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『平家物語』第11巻 原文全文

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目次

逆櫓

 元歴(げんりやく)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)十日(とをか)、九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)義経(よしつね)院(ゐん)御所(ごしよ)へ参(まゐ)りて、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経(やすつね)朝臣(あそん)を以(もつ)て奏聞(そうもん)せられけるは、

「平家(へいけ)は神明(しんめい)にも放(はな)たれ奉(たてまつ)り、君(きみ)にもすてられ参(まゐ)らせて、帝都(ていと)を出(い)で波(なみ)の上(うへ)に漂(ただよ)ふ落人(おちうど)となれり。然(しか)るをこの三箇年(さんかねん)が間(あひだ)、責(せ)め落(お)さずして多(おほ)くの国々(くにぐに)を塞(ふさ)げらるる事(こと)口惜(くちを)しく候(さうら)へば、今度(こんど)義経(よしつね)に於(おい)ては鬼界(きかい)、高麗(かうらい)、天竺(てんぢく)、震旦(しんたん)までも平家(へいけ)を責(せ)め落(お)さざらん限(かぎ)りは王城(わうじやう)へ帰(かへ)るべからず」

 と憑(たの)もし気(げ)に申(まう)されければ、法皇(ほふわう)大(おほ)きに御感(ぎよかん)あって、

「相構(あひかま)へて夜(よ)を日(ひ)に継(つ)いで、勝負(しようぶ)を決(けつ)すべし」

 とおほせ下(くだ)さる。

 判官(はうぐわん)宿所(しゆくしよ)に帰(かへ)りて東国(とうごく)の軍兵(ぐんぴやう)どもにのたまひけるは、

「義経(よしつね)鎌倉殿(かまくらどの)の御代官(おんだいくわん)として院宣(ゐんぜん)を承(うけたまは)って、平家(へいけ)を追討(ついたう)すべし。陸(くが)は駒(こま)の足(あし)の及(およ)ばむを限(かぎ)り、海(うみ)は櫓(ろ)櫂(かい)の届(とど)かん程(ほど)責(せ)め行(ゆ)くべし。少(すこ)しもふた心(こころ)あらむ人々(ひとびと)は、とうとうこれより帰(かへ)らるべし」

 とぞのたまひける。

 さる程(ほど)に八島(やしま)には、隙(ひま)ゆく駒(こま)の足(あし)疾(と)くして、正月(しやうぐわつ)も立(た)ち二月(にぐわつ)にもなりぬ。

 春(はる)の草(くさ)暮(く)れて、秋(あき)の風(かぜ)に驚(おどろ)き、秋(あき)の風(かぜ)やんで、春(はる)の草(くさ)になれり。

 送(おく)り迎(むか)へて、既(すで)に三年(さんねん)になりにけり。

「都(みやこ)には東国(とうごく)より荒手(あらて)の軍兵(ぐんぴやう)、数万騎(すうまんぎ)著(つ)きて責(せ)め下(くだ)る」

 とも聞(き)こゆ。

「鎮西(ちんぜい)より、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)、松浦党(まつらたう)同心(どうしん)して、押(お)し渡(わた)る」

 とも申(まう)しあへり。

 彼(か)れを聞(き)きこれをきくにも、ただ耳(みみ)を驚(おどろ)かし、肝魂(きもたましひ)を消(き)すより外(ほか)の事(こと)ぞなき。

 女房達(にようばうたち)は女院(にようゐん)、二位殿(にゐどの)をはじめまゐらせて差(さ)しつどひて

「又(また)いかなる浮(うか)目(め)をか見(み)んずらん。いかなる憂(う)事(こと)をか聞(き)かんずらん」

 と嘆(なげ)きあひ悲(かな)しみあへり。

 新中納言(しんちゆうなごん)知盛(とももり)卿(きやう)のたまひけるは、

「東国(とうごく)北国(ほくこく)の者(もの)共(とも)も随分(ずゐぶん)重恩(ぢゆうおん)を蒙(かうぶ)りたりしかども、恩(おん)を忘(わす)れ、契(ちぎり)を変(へん)じて、頼朝(よりとも)、義仲(よしなか)等(ら)に随(したが)ひき。まして西国(さいこく)とてもさこそはあらむずらめと思(おも)ひしかば、都(みやこ)にて、いかにもならんと思(おも)ひし者(もの)を。我身(わがみ)一(ひと)つの事(こと)ならねば、心(こころ)弱(よわ)うあくがれ出(い)でて、今日(けふ)はかかるうき目(め)を見(み)る口惜(くちを)しさよ」

 とぞのたまひける。

 まことに理(ことわり)と覚(おぼ)えて哀(あはれ)なり。

 同(おな)じき二月(にぐわつ)三日(みつか)九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)義経(よしつね)、都(みやこ)を立(た)て、摂津国(せつつのくに)渡辺(わたなべ)より舟(ふね)ぞろへして、八島(やしま)へ既(すで)に寄(よ)らんとす。

 参河守(みかはのかみ)範頼(のりより)も同(おな)じき日(ひ)都(みやこ)を立(た)て、摂津国(せつつのくに)神崎(かんざき)より兵船(ひやうせん)を汰(そろ)って、山陽道(さんやうだう)へ越(こ)えかんとす。

 同(おな)じき十三日(じふさんにち)伊勢大神宮(いせだいじんぐう)、石清水(いはしみづ)、賀茂(かも)、春日(かすが)へ官幣使(くわんぺいし)を立(た)てらる。

「主上(しゆしやう)並(なら)に三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)事(こと)故(ゆゑ)なう返(かへ)し入(い)れさせたまへ」

 と神祇官(じんぎくわん)の官人(くわんにん)、諸々(もろもろ)の社司(しやし)、本宮(ほんぐう)本社(ほんしや)にて祈誓(きせい)申(まう)すべき由(よし)おほせ下(くだ)さる。

 同(どう)十六日(じふろくにち)渡辺(わたなべ)、神崎(かんざき)、両(りやう)所(ところ)にてこの日(ひ)ごろ汰(そろ)ける船(ふね)ども、纜(ともづな)既(すで)に解(と)かんとす。

 折節(をりふし)北(きた)風(かぜ)木(き)を折(を)って烈(はげ)しう吹(ふ)ければ、大浪(おほなみ)に船(ふね)共(とも)散々(さんざん)に打(う)ち損(そん)ぜられて、出(いだ)すに及(およ)ばず。

 修理(しゆり)の為(ため)に、その日(ひ)は留(とど)まる。

 渡辺(わたなべ)には大名小名(だいみやうせうみやう)寄(よ)り合(あ)ひて、

「抑(そもそも)船軍(ふないくさ)の様(さま)は未調練(いまだてうれん)せず、いかがあるべき」

 と評定(ひやうぢやう)す。

 梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、

「今度(こんど)の合戦(かつせん)には船(ふね)に逆櫓(さかろ)を立(た)て候(さうら)はばや」

 判官(はうぐわん)、

「逆櫓(さかろ)とはなんぞ」

 梶原(かぢはら)、

「馬(むま)は駈(か)んと思(おも)へば、弓手(ゆんで)へも馬手(めて)へも廻(めぐ)し易(やす)し。船(ふね)はきと推(お)しもどすが大事(だいじ)候(さうらふ)、艫舳(ともへ)に櫓(ろ)を立(た)て違(たが)へ、わい楫(かぢ)を入(い)れて、どなたへも安(やす)う推(お)す様(さま)にし候(さうらふ)ばや」

 と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)のたまひけるは、

「軍(いくさ)と云(い)ふ者(もの)は一引(ひとひき)も引(ひ)かじと思(おも)ふだにもあはひ悪(あし)ければ、引(ひ)くは常(じやう)の習(なら)ひなり。本(もと)より逃(に)まうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門出(かどで)の悪(あし)さよ。逆櫓(さかろ)を立(た)てうとも返様櫓(かへしざまろ)を立(た)てうとも、殿原(とのばら)の舟(ふね)には百(ひやく)丁(ちやう)千(せん)丁(ちやう)も立(た)てたまへ。義経(よしつね)は本(もと)の櫓(ろ)で候(さうら)はん」

 とのたまへば、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、

「よき大将軍(たいしやうぐん)と申(まう)すは、駈(か)べき所(ところ)をかけ、引(ひ)くべき所(ところ)を引(ひ)いて、身(み)を全(まつたく)うし敵(かたき)を亡(ほろ)すを以(もつ)て、よき大将軍(たいしやうぐん)とはする候(さうらふ)。片趣(かたおもむき)なるをば、猪武者(ゐのししむしや)とて、よきにはせず」

 と申(まう)せば、判官(はうぐわん)、

「猪鹿(ゐしし)は知(し)らず、軍(いくさ)はただ平攻(ひらぜめ)に攻(せ)めて、勝(か)ったるぞ心(こころ)ちはよき」

 とのたまへば、侍(さぶらひ)共(とも)梶原(かぢはら)に恐(おそ)れて高(たか)くは笑(ゑ)はねども、目(め)引(ひ)き鼻(はな)引(ひ)きさざめきあへり。

 判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)と、已(すで)にどし軍(いくさ)あるべしとさざめきあへり。

 漸々(やうやう)日(ひ)暮(く)れ夜(よ)に入(い)りければ、判官(はうぐわん)のたまひけるは、

「船(ふね)の修理(しゆり)して新(あらた)しうなったるに、各(おのおの)一種一瓶(いつしゆいつぺい)して祝(いは)ひたまへ殿原(とのばら)」

 とて、営(いとな)む様(さま)で船(ふね)に物具(もののぐ)いれ兵粮米(ひやうらうまい)積(つ)み、馬(むま)共(とも)立(た)てさせて、

「疾々(とくとく)仕(つかまつ)れ」

 とのたまひければ、水主梶取(かこかぢとり)申(まう)しけるは、

「この風(かぜ)は追手(おひて)にて候(さうら)へども、普通(ふつう)に過(す)ぎたる風(かぜ)で候(さうらふ)。沖(おき)はさぞ吹(ふ)候(さうらふ)らん。いかが仕(つかまつ)候(さうらふ)べき」

 と申(まう)せば、判官(はうぐわん)大(おほ)いに怒(いか)ってのたまひけるは、

「野(の)山(やま)の末(すゑ)にて死(し)に、海(うみ)河(かは)のそこにおぼれてうするも皆(みな)これせんぜの宿業(しゆくごふ)なり。海上(かいしやう)にいで浮(うか)うだる時(とき)風(かぜ)強(つよ)きとていかがする。向(むか)ひ風(かぜ)に渡(わた)らんと言(い)はばこそ、僻事(ひがこと)ならめ。順風(じゆんぷう)なるが、少(すこ)し過(す)ぎたればとて、これ程(ほど)の御大事(おんだいじ)に、いかが渡(わた)らじとは申(まう)すぞ。船(ふね)仕(つかまつ)らずば一々(いちいち)にしやつ原(はら)射(い)殺(ころ)せ」

 と下知(げぢ)せらる。

 奥州(あうしう)の佐藤三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)嗣信(つぐのぶ)、伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)、片手(かたて)矢(や)はげ進(すす)み出(い)で、

「何条(なんでう)子細(しさい)を申(まう)すぞ。御定(おんさだめ)であるに、とくとくつかまつれ。舟(ふね)仕(つかまつ)らずば一々(いちいち)に射(い)殺(ころ)さんずるぞ」

 といひければ、水主梶取(かこかぢとり)これを聞(き)いて、

「射(い)殺(ころ)されんも同事(おなじこと)、風(かぜ)強(つよ)くば、只(ただ)馳(は)死(し)に死(し)ねや者(もの)共(とも)」

 とて、二百(にひやく)余(よ)艘(さう)の舟(ふね)の中(なか)に、ただ五(ご)艘(さう)出(い)てぞ走(はし)りける。

 残(のこ)る船(ふね)は風(かぜ)に恐(おそ)るるか梶原(かぢはら)に怖(こは)かして、皆(みな)留(とど)まりぬ。

 判官(はうぐわん)のたまひけるは、

「人(ひと)の出(い)ねばとて留(とど)まるべきにあらず、ただの時(とき)は敵(かたき)も用心(ようじん)すらむ。かかる大風(おほかぜ)大(おほ)波(なみ)に思(おも)ひも寄(よ)らぬ時(とき)におしよせてこそ思(おも)ふ敵(かたき)を討(う)たずれ」

 とぞのたまひける。

 五(ご)艘(さう)の船(ふね)と申(まう)すは、まづ判官(はうぐわん)の船(ふね)、田代(たしろ)の冠者(くわんじや)、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)父子(ふし)、金子(かねこ)兄弟(きやうだい)、淀江内(よどのごうち)忠俊(ただとし)とて、船奉行(ふねぶぎやう)の乗(の)ったる船(ふね)なり。

 判官(はうぐわん)のたまひけるは、

「各(おのおの)の船(ふね)に篝(かがり)な燃(も)やそ。義経(よしつね)が船(ふね)を本船(ほんぶね)として、艫舳(ともへ)の篝(かがり)を守(かみ)れや。火(ひ)数多(あまた)く見(み)えば、敵(かたき)も恐(おそ)れて用心(ようじん)してんず」

 とて終夜(よもすがら)走(はし)る程(ほど)に、三日(みつか)に渡(わた)る所(ところ)を、ただ三時(みとき)計(ばかり)に渡(わた)りけり。

 二月(にぐわつ)十六日(じふろくにち)の丑刻(うしのこく)に、渡辺(わたなべ)福(ふく)島(しま)を出(い)て、明(あ)くる卯(う)の時(とき)に、阿波(あは)の地(ち)へこそ吹(ふ)き著(き)いたれ。

勝浦付大坂越

 夜(よ)既(すで)に明(あ)ければ、なぎさに赤旗(あかはた)少々(せうせう)閃(ひらめ)いたり。

 判官(はうぐわん)、これを見(み)て、

「あはや我等(われら)が祝設(いはひまう)けはしたりけるは。舟平付(ふなひらづけ)につけ、踏(ふ)傾(かたぶ)けて馬下(うまおろ)さんとせば、敵(かたき)の的(まと)になって射(い)られなんず。なぎさにつかぬ先(さき)に馬(むま)ども追(お)ひ下(くだ)し追(お)ひ下(くだ)し船(ふね)に引(ひ)きつけ引(ひ)きつけ游(およ)せよ。馬(むま)の足(あし)立(た)ち、鞍爪(くらつま)ひたるほどになればひたひたと乗(の)って、駈(か)よ者(もの)共(とも)」

 とぞ下知(げぢ)せられける。

 五(ご)艘(さう)の船(ふね)に、物具(もののぐ)入(い)れ、兵粮米(ひやうらうまい)積(つ)んだりければ、馬(むま)ただ五十(ごじふ)余(よ)疋(ひき)ぞ立(た)ったりける。

 なぎさ近(ちか)くなりしかば、ひたひたと打(う)ち乗(の)って、喚(をめ)いてかくれば、渚(なぎさ)に百(ひやく)騎(き)許(ばかり)ありける者(もの)共(とも)、暫(しばらく)もこらへず、二町計(につちやうばかり)颯(さつ)と引(ひ)いてぞのきにける。

 判官(はうぐわん)汀(みぎは)に打(う)ち立(た)て、馬(むま)の息(いき)休(やす)めておはしけるが、伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)をめして、

「あの勢(せい)の中(なか)に、然(しか)るべい者(もの)やある。一人(ひとり)召(め)して参(まゐ)れ。尋(たづ)ぬべき事(こと)あり」

 とのたまへば、義盛(よしもり)畏(かしこ)まって承(うけたまは)り、ただ一(いち)騎(き)かたきの中(なか)へ馳(は)入(い)り何(なに)とかいひたりけん、年(とし)四(し)十(じふ)計(ばかり)なる男(をとこ)の、黒皮威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)著(き)たるを、甲(かぶと)を脱(ぬ)がせ、弓(ゆみ)の弦(つる)弛(はづ)せて、具(ぐ)して参(まゐ)りたり。

 判官(はうぐわん)、

「何者(なにもの)ぞ」

 とのたまへば、

「当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん)坂西(ばんざい)の近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)」

 と申(まう)す。

「何(なに)家(いへ)にてもあらばあれ、物具(もののぐ)な脱(ぬ)がせそ。やがて八島(やしま)の案内者(あんないしや)に具(ぐ)せんずるぞ。その男(をとこ)に目(め)放(はな)つな。逃(に)て行(ゆ)かば射(い)殺(ころ)せ、者(もの)共(とも)」

 とぞ下知(げぢ)せられける。

「爰(ここ)をばいづくといふぞ」

 と問(と)はれければ

「かつ浦(うら)と申(まう)し候(さうらふ)」

 判官(はうぐわん)笑(ゑ)って、

「色代(しきだい)な」

 とのたまへば、

「一定(いちぢやう)かつ浦(うら)候(さうらふ)。下臈(げらふ)の申(まう)しやすいに付(つ)て、かつらとは申(まう)し候(さうら)へども、文字(もんじ)には勝浦(かつうら)と書(か)いて候(さうらふ)」

 と申(まう)す。

 判官(はうぐわん)、

「これ聞(き)きたまへ、殿原(とのばら)。軍(いくさ)しに向(むか)ふ義経(よしつね)が、勝浦(かつうら)に著(つ)く目出度(めでた)さよ。この辺(へん)に、平家(へいけ)の後矢(うしろや)射(い)つべい者(もの)はないか」

「阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)が弟(おとと)、桜間介(さくらまのすけ)能遠(よしとほ)とて候(さうらふ)」

「いざさらば蹴(け)散(ちら)して通(とほ)らん」

 とて、近藤六(こんどうろく)が勢(せい)百(ひやく)騎(き)許(ばかり)が中(なか)より、三十(さんじふ)騎(き)許(ゆる)すぐり出(い)いて我勢(わがせい)にぞ具(ぐ)せられける。

 能遠(よしとほ)が城(しろ)に押(お)し寄(よ)って見(み)れば、三方(さんぱう)は沼(ぬま)、一方(いつぱう)は堀(ほり)。

 堀(ほり)の方(かた)より押(お)し寄(よ)って、閧(とき)をどと作(つく)る。

 城(しろ)の中(なか)の兵(つはもの)共(とも)、矢(や)先(さき)をそろへて指(さ)しつめ引(ひ)きつめ散々(さんざん)に射(い)る。

 源氏(げんじ)の兵(つはもの)これを事(こと)ともせず。

 甲(かぶと)の錣(しころ)を傾(かたぶ)けをめきさけんで責(せ)め入(い)りければ、桜間介(さくらまのすけ)叶(かな)はじとや思(おも)ひけむ。

 家子郎等(いへのこらうどう)に防(ふせ)矢(や)射(い)させ、我身(わがみ)は究竟(くつきやう)の馬(むま)を持(も)たりければ、打(う)ち乗(の)って稀有(けう)にして落(お)ちにけり。

 判官(はうぐわん)防(ふせ)矢(や)射(い)ける兵(つはもの)共(とも)二十(にじふ)余人(よにん)が頸(くび)切(き)り懸(か)けて軍神(いくさがみ)に祭(まつ)り、悦(よろこ)の鬨(とき)を作(つく)り、

「門出(かどで)よし」

 とぞのたまひける。

 判官(はうぐわん)近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)を召(め)して、

「八島(やしま)には平家(へいけ)の勢(せい)いかが程(ほど)あるぞ」

「千(せん)騎(き)にはよも過(す)ぎ候(さうら)はじ」

「など少(すくな)いぞ」

「かくのごとく四国(しこく)の浦々(うらうら)島々(しまじま)に五十(ごじふ)騎(き)百(ひやく)騎(き)づつ指(さ)し置(お)かれて候(さうらふ)。その上(うへ)阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)、田内左衛門(たのうちざゑもん)教能(のりよし)は、河野四郎(かうのしらう)が、召(め)せども参(まゐ)らぬを責(せ)めんとて、三千余騎(さんぜんよき)で伊予(いよ)へ越(こ)えて候(さうらふ)」

「さてはよい隙(ひま)ごさんなれ。これより八島(やしま)へはいか程(ほど)の道(みち)ぞ」

「二日(ふつか)路(ぢ)で候(さうらふ)」

「さらば敵(かたき)の聞(き)かぬ先(さき)に寄(よ)せよや」

 とてかけ足(あし)になりつつ、歩(あゆ)ませつ、馳(は)せつ、引(ひ)きへつ、阿波(あは)と讃岐(さぬき)との境(さかひ)なる大坂越(おほさかごえ)といふ山(やま)を終夜(よもすがら)こそ越(こ)えられけれ。

 夜半(よなか)許(ばかり)に、立文(たてぶみ)持(も)ったる男(をとこ)に行(ゆ)き連(つら)れて物語(ものがたり)したまふ。

 この男(をとこ)夜(よ)の事(こと)ではあり、敵(かたき)さは夢(ゆめ)にも知(し)らず、御方(みかた)の兵(つはもの)共(とも)の八島(やしま)へ参(まゐ)ると思(おも)ひけるやらん、打(う)ち解(と)けて細々(こまごま)と物語(ものがたり)をぞしける。

「その文(ふみ)はいづくへぞ」

「八島(やしま)の大臣殿(おほいとの)へ参(まゐ)り候(さうらふ)」

「誰(たれ)かまゐらせらるるぞ」

「京(きやう)より女房(にようばう)の参(まゐ)らせられ候(さうらふ)」

「何事(なにごと)なるらん」

 とのたまへば、

「別(べち)の事(こと)はよも候(さうら)はじ。源氏(げんじ)既(すで)に淀(よど)河(かは)尻(じり)に出(い)で向(むか)うて候(さうら)へば、それをこそ告(つげ)げ申(まう)され候(さうらふ)らめ」

「げにさぞあらん。これも八島(やしま)へ参(まゐ)るが、いまだ案内(あんない)を知(し)らぬに、じんじよせよ」

 とのたまへば、

「これは度々(たびたび)参(まゐ)りて候(さうらふ)間(あひだ)、案内(あんない)は存知(ぞんぢ)して候(さうらふ)。御供(おんとも)つかまつらん」

 と申(まう)せば判官(はうぐわん)

「その文(ふみ)取(と)れ」

 とて、文(ふみ)奪(うば)ひ取(と)らせ

「しやつからめよ。罪(つみ)作(つくり)に頸(くび)なきそ」

 とて、山(やま)中(なか)の木(き)に縛(しば)り付(つ)けてぞ通(とほ)られける。

 さて文(ふみ)を明(あ)けて見(み)たまへば、げにも女房(にようばう)の文(ふみ)とおぼしくて、

「九郎(くらう)はすずどき男士(をのこ)にて侍(さぶら)ふなれば、大風(おほかぜ)大(おほ)波(なみ)をも嫌(きら)はず寄(よ)せ侍(さぶ)らんと覚(おぼ)えさぶらふ。御(おん)勢(せい)ごも散々(さんざん)で用心(ようじん)せさせたまへ」

 とぞ書(か)かれたる。

 判官(はうぐわん)

「これは義経(よしつね)に天(てん)の与(あた)へたまふ文(ふみ)なり。鎌倉殿(かまくらどの)に見(み)せ申(まう)さん」

 とて深(ふか)う納(をさ)めて置(お)かれけり。

 明(あ)くる十八日(じふはちにち)の寅刻(とらのこく)に、讃岐国(さぬきのくに)ひけ田(た)と云(い)ふ所(ところ)に打(う)下(くだ)りて、人馬(じんば)の息(いき)をぞ休(やす)めける。

 それより丹生屋(にぶや)、白鳥(しろとり)、打(う)ち過(す)ぎ打(う)ち過(す)ぎ、八島(やしま)の城(しろ)へ寄(よ)せたまふ。

 又(また)近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)を召(め)して

「八島(やしま)の館(たち)の様(さま)は、いかに」

 と問(と)ひたまへば、

「しろしめされぬばこそ候(さうら)へ、無下(むげ)に浅間(あさま)に候(さうらふ)。潮(しほ)の干(ひ)て候(さうらふ)時(とき)は、陸(くが)と島(しま)この間(あひだ)は、馬(むま)の腹(はら)もつかり候(さうら)はず」

 と申(まう)せば

「さらばやがて寄(よ)せよや」

 とて、高(たか)松(まつ)の在所(ざいしよ)に火(ひ)を懸(か)け、八島(やしま)の城(しろ)へ寄(よ)せたまふ。

 八島(やしま)には、阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)、田内左衛門(たのうちざゑもん)教能(のりよし)、河野四郎(かうのしらう)が、召(め)せども参(まゐ)らぬを責(せ)めんとて、三千余騎(さんぜんよき)で伊予(いよ)へ越(こ)えたりけるが、河野(かうの)をば討(う)ち漏(も)して家子郎等(いへのこらうどう)百(ひやく)五十(ごじふ)余人(よにん)が首(くび)きって、八島(やしま)の内裏(だいり)へ参(まゐ)らせたり。

「内裏(だいり)にて賊首(ぞくしゆ)の実検(じつけん)せられん事(こと)然(しか)るべからず」

 とて、大臣殿(おほいとの)の宿所(しゆくしよ)にて実検(じつけん)せらる。

 百五十六人(ひやくごじふろくにん)が首(くび)なり。

 頸(くび)ども実検(じつけん)しける処(ところ)に、者(もの)共(とも)、

「高(たか)松(まつ)の方(かた)に火(ひ)出来(いでき)たり」

 とてひしめきあへり。

「昼(ひる)で候(さうら)へば手過(てあやまち)ではよも候(さうら)はじ。敵(かたき)の寄(よ)せて火(ひ)を懸(か)けたると覚(おぼ)え候(さうらふ)。定(さだ)めて大勢(おほぜい)でぞ候(さうらふ)らん。取(と)り籠(ろう)られては叶(かな)ふまじ。とくとく召(め)され候(さうら)へ」

 とて、惣門(そうもん)の前(まへ)のなぎさに船(ふね)共(とも)つけならべたりければ、我(われ)も我(われ)もと乗(の)ったまふ。

 御所(ごしよ)の御船(おんふね)には、女院(にようゐん)北政所(きたのまんどころ)二位殿(にゐどの)以下(いげ)の女房達(にようばうたち)召(め)されけり。

 大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は、一(ひと)つ船(ふね)に乗(の)ったまふ。

 その外(ほか)の人々(ひとびと)思(おも)ひ思(おも)ひに取(と)り乗(の)って、或(あるい)は一町(いちちやう)許(ばかり)、或(あるい)は七(しち)八(はち)段(たん)、五(ご)六(ろく)段(たん)など漕(こ)ぎ出(いだ)したる処(ところ)に、源氏(げんじ)の兵(つはもの)共(とも)、直甲(ひたかぶと)七(しち)八(はち)十(じふ)騎(き)、惣門(そうもん)の前(まへ)のなぎさにつと出来(いでき)たり。

 潮干(しほひ)がたの折節(をりふし)潮干(しほひ)る盛(さかり)なれば、馬(むま)の烏頭(うづ)、太腹(ふとばら)に立(た)つ所(どころ)もあり。

 それより浅(あさ)き所(ところ)もあり。

 け上(のぼ)る潮(しほ)の霞(かすみ)と共(とも)にしぐらうたる中(なか)より、白旗(しろはた)さと差(さ)し上(あ)げたれば、平家(へいけ)は運(うん)尽(つ)きて、大勢(おほぜい)とこそ見(み)てんげれ。

 判官(はうぐわん)敵(かたき)に小勢(こぜい)と見(み)せじとて、五六騎(ごろくき)七八騎(しちはちき)十(じふ)騎(き)許(ばかり)、打(う)ち群(む)れ打(う)ち群(む)れ出来(いでき)たり。

嗣信最期

 九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)その日(ひ)の装束(しやうぞく)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、紫裾濃(むらさきすそご)の鎧(よろひ)著(き)て、金作(こがねづくり)の太刀(たち)を帯(は)き、切斑(きりふ)の矢(や)負(お)ひ、滋籐(しげどう)の弓(ゆみ)の真中(まんなか)取(と)って、船(ふね)の方(かた)を睨(ね)へ、大音声(だいおんじやう)を上(あ)げて、

「一院(いちゐん)の御使(おんつかひ)、検非違使五位尉(けびゐしごゐのじよう)源義経(みなもとのよしつね)」

 と名乗(なの)る。

 その次(つぎ)に伊豆国(いづのくに)住人(ぢゆうにん)田代(たしろ)冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)、武蔵国(むさしのくに)住人(ぢゆうにん)金子十郎(かねこのじふらう)家忠(いへただ)、同与一(おなじくよいち)親範(ちかのり)、伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)とぞ名乗(なの)ったる。

 続(つづ)いて名乗(なの)るは、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)、子息(しそく)新兵衛(しんびやうゑ)基清(もときよ)、奥州(あうしう)佐藤三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)嗣信(つぐのぶ)、同(おな)じき四郎(しらう)兵衛(ひやうゑ)忠信(ただのぶ)、江田源三(えだげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)、武蔵(むさし)坊弁慶(ばうべんけい)と声々(こゑごゑ)に名乗(なの)ってはせ来(き)る。

 平家(へいけ)の方(かた)には、

「あれ射(い)取(と)れや」

 とて、或(あるい)は遠(とほ)矢(や)に射(い)る船(ふね)もあり、或(あるい)は差矢(さしや)に射(い)る船(ふね)もあり。

 源氏(げんじ)の兵(つはもの)共(とも)、弓手(ゆんで)になしては射(い)て通(とほ)り、馬手(めて)になしては射(い)て通(とほ)り、上(あ)げ置(お)いたる船(ふね)の陰(かげ)を、馬(むま)休(やす)め所(ところ)にして、をめき叫(さけ)んで責(せ)め戦(たたか)ふ。

 後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)は、古兵(ふるつはもの)にてありければ、軍(いくさ)をばせず、まづ内裏(だいり)に乱入(らんにふ)、手々(てんで)に火(ひ)を放(はな)って、片時(かたとき)の煙(けぶり)と焼(や)き払(はら)ふ。

 大臣殿(おほいとの)侍(さぶらひ)どもを召(め)して

「抑(そもそも)源氏(げんじ)が勢(せい)いかが程(ほど)あるぞ」

「当時(たうじ)僅(わづか)に七(しち)八(はち)十(じふ)騎(き)こそ候(さうらふ)らめ」

 と申(まう)す。

「あな心(こころ)憂(う)や。髪(かみ)の筋(すぢ)を一(いち)筋(すぢ)づつ分(わ)けて取(と)るとも、この勢(せい)には足(た)らまじかりけるものを。中(なか)に取(と)り籠(こ)め討(う)すして、あわてて、船(ふね)に乗(の)って、内裏(だいり)を焼(や)かせつる事(こと)こそ安(やす)からね。能登殿(のとどの)はおはせぬか。陸(くが)へ上(のぼ)って一(いち)軍(いくさ)したまへ」

 とのたまへば

「承(うけたまは)って候(さうらひ)ぬ」

 とて、越中次郎兵衛盛次(ゑつちゆうじらうびやうゑもりつぐ)を相具(あひぐ)して小船(こぶね)に取(と)り乗(の)って焼(や)き払(はら)ひたる惣門(そうもん)のなぎさに陣(ぢん)を取(と)る。

 判官(はうぐわん)八(はち)十(じふ)余騎(よき)、矢(や)比(ころ)に寄(よ)って引(ひ)きへたり。

 越中次郎兵衛盛次(ゑつちゆうじらうびやうゑもりつぐ)舟(ふね)の面(おもて)に立(た)ち出(い)で大音声(だいおんじやう)を揚(あ)げて申(まう)しけるは、

「名乗(なの)れつるとは聞(き)きつれども、海上(かいしやう)遙(はるか)に隔(へだ)たてその仮名実名(けみやうじつみやう)分明(ふんみやう)ならず。今日(けふ)の源氏(げんじ)の大将軍(たいしやうぐん)は誰(たれ)人(ひと)におはしますぞ」

 伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)歩(あゆ)ませ出(い)て申(まう)しけるは、

「事(こと)も愚(をろか)かや、清和(せいわ)天皇(てんわう)十代(じふだい)の御末(おんすゑ)、鎌倉殿(かまくらどの)の御弟(おんおとと)九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)殿(どの)ぞかし」

 盛次(もりつぐ)

「さる事(こと)あり。一年(ひととせ)平治(へいぢ)の合戦(かつせん)に、父(ちち)討(う)たれて孤(みなしご)にてありしが、鞍馬(くらま)の児(ちご)にて、後(のち)には金商人(こがねあきうど)の所従(しよじゆう)になり、粮料背負(らうれうせお)ひて奥州(あうしう)へ落(お)惑(まど)ひし小(こ)冠者(くわんじや)が事(こと)か」

 とぞ申(まう)したる。

 義盛(よしもり)、

「舌(した)のやはらかなる儘(まま)に、君(きみ)の御事(おんこと)な申(まう)そ。さいふわ人(ひと)どもは、砥浪山(となみやま)の軍(いくさ)に追(お)ひ落(お)されて辛(から)き命(いのち)生(い)きて、北陸道(ほくろくだう)にさまよひ、乞食(こつじき)して泣(な)く泣(な)く京(きやう)へ上(のぼ)りたりし者(もの)か」

 とぞ申(まう)しける。

 盛次(もりつぐ)重(かさ)ねて申(まう)しけるは、

「君(きみ)の御恩(ごおん)に飽(あ)き満(み)ちて、何(なに)の不足(ふそく)にてか、乞食(こつじき)をばすべき。さ言(い)ふわどのこそ、伊勢(いせ)の鈴鹿山(すずかやま)にて山(やま)だちして、妻子(さいし)をも養(やしな)ひ、我身(わがみ)も過(す)ぎけるとは聞(き)きしか」

 といひければ、金子十郎(かねこのじふらう)家忠(いへただ)

「無(む)益(やく)の殿原(とのばら)の雑言(ざふごん)かな。我(われ)も人(ひと)も虚言(そらごと)いひつけて雑言(ざふごん)せんには誰(たれ)か劣(おと)るべき。去年(きよねん)の春(はる)、一谷(いちのたに)にて、武蔵(むさし)相模(さがみ)の若殿原(わかとのばら)の手(て)なみの程(ほど)は見(み)てん物(もの)を」

 と申(まう)す所(ところ)に弟(おとと)の与一(よいち)傍(かたはら)にありけるが、言(い)はせも果(は)てず、十二束(じふにそく)二(に)ぶせよひいてひやうと放(はな)つ。

 盛次(もりつぐ)が鎧(よろひ)の胸板(むないた)に、裏(うら)掻(か)く程(ほど)にぞ立(た)ったりける。

 その後(のち)は互(たが)ひに詞戦(ことばだたかひ)はとまりにけり。

 能登守教経(のとのかみのりつね)

「船軍(ふないくさ)はやうある物(もの)ぞ」

 とて鎧(よろひ)直垂(ひたたれ)は著(つ)きたまはず、唐巻染(からまきぞめ)の小袖(こそで)に、唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、いか物(もの)作(つくり)の大太刀(おほだち)帯(は)き、二十四(にじふし)差(さ)たるたかうすべうの矢(や)負(お)ひ、滋籐(しげどう)の弓(ゆみ)を持(も)ちたまへり。

 王城(わうじやう)一(ひと)つの強弓(つよゆみ)精兵(せいびやう)にておはせしかば、矢(や)先(さき)に廻(めぐ)る者(もの)、射(い)透(とほ)さずと云(い)ふ事(こと)なし。

 中(なか)にも九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)を射(い)倒(たふ)さむとねらはれけれども、源氏(げんじ)の方(かた)にも心得(こころえ)て、奥州(あうしう)の佐藤三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)嗣信(つぐのぶ)、同(おな)じき四郎(しらう)兵衛(ひやうゑ)忠信(ただのぶ)、伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)、源八(げんぱち)広綱(ひろつな)、江田源三(えだげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)、武蔵(むさし)坊弁慶(ばうべんけい)など云(い)ふ一人当千(いちにんたうせん)の兵(つはもの)共(とも)、吾(わが)も吾(わが)もと馬(むま)の首(くび)を立(た)て並(なら)べて大将軍(たいしやうぐん)の矢(や)面(おもて)に塞(ふさ)がりければ、力(ちから)及(およ)びたまはず。

「矢(や)面(おもて)の雑人原(ざふにんばら)そこのきたまへ」

 とて、差(さ)し詰(つ)引(ひ)き詰(つ)散々(さんざん)に射(い)たまへば、矢場(やば)に鎧(よろひ)武者(むしや)十(じふ)余騎(よき)計(ばかり)射(い)落(お)さる。

 中(なか)にも真先(まつさき)に進(すす)んだる奥州(あうしう)の佐藤三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)が弓手(ゆんで)の肩(かた)を馬手(めて)の脇(わき)へつと射(い)抜(ぬ)かれて、暫(しばらく)もたまらず、馬(むま)より、倒(たふ)さにどうと落(お)つ。

 能登殿(のとどの)の童(わらは)に、菊王(きくわう)と云(い)ふ大力(だいぢから)の剛(がう)の者(もの)あり、萌黄威(もえぎをどし)の腹巻(はらまき)に、三枚甲(さんまいかぶと)の緒(を)をしめて、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)の鞘(さや)を外(ほか)し、三郎(さぶらう)兵衛(ひやうゑ)が首(くび)を取(と)らんと、走(はし)りかかる。

 佐藤四郎兵衛(さとうしらうびやうゑ)兄(あに)が頸(くび)を取(と)らせじと、よ引(ひ)いてひやうと射(い)る。

 童(わらは)が腹巻(はらまき)の引合(ひきあは)せをあなたへつと射(い)ぬかれて、犬居(ゐぬゐ)に倒(たふ)れぬ。

 能登守(のとのかみ)これを見(み)て、急(いそ)いで舟(ふね)より飛(とぶ)んで下(くだ)り、左(ひだり)の手(て)に弓(ゆみ)を持(も)ちながら、右(みぎ)の手(て)で菊王丸(きくわうまる)を提(ひつさ)げて、船(ふね)へからりと投(な)げられたれば、敵(かたき)に頸(くび)は取(と)られねども、痛手(いたで)なれば死(し)にけり。

 これは、本(もと)は越前(ゑちぜん)の三位(さんみ)の童(わらは)なりしが、三位(さんみ)討(う)たれて後(のち)、弟(おとと)の能登守(のとのかみ)に仕(つか)はれけり。

 生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)にぞなりける。

 この童(わらは)を討(う)たせて、あまりに哀(あはれ)に思(おも)はれければ、その後(のち)は軍(いくさ)もしたまはず。

 判官(はうぐわん)は佐藤三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)を陣(ぢん)の後(うしろ)へ舁(か)き入(い)れさせ、馬(むま)より下(お)り、手(て)をとらへて、

「三郎(さぶらう)兵衛(ひやうゑ)いかが覚(おぼ)ゆる」

 とのたまへば、息(いき)の下(した)に申(まう)しけるは、

「今(いま)はかうと存(ぞん)じ候(さうらふ)」

「思(おも)ひ置(お)く事(こと)はなきか」

 とのたまへば、

「何事(なにごと)をか思(おも)ひ置(お)く候(さうらふ)べき。君(きみ)の御(おん)世(よ)に渡(わた)らせたまはんを見参(げんざん)らせで、死(し)に候(さうら)はん事(こと)こそ口惜(くちをし)う覚(おぼ)え候(さうら)へ。さ候(さうら)はでは、弓箭(ゆみや)取(と)るものの、敵(かたき)の矢(や)にあたり死(し)なん事(こと)、本(もと)より期(き)する所(ところ)で候(さうらふ)なり。就中(なかんづく)に源平(げんぺい)の御(おん)合戦(かつせん)に、奥州(あうしう)の佐藤三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)嗣信(つぐのぶ)と云(い)ひける者(もの)、讃岐国(さぬきのくに)八島(やしま)の磯(いそ)にて、主(ぬし)の御命(おんいのち)に替(かへ)り奉(たてまつ)て討(う)たれけりと、末代(まつだい)の物語(ものがたり)に申(まう)さん事(こと)こそ弓矢(ゆみや)取(と)る身(み)は今生(こんじやう)の面目(めんぼく)、冥途(めいど)の思(おも)ひ出(いで)にて候(さうら)へ」

 と申(まう)すもあへず、ただ弱(よわ)りに弱(よわ)りにければ、判官(はうぐわん)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)し、

「この辺(へん)に貴(たふと)き僧(そう)やある」

 とて、尋(たづ)ね出(いだ)し、

「手負(ておひ)のただ今(いま)落(お)入(い)りに、一日経(いちにちきやう)書(か)いて弔(とぶら)へ」

 とて、黒(くろ)き馬(むま)の太(ふと)う逞(たくま)しうに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)置(お)きて、彼(かの)僧(そう)にたびにけり。

 判官(はうぐわん)五位尉(ごゐのじよう)になられし時(とき)、五位(ごゐ)になして、大夫黒(たいふぐろ)と呼(よ)ばれし馬(むま)なり。

 一谷(いちのたに)の鵯越(ひよどりごえ)をもこの馬(むま)にてぞ落(お)されたりける。

 弟(おとと)の四郎(しらう)兵衛(ひやうゑ)を始(はじ)めとして、これを見(み)る兵(つはもの)共(とも)、皆(みな)涙(なみだ)をながし、

「この君(きみ)の御為(おんため)に命(いのち)を失(うしな)はん事(こと)、全(まつた)く露(つゆ)塵(ちり)程(ほど)も、惜(を)しからず」

 とぞ申(まう)しける。

那須与一

 さる程(ほど)に、阿波讃岐(あはさぬき)に平家(へいけ)を背(そむ)いて、源氏(げんじ)を待(ま)ちける者(もの)共(とも)、あそこの嶺(みね)、ここの洞(ほら)より、十四五(じふしご)騎(き)二十(にじふ)騎(き)、うちつれうちつれ参(まゐ)りければ、判官(はうぐわん)程(ほど)なく三百余騎(さんびやくよき)にぞなりにける。

「今日(けふ)は日(ひ)暮(く)れぬ、勝負(しようぶ)を決(けつ)すべからず」

 とて、引(ひ)き退(しりぞ)く処(ところ)に、沖(おき)の方(かた)より尋常(じんじやう)に飾(かざ)りたる小船(こぶね)一艘(いつさう)、汀(みぎは)へ向(むか)ひて漕(こ)よせけり。

 磯(いそ)へ七(しち)八(はち)段(たん)ばかりになしかば、船(ふね)を横(よこ)様(さま)になす。

 あれはいかにと見(み)る程(ほど)に、船(ふね)の中(なか)より、年(とし)の齢(よはひ)十八(じふはち)九(く)ばかりなる女房(にようばう)のまことに優(いう)に美(うつく)しきが、柳(やなぎ)の五衣(いつつぎぬ)に、紅(くれなゐ)の袴(はかま)著(き)て皆紅(みなくれなゐ)の扇(あふぎ)の日出(ひいだ)したるを、船(ふね)のせがひに挾(はさ)み立(た)て、陸(くが)へ向(むか)ってぞ招(まね)いたる。

 判官(はうぐわん)後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)を召(め)して、

「あれはいかに」

 とのたまへば、

「射(い)よとにこそ候(さうらふ)めれ。ただし大将軍(たいしやうぐん)の矢(や)面(おもて)に進(すす)んで、傾城(けいせい)を御覧(ごらん)ぜば手(て)だれにねらうて、射(い)落(お)せとの計(ばかり)ごとと覚(おぼ)え候(さうらふ)。左(ひだり)も候(さうら)へ。扇(あふぎ)をば射(い)させらるべうや候(さうらふ)らん」

 と申(まう)す。

「射(い)つべき仁(じん)は御方(みかた)に誰(たれ)かある」

 とのたまへば、

「上手(じやうず)ども幾(いく)等(ら)も候(さうらふ)中(なか)に、下野国(しもつけのくに)の住人(ぢゆうにん)、那須太郎(なすのたらう)資高(すけたか)が子(こ)に与一(よいち)宗高(むねたか)こそ、小兵(こひやう)で候(さうら)へども、手(て)ききて候(さうら)へ」

「証拠(しようこ)はいかに」

 とのたまへば、

「かけ鳥(とり)などを争(あらそ)うて、三(さん)に二(に)は必(かなら)射(い)落(お)す者(もの)で候(さうらふ)」

「さらば召(め)せ」

 とて召(め)されたり。

 与一(よいち)そのころは二十(にじふ)許(ばかり)の男士(をのこ)なり。

 かちに赤地(あかぢ)の錦(にしき)を以(もつ)て、おほくびはた袖(そで)色(いろ)へたる直垂(ひたたれ)に、萌黄威(もえぎをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、足(あし)白(しろ)の太刀(たち)を帯(は)き、切斑(きりふ)の矢(や)のその日(ひ)の軍(いくさ)に射(い)て少々(せうせう)残(のこ)ったりけるを首高(くびたか)に負(お)ひなし薄(うす)切斑(きりふ)に鷹(たか)の羽(は)作(つく)り交(まじ)ぜたるぬた目(め)の鏑(かぶら)をぞ指(さ)し副(そ)へたる。

 滋籐(しげどう)の弓(ゆみ)脇(わき)に挾(はさ)み、甲(かぶと)をば脱(ぬ)ぎ高紐(たかひも)に懸(か)け、判官(はうぐわん)の前(まへ)に畏(かしこ)まる。

「いかに宗高(むねたか)、あの扇(あふぎ)の真中(まんなか)射(い)て平家(へいけ)に見(み)物(もの)せさせよかし」

 与一(よいち)畏(かしこ)まって申(まう)しけるは、

「射(い)おほせ候(さうら)はん事(こと)不定(ふぢやう)に候(さうらふ)。射(い)損(そん)じ候(さうらふ)なば、ながき御方(みかた)の御瑕(おんきず)にて候(さうらふ)べし。一定(いちぢやう)仕(つかまつ)らんずる仁(じん)におほせ付(つ)けらるべうや候(さうらふ)らん」

 と申(まう)す。

 判官(はうぐわん)大(おほ)いに怒(いか)って、

「鎌倉(かまくら)を立(た)て、西国(さいこく)へ趣(おもむ)かん殿原(とのばら)は、義経(よしつね)が命(めい)を背(そむ)くべからず。少(すこ)しも仔細(しさい)を存(ぞん)ぜん人(ひと)は、とうとうこれより帰(かへ)るべし」

 とぞのたまひける。

 与一(よいち)重(かさ)ねて辞(じ)せば悪(あし)かりなんとや思(おも)ひけん、

「外(ほか)れんは知(し)り候(さうら)はず、御諚(ごぢやう)で候(さうら)へば仕(つかまつ)ってこそ見(み)候(さうら)はめ」

 とて、御前(ごぜん)を罷(まか)り立(た)ち、黒(くろ)き馬(むま)の太(ふと)う逞(たくま)しうに、小房(こぶさ)の鞦(しりがい)かけ、まろほや摺(す)りたる鞍(くら)置(お)きてぞ乗(の)ったりける。

 弓(ゆみ)取(と)り直(なほ)し、手綱(たづな)かいくり、汀(みぎは)へ向(むか)いて歩(あゆ)ませければ、御方(みかた)の兵(つはもの)共(とも)後(うしろ)を遙(はるか)に見(み)送(おく)りて、

「この若者(わかもの)一定(いちぢやう)仕(つかまつ)り候(さうらひ)ぬと覚(おぼ)え候(さうらふ)」

 と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)も憑(たの)もし気(げ)にぞ見(み)たまひける。

 矢(や)比(ころ)少(すこ)し遠(とほ)かりければ、海(うみ)へ一(いち)段(たん)ばかり打(う)ち入(い)れたれども、なほ扇(あふぎ)の交(まじ)ひ、七(しち)段(たん)ばかりはあるらんとこそ見(み)えたりけれ。

 ころは二月(にぐわつ)十八日(じふはちにち)の酉(とり)の刻(こく)ばかりの事(こと)なるに、折節(をりふし)北(きた)風(かぜ)烈(はげ)しくて、磯打(いそう)浪(なみ)も高(たか)かりけり。

 船(ふね)はゆりあげゆり居(ゐ)ゑただよへば、扇(あふぎ)も串(くし)に定(さだ)まらずひらめいたり。

 沖(おき)には平家(へいけ)船(ふね)を一面(いちめん)に並(なら)べて見(み)物(もの)す。

 陸(くが)には源氏(げんじ)轡(くつわ)を並(なら)べて、これを見(み)る。

 いづれもいづれも晴(は)ならずと云(い)ふ事(こと)ぞなき。

 与一(よいち)目(め)を塞(ふさ)いで、

「南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、別(わかれ)しては我国(わがくに)の神明(しんめい)、日光権現(につくわうごんげん)宇都宮(うつのみや)、那須湯泉大明神(なすのゆぜんだいみやうじん)、願(ねが)はくは、あの扇(あふぎ)の真中(まんなか)射(い)させてたばせたまへ。これを射(い)損(そん)ずる物(もの)ならば、弓(ゆみ)伐(き)り折(を)り自害(じがい)して、人(ひと)に二度(にど)面(おもて)を向(むか)ふべからず。今一度(いまいちど)本国(ほんごく)へむかへんとおぼしめさば、この矢(や)はづさせたまふな」

 と、心(こころ)の中(なか)に祈念(きねん)して、目(め)を見(み)開(ひら)いたれば、風(かぜ)も少(すこ)し吹(ふ)き弱(よわ)り、扇(あふぎ)もいよげにぞなったりける。

 与一(よいち)鏑(かぶら)を取(と)って番(つが)ひ、よ引(ひ)いてひやうと放(はな)つ。

 小兵(こひやう)と云(い)ふぢやう十二束三伏(じふにそくみつぶせ)、弓(ゆみ)は強(つよ)し、浦(うら)響(ひび)く程(ほど)長鳴(ながな)りして、あやまたず扇(あふぎ)の要際(かなめぎは)一寸(いつすん)許(ばかり)置(お)いて、ひふつとぞ射(い)切(き)ったる。

 鏑(かぶら)は海(うみ)へ入(い)りければ、扇(あふぎ)は空(そら)へぞ挙(あ)がりける。

 暫(しばらく)は虚空(こくう)に閃(ひら)めきけるが、春風(はるかぜ)に一(いち)もみ二(に)もみもまれて、海(うみ)へさとぞ散(ち)りたりける。

 夕日(ゆふひ)の輝(かがや)いたるに皆紅(みなくれなゐ)の扇(あふぎ)の日出(ひいだ)したるが白波(しらなみ)の上(うへ)に漂(ただよ)ひ、浮(うか)きぬ沈(しづ)みぬゆられければ、沖(おき)には平家(へいけ)ふなばたを扣(たた)いて感(かん)じたり。

 陸(くが)には源氏(げんじ)箙(えびら)を扣(たた)いてどよめきけり。

弓流

 余(あま)りの面白(おもしろ)さに、感(かん)に堪(た)へざるにやと覚(おぼ)しくて船(ふね)の中(なか)より、年(とし)五十(ごじふ)許(ばかり)なる男(をとこ)の、黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)著(き)て白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)持(も)ったるが、扇(あふぎ)立(た)ったりける所(ところ)に立(た)てまひすましたり。

 伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)、与一(よいち)が後(うしろ)へ歩(あゆ)ませ寄(よ)って、

「御諚(ごぢやう)ぞ、仕(つかまつ)れ」

 と云(い)ひければ、今度(こんど)は中(なか)差(さ)取(と)りて打(う)くはせ、よ引(ひ)いてしや頸(くび)の骨(ほね)をひやうふつと射(い)て船底(ふなぞこ)へまさかさまに射(い)倒(たふ)す。

 平家(へいけ)の方(かた)には音(おと)もせず、源氏(げんじ)の方(かた)には又(また)箙(えびら)を扣(たた)いて、どよめきけり。

「あ射(い)たり」

 といふ人(ひと)もあり、又(また)

「情(なさけ)なし」

 と云(い)ふ者(もの)もあり。

 平家(へいけ)これを本意(ほい)なしとや思(おも)ひけん、楯(たて)ついて一人(ひとり)、弓(ゆみ)持(も)って一人(ひとり)、長刀(なぎなた)持(も)って一人(ひとり)、武者(むしや)三人(さんにん)なぎさにあがり、楯(たて)を衝(つ)いて

「敵(かたき)寄(よ)せよ」

 とぞ招(まね)いたる。

 判官(はうぐわん)、

「あれ、馬(むま)強(つよ)からん若(わか)党(たう)共(とも)、馳(は)せ寄(よ)せて蹴(け)散(ちら)せ」

 とのたまへば、武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん)、三穂屋(みほのや)四郎(しらう)、同藤七(おなじくとうしち)、同(おなじく)十(じふ)郎(らう)、上野国(かうづけのくに)の住人(ぢゆうにん)、丹生(にふ)の四郎(しらう)、信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん)、木曽(きそ)の中次(ちゆうじ)、五(ご)騎(き)つれて、をめいて駈(か)く。

 楯(たて)の影(かげ)より、塗篦(ぬりの)に、黒(くろ)ほろ作(つく)ったる大(おほ)の矢(や)をもて、真先(まつさき)に進(すす)んだる三穂屋(みほのや)の十(じふ)郎(らう)が馬(むま)の左(ひだり)の胃懸(むながい)づくしを、ひやうづばと射(い)て箆(の)の透(とほ)る程(ほど)ぞ、射(い)籠(こ)めたる。

 屏風(びやうぶ)を返(かへ)す様(さま)に、馬(むま)はどうと倒(たふ)るれば、主(あるじ)は馬手(めて)の足(あし)をこえ弓手(ゆんで)の方(かた)へ下(くだ)り立(た)て、跳(と)んで大刀(たち)をぞ抜(ぬ)きたりける。

 楯(たて)の陰(かげ)より、大長刀(おほなぎなた)打(う)ち振(ふ)って懸(か)りければ、三穂屋(みほのや)の十(じふ)郎(らう)、小大刀(こだち)大長刀(おほなぎなた)に叶(かな)はじとや思(おも)ひけむ、かいふいて逃(に)げければ、跳(と)んで続(つづ)いて追(お)ひ懸(か)けたり。

 長刀(なぎなた)でなぎんずるかと見(み)る処(ところ)に、さはなくして、長刀(なぎなた)をば左(ひだり)の脇(わき)にかい挾(はさ)み、右(みぎ)の手(て)を差(さ)し延(の)べて、三穂屋(みほのや)十(じふ)郎(らう)が甲(かぶと)のしころをつかまむとす。

 つかまれじとはしる。

 二度(にど)つかみはづいて、四(し)度(ど)の度(たび)むずとつかむ。

 暫(しば)したまって見(み)えし。

 鉢附(はちつけ)の板(いた)よりふつと引(ひ)き切(き)ってぞ逃(に)げたりける。

 残(のこ)る四(し)騎(き)は、馬(むま)を惜(を)しうでかけず、見(み)物(もの)してこそ居(ゐ)たりけれ。

 三穂屋(みほのや)十(じふ)郎(らう)は、御方(みかた)の馬(むま)の陰(かげ)に逃(に)げ入(はい)って、息(いき)続(つづ)き居(ゐ)たり。

 敵(かたき)は追(お)っても来(く)で長刀(なぎなた)杖(つゑ)につき、甲(かぶと)のしころを指(さ)し上(あ)げ、大音声(だいおんじやう)を上(あ)げて

「日(ひ)ごろは音(おと)にも聞(き)きつらん。今(いま)は目(め)にも見(み)たまへ。これこそ京(きやう)童部(わらんべ)の喚(さうぞう)なる上総悪七兵衛(かづさのあくしちびやうゑ)景清(かげきよ)よ」

 と名乗(なの)り棄(す)てぞ帰(かへ)りける。

 平家(へいけ)これに心地(ここち)なほして、

「悪七兵衛(あくしちびやうゑ)討(う)たすな。続(つづ)けや者(もの)共(とも)」

 とて又(また)二百(にひやく)余人(よにん)なぎさに上(のぼ)り、楯(たて)を雉羽(きじは)につき並(なら)べて

「敵(かたき)寄(よ)せよ」

 とぞ招(まね)いたる。

 判官(はうぐわん)これを見(み)て

「安(やす)からぬ事(こと)なり」

 とて、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)父子(ふし)、金子(かねこ)兄弟(きやうだい)を先(さき)に立(た)て、奥州(あうしう)の佐藤四郎兵衛(さとうしらうびやうゑ)、伊勢三郎(いせのさぶらう)を弓手(ゆんで)馬手(めて)に立(た)て、田代(たしろ)冠者(くわんじや)を後(うしろ)に立(た)てて、八(はち)十(じふ)余騎(よき)をめいてかけたまへば、平家(へいけ)の兵(つはもの)ども、馬(むま)には乗(の)らず、大略(たいりやく)歩武者(かちむしや)にてありければ、馬(むま)に当(あた)られじと引(ひ)き退(しりぞ)いて、皆(みな)船(ふね)へぞ乗(の)りける。

 楯(たて)は算(さん)を散(ち)らしたる様(さま)に、散々(さんざん)に蹴(け)散(ち)らさる。

 源氏(げんじ)の兵(つはもの)共(とも)勝(かち)に乗(の)って、馬(むま)の太腹(ふとばら)ひたる程(ほど)に、打(う)ち入(い)れ打(う)ち入(い)れ責(せ)め戦(たたか)ふ。

 判官(はうぐわん)深入(ふかいり)して戦(たたか)ふ程(ほど)に船(ふね)の中(なか)より熊手(くまで)を持(も)って、判官(はうぐわん)の甲(かぶと)の錣(しころ)に、からりからりと二三度(にさんど)まで打(う)ち懸(か)けるを、御方(みかた)の兵(つはもの)共(とも)、大刀(たち)長刀(なぎなた)で打(う)ちのけ打(う)ちのけしける程(ほど)に、いかがしたりけん、判官(はうぐわん)弓(ゆみ)をかけ落(お)されぬ。

 うつぶして鞭(むち)をもて掻(か)き寄(よ)って、取(と)らう取(と)らうとしたまへば、兵(つはもの)共(とも)、

「ただ捨(す)てさせたまへ」

 と申(まう)しけれども、つひに取(と)って、笑(ゑ)うてぞ帰(かへ)られける。

 おとな共(とも)、爪(つま)弾(はじ)をして、

「口惜(くちを)しき御事(おんこと)候(さうらふ)かな。縦(たとひ)千(せん)疋(ひき)万(まん)疋(ひき)に替(か)へさせたまふべき御(おん)宝(たから)なりとも、いかが御命(おんいのち)に替(か)へさせたまふべき」

 と申(まう)せば、判官(はうぐわん)、

「弓(ゆみ)の惜(を)しさに取(と)らばこそ。義経(よしつね)が弓(ゆみ)といはば、二人(ふたり)しても張(は)り、若(もしく)は三人(さんにん)しても張(は)り、伯父(をぢ)の為朝(ためとも)が弓(ゆみ)の様(さま)ならば、態(わざ)と落(お)して取(と)らすべし。尫弱(わうじやく)たる弓(ゆみ)を、敵(かたき)取(と)り持(も)って、『これこそ源氏(げんじ)の大将(たいしやう)九郎(くらう)義経(よしつね)が弓(ゆみ)よ』とて嘲哢(てうろう)せんずるが口惜(くちを)しければ、命(いのち)に代(よ)へて取(と)るぞや」

 とのたまへば、皆(みな)人(ひと)これをぞ感(かん)じける。

 さる程(ほど)に日(ひ)暮(く)れければ、平家(へいけ)の船(ふね)は沖(おき)に浮(う)かめば源氏(げんじ)は陸(くが)に引(ひ)き退(しりぞ)いて、むれ高(たか)松(まつ)の中(なか)なる野(の)山(やま)に、陣(ぢん)をぞ取(と)りたりける。

 源氏(げんじ)の兵(つはもの)共(とも)、この三日(みつか)が間(あひだ)は臥(ふ)さざりけり。

 一昨日(をととひ)渡辺(わたなべ)福(ふく)島(しま)を出(い)づるとて、その夜(よ)大浪(おほなみ)にゆられて目(め)睡(ねぶ)らず、昨日(きのふ)阿波国(あはのくに)勝浦(かつうら)にて軍(いくさ)して終夜(よもすがら)中(なか)山(やま)越(こ)え、今日(けふ)又(また)一日(いちにち)戦(たたか)ひくらしたりければ、皆(みな)疲(つか)れ果(は)てて或(あるい)は甲(かぶと)を枕(まくら)にし、或(あるい)は鎧(よろひ)の袖(そで)、箙(えびら)など枕(まくら)にして、前後(ぜんご)も知(し)らず臥(ふ)したりけり。

 その中(なか)に、判官(はうぐわん)と伊勢三郎(いせのさぶらう)は寝(ね)ざりけり。

 判官(はうぐわん)は高(たか)き所(ところ)に登(のぼ)り上(のぼ)って、敵(かたき)や寄(よ)ると遠見(とほみ)したまへば、伊勢三郎(いせのさぶらう)はくぼき所(ところ)に隠(かく)れ居(ゐ)て、敵(かたき)寄(よ)せば、まづ馬(むま)の太腹(ふとばら)射(い)んとて待(ま)ち懸(か)けたり。

 平家(へいけ)の方(かた)には、能登守(のとのかみ)を大将(たいしやう)にて、その勢(せい)五百余騎(ごひやくよき)夜討(ようち)にせんと支度(したく)しけれども、越中次郎兵衛盛次(ゑつちゆうじらうびやうゑもりつぐ)と、海老次郎(えびのじらう)守方(もりかた)と先陣(せんぢん)を争(あらそ)ふ程(ほど)に、その夜(よ)も空(むな)しくあけにけり。

 夜討(ようち)にだにもしたらば源氏(げんじ)なじかはたまるべき。

 寄(よ)せざりけるこそ、責(せ)めての運(うん)の究(きは)めなれ。

志度合戦

 明(あ)ければ、平家(へいけ)舟(ふね)に取(と)り乗(の)って当国(たうごく)志度浦(しどのうら)へ漕(こ)ぎ退(しりぞ)く。

 判官(はうぐわん)三百余騎(さんびやくよき)が中(なか)より馬(むま)や人(ひと)をすぐって八(はち)十(じふ)余騎(よき)、追(お)ってぞかかりける。

 平家(へいけ)これを見(み)て、

「敵(かたき)は小勢(こぜい)なり。中(なか)に取(と)り籠(こ)めて討(う)や」

 とて、又(また)千余人(せんよにん)なぎさに上(のぼ)りをめき叫(さけ)んで責(せ)め戦(たたか)ふ。

 さる程(ほど)に、八島(やしま)に残(のこ)留(とど)まったる二百(にひやく)余騎(よき)の兵(つはもの)共(とも)、後馳(うしろばせ)に馳(は)せ来(く)る。

 平家(へいけ)これを見(み)て、

「すはや源氏(げんじ)の大勢(おほぜい)の続(つづ)くは。何(なに)十万騎(じふまんぎ)かあるらん。取(と)り籠(ろう)られては叶(かな)ふまじ」

 とて又(また)船(ふね)に取(と)り乗(の)って潮(しほ)に引(ひ)かれ風(かぜ)に随(したが)って、いづくを指(さ)すともなく、落(お)ち行(ゆ)きぬ。

 四国(しこく)は皆(みな)大夫判官(たいふはうぐわん)に追(お)ひ落(お)されぬ、九国(きうこく)へは入(い)られず、ただ中有(ちゆうう)の衆生(しゆじやう)とぞ見(み)えし。

 判官(はうぐわん)志度浦(しどのうら)に下(くだ)り居(ゐ)て、頸(くび)共(とも)実検(じつけん)しておはしけるが、伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)をめして、のたまひけるは、

「阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)、田内左衛門(たのうちざゑもん)教能(のりよし)は河野四郎(かうのしらう)通信(みちのぶ)が、召(め)せども参(まゐ)らぬを責(せ)めんとて、三千余騎(さんぜんよき)にて、伊予(いよ)へ越(こ)えたりけるが、河野(かうの)をば打(う)ち泄(もら)して家子郎等(いへのこらうどう)百(ひやく)五十人(ごじふにん)が頸(くび)斬(き)って昨日(きのふ)八島(やしま)の内裏(だいり)へ参(まゐ)らせたりけるが、今日(けふ)これへ著(つ)くときく。汝(なんぢ)行(ゆ)き向(むか)って、ともかくもこしらへて具(ぐ)して参(まゐ)れかし」

 とのたまへば、畏(かしこ)まって承(うけたまは)り、旗一流(はたいちりう)たまはってさす儘(まま)に、その勢(せい)僅(わづか)に十六騎(じふろくき)、皆(みな)白(しろ)装束(しやうぞく)にて馳(は)せ向(むか)ふ。

 義盛(よしもり)教能(のりよし)に行(ゆ)き合(あ)ったり。

 白旗(しろはた)赤旗(あかはた)、二(に)町(ちやう)許(ばかり)を隔(へだ)ててゆらへたり。

 伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)使者(ししや)を立(た)て申(まう)しけるは

「これは源氏(げんじ)の大将軍(たいしやうぐん)九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)殿(どの)の御(おん)内(うち)に、伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)と申(まう)す者(もの)で候(さうらふ)が、大将(たいしやう)に申(まう)すべき事(こと)あって、これまで罷(まか)り向(むか)って候(さうらふ)。軍合戦(いくさかつせん)の料(れう)でも候(さうら)はねば、物具(もののぐ)もし候(さうら)はず、弓矢(ゆみや)ももたせ候(さうら)はず、あけて入(い)らせたまへ」

 と申(まう)しければ、三千余騎(さんぜんよき)の兵(つはもの)共(とも)、中(なか)を開(ひら)いてぞ通(とほ)しける。

 義盛(よしもり)教能(のりよし)に打(う)ち並(なら)べて、

「かつ聞(き)きたまひてもあるらん、鎌倉殿(かまくらどの)の御弟(おんおとと)九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)殿(どの)院宣(ゐんぜん)を承(うけたまは)って、平家(へいけ)追討(ついたう)の為(ため)に、西国(さいこく)へ向(むか)はせたまひて候(さうらふ)が、一昨日(をととひ)阿波国(あはのくに)勝浦(かつうら)にて、御辺(ごへん)の伯父(をぢ)桜間介(さくらまのすけ)殿(どの)討(う)たれたまひぬ。昨日(きのふ)八島(やしま)に寄(よ)せて御所(ごしよ)内裏(だいり)皆(みな)焼(や)き払(はら)ひ、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)生捕(いけどり)にし奉(たてまつ)り能登殿(のとどの)は自害(じがい)したまひぬ。その外(ほか)の君達(きんだち)或(あるい)は討(う)ち死(し)にに或(あるい)は海(うみ)に入(い)りたまひぬ。余(よ)党(たう)の僅(わづか)にありつるは志度(しど)の浦(うら)にて、皆(みな)討(う)たれぬ。御辺(ごへん)の父(ちち)阿波民部(あはのみんぶ)殿(どの)は、降人(かうにん)に参(まゐ)らせたまひて候(さうらふ)を、義盛(よしもり)が預(あづか)り奉(たてまつ)て候(さうらふ)が、あはれ田内左衛門(たのうちざゑもん)がこれをば夢(ゆめ)にも知(し)らで、明日(あす)は軍(いくさ)して討(う)たれ参(まゐ)らせんずる無慚(むざん)さよと、通夜(つや)嘆(なげ)きたまふが、あまりに最愛(もあい)てこの事(こと)知(し)らせ奉(たてまつ)らんとてこれまで罷(まか)り向(むか)って候(さうらふ)。その上(うへ)は軍(いくさ)して討(う)ち死(し)にせんとも降人(かうにん)に参(まゐ)りて父(ちち)を今一度(いまいちど)見(み)奉(たてまつ)らんともともかうも御辺(ごへん)が計(ばかり)ぞ」

 といひければ、田内左衛門(たのうちざゑもん)、聞(き)こゆる兵(つはもの)なれども運(うん)や尽(つ)きにけん。

「かつ聞(き)く事(こと)に少(すこ)しも違(たが)はず」

 とて、甲(かぶと)を脱(ぬ)ぎ弓(ゆみ)の弦(つる)を弛(はづ)いて、郎等(らうどう)にもたす。

 大将(たいしやう)がかやうになる上(うへ)は、三千余騎(さんぜんよき)の兵(つはもの)ども皆(みな)この如(ごと)し。

 僅(わづか)に十六騎(じふろくき)に具(ぐ)せられ、おめおめと降人(かうにん)にこそ参(まゐ)りけれ。

「義盛(よしもり)が策(はかりごと)まことにゆゆしかりけり」

 と判官(はうぐわん)も感(かん)じたまひけり。

 やがて田内左衛門(たのうちざゑもん)をば物具(もののぐ)めされて、伊勢三郎(いせのさぶらう)に預(あづか)けらる。

「さてあの勢(せい)共(とも)はいかに」

 とのたまへば、

「遠国(をんごく)の者(もの)共(とも)は誰(たれ)を誰(たれ)とか思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうらふ)べき。ただ世(よ)の乱(みだ)れをしづめて国(くに)をしろしめさんを君(きみ)とせん」

 と申(まう)しければ、尤(もつと)然(しか)るべしとて、三千余騎(さんぜんよき)を、皆(みな)我勢(わがせい)にぞ具(ぐ)せられける。

 同(おな)じき二十二日(にじふににち)辰(たつ)の刻(こく)ばかり渡辺(わたなべ)に残(のこ)り留(とど)まったる二百(にひやく)余(よ)艘(さう)の船(ふね)共(とも)、梶原(かぢはら)を先(さき)として、八島(やしま)の磯(いそ)にぞ著(つ)きにける。

「四国(しこく)は皆(みな)九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)に攻(せ)め落(お)されぬ。今(いま)は何(なに)の用(よう)にか逢(あ)ふべき。会(くわい)に逢(あ)はぬ華(はな)、六日(むいか)の菖蒲(あやめ)、いさかひ果(は)てのちぎりかな」

 とぞ笑(わら)ひける。

 判官(はうぐわん)都(みやこ)を立(た)てたまひて後(のち)住吉(すみよし)の神主(かんぬし)長盛(ながもり)、院(ゐん)の御所(ごしよ)へ参(まゐ)りて、大蔵卿(おほくらのきやう)泰経(やすつね)朝臣(あそん)を以(もつ)て奏聞(そうもん)しけるは、

「去(さる)十六日(じふろくにち)の丑刻(うしのこく)に当社(たうしや)第三(だいさん)の神殿(しんでん)より鏑(かぶら)矢(や)の声(こゑ)出(い)て、西(にし)を指(さ)して罷(まか)り候(さうらひ)ぬ」

 と申(まう)しければ、法皇(ほふわう)大(おほ)いに御感(ぎよかん)あって、御(おん)剣(つるぎ)已下(いげ)種々(しゆじゆ)の神宝(じんぽう)を長盛(ながもり)して大明神(だいみやうじん)へまゐらせらる。

 昔(むかし)神功皇后(じんぐうくわうごう)、新羅(しらぎ)を責(せ)めたまひし時(とき)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)より、二(に)神(かみ)のあらみさきを差(さ)し副(そへ)させたまひけり。

 二(に)神(かみ)御船(おんふね)の艫舳(ともへ)に立(た)て、新羅(しらぎ)を安(やす)く責(せ)め落(お)されぬ。

 帰朝(きてう)の後(のち)、一(いち)神(かみ)は摂津国(せつつのくに)住吉(すみよし)の郡(こほり)に留(とど)まりたまふ。

 住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)の御事(おんこと)なり。

 今(いま)一(いち)神(かみ)は信濃国(しなののくに)諏訪(すは)の郡(こほり)に跡(あと)を垂(た)る。

 諏訪(すは)大明神(だいみやうじん)これなり。

 昔(むかし)の征罰(せいばつ)の事(こと)を、おぼしめし忘(わす)れず今(いま)も朝(てう)の怨敵(をんてき)を滅(ほろぼ)したまふべきにやと、君(きみ)も臣(しん)も憑(たの)もしうぞおぼしめされける。

鶏合 壇浦合戦

 さる程(ほど)に、九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)義経(よしつね)周防(すはう)の地(ち)に押(お)し渡(わた)って、兄(あに)の参河守(みかはのかみ)と一(いち)になる。

 平家(へいけ)は長門国(ながとのくに)ひく島(しま)にぞつきにける。

 源氏(げんじ)阿波国(あはのくに)勝浦(かつうら)に著(き)て八島(やしま)の軍(いくさ)に打(う)ち勝(か)ちぬ。

 平家(へいけ)引島(ひくしま)に著(き)と聞(き)こえしかば、源氏(げんじ)は同国(どうこく)の内(うち)、追津(おひつ)に著(き)こそ不思議(ふしぎ)なれ。

 熊野別当(くまのべつたう)湛増(たんぞう)は、平家(へいけ)重恩(ぢゆうおん)の身(み)なりしが、たちまちにその恩(おん)を忘(わす)れて

「平家(へいけ)へや参(まゐ)るべき、源氏(げんじ)へや参(まゐ)るべき」

 とて、田辺(たなべ)の新熊野(しんくまの)にて御神楽(みかぐら)奏(そう)して、権現(ごんげん)に祈誓(きせい)し奉(たてまつ)る。

「ただ白旗(しろはた)につけ」

 と御託宣(ごたくせん)ありけるを、なほ疑(うたが)ひなして白(しろ)き鶏(とり)七(しち)、赤(あか)き鶏(とり)七(しち)、これを以(もつ)て権現(ごんげん)の御前(ごぜん)にて勝負(しようぶ)をせさす。

 赤(あか)き鶏(とり)一(ひと)つも勝(か)たず皆(みな)負(お)けてけり。

 さてこそ源氏(げんじ)へ参(まゐ)らんと思(おも)ひ定(さだ)めけれ。

 一門(いちもん)の者(もの)共(とも)相(あひ)催(もよほ)し、都合(つがふ)その勢(せい)二千(にせん)余人(よにん)、二百(にひやく)余(よ)艘(さう)の船(ふね)に乗(の)り連(つら)れて、若王子(にやくわうじ)の御正体(みしやうたい)を船(ふね)に乗(の)せ参(まゐ)らせ、旗(はた)の横上(よこがみ)には、金剛童子(こんがうどうじ)を書(か)き奉(たてまつ)って、壇(だん)浦(うら)へ寄(よ)するを見(み)て、源氏(げんじ)も平家(へいけ)も共(とも)にをがむ。

 されども源氏(げんじ)の方(かた)へ付(つ)ければ、平家(へいけ)興覚(きようさ)めてぞ思(おも)はれける。

 又(また)伊予国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん)、河野四郎(かうのしらう)通信(みちのぶ)、百(ひやく)五十(ごじふ)艘(さう)の兵船(ひやうせん)に乗(の)り連(つら)れて漕(こ)ぎ来(く)り、源氏(げんじ)と一(ひと)つになりにけり。

 判官(はうぐわん)旁(かたがた)憑(たの)もしう力(ちから)ついてぞ思(おも)はれける。

 源氏(げんじ)の船(ふね)は三千(さんぜん)艘(さう)、平家(へいけ)の船(ふね)は千余艘(せんよさう)、唐(たう)船(ふね)少々(せうせう)相(あひ)交(まじ)れり。

 源氏(げんじ)の勢(せい)は重(かさ)なれば、平家(へいけ)の勢(せい)は落(お)ちぞ行(ゆ)く。

 元歴(げんりやく)二年(にねん)三月(さんぐわつ)二十四日(にじふしにち)卯刻(うのこく)に、豊前(ぶぜん)の国(くに)の門司(もじ)赤間関(あかまがせき)にて、源平(げんぺい)矢合(やあはせ)とぞ定(さだ)めける。

 その日(ひ)判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)と既(すで)に同志軍(どしいくさ)せんとする事(こと)あり。

 梶原(かぢはら)、判官(はうぐわん)に申(まう)しけるは

「今日(けふ)の先陣(せんぢん)をば、景時(かげとき)にたび候(さうら)へ」

 判官(はうぐわん)、

「義経(よしつね)がなくばこそ」

 とのたまへば、

「大将軍(たいしやうぐん)にてこそ在々(ましまし)候(さうら)へ」

 と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)、

「思(おも)ひも寄(よ)らず、鎌倉殿(かまくらどの)こそ大将軍(たいしやうぐん)よ。義経(よしつね)は奉行(ぶぎやう)を承(うけたまは)ったる身(み)なれば、ただ殿原(とのばら)と同事(おなじこと)ぞ」

 とのたまへば。

 梶原(かぢはら)、先陣(せんぢん)を所望(しよまう)しかねて、

「天性(てんしやう)この殿(どの)は侍(さぶらひ)の主(ぬし)にはなり難(かた)し」

 とぞつぶやきける。

 判官(はうぐわん)、これを聞(き)き

「日本(にほん)一(ひと)つの嗚呼(をこ)の者(もの)かな」

 とて、太刀(たち)の柄(え)に手(て)をかけたまふ。

 梶原(かぢはら)

「鎌倉殿(かまくらどの)より外(ほか)に主(ぬし)を持(も)たぬ者(もの)を」

 とて、これも太刀(たち)の柄(え)に手(て)を懸(か)けり。

 さる程(ほど)に嫡子(ちやくし)の源太景季(げんだかげすゑ)、次男(じなん)平次景高(へいじかげたか)、同(おなじく)三郎(さぶらう)景家(かげいへ)、父(ちち)と一所(いつしよ)に寄(よ)り合(あ)うたり。

 判官(はうぐわん)の気色(けしき)を見(み)て、奥州(あうしう)佐藤四郎兵衛(さとうしらうびやうゑ)忠信(ただのぶ)、伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)、源八(げんぱち)広綱(ひろつな)、江田源三(えだげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)、武蔵(むさし)坊弁慶(ばうべんけい)など云(い)ふ一人当千(いちにんたうせん)の兵(つはもの)共(とも)、梶原(かぢはら)を中(なか)に取(と)り籠(こ)めて、我討(わがう)とらんとぞ進(すす)みける。

 されども判官(はうぐわん)には三浦介(みうらのすけ)取(と)付(つ)き奉(たてまつ)り、梶原(かぢはら)には土肥次郎(どひのじらう)つかみつき、両人(りやうにん)手(て)を摺(す)って申(まう)しけるは、

「これ程(ほど)の大事(だいじ)を前(まへ)にかかへながら、同士軍(どしいくさ)候(さうら)はば平家(へいけ)力(ちから)付(つ)き候(さうらふ)なんず。就中(なかんづく)、鎌倉殿(かまくらどの)の還(かへ)り聞(き)かせたまはん処(ところ)こそ穏便(をんびん)ならず候(さうら)へ」

 と申(まう)せば、判官(はうぐわん)静(しづ)まりたまひぬ。

 梶原(かぢはら)進(すす)むに及(およ)ばず。

 それよりして、梶原(かぢはら)、判官(はうぐわん)を憎(にく)みそめてつひに讒言(ざんげん)して失(うしな)ひけるとぞ、後(のち)には聞(き)こえし。

 さる程(ほど)に源平(げんぺい)両(りやう)陣(ぢん)の交(まじ)ひ海(うみ)の面(おもて)三十(さんじふ)余(よ)町(ちやう)をぞ隔(へだ)たる。

 門司(もじ)、赤間(あかま)、壇(だん)の浦(うら)は、たぎりて落(お)つる潮(しほ)なれば、源氏(げんじ)の船(ふね)は潮(しほ)に向(むか)うて心(こころ)ならず押(お)し落(お)さる。

 平家(へいけ)の船(ふね)は潮(しほ)に追(お)うてぞ出来(いでき)たる。

 沖(おき)は潮(しほ)の早(はや)ければ、汀(みぎは)に付(つ)いて、梶原(かぢはら)敵(かたき)の船(ふね)の行(ゆ)き違(たが)ふ処(ところ)に、熊手(くまで)を打(う)ち懸(か)けて、親(おや)子(こ)主従(しゆじゆう)十四五(じふしご)人(ひと)、乗(の)り移(うつ)り、打物(うちもの)抜(ぬ)いで艫舳(ともへ)に散々(さんざん)にないで廻(めぐ)り、分捕(ぶんどり)数多(あまた)して、その日(ひ)の高名(かうみやう)の一(いち)の筆(ふで)にぞ付(つ)きにける。

 既(すで)に、源平(げんぺい)両方(りやうはう)陣(ぢん)を合(あ)せて鬨(とき)を作(つく)る。

 上(うへ)は梵(ぼん)天(てん)までも聞(き)こえ、下(した)は海竜神(かいりうじん)も驚(おどろ)くらんとぞ覚(おぼ)えける。

 新中納言(しんちゆうなごん)知盛(とももり)卿(きやう)、船(ふね)の屋形(やかた)に立(た)ち出(い)で、大音声(だいおんじやう)を上(あ)げて、のたまひけるは、

「軍(いくさ)は今日(けふ)で限(かぎ)る。者(もの)共(とも)少(すこ)しも、しりぞく心(こころ)あるべからず。天竺(てんぢく)震旦(しんたん)にも、日本(にほん)吾朝(わがてう)にも、双(ならび)なき名将勇士(めいしやうゆうし)と云(い)へども、運命(うんめい)尽(つ)きぬれば力(ちから)及(およ)ばず。されども名(な)こそ惜(を)しけれ、東国(とうごく)の者(もの)共(とも)に弱(よわ)気(げ)見(み)ゆな、いつの為(ため)に命(いのち)をば惜(を)しむべき。ただこれのみぞ思(おも)ふ事(こと)」

 とのたまへば、飛騨三郎左衛門景経(ひださぶらうざゑもんかげつね)御前(ごぜん)に候(さうら)ひけるが、

「これ承(うけたまは)れ、侍(さぶらひ)共(とも)」

 とぞ下知(げぢ)しける。

 上総悪七兵衛(かづさのあくしちびやうゑ)進(すす)み出(い)でて申(まう)しけるは、

「坂東(ばんどう)武者(むしや)は、馬(むま)の上(うへ)でこそ口(くち)はきき候(さうらふ)とも、船軍(ふないくさ)にはいつ調練(てうれん)し候(さうらふ)べき。縦(たと)へば魚(うを)の木(き)に上(のぼ)ったるでこそ候(さうら)はんずれ。一々(いちいち)に取(と)って海(うみ)につけ候(さうら)はん」

 とぞ申(まう)したる。

 越中(ゑつちゆう)の次郎(じらう)兵衛(びやうゑ)申(まう)しけるは、

「同(おな)じくは大将軍(たいしやうぐん)の源九郎(げんくらう)に組(く)みたまへ。九郎(くらう)は色(いろ)白(しろ)うせい小(ちひ)さきが、向(むか)歯(は)の殊(こと)に差(さ)し出(い)でてしるかんなるぞ。ただし直垂(ひたたれ)と鎧(よろひ)を常(つね)に著(き)替(かへ)なれば、きと見(み)分(わ)難(かた)かんなり」

 とぞ申(まう)しける。

 上総悪七兵衛(かづさのあくしちびやうゑ)申(まう)しけるは

「心(こころ)こそ猛(たけ)くともその小(こ)冠者(くわんじや)何(なに)程(ほど)の事(こと)かあるべき。片(かた)脇(わき)に挾(はさ)さんで、海(うみ)へ入(い)れなん物(もの)を」

 とぞ申(まう)したる。

 新中納言(しんちゆうなごん)はかやうに下知(げぢ)したまひ、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへに参(まゐ)りて、

「今日(けふ)は侍(さぶらひ)共(とも)景色(けしき)よう見(み)え候(さうらふ)。但(ただ)阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)は、心変(こころがは)したると覚(おぼ)え候(さうらふ)。首(かうべ)をはね候(さうら)はばや」

 と申(まう)されければ、大臣殿(おほいとの)、

「見(み)えたる事(こと)もなうていかが頸(くび)をば切(き)るべき。指(さ)しも奉公(ほうこう)の者(もの)であるものを」

「重能(しげよし)参(まゐ)れ」

 とて召(め)しければ木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に、洗革(あらひがは)の鎧(よろひ)著(き)て、御前(ごぜん)に畏(かしこ)まって候(さうらふ)。

「いかに重能(しげよし)は心(こころ)替(かへ)したるか。今日(けふ)こそ悪(あし)う見(み)ゆるぞ。四国(しこく)の者(もの)共(とも)に、軍(いくさ)好(よし)うせよと下知(げぢ)せよかし。臆(おく)したるな」

 とのたまへば、

「なじかは臆(おく)し候(さうら)ふべき」

 とて御前(ごぜん)を罷(まか)り立(た)つ。

 新中納言(しんちゆうなごん)

「あはれきやつが頸(くび)を打(う)ち落(お)さばや」

 とおぼしめし、太刀(たち)のつかも砕(くだ)けよと握(にぎ)って大臣殿(おほいとの)の御方(おんかた)を頻(しき)に見(み)たまひけれども、御許(おんゆる)されなかれば、力(ちから)及(およ)ばず。

 平家(へいけ)は千余艘(せんよさう)を三(さん)手(て)に作(つく)る。

 山賀(やまが)の兵藤次(ひやうとうじ)秀遠(ひでとほ)五(ご)百(ひやく)余(よ)艘(さう)で先陣(せんぢん)に漕(こ)ぎ向(むか)ふ。

 松浦党(まつらたう)三百(さんびやく)余(よ)艘(さう)で二(に)陣(ぢん)に続(つづ)く。

 平家(へいけ)の君達(きんだち)二百(にひやく)余(よ)艘(さう)にて三(さん)陣(ぢん)に続(つづ)きたまふ。

 兵藤次(ひやうとうじ)秀遠(ひでとほ)は、九国(きうこく)一(いち)番(ばん)の精兵(せいびやう)にてありけるが我程(わがほど)こそなけれ共(とも)、普通(ふつう)ざまの精兵(せいびやう)共(とも)五(ご)百人(ひやくにん)をすぐって、舟々(ふねぶね)の艫舳(ともへ)に立(た)て、肩(かた)を一面(いちめん)に比(ころ)べて、五(ご)百(ひやく)の矢(や)を一度(いちど)に放(はな)つ。

 源氏(げんじ)は三千(さんぜん)余(よ)艘(さう)の船(ふね)なれば勢(せい)の数(かず)、さこそ多(おほ)かりけめども、処々(しよしよ)より射(い)ければいづくに精兵(せいびやう)ありとも見(み)えず。

 大将軍(たいしやうぐん)九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)真先(まつさき)に進(すす)んで戦(たたか)ふ。

 楯(たて)も鎧(よろひ)もこらへずして、散散(さんざん)に射(い)しらまさる。

 平家(へいけ)御方(みかた)勝(か)ちぬとて、頻(しき)に攻(せ)め皷(つづみ)打(う)って悦(よろこ)の鬨(とき)をぞ作(つく)りける。

遠矢

 源氏(げんじ)の方(かた)にも和田小太郎(わだのこたらう)義盛(よしもり)、船(ふね)には乗(の)らず、馬(むま)に打(う)ち乗(の)ってなぎさに引(ひ)きへ、甲(かぶと)をば脱(ぬ)いで人(ひと)にもたせ、鐙(あぶみ)の鼻(はな)蹈(ふ)みそらし、よ引(ひ)いて射(い)ければ、三(さん)町(ちやう)が内(うち)との物(もの)は外(ほか)さずつよう射(い)けり。

 その中(なか)に殊(こと)に遠(とほ)う射(い)たると覚(おぼ)しきを、

「その矢(や)たまはらん」

 とぞ招(まね)いたる。

 新中納言(しんちゆうなごん)これを召(め)し寄(よ)せて見(み)たまへば、白篦(しらの)に鶴(つる)の本白(もとじろ)、こうの羽(はね)を破(やぶ)り合(あ)せて作(つく)ったる矢(や)の十三束二伏(じふさんぞくふたぶせ)有(あ)に、沓巻(くつまき)より一(いち)束(ぞく)計(ばかり)おいて、和田小太郎(わだのこたらう)平義盛(たひらのよしもり)と、漆(うるし)にてぞ書(か)き付(つ)けたる。

 平家(へいけ)の方(かた)に精兵(せいびやう)多(おほ)しといへども、さすが遠(とほ)矢(や)射(い)る者(もの)は少(すく)なかりけるやらん、稍(やや)久(ひさ)しうあって、伊予国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん)仁井紀四郎(にゐのきしらう)親清(ちかきよ)召(め)し出(いだ)され、この矢(や)をたまはって射(い)返(かへ)す。

 これも沖(おき)よりなぎさへ三(さん)町(ちやう)余(よ)をつと射(い)渡(わた)して、和田小太郎(わだのこたらう)が、後(うしろ)一(いち)段(たん)あまりに引(ひ)きへたる三浦(みうら)の石田左近太郎(いしださこんたらう)が弓手(ゆんで)のかひなにしたたかにこそ立(た)ったりけれ。

 三浦(みうら)の人(ひと)共(とも)これを見(み)て、

「和田小太郎(わだのこたらう)が、我(われ)に過(す)ぎて遠(とほ)矢(や)射(い)る者(もの)なしと思(おも)ひて恥(はぢ)かいたるをかしさよ。あれを見(み)よ」

 とぞ笑(わら)ひける。

 和田小太郎(わだのこたらう)これを聞(き)き、

「やすからぬ事(こと)なり」

 とて小舟(こぶね)に乗(の)って漕(こ)ぎ出(いだ)させ、平家(へいけ)の勢(せい)の中(なか)を差(さ)し詰(つ)め引(ひ)き詰(つ)め散々(さんざん)にいければ多(おほ)くの者(もの)共(とも)射(い)殺(ころ)され手負(てお)ひにけり。

 又(また)判官(はうぐわん)の乗(の)ったまへる船(ふね)に、沖(おき)より白篦(しらの)の大矢(おほや)を一(ひと)つ射(い)立(た)てて、和田(わだ)が様(さま)に

「こなたへたまはらん」

 とぞ招(まね)いたる。

 判官(はうぐわん)この矢(や)を抜(ぬ)かせて見(み)たまへば、白篦(しらの)に山(やま)鳥(とり)の尾(を)を以(もつ)て作(つく)ったりける矢(や)の、十四束三伏(じふしそくみつぶせ)あるに、伊予国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん)仁井紀四郎(にゐのきしらう)親清(ちかきよ)とぞ書(か)き付(つ)けたる。

 判官(はうぐわん)後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)を召(め)して、

「この矢(や)射(い)つべき者(もの)の御方(みかた)に誰(たれ)かある」

 とのたまへば

「甲斐(かひ)源氏(げんじ)に阿佐里(あさり)与一(よいち)殿(どの)こそ、精兵(せいびやう)にてましまし候(さうら)へ」

「さらば呼(よ)べ」

 とて呼(よ)ばれければ、阿佐里(あさり)の与一(よいち)出来(いでき)たり。

 判官(はうぐわん)のたまひけるは、

「沖(おき)よりこの矢(や)を射(い)て候(さうらふ)が、射(い)返(かへ)せと招(まね)き候(さうらふ)。御辺(ごへん)あそばし候(さうらふ)なんや」

「たまはって見(み)候(さうら)はん」

 とて、爪(つま)よって、

「これは篦(の)が少(すこ)し弱(よわ)う候(さうらふ)。矢束(やづか)もちと短(みじか)う候(さうらふ)。同(おな)じうは義成(よしなり)が具足(ぐそく)にて仕(つかまつ)り候(さうら)はん」

 とて、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓(ゆみ)の九(く)尺(しやく)計(ばかり)あるに、塗篦(ぬりの)に黒(くろ)ほろはいだる矢(や)の、我大手(わがおほて)に押(お)し握(にぎ)って十五束(じふごそく)ありけるをうちくはせ、よ引(ひ)いてひやうと放(はな)つ。

 四(し)町(ちやう)余(よ)をつと射(い)渡(わた)して、大船(おほぶね)の舳(へさき)に立(た)ったる仁井紀四郎(にゐのきしらう)親清(ちかきよ)が真正中(まつしやうなか)をひやうづばと射(い)て、船底(ふなぞこ)へ逆(さか)様(さま)に射(い)倒(たふ)す。

 死生(ししやう)をばしらず。

 阿佐里(あさり)与一(よいち)は、本(もと)より精兵(せいびやう)の手(て)ききなり。

 二(に)町(ちやう)に走(はし)る鹿(しか)をば、外(ほか)さず射(い)けるとぞ聞(き)こえし。

 その後(のち)源平(げんぺい)、戦(たたか)に命(いのち)を惜(を)しまずをめき叫(さけ)んで攻(せ)め戦(たたか)ふ。

 何(いづ)れ劣(おと)れりとも見(み)えず。

 されども、平家(へいけ)の方(かた)には、十善(じふぜん)帝王(ていわう)三種(さんしゆ)の神器(じんぎ)を帯(たい)して渡(わた)らせたまへば、源氏(げんじ)いかがあらんずらんとあぶなう思(おも)ひけるに、暫(しばらく)は白雲(しらくも)かと覚(おぼ)しくて、虚空(こくう)に漂(ただよ)ひけるが、雲(くも)にてはなかりけり、主(ぬし)もなき白旗一流(しろはたいちりう)舞(ま)ひ下(くだ)って、源氏(げんじ)の船(ふね)の舳(へさき)に、竿付(さをづけ)の緒(を)のさはる程(ほど)にぞ見(み)えたりける。

 判官(はうぐわん)、

「これは八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の現(げん)じたまへるにこそ」

 と悦(よろこ)んで、手水(てうづ)嗽(うがひ)をして、これを拝(はい)し奉(たてまつ)る。

 兵(つはもの)共(とも)皆(みな)このごとし。

 又(また)源氏(げんじ)の方(かた)より江豚(いるか)といふ魚(うを)、一(いち)二千(にせん)這(は)うて、平家(へいけ)の方(かた)へぞ向(むか)ひける。

 大臣殿(おほいとの)これを御覧(ごらん)じて小博士晴信(こはかせはるのぶ)を召(め)して、

「江豚(いるか)は常(つね)に多(おほ)けれども、未(いま)だかやうの事(こと)なし。いかがあるべきと勘(かんが)へ申(まう)せ」

 とおほせられければ

「この江豚(いるか)見(み)かへり候(さうら)はば、源氏(げんじ)滅(ほろ)び候(さうらふ)べし。はうて通(とほ)り候(さうら)はば、御方(みかた)の御軍(おんいくさ)危(あやふ)う候(さうらふ)」

 と申(まう)すも果(は)てねば、平家(へいけ)の船(ふね)の下(した)を、直(ただち)にはうて通(とほ)りけり。

「世(よ)の中(なか)は今(いま)はかう」

 とぞ申(まう)したる。

 阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)は、この三箇年(さんかねん)が間(あひだ)、平家(へいけ)によくよく忠(ちゆう)を尽(つ)くし、度々(たびたび)の合戦(かつせん)に命(いのち)を惜(を)しまず防(ふせ)ぎ戦(たたか)ひけるが、子息(しそく)田内左衛門(たのうちざゑもん)を生捕(いけどり)にせられて、いかにも叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、たちまちに心(こころ)替(かへ)りして、源氏(げんじ)に同心(どうしん)してんげり。

 平家(へいけ)の方(かた)にははかりごとに、よき人(ひと)をば兵船(ひやうせん)に乗(の)せ、雑(ざふ)人(ひと)共(とも)を唐(たう)船(ふね)に乗(の)せて、源氏(げんじ)心(こころ)にくさに唐(たう)船(ふね)を攻(せ)めば、中(なか)に取(と)り籠(こ)めて討(う)たんと支度(したく)せられたりけれども、阿波民部(あはのみんぶ)が回忠(くわいちゆう)の上(うへ)は、唐(たう)船(ふね)には目(め)も懸(か)けず、大将軍(たいしやうぐん)のやつし乗(の)りたまへる兵船(ひやうせん)をぞ攻(せ)めたりける。

 新中納言(しんちゆうなごん)

「やすからぬ、重能(しげよし)めを切(き)って棄(す)つべかりつるものを」

 と千(せん)たび後悔(こうくわい)せられけれども叶(かな)はず。

 さる程(ほど)に四国(しこく)鎮西(ちんぜい)の兵(つはもの)共(とも)、皆(みな)平家(へいけ)を背(そむ)いて、源氏(げんじ)に付(つ)く。

 今(いま)まで従(したが)ひ著(き)たりし者(もの)共(とも)も君(きみ)に向(むか)って弓(ゆみ)を引(ひ)き、主(あるじ)に対(たい)して太刀(たち)を抜(ぬ)く。

 彼岸(かのきし)につかんとすれば、波(なみ)高(たか)して叶(かな)ひ難(かた)し。

 この汀(みぎは)に寄(よ)らんとすれば、敵(かたき)箭鋒(やさき)を汰(そろ)へて待(ま)ち懸(か)けたり。

 源平(げんぺい)の国争(くにあらそひ)、今日(けふ)を限(かぎ)りとぞ見(み)えたりける。

先帝身投

 源氏(げんじ)の兵(つはもの)共(とも)既(すで)に平家(へいけ)の船(ふね)に乗(の)り移(うつ)りければ、水主梶取(かこかぢとり)共(とも)、射(い)殺(ころ)され、切(き)り殺(ころ)されて船(ふね)を直(なほ)すに及(およ)ばず、船底(ふなぞこ)に倒(たふ)れ伏(ふ)しにけり。

 新中納言(しんちゆうなごん)知盛(とももり)卿(きやう)、小船(こぶね)に乗(の)って、御所(ごしよ)の御船(おんふね)に参(まゐ)り、

「世(よ)の中(なか)はいまはかうと見(み)えて候(さうらふ)。見(み)苦(くる)しからん物(もの)共(とも)皆(みな)海(うみ)へ入(い)らせたまへ」

 とて艫舳(ともへ)に走(はし)り廻(めぐ)り、掃(は)いたり拭(のご)うたり、塵(ちり)拾(ひろ)ひ、手(て)づから掃除(さうぢ)せられけり。

 女房達(にようばうたち)、

「中納言(ちゆうなごん)殿(どの)、軍(いくさ)はいかに」

 と口々(くちぐち)に問(と)ひたまへば、

「めづらしき東男(あづまをとこ)をこそ御覧(ごらん)ぜられ候(さうら)はんずらめ」

 とて、からからと笑(わら)ひたまへば、

「何条(なんでう)の只今(ただいま)の戲(たはぶ)れぞや」

 とて、声々(こゑごゑ)にをめき叫(さけ)びたまひけり。

 二位殿(にゐどの)はこの有様(ありさま)を御覧(ごらん)じて日(ひ)ごろおぼしめし設(まう)けたる事(こと)なれば、にぶ色(いろ)の二衣(ふたつぎぬ)打(う)ち覆(おほ)き、練袴(ねりばかま)の傍(かたはら)高(たか)く挾(はさ)み、神璽(しんじ)を脇(わき)に挾(はさ)み、宝剣(ほうけん)を腰(こし)にさし、主上(しゆしやう)を抱(いだ)き奉(たてまつ)て、

「我身(わがみ)は女(をんな)なりとも、敵(かたき)の手(て)にはかかるまじ。君(きみ)の御供(おんとも)に参(まゐ)るなり。御志(おんこころざし)思(おも)ひ参(まゐ)らせたまはん人々(ひとびと)は、急(いそ)ぎ続(つづ)きたまへ」

 とて舟端(ふなばた)へ歩(あゆ)み出(いで)られけり。

 主上(しゆしやう)は今年(ことし)は八歳(はつさい)になせたまへども御年(おんとし)の程(ほど)より遙(はるか)にねびさせたまひて、御容(おんかたち)美(うつく)しくあたりも照(て)り輝(かがや)くばかりなり。

 御(おん)ぐし黒(くろ)う優々(いういう)として御(おん)せなかすぎさせたまへり。

 あきれたる御様(おんさま)にて、

「尼(あま)ぜ、我(われ)をばいづちへ具(ぐ)してゆかんとするぞ」

 とおほせければ、幼(をさな)き君(きみ)に向(むか)ひ奉(たてまつ)り涙(なみだ)を押(おさ)へて申(まう)されけるは、

「君(きみ)は未(いま)だしろしめされさぶらはずや。先世(せんぜ)の十善戒行(じふぜんかいぎやう)の御(おん)力(ちから)に依(よ)って、今(いま)万乗(ばんじよう)の主(ぬし)と生(うま)れさせたまへども、悪縁(あくえん)に引(ひ)かれて、御運(ごうん)既(すで)に尽(つ)きさせたまひぬ。まづ東(ひがし)に向(むか)はせたまひて、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)暇(いとま)申(まう)させたまひ、その後(のち)西方(さいはう)浄土(じやうど)の来迎(らいかう)に預(あづか)らむとおぼしめし、西(にし)に向(むか)はせたまひて御念仏(ごねんぶつ)候(さうら)ふべし。この国(くに)は粟散辺地(ぞくさんへんぢ)とて、心(こころ)憂(う)き境(さかひ)にてさぶらへば、極楽(ごくらく)浄土(じやうど)とてめでたき処(ところ)へ具(ぐ)し参(まゐ)らせさぶらふぞ」

 と泣(な)く泣(な)く申(まう)させたまへば、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)にびんづら結(ゆ)はせたまひて、御涙(おんなみだ)におぼれ、小(ちひ)さく美(うつく)しき御手(おんて)を合(あ)せてまづ東(ひがし)を伏(ふ)し拝(をが)み、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)暇(いとま)申(まう)させたまひ、その後(のち)西(にし)に向(むか)はせたまひて、御念仏(ごねんぶつ)ありしかば、二位殿(にゐどの)やがて抱(いだ)き奉(たてまつ)り、

「浪(なみ)のしたにも、都(みやこ)のさぶらふぞ」

 と慰(なぐさ)め奉(たてまつ)て千尋(ちひろ)の底(そこ)へぞ入(い)りたまふ。

 悲(かな)しきかな、無常(むじやう)の春(はる)の風(かぜ)、たちまちに華(はな)の御容(おんかたち)を散(ち)らし、無(む)情(なさけ)かな、分段(ぶんだん)の荒(あ)き浪(なみ)、玉体(ぎよくたい)を沈(しづ)め奉(たてまつ)る。

 殿(との)をば長生(ちやうせい)と名付(なづ)けて長(なが)き棲(す)みかと定(さだ)め、門(もん)をば不老(ふらう)と号(がう)して、老(お)いせぬとざしとかきたれども、未(いま)だ十歳(じつさい)の内(うち)にして、底(そこ)の水(みづ)くづとならせたまふ。

 十善(じふぜん)帝位(ていゐ)の御(おん)果報(くわほう)、申(まう)すも中々(なかなか)愚(をろか)なり。

 雲上(うんしやう)の竜(りう)降(ふ)りて、海底(かいてい)の魚(うを)となりたまふ。

 大梵高台(だいぼんかうだい)の閣(かく)の上(うへ)、釈提喜見(しやくだいきけん)の宮(みや)の内(うち)、古(いにしへ)は槐門棘路(くわいもんきよくろ)の間(あひだ)に九族(きうぞく)を靡(なび)かし、今(いま)は舟(ふね)の中(なか)波(なみ)の下(した)に、御命(おんいのち)を一時(いちじ)に亡(ほろぼ)したまふこそ悲(かな)しけれ。

能登殿最期

 女院(にようゐん)はこの御有様(おんありさま)を御覧(ごらん)じて、御焼石(おんやきいし)、御硯(おんすずり)左右(さゆう)の御(おん)懐(ふところ)に入(い)れて、海(うみ)へ入(い)らせたまひたりけるを、渡辺(わたなべ)党(たう)に源五馬允昵(げんごうまのじようむつぶ)誰(たれ)とは知(し)り奉(たてまつ)らねども、御髪(おんぐし)を熊手(くまで)に懸(か)けて、引(ひ)き上(あ)げ奉(たてまつ)る。

 女房達(にようばうたち)、

「あな浅(あさ)まし、あれは女院(にようゐん)にて渡(わた)らせたまふぞ」

 と声々(こゑごゑ)口々(くちぐち)に申(まう)されければ、判官(はうぐわん)に申(まう)して急(いそ)ぎ御所(ごしよ)の御(おん)舟(ふね)へわたし奉(たてまつ)る。

 大納言佐殿(だいなごんのすけどの)は、内侍所(ないしどころ)の御(おん)唐櫃(からびつ)をもて、海(うみ)へ入(い)らんとしたまひけるが、袴(はかま)の裾(すそ)を舟端(ふなばた)にいつけられ、蹴(け)纏(まと)ひて倒(たふ)れたまひたりけるを、兵(つはもの)ども取(と)り留(と)め奉(たてまつ)る。

 さて武士(ぶし)共(とも)内侍所(ないしどころ)の御(おん)唐櫃(からびつ)の鎖(くさり)をねぢ切(き)って、既(すで)に御(おん)蓋(ふた)を開(ひら)かんとすればたちまちに目(め)くれ鼻(はな)血(ち)垂(た)る。

 平大納言(へいだいなごん)、生捕(いけどり)にせられておはしけるが、

「あれは内侍所(ないしどころ)の渡(わた)らせたまふぞ。凡夫(ぼんぶ)は見(み)奉(たてまつ)らぬ事(こと)ぞ」

 とのたまへば、兵(つはもの)共(とも)みなのきにけり。

 その後(のち)判官(はうぐわん)平大納言(へいだいなごん)に申(まう)し合(あ)せて、本(もと)の如(ごと)く緘(から)げ納(をさ)め奉(たてまつ)る。

 さる程(ほど)に門脇(かどわき)平(へい)中納言(ちゆうなごん)教盛(のりもり)卿(きやう)、修理大夫(しゆりのだいぶ)経盛(つねもり)、兄弟(きやうだい)鎧(よろひ)の上(うへ)に碇(いかり)を負(お)ひ、手(て)に手(て)を取(と)り組(く)んで海(うみ)へぞ入(い)りたまひける。

 小松(こまつ)の新三位中将(しんさんみのちゆうじやう)資盛(すけもり)、同(おなじく)少将(せうしやう)有盛(ありもり)、従弟(いとこ)左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、手(て)に手(て)を取(と)り組(く)んで一所(いつしよ)に沈(しづ)みたまひけり。

 人々(ひとびと)はかやうにしたまへども、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は海(うみ)に入(い)らんずる気色(けしき)もおはせず、舟端(ふなばた)に立(た)ち出(い)でて四方(しはう)見(み)回(まは)し、あきれたる様(さま)にておはしけるを、侍(さぶらひ)共(とも)あまりの心(こころ)憂(う)さに、そばを通(とほ)る様(さま)にて、大臣殿(おほいとの)を海(うみ)へつき入(い)れ奉(たてまつ)る。

 右衛門督(うゑもんのかみ)これを見(み)てやがて飛(と)び入(い)りたまひけり。

 皆(みな)人(ひと)は、重(おも)き鎧(よろひ)の上(うへ)に重(おも)き物(もの)を負(お)うたり抱(いだ)いたりして入(い)ればこそ沈(しづ)め。

 この人(ひと)親(おや)子(こ)はさもしたまはぬ上(うへ)に、究竟(くつきやう)の水練(すゐれん)にておはしければ、沈(しづ)みもやりたまはず。

 大臣殿(おほいとの)は

「右衛門督(うゑもんのかみ)沈(しづ)まば我(われ)も沈(しづ)まむ、助(たす)かりたまはば我(われ)も助(たす)らむ」

 と思(おも)ひたまふ。

 右衛門督(うゑもんのかみ)も

「父(ちち)沈(しづ)みたまはば吾(わが)も沈(しづ)まむ、助(たす)かりたまはば我(われ)もたすからむ」

 と思(おも)ひて、互(たが)ひに目(め)を見(み)かはし游(およ)ぎありきたまふ程(ほど)に、伊勢三郎(いせのさぶらう)義盛(よしもり)、小船(こぶね)をつと漕(こ)ぎ寄(よ)せ、まづ右衛門督(うゑもんのかみ)を、熊手(くまで)に懸(か)けて引(ひ)き上(あ)げ奉(たてまつ)る。

 大臣殿(おほいとの)、これを見(み)ていよいよ沈(しづ)みもやりたまはねば同(どう)う取(と)り奉(たてまつ)てけり。

 大臣殿(おほいとの)の御乳母子(おんめのとご)飛騨三郎左衛門景経(ひださぶらうざゑもんかげつね)、小船(こぶね)に乗(の)って、義盛(よしもり)が船(ふね)に乗(の)り移(うつ)り

「吾(わが)君(きみ)取(と)り奉(たてまつ)るは何者(なにもの)ぞ」

 とて大刀(たち)を抜(ぬ)いで走(はし)りかかる。

 義盛(よしもり)既(すで)にあぶなう見(み)えけるを、義盛(よしもり)が童(わらは)、主(あるじ)を討(う)たせじと中(なか)に隔(へだ)たり、景経(かげつね)に打(う)ってかかる。

 景経(かげつね)が打(う)つ大刀(たち)に、義盛(よしもり)が童(わらは)は甲(かぶと)の真甲(まつかふ)打(う)ち破(やぶ)れて、二(に)の大刀(たち)に頸(くび)打(う)ち落(お)されぬ。

 義盛(よしもり)なほあぶなう見(み)えけるを、並(なら)の船(ふね)より、堀弥太郎(ほりのやたらう)親経(ちかつね)、よ引(ひ)いてひやうと射(い)る。

 景経(かげつね)内(うち)甲(かぶと)を射(い)させてひるむ処(ところ)を、堀弥太郎(ほりのやたらう)、義盛(よしもり)が船(ふね)に乗(の)り移(うつ)って、三郎(さぶらう)左衛門(さゑもん)に組(く)んで伏(ふ)する。

 堀(ほり)が郎等(らうどう)主(あるじ)に続(つづ)いて乗(の)り移(うつ)り、景経(かげつね)が鎧(よろひ)の草摺(くさずり)引(ひ)き上(あ)げて、二刀(ふたかたな)刺(さ)す。

 飛騨三郎左衛門景経(ひださぶらうざゑもんかげつね)聞(き)こゆる大力(だいぢから)の剛(がう)の者(もの)なれども運(うん)や尽(つ)きにけん。

 痛手(いたで)は負(お)ひつ、敵(かたき)はあまたあり、そこにてつひに討(う)たれにけり。

 大臣殿(おほいとの)は生(い)きながら取(と)りあげられ目(め)の前(まへ)で乳子(めのとご)がうたるるを見(み)たまふに、いかなる心(こころ)ちかせられけん。

 凡(およ)そ能登守教経(のとのかみのりつね)の矢(や)先(さき)に廻(めぐ)る者(もの)こそなかりけれ。

 矢(や)種(たね)のある程(ほど)射(い)尽(つ)して今日(けふ)を最後(さいご)とや思(おも)はれけん、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、いか物(もの)作(つく)りの大太刀(おほだち)抜(ぬ)き、白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)の鞘(さや)をはづし、左右(さゆう)に持(も)って、なぎ廻(めぐ)りたまふに面(おもて)を合(あ)する者(もの)ぞなき、多(おほ)くの者(もの)ども討(う)たれにけり。

 新中納言(しんちゆうなごん)使者(ししや)を立(た)てて、

「能登殿(のとどの)、痛(いた)う罪(つみ)な作(つく)りたまひそ。さりとてよき敵(かたき)か」

 とのたまひければ、

「さては大将軍(たいしやうぐん)に組(く)めごさんなれ」

 と心得(こころえ)て、打物(うちもの)茎短(くきみじか)に取(と)って、源氏(げんじ)の船(ふね)に乗(の)り移(うつ)り、をめき叫(さけ)んで責(せ)め戦(たたか)ふ。

 されども判官(はうぐわん)を見(み)知(し)りたまはねば、物具(もののぐ)のよき武者(むしや)をば

「判官(はうぐわん)か」

 と目(め)を懸(か)けて、馳(は)せ回(まは)りたまふ。

 判官(はうぐわん)も先(さき)に心得(こころえ)て面(おもて)に立(た)つ様(さま)にしけれども、兎(と)かく違(たが)ひて、能登殿(のとどの)には組(く)まれず。

 されどもいかがしたりけん。

 判官(はうぐわん)の船(ふね)に乗(の)り当(あ)て

「あはや」

 と目(め)を懸(か)けて飛(とぶ)んでかかるに、判官(はうぐわん)叶(かな)はじとや思(おも)はれけん、長刀(なぎなた)脇(わき)にかい挾(はさ)み、御方(みかた)の船(ふね)の二(に)丈(ぢやう)ばかりのいたりけるに、ゆらりと飛(と)び乗(の)りたまひぬ。

 能登殿(のとどの)は疾態(しつたい)や劣(おと)られけん。

 やがて続(つづ)いても飛(と)びたまはず。

 今(いま)はかうと思(おも)はれければ太刀(たち)長刀(なぎなた)海(うみ)へ投(な)げ入(い)れ、甲(かぶと)も脱(ぬ)いで棄(す)てられけり。

 鎧(よろひ)の草摺(くさずり)かなぐり棄(す)て、胴(どう)ばかり著(き)て、大童(おほわらは)になり、大手(おほて)を広(ひろ)げて立(た)たれたり。

 凡当(ぼんたう)を撥(はな)ってぞ見(み)えたりける。

 怖(おそ)ろしなども愚(をろか)なり。

 能登殿(のとどの)大音声(だいおんじやう)を上(あ)げて、

「我(われ)と思(おも)はん者(もの)共(とも)は寄(よ)って教経(のりつね)に組(く)んで生捕(いけどり)にせよ。鎌倉(かまくら)へ下(くだ)って頼朝(よりとも)に逢(あ)うて物(もの)一言(いちごん)云(い)はんと思(おも)ふぞ。よれやよれ」

 とのたまへども寄(よ)る者(もの)一人(ひとり)もなかりけり。

 ここに土佐国(とさのくに)の住人(ぢゆうにん)、安芸(あき)の郷(がう)を知行(ちぎやう)しける安芸大領(あきのだいりやう)実康(さねやす)が子(こ)に、安芸(あき)太郎(たらう)実光(さねみつ)とて、三十人(さんじふにん)が力(ちから)持(も)ったる大力(だいぢから)の剛(がう)の者(もの)あり。

 我(われ)にちとも劣(おと)らぬ郎等(らうどう)一人(ひとり)、弟(おとと)の次郎(じらう)も、普通(ふつう)にはすぐれたるしたたか者(もの)なり。

 安芸(あき)太郎(たらう)能登殿(のとどの)を見(み)奉(たてまつ)て申(まう)しけるは、

「いかに心(こころ)猛(たけ)くましますとも我等(われら)三人(さんにん)取(と)り付(つ)いたらんに縦(たとひ)長(なが)十(じふ)丈(ぢやう)の鬼(おに)なりとも、などか従(したが)へざるべき」

 とて主従(しゆじゆう)三人(さんにん)小船(こぶね)に乗(の)って、能登殿(のとどの)の船(ふね)に押(お)し並(なら)べ、えいといひて乗(の)り移(うつ)り甲(かぶと)のしころを傾(かたぶ)け太刀(たち)を抜(ぬ)いて一面(いちめん)に打(う)って懸(か)る。

 能登殿(のとどの)ちとも噪(さわ)ぎたまはず、真先(まつさき)に進(すす)んだる安芸(あき)太郎(たらう)が郎等(らうどう)をすそを合(あ)せて、海(うみ)へどうと蹴(け)り入(い)れたまふ。

 続(つづ)いてよる安芸(あき)太郎(たらう)を、弓手(ゆんで)の脇(わき)に取(と)って挾(はさ)み、弟(おとと)の次郎(じらう)をば、馬手(めて)の脇(わき)にかい挾(はさ)み、一(いち)しめしめて、

「いざうれ、さらば己(おのれ)等(ら)死出(しで)の山(やま)の供(とも)せよ」

 とて、生年(しやうねん)二十(にじふ)六(ろく)にて、海(うみ)へつとぞ入(い)りたまふ。

内侍所都入

 新中納言(しんちゆうなごん)、

「見(み)るべき程(ほど)の事(こと)は見(み)つ、今(いま)は自害(じがい)せん」

 とて、乳人子(めのとご)の伊賀平内左衛門(いがのへいないざゑもん)家長(いへなが)を召(め)して

「いかに日(ひ)ごろの約束(やくそく)は違(たが)ふまじきか」

 とのたまへば、

「子細(しさい)にや及(およ)び候(さうらふ)」

 と申(まう)す。

 中納言(ちゆうなごん)に、鎧(よろひ)二(に)領(りやう)著(き)かせ奉(たてまつ)り、我身(わがみ)も鎧(よろひ)二(に)領(りやう)著(き)て、手(て)を取(と)り組(く)んで海(うみ)へぞ入(い)りにける。

 これを見(み)て侍(さぶらひ)共(とも)二十(にじふ)余人(よにん)後(おく)れたてまつらじと手(て)に手(て)を取(と)り組(く)んで一所(いつしよ)に沈(しづ)みけり。

 その中(なか)に、越中次郎兵衛(ゑつちゆうじらうびやうゑ)、上総五郎兵衛(かづさのごらうびやうゑ)、悪七兵衛(あくしちびやうゑ)、飛騨(ひだ)四郎(しらう)兵衛(ひやうゑ)は、何(なに)としてか逃(のが)れたりけん、そこをも又(また)落(お)ちにけり。

 海上(かいしやう)には赤旗(あかはた)赤(あか)幟(のぼり)共(とも)、投(な)げ捨(す)てかなぐり捨(す)てたりければ、竜田川(たつたがは)の紅葉(もみぢ)葉(ば)を、嵐(あらし)の吹(ふ)き散(ち)らしたるがごとし。

 汀(みぎは)に寄(よ)る白浪(しらなみ)も、薄(うす)紅(くれなゐ)にぞなりにける。

 主(ぬし)もなき虚(むな)しき船(ふね)は、潮(しほ)に引(ひ)かれ風(かぜ)に従(したが)って、いづくを指(さ)すともなくゆられゆくこそ悲(かな)しけれ。

 生捕(いけどり)には、前内大臣(さきのないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、平大納言(へいだいなごん)時忠(ときただ)、右衛門督(うゑもんのかみ)清宗(きよむね)、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)、讃岐(さぬき)中将(ちゆうじやう)時実(ときざね)、兵部少輔(ひやうぶのせう)雅明(まさあき)、大臣殿(おほいとの)の八歳(はつさい)になりたまふ若公(わかぎみ)、僧(そう)には二位(にゐ)僧都(そうづ)専親(せんしん)、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん)、中納言(ちゆうなごん)律師(りつし)仲快(ちゆうくわい)、経誦坊(きやうじゆばう)阿闍梨(あじやり)融円(ゆうゑん)、侍(さぶらひ)には源大夫判官(げんだいふはうぐわん)季貞(すゑさだ)、摂津判官(せつつのはうぐわん)盛澄(もりずみ)、橘内左衛門(きつないざゑもん)季康(すゑやす)、藤内(とうない)左衛門(さゑもん)信康(のぶやす)、阿波民部(あはのみんぶ)重能(しげよし)父子(ふし)、以上(いじやう)三十八人(さんじふはちにん)なり。

 菊池(きくち)次郎(じらう)高直(たかなほ)、原田大夫(はらだのたいふ)種直(たねなほ)は、軍(いくさ)以前(いぜん)より郎等(らうどう)共(とも)相具(あひぐ)して降人(かうにん)に参(まゐ)る。

 女房達(にようばうたち)には、女院(にようゐん)、北(きた)の政所(まんどころ)、廊御方(らうのおんかた)、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、帥佐殿(そちのすけどの)、治部卿局(ぢぶきやうのつぼね)以下(いげ)、四(し)十三人(じふさんにん)とぞ聞(き)こえし。

 元歴(げんりやく)二年(にねん)の春(はる)の暮(くれ)、いかなる年月(としつき)にて一人(ひとり)海底(かいてい)に沈(しづ)み、百官波上(ひやくくわんはじやう)に浮(う)かぶらん。

 国母官女(こくぼくわんぢよ)は、東夷西戎(とういせいじゆう)の手(て)に従(したが)ひ、臣下(しんか)卿相(けいしやう)は数万(すうまん)の軍旅(ぐんりよ)にとらはれて、旧里(きうり)に帰(かへ)りたまひしに、或(あるい)は朱買臣(しゆばいしん)が錦(にしき)をきざる事(こと)を嘆(なげ)き、或(あるい)は王昭君(わうせうくん)が胡国(ここく)に赴(おもむ)きし恨(うらみ)も、かくやとぞ悲(かな)しみたまひける。

 同(おな)じき四月(しぐわつ)三日(みつか)、九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)義経(よしつね)、源八(げんぱち)広綱(ひろつな)を以(もつ)て、院(ゐん)の御所(ごしよ)へ奏聞(そうもん)せられけるは、去(さる)三月(さんぐわつ)二十四日(にじふしにち)、豊前国(ぶぜんのくに)田(た)浦(うら)門司(もじ)関(せき)、長門国(ながとのくに)壇(だん)浦(うら)赤間関(あかまがせき)にて、平家(へいけ)を責(せ)め落(お)し三種神器(さんしゆのじんぎ)事(こと)故(ゆゑ)なう返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)るの由(よし)、申(まう)されたりければ、院中(ゐんぢゆう)の上下(かみしも)騒動(さうどう)す。

 広綱(ひろつな)を御坪(おんつぼ)の内(うち)へ召(め)し、合戦(かつせん)の次第(しだい)を委(くは)しう御尋(おんたづね)ねありて、御感(ぎよかん)のあまり左兵衛尉(さひやうゑのじよう)になされけり。

「一定(いちぢやう)内侍所(ないしどころ)返(かへ)り入(い)らせたまふか、見(み)て参(まゐ)れ」

 とて、五日(いつか)、北面(ほくめん)に候(さうら)ひける藤(ふぢ)判官(はうぐわん)信盛(のぶもり)を西国(さいこく)へ差(さ)し遣(つか)はさる。

 宿所(しゆくしよ)へも帰(かへ)らず、やがて院(ゐん)の御馬(おんうま)をたまはって鞭(むち)を挙(あ)げ、西(にし)をさしてぞ馳(は)せ下(くだ)る。

 同(おな)じき十四日(じふしにち)、九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)義経(よしつね)、平氏(へいじ)男女(なんによ)の生捕(いけどり)共(とも)相具(あひぐ)して上(のぼ)りけるが、播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)にぞ著(つ)きにける。

 名(な)を得(え)たる浦(うら)なれば、深(ふか)く行(ゆ)くままに月(つき)すみ上(のぼ)り、秋(あき)の空(そら)にもおとらず。

 女房達(にようばうたち)差(さ)しつどひて、

「一年(ひととせ)これを通(とほ)りしには、かかるべしとは思(おも)はざりき」

 などいひて、忍音(しのびね)に泣(な)き合(あ)はれけり。

 帥佐殿(そちのすけどの)つくづく月(つき)を詠(よ)めたまひ、いと思(おも)ひ残(のこ)す事(こと)もおはせざりければ、涙(なみだ)に床(ゆか)も浮(うか)くばかりにて、かうぞ思(おも)ひ続(つづ)けたまふ。

ながむればぬるる袂(たもと)にやどりけり、月(つき)よ雲井(くもゐ)の物語(ものがたり)せよ。

 治部卿局(ぢぶきやうのつぼね)

雲(くも)のうへに見(み)しにかはらぬ月影(つきかげ)の、すみにつけても物(もの)ぞかなしき。

 大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)

我身(わがみ)こそ明石浦(あかしのうら)に旅(たび)寝(ね)せめ、同(おな)じ浪(なみ)にもやどる月(つき)かな。

「さこそ物(もの)悲(かな)しう昔(むかし)恋(こひ)しうもおはしけめ」

 と判官(はうぐわん)猛(たけ)き武士(ぶし)なれども、情(なさけ)ある男士(をのこ)なれば、身(み)に染(そ)みて哀(あはれ)にぞ思(おも)はれける。

 同(おな)じき二十五日(にじふごにち)、内侍所(ないしどころ)、璽(しんじ)の御(おん)箱(はこ)、鳥羽(とば)に著(き)かせたまふと聞(き)こえしかば、内裏(だいり)より御迎(おんむか)に参(まゐ)らせたまふ人々(ひとびと)、勘解由小路(かでのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)経房(つねふさ)卿(きやう)、高倉(たかくら)宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)泰通(やすみち)、権右中弁(ごんのうちゆうべん)兼忠(かねただ)、左衛門権佐(さゑもんのごんのすけ)親雅(ちかまさ)、榎並(えなみ)中将(ちゆうじやう)公時(きんとき)、但(ただ)馬(むま)少将(せうしやう)教能(のりよし)、武士(ぶし)には伊豆(いづ)蔵人(くらんど)大夫(だいぶ)頼兼(よりかね)、石河(いしかは)判官代(はうぐわんだい)能兼(よしかね)、左衛門尉(さゑもんのじよう)有綱(ありつな)とぞ聞(き)こえし。

 その夜(よ)の子刻(ねのこく)に、内侍所(ないしどころ)、璽(しんじ)の御(おん)箱(はこ)、太政官(だいじやうくわん)の庁(ちやう)に入(い)らせたまふ。

 宝剣(ほうけん)は失(う)せにけり。

 神璽(しんじ)は海上(かいしやう)に浮(う)かびたりけるを、片岡(かたをか)太郎(たらう)経春(つねはる)が、取(と)り上(あ)げ奉(たてまつ)りたりけるとぞきこえし。

剣

 吾朝(わがてう)には神代(かみよ)より伝(つた)はれる霊剣(れいけん)三(さん)あり。

 十握剣(とつかのつるぎ)、天(あめ)の早切(はやきり)剣(つるぎ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)これなり。

 十握剣(とつかのつるぎ)は大和国(やまとのくに)磯上布留社(いそのかみふるのやしろ)に納(をさ)めらる。

 天(あめ)早切(はやきり)の剣(つるぎ)は尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)宮(みや)にありとかや。

 草薙剣(くさなぎのつるぎ)は内裏(だいり)にあり。

 今(いま)の宝剣(ほうけん)これなり。

 この剣(つるぎ)の由来(ゆらい)を申(まう)せば、昔(むかし)、素盞烏尊(すさのをのみこと)出雲国(いづものくに)曽我里(そがのさと)に宮造(みやづく)りしたまひしにその処(ところ)に八色(やいろ)の雲(くも)常(つね)に立(た)ちければ、尊(みこと)これを御覧(ごらん)じてかくぞ詠(えい)じたまひける。

八雲(やくも)たつ出雲(いづも)やへがきつまごめに、やへ垣(がき)つくるそのやへ垣(がき)を。

 これを三十一文字(みそひともじ)の始(はじ)めとす。

 国(くに)を出雲(いづも)と名付(なづ)くる事(こと)も即(すなは)ちこの故(ゆゑ)とぞ承(うけたまは)る。

 昔(むかし)、尊(みこと)、出雲国(いづものくに)ひの河(かは)上(うへ)に下(くだ)りたまひし時(とき)国津(くにつ)の神(かみ)に足(あし)なつち、手(て)なつちとてをとこ神(かみ)婦神(めがみ)おはします。

 その子(こ)に端正(たんじやう)の娘(むすめ)あり。

 稲田姫(いなだひめ)と号(がう)す。

 親(おや)子(こ)三人(さんにん)泣(な)き居(ゐ)たり。

 尊(みこと)

「いかに」

 と問(と)ひたまへば答(こた)へ申(まう)していはく、

「我(われ)に娘(むすめ)八人(はちにん)ありき。皆(みな)大蛇(だいじや)の為(ため)にのまれぬ。今(いま)一人(ひとり)残(のこ)るところの少女(せうぢよ)又(また)呑(の)まれんとす」

 件(くだん)の大蛇(だいじや)、尾首(をくび)共(とも)に八(や)つあり。

 各(おのおの)八(はち)の峰(みね)八(はち)の谷(たに)に這(は)はびこれり。

 霊樹異草(れいじゆいさう)背(せ)に生(お)ひたり。

 幾(いく)千年(せんねん)を歴(へ)たりといふ事(こと)を知(し)らず。

 眼(まなこ)は日月(にちげつ)の光(ひかり)の如(ごと)し。

 年々(としどし)に人(ひと)を呑(の)む。

 親(おや)呑(の)まるるものは子(こ)悲(かな)しみ、子(こ)呑(の)まるるものは親(おや)悲(かな)しみ、村南村北(そんなんそんぼく)に哭(こく)する声(こゑ)絶(た)えずとぞ申(まう)しける。

 尊(みこと)哀(あはれ)におぼしめしこの少女(せうぢよ)をゆつのつまぐしに取(と)りなし御(おん)ぐしに差(さ)し蔵(ざう)させたまひ、八(はち)の舟(ふね)に酒(さけ)を入(い)れ、美女(びぢよ)の姿(すがた)を造(つく)りて高(たか)き岡(をか)に立(た)つ。

 その影(かげ)酒(さけ)にうつれり。

 大蛇(だいじや)人(ひと)と思(おも)ひてその影(かげ)を飽(あ)くまで飲(の)んで酔(ゑ)ひ臥(ふ)したりけるを尊(みこと)帯(は)きたまへる十握(とつか)の剣(つるぎ)をぬいて大蛇(だいじや)をづたづたに切(き)りたまふ。

 その中(なか)に一(ひと)つの尾(を)に至(いた)りて切(き)れず。

 尊(みこと)怪(あや)しくおぼしめし、堅様(たてざま)に破(やぶ)って御覧(ごらん)ずれば一(ひと)つの霊剣(れいけん)あり。

 これを取(と)って天照大神(あまてらすおほみかみ)に奉(たてまつ)りたまふ。

「これは昔(むかし)高間(たかま)の原(はら)にてわがおとしたりし剣(つるぎ)なり」

 とぞのたまひける。

 大蛇(だいじや)の尾(を)のなかに在(あ)りける時(とき)は村(むら)雲(くも)常(つね)に掩(おほ)はせければ天(あめ)の村雲剣(むらくものつるぎ)とぞ申(まう)しける。

 大(おほ)神(かみ)これをえて、天(あめ)の御門(みかど)の御(おん)宝(たから)としたまふ。

 その後(のち)豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)の主(ぬし)として天孫(てんそん)を下(くだ)し奉(たてまつ)りたまひし時(とき)、この剣(つるぎ)をも御(おん)鏡(かがみ)に副(そ)へてたてまつらせたまひけり。

 第九代(だいくだい)の帝(みかど)開化天皇(かいくわてんわう)の御時(おんとき)までは一殿(ひととの)におはしましけるを、第十代(だいじふだい)の帝(みかど)崇神天皇(すじんてんわう)の御宇(ぎよう)に及(およ)んで、霊威(れいゐ)に怖(こは)れて天照大神(あまてらすおほみかみ)を大和国(やまとのくに)笠縫里(かさぬひのさと)磯(いそ)垣(がき)の広(ひろ)きに移(うつ)し奉(たてまつ)りたまひし時(とき)、この剣(つるぎ)をも天照大神(あまてらすおほみかみ)の社壇(しやだん)に籠(こ)め奉(たてまつ)らせたまひけり。

 その時(とき)剣(つるぎ)を造(つく)りかへて御守(おんまもり)としたまふ。

 霊威(れいゐ)本(もと)の剣(つるぎ)に相(あひ)劣(おと)らず。

 天(あめ)の村雲剣(むらくものつるぎ)は崇神天皇(すじんてんわう)より景行天皇(けいかうてんわう)まで三代(さんだい)は天照大神(あまてらすおほみかみ)の社壇(しやだん)に崇(あが)め置(お)かれたりけるを、景行天皇(けいかうてんわう)の御宇(ぎよう)四(し)十年(じふねん)六月(ろくぐわつ)に東夷反逆(とういはんぎやく)の間(あひだ)、御子(おんこ)日本武尊(やまとたけるのみこと)、御心(みこころ)も剛(かう)に御(おん)力(ちから)も人(ひと)に勝(かち)れておはしければ、清撰(せいせん)に当(あた)ってあづまへ下(くだ)りたまひし時(とき)、天照大神(あまてらすおほみかみ)へ詣(けい)でて御(おん)暇(いとま)申(まう)させたまひけるに、御妹(おんいもうと)いつきの尊(みこと)を以(もつ)て謹(つつし)んで怠(おこた)る事(こと)なかれとて霊剣(れいけん)を尊(みこと)にさづけ申(まう)したまふ。

 さて駿河国(するがのくに)に下(くだ)りたまひたりしかば、その処(ところ)の賊(ぞく)徒(いたづら)等(ら)

「この国(くに)には鹿(しか)多(おほ)う候(さうらふ)。狩(かり)して遊(あそ)ばせたまへ」

 とてたばかり出(いだ)し奉(たてまつ)り、野(の)に火(ひ)をはなって既(すで)に焼(や)き殺(ころ)し奉(たてまつ)らんとしけるに、尊(みこと)はきたまへる霊剣(れいけん)を抜(ぬ)いて草(くさ)を薙(な)ぎたまへば、はむけ一里(いちり)が中(なか)は草(くさ)皆(みな)薙(な)がれぬ。

 尊(みこと)又(また)火(ひ)を出(いだ)されたりければ、風(かぜ)たちまちに異(こと)賊(ぞく)の方(かた)へ吹(ふ)き掩(おほ)ひ、凶徒(きようと)ことごとく焼(や)け死(し)にぬ。

 それよりしてこそ天(あめ)の村(むら)雲(くも)の剣(つるぎ)をば草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも名付(なづ)けられけれ。

 尊(みこと)、なほ奥(おく)へせめ入(はい)って、三箇年(さんかねん)が間(あひだ)処々(しよしよ)の賊(ぞく)徒(いたづら)を討(う)ち平(たひ)らげ、国々(くにぐに)の凶(きよう)党(たう)をせめしたがへて上(のぼ)らせたまひけるが、道(みち)より御悩(おんなや)み著(き)かせたまひて、御(おん)歳三十(としさんじふ)と申(まう)す七月(しちぐわつ)に尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)の辺(へん)にてつひに隠(かく)れさせたまひぬ。

 その魂(たましひ)は白(しろ)き鳥(とり)となって、天(てん)に上(のぼ)りけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。

 生捕(いけどり)の夷(えびす)共(とも)をば御子(おんこ)武彦尊(たけひこのみこと)を以(もつ)て御門(みかど)へたてまつらせたまふ。

 草薙剣(くさなぎのつるぎ)をば熱田(あつた)の社(やしろ)に納(をさ)めらる。

 あめの御門(みかど)の御宇(ぎよう)七(しち)年(とし)に新羅(しらぎ)の沙門道行(しやもんだうかう)この剣(つるぎ)を竊(ひそか)んで吾(わが)国(くに)の宝(たから)とせんと思(おも)って、竊(ひそか)に舟(ふね)に蔵(ざう)して行(ゆ)く程(ほど)に波(なみ)風(かぜ)震(ふる)動(うご)してたちまちに海底(かいてい)に沈(しづ)まんとす。

 即(すなはち)霊剣(れいけん)のたたりなりと知(し)りて、罪(つみ)を謝(しや)して先途(せんど)を遂(と)げず。

 元(もと)の如(ごと)く返(かへ)し納(をさ)め奉(たてまつ)る。

 然(しか)るを天武天皇(てんむてんわう)朱鳥元年(あかみとりぐわんねん)にこれを召(め)して内裏(だいり)に置(お)かる。

 今(いま)の宝剣(ほうけん)これなり。

 御(おん)霊威(れいゐ)いちはやうまします。

 陽成院(やうぜいゐん)狂病(きやうびやう)にをかされましまして霊剣(れいけん)を抜(ぬ)かせたまひければ、夜(よ)のおとど閃々(せんせん)として電光(でんくわう)にことならず。

 恐怖(きようふ)のあまりに投(な)げ棄(す)てさせたまひければ、自(みづか)はたと鳴(な)って鞘(さや)に差(さ)されにけり。

 上古(じやうこ)にはかうこそ目出(めで)たかりしか。

 縦(たと)ひ二位殿(にゐどの)脇(わき)に差(さ)して海(うみ)に沈(しづ)みたまふともたやすう失(う)すべからずとて、勝(かち)れたる海士人(あまびと)共(とも)を召(め)してかづきもとめられける上(うへ)、霊仏霊社(れいぶつれいしや)に貴(たふと)き僧(そう)を籠(こ)め種々(しゆじゆ)の神宝(じんぽう)を捧(ささ)げて祈(いの)り申(まう)されけれども、つひに失(う)せにけり。

 その時(とき)の有職(いうしよく)の人々(ひとびと)申(まう)し合(あ)はれけるは

「昔(むかし)天照大神(あまてらすおほみかみ)百王(ひやくわう)を守(かみ)らんと御(おん)誓(ちか)ひありけるその誓(ちか)未(いま)だ改(かい)まらずして石清水(いはしみづ)の御流(おんなが)れ未(いま)だ尽(つ)くせざるゆゑ、日輪(にちりん)の光(ひかり)未(いま)だ地(ち)に落(お)ちさせたまはず、末代澆季(まつだいげうき)なりとも帝運(ていうん)の究(きは)まる程(ほど)の事(こと)はあらじかし」

 と申(まう)されければ、その中(なか)に、ある博士(はかせ)の勘(かんが)へ申(まう)しけるは

「昔(むかし)出雲国(いづものくに)ひの河(かは)上(うへ)にて素盞烏尊(すさのをのみこと)に切(き)り殺(ころ)され奉(たてまつ)りし大蛇(だいじや)、霊剣(れいけん)を惜(を)しむ志(こころざし)深(ふか)くして八(はち)の首(くび)八(はち)の尾(を)を表事(へうじ)として人王(にんわう)八十代(はちじふだい)の後(のち)、八歳(はつさい)の帝(みかど)となって霊剣(れいけん)を取(と)り返(かへ)して海底(かいてい)に沈(しづ)みたまふにこそ」

 と申(まう)す。

 千尋(ちひろ)の海(うみ)の底(そこ)、神竜(しんりう)の宝(たから)となりしかば二度(にど)人間(にんげん)に返(かへ)らざるも理(ことわり)とこそ覚(おぼ)えけれ。

一門大路渡

 さる程(ほど)に、二(に)の宮(みや)帰(かへ)り入(い)らせたまふとて法皇(ほふわう)より御迎(おんむか)へに御車(おんくるま)を参(まゐ)らせらる。

 御心(みこころ)ならず、平家(へいけ)に取(と)られさせたまひて、西海(さいかい)の波(なみ)の上(うへ)に漂(ただよ)はせたまひ三年(さんねん)を過(す)ぎさせたまひしかば、御母儀(ごぼぎ)も御乳母(おんめのと)持明院(ぢみやうゐん)の宰相(さいしやう)も、御心苦(みこころぐる)しき事(こと)に思(おも)はれけるに、別(わかれ)の御事(おんこと)なく返(かへ)り上(のぼ)らせたまひたりしかば、差(さ)しつどひて皆(みな)悦泣(えつきふ)どもせられたる。

 同(おな)じき二十六日(にじふろくにち)、平氏(へいじ)の生捕(いけどり)共(とも)京(きやう)へ入(い)る。

 皆(みな)小八葉(こはちえふ)の車(くるま)にてぞありける。

 前後(ぜんご)の簾(すだれ)を上(あ)げ、左右(さゆう)の物(もの)見(み)を開(ひら)く。

 大臣殿(おほいとの)は浄衣(じやうえ)を著(つ)きたまへり。

 右衛門督(うゑもんのかみ)は、白(しろ)き直垂(ひたたれ)にて、父(ちち)の車(くるま)の後(のち)にぞ乗(の)られたる。

 平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)の車(くるま)も、同(おな)じくやり続(つづ)く。

 子息(しそく)讃岐(さぬき)中将(ちゆうじやう)時実(ときざね)も同(どう)車(くるま)にて渡(わた)さるべかりしが現所労(げんしよりやう)とて渡(わた)れず。

 内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)は、疵(きず)を蒙(かうぶ)りたりしかば閑道(かんだう)より入(い)りにけり。

 大臣殿(おほいとの)さしも花(はな)やかに清(きよ)気(げ)におはせし人(ひと)のあらぬ様(さま)に痩(や)せ衰(おとろ)へたまへり。

 されども四方(しはう)見(み)廻(めぐ)して最(もつと)も思(おも)ひ沈(しづ)める気色(けしき)もおはせず、右衛門督(うゑもんのかみ)はうつぶして目(め)も見(み)上(あ)げたまはず、思(おも)ひ入(い)れたる気色(けしき)なり。

 土肥次郎(どひのじらう)実平(さねひら)木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に小具足(こぐそく)計(ばかり)して随兵(ずゐひやう)三十(さんじふ)余騎(よき)車(くるま)の先後(せんご)に打(う)ち囲(かこ)んで守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。

 見(み)る人(ひと)都(みやこ)の中(なか)にも限(かぎ)らず、凡(およそ)遠国(をんごく)近国(きんごく)山々(やまやま)寺々(てらでら)よりも、老(お)いたるも若(わか)きも、来(く)り集(あつ)まれり。

 鳥羽(とば)の南(みなみ)の門(もん)、作(つくり)道(みち)、四(し)塚(つか)まで、ひしと続(つづ)いて、幾(いく)千万(せんまん)と云(い)ふ数(かず)を知(し)らず。

 人(ひと)は顧(かへり)みる事(こと)を得(え)ず、車(くるま)は輪(わ)を廻(めぐ)す事(こと)能(あた)はず。

 治承(ぢしやう)養和(やうわ)の飢饉(ききん)、東国(とうごく)西国(さいこく)の軍(いくさ)に、人(ひと)種(たね)ほろびうせたりといへども、なほ残(のこ)りは多(おほ)かりけりとぞ見(み)えし。

 都(みやこ)を出(い)て中(なか)一年(ひととせ)、無下(むげ)に間近(まぢか)き程(ほど)なれば、めでたかりし事(こと)も忘(わす)れず。

 さしも恐(おそ)れをののきし人(ひと)の今日(けふ)の有様(ありさま)、夢(ゆめ)現(うつつ)とも分(わ)かねたり。

 心(こころ)なき怪(あや)の賤(しづ)男(をとこ)賤(しづ)女(をんな)に至(いた)るまで、涙(なみだ)を流(なが)し、袖(そで)を絞(しぼ)らぬはなかりけり。

 増(まさ)て馴(なれ)れ近(ちか)付(づ)きたる人々(ひとびと)のいかばかりの事(こと)をか思(おも)ひけん。

 年(とし)ごろ恩(おん)を蒙(かうぶ)り、父祖(ふそ)の時(とき)より祗候(しこう)したりし輩(ともがら)の有繋身(うけいしん)のすてがたさに、多(おほ)くは源氏(げんじ)についたりしかども、昔(むかし)の好(よし)みたちまちにわするべきにもあらねば、さこそ悲(かな)しう思(おも)ひけめ。

 されば袖(そで)を顔(かほ)に押(お)しあてて、目(め)を見(み)上(あ)げぬ者(もの)も多(おほ)かりけり。

 大臣殿(おほいとの)の御牛飼(おんうしかひ)は、木曽(きそ)が院参(ゐんざん)の時(とき)、車遣(くるまや)り損(そん)じて切(き)られにける次郎(じらう)丸(まる)が弟(おとと)、三郎(さぶらう)丸(まる)なり。

 西国(さいこく)にては、かり男(をとこ)になったりしが、いま一度(いちど)大臣殿(おほいとの)の御車(おんくるま)をつかまつらんと思(おも)ふ志(こころざし)ふかかりければ、鳥羽(とば)にて判官(はうぐわん)に申(まう)しけるは、

「舎人(とねり)牛飼(うしかひ)など申(まう)す者(もの)は、いふかひなき下臈(げらふ)の果(は)にて候(さうら)へば、心(こころ)あるべきでは候(さうら)はねども年来(ねんらい)めしつかはれまゐらせて候(さうらふ)御志(おんこころざし)浅(あさ)からず。然(しか)るべう候(さうら)はば御(おん)ゆるされを蒙(かうぶ)って、大臣殿(おほいとの)の最後(さいご)の御車(おんくるま)を仕(つかまつ)り候(さうら)はばや」

 とあながちに申(まう)しければ、判官(はうぐわん)

「仔細(しさい)あるまじ、とうとう」

 とてゆるされけり。

 斜(なな)めならず悦(よろこ)んで、尋常(じんじやう)にしやうぞき、懐(ふところ)より遣縄(やりなは)取(と)り出(いだ)しつけかへ、涙(なみだ)に暮(く)れて行(ゆ)く先(さき)も見(み)えねども、袖(そで)を顔(かほ)に押(お)しあてて牛(うし)の行(ゆ)に任(まか)せつつ、泣(な)く泣(な)く遣(つか)ってぞ罷(まか)りける。

 法皇(ほふわう)は六条(ろくでう)東洞院(ひがしのとうゐん)に御車(おんくるま)を立(た)て叡覧(えいらん)あり。

 公卿殿上人(くぎやうてんじやうびと)の車(くるま)ども同(おな)じう立(た)て並(なら)べたり。

 さしも御身(おんみ)近(ちか)う召(め)し仕(つか)はれしかば、法皇(ほふわう)もさすが御心(みこころ)弱(よわ)う、哀(あはれ)にぞおぼしめされける。

 供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)はただ夢(ゆめ)とのみこそ思(おも)はれけれ。

「日(ひ)ごろはいかにもして、あの人々(ひとびと)に目(め)をもかけられ、詞(ことば)の末(すゑ)にも懸(か)らばやとこそ思(おも)ひしかば、かかるべしとは誰(たれ)か思(おも)ひし」

 とて、上下(かみしも)涙(なみだ)を流(なが)しけり。

 一年(ひととせ)宗盛公(むねもりこう)内大臣(ないだいじん)になって、悦(よろこ)び申(まう)したまひし時(とき)は公卿(くぎやう)には花山院(くわさんのゐん)大納言(だいなごん)を始(はじ)めとして、十二人(じふににん)扈従(こじゆう)して遣(や)り続(つづ)けたまへり。

 殿上人(てんじやうびと)には蔵人頭(くらんどのとう)親宗(ちかむね)以下(いげ)十六人(じふろくにん)前駆(ぜんく)す。

 公卿(くぎやう)も殿上人(てんじやうびと)も、今日(けふ)を晴(は)ときらめいてこそありしか、中納言(ちゆうなごん)四人(よにん)、三位中将(さんみのちゆうじやう)も三人(さんにん)までおはしき。

 やがてこの平大納言(へいだいなごん)もその時(とき)は左衛門督(さゑもんのかみ)にておはしき。

 御前(ごぜん)へ召(め)され参(まゐ)らせて御引出物(おんひきでもの)たまはってもてなされたまひし有様(ありさま)目出(めで)たかりし儀式(ぎしき)ぞかし。

 今日(けふ)は月卿雲客(げつけいうんかく)一人(ひとり)もしたがはず、同(おな)じく壇(だん)浦(うら)にて生捕(いけどり)にせられたりし侍(さぶらひ)共(とも)二十(にじふ)余人(よにん)白(しろ)き直垂(ひたたれ)著(き)て、馬(むま)の上(うへ)にしめつけてぞ渡(わた)されける。

 六条(ろくでう)を東(ひがし)へ河原(かはら)までわたされて、帰(かへ)りて、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は九郎(くらう)判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)、六条(ろくでう)堀河(ほりかは)にぞおはしける。

 御物(おんもの)参(まゐ)らせたりしかども胸(むね)せき塞(ふさ)がって、御(おん)箸(はし)をだにも立(た)てられず。

 互(たが)ひに物(もの)はのたまはねども目(め)を見(み)合(あ)せて隙(ひま)なく涙(なみだ)をぞ流(なが)されける。

 夜(よ)になれども、装束(しやうぞく)もくつろげたまはず、袖(そで)を片(かた)敷(し)きて臥(ふ)したまひたりけるが、御子(おんこ)右衛門督(うゑもんのかみ)に、御(おん)袖(そで)を打(う)ち著(き)かせたまふを、まぼり奉(たてまつ)る源八(げんぱち)兵衛(ひやうゑ)、江田源三(えだげんざう)、熊井太郎(くまゐたらう)これを見(み)て、

「哀(あは)れ高(たか)きも賤(しづ)きも恩愛(おんあい)の道(みち)程(ほど)悲(かな)しかりける事(こと)はなし。御(おん)袖(そで)を著(き)かせ奉(たてまつ)りたらばいく程(ほど)の事(こと)かあるべきぞ。せめての御志(おんこころざし)の深(ふか)さかな」

 とて、武(たけ)きもののふども皆(みな)涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。

鏡

 同(おな)じき二十八日(にじふはちにち)鎌倉(かまくら)の前兵衛佐(さきのひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)朝臣(あそん)従(したが)二位(にゐ)したまふ。

 越階(ゑつかい)とて二階(にかい)をするこそ有(あ)りがたき朝恩(てうおん)なるにこれは既(すで)に三(さん)階(かい)なり。

 三位(さんみ)をこそしたまふべかりしかども、平家(へいけ)のしたまひたりしを忌(いみ)うてなり。

 その夜(よ)の子刻(ねのこく)に内侍所(ないしどころ)太政官(だいじやうくわん)の庁(ちやう)より温明殿(うんめいでん)へ入(い)らせたまふ。

 主上(しゆしやう)行幸(ぎやうかう)なって三箇夜(さんかや)臨時(りんじ)の御神楽(みかぐら)あり。

 右近将監(うこんのしやうげん)小家能方(こいへのよしかた)別勅(べつちよく)を承(うけたまは)って家(いへ)に伝(つた)はれる弓立宮人(ゆだてみやびと)といふ神楽(かぐら)の秘曲(ひきよく)を仕(つかまつ)って勧賞(くわんじやう)蒙(かうぶ)りけるこそ目出(めで)たけれ。

 この歌(うた)は、祖父(おほぢ)八条(はちでう)判官(はうぐわん)資忠(すけただ)と云(い)し伶人(れいじん)の外(ほか)は知(し)れる者(もの)なし。

 余(あま)り秘(ひ)して子(こ)の親方(ちかかた)には教(をし)へずして堀(ほり)川(かは)天皇(てんわう)御在位(ございゐ)の時(とき)伝(つた)へ参(まゐ)りて死去(しきよ)したりしを、君(きみ)親方(ちかかた)に教(をし)へさせたまひけり。

 道(みち)を失(うしな)はじとおぼしめす御志(おんこころざし)感涙(かんるゐ)抑(おさ)へがたし。

 抑(そもそも)内侍所(ないしどころ)と申(まう)すは、昔(むかし)、天照大神(あまてらすおほみかみ)天(あめ)の岩戸(いはと)に閉(と)ぢ籠(ろう)らんとせさせたまひし時(とき)、いかにもして我容(わがかたち)をうつし置(お)きて御子孫(おんしそん)に見(み)せ奉(たてまつ)らんとて御(おん)鏡(かがみ)を鋳(い)たまへり。

 これなほ御心(みこころ)に合(あ)はずとて又(また)鋳(い)替(か)へさせたまひけり。

 先(さき)の御(おん)鏡(かがみ)は紀伊国(きいのくに)日前国懸(ひのくまくにかかす)の社(やしろ)これなり。

 後(のち)の御(おん)鏡(かがみ)は御子(おんこ)あまの忍(しの)ほみみの尊(みこと)に授(さづ)け参(まゐ)らせさせたまひて、

「殿(どの)を同(どう)うして住(す)みたまへ」

 とぞおほせける。

 さて天照大神(あまてらすおほみかみ)天(あめ)の岩戸(いはと)に閉(と)ぢ籠(ろう)らせたまひて天下(てんか)暗(くら)やみとなったりしに、八百万(やほよろづ)の神達(かみたち)神集(かんづまり)に集(あつ)まって岩戸(いはと)の口(くち)にて御神楽(みかぐら)を奏(そう)したまひければ、天照大神(あまてらすおほみかみ)感(かん)に堪(た)へさせたまはず、岩戸(いはと)を細目(ほそめ)に開(ひら)き見(み)たまふに、互(たが)ひに顔(かほ)の白(しろ)く見(み)えけるより面白(おもしろ)といふ詞(ことば)は始(はじ)まりけるとぞ承(うけたま)はる。

 その時(とき)こやねたぢからをといふ大力(だいぢから)の神(かみ)よってえいといひてあけたまひしよりしてたてられずといへり。

 さて内侍所(ないしどころ)は第九代(だいくだい)の御門(みかど)開化天皇(かいくわてんわう)の御時(おんとき)までは一(ひと)つ殿(どの)におはしましけるを、第十代(だいじふだい)の帝(みかど)崇神天皇(すじんてんわう)の御宇(ぎよう)に及(およ)びて霊威(れいゐ)に怖(こは)れて別(わかれ)の殿(どの)へ移(うつ)し奉(たてまつ)らせたまふ。

 近(ちか)きころは温明殿(うんめいでん)におはします。

 遷都遷幸(せんとせんかう)の後(のち)、百(ひやく)六十年(ろくじふねん)を経(へ)て、村上(むらかみ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)天徳(てんとく)四年(よねん)九月(くぐわつ)二十三日(にじふさんにち)の子刻(ねのこく)に内裡(だいり)なかのへに始(はじ)めて焼亡(せうまう)ありき。

 火(ひ)は左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)より出(い)きたりければ内侍所(ないしどころ)のおはします温明殿(うんめいでん)も程(ほど)近(ちか)し。

 如法(によほふ)夜半(よなか)の事(こと)なれば内侍(ないし)も女官(によくわん)も参(まゐ)り合(あ)はせずして、かしこ所(ところ)を出(いだ)し奉(たてまつ)るにも及(およ)ばず。

 小野宮(をののみや)殿(どの)急(いそ)ぎ参(まゐ)らせたまひて内侍所(ないしどころ)既(すで)に焼(や)けさせたまひぬ。

 世(よ)はいまはかうごさんなれとて御涙(おんなみだ)を流(なが)させたまふほどに、内侍所(ないしどころ)は自(みづか)炎(ほのほ)の中(なか)を飛(と)び出(い)でさせたまひ、南殿(なんでん)の桜(さくら)の梢(こずゑ)に懸(か)らせおはしまし光明赫奕(くわうみやうかくやく)として朝(てう)の日(ひ)の山(やま)の端(はし)を出(いづ)るに異(こと)ならず。

 その時(とき)小野宮(をののみや)殿(どの)世(よ)は未(いま)だ失(う)せざりけりとおぼしめすに悦(よろこ)の御涙(おんなみだ)せきあへさせたまはず。

 右(みぎ)の御膝(おんひざ)をつき左(ひだり)の御(おん)袖(そで)を広(ひろ)げてなくなく申(まう)させたまひけるは

「昔(むかし)天照大神(あまてらすおほみかみ)百王(ひやくわう)を守(かみ)らんと御(おん)誓(ちか)ひありけるその御(おん)誓(ちか)いまだ改(かい)まらずんば神鏡(しんきやう)実頼(さねより)が袖(そで)に宿(やど)らせたまへ」

 と申(まう)させたまふ御詞(おんことば)の末(すゑ)をはらざる先(さき)に飛(と)び移(うつ)らせたまひけり。

 即(すなはち)御(おん)袖(そで)に裹(つつ)んで太政官(だいじやうくわん)の朝所(あいたんどころ)へ渡(わた)し奉(たてまつ)らせたまふ。

 近(ちか)ごろは温明殿(うんめいでん)におはします。

 この世(よ)には請(う)け取(と)り奉(たてまつ)らんと思(おも)ひ寄(よ)る人(ひと)も誰(たれ)かはあるべき。

 神鏡(しんきやう)も又(また)宿(やど)らせたまふべからず。

 上代(じやうだい)こそなほも目出(めで)たかりけれ。

文之沙汰

 平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)父子(ふし)も、九郎(くらう)判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)近(ちか)うぞおはしける。

 世(よ)の中(なか)かくなりぬる上(うへ)は、とてもかうてもとこそ思(おも)はるべきに、大納言(だいなごん)なほ命(いのち)惜(を)しうや思(おも)はれけん、子息(しそく)讃岐(さぬき)中将(ちゆうじやう)を招(まね)いて、

「散(ち)らすまじき文(ふみ)を一合(いちがふ)判官(はうぐわん)に取(と)られてあるぞとよ。これを鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)に見(み)えなば、人(ひと)も多(おほ)く損(そん)じ我身(わがみ)も命(いのち)生(い)けらるまじ、いかがせんずる」

 とのたまへば、中将(ちゆうじやう)申(まう)されけるは、

「判官(はうぐわん)は大(おほ)かたも情(なさけ)ある者(もの)にて候(さうらふ)なる上(うへ)女房(にようばう)などの打(う)たへ嘆(なげ)く事(こと)をば、いかなる大事(だいじ)をももてはなれぬと承(うけたまは)り候(さうらふ)。何(なに)か苦(くる)しう候(さうらふ)べき。姫君(ひめぎみ)達(たち)数多(あまた)ましまし候(さうら)へば、一人(ひとり)見(み)せさせたまひ、親(した)しうならせおはしまして後(のち)、おほせらるべうや候(さうらふ)らん」

 大納言(だいなごん)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)いて、

「我(われ)世(よ)にありし時(とき)は、娘(むすめ)共(とも)をば女御后(にようごきさき)とこそ思(おも)ひしか。なみなみの人(ひと)に見(み)せんとはかけても思(おも)はざりしものを」

 とて泣(な)かれければ、中将(ちゆうじやう)、

「今(いま)はその事(こと)ゆめゆめおぼしめし寄(よ)せたまふべからず。当腹(たうばら)の姫君(ひめぎみ)の十八(じふはち)になりたまふを」

 と申(まう)されけれども、大納言(だいなごん)それをばなほ悲(かな)しき事(こと)に覚(おぼ)して、先(さき)の腹(はら)の姫君(ひめぎみ)の二十三(にじふさん)になりたまふをぞ、判官(はうぐわん)には見(み)られける。

 これも年(とし)こそすこし長(なが)しうおはしけれど眉目容(みめかたち)美(うつく)しう、心(こころ)ざま優(いう)におはしければ、判官(はうぐわん)ありがたう思(おも)ひ奉(たてまつ)て、もとの上(うへ)河越(かはごえ)太郎(たらう)重(かさ)頼(たの)が娘(むすめ)もありしかども、これをば別(わかれ)の方(かた)に尋常(じんじやう)にしつらうてもてなしけり。

 さて女房(にようばう)件(くだん)の文(ふみ)の事(こと)をのたまひ出(いだ)されたりければ、判官(はうぐわん)剩(あまつさ)へ封(ほう)をも解(と)かず、急(いそ)ぎ時忠(ときただ)卿(きやう)の許(もと)へ送(おく)られけり。

 大納言(だいなごん)斜(なな)めならず悦(よろこ)んで、やがて焼(や)きぞ棄(す)てられける。

 いかなる文(ふみ)共(とも)にてありけん、覚束(おぼつか)なうぞ聞(き)こえし。

 平家(へいけ)滅(ほろ)びて、いつしか国々(くにぐに)静(しづ)まり、人(ひと)のかよふも煩(わづら)なし。

 都(みやこ)も穏(おだひ)しかりければ、

「ただ九郎(くらう)判官(はうぐわん)程(ほど)の人(ひと)はなし。鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)は何事(なにごと)をか為出(しで)だしたる。世(よ)は一向(いつかう)判官(はうぐわん)の儘(まま)にてあらばや」

 などいふ事(こと)を源二位(げんにゐ)漏(も)れ聞(き)いて、

「こはいかに、頼朝(よりとも)がよく計(はか)らひて、兵(つはもの)を指(さ)し上(うへ)すればこそ平家(へいけ)はたやすう滅(ほろ)びたれ。九郎(くらう)ばかりしては、いかが世(よ)をばしづむべき。人(ひと)のかくいふに奢(おご)って何(なに)しか世(よ)を我儘(わがまま)にしたるにこそ。人(ひと)こそ多(おほ)けれ、平大納言(へいだいなごん)の聟(むこ)になって、大納言(だいなごん)を扱(あつか)ふなるも受(う)けられず。又(また)世(よ)にもはばからず、大納言(だいなごん)の聟(むこ)取(と)りいはれなし。これへ下(くだ)っても定(さだ)めて過分(くわぶん)の振舞(ふるま)ひせんずらん」

 とぞのたまひける。

副将被斬

 同(おな)じき五月(ごぐわつ)七日(なぬか)、九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)平氏(へいじ)の生捕(いけどり)共(とも)相具(あひぐ)して関東(くわんとう)へ下向(げかう)と聞(き)こえしかば、大臣殿(おほいとの)判官(はうぐわん)の許(もと)へ使者(ししや)を立(た)てて、

「明日(あす)関東(くわんとう)へ下向(げかう)と承(うけたまは)り候(さうらふ)。恩愛(おんあい)の道(みち)は思(おも)ひ切(き)られぬ事(こと)にて候(さうらふ)なり。生捕(いけどり)の中(なか)に、八歳(はつさい)の童(わらは)と付(つ)けられて候(さうら)ひしものは、未(いま)だこの世(よ)に候(さうらふ)やらん。今一度(いまいちど)見(み)候(さうらふ)ばや」

 とのたまひ遣(つか)されたりければ、判官(はうぐわん)の返事(へんじ)には、

「誰(たれ)も恩愛(おんあい)の道(みち)は思(おも)ひ切(き)られぬ事(こと)にて候(さうら)へば、まことにさこそおぼしめされ候(さうらふ)らめ」

 とて、河越(かはごえ)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)がもとに預(あづか)り奉(たてまつ)りたりけるを大臣殿(おほいとの)の許(もと)へ若君(わかぎみ)入(い)れ奉(たてまつ)るべき由(よし)、のたまひければ、人(ひと)に車借(くるまか)りて、乗(の)せ奉(たてまつ)り、女房(にようばう)二人(ふたり)著(き)奉(たてまつ)りたりしも一(ひと)つ車(くるま)に乗(の)り具(ぐ)して大臣殿(おほいとの)へぞ参(まゐ)られける。

 若君(わかぎみ)は遙(はるか)に父(ちち)を見(み)奉(たてまつ)りたまひて、世(よ)に嬉(うれ)し気(げ)におはしたり。

 大臣殿(おほいとの)、

「いかにこれへ」

 とのたまへば、やがて御膝(おんひざ)の上(うへ)に参(まゐ)りたまふ。

 大臣殿(おほいとの)若君(わかぎみ)の御(おん)ぐしを掻(か)き撫(な)で、涙(なみだ)をはらはらと流(なが)いて、守護(しゆご)の武士(ぶし)共(とも)にのたまひけるは、

「これは、各(おのおの)聞(き)きたまへ、母(はは)もなき者(もの)にてあるぞとよ。この子(こ)が母(はは)は、これを産(う)むとて、産(う)をば平(たひ)らかにしたりしかども、やがてうちふして悩(なや)みしが、つひに空(むな)くなるぞとよ。『この後(のち)いかなる人(ひと)の腹(はら)に公達(きんだち)を設(まう)けたまふとも、思(おも)ひかへずして、生(お)ひ立(た)て我形見(わがかたみ)に御覧(ごらん)ぜよ。さしはなって乳母(めのと)などの許(もと)へ遣(つか)すな』と云(い)ひし事(こと)の不便(ふびん)さに、『あの右衛門督(うゑもんのかみ)をば朝敵(てうてき)を平(たひ)らげん時(とき)は、大将軍(たいしやうぐん)をせさせ、これをば副将軍(ふくしやうぐん)をせさせんずれば』とて、名(な)を副将(ふくしやう)と付(つ)けたりしかば、斜(なな)めならず嬉(うれ)し気(げ)に思(おも)ひて既(すで)に限(かぎ)りの時(とき)までも、名(な)を呼(よ)ぶなどして愛(あい)せしが、七日(なぬか)といふに、墓(はか)なくなりてあるぞとよ。この子(こ)を見(み)る度(ど)ごとには、その事(こと)が忘(わす)れがたくおぼゆるなり」

 とて涙(なみだ)もせきあへたまはねば守護(しゆご)の武士(ぶし)共(とも)も、皆(みな)袖(そで)をぞ絞(しぼ)りける。

 右衛門督(うゑもんのかみ)も泣(な)きたまへば乳母(めのと)も袖(そで)を絞(しぼ)りけり。

 やや久(ひさ)しくあって大臣殿(おほいとの)、

「さらば副将(ふくしやう)、とく帰(かへ)れ。嬉(うれ)しう見(み)つる」

 とのたまへども、若君(わかぎみ)帰(かへ)りたまはず。

 右衛門督(うゑもんのかみ)これを見(み)て涙(なみだ)を押(おさ)へてのたまひけるは、

「やや副将(ふくしやう)御前(ごぜん)、今夜(こんや)は疾々(とくとく)帰(かへ)れ。ただ今(いま)客人(まらうど)のこうずるぞ。朝(あさ)は急(いそ)ぎ参(まゐ)れ」

 とのたまへども、父(ちち)の御(おん)浄衣(じやうえ)の袖(そで)にひしと取(と)り付(つ)いて、

「いなや帰(かへ)らじ」

 とこそ泣(な)きたまへ。

 かくて遙(はるか)に程(ほど)歴(へ)れば、日(ひ)も漸(やうや)暮(く)れにけり。

 さてしもあるべき事(こと)ならねば、乳母(めのと)の女房(にようばう)抱(いだ)き取(と)って、御車(おんくるま)に乗(の)せ奉(たてまつ)り、二人(ふたり)の女房(にようばう)共(とも)も袖(そで)を顔(かほ)に推(お)し当(あ)てて、泣(な)く泣(な)く暇(いとま)申(まう)しつつ共(とも)に乗(の)ってぞ出(い)にける。

 大臣殿(おほいとの)は後(うしろ)を遙(はるか)に御覧(ごらん)じ送(おく)りて、日(ひ)ごろの恋(こひ)しさは事(こと)の数(かず)ならずとぞ悲(かな)しみたまふ。

「この子(こ)は母(はは)の遺言(ゆゐごん)が無慚(むざん)なれば」

 とて乳母(めのと)の許(もと)へも遣(つか)さず、朝夕(あさゆふ)御前(ごぜん)にてそだてたまふ。

 三歳(さんざい)にて始冠(うひかうぶり)して、義宗(よしむね)とぞ名乗(なの)らせける。

 やうやう生(お)ひ立(た)ちたまふままに、みめ容(かたち)美(うつく)しく、心様(こころざま)優(いう)におはしければ、大臣殿(おほいとの)もかなしういとほしき事(こと)におぼして、西海(さいかい)の旅(たび)の空(そら)、浪(なみ)の上(うへ)、船(ふね)の中(なか)の住(す)みかにも片時(かたとき)も離(はな)れたまはず。

 然(しか)るを軍(いくさ)破(やぶ)れて後(のち)は、今日(けふ)ぞ互(たが)ひに見(み)たまひける。

 河越(かはごえ)小太郎(こたらう)判官(はうぐわん)の御前(ごぜん)に参(まゐ)りていひけるは

「さて若君(わかぎみ)の御事(おんこと)をば何(なに)と御計(おんはか)ひ候(さうらふ)やらん」

 と申(まう)しければ、

「鎌倉(かまくら)まで具(ぐ)し奉(たてまつ)るに及(およ)ばず。汝(なんぢ)ともかうもこれであひはからへ」

 とぞのたまひける。

 河越(かはごえ)小太郎(こたらう)宿所(しゆくしよ)に帰(かへ)りて、二人(ふたり)の女房(にようばう)共(とも)に申(まう)しけるは、

「大臣殿(おほいとの)は鎌倉(かまくら)へ御(おん)下(くだ)り候(さうらふ)が、若君(わかぎみ)は京(きやう)に御留(おんとど)まりあるべきにて候(さうらふ)。重房(しげふさ)も罷(まか)り下(くだ)り候(さうらふ)間(あひだ)、緒方三郎(をがたのさぶらう)惟義(これよし)が手(て)へ渡(わた)し奉(たてまつ)るべきにて候(さうらふ)。とうとう召(め)され候(さうら)へ」

 とて、御車(おんくるま)寄(よ)せたりければ、若君(わかぎみ)何(なに)心(こころ)もなう乗(の)りたまひぬ。

「又(また)昨日(きのふ)の様(さま)に父御前(ちちごぜ)の御許(おんもと)へか」

 とて悦(よろこ)ばれけるこそはかなけれ。

 六条(ろくでう)を東(ひがし)へやって行(ゆ)く。

 この女房(にようばう)共(とも)

「あはやあやしき物(もの)かな」

 と、肝魂(きもたましひ)を消(き)して思(おも)ひける程(ほど)に、少(すこ)し引(ひ)き下(くだ)って兵(つはもの)五(ご)六十(ろくじふ)騎(き)が程(ほど)河原(かはら)へ打(う)ち出(い)でたり。

 やがて車(くるま)を遣(や)りとどめて、敷(し)皮(かは)しき、

「下(くだ)させたまへ」

 と申(まう)しければ若君(わかぎみ)車(くるま)よりおりたまひぬ。

 世(よ)にあやしげにおぼして、

「我(われ)をばいづちへ具(ぐ)してゆかむとするぞ」

 と問(と)ひたまへば、二人(ふたり)の女房(にようばう)共(とも)、とかうの御返事(おんへんじ)にも及(およ)ばず。

 重房(しげふさ)が郎等(らうどう)、太刀(たち)をひきそばめて、左(ひだり)の方(かた)より御後(おんうしろ)に立(た)ち回(まは)り、既(すで)に斬(き)り奉(たてまつ)らんとしけるを、若君(わかぎみ)見(み)つけたまひて、幾(いく)程(ほど)遁(のが)るべき事(こと)の様(さま)に、急(いそ)ぎ乳母(めのと)の懐(ふところ)の中(なか)へぞ逃(に)げ入(い)りたまふ。

 さすが心(こころ)強(つよ)う取(と)り出(いだ)し奉(たてまつ)るにも及(およ)ばねば、若君(わかぎみ)をかかへ奉(たてまつ)り人(ひと)の聞(き)くをも憚(はばか)らず、天(てん)に仰(あふ)ぎ地(ち)に伏(ふ)してをめき叫(さけ)みける心(こころ)の中(なか)推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 かくて時刻(じこく)遙(はる)かに推(お)し移(うつ)りければ河越(かはごえ)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)涙(なみだ)をおさへて、

「今(いま)はいかにおぼしめされ候(さうらふ)とも叶(かな)はせたまひ候(さうらふ)まじ。とうとう」

 と申(まう)しければその時(とき)乳母(めのと)の懐(ふところ)の中(なか)より、引(ひ)き出(いだ)し奉(たてまつ)り、腰(こし)の刀(かたな)にて押(お)し伏(ふ)せてつひに頸(くび)をぞ掻(か)いてける。

 猛(たけ)き武士(ぶし)共(とも)もさすが岩木(いはき)ならねば、皆(みな)涙(なみだ)を流(なが)しけり。

 頸(くび)をば

「判官(はうぐわん)の見参(げんざん)にいれん」

 とて取(と)って行(ゆ)く。

 乳母(めのと)の女房(にようばう)、徒跣(とがち)にて追(お)ひ著(き)て、

「何(なに)かくるしう候(さうらふ)べき。御頸(おんくび)ばかりをばたまはって後世(ごせ)を弔(とぶら)ひまゐらせん」

 と申(まう)せば、判官(はうぐわん)も世(よ)に哀(あはれ)気(げ)に思(おも)ひ涙(なみだ)をはらはらと流(なが)いて

「まことにさこそは思(おも)ひたまふらめ。最(もつと)もさあるべし。とうとう」

 とてたびにけり。

 これを取(と)って懐(ふところ)に入(い)れて泣(な)く泣(な)く京(きやう)の方(かた)へ帰(かへ)るとぞ見(み)えし。

 その後(のち)五六日(ごろくにち)して、桂川(かつらがは)に女房(にようばう)二人(ふたり)身(み)をなげたる事(こと)ありけり。

 一人(ひとり)少(すく)なき人(ひと)の頸(くび)をふところに入(い)れ沈(しづ)みたりけるは、この若君(わかぎみ)の乳母(めのと)の女房(にようばう)にてぞありける。

 今(いま)一人(ひとり)屍(かばね)を抱(いだ)いてありけるは、介錯(かいしやく)の女房(にようばう)なり。

 乳母(めのと)が思(おも)ひきるは、せめていかがせん、介錯(かいしやく)の女房(にようばう)さへ、身(み)を投(な)げけるこそ有(あ)りがたけれ。

腰越

 さる程(ほど)に大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)に具(ぐ)せられて七日(なぬか)の暁(あかつき)関東(くわんとう)へ下(くだ)りたまふ。

 粟田口(あはたぐち)を過(す)ぎたまへば、大内(おほうち)山(やま)も雲井(くもゐ)のよそに隔(へだ)りぬ。

 逢阪(あふさか)にもなりしかば関(せき)の清(きよ)水(みづ)を見(み)たまひて、大臣殿(おほいとの)なくなくかうぞ詠(えい)じたまひける。

都(みやこ)をば今日(けふ)を限(かぎ)りの関(せき)水(みづ)に、又(また)あふ坂(さか)の影(かげ)やうつさむ。

 道(みち)すがらもあまりに心細(こころぼそ)げにおはしければ、判官(はうぐわん)情(なさけ)ある人(ひと)にて、さまざまに慰(なぐさ)め奉(たてまつ)る。

 大臣殿(おほいとの)、判官(はうぐわん)に向(むか)って

「相構(あひかま)へ、今度(こんど)親(おや)子(こ)の命(いのち)を助(たす)けてたまへ」

 とのたまへば、

「遠(とほ)き国(くに)、遙(はる)かの島(しま)へも遷(うつ)しぞ参(まゐ)らせ候(さうら)はんずらん。御命(おんいのち)失(うしな)ひ奉(たてまつ)るまではよも候(さうら)はじ。縦(たとひ)さ候(さうらふ)とも、義経(よしつね)が勲功(くんこう)の賞(しやう)に申(まう)しかへて、御命(おんいのち)計(ばかり)は助(たす)け参(まゐ)らせ候(さうらふ)べし。御心(みこころ)安(やす)うおぼしめされ候(さうら)へ」

 と憑(たの)もしげに申(まう)されければ

「たとひ夷(えびす)が千島(ちしま)なりともかひなき命(いのち)だにあらば」

 とのたまひけるこそ口惜(くちを)しけれ。

 日数(ひかず)歴(へ)れば、同(おな)じき二十四日(にじふしにち)、鎌倉(かまくら)へ下(くだ)り著(つ)きたまふ。

 梶原(かぢはら)判官(はうぐわん)に一日(いちにち)先立(さきだ)て鎌倉殿(かまくらどの)に申(まう)しけるは、

「日本国(につぽんこく)は今(いま)は残(のこ)る所(ところ)なう随(したが)ひ奉(たてまつ)り候(さうらふ)。ただし御弟(おんおとと)九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)殿(どの)こそ、終(つひ)の御敵(おんかたき)とは見(み)えさせたまひ候(さうら)へ。その故(ゆゑ)は『一谷(いちのたに)を上(うへ)の山(やま)より義経(よしつね)が落(お)さずば、東西(とうざい)の木戸口(きどぐち)破(やぶ)れ難(かた)し。生捕(いけどり)も死捕(しにどり)も義経(よしつね)にこそ見(み)すべきに、物(もの)の用(よう)にもあひたまはぬ蒲殿(かばどの)の方(かた)へ見参(げんざん)に入(い)るべき様(さま)やある。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)殿(どの)こなたへたばずば参(まゐ)りてたまはるべし』とて既(すで)に車(くるま)出来(いでき)候(さうら)はんとし候(さうらひ)しを、景時(かげとき)が土肥(どひ)に心(こころ)を合(あ)せて、三位中将(さんみのちゆうじやう)殿(どの)を土肥次郎(どひのじらう)に預(あづか)けて後(のち)こそ静(しづ)まりたまひて候(さうらひ)しか」

 と語(かた)り申(まう)しければ、鎌倉殿(かまくらどの)打(う)ち頷(うなづ)いて

「今日(けふ)九郎(くらう)が鎌倉(かまくら)へ入(い)るなるに、各(おのおの)用意(ようい)したまへ」

 とておほせられければ大名小名(だいみやうせうみやう)馳(は)せ集(あつ)まって、程(ほど)なく数千騎(すせんき)になりにけり。

 金洗沢(かなあらひざは)に関(せき)居(ゐ)ゑて、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)請(う)け取(と)り奉(たてまつ)て判官(はうぐわん)をば腰越(こしごえ)へ追(お)ひ返(かへ)さる。

 鎌倉殿(かまくらどの)は随兵(ずゐひやう)七重八重(ななへやへ)に居(ゐ)ゑ置(お)いて我身(わがみ)はその中(なか)におはしながら

「九郎(くらう)はすずどきをのこなればこの畳(たた)の下(した)よりも這(は)ひ出(い)でんずる者(もの)なり。ただし頼朝(よりとも)はせらるまじ」

 とぞのたまひける。

 判官(はうぐわん)、思(おも)はれけるは

「去年(きよねん)の正月(しやうぐわつ)木曽(きそ)義仲(よしなか)を追討(ついたう)せしよりこのかた一谷(いちのたに)壇(だん)浦(うら)に至(いた)るまで命(いのち)を棄(す)てて平家(へいけ)を責(せ)め落(お)し、内侍所(ないしどころ)、璽(しんじ)の御(おん)箱(はこ)事(こと)故(ゆゑ)なく返(かへ)し入(い)れ奉(たてまつ)り、大将軍(たいしやうぐん)父子(ふし)生捕(いけどり)にして、具(ぐ)してこれまで下(くだ)りたらんには、縦(たとひ)いかなる不思議(ふしぎ)ありとも、一度(いちど)はなどか対面(たいめん)なかるべき。およそは九国(きうこく)の惣追捕使(そうついぶし)にもなされ、山陰山陽南海道(さんいんさんやうなんかいだう)、いづれにても預(あづか)け、一方(いつぱう)の固(かた)めともなされんずるとこそ思(おも)ひつるに、わづかに伊予(いよ)の国(くに)ばかりを知行(ちぎやう)すべき由(よし)おほせられて、あまさへ鎌倉(かまくら)へだにも入(い)られぬこそ本意(ほい)なけれ。さればこは何事(なにごと)ぞ。日本国(につぽんこく)を静(しづ)むる事(こと)、義仲(よしなか)義経(よしつね)が為態(ていたらく)にあらずや。たとへば同(おな)じ父(ちち)が子(こ)で、先(さき)に生(うま)るるを兄(あに)とし、後(のち)に生(うま)るるを弟(おとと)とする計(ばかり)なり。誰(たれ)か天下(てんか)を知(し)らんに知(し)らざるべき。剩(あまつさ)へ今度(こんど)見参(げんざん)をだにも遂(と)げずして逐(お)ひ上(のぼ)らるるこそ遺恨(ゐこん)の次第(しだい)なれ。謝(しや)する所(ところ)を知(し)らず」

 とつぶやかれけれども力(ちから)なし。

 全(まつた)く不(ふ)忠(ちゆう)なきよし度々(たびたび)起請文(きしやうもん)を以(もつ)て申(まう)されけれども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)によって鎌倉殿(かまくらどの)用(もち)ゐたまはねば、判官(はうぐわん)泣(な)く泣(な)く一通(いつつう)の状(じやう)を書(か)いて広元(ひろもと)の許(もと)へ遣(つか)す。

 その状(じやう)に云(い)く、源義経(みなもとのよしつね)恐(おそ)れながら申(まう)し上(あ)げ候(さうらふ)意趣(いしゆ)は、御代官(おんだいくわん)のその一(いち)に選(えら)ばれ、勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)として朝敵(てうてき)を傾(かたぶ)け、会稽(くわいけい)の恥辱(ちじよく)を雪(そそ)ぐ。

 勲賞(くんしやう)行(おこな)はるべき処(ところ)に思(おも)ひの外(ほか)虎口(ここう)の讒言(ざんげん)によって莫大(ばくだい)の勲功(くんこう)をもだせられ、義経(よしつね)をかし無(む)うしてさがをかうむり、功(こう)あって誤(あやま)なしと云(い)へ共(とも)、御勘気(ごかんき)を蒙(かうぶ)り空(むな)く紅涙(こうるゐ)に沈(しづ)む。

 讒者(ざんしや)の実否(じつぴ)をただされず、鎌倉中(かまくらぢゆう)へ入(い)られざる間(あひだ)、素意(そい)をのぶるにあたはず。

 徒(いたづら)に数日(すうじつ)を送(おく)る。

 この時(とき)にあたって永(なが)く恩顔(おんがん)を拝(はい)し奉(たてまつ)らず。

 骨肉同胞(こつにくどうほう)の義(ぎ)既(すで)に絶(た)え、宿運(しゆくうん)究(きは)めて虚(むな)しきに似(に)たるか。

 将又(はたまた)先世(せんぜ)の業(ごふ)因(いん)の感(かん)ずるか。

 悲(かな)しかな。

 この条(でう)故(こ)亡父尊霊(ばうふそんれい)再誕(さいたん)したまはずば誰(たれ)の人(ひと)か愚意(ぐい)の悲嘆(ひたん)を申(まう)し開(ひら)かん。

 何(いづ)れの人(ひと)か哀(あはれ)憐(あはれ)をたれられんかな。

 事(こと)新(あらた)き申(まう)し状(じやう)、述懐(じゆつくわい)に似(に)たりといへども、義経(よしつね)身体髪膚(しんたいはつぷ)を父(ちち)母(はは)に受(う)けて幾(いく)の時節(じせつ)を経(へ)ず、故頭殿(こかうどの)御(おん)他界(たかい)の間(あひだ)孤(みなしご)となり、母(はは)の懐(ふところ)の中(なか)に抱(いだ)かれて、大和国(やまとのくに)宇多(うだ)郡(こほり)に越(こ)しより以降(いかう)、未(いま)だ一日(いちにち)片時(かたとき)安堵(あんど)の思(おも)ひに住(す)せず。

 甲斐(かひ)なき命(いのち)をば存(ぞん)すといへども、京都(きやうと)の経廻難治(けいくわいなんぢ)の間(あひだ)、身(み)を在々所々(ざいざいしよしよ)に蔵(ざう)し、辺(へん)土(つち)遠国(をんごく)を栖(すま)として、土民百姓(どみんひやくせい)等(ら)に服仕(ふくし)せらる。

 然(しか)れども交契(かうけい)たちまちに純熟(じゆんじゆく)して、平家(へいけ)の一族(いちぞく)追討(ついたう)の為(ため)に上洛(じやうらく)せしむる手合(てあは)に、木曽(きそ)義仲(よしなか)を誅戮(ちゆうりく)の後(のち)、平氏(へいじ)をかたむけんが為(ため)に、或(ある)時(とき)は峨々(がが)たる巌石(がんせき)に駿馬(しゆんめ)に鞭(むち)うち、敵(かたき)の為(ため)に命(いのち)をほろぼさん事(こと)を顧(かへり)みず、或(ある)時(とき)は漫々(まんまん)たる大海(たいかい)に風波(ふうは)の難(かたし)を凌(しの)ぎ、海底(かいてい)に沈(しづ)まん事(こと)を痛(いた)まずして、屍(かばね)を鯨鯢(げいげい)の鰓(あぎと)にかく。

 しかのみならず甲冑(かつちう)を枕(まくら)とし、弓箭(きゆうせん)を業(ごふ)とする本意(ほい)、併(しかしなが)ら亡魂(ばうこん)の憤(いきどほ)りを息(いさ)め奉(たてまつ)り、年来(ねんらい)の宿望(しゆくばう)を遂(と)げんと欲(よく)する外(ほか)他事(たじ)なし。

 剩(あまつさ)さへ義経(よしつね)五位(ごゐ)の尉(じよう)に補(ほ)任(にん)の条(でう)、当家(たうけ)の重職(ぢゆうしよく)何事(なにごと)かこれにしかん。

 然(しか)りといへども、愁(うれへ)ひ深(ふか)く嘆(なげ)き切(き)なり。

 仏神(ぶつしん)の御(おん)助(たす)けにあらずより外(ほか)はいかが愁訴(しうそ)を達(たつ)せん。

 これによって、諸寺(しよじ)諸社(しよしや)の牛王宝印(ごわうほういん)の裏(うら)をもて、野心(やしん)を挿(さしはさ)まざる旨(むね)、日本国(につぽんこく)中(なか)の大小(だいせう)の神祇冥道(じんぎみやうだう)を請(しやう)じ驚(おどろ)かし奉(たてまつ)て、数通(すうつう)の起請文(きしやうもん)を書(か)き進(すす)らすといへども、なほ以(もつ)て御宥免(ごいうめん)なし。

 夫(それ)れ吾(わが)国(くに)は神国(しんこく)なり、神(かみ)は非礼(ひれい)を享(う)けたまふべからず。

 憑(たのみ)むところ他(ほか)にあらず。

 偏(ひとへ)に貴殿(きでん)広大(くわうだい)の慈悲(じひ)を仰(あふ)ぐ。

 便宜(べんぎ)を伺(うかが)ひ高聞(かうぶん)に達(たつ)せしめ、秘計(ひけい)をめぐらし誤(あやま)なき由(よし)をゆうせられ、赦免(しやめん)に預(あづか)らば、積善(しやくぜん)の余慶(よけい)家門(かもん)に及(およ)び、栄華(えいぐわ)を永(なが)く子孫(しそん)に伝(つた)へん。

 よって年来(ねんらい)の愁眉(しうび)を開(ひら)き、一期(いちご)の安寧(あんねい)を得(え)ん。

 書紙(しよし)に尽(つ)くさず。

 併(あは)せて省略(せいりやく)せしめ候(さうら)ひ畢(をは)んぬ。

 義経(よしつね)恐惶謹言(きようくわうきんげん)。

 元歴(げんりやく)二年(にねん)六月(ろくぐわつ)五日(いつか)源義経(みなもとのよしつね)進上(しんじやう) 因幡守(いなばのかみ)殿(どの)へとぞ書(か)かれたる。

大臣殿被斬

 さる程(ほど)に、鎌倉殿(かまくらどの)大臣殿(おほいとの)に対面(たいめん)あり。

 おはしける所(ところ)に庭(には)を一(ひと)つ隔(へだ)てて、向(むか)ひなる屋(や)に居(ゐ)奉(たてまつ)り、簾(すだれ)の中(なか)より見(み)出(い)だし、比気藤四郎(ひきのとうしらう)義員(よしかず)を使者(ししや)で申(まう)されけるは

「平家(へいけ)の人々(ひとびと)に別(わかれ)の意趣(いしゆ)思(おも)ひ奉(たてまつ)る事(こと)ゆめゆめ候(さうら)はず。その故(ゆゑ)は池殿(いけどの)尼(あま)御前(ごぜん)いかに申(まう)したまふとも故(こ)入道殿(にふだうどの)の御許(おんゆる)され候(さうら)はずば、頼朝(よりとも)いかが扶(たす)り候(さうらふ)べき。流罪(るざい)に宥(なだ)められし事(こと)偏(ひとへ)に入道殿(にふだうどの)の御恩(ごおん)なり。されば二十余年(にじふよねん)まで、さてこそ罷(まか)り過(す)ぎ候(さうらひ)しかども朝敵(てうてき)となりたまひて追討(ついたう)すべき由(よし)院宣(ゐんぜん)をたまはる間(あひだ)、さのみ王地(わうぢ)に孕(はら)まれて、詔命(せうめい)を背(そむ)くべきにもあらねば、力(ちから)及(およ)ばず、加様(かやう)に見参(げんざん)に入(い)りたまひぬるこそ、本意(ほい)に候(さうら)へ」

 と申(まう)されければ義員(よしかず)この由(よし)申(まう)さんとて、御前(ごぜん)に参(まゐ)りたりければ、居(ゐ)なほり畏(かしこ)まりたまひけるこそうたてけれ。

 国々(くにぐに)の大名小名(だいみやうせうみやう)並(なら)び居(ゐ)たるその中(なか)に、京(きやう)の者(もの)共(とも)幾(いく)らもあり、皆(みな)爪(つま)弾(はじ)をして申(まう)しけるは

「居(ゐ)なほり畏(かしこ)まりたまひたらば御命(おんいのち)の助(たす)かりたまふべきか。西国(さいこく)でいかにもなりたまふべき人(ひと)の、生(い)きながらとらはれて、これまでくだりたまふこそ理(ことわり)なれ」

 とぞ申(まう)しける。

 或(あるい)は涙(なみだ)を流(なが)す人(ひと)もあり。

 その中(なか)に或(ある)人(ひと)の申(まう)しけるは、

「猛虎(まうこ)深山(しんざん)にある時(とき)は百獣(ひやくじう)震(ふる)ひ怖(こは)づ。檻穽(かんせい)の中(なか)にあるに及(およ)びて尾(を)を揺(ゆ)らして食(しよく)を求(もと)むとて、猛(たけ)き虎(とら)の深(ふか)き山(やま)にある時(とき)は、百(ひやく)の獣(けだもの)恐(おそ)ると云(い)へ共(とも)檻(をり)の中(なか)に籠(ろう)られぬる時(とき)は、尾(を)を掉(ふ)って人(ひと)に向(むか)ふらんやうに、いかに猛(たけ)き大将軍(たいしやうぐん)なれども、かやうになって後(のち)は、心(こころ)かはる事(こと)なれば、大臣殿(おほいとの)も、かくおはするにこそ」

 と申(まう)しける人(ひと)もありけるとかや。

 去(さる)程(ほど)に九郎大夫判官(くらうたいふはうぐわん)さまざまに陳(ちん)じ申(まう)されけれども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)に依(よ)って、鎌倉殿(かまくらどの)更(さら)に分明(ふんみやう)の御返事(おんへんじ)もなし。

「急(いそ)ぎのぼらるべし」

 とおほせられければ、同(おな)じき六月(ろくぐわつ)九日(ここのか)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)具(ぐ)し奉(たてまつ)て、都(みやこ)へぞ返(かへ)り上(のぼ)られける。

 大臣殿(おほいとの)は今(いま)少(すこ)しも日数(ひかず)の延(の)びを嬉(うれ)しき事(こと)に思(おも)はれける。

 道(みち)すがらも、

「ここにてやここにてや」

 とおぼしけれども、国々(くにぐに)宿々(やどやど)、打(う)ち過(す)ぎ打(う)ち過(す)ぎ通(とほ)りぬ。

 尾張国(をはりのくに)内海(うつみ)と云(い)ふ所(ところ)あり。

 ここは故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が誅(ちゆう)せられし所(ところ)なれば、これにてぞ一定(いちぢやう)と思(おも)はれけれども、それをも過(す)ぎしかば、大臣殿(おほいとの)少(すこ)し憑(たの)もしき心(こころ)出来(いでき)て、

「さては命(いのち)のいきんずるやらん」

 とのたまひけるこそはかなけれ。

 右衛門督(うゑもんのかみ)は、

「なじかは命(いのち)をいくべき、かやうに熱(あつ)きころなれば、頸(くび)の損(そん)せぬ様(さま)にはからひて京(きやう)近(ちか)うなって切(き)らんずるにこそ」

 と思(おも)はれけれども、大臣殿(おほいとの)のいたく心細(こころぼそ)気(げ)におぼしたるが心(こころ)苦(くる)しさにさは申(まう)されず。

 偏(ひとへ)に念仏(ねんぶつ)をのみぞ申(まう)したまふ。

 日数(ひかず)ふれば、都(みやこ)も近(ちか)う著(つ)いて近江国(あふみのくに)篠原(しのはら)の宿(やど)に著(つ)きたまひぬ。

 判官(はうぐわん)情(なさ)け深(ふか)き人(ひと)なれば、三日(みつか)路(ぢ)より人(ひと)を先立(さきだ)てて、善知識(ぜんぢしき)の為(ため)に、大原(おほはら)の本性房(ほんしやうばう)湛豪(たんがう)といふ聖(ひじり)請(しやう)じ下(くだ)されたり。

 昨日(きのふ)までは親(おや)子(こ)一所(いつしよ)におはしけるを今朝(けさ)より引(ひ)き放(はな)って、別(わかれ)の所(ところ)に居(ゐ)奉(たてまつ)りければ、

「さては今日(けふ)を最後(さいご)にてあるやらん」

 といとど心細(こころぼそ)うぞ思(おも)はれける。

 大臣殿(おほいとの)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)いて、

「抑(そもそも)右衛門督(うゑもんのかみ)はいづくに候(さうらふ)やらん。縦(たと)ひ頸(くび)は落(お)つとも、体(むくろ)は一(ひと)つ席(むしろ)に臥(ふ)さんとこそ思(おも)ひつるに、生(い)きながら別(わか)れぬる事(こと)こそ悲(かな)しけれ。十七年(じふしちねん)が間(あひだ)一日(いちにち)片時(かたとき)も離(はな)るる事(こと)なし。西国(さいこく)にて海底(かいてい)に沈(しづ)までうき名(な)を流(なが)すもあれゆゑなり」

 とて泣(な)かれければ、聖(ひじり)哀(あは)れに思(おも)ひけれども、我(われ)さへ心(こころ)弱(よわ)くては不叶(かなはず)と思(おも)ひて、涙(なみだ)を拭(のご)ひ、さらぬ体(てい)にもてないて申(まう)しけるは

「今(いま)はとかくおぼしめすべからず。最後(さいご)の御有様(おんありさま)を御覧(ごらん)ぜむにつけても互(たがひ)の御心(みこころ)の中(なか)悲(かな)しかるべし。生(しやう)を受(う)けさせたまひてよりこのかた、楽(たの)しみ栄(さか)え昔(むかし)も類(たぐ)ひ少(すこ)し。御門(みかど)の外戚(ぐわいせき)にて、丞相(じようしやう)の位(くらゐ)に至(いた)らせたまへり。今生(こんじやう)の御栄華(ぎよえいぐわ)一事(いちじ)も残(のこ)る所(ところ)なし。今(いま)又(また)かかる御目(おんめ)にあはせたまふも、先世(せんぜ)の宿業(しゆくごふ)なり。世(よ)をも人(ひと)をも恨(うら)みおぼしめすべからず。大梵王宮(だいぼんわうぐう)の深禅定(しんぜんぢやう)の楽(たの)しみ思(おも)へば程(ほど)なし。況(いはん)や電光朝露(でんくわうてうろ)の下界(げかい)の命(いのち)に於(おい)てをや。忉利天(たうりてん)の億(おく)千(せん)歳(さい)、ただ夢(ゆめ)の如(ごと)し。三十九年(さんじふくねん)を過(す)ぎさせたまひけむも、僅(わづか)に一時(いちじ)の間(あひだ)なり。誰(たれ)れか嘗(な)めたりし、不老不死(ふらうふし)の薬(くすり)。誰(たれ)か保(たも)ちたりし、東父西母(とうふせいぼ)が命(いのち)。秦(しん)の始皇(しくわう)の奢(おご)りを極(きは)めしも、つひには驪山(りざん)の墓(はか)に埋(うづ)もれ、漢(かん)の武帝(ぶてい)の命(いのち)を惜(を)しみたまひしも、空(むな)く杜陵(とりよう)の苔(こけ)に朽(く)ちにき。生(い)ある者(もの)は必(かなら)ず滅(ほろぼ)す、釈尊(しやくそん)未(いま)だ栴檀(せんだん)の煙(けぶり)を免(まぬか)れたまはず。楽(らく)尽(つ)きて悲(ひ)来(きた)る、天人(てんにん)尚(なほ)五衰(ごすゐ)の日(ひ)に逢(あ)へりとこそ承(うけたま)はれ。されば仏(ほとけ)は、『我心自空(がしんじくう)、罪福無主(ざいふくむしゆ)、観心無心(くわんしんむしん)、法不住法(ほふふぢゆうほふ)』とて、善(ぜん)も悪(あし)も空(そら)なりと観(くわん)ずるが、正(ただ)しく仏(ぶつ)の御心(みこころ)に相叶(あひかな)ふ事(こと)にて候(さうらふ)なり。いかがなれば、弥陀如来(みだによらい)は、五劫(ごこふ)が間(あひだ)思惟(しゆい)して発(ほつ)しがたき願(ねが)を発(ほつ)しましますに、いかなる我等(われら)なれば、億々万劫(おくおくまんごふ)が間(あひだ)、生死(しやうじ)に輪廻(りんゑ)して、宝(たから)の山(やま)に入(はい)って、手(て)を空(むな)しくせん事(こと)、恨(うら)みの中(なか)の恨(うら)み、愚(をろか)なるが中(なか)の口惜(くちを)しい事(こと)に候(さうら)はずや。ゆめゆめ余年(よねん)をおぼしめすべからず」

 とて、戒持(かいぢ)たせ奉(たてまつ)り、念仏(ねんぶつ)勧(すす)め申(まう)す。

 大臣殿(おほいとの)然(しか)るべき善知識(ぜんぢしき)かなとおぼしめし、たちまちに妄念(まうねん)を翻(ひるがへ)へして西(にし)に向(むか)ひ手(て)を合(あ)せ、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)したまふ処(ところ)に、橘右馬允(たちばなうまのじよう)公長(きんなが)、太刀(たち)を引(ひ)きそばめて左(ひだり)の方(かた)より御後(おんうしろ)に立(た)ち廻(めぐ)り、既(すで)に斬(き)り奉(たてまつ)らんとしければ、大臣殿(おほいとの)念仏(ねんぶつ)を停(とど)めて、

「右衛門督(うゑもんのかみ)も既(すで)にか」

 とのたまひけるこそ哀(あはれ)なれ。

 公長(きんなが)後(のち)へ回(まは)るかと見(み)えしかば、頸(くび)は前(まへ)にぞ落(お)にける。

 善知識(ぜんぢしき)の聖(ひじり)も、涙(なみだ)に咽(むせ)びたまひけり。

 猛(たけ)き武士(ぶし)もいかがあはれと思(おも)はざるべき。

 増(まさ)て彼(かの)公長(きんなが)は、平家(へいけ)重代(ぢゆうだい)の家人(けにん)新中納言(しんちゆうなごん)の許(もと)に、朝夕祗候(あさゆふしこう)の侍(さぶらひ)なり。

 さこそ世(よ)を諂(へつら)ふならひといひながら、無下(むげ)に情(なさ)けなかりける者(もの)かなとぞ、人(ひと)皆(みな)慚愧(ざんぎ)しける。

 その後(のち)右衛門督(うゑもんのかみ)をも、聖(ひじり)前(まへ)の如(ごと)くに戒持(かいぢ)たせ奉(たてまつ)り、念仏(ねんぶつ)勧(すす)め申(まう)す。

「大臣殿(おほいとの)の最後(さいご)いかがおはしましつる」

 と問(と)はれけるこそ最愛(もあい)けれ。

「目出(めで)たうましまし候(さうらひ)つるなり、御心(みこころ)安(やす)うおぼしめされ候(さうら)へ」

 と申(まう)されければ、涙(なみだ)を流(なが)し悦(よろこ)んで、

「今(いま)は思(おも)ふ事(こと)なし。さらばとう」

 とぞのたまひける。

 今度(こんど)は堀弥太郎(ほりのやたらう)斬(き)ってけり。

 頸(くび)をば判官(はうぐわん)持(も)たせて都(みやこ)へ入(い)る。

 屍(かばね)をば公長(きんなが)が沙汰(さた)として、親(おや)子(こ)一(ひと)つ穴(あな)にぞ埋(うづ)めける。

 さしも罪(つみ)ふかく離(はな)れがたくのたまひければ、加様(かやう)にしてんげり。

 同(おな)じき二十三日(にじふさんにち)大臣殿(おほいとの)父子(ふし)の頭(かしら)都(みやこ)へ入(い)る。

 検非違使(けびゐし)ども三条(さんでう)河原(かはら)にいで向(むか)って、これを請(う)け取(と)り、大路(おほぢ)を渡(わた)して、獄門(ごくもん)の左(ひだり)の樗(あふち)の木(き)にぞ懸(か)けたりける。

 三位(さんみ)以上(いじやう)の人(ひと)の頸(くび)、大路(おほぢ)を渡(わた)して獄門(ごくもん)に懸(か)けらるる事(こと)異国(いこく)にはその例(れい)もやあるらん。

 我朝(わがてう)に於(おい)ては未(いま)だその先蹤(せんしよう)を聞(き)かず。

 されば平治(へいぢ)に信頼(のぶより)は悪人(あくにん)たりしかば、頸(くび)をばはねられたりしかども獄門(ごくもん)には懸(か)けられず。

 平家(へいけ)にとてぞ懸(か)けられける。

 西国(さいこく)より上(のぼ)っては、生(い)きて六条(ろくでう)を東(ひがし)へ渡(わた)され、東国(とうごく)より帰(かへ)りては、死(し)んで三条(さんでう)を西(にし)へ渡(わた)されたまふ。

 生(い)きての恥(はぢ)、死(し)んでの恥(はぢ)、何(いづ)れも劣(おと)らざりけり。

重衡被斬

 本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿(きやう)は、狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)に預(あづか)られて、去年(きよねん)より伊豆国(いづのくに)におはしけるを、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)頻(しき)に申(まう)しければ、

「さらば渡(わた)せ」

 とて、源三位入道(げんざんみにふだう)頼政(よりまさ)の孫(まご)、伊豆(いづ)蔵人(くらんど)大夫(だいぶ)頼兼(よりかね)におほせて、つひに奈良(なら)へぞ遣(つか)しける。

 都(みやこ)へは入(い)られずして、大津(おほつ)より山科(やましな)通(とほ)りに、醍醐路(だいごぢ)を経(へ)て行(ゆ)けば、日野(ひの)は近(ちか)かりけり。

 この重衡(しげひら)卿(きやう)の北方(きたのかた)と申(まう)すは鳥飼(とりかひ)中納言(ちゆうなごん)惟実(これざね)の女(むすめ)、五条大納言(ごでうのだいなごん)国綱(くにつな)の養子(やうし)、先帝(せんてい)の御乳母(おんめのと)、大納言佐殿(だいなごんのすけどの)とぞ申(まう)しける。

 三位中将(さんみのちゆうじやう)一谷(いちのたに)で生捕(いけどり)にせられたまひし後(のち)も、先帝(せんてい)に附(つ)きまゐらせておはせしが、壇(だん)浦(うら)にて海(うみ)にいらせたまひしかば、武士(ぶし)の荒気(あらけ)なきにとらはれて、旧里(きうり)に帰(かへ)り姉(あね)の大夫三位(たいふのさんみ)に同宿(どうじゆく)して、日野(ひの)と云(い)ふ所(ところ)におはしけり。

 中将(ちゆうじやう)の露(つゆ)の命(いのち)、草葉(くさば)の末(すゑ)にかかって、消(き)えやらぬとききたまへば、夢(ゆめ)ならずして今一度(いまいちど)見(み)もし見(み)えもする事(こと)もやと思(おも)はれけれども、それも叶(かな)はねば、泣(な)くより外(ほか)の慰(なぐさ)めなくて明(あか)かし暮(く)らしたまひけり。

 三位中将(さんみのちゆうじやう)、守護(しゆご)の武士(ぶし)にのたまひけるは、

「この程(ほど)事(こと)に触(ふ)れて情(なさ)けふかう芳心(はうしん)おはしつるこそ、あり難(かたし)う嬉(うれ)しけれ。同(おな)じくは最後(さいご)に今一度(いまいちど)芳恩(はうおん)蒙(かうぶ)りたき事(こと)あり。我(われ)は一人(ひとり)の子(こ)なければ、この世(よ)に思(おも)ひおく事(こと)なし。年(とし)頃(ころ)相具(あひぐ)したりし女房(にようばう)の、日野(ひの)と云(い)ふ所(ところ)にありと聞(き)く。今一度(いまいちど)対面(たいめん)して、後生(ごしやう)の事(こと)をも申(まう)し置(お)かばやと思(おも)ふなり」

 とて片時(かたとき)のいとまをこはれけり。

 武士(ぶし)共(とも)さすが岩木(いはき)ならねば、各(おのおの)涙(なみだ)を流(なが)しつつ、

「何(なに)かは苦(くる)しう候(さうらふ)べき」

 とて許(ゆる)し奉(たてまつ)る。

 中将(ちゆうじやう)斜(なな)めならず悦(よろこ)んで、

「大納言佐殿(だいなごんのすけどの)の御(おん)局(つぼね)はこれに渡(わた)せたまひ候(さうらふ)やらん。本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)殿(どの)のただ今(いま)奈良(なら)へ御(おん)通(とほ)り候(さうらふ)が、立(た)ちながら見参(げんざん)に入(い)らばやとおほせ候(さうらふ)」

 と、人(ひと)を入(い)れて言(い)はせければ、北方(きたのかた)聞(き)くもあへず、

「いづらやいづら」

 とて、走(はし)り出(い)て見(み)たまへば、藍摺(あゐずり)の直垂(ひたたれ)に、折烏帽子(をりえぼし)著(き)たる男(をとこ)の、痩(や)せ黒(くろ)みたるが、縁(えん)に依(よ)り居(ゐ)たるぞ、そなりける。

 北方(きたのかた)御簾(みす)の際(きは)近(ちか)くよって

「いかに夢(ゆめ)かや現(げん)か、これへ入(い)らせたまへ」

 とのたまひける御声(おんこゑ)を聞(き)きたまふに、いつしか、先立(さきだ)つ物(もの)は涙(なみだ)なり。

 大納言佐殿(だいなごんのすけどの)は、目(め)もくれ心(こころ)も消(き)え果(は)てしばしは物(もの)ものたまはず。

 三位中将(さんみのちゆうじやう)、御簾(みす)打(う)ちかついで、泣(な)く泣(な)くのたまひけるは、

「去年(きよねん)の春(はる)一谷(いちのたに)でいかにもなるべかりし身(み)の、責(せ)めての罪(つみ)の報(むく)いにや生(い)きながら捕(とら)られて大路(おほぢ)を渡(わた)され、京(きやう)鎌倉(かまくら)に恥(はぢ)をさらすだに口惜(くちを)しきに、果(は)ては奈良(なら)の大衆(だいしゆ)の手(て)に渡(わた)されて、斬(き)るべしとて罷(まか)り候(さうらふ)。いかにもして、今一度(いまいちど)御姿(おんすがた)を見(み)奉(たてまつ)らばやと思(おも)ひつるに、今(いま)は露(つゆ)ばかりも思(おも)ひ置(お)く事(こと)なし。出家(しゆつけ)して形見(かたみ)に髪(かみ)をもたてまつらばやと思(おも)へども、許(ゆる)されなければ力(ちから)及(およ)ばず」

 とて、額(ひたひ)の髪(かみ)を少(すこ)し引(ひ)きわけて口(くち)の及(およ)ぶ所(ところ)をくひ切(き)って、

「これを形見(かたみ)に御覧(ごらん)ぜよ」

 とてたてまつりたまへば、北(きた)の方(かた)は日頃(ひごろ)覚束(おぼつか)なくおはしけるより今(いま)一(いち)入(はい)悲(かな)しみの色(いろ)をぞ増(まさ)したまふ。

「まことに別(わか)れ奉(たてまつ)りし後(のち)は越前(ゑちぜん)三位(さんみ)のうへの様(さま)に、水(みづ)の底(そこ)にも沈(しづ)むべかりしが、正(ただ)しうこの世(よ)におはせぬ人(ひと)とも聞(き)かざりしかば、もし不思議(ふしぎ)にて今一度(いまいちど)かはらぬ姿(すがた)を見(み)もし見(み)えもやすると思(おも)ひてこそ、憂(う)ながら今(いま)までもながらへてありつるに、今日(けふ)を限(かぎ)りにておはせんずらん悲(かな)しさよ。いままで延(の)びつるはもしやと思(おも)ふ憑(たの)みもありつる物(もの)を」

 とて、昔今(むかしいま)の事(こと)どものたまひかはすにつけても、ただ尽(つ)くせぬ物(もの)は涙(なみだ)なり。

「余(あま)りの御姿(おんすがた)のしをれてさぶらふに、たてまつりかへよ」

 とて袷(あはせ)の小袖(こそで)に浄衣(じやうえ)をそへて出(いだ)されたりければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)これを著(き)かへて、元(もと)著(つ)きたまへる物(もの)どもをば、

「形見(かたみ)に御覧(ごらん)ぜよ」

 とて置(お)かれけり、北(きた)の方(かた)、

「それもさる事(こと)にてさぶらへども、はかなき筆(ふで)の跡(あと)こそ、永(なが)き世(よ)の形見(かたみ)にてさぶらへ」

 とて、御硯(おんすずり)を出(いだ)されたりければ中将(ちゆうじやう)泣(な)く泣(な)く一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞ書(か)かれける。

せきかねて涙(なみだ)のかかる唐衣(からころも)、のちのかたみにぬぎぞ替(か)へぬる。

 北(きた)の方(かた)ききもあへず。

ぬぎかふる衣(きぬ)も今(いま)は何(なに)かせん。けふを限(かぎ)りの形見(かたみ)と思(おも)へば。

「契(ちぎり)あらば、後世(ごせ)にては必(かなら)ず生(い)あひ奉(たてまつ)らん。一(ひと)つ蓮(はちす)にといのりたまへ。日(ひ)も闌(たけ)ぬ。奈良(なら)へも遠(とほ)う候(さうらふ)、武士(ぶし)の待(ま)つも心(こころ)なし」

 とて、出(い)たまへば、北方(きたのかた)袖(そで)にすがりて、

「いかにやいかに、暫(しば)し」

 とて、引(ひ)き留(と)めたまふに、中将(ちゆうじやう)

「心(こころ)のうちをばただ推量(すいりやう)たまふべし。されどもつひには遁(のが)れ果(は)つべき身(み)にもあらず。又(また)来(こ)ん世(よ)にてこそ見(み)奉(たてまつ)らめ」

 とて出(い)でたまへども、まことにこの世(よ)にてあひ見(み)ん事(こと)は、これぞ限(かぎ)りと思(おも)はれければ、今一度(いまいちど)立(た)ち帰(かへ)り度(ど)おぼしけれども、心(こころ)弱(よわ)くては叶(かな)はじと思(おも)ひきてぞ出(いで)られける。

 北方(きたのかた)御簾(みす)の際(きは)ちかく伏(ふ)しまろびをめき叫(さけ)びたまふ御声(おんこゑ)の、門(もん)の外(ほか)まで遙(はるか)に聞(き)こえければ、駒(こま)をば更(さら)に疾(と)めたまはず、涙(なみだ)にくれて行(ゆ)く先(さき)も見(み)えねば、中々(なかなか)なりける見参(げんざん)かなと、今(いま)は悔(くや)しうぞ思(おも)はれける。

 大納言佐殿(だいなごんのすけどの)やがてはしりついても、おはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、引(ひ)覆(おほ)いてぞ臥(ふ)したまふ。

 さる程(ほど)に三位中将(さんみのちゆうじやう)をば南都(なんと)の大衆(だいしゆ)、請(う)け取(と)って、僉議(せんぎ)す。

「抑(そもそも)この重衡(しげひら)卿(きやう)は、大犯(だいぼん)の悪人(あくにん)たる上(うへ)、三千五刑(さんぜんごけい)の中(なか)に洩(も)れ、修因感果(しゆいんかんぐわ)の道理(だうり)極定(ごくぢやう)せり。仏敵法敵(ぶつてきほふてき)の逆臣(ぎやくしん)なれば、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうふくじ)の大(おほ)垣(がき)を廻(めぐ)して鋸(のこぎり)にてや斬(き)るべき堀首(ほりくび)にやすべき」

 と僉議(せんぎ)す。

 老僧(らうそう)どもの申(まう)されけるは、

「それも僧徒(そうと)の法(ほふ)に穏便(をんびん)ならず。ただ守護(しゆご)の武士(ぶし)にたまうで、木津(こつ)の辺(へん)にて切(き)らすべし」

 とて、武士(ぶし)の手(て)へぞかへしける。

 武士(ぶし)これを請(う)け取(と)って、木津河(こつがは)の端(はし)にて切(き)らんとするに、数千人(すうせんにん)の大衆(だいしゆ)、見(み)る人(ひと)幾(いく)等(ら)と云(い)ふ数(かず)を知(し)らず。

 三位中将(さんみのちゆうじやう)の年(とし)ごろ召(め)し仕(つか)はれける侍(さぶらひ)に、木工右馬允知時(もくのうまのじようともとき)といふ者(もの)あり。

 八条女院(はちでうのにようゐん)に候(さうら)ひけるが、最後(さいご)を見(み)奉(たてまつ)らんとて、鞭(むち)を打(う)ってぞ馳(は)せたりける。

 既(すで)に只今(ただいま)斬(き)奉(たてまつ)らんとする処(ところ)に馳(は)せ著(き)て、千万(せんまん)立(た)ち囲(かこ)うだる人(ひと)の中(なか)を掻(か)き分(わ)け三位中将(さんみのちゆうじやう)のおはしける御(おん)傍(かたはら)近(ちか)う参(まゐ)りたり。

「知時(ともとき)こそただ今(いま)最後(さいご)の御有様(おんありさま)見参(げんざん)らせ候(さうら)はんとて、これまで参(まゐ)りて候(さうら)へ」

 と泣(な)く泣(な)く申(まう)しければ、中将(ちゆうじやう)

「まことに志(こころざし)の程(ほど)神妙(しんべう)なり。いかに知時(ともとき)仏(ほとけ)を拝(をが)み奉(たてまつ)って、きらればやと思(おも)ふはいかがせんずる。あまりに罪(つみ)深(ふか)う覚(おぼ)ゆるに」

 とのたまへば、知時(ともとき)

「安(やす)い御事(おんこと)候(さうらふ)なり」

 とて、守護(しゆご)の武士(ぶし)に申(まう)しあはせ、その辺(へん)におはしける仏(ほとけ)を一体(いつたい)迎(むか)へ奉(たてまつ)て出(い)きたり。

 幸(さいはひ)に阿弥陀(あみだ)にてぞましましける。

 河原(かはら)の沙(いさご)の上(うへ)に立(た)て参(まゐ)らせ、やがて知時(ともとき)が狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)のくくりを解(と)いて、仏(ほとけ)の御手(おんて)にかけ、中将(ちゆうじやう)に引(ひ)きへさせ奉(たてまつ)る。

 中将(ちゆうじやう)これを引(ひ)きへつつ、仏(ほとけ)に向(むか)ひ奉(たてまつ)て申(まう)されけるは、

「伝(つた)へ聞(き)く、調達(でうだつ)が三逆(さんぎやく)を作(つく)り、八万蔵(はちまんざう)の聖教(しやうげう)を焼滅(せうめつ)したりしも、つひには天王如来(てんわうによらい)の記(き)べつに預(あづか)り、所作(しよさ)の罪業(ざいごふ)まことに深(ふか)しといへども、聖教(しやうげう)に値遇(ちぐ)せし逆縁(ぎやくえん)朽(く)ちずして却(かへ)て得道(とくだう)の因(いん)となる。今(いま)重衡(しげひら)が逆罪(ぎやくざい)を犯(をか)す事(こと)、全(まつた)く愚意(ぐい)の発起(ほつき)に在(あら)らず、ただ世(よ)に随(したが)ふ理(ことわり)を存(ぞん)ずる計(ばかり)なり。命(いのち)をたもつ者(もの)誰(たれ)か王命(わうめい)を蔑如(べつじよ)する。生(しやう)を受(う)くる者(もの)誰(たれ)か父(ちち)の命(めい)を背(そむ)かん。彼(かれ)といひこれといひ、辞(じ)するに所(ところ)なし。理非(りひ)仏陀(ぶつだ)の照覧(せうらん)にあり。抑(そもそも)罪報(ざいほう)たち所(ところ)に報(むく)い、運命(うんめい)ただ今(いま)を限(かぎ)りとす。後悔(こうくわい)千万(せんまん)悲(かな)しんでも余(あま)りあり。ただし三宝(さんぼう)の境界(きやうがい)は、慈悲(じひ)を心(こころ)として、済度(さいど)の良縁(りやうえん)区(まちまち)なり。ただ縁楽意(えんぎやうい)、逆即(ぎやくそく)これ順(じゆん)、この文(ふみ)肝(きも)に銘(めい)ず。一念弥陀仏(いちねんみだぶつ)、即滅無量罪(そくめつむりやうざい)、願(ねが)くは逆縁(ぎやくえん)を以(もつ)て順(じゆん)縁(えん)とし、ただ今(いま)最後(さいご)の念仏(ねんぶつ)に依(よ)って、九品託生(くほんたくしやう)を遂(つひ)ぐべし」

 とて高声(かうしやう)に十念(じふねん)唱(とな)へつつ頸(くび)を延(の)べてぞ切(き)らせられける。

 日(ひ)ごろの悪行(あくぎやう)はさる事(こと)なれども、ただ今(いま)の有様(ありさま)を見(み)奉(たてまつ)るに、数千人(すうせんにん)の大衆(だいしゆ)も、守護(しゆご)の武士(ぶし)も、皆(みな)涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。

 その頸(くび)般若寺(はんにやじ)の大(おほ)鳥(とり)井(ゐ)の前(まへ)に釘(くぎ)付(つ)けにこそかけられけれ。

 治承(ぢしやう)の合戦(かつせん)の時(とき)、爰(ここ)に打(う)ち立(た)て、伽藍(がらん)を滅(ほろぼ)したまへる故(ゆゑ)なり。

 北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)首(くび)をばはねられたりとも屍(かばね)をば取(と)り寄(よ)せて孝養(けうやう)せんとて、輿(こし)を迎(むか)へに遣(つか)す。

 げにも棄(す)て置(お)きたりければ取(と)って輿(こし)に入(い)れ、日野(ひの)へ昇(のぼ)ってぞ帰(かへ)りける。

 これをまちうけ見(み)たまひける北方(きたのかた)の心(こころ)の中(なか)、推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 昨日(きのふ)まではゆくしげにおはせしかども、あのころなれば、何(なに)しかあらぬ様(さま)になりたまひぬ。

 さてもあるべきならねば、その辺(へん)に法界寺(ほふかいじ)と云(い)ふ処(ところ)にてさるべき僧(そう)どもあまた語(かた)らひて孝養(けうやう)あり。

 頸(くび)をば大仏(だいぶつ)の聖(ひじり)俊乗房(しゆんじようばう)にさかくのたまへば大衆(だいしゆ)に乞(こ)うて日野(ひの)へぞ遣(つか)しける。

 頸(くび)も屍(かばね)も煙(けぶり)になし、骨(ほね)をば高野(かうや)へ送(おく)り、墓(はか)をば日野(ひの)にぞせられける。

 北方(きたのかた)も様(さま)をかへ、後世菩提(ごせぼだい)を弔(とぶら)はれけるこそ哀(あはれ)なれ。

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