『平家物語』原文・現代語訳を全文公開! 品詞分解も順次追加中! 『平家物語』を読む

『平家物語』第10巻 原文全文

  • URLをコピーしました!

目次

首渡

 寿永(じゆえい)三年(さんねん)二月(にぐわつ)七日(なぬか)、摂津国(せつつのくに)一谷(いちのたに)にて討(う)たれし平氏(へいじ)の頸(くび)ども十二日(じふににち)に都(みやこ)へ入(い)る。

 平家(へいけ)に結(むす)ぼほれたる人々(ひとびと)は、我方(わがかた)様(さま)に、いかなる憂目(うきめ)をか見(み)んずらんと嘆(なげ)きあひ悲(かな)しみあへり。

 中(なか)にも大覚寺(だいかくじ)に隠(かく)れ居(ゐ)たまへる小松(こまつ)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)卿(きやう)の北(きた)の方(かた)殊更(ことさら)覚束(おぼつか)なく思(おも)はれける。

 今度(こんど)一谷(いちのたに)にて一門(いちもん)の人々(ひとびと)残(のこ)り少(すく)なううたれたまひ、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)といふ公卿(くぎやう)一人(ひとり)生捕(いけどり)にせられて上(のぼ)るなりと聞(き)きたまひ、この人(ひと)離(はな)れじ物(もの)をとて、引(ひ)き覆(おほ)ひてぞ伏(ふ)したまふ。

 或(ある)女房(にようばう)の出来(いでき)て申(まう)しけるは、

「三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)と申(まう)すは、これの御事(おんこと)にて候(さうら)はず。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)殿(どの)の御事(おんこと)なり」

 と申(まう)しければ、

「さては頸(くび)どもの中(なか)にこそあるらめ」

 とて、なほ心(こころ)安(やす)くも思(おも)ひたまはず。

 同(おな)じき十三日(じふさんにち)、大夫判官(だいぶはうぐわん)仲頼(なかより)、六条(ろくでう)河原(かはら)に出(い)で向(むか)きて、頸(くび)ども請(う)け取(と)る。

 東洞院(ひがしのとうゐん)の大路(おほぢ)を北(きた)へ渡(わた)して、獄門(ごくもん)の木(き)に懸(か)けらるべき由(よし)、蒲冠者(かばのくわんじや)範頼(のりより)九郎冠者(くらうくわんじや)義経(よしつね)奏聞(そうもん)す。

 法皇(ほふわう)この条(でう)いかがあるべからむとおぼしめし煩(わづら)ひて、太政大臣(だいじやうだいじん)、左右(さゆう)の大臣(だいじん)、内大臣(ないだいじん)、堀河大納言忠親卿(ほりかはだいなごんただちかのきやう)におほせ合(あ)せらる。

 五人(ごにん)の公卿(くぎやう)申(まう)されけるは、

「昔(むかし)より卿相(けいしやう)の位(くらゐ)に上(のぼ)るものの頸(くび)、大路(おほぢ)を渡(わた)さるる事(こと)先例(せんれい)なし。就中(なかんづく)、この輩(ともがら)は先帝(せんてい)の御時(おんとき)戚里(せきり)の臣(しん)として、久(ひさ)しく朝家(てうか)に仕(つか)へつる。範頼(のりより)義経(よしつね)が申状(まうしじやう)、あながち御許容(ごきよよう)あるべからず」

 とおのおの一同(いちどう)に申(まう)されければ、渡(わた)さるまじきにてありけるを、範頼(のりより)義経(よしつね)重(かさ)ねて奏聞(そうもん)しけるは、

「保元(ほうげん)の昔(むかし)を思(おも)へば、祖父(おほぢ)為義(ためよし)が讐(あだ)、平治(へいぢ)の古(いにしへ)を案(あん)ずれば、父(ちち)義朝(よしとも)が敵(かたき)なり。君(きみ)の御憤(ぎよふん)を息(いさ)め奉(たてまつ)り、父祖(ふそ)の恥(はぢ)を雪(きよ)めんが為(ため)に命(いのち)を棄(す)て、朝敵(てうてき)を滅(ほろぼ)す。今度(こんど)平氏(へいじ)の頸(くび)ども、大路(おほぢ)を渡(わた)されずば、自今以後(じこんいご)何(なに)のいさみあってか、凶賊(きようぞく)を退(の)けんや」

 と、両人(りやうにん)頻(しき)りに訴(うつた)へ申(まう)す間(あひだ)、法皇(ほふわう)力(ちから)及(およ)ばせたまはで、つひに渡(わた)されけり。

 見(み)る人(ひと)幾(いく)等(ら)といふ数(かず)を知(し)らず。

 帝闕(ていけつ)に袖(そで)をつらねし古(いにし)へは、恐怖(おそ)るる輩(ともがら)多(おほ)かりき。

 巷(ちまた)に首(くび)を渡(わた)さるる今(いま)は哀(あはれ)み悲(かな)しまずといふ事(こと)なし。

 小松(こまつ)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)卿(きやう)の若君(わかぎみ)六代(ろくだい)御前(ごぜん)に付(つ)きたてまつりたる斎藤五(さいとうご)、斎藤六(さいとうろく)、あまりの覚束(おぼつか)なさに、様(さま)を窶(やつ)して見(み)ければ、頸(くび)どもは見(み)知(し)り奉(たてまつ)りたれども、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)の御頸(おんくび)は見(み)えたまはず。

 されどもあまりに悲(かな)しくて、つつむに堪(た)へぬ涙(なみだ)のみ滋(しげ)かりければ、よその人(ひと)目(め)も怖(おそ)ろしさに、急(いそ)ぎ大覚寺(だいかくじ)へぞ参(まゐ)りける。

 北方(きたのかた)、

「さていかにやいかに」

 と問(と)ひたまへば、

「小松(こまつ)殿(どの)の君達(きんだち)には備中(びつちゆう)守(かみ)殿(どの)の御頸(おんくび)ばかりこそ見(み)えさせたまひ候(さうらひ)つれ。その外(ほか)はそんぢやうその頸(くび)その御頸(おんくび)」

 と申(まう)しければ、

「いづれも人(ひと)の上(うへ)とも覚(おぼ)えず」

 とて、涙(なみだ)に咽(むせ)びたまひけり。

 しばらくあって、斎藤五(さいとうご)涙(なみだ)を抑(おさ)へて申(まう)しけるは、

「この一両年(いちりやうねん)は隠居(いんきよ)候(さうらう)て、人(ひと)にもいたく見(み)知(し)れ候(さうら)はず。今(いま)暫(しばら)くも見参(げんざん)すべう候(さうらひ)つれども、よにくはしう案内(あんない)知(し)り参(まゐ)らせたる者(もの)の申(まう)し候(さうらひ)つるは、『小松(こまつ)殿(どの)の君達(きんだち)は今度(こんど)の合戦(かつせん)には、播磨(はりま)と丹波(たんば)の境(さかひ)で候(さうらふ)なる三草山(みくさやま)を固(かた)めさせたまひて候(さうらひ)けるが、九郎(くらう)義経(よしつね)に破(やぶ)られて、新三位中将(しんさんみのちゆうじやう)殿(どの)、小松(こまつ)少将(せうしやう)殿(どの)、丹波(たんば)侍従(じじゆう)殿(どの)は、播磨(はりま)の高砂(たかさご)より御船(おんふね)に召(め)して、讃岐(さぬき)の八島(やしま)へ渡(わた)らせたまひて候(さうらふ)なり。何(なに)として離(はな)れさせたまひて候(さうらひ)けるやらん。御兄弟(ごきやうだい)の御(おん)中(なか)に備中(びつちゆう)守(かみ)殿(どの)ばかり一谷(いちのたに)にて討(う)たれさせたまひて候(さうらふ)』と申(まう)す者(もの)にこそ逢(あ)ひて候(さうらひ)つれ。『さて三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)の御事(おんこと)はいかに』と問(と)ひ候(さうらひ)つれば、『それは軍已前(いくさいぜん)より大事(だいじ)の御(おん)いたはりとて、八島(やしま)に御渡(おんわたり)候(さうらふ)間(あひだ)、この度(ど)は向(むか)はせたまひ候(さうら)はず』と、細々(こまごま)とこそ申(まう)し候(さうらひ)つれ」

 と申(まう)しければ、

「そのも我等(われら)が事(こと)をあまりに思(おも)ひ嘆(なげ)きたまふが、病(やまひ)と成(な)りたるにこそ。風(かぜ)の吹(ふ)く日(ひ)は今日(けふ)もや船(ふね)に乗(の)りたまはらんと肝(きも)を消(き)し、軍(いくさ)といふ時(とき)は、ただ今(いま)もや討(う)たれたまはらんと心(こころ)を尽(つ)くす。ましてさやうのいたはりなんどをも、誰(たれ)か心(こころ)安(やす)うも扱(あつか)ひ奉(たてまつ)るべき。委(くは)しく聞(き)かばや」

 とのたまへば、若君(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)

「など何(なに)の御(おん)いたはりとは問(と)はざりけるぞ」

 とのたまひけるこそあはれなれ。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)も、通(かよ)ふ心(こころ)なれば、

「都(みやこ)にいかに覚束(おぼつか)なく思(おも)ふらん、頸(くび)どもの中(なか)にはなくとも、水(みづ)に溺(おぼ)れても死(し)に、矢(や)に当(あた)たりても失(う)せぬらん、この世(よ)に在(あ)る者(もの)とは、よも思(おも)はじ。露(つゆ)の命(いのち)のいまだながらへたると知(し)らせ奉(たてまつ)らばや」

 とて、侍(さぶらひ)一人(ひとり)したてて都(みやこ)へのぼらせけり。

 三(み)の文(ふみ)をぞ書(か)かれける。

 まづ北方(きたのかた)への御文(おんふみ)には、

「都(みやこ)には敵(かたき)満々(みちみち)て、御身一(おんみひとつ)の置所(おきどころ)だにあらじに、幼(をさな)き者(もの)ども引(ひ)き具(ぐ)して、いかにかなしう覚(おぼ)すらん。これへ迎(むか)へ奉(たてまつ)りて、一所(いつしよ)でいかにもならばやとは思(おも)へども、我身(わがみ)こそあらめ、御為(おんため)こころぐるしくて」

 など、細々(こまごま)と書(か)き続(つづ)け、奥(おく)に一首(いつしゆ)の歌(うた)ぞありける。

いづくとも知(し)らぬ逢(あ)せの藻塩草(もしほぐさ)、かきおくあとを形見(かたみ)とも見(み)よ。

 少(すく)なき人々(ひとびと)の御許(おんもと)へは、

「つれづれをばいかにしてか慰(なぐさ)みたまふらん。急(いそ)ぎ迎(むか)へ取(と)らんずるぞ」

 と、言(こと)の葉(は)もかはらず書(か)いて上(のぼ)せられけり。

 この御文(おんふみ)どもをたまはって使(つかひ)都(みやこ)へ上(のぼ)り、北方(きたのかた)に御文(おんふみ)参(まゐ)らせたりければ、今更(いまさら)また嘆(なげ)き悲(かな)しみたまひけり。

 使(つかひ)四五日(しごにち)候(さうらう)て暇(いとま)申(まう)す。

 北方(きたのかた)泣(な)く泣(な)く御返事(おんへんじ)かきたまふ。

 若君(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)筆(ふで)をそめて、

「さて父御前(ちちごぜ)の御返事(おんへんじ)は何(なに)と申(まう)すべきやらん」

 と問(と)ひたまへば、

「ただともかうも和御前(わごぜ)達(たち)の思(おも)はん様(さま)に申(まう)すべし」

 とこそのたまひけれ。

「などや今(いま)まで迎(むか)へさせたまはぬぞ、あまりに恋(こひ)しく思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうらふ)に、とくとく迎(むか)へさせたまへ」

 と、同(おな)じ言葉(ことば)にぞかかれたる、この御文(おんふみ)どもをたまはって、使(つかひ)八島(やしま)に帰(かへ)りまゐる。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)まづ少(すく)なき人々(ひとびと)の御文(おんふみ)を御覧(ごらん)じてこそ、弥(いよいよ)詮方(せんかた)なげには見(み)えられけれ。

「抑(そもそも)これより穢土(ゑど)を厭(いと)ふに勇(いさみ)なし。閻浮(えんぶ)愛執(あいしふ)の綱(つな)つよければ、浄土(じやうど)を願(ねが)ふも懶(ものう)し。ただこれより山伝(やまづた)ひに都(みやこ)へ上(のぼ)りて恋(こひ)しき者(もの)どもを今一度(いまいちど)見(み)もし見(み)えて後(のち)、自害(じがい)をせんにはしかじ」

 とぞ、泣(な)く泣(な)く語(かた)りたまひける。

内裏女房

 同(おな)じき十四日(じふよつか)、生捕(いけどり)本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿(きやう)、六条(ろくでう)を東(ひがし)へわたされけり。

 小八葉(こはちえふ)の車(くるま)に前後(ぜんご)の簾(すだれ)を上(あ)げ、左右(さゆう)の物(もの)見(み)を開(ひら)く。

 土肥次郎(どひのじらう)実平(さねひら)、木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に小具足(こぐそく)許(ゆる)して、随兵(ずゐひやう)三十(さんじふ)余騎(よき)、車(くるま)の前後(ぜんご)に打(う)ち囲(かこ)んで守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。

 京中(きやうぢゆう)の貴賤(きせん)これを見(み)て、

「あないとほし、いかなる罪(つみ)の報(むく)いぞや。いくらもまします君達(きんだち)の中(なか)に、かくなりたまふ事(こと)よ。入道殿(にふだうどの)にも二位殿(にゐどの)にも、おぼえの御子(おんこ)にてましまししかば、御一家(ごいつけ)の人々(ひとびと)も重(おも)き事(こと)に思(おも)ひ奉(たてまつ)りたまひしぞかし。院(ゐん)へも内(うち)へも参(まゐ)りたまひし時(とき)は、老(お)いたるも若(わか)きも、所(ところ)をおきて持(も)ち成(な)し奉(たてまつ)りたまひしものを。これは南都(なんと)を滅(ほろぼ)したまへる伽藍(がらん)の罰(ばち)にこそ」

 と申(まう)しあへり。

 河原(かはら)まで渡(わた)されて、かへて、故中御門藤中納言家成卿(こなかのみかどとうちゆうなごんいへなりのきやう)の八条(はちでう)堀河(ほりかは)の御堂(みだう)に据(す)ゑ奉(たてまつ)って、土肥次郎(どひのじらう)守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。

 院(ゐん)御所(ごしよ)より御使(おんつかひ)に蔵人左衛門権佐定長(くらんどさゑもんのごんのすけさだなが)、八条(はちでう)堀河(ほりかは)へ向(むか)はれけり。

 赤(あか)衣(きぬ)に剣笏(けんしやく)をぞ帯(たい)したる。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)は、紺村濃(こんむらご)の直垂(ひたたれ)に、立烏帽子(たてえぼし)引(ひ)き立(た)てておはします。

 日頃(ひごろ)は何(なに)とも思(おも)はれざりし定長(さだなが)を、今(いま)は冥途(めいど)にて罪人(ざいにん)どもが、冥官(みやうくわん)に逢(あ)へる心地(ここち)ぞせられける。

 おほせ下(くだ)されけるは、

「八島(やしま)へ帰(かへ)りたくば、一門(いちもん)の中(なか)へ言(い)ひ送(おく)って、三種神器(さんしゆのじんぎ)を都(みやこ)へ返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)れ。然(しか)らば八島(やしま)へ返(かへ)さるべきとの御気色(ごきしよく)で候(さうらふ)」

 と申(まう)す。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)申(まう)されけるは、

「重衡(しげひら)千人(せんにん)万人(ばんにん)が命(いのち)にも、三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)を替(か)へ参(まゐ)らせんとは内府已下(ないふいげ)一門(いちもん)の者(もの)ども一人(ひとり)もよも申(まう)し候(さうら)はじ。もし女性(によしやう)にて候(さうら)へば、母儀(ぼぎ)の二品(にほん)なんどや、さも申(まう)し候(さうら)はんずらん。さは候(さうら)へども居(ゐ)ながら院宣(ゐんぜん)を返(かへ)し参(まゐ)らせん事(こと)、その恐(おそれ)も候(さうら)へば、申(まう)し送(おく)ってこそ見(み)候(さうら)はめ」

 とぞ申(まう)されける。

 御使(おんつかひ)は、平三左衛門重国(へいざうざゑもんしげくに)、御坪(おんつぼ)の召次(めしつぎ)花方(はなかた)とぞ聞(き)こえし。

 私(わたくし)の文(ふみ)は容(い)れねば、人々(ひとびと)の許(もと)へも詞(ことば)にて言(い)づけたまふ。

 北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)へも、御詞(おんことば)にて申(まう)されけり。

「旅(たび)の空(そら)にても、人(ひと)は我(われ)に慰(なぐさ)み、我(われ)は人(ひと)に慰(なぐさ)み奉(たてまつ)りしに、引(ひ)別(わか)れて後(のち)、いかに悲(かな)しうおぼすらん。契(ちぎ)りは朽(く)ちせぬものと申(まう)せば、後(のち)の世(よ)には必(かなら)ず生(う)まれあひ奉(たてまつ)らん」

 と、泣(な)く泣(な)く言(い)づけたまへば、重国(しげくに)も、涙(なみだ)を抑(おさ)へて立(た)ちにけり。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)の年(とし)ごろ召(め)し仕(つか)はれける侍(さぶらひ)に木工右馬允知時(もくのうまのじようともとき)といふ者(もの)あり。

 八条女院(はちでうのにようゐん)に候(さうらひ)けるが、土肥次郎(どひのじらう)が許(もと)に行(ゆ)き向(むか)きて、

「これは中将(ちゆうじやう)殿(どの)に先年(せんねん)召(め)し仕(つか)はれ候(さうらひ)し某(それがし)と申(まう)す者(もの)にて候(さうらふ)が、西国(さいこく)へも御供(おんとも)仕(つかまつ)るべき由(よし)存(ぞん)じ候(さうらひ)しかども、八条(はちでう)の女院(にようゐん)に兼参(けんざん)の者(もの)にて候(さうらふ)間(あひだ)、力(ちから)及(およ)ばで罷(まか)り留(とど)まりて候(さうらふ)が、今日(けふ)大路(おほぢ)で見参(げんざん)らせ候(さうら)へば、目(め)も当(あた)られず、いとほしう思(おも)ひ奉(たてまつ)り候(さうらふ)。然(しか)るべう候(さうら)はば御許(おんゆる)されを蒙(かうぶ)りて、近(ちか)付(づ)き参(まゐ)り候(さうらう)て、今一度(いまいちど)見参(げんざん)に入(い)り、昔語(むかしがたり)をも申(まう)して、なぐさめ参(まゐ)らせばやと存(ぞん)じ候(さうらふ)。させる弓矢(ゆみや)取(と)る身(み)で候(さうら)はねば、軍合戦(いくさかつせん)の御供(おんとも)を仕(つかまつ)りたる事(こと)も候(さうら)はず、ただ朝夕(てうせき)祇候(しこう)せしばかりで候(さうらひ)き。さりながらなほ覚束(おぼつか)なうおぼしめし候(さうら)はば、腰(こし)の刀(かたな)を召(め)し置(お)かれて、まげて御許(おんゆる)されを蒙(かうぶ)り候(さうら)はばや」

 と申(まう)せば、土肥次郎(どひのじらう)情(なさけ)ある男士(をのこ)にて、

「御一人(おんひとり)ばかりは何事(なにごと)か候(さうらふ)べき。さりながらも」

 とて、腰(こし)の刀(かたな)を乞(こ)ひ取(と)って入(はい)ってけり。

 右馬允(うまのじよう)斜(なな)めならず悦(よろこ)んで、急(いそ)ぎ参(まゐ)りて見(み)奉(たてまつ)れば、まことに思(おも)ひ入(い)れたまへると覚(おぼ)しくて、御姿(おんすがた)もいたくしをれ返(かへ)りて居(ゐ)たまへる御有様(おんありさま)を見(み)奉(たてまつ)るに、知時(ともとき)涙(なみだ)も更(さら)に抑(おさ)へ難(かた)し。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)もこれを御覧(ごらん)じて夢(ゆめ)に夢(ゆめ)見(み)る心地(ここち)して、とかうの事(こと)ものたまはず。

 ただ泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞなき。

 やや久(ひさ)しうあって、昔今(むかしいま)の物語(ものがたり)どもしたまひて後(のち)、

「さてもなんぢして物(もの)言(い)ひし人(ひと)は、いまだ内裏(だいり)にとや聞(き)く」

「さこそ承(うけたまは)り候(さうら)へ」

「西国(さいこく)へ下(くだ)りし時(とき)、文(ふみ)をもやらず、いひおく事(こと)だになかりしを、世々(よよ)の契(ちぎ)りは、皆(みな)偽(いつはり)にてありけりと思(おも)ふらんこそ慚(はづ)かしけれ。文(ふみ)をやらばやと思(おも)ふはいかに、尋(たづ)ねて行(ゆ)ってんや」

 とのたまへば、

「御文(おんふみ)をたまひて参(まゐ)り候(さうら)はん」

 と申(まう)す。

 中将(ちゆうじやう)斜(なな)めならず悦(よろこ)びて、やがて書(か)いてぞたうだりける。

 守護(しゆご)の武士(ぶし)ども、

「いかなる御文(おんふみ)にて候(さうらふ)やらん。出(いだ)し参(まゐ)らせじ」

 と申(まう)す。

 中将(ちゆうじやう)

「見(み)せよ」

 とのたまへば、見(み)せてけり。

「苦(くる)しう候(さうらふ)まじ」

 とて、取(と)らせけり。

 知時(ともとき)持(も)ちて、内裏(だいり)へ参(まゐ)りたりけれども、昼(ひる)は人(ひと)目(め)の繁(しげ)ければ、その辺(へん)近(ちか)き小屋(こや)に立(た)ち入(はい)って、日(ひ)を待(ま)ち暮(く)らし、局(つぼね)の下口(したくち)辺(へん)にたたずんで聞(き)けば、この人(ひと)の声(こゑ)と覚(おぼ)しくて、

「いくらもある人(ひと)の中(なか)に三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)しも生捕(いけどり)にせられて大路(おほぢ)を渡(わた)さるる事(こと)よ。人(ひと)は皆(みな)奈良(なら)を焼(や)いたる罪(つみ)の報(むくひ)と言(い)ひあへり。中将(ちゆうじやう)も、さぞいひし。『我心(わがこころ)に起(お)きては焼(や)かねども、悪党(あくたう)多(おほ)かりしかば、手々(てんで)に火(ひ)を放(はな)って、おほくの堂塔(だうたふ)を焼(や)き払(はら)ふ。末(すゑ)の露(つゆ)、本(もと)の雫(しづく)となるなれば、我一人(われひとり)が罪(つみ)にこそならんずらめ』といひしが、げにさと覚(おぼ)ゆる」

 と掻(か)き口説(くど)きさめざめとぞ泣(な)かれける。

 右馬允(うまのじよう)、これにも思(おも)はれけるものをといとほしくおぼえて、

「物(もの)申(まう)さう」

 といへば、

「いづくより」

 と問(と)ひたまふ。

「三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)より御文(おんふみ)の候(さうらふ)」

 と申(まう)せば、年(とし)ごろは恥(は)ぢて見(み)えたまはぬ女房(にようばう)の、せめての思(おも)ひのあまりにや

「いづらやいづら」

 とて走(はし)り出(い)でて、手(て)づから文(ふみ)を取(と)って見(み)たまへば、西国(さいこく)よりとられてありし有様(ありさま)、今日(けふ)明日(あす)とも知(し)らぬ身(み)の行末(ゆくすゑ)など、細々(こまごま)と書(か)き続(つづ)け、奥(おく)には一首(いつしゆ)の歌(うた)ぞありける。

涙川(なみだがは)うき名(な)をながす身(み)なりとも、今一度(いまいちど)のあふせともがな。

 女房(にようばう)これを見(み)たまひて、とかうの事(こと)をものたまはず、文(ふみ)を懐(ふところ)に引(ひ)き入(い)ってただ泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞなき。

 やや久(ひさ)しうあって、さてもかくあるならねば、御返事(おんへんじ)あり。

 心(こころ)苦(くる)しういぶせくて、二年(にねん)をおくりつる心(こころ)の中(なか)を書(か)きたまひて、

君(きみ)ゆゑに我(われ)もうき名(な)を流(なが)すとも、底(そこ)のみくづとともになりなん。

 知時(ともとき)持(も)ちて、参(まゐ)りたり。

 守護(しゆご)の武士(ぶし)ども、また

「見参(げんざん)らせ候(さうら)はん」

 と申(まう)せば、見(み)せてけり。

「苦(くる)しう候(さうらふ)まじ」

 とて奉(たてまつ)る。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)これを見(み)て、弥(いよいよ)思(おも)ひや増(ま)さりたまひけん、土肥次郎(どひのじらう)にのたまひけるは、

「年(とし)ごろ相具(あひぐ)したりし女房(にようばう)に、今一度(いまいちど)対面(たいめん)して、申(まう)したき事(こと)のあるはいかがすべき」

 とのたまへば、実平(さねひら)情(なさけ)ある士(をのこ)にて、

「まことに女房(にようばう)などの御事(おんこと)にて渡(わた)らせたまひ候(さうら)はんはなじかは苦(くる)う候(さうらふ)べき」

 とて許(ゆる)し奉(たてまつ)る。

 中将(ちゆうじやう)斜(なな)めならず悦(よろこ)びて、人(ひと)に車借(くるまか)りて迎(むか)へに遣(つか)したりければ、女房(にようばう)取(と)りもあへず、これに乗(の)りてぞおはしける。

 縁(えん)に車(くるま)をやり寄(よ)せてかくと申(まう)せば、中将(ちゆうじやう)車(くるま)寄(よ)に出(い)で迎(むか)ひたまひ、

「武士(ぶし)どもの見(み)奉(たてまつ)るに、下(くだ)させたまふべからず」

 とて、車(くるま)の簾(すだれ)を打(う)ちかつぎ、手(て)に手(て)を取組(とりく)み、顔(かほ)に顔(かほ)を推(お)し当(あ)てて、暫(しば)しは物(もの)ものたまはず、ただ泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞなき。

 やや久(ひさ)しうあって、中将(ちゆうじやう)のたまひけるは、

「西国(さいこく)へ下(くだ)りし時(とき)も、今一度(いまいちど)見参(げんざん)らせたう候(さうらひ)しかども、大形(おほかた)の世(よ)の騒(さわ)がしさに申(まう)すべき便(つて)もなくて、罷(まか)下(くだ)り候(さうらひ)ぬ。その後(のち)はいかにもして御文(おんふみ)をも参(まゐ)らせ、御返(おんかへ)り事(こと)をも承(うけたま)はりたう候(さうらひ)しかども、心(こころ)に任(まか)せぬ旅(たび)の習(なら)ひ、明(あ)け暮(く)れの軍(いくさ)に隙(ひま)なくて、空(むな)しく年月(としつき)を送(おく)り候(さうらひ)き。今(いま)また人(ひと)知(し)らぬ有様(ありさま)を見(み)候(さうら)は再(ふたたび)あひ奉(たてまつ)るべきで候(さうらひ)けり」

 とて、袖(そで)を顔(かほ)に推(お)し当(あ)ててうつぶしにぞなられける。

 互(たがひ)の心(こころ)の中(なか)、推量(おしはか)られてあはれなり。

 かくて小夜(さよ)も半(なか)ばになりければ、

「このごろは大路(おほぢ)の狼藉(らうぜき)に候(さうらふ)に、疾々(とくとく)」

 と返(かへ)し奉(たてまつ)る。

 車遣(くるまや)り出(い)だせば、中将(ちゆうじやう)別(わか)れの涙(なみだ)を押(おさ)へて泣(な)く泣(な)く袖(そで)を引(ひ)きへつつ、

あふ事(こと)も露(つゆ)の命(いのち)も諸共(もろとも)に、今宵(こよひ)ばかりやかぎりなるらん。

 女房(にようばう)涙(なみだ)を押(おさ)へつつ、

かぎりとてたちわかるれば露(つゆ)の身(み)の、君(きみ)よりさきに消(き)えぬべきかな。

 さて女房(にようばう)は内裏(だいり)へ参(まゐ)りたまひぬ。

 その後(のち)は守護(しゆご)の武士(ぶし)どもゆるさねば、力(ちから)及(およ)ばず、時々(ときどき)御文(おんふみ)計(ばかり)ぞ通(とほ)りける。

 この女房(にようばう)と申(まう)すは、民部卿入道親範(みんぶきやうにふだうちかのり)の女(をんな)なり。

 眉目貌(みめかたち)世(よ)に勝(まさ)れ、情(なさ)け深(ふか)き人(ひと)なり。

 中将(ちゆうじやう)南都(なんと)へ渡(わた)されて、斬(き)られたまひぬと聞(き)こえしかば、やがて様(さま)を替(か)へ、濃(こ)き墨染(すみぞめ)にやつれ果(は)て、かの後世菩提(ごせぼだい)を弔(とぶら)はれけるこそ哀(あは)れなれ。

八島院宣

 さるほどに平三左衛門重国(へいざうざゑもんしげくに)、御坪(おんつぼ)の召次(めしつぎ)花方(はなかた)、八島(やしま)に参(まゐ)りて、院宣(ゐんぜん)をたてまつる。

 大臣(だいじん)殿(どの)以下(いげ)一門(いちもん)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)寄(よ)り合(あ)ひたまひて、院宣(ゐんぜん)を開(ひら)かれけり。

 一人聖体(いちじんせいたい)、北闕(ほくけつ)の宮禁(きゆうきん)を出(い)で、諸州(しよしう)に幸(かう)し、三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)、南海(なんかい)四国(しこく)に埋(うづ)もれて、数年(すねん)を経(へ)、九廟(きうべう)朝家(てうか)の嘆(なげ)き、亡国(ばうこく)の基(もとゐ)なり。

 抑(そもそも)かの重衡(しげひら)卿(きやう)は、東大寺(とうだいじ)焼失(せうしつ)の逆臣(ぎやくしん)なり。

 すべからく頼朝(よりとも)の朝臣(あそん)申請(まうしう)くる旨(むね)に任(まか)せて、死罪(しざい)に行(おこな)はるべしといへども、独(ひとり)親族(しんぞく)に別(わか)れて、既(すで)に生捕(いけどり)となる。

 籠鳥(ろうてう)雲(くも)を恋(こ)ふる思(おも)ひ、遥(はるか)に千里(せんり)の南海(なんかい)に浮(う)かび、帰雁(きがん)友(とも)を失(うしな)ふ心(こころ)、定(さだ)めて九重(ここのへ)の中途(ちゆうど)に通(つう)ずらんや。

 然則(しかればすなはち)三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)を返(かへ)しいれ奉(たてまつ)らんに於(おい)ては、かの卿(きやう)を寛宥(くわんいう)せらるべきなりてへり、院宣(ゐんぜん)この如(ごと)し。

 仍(よつて)執達如件(しつたつくだんのごとし)。

 寿永(じゆえい)三年(さんねん)二月(にぐわつ)十四日(じふよつか)大膳大夫(だいぜんのだいぶ)成忠(なりただ)が奉(たてまつ)る、進上(しんじやう)平大納言(へいだいなごん)殿(どの)へとぞ書(か)かれたる。

請文

 大臣(だいじん)殿(どの)、平大納言(へいだいなごん)の許(もと)へは院宣(ゐんぜん)の趣(おもむ)を申(まう)したまふ。

 二位殿(にゐどの)へは御文(おんふみ)細々(こまごま)と書(か)いて参(まゐ)らせられたり。

「今一度(いまいちど)御覧(ごらん)せんとおぼしめし候(さうら)はば内侍所(ないしどころ)の御事(おんこと)を大臣(だいじん)殿(どの)によくよく申(まう)させおはしませ。さ候(さうら)はではこの世(よ)にて見参(げんざん)に入(い)るべしとも覚(おぼ)え候(さうら)はず」

 などぞ書(か)かれたる。

 二位殿(にゐどの)はこれを見(み)たまひて、とかうの事(こと)ものたまはず、文(ふみ)を懐(ふところ)に引(ひ)き入(い)ってうつぶしにぞなられける。

 まことに心(こころ)の中(なか)さこそおはしけめと推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 さるほどに平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)をはじめとして平家一門(へいけいちもん)の公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)寄(よ)り合(あ)ひたまひて御請文(おんうけぶみ)の趣(おもむ)僉議(せんぎ)せらる。

 二位殿(にゐどの)は中将(ちゆうじやう)の文(ふみ)を顔(かほ)に推(お)し当(あ)てて、人々(ひとびと)の並(なら)び居(ゐ)たまへる後(のち)の障子(しやうじ)を引(ひ)き開(ひら)けて、大臣(だいじん)殿(どの)の御前(ごぜん)に倒(たふ)れ臥(ふ)し、泣(な)く泣(な)くのたまひけるは、

「あの中将(ちゆうじやう)が京(きやう)より言(い)ひおこしたる事(こと)の無慙(むざん)さよ。げにも心(こころ)の中(なか)にいかばかりの事(こと)をか思(おも)ひ居(ゐ)たるらん。ただ我(われ)に思(おも)ひ許(ゆる)して内侍所(ないしどころ)を、都(みやこ)へ返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)れ」

 とのたまへば、大臣(だいじん)殿(どの)

「まことに宗盛(むねもり)もさこそは存(ぞん)じ候(さうら)へども、さすが世(よ)の聞(き)こえもいふがひなう候(さうらふ)。かつは頼朝(よりとも)が思(おも)はん事(こと)もはづかしう候(さうら)へば、左右(さう)なう内侍所(ないしどころ)を返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)る事(こと)は叶(かな)ひ候(さうらふ)まじ。その上(うへ)帝王(ていわう)の世(よ)を保(たも)たせたまふ御事(おんこと)は、偏(ひとへ)に内侍所(ないしどころ)の御故(おんゆゑ)なり。子(こ)の悲(かな)しいも様(さま)にこそ依(よ)り候(さうら)へ。かつは中将(ちゆうじやう)一人(ひとり)に余(よ)の子(こ)ども親(した)しい人々(ひとびと)をばおぼしめし替(か)へさせたまふべきか」

 と申(まう)されければ、二位殿(にゐどの)重(かさ)ねてのたまひけるは、

「故(こ)入道(にふだう)におくれて後(のち)は、かた時(とき)も命(いのち)生(い)きて在(あ)るべしとも思(おも)はざりしかども、主上(しゆしやう)かやうにいつとなく、旅(たび)だたせたまひたる御事(おんこと)の御心苦(みこころぐる)しさ、また君(きみ)をも御代(おんよ)にあらせ参(まゐ)らせばやと思(おも)ふ故(ゆゑ)にこそ今(いま)までもながらへて在(あ)りつれ。中将(ちゆうじやう)一谷(いちのたに)で生捕(いけどり)にせられぬと聞(き)きし後(のち)は肝魂(きもたましひ)も身(み)に副(そ)はず、いかにもしてこの世(よ)にて今一度(いまいちど)あひ見(み)るべきと思(おも)へども、夢(ゆめ)にだに見(み)えねば、いとどむねせきて、湯(ゆ)水(みづ)も喉(のんど)へ入(い)らず。今(いま)この文(ふみ)を見(み)て後(のち)は、弥(いよいよ)思(おも)ひ遣(や)りたる方(かた)もなし。中将(ちゆうじやう)世(よ)になき者(もの)と聞(き)かば、我(われ)も同(おな)じ道(みち)に赴(おもむ)かんと思(おも)ふなり。再(ふたた)び物(もの)を思(おも)はせぬ先(さき)に、ただ我(われ)を失(うしな)ひたまへ」

 とて、喚(をめ)き叫(さけ)びたまへば、まことにさこそは思(おも)ひたまはらめとあはれに覚(おぼ)えて、人々(ひとびと)涙(なみだ)を流(なが)しつつ皆(みな)伏目(ふしめ)にぞなられける。

 新中納言(しんちゆうなごん)知盛(とももり)の意見(いけん)に申(まう)されけるは、

「三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)を都(みやこ)へ返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)りたりとも、重衡(しげひら)を返(かへ)したまはらん事(こと)有(あ)りがたし。ただ憚(はばか)りなくその様(さま)を、御請文(おんうけぶみ)に申(まう)さるべうや候(さうらふ)らん」

 と申(まう)されければ、大臣(だいじん)殿(どの)

「この儀(ぎ)もっとも然(しか)るべし」

 とて、御請文(おんうけぶみ)申(まう)されけり。

 二位殿(にゐどの)は泣(な)く泣(な)く中将(ちゆうじやう)の御返事(おんへんじ)かきたまひけるが、涙(なみだ)にくれて、筆(ふで)の立(た)つ所(どころ)も覚(おぼ)えねども、志(こころざし)をしるべにて御文(おんふみ)細々(こまごま)と書(か)いて重国(しげくに)にたびにけり。

 北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)は、ただ泣(な)くより外(ほか)の事(こと)なくて、つやつや御返事(おんへんじ)もしたまはず。

 まことに御心(みこころ)の中(なか)さこそは思(おも)ひたまはらめと推量(おしはか)られてあはれなり。

 重国(しげくに)も狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)を絞(しぼ)りつつ泣(な)く泣(な)く御前(ごぜん)を罷(まか)り立(た)つ。

 平大納言(へいだいなごん)時忠(ときただ)は御坪(おんつぼ)召次(めしつぎ)花方(はなかた)を召(め)して、

「なんぢは花方(はなかた)か」

「さん候(さうらふ)」

「法皇(ほふわう)の御使(おんつかひ)に、多(おほ)くの浪路(なみぢ)を凌(しの)いで、これまで参(まゐ)りたるに一期(いちご)が間(あひだ)の思(おも)ひ出(いで)一(ひと)つあるべし」

 とて花方(はなかた)が面(おもて)に、浪(なみ)方(かた)といふ焼験(やきじるし)をぞせられける。

 都(みやこ)へ上(のぼ)りければ、法皇(ほふわう)これを御覧(ごらん)じて、

「よしよし力(ちから)およばず、浪(なみ)方(かた)とも召(め)せかし」

 とてわらはせおはします。

 今月(こんげつ)十四日(じふよつか)の院宣(ゐんぜん)、同(どう)二十八日(にじふはちにち)、讃岐(さぬき)国(くに)八島(やしま)の磯(いそ)に到来(たうらい)、謹(つつしんで)以(もつ)承(うけたまは)る所如件(ところくだんのごとし)。

 ただしこれに就(つ)きてかれを案(あん)ずるに、通盛(みちもり)卿(きやう)以下(いげ)、当家(たうけ)数(かず)輩(ともがら)摂州(せつしう)一谷(いちのたに)にして、既(すで)に誅(ちゆう)せられ畢(をは)んぬ。

 何(なに)ぞ重衡(しげひら)一人(ひとり)が寛宥(くわんいう)を悦(よろこ)べきや。

 夫(それ)我君(わがきみ)は、故(ゆゑ)高倉(たかくら)院(ゐん)の御譲(おんゆづり)を請(う)けさせたまひて、御在位(ございゐ)既(すで)に四箇年(しかねん)、尭舜(げうしゆん)の古風(こふう)を訪(とぶら)ふ処(ところ)に、東夷(とうい)北狄(ほくてき)党(たう)を結(むす)び、群(くん)をなして入洛(じゆらく)の間(あひだ)、かつは幼帝(えうてい)母后(ぼこう)の御嘆(おんなげき)尤(もつと)深(ふか)く、かつは外戚近臣(ぐわいせききんしん)の憤(いきどほり)り浅(あさ)からざるに依(よ)りて、暫(しばら)く九国(きうこく)に幸(さいはひ)す。

 還幸(くわんかう)なからんにおいては、三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)、争(いか)か玉体(ぎよくたい)を放(はな)ち奉(たてまつ)るべきや。

 それ臣(しん)は君(きみ)を以(もつ)て心(こころ)とし、君(きみ)は臣(しん)を以(もつ)て体(たい)とす。

 君(きみ)安(やす)ければ則(すなは)ち臣(しん)安(やす)く、臣(しん)安(やす)ければ即(すなは)ち国(くに)安(やす)し。

 君(きみ)上(うへ)に愁(うれへ)ふれば、臣下(しんか)に楽(たの)しまず。

 心中(しんちゆう)に愁(うれへ)ふれば、体外(たいぐわい)に悦(よろこ)びなし。

 曩祖(なうそ)平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)、相馬小次郎将門(さうまこじらうまさかど)を追討(ついたう)せしより以降(いかう)、東八箇国(とうはつかこく)を鎮(しづ)めて、子々孫々(ししそんそん)に伝(つた)へ、朝敵(てうてき)の謀臣(ぼうしん)を誅罰(ちゆうばつ)して代々(だいだい)世々(よよ)に至(いた)るまで、朝家(てうか)の聖運(せいうん)を守(かみ)り奉(たてまつ)る。

 然則(しかればすなはち)亡父(ばうふ)故(ゆゑ)太政大臣(だいじやうだいじん)、保元平治(ほうげんへいぢ)両(りやう)度(ど)の合戦(かつせん)の時(とき)、勅命(ちよくめい)を重(おも)しして私(わたくし)の命(いのち)を軽(かる)んず。

 偏(ひとへ)に君(きみ)の為(ため)にして、身(み)のためにせず。

 就中(なかんづく)、かの頼朝(よりとも)は、去(さ)平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)、父(ちち)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が謀反(むほん)に依(よ)りて、頻(しき)りに誅伐(ちゆうばつ)せらるべき由(よし)おほせ下(くだ)さるといへども故(こ)入道相国(にふだうしやうこく)慈悲(じひ)のあまり、申(まう)し宥(なだ)められし処(ところ)なり。

 然(しか)るに、昔(むかし)の洪恩(こうおん)を忘(わす)れ芳意(はうい)を存(ぞん)ぜず、たちまちに狼贏(らうえい)の身(み)を以(もつ)て猥(みだり)に蜂起(ほうき)の乱(みだ)をなす、至愚(しぐ)の甚(はなはだ)だしき事(こと)申(まう)すも余(よ)あり。

 早(はや)く神明(しんめい)の天罰(てんばつ)を招(まね)き、竊(ひそか)に敗績(はいせき)の損(そん)滅(ほろ)を期(ご)する者(もの)歟(か)。

 夫(それ)日月(にちげつ)は、一物(いちぶつ)のためにその明(めい)なる事(こと)を暗(くら)うせず。

 明王(めいわう)は、一人(ひとり)が為(ため)にその法(ほふ)を枉(ま)げず。

 一悪(いちあく)をもてその善(ぜん)をすてず、少瑕(せうか)をもてその功(こう)をおほふことなかれ。

 かつは当家(たうけ)数(かず)代(よ)の奉公(ほうこう)、かつは亡父(ばうふ)数度(すど)の忠節(ちゆうせつ)、おぼしめし忘(わす)れずば君(きみ)忝(かたじけな)なくも四国(しこく)の御幸(ごかう)あるべき歟(か)。

 時(とき)に臣等(しんら)院宣(ゐんぜん)を承(うけたま)はり、再(ふたたび)旧都(きうと)に帰(かへ)りて、会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を雪(そそ)がん。

 もし然(しか)らずば、鬼界(きかい)、高麗(かうらい)、天竺(てんぢく)、震旦(しんだん)にいたるべし。

 悲(かな)しいかな。

 人王(にんわう)八十一代(はちじふいちだい)の御宇(ぎよう)に当(あ)て、我朝(わがてう)神代(じんだい)の霊宝(れいほう)、つひに空(むな)しく異国(いこく)の宝(たから)となさんか。

 宜(よろ)しくこれらの趣(おもむ)を以(もつ)て、然(しか)るべき様(さま)に洩(も)らし奏聞(そうもん)せしめたまへ。

 宗盛(むねもり)まこと恐頓首謹言(きようとんしゆきんげん)。

 寿永(じゆえい)三年(さんねん)二月(にぐわつ)二十八日(にじふはちにち)従一位(じゆいちゐ)平朝臣(たいらのあそん)宗盛(むねもり)が請文(うけぶみ)とこそ書(か)かれたれ。

戒文

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)これを聞(き)きて、

「さこそは有(あ)らむずれ。いかに一門(いちもん)の人々(ひとびと)悪(あし)く思(おも)ひけん」

 と、後悔(こうくわい)すれどもかひぞなき。

 げにも重衡(しげひら)卿(きやう)一人(ひとり)を惜(を)しみて、さしもの我朝(わがてう)の重宝(ぢゆうほう)三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)を、返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)るべしとも覚(おぼ)えねば、この御請文(おんうけぶみ)の趣(おもむ)は、兼(か)ねてより思(おも)ひ設(まう)けられたりしかども、いまだ左右(さゆう)を申(まう)されざりつるほどは、何(なに)となういぶせく思(おも)はれけるに、請文(うけぶみ)既(すで)に到来(たうらい)して、関東(くわんとう)へ下向(げかう)せらるべきに定(さだ)まりしかば、何(なに)の憑(たの)も弱(よわ)り果(は)て万(よろづ)心細(こころぼそ)う都(みやこ)の名残(なごり)も今更(いまさら)惜(を)しく思(おも)はれける。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)土肥次郎(どひのじらう)を召(め)して、

「出家(しゆつけ)をせばやと思(おも)ふはいかがあるべき」

 とのたまへば、実平(さねひら)この由(よし)を九郎(くらう)御曹司(おんざうし)に申(まう)す。

 院(ゐん)御所(ごしよ)へ奏聞(そうもん)せられたりければ、

「頼朝(よりとも)に見(み)せて後(のち)こそ、ともかうも計(はか)らはめ。ただ今(いま)は争(いか)か許(ゆる)すべき」

 とおほせければ、この由(よし)を申(まう)す。

「さらば年来(ねんらい)契(ちぎ)りたりし聖(ひじり)に、今一度(いまいちど)対面(たいめん)して、後世(ごせ)の事(こと)を申(まう)し談(だん)ぜばやと思(おも)ふはいかがすべき」

 とのたまへば、

「聖(ひじり)をば誰(たれ)と申(まう)し候(さうらふ)やらん」

「黒谷(くろだに)の法然房(ほふねんばう)と申(まう)す人(ひと)なり」

「さては苦(くる)しう候(さうらふ)まじ」

 とて許(ゆる)し奉(たてまつ)る。

 中将(ちゆうじやう)斜(なな)めならず悦(よろこ)びて、聖(ひじり)を請(しやう)じ奉(たてまつ)りて、泣(な)く泣(な)く申(まう)されけるは、

「今度(こんど)生(い)ながら捕(とら)られて候(さうらひ)けるは、再(ふたたび)上人(しやうにん)の見参(げんざん)に罷(まか)り入(い)るべきで候(さうらひ)けり。さても重衡(しげひら)が後生(ごしやう)いかがし候(さうらふ)べき。身(み)の身(み)にて候(さうらひ)しほどは、出仕(しゆつし)に紛(まぎ)れ、政務(せいむ)にほだされ、憍慢(けうまん)の心(こころ)のみ深(ふか)くして却(かへ)て当来(たうらい)の昇沈(しようぢん)を顧(かへり)みず。況(いはん)や運(うん)尽(つ)き世(よ)乱(みだ)れてより以来(いらい)は、ここに戦(たたか)ひ、かしこに争(いか)ひ、人(ひと)を滅(ほろぼ)し身(み)を助(たす)けらんと思(おも)ふ悪心(あくしん)のみ濃(こ)くて、善心(ぜんしん)はかつて起(お)こらず。就中(なかんづく)に南都(なんと)炎上(えんじやう)の事(こと)は、王命(わうめい)といひ武命(ぶめい)といひ、君(きみ)に仕(つか)へ世(よ)に随(したが)ふ法遁(のりのが)れがたくして、衆徒(しゆと)の悪行(あくぎやう)を静(しづ)めんが為(ため)に罷(まか)り向(むか)きて候(さうらひ)しほどに、不慮(ふりよ)に伽藍(がらん)の滅亡(めつばう)に及(およ)び候(さうらひ)し事(こと)、力(ちから)及(およ)ばぬ次第(しだい)にて候(さうら)へども、時(とき)の大将軍(たいしやうぐん)にて候(さうら)ひし上(うへ)は、責(せ)め一人(ひとり)に帰(かへ)すとかや申(まう)し候(さうらふ)なれば、重衡(しげひら)一人(ひとり)が罪業(ざいごふ)にこそなり候(さうらひ)ぬらめと覚(おぼ)え候(さうらふ)。かつはかやうに人(ひと)しれずかれこれ恥(はぢ)をさらし候(さうらふ)もしかしながらその報(むくひ)とのみこそ思(おも)ひ知(し)られて候(さうら)へ。今(いま)は首(くび)を剃(そ)り戒(かい)を持(も)ちなんどして偏(ひとへ)に仏道修行(ぶつだうしゆぎやう)したう候(さうら)へども、かかる身(み)に罷(まか)り成(な)りて候(さうら)へば、心(こころ)に心(こころ)をもまかせ候(さうら)はず。今日(けふ)明日(あす)とも知(し)らぬ身(み)の行末(ゆくすゑ)にて候(さうら)へば、いかなる行(ゆ)を修(しゆ)しても、一業(いちごふ)助(たす)かるべしとも覚(おぼ)えぬこそ口惜(くちを)う候(さうら)へ。倩(つらつら)一生(いつしやう)の化行(けぎやう)を思(おも)ふに、罪業(ざいごふ)は須弥(しゆみ)よりも高(たか)く、善業(ぜんごふ)は微塵(みぢん)ばかりも蓄(たくは)へなし。かくて空(むな)しく命終(みやうじゆ)らば、火血刀(くわけつたう)の苦果(くくわ)、敢(あ)て疑(うたがひ)なし。願(ねが)はくは上人(しやうにん)慈悲(じひ)を発(ほつ)し、憐(あはれ)を垂(た)れて、かかる悪人(あくにん)の助(たす)かりぬべき方法(はうはふ)候(さうら)はば、示(しめ)したまへ」

 その時(とき)上人(しやうにん)涙(なみだ)に咽(むせ)びて、暫(しばら)くは物(もの)ものたまはず。

 しばらくしうあって、

「まことに受(う)け難(かた)き人身(じんしん)を受(う)けながら、空(むな)しう三途(さんづ)に帰(かへ)りたまはん事(こと)、悲(かな)しんでもなほ余(よ)あり。然(しか)るを今(いま)穢土(ゑど)を厭(いと)ひ、浄土(じやうど)を願(ねが)はんに、悪心(あくしん)を捨(す)てて善心(ぜんしん)を発(ほつ)しましまさん事(こと)、三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)も定(さだ)めて随喜(ずゐき)したまふらん。それについて出離(しゆつり)の道(みち)まちまちくなりといへども末法濁乱(まつぽふぢよくらん)の機(き)には、称名(しようみやう)を以(もつ)て勝(まさ)れたりとす。志(こころざし)を九品(くほん)に分(わ)ち、行(ゆ)を六字(ろくじ)に縮(ちぢ)めて、いかなる愚痴闇鈍(ぐちあんどん)の者(もの)も唱(とな)ふるに便(つて)あり。罪(つみ)深(ふか)ければとて、卑下(ひげ)したまふべからず。十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)回心(ゑしん)すれば往生(わうじやう)を遂(つひ)ぐ。功徳(くどく)少(すく)なければとて、望(のぞみ)みを絶(た)ゆべからず。一念(いちねん)十念(じふねん)の心(こころ)を致(いた)せば来迎(らいかう)す。専称名号至西方(せんしようみやうがうしさいはう)を釈(しやく)して、専名号(もつぱらみやうがう)を称(しよう)すれば、西方(さいはう)に至(いた)る。念々称名常懺悔(ねんねんしようみやうじやうざんげ)と演(の)べて、念々(ねんねん)に弥陀(みだ)を唱(とな)れば、懺悔(さんげ)するなりと教(をし)へたり。利剣即是弥陀号(りけんそくぜみだがう)を演(の)べれば、魔縁(まえん)近(ちか)づかず。一声称念罪皆除(いつせいしようねんざいかいぢよ)と念(ねん)ずれば、罪(つみ)皆除(かいぢよ)けりと見(み)えたり。浄土宗(じやうどしゆう)の至極(しごく)、各略(かくりやく)を存(ぞん)して、大略(たいりやく)これを肝心(かんじん)とす。但(ただ)往生(わうじやう)の得否(とくひ)は、信心(しんじん)の有無(うむ)に依(よ)べし。ただ深(ふか)く信(しん)じてゆめゆめ疑(うたがひ)をなしたまふべからず。もしこの教(をし)を深(ふか)く信(しん)じて行住坐臥(ぎやうぢゆうざぐわ)時処(じしよ)諸縁(しよえん)を嫌(きら)はず三業(さんごふ)四威儀(しいぎ)に於(おい)て、心念口称(しんねんくしよう)を忘(わす)れたまはずば、聖命(しやうみやう)を期(ご)として、この苦域(くいき)の界(かい)を出(い)で、かの不退(ふたい)の土(つち)に往生(わうじやう)したまはん事(こと)、何(なに)の疑(うたがひ)かあらむや」

 と教化(けうけ)したまひければ、中将(ちゆうじやう)斜(なな)めならず悦(よろこ)びて、

「この次(つぎ)に戒(かい)を持(も)たばやと存(ぞん)じ候(さうら)は、出家(しゆつけ)仕(つかまつ)らでは叶(かな)候(さうらふ)まじや」

 と申(まう)されければ、

「出家(しゆつけ)せぬ人(ひと)も、戒(かい)を持(も)つ事(こと)は世(よ)の常(じやう)の習(なら)ひなり」

 とて、額(ぬか)に剃刀(かみそり)をあててそるまねをして、十戒(じつかい)を授(さづ)けられければ、中将(ちゆうじやう)随喜(ずゐき)の涙(なみだ)を流(なが)いて、これを受(う)け保(たも)ちたまふ。

 上人(しやうにん)も万物(ばんぶつ)哀(あはれ)に覚(おぼ)えて、掻(か)き暗(くら)す心地(ここち)して、泣(な)く泣(な)く戒(かい)をぞ説(と)かれける。

 御布施(おんふせ)と覚(おぼ)しくて、年(とし)ごろ常(つね)におはして遊(あそ)ばれける侍(さぶらひ)の許(もと)に預(あづか)け置(お)かれける御硯(おんすずり)を、知時(ともとき)して召(め)し寄(よ)せて、上人(しやうにん)に上(たてまつ)り、

「これをば人(ひと)にたび候(さうら)はで、常(つね)に御目(おんめ)のかかり候(さうら)はん所(ところ)に置(お)かれ候(さうらう)て、某(それがし)が物(もの)ぞかしと、御覧(ごらん)ぜられ候(さうら)はん度(ど)ごとにおぼしめしなずらへて御念仏(ごねんぶつ)候(さうらふ)べし。御(おん)隙(ひま)には経(きやう)をも一巻(いちくわん)、御廻向(ごゑかう)候(さうら)はば然(しか)るべう候(さうらふ)べし」

 など泣(な)く泣(な)く申(まう)されければ、上人(しやうにん)とかうの返事(へんじ)にも及(およ)ばず、これを取(と)って懐(ふところ)に入(い)れ、墨染(すみぞめ)の袖(そで)を絞(しぼ)りつつ泣(な)く泣(な)く帰(かへ)りたまひけり。

 この硯(すずり)は、親父(しんぶ)入道相国(にふだうしやうこく)砂金(しやきん)を多(おほ)く宋朝(そうてう)の御門(みかど)へ奉(たてまつ)りたまひたりければ返報(へんぽう)と覚(おぼ)しくて、日本(にほん)和田(わだ)の平(へい)大相国(だいしやうこく)の許(もと)へとて、送(おく)られたりけるとかや。

 名(な)をば松蔭(まつかげ)とぞ申(まう)しける。

海道下

 さるほどに、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)をば、鎌倉(かまくら)前(まへ)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、頻(しき)りに申(まう)されければ、さらば下(くだ)さるべしとて、土肥次郎(どひのじらう)実平(さねひら)が手(て)より、先(まづ)九郎(くらう)御曹司(おんざうし)の宿所(しゆくしよ)へ渡(わた)し奉(たてまつ)る。

 同(おな)じき三月(さんぐわつ)十日(とをか)、梶原平三景時(かぢはらへいざうかげとき)に具(ぐ)せられて、鎌倉(かまくら)へこそ下(くだ)られけれ。

 西国(さいこく)より生捕(いけどり)にせられ、都(みやこ)へ返(かへ)るだに口惜(くちを)きに、今(いま)また関(せき)の東(ひがし)へ趣(おもむ)かれけん心(こころ)の中(なか)、推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 四宮河原(しのみやがはら)に成(な)りぬれば、爰(ここ)は昔(むかし)延喜(えんぎ)第(だい)四(し)の王子(わうじ)、蝉丸(せみまる)の、関(せき)の嵐(あらし)に心(こころ)を清(きよ)まし、琵琶(びは)をひきたまひしに、博雅(はくが)の三位(さんみ)といひし人(ひと)、風(かぜ)の吹(ふ)く日(ひ)も吹(ふ)かぬ日(ひ)も、雨(あめ)の降(ふ)る夜(よ)も降(ふ)らぬ夜(よ)も三年(さんねん)が間(あひだ)歩(ほ)を運(はこ)び、立(た)ち聞(き)きて、かの三曲(さんぎよく)を伝(つた)へけん藁(わら)屋(や)の床(ゆか)の古(いにし)へも、思(おも)ひ遣(や)られて哀(あはれ)なり。

 逢坂山(あふさかやま)を打(う)ち越(こ)えて、勢多(せた)の唐(たう)橋(はし)駒(こま)もとどろに踏(ふ)み鳴(な)らし、雲雀(ひばり)あがれる野路(のぢ)の里(さと)、志賀(しが)の浦(うら)浪(なみ)春(はる)かけて霞(かすみ)に曇(くも)る鏡(かがみ)山(やま)、比良(ひら)の高(たか)峯(みね)をも北(きた)にして、伊吹(いぶき)の嵩(たけ)も近(ちか)付(づ)きぬ。

 心(こころ)をとむとしなけれども、荒(あ)れて中中(なかなか)優(やさ)しきは、不破(ふは)の関屋(せきや)の板(いた)びさし、いかに鳴海(なるみ)の塩干潟(しほひがた)、涙(なみだ)に袖(そで)はしをれつつ、かの在原(ありはら)のなにがしの、唐(たう)ころもきつつなれにしとながめけん参河国(みかはのくに)八橋(やつはし)にも成(な)りぬれば、蛛手(くもで)に物(もの)をと哀(あはれ)なり。

 浜名(はまな)の橋(はし)を渡(わた)りたまへば、松(まつ)の梢(こずゑ)に風(かぜ)冴(さ)えて、入江(いりえ)に噪(さわ)ぐ浪(なみ)の音(おと)、さらでも旅(たび)は物(もの)憂(う)きに、心(こころ)を尽(つ)くす夕間暮(ゆふまぐれ)、池田(いけだ)の宿(やど)にも著(つ)きたまひぬ。

 かの宿(やど)の長者(ちやうじや)の湯(ゆ)屋(や)が娘(むすめ)、侍従(じじゆう)が許(もと)に、その夜(よ)は宿(しゆく)せられけり。

 侍従(じじゆう)、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)を見(み)奉(たてまつ)りて、

「昔(むかし)は伝(つて)にだにおぼしめし寄(よ)らざりしに、今日(けふ)はかかる所(ところ)にいらせたまふ不思議(ふしぎ)さよ」

 とて、一首(いつしゆ)の歌(うた)をたてまつる。

旅(たび)の空(そら)埴生(はにふ)の小屋(こや)のいぶせさに、故郷(こきやう)いかに恋(こひ)しかるらん。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)返事(へんじ)には、

故郷(こきやう)もこひしくもなし旅(たび)の空(そら)、都(みやこ)もつひのすみかならねば。

 中将(ちゆうじやう)

「やさしうもつかまつたるものかな。この歌(うた)の主(ぬし)はいかなる者(もの)やらん」

 と御尋(おんたづね)ありければ、景時(かげとき)畏(かしこ)まって申(まう)しけるは、

「君(きみ)はいまにしろしめされ候(さうら)はずや。あれこそ八島(やしま)の大臣(だいじん)殿(どの)の当国(たうごく)の守(かみ)で渡(わた)らせたまひ候(さうらひ)し時(とき)、めされ参(まゐ)らせて、御最愛(ごさいあい)にて候(さうらひ)しが、老母(らうぼ)をこれに留(と)め置(お)、頻(しき)りに暇(いとま)を申(まう)せども、たまはらざりければ、ころは三月(さんぐわつ)の始(はじ)めなりけるに、

いかにせん都(みやこ)の春(はる)もをしけれど、馴(なれ)しあづまの花(はな)や散(ち)らん。

と仕(つかまつ)りて、暇(いとま)をたまひて下(くだ)りて候(さうら)ひし、海道(かいだう)一(いち)の名人(めいじん)にて候(さうら)へ」

 とぞ申(まう)しける。

 都(みやこ)を出(い)て日数(ひかず)歴(へ)れば、弥生(やよひ)も半(なかば)過(す)ぎ、春(はる)も既(すで)に暮(くれ)なんとす。

 遠(とほ)山(やま)の花(はな)は残(のこ)りの雪(ゆき)かと見(み)えて、浦々(うらうら)島々(しまじま)かすみ渡(わた)り、こし方(かた)行末(ゆくすゑ)の事(こと)ども思(おも)ひ続(つづ)けたまふに、

「さればこれはいかなる宿業(しゆくごふ)のうたてさぞ」

 とのたまひて、ただ尽(つ)せぬものは涙(なみだ)なり。

 御子(おんこ)の一人(ひとり)もおはせぬ事(こと)を、母(はは)の二位殿(にゐどの)も嘆(なげ)き、北(きた)の方(かた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)も本意(ほい)なき事(こと)にして、万(よろづ)の神仏(しんぶつ)に祈(いの)申(まう)されけれども、その験(しるし)なし。

「賢(かしこ)うぞなかりける。子(こ)だにあらましかば、いかに心(こころ)苦(くる)しかるらん」

 とのたまひけるこそせめての事(こと)なれ。

 佐夜中山(さよのなかやま)にかかりたまふにも、また越(こ)ゆべしとも覚(おぼ)えねば、いとど哀(あは)れの数(かず)添(そ)へて、袂(たもと)ぞいたく湿(しめ)りまさる。

 宇都(うつ)の山辺(やまべ)の蔦(つた)の道(みち)、心細(こころぼそ)くも打(う)ち越(こ)えて、手越(てごし)を過(す)ぎて行(ゆ)けば、北(きた)に遠(とほ)去(さ)て、雪(ゆき)白(しろ)き山(やま)あり。

 問(と)へば甲斐(かひ)の白根(しらね)といふ。

 その時(とき)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)、落(お)つる涙(なみだ)を押(おさ)へてかうぞ思(おも)ひ続(つづ)けたまふ。

惜(を)しからぬ命(いのち)なれども今日(けふ)までに、強顔(つれなく)かひの白根(しらね)をも見(み)つ。

 清見(きよみ)が関(せき)打(う)ち過(す)ぎて、富士(ふじ)のすそ野(の)に成(な)りぬれば、北(きた)には青山(せいざん)峨々(がが)として、松(まつ)吹(ふ)く風(かぜ)索々(さくさく)たり。

 南(みなみ)には蒼海(さうかい)漫々(まんまん)として、岸(きし)うつ浪(なみ)も茫々(ばうばう)たり。

 恋(こひ)せばやせぬべし、こひせずともありけりと、明神(みやうじん)の歌(うた)はしめたまひける足柄(あしがら)の山(やま)をも打(う)ち越(こ)えて、こゆるぎの森(もり)、鞠子河(まりこがは)、小磯(こいそ)、大磯(おほいそ)の浦(うら)、やつまと、砥上(とがみ)が原(はら)、御輿(みこし)が崎(さき)をも打(う)ち過(す)ぎて、急(いそ)がぬ旅(たび)と思(おも)へども、日数(ひかず)やうやう重(かさ)なれば、鎌倉(かまくら)へこそ入(い)りたまへ。

千手前

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)急(いそ)ぎ見参(げんざん)して申(まう)されけるは、

「抑(そもそも)君(きみ)の御憤(ぎよふん)を息(いさ)め奉(たてまつ)り、父(ちち)の恥(はぢ)を雪(きよ)めんと思(おも)ひたちし上(うへ)は、平家(へいけ)を滅(ほろぼ)さん事(こと)は案(あん)の内(うち)に候(さうら)へども、正(ただ)しく見参(げんざん)に入(い)るべしとは存(ぞん)ぜず候(さうらひ)き。このぢやうでは、八島(やしま)の大臣(だいじん)殿(どの)の見参(げんざん)にも入(い)ぬと覚(おぼ)え候(さうらふ)。抑(そもそ)も南都(なんと)を滅(ほろぼ)したまひける事(こと)は、故(ゆゑ)太政入道(だいじやうにふだう)殿(どの)のおほせにて候(さうらひ)しか。また時(とき)に取(と)って御計(おんはか)にて候(さうらひ)けるか。以外(いぐわい)の罪業(ざいごふ)にこそ候(さうらふ)なれ」

 と申(まう)されければ、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)のたまひけるは、

「先(ま)づ南都(なんと)炎上(えんじやう)の事(こと)、故(こ)入道(にふだう)の成敗(せいばい)にもあらず、重衡(しげひら)が愚意(ぐい)の発起(ほつき)にもあらず。衆徒(しゆと)の悪行(あくぎやう)をしづめんが為(ため)に罷(まか)り向(むか)きて候(さうらひ)しほどに、不慮(ふりよ)に伽藍(がらん)滅亡(めつばう)に及(およ)び候(さうらひ)し事(こと)、力(ちから)及(およ)ばぬ次第(しだい)なり。昔(むかし)は源平(げんぺい)左右(さゆう)にあらそひて、朝家(てうか)の御(おん)かためなりしかども、近(ちか)ごろ源氏(げんじ)の運(うん)傾(かたぶ)きたりし事(こと)は事(こと)新(あらた)しう初(はじ)めて申(まう)すべきにあらず。当家(たうけ)は保元平治(ほうげんへいぢ)より以来(いらい)度々(どど)の朝敵(てうてき)を平(たひ)らげ、勧賞(くわんじやう)身(み)に余(あま)り、辱(かたじけ)なく一天(いつてん)の君(きみ)の御外戚(ごぐわいせき)として、一族(いちぞく)の昇進(しようじん)六十余人(ろくじふよにん)、二十余年(にじふよねん)の以来(いらい)は楽(たの)しみ栄(さか)え申(まう)すばかりなし。今(いま)また運(うん)尽(つ)きぬれば、重衡(しげひら)捕(とら)らはれてこれまで下(くだ)り候(さうらひ)ぬ。それについて帝王(ていわう)の御敵(おんかたき)を討(う)ちたる者(もの)は、七代(しちだい)まで朝恩(てうおん)つきせずと申(まう)す事(こと)は、究(きは)めたる僻事(ひがこと)にて候(さうらひ)けり。目(め)のあたり故(こ)入道殿(にふだうどの)は、君(きみ)の御為(おんため)に既(すで)に命(いのち)を失(うしな)はんとする事(こと)度々(どど)に及(およ)ぶ。されども僅(わづか)にその身(み)一代(いちだい)の幸(さいはひ)にて、子孫(しそん)かやうに罷(まか)なるべしや。されば運(うん)尽(つ)きて都(みやこ)を出(い)でし後(のち)は、尸(かばね)を山野(さんや)にさらし、名(な)を西海(さいかい)の波(なみ)に流(なが)すべしとこそ存(ぞん)ぜしが、これまで下(くだ)るべしとは、かけても思(おも)はざりき。ただ先世(せんぜ)の宿業(しゆくごふ)こそ口惜(くちを)しく候(さうら)へ。但(ただ)殷湯(いんたう)は夏台(かたい)にとらはれ文王(ぶんわう)は羑里(いうり)にとらはるといふ文(ふみ)あり。上古(しやうこ)なほかくの如(ごと)し。況(いはん)や末代(まつだい)においてをや。弓矢(ゆみや)をとる習(なら)ひ敵(かたき)の手(て)にかかりて命(いのち)を失(うしな)ふ事(こと)、またく恥(はぢ)にて恥(はぢ)ならず。ただ芳恩(はうおん)には、疾々(とくとく)かうべをはねらるべし」

 とて、その後(のち)は物(もの)ものたまはず。

 景時(かげとき)これを承(うけたまは)って、

「あはれ大将軍(たいしやうぐん)や」

 とて涙(なみだ)を流(なが)す。

 その座(ざ)に並(なら)び居(ゐ)たる人々(ひとびと)皆(みな)袖(そで)をぞぬらしける。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)も、

「平家(へいけ)を別(わか)れして私(わたくし)の敵(かたき)と思(おも)ひ奉(たてまつ)る事(こと)ゆめゆめ候(さうら)はず。ただ帝王(ていわう)のおほせこそ重(おも)う候(さうら)へ」

 とぞのたまひける。

「南都(なんと)を亡(ほろ)ぼしたる大(おほ)伽藍(がらん)の敵(かたき)なれば、大衆(だいしゆ)定(さだ)めて申(まう)す旨(むね)有(あ)らんずらん」

 とて、伊豆国(いづのくに)の住人(ぢゆうにん)狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)に預(あづか)けらる。

 その体(てい)、冥土(めいど)にて娑婆世界(しやばせかい)の罪人(ざいにん)を、七日七日(なぬかなぬか)に十王(じふわう)の手(て)へ渡(わた)さるらんも、かくやと覚(おぼ)えて哀(あはれ)なり。

 されども狩野介(かののすけ)、情(なさけ)ある者(もの)にて、いたくきびしうも当(あた)り奉(たてまつ)らず、やうやうにいたはり湯殿(ゆどの)しつらひなどして、御湯(おんゆ)引(ひ)かせ奉(たてまつ)る。

 道(みち)すがらの汗(あせ)いぶせかりつれば、身(み)を清(きよ)めて失(うしな)はんずるにこそと思(おも)はれけるに、齢(よはひ)二十(にじふ)計(ばかり)なる女房(にようばう)の、色(いろ)白(しろ)う清(きよ)げにて、まことに優(いう)に美(うつく)しきが、目結(めゆひ)の帷(かたびら)に、染(そ)め付(つ)の湯巻(ゆまき)して、湯殿(ゆどの)の戸(と)を推(お)し開(ひら)きて参(まゐ)りたり。

 また暫(しばら)くあって十四五(じふしご)許(ばかり)なる女(め)の童(わらは)の小村濃(こむらご)の帷(かたびら)きて髪(かみ)は袙長(あこめたけ)なるが、楾盥(はんざふたらひ)に櫛(くし)入(はい)って持(も)ちて参(まゐ)りたる。

 この女房(にようばう)介錯(かいしやく)にて、しばらく湯(ゆ)あみ髪洗(かみあらひ)などしてあがりたまひぬ。

 さてかの女房(にようばう)暇(いとま)申(まう)して帰(かへ)りけるが、

「男(をとこ)などはこちなうもぞおぼしめす。中々(なかなか)女(をんな)は苦(くる)からじとて、参(まゐ)らせられて候(さうら)ふ。『何事(なにごと)でもおぼしめさん御事(おんこと)をば、承(うけたま)はって申(まう)せ』とこそ兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)はおほせられ候(さうらひ)つれ」

 中将(ちゆうじやう)、

「今(いま)はこれほどの身(み)になって、何事(なにごと)をか申(まう)し候(さうらふ)べき。ただ思(おも)ふ事(こと)とては、出家(しゆつけ)ぞしたき」

 とのたまひければ、帰(かへ)参(まゐ)りて、この由(よし)を申(まう)す。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)

「それ思(おも)ひも寄(よ)らず。頼朝(よりとも)が私(わたくし)の敵(かたき)ならばこそ。朝敵(てうてき)として預(あづか)かり奉(たてまつ)りたる人(ひと)なり。ゆめゆめあるべうもなし」

 とぞのたまひける。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)守護(しゆご)の武士(ぶし)にのたまひけるは、

「さてもただ今(いま)の女房(にようばう)は優(いう)なりつる者(もの)かな。名(な)をば何(なに)といふやらん」

 と問(と)はれければ、

「あれは手越(てごし)の長者(ちやうじや)が娘(むすめ)で候(さうらふ)を、眉目形(みめかたち)、心(こころ)様(さま)優(いう)にわりなき者(もの)で候(さうらふ)とて、この二三年(にさんねん)召(め)し仕(つか)はれ候(さうらふ)が、名(な)をば千手前(せんじゆのまへ)と申(まう)し候(さうらふ)」

 とぞ申(まう)しける。

 その夕(ゆふべ)雨(あめ)少(すこ)し降(ふ)りて、万物蕭(ばんぶつせう)しかりけるに、件(くだん)の女房(にようばう)琵琶(びは)琴(こと)もたせて参(まゐ)りたり。

 狩野介(かののすけ)酒(さけ)をすすめて奉(たてまつ)る。

 我身(わがみ)も家子郎等(いへのこらうどう)十余人(じふよにん)引(ひ)き具(ぐ)して参(まゐ)り、御前(ごぜん)近(ちか)う候(さうらひ)けり。

 千手前(せんじゆのまへ)酌(しやく)をとる。

 中将(ちゆうじやう)少(すこ)しうけて、最(いと)興(おこ)なげにておはしけるを、狩野介(かののすけ)申(まう)しけるは、

「かつきこしめされてもや候(さうらふ)らん。鎌倉殿(かまくらどの)の『相構(あひかま)へてよくよく慰(なぐさ)め参(まゐ)らせよ。懈怠(けたい)して頼朝(よりとも)恨(うら)むな』とおほせられ候(さうらふ)宗茂(むねもち)は、伊豆国(いづのくに)の者(もの)にて候(さうらふ)間(あひだ)、鎌倉(かまくら)では旅(たび)にて候(さうら)へども、心(こころ)の及(およ)ばんほどは奉公(ほうこう)仕(つかまつ)り候(さうらふ)べし。何事(なにごと)でも申(まう)してすすめ参(まゐ)させたまへ」

 と申(まう)しければ、千手(せんじゆ)酌(しやく)を差(さ)し置(お)て、

「羅綺(らき)の重衣(ちようい)たる情(なさけ)ない事(こと)を機婦(きふ)にねたむ」

 といふ朗詠(らうえい)を一両返(いちりやうへん)したりければ、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)のたまひけるは、

「この朗詠(らうえい)せん人(ひと)をば、北野天神(きたのてんじん)一日(いちにち)に三度(さんど)翔(かけ)て守(かみ)らんと誓(ちか)はせたまふなり。されども重衡(しげひら)はこの世(よ)では捨(す)てられ奉(たてまつ)りぬ。助音(じよいん)しても何(なに)かせん。罪障(ざいしやう)軽(かろ)みぬべき事(こと)ならば、随(したが)ふべし」

 とぞのたまひければ、千手前(せんじゆのまへ)やがて

「十悪(じふあく)しといへども引摂(いんぜふ)す」

 といふ朗詠(らうえい)をして、

「極楽(ごくらく)願(ねが)はん人(ひと)は、皆(みな)弥陀(みだ)の名号(みやうがう)唱(とな)ふべし」

 といふ今様(いまやう)を四五返(しごへん)うたひすましたりければ、その時(とき)盃(さかづき)を傾(かたぶ)けらる。

 千手前(せんじゆのまへ)たまはって狩野介(かののすけ)にさす。

 宗茂(むねもち)かのむ時(とき)に、琴(こと)をぞ弾(ひ)きすましたりける。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)のたまひけるは、

「この楽(がく)をば普通(ふつう)には五常楽(ごじやうらく)といへども、重衡(しげひら)が為(ため)には、後生楽(ごしやうらく)とこそ観(くわん)ずべけれ」

 やがて往生(わうじやう)の急(いそ)を引(ひ)むと戯(たはぶ)れて琵琶(びは)を取(と)り、てんじゆをねぢて、皇麞急(わうじやうきふ)をぞ引(ひ)ける。

 夜(よ)やうやう深(ふか)くて、万(よろづ)づ心(こころ)のすむ儘(まま)に

「あら思(おも)はずや、吾妻(あづま)にもこれほど優(いう)なる人(ひと)のありけるよ、何事(なにごと)にても今(いま)一声(ひとこゑ)」

 とのたまへば千手前(せんじゆのまへ)また

「一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に宿(やど)り合(あ)ひ、同(おな)じ流(なが)を掬(むす)ぶも、皆(みな)これ前世(ぜんせ)の契(ちぎり)」

 といふ白拍子(しらびやうし)を、まことに面白(おもしろ)くかぞへすましたりければ、中将(ちゆうじやう)も

「灯(ともしび)暗(くら)しては数行(すうかう)虞氏(ぐし)の涙(なみだ)」

 といふ朗詠(らうえい)をぞせられける。

 たとへばこの朗詠(らうえい)の心(こころ)は、昔(むかし)唐土(もろこし)に、漢高祖(かんのかうそ)と楚項羽(そのかうう)と位(くらゐ)を争(いか)ひて、合戦(かつせん)する事(こと)七(しち)十二(じふに)度(ど)、戦毎(たたかひごと)に項羽(かうう)勝(か)ちにけり。

 されどもつひには、項羽(かうう)戦(たたか)ひ負(お)けて亡(ほろ)びける時(とき)、騅(すゐ)といふ馬(むま)の一日(いちにち)に千里(せんり)を飛(と)ぶに乗(の)りて、虞氏(ぐし)といふ后(きさき)と共(とも)に逃(に)げさらんとしけるに、馬(むま)いかが思(おも)ひけん、足(あし)をそのへて動(うご)かず。

 項羽(かうう)涙(なみだ)を流(なが)いて、

「我(わ)が威勢(ゐせい)既(すで)に廃(すた)れたり。今(いま)は逃(に)るべき方(かた)なし。敵(かたき)の襲(おそ)ふは事(こと)の数(かず)ならず、この后(きさき)に別(わかれ)なん事(こと)のかなしさよ」

 とて終夜(よもすがら)嘆(なげ)き悲(かな)しみたまひけり。

 灯(ともしび)暗(くら)なりければ心細(こころぼそ)うて虞氏(ぐし)涙(なみだ)を流(なが)す。

 夜(よ)深(ふか)くる儘(まま)に、軍兵(ぐんぴやう)四面(しめん)に閧(とき)を作(つく)る。

 この心(こころ)を橘相公(きつさうこう)の賦(ふ)に作(つく)るを、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)思(おも)ひ出(いで)されたりしにや、最(いと)優(やさし)うぞ聞(き)こえける。

 さるほどに夜(よ)も明(あ)ければ、武士(ぶし)ども暇(いとま)申(まう)して罷(まか)出(い)づ。

 千手前(せんじゆのまへ)も帰(かへ)りにけり。

 その朝(あさ)兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)折節(をりふし)、持仏堂(ぢぶつだう)に法華経(ほけきやう)読(よ)んでおはしける処(ところ)へ、千手前(せんじゆのまへ)参(まゐ)りたり。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)うちゑみたまひて、

「千手(せんじゆ)に中人(ちゆうにん)をば面白(おもしろ)もしたるものかな」

 とのたまへば、斎院次官親義(さいゐんのすけちかよし)、折節(をりふし)御前(ごぜん)に物(もの)かいて候(さうらひ)けるが、

「何事(なにごと)で候(さうらひ)けるやらん」

 と申(まう)す。

「あの平家(へいけ)の人々(ひとびと)は甲冑(かつちう)弓箭(きゆうせん)の外(ほか)は他事(たじ)なしとこそ日(ひ)ごろは思(おも)ひたれば、この三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)の琵琶(びは)の撥音(ばちおと)、口(くち)ずさみ、終夜(よもすがら)立(た)ち聞(き)きて候(さうらふ)に、優(いう)にわりなき人(ひと)にておはしけり」

 親義(ちかよし)申(まう)しけるは、

「誰(たれ)も夜(よ)部(べ)承(うけたま)はるべう候(さうらひ)しが、折節(をりふし)いたはる事(こと)候(さうらう)て、承(うけたまは)らず候(さうらふ)。こののちは常(つね)に立(た)ち聞(き)き候(さうらふ)べし。平家(へいけ)は本(もと)より代々(だいだい)の歌人(かじん)才人(さいじん)達(たち)で候(さうらふ)なり。先年(せんねん)この人々(ひとびと)を花(はな)に譬(たと)へ候(さうらひ)しに、この三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)をば、牡丹(ぼたん)の花(はな)に譬(たと)へて候(さうらひ)しぞかし」

 と申(まう)されければ、

「まことに優(いう)なる人(ひと)にてありけり」

 とて

「琵琶(びは)の撥音(ばちおと)朗詠(らうえい)のやう、後(のち)までも有難(ありがた)き事(こと)ぞ」

 とのたまひける。

 千手前(せんじゆのまへ)は中々(なかなか)に物思(ものおもひ)ひの種(たね)とやなりにけん。

 されば中将(ちゆうじやう)南都(なんと)へ渡(わた)されて斬(き)られたまひぬ、と聞(き)こえしかば、やがて様(さま)をかへ、濃(こ)き墨染(すみぞめ)にやつれ果(は)て、信濃国(しなののくに)善光寺(ぜんくわうじ)に行(ゆ)すまして、かの後世菩提(ごせぼだい)を弔(とぶら)ひ、我身(わがみ)も往生(わうじやう)の素懐(そくわい)を遂(と)げけるとぞ聞(き)こえし。

横笛

 さるほどに、小松(こまつ)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)卿(きやう)は、身(み)がらは八島(やしま)にありながら、心(こころ)は都(みやこ)へ通(かよ)ひけり。

 故郷(こきやう)に留(と)め置(お)きたまひし北方(きたのかた)少(すく)なき人々(ひとびと)の面影(おもかげ)のみ、身(み)に立(た)ちそひて、忘(わす)るる隙(ひま)もなかりければ、

「有(あ)りにかひなき我身(わがみ)かな」

 とて、寿永(じゆえい)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)十五日(じふごにち)の暁(あかつき)、忍(しの)びつつ八島(やしま)の館(やかた)を紛(まぎ)れ出(い)で、与三兵衛(よさうびやうゑ)重景(しげかげ)、石童丸(いしどうまる)といふ童(わらは)、船(ふね)に心得(こころえ)たればとて武里(たけさと)と申(まう)す舎人(とねり)、これら三人(さんにん)を召(め)し具(ぐ)して、阿波国(あはのくに)結城(ゆふき)の浦(うら)より小舟(こぶね)に乗(の)り、鳴門(なると)の浦(うら)を漕(こ)通(とほ)り、紀伊(きい)路(ぢ)へおもむきたまひけり。

 和歌(わか)、吹上(ふきあげ)、衣通姫(そとほりひめ)の神(かみ)と顕(あら)はれたまへる玉津島(たまつしま)の明神(みやうじん)、日前国懸(ひのくまくにかかす)の御前(ごぜん)を過(す)ぎて、紀伊(きい)の湊(みなと)にこそ著(つ)きたまへ。

 これより山伝(やまづた)ひに都(みやこ)へ上(のぼ)りて、恋(こひ)しき人々(ひとびと)を、今一度(いまいちど)見(み)もし見(み)えばやとは思(おも)へども、

「本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の生捕(いけどり)にせられて大路(おほぢ)を渡(わた)され、京(きやう)鎌倉(かまくら)恥(はぢ)をさらすだに口惜(くちを)きに、この身(み)さへ囚(とら)れて、父(ちち)の尸(かばね)に血(ち)をあやさん事(こと)も心(こころ)うし」

 とて、千度(せんど)心(こころ)は進(すす)めども、心(こころ)に心(こころ)をからかひて、高野(かうや)の御山(おんやま)に参(まゐ)られけり。

 高野(かうや)は年(とし)ごろ知(し)りたまへる聖(ひじり)あり。

 三条(さんでう)の斎藤左衛門茂頼(さいとうざゑもんもちより)が子(こ)に、斎藤滝口時頼(さいとうたきぐちときより)といひし者(もの)なり。

 本(もと)は小松(こまつ)殿(どの)の侍(さぶらひ)なり。

 十三(じふさん)の年本所(としほんじよ)へ参(まゐ)りたりけるが、建礼門院(けんれいもんゐん)の雑仕(ざふし)横笛(よこぶえ)といふ女(をんな)あり。

 滝口(たきぐち)これを最愛(さいあい)す。

 父(ちち)これを伝聞(つてき)いて、

「世(よ)にあらん者(もの)の婿子(むこご)になして出仕(しゆつし)なんどをも、心(こころ)安(やす)うせさせんとすれば、世(よ)になき者(もの)を思(おも)ひ初(はじ)めて」

 と強(し)ひに諫(いさ)めければ、滝口(たきぐち)申(まう)しけるは、

「西王母(せいわうぼ)と聞(き)こえし人(ひと)、昔(むかし)はあって今(いま)は無(な)し。東方朔(とうばうさく)といひし者(もの)も、名(な)をのみ聞(き)きて目(め)には見(み)ず。老少不定(らうせうふぢやう)の世(よ)の中(なか)、石火(せつくわ)の光(ひかり)に異(こと)ならず、縦(たとひ)人長(にんぢやう)命(いのち)といへども、七十八十(しちじふはちじふ)をば過(す)ぎず、その中(なか)に身(み)の栄(さか)へなる事(こと)は、僅(わづか)に二十余年(にじふよねん)なり。夢幻(むげん)の世(よ)の中(なか)に、醜(みにく)きものを、片時(かたとき)も見(み)て何(なに)かせん。思(おも)はしき者(もの)を見(み)んとすれば、父(ちち)の命(いのち)を背(そむ)くに似(に)たり。これ善知識(ぜんぢしき)なり。しかじ、浮(うか)世(よ)を厭(いと)ひ、実(まこと)の道(みち)に入(はい)なん」

 とて、十九(じふきう)の年髻(としもとどり)切(き)て、嵯峨(さが)の往生院(わうじやうゐん)に行(ゆ)なひすましてぞ居(ゐ)たりける。

 横笛(よこぶえ)これを伝聞(つてき)いて、

「我(われ)をこそ捨(す)てめ、様(さま)をさへ替(か)へけん事(こと)の恨(うら)めしさよ。縦(たと)ひ世(よ)をば背(そむ)くとも、などかかくと知(し)せざらむ、人(ひと)こそ心(こころ)つよくとも尋(たづ)ねて恨(うら)みむ」

 と思(おも)ひつつ、或(ある)暮方(くれがた)に都(みやこ)を出(い)で、嵯峨(さが)の方(かた)へぞあくがれ行(ゆ)く。

 ころはきさらぎ十日(とをか)余(よ)の事(こと)なれば、梅津(うめづ)の里(さと)の春風(しゆんぷう)に、よその匂(にほひ)もなつかしく、大井河(おほゐがは)の月影(つきかげ)も、霞(かすみ)にこめて朧(おぼろ)なり。

 一方(ひとかた)ならぬ哀(あはれ)さも、誰(たれ)故(ゆゑ)こそと思(おも)ひけめ。

 往生院(わうじやうゐん)とは聞(き)きたれども、さだかにいづれの坊(ばう)とも知(し)らざれば、ここにやすらひ、かしこにたたずみ、尋(たづ)ねぬるぞ無慙(むざん)なる。

 住(す)み荒(あ)らしたる僧房(そうばう)に念誦(ねんじゆ)の声(こゑ)しけり。

 滝口入道(たきぐちにふだう)が声(こゑ)と聞(き)きなして

「わらはこそこれまで尋(たづ)ね参(まゐ)りたれ。様(さま)の替(か)りておはすらんをも今一度(いまいちど)見(み)奉(たてまつ)らばや」

 と具(ぐ)したりける女(をんな)を以(もつ)て言(い)はせければ、滝口入道(たきぐちにふだう)、胸(むね)打(う)噪(さわ)ぎ、障子(しやうじ)の隙(ひま)より覗(のぞ)いて見(み)れば、まことに尋(たづ)ねかねたる気色痛敷(けしきいたはし)う覚(おぼ)えていかなる道心者(だうしんじや)も、心(こころ)弱(よわ)くなりぬべし。

 やがて人(ひと)を出(いだ)して、

「全(まつた)くこれにさる人(ひと)なし。門違(かどたがひ)でぞあるらむ」

 とてつひに逢(あ)はでぞかへしける。

 横笛(よこぶえ)情(なさ)けなう恨(うら)めしけれども、力(ちから)なく、涙(なみだ)を押(おさ)へて帰(かへ)りけり。

 滝口入道(たきぐちにふだう)、同宿(どうじゆく)の僧(そう)に逢(あ)ひて申(まう)しけるは、

「これも世(よ)に静(しづ)かにて、念仏(ねんぶつ)の障碍(しやうげ)は候(さうら)はねども、飽(あ)かで別(わか)れし女(をんな)に、この住(すま)ひを見(み)えて候(さうら)へば、譬(たと)ひ一度(いちど)は心(こころ)強(つよ)くとも、またも慕(した)ふ事(こと)あらば、心(こころ)も動(うご)き候(さうらふ)べし。暇(いとま)申(まう)して」

 とて嵯峨(さが)をば出(い)て高野(かうや)へ上(のぼ)り、清浄心院(しやうじやうしんゐん)にぞ居(ゐ)たりける。

 横笛(よこぶえ)も様(さま)を替(か)へたる由(よし)聞(き)こえしかば、滝口入道(たきぐちにふだう)一首(いつしゆ)の歌(うた)を送(おく)りけり。

そるまではうらみしかども梓弓(あづさゆみ)、真(まこと)の道(みち)にいるぞうれしき。

 横笛(よこぶえ)返(かへ)りごとに

そるとてもなにか恨(うら)みん梓弓(あづさゆみ)、ひきとどむべき心(こころ)ならねば。

 横笛(よこぶえ)は、その思(おも)ひの積(つ)もるにや奈良(なら)の法華寺(ほつけじ)にありけるが、幾(いく)ほどもなくて、つひにはかなくなりにけり。

 滝口入道(たきぐちにふだう)かやうの事(こと)を伝(つた)へ聞(き)き、弥(いよいよ)深(ふか)う行(おこな)ひ澄(す)まして居(ゐ)たりければ、父(ちち)も不孝(ふけう)を許(ゆる)しけり。

 親(した)しき者(もの)ども皆(みな)用(もち)ゐて、高野(かうや)の聖(ひじり)とぞ申(まう)しける。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)これに尋(たづ)ねあひて見(み)たまへば、都(みやこ)に候(さうらひ)し時(とき)は、布衣(ほうい)に立烏帽子(たてえぼし)、衣文(えもん)を引(ひ)き繕(つくろ)ひ、鬢(びん)を撫(な)で、花(はな)やかなりし男士(をのこ)なり。

 出家(しゆつけ)の後(のち)は、今日(けふ)初(はじ)めて見(み)たまふに、いまだ三十(さんじふ)にもならぬが、老僧(らうそう)姿(すがた)に痩(や)せ衰(おとろ)へ、濃(こ)き墨染(すみぞめ)に同(おな)じ袈裟(けさ)、思(おも)ひ入(い)れたる道心者(だうしんじや)、羨(うらや)ましや思(おも)はれけん。

 晋(しん)の七賢(しちけん)、漢(かん)の四皓(しかう)が栖(すま)みけん商山(しやうざん)竹林(ちくりん)の有様(ありさま)も、これには過(す)ぎじとぞ見(み)えし。

高野之巻

 滝口入道(たきぐちにふだう)、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)を見(み)奉(たてまつ)り、

「こは現(げん)ども覚(おぼ)え候(さうら)はぬ者(もの)かな。八島(やしま)よりこれまでは何(なに)として逃(に)させたまひて候(さうらふ)やらん」

 と申(まう)しければ、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)のたまひけるは、

「さればとよ、人(ひと)なみなみに、都(みやこ)を出(い)て、西国(さいこく)へ落(お)下(くだ)りたりしかども、故郷(こきやう)に留(と)め置(お)し少(すく)なき者(もの)どもの恋(こひ)しさ、いつ忘(わす)るべしとも覚(おぼ)えねば、その物思(ものおもひ)ふ気色(けしき)の言(い)はぬにしるくや見(み)えけん、大臣(だいじん)殿(どの)も、二位殿(にゐどの)も、この人(ひと)は池(いけ)大納言(だいなごん)の様(さま)に、二(に)心(こころ)ありなどとて思(おも)ひ隔(へだ)てたまひしかば、有(あ)りにかひなき吾(わが)身(み)かなと、いとど心(こころ)も留(とど)まらであくがれ出(い)てこれまではのがれたるなり。いかにもして山伝(やまづた)ひに都(みやこ)へ上(のぼ)りて恋(こひ)しき者(もの)どもを今一度(いまいちど)見(み)もし見(み)えばやとは思(おも)へども、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の事(こと)口惜(くちを)しければそのも叶(かな)はず。同(おな)じくはこれにて出家(しゆつけ)して、火(ひ)の中水(ちゆうすゐ)の底(そこ)へも入(はい)ばやと思(おも)ふなり。但(ただ)熊野(くまの)へ参(まゐ)らんと思(おも)ふ宿願(しゆくぐわん)あり」

 とのたまへば、

「夢幻(むげん)の世(よ)の中(なか)は、とてもかくても候(さうらふ)なん。長(なが)き世(よ)の闇(やみ)こそ心(こころ)うかるべう候(さうら)へ」

 とぞ申(まう)しける。

 やがて滝口入道(たきぐちにふだう)先達(せんだつ)にて、堂塔(だうたふ)巡礼(じゆんれい)して、奥院(おくのゐん)へ参(まゐ)りたまふ。

 高野(かうや)山(やま)は帝城(ていじやう)を去(さ)りて二百里(にひやくり)、京里(きやうり)を離(はな)れて無人声(むじんせい)、晴嵐(せいらん)梢(こずゑ)を鳴(な)して、夕日(ゆふひ)の影(かげ)静(しづ)なり。

 八葉(はちえふ)の峯(みね)、八(はち)の谷(たに)、まことに心(こころ)も澄(すま)みぬべし。

 花(はな)の色(いろ)は林霧(りんむ)の底(そこ)に綻(ほころ)び、鈴(すず)の音(おと)は尾上(をのへ)の雲(くも)に響(ひび)けり。

 瓦(かはら)に松(まつ)生(お)ひ、墻(かき)に苔(こけ)むして、星霜(せいさう)久(ひさ)しく覚(おぼ)えたり。

 抑(そもそも)延喜(えんぎ)帝(みかど)の御時(おんとき)、御夢想(ごむさう)の御告(おんつげ)あって、檜皮色(ひはだいろ)の御衣(ぎよい)を参(まゐ)らせられしに、勅使(ちよくし)中納言(ちゆうなごん)資澄(すけずみ)卿(きやう)、般若寺(はんにやじ)僧正(そうじやう)観賢(くわんげん)を相具(あひぐ)して、この御山(おんやま)に参(まゐ)り、御廟(ごべう)の扉(とぼそ)を開(ひら)いて、御衣(ぎよい)を著(き)せ奉(たてまつ)らんとしけるに、霧(きり)厚(あつ)く隔(へだ)たて、大師(だいし)拝(をが)まれさせたまはず。

 ここに観賢(くわんげん)深(ふか)く愁涙(しうるゐ)して

「我悲母(わがひも)の胎内(たいない)を出(い)て、師匠(ししやう)の室(むろ)に入(い)りしより以来(いらい)いまだ禁戒(きんかい)を犯(をか)せず、さればなどか拝(をが)み奉(たてまつ)らざらん」

 とて五体(ごたい)を地(ち)に投(な)げ、発露啼泣(ほつろていきふ)したまひしかば、漸(やうや)霧(きり)晴(は)れて、月(つき)の出(い)づるが如(ごと)くして、大師(だいし)拝(をが)まれたまひけり。

 時(とき)に観賢(くわんげん)随喜(ずゐき)の涙(なみだ)を流(なが)いて、御衣(ぎよい)を著(き)せ奉(たてまつ)る。

 御(おん)ぐしの長(なが)く生(お)やさせたまひたりしかば、剃(そ)り奉(たてまつ)るこそめでたけれ。

 勅使(ちよくし)と僧正(そうじやう)とは拝(をが)み奉(たてまつ)りたまへども、僧正(そうじやう)の弟子(でし)石(いし)山(やま)の内供淳祐(ないぐじゆんいう)、その時(とき)はまだ童形(どうぎやう)にて供奉(ぐぶ)せられたりけるが、大師(だいし)を拝(をが)み奉(たてまつ)らずして、嘆(なげ)き沈(しづ)みておはしけるが、僧正(そうじやう)手(て)を取(と)って、大師(だいし)の御膝(おんひざ)に押(お)し当(あ)てられたりければ、その手(て)一期(いちご)が間(あひだ)、香(かうば)しかりけるとかや。

 その移(うつ)り香(か)は、石(いし)山(やま)の聖教(しやうげう)に移(うつ)って今(いま)にありとぞ承(うけたまは)る。

 大師(だいし)御門(みかど)の御返事(おんへんじ)に申(まう)させたまひけるは、

「我(われ)昔薩埵(むかしさつた)に逢(あ)ひて、まの当(あた)り悉(ことごと)く印明(いんみやう)を伝(つた)ふ。無比(むひ)の誓願(せいぐわん)を発(ほつ)して、辺(へん)地(ち)の異域(いゐき)に侍(はべ)り。昼夜(ちうや)に万民(ばんみん)を哀(あは)れんで、普賢(ふげん)の悲願(ひぐわん)に住(ぢゆう)す。肉身(にくしん)に三昧(さんまい)を証(しよう)して、慈氏(じし)の下生(げしやう)を待(ま)つ」

 とぞ申(まう)させたまひける。

 かの摩訶迦葉(まかかせふ)の鶏足(けいそく)の洞(ほら)に籠(ろう)りて、翅頭(しづ)の春(はる)の風(かぜ)を期(ご)したまふらんも、かくやとぞ覚(おぼ)えける。

 御入定(ごにふぢやう)は承和(じようわ)二年(にねん)三月(さんぐわつ)二十一日(にじふいちにち)寅(とら)の一点(いつてん)の事(こと)なれば、過(す)ぎにし方(かた)も三百余歳(さんびやくよさい)、行末(ゆくすゑ)もなほ五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんさい)の後(のち)、慈尊出世三会(じそんしゆつせさんゑ)の暁(あかつき)を待(ま)たせたまふらんこそ久(ひさ)しけれ。

維盛出家

「維盛(これもり)が身(み)の何(なに)となく、雪山(せつせん)の鳥(とり)の啼(な)くらんやうに、今日(けふ)よ明日(あす)よと思(おも)ふものを」

 とて、涙(なみだ)ぐみたまふぞ哀(あはれ)なる。

 塩風(しほかぜ)に黒(くろ)み、尽(つ)せぬ物思(ものおもひ)に痩(や)せ衰(おとろ)へて、その人(ひと)とは見(み)えたまはねども、なほ世(よ)の人(ひと)には勝(まさ)れたまへり。

 その夜(よ)は滝口入道(たきぐちにふだう)が庵室(あんじつ)に帰(かへ)りて終夜(よもすがら)、昔今(むかしいま)の物語(ものがたり)をぞしたまひける。

 聖(ひじり)が行儀(ぎやうぎ)を見(み)たまへば、至極甚深(しごくじんじん)の床(ゆか)の上(うへ)には、真理(しんり)の玉(たま)を磨(みが)くらむと見(み)えて、後夜晨朝(ごやじんてう)の鐘(かね)の声(こゑ)には、生死(しやうじ)の眠(ねむり)をさますらむとも覚(おぼ)えたり。

 のがれぬべくはかくてもあらまほしうや思(おも)はれけん。

 明(あ)くれば、東禅院(とうぜんゐん)の智覚上人(ちかくしやうにん)と申(まう)しける聖(ひじり)を請(しやう)じ奉(たてまつ)りて、出家(しゆつけ)せんとしたまひけるが、与三兵衛(よさうびやうゑ)、石童丸(いしどうまる)を召(め)してのたまひけるは、

「維盛(これもり)こそ人(ひと)しれぬ思(おも)ひを身(み)に副(そ)へながら、道(みち)狭(せば)う遁(のが)れ難(かた)き身(み)なれば、空(むな)しうなるとも、このころは世(よ)にある人(ひと)こそ多(おほ)けれ。なんぢらはいかなる有様(ありさま)をしてもなどかすぎざるべき。我(われ)いかにもならむ様(さま)を見(み)果(は)て急(いそ)ぎ都(みやこ)へ上(のぼ)り、おのおのが身(み)をも助(たす)け、かつは妻子(さいし)をも育(そだ)み、かつはまた維盛(これもり)が後生(ごしやう)をも弔(とぶら)らへかし」

 とのたまへば、二人(ふたり)の者(もの)ども、さめざめと泣(な)いて、暫(しばら)くは御返事(おんへんじ)にも及(およ)ばず、稍(やや)あって与三兵衛(よさうびやうゑ)涙(なみだ)を押(おさ)へて申(まう)しけるは、

「重景(しげかげ)が父(ちち)与三左衛門(よさうざゑもん)景康(かげやす)は、平治(へいぢ)の逆乱(ぎやくらん)の時(とき)、故(こ)殿(との)の御供(おんとも)に候(さうらひ)けるが、二条(にでう)堀河(ほりかは)の辺(へん)にて、鎌田兵衛(かまたびやうゑ)に組(く)んで、悪源太(あくげんた)に討(う)たれ候(さうらひ)ぬ。重景(しげかげ)もなじかは劣(おと)り候(さうらふ)べき。その時(とき)はまだ二歳(にさい)に罷(まか)り成(な)り候(さうらひ)ければ、少(すこ)しも覚(おぼ)え候(さうら)はず。母(はは)には七歳(しちさい)で後(おく)れ候(さうらひ)ぬ。あはれをかくべき親(した)しい者(もの)、一人(ひとり)も候(さうら)はざりしかども、故(こ)大臣(だいじん)殿(どの)『あれは我命(わがいのち)にかはりたりし者(もの)の子(こ)なれば』とて、御前(ごぜん)にてそだてられ参(まゐ)らせ、生年九(しやうねんく)と申(まう)しし時(とき)、君(きみ)の御元服(ごげんぶく)候(さうらひ)し夜(よ)、首(かしら)を取(と)り上(あ)げられまゐらせて、辱(かたじけ)なく『盛(もり)の字(じ)は家(いへ)の字(じ)なれば五代(ごだい)につく。重(しげ)の字(じ)をば松王(まつわう)に』とおほせ候(さうらう)て、重景(しげかげ)とは付(つ)けられ参(まゐ)らせて候(さうらふ)なり。その上童名(うへわらはな)を松王(まつわう)と申(まう)しける事(こと)も生(う)まれて忌五十日(いみいか)こそ申(まう)しし時(とき)父(ちち)がいだいてまゐりたりければ家(いへ)を小松(こまつ)といへば祝(いは)うてつくるなりとおほせ候(さうらう)て松王(まつわう)とこそ付(つ)らせられてまゐらせ候(さうらふ)なり。父(ちち)のようて死(し)に候(さうらひ)けるも、我身(わがみ)の冥加(みやうが)と覚(おぼ)え候(さうらふ)。随分同隷(ずゐぶんどうれい)共(とも)にも芳心(はうしん)せられてこそ罷(まか)過(す)候(さうらひ)しか。されば御臨終(ごりんじゆう)の御時(おんとき)も、この世(よ)の事(こと)をばおぼしめし捨(す)て、一事(いちじ)もおほせ候(さうら)はざりしかども、重景(しげかげ)を御前(ごぜん)近(ちか)う召(め)されて、『あな無慚(むざん)や、なんぢは重盛(しげもり)を父(ちち)が形見(かたみ)と思(おも)ひ、重盛(しげもり)はなんぢを景康(かげやす)が形見(かたみ)と思(おも)ひてこそ過(す)しつれ。今度(こんど)の除目(ぢもく)に靱負尉(ゆげひのじよう)になして、己(おのれ)が父(ちち)景康(かげやす)を呼(よ)びし様(さま)に召(め)さばやとこそ思(おも)ひつるに、空(むな)しうなるこそ悲(かな)しけれ、相構(あひかま)へて、少将(せうしやう)殿(どの)の心(こころ)に違(たが)ふな』とこそおほせ候(さうらひ)しか。されば日(ひ)ごろはいかなる御事(おんこと)も候(さうら)はむには見(み)捨(す)て参(まゐ)らせて落(お)べき者(もの)とおぼしめし候(さうらひ)けるか。御心(みこころ)の中(なか)こそ慚(はづか)しう候(さうら)へ。『このころは世(よ)にある人(ひと)こそ多(おほ)けれ』とおほせ蒙(かうぶ)り候(さうら)は、当時(たうじ)の如(ごと)くは、皆(みな)源氏(げんじ)の郎等(らうどう)どもこそ候(さうらふ)なれ。君(きみ)の神(かみ)にも仏(ほとけ)にも成(な)らせたまひ候(さうらふ)なむ後(のち)楽(たの)しみ栄(さか)え候(さうらふ)とも、千年(せんねん)の齢(よはひ)を歴(へ)べきか。縦(たと)ひ万年(まんねん)を保(たも)つともつひには終(をは)りの無(な)かるべきか。これに過(す)たる善知識(ぜんぢしき)何事(なにごと)か候(さうらふ)べき」

 とて、手(て)づから髻(もとどり)切(き)て、泣(な)く泣(な)く滝口入道(たきぐちにふだう)に剃(そ)らせけり。

 石童丸(いしどうまる)もこれを見(み)て、髻際(もとどりぎは)より髪(かみ)をきる。

 これも八(や)つより付(つ)き奉(たてまつ)りて、重景(しげかげ)にも劣(おと)らず、不便(ふびん)にしたまひければ、同(どう)滝口入道(たきぐちにふだう)に剃(そ)らせけり。

 これらがかやうに先立(さきだ)ちてなるを見(み)たまふにつけても、いとど心細(こころぼそ)うぞおぼしめす。

 さてもあるべきならねば、

「流転三界中(るてんさんがいちゆう)、恩愛不能断(おんあいふのうだん)、棄恩入無為(きおんにふむゐ)、真実報恩者(しんじつほうおんしや)」

 と三反(さんべん)唱(とな)へたまひて、つひに剃(そ)り下(した)ろしたまひてけり。

「あはれ替(か)はらぬ姿(すがた)を恋(こひ)しき者(もの)どもに今一度(いまいちど)見(み)えもし見(み)えて後(のち)、かくもならば思(おも)ふ事(こと)あらじ」

 とのたまひけるこそ罪(つみ)ふかけれ。

 三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)も与三兵衛(よさうびやうゑ)も同年(どうねん)にて今年(ことし)は二十七歳(にじふしちさい)なり。

 石童丸(いしどうまる)は十八(じふはち)にぞなりける。

 しばらくあって、舎人(とねり)武里(たけさと)を召(め)して、

「おのれはとうとうこれより八島(やしま)へ帰(かへ)れ。都(みやこ)へは上(のぼ)るべからず。その故(ゆゑ)は、つひには隠(かく)れあるまじけれども、正(ただ)しうこの有様(ありさま)を聞(き)きては、やがて様(さま)をも替(か)んずらんと覚(おぼ)ゆるぞ。八島(やしま)へ参(まゐ)りて、人々(ひとびと)に申(まう)さんずるやうはよな、『かつ御覧(ごらん)候(さうらひ)し様(さま)に、大方(おほかた)の世間(せけん)も懶(ものう)き様(さま)に罷(まか)り成(な)候(さうらひ)き。万(よろづ)づ無道(ぶだう)さも数(かず)添(そ)へて見(み)え候(さうらひ)しかば、おのおのにも知(し)られ参(まゐ)らせ候(さうら)はでかく成(な)候(さうらひ)ぬ。西国(さいこく)で左中将(さちゆうじやう)失(う)せ候(さうらひ)ぬ。一谷(いちのたに)で備中(びつちゆう)守(かみ)うたれ候(さうらひ)ぬ。我(われ)さへかく成(な)候(さうらひ)ぬれば、いかにおのおのの便(つて)なうおぼしめされ候(さうら)はんずらむと、それのみこそ心(こころ)苦(くる)しう思(おも)ひまゐらせ候(さうら)へ。抑(そもそも)唐皮(からかは)といふ鎧(よろひ)、小烏(こがらす)といふ太刀(たち)は、平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)より、当家(たうけ)に伝(つた)へて、維盛(これもり)までは嫡々(ちやくちやく)九代(くだい)に相(あひ)当(あた)たる。もし不思議(ふしぎ)にて世(よ)も立(た)ちなほらば六代(ろくだい)にたうぶべし』と申(まう)せ」

 とこそのたまひけれ。

 武里(たけさと)

「君(きみ)のいかにもならせおはしまさん様(さま)を見参(げんざん)らせて後(のち)こそ、八島(やしま)へも参(まゐ)り候(さうら)はめ」

 と申(まう)しければ、

「さらば」

 とて召(め)し具(ぐ)せらる。

 滝口入道(たきぐちにふだう)をも善知識(ぜんぢしき)の為(ため)に具(ぐ)せられけり。

 山伏(やまぶし)修業者(しゆげふじや)の様(さま)にて高野(かうや)をば出(い)て、同国(どうこく)の内山東(うちさんどう)へこそ出(いで)られけれ。

 藤代(ふぢしろ)の王子(わうじ)を始(はじ)めとして、王子王子(わうじわうじ)伏(ふ)拝(をが)み参(まゐ)りたまふほどに、千里(せんり)の浜(はま)の北(きた)、岩代(いはしろ)王子(わうじ)の御前(ごぜん)にて、狩装束(かりしやうぞく)なる者(もの)七八騎(しちはちき)がほど行(ゆ)逢(あ)奉(たてまつ)る。

 既(すで)に搦(から)め捕(とら)られなむずと思(おも)ひて、おのおの腰(こし)の刀(かたな)に手(て)をかけて腹(はら)を切(き)らむとしたまひけるが、近(ちか)付(づ)けれども、過(す)つべき気色(けしき)も無(な)くて急(いそ)ぎ馬(むま)より下(お)り深(ふか)う畏(かしこ)まって通(とほ)りければ、

「見(み)知(し)りたる者(もの)にこそ、誰(たれ)なるらん」

 と怪(あや)しくて、いとど足(あし)早(はや)にさしたまふほどに、これは当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん)、湯浅権守宗重(ゆあさのごんのかみむねしげ)が子(こ)に湯浅七郎兵衛宗光(ゆあさしちらうびやうゑむねみつ)といふ者(もの)なり。

 郎等(らうどう)ども

「これはいかなる人(ひと)にて候(さうらふ)やらむ」

 と申(まう)しければ、七郎兵衛(しちらうびやうゑ)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)いて

「あら事(こと)も辱(かたじけ)なや、あれこそ小松(こまつ)大臣(だいじん)殿(どの)の御嫡子(ごちやくし)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)よ。八島(やしま)よりこれまでは何(なに)として逃(に)させたまひたりけるぞや。はや御様(おんさま)を替(か)へさせたまひてけり。与三兵衛(よさうびやうゑ)、石童丸(いしどうまる)も同(おな)じく出家(しゆつけ)して、御供(おんとも)申(まう)したり。近(ちか)う参(まゐ)りて、見参(げんざん)にも入(はい)たかりつれども、憚(はばか)もぞおぼしめすとて通(とほ)りぬ。あなあはれの御有様(おんありさま)や」

 とて、袖(そで)を顔(かほ)に押(お)あてて、さめざめと泣(な)きければ、郎等(らうどう)どもも皆(みな)涙(なみだ)をぞながしける。

熊野参詣

 漸(やうや)さしたまふほどに日数(ひかず)歴(へ)れば岩田河(いはたがは)にも懸(か)りたまひけり。

 この川(かは)の流(なが)を一度(いちど)も渡(わた)る者(もの)は、悪業(あくごふ)煩悩(ぼんなう)無始(むし)の罪障(ざいしやう)消(き)ゆるものをと、頼(たの)もしくぞおぼしける。

 本宮(ほんぐう)に参(まゐ)りつき証(しよう)まこと殿(どの)の御前(ごぜん)につい居(ゐ)たまひつつ暫(しばら)く法施(ほつせ)参(まゐ)らせて、御山(おんやま)の体(てい)を拝(をが)みたまふに、心(こころ)も詞(ことば)も及(およ)ばれず。

 大悲(だいひ)擁護(ようご)の霞(かすみ)は、熊野(くまの)山(やま)にたなびき、霊験(れいげん)無双(むさう)の神明(しんめい)は、音無河(おとなしがは)に跡(あと)を垂(た)る。

 一乗(いちじよう)修行(しゆぎやう)の岸(きし)には、感応(かんおう)の月(つき)曇(くも)もなく、六根懺悔(ろくこんざんげ)の庭(には)には、妄想(まうざう)の露(つゆ)も結(むす)ばず。

 いづれもいづれも憑(たの)もからずといふ事(こと)なし。

 夜(よ)深(ふか)け人(ひと)静(しづ)まりて、啓白(けいびやく)したまふに、父(ちち)の大臣(だいじん)の、この御前(ごぜん)にて、命(いのち)を召(め)して後世(ごせ)を扶(たす)けたまへと、申(まう)されける事(こと)までも、おぼしめし出(い)でて哀(あはれ)なり。

「本地(ほんぢ)阿弥陀(あみだ)如(ごと)来(き)にてまします。摂取不捨(せつしゆふしや)の本願(ほんぐわん)誤(あやま)らず、浄土(じやうど)へ導(みちび)きたまへ」

 と申(まう)されける中(なか)にも、

「故郷(こきやう)に留(と)め置(お)し妻子(さいし)安(やす)穏(おだひ)に」

 と祈(いの)られけるこそ悲(かな)しけれ。

 浮(うか)世(よ)を厭(いと)ひ真(まこと)の道(みち)に入(い)りたまへども、妄執(まうしふ)はなほ尽(つ)きずと覚(おぼ)えて、哀(あはれ)なりし事(こと)どもなり。

 明(あ)くれば、本宮(ほんぐう)より舟(ふね)に乗(の)り、新宮(しんぐう)へぞ参(まゐ)られける。

 神蔵(かんのくら)を拝(をが)みたまふに、巌松(がんしよう)高(たか)く聳(そび)えて嵐(あらし)妄想(まうざう)の夢(ゆめ)を破(やぶ)り、流水(りうすゐ)清(きよ)く流(なが)れて、浪(なみ)塵埃(ぢんあい)の垢(あか)をすすぐらんとも覚(おぼ)たり。

 明日(あすか)の社(やしろ)伏(ふ)拝(をが)み、佐野(さの)の松(まつ)原(はら)さし過(す)ぎて、那智(なち)の御山(おんやま)に参(まゐ)たまふ。

 三重(みへ)に漲(みなぎ)り落(お)つる滝(たき)の水(みづ)、数千丈(すうせんぢやう)まで打(う)ち上(のぼ)り、観音(くわんおん)の霊(れい)像(ざう)は岩(いは)の上(うへ)に顕(あら)はれて、補陀落山(ふだらくさん)とも謂(い)ひつべし。

 霞(かすみ)のそこには法華読誦(ほつけどくじゆ)の声聞(しやうもん)ゆ、霊鷲山(りやうじゆせん)とも申(まう)しつべし。

 抑(そもそも)権現(ごんげん)当山(たうさん)に跡(あと)を垂(た)れさせましましてより以来(いらい)、我朝(わがてう)の貴賤(きせん)上下(かみしも)歩(ほ)を運(はこ)び首(くび)を傾(かたぶ)け掌(たなごころ)を合(あ)せて利生(りしやう)に関(かか)はらずといふことなし。

 僧侶(そうりよ)されば甍(いらか)を並(なら)べ、道俗(だうぞく)袖(そで)を連(つら)ぬ。

 寛和(くわんな)の夏(なつ)のころ、花山法皇(くわざんほふわう)、十善(じふぜん)の帝位(ていゐ)を逃(に)させたまひて、九品(くほん)の浄刹(じやうせつ)を行(おこな)はせたまひけん御庵室(ごあんじつ)の旧跡(きうせき)には、昔(むかし)を忍(しの)ぶと覚(おぼ)しくて、老(お)木(き)の桜(さくら)ぞ開(ひら)きにける。

 那智籠(なちごもり)の僧(そう)どもの中(なか)に、この三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)をよくよく見(み)知(し)り奉(たてまつ)りたると覚(おぼ)しくて、同行(どうぎやう)に語(かた)りけるは、

「ここなる修業者(しゆげふじや)をいかなる人(ひと)やらむと思(おも)ひたれば、小松(こまつ)大臣(だいじん)殿(どの)の御嫡子(ごちやくし)、三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)にておはしけるぞや。あの殿(どの)のいまだ四位(しゐ)少将(せうしやう)と聞(き)こえたまひし安元(あんげん)の春(はる)のころ、法住寺殿(ほふぢゆじどの)にて五十(ごじふ)の御賀(おんが)のありしに、父(ちち)小松(こまつ)殿(どの)は内大臣(ないだいじん)の左大将(さだいしやう)にてまします。伯父(をぢ)宗盛卿(むねもりのきやう)は中納言(ちゆうなごん)右大将(うだいしやう)にて、階下(かいか)に著座(ちやくざ)せられたり。その外(ほか)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)知盛(とももり)、頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)以下(いげ)、一門(いちもん)の人々(ひとびと)今日(けふ)を晴(は)と時(とき)めきたまひて、垣代(かいしろ)に立(た)ちたまひし中(なか)より、この三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)桜(さくら)の花(はな)をかざして、青海波(せいがいは)を舞(ま)ひていでられたりしかば、露(つゆ)に媚(こ)びたる花(はな)の御姿(おんすがた)、風(かぜ)に翻(ひるがへ)る舞(まひ)の袖(そで)、地(ち)を照(て)らし天(てん)も耀(かがや)くばかりなり。女院(にようゐん)より関白(くわんぱく)殿(どの)を御使(おんつかひ)にて、御衣(ぎよい)をかけられしかば、父(ちち)の大臣座(だいじんざ)をたちこれをたまはって、右(みぎ)の肩(かた)にかけ、院(ゐん)を拝(はい)し奉(たてまつ)りたまふ。面目(めんぼく)類(たぐひ)少(すく)なうぞ見(み)えし。かたへの殿上人(てんじやうびと)も、いかがばかり羨(うらや)ましう思(おも)はれけむ。内裏(だいり)の女房達(にようばうたち)の中(なか)には、深山木(みやまぎ)の中(なか)の楊梅(やまもも)とこそ覚(おぼ)ゆれなど言(い)はれたまひし人(ひと)ぞかし。ただ今(いま)大臣(だいじん)の大将(だいしやう)待(ま)ちかけたまへる人(ひと)とこそ見(み)奉(たてまつ)りしに、今日(けふ)はかくやつれ果(は)てたまへる御有様(おんありさま)、兼(か)ねては思(おも)ひ寄(よ)らざりしをや。移(うつ)れば替(か)る世(よ)の習(なら)ひとはいひながら、哀(あはれ)なる御事(おんこと)かな」

 とて、袖(そで)を顔(かほ)に推(お)し当(あ)てて、さめざめと泣(な)きければ、幾(いく)等(ら)も並(なら)び居(ゐ)たる那智籠(なちごもり)りの僧(そう)どもも、みなうち衣(きぬ)の袖(そで)をぞぬらしける。

維盛入水

 三(み)の御山(おんやま)の参詣(さんけい)事(こと)故(ゆゑ)なく遂(つひ)たまひしかば、浜宮(はまのみや)と申(まう)す王子(わうじ)の御前(ごぜん)より、一葉(いちえふ)の船(ふね)に棹(さを)さして、万里(ばんり)の蒼海(さうかい)に浮(う)かびたまふ。

 遥(はる)かの沖(おき)に山成(やまなり)の島(しま)といふ所(ところ)あり。

 それに船(ふね)を漕(こ)ぎ寄(よ)せさせ、岸(きし)に上(のぼ)り、大(おほ)なる松(まつ)の木(き)を削(けづ)りて、中将(ちゆうじやう)銘跡(めいせき)を書(か)き付(つ)けらる。

「祖父(おほぢ)太政大臣(だいじやうだいじん)平朝臣(たいらのあそん)清盛公(きよもりこう)法名(ほふみやう)浄海(じやうかい)、親父(しんぶ)内大臣(ないだいじん)左大将(さだいしやう)重盛公(しげもりこう)法名(ほふみやう)浄蓮(じやうれん)、その子(こ)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)法名(ほふみやう)浄円(じやうゑん)、生年(しやうねん)二十七歳(にじふしちさい)、寿永(じゆえい)三年(さんねん)三月(さんぐわつ)二十八日(にじふはちにち)、那智(なち)の奥(おく)にて入水(じゆすゐ)す」

 と書(か)き付(つ)けて、また舟(ふね)に乗(の)り、奥(おく)へぞ漕(こ)ぎ出(い)たまふ。

 思(おも)ひきりたる道(みち)なれども、今(いま)はの時(とき)に成(な)りぬれば、心細(こころぼそ)う悲(かな)しからずといふ事(こと)なし。

 ころは三月(さんぐわつ)二十八日(にじふはちにち)の事(こと)なれば、海路(かいろ)遥(はるか)に霞(かすみ)渡(わた)り、哀(あはれ)を催(もよほ)す類(たぐひ)なり。

 ただ大方(おほかた)の春(はる)だにも、暮(く)れ行(ゆ)く空(そら)は懶(ものう)きに、況(いはん)や今日(けふ)を限(かぎ)の事(こと)なれば、さこそは心細(こころぼそ)かりけめ。

 沖(おき)の釣船(つりぶね)の浪(なみ)に消(き)え入(い)る様(さま)に覚(おぼ)ゆるが、さすが沈(しづ)みも果(は)てぬを見(み)たまふにも、御身(おんみ)の上(うへ)とやおぼしけん。

 己(おのれ)が一行(いつかう)引(ひ)き連(つら)れて、今(いま)はと帰(かへ)る雁(かり)がねの、越路(こしぢ)を差(さ)して啼(な)き行(ゆ)くも、故郷(こきやう)へ言(い)づけせまほしく、蘇武(そぶ)が胡国(ここく)の恨(うらみ)まで、思(おも)ひ残(のこ)せるくまもなし。

「さればこは何事(なにごと)ぞ。なほ妄執(まうしふ)の尽(つ)ぬにこそ」

 とおぼしめし返(かへ)して西(にし)に向(むか)ひ手(て)を合(あ)せ、念仏(ねんぶつ)したまふ心(こころ)の中(なか)にも、

「既(すで)にただ今(いま)を限(かぎ)りとは都(みやこ)には争(いか)か知(し)るべきなれば、風(かぜ)の便(つて)の音信(いんしん)も、今(いま)や今(いま)やとこそ待(ま)たんずらめ。つひには隠(かく)れあるまじければ、この世(よ)になき者(もの)と聞(き)いていかがばかりかなげかんずらん」

 など思(おも)ひ続(つづ)けたまへば、念仏(ねんぶつ)を留(と)めて、合掌(がつしやう)を乱(みだ)り、聖(ひじり)に向(むか)きてのたまひけるは、

「哀(あはれ)人(ひと)の身(み)に、妻子(さいし)といふ物(もの)をば持(も)つまじかりける者(もの)かな。この世(よ)にて物(もの)を思(おも)はするのみならず、後生菩提(ごしやうぼだい)の妨(さまたげ)となりける口惜(くちを)さよ。ただ今(いま)も思(おも)ひ出(いで)るぞや。かやうの事(こと)を心中(しんちゆう)に残(のこ)せば、罪(つみ)深(ふか)からむ間(あひだ)、懺悔(さんげ)するなり」

 とぞのたまひける。

 聖(ひじり)も哀(あはれ)に覚(おぼ)えけれども、叶(かな)はじと思(おも)ひ、涙(なみだ)を押(お)拭(のご)ひ、さらぬ体(てい)にもてなして申(まう)しけるは

「まことにさこそはおぼしめされ候(さうらふ)らめ。高(たか)きも賤(しづ)きも、恩愛(おんあい)の道(みち)は力(ちから)及(およ)ばぬ事(こと)なり。中(なか)にも、夫妻(ふさい)は一夜(いちや)の枕(まくら)をならぶるも、五百生(ごひやくしやう)の宿縁(しゆくえん)と申(まう)し候(さうら)へば、先世(せんぜ)の契(ちぎり)浅(あさ)からず。生者必滅(しやうじやひつめつ)、会者定離(ゑしやぢやうり)は、浮(うか)世(よ)の習(ならひ)にて候(さうらふ)なり。末(すゑ)の露(つゆ)、本(もと)の雫(しづく)のためしあれば、縦(たと)ひ遅速(ちそく)の不同(ふどう)はありとも、後(おく)れ先(さき)だつ御別(おんわか)れ、つひに無(な)くてしもや候(さうらふ)べき。かの驪山宮(りざんきう)の秋(あき)の夕(ゆふべ)の契(ちぎり)も、つひには心(こころ)を摧(くだ)く端(はし)となり、甘泉殿(かんせんでん)の生前(しやうぜん)の恩(おん)も、終(をは)りなきにしもあらず。松子梅生生涯恨(しようしばいせいしやうがいのうらみ)あり。等覚十地(とうがくじふぢ)なほ生死(しやうじ)の掟(おきて)に随(したが)ふ。縦(たと)ひ君(きみ)長生(ちやうせい)の楽(たの)しみに誇(ほこ)りたまふども、この御嘆(おんなげき)は逃(に)させたまふべからず。縦(たと)ひ百年(ひやくねん)の齢(よはひ)を保(たも)ちたまふども、この御恨(おんうらみ)はただ同事(おなじこと)とおぼしめさるべし。第(だい)六天(ろくてん)の魔王(まわう)といふ外道(げだう)は、欲界(よくかい)の六天(ろくてん)を我物(わがもの)と領(りやう)して、中(なか)にもこの界(かい)の衆生(しゆじやう)の生死(しやうじ)を離(はな)るる事(こと)ををしみ、或(あるい)は妻(つま)となり、或(あるい)は夫(それ)と成(な)て、これを妨(さまたげ)ぐるに、三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)は、一切(いつさい)衆生(しゆじやう)を一子(いつし)の如(ごと)くにおぼしめして、極楽(ごくらく)浄土(じやうど)の不退(ふたい)の土(つち)に勧(すす)め入(い)れんとしたまふに、妻子(さいし)といふ者(もの)が無始曠劫(むしくわうごふ)より以来(いらい)、生死(しやうじ)に流転(るてん)するきづななるが故(ゆゑ)に、仏(ほとけ)は重(おも)う戒(いま)しめたまふなり。さればとて、御心(みこころ)弱(よわ)うおぼしめすべからず。源氏(げんじ)の先祖(せんぞ)、伊予(いよ)入道(にふだう)頼義(よりよし)は、勅命(ちよくめい)に依(よ)りて、奥州(あうしう)の夷(えびす)安倍貞任宗任(あべのさだたふむねたふ)を責(せめ)んとて十二年(じふにねん)が間(あひだ)に人(ひと)の頸(くび)を斬(き)る事(こと)、一(いち)万(よろづ)六(ろく)千余人(せんよにん)。その外(ほか)山野(さんや)の獣(けだもの)、江河(こうが)の鱗(うろくづ)、その命(いのち)を絶(た)つ事(こと)、幾(いく)千万(せんまん)といふ数(かず)を知(し)らず。されども終焉(しゆうえん)の時(とき)、一念(いちねん)の菩提心(ぼだいしん)を発(ほつ)ししに依(よ)りて、往生(わうじやう)の素懐(そくわい)を遂(つひ)たりとこそ承(うけたまは)れ。就中(なかんづく)に出家(しゆつけ)の功徳莫大(くどくばくだい)なれば、先世(せんぜ)の罪障(ざいしやう)皆(みな)滅(ほろ)びたまひぬらむ。縦(たと)ひ人(ひと)あって七宝(しつぽう)の塔(たふ)を立(た)てん事(こと)、高(たか)さ三十三天(さんじふさんてん)に至(いた)るども、一日(いちにち)の出家(しゆつけ)の功徳(くどく)には及(およ)ぶべからず。縦(たと)ひまた百千歳(ひやくせんさい)の間(あひだ)百(ひやく)羅漢(らかん)を供養(くやう)したらん功徳(くどく)も一日(いちにち)の出家(しゆつけ)の功徳(くどく)には及(およ)ぶべからずと説(と)かれたり。罪(つみ)深(ふか)かりし頼義(よりよし)も心(こころ)の猛(たけ)き故(ゆゑ)に、往生(わうじやう)を遂(つひ)ぐ。申(まう)さんや。君(きみ)はさせる御罪業(ございごふ)もましまさざるらんに、などか浄土(じやうど)へ参(まゐ)りたまはざるべき。その上(うへ)当山(たうさん)権現(ごんげん)は、本地(ほんぢ)阿弥陀(あみだ)如(ごと)来(き)にてまします。始(はじ)め無三悪趣(むさんまくしゆ)の願(ねが)より、終(をは)り得三法忍(とくさんぼふにん)の願(ねが)に至(いた)るまで、一々(いちいち)の誓願(せいぐわん)衆生化度(しゆじやうけど)の願(ねが)ならずといふ事(こと)なし。中(なか)にも、第(だい)十八(じふはち)の願(ねが)には『設我得仏(せつがとくぶつ)、十方衆生(じつぱうしゆじやう)、至心信楽(ししんしんげう)、欲生我国(よくしやうがこく)、乃至(ないし)十念(じふねん)、若不生者(にやくふしやうしや)、不取正覚(ふしゆしやうがく)』と説(と)かれたれば、一念(いちねん)十念(じふねん)の憑(たのみ)あり。ただ深(ふか)く信(しん)じて、努努(ゆめゆめ)疑(うたがひ)をなしたまふべからず。無二(むに)の懇念(こんねん)を致(いた)して、若(わか)は一反(いつぺん)、若(わか)は十反(じつぺん)も唱(とな)へたまふ物(もの)ならば、弥陀(みだ)如(ごと)来(き)、六十万億(ろくじふまんおく)那由多恒河沙(なゆたごうがしや)の御身(おんみ)を縮(ちぢ)め、丈六八尺(ぢやうろくはつしやく)の御形(おんかたち)にて観音(くわんおん)勢至(せいし)、無数(むしゆ)の聖衆(しやうじゆ)、化仏菩薩(けぶつぼさつ)、百重千重(ひやくぢゆうせんぢゆう)に囲繞(ゐねう)し、伎楽歌詠(ぎがくかえい)して、ただ今(いま)極楽(ごくらく)の東門(とうもん)を出(い)て来迎(らいかう)したまはむずれば、御身(おんみ)こそ蒼海(さうかい)の底(そこ)に沈(しづ)むとおぼしめさるるとも、紫雲(しうん)の上(うへ)にのぼりたまふべし。成仏得脱(じやうぶつとくだつ)して、悟(さとり)を開(ひら)きたまひなば、娑婆(しやば)の故郷(こきやう)に立(た)ち帰(かへ)りて、妻子(さいし)を引導(いんだう)きたまはん事(こと)『還来穢国度人天(げんらいゑこくどにんでん)』少(すこ)しも疑(うたがひ)あるべからず」

 とて、金打(きんう)ち鳴(な)して念仏(ねんぶつ)を勧(すす)奉(たてまつ)る。

 中将(ちゆうじやう)然(しか)るべき知識(ちしき)かなとおぼしめし、たちまちに妄念(まうねん)を翻(ひるがへ)して西(にし)に向(むか)ひ手(て)を合(あ)せ、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)百(ひやく)返(かへ)計(ばかり)唱(とな)へつつ、

「南無(なむ)」

 と唱(とな)ふる声(こゑ)共(とも)に、海(うみ)へぞ入(い)りたまひける。

 与三兵衛(よさうびやうゑ)入道(にふだう)も石童丸(いしどうまる)も、同(おな)じく御名(おんみやう)を唱(とな)へつつ、続(つづ)いて海(うみ)へぞ入(い)りにける。

三日平氏

 舎人(とねり)武里(たけさと)も、同(おな)じく続(つづ)きて入(い)らんとしけるを、聖(ひじり)取(と)り留(と)めければ力(ちから)及(およ)ばず。

「いかにうたてくも、御遺言(ごゆいごん)をば違(たが)へ奉(たてまつ)らんとするぞ。下臈(げらふ)こそなほもうたてけれ。今(いま)はただ後世(ごせ)を弔(とぶら)ひ奉(たてまつ)れ」

 と泣(な)く泣(な)く教訓(けうくん)しけれども、後(おくれ)たてまつる悲(かな)しさに、後(のち)の御孝養(ごけうやう)の事(こと)も覚(おぼ)えず、船(ふね)底(そこ)に伏(ふ)しまろび、をめき叫(さけ)びける有様(ありさま)は、昔(むかし)悉達太子(しつだたいし)の檀特山(だんどくせん)に入(い)らせたまひし時(とき)、舎匿(しやのく)舎人(とねり)がこんでい駒(こま)をたまはって、王宮(わうぐう)に還(かへ)りし悲(かな)しみも、これには過(す)ぎじとぞ見(み)えし。

 暫(しばら)くは船(ふね)を推(お)し廻(めぐ)して浮(う)かびもや上(あ)がりたまふと、見(み)けれども、三人(さんにん)共(とも)に深(ふか)く沈(しづ)んで見(み)えたまはず。

 いつしか経(きやう)読(よ)み念仏(ねんぶつ)して、

「過去聖霊(くわこしやうりやう)一仏浄土(いちぶつじやうど)へ」

 と回向(ゑかう)しけるこそ哀(あはれ)なれ。

 さるほどに、夕陽(せきやう)西(にし)に傾(かたぶ)むき、海上(かいしやう)も暗(くら)くなりければ、名残(なごり)は尽(つ)くせず思(おも)へども、空(むな)しき船(ふね)を漕(こ)ぎ帰(かへ)る。

 とわたる船(ふね)の櫂(かい)の滴(しづく)、聖(ひじり)が袖(そで)より伝(つた)ふ涙(なみだ)、わきていづれも見(み)えざりけり。

 聖(ひじり)は高野(かうや)へ帰(かへ)り上(のぼ)る。

 武里(たけさと)は泣(な)く泣(な)く八島(やしま)へ参(まゐ)りけり。

 御弟(おんおとと)新三位中将(しんさんみのちゆうじやう)殿(どの)に御文(おんふみ)取(と)り出(いだ)して参(まゐ)らせたりければ、

「あな心(こころ)憂(う)や、我(われ)たのみ奉(たてまつ)るほどは人(ひと)は思(おも)ひたまはざりける口惜(くちを)しさよ。『池(いけ)大納言(だいなごん)の様(さま)に、頼朝(よりとも)に心(こころ)を通(つう)じて、都(みやこ)へこそおはしたらめ』とて、大臣(だいじん)殿(どの)も二位殿(にゐどの)も我等(われら)にも心(こころ)を置(お)きたまひつるに、さては那智(なち)の沖(おき)にて、御身(おんみ)を投(な)げてましますごさんなれ。さらば引(ひ)き具(ぐ)して一処(いつしよ)にも沈(しづ)みたまはで処々(しよしよ)に伏(ふ)さむ事(こと)こそかなしけれ。御前(ごぜん)にておほせられし事(こと)はなかりしか」

 と問(と)ひたまへば、

「申(まう)せと候(さうら)ひしは西国(さいこく)にて左中将(さちゆうじやう)殿(どの)失(う)せさせたまひ候(さうらひ)ぬ。一谷(いちのたに)で備中(びつちゆう)守(かみ)殿(どの)討(う)たれさせたまひ候(さうらひ)ぬ。我(われ)さへかくなり候(さうらひ)ぬれば、いかに便(つて)なうおぼしめされ候(さうら)はんずらんと、そののみこそ心(こころ)苦(くる)しう思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)へ」

 と、唐皮(からかは)小烏(こがらす)の事(こと)までも細々(こまごま)申(まう)したりければ

「今(いま)は我(われ)とてもながらふべしとも覚(おぼ)えず」

 とて、袖(そで)を顔(かほ)に推(お)し当(あ)てて、さめざめと泣(な)きたまふぞまことに理(ことわり)と覚(おぼ)えてあはれなる。

 故(ゆゑ)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)にゆゆしく似(に)たまひたりければ、見(み)る人(ひと)涙(なみだ)を流(なが)しけり。

 侍(さぶらひ)どもさしつどひてただ泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞなき。

 大臣(だいじん)殿(どの)も二位殿(にゐどの)も、

「この人(ひと)は池(いけ)大納言(だいなごん)の様(さま)に、頼朝(よりとも)に心(こころ)を通(とほ)して、都(みやこ)へとこそ思(おも)ひたれば、さはましまさざりけるものを」

 とて、今更(いまさら)また嘆(なげ)き悲(かな)しみたまひけり。

 四月(しぐわつ)一日(いちにち)、鎌倉(かまくら)の前(まへ)兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)正下(しやうげ)の四位(しゐ)したまふ。

 本(もと)は従下(じゆげ)の五位(ごゐ)にてありしに、たちまちに五階(ごかい)を越(こ)えたまふこそ優々(いういう)しけれ。

 これは木曽(きそ)左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)追討(ついたう)の賞(しやう)とぞ聞(き)こえし。

 同(どう)三日(みつか)、崇徳院(すとくゐん)を神(かみ)と崇(あが)め奉(たてまつ)るべしとて、昔(むかし)御(おん)合戦(かつせん)ありし大炊御門(おほひのみかど)が末(すゑ)に、社(やしろ)を立(た)て宮遷(みやうつし)あり。

 これは院(ゐん)の御沙汰(ごさた)にて、内裏(だいり)にはしろしめされずとぞ聞(き)こえし。

 五月(ごぐわつ)四日(よつか)、池(いけ)大納言(だいなごん)頼盛(よりもり)関東(くわんとう)へ下向(げかう)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)使者(ししや)を奉(たてまつ)りて、

「御方(おんかた)をば全(まつた)く愚(をろか)に思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)はず。ただ故(こ)池殿(いけどの)の渡(わた)せたまふとこそ存(ぞん)じ候(さうら)へ。故(こ)尼(あま)御前(ごぜん)の御恩(ごおん)をば大納言(だいなごん)殿(どの)に報(ほう)じ奉(たてまつ)らん」

 と、度々(どど)誓状(せいじやう)を以(もつ)て申(まう)されければ、一門(いちもん)をも引(ひ)別(わか)れて落(お)ち留(とど)まりたまひたりけるが、

「兵衛佐(ひやうゑのすけ)ばかりこそかうは思(おも)はれけれども、自余(じよ)の源氏(げんじ)どもは、いかがあらんずらん」

 と肝魂(きもたましひ)をけすより外(ほか)の事(こと)なくておはしけるが、鎌倉(かまくら)より、

「故(こ)尼(あま)御前(ごぜん)を見(み)奉(たてまつ)ると存(ぞん)じて、疾々(とくとく)見参(げんざん)に入(はい)候(さうら)はん」

 と申(まう)されたりければ、大納言(だいなごん)下(くだ)りたまひけり。

 弥平兵衛宗清(やへいびやうゑむねきよ)といふ侍(さぶらひ)あり。

 相伝専一(さうでんせんいつ)の者(もの)なりけるが、相具(あひぐ)してもくだらず。

「いかに」

 と問(と)ひたまへば、

「今度(こんど)の御供(おんとも)はつかまつらじと存(ぞん)じ候(さうらふ)。その故(ゆゑ)は、君(きみ)こそかくて渡(わた)らせたまへども、御一門(ごいちもん)の君達(きんだち)の西海(さいかい)の波(なみ)の上(うへ)に漂(ただよ)はせたまふ御事(おんこと)の、心(こころ)苦(くる)しう覚(おぼ)えて、いまだ安堵(あんど)しても存(ぞん)じ候(さうらふ)ねば、心(こころ)少(すこ)し落(お)ち据(す)ゑて、追様(あとざま)に参(まゐ)り候(さうらふ)べし」

 とぞ申(まう)しける。

 大納言(だいなごん)にがにがしう慙(はづ)かしう思(おも)ひたまひて、

「まことに一門(いちもん)を引(ひ)き別(わか)れて残(のこ)り留(とど)まりし事(こと)をば、我身(わがみ)ながらいみじとは思(おも)はねども、さすが身(み)も捨(す)て難(かた)う、命(いのち)も惜(を)しければ憖(なまじひ)に留(とど)りにき。その上(うへ)はまた下(くだ)らざるべきにもあらず。遥(はる)かの旅(たび)に赴(おもむ)くに、争(いか)か見(み)おくらであるべき。うけず思(おも)はば、落(お)ち留(とど)まりし時(とき)はなどさはいはざりしぞ。大小事(だいせうじ)一向(いつかう)なんぢにこそ言(い)ひ合(あ)せしか」

 とのたまへば、宗清(むねきよ)居直(ゐなほ)り畏(かしこ)まって申(まう)しけるは、

「高(たか)きも賤(しづ)きも、人(ひと)の身(み)に命(いのち)ほど惜(をし)き物(もの)や候(さうらふ)。また世(よ)をば捨(す)つれども身(み)をば捨(す)てずと申(まう)し候(さうらふ)めり。御留(おんとどま)まりを悪(あし)しとには候(さうら)はず、兵衛佐(ひやうゑのすけ)も、かひなき命(いのち)を助(たす)けられ参(まゐ)らせて候(さうら)へばこそ、今日(けふ)はかかる幸(さいはひ)にもあひ候(さうら)へ。流罪(るざい)せられ候(さうらひ)し時(とき)は故(こ)尼(あま)御前(ごぜん)のおほせにて、篠原(しのはら)の宿(やど)まで打(う)ち送(おく)って候(さうら)ひし事(こと)などいまに忘(わす)れずと承(うけたまは)り候(さうら)へば、定(さだ)めて御供(おんとも)に罷(まか)下(くだ)りて候(さうら)はば、引(ひ)き出物(ひきでもの)饗応(きやうおう)などもし候(さうら)はんずらむ。そのに付(つ)けても心(こころ)憂(う)かるべう候(さうらふ)。西国(さいこく)に渡(わた)らせたまふ君達(きんだち)、もしは侍(さぶらひ)どもの還(かへ)り聞(き)かん事(こと)返(かへ)す返(かへ)す慚(はづか)しう候(さうら)へば、まげて今度(こんど)計(ばかり)は罷(まか)り留(とど)まるべう候(さうらふ)。君(きみ)は落(お)ち留(とど)まらせたまひて、かくてわたらせたまふほどではなどか御(おん)下(くだ)りなうて候(さうらふ)べき。遥(はる)かの旅(たび)に趣(おもむ)かせたまふ事(こと)は、まことに覚束(おぼつか)なう思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)へども、敵(かたき)をも攻(せ)めに御(おん)下(くだ)り候(さうら)はば、先(まづ)一陣(いちぢん)にこそ候(さうらふ)べけれども、これはまゐらずとも、更(さら)に御事(おんこと)闕(か)け候(さうらふ)まじ。兵衛佐(ひやうゑのすけ)尋(たづ)ね申(まう)しされ候(さうら)はば、相(あひ)労(いたは)る事(こと)あってとおほせ候(さうらふ)べし」

 と申(まう)しければ心(こころ)ある侍(さぶらひ)どもは、これを聞(き)いて皆(みな)涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。

 大納言(だいなごん)もさすが慚(はづか)しうは思(おも)はれけれども、されば留(とど)まるべきにもあらねばやがて立(た)ちたまひぬ。

 同(どう)十六日(じふろくにち)、鎌倉(かまくら)へ下(くだ)り着(き)きたまふ。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)急(いそ)ぎ見参(げんざん)して先(ま)づ

「宗清(むねきよ)は御供(おんとも)して候(さうらふ)か」

 と申(まう)されければ、

「折節(をりふし)労(いたは)る事(こと)候(さうらう)て下(くだ)り候(さうら)はず」

 とのたまへば、

「いかに、何(なに)を労(いたは)り候(さうらひ)けるやらん。意趣(いしゆ)を存(ぞん)じ候(さうらふ)にこそ。昔(むかし)宗清(むねきよ)が許(もと)に候(さうら)ひしに、事(こと)に触(ふ)れて有(あ)りがたうわたり候(さうらひ)し事(こと)今(いま)に忘(わす)れ候(さうら)はねば、定(さだ)めて御供(おんとも)に罷(まか)下(くだ)り候(さうら)はむずらん。疾(と)く見参(げんざん)らせばやなど恋(こひ)しう存(ぞん)じて候(さうらふ)に、恨(うら)めしうも下(くだ)り候(さうら)はぬ者(もの)かな」

 とて、下文(くだしぶみ)あまた成(な)し設(まう)け、馬鞍(むまくら)物具(もののぐ)以下(いげ)さまざまの物(もの)どもたばんとせられければ、然(しか)るべき大名(だいみやう)ども、我(われ)も我(われ)もと引(ひ)き出物(ひきでもの)ども用意(ようい)したりけるに、下(くだ)らざりければ、上下(かみしも)本意(ほい)なき事(こと)に思(おも)ひてぞありける。

 六月(ろくぐわつ)九日(ここのか)、池(いけ)大納言(だいなごん)関東(くわんとう)より上洛(じやうらく)したまふ。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)

「暫(しばら)くかくておはしませかし」

 と申(まう)されけれども

「都(みやこ)に覚束(おぼつか)なく思(おも)ふらん」

 とて、急(いそ)ぎ上(のぼ)りたまへば、庄園(しやうゑん)私領(しりやう)、一所(いつしよ)も相違(さうゐ)あるべからず、並(なら)に大納言(だいなごん)になし返(かへ)さるべき由(よし)、法皇(ほふわう)へ申(まう)されけり。

 鞍置馬(くらおきむま)三十(さんじふ)疋(ひき)、裸(はだか)馬(むま)三十(さんじふ)疋(ひき)、長持(ながもち)三十(さんじふ)枝(えだ)に、羽(はね)、金(きん)、染物(そめもの)、巻絹(まきぎぬ)風情(ふぜい)の物(もの)を入(はい)って奉(たてまつ)りたまふ。

 兵衛佐(ひやうゑのすけ)かやうに持(も)てなりたまへば、大名小名(だいみやうせうみやう)我(われ)も我(われ)もと引(ひ)き出物(ひきでもの)を奉(たてまつ)る。

 馬(むま)だにも三百疋(さんびやくびき)に及(およ)べり。

 命(いのち)生(い)きたまふのみならず、徳(とく)付(つ)きてぞ帰(かへ)り上(のぼ)られける。

 同(どう)十八日(じふはちにち)、肥後(ひご)守(かみ)定能(さだよし)が伯父(をぢ)、平田入道定次(ひらたにふだうさだつぎ)を大将(だいしやう)として、伊賀(いが)伊勢(いせ)両国(りやうごく)の住人(ぢゆうにん)等(ら)、近江国(あふみのくに)へ打(う)ち出(い)でたりければ、源氏(げんじ)末葉(ばつえふ)等(ら)発向(はつかう)して、合戦(かつせん)を致(いた)す。

 両国(りやうごく)の住人(ぢゆうにん)等(ら)、一人(ひとり)も残(のこ)らず打(う)ち落(お)とさる。

 平家(へいけ)重代(ぢゆうだい)相(あひ)伝(つた)の家人(けにん)にて、昔(むかし)のよしみを忘(わす)れぬ事(こと)は哀(あはれ)なれども、思(おも)ひ立(た)つこそおほけなけれ。

 三日(みつか)平氏(へいじ)とはこれなり。

 さるほどに、小松(こまつ)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)維盛(これもり)卿(きやう)の北方(きたのかた)は、風(かぜ)のたよりの事(こと)つても、断(た)えて久(ひさ)しくなりければ、

「何(なに)と成(な)りぬる事(こと)やらむ」

 と心(こころ)苦(くる)しうぞ思(おも)はれける。

「月(つき)に一度(いちど)などは必(かなら)ず音信(おとづ)れる物(もの)を」

 と待(ま)ちたまへども、春(はる)過(す)ぎ夏(なつ)もたけぬ。

「三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)今(いま)は八島(やしま)にもおはせぬものを」

 と申(まう)す人(ひと)ありと聞(き)きたまひて、余(あま)りの覚束(おぼつか)なさに、とかくして八島(やしま)へ人(ひと)を奉(たてまつ)りたまひたりければ、いそぎも立(た)ち帰(かへ)らず、夏(なつ)過(す)ぎ秋(あき)にもなりぬ。

 七月(しちぐわつ)の末(すゑ)にかの使(つかひ)帰(かへ)り来(きた)れり。

 北方(きたのかた)、

「さていかにやいかにや」

 と問(と)ひたまへば、

「過(す)ぎにし三月(さんぐわつ)十五日(じふごにち)の暁(あかつき)八島(やしま)を御出(おんい)で候(さうらう)て、高野(かうや)へ参(まゐ)らせたまひて候(さうらひ)けるが、高野(かうや)にて御(おん)ぐしおろし、それより熊野(くまの)へ参(まゐ)らせおはします。後世(ごせ)の事(こと)をよくよく申(まう)させ候(さうら)ひ、那智(なち)の奥(おく)にて、御身(おんみ)を投(な)げさせたまひて候(さうらふ)とこそ、御供(おんとも)申(まう)したりける舎人(とねり)武里(たけさと)は語(かた)り申(まう)しつれ」

 と申(まう)しければ、北方(きたのかた)、

「さればこそ怪(あや)しと思(おも)ひつるものを」

 とて引(ひ)かついでぞ伏(ふ)したまふ。

 若君(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)も、声々(こゑごゑ)に泣(な)き悲(かな)しみたまひけり。

 若君(わかぎみ)の御乳母(おんめのと)の女房(にようばう)、泣(な)く泣(な)く申(まう)しけるは、

「これは今更(いまさら)驚(おどろ)かせたまふべからず。日(ひ)ごろよりおぼしめし設(まう)けたる御事(おんこと)なり。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)殿(どの)の様(さま)に、生捕(いけどり)にせられて、都(みやこ)へかへらせたまひたらば、いかがばかり心(こころ)憂(う)かるべきに、高野(かうや)にて御(おん)ぐしおろし熊野(くまの)へ参(まゐ)らせたまひ、後世(ごせ)の事(こと)よくよく申(まう)させおはしまし、臨終正念(りんじゆうしやうねん)にて失(う)せさせたまひける御事(おんこと)、嘆(なげ)の中(なか)の御悦(おんよろこび)なり。されば御心(みこころ)安(やす)き事(こと)にこそおぼしめすべけれ。いまはいかなる岩木(いはき)の間(あひだ)にても少(すく)なき人々(ひとびと)を生(お)やし立(た)てまゐらせんとおぼしめせ」

 とやうやうになぐさめ申(まう)しけれども、おぼしめしのびてながらふべしとも見(み)えたまはず。

 やがて様(さま)を替(か)へ、かたの如(ごと)くの仏事(ぶつじ)をいとなみ後世(ごせ)をぞ弔(とぶら)ひける。

藤戸

 これを鎌倉(かまくら)兵衛佐(ひやうゑのすけ)返(かへ)り聞(き)きたまひて、

「あはれ隔(へだ)てなう打(う)ち向(むか)きておはしたらば、命(いのち)ばかりは助(たす)奉(たてまつ)りてまし。小松(こまつ)内府(ないふ)の事(こと)は愚(をろか)に思(おも)ひ奉(たてまつ)らず。その故(ゆゑ)は、故(こ)池(いけ)の禅尼(ぜんに)の使(つかひ)として、頼朝(よりとも)を流罪(るざい)に申(まう)し宥(なだ)められしは、偏(ひとへ)にかの内府(ないふ)の芳恩(はうおん)なり。その恩(おん)争(いか)か忘(わす)るべきなれば、子息(しそく)達(たち)は疎(おろそか)に思(おも)はず。まして出家(しゆつけ)などせられなん上(うへ)は仔細(しさい)にや及(およ)べき」

 とぞのたまひける。

 さるほどに、平家(へいけ)は讃岐(さぬき)の八島(やしま)へ帰(かへ)りたまひて後(のち)、

「東国(とうごく)より荒手(あらて)の軍兵(ぐんぴやう)数万(すうまん)騎(き)都(みやこ)に著(つ)て、攻(せ)め下(くだ)る」

 とも聞(き)ゆ。

「鎮西(ちんぜい)より、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらたう)、同心(どうしん)して押(お)し渡(わた)る」

 とも申(まう)しあへり。

 かれを聞(き)き、これを聞(き)くにも、ただ耳(みみ)を驚(おどろ)かし、肝魂(きもたましひ)を消(き)すより外(ほか)の事(こと)ぞなき。

 今度(こんど)一谷(いちのたに)にて、一門(いちもん)の人々(ひとびと)のこりすくなく討(う)たれたまひ、むねとの侍(さぶらひ)ども半(なかば)過(す)ぎて滅(ほろ)びぬ。

 今(いま)は力(ちから)尽(つ)き果(は)てて、阿波民部(あはのみんぶ)大夫(だいぶ)重能(しげよし)が兄弟(きやうだい)、四国(しこく)の者(もの)ども語(かた)ひて、

「さりとも」

 と申(まう)しけるをぞ、高(たか)き山(やま)深(ふか)き海(うみ)とも頼(たの)みたまひける。

 女房達(にようばうたち)はさしつどひてただ泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞなき。

 かくて七月(しちぐわつ)二十五日(にじふごにち)にも成(な)りぬ。

「去年(きよねん)の今日(けふ)は都(みやこ)を出(い)でしぞかし、ほどなく廻(めぐ)り来(き)にけり」

 とて浅(あさ)ましうあわただしかりし事(こと)どものたまひ出(いだ)して泣(な)きぬ笑(わら)ひぬぞしたまひける。

 同(どう)二十八日(にじふはちにち)、新帝(しんてい)の御即位(ごそくゐ)あり。

 内侍所(ないしどころ)神璽(しんじ)宝剣(ほうけん)もなくして、御即位(ごそくゐ)の例(れい)、神武天皇(じんむてんわう)より以降(いかう)八十二代(はちじふにだい)、これ始(はじ)めとぞ承(うけたまは)る。

 八月(はちぐわつ)六日(むいか)、除目(ぢもく)おこなはれて蒲冠者(かばのくわんじや)範頼(のりより)、参河(みかは)守(かみ)になる。

 九郎冠者(くらうくわんじや)義経(よしつね)、左衛門尉(さゑもんのじよう)になさる。

 則使(そくし)の宣旨(せんじ)を蒙(かうぶ)りて、九郎(くらう)判官(はうぐわん)とぞ申(まう)しける。

 さるほどに荻(をぎ)の上風(うはかぜ)もやうやう身(み)にしみ、萩(はぎ)の下露(したつゆ)もいよいよ滋(しげ)く、恨(うらみ)る虫(むし)の声々(こゑごゑ)に稲葉(いなば)打(う)ちそよぎ、木葉(このは)かつ散(ち)る気色(けしき)、物思(ものおもひ)はざらむだにも深(ふか)く行(ゆ)く秋(あき)の旅(たび)の空(そら)は悲(かな)しかるべし。

 まして平家(へいけ)の人々(ひとびと)の心(こころ)の中(なか)さこそはおはしけめと推量(おしはか)られてあはれなり。

 昔(むかし)は九重(ここのへ)の上(うへ)にて、春(はる)の花(はな)を玩(もてあそ)び、今(いま)は八島(やしま)の浦(うら)にして、秋(あき)の月(つき)に悲(かな)む。

 およそさやけき月(つき)を詠(えい)じても、都(みやこ)の今夜(こんや)いかなるらむと想像(おもひや)り、心(こころ)を澄(す)まし涙(なみだ)を流(なが)してぞ明(あか)かし暮(く)らしたまひける。

 左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)かうぞ思(おも)ひつづけたまふ。

君(きみ)すめばこれも雲井(くもゐ)の月(つき)なれど、なほこひしきは都(みやこ)なりけり。

 同(どう)九月(くぐわつ)十二日(じふににち)、参河(みかは)守(かみ)範頼(のりより)、平家(へいけ)追討(ついたう)の為(ため)にとて、西国(さいこく)へ発向(はつかう)す。

 相(あひ)伴(とも)ふ人々(ひとびと)、足利蔵人義兼(あしかがくらんどよしかね)、加賀美小次郎長清(かがみこじらうながきよ)、北条小四郎義時(ほうでうこしらうよしとき)、斎院次官親義(さいゐんのすけちかよし)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、土肥次郎(どひのじらう)実平(さねひら)、子息(しそく)弥太郎遠平(やたらうとほひら)、三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)、子息(しそく)平六(へいろく)義村(よしむら)、畠山庄司次郎重忠(はたけやましやうじじらうしげただ)、同(どう)長野三郎重清(ながのさぶらうしげきよ)、稲毛三郎重成(いなげさぶらうしげなり)、榛谷四郎重朝(はんがやしらうしげとも)、同(どう)五郎(ごらう)行重(ゆきしげ)、小山小四郎朝政(こやまこしらうともまさ)、同(どう)長沼五郎宗政(ながぬまごらうむねまさ)、土屋三郎宗遠(つちやさぶらうむねとほ)、佐々木三郎盛綱(ささきさぶらうもりつな)、八田四郎武者朝家(はつたしらうむしやともいへ)、安西三郎秋益(あんざいさぶらうあきます)、大胡三郎実秀(おほごさぶらうさねひで)、天野藤内遠景(あまのとうないとほかげ)、比気藤内朝宗(ひきとうないともむね)、同(どう)藤四郎(とうしらう)義員(よしかず)、中条藤次家長(ちゆうでうとうじいへなが)、一品房章玄(いつぽんばうしやうげん)、土佐坊正俊(とさばうしやうしゆん)、これらを始(はじ)めとして、都合(つがふ)その勢(せい)三万余騎(さんまんよき)、都(みやこ)を立(た)て播磨(はりま)の室(むろ)にぞ著(つ)きにける。

 平家(へいけ)の方(かた)には大将軍(たいしやうぐん)小松(こまつ)新三位中将(しんさんみのちゆうじやう)資盛(すけもり)、同(どう)少将(せうしやう)有盛(ありもり)、丹後(たんご)侍従(じじゆう)忠房(ただふさ)、侍大将(さぶらひだいしやう)には飛騨三郎左衛門景経(ひださぶらうざゑもんかげつね)、越中次郎兵衛盛次(ゑつちゆうじらうびやうゑもりつぎ)、上総(かづさ)五郎(ごらう)兵衛(びやうゑ)忠光(ただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちびやうゑかげきよ)を先(さき)として、五(ご)百(ひやく)余(よ)艘(さう)の兵船(ひやうせん)に取(と)り乗(の)りりて、備前(びぜん)の小(こ)島(しま)に著(つ)くと聞(き)こえしかば、源氏(げんじ)室(むろ)を立(た)て、これも備前国(びぜんのくに)、西河尻(にしがはじり)、藤戸(ふぢと)に陣(ぢん)をぞ取(と)りたりける。

 源平(げんぺい)の陣(ぢん)の交(まじ)ひ、海(うみ)の面(おもて)五町(ごちやう)計(ばかり)を隔(へだ)たり。

 舟(ふね)なくしては輒(たやす)う渡(わた)すべき様(さま)無(な)かりければ、源氏(げんじ)の大勢(おほぜい)向(むかひ)の山(やま)に宿(しゆく)していたづらに日数(ひかず)を送(おく)る。

 平家(へいけ)の方(かた)よりはやりをの若者(わかもの)ども小舟(こぶね)に乗(の)りて漕(こ)ぎいださせ、扇(あふぎ)を上(あ)げて

「ここ渡(わた)せ」

 とぞ招(まね)きける。

 源氏(げんじ)

「安(やす)からぬ事(こと)なり。いかがせん」

 といふ処(ところ)に、同(どう)二十五日(にじふごにち)の夜(よ)に入(はい)って佐々木三郎盛綱(ささきさぶらうもりつな)浦(うら)の男(をとこ)を一人(ひとり)語(かた)って、白(しろ)い小袖(こそで)、大口(おほくち)、白鞘巻(しらさやまき)など取(と)らせ、すかしおほせて、

「この海(うみ)に馬(むま)にて渡(わた)しぬべき所(ところ)やある」

 と問(と)ひければ、男(をとこ)申(まう)しけるは、

「浦(うら)の者(もの)ども多(おほ)う候(さうら)へども、案内(あんない)知(し)りたるは稀(まれ)に候(さうらふ)、この男(をとこ)こそよく存知(ぞんぢ)して候(さうら)へ。たとへば川(かは)の瀬(せ)の様(さま)なる所(ところ)の候(さうらふ)が、月頭(つきがしら)には東(ひがし)に候(さうらふ)、月尻(つきじり)には西(にし)に候(さうらふ)、両方(りやうはう)の瀬(せ)の交(まじ)ひ、海(うみ)の面(おもて)十(じふ)町(ちやう)計(ばかり)は候(さうらふ)らん。この瀬(せ)は御馬(おんうま)にては、輒(たやす)う渡(わた)させたまふべし」

 と申(まう)しければ、佐々木(ささき)斜(なな)めならず悦(よろこ)んで我(わ)が家子郎等(いへのこらうどう)にも知(し)らせず、かの男(をとこ)とただ二人(ふたり)紛(まぎ)れ出(い)て、裸(はだか)になり、件(くだん)の瀬(せ)の様(さま)なる所(ところ)を渡(わた)って見(み)るに、げにもいたく深(ふか)うはなかりけり。

 ひざ腰(こし)肩(かた)にたつ所(ところ)もあり、髻(もとどり)の濡(ぬ)る所(ところ)もあり。

 深(ふか)き所(ところ)は游(およ)いで、浅(あさ)き所(ところ)に游(およ)ぎつく。

 男(をとこ)申(まう)しけるは、

「これより南(みなみ)は、北(きた)より遥(はるか)に浅(あさ)う候(さうらふ)、敵(かたき)矢(や)先(さき)を汰(そろ)へて、待(ま)ところに裸(はだか)にては叶(かな)はせたまふまじ。これより帰(かへ)らせたまへ」

 と申(まう)しければ、佐々木(ささき)

「げにも」

 とて帰(かへ)りけるが、

「下臈(げらふ)は、ごこさもなき者(もの)なれば、また人(ひと)に語(かた)はれて、案内(あんない)をも教(をし)へむずらん、我(われ)計(ばかり)こそ知(し)らめ」

 と思(おも)ひて、かの男(をとこ)を刺(さ)し殺(ころ)し、首(くび)掻(か)き切(き)って棄(す)てけり。

 同(どう)二十六日(にじふろくにち)の辰刻(たつのこく)ばかり、平家(へいけ)また小船(こぶね)に乗(の)りて漕(こ)ぎ出(いだ)させ扇(あふぎ)を上(あ)げて

「源氏(げんじ)爰(ここ)を渡(わた)せ」

 とぞ招(まね)きける。

 佐々木(ささき)案内(あんない)はかねて知(し)たり。

 滋目結(しげめゆひ)の直垂(ひたたれ)に黒糸威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、白蘆毛(しらあしげ)なる馬(むま)に乗(の)り、家子郎等(いへのこらうどう)七(しち)騎(き)颯(さつ)と打(う)ち入(はい)って渡(わた)しけり。

 大将軍(たいしやうぐん)参河(みかは)守(かみ)、

「あれ制(せい)せよ、留(と)めよ」

 とのたまへば、土肥次郎(どひのじらう)実平(さねひら)、鞭鐙(むちあぶみ)を合(あ)せて追(お)ひ付(つ)いて、

「いかに佐々木(ささき)殿(どの)、物(もの)の著(つ)いて狂(くる)ひたまふか。大将軍(たいしやうぐん)の許(ゆる)されもなきに、狼藉(らうぜき)なり留(とど)まりたまへ」

 といひけれども、耳(みみ)にも聞(き)入(い)れず、渡(わた)しければ、土肥次郎(どひのじらう)も制(せい)しかねて、やがて連(つら)れてぞ渡(わた)しける。

 馬(むま)のくさわき胸(むね)懸(か)づくし、太腹(ふとばら)につく所(ところ)もあり、鞍壺(くらつぼ)越(こ)す所(ところ)もあり、深(ふか)き所(ところ)は游(およ)がせ浅(あさ)き所(ところ)に打(う)ちあがる。

 大将軍(たいしやうぐん)参河(みかは)守(かみ)これを見(み)て、

「佐々木(ささき)に謀(たばか)られにけり。あさかりけるぞや。渡(わた)せや、渡(わた)せ」

 と下知(げぢ)せられければ、三万余騎(さんまんよき)の大勢(おほぜい)皆(みな)打(う)ち入(はい)って渡(わた)しけり。

 平家(へいけ)の方(かた)には

「あはや」

 とて、船(ふね)ども押(お)し浮(う)かべ矢(や)先(さき)を汰(そろ)へて、指(さ)し詰(つ)め引(ひ)き詰(つ)め散々(さんざん)に射(い)る。

 源氏(げんじ)の兵(つはもの)ども、これを事(こと)どもせず、甲(かふ)のしころを傾(かたぶ)け、平家(へいけ)の舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)り乗(の)り移(うつ)りをめき叫(さけ)んで責(せ)め戦(たたか)ふ。

 源平(げんぺい)乱(みだ)れ合(あ)ひ、或(あるい)は舟(ふね)踏(ふ)みしづめて死(し)ぬる者(もの)もあり。

 或(あるい)は引(ひ)返(かへ)されて遽(あわ)ふためく者(もの)もあり。

 一日(いちにち)戦(たたか)ひ暮(く)らして夜(よ)に入(い)りければ、平家(へいけ)の舟(ふね)は沖(おき)に浮(うか)ぶ。

 源氏(げんじ)は小(こ)島(しま)に打(う)ち上(あ)げて、人馬(じんば)の息(いき)をぞ休(やす)めける。

 あけければ平家(へいけ)は八島(やしま)へ漕(こ)退(の)く。

 源氏(げんじ)は心(こころ)は猛(たけ)う思(おも)へども、舟(ふね)なければ、追(お)ひて責(せ)め戦(たたか)はず。

「昔(むかし)より今(いま)にいたるまで馬(むま)にて河(かは)を渡(わた)す兵(つはもの)はありといへども、馬(むま)にて海(うみ)を渡(わた)す事(こと)、天竺(てんぢく)震旦(しんだん)は知(し)らず我朝(わがてう)には稀代(きたい)のためしなり」

 とて、備前(びぜん)の小(こ)島(しま)をぞ佐々木(ささき)にたまはりける鎌倉殿(かまくらどの)の御教書(みぎやうしよ)にも載(の)られたり。

大嘗会沙汰

 同(どう)二十七日(にじふしちにち)、都(みやこ)には九郎(くらう)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、検非違使(けびゐし)五位尉(ごゐのじよう)になされて、九郎(くらう)大夫判官(だいぶはうぐわん)とぞ申(まう)しける。

 さるほどに十月(じふぐわつ)にも成(な)りぬ。

 八島(やしま)には浦(うら)吹(ふ)く風(かぜ)も烈(はげし)しく、磯打(いそう)つ波(なみ)も高(たか)かりければ、兵(つはもの)も攻(せ)め来(き)らず、商客(しやうかく)の行(ゆ)通(かよ)ふも稀(まれ)なれば、都(みやこ)の伝(つて)も聞(き)きまほしく、何(なに)しか空(そら)かき曇(くも)り、霰(あられ)打(う)ち散(ち)り、いとど消(き)え入(い)る心地(ここち)ぞしたまひける。

 都(みやこ)には大嘗会(だいじやうゑ)あるべしとて御禊(ごけい)の行幸(ぎやうかう)ありけり。

 内弁(ないべん)は徳大寺(とくだいじ)左大将(さだいしやう)実定(さねさだ)公(こう)、その比(ころ)内大臣(ないだいじん)にておはしけるが勤(つと)められけり。

 おととし先帝(せんてい)の御禊(ごけい)の行幸(ぎやうかう)には、平家(へいけ)の内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、節下(せつか)にておはせしが節下(せつか)の幄屋(あくのや)につき、前(まへ)に竜(りう)の旗(はた)立(た)て居(ゐ)たまひたりし景気(けいき)、冠際(かんむりぎは)、袖(そで)のかかり、表袴(うへのはかま)のすそまでも、殊(こと)に勝(まさ)れて見(み)えたまへり。

 その外(ほか)一門(いちもん)の人々(ひとびと)三位(さんみ)中将(ちゆうじやう)知盛(とももり)、頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)以下(いげ)近衛司(このゑづかさ)、御綱(みつな)に候(さうら)はれしには、また立(た)並(なら)ぶ人(ひと)も無(な)しぞかし。

 今日(けふ)は九郎(くらう)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、先陣(せんぢん)に供奉(ぐぶ)す。

 木曽(きそ)などには似(に)ず、京慣(きやうな)れてはありしかども、平家(へいけ)の中(なか)のえりくづよりもなほ劣(おと)れり。

 同(どう)十一月(じふいちぐわつ)十八日(じふはちにち)大嘗会(だいじやうゑ)遂行(つひおこな)はる。

 去(さ)ぬる治承(ぢしやう)養和(やうわ)の比(ころ)より、諸国(しよこく)七道(しちだう)の人民(じんみん)百姓(ひやくせい)等(ら)、源氏(げんじ)の為(ため)に悩(なや)まされ平家(へいけ)の為(ため)に亡(ほろ)ぼされ、家(いへ)かまどを棄(す)て山林(さんりん)にまじはり、春(はる)は東作(とうさく)の思(おも)ひを忘(わす)れ、秋(あき)は西収(せいしう)の営(いとなみ)にも及(およ)ばず。

 いかにしてかやうの大礼(たいれい)も行(おこな)はるべきなれども、さてしもあるべき事(こと)ならねば、形(かた)の如(ごと)くぞ遂(と)げられける。

 参河(みかは)守(かみ)範頼(のりより)、やがて続(つづ)いて責(せ)めたまはば、平家(へいけ)は亡(ほろ)ぶべかりしに、室(むろ)、高砂(たかさご)に休(やす)み居(ゐ)て、遊君遊女(いうくんいうぢよ)ども召(め)し聚(あつ)め、遊(あそ)び戯(たはぶ)れてのみ月日(つきひ)を送(おく)られけり。

 東国(とうごく)の大名小名(だいみやうせうみやう)多(おほ)しといへども、大将軍(たいしやうぐん)の下知(げぢ)に従(したが)ふ事(こと)なれば力(ちから)及(およ)ばず。

 ただ国(くに)の費(つひ)え民(たみ)の煩(わづら)ひのみあって、今年(ことし)も既(すで)に暮(く)れにけり。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

PR

目次