『源氏物語』第18帖「松風」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第18帖「松風」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第18帖「松風」原文全文をご覧ください。

目次

明石の君を都へ迎えるために

 源氏は東の院を立派に造り上げ、まず花散里をそこへ移した。西の対から渡殿にかけては、政所や家司などもきちんと置き、暮らしに不自由のないよう整えてある。東の対には明石の君を住まわせるつもりだった。北の対は特に広く造り、かつて一時の縁であったとしても、将来まで変わらぬ心を約束した女性たちを集めて住まわせられるよう、いくつもの区画に分けてしつらえてあった。その造りも親しみやすく、細やかな心配りが感じられる。寝殿だけは誰か一人のためには使わず、源氏自身が時々訪れた時の住まいとして、それにふさわしい調度を整えていた。

 明石へは絶えず手紙を送り、もう都へ上ってきたほうがよいと何度も勧めていた。けれど明石の君には、どうしても決心がつかなかった。自分の身分は自分がいちばんよく知っている。自分よりはるかに高い家柄の女性でさえ、源氏と離れて暮らしていれば、その冷たさに苦しみ、物思いを深くしているという。それなのに、自分程度の身で都の女性たちの中へ出ていったところで、いったいどれほどの扱いを受けられるというのだろう。

 そればかりか、自分の低い身分が人目にさらされれば、それはこの幼い姫君にとってまで恥となるかもしれない。源氏がたまに訪ねてくるのをひたすら待つだけの暮らしになれば、人から笑われ、自分もいたたまれない思いをするだろう。そう考える一方で、このまま姫君を明石のような土地で育て、世間から一人前の人として扱われないままにしておくのも、あまりにかわいそうだった。だからといって源氏の申し出をきっぱり拒むこともできない。両親も娘の心配はもっともだと思って嘆くので、考えれば考えるほど、明石の君は途方に暮れるばかりだった。

大堰川の古い邸

 そんな折、明石の君の母方の祖父で、中務宮と呼ばれた親王が昔所有していた邸が、大堰川のあたりに残っていることを思い出した。祖父が亡くなってからは、きちんと受け継いで管理する人もなく、長い間荒れるに任されていた。そこで明石入道は、昔からその邸を守っているような男を呼び寄せて話をした。

「私はもうこの世のことなど終わったものと思い、ここ明石へ沈むように暮らし始めたのだが、晩年になって思いもしなかったことが起こり、改めて都の近くに住まいが必要になった。とはいえ、急に華やかな都の中へ出ていくのでは人目にもつきすぎるし、長く田舎に暮らした者には落ち着かないだろう。それで昔の邸を使えないかと思い出したのだ。必要な費用はこちらから送る。修理をして、ひとまず人が住める程度に整えることはできないだろうか」

 預かり役の男は答えた。「長年、こちらを正式にお治めになる方もいらっしゃらず、ひどい有様になっておりますので、私は下屋を直してそこに住んでおります。ただ、この春ごろから内大臣殿がお造りになっている御堂がすぐ近くにございまして、あたりはずいぶん騒がしくなっております。たいそう立派なお堂を建て、大勢の人が工事をしておりますので、静かな暮らしをお望みでしたら、その点はお考えに合わないかもしれません」

 入道はかえって喜んだ。「いや、それならなおさらよい。あの殿のお力を頼みにできるだろうと思っていることもあるのだ。細かいところは追々整えればよい。まずは急いで、大まかなところだけでも住めるようにしてくれ」と頼んだ。

 男は、長年使う人もいなかった田畑などを自分が管理してきたため、その権利まで取り上げられるのではないかと心配したらしい。鼻を赤くし、無骨な顔で言い訳がましく事情を話した。すると入道は、「田畑のことなど、こちらは一切かまわない。今までどおりお前が扱えばよい。証文はこちらにも残っているが、私は世を捨てた身で、長い間どうなっているか尋ねもしなかった。細かなことはいずれ改めて整理しよう」と言った。しかも内大臣――源氏との関係をほのめかされたので、男も面倒なことになってはかなわないと思ったのだろう。その後は必要な品々を十分に受け取り、急いで修理を始めた。

 源氏は、明石の君の側でこんな計画を進めているとは知らなかった。そのため、いつまでも都へ上るのを嫌がっている理由がわからず、幼い姫君まであの遠い土地でひっそり暮らし続けることを、後世の人が聞けば、さらに一つみっともない傷になるのではないかと気にしていた。

 やがて明石の君から、「実はこのような場所を思い出しました」と大堰の邸について知らせがあった。それで源氏にもようやく事情がわかった。高貴な女性たちの中へ交じって暮らすことばかりをつらく思っていたのは、こうした考えがあったからなのだ。なるほど、身のほどをよく考えた、なかなか慎重な女性ではないか――そう感心し、いつも秘密の用事には頼りにしている惟光を遣わして、必要な準備をさせた。

 惟光は帰ってきて、「あたりの風情もよく、川に面している様子がどことなく海辺を思わせるところでございました」と報告した。源氏も、それなら明石の君が住むのに悪くないだろうと思った。自分が造らせている御堂は大覚寺の南にあり、滝殿の趣なども見劣りしないほど美しい寺だった。一方、大堰の邸は川辺の見事な松陰に、たいして手を加えず建てられた簡素な寝殿があり、その質素さがかえって山里らしいしみじみとした風情を見せている。源氏は室内のしつらえにまで細かく心を配った。

明石入道との永い別れ

 源氏はごく親しい者たちを、誰にも知られないよう明石へ遣わした。ここまで迎えの支度をされては、明石の君ももう断ることができない。いよいよ明石を離れるのだと思うと、長い年月を過ごした浦への名残は尽きず、父の入道が一人残ることを考えても胸が潰れそうだった。どうして自分の人生は、いつからこんなにも何につけ心を苦しめるものになってしまったのだろう。何の悲しみにも濡れずに生きられる人がうらやましい、とさえ思う。

 両親にとっても複雑だった。こうして源氏の迎えを受けて都へ上ることは、何年もの間、寝ても覚めても願い続けてきたことがようやく叶ったということで、これ以上ないほど嬉しい。けれど、そのために娘や姫君と離れ、この先いつ会えるとも知れないことを思えば、悲しさに耐えられなかった。入道は昼も夜もぼんやりと同じことばかり繰り返した。

「それでは私は、もう姫君のお姿を見ることができないのだろうか」

 母の尼君も、入道との別れがたまらなく悲しかった。明石に暮らしていた時でさえ、夫とは同じ庵でいつも一緒にいたわけではなく、少し離れて暮らしていた。それでも娘や孫がいたからこそ、ここに心をつなぎ留めることができたのである。その娘たちが都へ去ってしまえば、自分だけここへ残る理由もない。入道は頭の格好も考え方も少し風変わりで、頼りがいがあるようには見えないところもあったけれど、それでも、この人とここで一生を終えるのだと思って長い年月を暮らしてきた。その相手を突然置いていかなければならないと思えば、やはり心細かった。

 若い女房たちは、長く閉ざされたような明石暮らしから都へ上れることを喜んでいた。それでも、これほど見慣れた浜へ二度と帰ってこられないかもしれないと思えば、寄せる波を見るたび、自然と袖を濡らした。

 秋も深まったころだった。いよいよ出発する日の暁、風は涼しく、虫は声を競うように鳴いている。皆が海の方を眺めて座っていると、入道はいつものように後夜の勤めのため早くから起き、鼻をすすりながら仏前で祈っていた。誰も縁起でもないことは口にするまいと懸命に堪えていたが、涙だけはどうにも抑えられない。

 幼い姫君は、本当に夜でも光ったのではないかと思われる玉のように可愛らしい。入道はこれまで袖の外へ出すのも惜しむように抱き、毎日その姿を見慣れ、まとわりついてくる孫を可愛がってきた。自分のような人とは違う運命を持つ子なのだから、ここから離れるほうがよいとわかってはいても、ほんの一時でもこの子を見ずに、これからどうやって生きていけばよいのか。とうとう思いを隠しきれなくなった。

行く先をはるかに祈る別れ路に堪へぬは老いの涙なりけり

この子の遥かな将来をひたすら祈って送り出す別れ道なのに、どうしても堪えきれないのは、年老いた私の涙なのでした。

「こんな縁起でもないことを」

 入道はそう言って、あわてて涙を拭い隠した。

 尼君も泣きながら詠んだ。

もろともに都は出で来このたびやひとり野中の道に惑はむ

昔はあなたと一緒に都を出てきました。それなのに今度は、あなた一人を残して、私は野中の道を離れてゆくのでしょうか。

 長い年月を共にしてきた夫婦なのだから、尼君がこれほど悲しむのも無理はなかった。世を捨てたはずの身でありながら、娘の思いがけない幸運を頼みにして、もう一度都の近くへ戻っていく。それを思えば、何とも頼りない人間の心でもある。

 明石の君も詠んだ。

いきてまたあひ見むことをいつとてか限りも知らぬ世をば頼まむ

生きてもう一度お会いできるのは、いつのことなのでしょう。いつまで命があるのかさえわからないこの世を、どうして頼みにできるでしょうか。

「せめて途中まででもお見送りを」

 明石の君は何度も頼んだが、入道はさまざまな事情から、自分がここを離れることはできないのだと言い聞かせた。それでも娘たちの道中が心配でならない様子だった。

 そして入道は、これまで胸に抱えてきたことを、最後に娘へ語った。

「私が世の中を捨てようと思い、このような田舎へ下る決心をしたのも、もとはといえばすべてあなたのためだった。どうにかして思うようにあなたを育て、立派な運命へ送り出せるのではないかと考えたのだ。しかし自分の身分の低さを思い知らされることも多かった。今さら都へ帰り、落ちぶれた昔の受領として貧しい家の蓬や葎に埋もれ、昔の邸さえ立て直せないような姿を世間へさらせば、公にも私にも笑いものとなり、亡き父の名まで辱めることになる。それが耐えられず、私はこの明石へ下った時を、そのまま世を捨てる門出にしてしまったのだ」

「そうして世の中への執着はもう捨てたつもりでいた。けれどあなたが少しずつ大人になり、物事のわかる年齢になってくるにつれて、『どうしてこれほどの人を、こんなつまらない世界に隠したままにしておかなければならないのだ』と、親心の闇は少しも晴れず、私は嘆き続けた。仏や神を頼み、いくら私の運が悪くても、あなたまで引きずられて山賤の庵に埋もれてしまうことだけはあるまい、その一念だけを支えにしてきた」

「そして思いもよらなかった嬉しい出来事を、この目で見ることができた。それでも私は自分の身分を思い、あれこれ悲しみもした。だが今、この幼い姫君が生まれ、その並々ならぬ宿世を見るにつけても、こんな海辺で月日を過ごさせておくことは、あまりに恐れ多いことだとわかる。あなたたちと会えなくなる苦しみは、私にもどうにも鎮められない。だが私は、とうの昔にこの世を捨てた身だ。あなたたちは、これから世を照らす光となる運命をはっきり持っている。この山賤の心をしばらく乱すためだけに、私との縁があったのだろう」

「天上に生まれるべき人が、ほんのしばらく迷いの世界へ戻ってきたようなものだと思うことにして、私は今日、あなたたちと永く別れる。たとえ私が死んだと聞いても、後のことなど気にかけてはならない。そんな当たり前の別れで、あなたの心を乱してはいけない」

 そこまできっぱりと言いながら、最後にはやはり声を詰まらせた。

「ただ、私が煙となって消えるその夕べまで、姫君のことだけは、一日六度の仏道の勤めの中にも、執着とは知りながら、どうしても祈りに交ぜずにはいられないだろう」

 そう言って泣き伏してしまった。

舟で大堰へ

 車を何台も連ねて行けば大げさになり、かといって一行をいくつにも分けるのも面倒だった。供の人々も、何としても人目を避けたいと考えていたので、舟でひっそり上ることになった。辰の刻、明石の君たちは舟を出した。

 昔の歌人さえ心を動かされた浦の朝霧が、舟の進むにつれて少しずつ明石の浜を遠ざけていく。入道は眺めるうちにも心を澄ませきることができず、魂まで舟についていくように、いつまでも海を見つめていた。

 尼君も、長い年月を経て今さら都の方へ帰ることに、思いは尽きなかった。

かの岸に心寄りにし海人舟の背きしかたに漕ぎ返るかな

あちらの岸へ心を寄せ、長く暮らしてきた海人舟のような私が、かつて背を向けてきた都の方へ、今また漕ぎ戻ってゆくのですね。

 明石の君も詠んだ。

いく返り行きかふ秋を過ぐしつつ浮木に乗りてわれ帰るらむ

いったい幾度、行き交う秋をこの明石で過ごしてきたのでしょう。今、私は浮木のような舟に身を任せ、再び都の方へ帰ってゆくのです。

 ちょうど思う方角へ吹く風にも恵まれ、予定していた日を違えることなく大堰へ入ることができた。人に見咎められないよう、道中もできるだけ目立たない姿にしていた。

大堰に響く松風

 大堰の家は趣があり、長年暮らした明石の海辺をどこか思わせたので、場所がすっかり変わったような気はしなかった。それだけに昔のことが次々と思い出され、胸に迫ることも多い。新しく造り添えた廊などにも風情があり、水の流れも美しく整えられていた。まだ隅々まで立派に完成しているわけではないが、住み慣れてしまえば十分に暮らせそうだった。源氏は親しい家司へ命じ、必要な支度をさせていた。

 けれど源氏自身がいつここへ来るのかは、あれこれ考えているうちに何日も過ぎた。明石の君には、かえって物思いが尽きなくなった。捨ててきた明石の家まで恋しく思われ、することもないので、源氏が形見に残した琴を取り出してかき鳴らした。

 折からあまりにも心に迫るものがあり、我慢できず、人のいないところで心のままに少し弾いていると、外では松風が激しく響き合う。物悲しそうに横になっていた尼君も起き上がって歌を詠んだ。

身を変へて一人返れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く

尼となって姿を変え、あの人を明石へ残したまま帰ってきたこの山里にも、明石で聞いていたのとよく似た松風が吹いています。

 明石の君も返した。

古里に見し世の友を恋ひわびてさへづることを誰か分くらむ

明石の故郷で共に過ごした人を恋しく思いながら、こうして琴に思いを語らせていることを、いったい誰がわかってくれるでしょう。

源氏、大堰を訪れる

 そんな頼りない日々を送っているうちに、源氏のほうがかえって落ち着いていられなくなった。人目を憚り続けることもできず、とうとう大堰へ出かけることにする。ただ、紫の上には明石の君がすでにこちらへ移ってきたとは、はっきり知らせていなかった。いつものように、どこかで話を聞き合わせることもあるだろうと思い、出かける前にそれとなく説明した。

「桂に少し見ておかなければならないことがあります。それに、以前から訪ねると言っていた人まであのあたりへ近く移ってきて、待っているようなのです。気の毒ですからね。嵯峨野の御堂へも行って、まだ十分に整っていない仏事のことを見なければなりません。二、三日は向こうにいることになるでしょう」

 紫の上は、最近になって桂の院を急に造らせていると聞いていたので、もしかするとそこへ明石の君を住まわせたのではないかと疑った。面白くない気持ちになり、「斧の柄まで新しいものに取り替わってしまうほど、ずいぶん長く待たされるのでしょうね」と、少し皮肉を込めて言った。

 源氏はまた、いつものように紫の上の機嫌を取らなければならなくなった。昔とは違い、今では源氏も軽々しく女性のもとへ通い歩くような人ではないと世間から言われている。それだけに紫の上としても、こんな時の一つ一つがかえって気にかかるのだった。あれこれとなだめているうちに、すっかり日が高くなった。

 源氏は人目につきそうな者を供に交ぜず、十分に気を配ってひっそりと出発した。大堰へ着いたのは黄昏時だった。

 須磨で狩衣姿に身をやつしていた時でさえ、この世の人とも思えないほど美しく見えた源氏である。まして今日は、明石の君を訪ねるつもりで自ら身なりを整えている。直衣姿の源氏は、眩しいほど艶やかで、この世にまたとない美しさだった。それを見れば、明石の君が抱えていた物思いの闇まで、一瞬晴れていくように思われた。

 源氏は久しぶりに幼い姫君を見た。その可愛らしさに、どうして浅い愛情でいられるだろう。これまで何年も離しておいたことさえ、呆れるほど悔やまれた。世間では、葵の上との間に生まれた夕霧をたいそう可愛らしいと騒いでいるが、あれも高貴な家に生まれた若君という世間の見方が加わっているのかもしれない。目の前の姫君を見ると、優れた血筋というものが現れる時には、こうもはっきりわかるものなのだ、と源氏は思った。

 何も知らずににっこり笑う顔には愛嬌があり、まばゆいほどの美しさがある。源氏にはたまらなく可愛かった。明石まで下った時にはやつれていた乳母も、今はずっと整った容貌となり、この数か月の姫君の様子などを気安く話して聞かせる。その話を聞くにつけても、こんな子をあの塩屋のそばで長い間育てさせていたのだと思うと、源氏はしみじみ気の毒に思った。

「ここもずいぶん都から離れていて、私が通ってくるのは簡単ではありません。やはり、いずれは最初から考えていた東の院へお移りになってください」

 源氏がそう言っても、明石の君は、「もう少し、こうした暮らしに慣れてから」と答えた。都へ来たばかりの今、いきなり華やかな人々の中へ入っていくのはためらわれる。その気持ちは源氏にももっともだと思われた。その夜は夜通し、これまでのこと、これからのことを細やかに語り合い、将来を固く約束して明かした。

尼君との対面

 翌日、源氏は邸の修理すべきところを、昔からの預かり役や新しく置いた家司たちへ細かく指図した。今日は桂の院へ行くという話になっていたため、近隣の荘園の人々も大勢集まってきていたが、こちらの大堰へまで皆、源氏を訪ねてやって来た。源氏は折れて倒れた前栽なども直させた。

「あちらこちらの立石も皆転がったりなくなったりしていますね。少し風情を考えて整えれば、なかなか面白い庭になるでしょう。もっとも、こんな場所をわざわざ立派に直すのも妙なものです。こういう所は、ほんのしばらくと思って住んでも、いざ去るとなると億劫になり、心が残ってしまうものです。私も昔、それで苦しい思いをしました」

 過ぎた日々の話などをしながら、泣いたり笑ったり、すっかりくつろいで話している源氏の姿は、本当に見事だった。

 尼君は物陰からそっと源氏を覗いた。見ているだけで年老いたことまで忘れ、長年の物思いが晴れていくような気がして、思わず笑みがこぼれた。源氏は東の渡殿の下から流れ出す水を風情あるように直させていて、たいそう艶やかな袿姿でくつろいでいた。尼君は、それを見られることが嬉しくてならない。

 やがて源氏は、仏へ供える閼伽の道具などが置かれているのを見て、尼君のことを思い出した。

「尼君はこちらにいらっしゃるのですか。これはずいぶんくつろぎすぎた姿をお見せしてしまいましたね」

 そう言って直衣を取り寄せて着替え、几帳のそばへ寄った。

「あれほど立派な娘をお育てになったあなたのことですから、仏道のお勤めにも深いものがおありなのだろうと、しみじみ感じています。あれほど心を澄ませて暮らしていらした明石の住まいを捨て、もう一度この憂き世へ戻ってこられたお気持ちも、決して浅いものではありませんね。それに、あちらへ一人残った入道は、今ごろどんな思いでこちらを思いやっているのでしょう。いろいろと胸に迫るものがあります」

 源氏はたいそう親しみ深く話した。

 尼君は涙をこぼしながら答えた。「一度は捨てた世の中へ、今になってまた戻り、こうして心を乱しております。それをあなた様が察してくださったと思いますと、長く生きてきたことにも意味があったのだと、つくづく感じられます」

「荒磯の陰で、どうなることかと心配しながらお育て申し上げてきた二葉の松――幼い姫君も、今では将来を頼もしく思えるお育ちぶりでございます。それでも私どものような浅い根から生まれたことが、いつかお身の妨げになるのではないかと思うと、やはりあれこれと胸を痛めずにはいられません」

 そう話す尼君の言葉にも、なかなか品のあるところがあった。源氏は昔、この邸に住んでいた中務宮のころの様子などを話させた。そこへ、直したばかりの遣水の音が、何か恨みを訴えるように聞こえてきた。

 尼君が何げなく歌った。

住み馴れし人は帰りてたどれども清水は宿の主人顔なる

昔ここに住み慣れた私は、久しぶりに帰ってきて戸惑っているのに、この清水だけは、ずっとこの家の主人であったような顔をして流れています。

 わざとらしく言い立てるでもなく、すぐ打ち消すように口にした様子に風雅なところがあり、源氏は感心して返した。

いさらゐははやくのことも忘れじをもとの主人や面変りせる

この小さな泉は、きっと昔のことを忘れてはいないでしょう。変わってしまったのは、もとの主人のほうなのではありませんか。

「ああ……」

 そう言って物思いに沈みながら立ち上がる源氏の姿も、光り輝くような美しさも、尼君にはただ、この世のものとは思えないほどだった。

変わらない琴の調べ

 源氏はそのあと御堂へ渡り、毎月十四日、十五日、晦日に行わせる普賢講や、阿弥陀・釈迦を念じる三昧をはじめ、さらに加えて営むべき仏事についてまで細かく定めた。堂内の飾りや仏具についても、あれこれと指図した。そして月が明るくなってから、大堰の邸へ戻った。

 戻ってみると、かつて明石で過ごしたあの夜のことが思い出される。明石の君は、その折を逃さず、源氏が形見として残していった琴を差し出した。あたりには何ともいえないもの悲しい風情が満ちている。源氏もこらえることができず、琴をかき鳴らした。調べはあの時から少しも変わっていない。何度か弾き返していると、明石の浦で別れを惜しんだ夜が、まるで今のことのようによみがえった。

契りしに変はらぬ琴の調べにて絶えぬ心のほどは知りきや

あの日の約束から少しも変わらないこの琴の調べを聞いて、私の思いも絶えることなく続いていたと、あなたはわかってくれたでしょうか。

 明石の君が返した。

変はらじと契りしことを頼みにて松の響きに音を添へしかな

決して変わらないとおっしゃったあの日のお約束だけを頼みにして、私は松風の響きに、自分の泣く声を重ねながら待っておりました。

 こうして源氏と歌を交わしても少しも見劣りしないのだから、明石の君が受けている運命は、やはり身に余るほどのものだったのだろう。以前よりずっと大人びて美しくなったその容貌や気配を、源氏も簡単には見捨てられない。そして幼い姫君からも、どれほど見ても目を離すことができなかった。

 いったいどうすればよいのだろう。このまま人目から隠れたような境遇で姫君が育っていくのは、あまりにもかわいそうで、惜しい。二条院へ迎え、思う存分立派に育てれば、将来のためにも母方の低い身分が目立たずに済むだろう。そう考える一方で、明石の君がどれほど悲しむかと思えば気の毒で、なかなか口に出すことができない。源氏は涙ぐみながら、母と子の姿を見つめていた。

 姫君も初めのうちは少し恥ずかしそうにしていたが、次第に源氏へ慣れ、言葉を発したり笑ったりしながらまとわりつく。そのたびに、ますます美しさが際立ち、可愛らしい。明石の君が姫君を抱いている姿も実に見栄えがし、この母子がただならぬ宿世を持っていることが、目の前にはっきり現れているようだった。

大堰を離れがたい朝

 翌日は都へ帰らなければならなかった。源氏は少し遅くまで休み、そのまま大堰から出発するつもりだったが、桂の院には大勢の人がすでに集まり、こちらにも殿上人が何人も訪ねてきていた。源氏は装束を整えながら、「何とも具合の悪いことになったな。こんなに簡単に隠れ家だと見破られるような場所でもないはずなのに」と苦笑した。人々が集まって騒がしくなったことに押されるように、とうとう出なければならなくなった。

 それでも明石の君たちが気にかかり、何げない顔をして少し足を止めていると、戸口に乳母が姫君を抱いて出てきた。源氏は何ともいえない表情になって、優しく姫君の髪を撫でた。

「もうこの子を見ずにいるのが苦しくなりそうですよ。こんなに急に情が移るとは、自分でも妙なものです。どうしたらよいのでしょうね。それにしても、ここは都から遠すぎる」

 乳母は、「これまで何年も、遥か遠く離れていらっしゃるものと諦めておりました時より、今こうしてお近くにいらっしゃるのに、いつお越しくださるかわからずお待ちするほうが、かえって心を尽くすことになりそうでございます」と申し上げた。

 姫君は立ち去ろうとする源氏へ手を伸ばして慕う。その様子に源氏はたまらなくなり、その場に膝をついた。

「本当に、物思いの絶えない身ですね、私は。ほんのしばらく別れるだけでもこんなに苦しい。それで、あの人はどこにいるのです。どうして一緒に出てきて、少しくらい別れを惜しんでくれないのでしょう。そうしてくれたら、こちらももう少し人心地がするのに」

 そう言って笑い、明石の君へも出てくるよう伝えさせた。けれど彼女は、かえってさまざまな物思いが胸に乱れ、横になったまますぐには動けない。あまりにも貴婦人めいた振る舞いだと源氏には思われたし、そばの女房たちまで気を揉んだので、明石の君はようやくしぶしぶ膝行して出てきた。

 几帳の陰に隠れながら見せる横顔は、なんとも艶やかで品があり、柔らかな気配まで、皇女だと言われても不足はないほどだった。源氏は帷子を少し引きやり、細やかに言葉を交わした。やがて本当に出発しようとして、ほんの少し振り返る。その姿を、さすがに気持ちを抑えていた明石の君も見送らずにはいられなかった。

 今まさに男盛りを迎えた源氏の容貌は、言葉にできないほどだった。昔はあまりにほっそりとしていた体つきも、今ではほどよく堂々としている。それでいて、指貫の裾にまで艶やかな愛嬌があふれ出るように見えるのは、恋する女の目がそう見せるだけではなかっただろう。

 以前、官職を解かれていた蔵人も、今では復職し、靫負尉となり、この年には昇殿まで許されていた。すっかり昔の身分を取り戻して晴れやかな様子で、源氏の御佩刀を受け取りに近寄ってきた。その時、物陰に人影を見つけ、以前から知っている女性だったらしく、少し意味ありげに声をかけた。

「昔のことを忘れていたわけではありません。ただ、恐れ多くてどうすることもできなかったのです。浦風を思い出すような暁の寝覚めにも、お便りを差し上げる手立てさえありませんでしたから」

 すると中からも、「幾重にも重なる山々は、島に隔てられているのと少しも変わりませんでした。それでも昔と変わらない松を頼りに訪ねてみれば、忘れずにいる人もいらしたようで、少し心強く思います」といった返事があった。その男も、自分だって忘れていたわけではないのに、ずいぶんな言われ方だと思ったのだろうが、「今さら改めて言うことでもありませんね」ときっぱり言い、そのまま源氏の供へ戻っていった。

桂の院の月夜

 源氏がひときわ華やかな姿で進んでいくと、先払いの声もにぎやかに響いた。御車の後ろには頭中将と兵衛督を乗せた。

 源氏は、「ずいぶん気軽な隠れ家だったものだ。こうしてすっかり見つかってしまったのが悔しいよ」と、ひどく残念がるふりをした。

 頭中将たちは、「昨夜の月に、お供できず残念だったと思いまして、今朝は霧を分けて参りました。山の紅葉にはまだ早いようですが、野辺の色はちょうど盛りでございます。某の朝臣は小鷹に夢中になって遅れておりますが、どうしておりますやら」などと話した。

 そこで今日はそのまま桂の院へ行くことになった。急な宴の準備で大騒ぎとなり、鵜飼の者たちまで呼び寄せた。その声を聞けば、源氏には明石や須磨の海人たちの言葉が懐かしく思い出される。野で夜を明かした若君たちも、ほんの形ばかりに捕らえた小鳥を荻の枝につけ、土産にしてやって来た。酒は何度も杯を巡り、川を渡るのも危ないほど皆が酔ったので、結局その日は一日中そこに留まることになった。

 それぞれ漢詩の絶句などを作り合い、月が華やかに昇るころには管弦の遊びが始まった。琵琶と和琴を中心に、笛も名手ばかりを集め、その夜にふさわしい調子を吹き立てる。そこへ川風まで音を添え、月は次第に高く昇った。すべてが澄み渡るような夜が少し更けたころ、殿上人が四、五人ほど連れ立ってやって来た。

 彼らは宮中に控えていたのだが、帝が管弦を楽しまれている折、「今日は六日の物忌が明ける日だから、内大臣は必ず参内するはずなのに、どうしたのだろう」とお尋ねになった。それで、源氏が桂に泊まっていることをお聞きになり、わざわざお言葉を届けさせたのである。使者は蔵人弁だった。

 冷泉帝からの歌には、こうあった。

月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ

澄んだ月の光が宿る川の向こうの里なのですから、桂の木陰もさぞのどかで、ゆったりしているのでしょうね。

「うらやましいことです」とまである。源氏は恐縮して返事をした。

 こちらの演奏は、宮中の管弦よりもむしろ、この土地ならではの寂しく澄んだ風情が音に加わっているように思われ、皆さらに酒が進んだ。急な宴だったので十分な料理もなく、大堰へ「あり合わせでよいから、何か用意できるものを」と使いを出した。すぐにできるだけのものを整えて届けてきた。衣櫃二荷まで添えられていた。使者の蔵人弁は早く宮中へ戻らなければならないので、源氏は女物の装束を褒美に与えた。

 そして帝へ返した。

久方の光に近き名のみして朝夕霧も晴れぬ山里

ここは「桂」と、天の月の光に近いような名だけは持っておりますが、実際には朝夕いつも霧の晴れない山里でございます。

 いつか帝の行幸をお迎えしたい、という心も込められていたのだろう。

 源氏は「中に生ひたる……」と古歌の一節を口ずさむうち、ふと須磨から眺めた淡路島を思い出した。歌人の躬恒が土地柄について詠んだ古歌のことなどまで口にする。酒も回っていたので、その場には昔を思い出して泣き出す者もいたらしい。

 源氏が詠んだ。

めぐり来て手に取るばかりさやけきや淡路島のあはと見し月

巡り巡って、今夜は手に取れそうなほど澄んで見える月よ。あのころ、淡路島の方角へ遥かに「あれが」と眺めていた月も、この同じ月だったのですね。

 頭中将も続けた。

浮雲にしばしまがひし月影のすみはつる夜ぞのどけかるべき

一時は浮雲に紛れて姿を隠していた月も、今はすっかり澄み渡っています。これからの夜こそ、穏やかに照り続けることでしょう。

 左大弁は少し年長で、亡き桐壺院の御代にも親しく仕えた人だった。

雲の上のすみかを捨ててよはの月いづれの谷にかげ隠しけむ

雲の上の宮中を離れたあのころ、夜半の月のようなあなたは、いったいどの谷間に光を隠していらしたのでしょう。

 ほかにもそれぞれ多くの歌があったようだが、全部挙げるのは煩わしい。すっかり打ち解け、静かなはずの語らいも少し乱れるほど盛り上がった。このまま千年でも見聞きしていたいような源氏の姿だから、昔話の木こりのように斧の柄が朽ちてしまってもおかしくはない。けれどさすがに今日まで、と皆は帰り支度を始めた。

 身分に応じた褒美が配られ、人々の色鮮やかな装束が朝霧の切れ間に入り混じる様子は、庭の花々と見間違えるほど美しかった。近衛府でも名高い舎人や、音楽に巧みな者たちもいたので、名残惜しさを紛らわせるため「其駒」などをにぎやかに歌い遊ぶ。人々が脱いで与えられた色とりどりの衣は、秋の錦を風が一面に吹き広げたように見えた。

 やがて一行は華々しい音を響かせながら都へ帰っていった。その騒ぎを大堰では少し離れたところから聞いていた。音が遠ざかったあとの静けさがいっそう寂しく、明石の君はぼんやりと外を眺めていた。せめて手紙くらい送ればよかった、と源氏自身も心に引っかかっていた。

紫の上に姫君を託す相談

 二条院へ帰った源氏は、少し休んでから山里での出来事などを紫の上へ話した。

「お暇をいただいた日数を越えてしまったので、本当に気が重かったですよ。あの風流好きな連中が私を見つけて、どうしても帰すまいと引き止めたものだから、つい付き合わされてしまって。今朝は本当に疲れました」

 そう言って横になった。紫の上は相変わらず、どこか心を許していない様子である。源氏はそれに気づきながら、気づかないふりをした。

「そもそも、比べようもないほど立場の違う人とご自分を比べること自体、よくないことですよ。あなたはあなたなのだと、そう思っていてください」

 源氏は紫の上をなだめるように言った。

 夕暮れになり、源氏が宮中へ参ろうとするころ、体を少し横へ向け、急いで手紙を書いた。大堰の明石の君へ送るものらしい。横顔までひどく細やかで美しく見える。女房たちはひそひそ話しながら、そんな源氏を憎らしく思っていた。

 本来ならその夜は宮中に泊まるはずだった。しかし紫の上の機嫌がまだ直っていなかったことが気になり、夜も更けてから二条院へ戻ってきた。すると先ほど送った手紙への返事が大堰から届いている。源氏は隠しきれず、そのまま紫の上にも見せた。特に腹を立てるような内容もなかった。

「これはもう破ってしまってください。困ったものですね。こんな手紙がそのへんに残って人目につくようなことも、今の私には似つかわしくない年齢になりましたから」

 そう言って脇息に寄りかかった。けれど心の中では、大堰に残してきた母子がたまらなく恋しく思いやられる。源氏は灯火をじっと眺めたまま、しばらく何も言わなかった。

 手紙は開いたままそこにあるのに、紫の上は見ようともしない。

「そんなに一生懸命、見ないようにしている目尻のほうが、かえって気になりますよ」

 そう言って笑う源氏の愛嬌は、あたりいっぱいにこぼれそうなほどだった。そして紫の上のそばへ寄り、とうとう本当に心にかかっていたことを打ち明けた。

「実は、たいそう可愛らしい子を見てきたのです。あの子を見ると、私との縁も決して浅いものではないように思われました。だからといって、あの母親を表立って一人前に扱おうとすれば、いろいろ差し障りも多い。それでどうしたものか、本当に考え込んでしまったのです。あなたも私と同じように考えて、どうするのがよいか決めてくださいませんか」

「あの子を、ここであなたが育ててくださらないでしょうか。もう三つほどになるのに、何の罪もない幼い子をあのままにしておくのは、どうしても見捨てがたいのです。まだ幼いうちなら、母方の身分の低さも目立たないように育ててやれると思います。あなたが不愉快に思わないのなら、どうか引き取って、あなたの子として育ててやってください」

 紫の上は答えた。

「あなたはいつも、私が思ってもいないようなことまで勝手に想像して、私との間に隔てを作ってしまわれるでしょう。だから私は、それに気づかないふりをして、何の疑いもなくお任せしていようと思っているのです。そんな小さなお子なら、私ともきっと仲よくできるでしょうね。どれほど可愛らしいのでしょう」

 そう言って、紫の上はようやく少し笑った。もともと幼い子どもをたまらなく可愛がる人なので、そんな姫君ならぜひ自分の手元へ迎え、抱いて大切に育ててみたいという気持ちがすぐに湧いてきた。

 源氏はなお迷った。迎えてしまおうか――。けれど明石の君の気持ちを考えると、簡単には決められない。

 大堰まで通うのは、やはり容易ではなかった。そのため源氏は、嵯峨野の御堂で行われる念仏などの機会を待ち、それにかこつけて月に二度ほど明石の君を訪ねるようになった。年月がたてば、訪れる回数はもう少し増えていきそうではある。

 明石の君も、自分には過ぎた縁なのだと十分わかっていた。それでも、源氏の訪れだけを待って暮らす以上、どうして物思いをせずにいられただろう。

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