大地震
平家は皆滅び果て、西国も静まった。
国は国司に従い、荘園は領家の意のままとなった。
身分の高い者も低い者も安心して暮らすようになったと思われたころ、同じ年の7月9日の正午ごろ、大地が激しく揺れ、長い間続いた。
都の白河の辺りでは、六勝寺が皆壊れた。
九重の塔も、上の六重が揺り落とされた。
得長寿院も、三十三間の御堂のうち十七間までが揺り倒された。
皇居をはじめ、人々の家々、あらゆる土地の神社や仏閣、身分の低い者の家まで、ことごとく壊れる音は雷のようで、舞い上がる塵は煙のようだった。
空は暗くなり、日の光も見えず、老いも若きも肝をつぶし、鳥も獣もすべて恐れおののいた。
遠い国も近い国も同じだった。
大地が裂けて水が湧き出し、大きな岩が砕けて谷へ転がり落ちた。
山が崩れて川を埋め、海が揺れ動いて浜を浸した。
水際を漕ぐ船は波に揺られ、陸を行く馬は足を踏み立てるところを失った。
洪水が押し寄せるなら、山に登ってどうして助からないことがあろう。
激しい火が燃え広がってくるなら、川を隔ててでも、しばらくは逃れられるだろう。
ただ悲しいのは大地震だった。
鳥ではないので空を飛ぶことも難しく、竜ではないので雲に上ることも難しい。
白河や六波羅、京の中で、倒れた建物に埋もれて死んだ者は数知れなかった。
四大種のうち、水・火・風はいつも害を及ぼすが、大地は異常な変化を起こさない。
これはいったいどうしたことかと、身分の高い者も低い者も引き戸や障子を立て、空が鳴り、大地が揺れるたびに、今こそ死ぬのだと口々に念仏を唱え、大声で叫んだ。
70、80、90歳の者も、世が滅びるなどということも、さすがに今日明日とは思っていなかったと大騒ぎしたので、幼い者たちもそれを聞き、限りなく泣き悲しんだ。
法皇はちょうど新熊野へ御幸なさっていたが、多くの人が建物に押し潰されて死に、死の穢れに触れることとなったので、急いで六波羅へお帰りになった。
道中、君も臣もどれほどお心を痛められたことだろう。
主上は鳳輦にお乗りになり、池のほとりへ行幸なさった。
法皇は南の庭に幕屋を立てて、そこにいらした。
女院や宮々は、御所が皆揺り倒されたので、輿や車に乗ってお出になった。
天文の博士たちが駆けつけ、今夜の亥・子の刻には必ず大地がひっくり返るだろうと申し上げたので、恐ろしいという言葉だけでは言い尽くせなかった。
昔、文徳天皇の御代、斉衡3年3月8日の大地震では、東大寺の大仏の頭が揺り落とされたという。
また天慶2年4月5日の大地震では、主上が御殿を出て、常寧殿の前に五丈の幕屋を立てていらしたと伝えられている。
それは昔のことなので、今ここで述べるまでもない。
今度のようなことは、これから先にも例があるとは思えなかった。
十善の果報を受けた帝王が都を出られ、その身を海底に沈め、大臣や公卿は大路を引き回され、その首を獄門に掛けられた。
昔から今に至るまで怨霊は恐ろしいものなので、世はこれからどうなるのだろうと、物の道理をわきまえた人で嘆き悲しまない者はいなかった。
紺掻沙汰
同じ年の8月22日、鎌倉の源二位頼朝卿の父、亡き左馬頭義朝の本当の頭だと、高雄の文覚上人が首に掛け、鎌田兵衛の頭は弟子の首に掛けさせて、鎌倉へ下られた。
去る治承4年のころに取り出してお渡ししたのは、本当の左馬頭の首ではなかった。
謀反をお勧めするための計略で、何の関係もない古い頭を白い布に包んでお渡ししたところ、頼朝は謀反を起こして天下を取り、すっかり父の頭だと信じていらした。そのところへ、今度は本当の頭を捜し出して下ったのだった。
長年義朝にかわいがられて仕えていた紺掻の男がいた。義朝の頭が長い間獄門に掛けられ、後世を弔う人もいないことを悲しみ、当時の大理にお会いして願い出て、頂いて取り下ろしたのが、この頭だった。兵衛佐殿は流人でいらっしゃるが、将来が頼もしい人だ。
もし世に出て捜し求められることがあるかもしれないと、東山の円覚寺というところに深く納めておいた。それを文覚が聞きつけ、その紺掻の男も一緒に連れて下ったという。
今日、鎌倉に着くと聞こえたので、源二位は片瀬川まで迎えにいらした。
そこから喪服姿になり、泣く泣く鎌倉へお入りになった。
聖を高い床の上に立たせ、ご自分は庭に立って父の頭をお受け取りになったのは、哀れだった。
これを見た大名も小名も、皆涙を流さずにはいられなかった。
険しい岩場を切り払い、新しい道場を造り、父のために供養を行って、勝長寿院と名づけられた。
朝廷でもこのようなことを哀れとお思いになり、亡き左馬頭義朝の墓へ、内大臣正二位を贈られた。
勅使は左大弁兼忠だと聞こえた。
頼朝卿は武勇の誉れが高かったので、身を立てて家を興しただけでなく、亡き父の霊にまで官職と位が贈られたのは、めでたいことだった。
平大納言被流
同じ年の9月23日、都にいる平家の余党を国々へ遣わすよう、鎌倉殿から朝廷へ申し入れられた。平大納言時忠卿は能登国、子の讃岐中将時実は上総国、内蔵頭信基は安芸国、兵部少輔正明は隠岐国、二位僧都専親は阿波国、法勝寺執行能円は備後国、中納言律師忠快は武蔵国へ遣わされると聞こえた。
ある者は西の海の波の上へ、ある者は東の関の雲の果てへ、どこを最期の地とするかも定められず、再会がいつになるかも分からないまま、別れの涙を押さえて、それぞれに赴いたであろう心の中が思いやられ、哀れだった。
その中で平大納言は、建礼門院がいらっしゃる吉田へ参り、
「時忠は罪が重く、今日、配所へ向かいます。同じ都の中にいて、身の回りのことなどを承りたかったのですが、この先どのようにお過ごしになるのだろうと、おあとに心を残しておりますので、行く先も分からなくなりそうでございます」
と泣く泣く申し上げたので、女院は、
「本当に、昔の名残としては、あなただけがいらっしゃったのです。今は私を気に掛けて、見舞ってくれる人も誰がいるでしょう」
と、涙を抑えることがおできにならなかった。
この大納言は、出羽前司具信の孫、兵部権大輔で贈左大臣の時信の子だった。
亡き建春門院の兄弟で、高倉上皇の外戚だった。
世の評判も、その時の威勢もすばらしかった。
入道相国の妻、八条の二位殿も姉でいらしたので、官職を兼ねることも思いのまま、心のままだった。
そのため、ほどなく昇進して正二位の大納言に至った。
検非違使別当にも三度までなられた。
この人が庁務を執っていたときは、窃盗や強盗をした者を捕らえ、容赦なく右腕を中ほどから切り落としては、追い捨てた。
そのため悪別当と呼ばれた。
主上と三種の神器を都へお返しするよう、西国へ院宣が下されたとき、院宣の使者の花形の顔に、浪形という焼き印を押したのも、この大納言の仕業だった。
法皇も、時忠が亡き女院の兄弟なので、その形見としてご覧になりたいとお思いだったが、このような悪行のため、お怒りは浅くなかった。
九郎判官も親しくなられていたので、何とか赦免を願い出たいと思われたが、かなわなかった。
子の侍従時家という16歳になられた方は、流罪を免れ、伯父の時光卿のもとにいらした。
母の帥のすけ殿と一緒に、大納言の袂にすがり、袖を引き留め、これが最後となる別れを惜しんだ。
大納言は、
「いずれはしなければならない別れではないか」
と気丈におっしゃったが、さぞ悲しく思われたことだろう。
年を重ね、老いが深まってから、あれほど仲のよかった妻子とも別れ果て、住み慣れた都も遠い雲のかなたに振り返り、昔は名だけを聞いていた越路の旅へ向かって、はるばる下っていかれた。あれが志賀や唐崎、これが真野の入江、交田の浦だと申し上げると、大納言は泣く泣く歌を詠まれた。
帰ってくることは難しい。かた田に引く網の目にもとどまらない私の涙よ。
昨日は西の海の波の上を漂い、憎む者と出会う苦しみの恨みを小舟の中に積み、今日は北国の雪の下に埋もれ、愛する者と別れる苦しみの悲しみを、故郷の雲に重ねていた。
土佐房被斬
さて、九郎判官には鎌倉殿から大名10人が付けられていたが、内々に疑いを掛けられていると聞こえたので、皆示し合わせ、一人ずつ残らず鎌倉へ下ってしまった。
頼朝と義経は兄弟であるうえ、特に父子の約束も交わしていた。去年の正月に木曽義仲を追討して以来、たびたび平家を攻め落とし、今年の春には滅ぼし尽くして、天下を鎮め、四海を平穏にした。
恩賞が与えられるはずなのに、どのような事情でこのような噂があるのだろうと、天皇をはじめ、すべての民に至るまで疑問に思った。
これは去る春、摂津国渡辺で船をそろえて八島へ渡られたとき、逆櫓を立てよう、立てまいと争い、梶原がひどく侮られたのを恨みに思って、いつも讒言していたためだった。
きっと謀反の心もあるだろうと、鎌倉殿はお思いになった。
大名たちを上らせれば、宇治や勢田の橋も壊し、京の中の騒ぎとなって、かえって悪いことになるだろうと、土佐房正俊を呼び、
「お前が上り、参詣するふりをして、だまし討ちにせよ」
とおっしゃったので、正俊は謹んで承り、宿所にも帰らず、御前を立つと、そのまま京へ上った。
同じ年の9月29日、土佐房は都に着いたが、翌日になっても判官殿のもとへ参らなかった。
土佐房が上ってきたとお聞きになり、武蔵房弁慶を遣わしてお呼びになると、すぐに連れて参った。
判官がおっしゃった。
「鎌倉殿からのお手紙はないのか」
「特別なご用もありませんので、お手紙は頂いておりません。口頭で申し上げるようにと言われたのは、『今まで都に特別な問題もないのは、そちらにいらっしゃるおかげだと思っています。くれぐれもしっかりお守りくださいと申せ』ということでございました」
判官は、
「まさかそうではあるまい。義経を討つために上ってきた使者だろう。大名たちを上らせれば、宇治や勢田の橋も壊し、都の騒ぎになって、かえって悪いことになる。お前を上らせ、参詣するふりをして、だまし討ちにせよと命じられたのだろうな」
とおっしゃったので、正俊は大いに驚き、
「どうして今、そのようなことがございましょう。わずかな宿願があり、熊野参詣のために上って参りました」
そのとき判官は、
「景時の讒言によって、義経は鎌倉に入ることも許されず、対面さえしていただけないまま追い返された。それはどうしたことか」
正俊は、
「そのことはどうなのでしょう。私には全く後ろ暗いことはございません。起請文を書いて差し上げましょう」
と申し上げた。
判官は、
「どうあっても、鎌倉殿によいと思っていただけてこそだ」
と、ひどく機嫌が悪くなられた。
正俊はひとまず害を逃れるため、その場で七枚の起請文を書き、あるものは焼いて飲み、あるものは社に納めなどして、赦されて帰った。大番衆に触れ回り、その夜すぐに攻め寄せようとした。
判官は磯禅師という白拍子の娘で、しづかという女を最も愛していらした。
しづかも傍らを離れることがなかった。
しづかが申し上げた。
「大路はどこも武者でいっぱいだそうです。こちらから召集してもいないのに、大番衆がこれほど騒ぐはずがありましょうか。これはきっと、昼間の起請文を書いた法師の仕業だと思います。人を遣わして見させたいものです」
そう言って、六波羅の亡き入道相国が使っていた禿を三、四人召し使っていたうち、二人を遣わしたが、長い間帰ってこなかった。
かえって女なら差し支えないだろうと、下働きの女を一人、様子を見に遣わした。
ほどなく走って帰り、申し上げた。
「禿と思われる者は、二人とも土佐房の門で切り伏せられています。宿所には鞍を置いた馬を隙間なく引き並べ、大きな幕の中では、者どもが皆鎧を着て、矢を背負い、弓に弦を張り、今すぐにでも攻め寄せようと支度しております。少しも参詣の様子には見えません」
こう申し上げると、判官はそれを聞き、すぐに立ち上がられた。
静は著背長を取り、判官に投げ掛け申し上げた。
高紐を整え、太刀を取ってお出になると、中門の前に鞍を置いた馬を引き立ててあった。それにお乗りになり、
「門を開けよ」
と門を開けさせ、今か今かと待っていらした。しばらくすると、直甲の武者40、50騎が門の前へ押し寄せ、鬨の声をどっと上げた。
判官は鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で、
「夜討ちでも昼の戦でも、義経をたやすく討てる者が、日本国にいるとは思えぬものを」
と、ただ一騎で大声を上げて駆けられたので、50騎ほどの者たちは間を空けてお通しした。
そこへ江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶など、一人で千人に当たるほどの兵たちがすぐに続き、攻め戦った。
そのあと侍たちも、判官の屋敷へ夜討ちが入ったと、あちらの屋形、こちらの宿所から駆けつけた。
ほどなく60、70騎が集まったので、土佐房は勇ましく攻め寄せたものの、戦うこともできず、散々に蹴散らされ、助かった者は少なく、討たれた者が多かった。
正俊はかろうじてそこを逃れ、鞍馬の奥へ逃げ籠もったが、鞍馬は判官が昔暮らした山だったので、土佐房は捕らえられ、翌日判官のもとへ送られた。
僧正が谷というところに隠れていたという。
正俊を大庭へ引き据えた。
濃い藍色の直垂に、首丁頭巾をかぶっていた。
判官は笑っておっしゃった。
「どうだ、起請文の罰が当たったな」
土佐房は少しも騒がず、座り直し、あざ笑って申し上げた。
「本当のことについて書きましたので、罰が当たったのでございますよ」
と申し上げた。
「主君の命令を重んじ、自分の命を軽んじる。その志はまことに殊勝だ。命が惜しければ、鎌倉へ返して遣わそうか」
土佐房は、
「つまらないことをおっしゃいますな。惜しいと申せば、殿はお助けになるのですか。鎌倉殿から、法師ではあるが、義経を狙うのはお前だと命令を受けたときから、命は鎌倉殿に差し上げました。どうしてお返しいただけましょう。ただご恩情として、早く首をお取りください」
と申し上げたので、
「それなら切れ」
と、六条河原へ引き出して切ってしまった。
土佐房を褒めない人はいなかった。
判官都落
さて、足立新三郎という雑色は、
「あいつは身分が低いが、とても賢い者だ。召し使いなさい」
と、鎌倉殿から判官のもとへ遣わされていたが、
「内々に九郎の振る舞いを見て、私に知らせよ」
と命じられていた。
正俊が切られるのを見て、新三郎は夜を日に継いで鎌倉へ駆け下り、鎌倉殿にこのことを申し上げた。鎌倉殿は弟の参河守範頼を、討手として上らせようとおっしゃった。
範頼は繰り返し辞退したが、重ねて命じられたので、どうしようもなく鎧を着て、別れの挨拶に参った。
「お前も九郎のまねをするなよ」
とおっしゃったので、この言葉を恐れ、鎧を脱いで、京へ上るのをおやめになった。
全く不忠の心はないと、昼は一日に十枚ずつ起請文を書き、夜はお庭の中で読み上げて、100日で千枚の起請文を書いて差し上げられたが、かなわず、とうとう討たれた。
そのあと北条四郎時政を大将として討手が上ると聞こえたので、判官殿は鎮西の方へ逃れようとお思いになった。緒方三郎維義は、平家を九国の中へもお入れせずに追い出すほどの威勢のある者だったので、判官は、
「私の頼りになってくれ」
とおっしゃった。
「それでしたら、御家来の菊池次郎高直は長年の敵でございます。頂いて首を切り、お力になりましょう」
と申し上げた。
ためらいなくお渡しになったので、六条河原へ引き出して切ってしまった。
そのあと維義は、しっかりと引き受けた。
同じ年の11月2日、九郎大夫判官は院御所へ参り、大蔵卿泰経朝臣を通じて申し上げた。
「義経が君のために忠義を尽くしてお仕えしたことは、改めて申し上げるまでもございません。それなのに頼朝は、郎等たちの讒言によって義経を討とうとしておりますので、しばらく鎮西の方へ下りたいと存じます。院庁の下文を一通頂きたいのでございます」
こう申し上げると、法皇は、
「このことを頼朝が伝え聞いたら、どうなるだろう」
と公卿たちにご相談になった。
「義経が都にいて、関東の大軍が乱入すれば、京都の狼藉は絶えることがないでしょう。遠い国へ下れば、しばらくはその恐れがありません」
と皆同じように申し上げたので、緒方三郎をはじめ、臼杵、戸次、松浦党、すべて鎮西の者たちは義経を大将として、その命令に従うようにとの院庁の下文を頂いた。500騎余りの勢を率い、翌3日の卯の刻に、京都へ少しも迷惑を掛けず、波風も立てずに下った。
摂津国の源氏、太田太郎頼基は、
「私の門の前を通るのに、矢一本も射掛けずにいられようか」
と、河原津というところへ追いつき、攻め戦った。
判官は500騎余り、太田太郎は60騎余りだったので、取り囲み、
「一人も残すな、逃すな」
と散々にお攻めになった。太田太郎は自分も傷を負い、家子や郎等を多く討たれ、馬の腹を射られて引き退いた。
判官は首を切って掛け、軍神に祭り、
「幸先がよい」
と喜び、大物浦から船に乗って下られたが、ちょうど西風が激しく吹き、住吉の浦に打ち上げられたので、吉野の奥へ籠もられた。
吉野の法師に攻められ、奈良へ逃れた。
奈良の法師に攻められ、また都へ戻り、北国を通って、とうとう奥州へ下られた。
都から連れてきた女房たち10人余りを住吉の浦に置き去りにしたので、松の下や砂の上で袴を踏み乱し、袖の片方を敷いて泣き伏していた。住吉の神官たちはそれを哀れみ、皆京へ送った。
判官が頼みにしていた伯父の信太三郎先生義教や十郎蔵人行家、緒方三郎維義の船も、それぞれの浦や島に打ち寄せられ、互いにその行く先を知らなかった。
突然西風が吹いたのも、平家の怨霊のためと思われた。
同じ年の11月7日、鎌倉の源二位頼朝卿の代官として、北条四郎時政が6万騎余りを率いて都に入った。
翌8日、院へ参り、伊予守源義経、備前守源行家、信太三郎先生源義教を追討するよう申し上げたので、すぐに院宣が下された。
去る2日には、義経の願いに従って頼朝に背くよう院庁の下文が出され、同じ8日には、頼朝卿の申し出によって義経追討の院宣が下された。
朝に変わり、夕に変わる世の定めなさは、哀れだった。
さて、鎌倉殿は日本国の惣追捕使に任じられ、田の一段ごとに兵糧米を課すよう申し上げた。
「昔から朝廷の敵を滅ぼした者には国の半分を与えるということが、無量義経に書かれている。しかしわが国にはまだその例がない。これは頼朝の度を越した申し出だ」
と法皇はおっしゃったが、公卿たちが相談し、
「頼朝卿の申されることは、半ば道理にかなっております」
と皆同じように申し上げたので、お許しになったという。
国々に守護を置き、荘園に地頭をお任じになった。
ほんのわずかでも隠せるものはなかった。
鎌倉殿はこのようなことを、朝廷に人は多いが、吉田大納言経房卿を通じて申し上げていた。
この大納言は、実直な人と評判だった。
平家と結びついていた人々も、源氏の世の力が強くなってからは、手紙を下したり、使者を遣わしたりして、さまざまにへつらったが、この人はそうなさらなかった。
そのため平家のときにも、法皇を鳥羽殿に押し籠め申し上げ、後院の別当を置いたときには、勘解由小路中納言とこの経房卿の二人が、後院の別当に任じられた。
権右中弁光房朝臣の子だった。
12歳のとき、父の朝臣がお亡くなりになったので、父のない子となったが、順々に昇進して滞ることがなく、三事の要職を兼ね、夕郎の長を経て、参議、大弁、太宰帥、正二位の大納言に至った。
人を追い越して昇進されても、人に追い越されることはなかった。
そのように、人の善悪は、錐が袋を突き通すように、最後には隠れていられない。
めったにない、優れた人だった。
六代
北条四郎は策として、
「平家の子孫という者を捜し出した者には、望みを申し出るに任せよう」
と発表した。
京の中の者たちは事情を知っていたので、
「恩賞を頂こう」
と捜し求めるのは、嫌なことだった。
このようなことだったので、多くの子孫を捜し出した。
身分の低い者の子であっても、色が白く顔立ちのよい者を呼び出し、
「これは何某の中将殿の若君、あの少将殿の公達です」
と申し上げた。父母が泣き悲しんでも、
「あれは世話をする者が申しているのです。あれは乳母が申しているのです」
などと言うので、ひどく幼い者は水に沈めたり、土に埋めたりし、少し年長の者は押し殺したり、刺し殺したりした。
母の悲しみも乳母の嘆きも、たとえようがなかった。
北条もさすがに子孫が多かったので、これをよいこととは思わなかったが、世に従うのが習いなので、どうすることもできなかった。
中でも小松三位中将殿の若君に六代御前という方がいらっしゃるという。平家の正嫡であるうえ、年も大きくなっていらっしゃるということだった。
どうしても捕らえようと、手分けして捜したが、捜し出せずに鎌倉へ下ろうとしたところ、ある女房が六波羅へ出てきて申し上げた。
「ここから西、遍照寺の奥に、大覚寺という山寺があります。その北の菖蒲谷というところに、小松三位中将殿の奥方、若君、姫君がいらっしゃいます」
と申し上げたので、時政はすぐに人を付け、その辺りを探らせた。ある坊に女房たちや若い人が大勢、たいそう人目を忍ぶ様子で住んでいた。
垣根の隙間からのぞくと、白い犬が走り出たのを捕まえようと、美しい若君がお出になった。すると乳母と思われる女房が、
「ああ、大変なことです。人がお見かけするかもしれません」
と、急いで中へ引き入れた。
「これこそ、きっとその方だろう」
と思い、急いで走り帰って、こうだと申し上げた。翌日、北条はそこへ向かい、四方を取り囲み、人を中へ入れて言わせた。
「平家の小松三位中将殿の若君、六代御前がこちらにいらっしゃると伺い、鎌倉殿の代官、北条四郎時政という者がお迎えに参りました。早くお出しください」
と申し上げたので、母上はこれをお聞きになり、全く何もお分かりにならなかった。
斎藤五と斎藤六は走り回って見たが、武士たちが四方を取り囲んでおり、どちらからお逃がしすればよいかも分からなかった。
乳母の女房も御前に倒れ伏し、声も惜しまず大声で叫んだ。
日ごろは声を高くして物を言うこともなく、人目を忍んで隠れていたが、今は家の中の者が皆、声を合わせて泣き悲しんだ。
北条もそれを聞き、ひどくつらく思い、涙を拭いてじっと待っていた。
しばらくして、重ねて申し上げた。
「世がまだ静まっていませんので、よくないことがあってはいけないと、お迎えに参りました。特別なことはありますまい。早くお出しください」
こう申し上げたので、若君は母上に申し上げた。
「結局は逃れられないのですから、早くお出しください。武士たちが中へ入って捜すなら、皆様の見苦しいお姿を見られることになるでしょう。たとえ出て参りましても、しばらくの間でも暇があれば、お許しを頂いて帰って参ります。ひどくお嘆きにならないでください」
と、母を慰められるのは、痛ましかった。
そのままでもいられないので、母上は泣く泣く髪をかき撫で、衣を着せ、いよいよお出しになろうとした。小さく美しい黒木の数珠を取り出し、
「これで最期まで念仏を唱えて、極楽へ参りなさい」
とお渡しになると、若君はそれを受け取り、
「母上とは、今日、とうとうお別れすることになります。今は何としても、父上のいらっしゃるところへ参りたいのです」
とおっしゃったのは、哀れだった。
これを聞き、妹の10歳になる姫君が、
「私も父上のおもとへ参りましょう」
と走り出られたのを、乳母の女房がお引き留めした。
六代御前は今年わずか12歳になられたが、普通の14、15歳の者より大人びて、顔立ちも優美でいらした。
「敵に弱いところを見られまい」
としていたが、押さえる袖の隙間からも、涙があふれてこぼれた。
そして輿にお乗りになった。
武士たちは前後左右を取り囲み、出ていった。
斎藤五と斎藤六は輿の左右に付いて参った。
北条は替えの馬を回して乗せようとしたが、二人は乗らず、大覚寺から六波羅まで、裸足で走った。
母上と乳母の女房は、天を仰ぎ、地に伏し、もだえ苦しまれた。
「このごろ平家の子供を集め、水に沈める者もあれば、土に埋める者もあり、押し殺したり、刺し殺したり、さまざまなことをすると聞きます。私の子は、どうして殺されるのだろう。少し年が大きいので、首を切られるのだろう。人の子は乳母などのもとへ置いて、ときどき会うこともあります。それでさえ親子の情は悲しいものです。ましてこの子は、生み落としてから一日、片時も身から離さず、人の持たないものを持っているように思って、朝夕、夫婦二人の間で育ててきた者です。
頼みにしていた人とも別れを惜しみながら別れたそのあとは、子供二人を両側に置いて慰めとしていたのに、一人はいても、一人はいません。今日からあとはどうしたらよいのだろう。この三年の間、夜も昼も肝をつぶしながら覚悟していたことですが、さすがに昨日今日とは思いもしませんでした。長年、長谷の観音を深くお頼み申し上げていたのに、とうとう捕らえられたのは悲しいことです。今しがた、もう殺されたかもしれません」
と、泣きながら訴えるよりほかはなかった。
夜が更けても、胸が込み上げる心地がして、少しも眠られなかったが、しばらくして乳母の女房におっしゃった。
「今、少しまどろんだときの夢に、この子が白い馬に乗って来ました。『あまりに恋しく思いますので、しばらくのお許しを頂いて参りました』と言い、傍らに座って、何かひどく恨めしく思っているように、さめざめと泣いていました。ところがほどなく目が覚め、もしかしたらと傍らを探っても、誰もいません。夢でもしばらくは続かず、覚めてしまったのは悲しいことです」
とお話しになった。
乳母の女房も泣いた。
長い夜を、ますます明かしかね、涙で床も浮くほどだった。
限りがあることなので、鶏人が暁を告げ、夜も明けた。
斎藤六が帰って参った。
「それで、どうなのです、どうなのです」
とお尋ねになると、
「今までのところ、特別なこともございません。お手紙がございます」
と取り出してお渡しした。
開いてご覧になると、
「どれほどお心を痛めていらっしゃることでしょう。今までのところ、特別なことはありません。もう皆様が恋しくてなりません」
と、たいそう大人びた筆でお書きになっていた。
母上はこれをご覧になり、何もおっしゃらなかった。
手紙を懐へ引き入れ、うつ伏せになられた。
本当に、お心の中はどれほどであったろうと思いやられ、哀れだった。
こうして長い時間が過ぎたので、斎藤六が、
「しばらく時間がたちましたので、ご様子が気に掛かります。帰って参ります」
と申し上げた。母上は泣く泣く返事を書いてお渡しになった。
斎藤六は別れを告げ、退出した。
乳母の女房はどうしても心を落ち着けられず、走り出て、どこへ行くともなく、その辺りを足に任せて泣き歩いていた。すると、ある人が言った。
「この奥に高雄という山寺があります。そこの聖、文覚坊という人は、鎌倉殿からとても大切な人と思われていますが、身分の高い方の子を弟子にしようと、欲しがっているそうです」
そう言われ、うれしいことを聞いたと思い、母上に何も申し上げず、ただ一人で高雄を尋ねて入り、聖に向かい、
「血にまみれて生まれたときから育て申し上げ、今年12歳になられた若君を、昨日武士に捕らえられました。お命を願い受けて、お弟子にしていただけませんか」
と聖の前に倒れ伏し、声も惜しまず泣き叫んだ。
本当に、どうすることもできない様子だった。
聖は痛ましく思い、事情をお尋ねになった。
起き上がり、泣く泣く申し上げた。
「平家の小松三位中将の奥方と親しい方のお子を、お育てしているのですが、若中将殿の公達だと、人が申したのでしょうか。昨日、武士がお連れになって行ってしまったのです」
と申し上げた。
「それで、その武士は誰と言ったのか」
「北条と申しておりました」
聖は、
「それなら、行って尋ねよう」
と出ていった。
この言葉を頼みにできるわけではなかったが、聖がこう言うので、少しは人心地がつき、急いで大覚寺へ帰って参り、母上にこうだと申し上げた。
「身を投げに出ていったのだろうかと思い、私もどこかの淵や川へ身を投げようと思っていました」
と、事情をお尋ねになった。
聖の言ったことをありのままに話すと、
「どうか願い受けて、もう一度会わせてください」
と手を合わせてお泣きになった。
聖は六波羅へ向かい、事情をお尋ねになった。
北条が申し上げた。
「鎌倉殿のお言葉では、『平家の子孫が京の中に多く隠れていると聞く。中でも小松三位中将の子に、中御門の新大納言の娘が生んだ子がいると聞く。平家の正嫡であるうえ、年も大きくなっているようだ。どうしても捜し出して殺せ』と命じられました。このごろ一族の末の幼い方を少しは捕らえ申し上げましたが、この若君のお住まいは分からず、捜し出せないまま、何もせずに下ろうとしていました。ところが思いがけず一昨日聞きつけ、昨日お迎え申し上げました。並々ならず美しくいらっしゃるので、あまりにかわいく、まだ何もせずに置いております」
と申し上げると、聖は、
「それなら拝見しよう」
と若君のいらっしゃるところへ参り、ご覧になった。若君は二重織物の直垂を着て、黒木の数珠を手に掛けていらした。
髪の垂れ具合も姿も骨格も、本当に気品があって美しく、この世の人ともお見えにならなかった。
昨夜は安心してお休みにならなかったと見え、少しお顔が痩せていらしたので、ますます痛ましく、かわいく思われた。
聖をご覧になり、何をお思いになったのだろう。
若君が涙ぐまれたので、聖もそれを見て、思わず墨染の袖を絞った。
たとえ後の世にどのような仇敵となるとしても、どうしてこの方を殺せようかと悲しく思い、北条におっしゃった。
「この若君を拝見すると、前世からの縁なのでしょうか、あまりにかわいく思います。20日、命を延ばしてくだされ。鎌倉殿のもとへ参り、願い受けましょう。
この聖は、鎌倉殿を世に立たせ申し上げようと、自分も流人でありながら、院宣を頂こうと京へ上りました。様子も分からない富士川の河口を夜に渡り、もう少しで押し流されようとしたこともありました。高市の山で追い剝ぎに遭い、両手をすり合わせて頼み込み、命だけは助かり、福原の籠の御所へ参り、前右兵衛督光能卿を頼って院宣を頂き、お渡ししたときのお約束では、どのような大事でも申せ、聖の申し出ることは、頼朝が生きている間はかなえようとおっしゃいました。そのあとの度々の奉公も、一方ではあなたがご覧になったことなので、改めて申すまでもありません。約束を重んじ、命を軽んじました。鎌倉殿に受領神がとりついていなければ、まさかお忘れにはなるまい」
と、その暁に出発した。
斎藤五と斎藤六はこれを聞き、聖を生身の仏のように思い、手を合わせて涙を流した。
急いで大覚寺へ参り、このことを申し上げた。それを聞かれた母上のお心の中は、どれほどおうれしかっただろう。
しかし鎌倉での判断なので、どうなるだろうかと心もとなかった。それでも聖が頼もしく言って下ったうえ、20日命が延びたので、母上と乳母の女房は少し心が和らぎ、ひとえに観音のお助けなのだと、頼もしく思われた。
こうして日々を過ごすうちに、20日が過ぎたのは夢のようだった。
聖はまだ見えなかった。どうなったのだろうと、かえってつらく、今さらまたもだえ苦しまれた。
北条も、
「文覚房が約束した日数も過ぎた。いつまでも京にいて、年を暮らすわけにもいかない。もう下ろう」
と騒いだので、斎藤五と斎藤六は手を握り、肝を砕いたが、聖もまだ見えず、使者さえ上らせないので、思案のしようもなかった。
二人は大覚寺へ帰って参り、
「聖もまだお上りにならず、北条も暁には下ります」
と、左右の袖を顔に押し当て、涙をはらはらと流した。
これを聞かれた母上のお心の中は、どれほど悲しかったことだろう。
「どうか、しっかりした者が、聖に出会うところまで六代を連れていってくれと言ってください。もし命を願い受けて上ってきたときに、先に切ってしまっていたら、その悲しみをどうしましょう。それで、すぐに殺されそうなのですか」
とおっしゃると、
「もう、この暁のことと見えます。そう申すのは、このごろ夜のお供をしていた北条の家子や郎等たちが、ひどく名残惜しくお思い申し上げ、念仏を唱える者もいますし、涙を流す者もおります」
「それで、この子はどうしているのですか」
とおっしゃると、
「人がお見かけするところでは、何でもないようにして数珠をお繰りになっていますが、人のいないときは、袖を顔に押し当て、涙にむせんでいらっしゃいます」
と申し上げた。
「きっとそうでしょう。幼くても、心のしっかりした者です。今夜を限りの命と思い、どれほど心細いでしょう。しばらくでも暇があれば、お許しを頂いて帰ると言っていましたが、20日余りがたつのに、あちらへも行かず、こちらにも見えません。今日からあと、またいつどの時に会えるとも思えません。それで、お前たちはどうするつもりですか」
とおっしゃると、
「私どもはどこまでもお供し、お亡くなりになれば、お骨を拾い、高野のお山に納め、出家入道して後世をお弔いしようと思っております」
と申し上げた。
「それなら、あまりに気に掛かるので、早く帰ってください」
とおっしゃったので、二人は泣く泣く別れを告げ、退出した。
さて、同じ年の12月16日、北条四郎は若君を連れ、とうとう都を出発した。
斎藤五と斎藤六は涙に暮れて行く先も見えなかったが、最期のところまでと思いながら、泣く泣くお供に参った。
北条が、
「馬に乗れ」
と言っても乗らなかった。
「最期のお供ですから、苦しくはございません」
と、血の涙を流しながら、足に任せて下っていった。
六代御前は、あれほど離れがたく思っていらした母上や乳母の女房とも別れ果て、住み慣れた都も遠い雲のかなたに振り返り、今日を限りと東国への道に赴かれた。そのお心の中は思いやられ、哀れだった。
馬を急がせる武士がいると、自分の首を切るのだろうかと肝をつぶし、物を言い交わす人がいると、もう今だろうかと気をもんだ。
四宮河原だろうかと思ったが、関山も越えて、大津の浦へ着いた。
粟津が原だろうかと様子をうかがったが、今日ももう暮れた。
国々や宿々を通り過ぎていくうちに、駿河国にもお着きになった。
若君の露のような命は、今日を限りと聞こえた。
千本の松原で武士たちは皆馬を下り、輿を下ろさせ、敷皮を敷いて若君を座らせ申し上げた。
北条四郎は若君の御前近くへ参り、申し上げた。
「ここまでお連れしたのには、ほかの理由はございません。もし道中で聖に出会うかもしれないと、待ちながらここまでお連れしたのです。お気持ちは分かりました。山の向こうまでは鎌倉殿のお心の中も分かりませんので、近江国でお命を失わせたと報告しましょう。誰が願い出ても、同じ業によって生じたことなので、まさかかないますまい」
と泣く泣く申し上げたが、若君は何の返事もなさらなかった。
斎藤五と斎藤六を近くへ呼び、
「私が死んだあと、お前たちは都へ帰っても、決して道中で切られたとは申してはいけない。最後には隠せないとしても、この有様をはっきり聞いて、あまりにお嘆きになったら、墓の下でも心苦しく思い、後世の妨げにもなるだろう。鎌倉まで送り届けて参りましたと申すのだ」
とおっしゃったので、二人は肝も魂も消え果て、しばらく返事もできなかった。
しばらくして、斎藤五が、
「君に先立たれたあと、生きて無事に都まで上り着けるとも思えません」
と、涙を抑えて伏した。
いよいよ最期のときとなったので、若君は肩に掛かっていた髪を、とても美しい手で前へかき越された。警護の武士たちはそれを見て、
「ああ、痛ましい。まだ物事がお分かりになるのだな」
と、皆袖を濡らした。
そのあと西に向かって手を合わせ、静かに念仏を唱えながら、首を延べてお待ちになった。
狩野工藤三親俊が切手に選ばれ、太刀を引き添わせ、左の方から後ろへ回り、もう切ろうとした。しかし目もくらみ、心も消え果て、どこへ太刀を打ちつければよいかも分からず、前後の分別も失ったので、
「私には務められると思えません。ほかの者にお命じください」
と、太刀を捨てて退いた。
「それなら、あれが切れ、これが切れ」
と切手を選んでいたところへ、墨染の衣を着て、月毛の馬に乗った僧が一人、鞭を上げて駆けてきた。
「ああ、痛ましい。あの松原の中で、とても美しい若君を北条殿がお切らせになるのだ」
と、人々が次々に走り集まったので、この僧は、
「ああ、困ったことだ」
と、手を振り動かして招いたが、それでも心もとないので、かぶっていた笠を脱ぎ、差し上げて招いた。
北条は、
「何か事情がある」
と待った。僧は走り着くと、急いで馬から飛び下り、少し息を休め、
「若君はお許しを頂きました。鎌倉殿の御教書がここにございます」
と取り出してお渡しした。
北条が開いてご覧になると、本当に、
「小松三位中将維盛卿の子を捜し出したというが、高雄の聖御房が願い受けたいと申している。
疑うことなくお預け申し上げるように。
北条四郎殿へ 頼朝」
とお書きになり、御判があった。
二、三度、繰り返し読んだあと、
「すばらしい、すばらしい」
と置かれたので、斎藤五と斎藤六は言うまでもなく、北条の家子や郎等たちも皆、喜びの涙を流した。
長谷六代
そこへ文覚房もさっと現れ、若君の命を願い受けたと、まことに勢いのある様子だった。
「『この若君の父、三位中将殿は、最初の戦の大将だ。誰が申してもかなわぬ』とおっしゃったので、『文覚の心を裏切って、どうして神仏の加護がありましょう』などと悪口を申しました。それでもなお『かなわぬ』と、那須野の狩りにお下りになったので、文覚もそのうえ狩場のお供をし、少しずつ申し上げて願い受けました。どれほど遅いとお思いだったでしょう」
と申し上げたので、北条は、
「20日とおっしゃった、お約束の日数も過ぎました。鎌倉殿のお許しはなかったのだと思い、お連れして下るところでした。危うく、ここで過ちを犯すところでございました」
と、鞍を置いて引かせていた馬に斎藤五と斎藤六を乗せ、京へ上らせた。
自分も遠くまで送り申し上げ、
「しばらくお供をしたいのですが、鎌倉殿に特に申し上げなければならない大事がございます。お暇を頂きます」
と別れて下っていった。
本当に情け深かった。
聖は若君をお受け取りし、夜を日に継いで急いで上るうちに、尾張国の熱田の辺りで、今年も暮れた。
翌年の正月5日、夜になって都へ着いた。
二条猪熊に文覚坊の宿坊があったので、そこへ若君をお入れして、しばらく休ませ申し上げ、夜半ごろ大覚寺へいらした。
門をたたいても、人がいないので物音もしなかった。
築地の崩れたところから、若君が飼っていらした白い犬が走り出し、尾を振って迎えた。若君は、
「母上はどこにいらっしゃるのか」
とお尋ねになったのは、やるせないことだった。
斎藤六は築地を越え、門を開けて若君をお入れした。
近ごろ人が住んでいるところとも見えなかった。
若君は、
「何としても、はかない命でも生きたいと思ったのは、恋しい人にもう一度会いたいと思うためだ。それなのに、これはどうなってしまわれたのだろう」
と、夜通し泣き悲しまれたのは、まことにもっともと思われ、哀れだった。
夜が明けるのを待ち、近くの里の者にお尋ねになると、
「年のうちは大仏参りと伺いました。正月のころは長谷寺へお籠もりと聞こえましたが、そのあとはお住まいに人が通うとも見えません」
と申し上げたので、斎藤五は急いで長谷へ参り、捜し当ててこのことを申し上げた。母上と乳母の女房は、全く現実のこととも思えず、
「それでは、これは夢なのですか、夢なのですか」
とおっしゃった。
急いで大覚寺へお戻りになり、若君をご覧になった。うれしさにも、ただ先に立つのは涙だった。
「早く出家なさい」
とおっしゃったが、聖は若君を惜しみ、出家もさせなかった。
すぐに迎え取って高雄にお置きし、奥方のひっそりと暮らされるご様子も、お見舞いしていたと聞こえた。
観音の大慈大悲は、罪のある者もない者もお助けになるので、昔にもこのような例は多いが、めったにないことだった。
さて、北条四郎が六代御前を連れて下っていたとき、鏡の宿で鎌倉殿の使者に出会った。
「どうした」
と尋ねると、
「十郎蔵人殿、信太三郎先生殿が九郎判官殿に同心していると聞こえます。お討ちせよとのお言葉でございます」
と申し上げた。
北条は、
「私は大事な召人を連れているので」
と、送りに下ってきた甥の北条平六時貞を、おいその森で、
「早く帰り、この人たちのいらっしゃるところを聞き出して、討って差し上げよ」
と、下るのをおやめさせた。
平六が都へ帰って捜していると、十郎蔵人殿の居場所を知っているという法師が現れた。
その僧に尋ねると、
「私は詳しくは知らないが、知っているという僧がいる」
と言ったので、押し寄せてその僧を捕らえた。
「これは何のために捕らえるのか」
「十郎蔵人殿の居場所を知っているというので、捕らえるのだ」
「それなら、教えよと言えばよいだろう。むやみに捕らえるのはどうしたことだ。天王寺にいると聞いている」
「それなら案内せよ」
と、平六の婿、小笠原十郎国久、殖原九郎、桑原次郎、服部平六を先頭に、30騎余りで天王寺へ向かった。
十郎蔵人の宿は二か所にあった。
谷の学頭で伶人の兼春と、秦六・秦七という者のもとだった。
二手に分かれて押し寄せた。
十郎蔵人は兼春のもとにいらしたが、鎧を着た者たちが入ってくるのを見て、後ろから逃れた。
学頭には娘が二人いた。
どちらも蔵人の愛する女だった。
この二人を捕らえ、蔵人の行方を尋ねると、姉は、
「妹に聞いてください」
と言った。
妹は、
「姉に聞いてください」
と言った。
急に逃れたことなので、誰にも知らせたはずはないが、二人を連れて京へ上った。
蔵人は熊野の方へ逃れたが、ただ一人付いていた侍が足を痛めたので、和泉国の八木郷というところにとどまっていた。
そこの家の主人が蔵人を見知って、夜通し京へ駆け上り、北条平六に告げた。
「天王寺へ遣った者たちはまだ戻らない。誰を遣わそうか」
と、大源次宗春という郎等を呼び、
「お前が宮立てた山僧は、まだいるのか」
「おります」
「それなら呼べ」
と呼ばれたので、その法師が現れた。
「十郎蔵人がいらっしゃる。討って鎌倉殿に差し上げ、御恩を受けなさい」
と言うと、
「承りました。人をお与えください」
と申し上げた。
「すぐに大源次も下れ。人もいないので」
と、舎人や雑色、わずか14、15人を添えて遣わした。
法師は常陸房正明という者だった。
和泉国へ下り着き、その家へ走り込んで見たが、いなかった。
板敷を破って捜し、塗籠の中を見たが、いなかった。
常陸房が大路に立って見ると、百姓の妻と思われる年配の女が通ったので、捕らえ、
「この辺りに、怪しげな旅人が泊まっているところはあるか。言わなければ切り捨てるぞ」
と言うと、
「今お捜しになった家に、昨夜までたいそう立派な旅人が二人泊まっていましたが、今朝出ていったのでしょうか。あそこに見える大きな家に、今はいらっしゃるようです」
と言った。常陸房は黒革威の腹巻に袖を付け、大太刀を帯びて、その家へ走り込んだ。見ると50歳ほどの男が、濃い藍色の直垂に折烏帽子をかぶり、唐瓶子や菓子などを取り扱い、銚子を持って酒を勧めようとしていた。鎧を着た法師が入ってくるのを見て、さっと逃げたので、すぐに続いて追い掛けた。
蔵人は、
「あの僧よ。おい、それは在ぬぞ。行家はここにいる」
とおっしゃったので、走り戻って見ると、白い小袖に大口だけを着て、左手に金作りの小太刀、右手に大きな野太刀を持っていらした。
常陸房が、
「太刀をお捨てください」
と申し上げると、蔵人は大いに笑われた。
常陸房は走り寄り、力を込めて切りつけた。
蔵人はちょうと受け合わせ、飛び退いた。
常陸房はまた寄って切りつけた。
蔵人はちょうと受け合わせ、飛び退いた。
寄り合い、退き合い、一時ほど戦った。
蔵人が後ろの塗籠へ後ずさりして入ろうとなさると、常陸房は、
「卑怯です。お入りにならないでください」
と申し上げた。
「行家もそう思う」
と、また飛び出して戦った。
常陸房は太刀を捨て、むずと組みついて、どうと倒れた。
上になり、下になり、転がり合うところへ、大源次がさっと現れた。
あまりに慌てて、帯びていた太刀は抜き、石を握って蔵人の額をはたと打ち、割った。
蔵人は大いに笑い、
「お前は身分の低い者だからな。太刀や長刀でこそ敵を打て。石で敵を打つことがあるか」
常陸房は、
「足を縛れ」
と命じた。
常陸房は敵の足を縛れと申しつけたのに、あまりに慌てて、四本の足を縛ってしまった。
そのあと蔵人の首に縄を掛け、縛り上げて引き起こし、座らせた。
「水を持って来い」
とおっしゃると、干飯を洗って差し上げた。
水は召し上がったが、干飯は食べずに置かれたので、常陸房が取って食べてしまった。
「お前は山法師か」
「山法師でございます」
「誰というのか」
「西塔の北谷の法師、常陸房正明という者でございます」
「それでは、行家に仕えようと言った僧か」
「そうでございます」
「頼朝の使いか。平六の使いか」
「鎌倉殿の使いでございます。本当に、鎌倉殿をお討ちしようとお思いだったのですか」
「このような身になってから、思わなかったと言えばどうなる。思ったと言えばどうなる。それで、私の腕前をどう思ったか」
とおっしゃると、
「山の上で多くのことに遭いましたが、まだこれほど手強い目には遭っておりません。優れた敵を三人相手にした心地がしました」
と申し上げた。
「それでは、正明をどうお思いになりましたか」
と申し上げると、
「それは、こうして捕らえられた以上はな」
とおっしゃった。
「その太刀を取り寄せよ」
とご覧になると、蔵人の太刀は一か所も刃こぼれがなく、常陸房の太刀は42か所刃こぼれがしていた。
すぐに伝馬を立てさせ、蔵人をお乗せして上った。その夜は江口の長者のもとに泊まり、夜通し使者を走らせた。
翌日の正午ごろ、北条平六が100騎ほどの勢に旗を差させて下ってきて、淀の赤井河原で出会った。
「都へはお入れしてはならないとの院宣でございます。鎌倉殿のお考えも同じです。早く首を頂き、鎌倉殿にお見せして、御恩をお受けなさい」
と言ったので、それではと、赤井河原で十郎蔵人の首を切った。
信太三郎先生義教は醍醐の山に籠もっていると聞いたので、押し寄せて捜したが、いなかった。
伊賀の方へ逃れたと聞こえたので、服部平六を先頭に伊賀国へ向かった。
千度の山寺にいると聞こえたので、押し寄せて捕らえようとしたところ、袷の小袖に大口だけを着て、金で飾った腰の刀で腹を切り、伏していた。
首は服部平六が取った。
そのまま持たせて京へ上り、北条平六に見せたので、
「すぐに持たせて下り、鎌倉殿にお見せして、御恩を受けなさい」
と言った。常陸房と服部は、それぞれ首を持たせて鎌倉へ下り、お見せした。
「殊勝だ」
と言って、常陸房は笠井へ流された。
「下り着けば恩賞を頂けると思っていたのに、たとえそれがなくても、そのうえ流罪にされるとは思いがけないことだ。こうなると知っていたなら、どうして身命を捨てたりしただろうか」
と後悔したが、どうにもならなかった。
しかし二年を隔てて呼び戻され、
「大将を討った者には神仏の加護がないので、ひとまず戒めたのだ」
と、但馬国の多田庄と摂津国の葉室の二か所を頂き、京へ帰り上った。
服部平六は平家に仕えていた人だったので、没収されていた服部を返して頂いた。
六代被斬
さて、六代御前も次第に14、15歳になられ、顔立ちはますます美しく、辺りも照り輝くほどだった。
母上はそれをご覧になり、
「ああ、世が昔のままだったなら、今ごろは近衛司の官人となっていたでしょうに」
とおっしゃったのは、やるせないことだった。
鎌倉殿はいつも不安そうにお思いになり、高雄の聖のもとへ、機会があるたびに、
「それで、維盛卿の子はどうしていますか。昔、頼朝を人相で判断なさったように、朝廷の敵を滅ぼし、会稽の恥をすすぐような者でしょうか」
とお尋ねになった。聖の返事は、
「これは底知れぬほどの愚かな者でございます。ご安心ください」
と申し上げたが、鎌倉殿はなおも納得されない様子で、
「謀反さえ起こせば、すぐに味方しようとする聖御房だ。ただ頼朝が生きている間は、誰が覆せよう。子孫の代は分からない」
とおっしゃったのは、恐ろしかった。母上はこれをお聞きになり、
「どうしても、これではいけません。早く出家なさい」
とおっしゃったので、六代御前は16歳という文治5年の春のころ、美しい髪を肩の辺りで鋏で切り落とし、柿色の衣や袴、笈などを用意し、聖に別れを告げて修行に出られた。
斎藤五と斎藤六も同じように身支度をして、お供を申し上げた。
まず高野へ参り、父の善知識となった滝口入道を捜してお会いになり、出家のいきさつや臨終の様子を詳しくお聞きになった。また父の跡も見たいと、熊野へ参られた。
浜の宮の御前で、父がお渡りになった山なりの島を見渡し、渡りたいとお思いになったが、波や風が逆らってかなわず、どうすることもできず眺めやられた。父はどこにお沈みになったのだろうと、沖から寄せる白波にも尋ねたいと思われた。
水際の砂も父のお骨なのだろうかと懐かしくお思いになったので、涙で袖は濡れ、塩を汲む海士の衣ではないが、乾く間もない様子だった。
渚に一夜とどまり、念仏を唱え、経を読み、指先で砂に仏の形を描かれた。夜が明けると尊い僧を招き、父のために供養を行い、善い行いの功徳をすべて亡き父の霊に回向し、亡者に別れを告げながら、泣く泣く都へ上られた。
小松殿の子、丹後侍従忠房は八島の戦から逃れ、行方も知れずにいらしたが、紀伊国の住人、湯浅権守宗重を頼み、湯浅の城に籠もられた。
これを聞き、平家に心を寄せる越中次郎兵衛、上総五郎兵衛、悪七兵衛、飛騨四郎兵衛らの兵が味方したと聞こえたので、伊賀と伊勢の住人たちが、我も我もと駆け集まった。
優れた者たち数百騎が立て籠もっていると聞こえたので、熊野別当は鎌倉殿の命令を受け、二、三か月の間、八度攻め寄せて戦った。
城の中の兵たちが命を惜しまず防いだので、そのたびに味方は追い散らされ、熊野の法師が数多く討たれた。
熊野別当は鎌倉殿へ飛脚を遣わし、この国の湯浅の合戦について、二、三か月の間に八度攻め寄せて戦ったことを報告した。
しかし城の中の兵たちが命を惜しまず防ぐので、そのたびに味方は追い落とされ、敵を苦しめることもできなかった。
近国の二、三か国を頂いて攻め落としたいと申し上げたので、鎌倉殿は、
「それは国の財を費やし、人々の負担となろう。立て籠もっている悪党は、きっと海や山の盗人だろう。山賊や海賊を厳しく取り締まり、城の出入り口を固めて守れ」
とおっしゃった。
その指示どおりにすると、本当に、あとには人一人もいなかった。
鎌倉殿は計略で、
「小松殿の公達が一人でも二人でも生き残っていらっしゃれば、お助けしよう。池の禅尼の使いとして、頼朝の処罰を流罪にとどめるよう願い出られたのは、ひとえにあの内府の御恩だ」
とおっしゃったので、丹後侍従は六波羅へ出て名乗られた。
すぐに関東へお送りした。
鎌倉殿は対面し、
「都へお上りください。片隅に、お与えしようと思うものがございます」
とだまして上らせ、あとを追って人を上らせ、勢多の橋の辺りで切ってしまった。
小松殿の公達六人のほかに、土佐守宗実という方がいらした。
三歳から大炊御門の左大臣経宗卿の養子となり、姓の違う他家の人となって、武芸の道は捨て、文章を書くことだけを好んで、今年は18歳になられた。鎌倉殿から捜されることはなかったが、世をはばかって追い出されたので、行く先を失い、大仏の聖、俊乗房のもとへいらして、
「私は小松の内府の末の子、土佐守宗実という者でございます。三歳から大炊御門左大臣経宗の養子となり、姓の違う他家の人となって、武芸の道を捨て、文章を書くことだけを好み、18歳になりました。鎌倉殿から捜されることはありませんが、世を恐れて追い出されました。聖御房、お弟子にしてください」
と、髻を切り落とされた。
「それでもなお恐ろしくお思いなら、鎌倉へ申し出て、本当に罪が深いようなら、どこへでも遣わしてください」
とおっしゃったので、聖はかわいく思い、出家させ、東大寺の油倉というところにしばらくお置きし、関東へこのことを申し上げた。
「どちらにしても、対面してこそ、どうするか決めよう。まずお送りせよ」
とおっしゃったので、聖はどうすることもできず、関東へお送りした。
この人は奈良をお出になった日から、飲食と名の付くものを絶ち、湯水も喉へ入れず、足柄を越え、関本というところでとうとうお亡くなりになった。
「どうしても助からない道なので」
と覚悟を決められたのは、恐ろしいことだった。
さて、建久元年11月7日、鎌倉殿は上洛し、同じ9日に正二位の大納言になられた。
同じ11日、大納言のまま右大将を兼ねられた。
すぐに両方の官職を辞し、12月4日に関東へ下った。
建久3年3月13日、法皇が崩御なさった。
お年は66歳だった。
瑜伽の鈴を振る響きはその夜を限りとし、一乗を暗誦するお声はその暁に終わった。
同じ6年3月13日に大仏供養があるというので、2月中に鎌倉殿は再び上洛なさった。
3月12日、大仏殿へ参られたが、梶原を呼び、
「手かいの門の南側に、大衆何十人かを隔てて、怪しげな者が見えた。捕らえて参れ」
とおっしゃったので、梶原は承り、すぐに連れて参った。
髭は剃っていたが、髻は切っていない男だった。
「何者だ」
とお尋ねになると、
「ここまで運命が尽き果てたからには、あれこれ申し上げるまでもございません。私は平家の侍、薩摩中務家資という者でございます」
「それは、何を思ってこのようになっているのか」
「機会があればと、お命を狙っておりました」
「その志は大したものだ」
と、供養が終わって鎌倉殿が都へお入りになると、家資は六条河原で切られてしまった。
平家の子孫は、去る文治元年の冬ごろ、一歳や二歳の子も残さず、腹の中を開いて見なかったというだけのことと言えるほど、捜し出して殺してしまった。
今は一人もいないだろうと思っていたが、新中納言の末の子に伊賀大夫知忠という方がいらした。
平家が都を逃れたとき、三歳で置き去りにされたのを、乳母の紀伊次郎兵衛為教が養い、あちらこちらに隠れ歩いていたが、備後国の大田というところに人目を忍んで住んでいた。
次第に成人なさると、郡や郷の地頭、守護が怪しんだので、都へ上り、法性寺の一の橋というところに隠れていらした。
ここは祖父の入道相国が、万一のことがあったときには城郭にしようと、堀を二重に掘り、四方に竹を植えられたところだった。
逆茂木を置き、昼は物音もしなかったが、夜になると立派な人々が多く集まり、詩を作り、歌を詠み、管絃などをして遊んでいた。どうして漏れ聞こえたのだろう。そのころ人々が恐れていたのは、一条の二位入道義泰という人だった。
その侍で、後藤兵衛基清の子、新兵衛基綱が、
「一の橋に勅命に背く者がいる」
と聞きつけ、建久7年10月7日の辰の一点に、140、150騎の勢で一の橋へ駆け向かい、大声で叫んで攻め戦った。
城の中にも30人余りいた者たちが、大肩脱ぎに肌を脱ぎ、竹の陰から矢をつがえては引き絞り、散々に射たので、馬も人も多く射殺され、向かっていくこともできなかった。
「さて、一の橋に勅命に背く者がいる」
と伝え聞き、在京の武士たちは我も我もと駆け集まった。
ほどなく千、二千騎になったので、近くの小さな家を壊して寄せ、堀を埋め、大声で叫んで攻め入った。
城の中の兵たちは刀を抜いて走り出て、討ち死にする者もあれば、重傷を負って自害する者もあった。
伊賀大夫知忠は16歳になられていたが、重傷を負って自害なさった。乳母の紀伊次郎兵衛入道は、その体を膝の上に載せ、涙をはらはらと流し、大声で十念を唱えながら、腹を切って死んだ。
その子の兵衛太郎と兵衛次郎も、共に討ち死にしてしまった。
城の中の30人余りは大半が討ち死にや自害をし、館には火を掛けた。武士たちは駆け込み、それぞれ討った首を太刀や長刀の先に刺し貫いて、二位入道殿のもとへ駆け参った。
一条の大路へ車を出し、首を実検なさった。
紀伊次郎兵衛入道の首は、見知っている者も少しはいた。
伊賀大夫の首は、人がどうして見知っていよう。
この人の母上は治部卿局といい、八条女院に仕えていらしたので、迎えてお寄せし、首をお見せになった。
「三歳というとき、亡き中納言に連れられて西国へ下ってからは、生きているとも死んでいるとも、行方を知りません。ただ亡き中納言を思い出させるところがあちこちにあるので、そうなのでしょう」
とお泣きになったので、人々も伊賀大夫の首だと知った。
平家の侍、越中次郎兵衛盛嗣は但馬国へ逃れ、気比四郎道弘の婿になっていた。
道弘は越中次郎兵衛だとは知らなかった。
しかし錐が袋の中に収まっていられないように、夜になると舅の馬を引き出し、駆けさせたり引き返させたりしていた。
海の底を14、15町、20町も潜っていたので、地頭や守護が怪しんでいたが、どうして漏れ聞こえたのだろう。
鎌倉殿が御教書を下された。
「但馬国の住人、朝倉太郎大夫高清へ。平家の侍、越中次郎兵衛盛嗣がこの国に住んでいると聞いている。呼び寄せて差し出せ」
と命じられた。
気比四郎は朝倉大夫の婿だったので、呼び寄せて、
「どうして捕らえようか」
と相談した。湯屋で捕らえようと、湯に入れ、屈強な者を五、六人、一緒に入らせて捕らえようとしたが、つかみ掛かると投げ倒され、起き上がると蹴り倒された。
互いに体が濡れていて、つかまえておくこともできなかった。
しかし大勢の力には強力な者もかなわないので、20、30人が一斉に寄り、太刀の峰や長刀の柄で打ち痛め、捕らえた。
すぐに関東へ差し出したので、御前に引き据えさせ、事情をお尋ねになった。
「お前は同じ平家の侍とはいっても、古くから平家に親しく仕える者だというのに、どうして死ななかったのか」
「それは、あまりに平家がもろく滅んでしまいましたので、機会があればとお命を狙っていたのでございます。刀身のよい大刀も、よい鉄で作った征矢の鏃も、鎌倉殿のお命を狙うために用意して持っておりましたが、ここまで運命が尽き果てたからには、あれこれ申し上げるまでもございません」
「その志は大したものだ。頼朝を頼みにするなら、助けて使おうか」
とおっしゃると、
「勇士は二人の主君に仕えません。盛嗣ほどの者をお信じになっては、必ず後悔なさるでしょう。ただご恩情として、早く首をお取りください」
と申し上げたので、
「それなら切れ」
と、由井の浜へ引き出して切ってしまった。
褒めない者はいなかった。
そのころの主上は遊びを第一となさり、政治はすべて卿の局の意のままだったので、人々の訴えもやまなかった。
呉王が剣客を好んだので、天下に傷を負う者が絶えなかった。
楚王が細い腰を愛したので、宮中には飢えて死ぬ女が多かった。
上の好みに下は従うので、世の危うさを悲しみ、心ある人々は嘆き合った。
さて、文覚はもともと恐ろしい聖で、関わるべきでないことに関わった。
二の宮は学問を怠らず、正しい道理を第一となさったので、どうしてもこの宮を帝位にお就けしようと企てた。しかし前右大将頼朝卿がいらした間はかなわず、建久10年正月13日に頼朝卿がお亡くなりになると、すぐに謀反を起こそうとした。たちまち漏れ聞こえ、二条猪熊の宿所に役人たちを付けられ、捕らえられて、80歳を過ぎてから隠岐国へ流された。
文覚は京を出るとき、
「ここまで老いの波に臨み、今日明日の命も分からない身を、たとえ勅勘とはいえ、都の片隅に置くこともなさらず、隠岐国まで流す及丁冠者こそ恨めしい。最後には文覚が流される国へ、お迎え申し上げるものを」
と言ったのは、恐ろしかった。
この君はあまりに毬杖の玉を愛されたので、文覚はこのように悪口を言ったのだった。
そのため承久に謀反をお起こしになり、国は多いのに、隠岐国へ移されたのは不思議だった。
その国でも文覚の亡霊が荒れ、いつもお話を申し上げたと聞こえた。
さて、六代御前は三位禅師といい、高雄で一心に仏道を修めていらしたが、
「あのような人の子だ。あのような人の弟子だ。頭は剃っても、心までは剃るまい」
と鎌倉殿から繰り返し申し入れられたので、安判官資兼に命じて捕らえ、関東へ下された。
駿河国の住人、岡辺権守泰綱に命じ、田越川で切られてしまった。
12歳から30歳を過ぎるまで命を保ったのは、ひとえに長谷の観音の御利益だと聞こえた。
それからこそ、平家の子孫は永く絶えてしまった。



