目次
首渡
寿永三年二月七日、摂津国一谷にて討たれし平氏の頸ども十二日に都へ入る。
平家に結ぼほれたる人々は、我方様に、いかなる憂目をか見んずらんと嘆きあひ悲しみあへり。
中にも大覚寺に隠れ居たまへる小松三位中将維盛卿の北の方殊更覚束なく思はれける。
今度一谷にて一門の人々残り少なううたれたまひ、三位中将といふ公卿一人生捕にせられて上るなりと聞きたまひ、この人離れじ物をとて、引き覆ひてぞ伏したまふ。
或女房の出来て申しけるは、
「三位中将殿と申すは、これの御事にて候はず。本三位中将殿の御事なり」
と申しければ、
「さては頸どもの中にこそあるらめ」
とて、なほ心安くも思ひたまはず。
同じき十三日、大夫判官仲頼、六条河原に出で向きて、頸ども請け取る。
東洞院の大路を北へ渡して、獄門の木に懸けらるべき由、蒲冠者範頼九郎冠者義経奏聞す。
法皇この条いかがあるべからむとおぼしめし煩ひて、太政大臣、左右の大臣、内大臣、堀河大納言忠親卿におほせ合せらる。
五人の公卿申されけるは、
「昔より卿相の位に上るものの頸、大路を渡さるる事先例なし。就中、この輩は先帝の御時戚里の臣として、久しく朝家に仕へつる。範頼義経が申状、あながち御許容あるべからず」
とおのおの一同に申されければ、渡さるまじきにてありけるを、範頼義経重ねて奏聞しけるは、
「保元の昔を思へば、祖父為義が讐、平治の古を案ずれば、父義朝が敵なり。君の御憤を息め奉り、父祖の恥を雪めんが為に命を棄て、朝敵を滅す。今度平氏の頸ども、大路を渡されずば、自今以後何のいさみあってか、凶賊を退けんや」
と、両人頻りに訴へ申す間、法皇力及ばせたまはで、つひに渡されけり。
見る人幾等といふ数を知らず。
帝闕に袖をつらねし古へは、恐怖るる輩多かりき。
巷に首を渡さるる今は哀み悲しまずといふ事なし。
小松三位中将維盛卿の若君六代御前に付きたてまつりたる斎藤五、斎藤六、あまりの覚束なさに、様を窶して見ければ、頸どもは見知り奉りたれども、三位中将殿の御頸は見えたまはず。
されどもあまりに悲しくて、つつむに堪へぬ涙のみ滋かりければ、よその人目も怖ろしさに、急ぎ大覚寺へぞ参りける。
北方、
「さていかにやいかに」
と問ひたまへば、
「小松殿の君達には備中守殿の御頸ばかりこそ見えさせたまひ候つれ。その外はそんぢやうその頸その御頸」
と申しければ、
「いづれも人の上とも覚えず」
とて、涙に咽びたまひけり。
しばらくあって、斎藤五涙を抑へて申しけるは、
「この一両年は隠居候て、人にもいたく見知れ候はず。今暫くも見参すべう候つれども、よにくはしう案内知り参らせたる者の申し候つるは、『小松殿の君達は今度の合戦には、播磨と丹波の境で候なる三草山を固めさせたまひて候けるが、九郎義経に破られて、新三位中将殿、小松少将殿、丹波侍従殿は、播磨の高砂より御船に召して、讃岐の八島へ渡らせたまひて候なり。何として離れさせたまひて候けるやらん。御兄弟の御中に備中守殿ばかり一谷にて討たれさせたまひて候』と申す者にこそ逢ひて候つれ。『さて三位中将殿の御事はいかに』と問ひ候つれば、『それは軍已前より大事の御いたはりとて、八島に御渡候間、この度は向はせたまひ候はず』と、細々とこそ申し候つれ」
と申しければ、
「そのも我等が事をあまりに思ひ嘆きたまふが、病と成りたるにこそ。風の吹く日は今日もや船に乗りたまはらんと肝を消し、軍といふ時は、ただ今もや討たれたまはらんと心を尽くす。ましてさやうのいたはりなんどをも、誰か心安うも扱ひ奉るべき。委しく聞かばや」
とのたまへば、若君姫君
「など何の御いたはりとは問はざりけるぞ」
とのたまひけるこそあはれなれ。
三位中将も、通ふ心なれば、
「都にいかに覚束なく思ふらん、頸どもの中にはなくとも、水に溺れても死に、矢に当たりても失せぬらん、この世に在る者とは、よも思はじ。露の命のいまだながらへたると知らせ奉らばや」
とて、侍一人したてて都へのぼらせけり。
三の文をぞ書かれける。
まづ北方への御文には、
「都には敵満々て、御身一の置所だにあらじに、幼き者ども引き具して、いかにかなしう覚すらん。これへ迎へ奉りて、一所でいかにもならばやとは思へども、我身こそあらめ、御為こころぐるしくて」
など、細々と書き続け、奥に一首の歌ぞありける。
いづくとも知らぬ逢せの藻塩草、かきおくあとを形見とも見よ。
少なき人々の御許へは、
「つれづれをばいかにしてか慰みたまふらん。急ぎ迎へ取らんずるぞ」
と、言の葉もかはらず書いて上せられけり。
この御文どもをたまはって使都へ上り、北方に御文参らせたりければ、今更また嘆き悲しみたまひけり。
使四五日候て暇申す。
北方泣く泣く御返事かきたまふ。
若君姫君筆をそめて、
「さて父御前の御返事は何と申すべきやらん」
と問ひたまへば、
「ただともかうも和御前達の思はん様に申すべし」
とこそのたまひけれ。
「などや今まで迎へさせたまはぬぞ、あまりに恋しく思ひ参らせ候に、とくとく迎へさせたまへ」
と、同じ言葉にぞかかれたる、この御文どもをたまはって、使八島に帰りまゐる。
三位中将殿まづ少なき人々の御文を御覧じてこそ、弥詮方なげには見えられけれ。
「抑これより穢土を厭ふに勇なし。閻浮愛執の綱つよければ、浄土を願ふも懶し。ただこれより山伝ひに都へ上りて恋しき者どもを今一度見もし見えて後、自害をせんにはしかじ」
とぞ、泣く泣く語りたまひける。
内裏女房
同じき十四日、生捕本三位中将重衡卿、六条を東へわたされけり。
小八葉の車に前後の簾を上げ、左右の物見を開く。
土肥次郎実平、木蘭地の直垂に小具足許して、随兵三十余騎、車の前後に打ち囲んで守護し奉る。
京中の貴賤これを見て、
「あないとほし、いかなる罪の報いぞや。いくらもまします君達の中に、かくなりたまふ事よ。入道殿にも二位殿にも、おぼえの御子にてましまししかば、御一家の人々も重き事に思ひ奉りたまひしぞかし。院へも内へも参りたまひし時は、老いたるも若きも、所をおきて持ち成し奉りたまひしものを。これは南都を滅したまへる伽藍の罰にこそ」
と申しあへり。
河原まで渡されて、かへて、故中御門藤中納言家成卿の八条堀河の御堂に据ゑ奉って、土肥次郎守護し奉る。
院御所より御使に蔵人左衛門権佐定長、八条堀河へ向はれけり。
赤衣に剣笏をぞ帯したる。
三位中将は、紺村濃の直垂に、立烏帽子引き立てておはします。
日頃は何とも思はれざりし定長を、今は冥途にて罪人どもが、冥官に逢へる心地ぞせられける。
おほせ下されけるは、
「八島へ帰りたくば、一門の中へ言ひ送って、三種神器を都へ返し入れ奉れ。然らば八島へ返さるべきとの御気色で候」
と申す。
三位中将申されけるは、
「重衡千人万人が命にも、三種の神器を替へ参らせんとは内府已下一門の者ども一人もよも申し候はじ。もし女性にて候へば、母儀の二品なんどや、さも申し候はんずらん。さは候へども居ながら院宣を返し参らせん事、その恐も候へば、申し送ってこそ見候はめ」
とぞ申されける。
御使は、平三左衛門重国、御坪の召次花方とぞ聞こえし。
私の文は容れねば、人々の許へも詞にて言づけたまふ。
北方大納言佐殿へも、御詞にて申されけり。
「旅の空にても、人は我に慰み、我は人に慰み奉りしに、引別れて後、いかに悲しうおぼすらん。契りは朽ちせぬものと申せば、後の世には必ず生まれあひ奉らん」
と、泣く泣く言づけたまへば、重国も、涙を抑へて立ちにけり。
三位中将の年ごろ召し仕はれける侍に木工右馬允知時といふ者あり。
八条女院に候けるが、土肥次郎が許に行き向きて、
「これは中将殿に先年召し仕はれ候し某と申す者にて候が、西国へも御供仕るべき由存じ候しかども、八条の女院に兼参の者にて候間、力及ばで罷り留まりて候が、今日大路で見参らせ候へば、目も当られず、いとほしう思ひ奉り候。然るべう候はば御許されを蒙りて、近付き参り候て、今一度見参に入り、昔語をも申して、なぐさめ参らせばやと存じ候。させる弓矢取る身で候はねば、軍合戦の御供を仕りたる事も候はず、ただ朝夕祇候せしばかりで候き。さりながらなほ覚束なうおぼしめし候はば、腰の刀を召し置かれて、まげて御許されを蒙り候はばや」
と申せば、土肥次郎情ある男士にて、
「御一人ばかりは何事か候べき。さりながらも」
とて、腰の刀を乞ひ取って入ってけり。
右馬允斜めならず悦んで、急ぎ参りて見奉れば、まことに思ひ入れたまへると覚しくて、御姿もいたくしをれ返りて居たまへる御有様を見奉るに、知時涙も更に抑へ難し。
三位中将もこれを御覧じて夢に夢見る心地して、とかうの事ものたまはず。
ただ泣くより外の事ぞなき。
やや久しうあって、昔今の物語どもしたまひて後、
「さてもなんぢして物言ひし人は、いまだ内裏にとや聞く」
「さこそ承り候へ」
「西国へ下りし時、文をもやらず、いひおく事だになかりしを、世々の契りは、皆偽にてありけりと思ふらんこそ慚かしけれ。文をやらばやと思ふはいかに、尋ねて行ってんや」
とのたまへば、
「御文をたまひて参り候はん」
と申す。
中将斜めならず悦びて、やがて書いてぞたうだりける。
守護の武士ども、
「いかなる御文にて候やらん。出し参らせじ」
と申す。
中将
「見せよ」
とのたまへば、見せてけり。
「苦しう候まじ」
とて、取らせけり。
知時持ちて、内裏へ参りたりけれども、昼は人目の繁ければ、その辺近き小屋に立ち入って、日を待ち暮らし、局の下口辺にたたずんで聞けば、この人の声と覚しくて、
「いくらもある人の中に三位中将しも生捕にせられて大路を渡さるる事よ。人は皆奈良を焼いたる罪の報と言ひあへり。中将も、さぞいひし。『我心に起きては焼かねども、悪党多かりしかば、手々に火を放って、おほくの堂塔を焼き払ふ。末の露、本の雫となるなれば、我一人が罪にこそならんずらめ』といひしが、げにさと覚ゆる」
と掻き口説きさめざめとぞ泣かれける。
右馬允、これにも思はれけるものをといとほしくおぼえて、
「物申さう」
といへば、
「いづくより」
と問ひたまふ。
「三位中将殿より御文の候」
と申せば、年ごろは恥ぢて見えたまはぬ女房の、せめての思ひのあまりにや
「いづらやいづら」
とて走り出でて、手づから文を取って見たまへば、西国よりとられてありし有様、今日明日とも知らぬ身の行末など、細々と書き続け、奥には一首の歌ぞありける。
涙川うき名をながす身なりとも、今一度のあふせともがな。
女房これを見たまひて、とかうの事をものたまはず、文を懐に引き入ってただ泣くより外の事ぞなき。
やや久しうあって、さてもかくあるならねば、御返事あり。
心苦しういぶせくて、二年をおくりつる心の中を書きたまひて、
君ゆゑに我もうき名を流すとも、底のみくづとともになりなん。
知時持ちて、参りたり。
守護の武士ども、また
「見参らせ候はん」
と申せば、見せてけり。
「苦しう候まじ」
とて奉る。
三位中将これを見て、弥思ひや増さりたまひけん、土肥次郎にのたまひけるは、
「年ごろ相具したりし女房に、今一度対面して、申したき事のあるはいかがすべき」
とのたまへば、実平情ある士にて、
「まことに女房などの御事にて渡らせたまひ候はんはなじかは苦う候べき」
とて許し奉る。
中将斜めならず悦びて、人に車借りて迎へに遣したりければ、女房取りもあへず、これに乗りてぞおはしける。
縁に車をやり寄せてかくと申せば、中将車寄に出で迎ひたまひ、
「武士どもの見奉るに、下させたまふべからず」
とて、車の簾を打ちかつぎ、手に手を取組み、顔に顔を推し当てて、暫しは物ものたまはず、ただ泣くより外の事ぞなき。
やや久しうあって、中将のたまひけるは、
「西国へ下りし時も、今一度見参らせたう候しかども、大形の世の騒がしさに申すべき便もなくて、罷下り候ぬ。その後はいかにもして御文をも参らせ、御返り事をも承はりたう候しかども、心に任せぬ旅の習ひ、明け暮れの軍に隙なくて、空しく年月を送り候き。今また人知らぬ有様を見候は再あひ奉るべきで候けり」
とて、袖を顔に推し当ててうつぶしにぞなられける。
互の心の中、推量られてあはれなり。
かくて小夜も半ばになりければ、
「このごろは大路の狼藉に候に、疾々」
と返し奉る。
車遣り出だせば、中将別れの涙を押へて泣く泣く袖を引きへつつ、
あふ事も露の命も諸共に、今宵ばかりやかぎりなるらん。
女房涙を押へつつ、
かぎりとてたちわかるれば露の身の、君よりさきに消えぬべきかな。
さて女房は内裏へ参りたまひぬ。
その後は守護の武士どもゆるさねば、力及ばず、時々御文計ぞ通りける。
この女房と申すは、民部卿入道親範の女なり。
眉目貌世に勝れ、情け深き人なり。
中将南都へ渡されて、斬られたまひぬと聞こえしかば、やがて様を替へ、濃き墨染にやつれ果て、かの後世菩提を弔はれけるこそ哀れなれ。
八島院宣
さるほどに平三左衛門重国、御坪の召次花方、八島に参りて、院宣をたてまつる。
大臣殿以下一門の月卿雲客寄り合ひたまひて、院宣を開かれけり。
一人聖体、北闕の宮禁を出で、諸州に幸し、三種の神器、南海四国に埋もれて、数年を経、九廟朝家の嘆き、亡国の基なり。
抑かの重衡卿は、東大寺焼失の逆臣なり。
すべからく頼朝の朝臣申請くる旨に任せて、死罪に行はるべしといへども、独親族に別れて、既に生捕となる。
籠鳥雲を恋ふる思ひ、遥に千里の南海に浮かび、帰雁友を失ふ心、定めて九重の中途に通ずらんや。
然則三種の神器を返しいれ奉らんに於ては、かの卿を寛宥せらるべきなりてへり、院宣この如し。
仍執達如件。
寿永三年二月十四日大膳大夫成忠が奉る、進上平大納言殿へとぞ書かれたる。
請文
大臣殿、平大納言の許へは院宣の趣を申したまふ。
二位殿へは御文細々と書いて参らせられたり。
「今一度御覧せんとおぼしめし候はば内侍所の御事を大臣殿によくよく申させおはしませ。さ候はではこの世にて見参に入るべしとも覚え候はず」
などぞ書かれたる。
二位殿はこれを見たまひて、とかうの事ものたまはず、文を懐に引き入ってうつぶしにぞなられける。
まことに心の中さこそおはしけめと推量られて哀なり。
さるほどに平大納言時忠卿をはじめとして平家一門の公卿殿上人寄り合ひたまひて御請文の趣僉議せらる。
二位殿は中将の文を顔に推し当てて、人々の並び居たまへる後の障子を引き開けて、大臣殿の御前に倒れ臥し、泣く泣くのたまひけるは、
「あの中将が京より言ひおこしたる事の無慙さよ。げにも心の中にいかばかりの事をか思ひ居たるらん。ただ我に思ひ許して内侍所を、都へ返し入れ奉れ」
とのたまへば、大臣殿
「まことに宗盛もさこそは存じ候へども、さすが世の聞こえもいふがひなう候。かつは頼朝が思はん事もはづかしう候へば、左右なう内侍所を返し入れ奉る事は叶ひ候まじ。その上帝王の世を保たせたまふ御事は、偏に内侍所の御故なり。子の悲しいも様にこそ依り候へ。かつは中将一人に余の子ども親しい人々をばおぼしめし替へさせたまふべきか」
と申されければ、二位殿重ねてのたまひけるは、
「故入道におくれて後は、かた時も命生きて在るべしとも思はざりしかども、主上かやうにいつとなく、旅だたせたまひたる御事の御心苦しさ、また君をも御代にあらせ参らせばやと思ふ故にこそ今までもながらへて在りつれ。中将一谷で生捕にせられぬと聞きし後は肝魂も身に副はず、いかにもしてこの世にて今一度あひ見るべきと思へども、夢にだに見えねば、いとどむねせきて、湯水も喉へ入らず。今この文を見て後は、弥思ひ遣りたる方もなし。中将世になき者と聞かば、我も同じ道に赴かんと思ふなり。再び物を思はせぬ先に、ただ我を失ひたまへ」
とて、喚き叫びたまへば、まことにさこそは思ひたまはらめとあはれに覚えて、人々涙を流しつつ皆伏目にぞなられける。
新中納言知盛の意見に申されけるは、
「三種の神器を都へ返し入れ奉りたりとも、重衡を返したまはらん事有りがたし。ただ憚りなくその様を、御請文に申さるべうや候らん」
と申されければ、大臣殿
「この儀もっとも然るべし」
とて、御請文申されけり。
二位殿は泣く泣く中将の御返事かきたまひけるが、涙にくれて、筆の立つ所も覚えねども、志をしるべにて御文細々と書いて重国にたびにけり。
北方大納言佐殿は、ただ泣くより外の事なくて、つやつや御返事もしたまはず。
まことに御心の中さこそは思ひたまはらめと推量られてあはれなり。
重国も狩衣の袖を絞りつつ泣く泣く御前を罷り立つ。
平大納言時忠は御坪召次花方を召して、
「なんぢは花方か」
「さん候」
「法皇の御使に、多くの浪路を凌いで、これまで参りたるに一期が間の思ひ出一つあるべし」
とて花方が面に、浪方といふ焼験をぞせられける。
都へ上りければ、法皇これを御覧じて、
「よしよし力およばず、浪方とも召せかし」
とてわらはせおはします。
今月十四日の院宣、同二十八日、讃岐国八島の磯に到来、謹以承る所如件。
ただしこれに就きてかれを案ずるに、通盛卿以下、当家数輩摂州一谷にして、既に誅せられ畢んぬ。
何ぞ重衡一人が寛宥を悦べきや。
夫我君は、故高倉院の御譲を請けさせたまひて、御在位既に四箇年、尭舜の古風を訪ふ処に、東夷北狄党を結び、群をなして入洛の間、かつは幼帝母后の御嘆尤深く、かつは外戚近臣の憤り浅からざるに依りて、暫く九国に幸す。
還幸なからんにおいては、三種の神器、争か玉体を放ち奉るべきや。
それ臣は君を以て心とし、君は臣を以て体とす。
君安ければ則ち臣安く、臣安ければ即ち国安し。
君上に愁ふれば、臣下に楽しまず。
心中に愁ふれば、体外に悦びなし。
曩祖平将軍貞盛、相馬小次郎将門を追討せしより以降、東八箇国を鎮めて、子々孫々に伝へ、朝敵の謀臣を誅罰して代々世々に至るまで、朝家の聖運を守り奉る。
然則亡父故太政大臣、保元平治両度の合戦の時、勅命を重しして私の命を軽んず。
偏に君の為にして、身のためにせず。
就中、かの頼朝は、去平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反に依りて、頻りに誅伐せらるべき由おほせ下さるといへども故入道相国慈悲のあまり、申し宥められし処なり。
然るに、昔の洪恩を忘れ芳意を存ぜず、たちまちに狼贏の身を以て猥に蜂起の乱をなす、至愚の甚だしき事申すも余あり。
早く神明の天罰を招き、竊に敗績の損滅を期する者歟。
夫日月は、一物のためにその明なる事を暗うせず。
明王は、一人が為にその法を枉げず。
一悪をもてその善をすてず、少瑕をもてその功をおほふことなかれ。
かつは当家数代の奉公、かつは亡父数度の忠節、おぼしめし忘れずば君忝なくも四国の御幸あるべき歟。
時に臣等院宣を承はり、再旧都に帰りて、会稽の恥を雪がん。
もし然らずば、鬼界、高麗、天竺、震旦にいたるべし。
悲しいかな。
人王八十一代の御宇に当て、我朝神代の霊宝、つひに空しく異国の宝となさんか。
宜しくこれらの趣を以て、然るべき様に洩らし奏聞せしめたまへ。
宗盛まこと恐頓首謹言。
寿永三年二月二十八日従一位平朝臣宗盛が請文とこそ書かれたれ。
戒文
三位中将これを聞きて、
「さこそは有らむずれ。いかに一門の人々悪く思ひけん」
と、後悔すれどもかひぞなき。
げにも重衡卿一人を惜しみて、さしもの我朝の重宝三種の神器を、返し入れ奉るべしとも覚えねば、この御請文の趣は、兼ねてより思ひ設けられたりしかども、いまだ左右を申されざりつるほどは、何となういぶせく思はれけるに、請文既に到来して、関東へ下向せらるべきに定まりしかば、何の憑も弱り果て万心細う都の名残も今更惜しく思はれける。
三位中将土肥次郎を召して、
「出家をせばやと思ふはいかがあるべき」
とのたまへば、実平この由を九郎御曹司に申す。
院御所へ奏聞せられたりければ、
「頼朝に見せて後こそ、ともかうも計らはめ。ただ今は争か許すべき」
とおほせければ、この由を申す。
「さらば年来契りたりし聖に、今一度対面して、後世の事を申し談ぜばやと思ふはいかがすべき」
とのたまへば、
「聖をば誰と申し候やらん」
「黒谷の法然房と申す人なり」
「さては苦しう候まじ」
とて許し奉る。
中将斜めならず悦びて、聖を請じ奉りて、泣く泣く申されけるは、
「今度生ながら捕られて候けるは、再上人の見参に罷り入るべきで候けり。さても重衡が後生いかがし候べき。身の身にて候しほどは、出仕に紛れ、政務にほだされ、憍慢の心のみ深くして却て当来の昇沈を顧みず。況や運尽き世乱れてより以来は、ここに戦ひ、かしこに争ひ、人を滅し身を助けらんと思ふ悪心のみ濃くて、善心はかつて起こらず。就中に南都炎上の事は、王命といひ武命といひ、君に仕へ世に随ふ法遁れがたくして、衆徒の悪行を静めんが為に罷り向きて候しほどに、不慮に伽藍の滅亡に及び候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大将軍にて候ひし上は、責め一人に帰すとかや申し候なれば、重衡一人が罪業にこそなり候ぬらめと覚え候。かつはかやうに人しれずかれこれ恥をさらし候もしかしながらその報とのみこそ思ひ知られて候へ。今は首を剃り戒を持ちなんどして偏に仏道修行したう候へども、かかる身に罷り成りて候へば、心に心をもまかせ候はず。今日明日とも知らぬ身の行末にて候へば、いかなる行を修しても、一業助かるべしとも覚えぬこそ口惜う候へ。倩一生の化行を思ふに、罪業は須弥よりも高く、善業は微塵ばかりも蓄へなし。かくて空しく命終らば、火血刀の苦果、敢て疑なし。願はくは上人慈悲を発し、憐を垂れて、かかる悪人の助かりぬべき方法候はば、示したまへ」
その時上人涙に咽びて、暫くは物ものたまはず。
しばらくしうあって、
「まことに受け難き人身を受けながら、空しう三途に帰りたまはん事、悲しんでもなほ余あり。然るを今穢土を厭ひ、浄土を願はんに、悪心を捨てて善心を発しましまさん事、三世の諸仏も定めて随喜したまふらん。それについて出離の道まちまちくなりといへども末法濁乱の機には、称名を以て勝れたりとす。志を九品に分ち、行を六字に縮めて、いかなる愚痴闇鈍の者も唱ふるに便あり。罪深ければとて、卑下したまふべからず。十悪五逆回心すれば往生を遂ぐ。功徳少なければとて、望みを絶ゆべからず。一念十念の心を致せば来迎す。専称名号至西方を釈して、専名号を称すれば、西方に至る。念々称名常懺悔と演べて、念々に弥陀を唱れば、懺悔するなりと教へたり。利剣即是弥陀号を演べれば、魔縁近づかず。一声称念罪皆除と念ずれば、罪皆除けりと見えたり。浄土宗の至極、各略を存して、大略これを肝心とす。但往生の得否は、信心の有無に依べし。ただ深く信じてゆめゆめ疑をなしたまふべからず。もしこの教を深く信じて行住坐臥時処諸縁を嫌はず三業四威儀に於て、心念口称を忘れたまはずば、聖命を期として、この苦域の界を出で、かの不退の土に往生したまはん事、何の疑かあらむや」
と教化したまひければ、中将斜めならず悦びて、
「この次に戒を持たばやと存じ候は、出家仕らでは叶候まじや」
と申されければ、
「出家せぬ人も、戒を持つ事は世の常の習ひなり」
とて、額に剃刀をあててそるまねをして、十戒を授けられければ、中将随喜の涙を流いて、これを受け保ちたまふ。
上人も万物哀に覚えて、掻き暗す心地して、泣く泣く戒をぞ説かれける。
御布施と覚しくて、年ごろ常におはして遊ばれける侍の許に預け置かれける御硯を、知時して召し寄せて、上人に上り、
「これをば人にたび候はで、常に御目のかかり候はん所に置かれ候て、某が物ぞかしと、御覧ぜられ候はん度ごとにおぼしめしなずらへて御念仏候べし。御隙には経をも一巻、御廻向候はば然るべう候べし」
など泣く泣く申されければ、上人とかうの返事にも及ばず、これを取って懐に入れ、墨染の袖を絞りつつ泣く泣く帰りたまひけり。
この硯は、親父入道相国砂金を多く宋朝の御門へ奉りたまひたりければ返報と覚しくて、日本和田の平大相国の許へとて、送られたりけるとかや。
名をば松蔭とぞ申しける。
海道下
さるほどに、本三位中将をば、鎌倉前兵衛佐頼朝、頻りに申されければ、さらば下さるべしとて、土肥次郎実平が手より、先九郎御曹司の宿所へ渡し奉る。
同じき三月十日、梶原平三景時に具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。
西国より生捕にせられ、都へ返るだに口惜きに、今また関の東へ趣かれけん心の中、推量られて哀なり。
四宮河原に成りぬれば、爰は昔延喜第四の王子、蝉丸の、関の嵐に心を清まし、琵琶をひきたまひしに、博雅の三位といひし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も三年が間歩を運び、立ち聞きて、かの三曲を伝へけん藁屋の床の古へも、思ひ遣られて哀なり。
逢坂山を打ち越えて、勢多の唐橋駒もとどろに踏み鳴らし、雲雀あがれる野路の里、志賀の浦浪春かけて霞に曇る鏡山、比良の高峯をも北にして、伊吹の嵩も近付きぬ。
心をとむとしなけれども、荒れて中中優しきは、不破の関屋の板びさし、いかに鳴海の塩干潟、涙に袖はしをれつつ、かの在原のなにがしの、唐ころもきつつなれにしとながめけん参河国八橋にも成りぬれば、蛛手に物をと哀なり。
浜名の橋を渡りたまへば、松の梢に風冴えて、入江に噪ぐ浪の音、さらでも旅は物憂きに、心を尽くす夕間暮、池田の宿にも著きたまひぬ。
かの宿の長者の湯屋が娘、侍従が許に、その夜は宿せられけり。
侍従、三位中将を見奉りて、
「昔は伝にだにおぼしめし寄らざりしに、今日はかかる所にいらせたまふ不思議さよ」
とて、一首の歌をたてまつる。
旅の空埴生の小屋のいぶせさに、故郷いかに恋しかるらん。
三位中将返事には、
故郷もこひしくもなし旅の空、都もつひのすみかならねば。
中将
「やさしうもつかまつたるものかな。この歌の主はいかなる者やらん」
と御尋ありければ、景時畏まって申しけるは、
「君はいまにしろしめされ候はずや。あれこそ八島の大臣殿の当国の守で渡らせたまひ候し時、めされ参らせて、御最愛にて候しが、老母をこれに留め置、頻りに暇を申せども、たまはらざりければ、ころは三月の始めなりけるに、
いかにせん都の春もをしけれど、馴しあづまの花や散らん。
と仕りて、暇をたまひて下りて候ひし、海道一の名人にて候へ」
とぞ申しける。
都を出て日数歴れば、弥生も半過ぎ、春も既に暮なんとす。
遠山の花は残りの雪かと見えて、浦々島々かすみ渡り、こし方行末の事ども思ひ続けたまふに、
「さればこれはいかなる宿業のうたてさぞ」
とのたまひて、ただ尽せぬものは涙なり。
御子の一人もおはせぬ事を、母の二位殿も嘆き、北の方大納言佐殿も本意なき事にして、万の神仏に祈申されけれども、その験なし。
「賢うぞなかりける。子だにあらましかば、いかに心苦しかるらん」
とのたまひけるこそせめての事なれ。
佐夜中山にかかりたまふにも、また越ゆべしとも覚えねば、いとど哀れの数添へて、袂ぞいたく湿りまさる。
宇都の山辺の蔦の道、心細くも打ち越えて、手越を過ぎて行けば、北に遠去て、雪白き山あり。
問へば甲斐の白根といふ。
その時三位中将、落つる涙を押へてかうぞ思ひ続けたまふ。
惜しからぬ命なれども今日までに、強顔かひの白根をも見つ。
清見が関打ち過ぎて、富士のすそ野に成りぬれば、北には青山峨々として、松吹く風索々たり。
南には蒼海漫々として、岸うつ浪も茫々たり。
恋せばやせぬべし、こひせずともありけりと、明神の歌はしめたまひける足柄の山をも打ち越えて、こゆるぎの森、鞠子河、小磯、大磯の浦、やつまと、砥上が原、御輿が崎をも打ち過ぎて、急がぬ旅と思へども、日数やうやう重なれば、鎌倉へこそ入りたまへ。
千手前
兵衛佐急ぎ見参して申されけるは、
「抑君の御憤を息め奉り、父の恥を雪めんと思ひたちし上は、平家を滅さん事は案の内に候へども、正しく見参に入るべしとは存ぜず候き。このぢやうでは、八島の大臣殿の見参にも入ぬと覚え候。抑も南都を滅したまひける事は、故太政入道殿のおほせにて候しか。また時に取って御計にて候けるか。以外の罪業にこそ候なれ」
と申されければ、三位中将のたまひけるは、
「先づ南都炎上の事、故入道の成敗にもあらず、重衡が愚意の発起にもあらず。衆徒の悪行をしづめんが為に罷り向きて候しほどに、不慮に伽藍滅亡に及び候し事、力及ばぬ次第なり。昔は源平左右にあらそひて、朝家の御かためなりしかども、近ごろ源氏の運傾きたりし事は事新しう初めて申すべきにあらず。当家は保元平治より以来度々の朝敵を平らげ、勧賞身に余り、辱なく一天の君の御外戚として、一族の昇進六十余人、二十余年の以来は楽しみ栄え申すばかりなし。今また運尽きぬれば、重衡捕らはれてこれまで下り候ぬ。それについて帝王の御敵を討ちたる者は、七代まで朝恩つきせずと申す事は、究めたる僻事にて候けり。目のあたり故入道殿は、君の御為に既に命を失はんとする事度々に及ぶ。されども僅にその身一代の幸にて、子孫かやうに罷なるべしや。されば運尽きて都を出でし後は、尸を山野にさらし、名を西海の波に流すべしとこそ存ぜしが、これまで下るべしとは、かけても思はざりき。ただ先世の宿業こそ口惜しく候へ。但殷湯は夏台にとらはれ文王は羑里にとらはるといふ文あり。上古なほかくの如し。況や末代においてをや。弓矢をとる習ひ敵の手にかかりて命を失ふ事、またく恥にて恥ならず。ただ芳恩には、疾々かうべをはねらるべし」
とて、その後は物ものたまはず。
景時これを承って、
「あはれ大将軍や」
とて涙を流す。
その座に並び居たる人々皆袖をぞぬらしける。
兵衛佐も、
「平家を別れして私の敵と思ひ奉る事ゆめゆめ候はず。ただ帝王のおほせこそ重う候へ」
とぞのたまひける。
「南都を亡ぼしたる大伽藍の敵なれば、大衆定めて申す旨有らんずらん」
とて、伊豆国の住人狩野介宗茂に預けらる。
その体、冥土にて娑婆世界の罪人を、七日七日に十王の手へ渡さるらんも、かくやと覚えて哀なり。
されども狩野介、情ある者にて、いたくきびしうも当り奉らず、やうやうにいたはり湯殿しつらひなどして、御湯引かせ奉る。
道すがらの汗いぶせかりつれば、身を清めて失はんずるにこそと思はれけるに、齢二十計なる女房の、色白う清げにて、まことに優に美しきが、目結の帷に、染め付の湯巻して、湯殿の戸を推し開きて参りたり。
また暫くあって十四五許なる女の童の小村濃の帷きて髪は袙長なるが、楾盥に櫛入って持ちて参りたる。
この女房介錯にて、しばらく湯あみ髪洗などしてあがりたまひぬ。
さてかの女房暇申して帰りけるが、
「男などはこちなうもぞおぼしめす。中々女は苦からじとて、参らせられて候ふ。『何事でもおぼしめさん御事をば、承はって申せ』とこそ兵衛佐殿はおほせられ候つれ」
中将、
「今はこれほどの身になって、何事をか申し候べき。ただ思ふ事とては、出家ぞしたき」
とのたまひければ、帰参りて、この由を申す。
兵衛佐
「それ思ひも寄らず。頼朝が私の敵ならばこそ。朝敵として預かり奉りたる人なり。ゆめゆめあるべうもなし」
とぞのたまひける。
三位中将守護の武士にのたまひけるは、
「さてもただ今の女房は優なりつる者かな。名をば何といふやらん」
と問はれければ、
「あれは手越の長者が娘で候を、眉目形、心様優にわりなき者で候とて、この二三年召し仕はれ候が、名をば千手前と申し候」
とぞ申しける。
その夕雨少し降りて、万物蕭しかりけるに、件の女房琵琶琴もたせて参りたり。
狩野介酒をすすめて奉る。
我身も家子郎等十余人引き具して参り、御前近う候けり。
千手前酌をとる。
中将少しうけて、最興なげにておはしけるを、狩野介申しけるは、
「かつきこしめされてもや候らん。鎌倉殿の『相構へてよくよく慰め参らせよ。懈怠して頼朝恨むな』とおほせられ候宗茂は、伊豆国の者にて候間、鎌倉では旅にて候へども、心の及ばんほどは奉公仕り候べし。何事でも申してすすめ参させたまへ」
と申しければ、千手酌を差し置て、
「羅綺の重衣たる情ない事を機婦にねたむ」
といふ朗詠を一両返したりければ、三位中将のたまひけるは、
「この朗詠せん人をば、北野天神一日に三度翔て守らんと誓はせたまふなり。されども重衡はこの世では捨てられ奉りぬ。助音しても何かせん。罪障軽みぬべき事ならば、随ふべし」
とぞのたまひければ、千手前やがて
「十悪しといへども引摂す」
といふ朗詠をして、
「極楽願はん人は、皆弥陀の名号唱ふべし」
といふ今様を四五返うたひすましたりければ、その時盃を傾けらる。
千手前たまはって狩野介にさす。
宗茂かのむ時に、琴をぞ弾きすましたりける。
三位中将のたまひけるは、
「この楽をば普通には五常楽といへども、重衡が為には、後生楽とこそ観ずべけれ」
やがて往生の急を引むと戯れて琵琶を取り、てんじゆをねぢて、皇麞急をぞ引ける。
夜やうやう深くて、万づ心のすむ儘に
「あら思はずや、吾妻にもこれほど優なる人のありけるよ、何事にても今一声」
とのたまへば千手前また
「一樹の陰に宿り合ひ、同じ流を掬ぶも、皆これ前世の契」
といふ白拍子を、まことに面白くかぞへすましたりければ、中将も
「灯暗しては数行虞氏の涙」
といふ朗詠をぞせられける。
たとへばこの朗詠の心は、昔唐土に、漢高祖と楚項羽と位を争ひて、合戦する事七十二度、戦毎に項羽勝ちにけり。
されどもつひには、項羽戦ひ負けて亡びける時、騅といふ馬の一日に千里を飛ぶに乗りて、虞氏といふ后と共に逃げさらんとしけるに、馬いかが思ひけん、足をそのへて動かず。
項羽涙を流いて、
「我が威勢既に廃れたり。今は逃るべき方なし。敵の襲ふは事の数ならず、この后に別なん事のかなしさよ」
とて終夜嘆き悲しみたまひけり。
灯暗なりければ心細うて虞氏涙を流す。
夜深くる儘に、軍兵四面に閧を作る。
この心を橘相公の賦に作るを、三位中将思ひ出されたりしにや、最優うぞ聞こえける。
さるほどに夜も明ければ、武士ども暇申して罷出づ。
千手前も帰りにけり。
その朝兵衛佐殿折節、持仏堂に法華経読んでおはしける処へ、千手前参りたり。
兵衛佐殿うちゑみたまひて、
「千手に中人をば面白もしたるものかな」
とのたまへば、斎院次官親義、折節御前に物かいて候けるが、
「何事で候けるやらん」
と申す。
「あの平家の人々は甲冑弓箭の外は他事なしとこそ日ごろは思ひたれば、この三位中将の琵琶の撥音、口ずさみ、終夜立ち聞きて候に、優にわりなき人にておはしけり」
親義申しけるは、
「誰も夜部承はるべう候しが、折節いたはる事候て、承らず候。こののちは常に立ち聞き候べし。平家は本より代々の歌人才人達で候なり。先年この人々を花に譬へ候しに、この三位中将殿をば、牡丹の花に譬へて候しぞかし」
と申されければ、
「まことに優なる人にてありけり」
とて
「琵琶の撥音朗詠のやう、後までも有難き事ぞ」
とのたまひける。
千手前は中々に物思ひの種とやなりにけん。
されば中将南都へ渡されて斬られたまひぬ、と聞こえしかば、やがて様をかへ、濃き墨染にやつれ果て、信濃国善光寺に行すまして、かの後世菩提を弔ひ、我身も往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし。
横笛
さるほどに、小松三位中将維盛卿は、身がらは八島にありながら、心は都へ通ひけり。
故郷に留め置きたまひし北方少なき人々の面影のみ、身に立ちそひて、忘るる隙もなかりければ、
「有りにかひなき我身かな」
とて、寿永三年三月十五日の暁、忍びつつ八島の館を紛れ出で、与三兵衛重景、石童丸といふ童、船に心得たればとて武里と申す舎人、これら三人を召し具して、阿波国結城の浦より小舟に乗り、鳴門の浦を漕通り、紀伊路へおもむきたまひけり。
和歌、吹上、衣通姫の神と顕はれたまへる玉津島の明神、日前国懸の御前を過ぎて、紀伊の湊にこそ著きたまへ。
これより山伝ひに都へ上りて、恋しき人々を、今一度見もし見えばやとは思へども、
「本三位中将の生捕にせられて大路を渡され、京鎌倉恥をさらすだに口惜きに、この身さへ囚れて、父の尸に血をあやさん事も心うし」
とて、千度心は進めども、心に心をからかひて、高野の御山に参られけり。
高野は年ごろ知りたまへる聖あり。
三条の斎藤左衛門茂頼が子に、斎藤滝口時頼といひし者なり。
本は小松殿の侍なり。
十三の年本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕横笛といふ女あり。
滝口これを最愛す。
父これを伝聞いて、
「世にあらん者の婿子になして出仕なんどをも、心安うせさせんとすれば、世になき者を思ひ初めて」
と強ひに諫めければ、滝口申しけるは、
「西王母と聞こえし人、昔はあって今は無し。東方朔といひし者も、名をのみ聞きて目には見ず。老少不定の世の中、石火の光に異ならず、縦人長命といへども、七十八十をば過ぎず、その中に身の栄へなる事は、僅に二十余年なり。夢幻の世の中に、醜きものを、片時も見て何かせん。思はしき者を見んとすれば、父の命を背くに似たり。これ善知識なり。しかじ、浮世を厭ひ、実の道に入なん」
とて、十九の年髻切て、嵯峨の往生院に行なひすましてぞ居たりける。
横笛これを伝聞いて、
「我をこそ捨てめ、様をさへ替へけん事の恨めしさよ。縦ひ世をば背くとも、などかかくと知せざらむ、人こそ心つよくとも尋ねて恨みむ」
と思ひつつ、或暮方に都を出で、嵯峨の方へぞあくがれ行く。
ころはきさらぎ十日余の事なれば、梅津の里の春風に、よその匂もなつかしく、大井河の月影も、霞にこめて朧なり。
一方ならぬ哀さも、誰故こそと思ひけめ。
往生院とは聞きたれども、さだかにいづれの坊とも知らざれば、ここにやすらひ、かしこにたたずみ、尋ねぬるぞ無慙なる。
住み荒らしたる僧房に念誦の声しけり。
滝口入道が声と聞きなして
「わらはこそこれまで尋ね参りたれ。様の替りておはすらんをも今一度見奉らばや」
と具したりける女を以て言はせければ、滝口入道、胸打噪ぎ、障子の隙より覗いて見れば、まことに尋ねかねたる気色痛敷う覚えていかなる道心者も、心弱くなりぬべし。
やがて人を出して、
「全くこれにさる人なし。門違でぞあるらむ」
とてつひに逢はでぞかへしける。
横笛情けなう恨めしけれども、力なく、涙を押へて帰りけり。
滝口入道、同宿の僧に逢ひて申しけるは、
「これも世に静かにて、念仏の障碍は候はねども、飽かで別れし女に、この住ひを見えて候へば、譬ひ一度は心強くとも、またも慕ふ事あらば、心も動き候べし。暇申して」
とて嵯峨をば出て高野へ上り、清浄心院にぞ居たりける。
横笛も様を替へたる由聞こえしかば、滝口入道一首の歌を送りけり。
そるまではうらみしかども梓弓、真の道にいるぞうれしき。
横笛返りごとに
そるとてもなにか恨みん梓弓、ひきとどむべき心ならねば。
横笛は、その思ひの積もるにや奈良の法華寺にありけるが、幾ほどもなくて、つひにはかなくなりにけり。
滝口入道かやうの事を伝へ聞き、弥深う行ひ澄まして居たりければ、父も不孝を許しけり。
親しき者ども皆用ゐて、高野の聖とぞ申しける。
三位中将これに尋ねあひて見たまへば、都に候し時は、布衣に立烏帽子、衣文を引き繕ひ、鬢を撫で、花やかなりし男士なり。
出家の後は、今日初めて見たまふに、いまだ三十にもならぬが、老僧姿に痩せ衰へ、濃き墨染に同じ袈裟、思ひ入れたる道心者、羨ましや思はれけん。
晋の七賢、漢の四皓が栖みけん商山竹林の有様も、これには過ぎじとぞ見えし。
高野之巻
滝口入道、三位中将を見奉り、
「こは現ども覚え候はぬ者かな。八島よりこれまでは何として逃させたまひて候やらん」
と申しければ、三位中将のたまひけるは、
「さればとよ、人なみなみに、都を出て、西国へ落下りたりしかども、故郷に留め置し少なき者どもの恋しさ、いつ忘るべしとも覚えねば、その物思ふ気色の言はぬにしるくや見えけん、大臣殿も、二位殿も、この人は池大納言の様に、二心ありなどとて思ひ隔てたまひしかば、有りにかひなき吾身かなと、いとど心も留まらであくがれ出てこれまではのがれたるなり。いかにもして山伝ひに都へ上りて恋しき者どもを今一度見もし見えばやとは思へども、本三位中将の事口惜しければそのも叶はず。同じくはこれにて出家して、火の中水の底へも入ばやと思ふなり。但熊野へ参らんと思ふ宿願あり」
とのたまへば、
「夢幻の世の中は、とてもかくても候なん。長き世の闇こそ心うかるべう候へ」
とぞ申しける。
やがて滝口入道先達にて、堂塔巡礼して、奥院へ参りたまふ。
高野山は帝城を去りて二百里、京里を離れて無人声、晴嵐梢を鳴して、夕日の影静なり。
八葉の峯、八の谷、まことに心も澄みぬべし。
花の色は林霧の底に綻び、鈴の音は尾上の雲に響けり。
瓦に松生ひ、墻に苔むして、星霜久しく覚えたり。
抑延喜帝の御時、御夢想の御告あって、檜皮色の御衣を参らせられしに、勅使中納言資澄卿、般若寺僧正観賢を相具して、この御山に参り、御廟の扉を開いて、御衣を著せ奉らんとしけるに、霧厚く隔たて、大師拝まれさせたまはず。
ここに観賢深く愁涙して
「我悲母の胎内を出て、師匠の室に入りしより以来いまだ禁戒を犯せず、さればなどか拝み奉らざらん」
とて五体を地に投げ、発露啼泣したまひしかば、漸霧晴れて、月の出づるが如くして、大師拝まれたまひけり。
時に観賢随喜の涙を流いて、御衣を著せ奉る。
御ぐしの長く生やさせたまひたりしかば、剃り奉るこそめでたけれ。
勅使と僧正とは拝み奉りたまへども、僧正の弟子石山の内供淳祐、その時はまだ童形にて供奉せられたりけるが、大師を拝み奉らずして、嘆き沈みておはしけるが、僧正手を取って、大師の御膝に押し当てられたりければ、その手一期が間、香しかりけるとかや。
その移り香は、石山の聖教に移って今にありとぞ承る。
大師御門の御返事に申させたまひけるは、
「我昔薩埵に逢ひて、まの当り悉く印明を伝ふ。無比の誓願を発して、辺地の異域に侍り。昼夜に万民を哀れんで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を証して、慈氏の下生を待つ」
とぞ申させたまひける。
かの摩訶迦葉の鶏足の洞に籠りて、翅頭の春の風を期したまふらんも、かくやとぞ覚えける。
御入定は承和二年三月二十一日寅の一点の事なれば、過ぎにし方も三百余歳、行末もなほ五十六億七千万歳の後、慈尊出世三会の暁を待たせたまふらんこそ久しけれ。
維盛出家
「維盛が身の何となく、雪山の鳥の啼くらんやうに、今日よ明日よと思ふものを」
とて、涙ぐみたまふぞ哀なる。
塩風に黒み、尽せぬ物思に痩せ衰へて、その人とは見えたまはねども、なほ世の人には勝れたまへり。
その夜は滝口入道が庵室に帰りて終夜、昔今の物語をぞしたまひける。
聖が行儀を見たまへば、至極甚深の床の上には、真理の玉を磨くらむと見えて、後夜晨朝の鐘の声には、生死の眠をさますらむとも覚えたり。
のがれぬべくはかくてもあらまほしうや思はれけん。
明くれば、東禅院の智覚上人と申しける聖を請じ奉りて、出家せんとしたまひけるが、与三兵衛、石童丸を召してのたまひけるは、
「維盛こそ人しれぬ思ひを身に副へながら、道狭う遁れ難き身なれば、空しうなるとも、このころは世にある人こそ多けれ。なんぢらはいかなる有様をしてもなどかすぎざるべき。我いかにもならむ様を見果て急ぎ都へ上り、おのおのが身をも助け、かつは妻子をも育み、かつはまた維盛が後生をも弔らへかし」
とのたまへば、二人の者ども、さめざめと泣いて、暫くは御返事にも及ばず、稍あって与三兵衛涙を押へて申しけるは、
「重景が父与三左衛門景康は、平治の逆乱の時、故殿の御供に候けるが、二条堀河の辺にて、鎌田兵衛に組んで、悪源太に討たれ候ぬ。重景もなじかは劣り候べき。その時はまだ二歳に罷り成り候ければ、少しも覚え候はず。母には七歳で後れ候ぬ。あはれをかくべき親しい者、一人も候はざりしかども、故大臣殿『あれは我命にかはりたりし者の子なれば』とて、御前にてそだてられ参らせ、生年九と申しし時、君の御元服候し夜、首を取り上げられまゐらせて、辱なく『盛の字は家の字なれば五代につく。重の字をば松王に』とおほせ候て、重景とは付けられ参らせて候なり。その上童名を松王と申しける事も生まれて忌五十日こそ申しし時父がいだいてまゐりたりければ家を小松といへば祝うてつくるなりとおほせ候て松王とこそ付らせられてまゐらせ候なり。父のようて死に候けるも、我身の冥加と覚え候。随分同隷共にも芳心せられてこそ罷過候しか。されば御臨終の御時も、この世の事をばおぼしめし捨て、一事もおほせ候はざりしかども、重景を御前近う召されて、『あな無慚や、なんぢは重盛を父が形見と思ひ、重盛はなんぢを景康が形見と思ひてこそ過しつれ。今度の除目に靱負尉になして、己が父景康を呼びし様に召さばやとこそ思ひつるに、空しうなるこそ悲しけれ、相構へて、少将殿の心に違ふな』とこそおほせ候しか。されば日ごろはいかなる御事も候はむには見捨て参らせて落べき者とおぼしめし候けるか。御心の中こそ慚しう候へ。『このころは世にある人こそ多けれ』とおほせ蒙り候は、当時の如くは、皆源氏の郎等どもこそ候なれ。君の神にも仏にも成らせたまひ候なむ後楽しみ栄え候とも、千年の齢を歴べきか。縦ひ万年を保つともつひには終りの無かるべきか。これに過たる善知識何事か候べき」
とて、手づから髻切て、泣く泣く滝口入道に剃らせけり。
石童丸もこれを見て、髻際より髪をきる。
これも八つより付き奉りて、重景にも劣らず、不便にしたまひければ、同滝口入道に剃らせけり。
これらがかやうに先立ちてなるを見たまふにつけても、いとど心細うぞおぼしめす。
さてもあるべきならねば、
「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」
と三反唱へたまひて、つひに剃り下ろしたまひてけり。
「あはれ替はらぬ姿を恋しき者どもに今一度見えもし見えて後、かくもならば思ふ事あらじ」
とのたまひけるこそ罪ふかけれ。
三位中将も与三兵衛も同年にて今年は二十七歳なり。
石童丸は十八にぞなりける。
しばらくあって、舎人武里を召して、
「おのれはとうとうこれより八島へ帰れ。都へは上るべからず。その故は、つひには隠れあるまじけれども、正しうこの有様を聞きては、やがて様をも替んずらんと覚ゆるぞ。八島へ参りて、人々に申さんずるやうはよな、『かつ御覧候し様に、大方の世間も懶き様に罷り成候き。万づ無道さも数添へて見え候しかば、おのおのにも知られ参らせ候はでかく成候ぬ。西国で左中将失せ候ぬ。一谷で備中守うたれ候ぬ。我さへかく成候ぬれば、いかにおのおのの便なうおぼしめされ候はんずらむと、それのみこそ心苦しう思ひまゐらせ候へ。抑唐皮といふ鎧、小烏といふ太刀は、平将軍貞盛より、当家に伝へて、維盛までは嫡々九代に相当たる。もし不思議にて世も立ちなほらば六代にたうぶべし』と申せ」
とこそのたまひけれ。
武里
「君のいかにもならせおはしまさん様を見参らせて後こそ、八島へも参り候はめ」
と申しければ、
「さらば」
とて召し具せらる。
滝口入道をも善知識の為に具せられけり。
山伏修業者の様にて高野をば出て、同国の内山東へこそ出られけれ。
藤代の王子を始めとして、王子王子伏拝み参りたまふほどに、千里の浜の北、岩代王子の御前にて、狩装束なる者七八騎がほど行逢奉る。
既に搦め捕られなむずと思ひて、おのおの腰の刀に手をかけて腹を切らむとしたまひけるが、近付けれども、過つべき気色も無くて急ぎ馬より下り深う畏まって通りければ、
「見知りたる者にこそ、誰なるらん」
と怪しくて、いとど足早にさしたまふほどに、これは当国の住人、湯浅権守宗重が子に湯浅七郎兵衛宗光といふ者なり。
郎等ども
「これはいかなる人にて候やらむ」
と申しければ、七郎兵衛涙をはらはらと流いて
「あら事も辱なや、あれこそ小松大臣殿の御嫡子三位中将殿よ。八島よりこれまでは何として逃させたまひたりけるぞや。はや御様を替へさせたまひてけり。与三兵衛、石童丸も同じく出家して、御供申したり。近う参りて、見参にも入たかりつれども、憚もぞおぼしめすとて通りぬ。あなあはれの御有様や」
とて、袖を顔に押あてて、さめざめと泣きければ、郎等どもも皆涙をぞながしける。
熊野参詣
漸さしたまふほどに日数歴れば岩田河にも懸りたまひけり。
この川の流を一度も渡る者は、悪業煩悩無始の罪障消ゆるものをと、頼もしくぞおぼしける。
本宮に参りつき証まこと殿の御前につい居たまひつつ暫く法施参らせて、御山の体を拝みたまふに、心も詞も及ばれず。
大悲擁護の霞は、熊野山にたなびき、霊験無双の神明は、音無河に跡を垂る。
一乗修行の岸には、感応の月曇もなく、六根懺悔の庭には、妄想の露も結ばず。
いづれもいづれも憑もからずといふ事なし。
夜深け人静まりて、啓白したまふに、父の大臣の、この御前にて、命を召して後世を扶けたまへと、申されける事までも、おぼしめし出でて哀なり。
「本地阿弥陀如来にてまします。摂取不捨の本願誤らず、浄土へ導きたまへ」
と申されける中にも、
「故郷に留め置し妻子安穏に」
と祈られけるこそ悲しけれ。
浮世を厭ひ真の道に入りたまへども、妄執はなほ尽きずと覚えて、哀なりし事どもなり。
明くれば、本宮より舟に乗り、新宮へぞ参られける。
神蔵を拝みたまふに、巌松高く聳えて嵐妄想の夢を破り、流水清く流れて、浪塵埃の垢をすすぐらんとも覚たり。
明日の社伏拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御山に参たまふ。
三重に漲り落つる滝の水、数千丈まで打ち上り、観音の霊像は岩の上に顕はれて、補陀落山とも謂ひつべし。
霞のそこには法華読誦の声聞ゆ、霊鷲山とも申しつべし。
抑権現当山に跡を垂れさせましましてより以来、我朝の貴賤上下歩を運び首を傾け掌を合せて利生に関はらずといふことなし。
僧侶されば甍を並べ、道俗袖を連ぬ。
寛和の夏のころ、花山法皇、十善の帝位を逃させたまひて、九品の浄刹を行はせたまひけん御庵室の旧跡には、昔を忍ぶと覚しくて、老木の桜ぞ開きにける。
那智籠の僧どもの中に、この三位中将をよくよく見知り奉りたると覚しくて、同行に語りけるは、
「ここなる修業者をいかなる人やらむと思ひたれば、小松大臣殿の御嫡子、三位中将殿にておはしけるぞや。あの殿のいまだ四位少将と聞こえたまひし安元の春のころ、法住寺殿にて五十の御賀のありしに、父小松殿は内大臣の左大将にてまします。伯父宗盛卿は中納言右大将にて、階下に著座せられたり。その外三位中将知盛、頭中将重衡以下、一門の人々今日を晴と時めきたまひて、垣代に立ちたまひし中より、この三位中将殿桜の花をかざして、青海波を舞ひていでられたりしかば、露に媚びたる花の御姿、風に翻る舞の袖、地を照らし天も耀くばかりなり。女院より関白殿を御使にて、御衣をかけられしかば、父の大臣座をたちこれをたまはって、右の肩にかけ、院を拝し奉りたまふ。面目類少なうぞ見えし。かたへの殿上人も、いかがばかり羨ましう思はれけむ。内裏の女房達の中には、深山木の中の楊梅とこそ覚ゆれなど言はれたまひし人ぞかし。ただ今大臣の大将待ちかけたまへる人とこそ見奉りしに、今日はかくやつれ果てたまへる御有様、兼ねては思ひ寄らざりしをや。移れば替る世の習ひとはいひながら、哀なる御事かな」
とて、袖を顔に推し当てて、さめざめと泣きければ、幾等も並び居たる那智籠りの僧どもも、みなうち衣の袖をぞぬらしける。
維盛入水
三の御山の参詣事故なく遂たまひしかば、浜宮と申す王子の御前より、一葉の船に棹さして、万里の蒼海に浮かびたまふ。
遥かの沖に山成の島といふ所あり。
それに船を漕ぎ寄せさせ、岸に上り、大なる松の木を削りて、中将銘跡を書き付けらる。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名浄海、親父内大臣左大将重盛公法名浄蓮、その子三位中将維盛法名浄円、生年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の奥にて入水す」
と書き付けて、また舟に乗り、奥へぞ漕ぎ出たまふ。
思ひきりたる道なれども、今はの時に成りぬれば、心細う悲しからずといふ事なし。
ころは三月二十八日の事なれば、海路遥に霞渡り、哀を催す類なり。
ただ大方の春だにも、暮れ行く空は懶きに、況や今日を限の事なれば、さこそは心細かりけめ。
沖の釣船の浪に消え入る様に覚ゆるが、さすが沈みも果てぬを見たまふにも、御身の上とやおぼしけん。
己が一行引き連れて、今はと帰る雁がねの、越路を差して啼き行くも、故郷へ言づけせまほしく、蘇武が胡国の恨まで、思ひ残せるくまもなし。
「さればこは何事ぞ。なほ妄執の尽ぬにこそ」
とおぼしめし返して西に向ひ手を合せ、念仏したまふ心の中にも、
「既にただ今を限りとは都には争か知るべきなれば、風の便の音信も、今や今やとこそ待たんずらめ。つひには隠れあるまじければ、この世になき者と聞いていかがばかりかなげかんずらん」
など思ひ続けたまへば、念仏を留めて、合掌を乱り、聖に向きてのたまひけるは、
「哀人の身に、妻子といふ物をば持つまじかりける者かな。この世にて物を思はするのみならず、後生菩提の妨となりける口惜さよ。ただ今も思ひ出るぞや。かやうの事を心中に残せば、罪深からむ間、懺悔するなり」
とぞのたまひける。
聖も哀に覚えけれども、叶はじと思ひ、涙を押拭ひ、さらぬ体にもてなして申しけるは
「まことにさこそはおぼしめされ候らめ。高きも賤きも、恩愛の道は力及ばぬ事なり。中にも、夫妻は一夜の枕をならぶるも、五百生の宿縁と申し候へば、先世の契浅からず。生者必滅、会者定離は、浮世の習にて候なり。末の露、本の雫のためしあれば、縦ひ遅速の不同はありとも、後れ先だつ御別れ、つひに無くてしもや候べき。かの驪山宮の秋の夕の契も、つひには心を摧く端となり、甘泉殿の生前の恩も、終りなきにしもあらず。松子梅生生涯恨あり。等覚十地なほ生死の掟に随ふ。縦ひ君長生の楽しみに誇りたまふども、この御嘆は逃させたまふべからず。縦ひ百年の齢を保ちたまふども、この御恨はただ同事とおぼしめさるべし。第六天の魔王といふ外道は、欲界の六天を我物と領して、中にもこの界の衆生の生死を離るる事ををしみ、或は妻となり、或は夫と成て、これを妨ぐるに、三世の諸仏は、一切衆生を一子の如くにおぼしめして、極楽浄土の不退の土に勧め入れんとしたまふに、妻子といふ者が無始曠劫より以来、生死に流転するきづななるが故に、仏は重う戒しめたまふなり。さればとて、御心弱うおぼしめすべからず。源氏の先祖、伊予入道頼義は、勅命に依りて、奥州の夷安倍貞任宗任を責んとて十二年が間に人の頸を斬る事、一万六千余人。その外山野の獣、江河の鱗、その命を絶つ事、幾千万といふ数を知らず。されども終焉の時、一念の菩提心を発ししに依りて、往生の素懐を遂たりとこそ承れ。就中に出家の功徳莫大なれば、先世の罪障皆滅びたまひぬらむ。縦ひ人あって七宝の塔を立てん事、高さ三十三天に至るども、一日の出家の功徳には及ぶべからず。縦ひまた百千歳の間百羅漢を供養したらん功徳も一日の出家の功徳には及ぶべからずと説かれたり。罪深かりし頼義も心の猛き故に、往生を遂ぐ。申さんや。君はさせる御罪業もましまさざるらんに、などか浄土へ参りたまはざるべき。その上当山権現は、本地阿弥陀如来にてまします。始め無三悪趣の願より、終り得三法忍の願に至るまで、一々の誓願衆生化度の願ならずといふ事なし。中にも、第十八の願には『設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚』と説かれたれば、一念十念の憑あり。ただ深く信じて、努努疑をなしたまふべからず。無二の懇念を致して、若は一反、若は十反も唱へたまふ物ならば、弥陀如来、六十万億那由多恒河沙の御身を縮め、丈六八尺の御形にて観音勢至、無数の聖衆、化仏菩薩、百重千重に囲繞し、伎楽歌詠して、ただ今極楽の東門を出て来迎したまはむずれば、御身こそ蒼海の底に沈むとおぼしめさるるとも、紫雲の上にのぼりたまふべし。成仏得脱して、悟を開きたまひなば、娑婆の故郷に立ち帰りて、妻子を引導きたまはん事『還来穢国度人天』少しも疑あるべからず」
とて、金打ち鳴して念仏を勧奉る。
中将然るべき知識かなとおぼしめし、たちまちに妄念を翻して西に向ひ手を合せ、高声に念仏百返計唱へつつ、
「南無」
と唱ふる声共に、海へぞ入りたまひける。
与三兵衛入道も石童丸も、同じく御名を唱へつつ、続いて海へぞ入りにける。
三日平氏
舎人武里も、同じく続きて入らんとしけるを、聖取り留めければ力及ばず。
「いかにうたてくも、御遺言をば違へ奉らんとするぞ。下臈こそなほもうたてけれ。今はただ後世を弔ひ奉れ」
と泣く泣く教訓しけれども、後たてまつる悲しさに、後の御孝養の事も覚えず、船底に伏しまろび、をめき叫びける有様は、昔悉達太子の檀特山に入らせたまひし時、舎匿舎人がこんでい駒をたまはって、王宮に還りし悲しみも、これには過ぎじとぞ見えし。
暫くは船を推し廻して浮かびもや上がりたまふと、見けれども、三人共に深く沈んで見えたまはず。
いつしか経読み念仏して、
「過去聖霊一仏浄土へ」
と回向しけるこそ哀なれ。
さるほどに、夕陽西に傾むき、海上も暗くなりければ、名残は尽くせず思へども、空しき船を漕ぎ帰る。
とわたる船の櫂の滴、聖が袖より伝ふ涙、わきていづれも見えざりけり。
聖は高野へ帰り上る。
武里は泣く泣く八島へ参りけり。
御弟新三位中将殿に御文取り出して参らせたりければ、
「あな心憂や、我たのみ奉るほどは人は思ひたまはざりける口惜しさよ。『池大納言の様に、頼朝に心を通じて、都へこそおはしたらめ』とて、大臣殿も二位殿も我等にも心を置きたまひつるに、さては那智の沖にて、御身を投げてましますごさんなれ。さらば引き具して一処にも沈みたまはで処々に伏さむ事こそかなしけれ。御前にておほせられし事はなかりしか」
と問ひたまへば、
「申せと候ひしは西国にて左中将殿失せさせたまひ候ぬ。一谷で備中守殿討たれさせたまひ候ぬ。我さへかくなり候ぬれば、いかに便なうおぼしめされ候はんずらんと、そののみこそ心苦しう思ひ参らせ候へ」
と、唐皮小烏の事までも細々申したりければ
「今は我とてもながらふべしとも覚えず」
とて、袖を顔に推し当てて、さめざめと泣きたまふぞまことに理と覚えてあはれなる。
故三位中将殿にゆゆしく似たまひたりければ、見る人涙を流しけり。
侍どもさしつどひてただ泣くより外の事ぞなき。
大臣殿も二位殿も、
「この人は池大納言の様に、頼朝に心を通して、都へとこそ思ひたれば、さはましまさざりけるものを」
とて、今更また嘆き悲しみたまひけり。
四月一日、鎌倉の前兵衛佐頼朝正下の四位したまふ。
本は従下の五位にてありしに、たちまちに五階を越えたまふこそ優々しけれ。
これは木曽左馬頭義仲追討の賞とぞ聞こえし。
同三日、崇徳院を神と崇め奉るべしとて、昔御合戦ありし大炊御門が末に、社を立て宮遷あり。
これは院の御沙汰にて、内裏にはしろしめされずとぞ聞こえし。
五月四日、池大納言頼盛関東へ下向、兵衛佐殿使者を奉りて、
「御方をば全く愚に思ひ参らせ候はず。ただ故池殿の渡せたまふとこそ存じ候へ。故尼御前の御恩をば大納言殿に報じ奉らん」
と、度々誓状を以て申されければ、一門をも引別れて落ち留まりたまひたりけるが、
「兵衛佐ばかりこそかうは思はれけれども、自余の源氏どもは、いかがあらんずらん」
と肝魂をけすより外の事なくておはしけるが、鎌倉より、
「故尼御前を見奉ると存じて、疾々見参に入候はん」
と申されたりければ、大納言下りたまひけり。
弥平兵衛宗清といふ侍あり。
相伝専一の者なりけるが、相具してもくだらず。
「いかに」
と問ひたまへば、
「今度の御供はつかまつらじと存じ候。その故は、君こそかくて渡らせたまへども、御一門の君達の西海の波の上に漂はせたまふ御事の、心苦しう覚えて、いまだ安堵しても存じ候ねば、心少し落ち据ゑて、追様に参り候べし」
とぞ申しける。
大納言にがにがしう慙かしう思ひたまひて、
「まことに一門を引き別れて残り留まりし事をば、我身ながらいみじとは思はねども、さすが身も捨て難う、命も惜しければ憖に留りにき。その上はまた下らざるべきにもあらず。遥かの旅に赴くに、争か見おくらであるべき。うけず思はば、落ち留まりし時はなどさはいはざりしぞ。大小事一向なんぢにこそ言ひ合せしか」
とのたまへば、宗清居直り畏まって申しけるは、
「高きも賤きも、人の身に命ほど惜き物や候。また世をば捨つれども身をば捨てずと申し候めり。御留まりを悪しとには候はず、兵衛佐も、かひなき命を助けられ参らせて候へばこそ、今日はかかる幸にもあひ候へ。流罪せられ候し時は故尼御前のおほせにて、篠原の宿まで打ち送って候ひし事などいまに忘れずと承り候へば、定めて御供に罷下りて候はば、引き出物饗応などもし候はんずらむ。そのに付けても心憂かるべう候。西国に渡らせたまふ君達、もしは侍どもの還り聞かん事返す返す慚しう候へば、まげて今度計は罷り留まるべう候。君は落ち留まらせたまひて、かくてわたらせたまふほどではなどか御下りなうて候べき。遥かの旅に趣かせたまふ事は、まことに覚束なう思ひ参らせ候へども、敵をも攻めに御下り候はば、先一陣にこそ候べけれども、これはまゐらずとも、更に御事闕け候まじ。兵衛佐尋ね申しされ候はば、相労る事あってとおほせ候べし」
と申しければ心ある侍どもは、これを聞いて皆涙をぞ流しける。
大納言もさすが慚しうは思はれけれども、されば留まるべきにもあらねばやがて立ちたまひぬ。
同十六日、鎌倉へ下り着きたまふ。
兵衛佐急ぎ見参して先づ
「宗清は御供して候か」
と申されければ、
「折節労る事候て下り候はず」
とのたまへば、
「いかに、何を労り候けるやらん。意趣を存じ候にこそ。昔宗清が許に候ひしに、事に触れて有りがたうわたり候し事今に忘れ候はねば、定めて御供に罷下り候はむずらん。疾く見参らせばやなど恋しう存じて候に、恨めしうも下り候はぬ者かな」
とて、下文あまた成し設け、馬鞍物具以下さまざまの物どもたばんとせられければ、然るべき大名ども、我も我もと引き出物ども用意したりけるに、下らざりければ、上下本意なき事に思ひてぞありける。
六月九日、池大納言関東より上洛したまふ。
兵衛佐
「暫くかくておはしませかし」
と申されけれども
「都に覚束なく思ふらん」
とて、急ぎ上りたまへば、庄園私領、一所も相違あるべからず、並に大納言になし返さるべき由、法皇へ申されけり。
鞍置馬三十疋、裸馬三十疋、長持三十枝に、羽、金、染物、巻絹風情の物を入って奉りたまふ。
兵衛佐かやうに持てなりたまへば、大名小名我も我もと引き出物を奉る。
馬だにも三百疋に及べり。
命生きたまふのみならず、徳付きてぞ帰り上られける。
同十八日、肥後守定能が伯父、平田入道定次を大将として、伊賀伊勢両国の住人等、近江国へ打ち出でたりければ、源氏末葉等発向して、合戦を致す。
両国の住人等、一人も残らず打ち落とさる。
平家重代相伝の家人にて、昔のよしみを忘れぬ事は哀なれども、思ひ立つこそおほけなけれ。
三日平氏とはこれなり。
さるほどに、小松三位中将維盛卿の北方は、風のたよりの事つても、断えて久しくなりければ、
「何と成りぬる事やらむ」
と心苦しうぞ思はれける。
「月に一度などは必ず音信れる物を」
と待ちたまへども、春過ぎ夏もたけぬ。
「三位中将今は八島にもおはせぬものを」
と申す人ありと聞きたまひて、余りの覚束なさに、とかくして八島へ人を奉りたまひたりければ、いそぎも立ち帰らず、夏過ぎ秋にもなりぬ。
七月の末にかの使帰り来れり。
北方、
「さていかにやいかにや」
と問ひたまへば、
「過ぎにし三月十五日の暁八島を御出で候て、高野へ参らせたまひて候けるが、高野にて御ぐしおろし、それより熊野へ参らせおはします。後世の事をよくよく申させ候ひ、那智の奥にて、御身を投げさせたまひて候とこそ、御供申したりける舎人武里は語り申しつれ」
と申しければ、北方、
「さればこそ怪しと思ひつるものを」
とて引かついでぞ伏したまふ。
若君姫君も、声々に泣き悲しみたまひけり。
若君の御乳母の女房、泣く泣く申しけるは、
「これは今更驚かせたまふべからず。日ごろよりおぼしめし設けたる御事なり。本三位中将殿の様に、生捕にせられて、都へかへらせたまひたらば、いかがばかり心憂かるべきに、高野にて御ぐしおろし熊野へ参らせたまひ、後世の事よくよく申させおはしまし、臨終正念にて失せさせたまひける御事、嘆の中の御悦なり。されば御心安き事にこそおぼしめすべけれ。いまはいかなる岩木の間にても少なき人々を生やし立てまゐらせんとおぼしめせ」
とやうやうになぐさめ申しけれども、おぼしめしのびてながらふべしとも見えたまはず。
やがて様を替へ、かたの如くの仏事をいとなみ後世をぞ弔ひける。
藤戸
これを鎌倉兵衛佐返り聞きたまひて、
「あはれ隔てなう打ち向きておはしたらば、命ばかりは助奉りてまし。小松内府の事は愚に思ひ奉らず。その故は、故池の禅尼の使として、頼朝を流罪に申し宥められしは、偏にかの内府の芳恩なり。その恩争か忘るべきなれば、子息達は疎に思はず。まして出家などせられなん上は仔細にや及べき」
とぞのたまひける。
さるほどに、平家は讃岐の八島へ帰りたまひて後、
「東国より荒手の軍兵数万騎都に著て、攻め下る」
とも聞ゆ。
「鎮西より、臼杵、戸次、松浦党、同心して押し渡る」
とも申しあへり。
かれを聞き、これを聞くにも、ただ耳を驚かし、肝魂を消すより外の事ぞなき。
今度一谷にて、一門の人々のこりすくなく討たれたまひ、むねとの侍ども半過ぎて滅びぬ。
今は力尽き果てて、阿波民部大夫重能が兄弟、四国の者ども語ひて、
「さりとも」
と申しけるをぞ、高き山深き海とも頼みたまひける。
女房達はさしつどひてただ泣くより外の事ぞなき。
かくて七月二十五日にも成りぬ。
「去年の今日は都を出でしぞかし、ほどなく廻り来にけり」
とて浅ましうあわただしかりし事どものたまひ出して泣きぬ笑ひぬぞしたまひける。
同二十八日、新帝の御即位あり。
内侍所神璽宝剣もなくして、御即位の例、神武天皇より以降八十二代、これ始めとぞ承る。
八月六日、除目おこなはれて蒲冠者範頼、参河守になる。
九郎冠者義経、左衛門尉になさる。
則使の宣旨を蒙りて、九郎判官とぞ申しける。
さるほどに荻の上風もやうやう身にしみ、萩の下露もいよいよ滋く、恨る虫の声々に稲葉打ちそよぎ、木葉かつ散る気色、物思はざらむだにも深く行く秋の旅の空は悲しかるべし。
まして平家の人々の心の中さこそはおはしけめと推量られてあはれなり。
昔は九重の上にて、春の花を玩び、今は八島の浦にして、秋の月に悲む。
およそさやけき月を詠じても、都の今夜いかなるらむと想像り、心を澄まし涙を流してぞ明かし暮らしたまひける。
左馬頭行盛かうぞ思ひつづけたまふ。
君すめばこれも雲井の月なれど、なほこひしきは都なりけり。
同九月十二日、参河守範頼、平家追討の為にとて、西国へ発向す。
相伴ふ人々、足利蔵人義兼、加賀美小次郎長清、北条小四郎義時、斎院次官親義、侍大将には、土肥次郎実平、子息弥太郎遠平、三浦介義澄、子息平六義村、畠山庄司次郎重忠、同長野三郎重清、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同五郎行重、小山小四郎朝政、同長沼五郎宗政、土屋三郎宗遠、佐々木三郎盛綱、八田四郎武者朝家、安西三郎秋益、大胡三郎実秀、天野藤内遠景、比気藤内朝宗、同藤四郎義員、中条藤次家長、一品房章玄、土佐坊正俊、これらを始めとして、都合その勢三万余騎、都を立て播磨の室にぞ著きにける。
平家の方には大将軍小松新三位中将資盛、同少将有盛、丹後侍従忠房、侍大将には飛騨三郎左衛門景経、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、五百余艘の兵船に取り乗りりて、備前の小島に著くと聞こえしかば、源氏室を立て、これも備前国、西河尻、藤戸に陣をぞ取りたりける。
源平の陣の交ひ、海の面五町計を隔たり。
舟なくしては輒う渡すべき様無かりければ、源氏の大勢向の山に宿していたづらに日数を送る。
平家の方よりはやりをの若者ども小舟に乗りて漕ぎいださせ、扇を上げて
「ここ渡せ」
とぞ招きける。
源氏
「安からぬ事なり。いかがせん」
といふ処に、同二十五日の夜に入って佐々木三郎盛綱浦の男を一人語って、白い小袖、大口、白鞘巻など取らせ、すかしおほせて、
「この海に馬にて渡しぬべき所やある」
と問ひければ、男申しけるは、
「浦の者ども多う候へども、案内知りたるは稀に候、この男こそよく存知して候へ。たとへば川の瀬の様なる所の候が、月頭には東に候、月尻には西に候、両方の瀬の交ひ、海の面十町計は候らん。この瀬は御馬にては、輒う渡させたまふべし」
と申しければ、佐々木斜めならず悦んで我が家子郎等にも知らせず、かの男とただ二人紛れ出て、裸になり、件の瀬の様なる所を渡って見るに、げにもいたく深うはなかりけり。
ひざ腰肩にたつ所もあり、髻の濡る所もあり。
深き所は游いで、浅き所に游ぎつく。
男申しけるは、
「これより南は、北より遥に浅う候、敵矢先を汰へて、待ところに裸にては叶はせたまふまじ。これより帰らせたまへ」
と申しければ、佐々木
「げにも」
とて帰りけるが、
「下臈は、ごこさもなき者なれば、また人に語はれて、案内をも教へむずらん、我計こそ知らめ」
と思ひて、かの男を刺し殺し、首掻き切って棄てけり。
同二十六日の辰刻ばかり、平家また小船に乗りて漕ぎ出させ扇を上げて
「源氏爰を渡せ」
とぞ招きける。
佐々木案内はかねて知たり。
滋目結の直垂に黒糸威の鎧著て、白蘆毛なる馬に乗り、家子郎等七騎颯と打ち入って渡しけり。
大将軍参河守、
「あれ制せよ、留めよ」
とのたまへば、土肥次郎実平、鞭鐙を合せて追ひ付いて、
「いかに佐々木殿、物の著いて狂ひたまふか。大将軍の許されもなきに、狼藉なり留まりたまへ」
といひけれども、耳にも聞入れず、渡しければ、土肥次郎も制しかねて、やがて連れてぞ渡しける。
馬のくさわき胸懸づくし、太腹につく所もあり、鞍壺越す所もあり、深き所は游がせ浅き所に打ちあがる。
大将軍参河守これを見て、
「佐々木に謀られにけり。あさかりけるぞや。渡せや、渡せ」
と下知せられければ、三万余騎の大勢皆打ち入って渡しけり。
平家の方には
「あはや」
とて、船ども押し浮かべ矢先を汰へて、指し詰め引き詰め散々に射る。
源氏の兵ども、これを事どもせず、甲のしころを傾け、平家の舟に乗り移り乗り移りをめき叫んで責め戦ふ。
源平乱れ合ひ、或は舟踏みしづめて死ぬる者もあり。
或は引返されて遽ふためく者もあり。
一日戦ひ暮らして夜に入りければ、平家の舟は沖に浮ぶ。
源氏は小島に打ち上げて、人馬の息をぞ休めける。
あけければ平家は八島へ漕退く。
源氏は心は猛う思へども、舟なければ、追ひて責め戦はず。
「昔より今にいたるまで馬にて河を渡す兵はありといへども、馬にて海を渡す事、天竺震旦は知らず我朝には稀代のためしなり」
とて、備前の小島をぞ佐々木にたまはりける鎌倉殿の御教書にも載られたり。
大嘗会沙汰
同二十七日、都には九郎判官義経、検非違使五位尉になされて、九郎大夫判官とぞ申しける。
さるほどに十月にも成りぬ。
八島には浦吹く風も烈しく、磯打つ波も高かりければ、兵も攻め来らず、商客の行通ふも稀なれば、都の伝も聞きまほしく、何しか空かき曇り、霰打ち散り、いとど消え入る心地ぞしたまひける。
都には大嘗会あるべしとて御禊の行幸ありけり。
内弁は徳大寺左大将実定公、その比内大臣にておはしけるが勤められけり。
おととし先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公、節下にておはせしが節下の幄屋につき、前に竜の旗立て居たまひたりし景気、冠際、袖のかかり、表袴のすそまでも、殊に勝れて見えたまへり。
その外一門の人々三位中将知盛、頭中将重衡以下近衛司、御綱に候はれしには、また立並ぶ人も無しぞかし。
今日は九郎判官義経、先陣に供奉す。
木曽などには似ず、京慣れてはありしかども、平家の中のえりくづよりもなほ劣れり。
同十一月十八日大嘗会遂行はる。
去ぬる治承養和の比より、諸国七道の人民百姓等、源氏の為に悩まされ平家の為に亡ぼされ、家かまどを棄て山林にまじはり、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収の営にも及ばず。
いかにしてかやうの大礼も行はるべきなれども、さてしもあるべき事ならねば、形の如くぞ遂げられける。
参河守範頼、やがて続いて責めたまはば、平家は亡ぶべかりしに、室、高砂に休み居て、遊君遊女ども召し聚め、遊び戯れてのみ月日を送られけり。
東国の大名小名多しといへども、大将軍の下知に従ふ事なれば力及ばず。
ただ国の費え民の煩ひのみあって、今年も既に暮れにけり。