『平家物語』原文・現代語訳を全文公開! 品詞分解も順次追加中! 『平家物語』を読む

『平家物語』第11巻 現代語訳全文

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目次

逆櫓

 元歴2年正月10日、九郎大夫判官義経は院御所へ参り、大蔵卿泰経朝臣を通して次のように申し上げた。

「平家は神々からも見放され、君にもお見捨てになられて、都を出て波の上を漂う落人となりました。それなのに、この3年の間に攻め落とすことができず、多くの国々を押さえられているのは残念でございます。今度は義経、鬼界・高麗・天竺・震旦までも平家を追って攻め落とさないかぎり、都へは帰りません」

 頼もしい様子で申し上げたので、法皇は深く感心なさって、

「必ず夜を日に継いで戦い、勝敗を決せよ」

 と仰せになった。

 判官は宿所へ帰ると、東国の兵たちにおっしゃった。

「義経は鎌倉殿のご代官として院宣を承り、平家を追討する。陸では馬の足が届くかぎり、海では櫓や櫂の届くかぎり攻め進む。少しでも裏切る心のある者は、早くここから帰られよ」

 とおっしゃった。

 そうするうちに八島では、月日が駆ける馬のように速く過ぎ、正月も終わって2月になった。

 春の草の季節が過ぎると秋の風に驚き、秋の風がやむとまた春の草の季節になった。

 季節を送り迎えして、すでに3年になっていた。

「都には東国から新手の兵が数万騎到着して、攻め下ってくる」

 とも聞こえてくる。

「鎮西からは臼杵・戸次・松浦党が心を合わせて渡ってくる」

 とも言い合っている。

 あれを聞いてもこれを聞いても、ただ驚き恐れるばかりだった。

 女房たちは女院や二位殿をはじめとして集まり、

「またどんなつらい目に遭うのでしょう。どんな悲しいことを聞くのでしょう」

 と嘆き合い、悲しみ合っていた。

 新中納言知盛卿はおっしゃった。

「東国や北国の者たちもずいぶん深い恩を受けたが、恩を忘れ、約束を変えて頼朝や義仲に従った。まして西国でもそうなるだろうと思っていたので、都でどのようにでもなろうと覚悟していたのに。自分一人のことではないので心弱くさまよい出て、今日はこのようなつらい目に遭っている。残念なことだ」

 とおっしゃった。

 まことにもっともだと思われ、気の毒だった。

 同じ年の2月3日、九郎大夫判官義経は都を出発し、摂津国渡辺で船をそろえて、いよいよ八島へ攻め寄せようとした。

 参河守範頼も同じ日に都を出て、摂津国神崎で兵船を用意し、山陽道へ向かおうとした。

 同じ月の13日、伊勢大神宮・石清水・賀茂・春日に官幣使が派遣された。

「主上と三種の神器を、無事に都へお帰しください」

 と神祇官の官人や各社の社司が、本宮・本社で祈願申し上げるよう仰せになった。

 同じ月の16日、渡辺と神崎の両所で、この数日用意していた船の綱をいよいよ解こうとした。

 ちょうど北風が木を折るほど激しく吹き、大波に船がひどく壊されて出せなかった。

 修理のため、その日はとどまった。

 渡辺では大名や小名が集まり、

「そもそも船での戦いにはまだ慣れていない。どうすればよいだろう」

 と相談した。

 梶原が申し上げた。

「今度の合戦では船に逆櫓を取り付けたいと存じます」

 判官は、

「逆櫓とは何だ」

 梶原は、

「馬は進もうと思えば左へも右へも向きを変えやすいものです。船はすぐに押し戻すのが難しゅうございます。船尾と船首に櫓を互い違いに取り付け、脇楫を入れて、どちらへも楽に進められるようにしたいのです」

 と申し上げた。判官はおっしゃった。

「戦というものは、一歩も退くまいと思っていても、形勢が悪くなれば退くのが常だ。初めから逃げる用意をして、何がよいことがあろう。まず門出が悪い。逆櫓でも返様櫓でも、おのおのの船には100丁でも1,000丁でも取り付けられよ。義経はもとの櫓で参る」

 とおっしゃると、梶原は申し上げた。

「よい大将と申すのは、攻めるべきところでは攻め、退くべきところでは退いて、我が身を無事に保ち、敵を滅ぼす人をいうのでございます。一方にばかり偏る者は猪武者といって、よいとはいたしません」

 と申し上げると、判官は、

「猪や鹿のことは知らぬ。戦はただひたすら攻めて、勝つのが気持ちよい」

 とおっしゃった。侍たちは梶原を恐れて声高くは笑わなかったが、目や鼻で合図し合ってひそひそ笑った。

 判官と梶原が、今にも仲間同士で戦いを始めそうだとささやき合っていた。

 次第に日が暮れて夜になると、判官はおっしゃった。

「船を修理して新しくしたのだから、おのおの肴一品と酒一瓶を出して祝われよ」

 そうして祝いの用意をする様子を見せながら、船に武具を入れ、兵糧米を積み、馬を乗せさせ、

「早く船を出せ」

 とおっしゃった。水主や梶取は申し上げた。

「この風は追い風ではございますが、普通を超えた風です。沖ではどれほど吹いているでしょう。どういたせばよろしいのでしょうか」

 と申し上げると、判官は大いに怒っておっしゃった。

「野山の果てで死ぬのも、海や川の底に溺れて死ぬのも、みな前世からの宿業だ。海へ出て浮かんだとき、風が強いからといってどうしようというのだ。向かい風の中を渡ろうというのなら間違いだろう。順風が少し強すぎるからといって、これほど大切なことなのに、どうして渡らぬと言うのか。船を出さなければ、こやつらを一人ずつ射殺せ」

 と命じられた。

 奥州の佐藤三郎兵衛嗣信と伊勢三郎義盛が、それぞれ矢を弓につがえて進み出た。

「何をあれこれ言うのだ。ご命令なのだから早く船を出せ。出さなければ一人ずつ射殺すぞ」

 と言ったので、水主や梶取はこれを聞いて、

「射殺されても同じことだ。風が強いのなら、ただ船を走らせて死ね、者ども」

 と言い、200余艘の船のうち、わずか5艘が出て走った。

 残りの船は風を恐れたのか、梶原に脅されたのか、みなとどまった。

 判官はおっしゃった。

「ほかの者が出ないからといって、とどまるべきではない。普通のときなら敵も用心するだろう。このような大風と大波で、敵が思いもよらぬときに押し寄せてこそ、狙う敵を討てるのだ」

 とおっしゃった。

 5艘の船というのは、まず判官の船、田代冠者の船、後藤兵衛父子の船、金子兄弟の船、それに船奉行の淀江内忠俊という者が乗った船だった。

 判官はおっしゃった。

「おのおのの船では篝火をたくな。義経の船を目印の船として、船尾と船首の篝火を見て進め。火の数が多く見えると、敵も恐れて用心するだろう」

 そうして一晩中船を走らせたところ、3日かかって渡るところを、わずか三時ほどで渡った。

 2月16日の丑の刻に渡辺の福島を出て、明け方の卯の刻には阿波の地へ吹き着いた。

勝浦付大坂越

 夜がすっかり明けると、渚に赤旗が少しひらめいていた。

 判官はこれを見て、

「ああ、我らを迎える用意がしてあったか。船を横向きに着け、傾けて馬を下ろそうとすれば、敵の的になって射られるだろう。渚に着かないうちに馬を次々に海へ追い下ろし、船に引き寄せながら泳がせよ。馬の足が立ち、鞍の先が水に浸かるほどになったら、すぐに乗って駆けよ、者ども」

 と命じられた。

 5艘の船には武具を入れ、兵糧米を積んでいたので、馬はわずか50余匹しか乗せていなかった。

 渚に近づくとすぐ馬に乗り、叫んで駆けた。渚にいた100騎ほどの者たちは少しも持ちこたえず、2町ほどさっと退いて逃げた。

 判官は岸辺に馬を止め、馬の息を休めていらしたが、伊勢三郎義盛を召して、

「あの軍勢の中に、しかるべき者はいるか。一人連れて参れ。尋ねたいことがある」

 とおっしゃった。義盛はかしこまって承り、ただ一騎で敵の中へ駆け入った。何と言ったのだろう。40歳ほどの男で黒皮威の鎧を着ている者に、兜を脱がせ、弓の弦を緩めさせて連れて参った。

 判官は、

「何者だ」

 とおっしゃった。

「この国の住人、坂西の近藤六親家です」

 と申し上げた。

「何家であろうと構わぬ。武具を脱がせるな。このまま八島への案内人に連れていくぞ。その男から目を離すな。逃げていったら射殺せ、者ども」

 と命じられた。

「ここは何というところだ」

 と尋ねられると、

「かつ浦と申します」

 判官は笑って、

「世辞を言うな」

 とおっしゃった。

「確かにかつ浦でございます。身分の低い者が言いやすいように『かつら』とは申しますが、文字では勝浦と書きます」

 と申し上げた。

 判官は、

「これを聞かれよ、皆の衆。戦いに向かう義経が勝浦に着くとは、めでたいことだ。この辺りに平家の後援をする者はいないか」

「阿波民部重能の弟で、桜間介能遠という者がおります」

「それなら蹴散らして通ろう」

 そう言って近藤六の手勢100騎ほどの中から30騎ほどを選び、自分の軍勢に加えられた。

 能遠の城に押し寄せてみると、三方は沼で一方は堀だった。

 堀の方から押し寄せ、一斉に鬨の声を上げた。

 城の中の兵たちは矢先をそろえ、次々と矢をつがえ、引き絞って激しく射た。

 源氏の兵たちはそれを何とも思わなかった。

 兜の錣を傾け、叫び声を上げて攻め入ったので、桜間介はかなわないと思ったのだろう。

 家子や郎等に防ぎ矢を射させ、自分は優れた馬を持っていたので、それに乗ってかろうじて逃げ延びた。

 判官は防ぎ矢を射ていた兵たち20余人の首を切って掛け、軍神に供え、勝利の鬨を上げて、

「門出がよい」

 とおっしゃった。

 判官は近藤六親家を召して、

「八島には平家の軍勢がどれほどいるのか」

「1,000騎を超えることはございますまい」

「なぜ少ないのか」

「このように四国の浦々や島々に、50騎、100騎ずつ配置されています。そのうえ阿波民部重能の嫡男、田内左衛門教能は、河野四郎が召しても参らないので、攻めるために3,000余騎で伊予へ向かっております」

「それならよい機会だな。ここから八島まではどれほどの道のりだ」

「2日の道のりでございます」

「それなら敵が聞きつけないうちに攻め寄せよ」

 そうして馬を駆け足にしたり歩かせたり、走らせたり手綱を引いて止めたりしながら、阿波と讃岐の境にある大坂越という山を一晩中かけて越えられた。

 夜半ごろ、立文を持った男と道連れになって話をなさった。

 この男は夜のことでもあり、敵だとは夢にも知らず、味方の兵たちが八島へ参ると思ったのだろうか。気を許して詳しく話をした。

「その手紙はどこへ持っていくのか」

「八島の大臣殿のもとへ参ります」

「誰がお送りになるのか」

「京から女房がお送りになるのです」

「どんなことだろう」

 とおっしゃると、

「別のことではございますまい。源氏がすでに淀河尻へ出向いておりますので、そのことをお知らせになるのでしょう」

「確かにそうだろう。こちらも八島へ参るが、まだ道を知らないので案内せよ」

 とおっしゃった。

「私はたびたび参っておりますから、道は存じております。お供いたしましょう」

 と申し上げた。判官は、

「その手紙を取れ」

 と言って手紙を奪わせ、

「こやつを縛れ。首は切るな。罪を作ることになる」

 と言い、山中の木に縛り付けて通り過ぎられた。

 さて手紙を開いてご覧になると、確かに女房の手紙らしく、

「九郎は機敏な男だと聞きますので、大風や大波も嫌わず攻め寄せてくると思われます。軍勢も散り散りになっておりますから、どうかご用心ください」

 と書いてあった。

 判官は、

「これは義経に天がお与えくださった手紙だ。鎌倉殿にお見せしよう」

 と言って大切にしまっておかれた。

 明くる18日の寅の刻、讃岐国のひけ田というところへ下り、人馬の息を休めた。

 そこから丹生屋、白鳥を次々に通り過ぎ、八島の城へ攻め寄せられた。

 また近藤六親家を召して、

「八島の館の様子はどうか」

 とお尋ねになると、

「ご存じないだけで、まったく簡単に行けるところでございます。潮が引いているときには、陸と島の間で馬の腹さえ水に浸かりません」

 と申し上げたので、

「それならすぐに攻め寄せよ」

 と言って高松の集落に火を掛け、八島の城へ攻め寄せられた。

 八島では、阿波民部重能の嫡男、田内左衛門教能が、河野四郎は召しても参らないので攻めるために3,000余騎で伊予へ向かっていたが、河野を討ち漏らし、その家子や郎等150余人の首を切って八島の内裏へ届けていた。

「内裏で賊の首を実検なさるのはふさわしくない」

 ということで、大臣殿の宿所で実検なさった。

 156人の首だった。

 首を実検していたところへ、者たちが、

「高松の方に火が出た」

 と言って騒ぎ合った。

「昼ですから失火ではございますまい。敵が攻め寄せて火を掛けたと思われます。きっと大軍でしょう。包囲されてはかないません。早く船にお乗りください」

 総門の前の渚に船を並べて着けてあったので、我先にとお乗りになった。

 御所の御船には女院・北政所・二位殿以下の女房たちがお乗りになった。

 大臣殿父子は一つの船にお乗りになった。

 そのほかの人々は思い思いに船に乗り、ある船は1町ほど、ある船は7、8段、ある船は5、6段など漕ぎ出したところへ、源氏の兵たちが兜を着け、70、80騎で総門の前の渚にすっと現れた。

 ちょうど潮の引く盛りで、馬の烏頭や太腹まで水に浸かるところもあった。

 それより浅いところもあった。

 蹴り上げた潮が霞とともにしぶく中から白旗をさっと掲げたので、平家は運が尽きて、大軍だと見てしまった。

 判官は敵に小勢だと見せまいと、5、6騎、7、8騎、10騎ほどずつの群れになって現れた。

嗣信最期

 九郎大夫判官のその日の装束は、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧を着け、金作の太刀を帯び、切斑の矢を背負い、滋籐の弓の真ん中を持っていた。船の方をにらみ、大声を上げて、

「一院の御使、検非違使五位尉源義経」

 と名乗った。

 その次に伊豆国の住人、田代冠者信綱、武蔵国の住人、金子十郎家忠と同じく与一親範、伊勢三郎義盛が名乗った。

 続いて後藤兵衛実基、その子の新兵衛基清、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信と同じく四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶が、それぞれ名乗って駆けてきた。

 平家の方では、

「あれを射取れ」

 と言って、遠矢を射る船もあれば、差矢を射る船もあった。

 源氏の兵たちは敵を左にしては射ながら通り、右にしては射ながら通り、陸に引き上げてあった船の陰を馬の休み場所にして、叫びながら攻め戦った。

 後藤兵衛実基は戦いに慣れた兵だったので、合戦はせず、まず内裏に乱入し、あちこちに火を放って瞬く間に煙にして焼き払った。

 大臣殿は侍たちを召して、

「そもそも源氏の軍勢はどれほどいるのか」

「今はわずか70、80騎ほどでございましょう」

 と申し上げた。

「ああ、情けない。髪の毛を一筋ずつ分け取ったとしても、こちらの兵の数には足りなかっただろうに。包囲して討ちもせず、慌てて船に乗って内裏を焼かせてしまったのは、いまいましい。能登殿はおられぬか。陸へ上がってひと戦なされよ」

 とおっしゃると、

「承りました」

 と言って越中次郎兵衛盛次を連れ、小舟に乗って、焼き払われた総門の渚に陣を取った。

 判官は80余騎で矢の届く距離まで寄り、馬を止めた。

 越中次郎兵衛盛次は船の表に立ち、大声を上げて申し上げた。

「名乗られたのは聞きましたが、海の上を遠く隔てているので、通称も実名もはっきりしません。今日の源氏の大将は、どなたでいらっしゃいますか」

 伊勢三郎義盛は馬を歩ませて進み出て、申し上げた。

「愚かな問いだ。清和天皇の10代のご子孫、鎌倉殿の弟君、九郎大夫判官殿に決まっている」

 盛次は、

「そういうことがあったな。以前の平治の合戦で父を討たれ、みなしごになって鞍馬の稚児となり、後には金商人の下僕になって、食料を背負い、奥州へ逃げ惑った小冠者のことか」

 と言った。

 義盛は、

「舌がよく回るからといって、我が君のことをあれこれ言うな。そういうお前たちは砥浪山の戦いで追い落とされ、辛うじて生き延びて北陸道をさまよい、物乞いをして泣く泣く京へ上った者ではないか」

 と言った。

 盛次は重ねて言った。

「主君のご恩を十分に受けているのに、何が不足して物乞いをするというのだ。そういうお前こそ伊勢の鈴鹿山で山賊をして、妻子を養い、自分も暮らしていたと聞いたぞ」

 と言うと、金子十郎家忠は、

「何と無益な言い争いだ。お互いに嘘を言い付けて悪口を言うなら、誰が劣るものか。去年の春、一谷で武蔵や相模の若者たちの腕前は見ただろうに」

 と言った。そのそばにいた弟の与一は、最後まで言わせず、十二束二伏の矢を十分に引き絞って、ひょうと放った。

 矢は盛次の鎧の胸板に、裏まで突き出るほど深く突き立った。

 その後は互いの言い争いもやんだ。

 能登守教経は、

「船での戦いには、それなりのやり方がある」

 と言い、鎧直垂はお着けにならず、唐巻染の小袖に唐綾威の鎧を着け、いか物作の大太刀を帯び、24本入れたたかうすべうの矢を背負い、滋籐の弓をお持ちになった。

 都一番の強弓の名手でいらしたので、矢先に回る者は誰でも射抜かれた。

 とりわけ九郎大夫判官を射倒そうと狙われたが、源氏の方でもそれを承知していた。奥州の佐藤三郎兵衛嗣信と同じく四郎兵衛忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などの一人当千の兵たちが、我先に馬の首を並べて大将の矢面をふさいだので、どうすることもできなかった。

「矢面にいる雑兵ども、そこをのかれよ」

 と言って次々と矢をつがえ、引き絞って激しくお射になったので、矢の届くところにいた鎧武者が10騎余り射落とされた。

 中でも真っ先に進んでいた奥州の佐藤三郎兵衛は、左の肩から右の脇へ射抜かれ、少しも持ちこたえられず、馬から逆さにどうと落ちた。

 能登殿の童に菊王という、力が強く勇敢な者がいた。萌黄威の腹巻を着け、三枚兜の緒を締め、白柄の長刀の鞘を外し、三郎兵衛の首を取ろうと走りかかった。

 佐藤四郎兵衛は兄の首を取らせまいと、弓を十分に引いてひょうと射た。

 童は腹巻の合わせ目を向こうへ射抜かれ、うずくまるように倒れた。

 能登守はこれをご覧になると、急いで船から飛び下り、左手に弓を持ったまま、右手で菊王丸をつかみ上げ、船へからりと投げ入れられた。敵に首は取られなかったが、深手だったので死んだ。

 この童はもともと越前の三位の童だったが、三位が討たれた後は、その弟の能登守に仕えていた。

 18歳だった。

 この童を討たれたのをあまりにも哀れに思われ、その後は戦いもなさらなかった。

 判官は佐藤三郎兵衛を陣の後ろへ担ぎ入れさせ、馬から下りて手を取り、

「三郎兵衛、具合はどうだ」

 とおっしゃった。かすかな息の下で申し上げた。

「もうこれまでだと存じます」

「思い残すことはないか」

 とおっしゃると、

「何を思い残しましょう。君が世にお立ちになるのを拝見せずに死ぬのは、残念に思います。そのほかには、武士が敵の矢に当たって死ぬことは、もとから覚悟しているところです。とりわけ源平のご合戦で、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信という者が、讃岐国八島の磯で主君のお命に代わって討たれたと、後の世の物語で語られることこそ、武士にとってはこの世の名誉であり、冥途での思い出でございます」

 と言い終わらないうちに、ただ弱るばかりだった。判官は涙をはらはらと流し、

「この辺りに尊い僧はいないか」

 と言って捜し出し、

「この手負いの者が今にも息を引き取るので、一日経を書いて弔え」

 と言い、太くたくましい黒い馬に金覆輪の鞍を置いて、その僧にお与えになった。

 判官が五位尉になられたとき、馬にも五位を授け、大夫黒と呼ばれた馬だった。

 一谷の鵯越も、この馬で駆け下りられた。

 弟の四郎兵衛をはじめ、これを見た兵たちはみな涙を流し、

「この君のために命を失うことは、まったく少しも惜しくない」

 と言った。

那須与一

 そうするうちに、阿波や讃岐で平家に背き、源氏を待っていた者たちが、あちらの峰、こちらの谷から14、15騎、20騎と連れ立って参ったので、判官の軍勢は間もなく300余騎になった。

「今日は日が暮れた。勝敗を決することはできない」

 と言って退くところへ、沖から美しく飾った小舟が1艘、岸へ向かって漕ぎ寄せてきた。

 磯から7、8段ほどのところまで来ると、船を横向きにした。

 何だろうと見ていると、船の中から18、19歳ほどの、まことに優雅で美しい女房が現れた。柳の五衣に紅の袴を着け、全体が紅で日の丸を描いた扇を船のせがいに挟んで立て、陸へ向かって手招きした。

 判官は後藤兵衛実基を召して、

「あれは何だ」

 とおっしゃった。

「射よということでしょう。ただし、大将が矢面に進み出て美女をご覧になったら、弓の名手に狙わせて射落とそうという計略だと思われます。それはそうとして、扇をお射させになるのがよろしいでしょう」

 と申し上げた。

「射ることのできる者は、味方に誰がいるか」

 とおっしゃると、

「名手は大勢おりますが、その中でも下野国の住人、那須太郎資高の子、与一宗高は小柄ながら腕が優れております」

「その証拠はどうだ」

 とおっしゃると、

「飛ぶ鳥などを競って射ると、3羽のうち2羽は必ず射落とす者です」

「それなら呼べ」

 と言って召された。

 与一はそのころ20歳ほどの男だった。

 濃い藍色の地に赤地の錦を使い、大首や袖口の色を変えた直垂に萌黄威の鎧を着け、足白の太刀を帯びていた。切斑の矢はその日の合戦で射て少し残っていたものを、鏃が高くなるように背負い、薄切斑に鷹の羽を交ぜて作ったぬた目の鏑を添えていた。

 滋籐の弓を脇に挟み、兜を脱いで鎧の高紐に掛け、判官の前にかしこまった。

「どうだ宗高、あの扇の真ん中を射て、平家に見せてやれ」

 与一はかしこまって申し上げた。

「射当てられるかどうか、確かではございません。射損じましたら、長く味方の不名誉となりましょう。確実に射当てる者にお命じになるのがよろしいかと存じます」

 と申し上げた。

 判官は大いに怒って、

「鎌倉を出て西国へ向かう者たちは、義経の命令に背いてはならぬ。少しでも異存のある者は、早くここから帰れ」

 とおっしゃった。

 与一は重ねて辞退するとよくないと思ったのだろうか。

「外れるかどうかは分かりませんが、ご命令でございますから、射てみましょう」

 と言って御前を退出した。太くたくましい黒い馬に小房の鞦を掛け、まろほやを摺った鞍を置いて乗った。

 弓を持ち直し、手綱をたぐって、岸へ向かって馬を歩ませた。味方の兵たちは遠くその後ろ姿を見送り、

「この若者はきっと射当てると思われます」

 と申し上げたので、判官も頼もしそうにご覧になった。

 矢を射るには少し遠かったので、海へ1段ほど馬を進めたが、なお扇までの距離は7段ほどあると思われた。

 時は2月18日の酉の刻ごろのことだった。折しも北風が激しく、磯に打つ波も高かった。

 船は揺り上げられ、揺り下げられて漂うので、扇も串の上に定まらずひらめいていた。

 沖では平家が船を一面に並べて見物していた。

 陸では源氏が馬の轡を並べて見ていた。

 どちらも晴れの場でないところはなかった。

 与一は目を閉じ、

「南無八幡大菩薩、とりわけ我が国の神々、日光権現・宇都宮・那須湯泉大明神、どうかあの扇の真ん中を射させてください。これを射損じるなら、弓を折って自害し、二度と人に顔を向けません。もう一度故郷へ帰そうとお思いになるなら、この矢を外させないでください」

 と心の中で祈り、目を開けると、風も少し弱まり、扇も射やすくなっていた。

 与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。

 小柄とはいっても矢は十二束三伏、弓は強かった。浦に響くほど長く鳴って飛び、過たず扇の要から1寸ほど離れたところを、ひふっと射切った。

 鏑矢は海へ入り、扇は空へ上がった。

 しばらく空にひらめいていたが、春風に一度、二度もまれて、海へさっと散り落ちた。

 夕日が輝く中、全体が紅で日の丸を描いた扇が白波の上に漂い、浮いたり沈んだりして揺れたので、沖では平家が船端をたたいて感嘆した。

 陸では源氏が箙をたたいてどよめいた。

弓流

 あまりの見事さに感激を抑えきれなかったのだろうか。船の中から50歳ほどの男が、黒革威の鎧を着け、白柄の長刀を持って現れ、扇の立っていたところに立って、落ち着いた様子で舞った。

 伊勢三郎義盛は与一の後ろへ馬を歩ませて寄り、

「ご命令だ。射よ」

 と言った。今度は中差の矢を取ってつがえ、十分に引き絞り、男の首の骨をひょうふっと射て、船底へ真っ逆さまに射倒した。

 平家の方では物音もせず、源氏の方ではまた箙をたたいてどよめいた。

「よく射た」

 と言う人もいれば、また、

「情けのないことだ」

 と言う者もいた。

 平家はこれを不本意に思ったのだろうか。楯を持つ者が一人、弓を持つ者が一人、長刀を持つ者が一人、3人の武者が渚へ上がり、楯を突き立て、

「敵よ、寄せてこい」

 と手招きした。

 判官は、

「あれを、馬の強い若党たちよ、駆け寄って蹴散らせ」

 とおっしゃった。武蔵国の住人、三穂屋四郎と同じく藤七、十郎、上野国の住人、丹生四郎、信濃国の住人、木曽中次の5騎が連れ立ち、叫んで駆けた。

 楯の陰から、塗った箆に黒いほろ羽を付けた大きな矢で、真っ先に進んだ三穂屋十郎の馬の左の胃懸に覆われた辺りを、ひょうづばっと射た。箆が突き抜けるほど深く射込んだ。

 屏風を倒すように馬がどうと倒れると、乗り手は右足を馬の背の上に越して左側へ下り立ち、跳んで太刀を抜いた。

 楯の陰から大長刀を振って襲いかかってきたので、三穂屋十郎は小太刀では大長刀にかなわないと思ったのだろうか。太刀をさっと振って逃げると、敵は跳んで続き、追いかけた。

 長刀で薙ぐのかと見ると、そうではなく、長刀を左脇に挟み、右手を伸ばして三穂屋十郎の兜の錣をつかもうとした。

 十郎はつかまれまいと走った。

 敵は二度つかみ損ね、四度目にむずとつかんだ。

 しばらく持ちこたえたように見えた。

 十郎は鉢付の板のところから錣をぷつりと引き切って逃げた。

 残る4騎は馬を惜しんで駆けず、見物していた。

 三穂屋十郎は味方の馬の陰へ逃げ入り、息を継いでいた。

 敵は追ってこず、長刀を杖にして突き、兜の錣を差し上げて大声を上げた。

「日ごろは噂にも聞いていたであろう。今は目でも見られよ。これこそ京の者たちが呼ぶ、上総悪七兵衛景清だ」

 と名乗り捨てて帰っていった。

 平家はこれで気を取り直し、

「悪七兵衛を討たせるな。続け、者ども」

 と言って、また200余人が渚へ上がり、楯を雉の羽のように並べて突き立て、

「敵よ、寄せてこい」

 と手招きした。

 判官はこれを見て、

「いまいましいことだ」

 と言い、後藤兵衛父子と金子兄弟を先頭に立て、奥州の佐藤四郎兵衛と伊勢三郎を左右に立て、田代冠者を後ろに立てて、80余騎で叫んで駆けられた。平家の兵たちは馬に乗らず、ほとんど徒歩の武者だったので、馬にぶつかられまいと退き、みな船に乗った。

 楯は算木を散らしたように、ばらばらに蹴散らされた。

 源氏の兵たちは勝ちに乗り、馬の太腹が浸かるほど海へ次々と入って攻め戦った。

 判官が深入りして戦っていると、船の中から熊手で判官の兜の錣に、からりからりと2、3度まで打ち掛けてきた。味方の兵たちが太刀や長刀で次々に払いのけているうち、どうしたのだろう。判官は弓を引っ掛けられて落とされた。

 身を伏せ、鞭で弓をかき寄せて拾おうとなさったので、兵たちは、

「そのままお捨てください」

 と申し上げたが、とうとう拾い上げ、笑って帰られた。

 年長の者たちは指を鳴らして非難し、

「残念なことでございます。たとえ千疋、万疋にも相当するお宝であっても、どうしてお命に代えられましょう」

 と申し上げた。判官は、

「弓が惜しくて取ったのではない。義経の弓といえば、2人がかりでも張り、あるいは3人がかりでも張る、伯父の為朝の弓のようなものなら、わざと落として取らせよう。弱々しい弓を敵が取って持ち、『これこそ源氏の大将、九郎義経の弓だ』と言ってあざ笑うだろう。それが残念なので、命に代えて取ったのだ」

 とおっしゃったので、人々はみな感心した。

 そうするうちに日が暮れた。平家の船は沖に浮かび、源氏は陸へ退いて、むれ高松の中にある野山に陣を取った。

 源氏の兵たちは、この3日の間寝ていなかった。

 一昨日は渡辺の福島を出発したので、その夜は大波に揺られて眠れず、昨日は阿波国勝浦で戦い、一晩中山を越え、今日はまた一日戦って過ごした。みな疲れ果て、ある者は兜を枕にし、ある者は鎧の袖や箙などを枕にして、前後も分からず眠っていた。

 その中で判官と伊勢三郎は眠らなかった。

 判官は高いところへ登り、敵が来るかと遠くを見張られた。伊勢三郎は低いところに隠れ、敵が寄せてきたら、まず馬の太腹を射ようと待ち構えた。

 平家の方では能登守を大将として、500余騎で夜討ちしようと支度したが、越中次郎兵衛盛次と海老次郎守方が先陣を争っているうちに、その夜もむなしく明けてしまった。

 夜討ちさえしていたら、源氏はどうして持ちこたえられただろう。

 攻め寄せなかったことこそ、まったく運の尽きだった。

志度合戦

 夜が明けると、平家は船に乗って、この国の志度浦へ漕ぎ退いた。

 判官は300余騎の中から馬と人を選び、80余騎で追いかけた。

 平家はこれを見て、

「敵は小勢だ。包囲して討て」

 と言い、また1,000余人が渚に上がり、叫んで攻め戦った。

 そうするうちに、八島に残っていた200余騎の兵たちが援軍として駆けてきた。

 平家はこれを見て、

「ああ、源氏の大軍が続いてくる。何十万騎いるのだろう。包囲されてはかなわない」

 と言ってまた船に乗り、潮に引かれ、風に従って、どこへ向かうともなく逃げていった。

 四国はすべて大夫判官に追い落とされ、九国へは入れず、ただ行き先の定まらない中有の衆生のように見えた。

 判官は志度浦に下りて首を実検していらしたが、伊勢三郎義盛を召しておっしゃった。

「阿波民部重能の嫡男、田内左衛門教能は、河野四郎通信が召しても参らないので攻めるために、3,000余騎で伊予へ向かっていた。河野を討ち漏らし、家子や郎等150人の首を切って、昨日八島の内裏へ届けたが、今日ここへ着くと聞く。お前が出向いて、何とか説き伏せて連れて参れ」

 とおっしゃった。義盛はかしこまって承り、旗を1流頂いて掲げ、わずか16騎の軍勢で、みな白装束を着て駆けていった。

 義盛は教能に行き会った。

 白旗と赤旗が、2町ほどを隔てて揺らいでいた。

 伊勢三郎義盛は使者を立てて申し入れた。

「私は源氏の大将、九郎大夫判官殿に仕える伊勢三郎義盛という者です。大将に申し上げたいことがあって、ここまで参りました。合戦のためではございませんので、武具も着けず、弓矢も持たせておりません。道を開けてお入れください」

 と言うと、3,000余騎の兵たちは中を開けて通した。

 義盛は教能と馬を並べ、

「すでにお聞きになっているでしょう。鎌倉殿の弟君、九郎大夫判官殿は院宣を承り、平家追討のために西国へお向かいになりましたが、一昨日阿波国勝浦で、あなたの伯父の桜間介殿が討たれました。昨日は八島へ攻め寄せ、御所も内裏もすべて焼き払い、大臣殿父子を生け捕りに申し上げ、能登殿は自害なさいました。そのほかの公達は、ある方は討ち死にし、ある方は海にお入りになりました。わずかに残っていた者たちも、志度浦ですべて討たれました。あなたの父君、阿波民部殿は降参して参られ、義盛がお預かり申し上げています。『ああ、田内左衛門はこのことを夢にも知らず、明日は戦って討たれてしまうだろう。むごいことだ』と一晩中嘆いておられます。それがあまりにもお気の毒で、このことをお知らせしようと、ここまで参りました。このうえは戦って討ち死にするにせよ、降参して父君にもう一度お会い申し上げるにせよ、どうするかはあなたのお考え次第です」

 と言った。田内左衛門は名高い武士だったが、運が尽きたのだろうか。

「すでに聞いていることと少しも違わない」

 と言って、兜を脱ぎ、弓の弦を緩めて郎等に持たせた。

 大将がこのようになった以上、3,000余騎の兵たちもみな同じようにした。

 わずか16騎に連れられ、恥を忍んで降参しに参った。

「義盛の策はまことに見事だった」

 と判官も感心なさった。

 すぐに田内左衛門の武具を取り上げ、伊勢三郎に預けられた。

「さて、あの軍勢はどうする」

 とおっしゃると、

「遠国の者たちは誰を特に主君と思い申し上げるわけでもございません。ただ世の乱れを鎮め、国を治められる方を主君とするでしょう」

 と申し上げた。まことにそうだろうと、3,000余騎をみな自分の軍勢に加えられた。

 同じ月の22日、辰の刻ごろ、渡辺に残っていた200余艘の船が、梶原を先頭に八島の磯へ着いた。

「四国はすべて九郎大夫判官に攻め落とされた。今は何の役に立つだろう。会に間に合わない花、6日の菖蒲、争いが終わってからの仲直りの約束だ」

 と笑った。

 判官が都をお発ちになった後、住吉の神主長盛が院御所へ参り、大蔵卿泰経朝臣を通して申し上げた。

「去る16日の丑の刻に、当社の第三の神殿から鏑矢の音が出て、西へ向かって飛んでいきました」

 と申し上げたので、法皇は大いに感心なさり、御剣をはじめ、さまざまな神宝を長盛に持たせ、大明神へお納めになった。

 昔、神功皇后が新羅をお攻めになったとき、伊勢大神宮から2柱の神の荒魂をお付き添わせになった。

 2柱の神は御船の船尾と船首に立ち、新羅を容易に攻め落とされた。

 帰国の後、1柱は摂津国住吉郡におとどまりになった。

 住吉大明神のことだ。

 もう1柱は信濃国諏訪郡にお現れになった。

 諏訪大明神がそれである。

 昔の征伐のことをお忘れにならず、今も朝廷の敵を滅ぼしてくださるのだろうと、君も臣も頼もしくお思いになった。

鶏合 壇浦合戦

 そうするうちに九郎大夫判官義経は周防の地へ渡り、兄の参河守と合流した。

 平家は長門国のひく島に着いた。

 源氏は阿波国の勝浦に着いて、八島の戦いに勝った。

 平家が引島に着いたと聞こえたところ、源氏は同じ国の追津に着いたというのも不思議なことだった。

 熊野別当湛増は平家から深い恩を受けていたが、たちまちその恩を忘れ、

「平家へ参るべきか、源氏へ参るべきか」

 と考え、田辺の新熊野で神楽を奏し、権現に祈願申し上げた。

「ただ白旗の方に付け」

 とのご託宣があったが、なお疑い、白い鶏7羽と赤い鶏7羽を、権現の御前で戦わせた。

 赤い鶏は1羽も勝たず、みな負けた。

 そこで初めて源氏へ参ろうと決心した。

 一門の者たちを呼び集め、総勢2,000余人が200余艘の船に連れ立って乗った。若王子の御正体を船にお乗せし、旗の上部には金剛童子をお描きして、壇浦へ攻め寄せた。それを見て源氏も平家もともに拝んだ。

 しかし源氏の方に付いたので、平家は落胆なさった。

 また伊予国の住人、河野四郎通信も150艘の兵船に連れ立って乗り、漕いできて源氏と合流した。

 判官はいろいろと頼もしく、力を得たようにお思いになった。

 源氏の船は3,000艘、平家の船は1,000余艘で、唐船が少し交じっていた。

 源氏の軍勢は増えていく一方、平家の軍勢は減っていった。

 元歴2年3月24日の卯の刻、豊前国の門司・赤間関で源平が矢合わせをすることに決まった。

 その日、判官と梶原は今にも仲間同士で戦いを始めそうになった。

 梶原は判官に申し上げた。

「今日の先陣は景時にお与えください」

 判官は、

「義経がいなければ、そうもしよう」

 とおっしゃった。

「大将でいらっしゃるのですから」

 と申し上げると、判官は、

「思いもよらぬ。鎌倉殿こそ大将だ。義経は奉行を承った身なのだから、ただおのおのと同じだ」

 とおっしゃった。

 梶原は先陣を願い出ることができなくなり、

「生まれつき、この殿は侍の主君にはなりにくい」

 とつぶやいた。

 判官はこれを聞き、

「日本一の愚か者だ」

 と言って太刀の柄に手をお掛けになった。

 梶原は、

「鎌倉殿のほかに主君は持たぬものを」

 と言って、こちらも太刀の柄に手を掛けた。

 そうするうちに嫡男の源太景季、次男の平次景高、同じく三郎景家が父のもとへ集まった。

 判官の様子を見て、奥州の佐藤四郎兵衛忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などの一人当千の兵たちは、梶原を囲み、自分が討ち取ろうと進み出た。

 しかし判官には三浦介がおすがりし、梶原には土肥次郎がつかみ付き、2人は手を擦り合わせて申し上げた。

「これほどの大事を目前にしながら、仲間同士で戦えば平家が勢いづくでしょう。とりわけ鎌倉殿がお聞きになることを思えば、穏やかではございません」

 と申し上げたので、判官はお静まりになった。

 梶原も進み出ることができなかった。

 これをきっかけに梶原は判官を憎むようになり、ついには讒言して滅ぼしたと、後に聞こえた。

 そうするうちに源平両軍の間は、海上で30余町を隔てていた。

 門司・赤間・壇の浦は激しく流れ落ちる潮なので、源氏の船は潮に向かい、思いのままにならず押し流された。

 平家の船は潮に乗って進んできた。

 沖は潮が速いので、梶原は岸に沿って進み、敵の船と行き違うところで熊手を打ち掛けた。親子、主従14、15人で乗り移り、刀を抜いて船尾や船首を激しく薙いで回り、多くの敵を討ち取って、その日の手柄の第一に記された。

 いよいよ源平両軍は陣を向かい合わせ、鬨の声を上げた。

 上は梵天までも聞こえ、下は海の竜神も驚くだろうと思われた。

 新中納言知盛卿は船の屋形に立ち、大声でおっしゃった。

「戦は今日が最後だ。者ども、少しも退く心を持ってはならぬ。天竺や震旦でも、この日本でも、並ぶ者のない名将や勇士といわれていても、運命が尽きればどうにもならぬ。しかし名は惜しい。東国の者たちに弱気を見せるな。いつのために命を惜しむのか。ただこのことだけを思っている」

 とおっしゃった。御前に控えていた飛騨三郎左衛門景経が、

「これを承れ、侍たち」

 と命じた。

 上総悪七兵衛が進み出て申し上げた。

「坂東武者は馬の上では威勢のよいことを申しても、船での戦いにはいつ慣れたというのでしょう。たとえば魚が木に登ったようなものでしょう。一人ずつつかまえて海に漬けてやりましょう」

 と申し上げた。

 越中次郎兵衛は申し上げた。

「同じことなら大将の源九郎と組み合われよ。九郎は色が白く、背が低く、前歯がひどく突き出ているので、よく分かるそうだ。ただ直垂と鎧をいつも着替えるので、すぐには見分けにくいそうだ」

 と言った。

 上総悪七兵衛は、

「いくら勇猛であっても、その小冠者がどれほどのものか。片脇に挟んで海へ入れてしまおう」

 と言った。

 新中納言はこのように指図なさり、大臣殿の御前へ参って、

「今日は侍たちの様子がよく見えます。ただ阿波民部重能は心変わりしたと思われます。首をはねたいと存じます」

 と申し上げた。大臣殿は、

「はっきりしたこともなく、どうして首を切れるか。あれほどよく奉公した者なのに」

「重能、参れ」

 と言って召すと、重能は木蘭地の直垂に洗革の鎧を着け、御前にかしこまっていた。

「どうだ、重能は心変わりしたのか。今日はいかにも様子が悪く見える。四国の者たちによく戦うよう指図せよ。臆しているな」

 とおっしゃったので、

「どうして臆しましょう」

 と言って御前を退出した。

 新中納言は、

「ああ、あやつの首を打ち落としたい」

 とお思いになり、太刀の柄も砕けよとばかり握り締め、しきりに大臣殿の方をご覧になったが、お許しがなかったのでどうにもならなかった。

 平家は1,000余艘を三手に分けた。

 山賀の兵藤次秀遠が500余艘で先陣として漕ぎ向かった。

 松浦党が300余艘で第二陣として続いた。

 平家の公達が200余艘で第三陣としてお続きになった。

 兵藤次秀遠は九国一番の強弓の射手だった。自分ほどではないが、人並みの強弓の射手を500人選び、船々の船尾や船首に立たせ、肩を一列に並べて500本の矢を一度に放った。

 源氏は3,000余艘の船なので兵の数もさぞ多かっただろうが、あちこちから射たので、どこに強弓の射手がいるとも分からなかった。

 大将の九郎大夫判官は真っ先に進んで戦った。

 楯も鎧も持ちこたえられず、激しく射られてひるまされた。

 平家は味方が勝ったと言って、しきりに攻め太鼓を打ち、勝利の鬨を上げた。

遠矢

 源氏の方でも和田小太郎義盛は船に乗らず、馬に乗って渚に止まり、兜を脱いで人に持たせ、鐙の先を踏んで体を反らし、弓を十分に引いて射た。3町以内のものは外さず、強く射た。

 その中で特に遠く射たと思われる矢を、

「その矢を頂こう」

 と言って手招きした。

 新中納言はその矢を取り寄せてご覧になった。白篦に、鶴の本白とこうの羽を裂き合わせて作った矢で、十三束二伏あった。沓巻から一束ほど離れたところに、「和田小太郎平義盛」と漆で書き付けてあった。

 平家の方には強弓の射手が多いとはいっても、さすがに遠矢を射る者は少なかったのだろうか。しばらくたって、伊予国の住人、仁井紀四郎親清が呼び出され、この矢を頂いて射返した。

 これも沖から渚まで3町余りをまっすぐに射渡し、和田小太郎の1段余り後ろに止まっていた三浦の石田左近太郎の左腕に、深く突き立った。

 三浦の人々はこれを見て、

「和田小太郎が、自分より遠矢を射る者はいないと思って恥をかいた。おかしいことだ。あれを見よ」

 と笑った。

 和田小太郎はこれを聞き、

「いまいましいことだ」

 と言って小舟に乗り、漕ぎ出させ、平家の軍勢の中へ次々と矢をつがえ、引き絞って激しく射たので、多くの者が射殺され、傷を負った。

 また判官がお乗りの船に、沖から白篦の大矢を1本射立て、和田と同じように、

「こちらへ頂こう」

 と手招きした。

 判官はこの矢を抜かせてご覧になった。白篦に山鳥の尾羽で作った矢で、十四束三伏あり、「伊予国の住人、仁井紀四郎親清」と書き付けてあった。

 判官は後藤兵衛実基を召して、

「この矢を射られる者は、味方に誰がいるか」

 とおっしゃった。

「甲斐源氏の阿佐里与一殿こそ、強弓の射手でいらっしゃいます」

「それなら呼べ」

 と言って呼ばれると、阿佐里与一が現れた。

 判官はおっしゃった。

「沖からこの矢を射てきて、射返せと手招きしている。あなたは射ることができるか」

「頂いて見ましょう」

 と言って、爪で矢を押して調べ、

「これは箆が少し弱いようです。矢の長さも少し短いようです。同じことなら義成の道具で射ましょう」

 と言い、9尺ほどある塗籠籐の弓に、塗篦に黒いほろ羽を付けた矢で、自分の大きな手で握って十五束あるものをつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。

 4町余りをまっすぐに射渡し、大船の船首に立っていた仁井紀四郎親清の体の真ん中をひょうづばっと射て、船底へ逆さまに射倒した。

 生死は分からない。

 阿佐里与一はもともと強弓の名手だった。

 2町先を走る鹿を外さず射たと評判だった。

 その後、源平は戦いで命を惜しまず、叫び声を上げて攻め戦った。

 どちらが劣っているとも見えなかった。

 しかし平家の方には十善の徳を備えた帝王が、三種の神器をお持ちになっていらっしゃるので、源氏はどうなることかと危ぶんでいた。すると、しばらく白雲かと思われるものが空に漂っていたが、雲ではなかった。持ち主もいない白旗が1流舞い下り、源氏の船の船首に、竿付の緒が触れるほどに見えた。

 判官は、

「これは八幡大菩薩がお現れになったのだ」

 と喜び、手を洗い、口をすすいで拝み申し上げた。

 兵たちもみな同じようにした。

 また源氏の方から、江豚という魚が1、2千、泳いで平家の方へ向かった。

 大臣殿はこれをご覧になり、小博士晴信を召して、

「江豚はいつも多いが、まだこのようなことはない。どのようになるのか、占って申せ」

 と仰せになった。

「この江豚が引き返しましたら源氏が滅びましょう。そのまま泳いで通りましたら、味方の戦いが危うくなります」

 と言い終わらないうちに、平家の船の下をまっすぐ泳いで通った。

「世の中は、もうこれまでです」

 と申し上げた。

 阿波民部重能はこの3年の間、平家によく忠義を尽くし、たびたびの合戦で命を惜しまず防ぎ戦った。しかし子の田内左衛門を生け捕りにされ、どうしてもかなわないと思ったのだろうか。たちまち心変わりして源氏に味方した。

 平家の方では計略として、身分の高い人を兵船に乗せ、雑兵たちを唐船に乗せていた。源氏が唐船を怪しいと思って攻めてきたら、包囲して討とうと用意していたが、阿波民部が裏切った以上、源氏は唐船には目も向けず、大将が目立たぬように乗っておられる兵船を攻めた。

 新中納言は、

「いまいましい。重能めを切り捨てておくべきだった」

 と千度も後悔なさったが、どうにもならなかった。

 そうするうちに四国や鎮西の兵たちは、みな平家に背いて源氏に付いた。

 今まで従っていた者たちも、君に向かって弓を引き、主に対して太刀を抜いた。

 向こう岸に着こうとすると、波が高くて難しかった。

 こちらの岸へ寄ろうとすると、敵が矢先をそろえて待ち構えていた。

 源平の国を争う戦いは、今日が最後だと思われた。

先帝身投

 源氏の兵たちはすでに平家の船へ乗り移っていた。水主や梶取は射殺され、切り殺されて、船の向きを直すこともできず、船底に倒れ伏した。

 新中納言知盛卿は小舟に乗って御所の御船へ参り、

「世の中は、もうこれまでと見えます。見苦しい物はみな海へお捨てください」

 と言って船尾や船首を走り回り、掃いたり拭いたり、塵を拾ったりして、自ら掃除なさった。

 女房たちは、

「中納言殿、戦はどうなりましたか」

 と口々にお尋ねになった。

「珍しい東国の男たちをご覧になるでしょう」

 と言って、からからとお笑いになったので、

「このようなときに、何という冗談でしょう」

 とそれぞれ声を上げて叫ばれた。

 二位殿はこの有様をご覧になった。日ごろから覚悟しておられたことなので、鈍色の二衣をまとい、練袴の脇を高く挟み上げ、神璽を脇に挟み、宝剣を腰に差して、主上を抱き申し上げ、

「私は女であっても、敵の手には掛かるまい。君のお供に参る。君を大切に思い申し上げる人々は、急いで続かれよ」

 と言って船端へ歩み出られた。

 主上は今年8歳におなりだったが、お年よりはるかに大人びていらっしゃり、お顔は美しく、辺りまで照り輝くほどだった。

 お髪は黒く、豊かで美しく、背中を越して伸びていた。

 途方に暮れたご様子で、

「尼よ、私をどこへ連れていこうとするのか」

 と仰せになった。二位殿は幼い君に向かい、涙を抑えて申し上げた。

「君はまだご存じありませんか。前世で十善の戒めを守られたお力によって、今は万乗の主としてお生まれになりましたが、悪い因縁に引かれて、ご運はすでに尽きてしまいました。まず東へお向きになって、伊勢大神宮にお別れを申し上げてください。その後、西方浄土の来迎をお受けになろうとお思いになり、西へ向かってお念仏をお唱えください。この国は粟散辺地といって、つらいところでございますので、極楽浄土というすばらしいところへお連れ申し上げます」

 と泣く泣く申し上げた。主上は山鳩色の御衣を着て、髪をびんづらに結っていらした。涙にくれながら、小さく美しいお手を合わせ、まず東を伏し拝んで伊勢大神宮にお別れを申し上げ、その後西へお向きになってお念仏をお唱えになった。二位殿はすぐに抱き申し上げ、

「波の下にも都がございますよ」

 とお慰めして、千尋の海の底へお入りになった。

 悲しいことに、無常の春の風はたちまち花のようなお顔を散らし、無情なことに、生死の荒波は玉体をお沈めした。

 殿は長生と名付けて長く住むところと定め、門は不老と呼んで老いない門と書いたが、まだ10歳にもならないうちに、海底の水屑とおなりになった。

 十善によって帝位にお着きになった果報は、申し上げるのもかえっておろそかになるほどだ。

 雲の上の竜が下り、海底の魚とおなりになった。

 大梵天の高い楼閣の上、釈提の喜見宮の内にもたとえられる宮中で、かつては大臣や公卿の中にあって九族をなびかせておられた。今は船の中、波の下で、たちまちお命を失われたことこそ悲しかった。

能登殿最期

 女院はこの有様をご覧になり、焼石と硯を左右の懐に入れて海へお入りになった。渡辺党の源五馬允昵は、どなたかとは存じ上げなかったが、お髪を熊手に掛けて引き上げ申し上げた。

 女房たちが、

「ああ、何ということ。あのお方は女院でいらっしゃいます」

 と口々に申し上げたので、判官に知らせ、急いで御所の御船へお移しした。

 大納言佐殿は内侍所の唐櫃を持って海へ入ろうとなさったが、袴の裾を船端に射付けられ、足を取られてお倒れになったところを、兵たちがお引き留めした。

 そこで武士たちが内侍所の唐櫃の錠をねじ切り、蓋を開けようとすると、たちまち目がくらみ、鼻血が流れた。

 平大納言は生け捕りにされていらしたが、

「あれは内侍所でいらっしゃる。凡夫が拝見するものではない」

 とおっしゃったので、兵たちはみな退いた。

 その後、判官は平大納言と相談し、もとのように封じてお納めした。

 そうするうちに、門脇平中納言教盛卿と修理大夫経盛の兄弟は、鎧の上に碇を背負い、手を取り合って海へお入りになった。

 小松の新三位中将資盛、同じく少将有盛、いとこの左馬頭行盛も手を取り合い、一緒にお沈みになった。

 人々はこのようになさったが、大臣殿父子は海へ入ろうとする様子もなく、船端に立って四方を見回し、途方に暮れた様子でいらした。侍たちはあまりの情けなさに、そばを通るふりをして、大臣殿を海へ突き入れ申し上げた。

 右衛門督はこれをご覧になると、すぐに飛び込まれた。

 人々は重い鎧の上に重い物を背負ったり抱いたりして入ったからこそ、沈んだのだった。

 この父子はそのようになさらなかったうえ、泳ぎの名手でいらしたので、沈みきれなかった。

 大臣殿は、

「右衛門督が沈むなら私も沈もう。助かるなら私も助かろう」

 とお思いになった。

 右衛門督も、

「父が沈まれるなら私も沈もう。助かられるなら私も助かろう」

 と思い、互いに目を見交わしながら泳いでいらした。そこへ伊勢三郎義盛が小舟をすっと漕ぎ寄せ、まず右衛門督を熊手に掛けて引き上げ申し上げた。

 大臣殿はこれをご覧になって、いよいよ沈みきれなかったので、同じように生け捕りに申し上げた。

 大臣殿の乳母子、飛騨三郎左衛門景経は小舟に乗り、義盛の船へ乗り移って、

「我が君を生け捕りに申し上げるのは何者だ」

 と言い、太刀を抜いて走りかかった。

 義盛はすでに危うく見えたが、義盛の童が主を討たせまいと間に入り、景経に打ちかかった。

 景経の打つ太刀で義盛の童は兜の真っ向を打ち破られ、二太刀目に首を打ち落とされた。

 義盛はなお危うく見えたが、隣の船から堀弥太郎親経が十分に弓を引き、ひょうと射た。

 景経が兜の内側を射られてひるむところへ、堀弥太郎は義盛の船に乗り移り、三郎左衛門と組み合って倒れ伏した。

 堀の郎等が主に続いて乗り移り、景経の鎧の草摺を引き上げて二度刺した。

 飛騨三郎左衛門景経は名高い、力の強い勇士だったが、運が尽きたのだろうか。

 深手を負い、敵は大勢いて、そこでとうとう討たれた。

 大臣殿は生きたまま引き上げられ、目の前で乳母子が討たれるのをご覧になった。どのようなお気持ちだっただろう。

 そもそも能登守教経の矢先に回る者はいなかった。

 持っていた矢をすべて射尽くし、今日が最後と思われたのだろうか。赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧を着け、いか物作の大太刀を抜き、白柄の大長刀の鞘を外し、左右に持って薙いで回られた。向き合う者はなく、多くの者が討たれた。

 新中納言は使者を立て、

「能登殿、あまり罪をお作りになるな。それに、よい敵なのか」

 とおっしゃった。

「それなら大将と組み合えということだな」

 と心得、刀の柄を短く持って源氏の船に乗り移り、叫んで攻め戦った。

 しかし判官のお顔をご存じなかったので、武具の立派な武者を、

「判官か」

 と目に留めては駆け回られた。

 判官も前からこれを承知し、向き合うように見せてはいたが、あれこれ身をかわして能登殿とは組み合わなかった。

 しかし、どうしたのだろう。

 能登殿が判官の船に乗り当たり、

「ああ、いた」

 と目を付けて飛びかかった。判官はかなわないと思われたのだろうか。長刀を脇に挟み、2丈ほど離れていた味方の船へ、ひらりと飛び乗られた。

 能登殿は素早さが劣っていたのだろうか。

 すぐに続いては飛ばれなかった。

 もうこれまでと思われ、太刀と長刀を海へ投げ入れ、兜も脱いで捨てられた。

 鎧の草摺を引きちぎって捨て、胴だけを着け、髪を振り乱し、大きな両手を広げて立たれた。

 まったく辺りを圧倒して見えた。

 恐ろしいなどという言葉では言い足りなかった。

 能登殿は大声を上げ、

「我こそはと思う者は寄ってきて、教経と組み合い、生け捕りにせよ。鎌倉へ下り、頼朝に会ってひと言言おうと思うぞ。寄れ、寄れ」

 とおっしゃったが、寄る者は一人もいなかった。

 ここに土佐国の住人で、安芸郷を領有していた安芸大領実康の子に、安芸太郎実光という、30人分の力を持った勇士がいた。

 自分に少しも劣らない郎等が一人おり、弟の次郎も、人並み以上の強い者だった。

 安芸太郎は能登殿を拝見して言った。

「どれほど勇猛でいらっしゃっても、我ら3人が取り付いたなら、たとえ身の丈10丈の鬼であっても、どうして従わせられないことがあろう」

 そうして主従3人で小舟に乗り、能登殿の船へ横付けし、えいと言って乗り移った。兜の錣を傾け、太刀を抜いて一斉に打ちかかった。

 能登殿は少しも騒がず、真っ先に進んだ安芸太郎の郎等に足を合わせ、海へどうと蹴り入れられた。

 続いて寄る安芸太郎を左脇に取り挟み、弟の次郎を右脇に挟み、一度ぎゅっと締めて、

「さあ、それならお前たち、死出の山への供をせよ」

 と言い、26歳で海へすっとお入りになった。

内侍所都入

 新中納言は、

「見届けるべきほどのことは見届けた。今は自害しよう」

 と言って、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召し、

「どうだ、日ごろの約束を違えまいな」

 とおっしゃった。

「あれこれ申し上げるまでもございません」

 と申し上げた。

 家長は中納言に鎧を2領お着せし、自分も鎧を2領着け、手を取り合って海へ入った。

 これを見た侍たち20余人も、お後に残るまいと手を取り合い、一緒に沈んだ。

 その中で越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は、どうやって逃れたのだろう。そこからもまた逃げ延びた。

 海上には赤旗や赤幟を投げ捨て、引きちぎって捨てていたので、竜田川の紅葉を嵐が吹き散らしたようだった。

 岸へ寄せる白波も薄紅色になった。

 主のいない空の船は潮に引かれ、風に従い、どこへ向かうともなく揺られていった。悲しいことだった。

 生け捕りにされたのは、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵頭信基、讃岐中将時実、兵部少輔雅明、大臣殿の8歳になる若君。僧では二位僧都専親、法勝寺執行能円、中納言律師仲快、経誦坊阿闍梨融円。侍では源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、橘内左衛門季康、藤内左衛門信康、阿波民部重能父子など、以上38人だった。

 菊池次郎高直と原田大夫種直は、戦いの前から郎等たちを連れて降参しに参っていた。

 女房たちは女院、北政所、廊御方、大納言佐殿、帥佐殿、治部卿局以下、43人と聞こえた。

 元歴2年の春の暮れ、どのような年月の巡り合わせで、天皇お一人が海底に沈み、百官が波の上に浮かぶことになったのだろう。

 国母や女官は東西の武士の手に従い、臣下や公卿は数万の軍勢に捕らわれて故郷へお帰りになった。ある人は朱買臣が錦を着て帰れない嘆き、ある人は王昭君が胡国へ向かった恨みもこのようだったろうと、悲しまれた。

 同じ年の4月3日、九郎大夫判官義経は源八広綱を通して院御所へ、去る3月24日、豊前国田浦・門司関、長門国壇浦・赤間関で平家を攻め落とし、三種の神器を無事に都へお返し申し上げると報告した。院中の上下の人々は騒ぎ立った。

 広綱を御庭の中へ召し、合戦の次第を詳しくお尋ねになり、感心なさるあまり左兵衛尉に任じられた。

「確かに内侍所はお帰りになるのか。見て参れ」

 と言って、5日、北面に仕えていた藤判官信盛を西国へ遣わされた。

 信盛は宿所へも帰らず、そのまま院のお馬を頂き、鞭を上げて西へ向かって駆け下った。

 同じ月の14日、九郎大夫判官義経は平氏の男女の捕虜を連れて上ってきたが、播磨国明石浦に着いた。

 名高い浦なので、夜が更けるにつれて月は澄んで高く上り、秋の空にも劣らなかった。

 女房たちは集まり、

「以前ここを通ったときには、こうなろうとは思わなかった」

 などと言って、声を忍ばせて泣き合われた。

 帥佐殿はしみじみ月を眺められ、さまざまなことを残らず思い巡らせて、涙に床も浮くほどで、このように詠み続けられた。

 月を眺めると、涙に濡れた袂にその光が宿った。月よ、宮中のことを語っておくれ。

 治部卿局は、

 宮中で見たときと変わらない月の光が、澄むにつけても悲しくなる。

 大納言佐局は、

 私は明石浦で旅寝をしているが、月も同じ波の上に宿っているのだなあ。

「さぞ悲しく、昔が恋しくもおありだろう」

 と、判官は勇猛な武士ではあったが情けのある男だったので、身に染みて哀れに思われた。

 同じ月の25日、内侍所と璽の御箱が鳥羽にお着きになると聞こえたので、内裏からお迎えに参られたのは、勘解由小路中納言経房卿、高倉宰相中将泰通、権右中弁兼忠、左衛門権佐親雅、榎並中将公時、但馬少将教能。武士では伊豆蔵人大夫頼兼、石河判官代能兼、左衛門尉有綱だったと聞こえた。

 その夜の子の刻、内侍所と璽の御箱は太政官の庁にお入りになった。

 宝剣は失われた。

 神璽は海上に浮かんでいたものを、片岡太郎経春が引き上げ申し上げたと聞こえた。

剣

 我が国には神代から伝わる霊剣が3つある。

 十握剣、天の早切剣、草薙剣である。

 十握剣は大和国磯上の布留社に納められている。

 天の早切剣は尾張国の熱田宮にあるという。

 草薙剣は内裏にある。

 今の宝剣がこれである。

 この剣の由来を申し上げると、昔、素盞烏尊が出雲国曽我里に宮をお造りになったとき、そこには八色の雲がいつも立っていた。尊はこれをご覧になり、このようにお詠みになった。

 幾重もの雲が立つ出雲で、妻を住まわせるために幾重もの垣を造る。その幾重もの垣よ。

 これを三十一文字の歌の始まりとする。

 国を出雲と名付けたのも、このためだと承る。

 昔、尊が出雲国のひの河の上流へお下りになったとき、国津神に足なつち、手なつちという男神と女神がいらした。

 その子に美しい娘がいた。

 稲田姫という。

 親子3人で泣いていた。

 尊が、

「どうしたのか」

 とお尋ねになると、次のようにお答えした。

「私には娘が8人おりました。みな大蛇に呑まれてしまいました。今一人残っている娘も、また呑まれようとしています」

 その大蛇には尾も首も8つあった。

 それぞれが8つの峰、8つの谷にはい広がっていた。

 不思議な木や珍しい草が背に生えていた。

 幾千年を経たのかも分からなかった。

 目は日月の光のようだった。

 毎年人を呑んだ。

 親が呑まれる者は子が悲しみ、子が呑まれる者は親が悲しみ、村の南でも北でも泣く声が絶えないと申し上げた。

 尊は哀れにお思いになり、この娘を神聖な櫛に変えてお髪に挿してお隠しになった。そして8つの槽に酒を入れ、美女の像を作って高い丘に立てた。

 その姿が酒に映っていた。

 大蛇は人だと思い、その姿の映った酒を腹いっぱい飲んで酔い伏した。尊は帯びていらした十握の剣を抜き、大蛇をずたずたにお切りになった。

 そのうち一つの尾に至ると、切れなかった。

 尊は不思議にお思いになり、縦に裂いてご覧になると、一つの霊剣があった。

 これを取り、天照大神にお献じになった。

「これは昔、高間原で私が落とした剣だ」

 とおっしゃった。

 大蛇の尾の中にあったとき、群がる雲がいつも覆っていたので、天の村雲剣といった。

 大神はこれを手に入れ、天の御門の宝となさった。

 その後、豊葦原中津国の主として天孫をお下しになったとき、この剣も御鏡に添えてお授けになった。

 第9代の帝、開化天皇の御代までは、神鏡と剣は天皇と同じ殿にあった。第10代の帝、崇神天皇の御代になり、霊威を恐れて、天照大神を大和国笠縫里の石垣の広いところにお移しになったとき、この剣も天照大神の社壇にお納めになった。

 そのとき剣を新たに造って、お守りとなさった。

 その霊威はもとの剣に劣らなかった。

 天の村雲剣は崇神天皇から景行天皇までの3代、天照大神の社壇にあがめて置かれていた。景行天皇の御代の40年6月、東国の者たちが反逆した。皇子の日本武尊はお心も勇猛で、お力も人より優れていらしたので、お選びを受けて東国へ下られた。そのとき天照大神へ参詣してお別れを申し上げると、御妹のいつきの尊を通じて、慎んで怠らないようにというお言葉とともに、尊に霊剣が授けられた。

 さて駿河国へお下りになると、その地の賊たちは、

「この国には鹿が多くおります。狩りをしてお遊びください」

 とだまして野へお連れし、火を放って焼き殺し申し上げようとした。尊は帯びていらした霊剣を抜いて草をお薙ぎになると、刃の向いた1里の中の草は、すべて薙ぎ払われた。

 尊も火を放たれると、風はたちまち賊の方へ吹き覆い、悪党はすべて焼け死んだ。

 それから天の村雲剣を、草薙剣とも名付けた。

 尊はさらに奥へ攻め入り、3年の間に各地の賊を討ち平らげ、国々の悪党を攻め従えてお帰りになったが、途中から病にかかられ、30歳の7月に尾張国熱田の辺りで、とうとうお亡くなりになった。

 その魂は白い鳥となって天へ上ったというのも、不思議なことだった。

 生け捕りにした東国の者たちは、御子の武彦尊を通じて天皇にお差し出しになった。

 草薙剣は熱田の社に納められた。

 あめの御門の御代の7年、新羅の僧、道行はこの剣を盗み、自国の宝にしようと思い、ひそかに船に隠して進んだ。すると波風が激しくなり、たちまち海底へ沈みそうになった。

 すぐに霊剣のたたりだと知り、罪をわびて、目的を遂げられなかった。

 もとのように返してお納めした。

 ところが天武天皇の朱鳥元年に、これを召し出して内裏に置かれた。

 今の宝剣がこれである。

 その霊威は激しくあらたかである。

 陽成院が狂う病にかかられ、霊剣をお抜きになると、寝殿はきらきらと輝き、稲妻の光と変わらなかった。

 恐れるあまり投げ捨てられると、剣はひとりでに、ぱたと鳴って鞘に収まった。

 昔はこのようにすばらしいことがあった。

 たとえ二位殿が脇に差して海にお沈みになったとしても、容易には失われまいと、優れた海士たちを呼び、潜って捜させた。そのうえ霊験あらたかな仏や神の寺社に尊い僧を籠もらせ、さまざまな神宝を捧げて祈ったが、とうとう失われた。

 そのとき、朝廷のことに詳しい人々は話し合った。

「昔、天照大神は百代の王を守ろうとお誓いになった。その誓いがまだ変わらず、石清水の流れもまだ尽きていないので、日の光もまだ地に落ちていない。末の世であっても、天皇のご運が尽きるほどのことはあるまい」

 と言うと、その中のある博士が考えて申し上げた。

「昔、出雲国ひの河の上流で素盞烏尊に切り殺された大蛇が、霊剣を惜しむ心が深かったので、8つの首と8つの尾をしるしとして、人王80代の後、8歳の帝となり、霊剣を取り返して海底へお沈みになったのでしょう」

 と申し上げた。

 千尋の海の底で神竜の宝となったので、再び人の世へ帰らないのも、もっともだと思われた。

一門大路渡

 そうするうちに二の宮がお帰りになるというので、法皇からお迎えの車が差し出された。

 二の宮はご自身のお望みではなく平家に連れ去られ、西海の波の上を漂い、3年をお過ごしになった。母君も乳母の持明院の宰相も、おいたわしいことと思われていたが、無事にお帰りになったので、集まってみなうれし涙を流された。

 同じ月の26日、平氏の捕虜たちが京へ入った。

 みな小八葉の車だった。

 前後の簾を上げ、左右の物見の窓を開けた。

 大臣殿は浄衣をお着けになっていた。

 右衛門督は白い直垂を着て、父の車の後ろに乗られた。

 平大納言時忠卿の車も、同じように続いて進んだ。

 子の讃岐中将時実も同じ車で引き回されるはずだったが、病気だということで引き回されなかった。

 内蔵頭信基は傷を負っていたので、人通りの少ない道から入った。

 大臣殿はあれほど華やかでさっぱりしたお姿だったのに、別人のように痩せ衰えていらした。

 しかし四方を見回し、それほど思い沈んだ様子もなかった。右衛門督はうつむいて目も上げられず、深く思い詰めた様子だった。

 土肥次郎実平は木蘭地の直垂に小具足だけを着け、付き従う兵30余騎が車の前後を囲み、警護申し上げた。

 見物人は都の中に限らず、遠国や近国、山々や寺々からも、老人も若者も集まっていた。

 鳥羽の南門、作道、四塚までびっしり続き、幾千、幾万という数も分からなかった。

 人は振り返ることもできず、車は輪を回すこともできなかった。

 治承・養和の飢饉や東国・西国の戦いで、人々は滅び絶えたとはいっても、まだ多く残っていたのだと思われた。

 都を出てからまだ中1年、ほんの近ごろのことなので、栄華のころのことも忘れられていなかった。

 あれほど恐れおののいた人の今日の有様は、夢とも現実とも分からなかった。

 物の情けを知らない身分の低い男女に至るまで、涙を流し、袖を絞らない者はなかった。

 まして親しくお付き合いしていた人々は、どれほどの思いをしただろう。

 長年恩を受け、父祖の代から仕えていた者たちの多くは、妻子のある身を捨てがたく、源氏に付いていた。しかし昔の親しみは、たちまち忘れられるものではないので、さぞ悲しく思っただろう。

 そのため、袖を顔に押し当て、目を上げない者も多かった。

 大臣殿の牛飼は、木曽が院へ参ったとき、車を扱い損ねて切られた次郎丸の弟、三郎丸だった。

 西国では一時、元服した姿になっていたが、もう一度大臣殿の車をお引きしたいと思う心が深かったので、鳥羽で判官に申し上げた。

「舎人や牛飼という者は、取るに足りない下々の者でございますから、物の情けが分かるはずもございませんが、長年お使いいただいて、お慕いする心は浅くありません。差し支えなければお許しを頂き、大臣殿の最後のお車をお引きしたいと存じます」

 と強く願い出たので、判官は、

「差し支えはあるまい。早くせよ」

 と言って許された。

 三郎丸はひとかたならず喜び、きちんと装束を着け、懐から遣縄を取り出して付け替えた。涙にくれて行く先も見えなかったが、袖を顔に押し当て、牛の進むままに、泣く泣く車を引いて参った。

 法皇は六条東洞院に車を止めてご覧になった。

 公卿や殿上人の車も、同じように並べて止めていた。

 あれほどお身近くお使いになっていたので、法皇もやはりお心弱く、哀れにお思いになった。

 お供の人々はただ夢だとばかり思われた。

「日ごろは何とかしてあの人々に目を掛けていただき、お言葉を掛けていただきたいと思っていた。こうなるとは誰が思っただろう」

 と言って、上下の人々は涙を流した。

 以前、宗盛公が内大臣になり、お礼を申し上げに参られたときは、公卿では花山院大納言をはじめ12人が付き従い、車を連ねて進まれた。

 殿上人では蔵人頭親宗以下16人が先導した。

 公卿も殿上人も今日を晴れの日として華やかにしていた。中納言が4人、三位中将も3人までいらした。

 この平大納言も、そのときは左衛門督でいらした。

 御前に召され、引出物を頂いて厚くもてなされた様子は、すばらしい儀式だった。

 今日は公卿も殿上人も一人として従わず、同じく壇浦で生け捕りにされた侍たち20余人が白い直垂を着て、馬の上に縛り付けられ、引き回された。

 六条を東へ、河原まで引き回されて帰り、大臣殿父子は九郎判官の宿所、六条堀河にいらした。

 食事を差し上げたが、胸が詰まり、箸をお付けになることさえできなかった。

 互いに何もおっしゃらなかったが、目を見合わせて絶え間なく涙を流された。

 夜になっても装束をお緩めにならず、袖を下に敷いて横になられた。御子の右衛門督にご自分の袖をお掛けになったのを、見張っていた源八兵衛、江田源三、熊井太郎が見て、

「ああ、身分の高い者も低い者も、親子の情愛ほど悲しいものはない。袖を掛けて差し上げても、どれほどの役に立つだろう。ただただお心の深いことよ」

 と言って、勇猛な武士たちもみな涙を流した。

鏡

 同じ月の28日、鎌倉の前兵衛佐頼朝朝臣は従二位に昇られた。

 越階といって2階昇ることさえ、めったにない朝廷の恩なのに、これは3階だった。

 本来は三位に昇られるはずだったが、平家が三位になっていたのを忌んでのことだった。

 その夜の子の刻、内侍所は太政官の庁から温明殿へお入りになった。

 主上が行幸なさり、3夜にわたって臨時の神楽が行われた。

 右近将監小家能方は特別の勅命を受け、家に伝わる「弓立」「宮人」という神楽の秘曲を奏して、褒美を頂いた。めでたいことだった。

 この歌は、祖父の八条判官資忠という楽人のほかに知る者がいなかった。

 あまりに秘して子の親方には教えず、堀川天皇のご在位中に天皇へ伝えて亡くなったが、君が親方にお教えになった。

 芸の道を失わせまいとお思いになるお心に、感激の涙を抑えられなかった。

 そもそも内侍所というのは、昔、天照大神が天の岩戸に閉じ籠もろうとなさったとき、何とかしてご自身の姿を映し残し、子孫に見せようと、鏡をお鋳造になったものだ。

 これもお気に召さないと、また鋳直された。

 先の鏡は紀伊国の日前・国懸の社の鏡である。

 後の鏡は御子のあまの忍ほみみの尊にお授けになり、

「同じ殿にお住まいなさい」

 と仰せになった。

 さて天照大神が天の岩戸にお籠もりになり、天下は暗闇になった。八百万の神々が集まって岩戸の入り口で神楽を奏されると、天照大神は感激を抑えきれず、岩戸を細く開けてご覧になった。互いの顔が白く見えたことから、「面白」という言葉が始まったと承る。

 そのとき、こやねとたぢからをという力の強い神々が近寄り、えいと言ってお開けになった。それからは岩戸を閉められなくなったという。

 さて内侍所は第9代の帝、開化天皇の御代までは天皇と同じ殿にあったが、第10代の帝、崇神天皇の御代になり、霊威を恐れて別の殿へお移しになった。

 近ごろは温明殿にいらっしゃる。

 都を移し、天皇もお移りになってから160年を経て、村上天皇の御代、天徳4年9月23日の子の刻に、内裏の中で初めて火災が起きた。

 火は左衛門の陣から出たので、内侍所がいらっしゃる温明殿も近かった。

 まさに夜半のことなので、内侍も女官も居合わせず、神鏡をお運び出しすることもできなかった。

 小野宮殿が急いで参られたが、内侍所はすでにお焼けになっていた。

 世はもうこれまでなのだろうと涙を流されていると、内侍所はひとりでに炎の中を飛び出し、南殿の桜の梢にお掛かりになった。光は輝かしく、朝日が山の端から出るのと変わらなかった。

 そのとき小野宮殿は、世はまだ滅びていなかったとお思いになり、うれし涙を抑えられなかった。

 右膝をつき、左の袖を広げ、泣く泣く申し上げた。

「昔、天照大神は百代の王を守ろうとお誓いになりました。その誓いがまだ変わっていないなら、神鏡よ、実頼の袖にお宿りください」

 そのお言葉を言い終わらないうちに、鏡は飛び移られた。

 すぐに袖に包み、太政官の朝所へお移しになった。

 近ごろは温明殿にいらっしゃる。

 今の世では、お受けしようと思い立つ人も、誰がいるだろう。

 神鏡もまた、お宿りになることはないだろう。

 昔の世は、やはりすばらしかった。

文之沙汰

 平大納言時忠卿父子も、九郎判官の宿所の近くにいらした。

 世の中がこのようになった以上、どうなっても構わないと思うはずなのに、大納言はなお命を惜しく思われたのだろうか。子の讃岐中将を招き、

「人に知られてはならない手紙を1箱、判官に取られているのだ。これが鎌倉の源二位に見られたら、多くの人が害を受け、私も命を保てまい。どうしよう」

 とおっしゃった。中将は申し上げた。

「判官はふだんから情けのある者だそうです。そのうえ女房などがひたすら嘆くことには、どれほど重大なことでも冷淡にはできないと承っています。何の難しいことがありましょう。姫君たちが大勢いらっしゃるのですから、一人を妻にし、親しくおなりになった後で、お話しになるのがよろしいでしょう」

 大納言は涙をはらはらと流し、

「私が世に栄えていたときには、娘たちは女御や后にと考えていた。並の人の妻にしようとは少しも思わなかったのに」

 と言って泣かれた。中将は、

「今は決してそのようなことをお考えになってはなりません。今の奥方の姫君で、18歳におなりの方を」

 と申し上げたが、大納言はそれをやはり悲しくお思いになり、先の奥方の姫君で23歳になる方を、判官の妻にされた。

 この方も年こそ少し上だったが、顔立ちは美しく、心も優雅でいらしたので、判官はめったにない方と思い申し上げた。もとの妻、河越太郎重頼の娘もいたが、この方には別の部屋を立派に整えて、もてなした。

 さてこの女房が例の手紙のことを話し出されると、判官は封も開けずに、急いで時忠卿のもとへ送られた。

 大納言はひとかたならず喜び、すぐに焼き捨てられた。

 どのような手紙だったのだろう。はっきりしないこととして聞こえた。

 平家が滅びると、早くも国々は静まり、人々の往来にも支障がなくなった。

 都も穏やかだったので、

「九郎判官ほどの人はいない。鎌倉の源二位は何をしたというのか。世の中はすっかり判官の思うままになればよい」

 などと言うのを、源二位は漏れ聞き、

「これはどうしたことだ。頼朝がよく取り計らって兵を送り上らせたからこそ、平家はたやすく滅びたのだ。九郎だけで、どうして世を鎮められよう。人がこのように言うのに思い上がって、何かにつけて世を自分の思うままにしているのだろう。人はほかにも大勢いるのに、平大納言の婿になり、大納言の世話をしているというのも承知できない。また世をはばからず、大納言が九郎を婿にしたこともいわれがない。こちらへ下ってきても、きっと身分を超えた振る舞いをするだろう」

 とおっしゃった。

副将被斬

 同じ年の5月7日、九郎大夫判官が平氏の捕虜たちを連れて関東へ下ると聞こえたので、大臣殿は判官のもとへ使者を立て、

「明日は関東へ下ると承りました。親子の情愛は断ち切れないものです。捕虜の中に8歳の童と記されていた者は、まだこの世にいるのでしょうか。もう一度会いたいと存じます」

 とお伝えになった。判官の返事には、

「誰も親子の情愛は断ち切れないものですから、まことにそのようにお思いになるでしょう」

 とあり、河越小太郎重房のもとにお預けしていた若君を、大臣殿のもとへお連れするようにと言われた。人から車を借りてお乗せし、お付きしていた女房2人も同じ車に乗って付き添い、大臣殿のもとへ参った。

 若君は遠くから父をご覧になり、とてもうれしそうだった。

 大臣殿が、

「さあ、こちらへ」

 とおっしゃると、すぐにお膝の上へ行かれた。

 大臣殿は若君の髪をなで、涙をはらはらと流し、警護の武士たちにおっしゃった。

「これを皆、聞かれよ。この子は母もいないのだ。この子の母は、この子を産むとき、出産は無事だったが、そのまま伏せって病み、とうとう亡くなった。『この後、どのような方との間にお子をお持ちになっても、心を変えずに育て、私の形見としてご覧ください。手元から離して乳母などのところへお遣りにならないでください』と言ったのがいじらしく、『あの右衛門督には朝廷の敵を平らげるときに大将をさせ、この子には副将をさせようと思うので』と言って、名を副将と付けた。すると、ひとかたならずうれしそうに思い、もう最期というときまで、名を呼ぶなどしてかわいがっていたが、7日目に亡くなったのだ。この子を見るたびに、そのことが忘れられなく思われる」

 と言って涙も抑えられなかったので、警護の武士たちもみな袖を絞った。

 右衛門督もお泣きになり、乳母も袖を絞った。

 しばらくたって、大臣殿は、

「それでは副将、早く帰れ。会えてうれしかった」

 とおっしゃったが、若君は帰られなかった。

 右衛門督はこれをご覧になり、涙を抑えておっしゃった。

「さあ、副将御前、今夜は早く帰れ。今から客人が来るのだ。朝は早く参れ」

 とおっしゃったが、若君は父の浄衣の袖にしっかりつかまり、

「嫌だ。帰らない」

 と泣かれた。

 そうして長い時間がたち、日も次第に暮れた。

 そのままでもいられないので、乳母の女房が抱き取り、車にお乗せした。2人の女房も袖を顔に押し当て、泣く泣くお別れを申し上げ、ともに乗って出ていった。

 大臣殿は遠くまで後ろ姿を見送り、日ごろの恋しさは物の数ではなかったと悲しまれた。

「この子は母の遺言がいじらしいので」

 と言って乳母のところへも遣らず、朝夕御前でお育てになった。

 3歳で初めて冠を着け、義宗と名乗らせた。

 次第に成長されるにつれて顔立ちは美しく、心も優雅だったので、大臣殿もいとしくかわいいものとお思いになり、西海の旅先、波の上、船の中の暮らしでも、片時も離れられなかった。

 ところが戦いに敗れた後は、今日初めて互いにお会いになった。

 河越小太郎が判官の御前へ参って、

「さて若君のことは、どのようにお取り計らいになりますか」

 と申し上げると、

「鎌倉までお連れするには及ばぬ。お前が何とかここで取り計らえ」

 とおっしゃった。

 河越小太郎は宿所へ帰り、2人の女房に言った。

「大臣殿は鎌倉へお下りになりますが、若君は京におとどまりになることになりました。重房も下りますので、緒方三郎惟義の手へお渡しすることになりました。早くお乗りください」

 と言って車を寄せたので、若君は何も疑わずお乗りになった。

「また昨日のように父上のところへ行くのか」

 と言って喜ばれたのは、はかないことだった。

 六条を東へ車を進めた。

 女房たちは、

「ああ、何だかおかしい」

 と恐ろしく思っているうちに、少し下がって、兵50、60騎ほどが河原へ出た。

 すぐに車を止め、敷皮を敷き、

「お下りください」

 と申し上げると、若君は車から下りられた。

 とても不審にお思いになり、

「私をどこへ連れていこうとするのか」

 とお尋ねになったが、2人の女房は何ともお答えできなかった。

 重房の郎等が太刀を脇に寄せて持ち、左側からお後ろへ回って、今にもお切りしようとした。若君はそれを見つけられ、それで逃れられるかのように、急いで乳母の懐へ逃げ込まれた。

 さすがに強引に取り出すこともできなかった。乳母は若君を抱き、人が聞くのもはばからず、天を仰ぎ、地に伏して叫んだ。その心の中が察せられ、哀れだった。

 こうして長い時間が過ぎたので、河越小太郎重房は涙を抑え、

「今はどのようにお思いになっても、かないません。早く」

 と言った。そのとき郎等が若君を乳母の懐から引き出し、押し伏せて、腰の刀でとうとう首を切った。

 勇猛な武士たちも、さすがに岩や木ではないので、みな涙を流した。

 首は、

「判官にお見せしよう」

 と言って持っていった。

 乳母の女房は裸足で追いつき、

「何の差し支えがございましょう。お首だけを頂いて、後世をお弔い申し上げましょう」

 と言った。判官もとても哀れに思い、涙をはらはらと流して、

「まことにそのように思われるだろう。もっともだ。早く渡せ」

 と言って与えられた。

 女房はこれを取り、懐に入れて、泣く泣く京の方へ帰っていくのが見えた。

 その後5、6日して、桂川に女房2人が身を投げたことがあった。

 一人、小さい人の首を懐に入れて沈んでいたのは、この若君の乳母の女房だった。

 もう一人、亡骸を抱いていたのは、世話役の女房だった。

 乳母が思い切ったのは、悲しみが極まってのことで、どうしようもなかったのだろう。世話役の女房まで身を投げたのは、めったにないことだった。

腰越

 そうするうちに大臣殿父子は九郎大夫判官に連れられ、7日の明け方に関東へお下りになった。

 粟田口を過ぎると、大内山も雲の彼方に遠ざかった。

 逢阪に来ると関の清水をご覧になり、大臣殿は泣く泣くこのようにお詠みになった。

 都にいるのは今日が最後となる。別れていく関の清水に、また逢坂で我が姿を映すことがあるだろうか。

 道中でもあまりに心細そうでいらしたので、判官は情けのある人で、さまざまにお慰めした。

 大臣殿は判官に向かって、

「どうか今度、親子の命を助けてくれ」

 とおっしゃった。

「遠い国やはるかな島へお移しすることにもなりましょう。お命を奪い申し上げるまでには、なりますまい。たとえそうなりましても、義経の勲功の褒美に代えるよう願い出て、お命だけはお助け申し上げましょう。ご安心ください」

 と頼もしく申し上げたので、

「たとえ夷の千島であっても、むなしい命さえあれば」

 とおっしゃったのは、情けないことだった。

 日数がたち、同じ月の24日、鎌倉に下り着かれた。

 梶原は判官より1日先に、鎌倉殿へ申し上げた。

「日本国は今では残るところなく、お従い申し上げております。ただし弟君の九郎大夫判官殿こそ、最後の敵と見受けられます。そのわけは、『一谷を上の山から義経が攻め落とさなかったら、東西の木戸口は破りにくかった。生け捕りも討ち取った首も、義経に見せるべきなのに、何の役にも立たれない蒲殿の方へお見せするいわれがあるか。本三位中将殿をこちらへ渡さないなら、参って頂く』と言って、今にも車を出そうとなさいました。景時が土肥と心を合わせ、三位中将殿を土肥次郎にお預けしてから、ようやくお静まりになったのです」

 と語り申し上げた。鎌倉殿はうなずき、

「今日、九郎が鎌倉へ入るそうだ。おのおの用意されよ」

 と命じられたので、大名や小名が駆け集まり、間もなく数千騎になった。

 金洗沢に関所を置き、大臣殿父子をお引き取りし、判官は腰越へ追い返された。

 鎌倉殿は兵を七重、八重に配置し、自分はその中にいらしながら、

「九郎は機敏な男なので、この畳の下からでもはい出てくるような者だ。ただし頼朝は、してやられまい」

 とおっしゃった。

 判官はお思いになった。

「去年の正月に木曽義仲を追討して以来、一谷から壇浦に至るまで命を捨てて平家を攻め落とし、内侍所と璽の御箱を無事に都へお返し申し上げ、大将父子を生け捕りにして、ここまで連れて下ってきたのだ。

たとえどのような不都合があっても、一度はどうして対面がないのか。およそ九国の惣追捕使にも任じられ、山陰・山陽・南海道のどれかを預けられ、一方面の守りにもされるだろうと思っていた。それなのに、わずかに伊予国だけを領有するよう命じられ、そのうえ鎌倉にさえ入れないのは、望みと違っている。

これはいったいどうしたことか。日本国を鎮めたのは義仲と義経の働きではないか。たとえば同じ父の子で、先に生まれた者を兄とし、後に生まれた者を弟とするだけだ。誰が天下を治めようとも、治められないことがあろうか。そのうえ今度は対面さえせずに追い返されるとは、恨めしいことだ。何をわびればよいのかも分からぬ」

 とつぶやかれたが、どうにもならなかった。

 まったく不忠のないことを、たびたび起請文で申し上げたが、景時の讒言によって鎌倉殿はお取り上げにならなかった。判官は泣く泣く1通の書状を書き、広元のもとへ送った。

 その書状には、次のようにあった。

「源義経が恐れながら申し上げる趣旨は、ご代官の一人に選ばれ、勅命の使者として朝廷の敵を倒し、会稽の恥辱をすすいだことについてでございます。

勲功への褒美が与えられるはずのところ、思いもよらず虎の口のような者の讒言によって、莫大な勲功も黙殺されました。義経には過ちがないのに罪を受け、功があって過ちはないと申しても、おとがめを受けて、むなしく血の涙に沈んでおります。

讒言する者の言葉の真偽も調べられず、鎌倉の中へ入れないため、本心を述べることができません。

むなしく数日を過ごしております。

今このようになり、久しくお顔を拝見しておりません。

血を分けた兄弟の情はすでに絶え、宿命の運が尽き、むなしくなったようでございます。

あるいは前世の業の因縁が、報いとして現れているのでしょうか。

悲しいことでございます。

このことについて、亡き父の尊い御霊がお生まれ変わりにならなければ、誰が私の悲しみを弁明してくださるでしょう。

誰が哀れみをお掛けくださるでしょうか。

改めて申し上げることは愚痴にも似ておりますが、義経は身体も髪も皮膚も父母から授かって、いくらも年月を経ないうちに、亡き頭殿がお亡くなりになったため、父のない子となりました。母の懐に抱かれて大和国宇多郡へ逃れて以来、まだ一日、片時も安心して過ごしておりません。

むなしい命を保ってはおりますが、京都を歩き回ることも難しかったため、各地に身を隠し、辺境の遠い国を住まいとして、土地の民や百姓たちに仕えてもらいました。

しかし兄弟の交わりがたちまち十分に深まり、平家一族を追討するために上洛した際、木曽義仲を討った後、平氏を倒すため、あるときは険しい岩山で駿馬に鞭を打ち、敵のために命を失うことも顧みませんでした。あるときは果てしない大海で風波の難をしのぎ、海底へ沈むこともいとわず、屍を大魚のえらにさらす覚悟でおりました。

それだけでなく、甲冑を枕とし、弓矢を仕事とする本意は、ひとえに父の亡き魂の憤りをお鎮めし、長年の願いを遂げようとするほかにありません。

そのうえ義経が五位尉に任じられたことは、当家の重い職で、何がこれにまさりましょう。

それにもかかわらず、憂いは深く、嘆きは切実です。

仏神のお助けのほかに、どうして訴えを届けられましょう。

そのため、諸寺諸社の牛王宝印の裏に、野心のないことを記し、日本国中の大小の神々や冥界の神々を請じてお呼び申し上げ、数通の起請文を書いて差し上げましたが、なおお許しがありません。

そもそも我が国は神の国です。神は道理に外れたことをお受けにはなりません。

頼むところはほかにございません。

ひたすら貴殿の広大な慈悲を仰ぎます。

よい機会をうかがって鎌倉殿のお耳に入れ、ひそかにお取り計らいくださり、過ちのないことを申し述べて、お許しを頂けましたら、善を積んだ余りの福は家門に及び、栄華を永く子孫へ伝えるでしょう。

それによって長年の憂いの眉を開き、一生の安らぎを得たいと存じます。

紙の上には書き尽くせません。

合わせて省略いたしました。

義経、恐れつつ謹んで申し上げます。

元歴2年6月5日 源義経より進上 因幡守殿へ」

 と書かれていた。

大臣殿被斬

 そうするうちに鎌倉殿は大臣殿と対面なさった。

 ご自身のいるところから庭を一つ隔てた向かいの建物に大臣殿を座らせ申し上げ、簾の中からご覧になった。比気藤四郎義員を使者として申し伝えられた。

「平家の方々に対して、個人的な恨みは決してございません。そのわけは、池殿の尼御前がどのようにお申し出になっても、亡き入道殿のお許しがなければ、頼朝はどうして助かったでしょう。流罪に軽くしていただいたのは、ひとえに入道殿のご恩です。そのため20余年にわたって、そのまま暮らしておりました。しかし朝廷の敵とおなりになり、追討するようにとの院宣を頂きましたので、いつまでも天皇の国土に生きていながら、勅命に背くわけにもいかず、どうにもなりませんでした。このようにお目に掛かることになったのは、本望でございます」

 義員がこれを伝えようと御前へ参ると、大臣殿は座り直してかしこまられた。情けないことだった。

 国々の大名や小名が並んでいる中には、京の者も大勢いた。みな指を鳴らして非難し、

「座り直してかしこまられたら、お命が助かるのか。西国で最期を遂げられるべき方が、生きたまま捕らわれ、ここまでお下りになるのも、もっともだ」

 と言った。

 涙を流す人もいた。

 その中で、ある人は、

「『猛虎が深山にいるときは、あらゆる獣が震え恐れる。檻や落とし穴の中に入ると、尾を振って食べ物を求める』という。勇猛な虎が深い山にいるときは多くの獣が恐れるが、檻の中に閉じ込められたときは、尾を振って人に向かうだろう。同じように、どれほど勇猛な大将でも、このようになった後は心が変わるものなので、大臣殿もこのようにしておられるのだ」

 と言ったともいう。

 そうするうちに九郎大夫判官はさまざまに弁明したが、景時の讒言によって、鎌倉殿からはまったくはっきりした返事もなかった。

「急いで上られよ」

 と仰せになったので、同じ年の6月9日、大臣殿父子をお連れし、都へ帰り上られた。

 大臣殿は、少しでも日数が延びるのをうれしく思われた。

 道中でも、

「ここでだろうか、ここでだろうか」

 とお思いになったが、国々や宿々を次々に通り過ぎた。

 尾張国に内海というところがあった。

 ここは亡き左馬頭義朝が殺されたところなので、ここでこそきっとと思われたが、そこも過ぎたので、大臣殿は少し頼みに思う心が生まれ、

「それなら命は助かるのだろうか」

 とおっしゃった。はかないことだった。

 右衛門督は、

「どうして命が助かるだろう。このように暑いころなので、首が傷まないように取り計らい、京に近くなってから切るのだろう」

 とお思いになったが、大臣殿がひどく心細そうにしておられるのが気の毒で、そうは申し上げなかった。

 ひたすら念仏ばかりお唱えになった。

 日数がたち、都も近づいて、近江国篠原の宿にお着きになった。

 判官は情け深い人なので、3日の道のりを隔てたところから人を先に遣わし、善知識として大原の本性房湛豪という聖をお招きしていた。

 昨日までは親子で一緒にいらしたが、今朝から引き離され、別のところに座らせられたので、

「それなら今日が最後なのだろうか」

 といよいよ心細く思われた。

 大臣殿は涙をはらはらと流し、

「いったい右衛門督はどこにいるのだろう。たとえ首は落ちても、体は同じところに横たわろうと思っていたのに、生きたまま別れたことが悲しい。17年の間、一日、片時も離れたことがない。西国で海底へ沈まず、恥ずかしい評判を世に流すのも、あの子のためなのだ」

 と言って泣かれた。聖は哀れに思ったが、自分まで心弱くなってはならないと思い、涙を拭い、そうでない様子を装って申し上げた。

「今はあれこれお考えになってはなりません。最期の様子をご覧になれば、互いのお心の中も悲しくなるでしょう。お生まれになって以来の楽しみや栄えは、昔にも例が少ないほどです。天皇の外戚となり、大臣の位に至られました。この世の栄華は一つも残すところがありません。今またこのような目にお遭いになるのも、前世からの宿業です。世をも人をも恨まれるべきではありません。

大梵王宮の深い禅定の楽しみも、考えてみれば長くはありません。まして稲妻や朝露のような下界の命は、なおさらです。忉利天の億千年も、ただ夢のようなものです。39年をお過ごしになったのも、わずかなひとときです。誰が不老不死の薬をなめたでしょう。誰が東父や西母のような命を保ったでしょう。秦の始皇帝が栄華を極めても、最後には驪山の墓に埋もれ、漢の武帝がお命を惜しまれても、むなしく杜陵の苔に朽ちました。生ある者は必ず滅びます。釈尊でさえ栴檀の煙となることを免れられませんでした。楽しみが尽きると悲しみが来る。天人もなお五衰の日に遭うと承ります。

それで仏は、『我が心はもとから空であり、罪や福にも実体はない。心を観じても固定した心はなく、法も固定した法にとどまらない』と説かれ、善も悪も空であると観じることが、まさしく仏のお心にかなうのです。

どういうことかといえば、阿弥陀如来は五劫の間思いを巡らし、起こしがたい願を起こされました。それなのに我らはどのような者だから、億々万劫の間、生死に輪廻し、宝の山に入って手を空しくして出てくるのでしょう。それは恨みの中の恨み、愚かなことの中でも残念なことではありませんか。決してこの先の命をお考えになってはなりません」

 そう言って戒めをお授けし、念仏をお勧めした。

 大臣殿はふさわしい善知識だとお思いになり、たちまち妄念を改め、西へ向かって手を合わせ、大声で念仏をお唱えになった。そこへ橘右馬允公長が太刀を脇に寄せて持ち、左側からお後ろへ回って、今にもお切りしようとした。大臣殿は念仏を止め、

「右衛門督も、もうか」

 とおっしゃった。哀れだった。

 公長が後ろへ回ったと見ると、首は前へ落ちた。

 善知識の聖も涙にむせばれた。

 勇猛な武士も、どうして哀れと思わずにいられただろう。

 まして公長は、平家に代々仕えた家人で、新中納言のもとへ朝夕参っていた侍だった。

 世の勢いにおもねるのが習いとはいっても、まったく情けのない者だと、人々はみな恥ずかしく思った。

 その後、右衛門督にも聖が先と同じように戒めをお授けし、念仏をお勧めした。

「大臣殿の最期は、どのようでいらっしゃいましたか」

 とお尋ねになったのは、いじらしかった。

「立派でいらっしゃいました。ご安心ください」

 と申し上げると、涙を流して喜ばれ、

「今は思い残すことはない。それなら早く」

 とおっしゃった。

 今度は堀弥太郎が切った。

 首は判官が持たせて都へ入った。

 亡骸は公長の取り計らいで、親子を同じ穴に埋めた。

 あれほど執着深く、離れがたいとおっしゃっていたので、このようにしたのだった。

 同じ月の23日、大臣殿父子の首が都へ入った。

 検非違使たちは三条河原へ出迎えて受け取り、大路を引き回し、獄門の左にある樗の木に掛けた。

 三位以上の人の首を大路に引き回し、獄門に掛けることは、異国には例があるかもしれない。

 我が国では、まだその先例を聞かない。

 そのため平治のとき、信頼は悪人だったので首をはねられたが、獄門には掛けられなかった。

 平家の場合に初めて掛けられたのだった。

 西国から上っては、生きて六条を東へ引き回され、東国から帰っては、死んで三条を西へ引き回された。

 生きての恥と死んでの恥は、どちらも劣らなかった。

重衡被斬

 本三位中将重衡卿は狩野介宗茂に預けられ、去年から伊豆国にいらしたが、南都の僧たちがしきりに求めたので、

「それなら渡せ」

 と言って、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼兼に命じ、とうとう奈良へ遣わした。

 都へは入らず、大津から山科を通り、醍醐路を経て行くと、日野は近かった。

 重衡卿の妻というのは、鳥飼中納言惟実の娘で、五条大納言国綱の養女、先帝の乳母で、大納言佐殿といった。

 三位中将が一谷で生け捕りにされた後も、先帝のおそばに仕えていらした。壇浦で海へお入りになると、荒々しい武士に捕らわれ、故郷へ帰り、姉の大夫三位と同じ住まいで、日野というところにいらした。

 中将の露のような命が草葉の先に掛かり、まだ消えていないとお聞きになると、夢ではなくもう一度会い、会ってもらえることもあるかと思われた。しかしそれもかなわず、泣くほかに心を慰めるすべもなく、日を過ごしていらした。

 三位中将は警護の武士におっしゃった。

「この間、事あるごとに情け深く親切にしてくれたのが、ありがたくうれしい。同じことなら最後にもう一度、恩を受けたいことがある。私には一人の子もないので、この世に思い残すことはない。長年連れ添った女房が、日野というところにいると聞く。もう一度対面し、後世のことも頼んでおきたいと思うのだ」

 と言って、しばらくの暇を求められた。

 武士たちも、さすがに岩や木ではないので、それぞれ涙を流し、

「何の差し支えがございましょう」

 と言ってお許しした。

 中将はひとかたならず喜び、

「大納言佐殿のお部屋は、こちらでしょうか。本三位中将殿がただ今奈良へお通りになるのですが、立ったままでお目に掛かりたいとおっしゃっています」

 と、人を入れて言わせた。妻は聞き終わらないうちに、

「どこに、どこに」

 と言って走り出てご覧になった。藍摺の直垂に折烏帽子を着けた、痩せて色の黒くなった男が縁側に寄り掛かっているのが、その人だった。

 妻は御簾の際近くへ寄り、

「これは夢でしょうか、現実でしょうか。こちらへお入りください」

 とおっしゃった。その声をお聞きになると、いつの間にか、まず涙が出てきた。

 大納言佐殿は目もくらみ、心も消え入って、しばらく何もおっしゃらなかった。

 三位中将は御簾を持ち上げ、泣く泣くおっしゃった。

「去年の春、一谷で最期を遂げるべきだった身が、ひどい罪の報いなのだろうか。生きたまま捕らえられて大路を引き回され、京や鎌倉で恥をさらすだけでも残念なのに、しまいには奈良の僧たちの手へ渡され、切るというので参るのです。何とかもう一度お姿を拝見したいと思っていましたが、今は少しも思い残すことはありません。出家して形見に髪も差し上げたいと思いますが、許されないのでどうにもなりません」

 と言い、額の髪を少し引き分け、口の届くところをかみ切って、

「これを形見としてご覧ください」

 と言ってお渡しになった。妻は日ごろ消息も分からずにいらしたときより、今は一層悲しみを深められた。

「まことにお別れした後は、越前三位の奥方のように水の底へも沈むべきでしたが、確かにこの世にいらっしゃらないとも聞きませんでした。もしも不思議な巡り合わせで、もう一度変わらない姿を見たり、見ていただいたりできるかと思ってこそ、つらくても今まで生き長らえてきたのです。それなのに、今日が最後でいらっしゃるとは悲しいことです。今まで命が延びたのは、もしやという頼みもあったのに」

 と言って、昔や今のことを語り合われたが、ただ尽きないものは涙だった。

「あまりにお姿がみすぼらしくなっておりますから、お着替えください」

 と言い、袷の小袖に浄衣を添えて出された。三位中将はこれに着替え、もと着ていたものは、

「形見としてご覧ください」

 と言って置かれた。妻は、

「それもそうでございますが、わずかな筆の跡こそ、永く残る形見でございます」

 と言って硯を出されたので、中将は泣く泣く1首の歌を書かれた。

 抑えきれず涙がかかる衣を、後の形見として脱ぎ替えた。

 妻は聞き終わらないうちに詠んだ。

 脱ぎ替えた衣も、今は何になりましょう。今日を最後の形見と思えば。

「縁があれば、後の世では必ず一緒に生まれ、お会いしましょう。同じ蓮の上にとお祈りください。日も暮れかかりました。奈良へも遠く、武士が待っているのも心苦しいことです」

 と言ってお出になると、妻は袖にすがり、

「どうか、どうか、しばらく」

 と言ってお引き留めになった。中将は、

「心の中はただお察しください。しかし最後まで逃れきれる身でもありません。また来世でお会いしましょう」

 と言ってお出になったが、本当にこの世で会うのはこれが最後だと思われたので、もう一度引き返したくお思いになった。それでも心弱くてはならないと、思い切って出られた。

 妻が御簾の際近くで転げ伏し、叫ばれる声が門の外まで遠く聞こえたので、馬をまったく速められなかった。涙にくれて行く先も見えず、かえってつらい対面だったと、今は悔しく思われた。

 大納言佐殿はすぐに走って追いかけていきたいとお思いになったが、それもやはりできず、衣を引きかぶって横になられた。

 そうするうちに南都の僧たちは三位中将を受け取り、相談した。

「そもそもこの重衡卿は、大罪を犯した悪人であるうえ、三千の罪、五つの刑罰の範囲にも収まらない。因に応じた果報を受ける道理は決まっている。仏にも仏法にも敵対する逆臣なので、東大寺や興福寺の大垣を引き回して鋸で切るべきか、それとも首だけを出して埋めるべきか」

 と相談した。

 老僧たちは言った。

「それも僧の守る法には穏当でない。ただ警護の武士に渡し、木津の辺りで切らせるべきだ」

 と言って武士の手へ返した。

 武士はこれを受け取り、木津川のほとりで切ろうとした。数千人の僧たちが集まり、見物人もどれほどいるか数が分からなかった。

 三位中将が長年お使いになっていた侍に、木工右馬允知時という者がいた。

 八条女院に仕えていたが、最期を拝見しようと、馬に鞭を打って駆けてきた。

 今まさにお切りしようとするところへ着き、幾千、幾万と立ち囲んだ人々をかき分け、三位中将のおそば近くへ参った。

「知時がただ今、最後のご様子を拝見しようと、ここまで参りました」

 と泣く泣く申し上げると、中将は、

「まことにその志は殊勝だ。どうだ、知時、仏を拝み申し上げて切られたいと思うが、どうしたらよいだろう。あまりに罪深く思われるので」

 とおっしゃった。知時は、

「容易なことでございます」

 と言って警護の武士と相談し、その辺りにあった仏像を1体お迎えしてきた。

 幸いにも阿弥陀仏でいらした。

 河原の砂の上にお立てし、すぐに知時の狩衣の袖のくくり紐を解いて仏のお手に掛け、中将にお持ちいただいた。

 中将はこれを持ち、仏に向かって申し上げた。

「伝え聞いております。調達は三逆の罪を犯し、八万蔵の聖教を焼き滅ぼしましたが、最後には天王如来になるとの予言を受けました。犯した罪はまことに深いとはいっても、聖教に出会った逆縁は朽ちず、かえって悟りを得る因となるのです。

今、重衡が逆罪を犯したのは、まったく自分の考えで始めたことではなく、ただ世に従う道理を考えただけです。命ある者で、誰が王命をないがしろにするでしょう。生を受けた者で、誰が父の命令に背くでしょう。あれもこれも、断るすべがありませんでした。道理にかなうかどうかは、仏がご覧になっておられます。そもそも罪の報いはすぐに現れ、命はただ今を限りとします。千度、万度も後悔し、悲しんでも足りません。

ただし三宝の境地は慈悲を心としており、救いへ導くよい縁はさまざまです。ただ『縁楽意』、逆縁はすなわち順縁となる、この言葉を肝に銘じます。一度阿弥陀仏を念ずれば、すぐに無量の罪が消える。どうか逆縁を順縁として、ただ今最後の念仏によって、九品の浄土に生まれたいと願います」

 と言い、大声で10回念仏を唱えながら首を伸ばし、切らせられた。

 日ごろの悪行はそれとして、ただ今の有様を拝見すると、数千人の僧たちも警護の武士も、みな涙を流した。

 その首は般若寺の大鳥居の前に、釘で打ち付けて掛けられた。

 治承の合戦のとき、ここに馬を止め、伽藍をお焼きになったためだった。

 妻の大納言佐殿は、首ははねられても亡骸を取り寄せて供養しようと、輿を迎えに遣わした。

 実際に捨て置いてあったので、取って輿に入れ、日野へ上って帰った。

 これを待ち受けてご覧になった妻の心の中は、察せられて哀れだった。

 昨日まではゆくしげでいらしたが、あのころだったので、どうしたことか別のお姿に変わっていた。

 そのままにもしておけないので、その辺りの法界寺というところで、しかるべき僧を大勢頼んで供養なさった。

 首については、大仏の聖、俊乗房にあれこれお頼みになったので、僧たちに乞い求め、日野へ遣わした。

 首も亡骸も焼いて煙とし、骨は高野へ送り、墓は日野に作られた。

 妻も出家し、後世の菩提を弔われた。哀れだった。

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