【福岡県福津市】義民六士の巨石をゆく|津屋崎六人衆の伝承と行き方

2026年7月5日(日)、福岡県福津市勝浦にある「義民六士の巨石」を訪問しました。

「今日はどこへ行こうか」

と、Googleマップを開いて「史跡」と周辺を検索。そこで目についたのが「義民六士の巨石」でした。恥ずかしながら「義民」という言葉を知らなった私は、まず義民とは何かと検索。「ふむふむ、これは面白そうだ」と車を走らせました。

しかし、周辺には駐車場はおろか、案内板もなく、たどり着くまでにひと苦労⋯⋯。結局、「あんずの里市」に車を置いて、歩いて向かうことになりました。「義民六士の巨石」について、への行き方

目次

義民とは?

私と同じように、「義民」という言葉を初めて聞いた方もいるかもしれません。そこで、義民について調べたことを簡単にまとめます。

義民とは、主に江戸時代に、自分の命や財産を犠牲にする覚悟で、苦しい生活を送る民衆のために領主や幕府へ訴え出た人物のことです。

当時は、定められた手続きを経ず、領主や幕府へ直接訴える「直訴」は、死罪になることもある重い罪とされていました。たとえ訴えの内容が正しくても、直訴そのものが社会の秩序を乱し、支配体制を脅かす行為と考えられていたためです。

直訴の主な内容は、重い年貢の軽減や、飢えや水不足に苦しむ村人を救うための願いなどでした。例えば、農民に課された年貢を軽くしてほしいと訴えたり、田畑に水を引くための用水路を造る許可を求めたりしました。

こうした訴えによって願いが聞き入れられ、民衆を救うことができたとしても、直訴した本人は処罰され、死罪になることもありました。このように自らの命や財産を犠牲にして民衆のために尽くし、後世にたたえられるようになった人物を「義民」といいます。

「義民六士の巨石」にまつわる伝承

「義民六士の巨石」にまつわる伝承は、1978年4月に西日本新聞社から刊行された、上妻国雄著『宗像伝説風土記』の下巻に、「津屋崎六人衆」という題で収録されています。

すでに絶版となっており入手困難ですが、国立国会図書館サーチで読むことができます。その内容をまとめました。

「津屋崎六人衆」の要約

 津屋崎と勝浦では、漁場の境界をめぐる争いが長く続いていた。はじめて史料に記録されたのは、弘治2年(1556年)12月のこと。江戸時代に入っても争いは収まらず、90年近くが経った三代将軍家光のころ、ついに津屋崎漁民の不満が頂点に達した。

 寛永15年(1638年)、津屋崎漁民は竈門神社に、漁場争いの解決を願う起請文を奉納した。放置しておくわけにもいかない黒田藩は、寛永17年(1640年)に浦奉行の篠原勘右衛門に実情を調査させ、津屋崎と勝浦の中間にある「俵瀬(たわらせ)」を新しい境界に定めた。しかし、これでは十分な漁場を確保できないため、津屋崎側は納得しなかった。そこで奉行の篠原は、津屋崎の庄屋である佐兵衛、組頭の七郎兵衛、長兵衛、甚兵衛、作右衛門、孫右衛門の計6人に、次のように命じた。

「俵瀬にある300貫(約1.1トン)の大石を6人で担ぎ、歩けなくなった場所を新しい境界にする」

 篠原は「これほどの巨石を人間が担いで運べるわけがないだろう」と、無理難題をふっかけたのである。

 ところが、6人は死装束を身にまとい、大勢の村人が見守るなか、巨石を担ぎ上げた。村人たちの声援を受けながら、浜辺を何町も歩き続けたという。予想外の出来事に驚いた篠原は、6人を追いかけ、石を縛っていた藤蔓を刀で切った。そして、石が落ちた場所を新しい境界として認めた。

 こうして津屋崎の人々は、長年求めていた漁場を手に入れることができた。しかし、6人は訴願の罪を問われ、翌日の寛永17年(1640年)6月2日、箱崎浜で処刑されたと伝えられている。村人たちのために命を懸けた6人は、後に「津屋崎六人衆」や「義民六士」と呼ばれ、たたえられるようになった。

「義民六士の巨石」への行き方

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