2026年8月2日(日)、福岡県宗像市にある「平信盛笠塔婆」を訪ねました。
平信盛⋯⋯聞いたことがあるような、ないような⋯⋯。調べてみると、なんと壇ノ浦の戦いで平家軍を指揮した平知盛の子と伝わる人物なのだそうです。
平知盛の父は、あの平清盛です。つまり平信盛は、平清盛の孫ということになります。
そんなビッグネームの墓とされる場所が、なぜ宗像に?
平信盛笠塔婆への行き方

平信盛笠塔婆は、福岡県宗像市池田の国道495号沿いにあります。Googleマップで出てきたので、それを頼りに車で向かいました。
住所:〒811-3515 福岡県宗像市池田701-3
国道495号は何度も通ったことがある道なのですが、道沿いに平信盛笠塔婆なんて史跡があることに、今までまったく気づきませんでした。それもそのはずで、道沿いに目印も看板もなければ、50㎞制限と車のスピードも出やすい道なので、意識して探さないと素通りしてしまいます。

今回は平信盛笠塔婆を目指して向かったわけですが、それでも素通りしてしまいました。折り返したものの、「あっ」と気づいたときにはすでに遅し。2回目も通り過ぎてしまい、3回目でやっと「ここだ」とはっきり確認できました。

しかし、周辺に車を停められそうな場所がなく、今度は駐車場探しに右往左往。結局、平信盛笠塔婆に専用の駐車場はないようでした。
なお、公共交通機関を利用する場合は、宗像市コミュニティバス池野線の「釣山」バス停が最寄りです。
宗像に伝わる平家落人伝説

平信盛笠塔婆の案内板に、平信盛が宗像に落ち延び、この地で繁栄していった経緯が書かれています。
宗像に落ち延びた平信盛と月絵姫

案内板によると、平信盛は平清盛の孫であり、父は平知盛ということです。壇ノ浦の戦いの後、85騎の家来とともに英彦山から宗像大社へと落ち延び、孔大寺権現へと移ってきたそうです。
妻の月絵姫は、大納言光盛の息女と書かれています。大納言光盛とは、平清盛の異母弟・平頼盛の子である平光盛のことかと思いましたが、平光盛は承安2年(1172年)生まれで、壇ノ浦の敗戦時は数え年で14歳。その娘というのは無理がありそうです。
世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群デジタルアーカイブでは、月絵姫を平野親王光盛の娘としています。しかし、「平野親王光盛」と検索しても該当しそうな人物が見つからず、誰なのかはわかりませんでした。
金鉱採掘により繁栄した平信盛の子孫

宗像へ落ち延びた平信盛は、釣山で金鉱を発見し、採掘に従事しました。井上五郎大夫と名を改めて宗像に定住し、その子孫は大賀、永野と姓を改めて今に至ります。全盛期には、千戸を超える鉱山町にまで発展したと伝えられています。
宗像市の公式サイトにも金鉱の歴史が紹介されており、この池田地区では、江戸時代後期の天保年間ごろに、黒田藩の御用金として盛んに金が採掘されていたそうです。昭和40年代には衰退したとのことですが、かなり最近まで続いていたことに驚きました。
宗像と平家との関係
宗像には平信盛以外にも、同じく平知盛の子である平知宗にまつわる話や、壇ノ浦の戦いで亡くなったとされる安徳天皇が隠れ住んでいたという伝説も残されています。
これらの伝説は、もしかすると、ただの伝説ではないのかもしれません。実は、平家が栄華を極めていた頃から宗像と平氏には深いつながりがあり、平家の人々が身を寄せやすい土壌があったとも考えられるのです。
仁安元年(1166年)、平清盛の異母弟である平頼盛が大宰大弐に任命され、宗像社領家職にも就きました。平頼盛は、先ほど名前を出した光盛の父です。これをきっかけに宗像の土地や人々と平家一門とのつながりが深まり、壇ノ浦の戦いで平家が敗れた後も、落ち延びてきた人々を匿うような体制があったのかもしれません。
平信盛の伝説については、実際に金鉱の歴史があり、永野姓も残っていることから、実話である可能性は十分に考えられると思います。
平知宗は寿永3年(1184年)生まれなので、壇ノ浦敗戦後の落人と呼ぶべきではないかもしれません。しかし、正治2年(1200年)には太宰大監に任じられており、九州とのつながりがあったことは確かです。
安徳天皇潜幸伝説は全国各地に残されており、九州では現在の福岡県北九州市、福岡県久留米、佐賀県鳥栖市、そして対馬にも伝わっています。もし本当に安徳天皇が生き延びていたとしたら、生涯を宗像で過ごしたとまではいわずとも、しばらくの間、身を隠していたと考えてもおかしくありません。
平信盛は本当に平清盛の孫なのか
ところで、平信盛という人物は実在したのでしょうか。平信盛笠塔婆では平知盛の子とされていますが、知盛の子として記録されているのは、知章・増盛・知忠・知宗と娘の中納言局の4男1女です。系図には、平信盛の名前は見当たりません。
ただ、平知盛にそれ以外の子がいた可能性は十分に考えられます。系図が作られたのは後世のことであり、記録に残っていないだけで、ほかにも子どもがいたとしてもおかしくないでしょう。平信盛のように、名を改めて身を隠していた人物であれば、その地域の伝承に残るだけで、公式の記録に残らなかったこともあり得ると思います。
一方で、確かな記録がないからこそ、何とでも言えてしまう部分もあります。平信盛が平知盛の子、つまり平清盛の孫だった可能性を、少なくとも否定することはできないと思います。

