『源氏物語』第35帖「若菜下」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第35帖「若菜下」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第35帖「若菜下」現代語訳全文をご覧ください。

目次

ことわりとは思へども

 ことわりとは思おもへども、

「うれたくも言いへるかな。いでや、なぞ、かく異ことなることなきあへしらひばかりを慰なぐさめにては、いかが過すぐさむ。かかる人伝ひとづてならで、一言ひとことをものたまひ聞きこゆる世よありなむや」

 と思おもふにつけて、おほかたにては、惜をしくめでたしと思おもひきこゆる院ゐんの御おほんため、なまゆがむ心こころや添そひにたらむ。

 晦日つごもりの日ひは、人ひとびとあまた参まゐりたまへり。なまもの憂うく、すずろはしけれど、「そのあたりの花はなの色いろをも見みてや慰なぐさむ」と思おもひて参まゐりたまふ。

 殿上てんじゃうの賭弓のりゆみ、如月きさらぎにとありしを過すぎて、三月やよひはた御忌月おほんきづきなれば、口惜くちをしくと人ひとびと思おもふに、この院ゐんに、かかるまとゐあるべしと聞きき伝つたへて、例れいの集つどひたまふ。左右さいうの大将だいしゃう、さる御仲おほんなからひにて参まゐりたまへば、次将すけたちなど挑いどみかはして、小弓こゆみとのたまひしかど、歩弓かちゆみのすぐれたる上手じゃうずどもありければ、召めし出いでて射いさせたまふ。

 殿上人てんじゃうびとどもも、つきづきしき限かぎりは、皆みな前後まへしりへの心こころ、こまどりに方かた分わきて、暮くれゆくままに、今日けふにとぢむる霞かすみのけしきもあわたたしく、乱みだるる夕風ゆふかぜに、花はなの蔭かげいとど立たつことやすからで、人ひとびといたく酔ゑひ過すぎたまひて、

「艶えんなる賭物かけものども、こなたかなた人ひとびとの御心みこころ見みえぬべきを。柳やなぎの葉はを百度ももたび当あてつべき舎人とねりどもの、うけばりて射取いとる、無人むじんなりや。すこしここしき手てつきどもをこそ、挑いどませめ」

 とて、大将だいしゃうたちよりはじめて、下おりたまふに、衛門督ゑもんのかみ、人ひとよりけに眺ながめをしつつものしたまへば、かの片端かたはし心こころ知しれる御目おほんめには、見みつけつつ、

「なほ、いとけしき異ことなり。わづらはしきこと出いで来くべき世よにやあらむ」

 と、われさへ思おもひつきぬる心地ここちす。この君きみたち、御仲おほんなかいとよし。さる仲なからひといふ中なかにも、心こころ交かはしてねむごろなれば、はかなきことにても、もの思おもはしくうち紛まぎるることあらむを、いとほしくおぼえたまふ。

 みづからも、大殿おとどを見みたてまつるに、気け恐おそろしくまばゆく、

「かかる心こころはあるべきものか。なのめならむにてだに、けしからず、人ひとに点てんつかるべき振ふる舞まひはせじと思おもふものを。ましておほけなきこと」

 と思おもひわびては、

「かのありし猫ねこをだに、得えてしがな。思おもふこと語かたらふべくはあらねど、かたはら寂さびしき慰なぐさめにも、なつけむ」

 と思おもふに、もの狂ぐるほしく、「いかでかは盗ぬすみ出いでむ」と、それさへぞ難かたきことなりける。

女御の御方に参りて

 女御にょうごの御方おほんかたに参まゐりて、物語ものがたりなど聞きこえ紛まぎらはし試こころみる。いと奥おく深ふかく、心恥こころはづかしき御おほんもてなしにて、まほに見みえたまふこともなし。かかる御仲おほんなからひにだに、気遠けどほくならひたるを、「ゆくりかにあやしくは、ありしわざぞかし」とは、さすがにうちおぼゆれど、おぼろけにしめたるわが心こころから、浅あさくも思おもひなされず。

 春宮とうぐうに参まゐりたまひて、「論ろんなう通かよひたまへるところあらむかし」と、目めとどめて見みたてまつるに、匂にほひやかになどはあらぬ御容貌おほんかたちなれど、さばかりの御おほんありさまはた、いと異ことにて、あてになまめかしくおはします。

 内裏うちの御猫おほんねこの、あまた引ひき連つれたりけるはらからどもの、所々ところどころにあかれて、この宮みやにも参まゐれるが、いとをかしげにて歩ありくを見みるに、まづ思おもひ出いでらるれば、

「六条ろくでうの院ゐんの姫宮ひめみやの御方おほんかたにはべる猫ねここそ、いと見みえぬやうなる顔かほして、をかしうはべしか。はつかになむ見みたまへし」

 と啓けいしたまへば、わざとらうたくせさせたまふ御心みこころにて、詳くはしく問とはせたまふ。

「唐猫からねこの、ここのに違たがへるさましてなむはべりし。同おなじやうなるものなれど、心こころをかしく人ひと馴なれたるは、あやしくなつかしきものになむはべる」

 など、ゆかしく思おぼさるばかり、聞きこえなしたまふ。

 聞きこし召めしおきて、桐壺きりつぼの御方おほんかたより伝つたへて聞きこえさせたまひければ、参まゐらせたまへり。「げに、いとうつくしげなる猫ねこなりけり」と、人ひとびと興きょうずるを、衛門督ゑもんのかみは、「尋たづねむと思おぼしたりき」と、御みけしきを見みおきて、日ひごろ経へて参まゐりたまへり。

 童わらはなりしより、朱雀院すざくゐんの取とり分わきて思おぼし使つかはせたまひしかば、御み山やま住ずみに後おくれきこえては、またこの宮みやにも親したしう参まゐり、心寄こころよせきこえたり。御琴おほんことなど教をしへきこえたまふとて、

「御猫おほんねこどもあまた集つどひはべりにけり。いづら、この見みし人ひとは」

 と尋たづねて見みつけたまへり。いとらうたくおぼえて、かき撫なでてゐたり。宮みやも、

「げに、をかしきさましたりけり。心こころなむ、まだなつきがたきは、見馴みなれぬ人ひとを知しるにやあらむ。ここなる猫ねこども、ことに劣おとらずかし」

 とのたまへば、

「これは、さるわきまへ心ごころも、をさをさはべらぬものなれど、その中なかにも心こころかしこきは、おのづから魂たましひはべらむかし」など聞きこえて、「まさるどもさぶらふめるを、これはしばし賜たまはり預あづからむ」

 と申まうしたまふ。心こころのうちに、あながちにをこがましく、かつはおぼゆるに、これを尋たづね取とりて、夜よるもあたり近ちかく臥ふせたまふ。

 明あけ立たてば、猫ねこのかしづきをして、撫なで養やしなひたまふ。人気ひとげ遠とほかりし心こころも、いとよく馴なれて、ともすれば、衣きぬの裾すそにまつはれ、寄より臥ふし睦むつるるを、まめやかにうつくしと思おもふ。いといたく眺ながめて、端近はしぢかく寄より臥ふしたまへるに、来きて、「ねう、ねう」と、いとらうたげに鳴なけば、かき撫なでて、「うたても、すすむかな」と、ほほ笑ゑまる。

「恋こひわぶる人ひとのかたみと手てならせばなれよ何なにとて鳴なく音ねなるらむ

これも昔むかしの契ちぎりにや」

 と、顔かほを見みつつのたまへば、いよいよらうたげに鳴なくを、懐ふところに入いれて眺ながめゐたまへり。御達ごたちなどは、

「あやしく、にはかなる猫ねこのときめくかな。かやうなるもの見入みいれたまはぬ御心みこころに」

 と、とがめけり。宮みやより召めすにも参まゐらせず、取とりこめて、これを語かたらひたまふ。

左大将殿の北の方は

 左大将殿さだいしゃうどのの北きたの方かたは、大殿おほとのの君きみたちよりも、右大将うだいしゃうの君きみをば、なほ昔むかしのままに、疎うとからず思おもひきこえたまへり。心こころばへのかどかどしく、気近けぢかくおはする君きみにて、対面たいめんしたまふ時々ときどきも、こまやかに隔へだてたるけしきなくもてなしたまへれば、大将だいしゃうも、淑景舎しげいさなどの、疎々うとうとしく及およびがたげなる御心みこころざまのあまりなるに、さま異ことなる御睦おほんむつびにて、思おもひ交かはしたまへり。

 男君をとこぎみ、今いまはまして、かのはじめの北きたの方かたをももて離はなれ果はてて、並ならびなくもてかしづききこえたまふ。この御腹おほんはらには、男をとこ君達きむだちの限かぎりなれば、さうざうしとて、かの真木柱まきばしらの姫君ひめぎみを得えて、かしづかまほしくしたまへど、祖父宮おほぢみやなど、さらに許ゆるしたまはず、

「この君きみをだに、人ひと笑わらへならぬさまにて見みむ」

 と思おぼし、のたまふ。

 親王みこの御おほんおぼえいとやむごとなく、内裏うちにも、この宮みやの御心みこころ寄よせ、いとこよなくて、このことと奏そうしたまふことをば、え背そむきたまはず、心苦こころぐるしきものに思おもひきこえたまへり。おほかたも今いまめかしくおはする宮みやにて、この院ゐん、大殿おほとのにさしつぎたてまつりては、人ひとも参まゐり仕つかうまつり、世人よひとも重おもく思おもひきこえけり。

 大将だいしゃうも、さる世よの重鎮おもしとなりたまふべき下形したかたなれば、姫君ひめぎみの御おほんおぼえ、などてかは軽かるくはあらむ。聞きこえ出いづる人ひとびと、ことに触ふれて多おほかれど、思おぼしも定さだめず。衛門督ゑもんのかみを、「さも、けしきばまば」と思おぼすべかめれど、猫ねこには思おもひ落おとしたてまつるにや、かけても思おもひ寄よらぬぞ、口惜くちをしかりける。

 母君ははぎみの、あやしく、なほひがめる人ひとにて、世よの常つねのありさまにもあらず、もて消けちたまへるを、口惜くちをしきものに思おぼして、継母ままははの御おほんあたりをば、心こころつけてゆかしく思おもひて、今いまめきたる御心みこころざまにぞものしたまひける。

兵部卿宮、なほ一所のみおはして

 兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや、なほ一所ひとところのみおはして、御心みこころにつきて思おぼしけることどもは、皆みな違たがひて、世よの中なかもすさまじく、人ひと笑わらへに思おぼさるるに、「さてのみやはあまえて過すぐすべき」と思おぼして、このわたりにけしきばみ寄よりたまへれば、大宮おほみや、

「何なにかは。かしづかむと思おもはむ女子をんなごをば、宮仕みやづかへに次つぎては、親王みこたちにこそは見みせたてまつらめ。ただ人うどの、すくよかに、なほなほしきをのみ、今いまの世よの人ひとのかしこくする、品しななきわざなり」

 とのたまひて、いたくも悩なやましたてまつりたまはず、受うけ引ひき申まうしたまひつ。

 親王みこ、あまり怨うらみどころなきを、さうざうしと思おぼせど、おほかたのあなづりにくきあたりなれば、えしも言いひすべしたまはで、おはしましそめぬ。いと二になくかしづききこえたまふ。

 大宮おほみやは、女子をんなごあまたものしたまひて、

「さまざまもの嘆なげかしき折々をりをり多おほかるに、物懲ものごりしぬべけれど、なほこの君きみのことの思おもひ放はなちがたくおぼえてなむ。母君ははぎみは、あやしきひがものに、年としごろに添そへてなりまさりたまふ。大将だいしゃうはた、わがことに従したがはずとて、おろかに見捨みすてられためれば、いとなむ心苦こころぐるしき」

 とて、御おほんしつらひをも、立たちゐ、御手おほんてづから御覧ごらんじ入いれ、よろづにかたじけなく御心みこころに入いれたまへり。

宮は、亡せたまひにける北の方を

 宮みやは、亡うせたまひにける北きたの方かたを、世よとともに恋こひきこえたまひて、「ただ、昔むかしの御おほんありさまに似にたてまつりたらむ人ひとを見みむ」と思おぼしけるに、「悪あしくはあらねど、さま変かはりてぞものしたまひける」と思おぼすに、口惜くちをしくやありけむ、通かよひたまふさま、いともの憂うげなり。

 大宮おほみや、「いと心こころづきなきわざかな」と思おぼし嘆なげきたり。母君ははぎみも、さこそひがみたまへれど、うつし心ごころ出いで来くる時ときは、「口惜くちをしく憂うき世よ」と、思おもひ果はてたまふ。

 大将だいしゃうの君きみも、「さればよ。いたく色いろめきたまへる親王みこを」と、はじめよりわが御心みこころに許ゆるしたまはざりしことなればにや、ものしと思おもひたまへり。

 尚侍かんの君きみも、かく頼たのもしげなき御おほんさまを、近ちかく聞ききたまふには、「さやうなる世よの中なかを見みましかば、こなたかなた、いかに思おぼし見みたまはまし」など、なまをかしくも、あはれにも思おぼし出いでけり。

「そのかみも、気近けぢかく見聞みきこえむとは、思おもひ寄よらざりきかし。ただ、情なさけ情なさけしう、心深こころふかきさまにのたまひわたりしを、あへなくあはつけきやうにや、聞きき落おとしたまひけむ」と、いと恥はづかしく、年としごろも思おぼしわたることなれば、「かかるあたりにて、聞ききたまはむことも、心こころづかひせらるべく」など思おぼす。

 これよりも、さるべきことは扱あつかひきこえたまふ。せうとの君きみたちなどして、かかる御みけしきも知しらず顔がほに、憎にくからず聞きこえまつはしなどするに、心苦こころぐるしくて、もて離はなれたる御心みこころはなきに、大北おほきたの方かたといふさがな者ものぞ、常つねに許ゆるしなく怨ゑんじきこえたまふ。

「親王みこたちは、のどかに二心ふたごころなくて、見みたまはむをだにこそ、はなやかならぬ慰なぐさめには思おもふべけれ」

 とむつかりたまふを、宮みやも漏もり聞ききたまひては、「いと聞ききならはぬことかな。昔むかし、いとあはれと思おもひし人ひとをおきても、なほ、はかなき心こころのすさびは絶たえざりしかど、かう厳きびしきもの怨ゑんじは、ことになかりしものを」心こころづきなく、いとど昔むかしを恋こひきこえたまひつつ、故里ふるさとにうち眺ながめがちにのみおはします。さ言いひつつも、二年ふたとせばかりになりぬれば、かかる方かたに目馴めなれて、ただ、さる方かたの御仲おほんなかにて過すぐしたまふ。

はかなくて、年月もかさなりて

 はかなくて、年月としつきもかさなりて、内裏うちの帝みかど、御位みくらゐに即つかせたまひて、十じふ八はち年ねんにならせたまひぬ。

「嗣つぎの君きみとならせたまふべき御子みこおはしまさず、ものの栄はえなきに、世よの中なかはかなくおぼゆるを、心こころやすく、思おもふ人ひとびとにも対面たいめんし、私わたくしざまに心こころをやりて、のどかに過すぎまほしくなむ」

 と、年としごろ思おぼしのたまはせつるを、日ひごろいと重おもく悩なやませたまふことありて、にはかに下おりゐさせたまひぬ。世よの人ひと、「飽あかず盛さかりの御世みよを、かく逃のがれたまふこと」と惜をしみ嘆なげけど、春宮とうぐうもおとなびさせたまひにたれば、うち嗣つぎて、世よの中なかの政事まつりごとなど、ことに変かはるけぢめもなかりけり。

 太政大臣おほきおとど、致仕ちじの表へうたてまつりて、籠こもりゐたまひぬ。

「世よの中なかの常つねなきにより、かしこき帝みかどの君きみも、位くらゐを去さりたまひぬるに、年とし深ふかき身みの冠かうぶりを挂かけむ、何なにか惜をしからむ」

 と思おぼしのたまひて、左大将さだいしゃう、右大臣うだいじんになりたまひてぞ、世よの中なかの政事まつりごと仕つかうまつりたまひける。女御にょうごの君きみは、かかる御世みよをも待まちつけたまはで、亡うせたまひにければ、限かぎりある御位みくらゐを得えたまへれど、ものの後うしろの心地ここちして、かひなかりけり。

 六条ろくでうの女御にょうごの御腹おほんはらの一いちの宮みや、坊ばうにゐたまひぬ。さるべきこととかねて思おもひしかど、さしあたりてはなほめでたく、目めおどろかるるわざなりけり。右大将うだいしゃうの君きみ、大納言だいなごんになりたまひぬ。いよいよあらまほしき御仲おほんなからひなり。

 六条院ろくでうのゐんは、下おりゐたまひぬる冷泉院れいぜいゐんの、御嗣おほんつぎおはしまさぬを、飽あかず御心みこころのうちに思おぼす。同おなじ筋すぢなれど、思おもひ悩なやましき御おほんことならで、過すぐしたまへるばかりに、罪つみは隠かくれて、末すゑの世よまではえ伝つたふまじかりける御宿世おほんすくせ、口惜くちをしくさうざうしく思おぼせど、人ひとにのたまひあはせぬことなれば、いぶせくなむ。

 春宮とうぐうの女御にょうごは、御子みこたちあまた数かず添そひたまひて、いとど御おほんおぼえ並ならびなし。源氏げんじの、うち続つづき后きさきにゐたまふべきことを、世人よひと飽あかず思おもへるにつけても、冷泉院れいぜいゐんの后きさきは、ゆゑなくて、あながちにかくしおきたまへる御心みこころを思おぼすに、いよいよ六条院ろくでうのゐんの御おほんことを、年月としつきに添そへて、限かぎりなく思おもひきこえたまへり。

 院ゐんの帝みかど、思おぼし召めししやうに、御幸みゆきも、所狭ところせからで渡わたりたまひなどしつつ、かくてしも、げにめでたくあらまほしき御おほんありさまなり。

姫宮の御ことは

 姫宮ひめみやの御おほんことは、帝みかど、御心みこころとどめて思おもひきこえたまふ。おほかたの世よにも、あまねくもてかしづかれたまふを、対たいの上うへの御勢おほんいきほひには、えまさりたまはず。年月としつき経ふるままに、御仲おほんなかいとうるはしく睦むつびきこえ交かはしたまひて、いささか飽あかぬことなく、隔へだても見みえたまはぬものから、

「今いまは、かうおほぞうの住すまひならで、のどやかに行おこなひをも、となむ思おもふ。この世よはかばかりと、見果みはてつる心地ここちする齢よはひにもなりにけり。さりぬべきさまに思おぼし許ゆるしてよ」

 と、まめやかに聞きこえたまふ折々をりをりあるを、

「あるまじく、つらき御おほんことなり。みづから、深ふかき本意ほいあることなれど、とまりてさうざうしくおぼえたまひ、ある世よに変かはらむ御おほんありさまの、うしろめたさによりこそ、ながらふれ。つひにそのこと遂とげなむ後のちに、ともかくも思おぼしなれ」

 などのみ、妨さまたげきこえたまふ。

 女御にょうごの君きみ、ただこなたを、まことの御親みおやにもてなしきこえたまひて、御方おほんかたは隠かくれがの御後見おほんうしろみにて、卑下ひげしものしたまへるしもぞ、なかなか、行ゆく先さき頼たのもしげにめでたかりける。

 尼君あまぎみも、ややもすれば、堪たへぬよろこびの涙なみだ、ともすれば落おちつつ、目めをさへ拭のごひただして、命いのち長ながき、うれしげなる例ためしになりてものしたまふ。

住吉の御願、かつがつ果たしたまはむとて

 住吉すみよしの御願ごぐわん、かつがつ果はたしたまはむとて、春宮女御とうぐうのにょうごの御おほん祈いのりに詣までたまはむとて、かの箱はこ開あけて御覧ごらんずれば、さまざまのいかめしきことども多おほかり。

 年としごとの春はる秋あきの神楽かぐらに、かならず長ながき世よの祈いのりを加くはへたる願ぐわんども、げに、かかる御勢おほんいきほひならでは、果はたしたまふべきこととも思おもひおきてざりけり。ただ走はしり書がきたる趣おもむきの、才々ざえざえしくはかばかしく、仏ほとけ神かみも聞きき入いれたまふべき言ことの葉は明あきらかなり。

「いかでさる山伏やまぶしの聖心ひじりごころに、かかることどもを思おもひよりけむ」と、あはれにおほけなくも御覧ごらんず。「さるべきにて、しばしかりそめに身みをやつしける、昔むかしの世よの行おこなひ人びとにやありけむ」など思おぼしめぐらすに、いとど軽々かるがるしくも思おぼされざりけり。

 このたびは、この心こころをば表あらはしたまはず、ただ、院ゐんの御おほん物もの詣まうでにて出いで立たちたまふ。浦伝うらづたひのもの騒さわがしかりしほど、そこらの御願おほんぐわんども、皆みな果はたし尽つくしたまへれども、なほ世よの中なかにかくおはしまして、かかるいろいろの栄さかえを見みたまふにつけても、神かみの御おほん助たすけは忘わすれがたくて、対たいの上うへも具ぐしきこえさせたまひて、詣まうでさせたまふ、響ひびき世よの常つねならず。いみじくことども削そぎ捨すてて、世よの煩わづらひあるまじく、と省はぶかせたまへど、限かぎりありければ、めづらかによそほしくなむ。

上達部も、大臣二所をおきたてまつりては

 上達部かむだちめも、大臣おとど二所ふたところをおきたてまつりては、皆みな仕つかうまつりたまふ。舞人まひびとは、衛府ゑふの次将すけどもの、容貌かたちきよげに、丈たけだち等ひとしき限かぎりを選えらせたまふ。この選えらびに入いらぬをば恥はぢに、愁うれへ嘆なげきたる好すき者ものどもありけり。

 陪従べいじうも、石清水いはしみづ、賀茂かもの臨時りんじの祭まつりなどに召めす人ひとびとの、道々みちみちのことにすぐれたる限かぎりを整ととのへさせたまへり。加くははりたる二人ふたりなむ、近衛府このゑづかさの名高なだかき限かぎりを召めしたりける。

 御神楽みかぐらの方かたには、いと多おほく仕つかうまつれり。内裏うち、春宮とうぐう、院ゐんの殿上人てんじゃうびと、方々かたがたに分わかれて、心寄こころよせ仕つかうまつる。数かずも知しらず、いろいろに尽つくしたる上達部かむだちめの御馬おほんむま、鞍くら、馬副むまぞひ、随身ずいじん、小舎人童こどねりわらは、次々つぎつぎの舎人とねりなどまで、整ととのへ飾かざりたる見物みもの、またなきさまなり。

 女御殿にょうごどの、対たいの上うへは、一ひとつにたてまつりたり。次つぎの御車みくるまには、明石あかしの御方おほんかた、尼君あまぎみ忍しのびて乗のりたまへり。女御にょうごの御乳母おほんめのと、心こころ知しりにて乗のりたり。方々かたがたのひとだまひ、上うへの御方おほんかたの五いつつ、女御殿にょうごどのの五いつつ、明石あかしの御おほんあかれの三みつ、目めもあやに飾かざりたる装束さうぞく、ありさま、言いへばさらなり。さるは、

「尼君あまぎみをば、同おなじくは、老おいの波なみの皺しは延のぶばかりに、人ひとめかしくて詣まうでさせむ」

 と、院ゐんはのたまひけれど、

「このたびは、かくおほかたの響ひびきに立たち交まじらむもかたはらいたし。もし思おもふやうならむ世よの中なかを待まち出いでたらば」

 と、御方おほんかたはしづめたまひけるを、残のこりの命いのちうしろめたくて、かつがつものゆかしがりて、慕したひ参まゐりたまふなりけり。さるべきにて、もとよりかく匂にほひたまふ御身おほんみどもよりも、いみじかりける契ちぎり、あらはに思おもひ知しらるる人ひとの御みありさまなり。

十月中の十日なれば

 十月じふがつ中なかの十日とをかなれば、神かみの斎垣いがきにはふ葛くずも色いろ変かはりて、松まつの下した紅葉もみぢなど、音おとにのみ秋あきを聞きかぬ顔かほなり。ことことしき高麗こま、唐土もろこしの楽がくよりも、東遊あづまあそびの耳馴みみなれたるは、なつかしくおもしろく、波風なみかぜの声こゑに響ひびきあひて、さる木高こだかき松風まつかぜに吹ふき立たてたる笛ふえの音ねも、ほかにて聞きく調しらべには変かはりて身みにしみ、御琴おほんことに打うち合あはせたる拍子ひゃうしも、鼓つづみを離はなれて調ととのへとりたるかた、おどろおどろしからぬも、なまめかしくすごうおもしろく、所ところからは、まして聞きこえけり。

 山藍やまあゐに摺すれる竹たけの節ふしは、松まつの緑みどりに見みえまがひ、插頭かざしの色々いろいろは、秋あきの草くさに異ことなるけぢめ分わかれで、何なにごとにも目めのみまがひいろふ。

「求子もとめご」果はつる末すゑに、若わかやかなる上達部かむだちめは、肩かたぬぎて下おりたまふ。匂にほひもなく黒くろき袍うへのきぬに、蘇芳襲すはうがさねの、葡萄染えびぞめの袖そでを、にはかに引ひきほころばしたるに、紅くれなゐ深ふかき衵あこめの袂たもとの、うちしぐれたるにけしきばかり濡ぬれたる、松原まつばらをば忘わすれて、紅葉もみぢの散ちるに思おもひわたさる。

 見みるかひ多おほかる姿すがたどもに、いと白しろく枯かれたる荻をぎを、高たかやかにかざして、ただ一ひと返かへり舞まひて入いりぬるは、いとおもしろく飽あかずぞありける。

大殿、昔のこと思し出でられ

 大殿おとど、昔むかしのこと思おぼし出いでられ、中なかごろ沈しづみたまひし世よのありさまも、目めの前まへのやうに思おぼさるるに、その世よのこと、うち乱みだれ語かたりたまふべき人ひともなければ、致仕ちじの大臣おとどをぞ、恋こひしく思おもひきこえたまひける。

 入いりたまひて、二にの車くるまに忍しのびて、

「誰たれかまた心こころを知しりて住吉すみよしの神代かみよを経へたる松まつにこと問とふ」

 御畳紙おほんたたんがみに書かきたまへり。尼君あまぎみうちしほたる。かかる世よを見みるにつけても、かの浦うらにて、今いまはと別わかれたまひしほど、女御にょうごの君きみのおはせしありさまなど思おもひ出いづるも、いとかたじけなかりける身みの宿世すくせのほどを思おもふ。世よを背そむきたまひし人ひとも恋こひしく、さまざまにもの悲がなしきを、かつはゆゆしと言忌こといみして、

「住すみの江えをいけるかひある渚なぎさとは年とし経ふる尼あまも今日けふや知しるらむ」

 遅おそくは便びんなからむと、ただうち思おもひけるままなりけり。

「昔むかしこそまづ忘わすられね住吉すみよしの神かみのしるしを見みるにつけても」

 と独ひとりごちけり。

夜一夜遊び明かしたまふ

 夜一夜よひとよ遊あそび明あかしたまふ。二十日はつかの月つきはるかに澄すみて、海うみの面おもておもしろく見みえわたるに、霜しものいとこちたく置おきて、松原まつばらも色いろまがひて、よろづのことそぞろ寒さむく、おもしろさもあはれさも立たち添そひたり。

 対たいの上うへ、常つねの垣根かきねのうちながら、時々ときどきにつけてこそ、興きょうある朝夕あさゆふの遊あそびに、耳みみ古ふり目馴めなれたまひけれ、御門みかどより外との物見ものみ、をさをさしたまはず、ましてかく都みやこのほかのありきは、まだ慣ならひたまはねば、珍めづらしくをかしく思おぼさる。

「住すみの江えの松まつに夜深よぶかく置おく霜しもは神かみの掛かけたる木綿鬘ゆふかづらかも」

 篁たかむらの朝臣あそんの、「比良ひらの山やまさへ」と言いひける雪ゆきの朝あしたを思おぼしやれば、祭まつりの心こころうけたまふしるしにやと、いよいよ頼たのもしくなむ。女御にょうごの君きみ、

「神かみ人びとの手てに取とりもたる榊葉さかきばに木綿ゆふかけ添そふる深ふかき夜よの霜しも」

 中務なかつかさの君きみ、

「祝子はふりこが木綿ゆふうちまがひ置おく霜しもはげにいちじるき神かみのしるしか」

 次々つぎつぎ数かず知しらず多おほかりけるを、何なにせむにかは聞ききおかむ。かかるをりふしの歌うたは、例れいの上手じゃうずめきたまふ男をとこたちも、なかなか出いで消きえして、松まつの千歳ちとせより離はなれて、今いまめかしきことなければ、うるさくてなむ。

ほのぼのと明けゆくに

 ほのぼのと明あけゆくに、霜しもはいよいよ深ふかくて、本もと末すゑもたどたどしきまで、酔ゑひ過すぎにたる神楽かぐらおもてどもの、おのが顔かほをば知しらで、おもしろきことに心こころはしみて、庭燎にはびも影かげしめりたるに、なほ、「万歳まんざい、万歳まんざい」と、榊葉さかきばを取とり返かへしつつ、祝いはひきこゆる御世みよの末すゑ、思おもひやるぞいとどしきや。

 よろづのこと飽あかずおもしろきままに、千夜ちよを一夜ひとよになさまほしき夜よの、何なににもあらで明あけぬれば、返かへる波なみにきほふも口惜くちをしく、若わかき人ひとびと思おもふ。

 松原まつばらに、はるばると立たて続つづけたる御車みくるまどもの、風かぜにうちなびく下した簾すだれの隙々ひまひまも、常磐ときはの蔭かげに、花はなの錦にしきを引ひき加くはへたると見みゆるに、袍うへのきぬの色々いろいろけぢめおきて、をかしき懸盤かけばん取とり続つづきて、もの参まゐりわたすをぞ、下人しもびとなどは目めにつきて、めでたしとは思おもへる。

 尼君あまぎみの御前おまへにも、浅香せんかうの折敷をしきに、青鈍あをにびの表おもて折をりて、精進物さうじんものを参まゐるとて、「めざましき女をんなの宿世すくせかな」と、おのがじしはしりうごちけり。

 詣まうでたまひし道みちは、ことことしくて、わづらはしき神宝かんだから、さまざまに所狭ところせげなりしを、帰かへさはよろづの逍遥せうえうを尽つくしたまふ。言いひ続つづくるもうるさく、むつかしきことどもなれば。

 かかる御おほんありさまをも、かの入道にふだうの、聞きかず見みぬ世よにかけ離はなれたうべるのみなむ、飽あかざりける。難かたきことなりかし、交まじらはましも見苦みぐるしくや。世よの中なかの人ひと、これを例ためしにて、心高こころたかくなりぬべきころなめり。よろづのことにつけて、めであさみ、世よの言種ことぐさにて、「明石あかしの尼君あまぎみ」とぞ、幸さいはひ人びとに言いひける。かの致仕ちじの大殿おほとのの近江あふみの君きみは、双六すぐろく打うつ時ときの言葉ことばにも、「明石あかしの尼君あまぎみ、明石あかしの尼君あまぎみ」とぞ、賽さいは乞こひける。

入道の帝は

 入道にふだうの帝みかどは、御行おほんおこなひをいみじくしたまひて、内裏うちの御おほんことをも聞きき入いれたまはず。春秋しゅんじうの行幸ぎゃうがうになむ、昔むかし思おもひ出いでられたまふこともまじりける。姫宮ひめみやの御おほんことをのみぞ、なほえ思おぼし放はなたで、この院ゐんをば、なほおほかたの御後見おほんうしろみに思おもひきこえたまひて、うちうちの御心みこころ寄よせあるべく奏そうせさせたまふ。二品にほんになりたまひて、御封みふなどまさる。いよいよはなやかに御勢おほんいきほひ添そふ。

 対たいの上うへ、かく年月としつきに添そへて、かたがたにまさりたまふ御おほんおぼえに、

「わが身みはただ一所ひとところの御おほんもてなしに、人ひとには劣おとらねど、あまり年とし積つもりなば、その御心みこころばへもつひに衰おとろへなむ。さらむ世よを見果みはてぬさきに、心こころと背そむきにしがな」

 と、たゆみなく思おぼしわたれど、さかしきやうにや思おぼさむとつつまれて、はかばかしくもえ聞きこえたまはず。内裏うちの帝みかどさへ、御心みこころ寄よせことに聞きこえたまへば、おろかに聞きかれたてまつらむもいとほしくて、渡わたりたまふこと、やうやう等ひとしきやうになりゆく。

 さるべきこと、ことわりとは思おもひながら、さればよとのみ、やすからず思おぼされけれど、なほつれなく同おなじさまにて過すぐしたまふ。春宮とうぐうの御おほんさしつぎの女一をんないちの宮みやを、こなたに取とり分わきてかしづきたてまつりたまふ。その御おほん扱あつかひになむ、つれづれなる御おほん夜よがれのほども慰なぐさめたまひける。いづれも分わかず、うつくしくかなしと思おもひきこえたまへり。

夏の御方は

 夏なつの御方おほんかたは、かくとりどりなる御孫おほんむまご扱あつかひをうらやみて、大将だいしゃうの君きみの典侍ないしのすけ腹ばらの君きみを、切せちに迎むかへてぞかしづきたまふ。いとをかしげにて、心こころばへも、ほどよりはされおよすけたれば、大殿おとどの君きみもらうたがりたまふ。少すくなき御嗣おほんつぎと思おぼししかど、末すゑに広ひろごりて、こなたかなたいと多おほくなり添そひたまふを、今いまはただ、これをうつくしみ扱あつかひたまひてぞ、つれづれも慰なぐさめたまひける。

 右みぎの大殿おほとのの参まゐり仕つかうまつりたまふこと、いにしへよりもまさりて親したしく、今いまは北きたの方かたもおとなび果はてて、かの昔むかしのかけかけしき筋すぢ思おもひ離はなれたまふにや、さるべき折をりも渡わたりまうでたまふ。対たいの上うへにも御対面おほんたいめんありて、あらまほしく聞きこえ交かはしたまひけり。

 姫宮ひめみやのみぞ、同おなじさまに若わかくおほどきておはします。女御にょうごの君きみは、今いまは公おほやけざまに思おもひ放はなちきこえたまひて、この宮みやをばいと心苦こころぐるしく、幼をさなからむ御女おほんむすめのやうに、思おもひはぐくみたてまつりたまふ。

朱雀院の御消息

 朱雀院すざくゐんの、

「今いまはむげに世よ近ちかくなりぬる心地ここちして、もの心細こころぼそきを、さらにこの世よのこと顧かへりみじと思おもひ捨すつれど、対面たいめんなむ今いま一度ひとたびあらまほしきを、もし恨うらみ残のこりもこそすれ、ことことしきさまならで渡わたりたまふべく」聞きこえたまひければ、大殿おとども、

「げに、さるべきことなり。かかる御みけしきなからむにてだに、進すすみ参まゐりたまふべきを。まして、かう待まちきこえたまひけるが、心苦こころぐるしきこと」

 と、参まゐりたまふべきこと思おぼしまうく。

「ついでなく、すさまじきさまにてやは、はひ渡わたりたまふべき。何なにわざをしてか、御覧ごらんぜさせたまふべき」

 と、思おぼしめぐらす。

「このたび足たりたまはむ年とし、若菜わかななど調てうじてや」と、思おぼして、さまざまの御法服おほんほふぶくのこと、斎いもひの御おほんまうけのしつらひ、何なにくれとさまことに変かはれることどもなれば、人ひとの御心みこころしつらひども入いりつつ、思おぼしめぐらす。

 いにしへも、遊あそびの方かたに御心みこころとどめさせたまへりしかば、舞人まひびと、楽人がくにんなどを、心こころことに定さだめ、すぐれたる限かぎりをととのへさせたまふ。右みぎの大殿おほとのの御子みこども二人ふたり、大将だいしゃうの御子みこ、典侍ないしのすけの腹はらの加くはへて三人さんにん、まだ小ちひさき七ななつより上かみのは、皆みな殿上てんじゃうせさせたまふ。兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやの童わらは孫王そんわう、すべてさるべき宮みやたちの御子おほんこども、家いへの子この君きみたち、皆みな選えらび出いでたまふ。

 殿上てんじゃうの君達きむだちも、容貌かたちよく、同おなじき舞まひの姿すがたも、心こころことなるべきを定さだめて、あまたの舞まひのまうけをせさせたまふ。いみじかるべきたびのこととて、皆人みなひと心こころを尽つくしたまひてなむ。道々みちみちのものの師し、上手じゃうず、暇いとまなきころなり。

宮は琴の御琴を習ひたまふ

 宮みやは、もとより琴きんの御琴おほんことをなむ習ならひたまひけるを、いと若わかくて院ゐんにもひき別わかれたてまつりたまひしかば、おぼつかなく思おぼして、

「参まゐりたまはむついでに、かの御琴おほんことの音ねなむ聞きかまほしき。さりとも琴きんばかりは弾ひき取とりたまひつらむ」

 と、しりうごとに聞きこえたまひけるを、内裏うちにも聞きこし召めして、

「げに、さりとも、けはひことならむかし。院ゐんの御前おまへにて、手て尽つくしたまはむついでに、参まゐり来きて聞きかばや」

 などのたまはせけるを、大殿おとどの君きみは伝つたへ聞ききたまひて、

「年としごろさりぬべきついでごとには、教をしへきこゆることもあるを、そのけはひは、げにまさりたまひにたれど、まだ聞きこし召めしどころあるもの深ふかき手てには及およばぬを、何心なにごころもなくて参まゐりたまへらむついでに、聞きこし召めさむとゆるしなくゆかしがらせたまはむは、いとはしたなかるべきことにも」

 と、いとほしく思おぼして、このころぞ御心みこころとどめて教をしへきこえたまふ。

 調しらべことなる手て、二ふたつ三みつ、おもしろき大曲だいごくどもの、四し季きにつけて変かはるべき響ひびき、空そらの寒さむさぬるさをととのへ出いでて、やむごとなかるべき手ての限かぎりを、取とり立たてて教をしへきこえたまふに、心こころもとなくおはするやうなれど、やうやう心得こころえたまふままに、いとよくなりたまふ。

「昼ひるは、いと人ひとしげく、なほ一度ひとたびも揺ゆし按あんずる暇いとまも、心こころあわたたしければ、夜々よるよるなむ、静しづかにことの心こころもしめたてまつるべき」

 とて、対たいにも、そのころは御暇おほんいとま聞きこえたまひて、明あけ暮くれ教をしへきこえたまふ。

女御の君にも、対の上にも

 女御にょうごの君きみにも、対たいの上うへにも、琴きんは習ならはしたてまつりたまはざりければ、この折をり、をさをさ耳馴みみなれぬ手てども弾ひきたまふらむを、ゆかしと思おぼして、女御にょうごも、わざとありがたき御暇おほんいとまを、ただしばしと聞きこえたまひてまかでたまへり。

 御子みこ二所ふたところおはするを、またもけしきばみたまひて、五月いつつきばかりにぞなりたまへれば、神事かみわざなどにことづけておはしますなりけり。十一日じふいちにち過すぐしては、参まゐりたまふべき御消息おほんせうそこうちしきりあれど、かかるついでに、かくおもしろき夜々よるよるの御遊おほんあそびをうらやましく、「などて我われに伝つたへたまはざりけむ」と、つらく思おもひきこえたまふ。

 冬ふゆの夜よの月つきは、人ひとに違たがひてめでたまふ御心みこころなれば、おもしろき夜よの雪ゆきの光ひかりに、折をりに合あひたる手てども弾ひきたまひつつ、さぶらふ人ひとびとも、すこしこの方かたにほのめきたるに、御琴おほんことどもとりどりに弾ひかせて、遊あそびなどしたまふ。

 年としの暮くれつ方かたは、対たいなどにはいそがしく、こなたかなたの御おほんいとなみに、おのづから御覧ごらんじ入いるることどもあれば、

「春はるのうららかならむ夕ゆふべなどに、いかでこの御琴おほんことの音ね聞きかむ」

 とのたまひわたるに、年とし返かへりぬ。

院の御賀、まづ朝廷より

 院ゐんの御賀おほんが、まづ朝廷おほやけよりせさせたまふことどもこちたきに、さしあひては便びんなく思おぼされて、すこしほど過すごしたまふ。二月にがつ十余日じふよにちと定さだめたまひて、楽人がくにん、舞人まひびとなど参まゐりつつ、御遊おほんあそび絶たえず。

「この対たいに、常つねにゆかしくする御琴おほんことの音ね、いかでかの人ひとびとの箏さう、琵琶びはの音ねも合あはせて、女をんな楽がく試こころみさせむ。ただ今いまのものの上手じゃうずどもこそ、さらにこのわたりの人ひとびとの御心みこころしらひどもにまさらね。

はかばかしく伝つたへ取とりたることは、をさをさなけれど、何なにごとも、いかで心こころに知しらぬことあらじとなむ、幼をさなきほどに思おもひしかば、世よにあるものの師しといふ限かぎり、また高たかき家々いへいへの、さるべき人ひとの伝つたへどもをも、残のこさず試こころみし中なかに、いと深ふかく恥はづかしきかなとおぼゆる際きはの人ひとなむなかりし。

そのかみよりも、またこのころの若わかき人ひとびとの、されよしめき過すぐすに、はた浅あさくなりにたるべし。琴きんはた、まして、さらに、まねぶ人ひとなくなりにたりとか。この御琴おほんことの音ねばかりだに伝つたへたる人ひと、をさをさあらじ」

 とのたまへば、何心なにごころなくうち笑ゑみて、うれしく、「かくゆるしたまふほどになりにける」と思おぼす。

 二十一にじふいち、二にばかりになりたまへど、なほいといみじく片かたなりに、きびはなる心地ここちして、細ほそくあえかにうつくしくのみ見みえたまふ。

「院ゐんにも見みえたてまつりたまはで、年とし経へぬるを、ねびまさりたまひにけりと御覧ごらんずばかり、用意ようい加くはへて見みえたてまつりたまへ」

 と、ことに触ふれて教をしへきこえたまふ。

「げに、かかる御後見おほんうしろみなくては、ましていはけなくおはします御おほんありさま、隠かくれなからまし」

 と、人ひとびとも見みたてまつる。

正月二十日ばかりになれば

 正月しゃうがつ二十日はつかばかりになれば、空そらもをかしきほどに、風かぜぬるく吹ふきて、御前おまへの梅むめも盛さかりになりゆく。おほかたの花はなの木きどもも、皆みなけしきばみ、霞かすみわたりにけり。

「月つきたたば、御おほんいそぎ近ちかく、もの騒さわがしからむに、掻かき合あはせたまはむ御琴おほんことの音ねも、試楽しがくめきて人ひと言いひなさむを、このころ静しづかなるほどに試こころみたまへ」

 とて、寝殿しんでんに渡わたしたてまつりたまふ。

 御供おほんともに、我われも我われもと、ものゆかしがりて、参まう上のぼらまほしがれど、こなたに遠とほきをば、選えりとどめさせたまひて、すこしねびたれど、よしある限かぎり選えりてさぶらはせたまふ。

 童女わらはべは、容貌かたちすぐれたる四人よたり、赤色あかいろに桜さくらの汗衫かざみ、薄色うすいろの織物おりものの衵あこめ、浮紋うきもんの表うへの袴はかま、紅くれなゐの擣うちたる、さま、もてなしすぐれたる限かぎりを召めしたり。女御にょうごの御方おほんかたにも、御おほんしつらひなど、いとどあらたまれるころのくもりなきに、おのおの挑いどましく、尽つくしたるよそほひども、鮮あざやかに二になし。

 童わらはは、青色あをいろに蘇芳すはうの汗衫かざみ、唐から綾あやの表うへの袴はかま、衵あこめは山吹やまぶきなる唐からの綺きを、同おなじさまに調ととのへたり。明石あかしの御方おほんかたのは、ことことしからで、紅梅こうばい二人ふたり、桜さくら二人ふたり、青磁あをぢの限かぎりにて、衵あこめ濃こく薄うすく、擣目うちめなどえならで着きせたまへり。

 宮みやの御方おほんかたにも、かく集つどひたまふべく聞ききたまひて、童女わらはべの姿すがたばかりは、ことにつくろはせたまへり。青丹あをにに柳やなぎの汗衫かざみ、葡萄染えびぞめの衵あこめなど、ことに好このましくめづらしきさまにはあらねど、おほかたのけはひの、いかめしく気高けだかきことさへ、いと並ならびなし。

廂の中の御障子を放ちて

 廂ひさしの中なかの御障子みさうじを放はなちて、こなたかなた御几帳みきちゃうばかりをけぢめにて、中なかの間まは、院ゐんのおはしますべき御座おましよそひたり。今日けふの拍子ひゃうし合あはせには童わらはべを召めさむとて、右みぎの大殿おほいどのの三郎さぶらう、尚侍かんの君きみの御腹おほんはらの兄君あにぎみ、笙しゃうの笛ふえ、左大将さだいしゃうの御太郎おほんたらう、横笛よこぶえと吹ふかせて、簀子すのこにさぶらはせたまふ。

 内うちには、御茵おほんしとねども並ならべて、御琴おほんことども参まゐり渡わたす。秘ひしたまふ御琴おほんことども、うるはしき紺地こんぢの袋ふくろどもに入いれたる取とり出いでて、明石あかしの御方おほんかたに琵琶びは、紫むらさきの上うへに和琴わごん、女御にょうごの君きみに箏さうの御琴おほんこと、宮みやには、かくことことしき琴ことはまだえ弾ひきたまはずやと、あやふくて、例れいの手て馴ならしたまへるをぞ、調しらべてたてまつりたまふ。

「箏さうの御琴おほんことは、ゆるぶとなけれど、なほ、かく物ものに合あはする折をりの調しらべにつけて、琴柱ことぢの立処たちど乱みだるるものなり。よくその心こころしらひ調ととのふべきを、女をんなはえ張はりしづめじ。なほ、大将だいしゃうをこそ召めし寄よせつべかめれ。この笛吹ふえふきども、まだいと幼をさなげにて、拍子ひゃうし調ととのへむ頼たのみ強つよからず」

 と笑わらひたまひて、

「大将だいしゃう、こなたに」

 と召めせば、御方々おほんかたがた恥はづかしく、心こころづかひしておはす。明石あかしの君きみを放はなちては、いづれも皆みな捨すてがたき御弟子みでしどもなれば、御心みこころ加くはへて、大将だいしゃうの聞ききたまはむに、難なんなかるべくと思おぼす。

「女御にょうごは、常つねに上うへの聞きこし召めすにも、物ものに合あはせつつ弾ひきならしたまへれば、うしろやすきを、和琴わごんこそ、いくばくならぬ調しらべなれど、あと定さだまりたることなくて、なかなか女をんなのたどりぬべけれ。春はるの琴ことの音ねは、皆みな掻かき合あはするものなるを、乱みだるるところもや」

 と、なまいとほしく思おぼす。

大将、いといたく心懸想して

 大将だいしゃう、いといたく心懸想こころげさうして、御前おまへのことことしく、うるはしき御おほん試こころみあらむよりも、今日けふの心こころづかひは、ことにまさりておぼえたまへば、あざやかなる御直衣おほんなほし、香かうにしみたる御衣おほんぞども、袖そでいたくたきしめて、引ひきつくろひて参まゐりたまふほど、暮くれ果はてにけり。

 ゆゑあるたそかれ時どきの空そらに、花はなは去年こぞの古ふる雪ゆき思おもひ出いでられて、枝えだもたわむばかり咲さき乱みだれたり。ゆるるかにうち吹ふく風かぜに、えならず匂にほひたる御簾みすの内うちの香かをりも吹ふき合あはせて、鴬うぐひす誘さそふつまにしつべく、いみじき御殿おとどのあたりの匂にほひなり。御簾みすの下したより、箏さうの御琴おほんことのすそ、すこしさし出いでて、

「軽々かるがるしきやうなれど、これが緒を調ととのへて、調しらべ試こころみたまへ。ここにまた疎うとき人ひとの入いるべきやうもなきを」

 とのたまへば、うちかしこまりて賜たまはりたまふほど、用意ようい多おほくめやすくて、「壱越調いちこちでう」の声こゑに発はちの緒をを立たてて、ふとも調しらべやらでさぶらひたまへば、

「なほ、掻かき合あはせばかりは、手て一ひとつ、すさまじからでこそ」

 とのたまへば、

「さらに、今日けふの御遊おほんあそびのさしいらへに、交まじらふばかりの手てづかひなむ、おぼえずはべりける」

 と、けしきばみたまふ。

「さもあることなれど、女をんな楽がくにえことまぜでなむ逃にげにけると、伝つたはらむ名なこそ惜をしけれ」

 とて笑わらひたまふ。

 調しらべ果はてて、をかしきほどに掻かき合あはせばかり弾ひきて、参まゐらせたまひつ。この御孫おほんむまごの君達きむだちの、いとうつくしき宿直とのゐ姿すがたどもにて、吹ふき合あはせたる物ものの音ねども、まだ若わかけれど、生おひ先さきありて、いみじくをかしげなり。

御琴どもの調べども調ひ果てて

 御琴おほんことどもの調しらべども調ととのひ果はてて、掻かき合あはせたまへるほど、いづれとなき中なかに、琵琶びははすぐれて上手じゃうずめき、神かみさびたる手てづかひ、澄すみ果はてておもしろく聞きこゆ。

 和琴わごんに、大将だいしゃうも耳みみとどめたまへるに、なつかしく愛敬あいぎゃうづきたる御爪音おほんつまおとに、掻かき返かへしたる音ねの、めづらしく今いまめきて、さらにこのわざとある上手じゃうずどもの、おどろおどろしく掻かき立たてたる調しらべ調子てうしに劣おとらず、にぎははしく、「大和琴やまとごとにもかかる手てありけり」と聞きき驚おどろかる。深ふかき御労ごらうのほどあらはに聞きこえて、おもしろきに、大殿おとど御心みこころ落おちゐて、いとありがたく思おもひきこえたまふ。

 箏さうの御琴おほんことは、ものの隙々ひまひまに、心こころもとなく漏もり出いづる物ものの音ねがらにて、うつくしげになまめかしくのみ聞きこゆ。

 琴きんは、なほ若わかき方かたなれど、習ならひたまふ盛さかりなれば、たどたどしからず、いとよくものに響ひびきあひて、「優いうになりにける御琴おほんことの音ねかな」と、大将だいしゃう聞ききたまふ。拍子ひゃうしとりて唱歌さうがしたまふ。院ゐんも、時々ときどき扇あふぎうち鳴ならして、加くはへたまふ御声おほんこゑ、昔むかしよりもいみじくおもしろく、すこしふつつかに、ものものしきけ添そひて聞きこゆ。大将だいしゃうも、声こゑいとすぐれたまへる人ひとにて、夜よの静しづかになりゆくままに、言いふ限かぎりなくなつかしき夜よの御遊おほんあそびなり。

月心もとなきころなれば

 月つき心こころもとなきころなれば、灯籠とうろこなたかなたに懸かけて、火ひよきほどに灯ともさせたまへり。

 宮みやの御方おほんかたを覗のぞきたまへれば、人ひとよりけに小ちひさくうつくしげにて、ただ御衣おほんぞのみある心地ここちす。匂にほひやかなる方かたは後おくれて、ただいとあてやかにをかしく、二月にがつの中なかの十日とをかばかりの青柳あをやぎの、わづかに枝垂しだりはじめたらむ心地ここちして、鴬うぐひすの羽風はかぜにも乱みだれぬべく、あえかに見みえたまふ。

 桜さくらの細長ほそながに、御髪みぐしは左右ひだりみぎよりこぼれかかりて、柳やなぎの糸いとのさましたり。

「これこそは、限かぎりなき人ひとの御おほんありさまなめれ」と見みゆるに、女御にょうごの君きみは、同おなじやうなる御おほんなまめき姿すがたの、今いますこし匂にほひ加くははりて、もてなしけはひ心こころにくく、よしあるさましたまひて、よく咲さきこぼれたる藤ふぢの花はなの、夏なつにかかりて、かたはらに並ならぶ花はななき、朝あさぼらけの心地ここちぞしたまへる。

 さるは、いとふくらかなるほどになりたまひて、悩なやましくおぼえたまひければ、御琴おほんこともおしやりて、脇息けふそくにおしかかりたまへり。ささやかになよびかかりたまへるに、御脇息おほんけふそくは例れいのほどなれば、およびたる心地ここちして、ことさらに小ちひさく作つくらばやと見みゆるぞ、いとあはれげにおはしける。

 紅梅こうばいの御衣おほんぞに、御髪みぐしのかかりはらはらときよらにて、火影ほかげの御姿おほんすがた、世よになくうつくしげなるに、紫むらさきの上うへは、葡萄染えびぞめにやあらむ、色いろ濃こき小袿こうちき、薄うす蘇芳すはうの細長ほそながに、御髪みぐしのたまれるほど、こちたくゆるるかに、大おほきさなどよきほどに、様体やうだいあらまほしく、あたりに匂にほひ満みちたる心地ここちして、花はなといはば桜さくらに喩たとへても、なほものよりすぐれたるけはひ、ことにものしたまふ。

 かかる御おほんあたりに、明石あかしはけ圧おさるべきを、いとさしもあらず、もてなしなどけしきばみ恥はづかしく、心こころの底そこゆかしきさまして、そこはかとなくあてになまめかしく見みゆ。

 柳やなぎの織物おりものの細長ほそなが、萌黄もえぎにやあらむ、小袿こうちき着きて、羅うすものの裳ものはかなげなる引ひきかけて、ことさら卑下ひげしたれど、けはひ、思おもひなしも、心こころにくくあなづらはしからず。

 高麗こまの青地あをぢの錦にしきの端はしさしたる茵しとねに、まほにもゐで、琵琶びはをうち置おきて、ただけしきばかり弾ひきかけて、たをやかに使つかひなしたる撥ばちのもてなし、音ねを聞きくよりも、またありがたくなつかしくて、五月さつき待まつ花橘はなたちばな、花はなも実みも具ぐしておし折をれる薫かをりおぼゆ。

これもかれも、うちとけぬ御けはひ

 これもかれも、うちとけぬ御おほんけはひどもを聞きき見みたまふに、大将だいしゃうも、いと内うちゆかしくおぼえたまふ。対たいの上うへの、見みし折をりよりも、ねびまさりたまへらむありさまゆかしきに、静心しづこころもなし。

「宮みやをば、今いますこしの宿世すくせ及およばましかば、わがものにても見みたてまつりてまし。心こころのいとぬるきぞ悔くやしきや。院ゐんは、たびたびさやうにおもむけて、しりう言ごとにものたまはせけるを」と、ねたく思おもへど、すこし心こころやすき方かたに見みえたまふ御おほんけはひに、あなづりきこゆとはなけれど、いとしも心こころは動うごかざりけり。

 この御方おほんかたをば、何なにごとも思おもひ及およぶべき方かたなく、気遠けどほくて、年としごろ過すぎぬれば、「いかでか、ただおほかたに、心寄こころよせあるさまをも見みえたてまつらむ」とばかりの、口惜くちをしく嘆なげかしきなりけり。あながちに、あるまじくおほけなき心地ここちなどは、さらにものしたまはず、いとよくもてをさめたまへり。

夜更けゆくけはひ

 夜よ更ふけゆくけはひ、冷ひややかなり。臥待ふしまちの月つきはつかにさし出いでたる、

「心こころもとなしや、春はるの朧月夜おぼろづきよよ。秋あきのあはれ、はた、かうやうなる物ものの音ねに、虫むしの声こゑ縒より合あはせたる、ただならず、こよなく響ひびき添そふ心地ここちすかし」

 とのたまへば、大将だいしゃうの君きみ、

「秋あきの夜よの隈くまなき月つきには、よろづの物ものとどこほりなきに、琴こと笛ふえの音ねも、あきらかに澄すめる心地ここちはしはべれど、なほことさらに作つくり合あはせたるやうなる空そらのけしき、花はなの露つゆも、いろいろ目め移うつろひ心こころ散ちりて、限かぎりこそはべれ。

春はるの空そらのたどたどしき霞かすみの間まより、おぼろなる月影つきかげに、静しづかに吹ふき合あはせたるやうには、いかでか。笛ふえの音ねなども、艶えんに澄すみのぼり果はてずなむ。

女をんなは春はるをあはれぶと、古ふるき人ひとの言いひ置おきはべりける。げに、さなむはべりける。なつかしく物もののととのほることは、春はるの夕暮ゆふぐれこそことにはべりけれ」

 と申まうしたまへば、

「いな、この定さだめよ。いにしへより人ひとの分わきかねたることを、末すゑの世よに下くだれる人ひとの、えあきらめ果はつまじくこそ。物ものの調しらべ、曲ごくのものどもはしも、げに律りちをば次つぎのものにしたるは、さもありかし」

 などのたまひて、

「いかに。ただ今いま、有職いうそくのおぼえ高たかき、その人ひとかの人ひと、御前おまへなどにて、たびたび試こころみさせたまふに、すぐれたるは、数かず少すくなくなりためるを、そのこのかみと思おもへる上手じゃうずども、いくばくえまねび取とらぬにやあらむ。このかくほのかなる女をんなたちの御中おほんなかに弾ひきまぜたらむに、際きは離はなるべくこそおぼえね。

年としごろかく埋むもれて過すぐすに、耳みみなどもすこしひがひがしくなりにたるにやあらむ、口惜くちをしうなむ。あやしく、人ひとの才ざえ、はかなくとりすることども、ものの栄はえありてまさる所ところなる。その、御前ごぜんの御遊おほんあそびなどに、ひときざみに選えらばるる人ひとびと、それかれといかにぞ」

 とのたまへば、大将だいしゃう、

「それをなむ、とり申まうさむと思おもひはべりつれど、あきらかならぬ心こころのままに、およすけてやはと思おもひたまふる。上のぼりての世よを聞きき合あはせはべらねばにや、衛門督ゑもんのかみの和琴わごん、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやの御おほん琵琶びはなどをこそ、このころめづらかなる例ためしに引ひき出いではべめれ。

げに、かたはらなきを、今宵こよひうけたまはる物ものの音ねどもの、皆みなひとしく耳みみおどろきはべるは。なほ、かくわざともあらぬ御遊おほんあそびと、かねて思おもうたまへたゆみける心こころの騒さわぐにやはべらむ。唱歌さうがなど、いと仕つかうまつりにくくなむ。

和琴わごんは、かの大臣おとどばかりこそ、かく折をりにつけて、こしらへなびかしたる音ねなど、心こころにまかせて掻かき立たてたまへるは、いとことにものしたまへ、をさをさ際きは離はなれぬものにはべめるを、いとかしこく整ととのひてこそはべりつれ」

 と、めできこえたまふ。

「いと、さことことしき際きはにはあらぬを、わざとうるはしくも取とりなさるるかな」

 とて、したり顔がほにほほ笑ゑみたまふ。

「げに、けしうはあらぬ弟子でしどもなりかし。琵琶びははしも、ここに口入くちいるべきことまじらぬを、さいへど、物もののけはひ異ことなるべし。おぼえぬ所ところにて聞きき始はじめたりしに、めづらしき物ものの声ねかなとなむおぼえしかど、その折をりよりは、またこよなく優まさりにたるをや」

 と、せめて我われかしこにかこちなしたまへば、女房にょうばうなどは、すこしつきしろふ。

よろづのこと、道々につけて習ひまねばば

「よろづのこと、道々みちみちにつけて習ならひまねばば、才ざえといふもの、いづれも際きはなくおぼえつつ、わが心地ここちに飽あくべき限かぎりなく、習ならひ取とらむことはいと難かたけれど、何なにかは、そのたどり深ふかき人ひとの、今いまの世よにをさをさなければ、片端かたはしをなだらかにまねび得えたらむ人ひと、さるかたかどに心こころをやりてもありぬべきを、琴きんなむ、なほわづらはしく、手て触ふれにくきものはありける。

この琴ことは、まことに跡あとのままに尋たづねとりたる昔むかしの人ひとは、天地てんちをなびかし、鬼おに神かみの心こころをやはらげ、よろづの物ものの音ねのうちに従したがひて、悲かなしび深ふかき者ものも喜よろこびに変かはり、賤いやしく貧まづしき者ものも高たかき世よに改あらたまり、宝たからにあづかり、世よにゆるさるるたぐひ多おほかりけり。

この国くにに弾ひき伝つたふる初はじめつ方かたまで、深ふかくこの事ことを心得こころえたる人ひとは、多おほくの年としを知しらぬ国くにに過すぐし、身みをなきになして、この琴ことをまねび取とらむと惑まどひてだに、し得うるは難かたくなむありける。げにはた、明あきらかに空そらの月つき星ほしを動うごかし、時ときならぬ霜しも雪ゆきを降ふらせ、雲雷くもいかづちを騒さわがしたる例ためし、上あがりたる世よにはありけり。

かく限かぎりなきものにて、そのままに習ならひ取とる人ひとのありがたく、世よの末すゑなればにや、いづこのそのかみの片端かたはしにかはあらむ。されど、なほ、かの鬼おに神かみの耳みみとどめ、かたぶきそめにけるものなればにや、なまなまにまねびて、思おもひかなはぬたぐひありけるのち、これを弾ひく人ひと、よからずとかいふ難なんをつけて、うるさきままに、今いまはをさをさ伝つたふる人ひとなしとか。いと口惜くちをしきことにこそあれ。

琴きんの音ねを離はなれては、何なに琴ことをか物ものを調ととのへ知しるしるべとはせむ。げに、よろづのこと衰おとろふるさまは、やすくなりゆく世よの中なかに、一人ひとり出いで離はなれて、心こころを立たてて、唐土もろこし、高麗こまと、この世よに惑まどひありき、親子おやこを離はなれむことは、世よの中なかにひがめる者ものになりぬべし。

などか、なのめにて、なほこの道みちを通かよはし知しるばかりの端はしをば、知しりおかざらむ。調しらべ一ひとつに手てを弾ひき尽つくさむことだに、はかりもなきものななり。いはむや、多おほくの調しらべ、わづらはしき曲ごく多おほかるを、心こころに入いりし盛さかりには、世よにありとあり、ここに伝つたはりたる譜ふといふものの限かぎりをあまねく見合みあはせて、のちのちは、師しとすべき人ひともなくてなむ、好このみ習ならひしかど、なほ上あがりての人ひとには、当あたるべくもあらじをや。まして、この後のちといひては、伝つたはるべき末すゑもなき、いとあはれになむ」

 などのたまへば、大将だいしゃう、げにいと口惜くちをしく恥はづかしと思おぼす。

「この御子みこたちの御中おほんなかに、思おもふやうに生おひ出いでたまふものしたまはば、その世よになむ、そもさまでながらへとまるやうあらば、いくばくならぬ手ての限かぎりも、とどめたてまつるべき。三さんの宮みや、今いまよりけしきありて見みえたまふを」

 などのたまへば、明石あかしの君きみは、いとおもだたしく、涙なみだぐみて聞ききゐたまへり。

女御の君は、箏の御琴をば

 女御にょうごの君きみは、箏さうの御琴おほんことをば、上うへに譲ゆづりきこえて、寄より臥ふしたまひぬれば、和琴あづまを大殿おとどの御前おまへに参まゐりて、気近けぢかき御遊おほんあそびになりぬ。「葛城かづらき」遊あそびたまふ。はなやかにおもしろし。大殿おとど折をり返かへし謡うたひたまふ御声おほんこゑ、たとへむかたなく愛敬あいぎゃうづきめでたし。

 月つきやうやうさし上あがるままに、花はなの色いろ香かももてはやされて、げにいと心こころにくきほどなり。箏さうの琴ことは、女御にょうごの御爪音おほんつまおとは、いとらうたげになつかしく、母君ははぎみの御おほんけはひ加くははりて、揺ゆの音ね深ふかく、いみじく澄すみて聞きこえつるを、この御手おほんてづかひは、またさま変かはりて、ゆるるかにおもしろく、聞きく人ひとただならず、すずろはしきまで愛敬あいぎゃうづきて、輪りんの手てなど、すべてさらに、いとかどある御琴おほんことの音ねなり。

 返かへり声ごゑに、皆みな調しらべ変かはりて、律りちの掻かき合あはせども、なつかしく今いまめきたるに、琴きんは、五個ごかの調しらべ、あまたの手ての中なかに、心こころとどめてかならず弾ひきたまふべき五ご、六ろくの発剌はらを、いとおもしろく澄すまして弾ひきたまふ。さらにかたほならず、いとよく澄すみて聞きこゆ。

 春はる秋あきよろづの物ものに通かよへる調しらべにて、通かよはしわたしつつ弾ひきたまふ。心こころしらひ、教をしへきこえたまふさま違たがへず、いとよくわきまへたまへるを、いとうつくしく、おもだたしく思おもひきこえたまふ。

この君達の、いとうつくしく吹き立てて

 この君達きむだちの、いとうつくしく吹ふき立たてて、切せちに心こころ入いれたるを、らうたがりたまひて、

「ねぶたくなりにたらむに。今宵こよひの遊あそびは、長ながくはあらで、はつかなるほどにと思おもひつるを。とどめがたき物ものの音ねどもの、いづれともなきを、聞きき分わくほどの耳みみとからぬたどたどしさに、いたく更ふけにけり。心こころなきわざなりや」

 とて、笙しゃうの笛ふえ吹ふく君きみに、土器かはらけさしたまひて、御衣おほんぞ脱ぬぎてかづけたまふ。横笛よこぶえの君きみには、こなたより、織物おりものの細長ほそながに、袴はかまなどことことしからぬさまに、けしきばかりにて、大将だいしゃうの君きみには、宮みやの御方おほんかたより、杯さかづきさし出いでて、宮みやの御装束おほんさうぞく一領ひとくだりかづけたてまつりたまふを、大殿おとど、

「あやしや。物ものの師しをこそ、まづはものめかしたまはめ。愁うれはしきことなり」

 とのたまふに、宮みやのおはします御几帳みきちゃうのそばより、御笛おほんふゑをたてまつる。うち笑わらひたまひて取とりたまふ。いみじき高麗笛こまぶえなり。すこし吹ふき鳴ならしたまへば、皆みな立たち出いでたまふほどに、大将だいしゃう立たち止とまりたまひて、御子みこの持もちたまへる笛ふえを取とりて、いみじくおもしろく吹ふき立たてたまへるが、いとめでたく聞きこゆれば、いづれもいづれも、皆みな御手おほんてを離はなれぬものの伝つたへ伝つたへ、いと二になくのみあるにてぞ、わが御おほん才ざえのほど、ありがたく思おぼし知しられける。

大将殿は、君達を御車に乗せて

 大将殿だいしゃうどのは、君達きむだちを御車みくるまに乗のせて、月つきの澄すめるにまかでたまふ。道みちすがら、箏さうの琴ことの変かはりていみじかりつる音ねも、耳みみにつきて恋こひしくおぼえたまふ。

 わが北きたの方かたは、故大宮こおほみやの教をしへきこえたまひしかど、心こころにもしめたまはざりしほどに、別わかれたてまつりたまひにしかば、ゆるるかにも弾ひき取とりたまはで、男君をとこぎみの御前おまへにては、恥はぢてさらに弾ひきたまはず。何なにごともただおいらかに、うちおほどきたるさまして、子こども扱あつかひを、暇いとまなく次々つぎつぎしたまへば、をかしきところもなくおぼゆ。さすがに、腹はら悪あしくて、もの妬ねたみうちしたる、愛敬あいぎゃうづきてうつくしき人ひとざまにぞものしたまふめる。

院は、対へ渡りたまひぬ

 院ゐんは、対たいへ渡わたりたまひぬ。上うへは、止とまりたまひて、宮みやに御物語おほんものがたりなど聞きこえたまひて、暁あかつきにぞ渡わたりたまへる。日ひ高たかうなるまで大殿籠おほとのごもれり。

「宮みやの御琴おほんことの音ねは、いとうるさくなりにけりな。いかが聞ききたまひし」

 と聞きこえたまへば、

「初はじめつ方かた、あなたにてほの聞ききしは、いかにぞやありしを、いとこよなくなりにけり。いかでかは、かく異事ことごとなく教をしへきこえたまはむには」

 といらへきこえたまふ。

「さかし。手てを取とる取とる、おぼつかなからぬ物ものの師しなりかし。これかれにも、うるさくわづらはしくて、暇いとまいるわざなれば、教をしへたてまつらぬを、院ゐんにも内裏うちにも、琴きんはさりとも習ならはしきこゆらむとのたまふと聞きくがいとほしく、さりとも、さばかりのことをだに、かく取とり分わきて御後見おほんうしろみにと預あづけたまへるしるしにはと、思おもひ起おこしてなむ」

 など聞きこえたまふついでにも、

「昔むかし、世よづかぬほどを、扱あつかひ思おもひしさま、その世よには暇いとまもありがたくて、心こころのどかに取とりわき教をしへきこゆることなどもなく、近ちかき世よにも、何なにとなく次々つぎつぎ、紛まぎれつつ過すぐして、聞きき扱あつかはぬ御琴おほんことの音ねの、出いで栄ばえしたりしも、面目めんぼくありて、大将だいしゃうの、いたくかたぶきおどろきたりしけしきも、思おもふやうにうれしくこそありしか」

 など聞きこえたまふ。

かやうの筋も、今はまたおとなおとなしく

 かやうの筋すぢも、今いまはまたおとなおとなしく、宮みやたちの御おほん扱あつかひなど、取とりもちてしたまふさまも、いたらぬことなく、すべて何なにごとにつけても、もどかしくたどたどしきこと混まじらず、ありがたき人ひとの御おほんありさまなれば、いとかく具ぐしぬる人ひとは、世よに久ひさしからぬ例ためしもあなるをと、ゆゆしきまで思おもひきこえたまふ。

 さまざまなる人ひとのありさまを見み集あつめたまふままに、取とり集あつめ足たらひたることは、まことにたぐひあらじとのみ思おもひきこえたまへり。今年ことしは三十さんじふ七しちにぞなりたまふ。見みたてまつりたまひし年月としつきのことなども、あはれに思おぼし出いでたるついでに、

「さるべき御おほん祈いのりなど、常つねよりも取とり分わきて、今年ことしはつつしみたまへ。もの騒さわがしくのみありて、思おもひいたらぬこともあらむを、なほ、思おぼしめぐらして、大おほきなることどももしたまはば、おのづからせさせてむ。故僧都こそうづのものしたまはずなりにたるこそ、いと口惜くちをしけれ。おほかたにてうち頼たのまむにも、いとかしこかりし人ひとを」

 などのたまひ出いづ。

みづからは、幼くより

「みづからは、幼をさなくより、人ひとに異ことなるさまにて、ことことしく生おひ出いでて、今いまの世よのおぼえありさま、来きし方かたにたぐひ少すくなくなむありける。されど、また、世よにすぐれて悲かなしきめを見みる方かたも、人ひとにはまさりけりかし。

まづは、思おもふ人ひとにさまざま後おくれ、残のこりとまれる齢よはひの末すゑにも、飽あかず悲かなしと思おもふこと多おほく、あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしくもの思おもはしく、心こころに飽あかずおぼゆること添そひたる身みにて過すぎぬれば、それに代かへてや、思おもひしほどよりは、今いままでもながらふるならむとなむ、思おもひ知しらるる。

君きみの御身おほんみには、かの一ひと節ふしの別わかれより、あなたこなた、もの思おもひとて、心こころ乱みだりたまふばかりのことあらじとなむ思おもふ。后きさきといひ、ましてそれより次々つぎつぎは、やむごとなき人ひとといへど、皆みなかならずやすからぬもの思おもひ添そふわざなり。

高たかき交まじらひにつけても、心こころ乱みだれ、人ひとに争あらそふ思おもひの絶たえぬも、やすげなきを、親おやの窓まどのうちながら過すぐしたまへるやうなる心こころやすきことはなし。そのかた、人ひとにすぐれたりける宿世すくせとは思おぼし知しるや。

思おもひの外ほかに、この宮みやのかく渡わたりものしたまへるこそは、なま苦くるしかるべけれど、それにつけては、いとど加くはふる心こころざしのほどを、御おほんみづからの上うへなれば、思おぼし知しらずやあらむ。ものの心こころも深ふかく知しりたまふめれば、さりともとなむ思おもふ」

 と聞きこえたまへば、

「のたまふやうに、ものはかなき身みには、過すぎにたるよそのおぼえはあらめど、心こころに堪たへぬもの嘆なげかしさのみうち添そふや、さはみづからの祈いのりなりける」

 とて、残のこり多おほげなるけはひ、恥はづかしげなり。

「まめやかには、いと行ゆく先さき少すくなき心地ここちするを、今年ことしもかく知しらず顔がほにて過すぐすは、いとうしろめたくこそ。さきざきも聞きこゆること、いかで御許おほんゆるしあらば」

 と聞きこえたまふ。

「それはしも、あるまじきことになむ。さて、かけ離はなれたまひなむ世よに残のこりては、何なにのかひかあらむ。ただかく何なにとなくて過すぐる年月としつきなれど、明あけ暮くれの隔へだてなきうれしさのみこそ、ますことなくおぼゆれ。なほ思おもふさま異ことなる心こころのほどを見果みはてたまへ」

 とのみ聞きこえたまふを、例れいのことと心こころやましくて、涙なみだぐみたまへるけしきを、いとあはれと見みたてまつりたまひて、よろづに聞きこえ紛まぎらはしたまふ。

多くはあらねど

「多おほくはあらねど、人ひとのありさまの、とりどりに口惜くちをしくはあらぬを見知みしりゆくままに、まことの心こころばせおいらかに落おちゐたるこそ、いと難かたきわざなりけれとなむ、思おもひ果はてにたる。

大将だいしゃうの母君ははぎみを、幼をさなかりしほどに見みそめて、やむごとなくえ避さらぬ筋すぢには思おもひしを、常つねに仲なかよからず、隔へだてある心地ここちして止やみにしこそ、今いま思おもへば、いとほしく悔くやしくもあれ。

また、わが過あやまちにのみもあらざりけりなど、心こころひとつになむ思おもひ出いづる。うるはしく重おもりかにて、そのことの飽あかぬかなとおぼゆることもなかりき。ただ、いとあまり乱みだれたるところなく、すくすくしく、すこしさかしとやいふべかりけむと、思おもふには頼たのもしく、見みるにはわづらはしかりし人ひとざまになむ。

中宮ちうぐうの御おほん母はは御息所みやすんどころなむ、さま異ことに心深こころふかくなまめかしき例ためしには、まづ思おもひ出いでらるれど、人ひと見みえにくく、苦くるしかりしさまになむありし。怨うらむべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふしを、やがて長ながく思おもひつめて、深ふかく怨ゑんぜられしこそ、いと苦くるしかりしか。

心こころゆるびなく恥はづかしくて、我われも人ひともうちたゆみ、朝夕あさゆふの睦むつびを交かはさむには、いとつつましきところのありしかば、うちとけては見み落おとさるることやなど、あまりつくろひしほどに、やがて隔へだたりし仲なかぞかし。

いとあるまじき名なを立たちて、身みのあはあはしくなりぬる嘆なげきを、いみじく思おもひしめたまへりしがいとほしく、げに人ひとがらを思おもひしも、我われ罪つみある心地ここちして止やみにし慰なぐさめに、中宮ちうぐうをかくさるべき御契おほんちぎりとはいひながら、取とりたてて、世よのそしり、人ひとの恨うらみをも知しらず、心寄こころよせたてまつるを、かの世よながらも見直みなほされぬらむ。今いまも昔むかしも、なほざりなる心こころのすさびに、いとほしく悔くやしきことも多おほくなむ」

 と、来きし方かたの人ひとの御おほん上うへ、すこしづつのたまひ出いでて、

「内裏うちの御方おほんかたの御後見おほんうしろみは、何なにばかりのほどならずと、あなづりそめて、心こころやすきものに思おもひしを、なほ心こころの底そこ見みえず、際きはなく深ふかきところある人ひとになむ。うはべは人ひとになびき、おいらかに見みえながら、うちとけぬけしき下したに籠こもりて、そこはかとなく恥はづかしきところこそあれ」

 とのたまへば、

「異人ことびとは見みねば知しらぬを、これは、まほならねど、おのづからけしき見みる折々をりをりもあるに、いとうちとけにくく、心恥こころはづかしきありさましるきを、いとたとしへなきうらなさを、いかに見みたまふらむと、つつましけれど、女御にょうごは、おのづから思おぼし許ゆるすらむとのみ思おもひてなむ」

 とのたまふ。

 さばかりめざましと心置こころおきたまへりし人ひとを、今いまはかく許ゆるして見みえ交かはしなどしたまふも、女御にょうごの御おほんための真心まごころなるあまりぞかしと思おぼすに、いとありがたければ、

「君きみこそは、さすがに隈くまなきにはあらぬものから、人ひとにより、ことに従したがひ、いとよく二ふた筋すぢに心こころづかひはしたまひけれ。さらにここら見みれど、御おほんありさまに似にたる人ひとはなかりけり。いとけしきこそものしたまへ」

 と、ほほ笑ゑみて聞きこえたまふ。

「宮みやに、いとよく弾ひき取とりたまへりしことの喜よろこび聞きこえむ」

 とて、夕ゆふつ方かた渡わたりたまひぬ。我われに心置こころおく人ひとやあらむとも思おぼしたらず、いといたく若わかびて、ひとへに御琴おほんことに心こころ入いれておはす。

「今いまは、暇いとま許ゆるしてうち休やすませたまへかし。物ものの師しは心こころゆかせてこそ。いと苦くるしかりつる日ひごろのしるしありて、うしろやすくなりたまひにけり」

 とて、御琴おほんことどもおしやりて、大殿籠おほとのごもりぬ。

対には、例のおはしまさぬ夜は

 対たいには、例れいのおはしまさぬ夜よは、宵居よひゐしたまひて、人ひとびとに物語ものがたりなど読よませて聞ききたまふ。

「かく、世よのたとひに言いひ集あつめたる昔むかし語がたりどもにも、あだなる男をとこ、色いろ好ごのみ、二心ふたごころある人ひとにかかづらひたる女をんな、かやうなることを言いひ集あつめたるにも、つひに寄よる方かたありてこそあめれ。あやしく、浮うきても過すぐしつるありさまかな。げに、のたまひつるやうに、人ひとより異ことなる宿世すくせもありける身みながら、人ひとの忍しのびがたく飽あかぬことにするもの思おもひ離はなれぬ身みにてや止やみなむとすらむ。あぢきなくもあるかな」

 など思おもひ続つづけて、夜よ更ふけて大殿籠おほとのごもりぬる、暁方あかつきがたより、御胸おほんむねを悩なやみたまふ。人ひとびと見みたてまつり扱あつかひて、

「御消息おほんせうそこ聞きこえさせむ」

 と聞きこゆるを、

「いと便びんないこと」

 と制せいしたまひて、堪たへがたきを押おさへて明あかしたまひつ。御身おほんみもぬるみて、御心地おほんここちもいと悪あしけれど、院ゐんもとみに渡わたりたまはぬほど、かくなむとも聞きこえず。

女御の御方より御消息あるに

 女御にょうごの御方おほんかたより御消息おほんせうそこあるに、

「かく悩なやましくてなむ」

 と聞きこえたまへるに、驚おどろきて、そなたより聞きこえたまへるに、胸むねつぶれて、急いそぎ渡わたりたまへるに、いと苦くるしげにておはす。

「いかなる御心地みここちぞ」

 とて探さぐりたてまつりたまへば、いと熱あつくおはすれば、昨日きのふ聞きこえたまひし御おほんつつしみの筋すぢなど思おぼし合あはせたまひて、いと恐おそろしく思おぼさる。

 御粥おほんかゆなどこなたに参まゐらせたれど、御覧ごらんじも入いれず、日一日ひひとひ添そひおはして、よろづに見みたてまつり嘆なげきたまふ。はかなき御おほんくだものをだに、いともの憂うくしたまひて、起おき上あがりたまふこと絶たえて、日ひごろ経へぬ。

 いかならむと思おぼし騒さわぎて、御おほん祈いのりども、数かず知しらず始はじめさせたまふ。僧そう召めして、御加持おほんかぢなどせさせたまふ。そこところともなく、いみじく苦くるしくしたまひて、胸むねは時々ときどきおこりつつ患わづらひたまふさま、堪たへがたく苦くるしげなり。

 さまざまの御慎おほんつつしみ限かぎりなけれど、しるしも見みえず。重おもしと見みれど、おのづからおこたるけぢめあらば頼たのもしきを、いみじく心細こころぼそく悲かなしと見みたてまつりたまふに、異事ことごと思おぼされねば、御賀おほんがの響ひびきも静しづまりぬ。かの院ゐんよりも、かく患わづらひたまふよし聞きこし召めして、御訪おほんとぶらひいとねむごろに、たびたび聞きこえたまふ。

同じさまにて、二月も過ぎぬ

 同おなじさまにて、二月にがつも過すぎぬ。いふ限かぎりなく思おぼし嘆なげきて、試こころみに所ところを変かへたまはむとて、二条にでうの院ゐんに渡わたしたてまつりたまひつ。院ゐんの内うちゆすり満みちて、思おもひ嘆なげく人ひと多おほかり。

 冷泉院れいぜいゐんも聞きこし召めし嘆なげく。この人ひと亡うせたまはば、院ゐんも、かならず世よを背そむく御おほん本意ほい遂とげたまひてむと、大将だいしゃうの君きみなども、心こころを尽つくして見みたてまつり扱あつかひたまふ。

 御修法みすほふなどは、おほかたのをばさるものにて、取とり分わきて仕つかうまつらせたまふ。いささかもの思おぼし分わく隙ひまには、

「聞きこゆることを、さも心憂こころうく」

 とのみ恨うらみきこえたまへど、限かぎりありて別わかれ果はてたまはむよりも、目めの前まへに、わが心こころとやつし捨すてたまはむ御おほんありさまを見みては、さらに片かた時とき堪たふまじくのみ、惜をしく悲かなしかるべければ、

「昔むかしより、みづからぞかかる本意ほい深ふかきを、とまりてさうざうしく思おぼされむ心苦こころぐるしさに引ひかれつつ過すぐすを、さかさまにうち捨すてたまはむとや思おぼす」

 とのみ、惜をしみきこえたまふに、げにいと頼たのみがたげに弱よわりつつ、限かぎりのさまに見みえたまふ折々をりをり多おほかるを、いかさまにせむと思おぼし惑まどひつつ、宮みやの御方おほんかたにも、あからさまに渡わたりたまはず。御琴おほんことどももすさまじくて、皆みな引ひき籠こめられ、院ゐんの内うちの人ひとびとは、皆みなある限かぎり二条にでうの院ゐんに集つどひ参まゐりて、この院ゐんには、火ひを消けちたるやうにて、ただ女をんなどちおはして、人ひとひとりの御おほんけはひなりけりと見みゆ。

女御の君も渡りたまひて

 女御にょうごの君きみも渡わたりたまひて、もろともに見みたてまつり扱あつかひたまふ。

「ただにもおはしまさで、もののけなどいと恐おそろしきを、早はやく参まゐりたまひね」

 と、苦くるしき御心地みここちにも聞きこえたまふ。若わか宮みやの、いとうつくしうておはしますを見みたてまつりたまひても、いみじく泣なきたまひて、

「おとなびたまはむを、え見みたてまつらずなりなむこと。忘わすれたまひなむかし」

 とのたまへば、女御にょうご、せきあへず悲かなしと思おぼしたり。

「ゆゆしく、かくな思おぼしそ。さりともけしうはものしたまはじ。心こころによりなむ、人ひとはともかくもある。おきて広ひろきうつはものには、幸さいはひもそれに従したがひ、狭せばき心こころある人ひとは、さるべきにて、高たかき身みとなりても、ゆたかにゆるべる方かたは後おくれ、急きふなる人ひとは、久ひさしく常つねならず、心こころぬるくなだらかなる人ひとは、長ながき例ためしなむ多おほかりける」

 など、仏ほとけ神かみにも、この御心みこころばせのありがたく、罪つみ軽かろきさまを申まうし明あきらめさせたまふ。

 御修法みすほふの阿闍梨あざりたち、夜居よゐなどにても、近ちかくさぶらふ限かぎりのやむごとなき僧そうなどは、いとかく思おぼし惑まどへる御おほんけはひを聞きくに、いといみじく心苦こころぐるしければ、心こころを起おこして祈いのりきこゆ。すこしよろしきさまに見みえたまふ時とき、五いつか、六日むいかうちまぜつつ、また重おもりわづらひたまふこと、いつとなくて月日つきひを経へたまへば、「なほ、いかにおはすべきにか。よかるまじき御心地みここちにや」と、思おぼし嘆なげく。

 御おほんもののけなど言いひて出いで来くるもなし。悩なやみたまふさま、そこはかと見みえず、ただ日ひに添そへて、弱よわりたまふさまにのみ見みゆれば、いともいとも悲かなしくいみじく思おぼすに、御心みこころの暇いとまもなげなり。

まことや、衛門督は

 まことや、衛門督ゑもんのかみは、中納言ちうなごんになりにきかし。今いまの御世みよには、いと親したしく思おぼされて、いと時ときの人ひとなり。身みのおぼえまさるにつけても、思おもふことのかなはぬ愁うれはしさを思おもひわびて、この宮みやの御姉おほんあねの二にの宮みやをなむ得えたてまつりてける。下臈げらふの更衣かうい腹ばらにおはしましければ、心こころやすき方かたまじりて思おもひきこえたまへり。

 人柄ひとがらも、なべての人ひとに思おもひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、もとよりしみにし方かたこそなほ深ふかかりけれ、慰なぐさめがたき姨捨をばすてにて、人目ひとめに咎とがめらるまじきばかりに、もてなしきこえたまへり。

 なほ、かの下したの心こころ忘わすられず、小侍従こじじうといふ語かたらひ人びとは、宮みやの御おほん侍従じじうの乳母めのとの娘むすめなりけり。その乳母めのとの姉あねぞ、かの督かみの君きみの御乳母おほんめのとなりければ、早はやくより気近けぢかく聞ききたてまつりて、まだ宮みや幼をさなくおはしましし時ときより、いときよらになむおはします、帝みかどのかしづきたてまつりたまふさまなど、聞ききおきたてまつりて、かかる思おもひもつきそめたるなりけり。

かくて、院も離れおはしますほど

 かくて、院ゐんも離はなれおはしますほど、人目ひとめ少すくなくしめやかならむを推おし量はかりて、小侍従こじじうを迎むかへ取とりつつ、いみじう語かたらふ。

「昔むかしより、かく命いのちも堪たふまじく思おもふことを、かかる親したしきよすがありて、御おほんありさまを聞きき伝つたへ、堪たへぬ心こころのほどをも聞きこし召めさせて、頼たのもしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじくなむつらき。

院ゐんの上うへだに、かくあまたにかけかけしくて、人ひとに圧おされたまふやうにて、一人ひとり大殿籠おほとのごもる夜よな夜よな多おほく、つれづれにて過すぐしたまふなりなど、人ひとの奏そうしけるついでにも、すこし悔くい思おぼしたる御みけしきにて、

同おなじくは、ただ人うどの心こころやすき後見うしろみを定さだめむには、まめやかに仕つかうまつるべき人ひとをこそ、定さだむべかりけれと、のたまはせて、女をんな二にの宮みやの、なかなかうしろやすく、行ゆく末すゑ長ながきさまにてものしたまふなること

と、のたまはせけるを伝つたへ聞ききしに。いとほしくも、口惜くちをしくも、いかが思おもひ乱みだるる。

げに、同おなじ御筋すぢとは尋たづねきこえしかど、それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ」

 と、うちうめきたまへば、小侍従こじじう、

「いで、あな、おほけな。それをそれとさし置おきたてまつりたまひて、また、いかやうに限かぎりなき御心みこころならむ」

 と言いへば、うちほほ笑ゑみて、

「さこそはありけれ。宮みやにかたじけなく聞きこえさせ及およびけるさまは、院ゐんにも内裏うちにも聞きこし召めしけり。などてかは、さてもさぶらはざらましとなむ、ことのついでにはのたまはせける。いでや、ただ、今いますこしの御おほんいたはりあらましかば」

 など言いへば、

「いと難かたき御おほんことなりや。御宿世おほんすくせとかいふことはべなるを、もとにて、かの院ゐんの言こと出いでてねむごろに聞きこえたまふに、立たち並ならび妨さまたげきこえさせたまふべき御身おほんみのおぼえとや思おぼされし。このころこそ、すこしものものしく、御衣おほんぞの色いろも深ふかくなりたまへれ」

 と言いへば、いふかひなくはやりかなる口強くちごはさに、え言いひ果はてたまはで、

「今いまはよし。過すぎにし方かたをば聞きこえじや。ただ、かくありがたきものの隙ひまに、気近けぢかきほどにて、この心こころのうちに思おもふことの端はし、すこし聞きこえさせつべくたばかりたまへ。おほけなき心こころは、すべて、よし見みたまへ、いと恐おそろしければ、思おもひ離はなれてはべり」

 とのたまへば、

「これよりおほけなき心こころは、いかがはあらむ。いとむくつけきことをも思おぼし寄よりけるかな。何なにしに参まゐりつらむ」

 と、はちふく。

いで、あな、聞きにく

「いで、あな、聞ききにく。あまりこちたくものをこそ言いひなしたまふべけれ。世よはいと定さだめなきものを、女御にょうご、后きさきも、あるやうありて、ものしたまふたぐひなくやは。まして、その御おほんありさまよ。思おもへば、いとたぐひなくめでたけれど、うちうちは心こころやましきことも多おほかるらむ。

院ゐんの、あまたの御中おほんなかに、また並ならびなきやうにならはしきこえたまひしに、さしもひとしからぬ際きはの御方々おほんかたがたにたち混まじり、めざましげなることもありぬべくこそ。いとよく聞ききはべりや。世よの中なかはいと常つねなきものを、ひときはに思おもひ定さだめて、はしたなく、突つき切きりなることなのたまひそよ」

 とのたまへば、

「人ひとに落おとされたまへる御おほんありさまとて、めでたき方かたに改あらためたまふべきにやははべらむ。これは世よの常つねの御おほんありさまにもはべらざめり。ただ、御後見おほんうしろみなくて漂ただよはしくおはしまさむよりは、親おやざまに、と譲ゆづりきこえたまひしかば、かたみにさこそ思おもひ交かはしきこえさせたまひためれ。あいなき御おほん落おとしめ言ごとになむ」

 と、果はて果はては腹立はらだつを、よろづに言いひこしらへて、

「まことは、さばかり世よになき御おほんありさまを見みたてまつり馴なれたまへる御心みこころに、数かずにもあらずあやしきなれ姿すがたを、うちとけて御覧ごらんぜられむとは、さらに思おもひかけぬことなり。ただ一言ひとこと、物越ものごしにて聞きこえ知しらすばかりは、何なにばかりの御身おほんみのやつれにかはあらむ。神かみ仏ほとけにも思おもふこと申まうすは、罪つみあるわざかは」

 と、いみじき誓ちか言ごとをしつつのたまへば、しばしこそ、いとあるまじきことに言いひ返かへしけれ、もの深ふかからぬ若人わかうどは、人ひとのかく身みに代かへていみじく思おもひのたまふを、え否いなび果はてで、

「もし、さりぬべき隙ひまあらば、たばかりはべらむ。院ゐんのおはしまさぬ夜よは、御帳みちゃうのめぐりに人ひと多おほくさぶらひて、御座おましのほとりに、さるべき人ひとかならずさぶらひたまへば、いかなる折をりをかは、隙ひまを見みつけはべるべからむ」

 と、わびつつ参まゐりぬ。

いかに、いかにと

 いかに、いかにと、日々ひびに責せめられ極こうじて、さるべき折をりうかがひつけて、消息せうそこしおこせたり。喜よろこびながら、いみじくやつれ忍しのびておはしぬ。

 まことに、わが心こころにもいとけしからぬことなれば、気近けぢかく、なかなか思おもひ乱みだるることもまさるべきことまでは、思おもひも寄よらず、ただ、

「いとほのかに御衣おほんぞのつまばかりを見みたてまつりし春はるの夕ゆふべの、飽あかず世よとともに思おもひ出いでられたまふ御おほんありさまを、すこし気近けぢかくて見みたてまつり、思おもふことをも聞きこえ知しらせては、一行ひとくだりの御返おほんかへりなどもや見みせたまふ、あはれとや思おぼし知しる」

 とぞ思おもひける。

 四月しがつ十余日じふよにちばかりのことなり。御禊みそぎ明日あすとて、斎院さいゐんにたてまつりたまふ女房にょうばう十二じふに人にん、ことに上臈じゃうらふにはあらぬ若わかき人ひと、童女わらはべなど、おのがじしもの縫ぬひ、化粧けさうなどしつつ、物見ものみむと思おもひまうくるも、とりどりに暇いとまなげにて、御前おまへの方かたしめやかにて、人ひとしげからぬ折をりなりけり。

 近ちかくさぶらふ按察使あぜちの君きみも、時々ときどき通かよふ源中将げんちうじゃう、責せめて呼よび出いださせければ、下おりたる間まに、ただこの侍従じじうばかり、近ちかくはさぶらふなりけり。よき折をりと思おもひて、やをら御帳みちゃうの東面ひむがしおもての御座おましの端はしに据すゑつ。さまでもあるべきことなりやは。

宮は、何心もなく大殿籠もりにけるを

 宮みやは、何心なにごころもなく大殿籠おほとのごもりにけるを、近ちかく男をとこのけはひのすれば、院ゐんのおはすると思おぼしたるに、うちかしこまりたるけしき見みせて、床ゆかの下しもに抱いだき下おろしたてまつるに、物ものに襲おそはるるかと、せめて見上みあげたまへれば、あらぬ人ひとなりけり。

 あやしく聞ききも知しらぬことどもをぞ聞きこゆるや。あさましくむくつけくなりて、人ひと召めせど、近ちかくもさぶらはねば、聞ききつけて参まゐるもなし。わななきたまふさま、水みづのやうに汗あせも流ながれて、ものもおぼえたまはぬけしき、いとあはれにらうたげなり。

「数かずならねど、いとかうしも思おぼし召めさるべき身みとは、思おもうたまへられずなむ。

昔むかしよりおほけなき心こころのはべりしを、ひたぶるに籠こめて止やみはべなましかば、心こころのうちに朽くたして過すぎぬべかりけるを、なかなか、漏もらしきこえさせて、院ゐんにも聞きこし召めされにしを、こよなくもて離はなれてものたまはせざりけるに、頼たのみをかけそめはべりて、身みの数かずならぬひときはに、人ひとより深ふかき心こころざしを空むなしくなしはべりぬることと、動うごかしはべりにし心こころなむ、よろづ今いまはかひなきことと思おもうたまへ返かへせど、いかばかりしみはべりにけるにか、年月としつきに添そへて、口惜くちをしくも、つらくも、むくつけくも、あはれにも、いろいろに深ふかく思おもうたまへまさるに、せきかねて、かくおほけなきさまを御覧ごらんぜられぬるも、かつは、いと思おもひやりなく恥はづかしければ、罪つみ重おもき心こころもさらにはべるまじ」

 と言いひもてゆくに、この人ひとなりけりと思おぼすに、いとめざましく恐おそろしくて、つゆいらへもしたまはず。

「いとことわりなれど、世よに例ためしなきことにもはべらぬを、めづらかに情なさけなき御心みこころばへならば、いと心憂こころうくて、なかなかひたぶるなる心こころもこそつきはべれ、あはれとだにのたまはせば、それをうけたまはりてまかでなむ」

 と、よろづに聞きこえたまふ。

よその思ひやりはいつくしく

 よその思おもひやりはいつくしく、もの馴なれて見みえたてまつらむも恥はづかしく推おし量はかられたまふに、「ただかばかり思おもひつめたる片端かたはし聞きこえ知しらせて、なかなかかけかけしきことはなくて止やみなむ」と思おもひしかど、いとさばかり気高けだかう恥はづかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見みえたまふ御おほんけはひの、あてにいみじくおぼゆることぞ、人ひとに似にさせたまはざりける。

 賢さかしく思おもひ鎮しづむる心こころも失うせて、「いづちもいづちも率ゐて隠かくしたてまつりて、わが身みも世よに経ふるさまならず、跡あと絶たえて止やみなばや」とまで思おもひ乱みだれぬ。

 ただいささかまどろむともなき夢ゆめに、この手て馴ならしし猫ねこの、いとらうたげにうち鳴なきて来きたるを、この宮みやにたてまつらむとて、わが率ゐて来きたるとおぼしきを、何なにしにたてまつりつらむと思おもふほどに、おどろきて、いかに見みえつるならむ、と思おもふ。

 宮みやは、いとあさましく、うつつともおぼえたまはぬに、胸むねふたがりて、思おぼしおぼほるるを、

「なほ、かく逃のがれぬ御宿世おほんすくせの、浅あさからざりけると思おもほしなせ。みづからの心こころながらも、うつし心ごころにはあらずなむ、おぼえはべる」

 かのおぼえなかりし御簾みすのつまを、猫ねこの綱つな引ひきたりし夕ゆふべのことも聞きこえ出いでたり。

「げに、さはたありけむよ」

 と、口惜くちをしく、契ちぎり心憂こころうき御身おほんみなりけり。「院ゐんにも、今いまはいかでかは見みえたてまつらむ」と、悲かなしく心細こころぼそくて、いと幼をさなげに泣なきたまふを、いとかたじけなく、あはれと見みたてまつりて、人ひとの御おほん涙なみだをさへ拭のごふ袖そでは、いとど露つゆけさのみまさる。

明けゆくけしきなるに

 明あけゆくけしきなるに、出いでむ方かたなく、なかなかなり。

「いかがはしはべるべき。いみじく憎にくませたまへば、また聞きこえさせむこともありがたきを、ただ一言ひとこと御声おほんこゑを聞きかせたまへ」

 と、よろづに聞きこえ悩なやますも、うるさくわびしくて、もののさらに言いはれたまはねば、

「果はて果はては、むくつけくこそなりはべりぬれ。また、かかるやうはあらじ」

 と、いと憂うしと思おもひきこえて、

「さらば不用ふようなめり。身みをいたづらにやはなし果はてぬ。いと捨すてがたきによりてこそ、かくまでもはべれ。今宵こよひに限かぎりはべりなむもいみじくなむ。つゆにても御心みこころゆるしたまふさまならば、それに代かへつるにても捨すてはべりなまし」

 とて、かき抱いだきて出いづるに、果はてはいかにしつるぞと、あきれて思おぼさる。

 隅すみの間まの屏風びゃうぶをひき広ひろげて、戸とを押おし開あけたれば、渡殿わたどのの南みなみの戸との、昨夜よべ入いりしがまだ開あきながらあるに、まだ明あけぐれのほどなるべし、ほのかに見みたてまつらむの心こころあれば、格子かうしをやをら引ひき上あげて、

「かう、いとつらき御心みこころに、うつし心ごころも失うせはべりぬ。すこし思おもひのどめよと思おぼされば、あはれとだにのたまはせよ」

 と、脅おどしきこゆるを、いとめづらかなりと思おぼして物ものも言いはむとしたまへど、わななかれて、いと若々わかわかしき御おほんさまなり。

 ただ明あけに明あけゆくに、いと心こころあわたたしくて、

「あはれなる夢語ゆめがたりも聞きこえさすべきを、かく憎にくませたまへばこそ。さりとも、今いま思おぼし合あはすることもはべりなむ」

 とて、のどかならず立たち出いづる明あけぐれ、秋あきの空そらよりも心尽こころづくしなり。

「起おきてゆく空そらも知しられぬ明あけぐれにいづくの露つゆのかかる袖そでなり」

 と、ひき出いでて愁うれへきこゆれば、出いでなむとするに、すこし慰なぐさめたまひて、

「明あけぐれの空そらに憂うき身みは消きえななむ夢ゆめなりけりと見みてもやむべく」

 と、はかなげにのたまふ声こゑの、若わかくをかしげなるを、聞ききさすやうにて出いでぬる魂たましひは、まことに身みを離はなれて止とまりぬる心地ここちす。

女宮の御もとにも参うでたまはで

 女をんな宮みやの御おほんもとにも参まうでたまはで、大殿おほとのへぞ忍しのびておはしぬる。うち臥ふしたれど目めも合あはず、見みつる夢ゆめのさだかに合あはむことも難かたきをさへ思おもふに、かの猫ねこのありしさま、いと恋こひしく思おもひ出いでらる。

「さてもいみじき過あやまちしつる身みかな。世よにあらむことこそ、まばゆくなりぬれ」

 と、恐おそろしくそら恥はづかしき心地ここちして、ありきなどもしたまはず。女をんなの御おほんためはさらにもいはず、わが心地ここちにもいとあるまじきことといふ中なかにも、むくつけくおぼゆれば、思おもひのままにもえ紛まぎれありかず。

 帝みかどの御み妻めをも取とり過あやまちて、ことの聞きこえあらむに、かばかりおぼえむことゆゑは、身みのいたづらにならむ、苦くるしくおぼゆまじ。しか、いちじるき罪つみにはあたらずとも、この院ゐんに目めをそばめられたてまつらむことは、いと恐おそろしく恥はづかしくおぼゆ。

 限かぎりなき女をんなと聞きこゆれど、すこし世よづきたる心こころばへ混まじり、上うへはゆゑあり子こめかしきにも、従したがはぬ下したの心こころ添そひたるこそ、とあることかかることにうちなびき、心こころ交かはしたまふたぐひもありけれ、これは深ふかき心こころもおはせねど、ひたおもむきにもの懼おぢしたまへる御心みこころに、ただ今いましも、人ひとの見聞みききつけたらむやうに、まばゆく、恥はづかしく思おぼさるれば、明あかき所ところにだにえゐざり出いでたまはず。いと口惜くちをしき身みなりけりと、みづから思おぼし知しるべし。

 悩なやましげになむ、とありければ、大殿おとど聞ききたまひて、いみじく御心みこころを尽つくしたまふ御おほん事ことにうち添そへて、またいかにと驚なげかせたまひて、渡わたりたまへり。

 そこはかと苦くるしげなることも見みえたまはず、いといたく恥はぢらひしめりて、さやかにも見合みあはせたてまつりたまはぬを、「久ひさしくなりぬる絶たえ間まを恨うらめしく思おぼすにや」と、いとほしくて、かの御心地みここちのさまなど聞きこえたまひて、

「今いまはのとぢめにもこそあれ。今いまさらにおろかなるさまを見みえおかれじとてなむ。いはけなかりしほどより扱あつかひそめて、見放みはなちがたければ、かう月つきごろよろづを知しらぬさまに過すぐしはべるぞ。おのづから、このほど過すぎば、見直みなほしたまひてむ」

 など聞きこえたまふ。かくけしきも知しりたまはぬも、いとほしく心苦こころぐるしく思おぼされて、宮みやは人ひと知しれず涙なみだぐましく思おぼさる。

督の君は、まして

 督かみの君きみは、まして、なかなかなる心地ここちのみまさりて、起おき臥ふし明あかし暮くらしわびたまふ。祭まつりの日ひなどは、物見ものみに争あらそひ行ゆく君達きむだちかき連つれ来きて言いひそそのかせど、悩なやましげにもてなして、眺ながめ臥ふしたまへり。

 女をんな宮みやをば、かしこまりおきたるさまにもてなしきこえて、をさをさうちとけても見みえたてまつりたまはず、わが方かたに離はなれゐて、いとつれづれに心細こころぼそく眺ながめゐたまへるに、童わらはべの持もたる葵あふひを見みたまひて、

「悔くやしくぞ摘つみ犯をかしける葵草あふひぐさ神かみの許ゆるせるかざしならぬに」

 と思おもふも、いとなかなかなり。

 世よの中なか静しづかならぬ車くるまの音おとなどを、よそのことに聞ききて、人ひとやりならぬつれづれに、暮くらしがたくおぼゆ。

 女をんな宮みやも、かかるけしきのすさまじげさも見知みしられたまへば、何事なにごととは知しりたまはねど、恥はづかしくめざましきに、もの思おもはしくぞ思おぼされける。

 女房にょうばうなど、物見ものみに皆みな出いでて、人少ひとずくなにのどやかなれば、うち眺ながめて、箏さうの琴ことなつかしく弾ひきまさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれど、「同おなじくは今いまひと際きは及およばざりける宿世すくせよ」と、なほおぼゆ。

「もろかづら落葉おちばを何なにに拾ひろひけむ名なは睦むつましきかざしなれども」

 と書かきすさびゐたる、いとなめげなるしりう言ごとなりかし。

大殿の君は、まれまれ渡りたまひて

 大殿おとどの君きみは、まれまれ渡わたりたまひて、えふとも立たち帰かへりたまはず、静心しづごころなく思おぼさるるに、

「絶たえ入いりたまひぬ」

 とて、人ひと参まゐりたれば、さらに何事なにごとも思おぼし分わかれず、御心みこころも暮くれて渡わたりたまふ。道みちのほどの心こころもとなきに、げにかの院ゐんは、ほとりの大路おほぢまで人ひと立たち騒さわぎたり。殿とののうち泣なきののしるけはひ、いとまがまがし。我われにもあらで入いりたまへれば、

「日ひごろは、いささか隙ひま見みえたまへるを、にはかになむ、かくおはします」

 とて、さぶらふ限かぎりは、我われも後おくれたてまつらじと、惑まどふさまども、限かぎりなし。御修法みすほふどもの檀だんこぼち、僧そうなども、さるべき限かぎりこそまかでね、ほろほろと騒さわぐを見みたまふに、「さらば限かぎりにこそは」と思おぼし果はつるあさましさに、何事なにごとかはたぐひあらむ。

「さりとも、もののけのするにこそあらめ。いと、かくひたぶるにな騷さわぎそ」

 と鎮しづめたまひて、いよいよいみじき願ぐわんどもを立たて添そへさせたまふ。すぐれたる験者げんざどもの限かぎり召めし集あつめて、

「限かぎりある御おほん命いのちにて、この世よ尽つきたまひぬとも、ただ、今いましばしのどめたまへ。不動尊ふどうそんの御おほん本もとの誓ちかひあり。その日数ひかずをだに、かけ止とどめたてまつりたまへ」

 と、頭かしらよりまことに黒くろ煙けぶりを立たてて、いみじき心こころを起おこして加持かぢしたてまつる。院ゐんも、

「ただ、今いま一度ひとたび目めを見合みあはせたまへ。いとあへなく限かぎりなりつらむほどをだに、え見みずなりにけることの、悔くやしく悲かなしきを」

 と思おぼし惑まどへるさま、止とまりたまふべきにもあらぬを、見みたてまつる心地ここちども、ただ推おし量はかるべし。いみじき御心みこころのうちを、仏ほとけも見みたてまつりたまふにや、月つきごろさらに現あらはれ出いで来こぬもののけ、小ちひさき童女わらはに移うつりて、呼よばひののしるほどに、やうやう生いき出いでたまふに、うれしくもゆゆしくも思おぼし騒さわがる。

いみじく調ぜられて

 いみじく調てうぜられて、

「人ひとは皆みな去さりね。院ゐん一所ひとところの御耳おほんみみに聞きこえむ。おのれを月つきごろ調てうじわびさせたまふが、情なさけなくつらければ、同おなじくは思おぼし知しらせむと思おもひつれど、さすがに命いのちも堪たふまじく、身みを砕くだきて思おぼし惑まどふを見みたてまつれば、今いまこそ、かくいみじき身みを受うけたれ、いにしへの心こころの残のこりてこそ、かくまでも参まゐり来きたるなれば、ものの心苦こころぐるしさをえ見過みすぐさで、つひに現あらはれぬること。さらに知しられじと思おもひつるものを」

 とて、髪かみを振ふりかけて泣なくけはひ、ただ昔むかし見みたまひしもののけのさまと見みえたり。あさましく、むくつけしと、思おぼししみにしことの変かはらぬもゆゆしければ、この童女わらはの手てをとらへて、引ひき据すゑて、さま悪あしくもせさせたまはず。

「まことにその人ひとか。よからぬ狐きつねなどいふなるものの、たぶれたるが、亡なき人ひとの面伏おもてぶせなること言いひ出いづるもあなるを、たしかなる名なのりせよ。また人ひとの知しらざらむことの、心こころにしるく思おもひ出いでられぬべからむを言いへ。さてなむ、いささかにても信しんずべき」

 とのたまへば、ほろほろといたく泣なきて、

「わが身みこそあらぬさまなれそれながらそらおぼれする君きみは君きみなり

いとつらし、いとつらし」

 と泣なき叫さけぶものから、さすがにもの恥はぢしたるけはひ、変かはらず、なかなかいと疎うとましく、心憂こころうければ、もの言いはせじと思おぼす。

「中宮ちうぐうの御おほん事ことにても、いとうれしくかたじけなしとなむ、天翔あまがけりても見みたてまつれど、道みち異ことになりぬれば、子この上うへまでも深ふかくおぼえぬにやあらむ、なほ、みづからつらしと思おもひきこえし心こころの執しふなむ、止とまるものなりける。

その中なかにも、生いきての世よに、人ひとより落おとして思おぼし捨すてしよりも、思おもふどちの御物語おほんものがたりのついでに、心こころ善よからず憎にくかりしありさまをのたまひ出いでたりしなむ、いと恨うらめしく。今いまはただ亡なきに思おぼし許ゆるして、異人ことびとの言いひ落おとしめむをだに、はぶき隠かくしたまへとこそ思おもへ、とうち思おもひしばかりに、かくいみじき身みのけはひなれば、かく所狭ところせきなり。

この人ひとを、深ふかく憎にくしと思おもひきこゆることはなけれど、守まもり強つよく、いと御おほんあたり遠とほき心地ここちして、え近ちかづき参まゐらず、御声おほんこゑをだにほのかになむ聞ききはべる。

よし、今いまは、この罪つみ軽かろむばかりのわざをせさせたまへ。修法すほふ、読経どきゃうとののしることも、身みには苦くるしくわびしき炎ほのほとのみまつはれて、さらに尊たふときことも聞きこえねば、いと悲かなしくなむ。

中宮ちうぐうにも、このよしを伝つたへ聞きこえたまへ。ゆめ御宮仕おほんみやづかへのほどに、人ひとときしろひ嫉そねむ心こころつかひたまふな。斎宮さいぐうにおはしまししころほひの御おほん罪つみ軽かるむべからむ功徳くどくのことを、かならずせさせたまへ。いと悔くやしきことになむありける」

 など、言いひ続つづくれど、もののけに向むかひて物語ものがたりしたまはむも、かたはらいたければ、封ふんじ込こめて、上うへをば、また異方ことかたに、忍しのびて渡わたしたてまつりたまふ。

かく亡せたまひにけりといふこと

 かく亡うせたまひにけりといふこと、世よの中なかに満みちて、御弔おほんとぶらひに聞きこえたまふ人ひとびとあるを、いとゆゆしく思おぼす。今日けふの帰かへさ見みに出いでたまひける上達部かむだちめなど、帰かへりたまふ道みちに、かく人ひとの申まうせば、

「いといみじきことにもあるかな。生いけるかひありつる幸さいはひ人びとの、光ひかり失うしなふ日ひにて、雨あめはそほ降ふるなりけり」

 と、うちつけ言ごとしたまふ人ひともあり。また、

「かく足たらひぬる人ひとは、かならずえ長ながからぬことなり。何なにを桜さくらにといふ古言ふることもあるは。かかる人ひとの、いとど世よにながらへて、世よの楽たのしびを尽つくさば、かたはらの人ひと苦くるしからむ。今いまこそ、二品にほんの宮みやは、もとの御おほんおぼえ現あらはれたまはめ。いとほしげに圧おされたりつる御おほんおぼえを」

 など、うちささめきけり。

 衛門督ゑもんのかみ、昨日きのふ暮くらしがたかりしを思おもひて、今日けふは、御弟おほんおとうとども、左大弁さだいべん、藤宰相とうさいしゃうなど、奥おくの方かたに乗のせて見みたまひけり。かく言いひあへるを聞きくにも、胸むねうちつぶれて、

「何なにか憂うき世よに久ひさしかるべき」

 と、うち誦ずじ独ひとりごちて、かの院ゐんへ皆みな参まゐりたまふ。たしかならぬことなればゆゆしくや、とて、ただおほかたの御訪おほんとぶらひに参まゐりたまへるに、かく人ひとの泣なき騒さわげば、まことなりけりと、立たち騷さわぎたまへり。

 式部卿宮しきぶきゃうのみやも渡わたりたまひて、いといたく思おぼしほれたるさまにてぞ入いりたまふ。人ひとの御消息おほんせうそこも、え申まうし伝つたへたまはず。大将だいしゃうの君きみ、涙なみだを拭のごひて立たち出いでたまへるに、

「いかに、いかに。ゆゆしきさまに人ひとの申まうしつれば、信しんじがたきことにてなむ。ただ久ひさしき御悩おほんなやみをうけたまはり嘆なげきて参まゐりつる」

 などのたまふ。

「いと重おもくなりて、月日つきひ経へたまへるを、この暁あかつきより絶たえ入いりたまへりつるを、もののけのしたるになむありける。やうやう生いき出いでたまふやうに聞ききなしはべりて、今いまなむ皆人みなひと心こころ静しづむめれど、まだいと頼たのもしげなしや。心苦こころぐるしきことにこそ」

 とて、まことにいたく泣なきたまへるけしきなり。目めもすこし腫はれたり。衛門督ゑもんのかみ、わがあやしき心こころならひにや、この君きみの、いとさしも親したしからぬ継母ままははの御おほんことを、いたく心こころしめたまへるかな、と目めをとどむ。

 かく、これかれ参まゐりたまへるよし聞きこし召めして、

「重おもき病者びゃうじゃの、にはかにとぢめつるさまなりつるを、女房にょうばうなどは、心こころもえ収をさめず、乱みだりがはしく騷さわぎはべりけるに、みづからもえのどめず、心こころあわたたしきほどにてなむ。ことさらになむ、かくものしたまへるよろこびは聞きこゆべき」

 とのたまへり。督かみの君きみは胸むねつぶれて、かかる折をりのらうらうならずはえ参まゐるまじく、けはひ恥はづかしく思おもふも、心こころのうちぞ腹はらぎたなかりける。

かく生き出でたまひての後しも

 かく生いき出いでたまひての後のちしも、恐おそろしく思おぼして、またまた、いみじき法ほふどもを尽つくして加くはへ行おこなはせたまふ。

 うつし人びとにてだに、むくつけかりし人ひとの御おほんけはひの、まして世よ変かはり、妖あやしきもののさまになりたまへらむを思おぼしやるに、いと心憂こころうければ、中宮ちうぐうを扱あつかひきこえたまふさへぞ、この折をりはもの憂うく、言いひもてゆけば、女をんなの身みは、皆みな同おなじ罪つみ深ふかきもとゐぞかしと、なべての世よの中なか厭いとはしく、かの、また人ひとも聞きかざりし御仲おほんなかの睦物語むつものがたりに、すこし語かたり出いでたまへりしことを言いひ出いでたりしに、まことと思おぼし出いづるに、いとわづらはしく思おぼさる。

 御髪みぐし下おろしてむと切せちに思おぼしたれば、忌いむことの力ちからもやとて、御頂おほんいただきしるしばかり挟はさみて、五戒ごかいばかり受うけさせたてまつりたまふ。御戒ごかいの師し、忌いむことのすぐれたるよし、仏ほとけに申まうすにも、あはれに尊たふときこと混まじりて、人悪ひとわるく御おほんかたはらに添そひゐて、涙なみだおし拭のごひたまひつつ、仏ほとけを諸心もろごころに念ねんじきこえたまふさま、世よにかしこくおはする人ひとも、いとかく御心みこころ惑まどふことにあたりては、え静しづめたまはぬわざなりけり。

 いかなるわざをして、これを救すくひかけとどめたてまつらむとのみ、夜よる昼ひる思おぼし嘆なげくに、ほれぼれしきまで、御顔おほんかほもすこし面痩おもやせたまひにたり。

五月などは、まして

 五月ごがつなどは、まして、晴はれ晴ばれしからぬ空そらのけしきに、えさはやぎたまはねど、ありしよりはすこし良よろしきさまなり。されど、なほ絶たえず悩なやみわたりたまふ。

 もののけの罪つみ救すくふべきわざ、日ひごとに法華経ほけきゃう一部いちぶづつ供養くやうぜさせたまふ。日ひごとに何なにくれと尊たふときわざせさせたまふ。御枕上おほんまくらがみ近ちかくても、不断ふだんの御読経みどきゃう、声こゑ尊たふとき限かぎりして読よませたまふ。現あらはれそめては、折々をりをり悲かなしげなることどもを言いへど、さらにこのもののけ去さり果はてず。

 いとど暑あつきほどは、息いきも絶たえつつ、いよいよのみ弱よわりたまへば、いはむかたなく思おぼし嘆なげきたり。なきやうなる御心地みここちにも、かかる御みけしきを心苦こころぐるしく見みたてまつりたまひて、

「世よの中なかに亡なくなりなむも、わが身みにはさらに口惜くちをしきこと残のこるまじけれど、かく思おぼし惑まどふめるに、空むなしく見みなされたてまつらむが、いと思おもひ隈くまなかるべければ」思おもひ起おこして、御湯おほんゆなどいささか参まゐるけにや、六月ろくがつになりてぞ、時々ときどき御頭みぐしもたげたまひける。めづらしく見みたてまつりたまふにも、なほ、いとゆゆしくて、六条ろくでうの院ゐんにはあからさまにもえ渡わたりたまはず。

姫宮は、あやしかりしことを思し嘆きしより

 姫宮ひめみやは、あやしかりしことを思おぼし嘆なげきしより、やがて例れいのさまにもおはせず、悩なやましくしたまへど、おどろおどろしくはあらず、立たちぬる月つきより、物ものきこし召めさで、いたく青あをみそこなはれたまふ。

 かの人ひとは、わりなく思おもひあまる時々ときどきは、夢ゆめのやうに見みたてまつりけれど、宮みや、尽つきせずわりなきことに思おぼしたり。院ゐんをいみじく懼おぢきこえたまへる御心みこころに、ありさまも人ひとのほども、等ひとしくだにやはある、いたくよしめきなまめきたれば、おほかたの人目ひとめにこそ、なべての人ひとには優まさりてめでらるれ、幼をさなくより、さるたぐひなき御おほんありさまに馴ならひたまへる御心みこころには、めざましくのみ見みたまふほどに、かく悩なやみわたりたまふは、あはれなる御宿世おほんすくせにぞありける。

 御乳母おほんめのとたち見みたてまつりとがめて、院ゐんの渡わたらせたまふこともいとたまさかになるを、つぶやき恨うらみたてまつる。

 かく悩なやみたまふと聞きこし召めしてぞ渡わたりたまふ。女君をんなぎみは、暑あつくむつかしとて、御髪みぐし澄すまして、すこしさはやかにもてなしたまへり。臥ふしながらうちやりたまへりしかば、とみにも乾かはかねど、つゆばかりうちふくみ、まよふ筋すぢもなくて、いときよらにゆらゆらとして、青あをみ衰おとろへたまへるしも、色いろは真青さをに白しろくうつくしげに、透すきたるやうに見みゆる御おほん肌はだつきなど、世よになくらうたげなり。もぬけたる虫むしの殻からなどのやうに、まだいとただよはしげにおはす。

 年としごろ住すみたまはで、すこし荒あれたりつる院ゐんの内うち、たとしへなく狭せばげにさへ見みゆ。昨日きのふ今日けふかくものおぼえたまふ隙ひまにて、心こころことにつくろはれたる遣水やりみづ、前栽せんざいの、うちつけに心地ここちよげなるを見出みいだしたまひても、あはれに、今いままで経へにけるを思おもほす。

池はいと涼しげにて

 池いけはいと涼すずしげにて、蓮はちすの花はなの咲さきわたれるに、葉ははいと青あをやかにて、露つゆきらきらと玉たまのやうに見みえわたるを、

「かれ見みたまへ。おのれ一人ひとりも涼すずしげなるかな」

 とのたまふに、起おき上あがりて見出みいだしたまへるも、いとめづらしければ、

「かくて見みたてまつるこそ、夢ゆめの心地ここちすれ。いみじく、わが身みさへ限かぎりとおぼゆる折々をりをりのありしはや」

 と、涙なみだを浮うけてのたまへば、みづからもあはれに思おぼして、

「消きえ止とまるほどやは経ふべきたまさかに蓮はちすの露つゆのかかるばかりを」

 とのたまふ。

「契ちぎり置おかむこの世よならでも蓮葉はちすばに玉たまゐる露つゆの心こころ隔へだつな」

 出いでたまふ方かたざまはもの憂うけれど、内裏うちにも院ゐんにも、聞きこし召めさむところあり、悩なやみたまふと聞ききてもほど経へぬるを、目めに近ちかきに心こころを惑まどはしつるほど、見みたてまつることもをさをさなかりつるに、かかる雲くも間まにさへやは絶たえ籠こもらむと、思おぼし立たちて、渡わたりたまひぬ。

宮は、御心の鬼に

 宮みやは、御心みこころの鬼おにに、見みえたてまつらむも恥はづかしう、つつましく思おぼすに、物ものなど聞きこえたまふ御おほんいらへも、聞きこえたまはねば、日ひごろの積つもりを、さすがにさりげなくてつらしと思おぼしけると、心苦こころぐるしければ、とかくこしらへきこえたまふ。大人おとなびたる人ひと召めして、御心地みここちのさまなど問とひたまふ。

「例れいのさまならぬ御心地みここちになむ」

 と、わづらひたまふ御おほんありさまを聞きこゆ。

「あやしく。ほど経へてめづらしき御おほんことにも」

 とばかりのたまひて、御心みこころのうちには、

「年としごろ経へぬる人ひとびとだにもさることなきを、不定ふぢゃうなる御おほん事ことにもや」

 と思おぼせば、ことにともかくものたまひあへしらひたまはで、ただ、うち悩なやみたまへるさまのいとらうたげなるを、あはれと見みたてまつりたまふ。

 からうして思おぼし立たちて渡わたりたまひしかば、ふともえ帰かへりたまはで、二に、三日さんにちおはするほど、「いかに、いかに」とうしろめたく思おぼさるれば、御文おほんふみをのみ書かき尽つくしたまふ。

「いつの間まに積つもる御言おほんことの葉はにかあらむ。いでや、やすからぬ世よをも見みるかな」

 と、若君わかぎみの御おほん過あやまちを知しらぬ人ひとは言いふ。侍従じじうぞ、かかるにつけても胸むねうち騷さわぎける。

 かの人ひとも、かく渡わたりたまへりと聞きくに、おほけなく心こころ誤あやまりして、いみじきことどもを書かき続つづけて、おこせたまへり。対たいにあからさまに渡わたりたまへるほどに、人ひと間まなりければ、忍しのびて見みせたてまつる。

「むつかしきもの見みするこそ、いと心憂こころうけれ。心地ここちのいとど悪あしきに」

 とて臥ふしたまへれば、

「なほ、ただ、この端書はしがきの、いとほしげにはべるぞや」

 とて広ひろげたれば、人ひとの参まゐるに、いと苦くるしくて、御几帳みきちゃう引ひき寄よせて去さりぬ。

 いとど胸むねつぶるるに、院ゐん入いりたまへば、えよくも隠かくしたまはで、御茵おほんしとねの下したにさし挟はさみたまひつ。

夜さりつ方、二条の院へ渡りたまはむとて

 夜よさりつ方かた、二条にでうの院ゐんへ渡わたりたまはむとて、御暇おほんいとま聞きこえたまふ。

「ここには、けしうはあらず見みえたまふを、まだいとただよはしげなりしを、見捨みすてたるやうに思おもはるるも、今いまさらにいとほしくてなむ。ひがひがしく聞きこえなす人ひとありとも、ゆめ心置こころおきたまふな。今いま見直みなほしたまひてむ」

 と語かたらひたまふ。例れいは、なまいはけなき戯たはぶれ言ごとなども、うちとけ聞きこえたまふを、いたくしめりて、さやかにも見合みあはせたてまつりたまはぬを、ただ世よの恨うらめしき御みけしきと心得こころえたまふ。

 昼ひるの御座おましにうち臥ふしたまひて、御物語おほんものがたりなど聞きこえたまふほどに暮くれにけり。すこし大殿籠おほとのごもり入いりにけるに、ひぐらしのはなやかに鳴なくにおどろきたまひて、

「さらば、道みちたどたどしからぬほどに」

 とて、御衣おほんぞなどたてまつり直なほす。

「月つき待まちて、とも言いふなるものを」

 と、いと若わかやかなるさましてのたまふは、憎にくからずかし。「その間まにも、とや思おぼす」と、心苦こころぐるしげに思おぼして、立たち止とまりたまふ。

「夕ゆふ露つゆに袖そで濡ぬらせとやひぐらしの鳴なくを聞きく聞きく起おきて行ゆくらむ」

 片かたなりなる御心みこころにまかせて言いひ出いでたまへるもらうたければ、ついゐて、

「あな、苦くるしや」

 と、うち嘆なげきたまふ。

「待まつ里さともいかが聞きくらむ方かたがたに心こころ騒さわがすひぐらしの声こゑ」

 など思おぼしやすらひて、なほ情なさけなからむも心苦こころぐるしければ、止とまりたまひぬ。静心しづごころなく、さすがに眺ながめられたまひて、御おほんくだものばかり参まゐりなどして、大殿籠おほとのごもりぬ。

まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて

 まだ朝あさ涼すずみのほどに渡わたりたまはむとて、とく起おきたまふ。

「昨夜よべのかはほりを落おとして、これは風かぜぬるくこそありけれ」

 とて、御おほん扇あふぎ置おきたまひて、昨日きのふうたた寝ねしたまへりし御座おましのあたりを、立たち止とまりて見みたまふに、御茵おほんしとねのすこしまよひたるつまより、浅緑あさみどりの薄様うすやうなる文ふみの、押おし巻まきたる端はし見みゆるを、何心なにごころもなく引ひき出いでて御覧ごらんずるに、男をとこの手てなり。紙かみの香かなどいと艶えんに、ことさらめきたる書かきざまなり。二ふた重かさねにこまごまと書かきたるを見みたまふに、「紛まぎるべき方かたなく、その人ひとの手てなりけり」と見みたまひつ。

 御鏡おほんかがみなど開あけて参まゐらする人ひとは、見みたまふ文ふみにこそはと、心こころも知しらぬに、小侍従こじじう見みつけて、昨日きのふの文ふみの色いろと見みるに、いといみじく、胸むねつぶつぶと鳴なる心地ここちす。御粥おほんかゆなど参まゐる方かたに目めも見みやらず、

「いで、さりとも、それにはあらじ。いといみじく、さることはありなむや。隠かくいたまひてけむ」

 と思おもひなす。

 宮みやは、何心なにごころもなく、まだ大殿籠おほとのごもれり。

「あな、いはけな。かかる物ものを散ちらしたまひて。我われならぬ人ひとも見みつけたらましかば」

 と思おぼすも、心こころ劣おとりして、

「さればよ。いとむげに心こころにくきところなき御おほんありさまを、うしろめたしとは見みるかし」

 と思おぼす。

出でたまひぬれば

 出いでたまひぬれば、人ひとびとすこしあかれぬるに、侍従じじう寄よりて、

「昨日きのふの物ものは、いかがせさせたまひてし。今朝けさ、院ゐんの御覧ごらんじつる文ふみの色いろこそ、似にてはべりつれ」

 と聞きこゆれば、あさましと思おぼして、涙なみだのただ出いで来きに出いで来くれば、いとほしきものから、「いふかひなの御おほんさまや」と見みたてまつる。

「いづくにかは、置おかせたまひてし。人ひとびとの参まゐりしに、ことあり顔がほに近ちかくさぶらはじと、さばかりの忌いみをだに、心こころの鬼おにに避さりはべしを。入いらせたまひしほどは、すこしほど経へはべりにしを、隠かくさせたまひつらむとなむ、思おもうたまへし」

 と聞きこゆれば、

「いさ、とよ。見みしほどに入いりたまひしかば、ふともえ置おきあへで、さし挟はさみしを、忘わすれにけり」

 とのたまふに、いと聞きこえむかたなし。寄よりて見みれば、いづくのかはあらむ。

「あな、いみじ。かの君きみも、いといたく懼おぢ憚はばかりて、けしきにても漏もり聞きかせたまふことあらばと、かしこまりきこえたまひしものを。ほどだに経へず、かかることの出いでまうで来くるよ。すべて、いはけなき御おほんありさまにて、人ひとにも見みえさせたまひければ、年としごろさばかり忘わすれがたく、恨うらみ言いひわたりたまひしかど、かくまで思おもうたまへし御おほんことかは。誰たが御おほんためにも、いとほしくはべるべきこと」

 と、憚はばかりもなく聞きこゆ。心こころやすく若わかくおはすれば、馴なれきこえたるなめり。いらへもしたまはで、ただ泣なきにのみぞ泣なきたまふ。いと悩なやましげにて、つゆばかりの物ものもきこしめさねば、

「かく悩なやましくせさせたまふを、見みおきたてまつりたまひて、今いまはおこたり果はてたまひにたる御おほん扱あつかひに、心こころを入いれたまへること」

 と、つらく思おもひ言いふ。

大殿は、この文のなほあやしく思さるれば

 大殿おとどは、この文ふみのなほあやしく思おぼさるれば、人ひと見みぬ方かたにて、うち返かへしつつ見みたまふ。「さぶらふ人ひとびとの中なかに、かの中納言ちうなごんの手てに似にたる手てして書かきたるか」とまで思おぼし寄よれど、言葉ことばづかひきらきらと、まがふべくもあらぬことどもあり。

「年としを経へて思おもひわたりけることの、たまさかに本意ほいかなひて、心こころやすからぬ筋すぢを書かき尽つくしたる言葉ことば、いと見所みどころありてあはれなれど、いとかくさやかには書かくべしや。あたら人ひとの、文ふみをこそ思おもひやりなく書かきけれ。落おち散ちることもこそと思おもひしかば、昔むかし、かやうにこまかなるべき折をりふしにも、ことそぎつつこそ書かき紛まぎらはししか。人ひとの深ふかき用意よういは難かたきわざなりけり」

 と、かの人ひとの心こころをさへ見み落おとしたまひつ。

さても、この人をばいかが

「さても、この人ひとをばいかがもてなしきこゆべき。めづらしきさまの御心地みここちも、かかることの紛まぎれにてなりけり。いで、あな、心憂こころうや。かく、人伝ひとづてならず憂うきことを知しるしる、ありしながら見みたてまつらむよ」

 と、わが御心みこころながらも、え思おもひ直なほすまじくおぼゆるを、

「なほざりのすさびと、初はじめより心こころをとどめぬ人ひとだに、また異ことざまの心こころ分わくらむと思おもふは、心こころづきなく思おもひ隔へだてらるるを、ましてこれは、さま異ことに、おほけなき人ひとの心こころにもありけるかな。

帝みかどの御み妻めをも過あやまつたぐひ、昔むかしもありけれど、それはまたいふ方かた異ことなり。宮仕みやづかへといひて、我われも人ひとも同おなじ君きみに馴なれ仕つかうまつるほどに、おのづから、さるべき方かたにつけても、心こころを交かはしそめ、もののまぎれ多おほかりぬべきわざなり。

女御にょうご、更衣かういといへど、とある筋すぢかかる方かたにつけて、かたほなる人ひともあり、心こころばせかならず重おもからぬうち混まじりて、思おもはずなることもあれど、おぼろけの定さだかなる過あやまち見みえぬほどは、さても交まじらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛まぎれありぬべし。

かくばかり、またなきさまにもてなしきこえて、うちうちの心こころざし引ひく方かたよりも、いつくしくかたじけなきものに思おもひはぐくまむ人ひとをおきて、かかることは、さらにたぐひあらじ」

 と、爪弾つまはじきせられたまふ。

「帝みかどと聞きこゆれど、ただ素直すなほに、公おほやけざまの心こころばへばかりにて、宮仕みやづかへのほどもものすさまじきに、心こころざし深ふかき私わたくしのねぎ言ごとになびき、おのがじしあはれを尽つくし、見過みすぐしがたき折をりのいらへをも言いひそめ、自然じねんに心こころ通かよひそむらむ仲なからひは、同おなじけしからぬ筋すぢなれど、寄よる方かたありや。わが身みながらも、さばかりの人ひとに心こころ分わけたまふべくはおぼえぬものを」

 と、いと心こころづきなけれど、また「けしきに出いだすべきことにもあらず」など、思おぼし乱みだるるにつけて、

「故院こゐんの上うへも、かく御心みこころには知しろし召めしてや、知しらず顔がほを作つくらせたまひけむ。思おもへば、その世よのことこそは、いと恐おそろしく、あるまじき過あやまちなりけれ」

 と、近ちかき例ためしを思おぼすにぞ、恋こひの山路やまぢは、えもどくまじき御心みこころまじりける。

つれなしづくりたまへど

 つれなしづくりたまへど、もの思おぼし乱みだるるさまのしるければ、女君をんなぎみ、消きえ残のこりたるいとほしみに渡わたりたまひて、「人ひとやりならず、心苦こころぐるしう思おもひやりきこえたまふにや」と思おぼして、

「心地ここちはよろしくなりにてはべるを、かの宮みやの悩なやましげにおはすらむに、とく渡わたりたまひにしこそ、いとほしけれ」

 と聞きこえたまへば、

「さかし。例れいならず見みえたまひしかど、異ことなる心地ここちにもおはせねば、おのづから心こころのどかに思おもひてなむ。内裏うちよりは、たびたび御使おほんつかひありけり。今日けふも御文おほんふみありつとか。院ゐんの、いとやむごとなく聞きこえつけたまへれば、上うへもかく思おぼしたるなるべし。すこしおろかになどもあらむは、こなたかなた思おぼさむことの、いとほしきぞや」

 とて、うめきたまへば、

「内裏うちの聞きこし召めさむよりも、みづから恨うらめしと思おもひきこえたまはむこそ、心苦こころぐるしからめ。我われは思おぼし咎とがめずとも、よからぬさまに聞きこえなす人ひとびと、かならずあらむと思おもへば、いと苦くるしくなむ」

 などのたまへば、

「げに、あながちに思おもふ人ひとのためには、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどり深ふかきこと、とやかくやと、おほよそ人びとの思おもはむ心こころさへ思おもひめぐらさるるを、これはただ、国王こくわうの御心みこころやおきたまはむとばかりを憚はばからむは、浅あさき心地ここちぞしける」

 と、ほほ笑ゑみてのたまひ紛まぎらはす。渡わたりたまはむことは、

「もろともに帰かへりてを。心こころのどかにあらむ」

 とのみ聞きこえたまふを、

「ここには、しばし心こころやすくてはべらむ。まづ渡わたりたまひて、人ひとの御心みこころも慰なぐさみなむほどにを」

 と、聞きこえ交かはしたまふほどに、日ひごろ経へぬ。

姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経るも

 姫宮ひめみやは、かく渡わたりたまはぬ日ひごろの経ふるも、人ひとの御おほんつらさにのみ思おぼすを、今いまは、「わが御おほんおこたりうち混まぜてかくなりぬる」と思おぼすに、院ゐんも聞きこし召めしつけて、いかに思おぼし召めさむと、世よの中なかつつましくなむ。

 かの人ひとも、いみじげにのみ言いひわたれども、小侍従こじじうもわづらはしく思おもひ嘆なげきて、「かかることなむ、ありし」と告つげてければ、いとあさましく、

「いつのほどにさること出いで来きけむ。かかることは、あり経ふれば、おのづからけしきにても漏もり出いづるやうもや」

 と思おもひしだに、いとつつましく、空そらに目めつきたるやうにおぼえしを、「ましてさばかり違たがふべくもあらざりしことどもを見みたまひてけむ」、恥はづかしく、かたじけなく、かたはらいたきに、朝夕あさゆふ、涼すずみもなきころなれど、身みもしむる心地ここちして、いはむかたなくおぼゆ。

「年としごろ、まめごとにもあだことにも、召めしまつはし参まゐり馴なれつるものを。人ひとよりはこまかに思おぼしとどめたる御みけしきの、あはれになつかしきを、あさましくおほけなきものに心こころおかれたてまつりては、いかでかは目めをも見合みあはせたてまつらむ。さりとて、かき絶たえほのめき参まゐらざらむも、人目ひとめあやしく、かの御心みこころにも思おぼし合あはせむことのいみじさ」

 など、やすからず思おもふに、心地ここちもいと悩なやましくて、内裏うちへも参まゐらず。さして重おもき罪つみには当あたるべきならねど、身みのいたづらになりぬる心地ここちすれば、「さればよ」と、かつはわが心こころも、いとつらくおぼゆ。

「いでや、しづやかに心こころにくきけはひ見みえたまはぬわたりぞや。まづは、かの御簾みすのはさまも、さるべきことかは。軽々かるがるしと、大将だいしゃうの思おもひたまへるけしき見みえきかし」

 など、今いまぞ思おもひ合あはする。しひてこのことを思おもひさまさむと思おもふ方かたにて、あながちに難なんつけたてまつらまほしきにやあらむ。

良きやうとても

「良よきやうとても、あまりひたおもむきにおほどかにあてなる人ひとは、世よのありさまも知しらず、かつ、さぶらふ人ひとに心こころおきたまふこともなくて、かくいとほしき御身おほんみのためも、人ひとのためも、いみじきことにもあるかな」

 と、かの御おほんことの心苦こころぐるしさも、え思おもひ放はなたれたまはず。

 宮みやは、いとらうたげにて悩なやみわたりたまふさまの、なほいと心苦こころぐるしく、かく思おもひ放はなちたまふにつけては、あやにくに、憂うきに紛まぎれぬ恋こひしさの苦くるしく思おぼさるれば、渡わたりたまひて、見みたてまつりたまふにつけても、胸むねいたくいとほしく思おぼさる。

 御おほん祈いのりなど、さまざまにせさせたまふ。おほかたのことは、ありしに変かはらず、なかなか労いたはしくやむごとなくもてなしきこゆるさまをましたまふ。気近けぢかくうち語かたらひきこえたまふさまは、いとこよなく御心みこころ隔へだたりて、かたはらいたければ、人目ひとめばかりをめやすくもてなして、思おぼしのみ乱みだるるに、この御心みこころのうちしもぞ苦くるしかりける。

 さること見みきとも表あらはしきこえたまはぬに、みづからいとわりなく思おぼしたるさまも、心幼こころをさなし。

「いとかくおはするけぞかし。良よきやうといひながら、あまり心こころもとなく後おくれたる、頼たのもしげなきわざなり」

 と思おぼすに、世よの中なかなべてうしろめたく、

「女御にょうごの、あまりやはらかにおびれたまへるこそ、かやうに心こころかけきこえむ人ひとは、まして心こころ乱みだれなむかし。女をんなは、かうはるけどころなくなよびたるを、人ひともあなづらはしきにや、さるまじきに、ふと目めとまり、心強こころづよからぬ過あやまちはし出いづるなりけり」

 と思おぼす。

右の大臣の北の方の

「右みぎの大臣おとどの北きたの方かたの、取とり立たてたる後見うしろみもなく、幼をさなくより、ものはかなき世よにさすらふるやうにて、生おひ出いでたまひけれど、かどかどしく労らうありて、我われもおほかたには親おやめきしかど、憎にくき心こころの添そはぬにしもあらざりしを、なだらかにつれなくもてなして過すぐし、この大臣おとどの、さる無心むじんの女房にょうばうに心こころ合あはせて入いり来きたりけむにも、けざやかにもて離はなれたるさまを、人ひとにも見みえ知しられ、ことさらに許ゆるされたるありさまにしなして、わが心こころと罪つみあるにはなさずなりにしなど、今いま思おもへば、いかにかどあることなりけり。

契ちぎり深ふかき仲なかなりければ、長ながくかくて保たもたむことは、とてもかくても、同おなじごとあらましものから、心こころもてありしこととも、世人よひとも思おもひ出いでば、すこし軽々かるがるしき思おもひ加くははりなまし、いといたくもてなしてしわざなり」と思おぼし出いづ。

二条の尚侍の君をば

 二条にでうの尚侍ないしのかみの君きみをば、なほ絶たえず、思おもひ出いできこえたまへど、かくうしろめたき筋すぢのこと、憂うきものに思おぼし知しりて、かの御心みこころ弱よわさも、少すこし軽かるく思おもひなされたまひけり。

 つひに御おほん本意ほいのことしたまひてけりと聞ききたまひては、いとあはれに口惜くちをしく、御心みこころ動うごきて、まづ訪とぶらひきこえたまふ。今いまなむとだににほはしたまはざりけるつらさを、浅あさからず聞きこえたまふ。

「海人あまの世よをよそに聞きかめや須磨すまの浦うらに藻塩もしほ垂たれしも誰たれならなくに

さまざまなる世よの定さだめなさを心こころに思おもひつめて、今いままで後おくれきこえぬる口惜くちをしさを、思おぼし捨すてつとも、避さりがたき御回向ごゑかうのうちには、まづこそはと、あはれになむ」

 など、多おほく聞きこえたまへり。

 とく思おぼし立たちにしことなれど、この御おほん妨さまたげにかかづらひて、人ひとにはしか表あらはしたまはぬことなれど、心こころのうちあはれに、昔むかしよりつらき御契おほんちぎりを、さすがに浅あさくしも思おぼし知しられぬなど、かたがたに思おぼし出いでらる。

 御返おほんかへり、今いまはかくしも通かよふまじき御文おほんふみのとぢめと思おぼせば、あはれにて、心こころとどめて書かきたまふ、墨すみつきなど、いとをかし。

「常つねなき世よとは身み一ひとつにのみ知しりはべりにしを、後おくれぬとのたまはせたるになむ、げに、

海人舟あまぶねにいかがは思おもひおくれけむ明石あかしの浦うらにいさりせし君きみ

回向ゑかうには、あまねきかどにても、いかがは」

 とあり。濃こき青鈍あをにびの紙かみにて、樒しきみにさしたまへる、例れいのことなれど、いたく過すぐしたる筆ふでづかひ、なほ古ふりがたくをかしげなり。

二条院におはしますほどにて

 二条院にでうのゐんにおはしますほどにて、女君をんなぎみにも、今いまはむげに絶たえぬることにて、見みせたてまつりたまふ。

「いといたくこそ恥はづかしめられたれ。げに、心こころづきなしや。さまざま心細こころぼそき世よの中なかのありさまを、よく見過みすぐしつるやうなるよ。なべての世よのことにても、はかなくものを言いひ交かはし、時々ときどきによせて、あはれをも知しり、ゆゑをも過すぐさず、よそながらの睦むつび交かはしつべき人ひとは、斎院さいゐんとこの君きみとこそは残のこりありつるを、かくみな背そむき果はてて、斎院さいゐんはた、いみじうつとめて、紛まぎれなく行おこなひにしみたまひにたなり。

なほ、ここらの人ひとのありさまを聞きき見みる中なかに、深ふかく思おもふさまに、さすがになつかしきことの、かの人ひとの御おほんなずらひにだにもあらざりけるかな。女子をんなごを生おほし立たてむことよ、いと難かたかるべきわざなりけり。

宿世すくせなどいふらむものは、目めに見みえぬわざにて、親おやの心こころに任まかせがたし。生おひ立たたむほどの心こころづかひは、なほ力ちから入いるべかめり。よくこそ、あまたかたがたに心こころを乱みだるまじき契ちぎりなりけれ。年とし深ふかくいらざりしほどは、さうざうしのわざや、さまざまに見みましかばとなむ、嘆なげかしきをりをりありし。

若わか宮みやを、心こころして生おほし立たてたてまつりたまへ。女御にょうごは、ものの心こころを深ふかく知しりたまふほどならで、かく暇いとまなき交まじらひをしたまへば、何事なにごとも心こころもとなき方かたにぞものしたまふらむ。御子みこたちなむ、なほ飽あく限かぎり人ひとに点てんつかるまじくて、世よをのどかに過すぐしたまはむに、うしろめたかるまじき心こころばせ、つけまほしきわざなりける。限かぎりありて、とざまかうざまの後見うしろみまうくるただ人うどは、おのづからそれにも助たすけられぬるを」

 など聞きこえたまへば、

「はかばかしきさまの御後見おほんうしろみならずとも、世よにながらへむ限かぎりは、見みたてまつらぬやうあらじと思おもふを、いかならむ」

 とて、なほものを心細こころぼそげにて、かく心こころにまかせて、行おこなひをもとどこほりなくしたまふ人ひとびとを、うらやましく思おもひきこえたまへり。

「尚侍かんの君きみに、さま変かはりたまへらむ装束さうぞくなど、まだ裁たち馴なれぬほどは訪とぶらふべきを、袈裟けさなどはいかに縫ぬふものぞ。それせさせたまへ。一領ひとくだりは、六条ろくでうの東ひむがしの君きみにものしつけむ。うるはしき法服ほふぶくだちては、うたて見み目めもけうとかるべし。さすがに、その心こころばへ見みせてを」

 など聞きこえたまふ。

 青鈍あをにびの一領ひとくだりを、ここにはせさせたまふ。作物所つくもどころの人ひと召めして、忍しのびて、尼あまの御おほん具ぐどものさるべきはじめのたまはす。御茵おほんしとね、上席うはむしろ、屏風びゃうぶ、几帳きちゃうなどのことも、いと忍しのびて、わざとがましくいそがせたまひけり。

かくて、山の帝の御賀も延びて

 かくて、山やまの帝みかどの御賀おほんがも延のびて、秋あきとありしを、八月はちがつは大将だいしゃうの御忌月おほんきづきにて、楽所がくそのこと行おこなひたまはむに、便びんなかるべし。九月くがつは、院ゐんの大后おほきさきの崩かくれたまひにし月つきなれば、十月じふがつにと思おぼしまうくるを、姫宮ひめみやいたく悩なやみたまへば、また延のびぬ。

 衛門督ゑもんのかみの御おほん預あづかりの宮みやなむ、その月つきには参まゐりたまひける。太政大臣おほきおとど居立ゐたちて、いかめしくこまかに、もののきよら、儀式ぎしきを尽つくしたまへりけり。督かみの君きみも、そのついでにぞ、思おもひ起おこして出いでたまひける。なほ、悩なやましく、例れいならず病やまひづきてのみ過すぐしたまふ。

 宮みやも、うちはへてものをつつましく、いとほしとのみ思おぼし嘆なげくにやあらむ、月つき多おほく重かさなりたまふままに、いと苦くるしげにおはしませば、院ゐんは、心憂こころうしと思おもひきこえたまふ方かたこそあれ、いとらうたげにあえかなるさまして、かく悩なやみわたりたまふを、いかにおはせむと嘆なげかしくて、さまざまに思おぼし嘆なげく。御おほん祈いのりなど、今年ことしは紛まぎれ多おほくて過すぐしたまふ。

御山にも聞こし召して

 御み山やまにも聞きこし召めして、らうたく恋こひしと思おもひきこえたまふ。月つきごろかくほかほかにて、渡わたりたまふこともをさをさなきやうに、人ひとの奏さうしければ、いかなるにかと御胸おほんむねつぶれて、世よの中なかも今いまさらに恨うらめしく思おぼして、

「対たいの方かたのわづらひけるころは、なほその扱あつかひにと聞きこし召めしてだに、なまやすからざりしを、そののち、直なほりがたくものしたまふらむは、そのころほひ、便びんなきことや出いで来きたりけむ。みづから知しりたまふことならねど、良よからぬ御後見おほんうしろみどもの心こころにて、いかなることかありけむ。内裏うちわたりなどの、みやびを交かはすべき仲なからひなどにも、けしからず憂うきこと言いひ出いづるたぐひも聞きこゆかし」

 とさへ思おぼし寄よるも、こまやかなること思おぼし捨すててし世よなれど、なほ子この道みちは離はなれがたくて、宮みやに御文おほんふみこまやかにてありけるを、大殿おとど、おはしますほどにて、見みたまふ。

「そのこととなくて、しばしばも聞きこえぬほどに、おぼつかなくてのみ年月としつきの過すぐるなむ、あはれなりける。悩なやみたまふなるさまは、詳くはしく聞ききしのち、念誦ねんずのついでにも思おもひやらるるは、いかが。世よの中なか寂さびしく思おもはずなることありとも、忍しのび過すぐしたまへ。恨うらめしげなるけしきなど、おぼろけにて、見知みしり顔がほにほのめかす、いと品しなおくれたるわざになむ」

 など、教をしへきこえたまへり。

 いといとほしく心苦こころぐるしく、「かかるうちうちのあさましきをば、聞きこし召めすべきにはあらで、わがおこたりに、本意ほいなくのみ聞きき思おぼすらむことを」とばかり思おぼし続つづけて、

「この御返おほんかへりをば、いかが聞きこえたまふ。心苦こころぐるしき御消息おほんせうそこに、まろこそいと苦くるしけれ。思おもはずに思おもひきこゆることありとも、おろかに、人ひとの見咎みとがむばかりはあらじとこそ思おもひはべれ。誰たが聞きこえたるにかあらむ」

 とのたまふに、恥はぢらひて背そむきたまへる御姿おほんすがたも、いとらうたげなり。いたく面痩おもやせて、もの思おもひ屈くしたまへる、いとどあてにをかし。

いと幼き御心ばへを見おきたまひて

「いと幼をさなき御心みこころばへを見みおきたまひて、いたくはうしろめたがりきこえたまふなりけりと、思おもひあはせたてまつれば、今いまより後のちもよろづになむ。かうまでもいかで聞きこえじと思おもへど、上うへの、御心みこころに背そむくと聞きこし召めすらむことの、やすからず、いぶせきを、ここにだに聞きこえ知しらせでやはとてなむ。

いたり少すくなく、ただ、人ひとの聞きこえなす方かたにのみ寄よるべかめる御心みこころには、ただおろかに浅あさきとのみ思おぼし、また、今いまはこよなくさだ過すぎにたるありさまも、あなづらはしく目馴めなれてのみ見みなしたまふらむも、かたがたに口惜くちをしくもうれたくもおぼゆるを、院ゐんのおはしまさむほどは、なほ心こころ収をさめて、かの思おぼしおきてたるやうありけむ、さだ過すぎ人びとをも、同おなじくなずらへきこえて、いたくな軽かるめたまひそ。

いにしへより本意ほい深ふかき道みちにも、たどり薄うすかるべき女をんな方がたにだに、皆みな思おもひ後おくれつつ、いとぬるきこと多おほかるを、みづからの心こころには、何なにばかり思おぼしまよふべきにはあらねど、今いまはと捨すてたまひけむ世よの後見うしろみに譲ゆづりおきたまへる御心みこころばへの、あはれにうれしかりしを、ひき続つづき争あらそひきこゆるやうにて、同おなじさまに見捨みすてたてまつらむことの、あへなく思おぼされむにつつみてなむ。

心苦こころぐるしと思おもひし人ひとびとも、今いまはかけとどめらるるほだしばかりなるもはべらず。女御にょうごも、かくて、行ゆく末すゑは知しりがたけれど、御子みこたち数かず添そひたまふめれば、みづからの世よだにのどけくはと見みおきつべし。その他ほかは、誰たれも誰たれも、あらむに従したがひて、もろともに身みを捨すてむも、惜をしかるまじき齢よはひどもになりにたるを、やうやうすずしく思おもひはべる。

院ゐんの御世みよの残のこり久ひさしくもおはせじ。いと篤あつしくいとどなりまさりたまひて、もの心細こころぼそげにのみ思おぼしたるに、今いまさらに思おもはずなる御名おほんなの漏もり聞きこえて、御心みこころ乱みだりたまふな。この世よはいとやすし。ことにもあらず。後のちの世よの御おほん道みちの妨さまたげならむも、罪つみいと恐おそろしからむ」

 など、まほにそのこととは明あかしたまはねど、つくづくと聞きこえ続つづけたまふに、涙なみだのみ落おちつつ、我われにもあらず思おもひしみておはすれば、我われもうち泣なきたまひて、

「人ひとの上うへにても、もどかしく聞きき思おもひし古人ふるびとのさかしらよ。身みに代かはることにこそ。いかにうたての翁おきなやと、むつかしくうるさき御心みこころ添そふらむ」

 と、恥はぢたまひつつ、御硯おほんすずり引ひき寄よせたまひて、手てづから押おし磨すり、紙かみ取とりまかなひ、書かかせたてまつりたまへど、御手おほんてもわななきて、え書かきたまはず。

「かのこまかなりし返事かへりごとは、いとかくしもつつまず通かよはしたまふらむかし」と思おぼしやるに、いと憎にくければ、よろづのあはれも冷さめぬべけれど、言葉ことばなど教をしへて書かかせたてまつりたまふ。

参りたまはむことは

 参まゐりたまはむことは、この月つきかくて過すぎぬ。二にの宮みやの御勢おほんいきほひ殊ことにて参まゐりたまひけるを、古ふるめかしき御身おほんみざまにて、立たち並ならび顔がほならむも、憚はばかりある心地ここちしけり。

「霜月しもつきはみづからの忌月きづきなり。年としの終をはりはた、いともの騒さわがし。また、いとどこの御姿おほんすがたも見苦みぐるしく、待まち見みたまはむをと思おもひはべれど、さりとて、さのみ延のぶべきことにやは。むつかしくもの思おぼし乱みだれず、あきらかにもてなしたまひて、このいたく面痩おもやせたまへる、つくろひたまへ」

 など、いとらうたしと、さすがに見みたてまつりたまふ。

 衛門督ゑもんのかみをば、何なにざまのことにも、ゆゑあるべきをりふしには、かならずことさらにまつはしたまひつつ、のたまはせ合あはせしを、絶たえてさる御消息おほんせうそこもなし。人ひとあやしと思おもふらむと思おぼせど、「見みむにつけても、いとどほれぼれしきかた恥はづかしく、見みむにはまたわが心こころもただならずや」と思おぼし返かへされつつ、やがて月つきごろ参まゐりたまはぬをも咎とがめなし。

 おほかたの人ひとは、なほ例れいならず悩なやみわたりて、院ゐんにはた、御遊おほんあそびなどなき年としなれば、とのみ思おもひわたるを、大将だいしゃうの君きみぞ、「あるやうあることなるべし。好色者すきものは、さだめてわがけしきとりしことには、忍しのばぬにやありけむ」と思おもひ寄よれど、いとかく定さだかに残のこりなきさまならむとは、思おもひ寄よりたまはざりけり。

十二月になりにけり

 十二月じふにがつになりにけり。十余日じふよにちと定さだめて、舞まひども習ならし、殿とののうちゆすりてののしる。二条にでうの院ゐんの上うへは、まだ渡わたりたまはざりけるを、この試楽しがくによりてぞ、えしづめ果はてで渡わたりたまへる。女御にょうごの君きみも里さとにおはします。このたびの御子みこは、また男をとこにてなむおはしましける。すぎすぎいとをかしげにておはするを、明あけ暮くれもて遊あそびたてまつりたまふになむ、過すぐる齢よはひのしるし、うれしく思おぼされける。試楽しがくに、右大臣殿うだいじんどのの北きたの方かたも渡わたりたまへり。

 大将だいしゃうの君きみ、丑寅うしとらの町まちにて、まづうちうちに調てう楽がくのやうに、明あけ暮くれ遊あそび習ならしたまひければ、かの御方おほんかたは、御前おまへの物ものは見みたまはず。

 衛門督ゑもんのかみを、かかることの折をりも交まじらはせざらむは、いと栄はえなく、さうざうしかるべきうちに、人ひとあやしと傾かたぶきぬべきことなれば、参まゐりたまふべきよしありけるを、重おもくわづらふよし申まうして参まゐらず。

 さるは、そこはかと苦くるしげなる病やまひにもあらざなるを、思おもふ心こころのあるにやと、心苦こころぐるしく思おぼして、取とり分わきて御消息おほんせうそこつかはす。父大臣ちちおとども、

「などか返かへさひ申まうされける。ひがひがしきやうに、院ゐんにも聞きこし召めさむを、おどろおどろしき病やまひにもあらず、助たすけて参まゐりたまへ」

 とそそのかしたまふに、かく重かさねてのたまへれば、苦くるしと思おもふ思おもふ参まゐりぬ。

まだ上達部なども集ひたまはぬほどなりけり

 まだ上達部かむだちめなども集つどひたまはぬほどなりけり。例れいの気近けぢかき御簾みすの内うちに入いれたまひて、母屋もやの御簾みす下おろしておはします。げに、いといたく痩やせ痩やせに青あをみて、例れいも誇ほこりかにはなやぎたる方かたは、弟おとうとの君きみたちにはもて消けたれて、いと用意よういあり顔がほにしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめてさぶらひたまふさま、「などかは皇女みこたちの御おほんかたはらにさし並ならべたらむに、さらに咎とがあるまじきを、ただことのさまの、誰たれも誰たれもいと思おもひやりなきこそ、いと罪つみ許ゆるしがたけれ」など、御目おほんめとまれど、さりげなく、いとなつかしく、

「そのこととなくて、対面たいめんもいと久ひさしくなりにけり。月つきごろは、いろいろの病者びゃうざを見みあつかひ、心こころの暇いとまなきほどに、院ゐんの御賀おほんがのため、ここにものしたまふ皇女みこの、法事ほふじ仕つかうまつりたまふべくありしを、次々つぎつぎとどこほることしげくて、かく年としもせめつれば、え思おもひのごとくしあへで、型かたのごとくなむ、斎いもひの御鉢みはち参まゐるべきを、御賀おほんがなどいへば、ことことしきやうなれど、家いへに生おひ出いづる童わらはべの数かず多おほくなりにけるを御覧ごらんぜさせむとて、舞まひなど習ならはしはじめし、そのことをだに果はたさむとて。拍子ひゃうし調ととのへむこと、また誰たれにかはと思おもひめぐらしかねてなむ、月つきごろ訪とぶらひものしたまはぬ恨うらみも捨すててける」

 とのたまふ御おほんけしきの、うらなきやうなるものから、いといと恥はづかしきに、顔かほの色いろ違たがふらむとおぼえて、御おほんいらへもとみに聞きこえず。

月ごろ、かたがたに思し悩む御こと

「月つきごろ、かたがたに思おぼし悩なやむ御おほんこと、承うけたまはり嘆なげきはべりながら、春はるのころほひより、例れいも患わづらひはべる乱みだり脚病かくびゃうといふもの、所狭ところせく起おこり患わづらひはべりて、はかばかしく踏ふみ立たつることもはべらず、月つきごろに添そへて沈しづみはべりてなむ、内裏うちなどにも参まゐらず、世よの中なか跡あと絶たえたるやうにて籠こもりはべる。

院ゐんの御齢おほんよはひ足たりたまふ年としなり、人ひとよりさだかに数かぞへたてまつり仕つかうまつるべきよし、致仕ちじの大臣おとど思おもひ及および申まうされしを、冠かうぶりを掛かけ、車くるまを惜をしまず捨すててし身みにて、進すすみ仕つかうまつらむに、つくところなし。げに、下臈げらふなりとも、同おなじごと深ふかきところはべらむ。その心こころ御覧ごらんぜられよと、催もよほし申まうさるることのはべしかば、重おもき病やまひを相助あひたすけてなむ、参まゐりてはべし。

今いまは、いよいよいとかすかなるさまに思おぼし澄すまして、いかめしき御おほんよそひを待まちうけたてまつりたまはむこと、願ねがはしくも思おぼすまじく見みたてまつりはべしを、事ことどもをば削そがせたまひて、静しづかなる御物語おほんものがたりの深ふかき御願おほんねがひ叶かなはせたまはむなむ、まさりてはべるべき」

 と申まうしたまへば、いかめしく聞ききし御賀おほんがの事ことを、女をんな二にの宮みやの御方おほんかたざまには言いひなさぬも、労らうありと思おぼす。

「ただかくなむ。こと削そぎたるさまに世人よひとは浅あさく見みるべきを、さはいへど、心得こころえてものせらるるに、さればよとなむ、いとど思おもひなられはべる。大将だいしゃうは、公おほやけ方がたは、やうやう大人おとなぶめれど、かうやうに情なさけびたる方かたは、もとよりしまぬにやあらむ。

かの院ゐん、何事なにごとも心こころ及およびたまはぬことは、をさをさなきうちにも、楽がくの方かたのことは御心みこころとどめて、いとかしこく知しり調ととのへたまへるを、さこそ思おぼし捨すてたるやうなれ、静しづかに聞きこしめし澄すまさむこと、今いましもなむ心こころづかひせらるべき。かの大将だいしゃうともろともに見入みいれて、舞まひの童わらはべの用意ようい、心こころばへ、よく加くはへたまへ。物ものの師しなどいふものは、ただわが立たてたることこそあれ、いと口惜くちをしきものなり」

 など、いとなつかしくのたまひつくるを、うれしきものから、苦くるしくつつましくて、言少ことずくなにて、この御前おまへをとく立たちなむと思おもへば、例れいのやうにこまやかにもあらで、やうやうすべり出いでぬ。

 東ひむがしの御殿おとどにて、大将だいしゃうのつくろひ出いだしたまふ楽人がくにん、舞人まひびとの装束さうぞくのことなど、またまた行おこなひ加くはへたまふ。あるべき限かぎりいみじく尽つくしたまへるに、いとど詳くはしき心こころしらひ添そふも、げにこの道みちは、いと深ふかき人ひとにぞものしたまふめる。

今日は、かかる試みの日なれど

 今日けふは、かかる試こころみの日ひなれど、御方々おほんかたがた物見ものみたまはむに、見所みどころなくはあらせじとて、かの御賀おほんがの日ひは、赤あかき白橡しらつるばみに、葡萄染えびぞめの下襲したがさねを着きるべし、今日けふは、青色あをいろに蘇芳襲すはうがさね、楽人がくにん三十さんじふ人にん、今日けふは白襲しらがさねを着きたる、辰巳たつみの方かたの釣殿つりどのに続つづきたる廊らうを楽所がくそにて、山やまの南みなみの側そばより御前おまへに出いづるほど、「仙遊霞せんいうか」といふもの遊あそびて、雪ゆきのただいささか散ちるに、春はるのとなり近ちかく、梅むめのけしき見みるかひありてほほ笑ゑみたり。

 廂ひさしの御簾みすの内うちにおはしませば、式部卿宮しきぶきゃうのみや、右大臣みぎのおとどばかりさぶらひたまひて、それより下しもの上達部かむだちめは簀子すのこに、わざとならぬ日ひのことにて、御饗応おほんあるじなど、気近けぢかきほどに仕つかうまつりなしたり。

 右みぎの大殿おほとのの四郎君しらうぎみ、大将殿だいしゃうどのの三郎君さぶらうぎみ、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやの孫王そんわうの君きみたち二人ふたりは、「万歳楽まんざいらく」。まだいと小ちひさきほどにて、いとらうたげなり。四人よたりながら、いづれとなく高たかき家いへの子こにて、容貌かたちをかしげにかしづき出いでたる、思おもひなしも、やむごとなし。

 また、大将だいしゃうの典侍ないしのすけ腹ばらの二郎君じらうぎみ、式部卿宮しきぶきゃうのみやの兵衛督ひゃうゑのかみといひし、今いまは源中納言げんちうなごんの御子みこ、「皇麞わうじゃう」。右みぎの大殿おほいどのの三郎君さぶらうぎみ、「陵王りゃうわう」。大将殿だいしゃうどのの太郎たらう、「落蹲らくそん」。さては「太平楽たいへいらく」、「喜春楽きしゅんらく」などいふ舞まひどもをなむ、同おなじ御仲おほんなからひの君きみたち、大人おとなたちなど舞まひける。

 暮くれゆけば、御簾みす上あげさせたまひて、物ものの興きょうまさるに、いとうつくしき御孫おほんむまごの君きみたちの容貌かたち、姿すがたにて、舞まひのさまも、世よに見みえぬ手てを尽つくして、御師おほんしどもも、おのおの手ての限かぎりを教をしへきこえけるに、深ふかきかどかどしさを加くはへて、珍めづらかに舞まひたまふを、いづれをもいとらうたしと思おぼす。老おいたまへる上達部かむだちめたちは、皆みな涙なみだ落おとしたまふ。式部卿宮しきぶきゃうのみやも、御孫おほんまごを思おぼして、御鼻おほんはなの色いろづくまでしほたれたまふ。

主人の院、過ぐる齢に添へては

 主人あるじの院ゐん、

「過すぐる齢よはひに添そへては、酔ゑひ泣なきこそとどめがたきわざなりけれ。衛門督ゑもんのかみ、心こころとどめてほほ笑ゑまるる、いと心恥こころはづかしや。さりとも、今いましばしならむ。さかさまに行ゆかぬ年月としつきよ。老おいはえ逃のがれぬわざなり」

 とて、うち見みやりたまふに、人ひとよりけにまめだち屈くんじて、まことに心地ここちもいと悩なやましければ、いみじきことも目めもとまらぬ心地ここちする人ひとをしも、さしわきて、空そら酔ゑひをしつつかくのたまふ。戯たはぶれのやうなれど、いとど胸むねつぶれて、盃さかづきのめぐり来くるも頭かしらいたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛まぎらはすを、御覧ごらんじ咎とがめて、持もたせながらたびたび強しひたまへば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべての人ひとに似にずをかし。

 心地ここちかき乱みだりて堪たへがたければ、まだことも果はてぬにまかでたまひぬるままに、いといたく惑まどひて、

「例れいの、いとおどろおどろしき酔ゑひにもあらぬを、いかなればかかるならむ。つつましとものを思おもひつるに、気けののぼりぬるにや。いとさいふばかり臆おくすべき心弱こころよわさとはおぼえぬを、言いふかひなくもありけるかな」

 とみづから思おもひ知しらる。

 しばしの酔ゑひの惑まどひにもあらざりけり。やがていといたくわづらひたまふ。大臣おとど、母はは北きたの方かた思おぼし騷さわぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、殿とのに渡わたしたてまつりたまふを、女をんな宮みやの思おぼしたるさま、またいと心苦こころぐるし。

ことなくて過ぐす月日は

 ことなくて過すぐす月日つきひは、心こころのどかにあいな頼だのみして、いとしもあらぬ御心みこころざしなれど、今いまはと別わかれたてまつるべき門出かどでにやと思おもふは、あはれに悲かなしく、後おくれて思おぼし嘆なげかむことのかたじけなきを、いみじと思おもふ。母はは御息所みやすんどころも、いといみじく嘆なげきたまひて、

「世よのこととして、親おやをばなほさるものにおきたてまつりて、かかる御仲おほんなからひは、とある折をりもかかる折をりも、離はなれたまはぬこそ例れいのことなれ、かく引ひき別わかれて、たひらかにものしたまふまでも過すぐしたまはむが、心尽こころづくしなるべきことを、しばしここにて、かくて試こころみたまへ」

 と、御おほんかたはらに御几帳みきちゃうばかりを隔へだてて見みたてまつりたまふ。

「ことわりや。数かずならぬ身みにて、及およびがたき御仲おほんなからひに、なまじひに許ゆるされたてまつりて、さぶらふしるしには、長ながく世よにはべりて、かひなき身みのほども、すこし人ひとと等ひとしくなるけぢめをもや御覧ごらんぜらるる、とこそ思おもうたまへつれ、いといみじく、かくさへなりはべれば、深ふかき心こころざしをだに御覧ごらんじ果はてられずやなりはべりなむと思おもうたまふるになむ、とまりがたき心地ここちにも、え行ゆきやるまじく思おもひたまへらるる」

 など、かたみに泣なきたまひて、とみにもえ渡わたりたまはねば、また母はは北きたの方かた、うしろめたく思おぼして、

「などか、まづ見みえむとは思おもひたまふまじき。われは、心地ここちもすこし例れいならず心細こころぼそき時ときは、あまたの中なかに、まづ取とり分わきてゆかしくも頼たのもしくもこそおぼえたまへ。かくいとおぼつかなきこと」

 と恨うらみきこえたまふも、また、いとことわりなり。

「人ひとより先さきなりけるけぢめにや、取とり分わきて思おもひならひたるを、今いまになほかなしくしたまひて、しばしも見みえぬをば苦くるしきものにしたまへば、心地ここちのかく限かぎりにおぼゆる折をりしも、見みえたてまつらざらむ、罪つみ深ふかく、いぶせかるべし。

今いまはと頼たのみなく聞きかせたまはば、いと忍しのびて渡わたりたまひて御覧ごらんぜよ。かならずまた対面たいめん賜たまはらむ。あやしくたゆくおろかなる本性ほんじゃうにて、ことに触ふれておろかに思おぼさるることありつらむこそ、悔くやしくはべれ。かかる命いのちのほどを知しらで、行ゆく末すゑ長ながくのみ思おもひはべりけること」

 と、泣なく泣なく渡わたりたまひぬ。宮みやはとまりたまひて、言いふ方かたなく思おぼしこがれたり。

大殿に待ち受けきこえたまひて

 大殿おほとのに待まち受うけきこえたまひて、よろづに騷さわぎたまふ。さるは、たちまちにおどろおどろしき御心地みここちのさまにもあらず、月つきごろ物ものなどをさらに参まゐらざりけるに、いとどはかなき柑子かうじなどをだに触ふれたまはず、ただ、やうやうものに引ひき入いるるやうに見みえたまふ。

 さる時ときの有職いうそくの、かくものしたまへば、世よの中なか惜をしみあたらしがりて、御訪おほんとぶらひに参まゐりたまはぬ人ひとなし。内裏うちよりも院ゐんよりも、御訪おほんとぶらひしばしば聞きこえつつ、いみじく惜をしみ思おぼし召めしたるにも、いとどしき親おやたちの御心みこころのみ惑まどふ。

 六条院ろくでうのゐんにも、「いと口惜くちをしきわざなり」と思おぼしおどろきて、御訪おほんとぶらひにたびたびねむごろに父大臣ちちおとどにも聞きこえたまふ。大将だいしゃうは、ましていとよき御仲おほんなかなれば、気近けぢかくものしたまひつつ、いみじく嘆なげきありきたまふ。

 御賀おほんがは、二十五日にじふごにちになりにけり。かかる時ときのやむごとなき上達部かむだちめの重おもく患わづらひたまふに、親おや、兄弟はらから、あまたの人ひとびと、さる高たかき御仲おほんなからひの嘆なげきしをれたまへるころほひにて、ものすさまじきやうなれど、次々つぎつぎに滞とどこほりつることだにあるを、さて止やむまじきことなれば、いかでかは思おぼし止とどまらむ。女をんな宮みやの御心みこころのうちをぞ、いとほしく思おもひきこえさせたまふ。

 例れいの、五十寺ごじふじの御誦経みずきゃう、また、かのおはします御寺みてらにも、摩訶毘盧遮那まかびるさなの。

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