいとあはれなり。跡あとの白波しらなみは、誠まことにこそ消きえもて行ゆけ。宜よろしき人ひとは、なほ乗のりて歩ありくまじきこととこそ覚おぼゆれ。徒歩路かちぢもまた、恐おそろしかなれど、それはいかにもいかにも地つちに着つきたれば、いと頼たのもし。

 海うみはなほいとゆゆしと思おもふに、まいて海女あまの潜かづきしに入いるは憂うき業わざなり。腰こしに着つきたる緒をの絶たえもしなば、いかにせむとならむ。男をのこだにせましかば、さてもありぬべきを、女をんなはおぼろげの心こころならじ。舟ふねにをとこは乗のりて、歌うたなどうち謡うたひて、この栲縄たくなはを海うみに浮うけて歩ありく、危あやふく後うしろめたくはあらぬにやあらむ。上のぼらむとて、その縄なはをなむ引ひくとか。惑まどひ繰くり入いるるさまぞことわりなるや。舟ふねの端はたを押おさへて放はなちたる息いきなどこそ、誠まことにただ見みる人ひとだに潮垂しほたるるに、落おとし入いれて漂ただよひ歩ありく男をのこは、目めもあやに浅あさましかし。

第307段「右衛門の尉なりける者の」

 右衛門うゑもんの尉ぞうなりける者ものの、えせなる男親をとこおやを持もたりて、人ひとの見みるに面伏おもてぶせなりと苦くるしう思おもひけるが、伊予いよの国くにより上のぼるとて、浪なみに落おとし入いれけるを、

「人ひとの心こころばかり、浅あさましかりける事ことなし」

 と浅あさましがるほどに、七月ふみづき十五日じふごにち、盆ぼん奉たてまつるとて急いそぐを見み給たまひて、道命だうみやう阿闍梨あざり、

わたつ海うみに親おや押おし入いれてこの主ぬしの盆ぼんする見みるぞ哀あはれなりける

 と詠よみ給たまひけむこそをかしけれ。

第308段「小原の殿の御母上とこそは」

 小原をはらの殿とのの御母上おんははうへとこそは、普門ふもんと言いふ寺てらにて八講はつかうしける、聞ききて、翌日またのひ小野をの殿とのに、人々ひとびといと多おほく集あつまりて、遊あそびし、文ふみ作つくりけるに、

薪たきぎ樵こる事ことは昨日きのふに尽つきにしをいざ斧をのの柄えはここに朽くたさむ

 と詠よみ給たまひたりけむこそいとめでたけれ。ここもとは打うち聞ぎきになりぬるなめり。

第309段「また業平の中将のもとに」

 また、業平なりひらの中将ちゆうじやうのもとに、母ははの皇女みこの、

「いよいよ見みまく」

 と宣のたまへる、いみじうあはれにをかし。引ひき開あけて見みたりけむこそ思おもひ遣やらるれ。

第310段「をかしと思ふ歌を」

 をかしと思おもふ歌うたを草子さうしなどに書かきて置おきたるに、言いふ甲斐かひなき下衆げすの打うち謡うたひたるこそ、いと心憂こころうけれ。

第311段「よろしき男を下衆女などのほめて」

 よろしき男をのこを下衆女げすをんななどの褒ほめて、

「いみじうなつかしうおはします」

 など言いへば、やがて思おもひ落おとされぬべし。謗そしらるるはなかなか良よし。下衆げすに褒ほめらるるは、女をんなだにいと悪わるし。また、褒ほむるままに言いひ損そこなひつるものは。

第312段「左右の衛門の尉を」

 左右さうの衛門ゑもんの尉ぞうを、判官はうぐわんと言いふ名なをつけて、いみじう恐おそろしう、畏かしこき者ものに思おもひたるこそ。夜行やかうし、細殿ほそどのなどに入いり臥ふしたる、いと見苦みぐるしかし。

 布ぬのの白袴しろばかま、几帳きちやうに打うち掛かけ、表衣うへのきぬの長ながく所狭ところせきを綰わがね掛かけたる、いと付つきなし。太刀たちの後しりに引ひき掛かけなどして立たちさまよふは、されどよし。青色あをいろをただ常つねに着きたらば、いかにをかしからむ。

「見みし有明ありあけぞ」

 と誰たれ言いひけむ。

第313段「大納言殿まゐりたまひて」

 大納言殿だいなごんどの参まゐり給たまひて、文ふみの事ことなど奏そうし給たまふに、例れいの、夜よいたく更ふけぬれば、御前おまへなる人々ひとびと、一人ひとり二人ふたりづつ失うせて、御屏風みびやうぶ、御几帳みきちやうの後うしろなどに、皆みな隠かくれ臥ふしぬれば、ただ一人ひとり、眠ねぶたきを念ねんじて候さぶらふに、

「丑うし四よつ」

 と奏そうすなり。

「明あけ侍はべりぬなり」

 と独ひとり言ごつを、大納言殿だいなごんどの、

「今更いまさらに、な大殿籠おほとのごもりおはしましそ」

 とて、寝ねべきものとも思おもいたらぬを、うたて、何なにしにさ申まうしつらむと思おもへど、また人ひとのあらばこそは紛まぎれも臥ふさめ。

 上うへの御前おまへの、柱はしらに寄より掛かからせ給たまひて、少すこし眠ねぶらせ給たまふを、

「かれ見み奉たてまつらせ給たまへ。今いまは明あけぬるに、かう大殿籠おほとのごもるべきかは」

 と申まうさせ給たまへば、

「げに」

 など、宮みやの御前おまへにも笑わらひ聞きこえさせ給たまふも、知しらせ給たまはぬほどに、長女をさめが童わらはの、鶏とりを捕とらへ持もて来きて、

「朝あしたに里さとへ持もて行ゆかむ」

 と言いひて隠かくし置おきたりける、いかがしけむ、犬いぬ見付みつけて追おひければ、廊らうのまきに逃にげ入いりて、恐おそろしう鳴なき罵ののしるに、皆人みなひと起おきなどしぬなり。

 上うへも打うち驚おどろかせ給たまひて、

「いかでありつる鶏とりぞ」

 など尋たづねさせ給たまふに、大納言殿だいなごんどのの、

「声こゑ、明王みやうわうの眠ねぶりを驚おどろかす」

 と言いふ事ことを、高たかう打うち出いだし給たまへる、めでたうをかしきに、ただ人びとの眠ねぶたかりつる目めもいと大おほきになりぬ。

「いみじき折をの事ことかな」

 と、上うへも宮みやも興きようぜさせ給たまふ。なほかかる事ことこそめでたけれ。

 またの夜よるは、夜よるの御殿おとどに参まゐらせ給たまひぬ。夜中よなかばかりに、廊らうに出いでて人ひと呼よべば、

「下おるるか。いで、送おくらむ」

 と宣のたまへば、裳も、唐衣からぎぬは屏風びやうぶに打うち掛かけて行ゆくに、月つきのいみじう明あかく、御直衣おんなほしのいと白しろう見みゆるに、指貫さしぬきを長ながう踏ふみしだきて、袖そでを引ひかへて、

「倒たふるな」

 と言いひて、おはするままに、

「游子いうしなほ残のこりの月つきに行ゆく」

 と誦ずし給たまへる、またいみじうめでたし。

「かやうの事こと、愛めで給たまふ」

 とては、笑わらひ給たまへど、いかでか、なほをかしきものをば。

第314段「僧都の御乳母のままなど」

 僧都そうづの御乳母おんめのとの夫ままなど、御匣殿みくしげどのの御局みつぼねに居ゐたれば、男をとこのある、板敷いたじきのもと近ちかう寄より来きて、

「辛からい目めを見み候さぶらひて、誰たれにかは訴うれへ申まうし侍はべらむ」

 とて、泣なきぬばかりの気色けしきにて、

「なにごとぞ」

 と問とへば、

「あからさまに物ものに罷まかりたりしほどに、侍はべる所ところの焼やけ侍はべりにければ、寄居虫がうなのやうに、人ひとの家いへに尻しりを差さし入いれてのみ候さぶらふ。馬うまづかさの御秣みまぐさ積つみて侍はべりける家いへより出いでまうで来きて侍はべるなり。ただ垣かきを隔へだてて侍はべれば、夜殿よどのに寝ねて侍はべりける童部わらはべも、ほとほと焼やけぬべくてなむ。いささか物ものもとうで侍はべらず」

 など言いひ居をるを、御匣殿みくしげどのも聞きき給たまひて、いみじう笑わらひ給たまふ。

御秣みまくさを燃もやすばかりの春はるの日ひに夜殿よどのさへなど残のこらざるらむ

 と書かきて、

「これを取とらせ給たまへ」

 とて投なげ遣やりたれば、笑わらひ罵ののしりて、

「このおはする人ひとの、家いへ焼やけたなりとて、いとほしがりて賜たまふなり」

 とて、取とらせたれば、広ひろげて、

「これは、何なにの御短冊おんたんざくにかはべらむ。物ものいくらばかりにか」

 と言いへば、

「ただ読よめかし」

 と言いふ。

「いかでか。片目かためもあきつかうまつらでは」

 と言いへば、

「人ひとにも見みせよ。ただ今いま召めせば、とみにて上うへへ参まゐるぞ。さばかりめでたき物ものを得えては、何なにをか思おもふ」

 とて、皆みな笑わらひ惑まどひ、上のぼりぬれば、人ひとにや見みせつらむ、里さとに行ゆきていかに腹立はらだたむなど、御前おまへに参まゐりて夫ままの啓けいすれば、また笑わらひ騒さわぐ。

 御前おまへにも、

「など、かく物狂ものくるほしからむ」

 と笑わらはせ給たまふ。

第315段「男は女親亡くなりて」

 男をとこは、女親めおや亡なくなりて、男親をおやの一人ひとりある、いみじう思おもへど、心煩こころわづらはしき北きたの方かた出いで来きて後のちは、内うちにも入いれ立たてず、装束さうぞくなどは、乳母めのと、また故上こうえの御人おんひとどもなどしてせさせす。

 西東にしひむがしの対たいのほどに、客居まらうどゐなどをかし。屏風びやうぶ、障子さうじの絵ゑも見所みどころありて住すまひたり。殿上てんじやうの交まじらひのほど、口惜くちをしからず人々ひとびとも思おもひ、上うへも御気色みけしき良よくて、常つねに召めして、御遊おんあそびなどの敵かたきに思おぼし召めしたるに、なほ常つねに物もの嘆なげかしく、世よの中なか、心こころに合あはぬ心地ここちして、好すき好ずきしき心こころぞ、かたはなるまであべき。上達部かんだちめ、またなきさまにても傅かしづかれたる妹いもうと一人ひとりあるばかりにぞ、思おもふ事こと打うち語かたらひ、慰なぐさめ所ところなりける。

第316段「ある女房の遠江の子なる人を」

 ある女房にようばうの、遠江とほたふみの子こなる人ひとを語かたらひてあるが、同おなじ宮人みやびとをなむ忍しのびて語かたらふと聞ききて、恨うらみければ、

「親おやなども懸かけて誓ちかはせ給たまへ。いみじき空言そらごとなり。夢ゆめにだに見みず」

 となむ言いふは、いかが言いふべき、と言いひしに、

誓ちかへ君きみ遠江とほたふみの神かみ懸かけて無下むげに浜名はまなの橋はし見みざりきや

第317段「びんなき所にて」

 便無びんなき所ところにて、人ひとに物ものを言いひけるに、胸むねのいみじう走はしりけるを、

「などかくある」

 と言いひける人ひとに、

逢坂あふさかは胸むねのみ常つねに走はしり井ゐの見付みつくる人ひとやあらむと思おもへば

第318段「まことにややがては下る」

「誠まことにや、やがては下くだる」

 と言いひたる人ひとに、

思おもひだに掛かからぬ山やまのさせも草くさ誰たれか伊吹いぶきの里さとは告つげしぞ

第319段「この草子目に見え心に思ふことを」

 この草子さうし、目めに見みえ心こころに思おもふ事ことを、人ひとやは見みむとすると思おもひて、徒然つれづれなる里居さとゐの程ほどに書かき集あつめたるを、あいなう、人ひとの為ために便びんなき言いひ過すぐしもしつべき所々ところどころもあれば、よう隠かくし置おきたりと思おもひしを、心こころより外ほかにこそ漏もり出いでにけれ。

 宮みやの御前おまへに、内大臣うちのおとどの奉たてまつり給たまへりけるを、

「これに何なにを書かかまし。上うへの御前おまへには、史記しきと言いふ文ふみをなむ書かかせ給たまへる」

 など宣のたまはせしを、

「枕まくらにこそは侍はべらめ」

 と申まうししかば、

「さは、得えてよ」

 とて賜たまはせたりしを、怪あやしきを、こよや何なにやと、尽つきせず多おほかる紙かみを、書かき尽つくさむとせしに、いと物覚ものおぼえぬ事ことぞ多おほかるや。

 大方おほかた、これは、世よの中なかにをかしき事こと、人ひとのめでたしなど思おもふべき、なほ選えり出いでて、歌うたなどをも、木き、草くさ、鳥とり、虫むしをも、言いひ出いだしたらばこそ、

「思おもふ程ほどよりは悪わろし。心こころ見みえなり」

 と謗そしられめ、ただ心こころ一ひとつに自おのづから思おもふ事ことを、戯たはぶれに書かき付つけたれば、物ものに立たち交まじり、人ひと並なみ並なみなるべき耳みみをも聞きくべき物ものかはと思おもひしに、

「恥はづかしき」

 なんどもぞ、見みる人ひとはし給たまふなれば、いと怪あやしうあるや。

 げに、そも理ことわり、人ひとの憎にくむを良よしと言いひ、褒ほむるを悪あしと言いふ人ひとは、心こころの程ほどこそ推おし量はからるれ。ただ、人ひとに見みえけむぞ妬ねたき。

 左中将さちゆうじやう、まだ伊勢守いせのかみと聞きこえし時とき、里さとにおはしたりしに、端はしの方かたなりし畳たたみを差さし出いでし物ものは、この草子さうし載のりて出いでにけり。惑まどひ取とり入いれしかど、やがて持もておはして、いと久ひさしくありてぞ返かへりたりし。それより歩ありき初そめたるなめり、とぞ本もとに。

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