目次
清水冠者
寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曽冠者義仲、不快の事ありけり。兵衛佐木曽追討のために、その勢十万余騎で、信濃国へ発向す。木曽は依田城にありけるが、これを聞いて、依田の城を出でて信濃と越後の境熊坂山に陣を取る。兵衛佐は同じき信濃国、善光寺に著きたまふ。木曽、乳母子の今井四郎兼平を使者で、兵衛佐の許へ遣はす。
「いかなる子細のあれば義仲討たむとはのたまふなるぞ。御辺は東八箇国を打ち随へて、東海道より攻め上り、平家を追ひおとさむとしたまふなり。義仲も東山北陸両道を従へて、今一日も先に平家を攻め落とさむとする事でこそあれ。なんの故に、御辺と義仲と中を違へて、平家に笑はれんとは思ふべき。ただし十郎蔵人殿こそ、御辺を恨むる事ありとて、義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげなうもてなし申さむ事、いかがぞや候へば、打ち連れ申したり。全く義仲においては、御辺に意趣思ひ奉らず」
といひ遣はす。兵衛佐の返事には、
「今こそさやうにはのたまへども、たしかに頼朝討つべき由謀反の企てありと、申す者あり。それにはよるべからず」
さて、土肥、梶原を先として、既に討手を差し向けらるる由聞こえしかば、木曽まことに意趣なき由を顕さむがために、嫡子清水冠者義重とて、生年十一歳になる小冠者に、海野、望月、諏訪、藤沢などいふ聞こゆる兵どもをつけて、兵衛佐の許へ遣はす。兵衛佐は、
「この上はまことに意趣なかりけり。頼朝未成人の子を持たず。よしよしさらば子にし申さむ」
とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ帰られけれ。
北国下向
さるほどに、木曽、東山北陸両道を随へて、五万余騎の勢にて既に京へ攻め上る由聞こえしかば、平家は去年よりして、
「明年は、馬の草飼に附いて、軍あるべし」
と披露せられたりければ、山陰、山陽、南海、西海の兵ども、雲霞の如くに馳せ参る。東山道は近江、美濃、飛騨の兵どもは参ったれども、東海道は遠江より東は参らず、西は皆参ったり。北陸道は若狭より北の兵ども一人も参らず。先づ木曽冠者義仲を追討してその後兵衛佐を討たんとて、北陸道へ討手を遣はす。大将軍には小松三位中将維盛、越前三位通盛、但馬守経正、薩摩守忠度、参河守知度、淡路守清房、侍大将には、越中前司盛俊、上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、高橋判官長綱、河内判官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中二郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、以上大将軍六人、しかるべき侍三百四十余人、都合その勢十万余騎、寿永二年四月十七日辰の一点に都を立って、北国へこそ趣きけれ。片道をたまはってければ、相坂の関より始めて、路次にもて逢ふ権門勢家の正税官物をも恐れず、一々に皆奪ひ取る。志賀、唐崎、三河尻、真野、高島、塩津、貝津の道の辺を、次第に追捕して通りければ、人民こらへずして、山野に皆逃散す。
竹生島詣
大将軍維盛、通盛は進みたまへども、副将軍経正、忠度、知度、清房などは、いまだ近江国塩津、貝津に引かへたり。その中にも経正は、詩歌管絃に長じたまへる人なればかかる乱の中にも、心を澄まし、湖の端に打ち出でて、遥に澳なる島を見渡し供に具せられたる藤兵衛有教を召して、
「あれをばいづくといふぞ」
と問はれければ、
「あれこそ聞こえ候ふ竹生島にて候へ」
と申す。
「げにさる事あり。いざや参らん」
とて、藤兵衛有教、安衛門守教以下、侍五六人召し具して、小船に乗り、竹生島へぞ渡られける。ころは卯月中の八日の事なれば、緑に見ゆる梢には、春の情を残すと覚え、澗谷の鶯舌の声老いて、初音床しき郭公、折知り顔に告げ渡る。松に藤なみさきかかってまことに面白かりければ、急ぎ船より下り、岸に上ってこの島の景色を見たまふに、心も詞も及ばれず。かの秦皇、漢武、あるいは童男丱女を遣はし、あるいは方士をして不死の薬を尋ねたまひしに、蓬莱を見ずばいなや帰らじといひて、徒に船の中にて老い、天水茫々として求むる事を得ざりけん蓬莱洞の有様もかくやありけんとぞ見えし。ある経の文にいはく、
「閻浮提の内に湖あり、その中に金輪際より生ひ出でたる水精輪の山あり、天女住む所」
といへり。即ちこの島のことなり。経正、明神の御前につい居たまひつつ、
「それ大弁功徳天は、往古の如来、法身の大士なり。弁才妙音二天の名は、おのおの別なりとはいへども、本地一体にして、衆生を済度したまふ。一度参詣の輩は、所願成就円満すと承る。憑しうこそ候へ」
とて、しばらく法施参らせたまふに、漸々日暮れ、居待の月指し出でて、海上も照らし渡り、社壇も弥輝きて、まことに面白かりければ、
常住の僧ども、
「聞こゆる御事なり」
とて御琵琶を参らせたりければ、経正これを弾きたまふに、上原石上の秘曲には、宮の中も澄み渡り、明神感応に堪へずして、経正の袖の上に、白竜現じて見えたまへり。忝なく嬉しさの余りに、なくなくかうぞ思ひつづけたまふ。
ちはやぶる神にいのりの叶へばや、しるくも色のあらはれにけり。
されば怨敵を目の前に平らげ、凶徒をただ今責め落とさむ事も、疑ひなしと悦んで、また船に取り乗って、竹生島をぞ出でられける。
火打合戦
木曽義仲、みづからは信濃にありながら、越前国火打城をぞ構へける。かの城郭に籠る勢、平泉寺長吏斉明威儀師、稲津新介、斉藤太、林六郎光明、富樫入道仏誓、土田、武部、宮崎、石黒、入善、佐美を始めとして、六千余騎こそ籠りけれ。火打本より究竟の城郭なり。磐石峙ち回って、四方に嶺を列ねたり。山を後ろにし、山を前にあつ。城郭の前には能美河、新道河とて流れたり。二つの河の落合に、大木を伐って逆茂木に曳き、柵をおびただしう掻き上げたれば、東西の山の根に、水塞きこうで湖に向へるが如し。影南山を浸して青くして滉漾たり。浪西日を沈めて紅にして隠淪たり。かの無熱池の底には、金銀の砂を敷き、昆明池の渚には、とくせいの船を浮べたり。この火打城の築池には、堤をつき、水を濁して、人の心を誑かす。船なくしては輒う渡すべきやうなければ、平家の大勢、向ひの山に宿して、徒に日数を送る。城の内にありける平泉寺長吏斉明威儀師、平家に志深かりければ、山の根を回って、消息を書き、蟇目の中に入れて忍びやかに平家の陣へぞ射入れたる。
「かの湖は往古の淵にあらず、一旦山川を塞き上げて候ふ。夜に入り、足軽どもを遣はして、柵を切り落とさせたまはば、水はほどなく落つべし。馬の足立つ好所で候へば急ぎ渡させたまへ。後矢は射て参らせむ。これは、平泉寺長吏斉明威儀師が申状」
とぞ書いたりける。大将軍大きに悦び、やがて足軽どもを遣はして、柵を切り落とす。おびただしう見えつれども、げにも山川なれば水はほどなく落ちにけり。平家の大勢暫しの遅々にも及ばず、さと渡す。城の内の兵ども暫し支へて防ぎけれども、敵は大勢なり、御方は無勢なりければ叶ふべしとも見えざりけり。平泉寺長吏斉明威儀師、平家に附いて忠をいたす。稲津新介、斉藤太、林六郎光明、富樫入道仏誓ここをば落ちて、なほ平家を背き加賀国に引き退き、白山河内に引き籠る。平家やがて加賀に打ち越えて、林、富樫が城郭二箇所焼き払ふ。何に面を向ふべしとも見えざりけり。近き宿々より飛脚を立ててこの由都へ申したりければ、大臣殿以下残り留まりたまふ一門の人々勇み悦ぶ事なのめならず。
同じき五月八日、加賀国篠原にて勢汰へあり、軍兵十万余騎を二手に分けて大手搦手へ向はれけり。大手の大将軍は小松三位中将維盛、越前三位通盛、侍大将には越中前司盛俊を始めとして、都合その勢七万余騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ向はれける。搦手の大将軍は、薩摩守忠度、参河守知度、侍大将には、武蔵三郎左衛門を先として、都合その勢三万余騎、能登越中の境なる志保の山へぞ懸かられける。木曽は越後の国府にありけるが、これを聞いて、五万余騎で馳せ向ふ。わが軍の吉例なればとて、七手に作る。先づ叔父の十郎蔵人行家、一万余騎で志保山へぞ向ける。仁科、高梨、山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦手に差し遣はす。樋口次郎兼光、落合五郎兼行七千余騎で南黒坂へ遣はしけり。一万余騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の柳原、茱萸木林に引き隠す。今井四郎兼平、六千余騎で鷲の瀬を打ち渡し、日宮林に陣を取る。木曽わが身は一万余騎で、をやべの渡をして、砥浪山の北のはづれはにふに陣をぞ取ったりける。
願書
木曽のたまひけるは、
「平家は定めて大勢なれば砥浪山打ち越えて、広みへ出でて懸け合ひの軍にてぞあらんずらむ。ただし懸け合ひの軍は、勢の多少による事なり。大勢かさに懸けて、取り籠められては悪かりなん。先づ旗差を先だてて、白旗を差しあげたらば平家これを見て、『あはや源氏の先陣は向ひたるは。定めて大勢にてぞあらん。左右なう広みへ打ち出でて、敵は案内者、われらは無案内なり、取り籠められては叶ふまじ。この山は四方岩石であんなれば、搦手へはよも回らじ、暫く下居て馬休まん』とて、山中にぞ下居んずらん。その時義仲暫会釈ふやうに持ちなして、日を待ち昏し、平家の大勢を倶利迦羅谷へ追ひ落とさうと思ふなり」
とて先づ白旗三十旒、先立てて、黒坂の上にぞ打ち立ったる。案の如く平家これを見て、
「あはや源氏の先陣は向ひたるは、定めて大勢ならん。左右なう広みへ打ち出でなば、敵は案内者、われらは無案内なり。取りこめられては悪かりなん。この山は四方岩石であんなり。搦手へはよも回らじ。馬の草飼水便どもによげなり、暫く下居て馬休まん」
とて、砥浪山の山中、猿の馬場といふ所にぞ下居たる。木曽は羽丹生に陣取って、四方をきっと見回せば、夏山の峯の緑の木の間より朱の玉垣ほのみえて、かたそぎ作の社あり。前に鳥居ぞ立ったりける。木曽殿国の案内者を召して、
「あれは何れの宮と申すぞ、いかなる神を崇め奉るぞ」
「あれは八幡でましまし候ふ。やがてこの所は八幡の御領で候ふ」
と申す。木曽殿大きに悦びて、手書に具せられたる大夫房覚明を召して、
「義仲こそ、幸に新八幡の御宝殿に近附き奉って、合戦を既に遂げんとすれ。いかやうにも今度の軍には相違なく勝ちぬと覚ゆるぞ。さらんにとては、かつは後代のため、かつは当時の祈祷にも願書を一筆書いて参らせばやと思ふはいかに」
覚明、
「尤然るべう候ふ」
とて、馬より下りて書かんとす。覚明が為体、あかぢの直垂に黒革威の鎧著て、黒漆の太刀を帯き、二十四差たる黒ほろの矢負ひ塗籠籐の弓脇に挟み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、箙より小硯畳紙取り出し木曽殿の御前に畏まって願書を書く。あはれ文武二道の達者かなとぞ見えにける。この覚明は、本儒家の者なり、蔵人道広とて、勧学院にありけるが、出家して最乗坊信救とぞ名乗りける。常は南都へも通ひけり。一とせ高倉宮の園城寺に入らせたまひし時、牒状を山奈良へ遣はしたりけるに、南都の大衆返牒をばこの信救にぞ書かせたりける。
「清盛は、平氏の糟糠、武家の塵芥」
と書いたりしを太政入道大きに怒って、
「その信救法師めが、浄海を平氏のぬかかす、武家のちりあくたと書くべきやうはいかに。その法師め搦め捕って、死罪に行へ」
とのたまふ間、南都をば逃げて北国へ落ち下り、木曽殿の手書して、大夫坊覚明とぞ名乗りける。その願書にいはく、
「帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の霊祖なり。宝祚を守らんがため、蒼生を利せんがために、三身の金容を顕し、三所の権扉をおし排きたまへり。爰に頃の年以来、平相国といふ者あり、四海を管領して万民を悩乱せしむ。これ既に仏法の怨、王法の敵なり。義仲苟も弓馬の家に生れて、僅に箕裘の塵を続ぐ。かの暴悪を案ずるに、思慮を顧みるに能はず。運を天道に任せて、身を国家に投ぐ。試みに義兵を起して、凶器を退けんと欲す。然るを闘戦両家の陣を合はすといへども、士卒いまだ一致の勇を得ざる間区々の心恐れたる所に、今一陣、旗を畳ぬる戦場にして、忽に三所和光の社壇を拝す。機感の純熟、明かなり、凶徒誅戮、疑ひなし。歓喜の涙こぼれて、渇仰肝に染む。就中に曾祖父前陸奥守義家朝臣、身を宗廟の氏族に帰附して、名を八幡太郎と号せしより以来、門葉たる者の帰敬せずといふことなし。義仲その後胤として、首を傾けて年久し。今この大功を発す事、譬へば嬰児の貝を以て巨海を量り、蟷螂が斧を怒かして隆車に向ふが如し。然れども国のため、君のためにしてこれを発す、家のため身のためにしてこれを起さず。志の至り神感天にあり。憑もしきかな、悦ばしきかな。伏して願くは、冥顕威を加へ、霊神力を戮せて勝事を一時に決し、怨を四方に退けたまへ。然らば則ち丹祈冥慮に叶ひ、玄鑑加護をなすべくば、先づ一の瑞相を見せしめたまへ。
寿永二年五月十一日 源義仲敬白」
と書いて、わが身を始めて、十三人が上矢の鏑を抜き、願書に取り具して、大菩薩の御宝殿にぞ納めける。憑もしきかな、八幡大菩薩の真実の志二なきをや遥に照覧したまひけん、雲の中より山鳩三つ飛び来たって源氏の白旗の上に翩翻す。昔神功皇后新羅を攻めさせたまひしに、御方の戦弱く、異国の軍強くして、既にかうと見えし時、皇后天に御祈誓ありしかば、霊鳩三つ飛び来たって、楯の面に顕れて、異国の軍敗れにけり。またこの人々の先祖、頼義の朝臣、貞任、宗任を攻めたまひしにも、御方の戦弱くして、凶徒の軍強かりしかば、頼義朝臣敵の陣に向って、
「これは全く私の火にはあらず、神火なり」
とて火を放つ。風忽に夷賊の方へ吹き掩ひ、貞任が館厨河の城焼けぬ。その後軍敗れて貞任、宗任亡びにき。木曽殿かやうの先蹤を忘れたまはず、馬より下り、甲を脱ぎ、手水鵜飼をして、今霊鳩を拝したまひけん心の中こそ憑もしけれ。
倶利迦羅落
さるほどに源平両方陣を合はす。陣のあはひ僅に三町ばかりに寄せ合はせたり。源氏も進まず、平家も進まず。源氏の方より、精兵十五騎楯の面に進ませて、十五騎が上矢の鏑を、平家の陣へぞ射入れたる。平家また策とも知らず、十五騎を出いて、十五の鏑を射返す。源氏三十騎を出いて、射さすれば、平家三十騎を出いて、三十の鏑を射返す。五十騎を出せば五十騎を出し合はせ、百騎を出せば百騎を出し合はせ、両方百騎づつ陣の面に進んだり。互に勝負をせんと疾りけれども、源氏の方より制して、勝負をせさせず。源氏はかやうにして日を暮し、平家の大勢を倶利迦羅谷へ追ひ落とさうとたばかりけるを、少しも悟らずして、共に会釈ひ日を暮すこそはかなけれ。次第に闇うなりければ北南より回れる搦手の勢一万余騎、倶利迦羅の堂の辺にまゐり合ひ、箙の方立打ち敲き、鬨をどっとぞ作りける。平家後を顧みければ、白旗雲の如く差し上りあり。この山は四方巌石であんなれば搦手よもまはらじとこそ思ひつるに、こはいかにとて噪ぎあへり。去るほどに、木曽殿大手より鬨の声をぞ作り合はせたまふ。松長の柳原、茱萸木林に一万騎引かへたりける勢も、今井四郎が六千余騎で、日宮林にありけるも同じう鬨をぞ作りける。前後四万騎が喚く声、山も河もただ一度に崩るるとこそ聞こえけれ。案の如く平家、次第に闇うはなる、前後より敵は攻め来る、
「きたなしや返せや返せ」
といふ族多かりけれども、大勢の傾立ちぬるは、左右なう取って返す事難ければ、倶利迦羅谷へ、われ先にとぞ落としける。ま先に落としたる者が見えねば、この谷の底に、道のあるにこそとて、親落とせば子も落とし、兄落とせば弟も続く。主落とせば家子郎等落としけり。馬には人、人には馬、落ち重り落ち重りさばかり深き谷一つを、平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける。巌泉血を流し、死骸岳をなせり。さればその谷の辺には、矢の穴刀の瑕今にありとぞ承る。平家には宗と憑まれたりける上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、河内判官秀国も、この谷に埋もれて失せにけり。備中国住人瀬尾太郎兼康といふ聞こゆる大力も、そこにて加賀国住人蔵光次郎成澄が手に懸って、生け捕りにせらる。越前国火打が城にて、返忠したりける平泉寺の長吏斉明威儀師も捕はれぬ。木曽殿、
「あまりに憎きにその法師をば先づ斬れ」
とて、斬られけり。平氏の大将維盛、通盛、希有の命生きて加賀国へ引き退く。七万余騎が中より、僅に二十余騎ぞ遁れたりける。
明る十二日奥の秀衡が許より、木曽殿へ竜蹄二匹奉る。一匹はつき毛一匹は連銭葦毛なり。やがてこれに鏡鞍置いて白山社へ神馬に立てられたり。木曽殿のたまひけるは、
「今は思ふ事なし。ただし十郎蔵人殿の、志保の戦こそ覚束なけれ。いざ行きて見ん」
とて、四万余騎が中より、馬や人を勝って、一万余騎で馳せ向ふ。氷見湊を渡さんとするに、折節潮満ちて深さ浅さを知らざりければ、鞍置馬十四ばかり追ひ入れたり。鞍爪浸るほどにて、相違なく向ひの岸へ著きにけり。
「浅かりけるぞ、渡せや」
とて一万余騎の大勢、皆打ち入れて渡しけり。案の如く十郎蔵人行家、散々に懸けなされ、引き退いて、馬の息休むる所に、木曽殿、
「さればこそ」
とて、荒手三万余騎、入れ替って平家三万余騎が中へをめいて駆け入り、揉みに揉んで火出づるほどにぞ攻めたりける。平家の兵ども暫し支へて防ぎけれども、こらへずして、そこをも遂に攻め落さる。平家の方には大将軍参河守知度討たれたまひぬ。これは入道相国の末子なり。侍ども多く亡びにけり。木曽殿は志保山打ち越えて、能登の小田中、親王の塚の前に陣を取る。
篠原合戦
そこにて諸社へ神領を寄せられけり。白山社へは横江、宮丸、菅生社へは能美の庄、多田の八幡へは蝶屋の庄、気比社へは飯原庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷を寄せられけり。
一年石橋山の合戦の時、兵衛佐殿射奉りし者ども、都へ逃げ上って、平家の方にぞ候ひける。宗との者には俣野五郎景久、長井斉藤別当実盛、伊藤九郎助氏、浮巣三郎重親、真下四郎重直、これらは暫く軍のあらん時まで休まんとて、日毎に寄合々々、巡酒をしてぞ慰みける。先づ実盛が許に寄合ひたりける日、斉藤別当申しけるは、
「倩この世の中の有様を見るに、源氏の御方は強く、平家の御方は、負色に見えさせたまひけり。いざおのおの木曽殿へ参らう」
と申しければ、皆、
「さなう」
と同じけり。次の日浮巣三郎が許に寄合ひたりける時、斉藤別当、
「さても昨日申しし事はいかに、おのおの」
その中に俣野五郎、進み出でて申しけるは、
「われらはさすが、東国では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。好きに附いて彼方へ参り、此方へ参らう事も、見苦しかるべし。人をば知り参らせず候ふ。景久においては、平家の御方にて、いかにも成らう」
と申しければ、斉藤別当あざ笑って、
「まことにはおのおのの御心どもをがな引き奉らんとてこそ申したれ。その上実盛は今度の軍に討ち死にせうと思ひ切って候ふ。二度都へ参るまじき由、人々にも申し置いたり。大臣殿へもこのやうを申し上げて候ふぞ」
といひければ、皆人この議にぞ同じける。さればその約束を違へじとや、当座にありし者ども、一人も残らず北国にて皆死にけるこそ無慚なれ。
さるほどに平家は人馬の息を休めて加賀国篠原に陣をとる。同じき五月廿一日の辰の一点に、木曽、篠原に押し寄せて鬨をどと作る。平家の方には、畠山庄司重能、小山田別当有重、去る治承より今まで召し籠められたりしを、
「なんぢらは故い者どもなり。軍のやうをもおきてよ」
とて、北国へ向けられたり。これら兄弟三百余騎で陣の面に進んだり。源氏の方より今井四郎三百余騎でうちむかふ。今井四郎、畠山始めは互に五騎十騎づつ出し合はせて、勝負をせさせ、後には両方乱れ合ってぞ戦ひける。五月廿一日午刻、草もゆるがず照す日に、われ劣らじと戦へば、遍身より汗出でて、水を流すに異ならず。今井が方にも兵多く亡びにけり。畠山、家子郎等残り少なに討ちなされ力及ばで引き退く。次に平家の方より、高橋判官長綱、五百余騎で進んだり。木曽殿の方より樋口次郎兼光、落合五郎兼行、三百余騎で馳せ向ふ。暫く支へて戦ひけるが、高橋勢は、国々の駆武者なれば、一騎も落ち合はず、われ先にとこそ落ち行きけれ。高橋心は猛く思へども、後あらはに成りければ、力及ばで引き退く。ただ、一騎落ちて行く所に越中国の住人入善小太郎行重、よき敵と目を懸け、鞭鐙を合せ馳せ来り、押し双べてむずと組む。高橋、入善を掴うで鞍の前輪に押し付け、
「わ君は何者ぞ、名乗れ聞かう」
といひければ、
「越中国の住人入善小太郎行重、生年十八歳」
と名乗る。
「あら無慚、去年おくれし長綱が子も今年はあらば十八ぞかし。わ君ねぢ切って捨つべけれども、助けん」
とて許しけり。わが身も馬より下り、暫く御方の勢待たんとて休み居たり。入善、
「われをば助けたれども、あはれ敵や、いかにもして討たばや」
と思ひ居たる所に、高橋打ち解けて物語しけり。入善勝れたる早わざの士で、刀を抜き、取って懸り、高橋が内甲を二刀さす。さるほどに、入善が郎党二騎後駆に来たって落ち合ひたり。高橋心は猛く思へども、運や尽きにけん、敵はあまたあり、痛手は負うつ、そこで遂に討たれにけり。
また平家の方より武蔵三郎左衛門有国、二百騎ばかりで喚いて懸く。源氏の方より、仁科、高梨、山田次郎、五百余騎で馳せ向ふ。暫く支へて戦ひけるが、有国が方の勢多く討たれぬ。有国深入りして戦ふほどに、矢種皆射尽して馬をも射させ、歩立ちになり、打物抜いて戦ひけるが、敵あまた討ち取り、矢七つ八つ射立てられて、立ち死ににこそ死にけれ。大将かやうになりしかば、その勢皆落ち行きぬ。
実盛
また武蔵国の住人長井斉藤別当実盛御方は皆落ち行けども、只一騎返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ。存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂に、萠黄威の鎧著て、鍬形打ったる甲の緒をしめ、金作りの大刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持って、連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍置いてぞ乗ったりける。木曽殿の方より、手塚太郎光盛よい敵と目をかけ、
「あなやさし。いかなる人にてましませば、御方の御勢は皆落ち候ふに、ただ一騎残らせたまひたるこそゆかしけれ。名乗らせたまへ」
と言葉を懸ければ、
「かういふわ殿は誰ぞ」
「信濃国の住人手塚太郎金刺光盛」
とこそ名乗ったれ。
「さては互によい敵ぞ。ただしわ殿をさぐるにはあらず、存ずる旨があれば、名乗るまじいぞよれ組まう手塚」
とて、押し双ぶる所に、手塚が郎党、後駆に馳せ来たって、主を討たせじと中に隔ったり、斉藤別当にむずと組む。
「あはれ己は日本一の剛の者にくんでうずな、うれ」
とて、取って引き寄せ鞍の前輪に押し付け、頸掻き切って捨てけり。手塚太郎、郎等が討たるるを見て、弓手に回り合ひ、鎧の草摺引き上げて、二刀刺し、弱る所に組んで落つ。斉藤別当心は猛く思へども、軍にはし疲れぬ、その上老武者ではあり、手塚が下に成りにけり。また手塚が郎等後れ馳せに出で来たるに首取らせ、木曽殿の御前に馳せ参って、
「光盛こそ奇異の曲者組んで討って候へ。侍かと見候へば、錦の直垂を著て候ふ。また大将軍かと見候へば、続く勢も候はず。名乗れ名乗れと責め候ひつれども、遂に名乗り候はず。声は坂東声にて候ひつる」
と申さば、木曽殿、
「あはれこれは斉藤別当でござんなれ。それならば、義仲が上野へこえたりし時、少目に見しかば、白髪の糟尾なりしぞ。今は定めて、白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎は、馴れ遊んで、見知りたるらん樋口召せ」
とて召されけり。樋口次郎ただ一目見て、
「あな無慚や、斉藤別当で候ひけり」
木曽殿、
「それならば、今は七十にも余り、白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いは何に」
とのたまへば、樋口次郎涙をはらはらと流いて、
「さ候へばそのやうを申し上げうと仕り候ふが、余りに哀で、不覚の涙のこぼれ候ふぞや。弓矢とりは、聊の所でも、思ひ出の詞をば棄て仕置くべきで候ひける者故、斉藤別当、兼光に逢って、常は物語に仕り候ひし。『六十に余って、軍の陣へ向はん時は、鬢鬚を黒う染めて、若やがうと思ふなり。その故は若殿原に争ひて、先を懸けんも長げなし。また老武者とて人の侮らんも口惜かるべし』と申し候ひしが、まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧じ候へ」
と申しければ、さもあらんとて、洗はせて見たまへば、白髪にこそなりにけれ。
錦の直垂を著たりける事は、斉藤別当最後の暇申すに大臣殿へ参って申しけるは、
「実盛が身一つの事では候はねども、一年東国へ向ひ候ひし時、水鳥の羽音に驚いて矢一つだにも射ずして、駿河国の蒲原より逃げ上って候ひし事、老後の恥辱、ただこの事に候ふ。今度北国へ向ひては、討ち死に仕り候ふべし。さらんにさては、実盛、本は越前国の者で候ひしかども、近年御領に就いて、武蔵の長井に居住せしめ候ひき。事の譬へ候ふぞかし。故郷へは錦を著て帰れとこそ承る事の候へ。錦の直垂御許し候へ」
と申しければ、大臣殿、
「優うも申したるもの哉」
とて、錦の直垂を御免許ありけるとぞ聞こえし。昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空き名のみ留め置き、骸は越路の末の塵となるこそ悲しけれ。
去んぬる四月十七日、十万余騎にて都を立ちし事柄は、何に面を向ふべしとも見えざりしに、今五月下旬に帰り上るには、その勢僅に万余騎、
「流を尽して漁る時は、多くの魚を得といへども、明年に魚なし。林を焼て猟る時は、多くの獣を得といへども、明年に獣なし。後を存じて、少々は残さるべかりけるものを」
と、申す人々もありけるとかや。
還亡
上総守忠清、飛騨守景家はをととし入道相国薨ぜられける時、ともに出家したりけるが、今度北国にて子ども皆亡びぬときいてそのおもひのつもりにや、終に歎き死にぞ死にける。これを始めて親は子に後れ、婦は夫に別れ、およそ遠国近国もさこそありけめ。京中には、家々に門戸を閉ぢて、声々に念仏申し、喚き叫ぶ事おびただし。
六月一日蔵人右衛門権佐定長、神祇権少副大中臣親俊を、殿上の下口へ召して、兵革靖まらば、大神宮へ行幸なるべき由おほせ下さる。大神宮は高天原より天降せたまひしを垂仁天皇の御宇、廿五年三月に、大和国笠縫の里より、伊勢国渡会の郡、五十鈴の河上、下津磐根に大宮柱をふとしきたて、祝ひ初め奉ってより以降、日本六十余州、三千七百五十余社の、大小の神祇冥道の中には無双なり。されども、代々の御門臨幸はなかりしに、奈良の御門の御時左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛権少将兼大宰少弐藤原広嗣といふ人ありけり。天平十五年十月、肥前国松浦郡にして、数万の凶賊を語らって、国家を既に危めんとす。これによって大野東人を大将軍にて、広嗣追討せられし時、始めて大神宮へ行幸なりけるとかや、その例とぞ聞こえし。かの広嗣は肥前の松浦より都へ一日に下り上る馬を持たりけり。追討せられし時も、御方の凶賊落ち行き、皆亡びて後、件の馬に打ち乗って、海中へ馳せ入りけるとぞ聞こえし。その亡霊あれて、怖き事ども多かりける中に、天平十六年六月十八日、筑前国御笠郡、大宰府の観世音寺、供養せられし導師には、玄昉僧正とぞ聞こえし。高座に上り敬白の鐘打ち鳴らす時、俄に空掻き曇り雷おびただしう鳴って、玄昉の上に落ち懸り、その首を取って雲の中へぞ入りにける。これは広嗣調伏したりける故とぞ聞こえし。
この僧正は吉備大臣入唐の時、相伴って渡り、法相宗渡したりし人なり。唐人が玄昉といふ名を笑って、
「玄昉は還り亡ぶといふ音あり。いかやうにも、帰朝の後事に逢ふべき人なり」
と相したりけるとかや。同じき天平十九年六月十八日、髑髏に玄昉といふ銘を書いて、興福寺の庭に落とし、虚空に人ならば千人ばかりが声にて、どと笑ふ事ありけり。興福寺は法相宗の寺たるによってなり。かの僧正の弟子どもこれを取って、塚を築き、その首を納めて、頭墓と名づけて、今にあり。これ即ち広嗣が霊の致す所なり。これによってかの亡霊を崇められて、今松浦の鏡宮と号す。
嵯峨皇帝の御時は平城先帝、尚侍の勧めによって、世を乱りたまひし時、その御祈りのために、御門第三皇女祐智子内親王を、賀茂の斎院に奉らせたまひけり。これ斎院の始めなり。朱雀院の御宇には、将門純友が兵乱によって八幡の臨時の祭を始めらる。今度もかやうの例を以てさまざまの御祈りども始められけり。
木曽山門牒状
木曽、越前の国府について、家子郎等召し集めて評定す。
「そもそも義仲近江国を経てこそ、都へは入らんずるに、例の山僧どもは防ぐ事もやあらんずらん。懸け破って通らん事は安けれども、平家こそ当時は仏法ともいはず、寺を亡ぼし、僧を失ひ、悪行をば致せ。それを守護のために上洛せん者が、平家と一つになればとて、山門の大衆に向って、軍せん事、少しも違はぬ二の舞なるべし。これこそさすが安大事よ。いかにせん」
とのたまへば手書に具せられたる大夫坊覚明進み出でて申しけるは、
「山門の衆徒は三千候ふ、必ず一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候ふなり。あるいは源氏に付かんと申す衆徒も候ふらん、あるいは平家に同心せんといふ大衆も候ふらん、牒状を遣はして御覧候へ。事のやう返牒に見え候はんずらん」
と申しければ、
「この議尤も然るべし、さらば書け」
とて、覚明に牒状書かせて、山門へ送る。その状にいはく、
「義仲倩平家の悪逆を見るに、保元平治より以来、永く人臣の礼を失ふ。然りといへども、貴賤手を束ね、緇素足を戴く。恣に帝位を進退し、飽くまで国郡を掠領す。道理非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。その資財を奪ひ取って、悉く郎従に与へ、かの庄園を没収して、猥しく子孫に省む。就中、去んぬる治承三年十一月、法皇を城南の離宮に遷し奉り、博陸を海西の絶域に流し奉る。衆庶言はず、道路目を以てす。加之同じき四年五月、二の宮の朱閣を囲み奉り、九重の垢塵を驚かさしむ。爰に帝子非分の害を逃れんがために、竊に園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨をたまはるによって、鞭を揚げんとする所に、怨敵巷に満ちて、予参路を失ふ。近境の源氏、なほ参候せず、況や遠境においてをや。然るを園城は分限なきによって、南都へ趣かしめたまふ間に宇治橋にて合戦す。大将三位入道頼政父子、命を軽んじ義を重んじて、一戦の功を励ますといへども、多勢の責を免かれず、形骸を古岸の苔にさらし、生命を長河の波に流す。令旨の趣、肝に銘じ、同類の悲、魂を消す。これによって東国北国の源氏等、おのおの参洛を企て、平家を亡ぼさんと欲す。義仲去年の秋、宿意を達せんがために、旗を挙げ剣を取って、信州を出でし日、越後国の住人、城の四郎長茂、数万の軍兵を率して発向せしむる間、当国横田河原にして合戦す。義仲僅に三千余騎を以て、かの数万の兵を破り畢ぬ。風聞広きに及んで、平氏の大将十万の軍士を率して、北陸に発向す。越州、加州、砥浪、黒坂、塩坂、篠原以下の城郭にして、数箇度合戦す。策を帷幄の中に運らして、勝事を咫尺のもとに得たり。然るを討っては必ず伏し、攻むれば必ず降る。秋風の芭蕉を破るに異ならず。冬の霜の群葉を枯すに同じ。これ偏に神明仏陀の助けなり、更に義仲が武略にあらず。平氏敗北の上は、参洛を企つるものなり。今叡岳の麓を過ぎて、洛陽の衢に入るべし。この時に当って、竊に疑殆あり。そもそも天台の衆徒、平家に同心か、源氏に与力か。若しかの逆徒を助けらるべくば、衆徒に向って合戦すべし。若し合戦をいたさば、叡岳の滅亡踵をめぐらすべからず。悲哉、平氏宸襟を悩し、仏法を滅す間、悪逆を静めんがために、義兵を発す所に、忽ち三千の衆徒に向って、不慮の合戦を致さんことを。痛哉、医王、山王に憚り奉って、行程に逗留せしめば、朝廷緩怠の臣として、永く武略瑕瑾の謗を遺さんことを。猥しく進退に迷って、案内を啓する所なり。庶幾三千の衆徒神のため、仏のため国のため、君のために源氏に同心して、凶徒を誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪へず。義仲恐惶謹言。
寿永二年六月十日 源義仲
進上 恵光坊律師御房」
とぞかいたりける。
返牒
案の如く、山門の大衆この状を披見して、僉議区々なり。あるいは源氏に付かんといふ衆徒もあり、あるいはまた平家に同心せんといふ大衆もあり。思々異議区々なり。老僧どもの僉議しけるは、
「詮ずる所、われら専ら金輪聖主天長地久と祈り奉る。平家は当代の御外戚、山門において帰敬を致さる。されば今に至るまでかの繁昌を祈誓す。然りといへども悪行法に過ぎて、万人これを背く。討手を国々へ遣はすといへども、却って異賊のためにほろぼさる。源氏は近年より以降、度々の軍に討ち勝って、運命開けんとす。何ぞ当山独宿運尽きぬる平家に同心して、運命開くる源氏を背かんや。須く平家値遇の義を翻して、源氏合力の旨に任ずべき」
由、一味同心に僉議して、返牒を送る。木曽殿また家の子郎等を召し集めて、覚明にこの返牒を開かせらる。
「六月十日の牒状、同じき十六日到来、披閲の所に数日の鬱念一時に解散す。およそ平家の悪逆累年に及んで朝廷の騒動止む時なし。事人口にあり、遺失するに能はず。それ叡岳に至っては、帝都東北の仁祠として、国家静謐の精祈を致す。然るを、一天久しくかの天逆に侵されて、四海鎮に、その安全を得ず。顕密の法輪なきが如く、擁護の神威屡すたる。爰に貴家適累代武備の家に生れて、幸に当時清選の仁たり。予じめ奇謀を回らして忽に義兵を起す。万死の命を忘れて一戦の功をたつ。その労いまだ両年を過ぎざるに、その名既に四海に流る。吾山の衆徒、且々以て承悦す。国家のため、累家のため、武功を感じ、武略を感ず。この如くならば、則ち山上の精祈空しからざる事を悦び、海内の衛護怠りなき事を知んぬ。自寺、他寺、常住の仏法、本社、末社、祭奠の神明、定めて教法の再び栄えんことを喜び、崇敬のふるきに復せんことを随喜したまふらむ。衆徒等が心中、ただ賢察を垂れよ。然らば則ち、冥には十二神将、医王善逝の使者として凶賊追討の勇士にあひ加り、顕には三千の衆徒、暫く修学鑽仰の勤節を止めて、悪侶治罰の官軍を扶けしめん。止観十乗の梵風は、奸侶を和朝の外に払ひ、瑜伽三密の法雨は、時俗を堯年の昔に回さん。衆議かくの如し。倩これを察せよ。
寿永二年七月二日 大衆等」
とぞ書いたりける。
平家山門連署
平家はこれを夢にも知らずして、興福園城両寺は、鬱憤を含める折節なれば、語らふとも靡かじ。当家はいまだ山門のために怨を結ばず、山門また当家のために不忠を存ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を語らはばやとて、一門公卿十人、同心連署の願書を書いて、山門へ送る。その状にいはく、
「敬白
延暦寺を以て氏寺に准じ、日吉社を以て氏社として、一向天台の仏法を仰ぐべき事
右当家一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣いかんとなれば、叡山はこれ桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝の後、円頓の教をこの所に広め、遮那の大戒をその内に伝へてより以降、専ら仏法繁昌の霊崛として、鎮護国家の道場に備ふ。方に今伊豆国流人、源頼朝、身の咎を悔いず、却って朝憲を嘲る。加之奸謀に与して、同心を致す源氏等、義仲、行家以下党を結んで数あり。隣境遠境数国を掠領し、土宜土貢万物を押領す。これによってあるいは累代勲功の跡を逐ひ、あるいは当時弓馬の芸に任せて、速に賊徒を追討し、凶党を降伏すべき由、苟くも勅命を含んで類に征伐を企つ。爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利を得ず、星旄電戟の威、逆類勝に乗るに似たり。若し神明仏陀の加被にあらずば、いかでか反逆の凶乱を鎮めん。これを以て、一向天台の仏法に帰し、併せて日吉の神恩を憑み奉らまくのみ。何ぞ況や忝なく、臣等が曩祖を思へば本願の余裔といひつべし。弥、崇重すべし、弥、恭敬すべし。自今以後、山門に悦びあらば一門の悦びとし、社家に憤りあらば一家の憤りとして、おのおの子孫に伝へて永く失墜せじ。藤氏は春日社興福寺を以て氏社氏寺として、久しく法相大乗の宗に帰す。平氏は日吉社延暦寺を以て、氏社氏寺として、目の当り円実頓悟の教に値遇せん。かれは昔の遺跡なり、家のため栄幸を思ふ。これは今の誓祈なり、君のため追罰を請ふ。仰ぎ願くは、山王七社、王子眷属、東西満山護法聖衆、十二上願医王善逝、日光月光十二神将、無二の丹誠を照して、ただ一の玄応を垂れたまへ。然る間邪謀逆心の賊、手を軍門につかね、暴逆残害の輩、首を京土に伝へん。よって当家の公卿等、異口同音に礼をなして祈誓如件。
従三位行兼越前守平朝臣通盛
従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛
正三位行右近衛権中将兼伊予守平朝臣維盛
正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重衡
正三位行右衛門督兼近江遠江守平朝臣清宗
参議正三位皇太后宮大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛
従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛
従二位行権中納言兼肥前守平朝臣教盛
正二位行権大納言兼出羽陸奥按察使平朝臣頼盛
従一位平朝臣宗盛
寿永二年七月五日 敬白」
とぞ書かれたる。
貫首これを憐みたまひて、左右なう披露せられず。十禅師権現の御殿に籠って、三日加持して、その後衆徒に披露せらる。始めはありとも見えざりし一首の歌願書の上巻に、出で来たり。
平かに花咲く宿も年ふれば、西へ傾く月とこそなれ。
山王大師これに憐みを垂れたまひ、三千の衆徒力を合せよとなり。されども年ごろ日ごろの振舞ひ、神慮にも違ひ、人望にも背きにければ、祈れども叶はず語らへども靡かざりけり。大衆まことに、事の体を憐みけれども、
「既に源氏に同心の返牒を送る。今また軽々しく、その議を改むるに能はず」
とてこれを許容する衆徒もなし。
主上都落
同じき七月十四日、肥後守貞能、鎮西の謀反平らげて、菊池、原田、松浦党以下、三千余騎を召し具して上洛す。鎮西は、纔に平らげども、東国、北国の軍いかにも静まらず。
同じき二十二日の夜半ばかり、六波羅の辺おびただしう騒動す。馬に鞍置き腹帯しめ、物ども東西南北へ運び隠す。ただ今敵の打ち入りたるやうなり。明けて後聞こえしは、美濃源氏、佐渡衛門尉重貞といふ者あり。一年保元の合戦の時、鎮西八郎為朝が、方の軍に負けて、落人となりたりしを搦めて出だしたりし勧賞に、本は兵衛尉たりしが、その時右衛門尉になりぬ。これによって一門にはあたまれて、平家に諂ひけるが、その夜の夜半ばかり六波羅に馳せ参って申しけるは、木曽すでに北国より五万余騎で攻め上り、比叡山東坂本に充満って候ふ。郎等に楯六郎親忠、手書に大夫坊覚明、六千余騎で、天台山に競ひ登り、三千の衆徒皆同心して、ただ今都へ攻め入る由申したりける故なり。平家の人々大に噪いで、方々へ討手を向けられけり。大将軍には新中納言知盛卿、本三位中将重衡卿、都合その勢三千余騎都を立って先づ山階に宿せらる。越前三位通盛、能登守教経、二千余騎で宇治橋をかためらる。左馬頭行盛、薩摩守忠度、一千余騎で淀路を守護せられけり。陸奥新判官義康が源氏の方には、十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋より入るとも聞こえけり。摂津河内の源氏等雲霞の如くに同じう都へ乱入の由聞こえしかば、平家の人々この上はただ一所にていかにもなりたまへとて、方々へ向はれたる討手ども都へ皆呼び返されけり。帝都、名利の地、鶏鳴て安き事なし。治れる世だにもかくの如し。況や乱れたる世においてをや。吉野山の奥の奥へも入らばやとは思はれけれども、諸国七道、悉く背きぬ。何れの浦か穏しかるべき。三界無安なほ如火宅とて如来の金言一乗の妙文なれば、なじかは少しも違ふべき。
同じき七月廿四日の小夜更方に、前内大臣宗盛公、建礼門院の渡らせたまふ六波羅殿へ参って申されけるは、
「この世の中の有様、さりともと存じ候ひつるに今はかうにこそ候ふなれ。ただ都の内でいかにもならんと人々は申しあはれ候へども、目のあたり浮目を見せ参らせんも口惜しう候へば、院をも内をも取り奉って、西国の方へ御幸行幸をもなし参らせて見ばやとこそ思ひなって候へ」
と申されければ、女院、
「今はただともかうもそこの計らひにてこそあらんずらめ」
とて御衣の御袂に余る御涙塞きあへさせたまはず。大臣殿も直衣の袖絞るばかりに見えられけり。その夜法皇をば内々平家の取り奉って、都の外へ落ち行くべしといふ事をきこしめされてやありけん、按察使大納言資方卿の子息右馬頭資時ばかり御伴にて、竊に御所を出でさせたまひ鞍馬へ御幸なる。
平家の侍橘内左衛門尉季康といふ者あり。人これを使はれけり。その夜しも法住寺殿に御宿直して候ひけるに、常の御所の方に喋がしうさうめきあひて、女房達忍ねに泣くなどしたまへば、何事やらんと聞くほどに、
「法皇の俄に見えさせたまはぬは、何方へ御幸やらん」
といふ声を聞きなしつ。
「あな浅まし」
とて、やがて六波羅へ馳せ参り、大臣殿にこの由申しければ、
「いで僻事でぞあらん」
とのたまひながら、聞きもあへず、急ぎ法住寺殿へ馳せ参って見参させたまへども、げに見えさせたまはず。御前に候はせたまふ女房達、二位殿、丹後殿以下、一人もはたらきたまはず、
「いかにやいかに」
と申されけれども、
「われこそ御行方知り参らせたれ」
と申さるる人、一人もおはせず、皆あきれたるやうなりけり。
さるほどに、法皇都の内にも渡らせたまはずと申すほどこそありけれ、京中の騒動斜ならず。況や平家の人々の遽て噪がれける有様、家々に敵の打ち入りたりとも、限あればこれには過ぎじとぞ見えし。日ごろは平家院をも内をも取り参らせて、西国の方へ御幸行幸をもなしたてまつらんと支度せられたりしに、かく打ち捨てさせたまひぬれば、憑む木の本に雨のたまらぬ心地ぞせられける。
さりとては行幸ばかりなりともなし参らせよとて、卯刻ばかりに既に行幸の御輿寄せたりければ、主上は今年六歳、いまだ幼なうましませば何心もなう召されけり。御母儀建礼門院御同輿に参らせたまふ。
「内侍所、神璽、宝剣、渡し奉る。印鑰、時札、玄上、鈴鹿などをも取り具せよ」
と平大納言時忠卿下知せられけれども、余りに遽噪いで、取り落とす物ぞ多かりける。昼の御座の御剣などをも取り忘れさせたまひけり。やがてこの時忠卿、内蔵頭信基、讃岐中将時実三人ばかりぞ、衣冠にて供奉せられける。近衛司、御綱佐、甲冑をよろひ弓箭を帯して、供奉せらる。七条を西へ朱雀を南へ行幸なる。
明くれば七月廿五日なり。漢天既に開きて、雲東嶺にたなびき、明方の月白く冴えて、鶏鳴また忙し。夢にだにかかる事は見ず。一年都遷とて俄にあわただしかりしは、かかるべかりける先表とも今こそ思ひ知られけれ。
摂政殿も行幸に供奉して、御出なりけるが、七条大宮にて、髫結たる童子の、御車の前をつと走り通るを御覧ずれば、かの童子の左の袂に、
「春の日」
といふ文字ぞ顕れたる。
「春の日」
と書いては
「春日」
と読めば、法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を守らせたまひけりと、憑もしくおぼしめす所に、件の童子の声と覚しくて、
いかにせん藤の末葉のかれゆくを、ただ春の日に任せてや見ん。
御伴に候ふ進藤左衛門尉高直を近う召して、
「倩事の体を案ずるに行幸はなれども、御幸もならず、行末憑もしからずおぼしめすはいかに」
とおほせければ、御牛飼に目を見合せたり。やがて心得て、御車を遣りかへし、大宮を上りに飛ぶが如くに仕り、北山の辺、知足院へ入らせたまふ。
維盛都落
平家の侍越中次郎兵衛盛嗣これを承って逐ひ留め参らせんと頻に進み出でけるが、人々に制せられて留まりけり。
小松三位中将維盛卿は、日ごろよりおぼしめし設けられたりけれども、指当っては悲しかりけり。北方と申すは、故中御門新大納言成親卿の御娘なり。桃顔露に綻び、紅粉眼に媚をなし、柳髪風に乱るる粧、また人あるべしとも見えたまはず。六代御前とて、生年十になりたまふ若君、その妹八歳の姫君おはしけり。この人々皆後れじと慕ひたまへば、三位中将のたまひけるは、
「日ごろ申ししやうに、われは一門に具して、西国の方へ落ち行くなり。いづくまでも具足し奉るべけれども、道にも敵待つなれば、心安う通らん事もありがたし。縦ひわれ討たれたりと聞きたまふとも、やうなど替へたまふ事はゆめゆめあるべからず。その故は、いかならん人にも見えて、身をも助け、少き者どもをも育みたまふべし。情を懸くる人も、などかなかるべき」
と、慰めたまへども、北方とかうの返事もしたまはず引き被いてぞ臥したまふ。既に打ち立たんとしたまへば、袖にすがって、
「都には父もなし母もなし、捨てられ参らせて後、誰にかは身をなげき、いかならん人にも見えよなど承るこそ恨めしけれ。前世の契りありければ、人こそ憐みたまふとも、また人毎にもや情を懸くべき。いづくまでも伴ひ奉り、同じ野原の露とも消え、一つ底の水屑ともならんとこそ契りしに、されば小夜の寝覚の睦語は、皆偽になりにけり。責めては身一つならばいかにがせん。捨てられ奉る身の憂さ、思ひ知りても留まりなん。少き者どもをば、誰に見譲り、いかににせよとかおぼしめす。恨めしうも留めたまふもの哉」
と、且は恨み且は慕ひたまへば、三位中将のたまひけるは、
「まことに人は十三、われは十五より見初め奉り、火の中水の底へも、倶に入り倶に沈み、限ある別路までも後れ先立たじとこそ申ししかども、かく心憂き有様にて、軍の陣へ趣けば、具足し奉って、行方も知らぬ旅の空にて、憂目を見せ奉らんも、うたてかるべし。その上今度は用意も候はず。いづくの浦にも心安う落ち著いたらば、それよりこそ迎へに人をも奉らめ」
とて、思ひ切ってぞ立たれける。中門の廊に出でて、鎧取って著、馬引き寄せさせ、既に乗らんとしたまへば、若君姫君走り出でて、父の鎧の袖、草摺に取り付き、
「これはされば何地へとて、渡せたまふぞ。われも参らん、われも行かん」
と面々に慕ひ泣きたまふにぞ、浮世のきづなと覚えて、三位中将、いとど為方なげには見えられける。
さるほどに御弟新三位中将資盛卿、左中将清経、同じき少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛、兄弟五騎馬に乗りながら、門の中へ打ち入り、庭にひかへて、
「行幸は遥に延させたまひぬらん、いかにや今まで」
と、声々に申されければ、三位中将馬に打ち乗って出でたまふが、なほ引き返し、縁の際へうち寄せて、弓の弭で御簾をさと掻き揚げ、
「これ御覧ぜよおのおの、少き者どもが余りに慕ひ候ふを、とかうこしらへ置かんと仕るほどに、存の外の遅参」
とのたまひもあへず、泣かれければ、庭にひかへたまへる人々、皆鎧の袖をぞ濡されける。
ここに斉藤五、斉藤六とて、兄は十九、弟は十七になる侍あり。三位中将の御馬の左右のみづつきに取著き、いづくまでも御とも仕るべき由申せば、三位中将のたまひけるは、
「己等が父斉藤別当北国へ下りし時、なんぢ等が頻に伴せうといひしかども、存ずる旨があるぞとて、なんぢ等を留め置き、北国へ下って遂に討ち死にしたりけるは、かかるべかりける事を、故い者で、兼ねて知りたりけるにこそ。あの六代を留めて行くに、心安う扶持すべき者のなきぞ。誰理を枉げて留まれ」
とのたまへば、力及ばず、涙を押へて留まりぬ。北方は、
「年ごろ日ごろ、これほど情なかりける人とこそ、兼ねても思はざりしか」
とて臥しまろびてぞ泣かれける。若君姫君女房達は、御簾の外までまろびいで、人の聞きをも憚らず声をはかりにぞ喚き叫びたまひける。この声々耳の底に留まって、西海の立つ浪の上、吹く風の音までも聞くやうにこそ思はれけめ。
平家都を落ち行くに、六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下、一門の卿相雲客の家々、二十余箇所、次々の輩の宿所々々、京白川に四五万の在家一度に火をかけて、皆焼き払ふ。
聖主臨幸
あるいは聖主臨幸の地なり。鳳闕空しく礎を残し、鸞輿ただ跡を留む。あるいは后妃遊宴の砌なり。椒房の嵐声悲み、掖庭の露色愁ふ。粧鏡翠帳の基、戈林釣渚の館、槐棘の座、鴛鸞の栖、多日の経営を空うして、片時の灰燼となり果てぬ。況や郎従の蓬篳においてをや。況や雑人の屋舎においてをや。余炎の及ぶ所、在々所々数十町なり。強呉忽に亡びて、姑蘇台の露荊棘に移り、暴秦既に衰へて、咸陽宮の烟陛階を隠しけんも、かくやと覚えて哀なり。日ごろは函谷二崤の嶮しきを固うせしかども、北狄のためにこれを破られ、今は江河涇渭の深きを憑みしかども、東夷のためにこれを取られたり。豈図らんや、忽に礼儀の郷を攻め出されて、泣く泣く無智の境に身を寄せんとは。昨日は雲の上にて雨を降らす神龍たりき。今日は肆の辺に水を失ふ枯魚の如し。禍福道を同うし、盛衰掌を反す。今目前にあり、誰かこれを悲しまざらん。
保元の昔は春の花と栄えしかども、寿永の今は秋の紅葉と落ち果てぬ。去んぬる治承四年七月大番のために上洛したりける畠山庄司重能、小山田別当有重、宇都宮左衛門尉朝綱、寿永まで、召し籠められたりしが、その時既に斬るべかりしを、新中納言知盛卿申されけるは、
「御運だに尽きさせたまひなば、これら百千人が頸を斬らせたまひたりとも、世を取らせたまはん事難かるべし。故郷には妻子所従等いかにに歎き悲み候ふらん。若し不思議に運命開けて、また都へ立ち帰らせたまはん時は、ありがたき御情でこそ候はんずれ。ただ理を枉げて、本国へ返し遣はさるべうや候ふらむ」
と申されければ、大臣殿、
「この議尤も然るべし」
とて暇をたまふ。これら首を地に著け、涙を流いて申しけるは、
「去んぬる治承より今までかひなき命を扶けられ参らせて候へば、いづくまでも御供仕って行幸の御ゆくへを見参らせん」
と頻に申しけれども、大臣殿、
「なんぢ等が魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべきやうなし。急ぎ下れ」
とおほせられければ、涙を押へて下りけり。これらも二十余年の主なれば、別れの涙押へ難し。
忠度都落
薩摩守忠度は、いづくよりか帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身共に七騎取って返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見たまへば門戸をとぢて開かず。忠度と名乗りたまへば、落人帰り来たりとて、その内噪ぎあへり。
薩摩守馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、
「別の子細候はず、三位殿に申すべき事あって、忠度が帰り参って候ふ。門を開かれずとも、この際まで立ち寄らせたまへ」
とのたまへば、俊成卿、
「さる事あるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」
とて、門をあけて対面あり。事の体何となうあはれなり。薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承って後、愚ならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二三年は京都の噪、国々の乱併当家の身の上の事に候ふ間疎略を存せずといへども、常に参り寄る事も候はず。君既に都を出でさせたまひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。撰集のあるべき由承りしかば、生涯の面目に、一首なりとも御恩を蒙らうと存じて候ひしに、やがて世の乱出で来て、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の歎きと存じ候ふ。世静まり候はなば勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻物の中に、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙って、草の蔭にても嬉しと存じ候はば、遠き御守りとこそなり参らせ候はんずれ」
とて、日ごろ詠み置かれたる歌どもの中に、秀歌と覚しきを百余首書き集められたる巻物を、今はとて打ち立たれける時、これを取って持たれたりしが、鎧の引合せより取り出でて、俊成卿に奉る。三位これをあけて見て、
「かかる忘れ形見をたまはり置き候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑あるべからず。さてもただ今の御渡りこそ情も勝れて深う、哀も殊に思ひしられて感涙抑へ難う候へ」
とのたまへば、薩摩守悦びて、
「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野に尸をさらさばさらせ、浮世に思ひ置く事候はず。さらば暇申して」
さて、馬に打ち乗り、甲の緒をしめ、西を指いてぞ歩ませたまふ。三位後を遥に見送って立たれたれば、忠度の声と覚しくて、
「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳す」
と、高らかに口ずさみたまへば、俊成卿、いとど名残惜しう覚えて、涙を抑へてぞ入りたまふ。
その後世静まって、千載集を撰ぜられけるに、忠度のありし有様、言ひ置きし言の葉、今更思ひ出でて哀なりければ、かの巻物の中に、さりぬべき歌幾らもありけれども、勅勘の人なれば、名字をば顕されず、
「故郷花」
といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、読人しらずと入られける。
さざ浪や志賀の都はあれにしを、昔ながらの山桜かな。
その身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりし事どもなり。
経正都落
修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正、幼少にては、仁和寺の御室の御所に、童形にて、候はれしかば、かかる怱劇の中にも、その御名残惜しとおぼし出でて、侍五六騎具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門前にて馬より下り、申し入られけるは、
「一門運尽きて今日既に帝都を罷り出で候ふ。浮世に思ひ残す事とては、ただ君の御名残ばかりなり。八歳の時参り始め候ひて、十三で元服仕り候ひしまでは、相労る事の候はぬ外は、白地にも御前を立ち去る事も候はざりしに、今日より後西海千里の浪路に趣いて、また何の日、何の時、帰り参るべしとも覚えぬこそ口惜う候へ。今一度御前へ参って、君をも見参らせたう候へども、既に甲冑を鎧ひ弓箭を帯し、あらぬやうなる粧に罷りなって候へば、憚り存じ候ふ」
とぞ申されける。御室哀におぼしめし、
「ただその姿を改めずして参れ」
とこそおほせけれ。経正その日は、紫地の錦の直垂に、萠黄匂の鎧著て、長覆輪の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓脇に挟み、甲をば脱ぎ高紐にかけ、御前の御坪に畏まる。御室やがて御出あって、御簾高く揚げさせ、
「これへこれへ」
と召されければ、大床へこそ参られけれ。供に具せられたる藤兵衛有教を召す。赤地の錦の袋に入れたる御琵琶持って参ったり。経正これを取り次いで、御前にさし置き申されけるは、
「先年下し預かって候ひし青山持たせて参って候ふ。余りに名残は惜しう候へども、さしもの名物を、田舎の塵にならん事口惜う候ふ。若し不思議に運命開けて、また都へ立ち帰る事候はば、その時こそなほ下し預かり候はめ」
と泣く泣く申されければ、御室哀におぼしめし一首の御詠をあそばいて下されけり。
あかずして別るる君が名残をば、後の形見につつみてぞおく。
経正御硯下されて、
呉竹のかけひの水はかはれども、なほすみあかぬ宮の中かな。
さては暇申して出でられけるに、数輩の童形、出世者、坊官、侍僧に至るまで、経正の袂にすがり、袖を引かへて、名残を惜み、涙を流さぬはなかりけり。その中にも経正幼少の時、小師でおはせし大納言法印行慶と申すは、葉室大納言光頼卿の御子なり。余りに名残を惜みて、桂河の端まで打ち送り、さてもあるべきならねばそれより暇請うて泣く泣く別れたまふに、法印かうぞ思ひ続けたまふ。
あはれなり老木若木も山桜、おくれ先だち花は残らじ。
経正の返事には、
旅衣よなよな袖をかたしきて、思へばわれは遠くゆきなん。
さて、巻いて持たせられたる赤旗、さと指し上げたり。あそこここにひかへて待ち奉る侍ども、
「あはや」
とて馳せ集まり、その勢百騎ばかり鞭をあげ、駒を早めて、ほどなく行幸に逐ひつき奉る。
青山之沙汰
この経正十七の年、宇佐の勅使を承ってくだられけるに、その時青山をたまはって、宇佐へ参り、御殿に向ひ奉り、秘曲を弾きたまひしかば、いつ聞き馴れたる事はなけれども、供の宮人推し並べて、緑衣の袖をぞ絞りける。聞き知らぬ奴子までも村雨とは紛はじな。目出たかりし事どもなり。
かの青山と申す御琵琶は、昔仁明天皇御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏渡唐の時、大唐の琵琶博士廉姜夫に逢ひ、三曲を伝へて帰朝せしに、玄象、獅子丸、青山、三面の琵琶を相伝して渡りけるが、龍神や惜みたまひけん、浪風荒く立ちければ、獅子丸をば海底に沈めぬ。今二面の琵琶を渡して、吾朝の御門の御宝とす。
村上聖代応和のころほひ、三五夜中の新月白く冴え、涼風颯々たりし夜半に、御門清涼殿にして、玄象をぞ遊されける。時に影の如くなる者、御前に参じて、優にけだかき声にて、唱歌を目出たう仕る。御門御琵琶を差し置かせたまひて、
「そもそもなんぢはいかなる者ぞ。いづくより来れるぞ」
と御尋ねあれば、
「これは昔貞敏に三曲を伝へし大唐の琵琶博士、廉姜夫と申す者で候ふが、三曲の中、秘曲を一曲残せるによって、魔道に沈淪仕って候ふ。今御琵琶の御撥音妙に聞こえて侍る間、参入仕る所なり。願くはこの曲を君に授け奉り、仏果菩提を証すべき」
由申して、御前に立てられたる青山を取り、転手をねぢて、秘曲を君に授け奉る。三曲の中に上玄、石上これなり。その後は、君も臣も恐れさせたまひて、この御琵琶を遊し弾く事もせさせたまはず、御室へ参らせられたりけるを、経正の幼少の時御最愛の童形たるによって、下し預かりたりけるとかや。甲は紫藤の甲、夏山の嶺の緑の木間より、有明の月の出づるを、撥面に書かれたりける故にこそ、青山とは付けられたれ。玄象にも相劣らぬ希代の名物なりけり。
一門都落
池の大納言頼盛卿も、池殿に火を懸けて出でられけるが、鳥羽の南の門に引かへつつ、
「忘れたる事あり」
とて、赤印切り捨て、その勢三百余騎都へ取って帰られけり。平家の侍越中次郎兵衛盛嗣、大臣殿の御前に馳せ参って、
「あれ、御覧候へ、池殿の御留まり候ふに、多くの侍どもの付き参らせて、罷り留まるが、奇怪に覚え候ふ。大納言殿までは恐れも候ふ、侍どもに矢一つ射懸け候はん」
と申しければ、
「年ごろの重恩を忘れて、今この有様を見果てぬ不当人をば、さなくともあらなん」
とのたまへば、力及ばで留まりけり。
「さて小松殿の君達はいかに」
とのたまへば、
「いまだ御一所も見えさせたまはず」
と申す。その時、新中納言殿、涙をはらはらと流いて、
「都を出でていまだ一日だにも過ぎざるに、何しか人の心どもの変り行くうたてさよ。まして行末とてもさこそはあらんずらめとおぼしかば都の内でいかにもならんと、申しつるものを」
とて、大臣殿の御方を、世にも恨げにこそ見たまひけれ。
そもそも池殿の留まりたまふ事をいかにといふに兵衛佐頼朝、常は頼盛に情をかけて、
「御方をば全く愚に思ひ参らせ候はず。ただ故池殿の渡らせたまふとこそ存じ候へ。八幡大菩薩も御照覧候へ」
など、度々誓状を以て申されける上、平家追討のために討手の使の上る度ごとに、
「相構へて池殿の侍どもに向って弓引くな」
と情を懸くれば、
「一門の平家は運尽き既に都を落ちぬ。今は兵衛佐に助けられんずるにこそ」
とのたまひて、都へ帰られけるとぞ聞こえし。八条女院の仁和寺の常磐殿に渡らせたまふに参り籠られけり。女院の御乳母子宰相殿と申す女房に、相具したまへるによってなり。
「自然の事候はば、頼盛構へて助けさせたまへ」
と申されけれども、女院、
「今は世の世にてもあらばこそ」
とて、憑気もなうぞおほせける。およそは兵衛佐ばかりこそ、芳心は存ぜらるるとも、自余の源氏どもはいかにあらんずらん。憖に一門には離れたまひぬ。浪にも磯にも付かぬ心地ぞせられける。
さるほどに、小松殿の君達は三位中将維盛卿を始め奉って、兄弟六人その勢千騎ばかりにて淀の六田河原にて、行幸に追ひ付き奉る。大臣殿待ちうけ奉り嬉げにて、
「いかにや今まで」
とのたまへば、三位中将、
「少き者どもが余りに慕ひ候ふを、とかうこしらへ置かんと遅参仕り候ひぬ」
と申されければ、大臣殿、
「などや心つよう六代殿をば具し奉りたまひ候はぬぞ」
とのたまへば、維盛卿、
「行末とても憑しうも候はず」
とて、問ふにつらさの涙を流されけるこそ悲しけれ。
落ち行く平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位中将重衡、小松三位中将維盛、新三位中将資盛、越前三位通盛、殿上人には、内蔵頭信基、讃岐中将時実、左中将清経、小松少将有盛、丹後侍従忠房、皇后宮亮経正、左馬頭行盛、薩摩守忠度、能登守教経、武蔵守知明、備中守師盛、淡路守清房、尾張守清定、若狭守経俊、兵部少輔正明、蔵人大夫成盛、大夫敦盛、僧には二位僧都専親、法勝寺執行能円、中納言律師仲快、経誦坊阿闍梨祐円、侍には受領、検非違使、衛府、諸司百六十人、都合その勢七千余騎、これは東国北国度々の軍にこの二三箇年が間、討ち洩れて、僅に残る所なり。
山崎関戸院に玉の御輿を舁き居て、男山を伏し拝み、平大納言時忠卿、
「南無帰命頂礼八幡大菩薩、君を始め参らせて、われら都へ帰し入れさせたまへ」
と祈られけるこそ悲しけれ。おのおの後を顧みたまへば、霞める空の心地して、烟のみ心細く立ちのぼる。平中納言教盛卿、
はかなしな主は雲井に別るれば、跡は烟とたちのぼるかな。
まことに故郷をやけの原にかへり見て、末もけぶりのなみぢをぞ行く。
故郷をば、一片の烟塵に隔てつつ、前途万里の雲路に赴かれけん人々の心の中、推量られて哀なり。
肥後守貞能は、川尻に源氏待つと聞いて、蹴散さんとて、五百余騎で発向したりけるが、僻事なれば帰り上るほどに、宇度野の辺にて行幸に参り合ふ。貞能馬より飛び下り、弓脇挟み大臣殿の御前に、畏まって申しけるは、
「これは、そもそも何地へとて落とさせたまふやらん。西国へ下させたまひたらば、落人とて、あそこここにて討ち散らされ浮名を流させたまはん事こそ口惜う候へ。ただ都のうちでこそ、いかにもならせたまはめ」
と申しければ、大臣殿、
「貞能は知らぬか。木曽すでに北国より五万余騎で攻め上り、比叡山東坂本に満々たんなり。この夜半ばかり法皇も渡らせたまはず。おのおのが身ばかりならばいかにがせん、女院二位殿に目の当り憂目を見せ参らせんも、心苦しければ、行幸をもなし参らせ、人々をも引き具し奉って、一まともやと思ふぞかし」
とおほせられければ、
「さ候はば、貞能は暇たまはって、都でいかにもなり候はん」
とて、召し具したる五百余騎の勢をば、小松殿の君達に付け奉り、手勢三十騎ばかりで都へ引かへす。
京中に残り留まる平家の余党を伐たんとて、貞能が帰り入る由聞こえしかば、池大納言、
「頼盛が身の上でぞあらん」
とて、大に怖れ噪がれけり。貞能は、西八条の焼跡に、大幕ひかせ一夜宿したりけれども、帰り入りたまふ平家の君達一所もましまさねば、さすが心細うや思ひけん、源氏の馬の蹄に懸らじとて、小松殿の御墓掘らせ、御骨に向ひ奉って、泣く泣く申しけるは、
「あな浅まし、御一門の御果御覧候へ。『生ある者は必滅す。楽しみ尽きて悲み来る』と古より書き置きたる事にて候へども、まのあたりかかる憂事候はず。君はかやうの事を先づ悟らせたまひて、兼ねて仏神三宝に御祈誓あって、御世を早うせさせましましけるにこそ。有難うこそ覚え候へ。その時貞能も最後の御供仕るべう候ひけるものを、かひなき命を生きて、今はかかる憂目に逢ひ候ふ事こそ口惜う候へ。死期の時は、必ず一仏土へ迎へさせたまへ」
と泣く泣く遥に掻き口説き、骨をば高野へ送り、あたりの土をば賀茂川に流させ、世の有様たのもしからずや思ひけん、主と後合に、東国へこそ落ち行けれ。宇都宮をば貞能が申し預かって、情ありければ、その好にや貞能また宇都宮を頼うで下られければ芳心しけるとぞ聞こえし。
福原落
平家は小松三位中将維盛卿の外は、大臣殿以下妻子を具せられけれども、次様の人どもはさのみ引きしろふに及ばねば、後会その期を知らず、皆打ち捨ててぞ落ち行ける。人は何れの日、何れの時、必ず立ち帰るべしとその期を定め置くだにも、久しきぞかし。況やこれは今日を最後、ただ今限りの事なれば、行くも止まるも、互に袖をぞ湿しける。相伝譜代の好、年ごろ日ごろの重恩、いかでか忘るべきなれば、老いたるも若きも、後のみ帰り見て、前へは進みもやらざりけり。あるいは磯辺の波枕、八重の潮路に日を暮し、あるいは遠きを分け、嶮しきを凌ぎつつ、駒に鞭打つ人もあり舟にさをさす者もあり、思々心々に落ち行けり。
平家は福原の旧都に著いて、大臣殿然るべき侍ども老少数百人召しておほせられけるは、
「積善の余慶家に尽き、積悪の余殃身に及ぶ故に、神明にも放たれ奉り、君にも捨てられ参らせて、帝都を出でて旅泊に漂ふ上は、何の憑みかあるべきなれども、一樹の蔭に宿るも、前世の契浅からず、同じ流を掬ぶも、他生の縁なほ深し。いかに況や、なんぢ等は一旦随ひ付く門客にあらず、累祖相伝の家人なり。あるいは近親の好他に異なるもあり、あるいは重代芳恩これ深きもあり。家門繁昌の古へは、恩波によって、私を顧みき。今何ぞ芳恩を酬ひざらんや。且は十善帝王、三種神器を帯して渡らせたまへば、いかならん野の末山の奥までも、行幸の御供仕らんとは思はずや」
とおほせられければ老少皆涙を流いて申しけるは、
「怪しの鳥獣も、恩を報じ徳を酬ふ心は候ふなり。況や、人倫の身として、いかがその理を存知仕らでは候ふべき。廿余年の間、妻子を育み、所従を顧み候ふ事、併君の御恩ならずといふ事なし。就中に弓箭馬上に携はる習ひ、二心あるを以て恥とす。然らば則ち日本の外、新羅、百済、高麗、契丹、雲の果海の果までも、行幸の御供仕って、いかにもなり候はん」
と、異口同音に申しければ、人々皆憑気にぞ見えられける。
福原の旧里に、一夜をこそ明されけれ。折節秋の初の月は下の弦なり。深更空夜閑にして、旅寝の床の草枕、露も涙も争ひて、ただ物のみぞ悲しき。何帰るべしとも覚えねば、故入道相国の造り置きたまひし所々を見たまふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿、松陰殿、馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館ども五条大納言国綱卿の承って造り進せられし里内裏、鴦の瓦、玉の甃、何れも何れも三年がほどに荒れ果てて、旧苔径を塞ぎ、秋の草門を閉づ。瓦に松生ひ垣に蔦茂れり。台傾いて苔むせり、松風ばかりや通ふらん。簾絶え閨露はなり、月影のみぞ差し入りける。
明けぬれば福原の内裏に火を懸けて、主上を始め奉って人々皆御船に召す。都を立ちしほどこそなけれどもこれも名残は惜しかりけり。海士の焼藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、渚々に寄する浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきりきりす、総じて目に見え耳に触る事、一として哀を催し、心を痛ましめずといふ事なし。
昨日は東関の麓に轡を並べて十万余騎、今日は西海の浪に纜を解いて七千余人、雲海沈々として、青天既に暮れなんとす。孤島に夕霧隔て、月海上に浮べり。極浦の浪を分け、艪に引かれて行く船は、半天の雲に泝る。日数経れば、都は既に山川ほどを隔て、雲井のよそにぞなりにける。遥々来ぬと思ふにも、ただ尽きぬ者は涙なり。浪の上に白き鳥のむれゐるを見たまひては、かれならん、在原のなにがしの隅田川にて言問ひけん、名も睦まじき都鳥にやと哀なり。寿永二年七月二十五日に、平家都を落ち果てぬ。