『枕草子』原文全文を読む(2)第25段~第36段|読みやすいふりがな付き

目次

第25段「すさまじきもの」

 すさまじきもの。昼ひる吠ほゆる犬いぬ、春はるの網代あじろ。三やよひ、四月うづきの紅梅こうばいの衣きぬ。牛うし死しにたる牛うし飼かひ。乳児ちご亡なくなりたる産屋うぶや。火ひ熾おこさぬ炭櫃すびつ・地下炉ぢかろ。博士はかせのうちつづき女子をんなご生うませたる。方違かたたがへに行ゆきたるに、あるじせぬ所ところ。まいて節分せちぶんなどは、いとすさまじ。

 人ひとの国くにより遣おこせたる文ふみの、物ものなき。京きやうのをもさこそ思おもふらめ、されどそれはゆかしきことどもをも書かき集あつめ、世よにあることなどをも聞きけば、いとよし。

 人ひとのもとにわざときよげに書かきてやりつる文ふみの返事かへりごと、いまはもて来きぬらむかし、あやしう遅おそき、と待まつほどに、ありつる文ふみ、立文たてぶみをも結むすびたるをも、いと汚きたなげに取とりなしふくだめて、上うへに引ひきたりつる墨すみなど消きえて、

「おはしまさざりけり」

 もしは、

「御物忌おんものいみとて取とり入いれず」

 と言いひてもて帰かへりたる、いとわびしくすさまじ。

 また、必かならず来くべき人ひとのもとに車くるまをやりて待まつに、来くる音おとすれば、さななりと人々ひとびと出いでて見みるに、車宿くるまやどりにさらに引ひき入いれて、轅ながえほうとうち下おろすを、

「いかにぞ」

 と問とへば、

「今日けふはほかへおはしますとて、渡わたりたまはず」

 などうち言いひて、牛うしの限かぎり引ひき出いでて往いぬる。

 また、家いへの内うちなる男君をとこぎみの来こずなりぬる、いとすさまじ。さるべき人ひとの宮仕みやづかへするがりやりて、恥はづかしと思おもひゐたるほど、いとあいなし。乳児ちごの乳母めのとの、ただあからさまにとて出いでぬるほど、とかく慰なぐさめて、

「とく来く」

 と言いひやりたるに、

「今宵こよひはえ参まゐるまじ」

 とて返かへし遣おこせたるは、すさまじきのみならず、いとにくくわりなし。女をんな迎むかふる男をとこ、まいていかならむ。待まつ人ひとある所ところに、夜よる少すこし更ふけて、忍しのびやかに門かどたたけば、胸むね少すこしつぶれて、人ひと出いだして問とはするに、あらぬよしなき者ものの名乗なのりして来きたるも、かへすがへすすさまじと言いふはおろかなり。

 験者げんざの物ものの怪け調てうずとて、いみじうしたり顔がほに、独鈷とこや数珠ずずなど持もたせ、蝉せみの声こゑ絞しぼり出いだして読よみゐたれど、いささか去さりげもなく、護法ごほふもつかねば、集あつまりゐ念ねんじたるに、男をとこも女をんなもあやしと思おもふに、時ときの変かはるまで読よみ困こうじて、

「さにあらず。立たちね」

 とて、数珠ずず取とり返かへして、

「あな、いと験げんなしや」

 とうち言いひて、額ひたひより上うへざまにさくり上あげ、あくびおのれうちして、寄より臥ふしぬる。

 いみじう眠ねぶたしと思おもふに、いとしもおぼえぬ人ひとの、押おし起おこして、せめて物もの言いふこそ、いみじうすさまじけれ。

 除目ぢもくに司つかさ得えぬ人ひとの家いへ。今年ことしは必かならずと聞ききて、はやうありし者ものどもの、ほかほかなりつる田舎ゐなかだちたる所ところに住すむ者ものなど、皆みな集あつまり来きて、出いで入いる車くるまの轅ながえも隙ひまなく見みえ、物もの詣まうでする供ともに、我われも我われもと参まゐりつかうまつり、物もの食くひ、酒さけ飲のみ、ののしりあへるに、果はつる暁あかつきまで門かどたたく音おともせず、あやしうなど耳みみ立たてて聞きけば、前駆さき追おふ声々こゑごゑなどして、上達部かんだちめなど皆みな出いでたまひぬ。もの聞ぎきに、宵よひより寒さむがりわななきをりける下衆げす男をとこ、いともの憂うげに歩あゆみ来くるを、見みる者ものどもはえ問とひにだに問とはず。

 ほかより来きたる者ものなどぞ、

「殿どのは何なににかならせたまひたる」

 など問とふに、答いらへには、

「なにの前司ぜんじにこそは」

 などぞ必かならず答いらふる。まことに頼たのみける者ものは、いと嘆なげかしと思おもへり。つとめてになりて、隙ひまなく居をりつる者ものども、一人ひとり二人ふたりすべり出いでて往いぬ。古ふるき者ものどもの、さもえ行ゆき離はなるまじきは、来年らいねんの国々くにぐに、手てを折をりてうち数かぞへなどして、ゆるぎ歩ありきたるも、いとほしうすさまじげなり。

 よろしう詠よみたると思おもふ歌うたを人ひとのもとにやりたるに、返かへしせぬ。懸想人けさうびとはいかがせむ、それだに折をりをかしうなどある返事かへりごとせぬは、心劣こころおとりす。また、さわがしう時ときめきたる所ところに、うちふるめきたる人ひとの、おのれがつれづれと暇いとま多おほかるならひに、むかしおぼえてことなることなき歌うた詠よみておこせたる。物もののをりの扇あふぎ、いみじと思おもひて、心こころありと知しりたる人ひとにとらせたるに、その日ひになりて、思おもはずなる絵ゑなど描かきて得えたる。

 産養うぶやしなひ、むまのはなむけなどの使つかひに、禄ろくとらせぬ。はかなき薬玉くすだま、卯槌うづちなどもて歩ありく者ものなどにも、なほ必かならずとらすべし。思おもひ掛かけぬことに得えたるをば、いと甲斐かひありと思おもふべし。これは必かならずさるべき使つかひと思おもひ、心こころときめきして行いきたるは、ことにすさまじきぞかし。

 婿取むことりして四五年しごねんまで産屋うぶやの騒さわぎせぬ所ところも、いとすさまじ。大人おとななる子こどもあまた、ようせずは、孫むまごなども這はひ歩ありきぬべき人ひとの親おやどち昼寝ひるねしたる。傍かたはらなる子こどもの心地ここちにも、親おやの昼寝ひるねしたるほどは、より所ところなくすさまじうぞあるかし。寝起ねおきて浴あぶる湯ゆは、腹立はらだたしうさへぞおぼゆる。

 十二月じふにぐわつのつごもりの長雨ながあめ。

「一日ひとひばかりの精進さうじん解斎げさい」

 とやいふらむ。

第26段「たゆまるるもの」

 たゆまるるもの 精進さうじの日ひの行おこなひ。遠とほき急いそぎ。寺てらに久ひさしく籠こもりたる。

第27段「人に侮らるるもの」

 人ひとに侮あなづらるるもの 築土ついぢの崩くづれ。あまり心こころよしと人ひとに知しられぬる人ひと。

第28段「にくきもの」

 にくきもの 急いそぐことある折をりに来きて長言ながごとするまらうど。侮あなづりやすき人ひとならば、

「後のちに」

 とてもやりつべけれど、さすがに心恥こころはづかしき人ひと、いとにくくむつかし。

 硯すずりに髪かみの入いりてすられたる。また、墨すみの中なかに石いしのきしきしと軋きしみ鳴なりたる。

 にはかにわづらふ人ひとのあるに、験者げんざ求もとむるに、例れいある所ところにはなくて、ほかに尋たづね歩ありくほどに、いと待まち遠どほに久ひさしきに、からうじて待まちつけて、喜よろこびながら加持かぢせさするに、この頃ころ物ものの怪けにあづかりて、困こうじけるにや、ゐるままにすなはち眠ねぶり声ごゑなる、いとにくし。

 なでふことなき人ひとの、笑ゑがちにてものいたう言いひたる。火桶ひをけの火ひ、炭櫃すびつなどに、手ての裏うらうち返かへしうち返かへし、押おし伸のべなどして炙あぶり居をる者もの。いつか若わかやかなる人ひとなど、さはしたりし。老おいばみたる者ものこそ、火桶ひをけの端はたに足あしをさへもたげて、物もの言いふままに押おし擦すりなどはすらめ。さやうの者ものは、人ひとのもとに来きて、ゐむとする所ところを、まづ扇あふぎしてこなたかなた扇あふぎ散ちらして、塵ちり掃はき捨すて、居ゐも定さだまらずひろめきて、狩衣かりぎぬの前まへ巻まき入いれてもゐるべし。かかることは、言いふ甲斐かひなき者ものの際きはにやと思おもへど、少すこしよろしき者ものの式部しきぶの大夫たいふなどもいひしがせしなり。

 また、酒さけ飲のみてあめき、口くちをさぐり、髭ひげある者ものはそれをなで、杯さかづき、こと人ひとに取とらするほどの気色けしき、いみじうにくしと見みゆ。また、

「飲のめ」

 と言いふなるべし、身み震ふるひをし、頭かしら振ふり、口脇くちわきをさへひきたれて、童わらはべの、

「こふ殿どのに参まゐりて」

 など歌うたふやうにする、それはしも、まことによき人ひとのしたまひしを見みしかば、心こころづきなしと思おもふなり。

 もの羨うらやみし、身みの上うへ嘆なげき、人ひとの上うへ言いひ、露塵つゆちりのこともゆかしがり、聞きかまほしうして、言いひ知しらせぬをば怨ゑんじ、そしり、また、わづかに聞きき得えたることをば、我われもとより知しりたることのやうに、こと人ひとにも語かたり調しらぶるも、いとにくし。

 もの聞きかむと思おもふほどに泣なく乳児ちご。烏からすの集あつまりて飛とび違ちがひ、さめき鳴なきたる。

 忍しのびて来くる人ひと見知みしりて吠ほゆる犬いぬ。あながちなる所ところに隠かくし伏ふせたる人ひとの、いびきしたる。

 また、忍しのび来くる所ところに長烏帽子ながえぼしして、さすがに人ひとに見みえじと惑まどひ入いるほどに、物ものに突つき障さはりて、そよろといはせたる。伊予簾いよすだれなど掛かけたるにうちかづきて、さらさらと鳴ならしたるも、いとにくし。

 帽額もかうの簾すだれは、まして、こはじのうち置おかるる音おと、いとしるし。それも、やをら引ひき上あげて入いるは、さらに鳴ならず。遣戸やりどを荒あらく閉た開あくるも、いとあやし。少すこしもたぐるやうにして開あくるは、鳴なりやはする。悪あしう開あくれば、障子さうじなども、ごほめかしうほとめくこそしるけれ。

 眠ねぶたしと思おもひて臥ふしたるに、蚊かの細声ほそごゑにわびしげに名乗なのりて、顔かほのほどに飛とび歩ありく。羽風はかぜさへその身みのほどにあるこそ、いとにくけれ。

 軋きしめく車くるまに乗のりてある者もの。耳みみも聞きかぬにやあらむと、いとにくし。わが乗のりたるは、その車くるまの主あるじさへにくし。

 また、物語ものがたりするに、差さし出いでして我われひとりさいまくる者もの。すべてさし出いでは、童わらはも大人おとなも、いとにくし。あからさまに来きたる子供こども・童わらはべに見入みいれ、らうたがり、をかしき物もの取とらせなどするに、ならひて、常つねに来きつつ、居ゐ入いりて調度でうど打うち散ちらしぬる、いとにくし。

 家いへにても、宮仕みやづかへ所ところにても、会あはでありなむと思おもふ人ひとの来きたるに、空寝そらねをしたるを、わがもとにある者もの、起おこしに寄より来きて、いぎたなしと思おもひ顔がほに引ひき揺ゆるがしたる、いとにくし。今参いままゐりの、さし越こえて、物もの知しり顔がほに教をしへやうなること言いひ、後見うしろみたる、いとにくし。

 わが知しる人ひとにてある人ひとの、はやう見みし女をんなのこと褒ほめ言いひ出いでなどするも、ほど経へたることなれど、なほにくし。まして、差さし当あたらむこそ思おもひやらるれ。されど、なかなかさしもあらぬなどもありかし。

 はなひて誦文ずもんする。おほかた、人ひとの家いへの男主をとこあるじならでは、高たかくはなひたる、いとにくし。

 蚤のみもいとにくし。衣きぬの下したに踊をどり歩ありきて、もたぐるやうにする。犬いぬの諸声もろごゑに、長々ながながと鳴なき上あげたる、まがまがしくさへにくし。

 開あけて出いで入いる所ところ閉たてぬ人ひと、いとにくし。

第29段「心ときめきするもの」

 心こころときめするもの 雀すずめの子飼こがひ。乳児ちご遊あそばする所ところの前まへわたる。よき薫物たきものたきて一人ひとり臥ふしたる。唐鏡からかがみの少すこし暗くらき見みたる。よき男をとこの車くるまとどめて案内あないし、問とはせたる。

 頭かしら洗あらひ、化粧けさうじて、香かうばしう染しみたる衣きぬなど着きたる。ことに見みる人ひとなき所ところにても、心こころのうちは、なほいとをかし。待まつ人ひとなどのある夜よ、雨あめの音おと、風かぜの吹ふきゆるがすも、ふと驚おどろかる。

第30段「過ぎにし方恋しきもの」

 過すぎにし方かた恋こひしきもの 枯かれたる葵あふひ。雛遊ひひなあそびの調度でうど。二藍ふたあゐ、葡萄染えびぞめなどのさいでの、おしへされて草子さうしの中なかなどにありける、見付みつけたる。

 また、折をりからあはれなりし人ひとの文ふみ、雨あめなど降ふりつれづれなる日ひ、捜さがし出いでたる。去年こぞのかはほり。

第31段「心ゆくもの」

 心こころゆくもの よく描かいたる女絵をんなゑの、言葉ことばをかしうつけて多おほかる。物見ものみのかへさに、乗のりこぼれて、男をのこどもいと多おほく、牛うしよく遣やる者ものの車くるま走はしらせたる。白しろく清きよげなる陸奥紙みちのくにかみに、いといと細ほそう、書かくべくはあらぬ筆ふでして文ふみ書かきたる。うるはしき糸いとの練ねりたる、あはせぐりたる。丁てうばみに、丁てう多おほくうち出いでたる。物ものよく言いふ陰陽師おんやうじして、河原かはらに出いでて呪詛ずその祓はらへしたる。夜よる、寝起ねおきて飲のむ水みづ。

 つれづれなる折をりに、いとあまりむつまじうもあらぬまらうどの来きて、世よの中なかの物語ものがたり、この頃ころのあることのをかしきもにくきもあやしきも、これかれにかかりて、おほやけわたくしおぼつかなからず、聞きき良よきほどに語かたりたる、いと心こころゆく心地ここちす。

 神かみ、寺てらなどに詣まうでて物もの申まうさするに、寺てらは法師ほふし、社やしろは禰宜ねぎなどの、暗くらからず爽さはやかに、思おもふほどにも過すぎて滞とどこほらず聞きき良よう申まうしたる。

第32段「檳榔毛はのどかに」

 檳榔毛びらうげはのどかに遣やりたる。急いそぎたるは悪わろく見みゆ。

 網代あじろは走はしらせたる。人ひとの門かどの前まへなどより渡わたりたるを、ふと見遣みやるほどもなく過すぎて、供ともの人ひとばかり走はしるを、誰たれならむと思おもふこそをかしけれ。ゆるゆると久ひさしく行ゆくはいと悪わろし。

第33段「説経の講師は」

 説経せつきやうの講師かうじは顔かほ良よき。講師かうじの顔かほをつとまもらへたるこそ、その説とくことの尊たふとさもおぼゆれ。僻目ひがめしつればふと忘わするるに、にくげなるは罪つみや得えたらむとおぼゆ。

 このことは止とどむべし。すこし年としなどのよろしきほどは、かやうの罪つみえがたのことは書かき出いでけめ、今いまは罪つみいと恐おそろし。

 また、尊たふときこそ、道心だうしん多おほかりとて、説経せつきやうすといふ所ところごとに最初さいしよにいきゐるこそ、なほこの罪つみの心こころには、いとさしもあらでと見みゆれ。

 蔵人くらうどなど、昔むかしは御前おまへなどいふわざもせず、その年としばかりは、内裏うちわたりなどには影かげも見みえざりける、いまはさしもあらざめる。

 蔵人くらうどの五位ごゐとて、それをしもぞ忙いそがしう仕つかへど、なほ名残なごりつれづれにて、心こころひとつは暇いとまある心地ここちすべかめれば、さやうの所ところにぞひとたび二ふたたびも聞きき初そめつれば、常つねにまでまほしうなりて、夏なつなどのいと暑あつきにも、帷子かたびらいとあざやかにて、薄二藍うすふたあゐ、青鈍あをにびの指貫さしぬきなど、踏ふみ散ちらしてゐためり。烏帽子えぼしに物忌ものいつけたるは、さるべき日ひなれど、功徳くどくの方かたには障さはらずと見みえむとにや。そのことする聖ひじりと物語ものがたりし、車くるまたつることなどをさへぞ見入みいれ、ことについたる気色けしきなる。

 久ひさしう会あはざりつる人ひとの詣まうで会あひたる、珍めづらしがりて、近ちかう居ゐ寄より、物もの言いひ頷うなづき、をかしきことなど語かたり出いでて、扇あふぎ広ひろう広ひろげて、口くちにあてて笑わらひ、よく装束さうぞくし、ある数珠ずずかいまさぐり、手てまさぐりにして、こなたかなたうち見遣みやりなどして、車くるまの良よし悪あし褒ほめ謗そしり、なにがしにてその人ひとのせし八講はちかう、経供養きやうくやうせしこと、とありしことかかりしこと、言いひ比くらべゐたるほどに、この説経せつきやうのことは聞ききも入いれず。なにかは、常つねに聞きくことなれば、耳慣みみなれてめづらしうもあらぬにこそは。

 さはあらで、講師かうじゐてしばしあるほどに、前駆さきすこしおはする車くるまとどめて下おるる人ひと、蝉せみの羽はよりも軽かるげなる直衣なほし、指貫さしぬき、生絹すずしの単衣ひとへなど着きたるも、狩衣かりぎぬの姿すがたなるも、さやうにて若わかう細ほそやかなる三四人みたりよたりばかり、侍さぶらひの者もの、またさばかりして入いれば、初はじめ居ゐたる人々ひとびともすこしうち身みじろぎ、くつろい、高座かうざのもと近ちかき柱はしらもとに据すゑつれば、かすかに数珠ずず押おし揉もみなどして聞ききゐたるを、講師かうじは映はえ映ばえしくおぼゆるなるべし、いかでか語かたり伝つたふばかりと説とき出いでたなり。

 聴聞ちやうもんすなどたふれさわぎ、額衝ぬかつくほどにもならで、よきほどに立たち出いづとて、車くるまどもかたなど見みおこせて、我われどちいふことも、何事なにごとならむとおぼゆ。見知みしりたる人ひとはをかしと思おもふ、見み知しらぬは、たれならむ、それにやなど思おもひやり、目めをつけて見送みおくらるるこそをかしけれ。

「そこに説経せつきやうしつ、八講はちかうしけり」

 など人ひとの言いひ伝つたふるに、

「その人ひとはありつや」

「いかがは」

 など、さだまりて言いはれたる、あまりなり。などかはむげに差さし覗のぞかではあらむ。あやしからむ女をんなだに、いみじう聞きくめるものを。さればとて、初はじめつ方かたは、かちありきする人ひとはなかりき。たまさかには、壺装束つぼさうぞくなどして、なまめき化粧けさうじてこそはあめりしか。それも物もの詣まうでなどをぞせし。説経せつきやうなどにはことに多おほく聞きこえざりき。

 この頃ころ、その折をり、差さし出いでけむ人ひと、命いのち長ながくて見みましかば、いかばかりそしり誹謗ひばうせまし。

第34段「菩提といふ寺に」

 菩提ぼだいといふ寺てらに、結縁けちえんの八講はちかうせしに詣まうでたるに、人ひとのもとより

「とく帰かへりたまひね。いとさうざうし」

 と言いひたれば、蓮はちすの葉はの裏うらに、

もとめてもかかるはちすの露つゆをおきてうき世よにまたはかへるものかは

 と書かきてやりつ。

 まことにいと尊たふとくあはれなれば、やがて泊とまりぬべくおぼゆるに、湘中さうちうが家いへの人ひとのもどかしさも忘わすれぬべし。

第35段「小白河といふ所は」

 小白河こしらかはといふ所ところは、小一条こいちでうの大将殿だいしやうどのの御家みいへぞかし。そこにて上達部かんだちめ、結縁けちえんの八講はちかうしたまふ。世よの中なかの人ひと、いみじうめでたきことにて、

「遅おそからむ車くるまなどは立たつべき様やうもなし」

 といへば、露つゆとともにおきて、げにぞ隙ひまなかりける轅ながえの上うへにまたさしかさねて、みつばかりまではすこし物ものも聞きこゆべし。

 六月ろくぐわつ十とをよ日ひにて、暑あつきこと世よに知しらぬほどなり。池いけの蓮はちすを見遣みやるのみぞいと涼すずしき心地ここちする。左右さうの大臣達おとどたちをおきたてまつりては、おはせぬ上達部かんだちめなし。二藍ふたあゐの直衣なほし、指貫さしぬき、浅葱あさぎの帷子かたびらどもぞすかしたまへる。すこしおとなびたまへるは、青鈍あをにびの指貫さしぬき、白しろき袴はかまもいと涼すずしげなり。佐理すけまさの宰相さいしやうなども、みな若わかやぎだちて、すべてたふときことの限かぎりもあらず、をかしき見物みものなり。

 廂ひさしの簾すだれ高たかう上あげて、長押なげしの上うへに、上達部かんだちめは奥おくに向むきて長々ながながとゐたまへり。

 その次つぎには、殿上人てんじやうびと、若君達わかぎみたち、狩装束かりさうぞく、直衣なほしなどもいとをかしうて、えゐも定さだまらず、ここかしこに立たちさまよひたるもいとをかし。実方さねかたの兵衛ひやうゑの佐すけ、長命侍従ちやうめいじじゆうなど、家いへの子こにて今いますこし出いで入いれなれたり。まだ童わらはなる君きみなど、いとをかしくておはす。

 すこし日ひたくるほどに、三位さんみの中将ちゆうじやうとは関白くわんぱく殿どのをぞきこえし、かうのうすものの二藍ふたあゐの御直衣おほむなほし、二藍ふたあゐの織物おりものの指貫さしぬき、濃蘇芳こすはうの下したの御袴おんはかまに、張はりたる白しろき単衣ひとへのいみじうあざやかなるを着きたまひて、歩あゆみ入いりたまへる、さばかり軽かろび涼すずしげなる御中おんなかに、暑あつかはしげなるべけれど、いといみじうめでたしとぞ見みえたまふ。朴ほほ、塗骨ぬりぼねなど、骨ほねはかはれど、ただ赤あかき紙かみを、おしなべて打うち使つかひもたまへるは、撫子なでしこのいみじう咲さきたるにぞいとよく似にたる。

 まだ講師かうじも上のぼらぬほど、懸盤かけばんして、何なににかあらむ、物もの参まゐるなるべし。義懐よしちかの中納言ちゆうなごんの御様みさま、常つねよりもまさりておはするぞ限かぎりなきや。色合いろあひのはなばなと、いみじうにほひあざやかなるに、いづれともなき中なかの帷子かたびらを、これはまことにすべて、ただ直衣なほし一ひとつを着きたる様やうにて、常つねに車くるまどもの方かたを見みおこせつつ、ものなど言いひ掛かけたまふ、をかしと見みぬ人ひとなかりけむ。

 後のちに来きたる車くるまの、隙ひまもなかりければ、池いけに引ひき寄よせて立たちたるを見みたまひて、実方さねかたの君きみに、

「消息せうそこをつきづきしういひつべからむ者もの一人ひとり」

 と召めせば、いかなる人ひとにかあらむ、選えりて率ゐておはしたり。

「いかが言いひ遣やるべき」

 と、近ちかう居ゐたまふ限かぎり宣のたまひ合あはせて、やりたまふ言葉ことばは聞きこえず、いみじう用意よういして車くるまのもとへ歩あゆみ寄よるを、かつ笑わらひたまふ。尻しりの方かたによりていふめる。

 久ひさしう立たてれば、

「歌うたなど詠よむにやあらむ。兵衛ひやうゑの佐すけ、返かへし思おもひ設まうけよ」

 など笑わらひて、いつしか返事かへりごと聞きかむと、ある限かぎり、大人おとな上達部かんだちめまで、みなそなたざまに見遣みやりたまへり。げにぞけさうの人ひとまで見遣みやりしもをかしかりし。

 返事かへりごと聞ききたるにや、すこし歩あゆみ来くるほどに、扇あふぎを差さし出いでて呼よび返かへせば、歌うたなどの文字もじ言いひ誤あやまりてばかりや、かうは呼よび返かへさむ、ひさしかりつるほど、おのづからあるべきことは直なほすべくもあらじものを、とぞおぼえたる。近ちかう参まゐり着つくも心こころもとなく、

「いかにいかに」

 と、たれもたれも問とひたまふ。ふとも言いはず、権中納言ごんのちゆうなごんぞ宣のたまひつれば、そこに参まゐり、気色けしきばみ申まうす。三位さんみの中将ちゆうじやう、

「とくいへ。あまり有心いうしんすぎて、しそこなふ」

 と宣のたまふに、

「これもただ同おなじことになむはべる」

 といふは聞きこゆ。

 藤大納言とうだいなごん、人ひとよりけに差さし覗のぞきて、

「いかが言いひたる」

 と宣のたまふめれば、三位さんみの中将ちゆうじやう、

「いと直なほき木きをなむ押おし折をりためる」

 と聞きこえたまふに、打うち笑わらひたまへば、みな何なにとなくさと笑わらふ声こゑ、聞きこえやすらむ。

 中納言ちゆうなごん、

「さて呼よび返かへさざりつる先さきは、いかが言いひつる。これや直なほしたること」

 と問とひたまへば、

「ひさしうたちてはべりつれど、ともかくもはべらざりつれば、さは帰かへり参まゐりなむとて帰かへりはべりつるに、よびて」

 などぞ申まうす。

「誰たが車くるまならむ、見知みしりたまへりや」

 などあやしがりたまひて、

「いざ、歌うた詠よみて、この度たびはやらむ」

 など宣のたまふほどに、講師かうじ上のぼりぬれば、みな居静ゐしづまりて、そなたをのみ見みるほどに、車くるまはかいけつやうに失うせにけり。下簾したすだれなど、ただ今日けふ初はじめたりと見みえて、こきひとへがさねに二藍ふたあゐの織物おりもの、蘇芳すはうの薄物うすもののうは着きなど、尻しりにも摺すりたる裳も、やがて広ひろげながら打うち下さげなどして、何人なにびとならむ、なにかはまた、かたほならむことよりは、げにときこえて、なかなかいとよしとぞおぼゆる。

 朝座あさのざの講師かうじ清範せいはん、高座かうざのうへも光ひかり満みちたる心地ここちして、いみじうぞあるや。暑あつさのわびしきにそへて、しさしたることの今日けふ過すぐすまじきを打うち置おきて、ただすこし聞ききて帰かへりなむとしつるに、しきなみに集つどひたる車くるまなれば、出いづべき方かたもなし。朝講あさがう果はてなば、なほいかで出いでなむと、前まへなる車くるまどもに消息せうそこすれば、ちかくたたむがうれしきまで、老上達部おいかんだちめさへ笑わらひ憎にくむをも、聞きき入いれず、答いらへもせで、強しひて狭せばがり出いづれば、権中納言ごんのちゆうなごんの、

「やや、まかりぬるもよし」

 とて、打うち笑ゑみたまへるぞめでたき。それも耳みみにもとまらず、暑あつきに惑まどはし出いでて、人ひとして、

「五千人ごせんにんのうちには入いらせたまはぬやうあらじ」

 と聞きこえかけて帰かへりにき。

 その初はじめより、やがて果はつる日ひまで、たてたる車くるまのありけるに、人ひと寄より来くとも見みえず、すべてただあさましう、絵ゑなどのやうに過すぐしければ、ありがたくめでたく心こころにくく、いかなる人ひとならむ、いかで知しらむと、問とひ尋たづねたまひけるを、聞ききたまひて、藤大納言とうだいなごんなどは、

「なにかめでたからむ。いとにくくゆゆしき者ものにこそあなれ」

 と宣のたまひけるこそをかしかりしか。

 さて、その二十日はつかあまりに、中納言ちゆうなごん、法師ほふしになりたまひにしこそあはれなりしか。桜さくらなど散ちりぬるも、なほ世よの常つねなりや。

「おくをまつまの」

 とだにいふべくもあらぬ御有様おんありさまにこそ見みえたまひしか。

第36段「七月ばかりいみじう暑ければ」

 七月しちぐわつばかりいみじう暑あつければ、万よろづの所ところ開あけながら夜よも明あかすに、月つきの頃ころは寝驚ねおどろきて見出みいだすに、いとをかし。闇やみもまたをかし。有明ありあけ、はたいふべきにもあらず。

 いとつややかなる板いたの端近はしぢかう、あざやかなる畳たたみ一ひとひらうち敷しきて、三尺さんじやくの几帳きちやう、奥おくの方かたに押おし遣やりたるぞあぢきなき。端はしにこそ立たつべけれ。奥おくの後うしろめたからむよ。

 人ひとは出いでにけるなるべし、薄色うすいろの、裏うらいと濃こくて、表うへは少すこし返かへりたるならずは、濃こき綾あやのつややかなるが、いと萎なえぬを、頭籠かしらごめに引ひき着きてぞ寝ねたる。香染かうぞめの単衣ひとへ、もしは黄生絹きすずしの単衣ひとへ、紅くれなゐの単衣ひとへ、袴はかまの腰こしのいと長ながやかに、衣きぬの下したより引ひかれ着きたるも、まだ解とけながらなめり。

 外そとの方かたに髪かみのうちたたなはりてゆるらかなるほど、長ながさ推おし量はかられたるに、またいづこよりにかあらむ、朝あさぼらけのいみじう霧きり立たちたるに、二藍ふたあゐの指貫さしぬきに、あるかなきかの色いろしたる香染かうぞめの狩衣かりぎぬ、白しろき生絹すずしに紅くれなゐの透とほすにこそはあらめ、つややかなる、霧きりにいたう湿しめりたるを脱ぬぎ、鬢びんのすこしふくだみたれば、烏帽子えぼしの押おし入いれたる気色けしきも、しどけなく見みゆ。

 朝顔あさがほの露つゆ落おちぬ先さきに文ふみ書かかむと、道みちのほども心こころもとなく、

「麻生をふの下草したくさ」

 など、口くちずさみつつ、我わが方かたに行いくに、格子かうしの上あがりたれば、御簾みすの側そばをいささか引ひき上あげて見みるに、起おきて往いぬらむ人ひともをかしう、露つゆもあはれなるにや、しばしみたてれば、枕上まくらがみの方かたに、朴ほほに紫むらさきの紙かみ貼はりたる扇あふぎ、広ひろごりながらある。陸奥紙みちのくにかみの畳紙たたうがみの細ほそやかなるが、花はなか紅くれなゐか、すこしにほひたるも、几帳きちやうのもとにちりぼひたり。

 人ひとけのすれば、衣きぬの中なかより見みるに、打うち笑ゑみて長押なげしに押おし掛かかりてゐぬ。

 恥はぢなどすべき人ひとにはあらねど、打うち解とくべき心こころばへにもあらぬに、ねたうも見みえぬかな、と思おもふ。

「こよなき名残なごりの御朝寝おほんあさいかな」

 とて、簾すだれのうちになから入いりたれば、

「露つゆよりさきなる人ひとのもどかしさに」

 といふ。をかしきこと、とりたてて書かくべきことならねど、とかく言いひ交かはす気色けしきどもはにくからず。

 枕まくらがみなる扇あふぎ、わが持もたるして、及およびて掻かき寄よするが、あまり近ちかう寄より来くるにや、と心こころときめきして、ひきぞ下したらる。取とりて見みなどして、

「うとくおぼいたること」

 など打うちかすめ、恨うらみなどするに、明あかうなりて、人ひとの声々こゑごゑし、日ひも差さし出いでぬべし。

 霧きりの絶たえ間ま見みえぬべきほど、急いそぎつる文ふみも、弛たゆみぬるこそ後うしろめたけれ。

 出いでぬる人ひとも、いつのほどにかと見みえて、萩はぎの、露つゆながら押おし折をりたるにつけてあれど、え差さし出いでず。香かの紙かみのいみじうしめたる、匂にほひいとをかし。あまりはしたなきほどになれば、立たち出いでて、我わが起おきつる所ところも、かくやと思おもひやらるるも、をかしかりぬべし。

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