目次
逆櫓
元歴二年正月十日、九郎大夫判官義経院御所へ参りて、大蔵卿泰経朝臣を以て奏聞せられけるは、
「平家は神明にも放たれ奉り、君にもすてられ参らせて、帝都を出で波の上に漂ふ落人となれり。然るをこの三箇年が間、責め落さずして多くの国々を塞げらるる事口惜しく候へば、今度義経に於ては鬼界、高麗、天竺、震旦までも平家を責め落さざらん限りは王城へ帰るべからず」
と憑もし気に申されければ、法皇大きに御感あって、
「相構へて夜を日に継いで、勝負を決すべし」
とおほせ下さる。
判官宿所に帰りて東国の軍兵どもにのたまひけるは、
「義経鎌倉殿の御代官として院宣を承って、平家を追討すべし。陸は駒の足の及ばむを限り、海は櫓櫂の届かん程責め行くべし。少しもふた心あらむ人々は、とうとうこれより帰らるべし」
とぞのたまひける。
さる程に八島には、隙ゆく駒の足疾くして、正月も立ち二月にもなりぬ。
春の草暮れて、秋の風に驚き、秋の風やんで、春の草になれり。
送り迎へて、既に三年になりにけり。
「都には東国より荒手の軍兵、数万騎著きて責め下る」
とも聞こゆ。
「鎮西より、臼杵、戸次、松浦党同心して、押し渡る」
とも申しあへり。
彼れを聞きこれをきくにも、ただ耳を驚かし、肝魂を消すより外の事ぞなき。
女房達は女院、二位殿をはじめまゐらせて差しつどひて
「又いかなる浮目をか見んずらん。いかなる憂事をか聞かんずらん」
と嘆きあひ悲しみあへり。
新中納言知盛卿のたまひけるは、
「東国北国の者共も随分重恩を蒙りたりしかども、恩を忘れ、契を変じて、頼朝、義仲等に随ひき。まして西国とてもさこそはあらむずらめと思ひしかば、都にて、いかにもならんと思ひし者を。我身一つの事ならねば、心弱うあくがれ出でて、今日はかかるうき目を見る口惜しさよ」
とぞのたまひける。
まことに理と覚えて哀なり。
同じき二月三日九郎大夫判官義経、都を立て、摂津国渡辺より舟ぞろへして、八島へ既に寄らんとす。
参河守範頼も同じき日都を立て、摂津国神崎より兵船を汰って、山陽道へ越えかんとす。
同じき十三日伊勢大神宮、石清水、賀茂、春日へ官幣使を立てらる。
「主上並に三種の神器事故なう返し入れさせたまへ」
と神祇官の官人、諸々の社司、本宮本社にて祈誓申すべき由おほせ下さる。
同十六日渡辺、神崎、両所にてこの日ごろ汰ける船ども、纜既に解かんとす。
折節北風木を折って烈しう吹ければ、大浪に船共散々に打ち損ぜられて、出すに及ばず。
修理の為に、その日は留まる。
渡辺には大名小名寄り合ひて、
「抑船軍の様は未調練せず、いかがあるべき」
と評定す。
梶原申しけるは、
「今度の合戦には船に逆櫓を立て候はばや」
判官、
「逆櫓とはなんぞ」
梶原、
「馬は駈んと思へば、弓手へも馬手へも廻し易し。船はきと推しもどすが大事候、艫舳に櫓を立て違へ、わい楫を入れて、どなたへも安う推す様にし候ばや」
と申しければ、判官のたまひけるは、
「軍と云ふ者は一引も引かじと思ふだにもあはひ悪ければ、引くは常の習ひなり。本より逃まうけしてはなんのよかるべきぞ。まづ門出の悪さよ。逆櫓を立てうとも返様櫓を立てうとも、殿原の舟には百丁千丁も立てたまへ。義経は本の櫓で候はん」
とのたまへば、梶原申しけるは、
「よき大将軍と申すは、駈べき所をかけ、引くべき所を引いて、身を全うし敵を亡すを以て、よき大将軍とはする候。片趣なるをば、猪武者とて、よきにはせず」
と申せば、判官、
「猪鹿は知らず、軍はただ平攻に攻めて、勝ったるぞ心ちはよき」
とのたまへば、侍共梶原に恐れて高くは笑はねども、目引き鼻引きさざめきあへり。
判官と梶原と、已にどし軍あるべしとさざめきあへり。
漸々日暮れ夜に入りければ、判官のたまひけるは、
「船の修理して新しうなったるに、各一種一瓶して祝ひたまへ殿原」
とて、営む様で船に物具いれ兵粮米積み、馬共立てさせて、
「疾々仕れ」
とのたまひければ、水主梶取申しけるは、
「この風は追手にて候へども、普通に過ぎたる風で候。沖はさぞ吹候らん。いかが仕候べき」
と申せば、判官大いに怒ってのたまひけるは、
「野山の末にて死に、海河のそこにおぼれてうするも皆これせんぜの宿業なり。海上にいで浮うだる時風強きとていかがする。向ひ風に渡らんと言はばこそ、僻事ならめ。順風なるが、少し過ぎたればとて、これ程の御大事に、いかが渡らじとは申すぞ。船仕らずば一々にしやつ原射殺せ」
と下知せらる。
奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、伊勢三郎義盛、片手矢はげ進み出で、
「何条子細を申すぞ。御定であるに、とくとくつかまつれ。舟仕らずば一々に射殺さんずるぞ」
といひければ、水主梶取これを聞いて、
「射殺されんも同事、風強くば、只馳死に死ねや者共」
とて、二百余艘の舟の中に、ただ五艘出てぞ走りける。
残る船は風に恐るるか梶原に怖かして、皆留まりぬ。
判官のたまひけるは、
「人の出ねばとて留まるべきにあらず、ただの時は敵も用心すらむ。かかる大風大波に思ひも寄らぬ時におしよせてこそ思ふ敵を討たずれ」
とぞのたまひける。
五艘の船と申すは、まづ判官の船、田代の冠者、後藤兵衛父子、金子兄弟、淀江内忠俊とて、船奉行の乗ったる船なり。
判官のたまひけるは、
「各の船に篝な燃やそ。義経が船を本船として、艫舳の篝を守れや。火数多く見えば、敵も恐れて用心してんず」
とて終夜走る程に、三日に渡る所を、ただ三時計に渡りけり。
二月十六日の丑刻に、渡辺福島を出て、明くる卯の時に、阿波の地へこそ吹き著いたれ。
勝浦付大坂越
夜既に明ければ、なぎさに赤旗少々閃いたり。
判官、これを見て、
「あはや我等が祝設けはしたりけるは。舟平付につけ、踏傾けて馬下さんとせば、敵の的になって射られなんず。なぎさにつかぬ先に馬ども追ひ下し追ひ下し船に引きつけ引きつけ游せよ。馬の足立ち、鞍爪ひたるほどになればひたひたと乗って、駈よ者共」
とぞ下知せられける。
五艘の船に、物具入れ、兵粮米積んだりければ、馬ただ五十余疋ぞ立ったりける。
なぎさ近くなりしかば、ひたひたと打ち乗って、喚いてかくれば、渚に百騎許ありける者共、暫もこらへず、二町計颯と引いてぞのきにける。
判官汀に打ち立て、馬の息休めておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、
「あの勢の中に、然るべい者やある。一人召して参れ。尋ぬべき事あり」
とのたまへば、義盛畏まって承り、ただ一騎かたきの中へ馳入り何とかいひたりけん、年四十計なる男の、黒皮威の鎧著たるを、甲を脱がせ、弓の弦弛せて、具して参りたり。
判官、
「何者ぞ」
とのたまへば、
「当国の住人坂西の近藤六親家」
と申す。
「何家にてもあらばあれ、物具な脱がせそ。やがて八島の案内者に具せんずるぞ。その男に目放つな。逃て行かば射殺せ、者共」
とぞ下知せられける。
「爰をばいづくといふぞ」
と問はれければ
「かつ浦と申し候」
判官笑って、
「色代な」
とのたまへば、
「一定かつ浦候。下臈の申しやすいに付て、かつらとは申し候へども、文字には勝浦と書いて候」
と申す。
判官、
「これ聞きたまへ、殿原。軍しに向ふ義経が、勝浦に著く目出度さよ。この辺に、平家の後矢射つべい者はないか」
「阿波民部重能が弟、桜間介能遠とて候」
「いざさらば蹴散して通らん」
とて、近藤六が勢百騎許が中より、三十騎許すぐり出いて我勢にぞ具せられける。
能遠が城に押し寄って見れば、三方は沼、一方は堀。
堀の方より押し寄って、閧をどと作る。
城の中の兵共、矢先をそろへて指しつめ引きつめ散々に射る。
源氏の兵これを事ともせず。
甲の錣を傾けをめきさけんで責め入りければ、桜間介叶はじとや思ひけむ。
家子郎等に防矢射させ、我身は究竟の馬を持たりければ、打ち乗って稀有にして落ちにけり。
判官防矢射ける兵共二十余人が頸切り懸けて軍神に祭り、悦の鬨を作り、
「門出よし」
とぞのたまひける。
判官近藤六親家を召して、
「八島には平家の勢いかが程あるぞ」
「千騎にはよも過ぎ候はじ」
「など少いぞ」
「かくのごとく四国の浦々島々に五十騎百騎づつ指し置かれて候。その上阿波民部重能が嫡子、田内左衛門教能は、河野四郎が、召せども参らぬを責めんとて、三千余騎で伊予へ越えて候」
「さてはよい隙ごさんなれ。これより八島へはいか程の道ぞ」
「二日路で候」
「さらば敵の聞かぬ先に寄せよや」
とてかけ足になりつつ、歩ませつ、馳せつ、引きへつ、阿波と讃岐との境なる大坂越といふ山を終夜こそ越えられけれ。
夜半許に、立文持ったる男に行き連れて物語したまふ。
この男夜の事ではあり、敵さは夢にも知らず、御方の兵共の八島へ参ると思ひけるやらん、打ち解けて細々と物語をぞしける。
「その文はいづくへぞ」
「八島の大臣殿へ参り候」
「誰かまゐらせらるるぞ」
「京より女房の参らせられ候」
「何事なるらん」
とのたまへば、
「別の事はよも候はじ。源氏既に淀河尻に出で向うて候へば、それをこそ告げ申され候らめ」
「げにさぞあらん。これも八島へ参るが、いまだ案内を知らぬに、じんじよせよ」
とのたまへば、
「これは度々参りて候間、案内は存知して候。御供つかまつらん」
と申せば判官
「その文取れ」
とて、文奪ひ取らせ
「しやつからめよ。罪作に頸なきそ」
とて、山中の木に縛り付けてぞ通られける。
さて文を明けて見たまへば、げにも女房の文とおぼしくて、
「九郎はすずどき男士にて侍ふなれば、大風大波をも嫌はず寄せ侍らんと覚えさぶらふ。御勢ごも散々で用心せさせたまへ」
とぞ書かれたる。
判官
「これは義経に天の与へたまふ文なり。鎌倉殿に見せ申さん」
とて深う納めて置かれけり。
明くる十八日の寅刻に、讃岐国ひけ田と云ふ所に打下りて、人馬の息をぞ休めける。
それより丹生屋、白鳥、打ち過ぎ打ち過ぎ、八島の城へ寄せたまふ。
又近藤六親家を召して
「八島の館の様は、いかに」
と問ひたまへば、
「しろしめされぬばこそ候へ、無下に浅間に候。潮の干て候時は、陸と島この間は、馬の腹もつかり候はず」
と申せば
「さらばやがて寄せよや」
とて、高松の在所に火を懸け、八島の城へ寄せたまふ。
八島には、阿波民部重能が嫡子、田内左衛門教能、河野四郎が、召せども参らぬを責めんとて、三千余騎で伊予へ越えたりけるが、河野をば討ち漏して家子郎等百五十余人が首きって、八島の内裏へ参らせたり。
「内裏にて賊首の実検せられん事然るべからず」
とて、大臣殿の宿所にて実検せらる。
百五十六人が首なり。
頸ども実検しける処に、者共、
「高松の方に火出来たり」
とてひしめきあへり。
「昼で候へば手過ではよも候はじ。敵の寄せて火を懸けたると覚え候。定めて大勢でぞ候らん。取り籠られては叶ふまじ。とくとく召され候へ」
とて、惣門の前のなぎさに船共つけならべたりければ、我も我もと乗ったまふ。
御所の御船には、女院北政所二位殿以下の女房達召されけり。
大臣殿父子は、一つ船に乗ったまふ。
その外の人々思ひ思ひに取り乗って、或は一町許、或は七八段、五六段など漕ぎ出したる処に、源氏の兵共、直甲七八十騎、惣門の前のなぎさにつと出来たり。
潮干がたの折節潮干る盛なれば、馬の烏頭、太腹に立つ所もあり。
それより浅き所もあり。
け上る潮の霞と共にしぐらうたる中より、白旗さと差し上げたれば、平家は運尽きて、大勢とこそ見てんげれ。
判官敵に小勢と見せじとて、五六騎七八騎十騎許、打ち群れ打ち群れ出来たり。
嗣信最期
九郎大夫判官その日の装束には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧著て、金作の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓の真中取って、船の方を睨へ、大音声を上げて、
「一院の御使、検非違使五位尉源義経」
と名乗る。
その次に伊豆国住人田代冠者信綱、武蔵国住人金子十郎家忠、同与一親範、伊勢三郎義盛とぞ名乗ったる。
続いて名乗るは、後藤兵衛実基、子息新兵衛基清、奥州佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶と声々に名乗ってはせ来る。
平家の方には、
「あれ射取れや」
とて、或は遠矢に射る船もあり、或は差矢に射る船もあり。
源氏の兵共、弓手になしては射て通り、馬手になしては射て通り、上げ置いたる船の陰を、馬休め所にして、をめき叫んで責め戦ふ。
後藤兵衛実基は、古兵にてありければ、軍をばせず、まづ内裏に乱入、手々に火を放って、片時の煙と焼き払ふ。
大臣殿侍どもを召して
「抑源氏が勢いかが程あるぞ」
「当時僅に七八十騎こそ候らめ」
と申す。
「あな心憂や。髪の筋を一筋づつ分けて取るとも、この勢には足らまじかりけるものを。中に取り籠め討すして、あわてて、船に乗って、内裏を焼かせつる事こそ安からね。能登殿はおはせぬか。陸へ上って一軍したまへ」
とのたまへば
「承って候ぬ」
とて、越中次郎兵衛盛次を相具して小船に取り乗って焼き払ひたる惣門のなぎさに陣を取る。
判官八十余騎、矢比に寄って引きへたり。
越中次郎兵衛盛次舟の面に立ち出で大音声を揚げて申しけるは、
「名乗れつるとは聞きつれども、海上遙に隔たてその仮名実名分明ならず。今日の源氏の大将軍は誰人におはしますぞ」
伊勢三郎義盛歩ませ出て申しけるは、
「事も愚かや、清和天皇十代の御末、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿ぞかし」
盛次
「さる事あり。一年平治の合戦に、父討たれて孤にてありしが、鞍馬の児にて、後には金商人の所従になり、粮料背負ひて奥州へ落惑ひし小冠者が事か」
とぞ申したる。
義盛、
「舌のやはらかなる儘に、君の御事な申そ。さいふわ人どもは、砥浪山の軍に追ひ落されて辛き命生きて、北陸道にさまよひ、乞食して泣く泣く京へ上りたりし者か」
とぞ申しける。
盛次重ねて申しけるは、
「君の御恩に飽き満ちて、何の不足にてか、乞食をばすべき。さ言ふわどのこそ、伊勢の鈴鹿山にて山だちして、妻子をも養ひ、我身も過ぎけるとは聞きしか」
といひければ、金子十郎家忠
「無益の殿原の雑言かな。我も人も虚言いひつけて雑言せんには誰か劣るべき。去年の春、一谷にて、武蔵相模の若殿原の手なみの程は見てん物を」
と申す所に弟の与一傍にありけるが、言はせも果てず、十二束二ぶせよひいてひやうと放つ。
盛次が鎧の胸板に、裏掻く程にぞ立ったりける。
その後は互ひに詞戦はとまりにけり。
能登守教経
「船軍はやうある物ぞ」
とて鎧直垂は著きたまはず、唐巻染の小袖に、唐綾威の鎧著て、いか物作の大太刀帯き、二十四差たるたかうすべうの矢負ひ、滋籐の弓を持ちたまへり。
王城一つの強弓精兵にておはせしかば、矢先に廻る者、射透さずと云ふ事なし。
中にも九郎大夫判官を射倒さむとねらはれけれども、源氏の方にも心得て、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同じき四郎兵衛忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶など云ふ一人当千の兵共、吾も吾もと馬の首を立て並べて大将軍の矢面に塞がりければ、力及びたまはず。
「矢面の雑人原そこのきたまへ」
とて、差し詰引き詰散々に射たまへば、矢場に鎧武者十余騎計射落さる。
中にも真先に進んだる奥州の佐藤三郎兵衛が弓手の肩を馬手の脇へつと射抜かれて、暫もたまらず、馬より、倒さにどうと落つ。
能登殿の童に、菊王と云ふ大力の剛の者あり、萌黄威の腹巻に、三枚甲の緒をしめて、白柄の長刀の鞘を外し、三郎兵衛が首を取らんと、走りかかる。
佐藤四郎兵衛兄が頸を取らせじと、よ引いてひやうと射る。
童が腹巻の引合せをあなたへつと射ぬかれて、犬居に倒れぬ。
能登守これを見て、急いで舟より飛んで下り、左の手に弓を持ちながら、右の手で菊王丸を提げて、船へからりと投げられたれば、敵に頸は取られねども、痛手なれば死にけり。
これは、本は越前の三位の童なりしが、三位討たれて後、弟の能登守に仕はれけり。
生年十八歳にぞなりける。
この童を討たせて、あまりに哀に思はれければ、その後は軍もしたまはず。
判官は佐藤三郎兵衛を陣の後へ舁き入れさせ、馬より下り、手をとらへて、
「三郎兵衛いかが覚ゆる」
とのたまへば、息の下に申しけるは、
「今はかうと存じ候」
「思ひ置く事はなきか」
とのたまへば、
「何事をか思ひ置く候べき。君の御世に渡らせたまはんを見参らせで、死に候はん事こそ口惜う覚え候へ。さ候はでは、弓箭取るものの、敵の矢にあたり死なん事、本より期する所で候なり。就中に源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信と云ひける者、讃岐国八島の磯にて、主の御命に替り奉て討たれけりと、末代の物語に申さん事こそ弓矢取る身は今生の面目、冥途の思ひ出にて候へ」
と申すもあへず、ただ弱りに弱りにければ、判官涙をはらはらと流し、
「この辺に貴き僧やある」
とて、尋ね出し、
「手負のただ今落入りに、一日経書いて弔へ」
とて、黒き馬の太う逞しうに、金覆輪の鞍置きて、彼僧にたびにけり。
判官五位尉になられし時、五位になして、大夫黒と呼ばれし馬なり。
一谷の鵯越をもこの馬にてぞ落されたりける。
弟の四郎兵衛を始めとして、これを見る兵共、皆涙をながし、
「この君の御為に命を失はん事、全く露塵程も、惜しからず」
とぞ申しける。
那須与一
さる程に、阿波讃岐に平家を背いて、源氏を待ちける者共、あそこの嶺、ここの洞より、十四五騎二十騎、うちつれうちつれ参りければ、判官程なく三百余騎にぞなりにける。
「今日は日暮れぬ、勝負を決すべからず」
とて、引き退く処に、沖の方より尋常に飾りたる小船一艘、汀へ向ひて漕よせけり。
磯へ七八段ばかりになしかば、船を横様になす。
あれはいかにと見る程に、船の中より、年の齢十八九ばかりなる女房のまことに優に美しきが、柳の五衣に、紅の袴著て皆紅の扇の日出したるを、船のせがひに挾み立て、陸へ向ってぞ招いたる。
判官後藤兵衛実基を召して、
「あれはいかに」
とのたまへば、
「射よとにこそ候めれ。ただし大将軍の矢面に進んで、傾城を御覧ぜば手だれにねらうて、射落せとの計ごとと覚え候。左も候へ。扇をば射させらるべうや候らん」
と申す。
「射つべき仁は御方に誰かある」
とのたまへば、
「上手ども幾等も候中に、下野国の住人、那須太郎資高が子に与一宗高こそ、小兵で候へども、手ききて候へ」
「証拠はいかに」
とのたまへば、
「かけ鳥などを争うて、三に二は必射落す者で候」
「さらば召せ」
とて召されたり。
与一そのころは二十許の男士なり。
かちに赤地の錦を以て、おほくびはた袖色へたる直垂に、萌黄威の鎧著て、足白の太刀を帯き、切斑の矢のその日の軍に射て少々残ったりけるを首高に負ひなし薄切斑に鷹の羽作り交ぜたるぬた目の鏑をぞ指し副へたる。
滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、判官の前に畏まる。
「いかに宗高、あの扇の真中射て平家に見物せさせよかし」
与一畏まって申しけるは、
「射おほせ候はん事不定に候。射損じ候なば、ながき御方の御瑕にて候べし。一定仕らんずる仁におほせ付けらるべうや候らん」
と申す。
判官大いに怒って、
「鎌倉を立て、西国へ趣かん殿原は、義経が命を背くべからず。少しも仔細を存ぜん人は、とうとうこれより帰るべし」
とぞのたまひける。
与一重ねて辞せば悪かりなんとや思ひけん、
「外れんは知り候はず、御諚で候へば仕ってこそ見候はめ」
とて、御前を罷り立ち、黒き馬の太う逞しうに、小房の鞦かけ、まろほや摺りたる鞍置きてぞ乗ったりける。
弓取り直し、手綱かいくり、汀へ向いて歩ませければ、御方の兵共後を遙に見送りて、
「この若者一定仕り候ぬと覚え候」
と申しければ、判官も憑もし気にぞ見たまひける。
矢比少し遠かりければ、海へ一段ばかり打ち入れたれども、なほ扇の交ひ、七段ばかりはあるらんとこそ見えたりけれ。
ころは二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風烈しくて、磯打浪も高かりけり。
船はゆりあげゆり居ゑただよへば、扇も串に定まらずひらめいたり。
沖には平家船を一面に並べて見物す。
陸には源氏轡を並べて、これを見る。
いづれもいづれも晴ならずと云ふ事ぞなき。
与一目を塞いで、
「南無八幡大菩薩、別しては我国の神明、日光権現宇都宮、那須湯泉大明神、願はくは、あの扇の真中射させてたばせたまへ。これを射損ずる物ならば、弓伐り折り自害して、人に二度面を向ふべからず。今一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな」
と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇もいよげにぞなったりける。
与一鏑を取って番ひ、よ引いてひやうと放つ。
小兵と云ふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦響く程長鳴りして、あやまたず扇の要際一寸許置いて、ひふつとぞ射切ったる。
鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ挙がりける。
暫は虚空に閃めきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさとぞ散りたりける。
夕日の輝いたるに皆紅の扇の日出したるが白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬゆられければ、沖には平家ふなばたを扣いて感じたり。
陸には源氏箙を扣いてどよめきけり。
弓流
余りの面白さに、感に堪へざるにやと覚しくて船の中より、年五十許なる男の、黒革威の鎧著て白柄の長刀持ったるが、扇立ったりける所に立てまひすましたり。
伊勢三郎義盛、与一が後へ歩ませ寄って、
「御諚ぞ、仕れ」
と云ひければ、今度は中差取りて打くはせ、よ引いてしや頸の骨をひやうふつと射て船底へまさかさまに射倒す。
平家の方には音もせず、源氏の方には又箙を扣いて、どよめきけり。
「あ射たり」
といふ人もあり、又
「情なし」
と云ふ者もあり。
平家これを本意なしとや思ひけん、楯ついて一人、弓持って一人、長刀持って一人、武者三人なぎさにあがり、楯を衝いて
「敵寄せよ」
とぞ招いたる。
判官、
「あれ、馬強からん若党共、馳せ寄せて蹴散せ」
とのたまへば、武蔵国の住人、三穂屋四郎、同藤七、同十郎、上野国の住人、丹生の四郎、信濃国の住人、木曽の中次、五騎つれて、をめいて駈く。
楯の影より、塗篦に、黒ほろ作ったる大の矢をもて、真先に進んだる三穂屋の十郎が馬の左の胃懸づくしを、ひやうづばと射て箆の透る程ぞ、射籠めたる。
屏風を返す様に、馬はどうと倒るれば、主は馬手の足をこえ弓手の方へ下り立て、跳んで大刀をぞ抜きたりける。
楯の陰より、大長刀打ち振って懸りければ、三穂屋の十郎、小大刀大長刀に叶はじとや思ひけむ、かいふいて逃げければ、跳んで続いて追ひ懸けたり。
長刀でなぎんずるかと見る処に、さはなくして、長刀をば左の脇にかい挾み、右の手を差し延べて、三穂屋十郎が甲のしころをつかまむとす。
つかまれじとはしる。
二度つかみはづいて、四度の度むずとつかむ。
暫したまって見えし。
鉢附の板よりふつと引き切ってぞ逃げたりける。
残る四騎は、馬を惜しうでかけず、見物してこそ居たりけれ。
三穂屋十郎は、御方の馬の陰に逃げ入って、息続き居たり。
敵は追っても来で長刀杖につき、甲のしころを指し上げ、大音声を上げて
「日ごろは音にも聞きつらん。今は目にも見たまへ。これこそ京童部の喚なる上総悪七兵衛景清よ」
と名乗り棄てぞ帰りける。
平家これに心地なほして、
「悪七兵衛討たすな。続けや者共」
とて又二百余人なぎさに上り、楯を雉羽につき並べて
「敵寄せよ」
とぞ招いたる。
判官これを見て
「安からぬ事なり」
とて、後藤兵衛父子、金子兄弟を先に立て、奥州の佐藤四郎兵衛、伊勢三郎を弓手馬手に立て、田代冠者を後に立てて、八十余騎をめいてかけたまへば、平家の兵ども、馬には乗らず、大略歩武者にてありければ、馬に当られじと引き退いて、皆船へぞ乗りける。
楯は算を散らしたる様に、散々に蹴散らさる。
源氏の兵共勝に乗って、馬の太腹ひたる程に、打ち入れ打ち入れ責め戦ふ。
判官深入して戦ふ程に船の中より熊手を持って、判官の甲の錣に、からりからりと二三度まで打ち懸けるを、御方の兵共、大刀長刀で打ちのけ打ちのけしける程に、いかがしたりけん、判官弓をかけ落されぬ。
うつぶして鞭をもて掻き寄って、取らう取らうとしたまへば、兵共、
「ただ捨てさせたまへ」
と申しけれども、つひに取って、笑うてぞ帰られける。
おとな共、爪弾をして、
「口惜しき御事候かな。縦千疋万疋に替へさせたまふべき御宝なりとも、いかが御命に替へさせたまふべき」
と申せば、判官、
「弓の惜しさに取らばこそ。義経が弓といはば、二人しても張り、若は三人しても張り、伯父の為朝が弓の様ならば、態と落して取らすべし。尫弱たる弓を、敵取り持って、『これこそ源氏の大将九郎義経が弓よ』とて嘲哢せんずるが口惜しければ、命に代へて取るぞや」
とのたまへば、皆人これをぞ感じける。
さる程に日暮れければ、平家の船は沖に浮かめば源氏は陸に引き退いて、むれ高松の中なる野山に、陣をぞ取りたりける。
源氏の兵共、この三日が間は臥さざりけり。
一昨日渡辺福島を出づるとて、その夜大浪にゆられて目睡らず、昨日阿波国勝浦にて軍して終夜中山越え、今日又一日戦ひくらしたりければ、皆疲れ果てて或は甲を枕にし、或は鎧の袖、箙など枕にして、前後も知らず臥したりけり。
その中に、判官と伊勢三郎は寝ざりけり。
判官は高き所に登り上って、敵や寄ると遠見したまへば、伊勢三郎はくぼき所に隠れ居て、敵寄せば、まづ馬の太腹射んとて待ち懸けたり。
平家の方には、能登守を大将にて、その勢五百余騎夜討にせんと支度しけれども、越中次郎兵衛盛次と、海老次郎守方と先陣を争ふ程に、その夜も空しくあけにけり。
夜討にだにもしたらば源氏なじかはたまるべき。
寄せざりけるこそ、責めての運の究めなれ。
志度合戦
明ければ、平家舟に取り乗って当国志度浦へ漕ぎ退く。
判官三百余騎が中より馬や人をすぐって八十余騎、追ってぞかかりける。
平家これを見て、
「敵は小勢なり。中に取り籠めて討や」
とて、又千余人なぎさに上りをめき叫んで責め戦ふ。
さる程に、八島に残留まったる二百余騎の兵共、後馳に馳せ来る。
平家これを見て、
「すはや源氏の大勢の続くは。何十万騎かあるらん。取り籠られては叶ふまじ」
とて又船に取り乗って潮に引かれ風に随って、いづくを指すともなく、落ち行きぬ。
四国は皆大夫判官に追ひ落されぬ、九国へは入られず、ただ中有の衆生とぞ見えし。
判官志度浦に下り居て、頸共実検しておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、のたまひけるは、
「阿波民部重能が嫡子、田内左衛門教能は河野四郎通信が、召せども参らぬを責めんとて、三千余騎にて、伊予へ越えたりけるが、河野をば打ち泄して家子郎等百五十人が頸斬って昨日八島の内裏へ参らせたりけるが、今日これへ著くときく。汝行き向って、ともかくもこしらへて具して参れかし」
とのたまへば、畏まって承り、旗一流たまはってさす儘に、その勢僅に十六騎、皆白装束にて馳せ向ふ。
義盛教能に行き合ったり。
白旗赤旗、二町許を隔ててゆらへたり。
伊勢三郎義盛使者を立て申しけるは
「これは源氏の大将軍九郎大夫判官殿の御内に、伊勢三郎義盛と申す者で候が、大将に申すべき事あって、これまで罷り向って候。軍合戦の料でも候はねば、物具もし候はず、弓矢ももたせ候はず、あけて入らせたまへ」
と申しければ、三千余騎の兵共、中を開いてぞ通しける。
義盛教能に打ち並べて、
「かつ聞きたまひてもあるらん、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿院宣を承って、平家追討の為に、西国へ向はせたまひて候が、一昨日阿波国勝浦にて、御辺の伯父桜間介殿討たれたまひぬ。昨日八島に寄せて御所内裏皆焼き払ひ、大臣殿父子生捕にし奉り能登殿は自害したまひぬ。その外の君達或は討ち死にに或は海に入りたまひぬ。余党の僅にありつるは志度の浦にて、皆討たれぬ。御辺の父阿波民部殿は、降人に参らせたまひて候を、義盛が預り奉て候が、あはれ田内左衛門がこれをば夢にも知らで、明日は軍して討たれ参らせんずる無慚さよと、通夜嘆きたまふが、あまりに最愛てこの事知らせ奉らんとてこれまで罷り向って候。その上は軍して討ち死にせんとも降人に参りて父を今一度見奉らんともともかうも御辺が計ぞ」
といひければ、田内左衛門、聞こゆる兵なれども運や尽きにけん。
「かつ聞く事に少しも違はず」
とて、甲を脱ぎ弓の弦を弛いて、郎等にもたす。
大将がかやうになる上は、三千余騎の兵ども皆この如し。
僅に十六騎に具せられ、おめおめと降人にこそ参りけれ。
「義盛が策まことにゆゆしかりけり」
と判官も感じたまひけり。
やがて田内左衛門をば物具めされて、伊勢三郎に預けらる。
「さてあの勢共はいかに」
とのたまへば、
「遠国の者共は誰を誰とか思ひ参らせ候べき。ただ世の乱れをしづめて国をしろしめさんを君とせん」
と申しければ、尤然るべしとて、三千余騎を、皆我勢にぞ具せられける。
同じき二十二日辰の刻ばかり渡辺に残り留まったる二百余艘の船共、梶原を先として、八島の磯にぞ著きにける。
「四国は皆九郎大夫判官に攻め落されぬ。今は何の用にか逢ふべき。会に逢はぬ華、六日の菖蒲、いさかひ果てのちぎりかな」
とぞ笑ひける。
判官都を立てたまひて後住吉の神主長盛、院の御所へ参りて、大蔵卿泰経朝臣を以て奏聞しけるは、
「去十六日の丑刻に当社第三の神殿より鏑矢の声出て、西を指して罷り候ぬ」
と申しければ、法皇大いに御感あって、御剣已下種々の神宝を長盛して大明神へまゐらせらる。
昔神功皇后、新羅を責めたまひし時、伊勢大神宮より、二神のあらみさきを差し副させたまひけり。
二神御船の艫舳に立て、新羅を安く責め落されぬ。
帰朝の後、一神は摂津国住吉の郡に留まりたまふ。
住吉大明神の御事なり。
今一神は信濃国諏訪の郡に跡を垂る。
諏訪大明神これなり。
昔の征罰の事を、おぼしめし忘れず今も朝の怨敵を滅したまふべきにやと、君も臣も憑もしうぞおぼしめされける。
鶏合 壇浦合戦
さる程に、九郎大夫判官義経周防の地に押し渡って、兄の参河守と一になる。
平家は長門国ひく島にぞつきにける。
源氏阿波国勝浦に著て八島の軍に打ち勝ちぬ。
平家引島に著と聞こえしかば、源氏は同国の内、追津に著こそ不思議なれ。
熊野別当湛増は、平家重恩の身なりしが、たちまちにその恩を忘れて
「平家へや参るべき、源氏へや参るべき」
とて、田辺の新熊野にて御神楽奏して、権現に祈誓し奉る。
「ただ白旗につけ」
と御託宣ありけるを、なほ疑ひなして白き鶏七、赤き鶏七、これを以て権現の御前にて勝負をせさす。
赤き鶏一つも勝たず皆負けてけり。
さてこそ源氏へ参らんと思ひ定めけれ。
一門の者共相催し、都合その勢二千余人、二百余艘の船に乗り連れて、若王子の御正体を船に乗せ参らせ、旗の横上には、金剛童子を書き奉って、壇浦へ寄するを見て、源氏も平家も共にをがむ。
されども源氏の方へ付ければ、平家興覚めてぞ思はれける。
又伊予国の住人、河野四郎通信、百五十艘の兵船に乗り連れて漕ぎ来り、源氏と一つになりにけり。
判官旁憑もしう力ついてぞ思はれける。
源氏の船は三千艘、平家の船は千余艘、唐船少々相交れり。
源氏の勢は重なれば、平家の勢は落ちぞ行く。
元歴二年三月二十四日卯刻に、豊前の国の門司赤間関にて、源平矢合とぞ定めける。
その日判官と梶原と既に同志軍せんとする事あり。
梶原、判官に申しけるは
「今日の先陣をば、景時にたび候へ」
判官、
「義経がなくばこそ」
とのたまへば、
「大将軍にてこそ在々候へ」
と申しければ、判官、
「思ひも寄らず、鎌倉殿こそ大将軍よ。義経は奉行を承ったる身なれば、ただ殿原と同事ぞ」
とのたまへば。
梶原、先陣を所望しかねて、
「天性この殿は侍の主にはなり難し」
とぞつぶやきける。
判官、これを聞き
「日本一つの嗚呼の者かな」
とて、太刀の柄に手をかけたまふ。
梶原
「鎌倉殿より外に主を持たぬ者を」
とて、これも太刀の柄に手を懸けり。
さる程に嫡子の源太景季、次男平次景高、同三郎景家、父と一所に寄り合うたり。
判官の気色を見て、奥州佐藤四郎兵衛忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶など云ふ一人当千の兵共、梶原を中に取り籠めて、我討とらんとぞ進みける。
されども判官には三浦介取付き奉り、梶原には土肥次郎つかみつき、両人手を摺って申しけるは、
「これ程の大事を前にかかへながら、同士軍候はば平家力付き候なんず。就中、鎌倉殿の還り聞かせたまはん処こそ穏便ならず候へ」
と申せば、判官静まりたまひぬ。
梶原進むに及ばず。
それよりして、梶原、判官を憎みそめてつひに讒言して失ひけるとぞ、後には聞こえし。
さる程に源平両陣の交ひ海の面三十余町をぞ隔たる。
門司、赤間、壇の浦は、たぎりて落つる潮なれば、源氏の船は潮に向うて心ならず押し落さる。
平家の船は潮に追うてぞ出来たる。
沖は潮の早ければ、汀に付いて、梶原敵の船の行き違ふ処に、熊手を打ち懸けて、親子主従十四五人、乗り移り、打物抜いで艫舳に散々にないで廻り、分捕数多して、その日の高名の一の筆にぞ付きにける。
既に、源平両方陣を合せて鬨を作る。
上は梵天までも聞こえ、下は海竜神も驚くらんとぞ覚えける。
新中納言知盛卿、船の屋形に立ち出で、大音声を上げて、のたまひけるは、
「軍は今日で限る。者共少しも、しりぞく心あるべからず。天竺震旦にも、日本吾朝にも、双なき名将勇士と云へども、運命尽きぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ、東国の者共に弱気見ゆな、いつの為に命をば惜しむべき。ただこれのみぞ思ふ事」
とのたまへば、飛騨三郎左衛門景経御前に候ひけるが、
「これ承れ、侍共」
とぞ下知しける。
上総悪七兵衛進み出でて申しけるは、
「坂東武者は、馬の上でこそ口はきき候とも、船軍にはいつ調練し候べき。縦へば魚の木に上ったるでこそ候はんずれ。一々に取って海につけ候はん」
とぞ申したる。
越中の次郎兵衛申しけるは、
「同じくは大将軍の源九郎に組みたまへ。九郎は色白うせい小さきが、向歯の殊に差し出でてしるかんなるぞ。ただし直垂と鎧を常に著替なれば、きと見分難かんなり」
とぞ申しける。
上総悪七兵衛申しけるは
「心こそ猛くともその小冠者何程の事かあるべき。片脇に挾さんで、海へ入れなん物を」
とぞ申したる。
新中納言はかやうに下知したまひ、大臣殿の御まへに参りて、
「今日は侍共景色よう見え候。但阿波民部重能は、心変したると覚え候。首をはね候はばや」
と申されければ、大臣殿、
「見えたる事もなうていかが頸をば切るべき。指しも奉公の者であるものを」
「重能参れ」
とて召しければ木蘭地の直垂に、洗革の鎧著て、御前に畏まって候。
「いかに重能は心替したるか。今日こそ悪う見ゆるぞ。四国の者共に、軍好うせよと下知せよかし。臆したるな」
とのたまへば、
「なじかは臆し候ふべき」
とて御前を罷り立つ。
新中納言
「あはれきやつが頸を打ち落さばや」
とおぼしめし、太刀のつかも砕けよと握って大臣殿の御方を頻に見たまひけれども、御許されなかれば、力及ばず。
平家は千余艘を三手に作る。
山賀の兵藤次秀遠五百余艘で先陣に漕ぎ向ふ。
松浦党三百余艘で二陣に続く。
平家の君達二百余艘にて三陣に続きたまふ。
兵藤次秀遠は、九国一番の精兵にてありけるが我程こそなけれ共、普通ざまの精兵共五百人をすぐって、舟々の艫舳に立て、肩を一面に比べて、五百の矢を一度に放つ。
源氏は三千余艘の船なれば勢の数、さこそ多かりけめども、処々より射ければいづくに精兵ありとも見えず。
大将軍九郎大夫判官真先に進んで戦ふ。
楯も鎧もこらへずして、散散に射しらまさる。
平家御方勝ちぬとて、頻に攻め皷打って悦の鬨をぞ作りける。
遠矢
源氏の方にも和田小太郎義盛、船には乗らず、馬に打ち乗ってなぎさに引きへ、甲をば脱いで人にもたせ、鐙の鼻蹈みそらし、よ引いて射ければ、三町が内との物は外さずつよう射けり。
その中に殊に遠う射たると覚しきを、
「その矢たまはらん」
とぞ招いたる。
新中納言これを召し寄せて見たまへば、白篦に鶴の本白、こうの羽を破り合せて作ったる矢の十三束二伏有に、沓巻より一束計おいて、和田小太郎平義盛と、漆にてぞ書き付けたる。
平家の方に精兵多しといへども、さすが遠矢射る者は少なかりけるやらん、稍久しうあって、伊予国の住人仁井紀四郎親清召し出され、この矢をたまはって射返す。
これも沖よりなぎさへ三町余をつと射渡して、和田小太郎が、後一段あまりに引きへたる三浦の石田左近太郎が弓手のかひなにしたたかにこそ立ったりけれ。
三浦の人共これを見て、
「和田小太郎が、我に過ぎて遠矢射る者なしと思ひて恥かいたるをかしさよ。あれを見よ」
とぞ笑ひける。
和田小太郎これを聞き、
「やすからぬ事なり」
とて小舟に乗って漕ぎ出させ、平家の勢の中を差し詰め引き詰め散々にいければ多くの者共射殺され手負ひにけり。
又判官の乗ったまへる船に、沖より白篦の大矢を一つ射立てて、和田が様に
「こなたへたまはらん」
とぞ招いたる。
判官この矢を抜かせて見たまへば、白篦に山鳥の尾を以て作ったりける矢の、十四束三伏あるに、伊予国の住人仁井紀四郎親清とぞ書き付けたる。
判官後藤兵衛実基を召して、
「この矢射つべき者の御方に誰かある」
とのたまへば
「甲斐源氏に阿佐里与一殿こそ、精兵にてましまし候へ」
「さらば呼べ」
とて呼ばれければ、阿佐里の与一出来たり。
判官のたまひけるは、
「沖よりこの矢を射て候が、射返せと招き候。御辺あそばし候なんや」
「たまはって見候はん」
とて、爪よって、
「これは篦が少し弱う候。矢束もちと短う候。同じうは義成が具足にて仕り候はん」
とて、塗籠籐の弓の九尺計あるに、塗篦に黒ほろはいだる矢の、我大手に押し握って十五束ありけるをうちくはせ、よ引いてひやうと放つ。
四町余をつと射渡して、大船の舳に立ったる仁井紀四郎親清が真正中をひやうづばと射て、船底へ逆様に射倒す。
死生をばしらず。
阿佐里与一は、本より精兵の手ききなり。
二町に走る鹿をば、外さず射けるとぞ聞こえし。
その後源平、戦に命を惜しまずをめき叫んで攻め戦ふ。
何れ劣れりとも見えず。
されども、平家の方には、十善帝王三種の神器を帯して渡らせたまへば、源氏いかがあらんずらんとあぶなう思ひけるに、暫は白雲かと覚しくて、虚空に漂ひけるが、雲にてはなかりけり、主もなき白旗一流舞ひ下って、源氏の船の舳に、竿付の緒のさはる程にぞ見えたりける。
判官、
「これは八幡大菩薩の現じたまへるにこそ」
と悦んで、手水嗽をして、これを拝し奉る。
兵共皆このごとし。
又源氏の方より江豚といふ魚、一二千這うて、平家の方へぞ向ひける。
大臣殿これを御覧じて小博士晴信を召して、
「江豚は常に多けれども、未だかやうの事なし。いかがあるべきと勘へ申せ」
とおほせられければ
「この江豚見かへり候はば、源氏滅び候べし。はうて通り候はば、御方の御軍危う候」
と申すも果てねば、平家の船の下を、直にはうて通りけり。
「世の中は今はかう」
とぞ申したる。
阿波民部重能は、この三箇年が間、平家によくよく忠を尽くし、度々の合戦に命を惜しまず防ぎ戦ひけるが、子息田内左衛門を生捕にせられて、いかにも叶はじとや思ひけん、たちまちに心替りして、源氏に同心してんげり。
平家の方にははかりごとに、よき人をば兵船に乗せ、雑人共を唐船に乗せて、源氏心にくさに唐船を攻めば、中に取り籠めて討たんと支度せられたりけれども、阿波民部が回忠の上は、唐船には目も懸けず、大将軍のやつし乗りたまへる兵船をぞ攻めたりける。
新中納言
「やすからぬ、重能めを切って棄つべかりつるものを」
と千たび後悔せられけれども叶はず。
さる程に四国鎮西の兵共、皆平家を背いて、源氏に付く。
今まで従ひ著たりし者共も君に向って弓を引き、主に対して太刀を抜く。
彼岸につかんとすれば、波高して叶ひ難し。
この汀に寄らんとすれば、敵箭鋒を汰へて待ち懸けたり。
源平の国争、今日を限りとぞ見えたりける。
先帝身投
源氏の兵共既に平家の船に乗り移りければ、水主梶取共、射殺され、切り殺されて船を直すに及ばず、船底に倒れ伏しにけり。
新中納言知盛卿、小船に乗って、御所の御船に参り、
「世の中はいまはかうと見えて候。見苦しからん物共皆海へ入らせたまへ」
とて艫舳に走り廻り、掃いたり拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。
女房達、
「中納言殿、軍はいかに」
と口々に問ひたまへば、
「めづらしき東男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ」
とて、からからと笑ひたまへば、
「何条の只今の戲れぞや」
とて、声々にをめき叫びたまひけり。
二位殿はこの有様を御覧じて日ごろおぼしめし設けたる事なれば、にぶ色の二衣打ち覆き、練袴の傍高く挾み、神璽を脇に挾み、宝剣を腰にさし、主上を抱き奉て、
「我身は女なりとも、敵の手にはかかるまじ。君の御供に参るなり。御志思ひ参らせたまはん人々は、急ぎ続きたまへ」
とて舟端へ歩み出られけり。
主上は今年は八歳になせたまへども御年の程より遙にねびさせたまひて、御容美しくあたりも照り輝くばかりなり。
御ぐし黒う優々として御せなかすぎさせたまへり。
あきれたる御様にて、
「尼ぜ、我をばいづちへ具してゆかんとするぞ」
とおほせければ、幼き君に向ひ奉り涙を押へて申されけるは、
「君は未だしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御力に依って、今万乗の主と生れさせたまへども、悪縁に引かれて、御運既に尽きさせたまひぬ。まづ東に向はせたまひて、伊勢大神宮に御暇申させたまひ、その後西方浄土の来迎に預らむとおぼしめし、西に向はせたまひて御念仏候ふべし。この国は粟散辺地とて、心憂き境にてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」
と泣く泣く申させたまへば、山鳩色の御衣にびんづら結はせたまひて、御涙におぼれ、小さく美しき御手を合せてまづ東を伏し拝み、伊勢大神宮に御暇申させたまひ、その後西に向はせたまひて、御念仏ありしかば、二位殿やがて抱き奉り、
「浪のしたにも、都のさぶらふぞ」
と慰め奉て千尋の底へぞ入りたまふ。
悲しきかな、無常の春の風、たちまちに華の御容を散らし、無情かな、分段の荒き浪、玉体を沈め奉る。
殿をば長生と名付けて長き棲みかと定め、門をば不老と号して、老いせぬとざしとかきたれども、未だ十歳の内にして、底の水くづとならせたまふ。
十善帝位の御果報、申すも中々愚なり。
雲上の竜降りて、海底の魚となりたまふ。
大梵高台の閣の上、釈提喜見の宮の内、古は槐門棘路の間に九族を靡かし、今は舟の中波の下に、御命を一時に亡したまふこそ悲しけれ。
能登殿最期
女院はこの御有様を御覧じて、御焼石、御硯左右の御懐に入れて、海へ入らせたまひたりけるを、渡辺党に源五馬允昵誰とは知り奉らねども、御髪を熊手に懸けて、引き上げ奉る。
女房達、
「あな浅まし、あれは女院にて渡らせたまふぞ」
と声々口々に申されければ、判官に申して急ぎ御所の御舟へわたし奉る。
大納言佐殿は、内侍所の御唐櫃をもて、海へ入らんとしたまひけるが、袴の裾を舟端にいつけられ、蹴纏ひて倒れたまひたりけるを、兵ども取り留め奉る。
さて武士共内侍所の御唐櫃の鎖をねぢ切って、既に御蓋を開かんとすればたちまちに目くれ鼻血垂る。
平大納言、生捕にせられておはしけるが、
「あれは内侍所の渡らせたまふぞ。凡夫は見奉らぬ事ぞ」
とのたまへば、兵共みなのきにけり。
その後判官平大納言に申し合せて、本の如く緘げ納め奉る。
さる程に門脇平中納言教盛卿、修理大夫経盛、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取り組んで海へぞ入りたまひける。
小松の新三位中将資盛、同少将有盛、従弟左馬頭行盛、手に手を取り組んで一所に沈みたまひけり。
人々はかやうにしたまへども、大臣殿父子は海に入らんずる気色もおはせず、舟端に立ち出でて四方見回し、あきれたる様にておはしけるを、侍共あまりの心憂さに、そばを通る様にて、大臣殿を海へつき入れ奉る。
右衛門督これを見てやがて飛び入りたまひけり。
皆人は、重き鎧の上に重き物を負うたり抱いたりして入ればこそ沈め。
この人親子はさもしたまはぬ上に、究竟の水練にておはしければ、沈みもやりたまはず。
大臣殿は
「右衛門督沈まば我も沈まむ、助かりたまはば我も助らむ」
と思ひたまふ。
右衛門督も
「父沈みたまはば吾も沈まむ、助かりたまはば我もたすからむ」
と思ひて、互ひに目を見かはし游ぎありきたまふ程に、伊勢三郎義盛、小船をつと漕ぎ寄せ、まづ右衛門督を、熊手に懸けて引き上げ奉る。
大臣殿、これを見ていよいよ沈みもやりたまはねば同う取り奉てけり。
大臣殿の御乳母子飛騨三郎左衛門景経、小船に乗って、義盛が船に乗り移り
「吾君取り奉るは何者ぞ」
とて大刀を抜いで走りかかる。
義盛既にあぶなう見えけるを、義盛が童、主を討たせじと中に隔たり、景経に打ってかかる。
景経が打つ大刀に、義盛が童は甲の真甲打ち破れて、二の大刀に頸打ち落されぬ。
義盛なほあぶなう見えけるを、並の船より、堀弥太郎親経、よ引いてひやうと射る。
景経内甲を射させてひるむ処を、堀弥太郎、義盛が船に乗り移って、三郎左衛門に組んで伏する。
堀が郎等主に続いて乗り移り、景経が鎧の草摺引き上げて、二刀刺す。
飛騨三郎左衛門景経聞こゆる大力の剛の者なれども運や尽きにけん。
痛手は負ひつ、敵はあまたあり、そこにてつひに討たれにけり。
大臣殿は生きながら取りあげられ目の前で乳子がうたるるを見たまふに、いかなる心ちかせられけん。
凡そ能登守教経の矢先に廻る者こそなかりけれ。
矢種のある程射尽して今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、いか物作りの大太刀抜き、白柄の大長刀の鞘をはづし、左右に持って、なぎ廻りたまふに面を合する者ぞなき、多くの者ども討たれにけり。
新中納言使者を立てて、
「能登殿、痛う罪な作りたまひそ。さりとてよき敵か」
とのたまひければ、
「さては大将軍に組めごさんなれ」
と心得て、打物茎短に取って、源氏の船に乗り移り、をめき叫んで責め戦ふ。
されども判官を見知りたまはねば、物具のよき武者をば
「判官か」
と目を懸けて、馳せ回りたまふ。
判官も先に心得て面に立つ様にしけれども、兎かく違ひて、能登殿には組まれず。
されどもいかがしたりけん。
判官の船に乗り当て
「あはや」
と目を懸けて飛んでかかるに、判官叶はじとや思はれけん、長刀脇にかい挾み、御方の船の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりと飛び乗りたまひぬ。
能登殿は疾態や劣られけん。
やがて続いても飛びたまはず。
今はかうと思はれければ太刀長刀海へ投げ入れ、甲も脱いで棄てられけり。
鎧の草摺かなぐり棄て、胴ばかり著て、大童になり、大手を広げて立たれたり。
凡当を撥ってぞ見えたりける。
怖ろしなども愚なり。
能登殿大音声を上げて、
「我と思はん者共は寄って教経に組んで生捕にせよ。鎌倉へ下って頼朝に逢うて物一言云はんと思ふぞ。よれやよれ」
とのたまへども寄る者一人もなかりけり。
ここに土佐国の住人、安芸の郷を知行しける安芸大領実康が子に、安芸太郎実光とて、三十人が力持ったる大力の剛の者あり。
我にちとも劣らぬ郎等一人、弟の次郎も、普通にはすぐれたるしたたか者なり。
安芸太郎能登殿を見奉て申しけるは、
「いかに心猛くましますとも我等三人取り付いたらんに縦長十丈の鬼なりとも、などか従へざるべき」
とて主従三人小船に乗って、能登殿の船に押し並べ、えいといひて乗り移り甲のしころを傾け太刀を抜いて一面に打って懸る。
能登殿ちとも噪ぎたまはず、真先に進んだる安芸太郎が郎等をすそを合せて、海へどうと蹴り入れたまふ。
続いてよる安芸太郎を、弓手の脇に取って挾み、弟の次郎をば、馬手の脇にかい挾み、一しめしめて、
「いざうれ、さらば己等死出の山の供せよ」
とて、生年二十六にて、海へつとぞ入りたまふ。
内侍所都入
新中納言、
「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」
とて、乳人子の伊賀平内左衛門家長を召して
「いかに日ごろの約束は違ふまじきか」
とのたまへば、
「子細にや及び候」
と申す。
中納言に、鎧二領著かせ奉り、我身も鎧二領著て、手を取り組んで海へぞ入りにける。
これを見て侍共二十余人後れたてまつらじと手に手を取り組んで一所に沈みけり。
その中に、越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落ちにけり。
海上には赤旗赤幟共、投げ捨てかなぐり捨てたりければ、竜田川の紅葉葉を、嵐の吹き散らしたるがごとし。
汀に寄る白浪も、薄紅にぞなりにける。
主もなき虚しき船は、潮に引かれ風に従って、いづくを指すともなくゆられゆくこそ悲しけれ。
生捕には、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衛門督清宗、内蔵頭信基、讃岐中将時実、兵部少輔雅明、大臣殿の八歳になりたまふ若公、僧には二位僧都専親、法勝寺執行能円、中納言律師仲快、経誦坊阿闍梨融円、侍には源大夫判官季貞、摂津判官盛澄、橘内左衛門季康、藤内左衛門信康、阿波民部重能父子、以上三十八人なり。
菊池次郎高直、原田大夫種直は、軍以前より郎等共相具して降人に参る。
女房達には、女院、北の政所、廊御方、大納言佐殿、帥佐殿、治部卿局以下、四十三人とぞ聞こえし。
元歴二年の春の暮、いかなる年月にて一人海底に沈み、百官波上に浮かぶらん。
国母官女は、東夷西戎の手に従ひ、臣下卿相は数万の軍旅にとらはれて、旧里に帰りたまひしに、或は朱買臣が錦をきざる事を嘆き、或は王昭君が胡国に赴きし恨も、かくやとぞ悲しみたまひける。
同じき四月三日、九郎大夫判官義経、源八広綱を以て、院の御所へ奏聞せられけるは、去三月二十四日、豊前国田浦門司関、長門国壇浦赤間関にて、平家を責め落し三種神器事故なう返し入れ奉るの由、申されたりければ、院中の上下騒動す。
広綱を御坪の内へ召し、合戦の次第を委しう御尋ねありて、御感のあまり左兵衛尉になされけり。
「一定内侍所返り入らせたまふか、見て参れ」
とて、五日、北面に候ひける藤判官信盛を西国へ差し遣はさる。
宿所へも帰らず、やがて院の御馬をたまはって鞭を挙げ、西をさしてぞ馳せ下る。
同じき十四日、九郎大夫判官義経、平氏男女の生捕共相具して上りけるが、播磨国明石浦にぞ著きにける。
名を得たる浦なれば、深く行くままに月すみ上り、秋の空にもおとらず。
女房達差しつどひて、
「一年これを通りしには、かかるべしとは思はざりき」
などいひて、忍音に泣き合はれけり。
帥佐殿つくづく月を詠めたまひ、いと思ひ残す事もおはせざりければ、涙に床も浮くばかりにて、かうぞ思ひ続けたまふ。
ながむればぬるる袂にやどりけり、月よ雲井の物語せよ。
治部卿局
雲のうへに見しにかはらぬ月影の、すみにつけても物ぞかなしき。
大納言佐局
我身こそ明石浦に旅寝せめ、同じ浪にもやどる月かな。
「さこそ物悲しう昔恋しうもおはしけめ」
と判官猛き武士なれども、情ある男士なれば、身に染みて哀にぞ思はれける。
同じき二十五日、内侍所、璽の御箱、鳥羽に著かせたまふと聞こえしかば、内裏より御迎に参らせたまふ人々、勘解由小路中納言経房卿、高倉宰相中将泰通、権右中弁兼忠、左衛門権佐親雅、榎並中将公時、但馬少将教能、武士には伊豆蔵人大夫頼兼、石河判官代能兼、左衛門尉有綱とぞ聞こえし。
その夜の子刻に、内侍所、璽の御箱、太政官の庁に入らせたまふ。
宝剣は失せにけり。
神璽は海上に浮かびたりけるを、片岡太郎経春が、取り上げ奉りたりけるとぞきこえし。
剣
吾朝には神代より伝はれる霊剣三あり。
十握剣、天の早切剣、草薙剣これなり。
十握剣は大和国磯上布留社に納めらる。
天早切の剣は尾張国熱田宮にありとかや。
草薙剣は内裏にあり。
今の宝剣これなり。
この剣の由来を申せば、昔、素盞烏尊出雲国曽我里に宮造りしたまひしにその処に八色の雲常に立ちければ、尊これを御覧じてかくぞ詠じたまひける。
八雲たつ出雲やへがきつまごめに、やへ垣つくるそのやへ垣を。
これを三十一文字の始めとす。
国を出雲と名付くる事も即ちこの故とぞ承る。
昔、尊、出雲国ひの河上に下りたまひし時国津の神に足なつち、手なつちとてをとこ神婦神おはします。
その子に端正の娘あり。
稲田姫と号す。
親子三人泣き居たり。
尊
「いかに」
と問ひたまへば答へ申していはく、
「我に娘八人ありき。皆大蛇の為にのまれぬ。今一人残るところの少女又呑まれんとす」
件の大蛇、尾首共に八つあり。
各八の峰八の谷に這はびこれり。
霊樹異草背に生ひたり。
幾千年を歴たりといふ事を知らず。
眼は日月の光の如し。
年々に人を呑む。
親呑まるるものは子悲しみ、子呑まるるものは親悲しみ、村南村北に哭する声絶えずとぞ申しける。
尊哀におぼしめしこの少女をゆつのつまぐしに取りなし御ぐしに差し蔵させたまひ、八の舟に酒を入れ、美女の姿を造りて高き岡に立つ。
その影酒にうつれり。
大蛇人と思ひてその影を飽くまで飲んで酔ひ臥したりけるを尊帯きたまへる十握の剣をぬいて大蛇をづたづたに切りたまふ。
その中に一つの尾に至りて切れず。
尊怪しくおぼしめし、堅様に破って御覧ずれば一つの霊剣あり。
これを取って天照大神に奉りたまふ。
「これは昔高間の原にてわがおとしたりし剣なり」
とぞのたまひける。
大蛇の尾のなかに在りける時は村雲常に掩はせければ天の村雲剣とぞ申しける。
大神これをえて、天の御門の御宝としたまふ。
その後豊葦原中津国の主として天孫を下し奉りたまひし時、この剣をも御鏡に副へてたてまつらせたまひけり。
第九代の帝開化天皇の御時までは一殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及んで、霊威に怖れて天照大神を大和国笠縫里磯垣の広きに移し奉りたまひし時、この剣をも天照大神の社壇に籠め奉らせたまひけり。
その時剣を造りかへて御守としたまふ。
霊威本の剣に相劣らず。
天の村雲剣は崇神天皇より景行天皇まで三代は天照大神の社壇に崇め置かれたりけるを、景行天皇の御宇四十年六月に東夷反逆の間、御子日本武尊、御心も剛に御力も人に勝れておはしければ、清撰に当ってあづまへ下りたまひし時、天照大神へ詣でて御暇申させたまひけるに、御妹いつきの尊を以て謹んで怠る事なかれとて霊剣を尊にさづけ申したまふ。
さて駿河国に下りたまひたりしかば、その処の賊徒等
「この国には鹿多う候。狩して遊ばせたまへ」
とてたばかり出し奉り、野に火をはなって既に焼き殺し奉らんとしけるに、尊はきたまへる霊剣を抜いて草を薙ぎたまへば、はむけ一里が中は草皆薙がれぬ。
尊又火を出されたりければ、風たちまちに異賊の方へ吹き掩ひ、凶徒ことごとく焼け死にぬ。
それよりしてこそ天の村雲の剣をば草薙剣とも名付けられけれ。
尊、なほ奥へせめ入って、三箇年が間処々の賊徒を討ち平らげ、国々の凶党をせめしたがへて上らせたまひけるが、道より御悩み著かせたまひて、御歳三十と申す七月に尾張国熱田の辺にてつひに隠れさせたまひぬ。
その魂は白き鳥となって、天に上りけるこそ不思議なれ。
生捕の夷共をば御子武彦尊を以て御門へたてまつらせたまふ。
草薙剣をば熱田の社に納めらる。
あめの御門の御宇七年に新羅の沙門道行この剣を竊んで吾国の宝とせんと思って、竊に舟に蔵して行く程に波風震動してたちまちに海底に沈まんとす。
即霊剣のたたりなりと知りて、罪を謝して先途を遂げず。
元の如く返し納め奉る。
然るを天武天皇朱鳥元年にこれを召して内裏に置かる。
今の宝剣これなり。
御霊威いちはやうまします。
陽成院狂病にをかされましまして霊剣を抜かせたまひければ、夜のおとど閃々として電光にことならず。
恐怖のあまりに投げ棄てさせたまひければ、自はたと鳴って鞘に差されにけり。
上古にはかうこそ目出たかりしか。
縦ひ二位殿脇に差して海に沈みたまふともたやすう失すべからずとて、勝れたる海士人共を召してかづきもとめられける上、霊仏霊社に貴き僧を籠め種々の神宝を捧げて祈り申されけれども、つひに失せにけり。
その時の有職の人々申し合はれけるは
「昔天照大神百王を守らんと御誓ひありけるその誓未だ改まらずして石清水の御流れ未だ尽くせざるゆゑ、日輪の光未だ地に落ちさせたまはず、末代澆季なりとも帝運の究まる程の事はあらじかし」
と申されければ、その中に、ある博士の勘へ申しけるは
「昔出雲国ひの河上にて素盞烏尊に切り殺され奉りし大蛇、霊剣を惜しむ志深くして八の首八の尾を表事として人王八十代の後、八歳の帝となって霊剣を取り返して海底に沈みたまふにこそ」
と申す。
千尋の海の底、神竜の宝となりしかば二度人間に返らざるも理とこそ覚えけれ。
一門大路渡
さる程に、二の宮帰り入らせたまふとて法皇より御迎へに御車を参らせらる。
御心ならず、平家に取られさせたまひて、西海の波の上に漂はせたまひ三年を過ぎさせたまひしかば、御母儀も御乳母持明院の宰相も、御心苦しき事に思はれけるに、別の御事なく返り上らせたまひたりしかば、差しつどひて皆悦泣どもせられたる。
同じき二十六日、平氏の生捕共京へ入る。
皆小八葉の車にてぞありける。
前後の簾を上げ、左右の物見を開く。
大臣殿は浄衣を著きたまへり。
右衛門督は、白き直垂にて、父の車の後にぞ乗られたる。
平大納言時忠卿の車も、同じくやり続く。
子息讃岐中将時実も同車にて渡さるべかりしが現所労とて渡れず。
内蔵頭信基は、疵を蒙りたりしかば閑道より入りにけり。
大臣殿さしも花やかに清気におはせし人のあらぬ様に痩せ衰へたまへり。
されども四方見廻して最も思ひ沈める気色もおはせず、右衛門督はうつぶして目も見上げたまはず、思ひ入れたる気色なり。
土肥次郎実平木蘭地の直垂に小具足計して随兵三十余騎車の先後に打ち囲んで守護し奉る。
見る人都の中にも限らず、凡遠国近国山々寺々よりも、老いたるも若きも、来り集まれり。
鳥羽の南の門、作道、四塚まで、ひしと続いて、幾千万と云ふ数を知らず。
人は顧みる事を得ず、車は輪を廻す事能はず。
治承養和の飢饉、東国西国の軍に、人種ほろびうせたりといへども、なほ残りは多かりけりとぞ見えし。
都を出て中一年、無下に間近き程なれば、めでたかりし事も忘れず。
さしも恐れをののきし人の今日の有様、夢現とも分かねたり。
心なき怪の賤男賤女に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬはなかりけり。
増て馴れ近付きたる人々のいかばかりの事をか思ひけん。
年ごろ恩を蒙り、父祖の時より祗候したりし輩の有繋身のすてがたさに、多くは源氏についたりしかども、昔の好みたちまちにわするべきにもあらねば、さこそ悲しう思ひけめ。
されば袖を顔に押しあてて、目を見上げぬ者も多かりけり。
大臣殿の御牛飼は、木曽が院参の時、車遣り損じて切られにける次郎丸が弟、三郎丸なり。
西国にては、かり男になったりしが、いま一度大臣殿の御車をつかまつらんと思ふ志ふかかりければ、鳥羽にて判官に申しけるは、
「舎人牛飼など申す者は、いふかひなき下臈の果にて候へば、心あるべきでは候はねども年来めしつかはれまゐらせて候御志浅からず。然るべう候はば御ゆるされを蒙って、大臣殿の最後の御車を仕り候はばや」
とあながちに申しければ、判官
「仔細あるまじ、とうとう」
とてゆるされけり。
斜めならず悦んで、尋常にしやうぞき、懐より遣縄取り出しつけかへ、涙に暮れて行く先も見えねども、袖を顔に押しあてて牛の行に任せつつ、泣く泣く遣ってぞ罷りける。
法皇は六条東洞院に御車を立て叡覧あり。
公卿殿上人の車ども同じう立て並べたり。
さしも御身近う召し仕はれしかば、法皇もさすが御心弱う、哀にぞおぼしめされける。
供奉の人々はただ夢とのみこそ思はれけれ。
「日ごろはいかにもして、あの人々に目をもかけられ、詞の末にも懸らばやとこそ思ひしかば、かかるべしとは誰か思ひし」
とて、上下涙を流しけり。
一年宗盛公内大臣になって、悦び申したまひし時は公卿には花山院大納言を始めとして、十二人扈従して遣り続けたまへり。
殿上人には蔵人頭親宗以下十六人前駆す。
公卿も殿上人も、今日を晴ときらめいてこそありしか、中納言四人、三位中将も三人までおはしき。
やがてこの平大納言もその時は左衛門督にておはしき。
御前へ召され参らせて御引出物たまはってもてなされたまひし有様目出たかりし儀式ぞかし。
今日は月卿雲客一人もしたがはず、同じく壇浦にて生捕にせられたりし侍共二十余人白き直垂著て、馬の上にしめつけてぞ渡されける。
六条を東へ河原までわたされて、帰りて、大臣殿父子は九郎判官の宿所、六条堀河にぞおはしける。
御物参らせたりしかども胸せき塞がって、御箸をだにも立てられず。
互ひに物はのたまはねども目を見合せて隙なく涙をぞ流されける。
夜になれども、装束もくつろげたまはず、袖を片敷きて臥したまひたりけるが、御子右衛門督に、御袖を打ち著かせたまふを、まぼり奉る源八兵衛、江田源三、熊井太郎これを見て、
「哀れ高きも賤きも恩愛の道程悲しかりける事はなし。御袖を著かせ奉りたらばいく程の事かあるべきぞ。せめての御志の深さかな」
とて、武きもののふども皆涙をぞ流しける。
鏡
同じき二十八日鎌倉の前兵衛佐頼朝朝臣従二位したまふ。
越階とて二階をするこそ有りがたき朝恩なるにこれは既に三階なり。
三位をこそしたまふべかりしかども、平家のしたまひたりしを忌うてなり。
その夜の子刻に内侍所太政官の庁より温明殿へ入らせたまふ。
主上行幸なって三箇夜臨時の御神楽あり。
右近将監小家能方別勅を承って家に伝はれる弓立宮人といふ神楽の秘曲を仕って勧賞蒙りけるこそ目出たけれ。
この歌は、祖父八条判官資忠と云し伶人の外は知れる者なし。
余り秘して子の親方には教へずして堀川天皇御在位の時伝へ参りて死去したりしを、君親方に教へさせたまひけり。
道を失はじとおぼしめす御志感涙抑へがたし。
抑内侍所と申すは、昔、天照大神天の岩戸に閉ぢ籠らんとせさせたまひし時、いかにもして我容をうつし置きて御子孫に見せ奉らんとて御鏡を鋳たまへり。
これなほ御心に合はずとて又鋳替へさせたまひけり。
先の御鏡は紀伊国日前国懸の社これなり。
後の御鏡は御子あまの忍ほみみの尊に授け参らせさせたまひて、
「殿を同うして住みたまへ」
とぞおほせける。
さて天照大神天の岩戸に閉ぢ籠らせたまひて天下暗やみとなったりしに、八百万の神達神集に集まって岩戸の口にて御神楽を奏したまひければ、天照大神感に堪へさせたまはず、岩戸を細目に開き見たまふに、互ひに顔の白く見えけるより面白といふ詞は始まりけるとぞ承はる。
その時こやねたぢからをといふ大力の神よってえいといひてあけたまひしよりしてたてられずといへり。
さて内侍所は第九代の御門開化天皇の御時までは一つ殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及びて霊威に怖れて別の殿へ移し奉らせたまふ。
近きころは温明殿におはします。
遷都遷幸の後、百六十年を経て、村上天皇の御宇天徳四年九月二十三日の子刻に内裡なかのへに始めて焼亡ありき。
火は左衛門の陣より出きたりければ内侍所のおはします温明殿も程近し。
如法夜半の事なれば内侍も女官も参り合はせずして、かしこ所を出し奉るにも及ばず。
小野宮殿急ぎ参らせたまひて内侍所既に焼けさせたまひぬ。
世はいまはかうごさんなれとて御涙を流させたまふほどに、内侍所は自炎の中を飛び出でさせたまひ、南殿の桜の梢に懸らせおはしまし光明赫奕として朝の日の山の端を出るに異ならず。
その時小野宮殿世は未だ失せざりけりとおぼしめすに悦の御涙せきあへさせたまはず。
右の御膝をつき左の御袖を広げてなくなく申させたまひけるは
「昔天照大神百王を守らんと御誓ひありけるその御誓いまだ改まらずんば神鏡実頼が袖に宿らせたまへ」
と申させたまふ御詞の末をはらざる先に飛び移らせたまひけり。
即御袖に裹んで太政官の朝所へ渡し奉らせたまふ。
近ごろは温明殿におはします。
この世には請け取り奉らんと思ひ寄る人も誰かはあるべき。
神鏡も又宿らせたまふべからず。
上代こそなほも目出たかりけれ。
文之沙汰
平大納言時忠卿父子も、九郎判官の宿所近うぞおはしける。
世の中かくなりぬる上は、とてもかうてもとこそ思はるべきに、大納言なほ命惜しうや思はれけん、子息讃岐中将を招いて、
「散らすまじき文を一合判官に取られてあるぞとよ。これを鎌倉の源二位に見えなば、人も多く損じ我身も命生けらるまじ、いかがせんずる」
とのたまへば、中将申されけるは、
「判官は大かたも情ある者にて候なる上女房などの打たへ嘆く事をば、いかなる大事をももてはなれぬと承り候。何か苦しう候べき。姫君達数多ましまし候へば、一人見せさせたまひ、親しうならせおはしまして後、おほせらるべうや候らん」
大納言涙をはらはらと流いて、
「我世にありし時は、娘共をば女御后とこそ思ひしか。なみなみの人に見せんとはかけても思はざりしものを」
とて泣かれければ、中将、
「今はその事ゆめゆめおぼしめし寄せたまふべからず。当腹の姫君の十八になりたまふを」
と申されけれども、大納言それをばなほ悲しき事に覚して、先の腹の姫君の二十三になりたまふをぞ、判官には見られける。
これも年こそすこし長しうおはしけれど眉目容美しう、心ざま優におはしければ、判官ありがたう思ひ奉て、もとの上河越太郎重頼が娘もありしかども、これをば別の方に尋常にしつらうてもてなしけり。
さて女房件の文の事をのたまひ出されたりければ、判官剩へ封をも解かず、急ぎ時忠卿の許へ送られけり。
大納言斜めならず悦んで、やがて焼きぞ棄てられける。
いかなる文共にてありけん、覚束なうぞ聞こえし。
平家滅びて、いつしか国々静まり、人のかよふも煩なし。
都も穏しかりければ、
「ただ九郎判官程の人はなし。鎌倉の源二位は何事をか為出だしたる。世は一向判官の儘にてあらばや」
などいふ事を源二位漏れ聞いて、
「こはいかに、頼朝がよく計らひて、兵を指し上すればこそ平家はたやすう滅びたれ。九郎ばかりしては、いかが世をばしづむべき。人のかくいふに奢って何しか世を我儘にしたるにこそ。人こそ多けれ、平大納言の聟になって、大納言を扱ふなるも受けられず。又世にもはばからず、大納言の聟取りいはれなし。これへ下っても定めて過分の振舞ひせんずらん」
とぞのたまひける。
副将被斬
同じき五月七日、九郎大夫判官平氏の生捕共相具して関東へ下向と聞こえしかば、大臣殿判官の許へ使者を立てて、
「明日関東へ下向と承り候。恩愛の道は思ひ切られぬ事にて候なり。生捕の中に、八歳の童と付けられて候ひしものは、未だこの世に候やらん。今一度見候ばや」
とのたまひ遣されたりければ、判官の返事には、
「誰も恩愛の道は思ひ切られぬ事にて候へば、まことにさこそおぼしめされ候らめ」
とて、河越小太郎重房がもとに預り奉りたりけるを大臣殿の許へ若君入れ奉るべき由、のたまひければ、人に車借りて、乗せ奉り、女房二人著奉りたりしも一つ車に乗り具して大臣殿へぞ参られける。
若君は遙に父を見奉りたまひて、世に嬉し気におはしたり。
大臣殿、
「いかにこれへ」
とのたまへば、やがて御膝の上に参りたまふ。
大臣殿若君の御ぐしを掻き撫で、涙をはらはらと流いて、守護の武士共にのたまひけるは、
「これは、各聞きたまへ、母もなき者にてあるぞとよ。この子が母は、これを産むとて、産をば平らかにしたりしかども、やがてうちふして悩みしが、つひに空くなるぞとよ。『この後いかなる人の腹に公達を設けたまふとも、思ひかへずして、生ひ立て我形見に御覧ぜよ。さしはなって乳母などの許へ遣すな』と云ひし事の不便さに、『あの右衛門督をば朝敵を平らげん時は、大将軍をせさせ、これをば副将軍をせさせんずれば』とて、名を副将と付けたりしかば、斜めならず嬉し気に思ひて既に限りの時までも、名を呼ぶなどして愛せしが、七日といふに、墓なくなりてあるぞとよ。この子を見る度ごとには、その事が忘れがたくおぼゆるなり」
とて涙もせきあへたまはねば守護の武士共も、皆袖をぞ絞りける。
右衛門督も泣きたまへば乳母も袖を絞りけり。
やや久しくあって大臣殿、
「さらば副将、とく帰れ。嬉しう見つる」
とのたまへども、若君帰りたまはず。
右衛門督これを見て涙を押へてのたまひけるは、
「やや副将御前、今夜は疾々帰れ。ただ今客人のこうずるぞ。朝は急ぎ参れ」
とのたまへども、父の御浄衣の袖にひしと取り付いて、
「いなや帰らじ」
とこそ泣きたまへ。
かくて遙に程歴れば、日も漸暮れにけり。
さてしもあるべき事ならねば、乳母の女房抱き取って、御車に乗せ奉り、二人の女房共も袖を顔に推し当てて、泣く泣く暇申しつつ共に乗ってぞ出にける。
大臣殿は後を遙に御覧じ送りて、日ごろの恋しさは事の数ならずとぞ悲しみたまふ。
「この子は母の遺言が無慚なれば」
とて乳母の許へも遣さず、朝夕御前にてそだてたまふ。
三歳にて始冠して、義宗とぞ名乗らせける。
やうやう生ひ立ちたまふままに、みめ容美しく、心様優におはしければ、大臣殿もかなしういとほしき事におぼして、西海の旅の空、浪の上、船の中の住みかにも片時も離れたまはず。
然るを軍破れて後は、今日ぞ互ひに見たまひける。
河越小太郎判官の御前に参りていひけるは
「さて若君の御事をば何と御計ひ候やらん」
と申しければ、
「鎌倉まで具し奉るに及ばず。汝ともかうもこれであひはからへ」
とぞのたまひける。
河越小太郎宿所に帰りて、二人の女房共に申しけるは、
「大臣殿は鎌倉へ御下り候が、若君は京に御留まりあるべきにて候。重房も罷り下り候間、緒方三郎惟義が手へ渡し奉るべきにて候。とうとう召され候へ」
とて、御車寄せたりければ、若君何心もなう乗りたまひぬ。
「又昨日の様に父御前の御許へか」
とて悦ばれけるこそはかなけれ。
六条を東へやって行く。
この女房共
「あはやあやしき物かな」
と、肝魂を消して思ひける程に、少し引き下って兵五六十騎が程河原へ打ち出でたり。
やがて車を遣りとどめて、敷皮しき、
「下させたまへ」
と申しければ若君車よりおりたまひぬ。
世にあやしげにおぼして、
「我をばいづちへ具してゆかむとするぞ」
と問ひたまへば、二人の女房共、とかうの御返事にも及ばず。
重房が郎等、太刀をひきそばめて、左の方より御後に立ち回り、既に斬り奉らんとしけるを、若君見つけたまひて、幾程遁るべき事の様に、急ぎ乳母の懐の中へぞ逃げ入りたまふ。
さすが心強う取り出し奉るにも及ばねば、若君をかかへ奉り人の聞くをも憚らず、天に仰ぎ地に伏してをめき叫みける心の中推量られて哀なり。
かくて時刻遙かに推し移りければ河越小太郎重房涙をおさへて、
「今はいかにおぼしめされ候とも叶はせたまひ候まじ。とうとう」
と申しければその時乳母の懐の中より、引き出し奉り、腰の刀にて押し伏せてつひに頸をぞ掻いてける。
猛き武士共もさすが岩木ならねば、皆涙を流しけり。
頸をば
「判官の見参にいれん」
とて取って行く。
乳母の女房、徒跣にて追ひ著て、
「何かくるしう候べき。御頸ばかりをばたまはって後世を弔ひまゐらせん」
と申せば、判官も世に哀気に思ひ涙をはらはらと流いて
「まことにさこそは思ひたまふらめ。最もさあるべし。とうとう」
とてたびにけり。
これを取って懐に入れて泣く泣く京の方へ帰るとぞ見えし。
その後五六日して、桂川に女房二人身をなげたる事ありけり。
一人少なき人の頸をふところに入れ沈みたりけるは、この若君の乳母の女房にてぞありける。
今一人屍を抱いてありけるは、介錯の女房なり。
乳母が思ひきるは、せめていかがせん、介錯の女房さへ、身を投げけるこそ有りがたけれ。
腰越
さる程に大臣殿父子は九郎大夫判官に具せられて七日の暁関東へ下りたまふ。
粟田口を過ぎたまへば、大内山も雲井のよそに隔りぬ。
逢阪にもなりしかば関の清水を見たまひて、大臣殿なくなくかうぞ詠じたまひける。
都をば今日を限りの関水に、又あふ坂の影やうつさむ。
道すがらもあまりに心細げにおはしければ、判官情ある人にて、さまざまに慰め奉る。
大臣殿、判官に向って
「相構へ、今度親子の命を助けてたまへ」
とのたまへば、
「遠き国、遙かの島へも遷しぞ参らせ候はんずらん。御命失ひ奉るまではよも候はじ。縦さ候とも、義経が勲功の賞に申しかへて、御命計は助け参らせ候べし。御心安うおぼしめされ候へ」
と憑もしげに申されければ
「たとひ夷が千島なりともかひなき命だにあらば」
とのたまひけるこそ口惜しけれ。
日数歴れば、同じき二十四日、鎌倉へ下り著きたまふ。
梶原判官に一日先立て鎌倉殿に申しけるは、
「日本国は今は残る所なう随ひ奉り候。ただし御弟九郎大夫判官殿こそ、終の御敵とは見えさせたまひ候へ。その故は『一谷を上の山より義経が落さずば、東西の木戸口破れ難し。生捕も死捕も義経にこそ見すべきに、物の用にもあひたまはぬ蒲殿の方へ見参に入るべき様やある。本三位中将殿こなたへたばずば参りてたまはるべし』とて既に車出来候はんとし候しを、景時が土肥に心を合せて、三位中将殿を土肥次郎に預けて後こそ静まりたまひて候しか」
と語り申しければ、鎌倉殿打ち頷いて
「今日九郎が鎌倉へ入るなるに、各用意したまへ」
とておほせられければ大名小名馳せ集まって、程なく数千騎になりにけり。
金洗沢に関居ゑて、大臣殿父子請け取り奉て判官をば腰越へ追ひ返さる。
鎌倉殿は随兵七重八重に居ゑ置いて我身はその中におはしながら
「九郎はすずどきをのこなればこの畳の下よりも這ひ出でんずる者なり。ただし頼朝はせらるまじ」
とぞのたまひける。
判官、思はれけるは
「去年の正月木曽義仲を追討せしよりこのかた一谷壇浦に至るまで命を棄てて平家を責め落し、内侍所、璽の御箱事故なく返し入れ奉り、大将軍父子生捕にして、具してこれまで下りたらんには、縦いかなる不思議ありとも、一度はなどか対面なかるべき。およそは九国の惣追捕使にもなされ、山陰山陽南海道、いづれにても預け、一方の固めともなされんずるとこそ思ひつるに、わづかに伊予の国ばかりを知行すべき由おほせられて、あまさへ鎌倉へだにも入られぬこそ本意なけれ。さればこは何事ぞ。日本国を静むる事、義仲義経が為態にあらずや。たとへば同じ父が子で、先に生るるを兄とし、後に生るるを弟とする計なり。誰か天下を知らんに知らざるべき。剩へ今度見参をだにも遂げずして逐ひ上らるるこそ遺恨の次第なれ。謝する所を知らず」
とつぶやかれけれども力なし。
全く不忠なきよし度々起請文を以て申されけれども、景時が讒言によって鎌倉殿用ゐたまはねば、判官泣く泣く一通の状を書いて広元の許へ遣す。
その状に云く、源義経恐れながら申し上げ候意趣は、御代官のその一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、会稽の恥辱を雪ぐ。
勲賞行はるべき処に思ひの外虎口の讒言によって莫大の勲功をもだせられ、義経をかし無うしてさがをかうむり、功あって誤なしと云へ共、御勘気を蒙り空く紅涙に沈む。
讒者の実否をただされず、鎌倉中へ入られざる間、素意をのぶるにあたはず。
徒に数日を送る。
この時にあたって永く恩顔を拝し奉らず。
骨肉同胞の義既に絶え、宿運究めて虚しきに似たるか。
将又先世の業因の感ずるか。
悲しかな。
この条故亡父尊霊再誕したまはずば誰の人か愚意の悲嘆を申し開かん。
何れの人か哀憐をたれられんかな。
事新き申し状、述懐に似たりといへども、義経身体髪膚を父母に受けて幾の時節を経ず、故頭殿御他界の間孤となり、母の懐の中に抱かれて、大和国宇多郡に越しより以降、未だ一日片時安堵の思ひに住せず。
甲斐なき命をば存すといへども、京都の経廻難治の間、身を在々所々に蔵し、辺土遠国を栖として、土民百姓等に服仕せらる。
然れども交契たちまちに純熟して、平家の一族追討の為に上洛せしむる手合に、木曽義仲を誅戮の後、平氏をかたむけんが為に、或時は峨々たる巌石に駿馬に鞭うち、敵の為に命をほろぼさん事を顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、海底に沈まん事を痛まずして、屍を鯨鯢の鰓にかく。
しかのみならず甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併ら亡魂の憤りを息め奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外他事なし。
剩さへ義経五位の尉に補任の条、当家の重職何事かこれにしかん。
然りといへども、愁ひ深く嘆き切なり。
仏神の御助けにあらずより外はいかが愁訴を達せん。
これによって、諸寺諸社の牛王宝印の裏をもて、野心を挿まざる旨、日本国中の大小の神祇冥道を請じ驚かし奉て、数通の起請文を書き進らすといへども、なほ以て御宥免なし。
夫れ吾国は神国なり、神は非礼を享けたまふべからず。
憑むところ他にあらず。
偏に貴殿広大の慈悲を仰ぐ。
便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計をめぐらし誤なき由をゆうせられ、赦免に預らば、積善の余慶家門に及び、栄華を永く子孫に伝へん。
よって年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。
書紙に尽くさず。
併せて省略せしめ候ひ畢んぬ。
義経恐惶謹言。
元歴二年六月五日源義経進上 因幡守殿へとぞ書かれたる。
大臣殿被斬
さる程に、鎌倉殿大臣殿に対面あり。
おはしける所に庭を一つ隔てて、向ひなる屋に居奉り、簾の中より見出だし、比気藤四郎義員を使者で申されけるは
「平家の人々に別の意趣思ひ奉る事ゆめゆめ候はず。その故は池殿尼御前いかに申したまふとも故入道殿の御許され候はずば、頼朝いかが扶り候べき。流罪に宥められし事偏に入道殿の御恩なり。されば二十余年まで、さてこそ罷り過ぎ候しかども朝敵となりたまひて追討すべき由院宣をたまはる間、さのみ王地に孕まれて、詔命を背くべきにもあらねば、力及ばず、加様に見参に入りたまひぬるこそ、本意に候へ」
と申されければ義員この由申さんとて、御前に参りたりければ、居なほり畏まりたまひけるこそうたてけれ。
国々の大名小名並び居たるその中に、京の者共幾らもあり、皆爪弾をして申しけるは
「居なほり畏まりたまひたらば御命の助かりたまふべきか。西国でいかにもなりたまふべき人の、生きながらとらはれて、これまでくだりたまふこそ理なれ」
とぞ申しける。
或は涙を流す人もあり。
その中に或人の申しけるは、
「猛虎深山にある時は百獣震ひ怖づ。檻穽の中にあるに及びて尾を揺らして食を求むとて、猛き虎の深き山にある時は、百の獣恐ると云へ共檻の中に籠られぬる時は、尾を掉って人に向ふらんやうに、いかに猛き大将軍なれども、かやうになって後は、心かはる事なれば、大臣殿も、かくおはするにこそ」
と申しける人もありけるとかや。
去程に九郎大夫判官さまざまに陳じ申されけれども、景時が讒言に依って、鎌倉殿更に分明の御返事もなし。
「急ぎのぼらるべし」
とおほせられければ、同じき六月九日、大臣殿父子具し奉て、都へぞ返り上られける。
大臣殿は今少しも日数の延びを嬉しき事に思はれける。
道すがらも、
「ここにてやここにてや」
とおぼしけれども、国々宿々、打ち過ぎ打ち過ぎ通りぬ。
尾張国内海と云ふ所あり。
ここは故左馬頭義朝が誅せられし所なれば、これにてぞ一定と思はれけれども、それをも過ぎしかば、大臣殿少し憑もしき心出来て、
「さては命のいきんずるやらん」
とのたまひけるこそはかなけれ。
右衛門督は、
「なじかは命をいくべき、かやうに熱きころなれば、頸の損せぬ様にはからひて京近うなって切らんずるにこそ」
と思はれけれども、大臣殿のいたく心細気におぼしたるが心苦しさにさは申されず。
偏に念仏をのみぞ申したまふ。
日数ふれば、都も近う著いて近江国篠原の宿に著きたまひぬ。
判官情け深き人なれば、三日路より人を先立てて、善知識の為に、大原の本性房湛豪といふ聖請じ下されたり。
昨日までは親子一所におはしけるを今朝より引き放って、別の所に居奉りければ、
「さては今日を最後にてあるやらん」
といとど心細うぞ思はれける。
大臣殿涙をはらはらと流いて、
「抑右衛門督はいづくに候やらん。縦ひ頸は落つとも、体は一つ席に臥さんとこそ思ひつるに、生きながら別れぬる事こそ悲しけれ。十七年が間一日片時も離るる事なし。西国にて海底に沈までうき名を流すもあれゆゑなり」
とて泣かれければ、聖哀れに思ひけれども、我さへ心弱くては不叶と思ひて、涙を拭ひ、さらぬ体にもてないて申しけるは
「今はとかくおぼしめすべからず。最後の御有様を御覧ぜむにつけても互の御心の中悲しかるべし。生を受けさせたまひてよりこのかた、楽しみ栄え昔も類ひ少し。御門の外戚にて、丞相の位に至らせたまへり。今生の御栄華一事も残る所なし。今又かかる御目にあはせたまふも、先世の宿業なり。世をも人をも恨みおぼしめすべからず。大梵王宮の深禅定の楽しみ思へば程なし。況や電光朝露の下界の命に於てをや。忉利天の億千歳、ただ夢の如し。三十九年を過ぎさせたまひけむも、僅に一時の間なり。誰れか嘗めたりし、不老不死の薬。誰か保ちたりし、東父西母が命。秦の始皇の奢りを極めしも、つひには驪山の墓に埋もれ、漢の武帝の命を惜しみたまひしも、空く杜陵の苔に朽ちにき。生ある者は必ず滅す、釈尊未だ栴檀の煙を免れたまはず。楽尽きて悲来る、天人尚五衰の日に逢へりとこそ承はれ。されば仏は、『我心自空、罪福無主、観心無心、法不住法』とて、善も悪も空なりと観ずるが、正しく仏の御心に相叶ふ事にて候なり。いかがなれば、弥陀如来は、五劫が間思惟して発しがたき願を発しましますに、いかなる我等なれば、億々万劫が間、生死に輪廻して、宝の山に入って、手を空しくせん事、恨みの中の恨み、愚なるが中の口惜しい事に候はずや。ゆめゆめ余年をおぼしめすべからず」
とて、戒持たせ奉り、念仏勧め申す。
大臣殿然るべき善知識かなとおぼしめし、たちまちに妄念を翻へして西に向ひ手を合せ、高声に念仏したまふ処に、橘右馬允公長、太刀を引きそばめて左の方より御後に立ち廻り、既に斬り奉らんとしければ、大臣殿念仏を停めて、
「右衛門督も既にか」
とのたまひけるこそ哀なれ。
公長後へ回るかと見えしかば、頸は前にぞ落にける。
善知識の聖も、涙に咽びたまひけり。
猛き武士もいかがあはれと思はざるべき。
増て彼公長は、平家重代の家人新中納言の許に、朝夕祗候の侍なり。
さこそ世を諂ふならひといひながら、無下に情けなかりける者かなとぞ、人皆慚愧しける。
その後右衛門督をも、聖前の如くに戒持たせ奉り、念仏勧め申す。
「大臣殿の最後いかがおはしましつる」
と問はれけるこそ最愛けれ。
「目出たうましまし候つるなり、御心安うおぼしめされ候へ」
と申されければ、涙を流し悦んで、
「今は思ふ事なし。さらばとう」
とぞのたまひける。
今度は堀弥太郎斬ってけり。
頸をば判官持たせて都へ入る。
屍をば公長が沙汰として、親子一つ穴にぞ埋めける。
さしも罪ふかく離れがたくのたまひければ、加様にしてんげり。
同じき二十三日大臣殿父子の頭都へ入る。
検非違使ども三条河原にいで向って、これを請け取り、大路を渡して、獄門の左の樗の木にぞ懸けたりける。
三位以上の人の頸、大路を渡して獄門に懸けらるる事異国にはその例もやあるらん。
我朝に於ては未だその先蹤を聞かず。
されば平治に信頼は悪人たりしかば、頸をばはねられたりしかども獄門には懸けられず。
平家にとてぞ懸けられける。
西国より上っては、生きて六条を東へ渡され、東国より帰りては、死んで三条を西へ渡されたまふ。
生きての恥、死んでの恥、何れも劣らざりけり。
重衡被斬
本三位中将重衡卿は、狩野介宗茂に預られて、去年より伊豆国におはしけるを、南都の大衆頻に申しければ、
「さらば渡せ」
とて、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼兼におほせて、つひに奈良へぞ遣しける。
都へは入られずして、大津より山科通りに、醍醐路を経て行けば、日野は近かりけり。
この重衡卿の北方と申すは鳥飼中納言惟実の女、五条大納言国綱の養子、先帝の御乳母、大納言佐殿とぞ申しける。
三位中将一谷で生捕にせられたまひし後も、先帝に附きまゐらせておはせしが、壇浦にて海にいらせたまひしかば、武士の荒気なきにとらはれて、旧里に帰り姉の大夫三位に同宿して、日野と云ふ所におはしけり。
中将の露の命、草葉の末にかかって、消えやらぬとききたまへば、夢ならずして今一度見もし見えもする事もやと思はれけれども、それも叶はねば、泣くより外の慰めなくて明かし暮らしたまひけり。
三位中将、守護の武士にのたまひけるは、
「この程事に触れて情けふかう芳心おはしつるこそ、あり難う嬉しけれ。同じくは最後に今一度芳恩蒙りたき事あり。我は一人の子なければ、この世に思ひおく事なし。年頃相具したりし女房の、日野と云ふ所にありと聞く。今一度対面して、後生の事をも申し置かばやと思ふなり」
とて片時のいとまをこはれけり。
武士共さすが岩木ならねば、各涙を流しつつ、
「何かは苦しう候べき」
とて許し奉る。
中将斜めならず悦んで、
「大納言佐殿の御局はこれに渡せたまひ候やらん。本三位中将殿のただ今奈良へ御通り候が、立ちながら見参に入らばやとおほせ候」
と、人を入れて言はせければ、北方聞くもあへず、
「いづらやいづら」
とて、走り出て見たまへば、藍摺の直垂に、折烏帽子著たる男の、痩せ黒みたるが、縁に依り居たるぞ、そなりける。
北方御簾の際近くよって
「いかに夢かや現か、これへ入らせたまへ」
とのたまひける御声を聞きたまふに、いつしか、先立つ物は涙なり。
大納言佐殿は、目もくれ心も消え果てしばしは物ものたまはず。
三位中将、御簾打ちかついで、泣く泣くのたまひけるは、
「去年の春一谷でいかにもなるべかりし身の、責めての罪の報いにや生きながら捕られて大路を渡され、京鎌倉に恥をさらすだに口惜しきに、果ては奈良の大衆の手に渡されて、斬るべしとて罷り候。いかにもして、今一度御姿を見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思ひ置く事なし。出家して形見に髪をもたてまつらばやと思へども、許されなければ力及ばず」
とて、額の髪を少し引きわけて口の及ぶ所をくひ切って、
「これを形見に御覧ぜよ」
とてたてまつりたまへば、北の方は日頃覚束なくおはしけるより今一入悲しみの色をぞ増したまふ。
「まことに別れ奉りし後は越前三位のうへの様に、水の底にも沈むべかりしが、正しうこの世におはせぬ人とも聞かざりしかば、もし不思議にて今一度かはらぬ姿を見もし見えもやすると思ひてこそ、憂ながら今までもながらへてありつるに、今日を限りにておはせんずらん悲しさよ。いままで延びつるはもしやと思ふ憑みもありつる物を」
とて、昔今の事どものたまひかはすにつけても、ただ尽くせぬ物は涙なり。
「余りの御姿のしをれてさぶらふに、たてまつりかへよ」
とて袷の小袖に浄衣をそへて出されたりければ、三位中将これを著かへて、元著きたまへる物どもをば、
「形見に御覧ぜよ」
とて置かれけり、北の方、
「それもさる事にてさぶらへども、はかなき筆の跡こそ、永き世の形見にてさぶらへ」
とて、御硯を出されたりければ中将泣く泣く一首の歌をぞ書かれける。
せきかねて涙のかかる唐衣、のちのかたみにぬぎぞ替へぬる。
北の方ききもあへず。
ぬぎかふる衣も今は何かせん。けふを限りの形見と思へば。
「契あらば、後世にては必ず生あひ奉らん。一つ蓮にといのりたまへ。日も闌ぬ。奈良へも遠う候、武士の待つも心なし」
とて、出たまへば、北方袖にすがりて、
「いかにやいかに、暫し」
とて、引き留めたまふに、中将
「心のうちをばただ推量たまふべし。されどもつひには遁れ果つべき身にもあらず。又来ん世にてこそ見奉らめ」
とて出でたまへども、まことにこの世にてあひ見ん事は、これぞ限りと思はれければ、今一度立ち帰り度おぼしけれども、心弱くては叶はじと思ひきてぞ出られける。
北方御簾の際ちかく伏しまろびをめき叫びたまふ御声の、門の外まで遙に聞こえければ、駒をば更に疾めたまはず、涙にくれて行く先も見えねば、中々なりける見参かなと、今は悔しうぞ思はれける。
大納言佐殿やがてはしりついても、おはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、引覆いてぞ臥したまふ。
さる程に三位中将をば南都の大衆、請け取って、僉議す。
「抑この重衡卿は、大犯の悪人たる上、三千五刑の中に洩れ、修因感果の道理極定せり。仏敵法敵の逆臣なれば、東大寺興福寺の大垣を廻して鋸にてや斬るべき堀首にやすべき」
と僉議す。
老僧どもの申されけるは、
「それも僧徒の法に穏便ならず。ただ守護の武士にたまうで、木津の辺にて切らすべし」
とて、武士の手へぞかへしける。
武士これを請け取って、木津河の端にて切らんとするに、数千人の大衆、見る人幾等と云ふ数を知らず。
三位中将の年ごろ召し仕はれける侍に、木工右馬允知時といふ者あり。
八条女院に候ひけるが、最後を見奉らんとて、鞭を打ってぞ馳せたりける。
既に只今斬奉らんとする処に馳せ著て、千万立ち囲うだる人の中を掻き分け三位中将のおはしける御傍近う参りたり。
「知時こそただ今最後の御有様見参らせ候はんとて、これまで参りて候へ」
と泣く泣く申しければ、中将
「まことに志の程神妙なり。いかに知時仏を拝み奉って、きらればやと思ふはいかがせんずる。あまりに罪深う覚ゆるに」
とのたまへば、知時
「安い御事候なり」
とて、守護の武士に申しあはせ、その辺におはしける仏を一体迎へ奉て出きたり。
幸に阿弥陀にてぞましましける。
河原の沙の上に立て参らせ、やがて知時が狩衣の袖のくくりを解いて、仏の御手にかけ、中将に引きへさせ奉る。
中将これを引きへつつ、仏に向ひ奉て申されけるは、
「伝へ聞く、調達が三逆を作り、八万蔵の聖教を焼滅したりしも、つひには天王如来の記べつに預り、所作の罪業まことに深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ちずして却て得道の因となる。今重衡が逆罪を犯す事、全く愚意の発起に在らず、ただ世に随ふ理を存ずる計なり。命をたもつ者誰か王命を蔑如する。生を受くる者誰か父の命を背かん。彼といひこれといひ、辞するに所なし。理非仏陀の照覧にあり。抑罪報たち所に報い、運命ただ今を限りとす。後悔千万悲しんでも余りあり。ただし三宝の境界は、慈悲を心として、済度の良縁区なり。ただ縁楽意、逆即これ順、この文肝に銘ず。一念弥陀仏、即滅無量罪、願くは逆縁を以て順縁とし、ただ今最後の念仏に依って、九品託生を遂ぐべし」
とて高声に十念唱へつつ頸を延べてぞ切らせられける。
日ごろの悪行はさる事なれども、ただ今の有様を見奉るに、数千人の大衆も、守護の武士も、皆涙をぞ流しける。
その頸般若寺の大鳥井の前に釘付けにこそかけられけれ。
治承の合戦の時、爰に打ち立て、伽藍を滅したまへる故なり。
北方大納言佐殿首をばはねられたりとも屍をば取り寄せて孝養せんとて、輿を迎へに遣す。
げにも棄て置きたりければ取って輿に入れ、日野へ昇ってぞ帰りける。
これをまちうけ見たまひける北方の心の中、推量られて哀なり。
昨日まではゆくしげにおはせしかども、あのころなれば、何しかあらぬ様になりたまひぬ。
さてもあるべきならねば、その辺に法界寺と云ふ処にてさるべき僧どもあまた語らひて孝養あり。
頸をば大仏の聖俊乗房にさかくのたまへば大衆に乞うて日野へぞ遣しける。
頸も屍も煙になし、骨をば高野へ送り、墓をば日野にぞせられける。
北方も様をかへ、後世菩提を弔はれけるこそ哀なれ。