目次
新院崩御
治承五年正月一日のひ、内裏には、東国の兵革、南都の火災によって、朝拝停められ、主上出御もなし。物の音も吹き鳴らさず、舞楽も奏せず、吉野の国栖も参らず、藤氏の公卿一人も参ぜられず、氏寺焼失によってなり。二日のひ殿上の宴酔もなし。男女うちひそめて、禁中忌々しうぞ見えける。仏法王法ともに尽きぬることぞあさましき。一院おほせなりけるは、
「われ十善の余薫によって万乗の宝位を保つ。四代の帝王、思へば子なり孫なり。いかなれば万機の政務を停められて、空しう年月を送るらむ」
とぞ御嘆きありける。
同じき五日のひ、南都の僧綱等、闕官せられ、公請を停止し、所職を没収せらる。衆徒は老いたるも若きも、あるいは射殺され、あるいは斬殺され、あるいは煙の中を出でず、炎に咽んで多く亡びにしかば、わづかに残る輩は山林に交はり、跡を留むる者一人もなし。興福寺別当花林院僧正永円は、仏像経巻の煙とのぼりけるを見て、あなあさましさ、心うち騒ぎ、心をくだかれけるより病みついて、幾ほどもなくつひに失せたまひぬ。この僧正は優に情け深き人なり。ある時郭公の鳴くを聞いて、
聞くたびにめづらしければほととぎす、いつも初音の心地こそすれ。
といふ歌を詠んで、初音僧正とぞいはれたまひける。
ただしかたのやうにても御斎会はあるべきにて僧名の沙汰ありしに、南都の僧綱は闕官せられぬ、北京の僧綱をもって行はるべきかと公卿僉議あり。さらばとて南都をも捨て果てさせたまふべきならねば、三論宗の学生、成法已講が勧修寺に忍びつつ隠れ居たりけるを召し出されて、御斎会形ごとばかりに行はる。
上皇は、去々年法皇の鳥羽殿におしこめられさせたまひし御こと、去年高倉宮の討たれさせたまひし御有様、都遷とて浅間しうかりし天下の乱れ、かやうのことども御心苦しうおぼしめされけるより御悩みつかせたまひて、常は煩はしうきこえさせたまひしが、東大寺興福寺亡びぬるよしきこしめして、御悩み弥重ならせたまふ。法皇なのめならず御嘆きあるほどに、同じき正月十四日六波羅池殿にて、上皇つひに崩御なりぬ。御宇十二年、徳政千万端、詩書仁義の廃れぬる道を興し、理世安楽の絶えたる跡を継ぎたまふ。三明六通の羅漢も免れたまはず、幻術変化の権者も遁れぬ道なれば、有為無常の習ひなれども、理過ぎてぞおぼえける。やがてその夜東山の麓、清閑寺へ遷したてまつり、夕べの煙をたぐへ、春の霞と上らせたまひぬ。澄憲法印御葬送に参り合はんと、急ぎ山より下られけるが、はや空しき煙にならせたまふを見参らせて、
常に見し君が御幸をけふ問へば、かへらぬ旅とききて悲しき。
またある女房、君隠れさせたまひぬと承って、かうぞ思ひつづけける。
雲の上に行末遠く見し月の、光きえぬときくぞかなしき。
御年廿一。内には十戒を保ち、外には五常を乱らず、礼義を正うせさせたまひけり。末代の賢王にてましましければ、世の惜しみたてまつること、月日の光を失へるがごとし。かやうに人の願ひも叶はず、民の果報も拙き人間の境こそ悲しけれ。
紅葉
ゆうに優う人の思ひつき参らする方もおそらくは延喜天暦の帝と申すとも、いかでかこれには勝るべき。さて人申しける。大方は賢王の名を揚げ、仁徳の行を施させましますことも、君御成人の後、清濁を分たせたまひての上の御ことにてこそあるに、この君は無下に幼主の御時より、性を柔和に受けさせたまへり。去んぬる承安のころほひ、御在位の始めつかた、御年十歳ばかりにもならせたまひけん、あまりに紅葉を愛せさせたまひて、北の陣に小山を築かせ、櫨楓の、色うつくしう紅葉したるを植ゑさせて、紅葉の山と名づけて、終日に叡覧ありに、なほ飽き足らせたまはず。しかるをある夜野分はしたなう吹いて、紅葉を皆吹き散らし、落葉頗狼藉なり。殿守の伴の造、朝ぎよめすとて、これをことごとく掃き捨てけり。残れる枝、散れる木葉をば掻き聚めて、風寒じかりけるあしたなれば、綾殿の陣にて、酒煖めてたべける薪にこそしてんげれ。奉行蔵人、行幸より先にと、急ぎ行きて見るに、跡形なし。
「いかに」
と問へば、
「しかじか」
といふ。蔵人大きに驚き、
「あなあさまし。君のさしも執しおぼしめされつる紅葉をかやうにしけるあさましさよ。知らず、なんぢら、ただ今禁獄流罪にも及び、わが身もいかなる逆鱗にか預からんずらん」
と、歎くところに、主上いと疾く夜のおとどを出させたまひも敢へず、かしこへ行幸なって、紅葉を叡覧なるに、なかりければ、
「いかに」
と御尋ねありに、蔵人奏すべき方はなし、ありの儘に奏聞す。天気殊に御心好げにうち笑ませたまひて、
「林間に酒を煖めて紅葉を焼くといふ詩の心をば、そのらには誰が教へけるぞや。ゆうに仕りける物かな」
とて、却って叡感に預かりし上は、敢て勅勘なかりけり。
また安元のころほひ、御方違の行幸ありしに、さらでだに鶏人暁唱、明王の眠を驚かすほどにもなりしかば、なにとなく御寝覚がちにて、つやつや御寝もならざりけり。沈や冴ゆる霜夜の烈きには、延喜聖代、国土の民どもいかに寒からんとて御衣を脱がせたまひけることなどまでおぼしめし出して、わが帝徳の至らぬことをぞ御歎きありける。やや深更に及んで、ほど遠く人の叫ぶ声してけり。供奉の人々は聞き付けられざりけれども、主上きこしめして、
「今叫ぶ者は何者ぞ。きと見て参れ」
とおほせければ、上臥したる殿上人、上日の者におほす。走り散って尋ぬれば、ある辻に、怪の女童のなきものの蓋提げて泣くにてぞありける。
「いかに」
と問へば、
「主の女房の、院の御所に侍はせたまふが、このほどやうやうにして、仕立てられつる御装束持って参るほどに、ただ今男の二三人諸来て、奪ひ取って罷りぬるぞや。今は御装束があればこそ、御所にもさぶらはせたまはめ、はかばかしう立ち宿せたまふべき親しき御方もましまさず。このこと思ひつづくるに泣くなり」
とぞ申しける。さてかの女童を具して参り、この由奏聞しければ、主上きこしめして、
「あな無慚。いかなる者のしわざにてかあるらん。尭の代の民は、尭の心のすなほなるを以て心とするがゆゑに皆すなほなり。今の代の民は、朕が心を以て心とするがゆゑに、かたましき者朝にあって罪を犯す。これわが恥にあらずや」
とぞおほせける。
「さて取られつらん衣は何色ぞ」
と御尋ねあれば、
「しかじかの色」
と奏す。建礼門院のいまだ中宮にておはしましける時なり。その御方へ、
「かやうの色したる御衣やさうらふ」
とおほせければ、先のより遥に美しきが参りたりけるを、件の女童にぞ賜はせける。
「いまだ夜深し、またその日にもや逢ふ」
とて、上日の者をつけて、主の女房の局まで送らせましましけるぞ忝き。されば怪の賤の男、賤の女に至るまでただこの君千秋万歳の宝算をぞ祈りたてまつる。
葵前
中にも哀なりし御ことは、中宮の御方にさうらはせたまふ女房の召し使ひける上童、思はざる外、竜顔に咫尺することあり。ただ尋常の白地にてもなくして主上常は召されけり。まめやかに御志深かりければ、主の女房も召し使はず、却って主の如くにぞいつきもてなしける。そのかみ謳歌にいへることあり。女を生んでもひいさんすることなかれ。男を生んでも喜歓することなかれ。男は侯にだにも封ぜられず、女は妃たりとて、局に立つといへり。この人女御后ともてなされ、国母仙院ともあふがれなんず。目出たかりける幸かなとてその名をば、葵前とぞつけければ、内々には葵女御などぞ呼びける。主上これをきこしめして、その後は召さざりけり。
御志の尽きぬるにはあらず、ただ世の謗を憚らせたまふによってなり。されば常に御詠めがちにて、夜のおとどにのみぞ入らせたまふ。その時の関白松殿、御心苦しきことにこそあんなれ。申し慰め参らせんとて、急ぎ御参内あって、
「さやうに叡慮にかからせましまさん事、何条事かさうらふべき。件の女房とくとく召さるべし。寵愛さうらふ。品尋ぬるに及ばず、基房やがて猶子に仕りさうらはん」
と奏せさせたまへば、主上、
「いささよ。そのことに世は謗ることなれども、位を退きて後は、聞こゆるためしもあんなり。正う在位の時、さやうの事は後代の謗となるべし」
とて、きこしめし入れざりけり。関白威力及ばせたまはず御涙を抑へて、御退出あり。その後主上緑の薄やうの殊に匂ひ深かりけるに、古きことなれどもおぼしめし出して遊ばせたまひける。
しのぶれど色に出でにけりわが恋は、物や思ふと人のとふまで。
この御手習を冷泉少将隆房賜り継いで、件の葵前に賜はせたまふれば、顔打ち赤め、例ならぬ心地出来たり、とて里へ帰りぬ。打ち臥すこと五六日してつひにはかなくなりにけり。
「君が一日の恩のために妾が百年の身を誤つ」
ともかやうの事をや申すべき。昔唐太宗の鄭仁基が娘を元観殿に入れんとしたまひしを、魏徴、
「かの娘既に陸氏に約せり」
と諫め申ししかば殿に入るることをやめられけるには、少しも違はせたまはぬ御心ばせなり。
小督
主上恋慕の御思ひに沈ませおはします。申し慰め参らせんとて、中宮の御方より小督殿と申す女房を参らせらる。この女房は、桜町中納言重教卿の御娘、宮中一の美人、琴の上手にておはしける。冷泉大納言隆房卿、いまだ少将なりし時、見初めたりし女房なり。少将初めは歌を詠み文を尽くし恋ひ悲しみたまへども、靡く気色もなかりしが、さすが歎きに弱る心にや、つひには靡きたまひけり。されども今は君に召され参らせて、し方もなく悲しさに、飽かぬ別の涙には、袖しほたれてほしもあへず。
少将よそながらも小督殿見たてまつることもやと、常は参内せられけり。おはしける局の辺、御簾のあたりをあなたこなたへ行き通りたたずみ歩きたまへども、小督殿わが君に召されん上は、少将いかにいふとも、詞をもかはし文を見るべきにもあらずとて、便の情をだにも懸けられず。少将もしやと、一首の歌を詠んで、小督殿のおはしける御簾の中へ投げ入れたり。
思ひかね心は空にみちのくの、ちかの塩竃近きかひなし。
小督殿、やがて返事もせばやとおもはれけめども、君の御ため、御後ろめたうやおもはれけん、手にだに取っても見たまはず。やがて上童に取らせて、坪の内へぞ投げ出す。少将情けなく恨めしけれども、人もこそ見れと、空恐ろしうおもはれければ、急ぎこれを取って懐に入れてぞ出でられける。なほ立ち帰って、
玉章を今は手にだにとらじとや、さこそ心に思ひすつとも。
今はこの世にて相見んことも難ければ、生きて物を思ふより、死なんとのみぞ願ひける。
入道相国これを聞き、中宮と申すも御女なり、冷泉少将も婿なり。小督殿に、二人の婿を取られて、
「いやいや小督があらん限りは世の中好まじ。召し出して失はん」
とぞのたまひける。小督殿漏れ聞いて、
「わが身のことはいかでもありなん、君の御ため御心苦し」
とてある暮方に内裏を出でて、行方も知らず失せたまひぬ。主上御歎きなのめならず、昼は夜のおとどに入らせたまひて、御涙にのみ咽び、夜は南殿に出御なって、月の光を御覧じてぞ慰ませたまひける。入道相国これを聞き、
「君は、小督ゆゑにおぼしめし沈ませたまひたんなり。さらむには」
とて、御介錯の女房達をも参らせず、参内したまふ臣下をも猜みたまへば、入道の権威に憚って、通ふ人もなし。禁中、弥忌々しうぞ見えける。
かくて八月十日余りになりにけり。さしも隈なき空なれど、主上は御涙に曇りつつ、月の光も朦朧にぞ御覧ぜられける。やや深更に及んで、
「人やある」
と召されけれども、御いらへ申す者もなし。弾正少弼仲国その夜しも御宿直に参って遥に遠うさうらふが、
「仲国」
と御いらへ申したりければ、
「近う参れ。おほせ下さるべき事あり」
何ことやらんとて御前近う参じたりければ、
「なんぢもし小督が行方や知ったる」
仲国、
「いかが知り参らせさうらふべき。ゆめゆめ知り参らせずさうらふ」
「まことやらん、小督は嵯峨の辺に片折戸とかやしたる内にありと申す者のあるぞよ。主が名をば知らずとも、尋ねて参らせなんや」
とおほせければ、
「主が名を知りさうらはでは、いかが尋ね参らせさうらふべき」
と申せば、
「げにも」
とて、竜顔より御涙を流させたまふ。仲国つくづくと物を案ずるに、まことや、小督殿は、琴弾きたまひしぞかし。この月の明るさに、君の御ことおぼし出で参らせて、琴弾きたまはぬことはよもあらじ。御所にて弾きたまひしには、仲国笛の役に召されしかば、その琴の音は、いづくなりとも聞き知らんずる物を。嵯峨の在家幾ほどかあるべき。うち廻って尋ねんに、なぞか聞き出ださざるべきとおもひければ、
「ささうらはば、主が名は知らずとも、もしやと尋ね参らせて見さうらはん。ただし尋ね逢ひ参らせてさうらふとも御書をたまはらで申さんにはうはの空にやおぼしめされさうらはんずらん。御書を賜はって向ひさうらはん」
と申しければ、まことにもとて、御書をあそばいてたうだりけり。
「寮の御馬に乗って行け」
とぞおほせける。仲国寮の御馬たまはって、明月に鞭を揚げ、小鹿鳴くこの山里と詠じけん、嵯峨の辺の秋の比、そこここは哀にも覚えけめ、片折戸したる屋を見付けては、この内にやおはすらんと、ひかへひかへ聞けれども、琴弾きたまふ所もなかりけり。御堂などへ参りたまへることもやと、釈迦堂を始めて堂々見廻れども、小督殿に似たる女房だに見えたまはず。空しう帰り参りたらんは、中々参らざらんよりは悪かるべし。これよりもいづちへも迷ひ行かばやとおもへども、いづくか王地ならぬ身をかくすべき宿もなし。いかにせんとおもひ煩ふ。まことや、法輪はほど近ければ、月の光に誘はれて参りたまへることもやと、その方に向ってぞ歩ませける。
亀山の傍近く、松の一村ある方に、幽に琴ぞきこえける。峰の嵐か松風か、尋ぬる人の琴の音か、おぼつかなくはおもへども、駒を早めて行くほどに、片折戸したる内に、琴をぞ弾き澄まされたる。控へてこれを聞ければ、少しも紛るべうもなき小督殿の爪音なり。楽は何ぞと聞ければ、夫を想って恋ふると詠む想夫恋といふ楽なり。さればこそ、君の御ことおぼし出で参らせて、楽こそ多けれ、この楽を弾きたまひける優しさよ。ありがたう覚えて腰よりやうでう抜き出し、ちと鳴いて、門をほとほとと敲けば、やがて弾き止めたまひぬ。
高声に、
「これは内裏より仲国が御使に参ってさうらふ。開かせたまへ」
とて、たたけどもたたけども、答ふる人もなかりけり。ややあって、内より人の出づる音のしければ嬉うおもひて待つ所に、鎖子をはづし、門を細目に開け、いたいけしたる小女房、顔ばかり指し出だいて、
「門違にてぞさうらふらん。これには、内裏より御使などたまはるべき所にてもさうらはず」
と申せば、中々返事して門立てられ、鎖子さされては悪かりなんとおもひて、押し開いてぞ入りにける。妻戸の際の縁に居て、
「いかにかかる所には御渡りさうらふやらん。君は御ゆゑにおぼしめし沈ませたまひて御命も既に危うこそ見えさせおはしましさうらへ。ただうはの空に申すとやおぼしめされさうらはん。御書をたまはって参ってさうらふ」
とて、取り出してたてまつる。
ありつる女房取り次いで、小督殿に参らせたり。開いて見たまへば、まことに君の御書なりけり。やがて御返事書き引き結び、女房の装束一重添へて出されたり。仲国、女房の装束をば肩にうちかけ申しけるは、
「余の御使でさうらはば御返事の上はとやかう申すに及びさうらはねども、日ごろ内裏にて御琴遊ばしし時、仲国笛の役に召されさうらひし奉公をばいかが御忘れさうらふべき。直の御返事を承らで帰り参らんことこそ世に口惜うさうらへ」
と申しければ、小督殿げにもとやおもはれけん、みづから返事したまひけり。
「そこにもきかせたまひつらん、入道相国あまりに怖きことをのみ申すと聞きしがあさましさに、内裏をば逃げ出でて、このほどはかかる栖ひなれば、琴など弾くことなかりつれども、さてもあるべきならねば、明日よりは大原の奥におもひ立つことのさうらへば、主の女房の今夜ばかりの名残を惜しうで、今は夜も更けぬ、立ち聞く人もあらじなど勧めれば、さぞな昔の名残もさすが床しくて、手馴らし琴を弾くほどに、安うも聞き出されけりな」
とて、涙もせき敢へたまはねば、仲国も袖をぞ濡らしける。ややあって、仲国涙を抑へて申しけるは、
「明日より大原の奥におぼしめし立つこととさうらは、御様などを変へさせたまふべきにこそ。ゆめゆめあるべうもさうらはず。さて君の御歎きをば何とかし参らせたまふべき。こればし出し参らすな」
とて、供に召し具したる馬部吉上など留め置き、その屋を守護せさせ、寮の御馬にうち騎って、内裏へ帰り参りたれば、ほのぼのと明けにけり。
「今は入御もなりぬらん。誰して申し入るべき」
とて、寮の御馬繋がせ、ありつる女房の装束をばはね馬の障子にうち掛け、南殿の方へ参れば主上はいまだ夜辺の御座にぞましましける。
「南に翔び北に嚮ふ、寒温を秋鴻に付け難し。東に出で西に流れ、ただ瞻望を暁の月に寄す」
と、うち詠ませたまふところに、仲国つと参りたり。小督殿の御返事をぞ参らせたる。主上なのめならず御感なって、
「なんぢやがてよさり具して参れ」
とおほせければ、入道相国の還り聞きたまはんところ怖ろしけれども、これまた綸言なれば、雑色牛飼牛車清げに沙汰して、嵯峨へ行向ひ、参るまじき由やうやうにのたまへども、さまざまに拵へて、車にとり乗せたてまつり、内裏へ参りたりければ、幽なる所に忍ばせて、夜々召されけるほどに、姫宮御一所出来させたまひけり。この姫宮と申すは坊門の女院の御ことなり。入道相国何としてか漏れ聞いたりけん、
「小督が失せたりといふことは、跡形もなき虚言なりけり」
とて小督殿を捕へつつ、尼になしてぞ放たる。小督殿出家は元よりの望なりけれども、心ならず尼になされて、歳二十三、濃墨染に窶れ果てて嵯峨の辺にぞすまれける。うたてかりしことどもなり。主上はかやうのことどもに、御悩みはつかせたまひて、遂に御隠れありけるとぞきこえし。
法皇はうち続き御歎きのみぞ繁かりける。去る永万には第一の御子、二条院崩御なりぬ。安元二年の七月には御孫六条院かくれさせたまひぬ。天に栖まば比翼鳥、地にすまば連理枝とならんと、漢河の星を指して、御契浅からざりし建春門院、秋の霧に侵されて、朝の露と消させたまひぬ。年月は重なれども、昨日今日の御別のやうにおぼしめして、御涙もいまだ尽きせぬに、治承四年五月には、第二皇子高倉宮討たれさせたまひぬ。現世後生たのみおぼしめされつる新院さへ先立たせたまひぬれば、とにかくに、かこつ方なき御涙のみぞ進みける。
「悲しみの至って悲しきは、老いて後子に後れたるよりも悲しきはなし。恨みの至って恨めしきは、若うして親に先立つよりも恨めしきはなし」
と、かの朝綱相公の、子息澄明に後れて、書いたりけん筆のあと今こそおぼしめし知られけれ。さるままにはかの一乗妙典の御読誦も、怠らせたまはず、三密行法の御薫修も、積もらせたまひけり。天下、諒闇になりしかば、大宮人も推並て、華の袂や窶れけん。
廻文
入道相国、かやうに痛く情けなう振舞ひおかれしことを、さすが怖ろしとやおもはれけん、法皇慰め参らせんとて、安芸の厳島の内侍が腹の御娘、生年十八になりたまふが、優に花やかにおはしけるを法皇へ参らせらる。上臈女房達あまた選ばれて、参られける。公卿殿上人多く供奉して、偏に女御参の如くにてぞありける。上皇隠れさせたまひて後、僅に二七日だにも過ぎざるに、しかるべからずとぞ人々内々は呟きあはれける。
さるほどに、そのころ信濃国に、木曽冠者義仲といふ源氏ありときこえけり。故六条判官為義が次男帯刀先生義方が子なり。父義方は、久寿二年八月十六日鎌倉の悪源太義平がために討たせらる。その時義仲二歳なりしを、母泣く泣く抱いて信濃へ越え、木曽中三兼遠が許に行き、
「これいかにもして育て、人になって見せたまへ」
といひければ、兼遠請け取ってかひぐしう二十余年養育す。漸く長大する儘に、力も世に勝れてつよく、心も双なく甲なりけり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちだち、すべて上古の田村、利仁、余五将軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣といふとも、いかがこれには勝るべきとぞ人申しける。ある時乳母の兼遠を召してのたまひける。
「兵衛佐頼朝既に謀反を起し、東八箇国を討ち従へて、東海道より上り、平家を追ひ落さんとするなり。義仲も東山北陸両道を従へ、今一日も先に平家を責め落し、たとへば日本国に、二人の将軍といはればや」
とほのめかしければ、中三兼遠大きに畏まり悦んで、
「その料にこそ、君をば今まで養育したてまつれ。かうおほせらるるこそまことに八幡殿の御末とも覚えさせたまへ」
とて、やがて謀反を企てけり。兼遠に具せられて常は都へ上り平家の人々の振舞ひ有様をも見向ひけり。十三で元服しけるも、八幡へ参り八幡大菩薩の御前にて、
「わが四代の祖父義家朝臣はこの御神の御子となって名をば八幡太郎と号しき。且はその跡を追ふべし」
とて八幡大菩薩の御宝前にて鬢取り上げ、木曽次郎義仲とこそ付けたりけれ。兼遠まづ廻文さうらふべしとて、信濃国には、祢井小弥太滋野行親を語らふに、背くことなし。これを始めて、信濃一国の兵ども、なびかぬ草木もなかりけり。上野国には故帯刀先生義方が好にて田子郡の兵ども、皆随ひ付きにけり。平家の末になる折を得て、源氏の年来の素懐を遂げんとす。
飛脚到来
木曽といふ所は、信濃に取っても南の端、美濃境なれば都も無下にほど近し。平家の人々漏れ聞いて、
「東国の背きだにあるに北国さへ、こはいかに」
とぞ噪がれける。入道相国おほせられけるは、
「その者心にくからず。おもへば信濃一国の兵どもこそ、随ひ付くといふとも、越後国には、余五将軍の末葉、城太郎助長、同じき四郎助茂、これらは兄弟ともに多勢の者なり。おほせ下したらんずるに、安う討って参らせんず」
とのたまひければ、
「いかにあらんずらむ」
と内々は呟く者多かりけり。
二月二日のひ、越後国住人、城太郎助長、越後守に任ず。これは木曽追討せられんずる謀とぞきこえし。同じき七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王、書き供養せらる。これはまた兵乱の慎のためなり。
同じき九日、河内国石川郡に居住したりける武蔵権守入道義基、子息石川判官代義兼、平家を背いて、兵衛佐頼朝に心を通はし既に東国へ落ち行くべき由きこえしかば、入道相国やがて討手を遣はす。討手の大将には源大夫判官末方、摂津判官盛澄、都合その勢三千余騎で発向す。城の内には武蔵権守入道義基子息判官代義兼を先として、その勢百騎ばかりには過ぎざりけり。鬨作り矢合して、入りかへ入りかへ数刻戦ふ。城の内の兵ども、手のきは戦ひ、討ち死にする者多かりけり。武蔵権守入道義基討ち死にす。子息石川判官代義兼は、痛手負うて生け捕りにせらる。同じき十一日義基法師が首都へ入って大路を渡さる。諒闇に賊首を渡さるること、堀河天皇崩御の時、前対馬守源義親が首ぞ渡されし例とぞきこえし。
同じき十二日、鎮西より飛脚到来、宇佐大宮司公通が申しけるは、九州の者ども、緒方三郎を始めとして、臼杵、戸次、松浦党に至るまで、一向平家を背いて源氏に同心の由申したりければ、
「東国北国の背きだにあるに、こはいかに」
とて、手をうってあざみ合へり。
同じき十六日に、伊予国より飛脚到来、去年の冬比より、河野四郎通清を始めとして、四国の者ども、皆平家を背いて、源氏に同心の間、備後国の住人、額の入道西寂、平家に志深かりければ、伊予国へおし渡り、道前道後のさかひ、高直城にて、河野四郎通清を討ちさうらひぬ。子息河野四郎通信父が討たれける時、安芸国の住人奴田次郎は母方の伯父なりければ、そこへ越えてありあはず。通信父を討たせて安からぬ者なり。いかにもして西寂を討ち取らんとぞ窺ひける。
額入道西寂河野四郎通清を討って後、四国の狼藉を鎮め、今年正月十五日に備後の鞆へおし渡り、遊君遊女ども聚めて、遊び戯れ酒もりしけるが、前後も知らず酔ひ臥したるところに、河野四郎思ひ切ったる者ども百余人相語って、はっと押し寄す。西寂が方にも三百余人ありける者ども、俄のことなれば、思ひも設けず周章ふためきけるを、立ち合ふ者をば射伏せ切り伏せ、まづ西寂を生け捕りにして、伊予国へ押し渡り、父が討たれたる高直城へさげて行き、鋸で頸を切ったりともきこえけり。また磔にしたりともきこえけり。
入道死去
その後四国の者ども、皆河野四郎に随ひ付く。熊野別当湛増も、平家の重恩の身なりしが、それも背いて源氏に同心の由きこえけり。およそ東国北国ことごとく背きぬ。南海西海かくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚かし、逆乱の先表頻に奏す。四夷たちまちに起れり。世はただ今失せなんずとて、必ず平家の一門ならねども、心ある人々の歎き悲しまぬはなかりけり。
同じき廿三日、公卿僉議あり。前右大将宗盛卿申されけるは坂東へ討手は向ったりといへども、させるため出したることもさうらはず。今度は宗盛大将軍を承って、向ふべき由申されければ、諸卿色代して、
「ゆゆしうさうらはなん」
と申されけり。公卿殿上人も、武官に備はり、弓箭に携はらん人々は、宗盛卿を大将軍にて、東国北国の凶徒等追討すべき由おほせ下さる。
同じき二十七日前右大将宗盛卿源氏追討のために、東国へ既に門出ときこえしかば、入道相国違例の心地とて、留まりたまひぬ。明る廿八日重病を受けたまへりとて、京中六波羅、
「すは仕つることを」
と呟けり。入道相国病みつきたまひし日よりして、水をだに喉へ入れたまはず、身の内の熱きこと火を焼くが如し。臥したまへる所、四五間が内へ入る者は、熱さ堪へがたし。ただのたまふこととては、
「あたあた」
とばかりなり。少しも徒事とは見えざりけり。
比叡山より、千手井の水を汲み下し、石の船に湛へて、そこに下って冷えたまへば、水夥う涌き上って、ほどなく湯にぞなりにける。もしや扶かりたまふと筧の水をまかせたまへば、石や鉄などの焼けたるやうに、水迸って寄り付かず。みづから中たる水は、焔となって燃えければ、黒煙殿中に満ち満ちて、炎渦巻いて上りけり。これや昔法蔵僧都といひし人、閻王の請に趣いて、母の生所を尋ねしに閻王憐れみたまひて、獄卒を相副へて焦熱地獄へ遣はさる。鉄の門の内へ差し入れば、流星などの如くに、炎空へたちあがり、多百由旬に及びけんも、今こそおもひ知られけれ。
入道相国の北の方、二位殿の夢に見たまひけることこそ恐ろしけれ。たとへば、猛火の夥う燃えたる車を門の内へ遣はし入れたり。前後に立ったる者はあるいは馬の面のやうなる者もあり、あるいは牛の面のやうなる者もあり。車の前には、無といふ文字ばかりぞ見えたる鉄の札をぞ立ったりける。二位殿夢の心に、
「あれは何よりぞ」
と御尋ねあれば、
「閻魔の庁より平家太政入道殿の御迎へに参ってさうらふ」
と申す。
「さて、その札は何といふ札ぞ」
と問はせたまへば、
「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏焼きたまへる罪によって、無間の底に堕ちたまふべき由、閻魔の庁に御さだめさうらふが、無をば書かれて、間の字をばいまだ書かれぬなり」
とぞ申しける。二位殿うち驚き、汗水になりこれを人に語りたまへば、聞く人皆身の毛よだちけり。霊仏霊社に、金銀七宝を投げ、馬鞍鎧、兜弓箭太刀刀に至るまで取り出し運び出して祈られけれども、その験もなかりけり。男女の君達、跡枕に指しつどひて、いかにせんと歎き悲しみたまへども叶ふべしとも見えざりけり。
閏二月二日、二位殿熱う堪へ難けれども、御枕の上に寄って、泣く泣くのたまひけるは、
「御有様見たてまつるに、日に添へて憑み少なうこそ見えさせたまへ。この世におぼしめしおくことあらば、少し物の覚えさせたまふ時、おほせ置け」
とぞのたまひける。入道相国、さしも日ごろはゆゆしげにましましかどもまことに苦げにて、息の下にのたまひけるは、
「われ保元平治より以来、度々の朝敵を平らげ、勧賞身に余り、忝くも帝祖太政大臣に至り、栄花子孫に及ぶ。今生の望、一ことも残る所なし。ただし思ひ置くこととては、伊豆国の流人前右兵衛佐頼朝が頸を見ざりつること安からね。われいかにもなりなん後は堂塔をも立て孝養をもすべからず。やがて討手を遣はし、頼朝が頭を刎ねて、わが墓の前にかくべし。それぞ孝養にてあらんずる」
とのたまひけるこそ、罪深けれ。
同じき四日、病に責められ、せめてのことに板に水を沃いで、そこに臥し転びたまへども扶かる心地もしたまはず、悶絶躃地して、遂にあっち死にぞしたまひける。馬車の馳せ違ふ音天も響き大地も揺るぐばかりなり。一人の君万乗の主の、いかなる御ことおはすともこれには過ぎじとぞ見えし。今年は六十四にぞなりたまふ。老死といふべきにはあらねども、宿運たちまちに尽きたまへば、大法秘法の効験もなく、神明三宝の威光も消え、諸天も擁護したまはず。況や凡慮に於てをや。命に代はり身に代はらんと忠を存ぜし数万の軍旅は、堂上堂下に泣き居たれども、これは目にも見えず力にも関はらぬ無常の刹鬼をば、暫時も戦ひ返さず。
また帰り来ぬ死出の山、三瀬川、黄泉中有の旅の空、ただ一所こそ赴きたまひけめ。日ごろ作り置かれし罪業ばかりや、獄卒となって迎へに来りけん。哀なりしことどもなり。さてもあるべきならねば、同じき七日に、愛宕にて煙になしたてまつり、骨をば円実法眼頸にかけて、摂津国へ下り、経島にぞ納めける。さしも日本一州に名を揚げ威を振ひし人なれども身は一時の煙となって都の空に立ち上り、屍は暫しやすらひて、浜の真砂に戯れつつ、空しき土とぞなりたまふ。
築島
やがて葬送の夜不思議のことあまたあり。玉を磨き金銀を鏤めて作られし西八条殿、その夜俄に焼けぬ。人の家の焼くるは、常の習なれども、浅間しかりしことどもなり。何者のしわざにやありけん、放火とぞきこえし。またその夜六波羅の南に当って、人ならば二三十人が声して、
「嬉や水鳴は滝の水」
といふ拍子を出して、舞ひ躍り、どっと笑ふ声しけり。去んぬる正月には、上皇隠れさせたまひて、天下諒闇になりぬ。僅に中一両月を隔て、入道相国薨せられぬ。怪の賤の男賤の女に至るまで、いかにか憂へざるべき。これはいかにも天狗のしわざといふ沙汰にて、平家の侍の中にはやりをの若者ども、百余人笑ふ声について、尋ね行き見れば、院の御所法住寺殿にぞ踊り上りける。
御所預備前前司基宗といふ者あり。かの基宗が相知ったる者ども、二三十人夜に紛れて来り集まり酒を飲むが、初めはかやうに折節に音をはやさで飲むほどに、次第に飲み酔ひて、かやうに舞ひ踊りけるなり。はと押し寄せて、酒に酔ひたる者ども、一人も漏らさず三十人ばかり搦めて、六波羅へ将て参り、前右大将宗盛卿のおはしける坪の内にぞ引き居たる。事の仔細をよくよく尋ね聞きたまひてげにもそのほどに酔ひたらんずる者をば斬るべきにもあらずとて皆許されけり。人の失せぬる跡には、怪の者も朝夕に鐘打ち鳴らし、例時懺法読む事は、常の習ひなれども、この禅門薨せられぬる後は、供仏施僧の営といふ事もなし。朝夕はただ軍合戦の策より外は、他事なし。およそは最後の所労の有様こそうたてけれども、直人とも覚えぬ事ども多かりけり。日吉社へ参りたまひしにも、当家他家の公卿多く供奉して、摂籙の臣の春日御参詣、宇治入などいふとも、これにはいかが勝るべきとぞ人申しける。また何事よりも福原の経島築いて今の世に至るまで、上下往来の船の煩ひなきこそ目出たけれ。かの島は去る応保元年二月上旬に築き始められたりけるが、同年の八月に俄に大風吹き大浪立って、皆淘り失ひてき。同じき三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行にて、築かせられけるが、人柱立てらるべしなど、公卿僉議ありしかども、罪業なりとて、石の面に一切経を書いて、築かれたりけるゆゑにこそ、経島とは名づけたれ。
慈心坊
古い人の申されけるは、清盛公は悪人とこそ思へども、まことは慈慧僧正の再誕なり。そのゆゑは、摂津国清澄寺といふ山寺あり。かの寺の住僧慈心房尊慧と申しけるは本は叡山の学侶、多年法華の持者なり。然るに道心を発し離山して、この寺に年月を送りければ、皆人これを帰依しけり。去んぬる承安二年十二月十二日の夜、脇息に倚り懸かり、法華経読み奉りけるに、丑刻ばかりに夢ともなく現ともなく、年五十ばかりなる男の浄衣に立烏帽子著て、草鞋脛巾したるが、立文を持って来れり。尊慧、
「あれはいづくよりの人ぞ」
と問はれれば、
「閻魔王宮よりの御使なり。宣旨さうらふ」
とて、立文を尊慧に渡す。尊慧これを開いて見れば、
「屈請、閻浮提大日本国摂津国清澄寺の慈心房尊慧、来廿六日、閻魔羅城大極殿にして、十万人の持経者を以て十万部の法華経を転読せらるべきなり。よって参勤せらるべし。閻王宣に依て屈請如件。
承安二年十二月十二日 閻魔庁」
とぞ書かれたる。尊慧いなみ申すべき事ならねば、左右なう領承の請文を書いて奉ると覚えて、覚めにけり。偏に死去の思ひをなして、院主の光影房にこの事を語る。皆人奇特の思ひをなす。尊慧口には弥陀の名号を唱へ、心に引摂の悲願を念ず。やうやう二十五日の夜陰に及んで常住の仏前にいたり例の如く脇息に倚り懸って念仏読経す。子刻に及んで眠り切なるがゆゑに、住房に帰って打ち臥す。丑刻ばかりにまた先の如くに浄衣装束なる鬼二人来て、はやはや参らるべしと勧むる間、閻王宣を辞せんとすれば、これその恐あり。参詣せんとすれば、更に衣鉢なし。この思ひをなす時、法衣自然に身に纏って肩に懸かり、天より金の鉢下る。
二人の童子、二人の従僧、十八人の下僧、七宝の大車、寺坊の前に現ず。尊慧なのめならず喜んで即時に車に乗る。従僧等西北の方に向って空を翔けて、ほどなく閻魔王宮にいたりぬ。王宮の体を見るに、外郭渺々として、その内曠々たり。その内に七宝所成の大極殿あり。高広金色にして、凡夫の慮る所にあらず。その日の法会終はって後、諸僧皆帰る時、尊慧は南方の中門に立って遥に大極殿を見渡せば、冥官冥衆、皆閻魔法王の御前に畏まる。尊慧ありがたき参詣なり。このついでに後生の事尋ね申さんとて、大極殿へ参る。その間に二人の童子蓋を指し、二人の従僧箱を持ち、十八人の下僧列を引いて、漸々歩み近付く時、閻魔法王、冥官冥衆皆ことごとく下り迎ふ。多聞持国二人の童子に現じ、薬王菩薩勇施菩薩、二人の従僧に変ず。十羅刹女十八人の下僧に現じて、随逐給仕したまへり。閻王問ひていはく、
「余僧皆帰り去りぬ。御房来る事いかん」
「後生の在所承らんためなり」
「ただし往生不往生は、人の信不信にあり」
云々。閻王また冥官に勅してのたまはく、
「この御房の作善の文箱南方の宝蔵にあり。取り出して一生の行、化他の碑の文見せ奉れ」
冥官承って、南方の宝蔵に行きて、一の文箱を取って参りたり。即蓋を開いてこれをことごとく読み聞かす。尊慧悲歎啼泣して、
「ただ願はくはわれを哀愍して出離生死の方法を教へ、証大菩提の直道を示したまへ」
その時閻王哀愍教化して、種々の偈を誦す。冥官筆を染めて一々にこれを書く。
妻子王位財眷属 死去無一来相親 常随業鬼繋縛我 苦受叫喚無辺際
閻王、この偈を誦し終はって、即ちかの文を尊慧に附属す。尊慧なのめならず悦んで、
「日本の大相国と申す人摂津国和田御崎を点じて、四面十余町に屋を作り、今日の十万僧会の如く持経者を多く屈請して、坊ごとに一面に座につき、説法読経、丁寧に勤行を致されさうらふ」
と申しければ、閻王随喜感歎して、
「件の入道は、ただ人にあらず、慈慧僧正の化身なり。天台の仏法護持のために、日本に再誕す。ゆゑに、毎日に三度かの人を礼する文あり。すなはちこの文を以てかの人に奉るべし」
とて、
敬礼慈慧大僧正 天台仏法擁護者 示現最初将軍身 悪業衆生同利益
尊慧これをたまはって、大極殿の南方の中門を出づる時、官士等十人門外に立って、車に乗せ、前後に随ふ。また、空を翔けて帰り来る。夢の心地して息出できにけり。尊慧これを以て、西八条へ参り、入道相国に参らせたりければ、斜ならず悦びて、さまざまもてなし、さまざま引き出物どもたまひて、その勧賞に律師になされけるとぞ聞こえし。さてこそ、清盛公をば、慈慧僧正の再誕なりと人知りてけれ。
祇園女御
またある人の申しけるは、清盛公は忠盛が子にはあらず、まことには白河院の皇子なり。そのゆゑは、去る永久の比ほひ、祇園女御と聞こえし幸人おはしける。件の女房のすまひ所は、東山の麓祇園の辺にてぞありける。白河院常は御幸なりけり。ある時殿上人一両人、北面少々召し具して、しのびの御幸ありしに、これは五月廿日余のまだ宵の事なれば、目ざすとも知らぬ闇ではあり、五月雨さへ掻き暮し、まことにいぶせかりけるに、件の女房の宿所近く御堂あり。御堂の傍に光物出来たり。首は、銀の針を磨き立ったるやうにきらめき、左右の手と覚しきを差し上げたるが、片手には槌のやうなる物を持ち、片手には光る物をぞ持ったりける。君も臣も、
「あな恐ろし、これはまことの鬼と覚ゆる。手に持ってたる物は、聞こゆる打出の小槌なるべし。いかがせん」
と噪がせおはします所に、忠盛その比はいまだ北面の下臈にて、供奉したりけるを召して、
「この中にてなんぢこそあるらん。あの者射もころし、斬りも停めなどせんや」
とおほせければ、忠盛畏まり承って行向ふ。内々思ひけるは、この者さしも猛き者とは見えず。狐狸などにてぞあるらん。これを射も殺し、斬りも殺したらんは、無下に念なかるべし。生け捕りにせんと思って、歩み倍る。と計ありては颯と光り、と計ありては颯と光り、二三度しけるを、忠盛走り寄って、むずと組む。組まれて、
「こはいかに」
と騒ぐ。変化の者にはなかりけり、はや人にてぞありける。その時上下手々に火をともいて、これを御覧じ見たまふに、六十ばかりの法師なり。たとへば御堂の承仕法師でありけるが、御明参らせんとて、手瓶といふ物に油を入れて、片手には土器に火を入れてぞ持ったりける。雨は沃にいて降る、濡れじとて、かしらに小麦の藁を笠のやうに引き結うでかついだり、土器の火に小麦の藁耀いて、銀の針のやうには見えけるなり。事の体一々に露はれぬ。
「これを射も殺し、切りも殺したらんは、いかに念なからん。忠盛が振舞ひやうこそ思慮深けれ。弓矢取る身は優かりけり」
とて、その勧賞にさしも御最愛と聞こえし祇園の女御を忠盛にこそたまひたりけれ。さてかの女房院の御子を孕み奉りしかば、
「産まらん子、女子ならば朕が子にせん。男子ならば忠盛が子にして弓矢とる身に仕立てよ」
とおほせけるに、即ち男を産めり。この事奏聞せんと伺ひけれども、然るべき便宜もなかりけるに、ある時白河院熊野へ御幸なりけるが紀伊国糸鹿坂といふ所に、御輿かき居させ暫く御休息ありけり。藪にぬかごの幾らもありけるを、忠盛袖にもり入れて、御前へ参り、
いもが子は這ふほどにこそなりにけれ。
と申したりければ、院やがて御心得ありて、
ただもりとってやしなひにせよ。
とぞ附させましましける。それよりしてこそ、わが子とはもてなしける。この若君あまりに夜啼をしたまひければ、院きこしめされて、一首の詠を遊ばして下されけり。
夜啼すとただもりたてよ末の代は、清く盛る事もこそあれ。
さてこそ、清盛とは名乗られけれ。十二の歳兵衛佐になる。十八の歳四品して四位の兵衛佐と申すを、仔細存知せぬ人は、
「華族の人こそかうは」
と申しけるに、鳥羽院もしろしめされて、
「清盛が華族は、人に劣らじ」
とぞおほせける。
昔も天智天皇孕みたまへる女御を、大織冠に賜ふとて、
「この女御の産まらん子女子ならば朕が子にせん。男子ならば臣が子にせよ」
とおほせけるに、即ち男を産みたまへり。多武峰の本願、定慧和尚これなり。上代にもかかるためしありければ、末代にも平大相国、まことに白河院の御子にておはしければにや、さばかりの天下の大事、都遷などといふ憚らぬ事ども、思ひ立たれけるにこそ。
洲俣合戦
同じき閏二月廿日、五条大納言国綱卿失せたまひぬ。平大相国と、さしも契り深う志浅からざりし人なり。せめての契りの深にや、同日に病み付いて、同月にぞ失せられける。この大納言と申すは兼資中納言より八代の末葉、前右馬助守国が子なり。蔵人にだにならず、進士の雑色とてさうらはれし、近衛院御在位の時、仁平の比ほひ、内裡に俄に焼亡出きたり。主上南殿に出御在しかども、近衛司一人も参ぜられず、あきれて立たせおはしましたる所に、この国綱腰輿を舁かせて参り、
「かやうの時は、かかる御輿にこそ召されさうらへ」
と奏しければ、主上これに召して出御あり。
「何者ぞ」
と御尋ねありければ、
「進士の雑色藤原国綱」
と名乗り申す。
「かかるさかさかしき者こそあれ、召し仕ふべし」
とその時の殿下法性寺殿へおほせ合はせられければ、御領あまたたまひなどして召し仕はれけるほどに、同帝の御代に八幡へ行幸ありしに、人長が酒に酔って水に倒れ入り、装束を濡らし、御神楽遅々したりけるに、この国綱、
「神妙にこそさうらはねども、人長が装束は持たせてさうらふ」
とて、一具取り出されたりければ、これを著て御神楽調へ奏しけり。ほどこそ少しも推し移りたりけれども、歌の声もすみのぼり、舞の袖、拍子に合って面白かりけり。物の身にしみて面白き事は神も人も同じ心なり。昔天の岩戸をおしひらかれけん神代の事わざまでも今こそおぼしめし知られけれ。
やがてこの国綱の先祖に山蔭中納言といふ人おはしき。その子に如無僧都とて智慧才覚身に余り、徳行持律の僧おはしけり。昌泰の比ほひ、寛平法皇、大井河へ御幸ありしに、勧修寺の内大臣高藤公の御子、泉の大将貞国、小倉山の嵐に烏帽子を河へ吹き入れられ袖にて鬢を押へ、し方なくてぞ立ったりけるに、この如無僧都三衣箱の中より烏帽子一つとり出されたりけるとかや。かの僧都は、父、山蔭中納言、大宰大弐になって鎮西へ下られける時、二歳なりしを、継母悪んであからさまに抱くやうにして、海に落し入れ殺さんとしけるを、死にけるまことの母、在生の時、桂の鵜飼が鵜の餌にせんとて、亀を取って殺さんとしけるを著たまへる小袖を脱ぎ、亀にかへ放たれたりしが、その恩を報ぜんと、この若君落し入れけるを水の上に浮び来て、甲に乗って扶けたりける。それは上代の事なればいかにありけん。末代に国綱卿の高名ありがたき事どもなり。法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺殿かくれさせたまひて後入道相国存する旨ありとて、この人に語らひよりたまへり。大福長者にておはしければ、何にても必ず毎日に一種をば入道相国の許へ贈られけり。現世のとくいこの人に過ぐべからずとて、子息一人養子にして、清国と名乗らせ、また入道相国の四男、頭中将重衡はかの大納言の婿になる。
治承四年の五節は福原にて行はれけるに、殿上人中宮の御方へ推参ありしが、ある雲客の、
「竹湘浦に斑なり」
といふ朗詠をせられたりければこの大納言立ち聞きして、
「あな浅間し、これは禁忌なりとこそ承れ。かかる事きくとも聞じ」
とて、ぬき足して遁れ出られぬ。たとへば、この朗詠の心は、昔尭の帝に二人の姫宮ましましき。姉をば娥皇といひ、妹をば女英といふ。ともに舜の御門の后なり。舜の御門かくれたまひて後、かの蒼梧の野辺へ送り奉り、烟となし奉る時、二人の后名残を惜しみ奉り、湘浦といふ所まで随ひつつ、泣き悲しみたまひしに、その涙岸の竹に懸かって斑にぞ染みたりける。
その後も常にはかの所におはして瑟を引いて慰みたまへり。今かの所を見るなれば、岸の竹は斑にて立ったり。琴を調べし迹には雲たなびいて、物哀なる心を橋相公の賦に作れるなり。この大納言はさせる文才詩歌麗しうはおはせざりしかども、かかるさかしき人にてかやうの事までも聞き咎められけるにこそ。
この人大納言までは思ひも寄らざりしを、母上賀茂大明神に歩みを運び、
「願はくは、わが子の国綱一日でもさうらへ、蔵人頭歴させたまへ」
と、百日肝胆を砕いて祈り申されけるが、ある夜の夢に檳榔の車をあて来て、わが家の車寄せに立つと夢を見て、これを人に語りたまへば、
「それは、公卿の北方になせたまふべきにこそ」
とあはせたりければ、
「わが年已に闌けたり。今更さやうの振舞ひあるべしとも覚えず」
とのたまひけるが、御子国綱蔵人頭は事も宜し。正二位大納言に上りたまふこそ目出たけれ。
同じき廿二日、法皇は院の御所法住寺殿へ御幸なる。かの御所は去んぬる応保三年四月十五日に造り出されて、新比叡、新熊野なども間近う勧請し奉り、山水木立に至るまでおぼしめしままなりしが、この二三年は平家の悪行に依て、御幸もならず。御所の破壊したるも修理して、御幸なし奉るべき由、前右大将宗盛卿奏せられたりければ、何のやうもあるべからず、たださうさうとて御幸なる。先故建春門院の御方を御覧ずれば、岸の松、汀の柳年経にけりと覚えて、木高くなれるに付いても、太液の芙蓉、未央の柳、これに向ふにいかが涙進まざらん。かの南内西宮の昔の跡、今こそおぼしめし知られけれ。
三月一日南都の僧綱等、本官に復して末寺庄園もとの如く知行すべき由おほせ下さる。同じき三日大仏殿造り始めらる。事始めの奉行には蔵人左少弁行隆とぞ聞こえし。この行隆、先年八幡へ参り、通夜せられたりけるが、夢に御宝殿の内よりびんづら結ひたる天童の出でて、
「これは大菩薩の使なり。大仏殿奉行の時はこれを持つべし」
と、笏を賜はるといふ夢を見て、覚めて後見たまへば、現にありけり。
「あな不思議や当時何事あってか、大仏殿奉行に参るべき」
とて、懐中して宿所へ帰り、深う納めて置かれけるが、平家の悪行に依て、南都炎上の間、この行隆、弁の中に選ばれて、事始めの奉行に参られける宿縁のほどこそ目出たけれ。
同じき三月十日、美濃国の目代、都へ早馬を以て申しけるは、東国の源氏どもすでに尾張国まで攻め上り、道を塞ぎ、人を通さぬ由申したりければ、やがて討手を差し遣はす。大将軍には、左兵衛督知盛、左中将清経、小松少将有盛、都合その勢三万余騎で発向す。入道相国うせたまひて後、纔に五旬をだにも過ぎざるに、さこそ乱れたる代といひながら、浅ましかりし事どもなり。源氏の方には十郎蔵人行家、兵衛佐の弟卿公義円、都合その勢六千余騎、尾張河を中に隔て、源平両方に陣をとる。
同じき十六日の夜半ばかり、源氏の勢六千余騎河を渡って、平家三万余騎が中へをめいて懸け入る。明れば十七日寅刻より矢合して、夜の明るまで戦ふに、平家の方には些も騒がず、
「敵は河を渡いたれば馬物具も皆濡れたるぞ、それを標にして討てや」
とて、大勢の中に取り籠めて、
「余すな漏らすな」
とて責めたまへば、源氏の勢残り少なに討ちなされ、大将軍行家辛き命生きて河より東へ引き退く。卿公義円は深入して討たれにけり。平家やがて河を渡って、源氏を追物射に射て行く。
源氏あそこここで帰し合はせ防ぎけれども、敵は大勢、御方は無勢なり。かなふべしとも見ざりけり。
「水沢を後にする事なかれ」
とこそいふに、今度の源氏の策、愚なりとぞ人申しける。去るほどに大将軍十郎蔵人行家参河国に打ち越えて、矢矧川の橋を引き、垣楯掻いて待ち懸けたり。平家やがて押し寄せ攻めたまへば、こらへずして、そこをも、また、攻め落されぬ。平家やがて続いて攻めたまへば、参河遠江の勢は、随ひつくべかりしに大将軍左兵衛督知盛、労あって参河国より帰り上らる。今度も僅に一陣を破るといへども、残党を攻めねば、し出だしたる事なきが如し。平家は去々年小松大臣薨せられぬ。今年また入道相国失せたまひぬ。運命の末になる事あらはなりしかば、年来恩顧の輩の外は、随ひ付く者なかりけり。東国には草も木も皆源氏にぞ靡きける。
嗄声
去るほどに越後国の住人、城太郎助長、越後守に任ず。朝恩の忝さに、木曽追討のために、都合三万余騎同じき六月十五日門出して、明る十六日の卯刻にすでに討ち立たんとしけるに、夜半ばかり、俄に大風吹き、大雨降り、雷おびたたしう鳴って、天晴れて後雲井に大なる声のしはがれたるを以て、
「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏、焼亡し奉る平家の方人する者ここにあり、召し取れや」
と、三声叫んでぞ通りける。城太郎を始めとして、これをきく者、皆身の毛よだちけり。郎等ども、
「これほど怖ろしい天の告げのさうらふに、ただ理を枉げて留まらせたまへ」
と申しけれども、弓矢取る者の、それによるべきやうなしとて、明る十六日卯刻に城を出でて僅に十余町ぞ行ったりける。黒雲一村立ち来て、助長が上に掩ふとこそ見えけれ、俄に身すくみ心ほれて落馬してけり。輿に舁き乗せ館へ帰り、打ち臥す事三時ばかりして、遂に死にけり。飛脚を以て、この由都へ申したりければ、平家の人々、大いに噪がれけり。
同じき七月十四日改元あって、養和と号す。その日筑後守貞能、筑前肥後両国をたまはって、鎮西の謀反平らげに、西国へ発向す、その日また非常の大赦行はれて、去んぬる治承三年に流されたまひし人々召し還さる。松殿入道殿下備前国より御上洛、太政大臣妙音院尾張国より上らせたまふ。按察大納言資方卿信濃国より帰洛とぞ聞こえし。
同じき廿八日、妙音院殿御院参。去んぬる長寛の帰洛には、御前の賓子にして、賀王恩、還城楽を弾かせたまひしに、養和の今の帰京には、仙洞にして秋風楽をぞ遊ばしける。いづれも風情折をおぼしめしよらせたまひけん御心のほどこそ目出たけれ。按察大納言資方卿も、その日院参せらる。法皇、
「いかにや夢のやうにこそおぼしめし。習はぬ鄙の住まひして、鄙曲なども、今は跡方あらじとおぼしめせどもまづ今様一つあらばや」
とおほせければ、大納言拍子取って、
信濃にあるなる木曽路川。
といふ今様を、これは見たまひたりし間、
信濃にありし木曽路川。
と歌はれけるぞ時に取っての高名なる。
横田河原合戦
八月七日の日官の庁にて、大仁王会行はる。これは将門追討の例とぞ聞こえし。九月一日、純友追討の例とて、鉄の鎧甲を伊勢大神宮へ参らせらる。勅使は祭主神祇権大副大中臣定隆。
都を立て近江国甲賀の駅より病み付き、伊勢の離宮にして、死にけり。謀反の輩調伏のために、五壇の法、承って行はれける降三世の大阿闍梨、大行事の彼岸所にして、ね死にしぬ。神明も三宝も、御納受なしといふ事いちじるし。また大元法、承って修せられける安祥寺の賢玄阿闍梨が御巻数を進じたりけるを、披見せられければ、平家調伏の由を註進したりけるぞ怖ろしき。
「こはいかに」
とおほせければ、
「朝敵調伏せよとおほせ下さる。当世の体を見さうらふに、平家専ら朝敵と見えたまへり。よってこれを調伏す、何のとがやさうらふべき」
とぞ申しける。
「この法師奇怪なり。死罪か流罪か」
とありしか、大小事の怱劇に、打ち紛れてその後沙汰もなかりけり。源氏の代となって後、鎌倉殿、
「神妙なり」
と感じおぼしめして、その勧賞に大僧正になされけるとぞ聞こえし。
同じき十二月廿四日、中宮院号蒙らせたまひて、建礼門院とぞ申しける。いまだ幼主の御時、母后の院号これ始とぞ承る。さるほどに今年も暮れて、養和も二年になりにけり。
二月廿一日、太白昴星を侵す。天文要録にいはく、
「太白昴星を侵せば、四夷起る」
といへり。また、
「将軍勅命を蒙って、国の境を出づ」
とも見えたり。
三月十日、除目行はれて、平家の人々大略官加階したまふ。四月十日、前権少僧都顕真、日吉の社にして、如法に法華経一万部転読する事ありけり。御結縁のために、法皇も御幸なる。何者の申し出したりけるやらん、一院山門の大衆におほせて、平家を追討せらるべしと聞こえしほどに、軍兵内裏へ参って、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳せ集まる。本三位中将重衡卿、法皇の御むかへにその勢三千余騎で日吉の社へ参向す。山門にまた聞こえけるは、平家山攻めんとて、数百騎の勢を率して登山すと聞こえしかば、大衆皆東坂本へ下りて、
「こはいかに」
と僉議す。山上洛中の騒動斜ならず。供奉の公卿、殿上人色を失ひ、北面の者の中にはあまりにあわて噪いで、黄水つく者多かりけり。本三位中将重衡卿、穴太の辺にて、法皇迎へ取り参らせて還御なし奉る。
「かくのみあるにはこの後は御物語なども今は御心に任すまじき事やらん」
とぞおほせける。まことには山門大衆平家を追討せんといふ事もなし。平家山せめんといふ事もなし。これ跡形なき事どもなり。
「天魔のよく荒れたるにこそ」
とぞ人申しける。同じき四月廿日、臨時に官僧あり。これは飢饉疾疫に依てなり。
同じき五月二十四日改元あって、寿永と号す。その日また越後国の住人城四郎助茂、越後守に任ず。兄の助長逝去の間、不吉なりとて頻に辞しけれども、勅命なれば力及ばず。助茂を長茂と改名す。
同じき九月二日、城四郎長茂木曽追討のために、越後、出羽、会津四郡の兵どもを引率して、都合その勢四万余騎、信濃国へ発向す。同じき九日、当国横田河原に陣をとる。木曽は依田城にありけるが、これを聞いて依田城を出でて三千余騎で、馳せ向ふ。信濃源氏、井上九郎光盛が謀に、俄に赤旗七旒作り三千余騎を七手に分かち、あそこの峰、ここの洞より赤旗ども手にくく指し揚げて寄せければ、城四郎これを見て、
「あはやこの国にも平家の方人する人ありけりと、力付きぬ」
とて、勇のいる所に、次第に近うなりければ、相図を定めて、七手が一つになり、一度に閧をどとぞ作りける。用意したる白旗、さと差し揚げたり。越後の勢ども、これを見て、
「敵何十万騎あらん、いかがせん」
と色を失ひ、あわてふためき、あるは河に追はめられ、あるは悪所におひ落され、助かる者は少なう、討たるる者ぞ多かりける。城四郎が頼み切ったる越後の山太郎、会津の乗丹房といふ聞こゆる兵ども、そこにて皆討たれぬ。わが身手負ひ、辛き命生きつつ、河に伝うて越後国へ引き退く。
同じき十六日、都には平家これをば事ともしたまはず前右大将宗盛卿、大納言に還著して、十月三日、内大臣になりたまふ。同じき七日悦申あり。当家の公卿十二人扈従して、蔵人頭以下、殿上人十六人前駆す。東国北国の源氏ども、蜂の如くに起き合ひ、ただ今都へ責め上らんとするに、かやうに波の立つやらん、風の吹くやらんも知らぬ体にて花やかなりし事ども、中々いふかひなうぞ見えたりける。
さるほどに、寿永二年になりにけり。節会以下常の如し。内弁をば平家の内大臣宗盛公勤めらる。正月六日主上朝覲のために、院御所法住寺殿へ行幸なる。鳥羽院六歳にて、朝覲行幸、その例とぞ聞こえし。二月廿二日、宗盛公従一位したまふ。聴してその日内大臣をば上表せらる。兵乱慎のゆゑとぞ聞こえし。南都北嶺の大衆、熊野金峰山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に至るまで、一向平家を背いて、源氏に心を通はしける。四方に宣旨をなし下し、諸国に院宣遣はせども、院宣宣旨も、皆平家の下知とのみ心得て随ひ付く者なかりけり。