『平家物語』第3巻 原文全文

目次

赦文

 治承(ぢしやう)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)一日(ひとひ)、院(ゐん)御所(ごしよ)には拝礼(はいらい)おこなはれて、四日(よつか)の日(ひ)朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうかう)ありけり。なにごとも例(れい)にかはりたることはなけれども、去年(こぞ)の夏(なつ)新大納言成親卿以下(しんだいなごんなりちかのきやういげ)、近習(きんじゆ)の人々(ひとびと)多(おほ)く失(うしな)はれしこと、法皇(ほふわう)御憤(おんいきどほ)りいまだやまず、世(よ)の政(まつりごと)も物(もの)うくおぼしめされて、御心(おんこころ)よからぬことにてぞありける。

 太政入道(だじやうにふだう)も、多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)が告(つ)げ知(し)らせて後(のち)は、君(きみ)をも御(おん)うしろめたきことに思(おも)ひたてまつって、上(うへ)にはことなきやうなれども、下(した)には用心(ようじん)して、苦笑(にがわら)ひてのみぞありける。

 同(おなじき)正月(しやうぐわつ)七日(なぬか)彗星(せいせい)東方(とうばう)に出(い)づ。蚩尤気(しいうき)とも申(まう)す。また赤気(せきき)とも申(まう)す。十八日(じふはちにち)光(ひかり)を増(ま)す。

 さるほどに入道相国(にふだうしやうこく)の御女(おんむすめ)建礼門院(けんれいもんゐん)、そのころはいまだ中宮(ちゆうぐう)ときこえさせたまひしが、御悩(ごなう)とて、雲(くも)の上(うへ)、天が下(あめがした)の歎(なげ)きにてぞありける。諸寺(しよじ)に御読経(みどつきやう)始(はじ)まり、諸社(しよしや)へ官幣使(くわんぺいし)を立(た)てらる、医家薬(いけくすり)を尽(つ)くし、陰陽術(おんやうじゆつ)を窮(きは)め、大法秘法(だいほふひほふ)一つ(ひとつ)として残(のこ)る所(ところ)なう修(しゆ)せられけり。

 されども御悩(ごなう)ただにもわたらせたまはず、御懐妊(ごくわいにん)す。主上今年(しゆしやうこんねん)十八(じふはち)、中宮(ちゆうぐう)は二十二(にじふに)にならせたまふ。然(しか)れども、いまだ皇子(わうじ)も姫宮(ひめみや)も出来(いでき)させたまはず。もし皇子(わうじ)にてわたらせたまはば、いかに目出度(めでた)からんとて、平家(へいけ)の人々(ひとびと)は、ただ今(いま)皇子御誕生(わうじごたんじやう)のあるやうに、勇(いさ)み悦(よろこ)びあはれけり。

 他家(たけ)の人々(ひとびと)も、

「平氏(へいし)の御(おん)繁昌(はんじやう)折(をり)を得(え)たり、皇子御誕生(わうじごたんじやう)疑(うたが)ひなし」

 とぞ申(まう)しあはれける。

 御懐妊(ごくわいにん)定(さだ)まらせたまひしかば、有験(うげん)の高僧貴僧(かうそうきそう)に仰せ(おほせ)て、大法秘法(だいほふひほふ)を修(しゆ)し、星宿仏菩薩(しやうしゆくぶつぼさつ)につけて、皇子御誕生(わうじごたんじやう)と祈誓(きせい)せらる。六月(ろくぐわつ)一日(ひとひ)、中宮(ちゆうぐう)御著帯(ごちやくたい)ありけり。仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ)守覚(しゆかく)法(ほふ)親王(しんわう)、御参内(ごさんだい)あって、孔雀経(くじやくきやう)の法(ほふ)をもって、御加持(おんかぢ)あり。

 天台(てんだい)の座主(ざす)覚快(かくくわい)法(ほふ)親王(しんわう)、同(おな)じうまゐらせたまひて、変成男子(へんじやうなんし)の法(ほふ)を修(しゆ)せられけり。

 かかりしほどに、中宮(ちゆうぐう)は月(つき)の重(かさ)なるに随(したが)って、御身(おんみ)を苦(くる)しうさせたまふ。一度(ひとたび)笑(ゑ)めば百(もも)の媚(こび)ありけん漢(かん)の李夫人(りふじん)、昭陽殿(せうやうでん)の病(やまひ)の床(ゆか)もかくやと覚(おぼ)え、唐(たう)の楊貴妃(やうきひ)、梨花一枝(りくわいつし)春(はる)の雨(あめ)を帯(お)び、芙蓉(ふよう)の風(かぜ)にしをれ、女郎花(ぢよらうくわ)の露(つゆ)重(おも)げなるよりもなほ痛(いた)しき御(おん)さまなり。

 かかる御悩(ごなう)の折節(をりふし)に合(あ)はせて、こはき御物怪(おんもののけ)ども、取(と)り入(い)りたてまつる。よりまし明王(みやうわう)の縛(ばく)に掛(か)けて、霊顕(れいあら)はれたり。殊(こと)には讃岐院(さぬきのゐん)の御霊(ごれい)、宇治悪左府(うぢのあくさふ)の憶念(おくねん)、新大納言(しんだいなごん)成親(なりちか)の死霊(しりやう)、西光法師(さいくわうほふし)が悪霊(あくりやう)、鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)どもが生霊(しやうりやう)などぞ申(まう)しける。

 これによって太政入道(だじやうにふだう)生霊(しやうりやう)も死霊(しりやう)も、宥(なだ)めらるべしとて、そのころやがて讃岐院御追号(さぬきのゐんごついがう)あり、崇徳天皇(しゆとくてんわう)と号(がう)す。宇治悪左府(うぢのあくさふ)、贈官贈位(ぞうくわんぞうゐ)行(おこな)はれて、太政大臣正一位(だじやうだいじんじやういちゐ)を贈(おく)らる。勅使(ちよくし)は少内記惟基(せうないきこれもと)とぞきこえし。件(くだん)の墓所(むしよ)は、大和国(やまとのくに)添上(そうのかみ)の郡(こほり)、河上(かはかみ)の村(むら)、般若野(はんにやの)の五三昧(ござんまい)なり。

 保元(ほうげん)の秋(あき)堀(ほ)り起(お)こして捨(す)てられし後(のち)は死骸(しがい)道(みち)の辺(ほとり)の土(つち)となって、年々(ねんねん)にただ春(はる)の草(くさ)のみ茂(しげ)れり。今(いま)勅使(ちよくし)尋(たづ)ね来(き)たって、宣命(せんみやう)を読(よ)みけるに、亡魂(ばうこん)いかに嬉(うれ)しとおぼしけん。怨霊(をんりやう)はかく怖(おそろ)ろしきことなり。

 されば早良(さはら)の廃太子(はいたいし)には崇道天皇(しゆだうてんわう)と号(がう)し、井上(ゐがみ)内親王(ないしんわう)をば、皇后(くわうこう)の職位(しきゐ)に復(ふく)す。これみな怨霊(をんりやう)を宥(なだ)められし策(はかりごと)なり。冷泉院(れいぜんゐん)の御物狂(おんものぐる)はしく、花山(くわさん)の法皇(ほふわう)の十善万乗(じふぜんばんじよう)の帝位(ていゐ)をすべらせたまひしは、基方民部卿(もとかたみんぶのきやう)が霊(れい)とかや。三条院(さんでうゐん)の御(おん)目(め)も御覧(ごらん)ぜられざりしは、寛算供奉(くわんざんぐぶ)が霊(れい)なり。

 門脇宰相(かどわきのさいしやう)かやうのことども伝(つた)へ聞(き)いて、小松殿(こまつどの)に申(まう)されけるは、

「中宮(ちゆうぐう)御産(ごさん)の御祈(おんいの)りさまざまにさうらふなり。なにごと申(まう)しさうらふとも非常(ひじやう)の赦(しや)に過(す)ぎたることあるべしとも覚(おぼ)えさうらはず。中(なか)にも鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)ども還(かへ)されたらんほどの功徳善根(くどくぜんごん)、いかでかさうらふべき」

 と申(まう)されたりければ、小松殿(こまつどの)父(ちち)の禅門(ぜんもん)の御前(ごぜん)におはして、

「あの丹波少将(たんばのせうしやう)がことを宰相(さいしやう)の強(あなが)ちに歎(なげ)き申(まう)しさうらふが不便(ふびん)にさうらふ。中宮(ちゆうぐう)御悩(ごなう)の御(おん)こと、承(うけたまは)り及(およ)ぶごとくんば、ことさら成親卿(なりちかのきやう)が死霊(しりやう)などとぞきこえさうらふ。大納言(だいなごん)が死霊(しりやう)を宥(なだ)めんとおぼしめさんにつけても、生(い)きてさうらふ少将(せうしやう)をこそめし還(かへ)されさうらはめ。

人(ひと)の念(おも)ひを休(やす)めさせたまはば、おぼしめすことも叶(かな)ひ、人(ひと)の願(ねが)ひを叶(かな)へさせたまはば、御願(ごぐわん)もすなはち成就(じやうじゆ)して、中宮(ちゆうぐう)やがて皇子御誕生(わうじごたんじやう)あって、家門(かもん)の栄花(えいぐわ)、弥(いよいよ)盛(さか)んにさうらふべし」

 など申(まう)されければ、入道相国(にふだうしやうこく)日来(ひごろ)にも似(に)ずことの外(ほか)に和(やは)いで、

「さて俊寛(しゆんくわん)と康頼法師(やすよりほふし)がことは、いかに」

「それも同(おな)じうめしこそ還(かへ)されさうらはめ。もし一人(いちにん)も留(とど)められんは、なかなか罪(ざい)業(ごふ)たるべうさうらふ」

 と申(まう)されたりければ、

「康頼法師(やすよりほふし)がことはさることなれども、俊寛(しゆんくわん)は随分(ずいぶん)入道(にふだう)が口入(こうじゆ)をもって、人(ひと)となったる者(もの)ぞかし。それに所(ところ)しもこそ多(おほ)けれ、わが山荘(さんざう)鹿谷(ししのたに)に城郭(じやうくわく)を構(かま)へて、ことにふれて、奇怪(きつくわい)の振舞(ふるまひ)どもがありけんなれば、俊寛(しゆんくわん)をば思(おも)ひもよらず」

 とぞのたまひける。

 小松殿(こまつどの)帰(かへ)って叔父(をじ)の宰相殿(さいしやうどの)呼(よ)びたてまつり

「少将(せうしやう)はすでに赦免(しやめん)さうらはんずるぞ、御心(おんこころ)安(やす)うおぼしめされさうらへ」

 とのたまはば、宰相(さいしやう)手(て)を合(あ)はせてぞ悦(よろこ)ばれける。

「下(くだ)りし時(とき)もなどか申(まう)し請(こ)うざらんと思(おも)ひたりげにて、教盛(のりもり)を見(み)さうらふ度毎(たびごと)には涙(なみだ)を流(なが)しさうらひしが、不便(ふびん)にさうらふ」

 と申(まう)されければ、小松殿(こまつどの)

「まことにさこそはおぼしめされさうらめ。子(こ)はたれとても悲(かな)しければ、よく申(まう)しさうらはん」

 とて入(い)りたまひぬ。

 さるほどに鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)どもめし還(かへ)さるべく定(さだ)められて、入道相国(にふだうしやうこく)許(ゆる)し文(ふみ)下(くだ)されけり。御使(おんつかひ)すでに都(みやこ)を立(た)つ。宰相(さいしやう)余(あま)りの嬉(うれ)しさに、御使(おんつかひ)に私(わたくし)の使(つかひ)を添(そ)へてぞ下(くだ)されける。

「夜(よ)を昼(ひる)にして急(いそ)ぎ下(くだ)れ」

 とありしかども、心(こころ)に任(まか)せぬ海路(かいろ)なれば、浪風(なみかぜ)を凌(しの)いで行(ゆ)くほどに、都(みやこ)をば七月(しちぐわつ)下旬(げじゆん)に出(い)でたれども、長月(ながつき)二十日(はつか)ころにぞ、鬼界(きかい)が島(しま)には著(つ)きにける。

足摺

 御使(おんつかひ)は丹(たん)左衛門尉(さゑもんのじよう)基康(もとやす)といふ者(もの)なり。舟(ふね)よりあがって、

「これに都(みやこ)より流(なが)されたまひし、丹波少将殿(たんばのせうしやうどの)、平判官入道殿(へいはんぐわんにふだうどの)やおはする」

 と、声々(こゑごゑ)にぞ尋(たづ)ねける。二人(ふたり)の人々(ひとびと)は、例(れい)の熊野(くまの)まうでしてなかりけり。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)一人(いちにん)残(のこ)りけるが、これを聞(き)いて、

「あまりに思(おも)へば夢(ゆめ)やらん。また天魔波旬(てんまはじゆん)の、わが心(こころ)をたぶらかさんとていふやらん。現(うつつ)覚(おぼ)えぬ物(もの)かな」

 とて、周章(あわて)きためき走(はし)るともなく、倒(たふ)るともなく、いそぎ御使(おんつかひ)のまへに走(はし)りむかひ、

「なにごとぞ。これこそ京(きやう)より流(なが)されたる俊寛(しゆんくわん)よ」

 と名乗(なの)りたまへば、雑色(ざふしき)が頸(くび)にかけさせたる文(ふみ)袋(ふくろ)より、入道相国(にふだうしやうこく)の許(ゆる)し文(ふみ)取(と)り出(い)だいてたてまつる。ひらいてみれば、

「重科(ぢゆうくわ)遠流(をんる)を免(まぬか)ず、早(はや)く帰洛(きらく)の思(おも)ひを成(な)すべし。中宮(ちゆうぐう)御産(ごさん)の御祈(おんいの)りによって、非常(ひじやう)の赦(しや)を行(おこな)はる。然(しか)る間(あひだ)鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)少将成経(せうしやうなりつね)、康頼法師(やすよりほふし)赦免(しやめん)」

 とばかり書(か)かれて、俊寛(しゆんくわん)といふ文字(もじ)はなし。礼紙(れいし)にぞあるらんとて、礼紙(れいし)をみるにも見(み)えず。奥(おく)より端(はし)へよみ、端(はし)より奥(おく)へ読(よ)みけれども、二人(ふたり)とばかり書(か)かれて、三人(さんにん)とは書(か)かれず。

 さるほどに、少将(せうしやう)や判(はん)官(くわん)入道(にふだう)も出(い)できたり。少将(せうしやう)のとってよむにも、康頼(やすより)入道(にふだう)が読(よ)みけるにも、二人(ふたり)とばかり書(か)かれて、三人(さんにん)とは書(か)かざりけり。夢(ゆめ)にこそかかることはあれ、夢(ゆめ)かと思(おも)ひなさんとすればうつつなり。うつつかと思(おも)へばまた夢(ゆめ)のごとし。

 そのうへ二人(ふたり)の人々(ひとびと)の許(もと)へは、都(みやこ)よりことづけ文(ふみ)どもいくらもありけれども、俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)の許(もと)へは、こと問(と)ふ文(ふみ)一つ(ひとつ)もなし。さればわがゆかりの物(もの)どもは、都(みやこ)のうちにあとをとどめずなりにけりと、思(おも)ひやるにもしのびがたし。

「そもそもわれら三人(さんにん)は、罪(つみ)もおなじ罪(つみ)、配所(はいしよ)も一所(ひとつところ)なり。いかなれば赦免(しやめん)の時(とき)、二人(ふたり)はめしかへされて、一人(いちにん)ここに残(のこ)るべき。平家(へいけ)の思(おも)ひ忘(わす)れかや、執筆(しゆひつ)の誤(あやま)りか。こはいかにしつることどもぞや」

 と、天(てん)にあふぎ地(ち)に臥(ふ)して、泣(な)きかなしめどもかひぞなき。

 少将(せうしやう)の袂(たもと)にすがって、

「俊寛(しゆんくわん)がかくなるといふも、御辺(ごへん)の父(ちち)、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)、よしなき謀反(むほん)故(ゆゑ)なり。されば余所(よそ)のこととおぼすべからず。赦(しや)されなければ、都(みやこ)までこそかなはずとも、この舟(ふね)に乗(の)せて、九国(くこく)の地(ち)へ著(つ)けてたまふべ。おのおののこれにましつるほどにこそ、春(はる)はつばくらめ、秋(あき)は田(た)のもの鴈(かり)の音信(おと)づるやうに、おのづから故郷(こきやう)のことをも伝(つた)へ聞(き)きつれ。

今(いま)より後(のち)、なんとしてかは聞(き)くべき」

 とて、悶(もだ)え焦(こが)れたまひけり。少将(せうしやう)、

「まことにさこそはおぼしめされさうらめ、われらがめしかへさるる嬉(うれ)しさは、さることなれども、御有様(おんありさま)を見(み)おきたてまつるに、行(ゆ)くべき空(そら)も覚(おぼ)えず。打(う)ち乗(の)せたてまつっても、上(のぼ)りたうさうらふが、都(みやこ)の御使(おんつかひ)も、叶(かな)ふまじき由(よし)申(まう)す上(うへ)、ゆるされもなきに、三人(さんにん)ながら島(しま)を出(い)でたりなどきこえば、なかなか悪(あ)うさうらふなん。

成経(なりつね)まづまづまかり上(のぼ)って、人々(ひとびと)にも申(まう)し合(あ)はせ、入道相国(にふだうしやうこく)の気色(けしき)をも窺(うかが)ひて、迎(むか)へに人(ひと)をたてまつらん。その間(あひだ)はこの日(ひ)ころましつるやうに思(おも)ひなして待(ま)ちたまへ。なんとしても、命(いのち)は大切(たいせつ)のことなれば、今度(こんど)こそ漏(も)らさせたまふとも、つひにはなどか赦免(しやめん)なうてさうらふべき」

 と、慰(なぐさ)めたまへども、人目(ひとめ)も知(し)らず泣(な)き悶(もだ)えけり。

 すでに舟(ふね)出(いだ)すべしとて、ひしめきあへば、僧都(そうづ)乗(の)っては下(くだ)りつ、下(くだ)りては乗(の)りつ、あらましことをぞしたまひける。少将(せうしやう)の形見(かたみ)には、よるの衣(きぬ)、康頼(やすより)入道(にふだう)が形見(かたみ)には、一部(いちぶ)の法華経(ほけきやう)をぞとどめける。纜(ともづな)解(と)いておし出(いだ)せば、僧都(そうづ)綱(つな)に取(と)りつき、腰(こし)になり脇(わき)になり、長(たけ)の立(た)つまではひかれて出(い)づ。

 長(たけ)も及(およ)ばずなりければ、舟(ふね)に取(と)りつき、

「さていかにおのおの、俊寛(しゆんくわん)をばつひに捨(す)てはてたまふか。これほどとこそ思(おも)はざりつれ。日(ひ)ころの情(なさ)けも今(いま)は何(なに)ならず。ただ理(ことわり)をまげて乗(の)せたまへ。せめては九国(くこく)の地(ち)まで」

 とくどかれけれども、都(みやこ)の御使(おんつかひ)、

「いかにもかなひさうらふまじ」

 とて、取(と)りつきたまへる手(て)を引(ひ)きのけて、舟(ふね)をばつひに漕(こ)ぎ出(いだ)す。僧都(そうづ)せん方(かた)なさに、渚(なぎさ)にあがり倒(たふ)れふし、をさなき者(もの)の、めのとや母(はは)なんどをしたふやうに、足(あし)づりをして、

「これ乗(の)せてゆけ、具(ぐ)してゆけ」

 と、をめきさけべども、漕(こ)ぎ行(ゆ)く舟(ふね)の習(なら)ひにて、跡(あと)は白浪(しらなみ)ばかりなり。いまだ遠(とほ)からぬ舟(ふね)なれども、涙(なみだ)に暮(く)れて見(み)えざりければ、僧都(そうづ)たかき所(ところ)に走(はし)りあがり、沖(おき)の方(かた)をぞまねきける。かの松浦(まつら)さよ姫(ひめ)が、もろこし舟(ふね)をしたひつつ、ひれふりけんも、これには過(す)ぎじとぞみえし。

 舟(ふね)も漕(こ)ぎかくれ、日(ひ)も暮(く)るれども、あやしの臥(ふ)し処(ところ)へも帰(かへ)らず、浪(なみ)に足(あし)打(う)ち洗(あら)はせ、露(つゆ)にしをれてその夜(よ)はそこにぞ明(あ)かされける。さりとも少将(せうしやう)は、情(なさけ)ふかき人(ひと)なれば、よきやうに申(まう)すこともあらんずらんと、憑(たの)みをかけ、その瀬(せ)に身(み)をも投(な)げざりける、心(こころ)のほどこそはかなけれ。

 昔(むかし)壮里(さうり)息里(そくり)が海岳山(かいがくざん)へはなたれけんかなしみも、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られけれ。

御産

 さるほどにこの人々(ひとびと)は、鬼界(きかい)が島(しま)を出(い)でて、平宰相(へいざいしやう)の領(りやう)、肥前国(ひぜんのくに)鹿瀬(かせ)庄(しやう)に着(つ)きたまふ。宰相(さいしやう)京(きやう)より人(ひと)を下(くだ)して、

「年(とし)の内(うち)は浪風(なみかぜ)も烈(はげ)しう、道(みち)の間(あひだ)もおぼつかなうさうらふに、それにてよくよく身(み)いたはって、春(はる)になって上(のぼ)りたまへ」

 とありければ、少将(せうしやう)鹿瀬(かせ)庄(しやう)にて年(とし)を暮(く)らす。

 さるほどに、同年(おなじきとし)の十一月(じふいちぐわつ)十一日(じふいちにち)の寅剋(とらのこく)より、中宮(ちゆうぐう)御産(ごさん)の気(け)ましますとて、京中(きやうぢゆう)六波羅(ろくはら)ひしめきあへり。御産所(ごさんじよ)は、六波羅(ろくはら)池(いけ)殿(どの)にてありけるに、法皇(ほふわう)も御幸(ごかう)なる。関白(くわんぱく)殿(どの)を始(はじ)めたてまつって、太政大臣以下(だじやうだいじんいげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、すべて世(よ)に人(ひと)とかぞへられ、官加階(くわんかかい)にのぞみをかけ、所帯所職(しよたいしよしよく)を帯(たい)すほどの人(ひと)の、一人(いちにん)ももるるはなかりけり。

 先例(せんれい)も女御(にようご)、后(きさき)、御産(ごさん)の時(とき)にのぞんで、大赦(だいしや)おこなはるることあり。大治(だいぢ)二年(にねん)九月(くぐわつ)十一日(じふいちにち)、待賢門院(たいけんもんゐん)御産(ごさん)の時(とき)、大赦(だいしや)ありき。その例(れい)とて、今度(こんど)も重科(ぢゆうくわ)の輩(ともがら)、おほくゆるされける中(なか)に、俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)一人(いちにん)、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。

 御産平安(ごさんへいあん)、王子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ましまさば、八幡(やはた)、平野(ひらの)、大原野(おほはらの)なんどへ行啓(ぎやうけい)なるべしと、御立願(ごりふぐわん)ありけり。仙源(せんげん)法(ほふ)印(いん)、これを敬白(けいびやく)す。神社(じんじや)は太神宮(だいじんぐう)を始(はじ)めたてまつって、二十余箇所(にじふよかしよ)、仏寺(ぶつじ)は東大寺(とうだいじ)、興福寺以下(こうぶくじいげ)、十六箇所(じふろくかしよ)に御誦経(おんずきやう)あり。

 御誦経(おんずきやう)の御使(おんつかひ)は、宮(みや)の侍(さぶらひ)の中(なか)に、有官(うくわん)の輩(ともがら)これをつとむ。ひやうもんの狩衣(かりぎぬ)に、帯剣(たいけん)したる者(もの)どもが、色々(いろいろ)の御誦経物(おんずきやうもの)、御剣(ぎよけん)、御衣(ぎよい)を持(も)ちつづいて、東(ひんがし)の台(たい)より南(みなみ)庭(には)をわたって、西(にし)の中門(ちゆうもん)に出(い)づ。目出(めで)たかりし見(み)物(もの)なり。

 小松(こまつ)のおとどは、例(れい)の善悪(ぜんあく)にさわがぬ人(ひと)にておはしければ、その後遥(のちはる)かにほど歴(へ)て、嫡子権亮少将(ちやくしごんのすけのせうしやう)以下(いげ)、公達(きんだち)の車(くるま)ども、みなやりつづけさせ、色々(いろいろ)の御衣(ぎよい)四十(しじふ)領(りやう)、銀剣(ぎんけん)七つ(ななつ)、広蓋(ひろぶた)におかせ、御馬(おんうま)十二疋(じふにひき)引(ひ)かせて参(まゐ)りたまふ。

 これは寛弘(くわんこう)に上東門院(しやうとうもんゐん)御産(ごさん)の時(とき)、御堂殿(みだうどの)、御馬(おんうま)をまゐらせられし、その例(れい)とぞきこえし。このおとどは、中宮(ちゆうぐう)の御兄(おんあに)にておはしけるうへ、父子(ふし)の御契(おんちぎ)りなれば、御馬(おんうま)まゐらせたまふも理(ことわり)なり。五条大納言(ごでうのだいなごん)邦綱(くにつな)卿(きやう)、御馬(おんうま)二疋(にひき)進(しん)ぜらる。

 心(こころ)ざしのいたりか、徳(とく)のあまりかとぞ人(ひと)申(まう)しける。なほ伊勢(いせ)より始(はじ)めて、安芸(あき)の厳島(いつくしま)にいたるまで、七十余箇所(しちじふよかしよ)へ神馬(じんめ)を立(た)てらる。大内(おほうち)にも寮(れう)の御馬(おんうま)に四手(しで)つけて、数十疋(すじつぴき)ひったてたり。仁和寺(にんなじ)御室(おむろ)は孔雀経(くじやくきやう)の法(ほふ)、天台座主(てんだいざす)覚快(かくくわい)法(ほふ)親王(しんわう)は七仏薬師(しちぶつやくし)の法(ほふ)、寺(てら)の長吏(ちやうり)円慶法親王(ゑんきやうほふしんわう)は金剛童子(こんがうどうじ)の法(ほふ)、その外(ほか)五大虚空蔵(ごだいこくうざう)、六観音(ろくくわんおん)、一字金輪(いちじきんりん)、五(ご)壇(だん)の法(ほふ)、六字加輪(ろくじかりん)、八字文殊(はちじもんじゆ)、普賢延命(ふげんえんめい)にいたるまで、残(のこ)る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。

 護摩(ごま)の煙(けぶり)、御所(ごしよ)中(なか)にみち、鈴(すず)の音(おと)雲(くも)をひびかし、修法(しゆほふ)の声(こゑ)、身(み)の毛(け)よだって、いかなる御物の気(おんもののけ)なりとも、面(おもて)をむかふべしとも見(み)えざりけり。なほ仏所(ぶつしよ)の法(ほふ)印(いん)に仰せ(おほせ)て、御身等身(ごしんどうじん)の薬師(やくし)、並(なら)びに五大尊(ごだいそん)の像(ざう)を造(つく)り始(はじ)めらる。

 かかりしかども、中宮(ちゆうぐう)はひまなくしきらせたまふばかりにて、御産(ごさん)もとみになり遣(や)らず。入道相国(にふだうしやうこく)と二位(にゐ)殿(どの)は、胸(むね)に手(て)をおいて、こはいかにせんとぞあきれたまふ。人(ひと)の物(もの)申(まう)しけれども、ただ、

「ともかうも、よきやうに」

 とぞのたまひける。

「さりともいくさの陣(ぢん)ならば、これほど浄海(じやうかい)は、臆(おく)せぬ物(もの)を」

 とぞ、後(のち)には仰せ(おほせ)られける。御験者(おんげんじや)は、房覚(ばうかく)、性運(しやううん)両(りやう)僧正(そうじやう)、春尭(しゆんげう)法(ほふ)印(いん)、豪禅(がうぜん)、実専(じつせん)、両(りやう)僧都(そうづ)、おのおの僧伽(そうが)の句(く)どもあげ、本寺本山(ほんじほんざん)の三宝(さんぼう)、年来所持(ねんらいしよぢ)の本尊達(ほんぞんたち)、責(せ)めふせ責(せ)めふせもまれけり。まことにさこそはと覚(おぼ)えて、たっとかりける中(なか)に、法皇(ほふわう)は折(をり)しも新熊野(いまぐまの)へ御幸(ごかう)なるべきにて、御精進(おんしやうじん)の次(つぎ)でなりける間(あひだ)、錦帳(きんちやう)ちかくおはしあって、千手経(せんじゆきやう)を打(う)ち上(あ)げ遊(あそば)されけるにこそ、今(いま)一(いち)きはことかはって、さしも踊(をど)りくるふ御(おん)よりましどもが縛(ばく)もしばらくうちしづめけれ。

 法皇(ほふわう)仰せ(おほせ)なりけるは、

「いかなる御物気(おんもののけ)なりとも、この老法師(おいぼふし)がかくてさうらはらんには、いかでかちかづきたてまつるべき。なかんづくに今(いま)あらはるる処(ところ)の怨霊(をんりやう)どもは、みなわが朝恩(てうおん)によって、人(ひと)となったる者(もの)どもぞかし。たとひ報謝(ほうしや)の心(こころ)をこそ存(ぞん)ぜずとも、豈障碍(あにしやうげ)をなすべきや。

速(すみ)やかにまかり退(しりぞ)きさうらへ」

 とて、

「女人生産(によにんしやうさん)しがたからん時(とき)にのぞんで、邪魔遮障(じやましやしやう)し、苦(くるし)忍(しの)びがたからんにも、心(こころ)をいたして大悲呪(だいひしゆ)を称誦(しようじゆ)せば、鬼神(きじん)退散(たいさん)して、安楽(あんらく)に生(しやう)ぜん」

 と、遊(あそ)ばして、みな水精(すいしやう)の御数珠(おんずず)、推(お)し揉(も)ませたまへば、御産平安(ごさんへいあん)のみならず、皇子(わうじ)にてこそましけれ。

 頭中将重衡(とうのちゆうじやうしげひら)卿(きやう)、その時(とき)はいまだ中宮(ちゆうぐう)の亮(すけ)にておはしけるが、御簾(ぎよれん)の内(うち)よりつっと出(い)でて、

「御産平安(ごさんへいあん)、皇子御誕生(わうじごたんじやう)さうらふぞ」

 と、たからかに申(まう)されければ、法皇(ほふわう)を始(はじ)めまゐらせて、関白(くわんぱく)殿(どの)以下(いげ)の大臣(だいじん)、公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、おのおのの助修(じよしゆ)、数輩(すはい)の御験者(おんげんじや)、陰陽頭(おんやうのかみ)、典薬頭(てんやくのかみ)、すべて堂上堂下(だうじやうだうげ)一同(いちどう)にあっと悦(よろこ)びあへる声(こゑ)、門外(もんぐわい)までどよみて、しばしはしづまりやらざりけり。

 入道(にふだう)余(あま)りの嬉(うれ)しさに、声(こゑ)をあげてぞ泣(な)ける。悦泣(よろこびなき)とはこれをいふべきにや。小松殿(こまつどの)、中宮(ちゆうぐう)の御方(おんかた)にまゐらせたまひて、金銭(きんせん)九十九文(くじふくもん)、皇子(わうじ)の御(おん)枕(まくら)に置(お)き、

「天(てん)をもって父(ちち)とし、地(ち)をもって母(はは)とさだめたまへ。御命(おんいのち)は方士(はうし)東方朔(とうばうさく)が齢(よはひ)をたもち、御心(おんこころ)には天照大神(あまてらすおほみかみ)入(い)りかはらせたまへ」

 とて、桑(くは)の弓(ゆみ)、蓬(よもぎ)の矢(や)にて、天地(てんち)四方(しはう)を射(い)させらる。

公卿揃

 御乳(おんち)には、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)の北方(きたのかた)と定(さだ)められけりしが、さる七月(しちぐわつ)に、難産(なんざん)をしてうせたまひしかば、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)の北(きた)の方(かた)、帥佐殿(そちのすけどの)、御乳(おんち)にまゐらせたまひけり。後(のち)には帥(そち)の典侍(ないしのすけ)とぞ申(まう)しける。法皇(ほふわう)やがて還御(くわんぎよ)の御車(おんくるま)を門(もん)前(まへ)に立(た)てられたり。

 入道相国(にふだうしやうこく)うれしさのあまりに、砂金(しやきん)一千両(いつせんりやう)、富士(ふじ)の綿(わた)二千両(にせんりやう)、法皇(ほふわう)へ進上(しんじやう)せらる。しかるべからずとぞ、人々内々(ひとびとないない)ささやきあはれける。

 今度(こんど)の御産(ごさん)に、笑止(せうし)数多(あまた)あり。まづ法皇(ほふわう)の御験者(おんげんじや)。次(つぎ)に后(きさき)御産(ごさん)の時(とき)、御殿(ごてん)の棟(むね)より、甑(こしき)をまろばかすことあり。皇子御誕生(わうじごたんじやう)には南(みなみ)へおとし、皇女誕生(くわうによたんじやう)には北(きた)へおとすを、これは北(きた)へ落(お)としたりければ、

「こはいかに」

 とさわがれて、取(と)りあげて落(お)としなほしたりけれども、あしき御(おん)ことに人々(ひとびと)申(まう)しあへり。

 をかしかりしは入道相国(にふだうしやうこく)のあきれざま、目出(めで)たかりしは小松(こまつ)のおとどのふるまひ、ほいなかりしは、前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)の、最愛(さいあい)の北(きた)の方(かた)におくれたまひて、大納言(だいなごん)、大将(だいしやう)両職(りやうしよく)を辞(じ)して、籠居(ろうきよ)せられたりしこと。兄弟(きやうだい)ともに出仕(しゆつし)あらば、いかに目出(めで)たからん。

 次(つぎ)には七人(しちにん)の陰陽師(おんやうじ)をめされて、千度(せんど)の御祓(おんはらひ)つかまつるに、その中(なか)に掃部頭時晴(かもんのかみときはる)という老者(らうしや)あり。所従(しよじゆう)なんども乏少(ぼうせう)なりけり。余(あま)りに人(ひと)参(まゐ)りつどひて、たかんなをこみ、稲麻竹葦(たうまちくゐ)のごとし。

「役人(やくにん)ぞ、あけられよ」

 とて、おし分(わ)け参(まゐ)るほどに、右(みぎ)の沓(くつ)を踏(ふ)み抜(ぬ)かれて、そこにて些(ちつと)し立(た)ち休(やす)らふが、冠(かぶり)をさへ突(つ)き落(お)とされぬ。さばかりの砌(みぎり)に、束帯(そくたい)ただしき老者(らうしや)が、もとどりはなってねり出(い)でたりければ、わかき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、こらへずして一同(いちどう)に一度(ひとたび)にどっと笑(わら)ひあへり。

 陰陽師(おんやうじ)なんどいふは、反閇(へんばい)とて、足(あし)をもあだにふまずとこそ承(うけたまは)れ。それにかかる不思議(ふしぎ)のありけるを、その時(とき)はなにとも覚(おぼ)えざりしかども、後(のち)にこそ思(おも)ひあはすることどもも多(おほ)かりけれ。

 御産(ごさん)によって六波羅(ろくはら)へまゐらせたまふ人々(ひとびと)、関白松殿(くわんぱくまつどの)、太政大臣妙音院(だじやうだいじんめうおんゐん)、左大臣(さだいじん)大炊御門(おほひのみかど)、右大臣月輪殿(うだいじんつきのわどの)、内大臣(ないだいじん)小松殿(こまつどの)、左大将(さだいしやう)実定(さねさだ)、源大納言定房(げんだいなごんさだふさ)、三条大納言実房(さんでうだいなごんさねふさ)、五条大納言(ごでうのだいなごん)邦綱(くにつな)、籐大納言実国(とうだいなごんさねくに)、按察使(あぜち)資方(すけかた)、中御門(なかのみかど)中納言(ちゆうなごん)宗家(むねいへ)、花山院中納言兼雅(くわさんのゐんちゆうなごんかねまさ)、源中納言雅頼(げんちゆうなごんまさより)、権中納言実綱(ごんのちゆうなごんさねつな)、籐中納言資長(とうちゆうなごんすけなが)、池中納言頼盛(いけのちゆうなごんよりもり)、左衛門督時忠(さゑもんのかみときただ)、別当忠親(べつたうただちか)、左(ひだり)の宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)実家(さねいへ)、右(う)の宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)実宗(さねむね)、新宰相中将通親(しんさいしやうのちゆうじやうみちちか)、平宰相教盛(へいざいしやうのりもり)、六角宰相(ろくかくのさいしやう)家通(いへみち)、堀河宰相頼定(ほりかはのさいしやうよりさだ)、左大弁宰相長方(さだいべんのさいしやうながかた)、右大弁三位俊経(うだいべんのさんみとしつね)、左兵衛督重教(さひやうゑのかみしげのり)、右兵衛督光能(うひやうゑのかみみつよし)、皇太后宮大夫朝方(くわうたいこうぐうのだいぶともかた)、左京大夫(さきやうのだいぶ)長教(ながのり)、大宰大弐(だざいのだいに)親宣(ちかのぶ)、新三位実清(しんさんゐさねきよ)、已上(いじやう)三十(さんじふ)三人(さんにん)、右大弁(うだいべん)の外(ほか)は直衣(なほし)なり。

 不(ふ)参(さん)の人々(ひとびと)には、花山院前太政大臣忠雅公(くわさんのゐんのさきのだいじやうだいじんただまさこう)、大宮大納言隆季卿以下(おほみやのだいなごんたかすゑのきやういげ)十余人(じふよにん)、後日(ごにち)に布衣着(ほういちやく)して、入道相国(にふだうしやうこく)の西八条(にしはちでう)亭(てい)へむかはれけるとぞきこえし。

大塔建立

 御修法(みしゆほふ)の結願(けつぐわん)に、勧賞(けんじやう)どもおこなはる。仁和寺(にんなじ)御室(おむろ)は、東寺修造(とうじしゆざう)せらるべし。並(なら)びに後七日(ごしちにち)の御修法(みしゆほふ)、大元(たいげん)の法(ほふ)、灌頂(くわんぢやう)、興行(こうぎやう)せらるべき由(よし)仰せ(おほせ)下(くだ)さる。御弟子(おんでし)覚誓(かくせい)僧都(そうづ)、法(ほふ)印(いん)に挙(きよ)せらる。座主(ざす)の宮(みや)は、二品(にほん)並(なら)びに牛車(ぎつしや)の宣旨(せんじ)を申(まう)させたまふ。

 仁和寺(にんなじ)御室(おむろ)ささへ申(まう)させたまふによって、法眼円良(ほふげんゑんりやう)、法(ほふ)印(いん)になさる。その外(ほか)の勧賞(けんじやう)ども、毛挙(もうきよ)に暇(いとま)あらずとぞきこえし。中宮(ちゆうぐう)は日数(ひかず)へにければ、六波羅(ろくはら)より内裏(だいり)へまゐらせたまひけり。この御娘后(おんむすめきさき)にたたせたまひしかば、入道相国夫婦(にふだうしやうこくふうふ)ともに、あはれいかにもして、皇子御誕生(わうじごたんじやう)あれかし、位(くらゐ)につけたてまつり、外祖父(ぐわいそぶ)、外祖母(ぐわいそぼ)とあふがれんとぞねがはれける。

 わがあがめたてまつる安芸(あき)の厳島(いつくしま)に申(まう)さんとて、月(つき)まうでを始(はじ)めて、祈(いの)り申(まう)されければ、中宮(ちゆうぐう)やがて御懐妊(ごくわいにん)あって、思(おも)ひのごとく皇子(わうじ)にてましけるこそ目出度(めでた)ける。

 そもそも平家(へいけ)の安芸(あき)の厳島(いつくしま)を信(しん)じ始(はじ)められけることはいかにといふに、鳥羽院(とばのゐん)の御宇(ぎよう)に清盛公(きよもりこう)いまだ安芸守(あきのかみ)たりし時(とき)、安芸国(あきのくに)をもって、高野(かうや)の大塔(だいたふ)を修(しゆ)理(ことわり)せよとて、渡辺(わたなべ)の遠藤(ゑんどう)六(ろく)郎(らう)頼方(よりかた)を雑掌(ざつしやう)に付(つ)けられ、六年(ろくねん)に修(しゆ)理(ことわり)終(を)はんぬ。

 修(しゆ)理(ことわり)終(を)はって後(のち)、清盛高野(きよもりかうや)へのぼり、大塔(だいたふ)をおがみ、奥院(おくのゐん)へ参(まゐ)られたりければ、いづくより来(く)るともなき老僧(らうそう)の、眉(まゆ)には霜(しも)をたれ、額(ひたひ)に浪(なみ)をたたみ、かせ杖(つゑ)の二(ふた)またなるにすがって、いできたまへり。良久(ややひさ)しう御物語(おんものがたり)せさせたまふ。

「昔(むかし)よりいまにいたるまで、この山(やま)は密宗(みつしゆう)をひかへて退転(たいてん)なし。天下(てんか)にまたもさうらはず。大塔(だいたふ)すでに修(しゆ)理(ことわり)終(を)はりさうらひたり。さては安芸(あき)の厳島(いつくしま)、越前(ゑちぜん)の気比(けひ)の宮(みや)は、両界(りやうかい)の垂跡(すゐしやく)でさうらふが、気比(けひ)の宮(みや)はさかへたれども、厳島(いつくしま)はなきがごとくに荒(あ)れはててさうらふ。

この次(つぎ)に奏聞(そうもん)して、修(しゆ)理(ことわり)せさせたまへ。さだにもさうらはば、官加階(くわんかかい)は肩(かた)を並(なら)ぶる人(ひと)もあらじぞ」

 とて、立(た)たれけり。この老僧(らうそう)の居(ゐ)たまへる所(ところ)、異香(いきやう)すなはち薫(くん)じたり。人(ひと)を付(つ)けてみせたまへば、三町(さんちやう)ばかりはみえたまひて、その後(のち)はかき消(け)つやうに失(う)せたまひぬ。ただ人(ひと)にあらず、大師(だいし)にてましましけりと、弥(いよいよ)たっとくおぼしめし、娑婆世界(しやばせかい)の思(おも)ひ出(で)にとて、高野(かうや)の金堂(こんだう)に、曼陀羅(まんだら)を書(か)かれけるが、西曼陀羅(さいまんだら)をば、常明法印(じやうみやうほふいん)といふ絵師(ゑし)に書(か)かせらる。

 東曼陀羅(とうまんだら)をば、清盛(きよもり)書(か)かんとて、自筆(じひつ)に書(か)かれけるが、なんとか思(おも)はれけん、八葉(はちえふ)の中尊(ちゆうそん)の宝冠(ほうくわん)をば、わが首(くび)の血(ち)を出(い)だいて書(か)かれけるとぞきこえし。

 さて都(みやこ)へのぼり、院参(ゐんざん)して、この由(よし)奏聞(そうもん)せられければ、君(きみ)もなのめならず御感(ぎよかん)あって、なほ任(にん)をのべられ、厳島(いつくしま)を修(しゆ)理(ことわり)せらる。鳥居(とりゐ)を立(た)てかへ、社々(やしろやしろ)を作(つく)りかへ、百八十間(ひやくはちじつけん)の廻廊(くわいらう)をぞ造(つく)られける。修(しゆ)理(ことわり)終(を)はって、清盛(きよもり)厳島(いつくしま)へ参(まゐ)り、通夜(つや)せられたりける夢(ゆめ)に、御宝殿(ごほうでん)の内(うち)より、鬢(びん)結(むす)ひたる天童(てんどう)の出(い)でて、

「これは大明神(だいみやうじん)の御使(おんつかひ)なり。なんぢこの剣(つるぎ)をもって、一天(いつてん)四海(しかい)をしづめ、朝家(てうか)の御(おん)まもりたるべし」

 とて、銀(しろがね)の蛭巻(ひるまき)したる小長刀(こなぎなた)をたまはるといふ夢(ゆめ)をみて、覚(さ)めて後(のち)見(み)たまへば、うつつに枕(まくら)がみにぞたったりける。大明神(だいみやうじん)御託宣(ごたくせん)あって、

「なんぢ知(し)れりや忘(わす)れりや、ある聖(ひじり)をもっていはせしことは、ただし悪行(あくぎやう)あらば、子孫(しそん)まではかなふまじきぞ」

 とて、大明神(だいみやうじん)あがらせたまひぬ。目出(めで)たかりしことどもなり。

頼豪

 白(しろ)川(かは)院(ゐん)御在位(ございゐ)の御時(おんとき)、京極大殿(きやうごくのおほどの)の御娘(おんむすめ)、后(きさき)にたたせたまひて、賢子(けんし)の中宮(ちゆうぐう)とて、御最愛(ごさいあい)ありけり。主上(しゆしやう)この御(おん)腹(はら)に、皇子御誕生(わうじごたんじやう)あらまほしうおぼしめし、そのころ有験(うげん)の僧(そう)ときこえし、三井寺(みゐでら)の頼豪(らいがう)阿闍梨(あじやり)をめして、

「なんぢこの后(きさき)の腹(はら)に、皇子御誕生(わうじごたんじやう)祈(いの)り申(まう)せ。御願成就(ごぐわんじやうじゆ)せば、勧賞(けんじやう)はこふによるべし」

 とぞ仰せ(おほせ)ける。

「やすうさうらふ」

 とて三井寺(みゐでら)にかへり、百日肝胆(ひやくにちかんたん)を摧(くだ)いて祈(いの)り申(まう)しければ、中宮(ちゆうぐう)やがて百日(ひやくにち)のうちに御懐妊(ごくわいにん)あって、承保(じようほう)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)十六日(じふろくにち)、御産平安(ごさんへいあん)、皇子御誕生(わうじごたんじやう)ありけり。君(きみ)なのめならず御感(ぎよかん)あって、三井寺(みゐでら)の頼豪(らいがう)阿闍梨(あじやり)をめして、

「なんぢ所望(しよまう)のことはいかに」

 と仰せ(おほせ)下(くだ)されければ、三井寺(みゐでら)に戒壇建立(かいだんこんりふ)のことを奏(そう)す。主上(しゆしやう)、

「これこそ存(ぞん)の外(ほか)の所望(しよまう)なれ。一階僧正(いつかいそうじやう)なんどをも申(まう)すべきかとこそおぼしめしつれ。およそは皇子御誕生(わうじごたんじやう)あって、皇祚(くわうそ)を継(つ)がしめんことも、海内無為(かいだいぶゐ)を思(おも)ふためなり。今(いま)なんぢが所望(しよまう)達(たつ)せば、山門(さんもん)いきどほって、世上(せしやう)しづかなるべからず。

両(りやう)門(もん)合戦(かつせん)して、天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ)ほろびなんず」

 とて、御(おん)許(ゆる)されもなかりけり。

 頼豪口惜(らいがうくちを)しいことなりとて、三井寺(みゐでら)にかへって、干死(ひじに)にせんとす。主上(しゆしやう)大(おほ)きにおどろかせたまひて、江帥匡房卿(がうそつまさふさのきやう)、そのころはいまだ美作守(みまさかのかみ)ときこえしをめして、

「なんぢは頼豪(らいがう)と、師檀(しだん)の契(ちぎ)りあんなり。行(ゆ)いてこしらへて見(み)よ」

 と仰せ(おほせ)ければ、美作守綸言(みまさかのかみりんげん)をかうぶって、頼豪(らいがう)が宿坊(しゆくばう)に行(ゆ)きむかひ、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)を仰せ(おほせ)含(ふく)めんとするに、もっての外(ほか)にふすぼたる持仏堂(ぢぶつだう)にたてごもって、怖(おそろ)ろしげなるこゑして、

「天子(てんし)には戯(たはぶれ)の詞(ことば)なし、綸言(りんげん)汗(あせ)のごとしとこそ承(うけたまは)れ。これほどの所望(しよまう)かなはざらんにおいては、わが祈(いの)りだしたる皇子(わうじ)なれば、取(と)りたてまつって、魔道(まだう)へこそゆかんずらめ」

 とて、つひに対面(たいめん)もせざりけり。美作守(みまさかのかみ)帰(かへ)り参(まゐ)って、この由(よし)を奏聞(そうもん)す。頼豪(らいがう)はやがて干死(ひじに)に死(し)ににけり。君(きみ)いかがせんずると、叡慮(えいりよ)をおどろかせおはします。皇子(わうじ)やがて御悩(ごなう)付(つ)かせたまひて、さまざまの御祈(おんいの)りどもありしかども、かなふべしともみえさせたまはず。

 白髪(はくはつ)なりける老僧(らうそう)の、錫杖(しやくぢやう)をもって、皇子(わうじ)の御(おん)枕(まくら)にたたずむと、人々(ひとびと)の夢(ゆめ)にも見(み)え、まぼろしにも立(た)ちけり。おそろしなんどもおろかなり。

 さるほどに承歴(じようりやく)元年(ぐわんねん)八月(はちぐわつ)六日(むゆか)、皇子(わうじ)御年(おんとし)四歳(よつ)にてつひに隠(かく)させたまひぬ。敦文(あつふん)の親王(しんわう)これなり。主上(しゆしやう)なのめならず御歎(おんなげ)きありけり。山門(さんもん)にまた、西京(さいきやう)の座主(ざす)、良信大僧正(りやうしんだいそうじやう)、そのころは円融坊(ゑんゆうばう)の僧都(そうづ)とて、有験(うげん)の僧(そう)ときこえしを、内裏(だいり)へめして、

「こはいかんせんずる」

 と仰せ(おほせ)ければ、

「いづれも、わが山(やま)の力(ちから)にてこそかやうの御願(ごぐわん)は成就(じやうじゆ)することでさうらへ。九条右丞相(くでうのうじようじやう)、慈恵大僧正(じゑだいそうじやう)に、契(ちぎ)り申(まう)させたまふによってこそ、冷泉院(れいぜんゐん)の皇子御誕生(わうじごたんじやう)はさうらひしか。やすいほどの御(おん)ことさうらふ」

 とて、比叡山(ひえいざん)にかへりのぼり、山王大師(さんわうだいし)に、百日肝胆(ひやくにちかんたん)を摧(くだ)いて祈(いの)り申(まう)しければ、中宮(ちゆうぐう)やがて百日(ひやくにち)の内(うち)に御懐妊(ごくわいにん)あって承歴(じようりやく)三年(さんねん)七月(しちぐわつ)九日(ここのか)、御産平安(ごさんへいあん)、皇子御誕生(わうじごたんじやう)ありけり。堀河天皇(ほりかはてんわう)これなり。怨霊(をんりやう)は昔(むかし)もおそろしきことなり。

 今度(こんど)さしも目出(めで)たき御産(ごさん)に、大赦(だいしや)はおこなはれたりといへども、俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)一人(いちにん)、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。

 同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)八日(やうか)、皇子東宮(わうじとうぐう)にたたせたまふ。傅(ふ)には小松(こまつ)内大臣(ないだいじん)、大夫(だいぶ)には池(いけ)の中納言(ちゆうなごん)頼盛(よりもり)卿(きやう)とぞきこえし。

少将都帰

 明(あ)くれば治承(ぢしやう)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)下旬(げじゆん)に、丹波少将成経(たんばのせうしやうなりつね)、肥前国(ひぜんのくに)鹿瀬(かせ)庄(しやう)をたって、都(みやこ)へといそがれけれども、余寒(よかん)なほはげしく、海上(かいしやう)もいたく荒(あ)れければ、浦(うら)づたひ、島(しま)づたひして、きさらぎ十日(とをか)ころにぞ、備前児島(びぜんのこじま)に着(つ)きたまふ。それより父(ちち)大納言(だいなごん)の住(す)みたまひける所(ところ)を、尋(たづ)ねて見(み)たまふに、竹(たけ)の柱(はしら)、旧(ふ)りたる障子(しやうじ)なんどに、書(か)き置(お)かれたる筆(ふで)のすさみを見(み)たまひて、

「人(ひと)の形見(かたみ)には、手跡(しゆせき)に過(す)ぎたる物(もの)ぞなき。書(か)き置(お)きたまはずば、いかでかこれを見(み)るべき」

 とて、康頼(やすより)入道(にふだう)と二人(ふたり)、読(よ)んで泣(な)き、泣(な)いてはよむ。

「安元(あんげん)三年(さんねん)七月(しちぐわつ)二十日(はつか)出家(しゆつけ)、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)信俊(のぶとし)下向(げかう)」

 と書(か)かれたり。さてこそ源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)信俊(のぶとし)が、参(まゐ)りたりけるも知(し)られけれ。そばなる壁(かべ)には、

「三尊(さんぞん)来迎(らいかう)便(びん)あり、九品往生(くほんわうじやう)無疑(うたがひなし)」

 とも書(か)かれたり。この形見(かたみ)を見(み)たまひてこそ、

「さすが欣求浄土(ごんぐじやうど)の望(のぞ)みもおはしけり」

 と、限(かぎ)りなき歎(なげ)きの中(なか)にも、いささか頼(たの)もしげにはのたまひけれ。

 その墓(はか)を尋(たづ)ねて見(み)たまへば、松(まつ)の一(ひと)むらある中(なか)に、甲斐(かひ)甲斐(かひ)しく壇(だん)を築(つ)いたることもなし。土(つち)のすこし高(たか)き所(ところ)に、少将袖(せうしやうそで)かきあはせ、いきたる人(ひと)に申(まう)すやうに、泣(な)く泣(な)く申(まう)されけるは、

「遠(とほ)き御守(おんまもり)とならせおはしてさうらふことをば、島(しま)にて幽(かすか)に伝(つた)へ承(うけたまは)りしかども、心(こころ)にまかせぬうき身(み)なれば、いそぎ参(まゐ)ることもさうらはず。成経(なりつね)かの島(しま)へながされてのちの便(びん)なさ、一日片時(いちにちへんし)もやうやうにて露(つゆ)の命(いのち)消(き)えやらずして、二年(にねん)をおくって、めしかへさるる嬉(うれ)しさは、さることにてさうらへども、この世(よ)に渡(わた)せたまふを見(み)てさうらはばこそ、命(いのち)のながきかひもあらめ。

これまではいそがれつれども、いまより後(のち)はいそぐべしともおぼえず」

 と、かきくどいてぞ泣(な)かれける。

 まことに存生(ぞんじやう)の時(とき)ならば、大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)こそ、いかにもとのたまふべきに、生(しやう)を隔(へだ)つる習(ならひ)ほど、恨(うら)めしかりける物(もの)はなし。苔(こけ)の下(した)にはたれかこたふべき。ただ嵐(あらし)に聴(き)く松(まつ)の響(ひび)きばかりなり。その夜(よ)はよもすがら、康頼(やすより)入道(にふだう)と二人(ふたり)、墓(はか)のまはりを行道(ぎやうだう)して念仏(ねんぶつ)申(まう)し、明(あ)けぬれば、あたらしう壇(だん)築(つ)き、釘貫(くぎぬき)せさせ、まへに仮屋(かりや)つくり、七日七夜(しちにちしちや)念仏(ねんぶつ)申(まう)し経(きやう)書(か)いて、結願(けつぐわん)には、大(おほ)きなる卒塔婆(そとば)をたて、

「過去聖霊(くわこしやうりやう)、出離生死(しゆつりしやうじ)、証大菩提(しようだいぼだい)」

 と書(か)いて、年号(ねんがう)月日(つきひ)の下(した)に、

「孝子(かうし)成経(なりつね)」

 と書(か)かれたれば、賤山賤(しづやまがつ)の心(こころ)なきも、子(こ)に過(す)ぎたる宝(たから)なしとて、涙(なみだ)を流(なが)し、袖(そで)を絞(しぼ)らぬはなかりけり。年(とし)去(さ)り年来(としく)れども、忘(わす)れ難(がた)きは撫育(ぶいく)の昔(むかし)の恩(おん)、夢(ゆめ)のごとく幻(まぼろし)のごとし。尽(つ)くし難(がた)きは恋慕(れんぼ)の今(いま)の涙(なみだ)なり。三世十方(さんぜじつぱう)の仏陀(ぶつだ)の聖衆(しやうじゆ)も、あはれみたまひ、亡魂尊霊(ぼうこんそんりやう)も、いかにうれしとおぼしけん。

「今(いま)しばらく念仏(ねんぶつ)の功(こう)を積(つ)むべうさうらへども、都(みやこ)に待(ま)つ人(ひと)どもも、心(こころ)もとなうさうらん。またこそ参(まゐ)りさうらはめ」

 とて、亡者(ぼうじや)に暇(いとま)申(まう)しつつ、泣(な)く泣(な)くそこをぞ立(た)たれける。草(くさ)の陰(かげ)にても、名残(なごり)惜(を)しうや思(おも)はれけん。

 同(おなじき)三月(さんぐわつ)十六日(じふろくにち)、少将鳥羽(せうしやうとば)へあかうぞ着(つ)きたまふ。故(こ)大納言(だいなごん)の山(やま)庄(しやう)、洲浜殿(すはまどの)とて鳥羽(とば)にあり。住(す)みあらして年(とし)へにければ、築地(ついぢ)はあれどもおほひもなく、門(もん)はあれども扉(とぼそ)もなし。

 庭(には)に立(た)ち入(い)り見(み)たまへば、人跡(じんせき)たえて苔(こけ)ふかし。池(いけ)の辺(ほとり)を見(み)まはせば、秋(あき)の山(やま)の春(はる)風(かぜ)に、白浪(しらなみ)頻(しきり)に折(を)り懸(か)けて、紫鴛白鷗(しゑんはくおう)逍遥(せうえう)す。興(きよう)ぜし人(ひと)の恋(こひ)しさに、尽(つ)きせぬものは涙(なみだ)なり。家(いへ)はあれどもらんもん破(やぶ)れて、蔀(しとみ)遣(や)り戸(ど)もたえてなし。

「爰(ここ)には大納言殿(だいなごんどの)の、とこそおはせしか。この妻戸(つまど)をばかうこそ出(い)で入(い)りたまひしか。あの木(き)をばみづからこそ植(う)ゑたまひしか」

 なんどいひて、ことの葉(は)につけて、父(ちち)のことを恋(こひ)しげにこそのたまひけれ。

 弥生(やよひ)なかの六日(むゆか)なれば、花(はな)はいまだ名残(なごり)あり。楊梅桃李(やうばいたうり)の梢(こずゑ)こそ、折(をり)を知(し)りがほに色々(いろいろ)なれ。昔(むかし)の主(あるじ)はなけれども、春(はる)を忘(わす)れぬ花(はな)なれや。少将(せうしやう)花(はな)のもとに立(た)ち寄(よ)って、

桃李不言(たうりものいはず)、春幾暮(はるいくたびかくれぬ)。煙霞無跡(えんかあとなし)、昔誰栖(むかしたれかすみし)。

ふるさとの花(はな)の物(もの)いふ世(よ)なりせばいかにむかしのことを問(と)はまし

 この古(ふる)き詩歌(しいか)を口(くち)ずさみたまへば、康頼(やすより)入道(にふだう)も、折節(をりふし)あはれに覚(おぼ)えて、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をぞぬらしける。暮(く)るるほどとは待(ま)たれけれども、あまりに名残(なごり)惜(を)しくて、夜(よ)ふくるまでこそおはしけれ。深(ふ)け行(ゆ)くままには、荒(あ)れたる宿(やど)のならひとて、ふるき軒(のき)の板間(いたま)より、もる月影(つきかげ)ぞくまもなき。

 鶏籠(けいろう)の山(やま)明(あ)けなんとすれども、家路(いへじ)はさらに急(いそ)がれず。さてもあるべきならねば、むかへに乗物(のりもの)どもつかはして、待(ま)つらんも心(こころ)なうとて、泣(な)く泣(な)く洲浜殿(すはまどの)を出(い)でつつ、都(みやこ)へかへり入(い)られけん心(こころ)の中(なか)ども、さこそはあはれにもうれしうもありけめ。

 康頼(やすより)入道(にふだう)がむかへにも、乗物(のりもの)ありけれども、それには乗(の)らで、今(いま)さら名残(なごり)の惜(を)しきにとて、少将(せうしやう)の車(くるま)の尻(しり)に乗(の)って、七条(しちでう)河原(かはら)まではゆく。

 それより行(ゆ)き別(わか)れけるに、なほ行(ゆ)きもやらざりけり。花(はな)の下(した)の半日(はんじつ)の客(かく)、月前(つきのまへ)の一夜(いちや)の友(とも)、旅人(りよじん)が一村雨(ひとむらさめ)の過(す)ぎ行(ゆ)くに、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に立(た)ち寄(よ)って、わかるる余波(なごり)も惜(を)しきぞかし。況(いはん)やこれはうかりし島(しま)の住(すま)ひ、船(ふね)のうち浪(なみ)のうへ、一業所感(いちごふしよかん)の身(み)なれば、先世(ぜんぜ)の芳縁(はうえん)も、浅(あさ)からずや思(おも)ひ知(し)られけん。

 少将(せうしやう)はしうと平宰相(へいざいしやう)の宿所(しゆくしよ)へ立(た)ち入(い)りたまふ。少将(せうしやう)の母上(ははうへ)は、霊山(りやうざん)におはしけるが、昨日(きのふ)より宰相(さいしやう)の宿所(しゆくしよ)におはしてまたれけり。少将(せうしやう)の立(た)ち入(い)りたまふ姿(すがた)を、一目(ひとめ)みて、

「命(いのち)あれば」

 とばかりのたまひて、引(ひ)き被(かづ)きてぞ臥(ふ)したまふ。宰相(さいしやう)の内(うち)の女房(にようばう)、侍(さぶらひ)ども、さしつどひて、みな悦泣(よろこびなき)どもしけり。まして少将(せうしやう)の北(きた)の方(かた)、めのとの六条(ろくでう)が心(こころ)のうち、さこそはうれしかりけめ。六条(ろくでう)は尽(つ)きせぬ物(もの)思(おも)ひに黒(くろ)かりし髪(かみ)もみな白(しろ)くなり、北(きた)の方(かた)さしも花(はな)やかにうつくしうおはせしかども、いつしかやせ衰(おとろ)へて、その人(ひと)ともみえたまはず。

 ながされたまひし時(とき)、三歳(さんさい)にて別(わか)れたまひし稚(をさな)き人(ひと)、長(おとな)うなって、髪(かみ)結(むす)ふほどなり。またそのそばに、三(み)つばかりなるをさなき人(ひと)のおはしけるを、少将(せうしやう)、

「あれはいかに」

 とのたまへば、六条(ろくでう)、

「これこそ」

 とばかり申(まう)して、袖(そで)をかほにおしあてて涙(なみだ)をながしけるにこそ、さては下(くだ)りし時(とき)、心(こころ)苦(くる)しげなる有様(ありさま)を見(み)おきしが、こと故(ゆゑ)なく育(そだ)ちけるよと、思(おも)ひ出(い)でてもかなしかりけり。少将(せうしやう)はもとのごとく院(ゐん)にめしつかはれて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)にあがりたまふ。

 康頼(やすより)入道(にふだう)は、東山双林寺(ひがしやまさうりんじ)に、わが山(やま)庄(しやう)のありければ、それに落(お)ちついて、まづ思(おも)ひ続(つづ)けけり。

故郷(こきやう)の軒(のき)の板間(いたま)に苔(こけ)むして思(おも)ひしほどは洩(もら)ぬ月(つき)かな

 やがてそこに籠居(ろうきよ)して、憂(う)かりし昔(むかし)を思(おも)ひ続(つづ)け、宝物集(ほうぶつしふ)といふ物語(ものがたり)を書(か)きけるとぞきこえし。

有王

 さるほどに鬼界(きかい)が島(しま)へ、三人(さんにん)ながされたりし流人(るにん)、二人(ふたり)はめしかへされて、都(みやこ)にのぼりぬ。俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)一人(いちにん)、うかりし島(しま)の島(しま)守(もり)になりけるこそうたてけれ。僧都(そうづ)のをさなきより不便(ふびん)にしてめしつかはれける童(わらは)あり。名(な)をば有王(ありわう)とぞ申(まう)しける。

 鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)、今日(けふ)すでに都(みやこ)へ入(い)るときこえしかば、鳥羽(とば)まで行(ゆ)きむかうて、見(み)たれども、わが主(しゆう)はみえたまはず。いかにと問(と)へば、

「それはなほつみふかしとて、島(しま)にのこされたまひぬ」

 ときいて、心(こころ)うしなんどもおろかなり。常(つね)は六波羅(ろくはら)辺(ほとり)にたたずみありいて聞(き)きけれども、赦免(しやめん)あるべしとも聞(き)きいださず。僧都(そうづ)の御娘(おんむすめ)のしのびておはしける所(ところ)へ参(まゐ)って、

「この瀬(せ)にももれさせたまひて、御(おん)のぼりもさうらはず。いかにもして、かの島(しま)へわたって、御行衛(おんゆくゑ)を尋(たづ)ねまゐらせんとこそ、思(おも)ひ立(た)てさうらへ。御(おん)ふみたまはらん」

 と申(まう)しければ、泣(な)く泣(な)く書(か)いて賜(たまは)りけり。暇(いとま)をこふともよもゆるさじとて、父(ちち)にも母(はは)にも知(し)らせず、もろこし舟(ふね)のともづなは、卯月(うづき)五月(ごぐわつ)にとくなれば、夏衣(なつごろも)たつを遅(おそ)くや思(おも)ひけん、やよひの末(すゑ)に都(みやこ)を出(い)でて、多(おほ)くの浪路(なみぢ)を凌(しの)ぎつつ、薩摩潟(さつまがた)へぞ下(くだ)りける。

 薩摩(さつま)よりかの島(しま)へわたる船津(ふなつ)にて、人(ひと)あやしみ、着(き)たる物(もの)をはぎとりなんどしけれども、すこしも後悔(こうくわい)せず。姫(ひめ)御前(ごぜん)の御文(おんふみ)ばかりぞ、人(ひと)に見(み)せじとて、もとゆひの中(なか)に隠(かく)したりける。さて商人船(あきんどぶね)に乗(の)って、件(くだん)の島(しま)へわたってみるに、都(みやこ)にてかすかにつたへ聞(き)きしは、ことのかずにもあらず、田(た)もなし、畠(はたけ)もなし。

 村(むら)もなし、里(さと)もなし。おのづから人(ひと)はあれども、言々(ことごと)、なんといふ詞(ことば)も聞(き)き知(し)らず。もしかやうの者(もの)どもの中(なか)にわが主(しゆう)の行末(ゆくすゑ)知(し)りたる者(もの)やあらんと

「物(もの)申(まう)さう」

 といへば、

「なにごと」

 と答(こた)ふ。

「これに都(みやこ)よりながされたまひし、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)御(おん)房(ばう)と申(まう)す人(ひと)の、御行末(おんゆくすゑ)や知(し)りたる」

 と問(と)ふに、法勝寺(ほつしようじ)とも執行(しゆぎやう)とも、知(し)ったらばこそ返事(へんじ)もせめ、頭(かしら)をふって、

「知(し)らず」

 といふ。その中(なか)にある者(もの)が心得(こころえ)て、

「いさとよ、さやうの人(ひと)は、三人(さんにん)これにありしが、二人(ふたり)はめしかへされて、都(みやこ)へ上(のぼ)りぬ。今(いま)一人(いちにん)残(のこ)されて、あそここのに惑(まど)ひ歩(あゆ)けども、行ゑ(ゆくゑ)も知(し)らず」

 とぞいひける。山(やま)のかたのおぼつかなさに、はるかに分(わ)け入(い)り、嶺(みね)によぢ、谷(たに)に下(くだ)れども、白雲(しらくも)跡(あと)を埋(うづ)んで、ゆき来(き)の道(みち)もさだかならず、青嵐(せいらん)夢(ゆめ)を破(やぶ)って、その面影(おもかげ)も見(み)えざりけり。山(やま)にてはつひに尋(たづ)ねもあはず、海(うみ)の辺(ほとり)に著(つ)きて尋(たづ)ぬるに、沙頭(しやとう)に印(いん)を刻(きざ)む鴎(かもめ)、沖(おき)の白洲(しらす)にすだく浜千鳥(はまちどり)の外(ほか)は、跡(あと)とふ者(もの)もなかりけり。

 ある朝(あした)、いその方(かた)より、かげろふなんどのやうに、やせ衰(おとろ)へたる者(もの)、一人(いちにん)よろぼひ出(い)できたり。もとは法師(ほふし)にてありけりと覚(おぼ)えて、髪(かみ)は空(そら)さまへおひあがり、よろづの藻(も)くづとりついて、荊(おどろ)を戴(いただ)きたるがごとし。節(ふし)現(あらは)れて、皮(かは)ゆたひ、身(み)に着(き)たる物(もの)は、絹布(きぬぬの)のわきも見(み)えず。

 片(かた)手(て)には荒海布(あらめ)を拾(ひろ)ひ持(も)ち、片(かた)手(て)には網人(あみひと)に魚(うを)を貰(もら)ひて持(も)ち、歩(あゆ)むやうにはしけれども、はかもゆかず。よろよろとして出(い)できたり。

「都(みやこ)にて多(おほ)くの乞丐人(こつがいにん)みしかども、かかる者(もの)をばいまだみず。諸阿修羅等(しよあしゆらとう)、居在大海辺(こざいだいかいへん)とて、修羅(しゆら)の三悪四趣(さんあくししゆ)は、深山大海(しんざんだいかい)のほとりにありと、仏(ほとけ)の説(と)きおきたまひたれば、知(し)らずわれ、餓鬼道(がきだう)に迷(まよ)ひ来(く)るか」

 と思(おも)ふほどに、かれもこれも次第(しだい)に歩(あゆ)み近(ちか)づく。

 もしかやうの者(もの)も、わが主(しゆう)の御行末(おんゆくすゑ)知(し)りたることやあらんと、

「物(もの)申(まう)さう」

 といへば、

「何(なに)ごと」

 とこたふ。

「これに都(みやこ)より流(なが)されたまひし、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)御(おん)房(ばう)と申(まう)す人(ひと)の、御行末(おんゆくすゑ)や知(し)りたる」

 と問(と)ふに、童(わらは)は見(み)忘(わす)れたれども、僧都(そうづ)はなにか忘(わす)るべきなれば、

「これこそそのよ」

 といひもあへず、手(て)にもてる物(もの)を投(な)げ捨(す)てて、いさごの上(うへ)に倒(たふ)れふす。さてこそわが主(しゆう)の行末(ゆくすゑ)を知(し)りてけり。僧都(そうづ)やがて消(き)え入(い)りたまふを、ひざの上(うへ)にかきのせたてまつり、

「有王(ありわう)が参(まゐ)ってさうらふ。多(おほ)くの浪路(なみぢ)をしのいで、これまで尋(たづ)ね参(まゐ)りたるかひもなく、いかにやがてうき目(め)をば見(み)せさせたまふぞ」

 と、泣(な)く泣(な)く申(まう)しければ、ややあってすこし人(ひと)心地(ここち)出(い)でき、たすけおこされて、

「まことになんぢがこれまで尋(たづ)ね来(く)る心(こころ)ざしのほどこそ神妙(しんめう)なれ。明(あ)けても暮(く)れても、都(みやこ)のことのみ思(おも)ひゐたれば、恋(こひ)しき者(もの)どもが面影(おもかげ)は、夢(ゆめ)にみる折(をり)もあり、まぼろしにたつ時(とき)もあり。身(み)もいたくつかれよわって後(のち)は、夢(ゆめ)もうつつも思(おも)ひわかず。

さればなんぢが来(きた)れるも、ただ夢(ゆめ)とのみこそ覚(おぼ)ゆれ。もしこのことの夢(ゆめ)ならば、さめての後(のち)はいかがせん」

 有王(ありわう)、

「うつつにてさうらふなり。この御有様(おんありさま)にて、今(いま)まで御命(おんいのち)ののびさせたまひてさうらふこそ、不思議(ふしぎ)には覚(おぼ)えさうらふ」

 と申(まう)せば、

「さればこそ。去年(こぞ)少将(せうしやう)や判(はん)官(くわん)入道(にふだう)に捨(す)てられて後(のち)のたよりなさ、心(こころ)の中(なか)をばただ推量(おしはか)るべし。その瀬(せ)に身(み)をも投(な)げんとせしを、よしなき少将(せうしやう)の、今一度(いまいちど)都(みやこ)の音信(おとづれ)を待(ま)てかしなど、なぐさめおきしを、愚(おろ)かにもしやと頼(たの)みつつ、この島(しま)には人(ひと)のくひ物(もの)たえてなき所(ところ)なれば、身(み)に力(ちから)のありしほどは、山(やま)にのぼって硫黄(いわう)といふ物(もの)をとり、九国(くこく)よりかよふ商人(あきんど)にあひ、くひ物(もの)にかへなんどせしかども、日(ひ)にそへてよわりゆけば、今(いま)はその態(わざ)せず。

かやうに日(ひ)ののどかなる時(とき)は、磯(いそ)に出(い)でて網人(あみひと)釣人(つりうど)に手(て)をすりひざをかがめて魚(うを)をもらひ、塩干(しほひ)の時(とき)は貝(かひ)を拾(ひろ)ひ、荒海布(あらめ)を取(と)り、磯(いそ)の苔(こけ)に露(つゆ)の命(いのち)をかけてこそ、今日(けふ)までもながらへたれ。さらでは浮世(うきよ)を渡(わた)るよすがをば、いかにしつらんとか思(おも)ふらん。

爰(ここ)にてなにごともいはばやとは思(おも)へども、いざわが家(いへ)へ」

 とのたまへば、この御有様(おんありさま)にても、家(いへ)をもちたまへるふしぎさよと思(おも)ひて行(ゆ)くほどに、松(まつ)の一村(ひとむら)ある中(なか)に、より竹(たけ)を柱(はしら)にして、葦(あし)を結(むす)ひ、桁(けた)梁(はり)に渡(わた)し、上(うへ)にも下(した)にも松(まつ)の葉(は)をひしと取(と)り懸(か)けたれば、風(かぜ)雨(あめ)溜(たま)るべうもなし。昔(むかし)は法勝寺(ほつしようじ)の寺務職(じむしき)にて、八十余箇所(はちじふよかしよ)の庄務(しやうむ)をつかさどられしかば、棟門平門(むねかどひらかど)の内(うち)に、四五百人(しごひやくにん)の所従(しよじゆう)眷属(けんぞく)に囲繞(ゐねう)せられてこそおはせしが、まのあたりかかるうき目(め)を見(み)たまひけるこそふしぎなれ。

 業(ごふ)にさまざまあり。順現(じゆんげん)、順生(じゆんしよう)、順後業(じゆんごごふ)といへり。僧都(そうづ)一(いち)期(ご)の間(あひだ)、身(み)に用(もち)ゐる所(ところ)、みな大伽藍(だいがらん)、寺物仏物(じもつぶつもつ)にあらずといふことなし。さればかの信施無慚(しんせむざん)の罪(つみ)によって、今生(こんじやう)にはや感(かん)ぜられけりとぞ見(み)えたりける。

僧都死去

 僧都(そうづ)現(うつつ)にてありけりと思(おも)ひ定(さだ)めて、

「そもそも去年(こぞ)少将(せうしやう)や判(はん)官(くわん)入道(にふだう)がむかへにも、これらが文(ふみ)といふこともなし。今(いま)なんぢが便(びん)にも、音信(おとづれ)のなきはかうとも謂(おも)はざりけるか」

 有王(ありわう)涙(なみだ)に咽(むせ)び俯(うつぶ)して、しばしはものも申(まう)さず。ややあっておきあがり、泪(なみだ)をおさへて申(まう)しけるは、

「君(きみ)の西八条(にしはちでう)へ出(い)でさせたまひしかば、やがて追捕(ついぶ)の官人(くわんにん)参(まゐ)って御内(みうち)の人々(ひとびと)搦(から)め取(と)り、御謀反(ごむほん)の次第(しだい)を尋(たづ)ねて、うしなひはてさうらひぬ。北(きた)の方(かた)はをさなき人(ひと)を隠(かく)しかねまゐらっさせたまひて、鞍馬(くらま)の奥(おく)にしのばせたまひてさうらひしに、この童(わらは)ばかりこそ、時々(ときどき)参(まゐ)って宮仕(みやづか)へつかまつりさうらひしか。

いづれも御歎(おんなげ)きのおろかなることはさうらはざりしかども、稚(をさな)き人(ひと)は、あまりに恋(こ)ひまゐらせたまひて、参(まゐ)りさうらふたび毎(ごと)に、『有王(ありわう)よ、鬼界(きかい)が島(しま)とかやへ、われぐして参(まゐ)れ』と、むつからせたまひさうらひしが、過(す)ぎさうらひし二月(にぐわつ)に、痘(もがさ)と申(まう)すことに、失(う)せさせたまひさうらひぬ。

北(きた)の方(かた)はその御歎(おんなげ)きと申(まう)し、これの御(おん)ことと申(まう)し、一方(ひとかた)ならぬ御思ひ(おんおもひ)にしづませたまひ、日(ひ)にそへてよわらせたまひさうらひしが、同(おなじき)三月(さんぐわつ)二日(ふつか)の日(ひ)、つひに果(は)てなくならせたまひぬ。いま姫(ひめ)御前(ごぜん)ばかり、奈良(なら)の姑(をば)御前(ごぜん)の御(おん)もとに、御(おん)わたりさうらふ。

これに御文(おんふみ)たまはって参(まゐ)ってさうらふ」

 とて、取(と)りいだいてたてまつる。あけて見(み)たまへば、有王(ありわう)が申(まう)すにたがはず書(か)かれたり。奥(おく)には、

「などや三人(さんにん)ながされたる人(ひと)の、二人(ふたり)はめしかへされてさぶらふに、今(いま)まで御(おん)のぼりさぶらはぬぞ。あはれ高(たか)きも卑(いや)きも、女(をんな)の身(み)ばかり心(こころ)うかりける物(もの)はなし。をのこの身(み)にてさぶらはば、わたらせたまふ島(しま)へも、などか参(まゐ)らでさぶらふべき。

この有王(ありわう)御(おん)伴(とも)にて、いそぎのぼらせたまへ」

 とぞ書(か)かれたる。

「見(み)よ有王(ありわう)。この子(こ)が文(ふみ)の書(か)きやうのはかなさよ。己(おのれ)を伴(とも)にて、急(いそ)ぎ上(のぼ)れと書(か)いたることこそ恨(うら)めしけれ。心(こころ)に任(まか)せたる俊寛(しゆんくわん)が身(み)ならば、なんとてか三年(さんねん)の春(はる)秋(あき)をば送(おく)るべき。今年(こんねん)は十二(じふに)になるとこそ思(おも)ふに、これほどはかなくては、人(ひと)にも見(み)え、宮仕(みやづか)へもして、身(み)をも扶(たす)くべきか」

 とて、泣(な)かれけるにぞ、人(ひと)の親(おや)の心(こころ)は闇(やみ)にあらねども、子(こ)を思(おも)ふ道(みち)にまよふほども知(し)られける。

「この島(しま)へながされて後(のち)は、暦(こよみ)もなければ、月日(つきひ)のかはり行(ゆ)くをも知(し)らず。ただおのづから花(はな)の散(ち)り、葉(は)の落(お)つるを見(み)て、春(はる)秋(あき)をわきまへ、蝉(せみ)の声(こゑ)、麦秋(ばくしう)を送(おく)れば、夏(なつ)と思(おも)ひ、雪(ゆき)のつもるを冬(ふゆ)と知(し)る。白月(びやくぐわつ)、黒月(こくぐわつ)のかはり行(ゆ)くをみて、三十日(みそか)をわきまへ、指(ゆび)を折(をり)ってかぞふれば、今年(こんねん)は六つ(むつ)になると思(おも)ひつるをさなき者(もの)も、はや先(さき)立(た)ちけるござんなれ。

西八条(にしはちでう)へ出(い)でし時(とき)、この子(こ)がわれもゆかうどしたひしを、やがて帰(かへ)らうずるぞとこしらへおきしが、今(いま)のやうにおぼゆるぞや。それを限(かぎり)と思(おも)はましかば、今(いま)しばしもなどか見(み)ざらん。親(おや)となり子(こ)となり、夫婦(ふうふ)の縁(えん)を結(むす)ぶも、みなこの世(よ)一つ(ひとつ)に限(かぎり)らぬ契(ちぎり)ぞかし。

などさらばそれらがさやうに先(さき)立(た)ちけるを、今(いま)迄(まで)夢(ゆめ)にも知(し)らざりけるぞ。人目(ひとめ)も恥(は)ぢず、いかにもして、命(いのち)いかうど思(おも)ひしも、これらを今一度(いまいちど)見(み)ばやと思(おも)ふためなり。姫(ひめ)がことこそ心(こころ)苦(くる)しけれども、それはいき身(み)なれば、嘆(なげ)きながらもすごさんずらん。

さのみながらへて、おのれにうき目(め)を見(み)せんもわが身(み)ながらもすげなかるべし」

 とて、おのづからの食事(しよくじ)をとどめ、ひとへに弥陀(みだ)の名号(みやうがう)をとなへて、臨終正念(りんじゆうしやうねん)をぞいのられける。有王(ありわう)わたって二十三日(にじふさんにち)といふに、その庵(いほり)のうちにて、つひにをはりたまひぬ。年(とし)三十七(さんじふしち)とぞきこえし。有王(ありわう)むなしき姿(すがた)にとりつき、天(てん)に仰(あふ)ぎ地(ち)に伏(ふ)して、泣(な)きかなしめどもかひぞなき。

 心(こころ)の行(ゆ)くほど泣(な)きあきて、

「やがて後世(ごせ)の御供(おんとも)仕(つかまつ)るべうさうらへども、この世(よ)には姫(ひめ)御前(ごぜん)ばかりこそ御渡(おんわた)りさうらへ、後世訪(ごせとぶら)ひ参(まゐ)らすべき人(ひと)もさうらはず。しばらくありて、吊(とぶら)ひまゐりさうらはん」

 とて、ふしどをあらためず、庵(いほり)をきりかけ、松(まつ)のかれ枝(えだ)、葦(あし)の枯葉(かれは)を取(と)りおほひ、藻塩(もしほ)の煙(けぶり)となし、たてまつり、荼毘(だび)こと終(を)へにければ、白骨(はくこつ)を拾(ひろ)ひ頸(くび)にかけ、また商人(あきんど)舟(ふね)のたよりに、九国(くこく)の地(ち)へぞ着(つ)きにける。

 それよりいそぎ都(みやこ)へのぼり、僧都(そうづ)の御娘(おんむすめ)のおはしける所(ところ)に参(まゐ)って、ありしやう、始(はじ)めより細々(こまごま)と語(かた)り申(まう)す。

「なかなか御文(おんふみ)を御覧(ごらん)じてこそ、いとど御思ひ(おんおもひ)は勝(まさ)らせたまひてさうらひしか。件(くだん)の島(しま)には、硯(すずり)も紙(かみ)もさうらはねば、御返事(おんへんじ)にも及(およ)ばず。おぼしめされさうらひし御心(おんこころ)の内(うち)、さながらむなしうてやみさうらひにき。今(いま)は生々世々(しやうじやうせせ)を送(おく)り、他生曠劫(たしやうくわうごふ)をへだつとも、いかでか御声(おんこゑ)をも聞(き)き、御(おん)姿(すがた)をも見(み)まゐらせたまふべき」

 と申(まう)しければ、ふしまろび、声(こゑ)も惜(を)しまず泣(な)かれけり。やがて十二(じふに)の年(とし)尼(あま)になり、奈良(なら)の法華寺(ほつけじ)に、勤(つと)めすまして、父母(ふぼ)の後世(ごせ)を訪(とぶら)ひたまふぞ哀(あは)れなる。有王(ありわう)は俊寛僧都(しゆんくわんそうづ)の遺骨(ゆいこつ)を頸(くび)にかけ、高野(かうや)へのぼり、奥(おく)の院(ゐん)に納(をさ)めつつ、蓮華谷(れんげだに)にて法師(ほふし)になり、諸国七道(しよこくしちだう)修行(しゆぎやう)して、主(しゆう)の後世(ごせ)をぞ訪(とぶら)ひける。

 かやうに人(ひと)の思(おも)ひ歎(なげ)きのつもりぬる、平家(へいけ)の末(すゑ)こそおそろしけれ。

飆

 同(おなじき)五月(ごぐわつ)十二日(じふににち)午剋(うまのこく)ばかり、京中(きやうぢゆう)には辻風(つじかぜ)おびたたしう吹(ふ)いて、人屋(じんをく)おほく顛倒(てんたう)す。風(かぜ)は中御門(なかのみかど)京極(きやうごく)よりおこって、未申(ひつじさる)の方(かた)へ吹(ふ)いて行(ゆ)くに、棟門平門(むねかどひらかど)を吹(ふ)きぬいて、四五町十町(しごちやうじつちやう)吹(ふ)きもてゆき、けた、なげし、柱(はしら)なんどは、虚空(こくう)に散在(さんざい)す。

 檜皮(ひはだ)、葺板(ふきいた)のたぐひ、冬(ふゆ)の木葉(このは)の風(かぜ)に乱(みだ)るるがごとし。おびたたしうなりどよむ音(おと)、かの地獄(ぢごく)の業風(ごふふう)なりとも、これには過(す)ぎじとぞ見(み)えし。ただ舎屋(しやをく)の破損(はそん)するのみならず、命(いのち)を失(うしな)ふ人(ひと)も多(おほ)し。牛馬(ぎうば)のたぐひ、数(かず)を尽(つ)くして打(う)ちころさる。

 これただごとにあらず、御占(みうら)あるべしとて、神祇官(じんぎくわん)にして御占(みうら)あり。

「今(いま)百日(ひやくにち)のうちに、禄(ろく)を重(おも)んずる大臣(だいじん)の慎(つつし)み、別(べつ)しては天下(てんか)の大事(だいじ)、並(なら)びに、仏法王法(ぶつぽふわうぼふ)ともに傾(かたぶ)いて、兵革相続(ひやうがくさうぞく)すべし」

 とぞ、神祇官(じんぎくわん)、陰陽寮(おんやうれう)、ともにうらなひ申(まう)しける。

医師問答

 小松(こまつ)のおとどかやうのことどもを聞(き)きたまひて、よろづ心(こころ)ぼそうや思(おも)はれけん、そのころ熊野(くまの)参詣(さんけい)のことありけり。本宮証誠殿(ほんぐうしようじやでん)の御前(ごぜん)にて、夜(よ)もすがら敬白(けいびやく)せられけるは、

「親父(しんぶ)入道相国(にふだうしやうこく)の体(てい)をみるに、悪逆無道(あくぎやくぶたう)にして、ややもすれば君(きみ)をなやましたてまつる。重盛長子(しげもりちやうし)として、頻(しき)りに諫め(いさめ)をいたすといへども、身不肖(みふせう)の間(あひだ)、かれもって服膺(ふくよう)せず。そのふるまひをみるに、一(いち)期(ご)の栄花(えいぐわ)なほあやふし。

枝葉(しえふ)連続(れんぞく)して、親(おや)を顕(あらは)し、名(な)を揚(あ)げんことかたし。

この時(とき)に当(あ)たって、重盛(しげもり)苟(いやし)うも思(おも)へり。なまじひに列(れつ)して、世(よ)に浮沈(ふちん)せんこと、あへて良臣(りやうしん)孝子(かうし)の法(ほふ)にあらず。しかじ名(な)を逃(のが)れ身(み)を退(しりぞ)いて、今生(こんじやう)の名望(みやうまう)を投(な)げ棄(す)て、来世(らいせ)の菩(ぼ)提(ひつさ)を求(もと)めんには。ただし凡夫薄地(ぼんぶはくぢ)、是非(ぜひ)にまどへるが故(ゆゑ)に、なほ志(こころざし)を恣(ほしいまま)にせず。

南無権現金剛童子(なむごんげんこんがうどうじ)、願(ねが)はくは子孫繁栄(しそんはんえい)たえずして、仕(つか)へて朝廷(てうてい)にまじはるべくは、入道(にふだう)の悪心(あくしん)を和(やは)げて、天下(てんか)の安全(あんぜん)を得(え)しめたまへ。栄耀(えいえう)また一(いち)期(ご)をかぎって、後昆(こうこん)恥(はぢ)に及(およ)ぶべくは、重盛(しげもり)が運命(うんめい)を縮(ちぢ)めて、来世(らいせ)の苦輪(くりん)を助(たす)けたまへ。

両箇(りやうか)の求願(ぐぐわん)、ひとへに冥助(みやうじよ)を仰(あふ)ぐ」

 と、肝胆(かんたん)を摧(くだ)いて祈念(きねん)せられけるに、灯籠(とうろう)の火(ひ)のやうなる物(もの)の、おとどの御身(おんみ)より出(い)でて、はっと消(き)ゆるがごとくして失(う)せにけり。人(ひと)あまた見(み)たてまつりけれども、恐(おそ)れてこれを申(まう)さず。また下向(げかう)の時(とき)、岩田川(いはたがは)を渡(わた)られけるに、嫡子権亮少将維盛以下(ちやくしごんのすけのせうしやうこれもりいげ)の公達(きんだち)、浄衣(じやうえ)の下(した)に薄色(うすいろ)の衣(きぬ)を着(き)て、夏(なつ)のことなれば、なにとなう河(かは)の水(みづ)に戯れ(たはむれ)たまふほどに、浄衣(じやうえ)のぬれて表(おもて)に移(うつ)りたるが、ひとへに色(いろ)のごとくに見(み)えければ、筑後守貞能(ちくごのかみさだよし)、これを見(み)とがめて、

「なんとさうらふやらん、あの御(おん)浄衣(じやうえ)の、よにいまはしきやうに見(み)えさせおはしましさうらふ。めしかへらるべうやさうらん」

 と申(まう)しければ、おとど、

「わが所願(しよぐわん)すでに成就(じやうじゆ)しにけり。その浄衣(じやうえ)あへてあらたむべからず」

 とて、別(べつ)して岩田川(いはたがは)より熊野(くまの)へ、悦(よろこ)びの奉幣(ほうへい)をぞ立(た)てられける。人(ひと)あやしと思(おも)ひけれども、その心(こころ)をえず。しかるにこの公達(きんだち)、ほどなくまことの色(いろ)を着(き)たまひけるこそふしぎなれ。

 下向(げかう)の後(のち)、いくばくの日数(ひかず)を経(へ)ずして、病(やまひ)付(つ)きたまふ。権現(ごんげん)すでに御納受(ごなふじゆ)あるにこそとて、療治(れうじ)もしたまはず。祈祷(きたう)をもいたされず。そのころ宋朝(そうてう)より、すぐれたる名医(めいい)わたって、本朝(ほんてう)にやすらふことあり。禅門(ぜんもん)入道相国(にふだうしやうこく)、福原(ふくはら)の別業(べつげふ)におはしけるが、越中守盛俊(ゑつちゆうのかみもりとし)を使(つかひ)で、小松殿(こまつどの)へ仰せ(おほせ)られけるは、

「所労弥(しよらういよいよ)大事(だいじ)なる由(よし)そのきこえあり。兼(か)ねてはまた、宋朝(そうてう)より勝(すぐ)れたる名医(めいい)わたれり。禅門(ぜんもん)めすべし。これをめし請(しやう)じて、医療(いれう)をくはへしめたまへ」

 とのたまひつかはされたりければ、小松殿(こまつどの)扶(たす)け起(お)こされ、盛俊(もりとし)を御前(ごぜん)へめして、

「まづ医療(いれう)のこと、畏(かしこ)まって承(うけたまは)りさうらふと申(まう)すべし。ただしなんぢも承(うけたまは)れ。延喜(えんぎ)御門(みかど)は、さばかりの賢王(けんわう)にてましましけれども、異国(いこく)の相人(さうにん)を、都(みやこ)のうちへ入(い)れさせたまひたりけるをば、末代(まつだい)までも、賢王(けんわう)の御誤(おんあやま)り、本朝(ほんてう)の恥(はぢ)とこそみえけれ。

況(いはん)や重盛(しげもり)ほどの凡人(ぼんにん)が、異国(いこく)の医師(いし)を王城(わうじやう)へいれんこと、国(くに)の恥(はぢ)にあらずや。漢高祖(かんのこうそ)は三尺(さんじやく)の剣(つるぎ)を提(ひつさ)げて、天下(てんか)を治(ぢ)めしかども、淮南(わいなん)の黥布(げいふ)を討(う)ちし時(とき)、流矢(りうし)にあたって疵(きず)をかうぶる。后呂太后(きさきりよたいこう)、良医(りやうい)をむかへて見(み)せしむるに、医(い)のいはく、『この疵(きず)治(なほ)しつべし。

ただし五十斤(ごじつきん)の金(きん)を与(あた)へば治(なほ)せん』といふ。

高祖(かうそ)のたまはく、『わが守(まもり)の強(つよ)かりしほどは、多(おほ)くのたたかひにあひて、疵(きず)をかうぶりしかども、その痛(いた)みなし。運(うん)すでに尽(つ)きぬ。命(いのち)はすなはち天(てん)にあり。たとひ扁鵲(へんじやく)といふとも、なにの益(えき)かあらん。さらばまた金(きん)を惜(を)しむに似(に)たり』とて、五十斤(ごじつきん)の金(きん)を、医師(いし)にあたへながら、つひに治(なほ)せざりき。

先言(せんげん)耳(みみ)にあり。今(いま)もって甘心(かんしん)す。重盛(しげもり)いやしくも九(く)卿(きやう)に列(れつ)して、三台(さんたい)にのぼる。その運命(うんめい)をはかるに、もって天心(てんしん)にあり。なんぞ天心(てんしん)を察(さつ)せずして、おろかに医療(いれう)をいたはしうせむや。所労(しよらう)もし定業(ぢやうごふ)たらば、医療(いれう)をくはふとも益(えき)なからん。

また非業(ひごふ)たらば、療治(れうじ)をくはへずとも、たすかることをうべし。かの耆婆(ぎば)が医術(いじゆつ)、及(およ)ばずして、大覚世尊(だいかくせそん)、滅度(めつど)を跋提河(ばつだいが)の辺(ほとり)に唱(とな)ふ。これすなはち定業(ぢやうごふ)の病(やまひ)いやさざることをしめさんがためなり。定業(ぢやうごふ)なほ医療(いれう)にかかはるべうさうらはば、豈釈尊入滅(あにしやくそんにふめつ)あらんや。

定業(ぢやうごふ)また治(なほ)するに堪(た)へざる旨(むね)あきらけし。治(なほ)するは仏(ぶつ)体(てい)なり、療(れう)ずるは耆婆(ぎば)なり。しかれば重盛(しげもり)が身(み)、仏(ぶつ)体(てい)にあらず、名医(めいい)また耆婆(ぎば)に及(およ)ぶべからず。たとひ四(し)部(ぶ)の書(しよ)をかがみて、百病(ひやくびやう)に長(ちやう)ずといふとも、いかでか有待穢身(うたいゑしん)を救療(くれう)せんや。

たとひ五経(ごきやう)の説(せつ)を詳(つまびら)かにして、衆病(しゆびやう)をいやすといふとも、豈先世(あにぜんせ)の業病(ごふびやう)を治(なほ)せんや。もしかの医術(いじゆつ)によって存命(ぞんめい)せば、本朝(ほんてう)の医道(いだう)なきに似(に)たり。医術効験(いじゆつこうげん)なくんば、面謁所詮(めんえつしよせん)なし。なかんづく本朝(ほんてう)鼎臣(ていしん)の外相(ぐわいさう)をもって、異朝富有(いてうふいう)の来(き)客(かく)にまみえんこと、かつは国(くに)の恥(はぢ)、かつは道(みち)の陵遅(りようち)なり。

たとひ重盛(しげもり)、命(いのち)は亡(ぼう)ずといふとも、いかでか国(くに)の恥(はぢ)を思(おも)ふ心(こころ)を存(ぞん)ぜざらん。この由(よし)を申(まう)せ」

 とこそのたまひけれ。

 盛俊(もりとし)福原(ふくはら)に帰(かへ)り参(まゐ)って、この由(よし)泣(な)く泣(な)く申(まう)しければ、入道相国(にふだうしやうこく)、

「これほど国(くに)の恥(はぢ)を思(おも)ふ大臣(だいじん)、上古(しやうこ)にもいまだきかず。まして末代(まつだい)にあるべしとも覚(おぼ)えず。日本(につぽん)に相応(さうおう)せぬ大臣(だいじん)なれば、いかさまにも今度(こんど)うせなんず」

 とて、泣(な)く泣(な)く急(いそ)ぎ都(みやこ)へ上(のぼ)られけり。

 同(おなじき)七月(しちぐわつ)二十八日(にじふはちにち)、小松殿(こまつどの)出家(しゆつけ)したまひぬ。法名(ほふみやう)は浄蓮(じやうれん)とこそつきたまへ。やがて八月(はちぐわつ)一日(ひとひ)、臨終正念(りんじゆうしやうねん)に住(ぢゆう)して、つひに失(う)せたまひぬ。御年(おんとし)四十三(しじふさん)。世(よ)はさかりとみえつるに、哀(あは)れなりしことどもなり。入道相国(にふだうしやうこく)の、さしもよこ紙(かみ)をやられつるも、この人(ひと)の直(なほ)し宥(なだ)められつればこそ、世(よ)も穏(おだ)やかりつれ、この後(のち)天下(てんか)にいかなることか出(い)でこんずらむとて、京中(きやうぢゆう)の上下(じやうげ)歎(なげ)きあへり。

 前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)のかたやうの人(ひと)は、

「世(よ)はただ今(いま)大将(だいしやう)殿(どの)へ参(まゐ)りなんず」

 とぞ悦(よろこ)びける。人(ひと)の親(おや)の子(こ)を思(おも)ふ習(なら)ひは、おろかなるが先(さき)立(た)つだにもかなしきぞかし。いはんやこれは、当家(たうけ)の棟梁(とうりやう)、当世(たうせい)の賢人(けんじん)にておはしければ、恩愛(おんあい)の別(べつ)、家(いへ)の衰微(すゐび)、悲(かな)しみてもなほ余(あまり)あり。されば世(よ)には良臣(りやうしん)を失(うしな)へることを歎(なげ)き、家(いへ)には武略(ぶりやく)のすたれぬることをかなしむ。

 およそはこのおとど、文章(ぶんしやう)麗(うるは)しうして、心(こころ)に忠(ちゆう)を存(ぞん)じ、才芸(さいげい)すぐれて、詞(ことば)に徳(とく)を兼(か)ねたまへり。

無文

 天性(てんしやう)このおとどは、不思議(ふしぎ)の人(ひと)にて、未来(みらい)のことをも、かねてさとりたまひけるにや。さる四月(しぐわつ)七日(なぬか)の夢(ゆめ)に、見(み)たまひけるこそふしぎなれ。譬(たと)へば、なんとも知(し)らぬ浜路(はまぢ)を、遥々(はるばる)とあゆみ行(ゆ)きたまふほどに、道(みち)の傍(かたはら)に大(おほ)きなる鳥居(とりゐ)のありけるを、

「あれはいかなる鳥居(とりゐ)やらん」

 と問(と)ひたまへば、

「春日大明神(かすがだいみやうじん)の御(おん)鳥居(とりゐ)なり」

 と申(まう)す。人(ひと)多(おほ)く群集(ぐんじゆ)したり。その中(なか)に法師(ほふし)の頸(くび)を、一つ(ひとつ)さしあげたり。

「さてあのくびはいかに」

 と問(と)ひたまへば、

「これは平家(へいけ)太政大臣(だじやうだいじん)入道殿(にふだうどの)の御(おん)頸(くび)を、悪行超過(あくぎやうてうくわ)したまへるによって、当社(たうしや)大明神(だいみやうじん)の、めしとらせたまひてさうらふ」

 と申(まう)すと覚(おぼ)えて夢(ゆめ)うちさめ、

「当家(たうけ)は保元(ほうげん)平治(へいぢ)よりこのかた、度々(どど)の朝敵(てうてき)をたひらげて、勧賞(けんじやう)身(み)にあまり、忝(かたじけな)くも一天(いつてん)の君(きみ)の御外戚(ごぐわいせき)として、一族(いちぞく)の昇進(しようじん)六十余人(ろくじふよにん)、二十余年(にじふよねん)のこのかたは、たのしみさかえ、申(まう)すばかりもなかりつるに、入道(にふだう)の悪行超過(あくぎやうてうくわ)せるによって、一門(いちもん)の運命(うんめい)すでにつきんずるにこそ」

 と、こし方(かた)行(ゆ)く末(すゑ)のことどもおぼしめしつづけて、御涙(おんなみだ)にむせばせたまふ。

 折節(をりふし)、妻戸(つまど)をほとほとと打(う)ちたたく。

「たそ。あれ聞(き)け」

 とのたまへば、

「瀬尾太郎兼康(せのをのたらうかねやす)が参(まゐ)ってさうらふ」

 と申(まう)す。

「いかになにごとぞ」

 とのたまへば、

「ただ今(いま)不思議(ふしぎ)のことさうらふうて、夜(よ)の明(あ)けさうらはんが、おそう覚(おぼ)えさうらふ間(あひだ)、申(まう)さんがために参(まゐ)ってさうらふ。御前(ごぜん)の人(ひと)をのけられたまへ」

 と申(まう)しければ、おとど人(ひと)を遥(はる)かにのけて御対面(ごたいめん)あり。さて兼康(かねやす)見(み)たりける夢(ゆめ)のやうを、始(はじ)めより終(を)はりまで、くはしう語(かた)り申(まう)しけるが、おとどの御覧(ごらん)じたりける御夢(おんゆめ)に、すこしもたがはず。さてこそ、瀬尾太郎兼康(せのをのたらうかねやす)をば、神(かみ)にも通(つう)じたる者(もの)にてありけりと、おとども感(かん)じたまひけれ。

 その朝(あした)、嫡子権亮少将維盛(ちやくしごんのすけのせうしやうこれもり)、院(ゐん)御所(ごしよ)へ参(まゐ)らんとて、出(い)でさせたまひたりけるを、おとどよびたてまつって、

「人(ひと)の親(おや)の身(み)として、かやうのことを申(まう)せば、きはめてをこがましけれども、御辺(ごへん)は人(ひと)の子(こ)どもの中(なか)には、勝(すぐ)れてみえたまふなり。ただしこの世(よ)の中(なか)の有様(ありさま)、いかがあらんずらんと、心(こころ)ぼそうこそ覚(おぼ)ゆれ。貞能(さだよし)はないか。少将(せうしやう)に酒(さけ)を勧(すす)めよ」

 とのたまへば、貞能(さだよし)御酌(おんしやく)に参(まゐ)りたり。

「この盃(さかづき)をば、先(ま)ず少将(せうしやう)にこそとらせたけれども、親(おや)より先(さき)にはよものみたまはじなれば、重盛(しげもり)まづ取(と)りあげて少将(せうしやう)にささん」

 とて、三度(さんど)うけて少将(せうしやう)にぞさされける。少将(せうしやう)また三度(さんど)うけたまふ時(とき)、

「いかに貞能(さだよし)、引出物(ひきでもの)せよ」

 とのたまへば、畏(かしこ)まって承(うけたまは)り、錦(にしき)の袋(ふくろ)にいれたる御太刀(おんたち)を取(と)り出(い)だす。

「あはれこれは、家(いへ)に伝(つた)はれる小烏(こがらす)といふ太刀(たち)やらん」

 なんど、よにうれしげに思(おも)ひて見(み)たまふ処(ところ)に、さはなくして大臣葬(だいじんさう)の時(とき)用(もち)ゐる無文(むもん)の太刀(たち)にてぞありける。その時(とき)少将(せうしやう)けしきかはって、よにいまはしげにみたまひければ、おとど涙(なみだ)をはらはらとながいて、

「いかに少将(せうしやう)、それは貞能(さだよし)がとがにもあらず。その故(ゆゑ)はいかにといふに、この太刀(たち)は大臣葬(だいじんさう)の時(とき)用(もち)ゐる無文(むもん)の太刀(たち)なり。入道(にふだう)いかにもおはせん時(とき)、重盛(しげもり)がはいて供(ぐ)せんとて持(も)ちたりつれども、今(いま)は重盛(しげもり)、入道殿(にふだうどの)に先(さき)立(た)ちたてまつらんずれば、御辺(ごへん)にたてまつるなり」

 とぞのたまひける。少将(せうしやう)これを聞(き)きたまひて、とかうの返事(へんじ)にも及(およ)ばず、涙(なみだ)にむせびうつぶして、その日(ひ)は出仕(しゆつし)もしたまはず、引(ひ)きかづきてぞふしたまふ。その後(のち)おとど熊野(くまの)へ参(まゐ)り、下向(げかう)して病(やまひ)つき、幾(いく)ほどもなくして、つひに失(う)せたまひけるにこそ、実(げ)にもと思(おも)ひ知(し)られけれ。

灯籠之沙汰

 すべてこの大臣(だいじん)は、滅罪生善(めつざいしやうぜん)の御心(おんこころ)ざしふかうおはしければ、当来(たうらい)の浮沈(ふちん)をなげいて、東山(ひがしやま)の麓(ふもと)に六八弘誓(ろくはちぐぜい)の願(ぐわん)になぞらへて、四十八間(しじふはちけん)の精舎(しやうじや)をたて、一間(ひとま)に一つ(ひとつ)づつ、四十八間(しじふはちけん)に四十八(しじふはち)の灯籠(とうろう)をかけられたりければ、九品(くほん)の台(たい)、目(め)の前(まへ)にかかやき、光耀鸞鏡(くわうえうらんけい)をみがいて、浄土(じやうど)の砌(みぎり)にのぞめるがごとし。

 毎月(まいつき)十四日(じふよつか)十五日(じふごにち)を点(てん)じて、当家他家(たうけたけ)の人々(ひとびと)の御方(おんかた)より、見(み)めよく若(わか)う盛(さか)んなる女房達(にようばうたち)を多(おほ)く請(しやう)じ集(あつ)め、一間(ひとま)に六人(ろくにん)づつ、四十八間(しじふはちけん)に二百八十八人(にひやくはちじふはちにん)、時衆(じしゆ)にさだめ、かの両日(りやうじつ)が間(あひだ)は、一心不乱(いつしんふらん)の称名(しようみやう)声(こゑ)絶(た)えず。まことに来迎引摂(らいがういんせふ)の悲願(ひぐわん)も、この所(ところ)に影向(やうがう)をたれ、摂取不捨(せつしゆふしや)の光(ひかり)も、この大臣(だいじん)を照(てら)したまふらんとぞみえし。

 十五日(じふごにち)の日中(につちゆう)を結願(けつぐわん)として、大念仏(だいねんぶつ)ありしに、大臣(だいじん)みづからかの行道(ぎやうだう)の中(なか)にまじはって、西方(さいはう)にむかひ、

「南無(なむ)安養世界(あんやうせかい)教主弥陀仏(けうしゆみだぶつ)、三界六道(さんがいろくだう)の衆生(しゆじやう)を、普(あまね)く済度(さいど)したまへ」

 と、廻向発願(ゑかうはつぐわん)せられければ、みる人(ひと)慈悲(じひ)をおこし、きく者(もの)感涙(かんるゐ)をもよほしけり。かかりしかば、この大臣(だいじん)をば灯籠(とうろう)大臣(だいじん)とぞ人(ひと)申(まう)しける。

金渡

 またおとど、

「わが朝(あした)にはいかなる大善根(だいぜんごん)をし置(お)いたりとも、子孫(しそん)あひついで、弔(とぶら)はんことありがたし。他国(たこく)にいかなる善根(ぜんごん)をもして、後世(ごせ)を訪(とぶら)はればや」

 とて、安元(あんげん)のころほひ、鎮西(ちんぜい)より妙典(めうでん)といふ船頭(せんどう)をめしのぼせ、人(ひと)を遥(はる)かにのけて、御対面(ごたいめん)あり。金(きん)を三千(さんぜん)五百(ごひやく)両(りやう)寄(よ)せて、

「なんぢは大正直(だいしやうぢき)の者(もの)であんなれば、五百(ごひやく)両(りやう)をばなんぢにたぶ。三千(さんぜん)両(りやう)を宋朝(そうてう)へ渡(わた)し、育王山(いわうさん)へまゐらせて、千両(せんりやう)を僧(そう)にひき、二千両(にせんりやう)をば御門(みかど)へまゐらせ、田代(でんだい)を育王山(いわうさん)へ申(まう)し寄(よ)せて、わが後世(ごせ)弔(とぶら)はせよ」

 とぞのたまひける。妙典(めうでん)これをたまはって、万里(ばんり)の煙浪(えんらう)を凌(しの)ぎつつ、大宋国(だいそうこく)へぞ渡(わた)りける。育王山(いわうさん)の方丈(ほうぢやう)、仏照禅師徳光(ぶつせうぜんじとくくわう)にあひたてまつり、この由(よし)申(まう)したりければ、随喜感嘆(ずいきかんたん)して、千両(せんりやう)を僧(そう)にひき、二千両(にせんりやう)をば御門(みかど)へまゐらせ、おとどの申(まう)されける旨(むね)を、具(つぶさ)に奏聞(そうもん)せられたりければ、御門(みかど)大(おほ)きに感(かん)じおぼしめして、五百町(ごひやくちやう)の田代(でんだい)を、育王山(いわうさん)へぞ寄(よ)せられける。

 されば日本(につぽん)の大臣(だいじん)、平朝臣(たひらのあそん)重盛(しげもり)公(こう)の、後生善処(ごしやうぜんじよ)と祈(いの)ること、いまに絶(た)えずとぞ承(うけたまは)る。

法印問答

 入道相国(にふだうしやうこく)、小松殿(こまつどの)におくれたまひて、よろづ心(こころ)ぼそうや思(おも)はれけん、福原(ふくはら)へ馳(は)せ下(くだ)り、閉門(へいもん)してこそおはしけれ。同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)七日(なぬか)の夜(よ)、戌剋(いぬのこく)ばかり、大地(だいぢ)おびたたしう動(うご)いて良久(ややひさ)し。陰陽頭安倍泰親(おんやうのかみあべのやすちか)、いそぎ内裏(だいり)へ馳(は)せ参(まゐ)って、

「今度(こんど)の地震(ぢしん)、占文(せんもん)のさす所(ところ)、その慎(つつし)みかろからず。当道(たうだう)三経(さんぎやう)の中(なか)に、根器経(こんぎきやう)の説(せつ)を見(み)さうらふに、年(とし)を得(え)ては年(とし)を出(い)ず、月(つき)を得(え)ては月(つき)を出(い)ず、日(ひ)を得(え)ては日(ひ)を出(い)ずとみえてさうらふ。もっての外(ほか)に火急(くわきふ)さうらふ」

 とて、はらはらとぞ泣(な)きける。伝奏(てんそう)の人(ひと)も色(いろ)をうしなひ、君(きみ)も叡慮(えいりよ)をおどろかせおはします。わかき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)は、

「けしからぬ泰親(やすちか)が今(いま)の泣(な)きやうや。なにごとのあるべき」

 とてわらひあはれけり。されどもこの泰親(やすちか)は、晴明(せいめい)五(ご)代(だい)の苗裔(べうえい)をうけて、天文(てんもん)は淵源(えんげん)をきはめ、推条掌(すいでうたなごころ)をさすがごとし。一事(いちじ)もたがはざりければ、指神子(さすのみこ)とぞ申(まう)しける。いかづちの落(お)ちかかりたりしかども、雷火(らいくわ)のために狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)は焼(や)けながら、その身(み)は恙(つつが)もなかりけり。

 上代(じやうだい)にも末代(まつだい)にも、ありがたかりし泰親(やすちか)なり。

 同(おなじき)十四日(じふよつか)、相国禅門(しやうこくぜんもん)この日(ひ)ごろ福原(ふくはら)におはしけるが、なんとか思(おも)ひなられたりけむ、数千騎(すせんぎ)の軍兵(ぐんぴやう)をたなびいて、都(みやこ)へ入(い)りたまふ由(よし)きこえしかば、京中(きやうぢゆう)なんと聞(き)きわきたることはなけれども、上下(じやうげ)おそれをののく。なに者(もの)の申(まう)し出(いだ)したりけるやらん、

「入道相国(にふだうしやうこく)、朝家(てうか)を恨(うら)みたてまつるべし」

 と披露(ひろう)をなす。関白殿内々(くわんぱくどのないない)きこしめさるる旨(むね)やありけん、急(いそ)ぎ御参内(ごさんだい)あって、

「今度相国禅門入洛(こんどしやうこくぜんもんじゆらく)のことは、ひとへに基房(もとふさ)亡(ほろぼ)すべき結構(けつこう)にてさうらふなり。いかなる憂(う)に逢(あ)ふべきさうらふやらん」

 と奏(そう)せさせたまへば、主上(しゆしやう)大(おほ)きにおどろかせたまひて、

「そこにいかなる目(め)にもあはむは、ひとへにただわが逢(あ)ふにてこそあらんずらめ」

 とて、御涙(おんなみだ)をながさせたまふぞ忝(かたじけな)き。まことに天下(てんか)の御政(おんまつりごと)は、主上(しゆしやう)、摂籙(せつろく)の御(おん)ばからひにてこそあるに、こはいかにしつることどもぞや。天照太神(てんせうだいじん)、春日大明神(かすがだいみやうじん)の、神慮(しんりよ)のほども計(はか)りがたし。

 同(おなじき)十五日(じふごにち)、入道相国(にふだうしやうこく)、朝家(てうか)を恨(うら)みたてまつるべきこと、必定(ひつぢやう)ときこえしかば、法皇(ほふわう)大(おほ)きにおどろかせたまひて、故少納言入道信西(こせうなごんにふだうしんせい)の子息(しそく)静憲(じやうけん)法(ほふ)印(いん)を御使(おんつかひ)にて、入道相国(にふだうしやうこく)のもとへつかはさる。

「近年朝廷(きんねんてうてい)しづかならずして、人(ひと)の心(こころ)もととのほらず、世間(せけん)もいまだ落居(らくきよ)せぬやうになり行(ゆ)くこと、惣別(そうべつ)につけて歎(なげ)きおぼしめせども、さてそこにあれば万こと(よろづこと)はたのみおぼしめしてこそあるに、天下(てんか)をしづむるまでこそなからめ、嗷々(がうがう)たる体(てい)にて、あまっさへ朝家(てうか)を恨(うら)むべしなんどきこしめすは、なにごとぞ」

 と仰せ(おほせ)つかはさる。静憲(じやうけん)法(ほふ)印(いん)御使(おんつかひ)に、西八条(にしはちでう)の亭(てい)へむかふ。朝(あした)より夕(ゆふべ)に及(およ)ぶまで待(ま)たれけれども、無音(ぶいん)なりければ、さればこそと無(む)益(えき)に覚(おぼ)えて、源大夫判官(げんだいふはうぐわん)季貞(すゑさだ)をもって、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)言(い)ひ入(い)れさせ、

「暇(いとま)申(まう)して」

 とて出(い)でられければ、その時(とき)入道(にふだう)、

「法(ほふ)印(いん)よべ」

 とて出(い)でられたり。

 喚(よ)びかへして、

「やや法(ほふ)印(いん)御(おん)房(ばう)、浄海(じやうかい)が申(まう)す処(ところ)は僻事(ひがごと)か。まづ内府(ないふ)が身(み)まかりさうらひぬること、当家(たうけ)の運命(うんめい)をはかるにも、入道随分悲涙(にふだうずいぶんひるい)をおさへてこそまかり過(す)ぎさうらへ。御辺(ごへん)の心(こころ)にも推察(すいさつ)したまへ。保元(ほうげん)以後(いご)は、乱逆(らんげき)打(う)ちつづいて、君(きみ)やすい御心(おんこころ)もわたらせたまはざりしに、入道(にふだう)はただ大方(おほかた)を取(と)りおこなふばかりでこそさうらへ。

内府(ないふ)こそ手(て)をおろし身(み)を摧(くだ)いて、度々(どど)の逆鱗(げきりん)をばやすめまゐらせさうらへ。その外(ほか)臨時(りんじ)の御大事(おんだいじ)、朝夕(てうせき)の政務(せいむ)、内府(ないふ)ほどの功(こう)臣(しん)ありがたうこそさうらめ。

爰(ここ)をもって古(いにしへ)を思(おも)ふに、唐(たう)の太宗(たいそう)は魏徴(ぎちよう)に後(おく)れてかなしみのあまりに『昔(むかし)の殷宗(いんそう)は夢(ゆめ)のうちに良弼(りやうひつ)を得(え)、今(いま)の朕(ちん)は、さめの後(のち)賢臣(けんしん)を失(うしな)ふ』といふ碑(ひ)の文(ふみ)をみづから書(か)いて、廟(べう)に立(た)ててだにこそかなしみたまひけるなれ。わが朝(あした)にもま近(ちか)く見(み)さうらひしことぞかし。

顕頼民部卿(あきよりのみんぶきやう)が逝去(せいきよ)したりしをば、故院(こゐん)殊(こと)に御歎(おんなげ)きあって、八幡(やはた)行幸(ぎやうかう)延引(えんいん)し、御遊(ぎよいう)なかりき。そうじて臣下(しんか)の卒(しゆつ)するをば、代々(だいだい)御門(みかど)、みな御歎(おんなげき)あることでこそさうらへ。さればこそ親(おや)よりもなつかしう、子(こ)よりもむつましきは、君(きみ)と臣(しん)との中(なか)とは申(まう)すことにてさうらめ。

されども内府(ないふ)が中陰(ちゆういん)に、八幡(やはた)の御幸(ごかう)ありて御遊(ぎよいう)あり。御歎(おんなげ)きの色(いろ)一事(いちじ)もこれを見(み)ず。たとひ入道(にふだう)がかなしみを御(おん)あはれみなくとも、などか内府(ないふ)が忠(ちゆう)をおぼしめし忘(わす)れさせたまふべき。たとひ内府(ないふ)が忠(ちゆう)をおぼしめし忘(わす)れさせたまふとも、いかでか入道(にふだう)が歎(なげ)きを御憐(おんあは)れみなからん。

父子(ふし)ともに叡慮(えいりよ)に背(そむ)きさうらひぬること、今(いま)において面目(めんぼく)を失(うしな)ふ。これ一つ(ひとつ)。次(つぎ)に越前国(ゑちぜんのくに)をば、子々孫々(ししそんそん)まで、御変改(ごへんがい)あるまじき由(よし)、御約束(おんやくそく)あって下(くだ)したまはってさうらひしを、内府(ないふ)におくれて後(のち)、やがてめしかへされさうらふことは、なにの過怠(くわたい)にてさうらふやらむ、これ一つ(ひとつ)。

次(つぎ)に中納言闕(ちゆうなごんけつ)のさうらひし時(とき)、二位(にゐ)中将(ちゆうじやう)の所望(しよまう)さうらひしを、入道随分執(にふだうずいぶんと)り申(まう)ししかども、つひに御承引(ごしよういん)なくして、関白(くわんぱく)の息(そく)をなさるることはいかに。たとひ入道(にふだう)非拠(ひきよ)を申(まう)しおこなふとも、一度(ひとたび)はなどかきこしめし入(い)れざるべき。

申(まう)しさうらはんや、家嫡(かちやく)といひ、位階(ゐかい)といひ、理運左右(りうんさう)に及(およ)ばぬことを、引(ひ)きちがへさせたまふは、本意(ほい)なき御(おん)計(はか)らひとこそ存(ぞん)じさうらへ、これ一つ(ひとつ)。次(つぎ)に新大納言成親卿以下(しんだいなごんなりちかのきやういげ)、鹿谷(ししのたに)に寄(よ)りあひて、謀反(むほん)の企(くはだ)てさうらひしこと、まったく私(わたくし)の計略(けいりやく)にあらず。

併(しか)しながら君(きみ)御許容(ごきよよう)あるによってなり。こと新(あたら)しき申(まう)しことにてさうらへども、七代(しちだい)まではこの一門(いちもん)をばいかでか捨(す)てさせたまふべき。それに入道(にふだう)七旬(しちじゆん)に及(およ)んで、余命(よめい)いくばくならぬ一(いち)期(ご)の内(うち)にだにも、ややもすれば亡(ほろぼ)すべき由(よし)、御(おん)計(はか)らひあり。

申(まう)しさうらはんや、子孫(しそん)あひついで、朝家(てうか)にめしつかはれんことありがたし。

およそ老(お)いて子(こ)を失(うしな)ふは、枯木(こぼく)の枝(えだ)なきにことならず。今(いま)はほどなき浮世(うきよ)に、心(こころ)を費(つひや)してもなにかはせんなれば、いかでもありなんとこそ思(おも)ひなってさうらへ」

 とて、かつは腹(はら)立(た)ちし、かつは落涙(らくるい)したまへば、法(ほふ)印(いん)おそろしうもまた哀(あは)れにも覚(おぼ)えて、汗水(あせみづ)になりたまひぬ。この時(とき)はいかなる人(ひと)も、一言(いちごん)の返事(へんじ)に及(およ)びがたきことぞかし。その上(うへ)わが身(み)も近習(きんじゆ)の仁(じん)なり。鹿谷(ししのたに)に寄(よ)りあひたりしことは、まさしう見聞(けんもん)かれしかば、その人数(にんじゆ)とて、ただ今(いま)もめしや籠(こ)められむずらんと思(おも)ふに、竜(りう)の髭(ひげ)をなで、虎(とら)の尾(を)をふむ心地(ここち)はせられけれども、法(ほふ)印(いん)もさる怖(こは)い人(ひと)で、ちっともさわがず申(まう)されけるは、

「まことに度々(どど)の御奉公(ごほうこう)浅(あさ)からず。一旦(いつたん)恨(うら)み申(まう)させまします旨(むね)、その謂(いは)れさうらふ。ただし官位(くわんゐ)といひ俸禄(ほうろく)といひ、御身(おんみ)にとってはことごとく満足(まんぞく)す。しかれば功(こう)の莫大(ばくだい)なるを、君(きみ)御感(ぎよかん)あるでこそさうらへ。しかるを近臣(きんしん)ことを乱(みだれ)り、君(きみ)御許容(ごきよよう)ありといふことは、謀臣(ぼうしん)の凶害(きようがい)にてぞさうらん。

耳(みみ)を信(しん)じて目(め)を疑(うたが)ふは俗(ぞく)の常(つね)の弊(へい)なり。少人(せうじん)の浮言(ふげん)を重(おも)うして、朝恩(てうおん)の他(た)にことなるに、君(きみ)を背(そむ)きまゐらっさせたまはんこと、冥顕(みやうけん)につけてその恐(おそ)れすくなからずさうらふ。およそ天心(てんしん)は蒼々(さうさう)としてはかりがたし。叡慮(えいりよ)さだめてその儀(ぎ)でぞさうらん。

下(した)として上(うへ)にさかふること、豈人臣(あにじんしん)の礼(れい)たらんや。よくよく御思惟(ごしゆい)さうらふべし。詮(せん)ずるところ、この趣(おもむき)をこそ披露(ひろう)仕(つかまつ)りさうらはめ」

 とて出(い)でられければ、いくらもなみゐたる人々(ひとびと)、

「あなおそろし。入道(にふだう)のあれほどいかりたまへるに、ちっとも恐(おそ)れず、返事(へんじ)うちしてたたるることよ」

 とて、法(ほふ)印(いん)をほめぬ人(ひと)こそなかりけれ。

大臣流罪

 法(ほふ)印(いん)御所(ごしよ)へ参(まゐ)って、この由(よし)奏聞(そうもん)せられければ、法皇(ほふわう)も道理至極(だうりしごく)して、仰せ(おほせ)下(くだ)さるる方(かた)もなし。同(おなじき)十六日(じふろくにち)、入道相国(にふだうしやうこく)、この日(ひ)ごろ思(おも)ひ立(た)ちたまへることなれば、関白(くわんぱく)殿(どの)を始(はじ)めたてまつって、太政大臣已下(だじやうだいじんいげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、四十三(しじふさん)人(ひと)が官職(くわんしよく)を停(とど)めて、追(お)ひ籠(こ)めらる。

 関白(くわんぱく)殿(どの)をば太宰帥(だざいのそつ)にうつして、鎮西(ちんぜい)へながしたてまつる。

「かからん世(よ)には、とてもかくてもありなん」

 とて、鳥羽(とば)の辺(ほとり)、古河(ふるかは)といふ所(ところ)にて御出家(ごしゆつけ)あり。御年(おんとし)三十(さんじふ)五(ご)。礼儀(れいぎ)よくしろしめし、くもりなき鏡(かがみ)にてわたらせたまひつる物(もの)をとて、世(よ)の惜(を)しみたてまつること、なのめならず。遠流(をんる)の人(ひと)の、道(みち)にて出家(しゆつけ)しつるをば、約束(やくそく)の国(くに)へはつかはさぬことである間(あひだ)、始(はじ)めは日向国(ひうがのくに)へと定(さだ)められたりしかども、御出家(ごしゆつけ)の間(あひだ)、備前国府(びぜんのこふ)の辺(ほとり)、井(ゐ)はさまといふ所(ところ)に留(とど)めたてまつる。

 大臣流罪(だいじんるざい)の例(れい)は、左大臣(さだいじん)蘇我(そが)の赤兄(あかえ)、右大臣豊成(うだいじんとよなり)、左大臣魚名(さだいじんうをな)、右大臣菅原(うだいじんすがはら)、かけまくも忝(かたじけな)く北(きた)野(の)の天神(てんじん)の御(おん)ことなり。左大臣高明公(さだいじんたかあきらこう)、内大臣藤原伊周公(ないだいじんふぢはらのこれちかこう)に至(いた)るまで、すでに六人(ろくにん)、されども摂政(せつしやう)関白(くわんぱく)流罪(るざい)の例(れい)は、これ始(はじ)めとぞ承(うけたまは)る。

 故中殿御子(こなかどののおんこ)、二位中将基通(にゐのちゆうじやうもとみち)は、入道(にふだう)の聟(むこ)にておはしければ、大臣(だいじん)関白(くわんぱく)になしたてまつる。

 さる円融院(ゑんゆうゐん)の御宇(ぎよう)、天(てん)禄(ろく)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)一日(ひとひ)、一条(いちでう)摂政(せつしやう)謙徳(けんとく)公(こう)うせたまひしかば、御弟(おんおとうと)堀河(ほりかは)の関白(くわんぱく)忠(ちゆう)義(ぎ)公(こう)、その時(とき)はいまだ従二位(じゆにゐ)の中納言(ちゆうなごん)にてましましけり。その御弟(おんおとうと)法興院(ほふこうゐん)の大(おほ)入道殿(にふだうどの)、そのころは大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)にておはしける間(あひだ)、忠(ちゆう)義(ぎ)公(こう)は御弟(おんおとうと)に越(こ)えられたまひしかども、今(いま)また越(こ)えかへしたてまつり、内大臣(ないだいじん)正二位(しやうにゐ)にあがって、内覧(ないらん)の宣旨(せんじ)かうぶらせたまひたりしをこそ、人耳目(ひとじもく)をおどろかしたる御昇進(ごしようじん)とは申(まう)ししに、これはそれにはなほ超過(てうくわ)せり。

 非(ひ)参(さん)議(ぎ)二位(にゐ)中将(ちゆうじやう)より大中納言(だいちゆうなごん)を経(へ)ずして、大臣(だいじん)関白(くわんぱく)になりたまふこと、いまだ承(うけたまは)り及(およ)ばず。普賢寺殿(ふげんじどの)の御(おん)ことなり。上卿(じやうけい)の宰相(さいしやう)、大外記(だいげき)、大夫史(たいふのし)にいたるまで、みなあきれたるやうにぞみえたりける。

 太政大臣師長(だじやうだいじんもろなが)は、つかさをとどめて、あどまの方(かた)へながされたまふ。さる保元(ほうげん)に、父悪左大臣殿(ちちあくさだいじんどの)の縁(えん)座(ざ)によって、兄弟(きやうだい)四人(よにん)、流罪(るざい)せられたまひしが、御兄右大将兼長(おんあにうだいしやうかねなが)、御弟(おんおとうと)左中将隆長(さちゆうじやうたかなが)、範長禅師(はんちやうぜんじ)三人(さんにん)は、帰洛(きらく)を待(ま)たず、配所(はいしよ)にてうせたまひぬ。

 これは土佐(とさ)の畑(はた)にて九かへり(ここのかへり)の春(はる)秋(あき)を送(おく)りむかへ、長寛(ちやうくわん)二年(にねん)八月(はちぐわつ)にめしかへされて、本位(ほんゐ)に復(ふく)し、次(つぎ)の年(とし)正二位(しやうにゐ)して、仁安(にんあん)元年(ぐわんねん)十月(じふぐわつ)に、前中納言(さきのちゆうなごん)より権大納言(ごんのだいなごん)にあがりたまふ。折節(をりふし)大納言(だいなごん)あかざりければ、員(ゐん)の外(ほか)にぞくははられける。

 大納言(だいなごん)六人(ろくにん)になること、これ始(はじ)めなり。また前中納言(さきのちゆうなごん)より権大納言(ごんのだいなごん)になることも、後山階大臣躬守公(ごやましなのだいじんみもりこう)、宇治大納言隆国卿(うぢのだいなごんたかくにのきやう)の外(ほか)は、いまだ承(うけたまは)り及(およ)ばず。

 管弦(くわんげん)の道(みち)に達(たつ)し、才芸勝(さいげいすぐ)れてましましければ、次第(しだい)の昇進(しようじん)とどこほらず。太政大臣(だじやうだいじん)まできはめさせたまひて、またいかなる罪(つみ)の報(むく)ひにや、かさねてながされたまふらん。保元(ほうげん)の昔(むかし)は、南海(なんかい)土佐(とさ)へうつされ、治承(ぢしやう)の今(いま)は、東関尾張国(とうくわんをはりのくに)とかや。

 もとより罪(つみ)なくして、配所(はいしよ)の月(つき)をみんといふことは、心(こころ)あるきはの人(ひと)の願(ねが)ふことなれば、おとどあへてことともしたまはず。かの唐太子賓客(たうのたいしのひんかく)白楽天(はくらくてん)、潯陽江(しんやうのえ)の辺(ほとり)にやすらひたまひけん、その古(いにしへ)を思(おも)ひ遣(や)り、鳴海潟塩路遥(なるみがたしほぢはる)かに遠見(ゑんけん)して、常(つね)は朗月(らうげつ)を望(のぞ)み、浦(うら)風(かぜ)に嘯(うそぶ)き、琵琶(びは)を弾(だん)じ、和歌(わか)を詠(えい)じて、なほざりがてらに月日(つきひ)を送(おく)らせたまひけり。

 ある時(とき)当国(たうこく)第三(だいさん)の宮(みや)、熱田明神(あつたみやうじん)に参詣(さんけい)あり。その夜(よ)神明法楽(しんめいほふらく)のために、琵琶(びは)ひき朗詠(らうえい)したまふに、所(ところ)もとより無(む)智(ち)の境(さかひ)なれば、情(なさけ)を知(し)れる者(もの)なし。邑老(いふらう)、村女(そんじよ)、漁人(ぎよじん)、野叟(やそう)、首(くび)をうなたれ、耳(みみ)を峙(そばだ)つといへども、さらに清濁(せいだく)をわかち、呂律(りよりつ)を知(し)ることなし。

 されども瓠巴(こは)琴(きん)を弾(だん)ぜしかば、魚鱗(ぎよりん)踊(をど)りほどばしる。虞公(ぐこう)歌(うた)を発(はつ)せしかば梁塵(りやうぢん)うごきうごく。

 物(もの)の妙(めう)を究(きは)むる時(とき)には、自然(じねん)に感(かん)を催(もよほ)す理(ことわり)なれば、諸人(しよにん)身(み)の毛(け)よだって、満座奇異(まんざきい)の思(おも)ひをなす。やうやう深(ふか)さらに及(およ)んで、風香調(ふがうでう)の中(なか)には、花芬馥(はなふんぷく)の気(け)を含(ふく)み、流泉(りうせん)の曲(きよく)の間(あひだ)には、月清明(つきせいめい)の光(ひかり)をあらそふ。

「願(ねが)はくは今生世俗文字業(こんじやうせぞくもじのげふ)、狂言綺語(きやうげんきぎよ)の誤(あやま)りをもって」

 といふ朗詠(らうえい)をして、秘(ひ)曲(きよく)をひきたまへば、神明感応(しんめいかんのう)に堪(た)へずして、宝殿(ほうでん)大(おほ)きに振動(しんどう)す。平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)なかりせば、今(いま)この瑞相(ずゐさう)をいかでか拝(をが)むべきとて、おとど感涙(かんるゐ)をながされける。

 按察大納言(あぜちのだいなごん)資方(すけかた)卿(きやう)子息右近衛少将兼讃岐守源資時(しそくうこんゑのせうしやうけんさぬきのかみみなもとのすけとき)、両つ(ふたつ)の首(くび)を停(とど)めらる。参議皇太后宮権大夫(さんぎくわうだいこくうのごんのだいぶ)兼右兵衛督藤原光能(けんうひやうゑのかみふぢはらのみつよし)、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階泰経(おほくらのきやううきやうのだいぶけんいよのかみたかしなのやすつね)、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)兼中宮権大進藤原基親(けんちゆうぐうのごんのだいしんふぢはらのもとちか)、三官(さんくわん)ともに停(とど)めらる。按察大納言(あぜちのだいなごん)資方(すけかた)卿(きやう)子息(しそく)右近衛少将(うこんゑのせうしやう)、孫(まご)の右(う)少将(せうしやう)雅方(まさかた)、これ三人(さんにん)をばやがて都(みやこ)の内(うち)を追(お)ひ出(いだ)さるべしとて、上卿藤大納言実国(しやうけいとうだいなごんさねくに)、博士判官中原範貞(はかせのはうぐわんなかはらののりさだ)に仰せ(おほせ)て、やがてその日(ひ)都(みやこ)のうちを追(お)ひ出(いだ)さる。

 大納言(だいなごん)のたまひけるは、

「三界(さんがい)広(ひろ)しといへども五尺(ごしやく)の身(み)おき所(ところ)なし。一生(いつしやう)ほどなしといへども一日(ひとひ)暮(く)らしがたし」

 とて、夜中(やちゆう)に九重(ここのへ)の内(うち)をまぎれ出(い)でて、八重(やへ)たつ雲(くも)の外(ほか)へぞおもむかれける。かの大(おほ)江(え)山(やま)やいく野(の)の道(みち)にかかりつ、丹波国(たんばのくに)村(むら)雲(くも)といふ所(ところ)にぞ、しばしはやすらひたまひける。それよりつひには尋(たづ)ね出(いだ)されて、信濃国(しなののくに)とぞきこえし。

 前関白(さきのくわんぱく)松殿(まつどの)の侍(さぶらひ)に、江大夫判官遠成(がうのたいふのはうぐわんとほなり)といふ者(もの)あり。これも平家(へいけ)心(こころ)よからざりければ、すでに六波羅(ろくはら)より押(お)し寄(よ)せて、搦(から)め取(と)らるべしときこえし間(あひだ)、子息(しそく)江左衛門尉家成(がうさゑもんのじよういへなり)打(う)ち具(ぐ)して、いづちともなく落(お)ち行(ゆ)きけるが、稲荷山(いなりやま)にうちあがり、馬(うま)より下(くだ)りて、親子(おやこ)いひ合(あ)はせけるは、

「東国(とうごく)の方(かた)へ落(お)ちくだり、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)、前兵衛佐(さきのひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)をたのまばやとは思(おも)へども、それも当時(たうじ)は勅勘(ちよくかん)の人(ひと)で、身(み)一つ(ひとつ)だにもかなひがたうおはすなり。日本国(につぽんこく)に平家(へいけ)の庄園(しやうゑん)ならぬ所(ところ)やある。とてものがれざらんものゆゑに、年来(ねんらい)住(す)みなれたる所(ところ)を、人(ひと)に見(み)せんも恥(は)ぢがましかるべし。

ただこれよりかへって、六波羅(ろくはら)より召使(めしづかひ)あらば、腹(はら)かき切(き)って死(し)なんにはしかじ」

 とて、川原坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)へとて取(と)って返(かへ)す。案(あん)のごとく六波羅(ろくはら)より源大夫判官(げんだいふはうぐわん)季貞(すゑさだ)、摂津判官盛澄(つのはうぐわんもりずみ)、ひた甲(かぶと)三百余騎(さんびやくよき)、河原坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)へ押(お)し寄(よ)せて、時(とき)をどっとぞつくりける。江大夫判官(がうのたいふのはうぐわん)、縁(えん)に立(た)ち出(い)でて、

「これ御覧(ごらん)ぜよおのおの、六波羅(ろくはら)ではこのやう申(まう)させたまへ」

 とて、館(やかた)に火(ひ)かけ、父子(ふし)ともに腹(はら)かききり、ほのほの中(なか)にて焼(や)け死(し)にぬ。

 そもそもかやうに上下(じやうげ)多(おほ)く亡(ほろ)び損(そん)ずることをいかにといふに、当時(たうじ)関白(くわんぱく)にならせたまへる二位(にゐ)中将(ちゆうじやう)殿(どの)と、前(まへ)の殿(どの)の御子(みこ)、三位中将(さんみのちゆうじやう)殿(どの)と、中納言(ちゆうなごん)御相論(ごさうろん)の故(こ)と申(まう)す。さらば関白(くわんぱく)殿(どの)御一所(ごいつしよ)こそ、いかなる御(おん)目(め)にもあはせたまはめ、四十(しじふ)余人(よにん)までの人々(ひとびと)の、ことに逢(あ)ふべしやは。

 去年讃岐院(こぞさぬきのゐん)の御追号(ごついがう)、宇治(うぢ)の悪左府(あくさふ)の贈官贈位(ぞうくわんぞうゐ)ありしかども、世間(せけん)はなほしづかならず。およそこれにも限(かぎ)るまじかんなり。入道相国(にふだうしやうこく)の心(こころ)に天魔(てんま)入(い)りかはって、腹(はら)をすゑかねたまへりときこえしかば、また天下(てんか)いかなることか出(い)でこんずらんとて、京中(きやうぢゆう)上下(じやうげ)おそれをののく。

行隆之沙汰

 そのころ前左小弁(さきのさせうべん)行隆(ゆきたか)ときこえしは、故中山中納言顕時卿(こなかやまのちゆうなごんあきときのきやう)の長男(ちやうなん)なり。二条院(にでうゐん)の御(おん)世(よ)には、弁官(べんくわん)にくははって、ゆゆしかりしかども、この十余年(じふよねん)は官(くわん)停(とど)められて、夏(なつ)冬(ふゆ)の衣(きぬ)がへにも及(およ)ばず。朝暮(てうぼ)の餐(さん)も心(こころ)にまかせず、あるかなきかの体(てい)にておはしけるを、太政入道(だじやうにふだう)、

「申(まう)すべきことあり。きっと立寄(たちよ)りたまへ」

 とのたまひつかはされたりければ、行隆(ゆきたか)、

「この十余年(じふよねん)は、なにごとにもまじはらざりつる物(もの)を、人(ひと)の讒言(ざんげん)したる旨(むね)あるにこそ」

 とて、大(おほ)きにおそれさわがれけり。北(きた)の方(かた)、公達(きんだち)もいかなる目(め)にかあはんずらんと、泣(な)きかなしみたまふに、西八条(にしはちでう)より使(つかひ)しきなみにありければ、力(ちから)及(およ)ばで人(ひと)に車(くるま)借(か)って西八条(にしはちでう)へ出(い)でられたり。思(おも)ふに似(に)ず、入道(にふだう)やがて出(い)でむかうて、対面(たいめん)あり。

「御辺(ごへん)の父(ちち)の卿(きやう)は、大小こと(だいせうこと)申(まう)しあはせし人(ひと)なれば、おろかに思(おも)ひたてまつらず。年来籠居(ねんらいろうきよ)のことも、いとほしう思(おも)ひたてまつっしかども、法皇(ほふわう)御政務(おんせいむ)のうへは力(ちから)及(およ)ばず。今(いま)は出仕(しゆつし)したまへ。官途(くわんど)のことも申(まう)し沙汰(さた)仕(つかまつ)るべし。

さらばとう帰(かへ)られよ」

 とて入(い)りたまひぬ。帰(かへ)られたれば、宿所(しゆくしよ)には女房達(にようばうたち)死(し)んだる人(ひと)の生(い)きかへりたる心地(ここち)して、さしつどひてみな悦泣(よろこびなき)どもせられけり。

 太政入道(だじやうにふだう)、源大夫判官(げんだいふはうぐわん)季貞(すゑさだ)をもって、知行(ちぎやう)したまふべき庄園(しやうゑん)の状(じやう)どもあまた遣(つかは)す。まづさこそあらめとて、百(もも)疋(ひき)百(もも)両(りやう)に米(こめ)を積(つ)んでぞ送(おく)られける。出仕(しゆつし)の料(れう)にとて、雑色牛飼(ざふしきうしかひ)御(おん)牛車(ぎつしや)まで沙汰(さた)しつかはさる。行隆(ゆきたか)手(て)の舞(ま)ひ足(あし)の踏(ふ)みどころも覚(おぼ)えず。

 これはされば夢(ゆめ)かや夢(ゆめ)かやとぞ驚(おどろ)かれける。同(おなじき)十七日(じふしちにち)五位(ごゐ)の侍中(じちゆう)に補(ふ)せられて、左小弁(させうべん)になり帰(かへ)りたまふ。今年(こんねん)五十一(ごじふいち)、今更(いまさら)わかやぎたまひけり。ただ片時(へんし)の栄花(えいぐわ)とぞみえし。

法皇被流

 同(おなじき)二十日(はつか)、院(ゐん)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)には、軍兵(ぐんぴやう)四面(しめん)を打(う)ちかこむ。平治(へいぢ)に信頼(のぶより)がしたりしやうに、火(ひ)をかけて人(ひと)をばみな焼(や)き殺(ころ)さるべしときこえし間(あひだ)、上下(じやうげ)の女房(にようばう)、めのわらは、物(もの)をだにうちかづかず、あわて騒(さわ)いで走(はし)りいづ。法皇(ほふわう)も大(おほ)きにおどろかせおはします。

 前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、御車(おんくるま)を寄(よ)せて、

「とうとうめさるべうさうらふ」

 と奏(そう)せられければ、法皇(ほふわう)、

「こはさればなにごとぞや。御(おん)とがあるべしともおぼしめさず。成親(なりちか)、俊寛(しゆんくわん)がやうに、遠(とほ)き国(くに)、遥(はる)かの島(しま)へもうつしやらんずるにこそ。主上(しゆしやう)さて渡(わた)らせたまへば、政務(せいむ)に口入(こうじゆ)するばかりなり。それもさるべからずは、自今以降(じこんいかう)さらでこそあらめ」

 と仰せ(おほせ)ければ、宗盛(むねもり)卿(きやう)、

「その儀(ぎ)ではさうらはず。世(よ)をしずめんほど、鳥羽(とば)殿(どの)へ御幸(ごかう)なしまゐらせんと、父(ちち)の入道(にふだう)申(まう)しさうらふ」

「さらば宗盛(むねもり)やがて御供(おんとも)に参(まゐ)れ」

 と仰せ(おほせ)けれども、父(ちち)の禅門(ぜんもん)の気色(けしき)に恐(おそ)をなして参(まゐ)られず。

「あはれこれにつけても、兄(あに)の内府(ないふ)には、ことの外(ほか)におとりたりける者(もの)かな。一年(いちねん)もかかる御(おん)目(め)にあふべかりしを、内府(ないふ)が身(み)にかへて制(せい)しとどめてこそ、今日(けふ)までも心安(こころやす)かりつれ。いさむる者(もの)もなしとて、かやうにするにこそ、行末(ゆくすゑ)とてもたのもしからず」

 とて、御涙(おんなみだ)をながさせたまふぞ忝(かたじけな)き。

 さて御車(おんくるま)にめされけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)一人(いちにん)も供奉(ぐぶ)せられず、ただ北面(ほくめん)の下臈(げらふ)、さては金行(こんぎやう)といふ御力者(おんりきしや)ばかりぞ参(まゐ)りける。御車(おんくるま)の尻(しり)には、尼前(あまぜ)一人(いちにん)参(まゐ)られたり。この尼前(あまぜ)と申(まう)すは、やがて法皇(ほふわう)の御乳(おんち)の人(ひと)、紀伊二位(きのにゐ)のことなり。

 七条(しちでう)を西(にし)へ、朱雀(しゆしやか)を南(みなみ)へ御幸(ごかう)なる。あやしのしづのを、賤女(しづのめ)にいたるまで、

「あはや法皇(ほふわう)のながされさせましますぞや」

 とて、泪(なみだ)をながし、袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。さる七日(なぬか)の夜(よ)の大地震(だいぢしん)も、かかるべかりける先表(せんべう)にて、十六洛叉(じふろくらくしや)の底(そこ)までもこたへ、堅牢地神(けんらうぢしん)の驚(おどろ)きさわぎたまひけんも、理(ことわり)かなとぞ人(ひと)申(まう)しける。

 さて鳥羽(とば)殿(どの)へ入(い)らせたまひたるに、大膳大夫信成(だいぜんのだいぶのぶなり)が、なんとしてまぎれ参(まゐ)りたりけるやらむ、御前(ごぜん)ちかうさうらひけるをめして、

「いかやうにも、今夜(こんや)うしなはれなんずとおぼしめすぞ。御行水(おんぎやうずい)をめさばやとおぼしめすは、いかがせんずる」

 と仰せ(おほせ)ければ、さらぬだに信成(のぶなり)、けさより肝魂(きもたましひ)も身(み)にそはず、あきれたるやうにてありけるが、この仰せ(おほせ)承(うけたまは)る忝(かたじけな)さに、狩衣(かりぎぬ)に玉(たま)だすきあげ、小柴墻壊(こしばがきやぶ)り、大床(おほゆか)のつか柱(はしら)破(やぶ)るなどして、水(みづ)くみ入(い)れ、かたのごとく御湯(おゆ)しだいてまゐらせたり。

 また静憲(じやうけん)法(ほふ)印(いん)、入道相国(にふだうしやうこく)の西八条(にしはちでう)の亭(てい)にゆいて、

「法皇(ほふわう)の鳥羽(とば)殿(どの)へ御幸(ごかう)なってさうらふなるに、御前(ごぜん)に人(ひと)一人(いちにん)もさうらはぬ由(よし)承(うけたまは)るが、余(あま)りにあさましう覚(おぼ)えさうらふ。なにかは苦(くる)しうさうらふべき、静憲(じやうけん)ばかりは御(おん)ゆるされさうらへかし。参(まゐ)りさうらはん」

 と申(まう)されければ、

「とうとう。御坊(おんぼう)はことあやまつまじき人(ひと)なれば」

 とてゆるされたり。法(ほふ)印(いん)、鳥羽(とば)殿(どの)へ参(まゐ)って、門(もん)前(まへ)にて車(くるま)よりおり、門(もん)の内(うち)へさし入(い)りたまへば、折(をり)しも法皇(ほふわう)御経(おんきやう)をうちあげうちあげあそばされける。御声(おんこゑ)もことにすごうきこえさせたまひける。法(ほふ)印(いん)のつっと参(まゐ)られたれば、あそばされける御経(おんきやう)に、御涙(おんなみだ)のはらはらとかからせたまふを見(み)まゐらせて、法(ほふ)印(いん)あまりのかなしさに、裳衣(ものころも)の袖(そで)をかほにおしあてて、泣(な)く泣(な)く御前(ごぜん)へぞ参(まゐ)られける。

 御前(ごぜん)には尼前(あまぜ)ばかりさうらはれけり。

「いかにや法(ほふ)印(いん)御坊(おんぼう)、君(きみ)は昨日(きのふ)のあした、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて供御(くご)きこしめされて後(のち)は、よべも今朝(けさ)もきこしめしも入(い)れず。長(なが)き夜(よ)すがら御寝(ぎよしん)もならず。御命(おんいのち)もすでにあやふくこそ見(み)えさせおはしませ」

 とのたまへば、法(ほふ)印(いん)涙(なみだ)をおさへて申(まう)されけるは、

「なにごとも限(かぎ)りあることにてさうらへば、平家(へいけ)楽(たの)しみさかへて二十余年(にじふよねん)、されども悪行(あくぎやう)法(ほふ)に過(す)ぎて、すでに亡(ほろ)びさうらひなんず。天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)、いかでか捨(す)てまゐらっさせたまふべき。中(なか)にも君(きみ)の御憑(おんたのみ)ある、日吉(ひよし)山王(さんわう)七社(しちしや)、一乗守護(いちじようしゆご)の御(おん)ちかひあらたまらずは、かの法華八軸(ほけはちぢく)に立(た)ち翔(かか)ってこそ、君(きみ)をばまもりまゐらっさせたまふらめ。

しかれば政務(せいむ)は君(きみ)の御代(おんよ)となり、凶徒(きようと)は水(みづ)の泡(あわ)と消(き)えうせさうらふべし」

 なんど申(まう)されければ、この詞(ことば)にすこしなぐさませおはします。

 主上(しゆしやう)は関白(くわんぱく)のながされたまひ、臣下(しんか)の多(おほ)く亡(ほろ)びぬることをこそ御歎(おんなげ)きありけるに、剰(あまつさ)へ法皇(ほふわう)鳥羽(とば)殿(どの)に押(お)し籠(こ)められさせたまふときこしめされて後(のち)は、つやつや供御(くご)もきこしめされず。御悩(ごなう)とて常(つね)はよるのおとどにのみぞいらせたまひける。

 きさいの宮(みや)をはじめまゐらせて、御前(ごぜん)の女房(にようばう)たち、いかなるべしとも覚(おぼ)えたまはず。

 法皇(ほふわう)鳥羽(とば)殿(どの)へ押(お)し籠(こ)められさせたまひて後(のち)は、内裏(だいり)には臨時(りんじ)の御神事(ごしんじ)とて、主上(しゆしやう)夜(よ)ごとに清涼殿(せいりやうでん)の石灰(いしばひ)の壇(だん)にて、伊勢(いせ)太神宮(だいじんぐう)をぞ御拝(ごはい)ありける。これはただ一向(いつかう)法皇(ほふわう)の御祈(おんいの)りなり。二条院(にでうゐん)は賢王(けんわう)にて渡(わた)らせたまひしかども、天子(てんし)に父母(ふぼ)なしとて、常(つね)は法皇(ほふわう)の仰せ(おほせ)をも申(まう)しかへさせましましける故(ゆゑ)にや、継体(けいてい)の君(きみ)にてもましまさず。

 されば御譲(おんゆづ)りをうけさせたまひたりし六条(ろくでう)院(ゐん)も、安元(あんげん)二年(にねん)七月(しちぐわつ)十四日(じふよつか)御年(おんとし)十三(じふさん)にて崩御(ほうぎよ)なりぬ。あさましかりし御(おん)ことなり。

城南離宮

 百行(はくかう)の中(なか)には、孝行(かうかう)をもって先(さき)とす。明王(みやうわう)は孝(かう)をもって天下(てんか)を治(をさ)むといへり。されば唐堯(たうげう)は老(お)い衰(おとろ)へたる母(はは)をたっとび、虞舜(ぐしゆん)はかたくななる父(ちち)をうやまふとみえたり。かの賢王(けんわう)聖主(せいしゆ)の先規(せんき)を追(お)はせましましけむ、叡慮(えいりよ)のほどこそ目出(めで)たけれ。

 そのころ内裏(だいり)よりひそかに鳥羽(とば)殿(どの)へ御書(ごしよ)あり。

「かからむ世(よ)には、雲井(くもゐ)に跡(あと)をとどめてもなにかはしさうらふべき。寛平(くわんぺい)の昔(むかし)をもとぶらひ花山(くわさん)の古(いにしへ)をも尋(たづ)ねて、家(いへ)を出(い)で世(よ)をのがれ、山林流浪(さんりんるらう)の行者(ぎやうじや)ともなりにべうこそさうらへ」

 と、あそばされたりければ、法皇(ほふわう)の御返事(おんへんじ)には、

「さなおぼしめされさうらひそ。さて渡(わた)らせたまふこそ、一つ(ひとつ)のたのみにてもさうらへ。跡(あと)なくおぼしめしならせたまひなん後(のち)は、なんのたのみかさうらふべき。ただ愚老(ぐらう)がともかうもならむやうをきこしめしはてさせたまふべし」

 とあそばされたりければ、主上(しゆしやう)この御返事(おんへんじ)を竜顔(りようがん)におしあてて、いとど御涙(おんなみだ)にしづませたまふ。君(きみ)は舟(ふね)、臣(しん)は水(みづ)、水(みづ)よく舟(ふね)をうかべ、水(みづ)また舟(ふね)をくつがへす。臣(しん)よく君(きみ)をたもち、臣(しん)また君(きみ)を覆(くつがへ)す。保元(ほうげん)、平治(へいぢ)のころは、入道相国(にふだうしやうこく)、君(きみ)をたもちたてまつるといへども、安元(あんげん)、治承(ぢしやう)のいまは、また君(きみ)をなみしたてまつる。

 史書(ししよ)の文(ふみ)にたがはず。

 大宮大相国(おほみやのたいしやうこく)、三条(さんでう)内大臣(ないだいじん)、葉室大納言(はむろのだいなごん)、中山中納言(なかやまのちゆうなごん)も失(う)せられぬ。今(いま)はふるき人(ひと)とては、成頼(せいらい)、親範(しんぱん)ばかりなり。この人々(ひとびと)もかからむ世(よ)には朝(てう)につかへ身(み)をたて、大納言(だいなごん)を経(へ)てもなにかはせんとて、いまだ盛(さか)んなりし人々(ひとびと)の、家(いへ)を出(い)で世(よ)をのがれ、民部卿入道親範(みんぶのきやうにふだうしんぱん)は、大原(おほはら)の霜(しも)にともなひ、宰相入道成頼(さいしやうにふだうせいらい)は、高野(かうや)の霧(きり)にまじはり、一向(いつかう)後世菩提(ごせぼだい)のいとなみの外(ほか)は他事(たじ)なしとぞきこえし。

 昔(むかし)も商山(しやうざん)の雲(くも)にかくれ、潁川(えいせん)の月(つき)に心(こころ)をすます人(ひと)もありければ、これ豈(あに)博覧清潔(はくらんせいけつ)にして、世(よ)を逋(のが)れたるにあらずや。中(なか)にも高野(かうや)におはしける宰相入道成頼(さいしやうにふだうせいらい)、かやうのことどもを伝(つた)へ聞(き)いて、

「あはれ心(こころ)と世(よ)をばのがれたるものかな。かくて聞(き)くも同(おな)じことなれども、まのあたり立(た)ちまじはって見(み)ましかば、いかに心(こころ)うからん。保元(ほうげん)平治(へいぢ)の乱(みだれ)をこそ、浅(あさ)ましと思(おも)ひしに、世(よ)すゑになれば、かかることもありけり。この後(のち)なほいかばかりのことか出(い)でこむずらむ。

雲(くも)を分(わ)けてものぼり、山(やま)を隔(へだ)てても入(い)りなばや」

 とぞのたまひける。実(まこと)に心(こころ)あらんほどの人(ひと)の、跡(あと)をとどむべき世(よ)ともみえず。

 同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)、天台座主(てんだいざす)覚快(かくくわい)法(ほふ)親王(しんわう)、頻(しき)りに御辞退(ごじたい)あるによって、前座主明雲大僧正(さきのざすめいうんだいそうじやう)、還著(くわんぢやく)せらる。入道相国(にふだうしやうこく)はかくさんざんにし散(ち)らされたれども、御女(おんむすめ)中宮(ちゆうぐう)にてまします、関白(くわんぱく)殿(どの)と申(まう)すも聟(むこ)なり、よろづ心(こころ)やすうや思(おも)はれけむ、政務(せいむ)はただ一向(いつかう)、主上(しゆしやう)の御(おん)計(はか)らひたるべしとて、福原(ふくはら)へ下(くだ)られけり。

 前右大将宗盛卿(さきのうだいしやうむねもりのきやう)、いそぎ参内(さんだい)して、この由(よし)奏聞(そうもん)せられければ、主上(しゆしやう)は、

「法皇(ほふわう)のゆづりましましたる世(よ)ならばこそ。ただとうとう執柄(しつぺい)にいひ合(あ)はせて、宗盛(むねもり)、ともかうも計(はか)らへ」

 とて、きこしめしも入(い)れざりけり。

 法皇(ほふわう)は城南(せいなん)の離宮(りきゆう)にして、冬(ふゆ)もなかばすごさせたまへば、野山(のやま)の嵐(あらし)の音(おと)のみはげしくて、寒庭(かんてい)の月(つき)のひかりぞさやけき。

 庭(には)には雪(ゆき)のみ降(ふ)りつもれども、跡(あと)ふみつくる人(ひと)もなく、池(いけ)にはつららとぢかさねて、むれゐし鳥(とり)もみえざりけり。おほ寺(てら)の鐘(かね)の声(こゑ)、遺愛寺(ゐあいじ)の聞(き)きを驚(おどろ)かし、西山(にしやま)の雪(ゆき)の色(いろ)、香炉峰(かうろほう)の望(のぞみ)をもよほす。よる霜(しも)に寒(さむ)けき砧(きぬた)のひびき、かすかに御(おん)枕(まくら)につたひ、暁(あかつき)、氷(こほり)をきしる車(くるま)の跡(あと)、遥(はる)かに門(もん)前(まへ)によこたはれり。

 巷(ちまた)を過(す)ぐる行人征馬(かうじんせいば)のいそがはしげなる気色(けしき)、浮世(うきよ)を渡(わた)る有様(ありさま)も、おぼしめし知(し)られて哀(あは)れなり。宮門(きゆうもん)をまもる蛮夷(えびす)の、よるひる警衛(けいゑい)をつとむるも、先(さき)の世(よ)のいかなる契(ちぎり)にて今(いま)縁(えん)を結(むす)ぶらんと、仰せ(おほせ)なりけるぞ忝(かたじけな)き。およそ物(もの)にふれことにしたがって、御心(おんこころ)をいたましめずといふことなし。

 さるままにはかの折々(をりをり)の御遊覧(ごいうらん)、所々(ところどころ)の御(おん)参詣(さんけい)、御賀(おんが)のめでたかりしことども、おぼしめしつづけて、懐旧(くわいきう)の御(おん)泪(なみだ)おさへがたし。年(とし)さり年来(としき)たって、治承(ぢしやう)も四年(よねん)になりけり。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次