第25段「すさまじきもの」
すさまじきもの。昼吠ゆる犬、春の網代。三、四月の紅梅の衣。牛死にたる牛飼。乳児亡くなりたる産屋。火熾さぬ炭櫃・地下炉。博士のうちつづき女子生ませたる。方違へに行きたるに、あるじせぬ所。まいて節分などは、いとすさまじ。
人の国より遣せたる文の、物なき。京のをもさこそ思ふらめ、されどそれはゆかしきことどもをも書き集め、世にあることなどをも聞けば、いとよし。
人のもとにわざときよげに書きてやりつる文の返事、いまはもて来ぬらむかし、あやしう遅き、と待つほどに、ありつる文、立文をも結びたるをも、いと汚げに取りなしふくだめて、上に引きたりつる墨など消えて、
「おはしまさざりけり」
もしは、
「御物忌みとて取り入れず」
と言ひてもて帰りたる、いとわびしくすさまじ。
また、必ず来べき人のもとに車をやりて待つに、来る音すれば、さななりと人々出でて見るに、車宿りにさらに引き入れて、轅ほうとうち下ろすを、
「いかにぞ」
と問へば、
「今日はほかへおはしますとて、渡りたまはず」
などうち言ひて、牛の限り引き出でて往ぬる。
また、家の内なる男君の来ずなりぬる、いとすさまじ。さるべき人の宮仕へするがりやりて、恥づかしと思ひゐたるほど、いとあいなし。乳児の乳母の、ただあからさまにとて出でぬるほど、とかく慰めて、
「とく来」
と言ひやりたるに、
「今宵はえ参るまじ」
とて返し遣せたるは、すさまじきのみならず、いとにくくわりなし。女迎ふる男、まいていかならむ。待つ人ある所に、夜少し更けて、忍びやかに門たたけば、胸少しつぶれて、人出だして問はするに、あらぬよしなき者の名乗りして来たるも、かへすがへすすさまじと言ふはおろかなり。
験者の物の怪調ずとて、いみじうしたり顔に、独鈷や数珠など持たせ、蝉の声絞り出だして読みゐたれど、いささか去りげもなく、護法もつかねば、集まりゐ念じたるに、男も女もあやしと思ふに、時の変はるまで読み困じて、
「さにあらず。立ちね」
とて、数珠取り返して、
「あな、いと験なしや」
とうち言ひて、額より上ざまにさくり上げ、あくびおのれうちして、寄り臥しぬる。
いみじう眠たしと思ふに、いとしもおぼえぬ人の、押し起こして、せめて物言ふこそ、いみじうすさまじけれ。
除目に司得ぬ人の家。今年は必ずと聞きて、はやうありし者どもの、ほかほかなりつる田舎だちたる所に住む者など、皆集まり来て、出で入る車の轅も隙なく見え、物詣でする供に、我も我もと参りつかうまつり、物食ひ、酒飲み、ののしりあへるに、果つる暁まで門たたく音もせず、あやしうなど耳立てて聞けば、前駆追ふ声々などして、上達部など皆出でたまひぬ。もの聞きに、宵より寒がりわななきをりける下衆男、いともの憂げに歩み来るを、見る者どもはえ問ひにだに問はず。
ほかより来たる者などぞ、
「殿は何にかならせたまひたる」
など問ふに、答へには、
「なにの前司にこそは」
などぞ必ず答ふる。まことに頼みける者は、いと嘆かしと思へり。つとめてになりて、隙なく居りつる者ども、一人二人すべり出でて往ぬ。古き者どもの、さもえ行き離るまじきは、来年の国々、手を折りてうち数へなどして、ゆるぎ歩きたるも、いとほしうすさまじげなり。
よろしう詠みたると思ふ歌を人のもとにやりたるに、返しせぬ。懸想人はいかがせむ、それだに折をかしうなどある返事せぬは、心劣りす。また、さわがしう時めきたる所に、うちふるめきたる人の、おのれがつれづれと暇多かるならひに、むかしおぼえてことなることなき歌詠みておこせたる。物のをりの扇、いみじと思ひて、心ありと知りたる人にとらせたるに、その日になりて、思はずなる絵など描きて得たる。
産養、むまのはなむけなどの使に、禄とらせぬ。はかなき薬玉、卯槌などもて歩く者などにも、なほ必ずとらすべし。思ひ掛けぬことに得たるをば、いと甲斐ありと思ふべし。これは必ずさるべき使と思ひ、心ときめきして行きたるは、ことにすさまじきぞかし。
婿取りして四五年まで産屋の騒ぎせぬ所も、いとすさまじ。大人なる子どもあまた、ようせずは、孫なども這ひ歩きぬべき人の親どち昼寝したる。傍らなる子どもの心地にも、親の昼寝したるほどは、より所なくすさまじうぞあるかし。寝起きて浴ぶる湯は、腹立たしうさへぞおぼゆる。
十二月のつごもりの長雨。
「一日ばかりの精進解斎」
とやいふらむ。
第26段「たゆまるるもの」
たゆまるるもの 精進の日の行ひ。遠き急ぎ。寺に久しく籠もりたる。
第27段「人に侮らるるもの」
人に侮らるるもの 築土の崩れ。あまり心よしと人に知られぬる人。
第28段「にくきもの」
にくきもの 急ぐことある折に来て長言するまらうど。侮りやすき人ならば、
「後に」
とてもやりつべけれど、さすがに心恥づかしき人、いとにくくむつかし。
硯に髪の入りてすられたる。また、墨の中に石のきしきしと軋み鳴りたる。
にはかにわづらふ人のあるに、験者求むるに、例ある所にはなくて、ほかに尋ね歩くほどに、いと待ち遠に久しきに、からうじて待ちつけて、喜びながら加持せさするに、この頃物の怪にあづかりて、困じけるにや、ゐるままにすなはち眠り声なる、いとにくし。
なでふことなき人の、笑がちにてものいたう言ひたる。火桶の火、炭櫃などに、手の裏うち返しうち返し、押し伸べなどして炙り居る者。いつか若やかなる人など、さはしたりし。老いばみたる者こそ、火桶の端に足をさへもたげて、物言ふままに押し擦りなどはすらめ。さやうの者は、人のもとに来て、ゐむとする所を、まづ扇してこなたかなた扇ぎ散らして、塵掃き捨て、居も定まらずひろめきて、狩衣の前巻き入れてもゐるべし。かかることは、言ふ甲斐なき者の際にやと思へど、少しよろしき者の式部の大夫などもいひしがせしなり。
また、酒飲みてあめき、口をさぐり、髭ある者はそれをなで、杯、こと人に取らするほどの気色、いみじうにくしと見ゆ。また、
「飲め」
と言ふなるべし、身震ひをし、頭振り、口脇をさへひきたれて、童べの、
「こふ殿に参りて」
など歌ふやうにする、それはしも、まことによき人のしたまひしを見しかば、心づきなしと思ふなり。
もの羨みし、身の上嘆き、人の上言ひ、露塵のこともゆかしがり、聞かまほしうして、言ひ知らせぬをば怨じ、そしり、また、わづかに聞き得たることをば、我もとより知りたることのやうに、こと人にも語り調ぶるも、いとにくし。
もの聞かむと思ふほどに泣く乳児。烏の集まりて飛び違ひ、さめき鳴きたる。
忍びて来る人見知りて吠ゆる犬。あながちなる所に隠し伏せたる人の、いびきしたる。
また、忍び来る所に長烏帽子して、さすがに人に見えじと惑ひ入るほどに、物に突き障りて、そよろといはせたる。伊予簾など掛けたるにうちかづきて、さらさらと鳴らしたるも、いとにくし。
帽額の簾は、まして、こはじのうち置かるる音、いとしるし。それも、やをら引き上げて入るは、さらに鳴らず。遣戸を荒く閉開くるも、いとあやし。少しもたぐるやうにして開くるは、鳴りやはする。悪しう開くれば、障子なども、ごほめかしうほとめくこそしるけれ。
眠たしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名乗りて、顔のほどに飛び歩く。羽風さへその身のほどにあるこそ、いとにくけれ。
軋めく車に乗りてある者。耳も聞かぬにやあらむと、いとにくし。わが乗りたるは、その車の主さへにくし。
また、物語するに、差し出でして我ひとりさいまくる者。すべてさし出では、童も大人も、いとにくし。あからさまに来たる子供・童べに見入れ、らうたがり、をかしき物取らせなどするに、ならひて、常に来つつ、居入りて調度打ち散らしぬる、いとにくし。
家にても、宮仕へ所にても、会はでありなむと思ふ人の来たるに、空寝をしたるを、わがもとにある者、起こしに寄り来て、いぎたなしと思ひ顔に引き揺るがしたる、いとにくし。今参りの、さし越えて、物知り顔に教へやうなること言ひ、後見たる、いとにくし。
わが知る人にてある人の、はやう見し女のこと褒め言ひ出でなどするも、ほど経たることなれど、なほにくし。まして、差し当たらむこそ思ひやらるれ。されど、なかなかさしもあらぬなどもありかし。
はなひて誦文する。おほかた、人の家の男主ならでは、高くはなひたる、いとにくし。
蚤もいとにくし。衣の下に踊り歩きて、もたぐるやうにする。犬の諸声に、長々と鳴き上げたる、まがまがしくさへにくし。
開けて出で入る所閉てぬ人、いとにくし。
第29段「心ときめきするもの」
心ときめするもの 雀の子飼ひ。乳児遊ばする所の前わたる。よき薫物たきて一人臥したる。唐鏡の少し暗き見たる。よき男の車とどめて案内し、問はせたる。
頭洗ひ、化粧じて、香ばしう染みたる衣など着たる。ことに見る人なき所にても、心のうちは、なほいとをかし。待つ人などのある夜、雨の音、風の吹きゆるがすも、ふと驚かる。
第30段「過ぎにし方恋しきもの」
過ぎにし方恋しきもの 枯れたる葵。雛遊びの調度。二藍、葡萄染めなどのさいでの、おしへされて草子の中などにありける、見付けたる。
また、折からあはれなりし人の文、雨など降りつれづれなる日、捜し出でたる。去年のかはほり。
第31段「心ゆくもの」
心ゆくもの よく描いたる女絵の、言葉をかしうつけて多かる。物見のかへさに、乗りこぼれて、男どもいと多く、牛よく遣る者の車走らせたる。白く清げなる陸奥紙に、いといと細う、書くべくはあらぬ筆して文書きたる。うるはしき糸の練りたる、あはせぐりたる。丁ばみに、丁多くうち出でたる。物よく言ふ陰陽師して、河原に出でて呪詛の祓へしたる。夜、寝起きて飲む水。
つれづれなる折に、いとあまりむつまじうもあらぬまらうどの来て、世の中の物語、この頃のあることのをかしきもにくきもあやしきも、これかれにかかりて、おほやけわたくしおぼつかなからず、聞き良きほどに語りたる、いと心ゆく心地す。
神、寺などに詣でて物申さするに、寺は法師、社は禰宜などの、暗からず爽やかに、思ふほどにも過ぎて滞らず聞き良う申したる。
第32段「檳榔毛はのどかに」
檳榔毛はのどかに遣りたる。急ぎたるは悪く見ゆ。
網代は走らせたる。人の門の前などより渡りたるを、ふと見遣るほどもなく過ぎて、供の人ばかり走るを、誰ならむと思ふこそをかしけれ。ゆるゆると久しく行くはいと悪し。
第33段「説経の講師は」
説経の講師は顔良き。講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことの尊さもおぼゆれ。僻目しつればふと忘るるに、にくげなるは罪や得たらむとおぼゆ。
このことは止むべし。すこし年などのよろしきほどは、かやうの罪えがたのことは書き出でけめ、今は罪いと恐ろし。
また、尊きこそ、道心多かりとて、説経すといふ所ごとに最初にいきゐるこそ、なほこの罪の心には、いとさしもあらでと見ゆれ。
蔵人など、昔は御前などいふわざもせず、その年ばかりは、内裏わたりなどには影も見えざりける、いまはさしもあらざめる。
蔵人の五位とて、それをしもぞ忙しう仕へど、なほ名残つれづれにて、心ひとつは暇ある心地すべかめれば、さやうの所にぞひとたび二たびも聞き初めつれば、常にまでまほしうなりて、夏などのいと暑きにも、帷子いとあざやかにて、薄二藍、青鈍の指貫など、踏み散らしてゐためり。烏帽子に物忌つけたるは、さるべき日なれど、功徳の方には障らずと見えむとにや。そのことする聖と物語し、車たつることなどをさへぞ見入れ、ことについたる気色なる。
久しう会はざりつる人の詣で会ひたる、珍しがりて、近う居寄り、物言ひ頷き、をかしきことなど語り出でて、扇広う広げて、口にあてて笑ひ、よく装束し、ある数珠かいまさぐり、手まさぐりにして、こなたかなたうち見遣りなどして、車の良し悪し褒め謗り、なにがしにてその人のせし八講、経供養せしこと、とありしことかかりしこと、言ひ比べゐたるほどに、この説経のことは聞きも入れず。なにかは、常に聞くことなれば、耳慣れてめづらしうもあらぬにこそは。
さはあらで、講師ゐてしばしあるほどに、前駆すこしおはする車とどめて下るる人、蝉の羽よりも軽げなる直衣、指貫、生絹の単衣など着たるも、狩衣の姿なるも、さやうにて若う細やかなる三四人ばかり、侍の者、またさばかりして入れば、初め居たる人々もすこしうち身じろぎ、くつろい、高座のもと近き柱もとに据ゑつれば、かすかに数珠押し揉みなどして聞きゐたるを、講師は映え映えしくおぼゆるなるべし、いかでか語り伝ふばかりと説き出でたなり。
聴聞すなどたふれさわぎ、額衝くほどにもならで、よきほどに立ち出づとて、車どもかたなど見おこせて、我どちいふことも、何事ならむとおぼゆ。見知りたる人はをかしと思ふ、見知らぬは、たれならむ、それにやなど思ひやり、目をつけて見送らるるこそをかしけれ。
「そこに説経しつ、八講しけり」
など人の言ひ伝ふるに、
「その人はありつや」
「いかがは」
など、さだまりて言はれたる、あまりなり。などかはむげに差し覗かではあらむ。あやしからむ女だに、いみじう聞くめるものを。さればとて、初めつ方は、かちありきする人はなかりき。たまさかには、壺装束などして、なまめき化粧じてこそはあめりしか。それも物詣でなどをぞせし。説経などにはことに多く聞こえざりき。
この頃、その折、差し出でけむ人、命長くて見ましかば、いかばかりそしり誹謗せまし。
第34段「菩提といふ寺に」
菩提といふ寺に、結縁の八講せしに詣でたるに、人のもとより
「とく帰りたまひね。いとさうざうし」
と言ひたれば、蓮の葉の裏に、
もとめてもかかるはちすの露をおきてうき世にまたはかへるものかは
と書きてやりつ。
まことにいと尊くあはれなれば、やがて泊まりぬべくおぼゆるに、湘中が家の人のもどかしさも忘れぬべし。
第35段「小白河といふ所は」
小白河といふ所は、小一条の大将殿の御家ぞかし。そこにて上達部、結縁の八講したまふ。世の中の人、いみじうめでたきことにて、
「遅からむ車などは立つべき様もなし」
といへば、露とともにおきて、げにぞ隙なかりける轅の上にまたさしかさねて、みつばかりまではすこし物も聞こゆべし。
六月十よ日にて、暑きこと世に知らぬほどなり。池の蓮を見遣るのみぞいと涼しき心地する。左右の大臣達をおきたてまつりては、おはせぬ上達部なし。二藍の直衣、指貫、浅葱の帷子どもぞすかしたまへる。すこしおとなびたまへるは、青鈍の指貫、白き袴もいと涼しげなり。佐理の宰相なども、みな若やぎだちて、すべてたふときことの限りもあらず、をかしき見物なり。
廂の簾高う上げて、長押の上に、上達部は奥に向きて長々とゐたまへり。
その次には、殿上人、若君達、狩装束、直衣などもいとをかしうて、えゐも定まらず、ここかしこに立ちさまよひたるもいとをかし。実方の兵衛の佐、長命侍従など、家の子にて今すこし出で入れなれたり。まだ童なる君など、いとをかしくておはす。
すこし日たくるほどに、三位の中将とは関白殿をぞきこえし、かうのうすものの二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇芳の下の御袴に、張りたる白き単衣のいみじうあざやかなるを着たまひて、歩み入りたまへる、さばかり軽び涼しげなる御中に、暑かはしげなるべけれど、いといみじうめでたしとぞ見えたまふ。朴、塗骨など、骨はかはれど、ただ赤き紙を、おしなべて打ち使ひもたまへるは、撫子のいみじう咲きたるにぞいとよく似たる。
まだ講師も上らぬほど、懸盤して、何にかあらむ、物参るなるべし。義懐の中納言の御様、常よりもまさりておはするぞ限りなきや。色合ひのはなばなと、いみじうにほひあざやかなるに、いづれともなき中の帷子を、これはまことにすべて、ただ直衣一つを着たる様にて、常に車どもの方を見おこせつつ、ものなど言ひ掛けたまふ、をかしと見ぬ人なかりけむ。
後に来たる車の、隙もなかりければ、池に引き寄せて立ちたるを見たまひて、実方の君に、
「消息をつきづきしういひつべからむ者一人」
と召せば、いかなる人にかあらむ、選りて率ておはしたり。
「いかが言ひ遣るべき」
と、近う居たまふ限り宣ひ合はせて、やりたまふ言葉は聞こえず、いみじう用意して車のもとへ歩み寄るを、かつ笑ひたまふ。尻の方によりていふめる。
久しう立てれば、
「歌など詠むにやあらむ。兵衛の佐、返し思ひ設けよ」
など笑ひて、いつしか返事聞かむと、ある限り、大人上達部まで、みなそなたざまに見遣りたまへり。げにぞけさうの人まで見遣りしもをかしかりし。
返事聞きたるにや、すこし歩み来るほどに、扇を差し出でて呼び返せば、歌などの文字言ひ誤りてばかりや、かうは呼び返さむ、ひさしかりつるほど、おのづからあるべきことは直すべくもあらじものを、とぞおぼえたる。近う参り着くも心もとなく、
「いかにいかに」
と、たれもたれも問ひたまふ。ふとも言はず、権中納言ぞ宣ひつれば、そこに参り、気色ばみ申す。三位の中将、
「とくいへ。あまり有心すぎて、しそこなふ」
と宣ふに、
「これもただ同じことになむはべる」
といふは聞こゆ。
藤大納言、人よりけに差し覗きて、
「いかが言ひたる」
と宣ふめれば、三位の中将、
「いと直き木をなむ押し折りためる」
と聞こえたまふに、打ち笑ひたまへば、みな何となくさと笑ふ声、聞こえやすらむ。
中納言、
「さて呼び返さざりつる先は、いかが言ひつる。これや直したること」
と問ひたまへば、
「ひさしうたちてはべりつれど、ともかくもはべらざりつれば、さは帰り参りなむとて帰りはべりつるに、よびて」
などぞ申す。
「誰が車ならむ、見知りたまへりや」
などあやしがりたまひて、
「いざ、歌詠みて、この度はやらむ」
など宣ふほどに、講師上りぬれば、みな居静まりて、そなたをのみ見るほどに、車はかいけつやうに失せにけり。下簾など、ただ今日初めたりと見えて、こきひとへがさねに二藍の織物、蘇芳の薄物のうは着など、尻にも摺りたる裳、やがて広げながら打ち下げなどして、何人ならむ、なにかはまた、かたほならむことよりは、げにときこえて、なかなかいとよしとぞおぼゆる。
朝座の講師清範、高座のうへも光り満ちたる心地して、いみじうぞあるや。暑さのわびしきにそへて、しさしたることの今日過ぐすまじきを打ち置きて、ただすこし聞きて帰りなむとしつるに、しきなみに集ひたる車なれば、出づべき方もなし。朝講果てなば、なほいかで出でなむと、前なる車どもに消息すれば、ちかくたたむがうれしきまで、老上達部さへ笑ひ憎むをも、聞き入れず、答へもせで、強ひて狭がり出づれば、権中納言の、
「やや、まかりぬるもよし」
とて、打ち笑みたまへるぞめでたき。それも耳にもとまらず、暑きに惑はし出でて、人して、
「五千人のうちには入らせたまはぬやうあらじ」
と聞こえかけて帰りにき。
その初めより、やがて果つる日まで、たてたる車のありけるに、人寄り来とも見えず、すべてただあさましう、絵などのやうに過ぐしければ、ありがたくめでたく心にくく、いかなる人ならむ、いかで知らむと、問ひ尋ねたまひけるを、聞きたまひて、藤大納言などは、
「なにかめでたからむ。いとにくくゆゆしき者にこそあなれ」
と宣ひけるこそをかしかりしか。
さて、その二十日あまりに、中納言、法師になりたまひにしこそあはれなりしか。桜など散りぬるも、なほ世の常なりや。
「おくをまつまの」
とだにいふべくもあらぬ御有様にこそ見えたまひしか。
第36段「七月ばかりいみじう暑ければ」
七月ばかりいみじう暑ければ、万の所開けながら夜も明かすに、月の頃は寝驚きて見出だすに、いとをかし。闇もまたをかし。有明、はたいふべきにもあらず。
いとつややかなる板の端近う、あざやかなる畳一ひらうち敷きて、三尺の几帳、奥の方に押し遣りたるぞあぢきなき。端にこそ立つべけれ。奥の後ろめたからむよ。
人は出でにけるなるべし、薄色の、裏いと濃くて、表は少し返りたるならずは、濃き綾のつややかなるが、いと萎えぬを、頭籠めに引き着てぞ寝たる。香染の単衣、もしは黄生絹の単衣、紅の単衣、袴の腰のいと長やかに、衣の下より引かれ着たるも、まだ解けながらなめり。
外の方に髪のうちたたなはりてゆるらかなるほど、長さ推し量られたるに、またいづこよりにかあらむ、朝ぼらけのいみじう霧立ちたるに、二藍の指貫に、あるかなきかの色したる香染の狩衣、白き生絹に紅の透すにこそはあらめ、つややかなる、霧にいたう湿りたるを脱ぎ、鬢のすこしふくだみたれば、烏帽子の押し入れたる気色も、しどけなく見ゆ。
朝顔の露落ちぬ先に文書かむと、道のほども心もとなく、
「麻生の下草」
など、口ずさみつつ、我が方に行くに、格子の上がりたれば、御簾の側をいささか引き上げて見るに、起きて往ぬらむ人もをかしう、露もあはれなるにや、しばしみたてれば、枕上の方に、朴に紫の紙貼りたる扇、広ごりながらある。陸奥紙の畳紙の細やかなるが、花か紅か、すこしにほひたるも、几帳のもとにちりぼひたり。
人けのすれば、衣の中より見るに、打ち笑みて長押に押し掛かりてゐぬ。
恥ぢなどすべき人にはあらねど、打ち解くべき心ばへにもあらぬに、ねたうも見えぬかな、と思ふ。
「こよなき名残の御朝寝かな」
とて、簾のうちになから入りたれば、
「露よりさきなる人のもどかしさに」
といふ。をかしきこと、とりたてて書くべきことならねど、とかく言ひ交はす気色どもはにくからず。
枕がみなる扇、わが持たるして、及びて掻き寄するが、あまり近う寄り来るにや、と心ときめきして、ひきぞ下らる。取りて見などして、
「うとくおぼいたること」
など打ちかすめ、恨みなどするに、明うなりて、人の声々し、日も差し出でぬべし。
霧の絶え間見えぬべきほど、急ぎつる文も、弛みぬるこそ後ろめたけれ。
出でぬる人も、いつのほどにかと見えて、萩の、露ながら押し折りたるにつけてあれど、え差し出でず。香の紙のいみじうしめたる、匂ひいとをかし。あまりはしたなきほどになれば、立ち出でて、我が起きつる所も、かくやと思ひやらるるも、をかしかりぬべし。

