『平家物語』原文・現代語訳を全文公開! 品詞分解も順次追加中! 『平家物語』を読む

『平家物語』第10巻 現代語訳全文

  • URLをコピーしました!
目次

首渡

 寿永三年二月七日、摂津国一谷で討たれた平氏の首は、十二日に都へ入った。

 平家と縁のある人々は、それぞれ、自分の身内のことでどのようなつらい目を見るのだろうと、嘆き合い、悲しみ合った。

 中でも、大覚寺に隠れていらっしゃった小松三位中将維盛卿の北の方は、ことさら不安に思われた。

 今度、一谷で一門の人々が残り少ないほど討たれ、三位中将という公卿が一人生け捕りにされて都へ上るとお聞きになった。あの人に違いないと、衣を引きかぶって伏せられた。

 ある女房が出てきて申し上げた。

「三位中将殿と申すのは、こちらの殿のことではございません。本三位中将殿のことでございます」

 と申し上げると、

「それなら、首の中にいらっしゃるのだろう」

 と、なおも安心なさらなかった。

 同じ十三日、大夫判官仲頼が六条河原へ出向き、首を受け取った。

 東洞院の大路を北へ引き回し、獄門の木に掛けたいと、蒲冠者範頼と九郎冠者義経が奏上した。

 法皇は、これはどうなさるべきかとお悩みになり、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、堀河大納言忠親卿にご相談になった。

 五人の公卿は申し上げた。

「昔から、卿相の位に上った者の首を大路で引き回す先例はありません。とりわけ、この者たちは先帝の御代、皇室の縁者である臣として、長く朝廷に仕えてきました。範頼、義経の申し出を、むやみにお許しになるべきではありません」

 と、皆そろって申し上げたので、引き回されないことになっていた。しかし範頼と義経が重ねて奏上した。

「保元の昔を思えば祖父為義の仇であり、平治の昔を考えれば父義朝の敵です。君のお怒りを鎮め申し上げ、父祖の恥をすすぐために命を捨て、朝敵を滅ぼしました。今度、平氏の首を大路で引き回されないなら、これから先、何に励まされて凶賊を退ければよいのでしょう」

 と、二人がしきりに訴え申し上げたので、法皇もどうにもできず、ついに引き回された。

 見物人は、数も分からないほどだった。

 宮中で袖を並べていた昔は、恐れる者が多かった。

 大路で首を引き回される今は、あわれみ悲しまない者はいなかった。

 小松三位中将維盛卿の若君、六代御前にお仕えしていた斎藤五と斎藤六は、あまりに気がかりなので、姿を変えて見に行った。首はそれぞれ見分けられたが、三位中将殿の御首は見えなかった。

 それでも、あまりに悲しく、隠しきれない涙ばかりがしきりに流れた。よその人の目も恐ろしく、急いで大覚寺へ参った。

 北の方は、

「どうでした、どうでした」

 とお尋ねになった。二人は、

「小松殿の君達では、備中守殿の御首だけが見えました。そのほかは、誰それの首、あの方の首、この方の御首でございました」

 と申し上げた。北の方は、

「どなたのことも、人ごととは思えません」

 と、涙にむせばれた。

 しばらくして、斎藤五が涙を抑えて申し上げた。

「この一、二年は引きこもっており、人にもそれほど顔を知られていません。もう少し見ているつもりでしたが、とても詳しく事情を存じている者で、こう申す者に会いました。『小松殿の君達は、今度の合戦では播磨と丹波の境にある三草山を守っていらっしゃいましたが、九郎義経に破られ、新三位中将殿、小松少将殿、丹波侍従殿は、播磨の高砂から御船に乗り、讃岐の八島へお渡りになったとのことです。どうして離れられたのでしょう。ご兄弟の中で備中守殿だけが、一谷で討たれました』と申しました。『では、三位中将殿はどうなさったのですか』と尋ねると、『その方は戦の前から重いご病気で、八島にいらっしゃいましたので、今度はお向かいになりませんでした』と、詳しく申しておりました」

 と申し上げた。北の方は、

「それも、私たちのことをあまりに思い嘆かれるのが、病になったのでしょう。風が吹く日は、今日も船にお乗りになるのだろうかと胸をつぶし、戦と聞けば、今すぐにも討たれるのではないかと気をもみます。ましてそのような病のとき、誰が安心してお任せできるほどお世話をしてくださるでしょう。詳しく聞きたいものです」

 とおっしゃった。若君と姫君が、

「どうして、何のご病気かと尋ねなかったのです」

 とおっしゃったのは、いたわしかった。

 三位中将も、心が通じているので、

「都では、どれほど不安に思っているだろう。首の中にはいなくても、水に溺れて死んだか、矢に当たって亡くなったか、この世にいる者とは思うまい。露のような命が、まだ長らえているとお知らせしたい」

 と、侍を一人仕立て、都へ上らせた。

 手紙を三通書かれた。

 まず北の方への手紙には、

「都には敵が満ちあふれ、あなたお一人の居場所さえないでしょうに、幼い者たちを連れ、どれほどつらくお思いでしょう。こちらへお迎えし、同じ所でどうにでもなりたいと思いますが、自分のことはともかく、あなたにはお気の毒で」

 などと、こまごまと書き続け、最後には一首の歌があった。

 どこで会えるとも分からない。藻塩草を掻き集めるように書き残した、この筆の跡を形見と思って見てほしい。

 幼い方々のもとへは、

「寂しさをどのように慰めていらっしゃるでしょう。急いでお迎えに行きますよ」

 と、同じ言葉で書き、都へ送られた。

 使いはこの手紙を頂いて都へ上り、北の方へ差し上げた。北の方は、改めてまた嘆き悲しまれた。

 使いは四、五日とどまり、別れの挨拶を申し上げた。

 北の方は泣く泣く返事を書かれた。

 若君と姫君は筆に墨を付け、

「お父様へのお返事は、何と申し上げればよいのでしょう」

 とお尋ねになった。北の方は、

「ただ何でも、あなた方の思うとおりに申し上げなさい」

 とおっしゃった。

「どうして今まで迎えてくださらないのですか。あまりに恋しく思っておりますので、早く、早くお迎えください」

 と、二人は同じ言葉で書かれた。使いはこの手紙を頂き、八島へ帰って参った。

 三位中将殿はまず幼い方々の手紙をご覧になり、いっそう途方に暮れていらっしゃるように見えた。

「そもそも、ここから穢れたこの世を厭う気力がない。閻浮への愛着の綱が強いので、浄土を願うのもおっくうだ。ただここから山伝いに都へ上り、恋しい者たちともう一度会って、互いの姿を見た後で自害するのが何よりだ」

 と、泣く泣くお話しになった。

内裏女房

 同じ十四日、生け捕りになった本三位中将重衡卿は、六条を東へ引き回された。

 小八葉の車の前後の簾を上げ、左右の物見を開いた。

 土肥次郎実平は木蘭地の直垂に小具足だけを着け、随兵三十余騎で車の前後を囲み、お守りした。

 都の身分の高い者も低い者も、これを見て、

「ああ、おいたわしい。どのような罪の報いなのか。大勢いらっしゃる君達の中で、このようにおなりになるとは。入道殿にも二位殿にも可愛がられた御子でいらっしゃったので、一家の人々も大切に思っておられた。院にも内裏にも参上なさったときは、老いた者も若い者も、ほかの人を差し置いておもてなし申し上げたものを。これは南都を滅ぼされた、寺院の罰なのだ」

 と申し合った。

 河原まで引き回されてから戻り、故中御門藤中納言家成卿の八条堀河の御堂にお入れして、土肥次郎がお守りした。

 院の御所からの使いとして、蔵人左衛門権佐定長が八条堀河へ向かわれた。

 赤衣を着て、剣を帯び、笏を持っていらっしゃった。

 三位中将は紺村濃の直垂に、立烏帽子を引き立てていらっしゃった。

 ふだんは何とも思われなかった定長を、今は冥途で罪人たちが冥官に会うような気持ちでご覧になった。

 伝えられたお言葉は、

「八島へ帰りたければ、一門の中へ伝え、三種の神器を都へお返し申し上げよ。そうすれば八島へ帰してやろうとのご意向でございます」

 というものだった。

 三位中将は申し上げた。

「重衡が千人、万人いたとしても、その命と三種の神器を交換しようとは、内府をはじめ、一門の者は誰も申しますまい。あるいは、女性である母の二品などは、そう申すかもしれません。しかし、このまま院宣をお断り申し上げるのも恐れ多いので、申し送ってみましょう」

 と申し上げた。

 使いは平三左衛門重国と、御坪の召次花方だったと伝えられた。

 私的な手紙は許されなかったので、人々のもとへも言葉で言づてなさった。

 北の方の大納言佐殿へも、お言葉で伝えられた。

「旅先でも、あなたは私に慰められ、私もあなたに慰められておりましたのに、別れた後、どれほど悲しくお思いでしょう。契りは朽ちないものと申しますから、来世には必ずともに生まれ、お会いしましょう」

 と、泣く泣く言づてなさったので、重国も涙を抑えて出発した。

 三位中将が長年お使いになっていた侍に、木工右馬允知時という者がいた。

 八条女院に仕えていたが、土肥次郎のもとへ行って、

「私は以前、中将殿にお仕えしていた者です。西国へもお供するつもりでしたが、八条女院にも兼ねてお仕えしておりましたので、どうにもできず都に残りました。今日、大路でお姿を拝見すると、目も当てられず、おいたわしく思いました。差し支えなければお許しを頂き、お近くへ参ってもう一度お目に掛かり、昔の話なども申し上げて、お慰めしたいと思っております。大した武士ではございませんので、戦の御供をしたこともなく、ただ朝夕おそばに控えていたばかりです。それでも、なおご不安に思われるなら、腰の刀をお取り上げになり、何とかお許し頂きたく存じます」

 と申し上げた。土肥次郎は情けのある武士で、

「あなたお一人で、何事があるでしょう。それでも念のため」

 と、腰の刀を受け取り、中へ入った。

 右馬允はたいそう喜び、急いで参った。拝見すると、まことに思い悩んでいらっしゃるらしく、そのお姿もひどくしおれ、座っていらっしゃった。そのありさまを拝見して、知時も涙を抑えることができなかった。

 三位中将も知時をご覧になり、夢の中で夢を見るような気持ちで、何もおっしゃらなかった。

 ただ泣くよりほかなかった。

 しばらくして、昔や今の話をなさった後、

「ところで、お前を通じて言い寄っていた人は、まだ内裏にいると聞くか」

「そのように承っております」

「西国へ下ったとき、手紙も送らず、言い残すことさえなかったので、幾世にもわたる契りは皆、偽りだったと思っているだろう。それが恥ずかしい。手紙を送りたいと思うが、どうだろう。尋ねて行ってくれるか」

 とおっしゃると、

「お手紙を頂いて参りましょう」

 と申し上げた。

 中将はたいそう喜び、すぐに書いてお渡しになった。

 警護の武士たちは、

「どのようなお手紙でしょうか。お出しすることはできません」

 と申し上げた。

 中将が、

「見せよ」

 とおっしゃったので、見せた。

「差し支えありません」

 と、持たせた。

 知時は手紙を持って内裏へ参ったが、昼は人目が多かったので、近くの小屋に入り、日暮れを待った。局の裏口のあたりにたたずんで聞くと、この人の声らしく、

「大勢いる人の中で、三位中将が生け捕りにされ、大路を引き回されるとは。人は皆、奈良を焼いた罪の報いと言い合っています。中将も、そう言っていました。『自分の心から思い立って焼いたのではないが、悪党が大勢いたので、それぞれ火を放ち、多くの堂塔を焼き払った。枝先の露は根元の雫となるものなので、私一人の罪になるだろう』と言っていましたが、実際にそのとおりと思われます」

 と嘆き、さめざめと泣いていらっしゃった。

 右馬允は、こちらでも慕われていたのかと、いたわしく思い、

「申し上げたいことがございます」

 と言った。女房は、

「どちらから」

 とお尋ねになった。

「三位中将殿から、お手紙がございます」

 と申し上げると、ふだんは恥ずかしがって姿をお見せにならない女房が、こらえきれない思いのあまりだったのか、

「どこです、どこです」

 と走り出て、自分の手で手紙を受け取ってご覧になった。西国で捕らえられてからのありさま、今日とも明日とも知れない身の行く末などが詳しく書き連ねられ、最後には一首の歌があった。

 涙の川に、つらい評判を流す身であっても、もう一度、あなたと会う機会がほしい。

 女房はこれをご覧になり、何もおっしゃらず、手紙を懐にしまい、ただ泣くよりほかなかった。

 しばらくして、そのままでもいられないので、返事をなさった。

 つらく、晴れない思いで二年を過ごした心のうちをお書きになって、

 あなたのために、私もつらい評判を世に流そうとも、水底の藻屑となって、ともに果てましょう。

 知時は手紙を持って参った。

 警護の武士たちが、また、

「拝見しましょう」

 と言ったので、見せた。

「差し支えありません」

 と、中将に差し上げた。

 三位中将はこれをご覧になり、ますます思いが募られたのだろうか。土肥次郎におっしゃった。

「長年連れ添った女房に、もう一度会って申し上げたいことがあるのだが、どうしたらよいだろう」

 とおっしゃると、実平は情けのある武士で、

「女房などのことでしたら、どうして差し支えがありましょう」

 と、お許しした。

 中将はたいそう喜び、人から車を借りて迎えに遣わされた。女房は取る物も取りあえず、それに乗っていらっしゃった。

 縁に車を寄せ、到着を申し上げると、中将は車寄せに出迎えられ、

「武士たちが見ているので、お下りにならないでください」

 と、車の簾をかぶり、手を取り合い、顔と顔を押し当てた。しばらくは何もおっしゃらず、ただ泣くよりほかなかった。

 しばらくして、中将がおっしゃった。

「西国へ下ったときも、もう一度お目に掛かりたかったのですが、世の中全体が騒がしく、申し上げる機会もないまま下りました。その後は何とかお手紙を差し上げ、お返事も伺いたかったのですが、思いどおりにならない旅暮らしで、明け暮れの戦に暇もなく、むなしく年月を過ごしました。今また、ほかの人の知らない境遇に遭ったのは、再びお会いするためだったのですね」

 と、袖を顔に押し当て、うつ伏せになられた。

 互いの心のうちが察せられ、いたわしかった。

 こうして夜も半ばになったので、

「このごろは大路が物騒ですから、早くお帰りください」

 と、お帰しになった。

 車を外へ出すと、中将は別れの涙を抑え、泣く泣く袖を引き止めながら、

 あなたと会うことも、露のような命も、ともに今夜限りになるのだろうか。

 女房は涙を抑えながら、

 これを最後と別れてゆけば、露のようなこの身は、あなたより先に消えてしまうに違いありません。

 そうして女房は内裏へ参られた。

 その後は警護の武士たちが許さなかったので、どうにもできず、時々手紙だけが通った。

 この女房は民部卿入道親範の娘だった。

 容貌は世に優れ、情け深い人だった。

 中将が南都へ送られて斬られたと伝わると、すぐに姿を変えて尼となり、濃い墨染の衣を着て、すっかりやつれ、その後世の菩提を弔われたのは、しみじみと心に響くことだった。

八島院宣

 そのうち、平三左衛門重国と御坪の召次花方が八島へ参り、院宣を差し上げた。

 大臣殿をはじめ、一門の公卿や殿上人がお集まりになり、院宣を開かれた。

 天皇お一人が北の宮中を出て諸国へお移りになり、三種の神器が南海、四国に埋もれて数年がたった。皇室と朝廷の嘆きであり、国が滅びるもととなる。

 そもそも、かの重衡卿は東大寺を焼失させた逆臣である。

 頼朝朝臣が申し出たとおり、死罪に処すべきではあるが、一人親族と別れ、すでに生け捕りになった。

 籠の鳥が雲を恋うような思いは、はるか千里の南海に浮かび、帰る雁が仲間を失ったような思いは、きっと宮中に通じる道の途中へも届いていることだろう。

 そこで、三種の神器をお返し申し上げるなら、かの卿をお許しになるとのことである。院宣はこのとおりである。

 よって、仰せを受け、このとおりお伝えする。

 寿永三年二月十四日、大膳大夫成忠が奉る。平大納言殿へ差し上げると書かれていた。

請文

 大臣殿と平大納言のもとへは、院宣の内容をお伝えになった。

 二位殿へは、手紙をこまごまと書いて差し上げられた。

「もう一度ご覧になりたいと思われるなら、内侍所のことを大臣殿によくよくお話しください。そうしていただかなければ、この世でお目に掛かれるとも思えません」

 などと書かれていた。

 二位殿はこれをご覧になり、何もおっしゃらず、手紙を懐にしまい、うつ伏せになられた。

 心のうちは、さぞそのようであろうと察せられ、いたわしかった。

 そのうち、平大納言時忠卿をはじめ、平家一門の公卿や殿上人がお集まりになり、請文の内容を相談された。

 二位殿は中将の手紙を顔に押し当て、人々が並んで座っていらっしゃる後ろの障子を開け、大臣殿の前に倒れ伏し、泣く泣くおっしゃった。

「あの中将が都から伝えてきたことの、何と痛ましいことか。心の中に、どれほどのことを思っているだろう。ただ私のためと思って、内侍所を都へお返し申し上げなさい」

 とおっしゃると、大臣殿は、

「宗盛も、確かにそう思っております。しかし世間の評判も、何とも情けないことになりますし、頼朝がどう思うかも恥ずかしいので、無造作に内侍所をお返し申し上げるわけにはいきません。そのうえ、帝王が天下を保たれるのは、ひとえに内侍所があるためです。子がいとおしいといっても、場合によります。中将一人と、ほかの子供たちや親しい人々とを、お引き換えになるおつもりですか」

 と申し上げた。二位殿は重ねておっしゃった。

「故入道に先立たれてからは、片時も生きていられるとは思わなかったけれど、主上がこうして、いつ落ち着くとも知れぬ旅をされているのがいたわしく、また、あなたにも世に栄えていただきたいと思って、今まで生き長らえてきた。中将が一谷で生け捕りになったと聞いてからは、魂も身に付かず、何とかこの世でもう一度会おうと思っても、夢にさえ見えないので、ますます胸が詰まり、湯水も喉を通らない。今この手紙を見てからは、いっそう思いを晴らすところもない。中将が亡くなったと聞いたら、私も同じ道へ行こうと思う。もう一度悲しい思いをさせる前に、ただ私を殺しておくれ」

 と泣き叫ばれた。まことにそのように思っていらっしゃるのだろうと、いたわしく感じ、人々は涙を流し、皆うつむかれた。

 新中納言知盛が、意見として申し上げた。

「三種の神器を都へお返し申し上げても、重衡を帰してくださることは難しいでしょう。ただ遠慮なく、そのことを請文にお書きになってはいかがでしょう」

 と申し上げると、大臣殿は、

「その意見が最もよい」

 と、請文を書かれた。

 二位殿は泣く泣く中将への返事を書かれた。涙で目がくらみ、筆を置く場所も分からなかったが、思いを導きとして手紙をこまごまと書き、重国にお渡しになった。

 北の方の大納言佐殿は、ただ泣くよりほかなく、まったく返事もなさらなかった。

 その心のうちは、まことにそのように思われるのだろうと察せられ、いたわしかった。

 重国も狩衣の袖を絞り、泣く泣く御前を退出した。

 平大納言時忠は御坪の召次花方を呼ばれ、

「お前は花方か」

「さようでございます」

「法皇の使いとして、長い海路を渡ってここまで参ったのだから、一生の思い出が一つあるとよい」

 と、花方の顔に「浪方」という焼き印を付けられた。

 都へ上ると、法皇はこれをご覧になり、

「よいよい、仕方がない。浪方と呼ぶことにしよう」

 とお笑いになった。

 今月十四日の院宣が、同じ二十八日、讃岐国八島の磯に届き、謹んでこのとおり承りました。

 ただし、このことから、かの事情を考えますと、通盛卿をはじめ、当家の多くの者が摂津国一谷ですでに討たれました。

 どうして重衡一人が許されるのを喜べましょう。

 わが君は故高倉院から御位をお譲りいただき、すでに在位四年となりました。尭舜の昔の治世を求めていらっしゃるところへ、東と北の夷たちが党を結び、群れをなして都へ入ったので、幼い帝と母后の嘆きは深く、外戚や近臣の憤りも浅くありませんでした。そのため、しばらく九国へお移りになったのです。

 都へお戻りにならないなら、どうして三種の神器を御身からお離し申し上げることができましょう。

 臣は君を心とし、君は臣を体とします。

 君が安らかなら臣も安らかで、臣が安らかなら国も安らかです。

 君が上にあって憂えていれば、臣下も楽しみません。

 心が憂えていれば、体の外に喜びはありません。

 先祖の平将軍貞盛が相馬小次郎将門を追討して以来、東の八か国を鎮めて子々孫々に伝え、朝敵となった謀臣を誅罰し、代々、朝廷の栄えをお守り申し上げてきました。

 亡父の故太政大臣は、保元、平治の二度の合戦で、勅命を重んじ、自らの命を軽く扱いました。

 ひとえに君のためであり、自分のためではありませんでした。

 とりわけ、かの頼朝は、去る平治元年十二月、父左馬頭義朝の謀反によって、しきりに誅伐すべきとの命令が下されました。しかし故入道相国が慈悲のあまり、申し上げてお許しいただいた者です。

 それなのに昔の大恩を忘れ、厚意を思わず、たちまち狼贏の身で、むやみに蜂起して乱を起こすとは、甚だしい愚かさで、申し上げてもなお余りあります。

 早く神々の天罰を招き、ひそかに敗れて滅びる時を待っているかのようです。

 日月は、一つの物のために、その明るさを暗くしません。

 賢明な王は、一人のために法を曲げません。

 一つの悪事のために善を捨てず、わずかな傷のために功績を覆わないでください。

 当家が数代にわたってお仕えしたこと、亡父がたびたび忠節を尽くしたことを、お忘れになっていないなら、法皇には恐れ多くも四国へお出ましいただけないでしょうか。

 そのとき、私たちは院宣を承り、再び旧都へ帰り、会稽の恥をすすぎましょう。

 もしそうでなければ、鬼界、高麗、天竺、震旦まで行くでしょう。

 悲しいことです。

 人王八十一代の御代に当たり、わが国の神代の霊宝を、ついにむなしく異国の宝としてしまうのでしょうか。

 これらの事情を、しかるべきようにお取り次ぎになり、奏上してくださるようお願いします。

 宗盛、まことに恐れかしこまり、頭を下げて謹んで申し上げます。

 寿永三年二月二十八日、従一位平朝臣宗盛の請文と書かれていた。

戒文

 三位中将はこれを聞いて、

「やはりそうなるだろう。一門の人々は、どれほど悪く思ったことだろう」

 と後悔したが、かいはなかった。

 重衡卿一人を惜しんで、あれほどのわが国の重宝、三種の神器をお返し申し上げるとも思えなかったので、この請文の内容は、前もって覚悟していらっしゃった。それでも、まだ返答のない間は、何となく晴れない思いでいらした。請文がすでに届き、関東へ下ると決まると、どの望みもすっかり弱まり、何もかも心細く、都との別れも今さら惜しく思われた。

 三位中将は土肥次郎を呼び、

「出家したいと思うが、どうだろう」

 とおっしゃった。実平はこのことを九郎御曹司に申し上げた。

 院の御所へ奏上すると、

「頼朝に会わせてから、どのようにでも取り計らおう。今、どうして許せよう」

 と仰せになったので、そのことを伝えた。

「それなら、長年親しくしていた聖にもう一度会い、来世のことを相談したいと思うが、どうだろう」

 とおっしゃると、

「聖とは、どなたでしょう」

「黒谷の法然房という人だ」

「それなら、差し支えありません」

 と、お許しした。

 中将はたいそう喜び、聖をお招きして、泣く泣く申し上げた。

「今度、生きたまま捕らえられたのは、もう一度上人にお目に掛かるためだったのですね。さて、重衡の来世はどうしたらよいのでしょう。自由な身でいたころは、出仕に紛れ、政務に縛られ、ただおごる心が深く、かえって来世で浮かぶか沈むかを顧みませんでした。まして運が尽き、世が乱れてからは、ここで戦い、あそこで争い、人を滅ぼして自分を助けようという悪い心ばかりが強く、善い心はまったく起こりませんでした。

とりわけ南都の炎上は、天皇の命令とも、武家の命令ともいい、君に仕え、世に従う道を逃れられず、衆徒の悪行を鎮めるために向かったところ、思いがけず伽藍を滅ぼすに至ったことでした。どうにもできない成り行きでしたが、そのときの大将軍だったからには、責任は一人に帰すると申すそうですので、重衡一人の罪業になったのだろうと思います。このように、あちらこちらで人知れぬ恥をさらしているのも、すべてその報いなのだと思い知らされます。

今は頭を剃り、戒を受けるなどして、ひとえに仏道を修行したいのですが、このような身になっているので、自分の心さえ思いどおりにできません。今日とも明日とも知れない身の行く末なので、どのような行を修めても、何か一つの行によって救われるとも思えないのが、残念です。よくよく一生の行いを振り返ると、罪業は須弥山より高く、善い行いは微塵ほども積んでいません。このままむなしく命が終われば、火と血と刀の地獄で苦しむことに、まったく疑いはありません。どうか上人、慈悲を起こしてあわれみを垂れ、このような悪人が救われる方法があるなら、お示しください」

 そのとき上人は涙にむせび、しばらく何もおっしゃらなかった。

 しばらくして、

「まことに、受け難い人間の身を受けながら、むなしく三途へ戻られることは、悲しんでもなお余りあります。しかし今、穢れたこの世を厭い、浄土を願い、悪い心を捨てて善い心を起こされることを、三世の諸仏も、きっとお喜びになるでしょう。

迷いの世界を離れる道はさまざまですが、末法の乱れた世の人々には、仏の名を唱えることが最も優れています。願いは九品に分かれ、行は南無阿弥陀仏の六字に縮められているので、どれほど愚かで道理に暗い者にも、唱えやすいのです。罪が深いからといって、卑下してはなりません。十悪、五逆を犯した者も、心を改めれば往生します。功徳が少ないからといって、望みを絶ってはなりません。一念、十念でも心を尽くせば、仏は迎えにいらっしゃいます。

『ひたすら名号を唱えて西方へ至る』を解釈して、ひたすら名号を唱えれば西方へ至るといいます。『念々に名を唱え、常に懺悔する』と述べ、念々に弥陀の名を唱えれば、それが懺悔であると教えています。『よく切れる剣は、すなわち弥陀の名号である』と述べれば、仏道を妨げるものは近づきません。『一声唱え念ずれば、罪は皆除かれる』と念ずれば、罪は皆除かれるとあります。浄土宗の奥義には、それぞれ要点がありますが、おおよそこれを肝心とします。

ただし、往生できるかどうかは、信心があるかないかによります。ただ深く信じ、決して疑ってはなりません。この教えを深く信じ、歩くとき、立つとき、座るとき、横になるとき、時や場所やさまざまな事情を問わず、身、口、心の三業と、行住坐臥の四威儀において、心に念じ、口で唱えることを忘れなければ、ご命の尽きるとき、この苦しみの世界を出て、再び迷いに戻らない浄土へ往生なさることに、何の疑いがありましょう」

 とお教えになった。中将はたいそう喜び、

「この機会に戒を受けたいと思いますが、出家しなければかないませんか」

 と申し上げた。上人は、

「出家しない人も戒を受けるのは、世間で普通に行われることです」

 と、額に剃刀を当て、剃るまねをして十戒を授けられた。中将は喜びの涙を流し、これを受けて守られた。

 上人も、何につけてもいたわしく思われ、目の前が暗くなるような気持ちで、泣く泣く戒を説かれた。

 布施のつもりだったのだろう。長年、いつもおいでになってお遊びになっていた侍のもとへ預けていた硯を、知時に命じて取り寄せ、上人に差し上げられた。

「これは人にお譲りにならず、いつも目に入る所へ置いて、私の物だったと、ご覧になるたびにお思いになり、私を念頭に置いて念仏をお唱えください。お暇なときには、経も一巻、私のためにお読みくだされば幸いです」

 などと泣く泣く申し上げた。上人は何の返事もできず、これを受け取って懐に入れ、墨染の袖を絞り、泣く泣くお帰りになった。

 この硯は、父の入道相国が多くの砂金を宋朝の帝へ献上されたところ、その返礼と思われ、日本の和田の平大相国へと送られてきたものだという。

 名を松蔭といった。

海道下

 そのうち、本三位中将について、鎌倉の前兵衛佐頼朝がしきりに申し出られたので、それなら下らせようと、土肥次郎実平の手から、まず九郎御曹司の宿所へお移しした。

 同じ三月十日、梶原平三景時に連れられ、鎌倉へ下られた。

 西国で生け捕りにされ、都へ帰るだけでもつらいのに、今また関より東へ向かわれる心のうちが察せられ、いたわしかった。

 四宮河原に来ると、ここは昔、延喜天皇の第四皇子、蝉丸が関を吹く嵐で心を清め、琵琶を弾かれた所だった。博雅の三位という人が、風の吹く日も吹かない日も、雨の降る夜も降らない夜も、三年の間足を運び、立ち聞きして、あの三曲を受け継いだという藁屋の床の昔が思いやられ、しみじみと感じられた。

 逢坂山を越え、勢多の唐橋を馬の足音高く踏み鳴らした。雲雀の舞い上がる野路の里、志賀の浦の波に春が訪れ、鏡山は霞で曇っていた。比良の高峰を北に見て、伊吹の嵩も近づいた。

 心を留めようとしたわけではないが、荒れてかえって趣があるのは、不破の関屋の板庇だった。鳴海の潮干潟はどうだろうかと、涙で袖を濡らしながら、あの在原の某が、唐衣を着慣れたように慣れ親しんだ、と詠んだという参河国八橋へも来た。思いも蜘蛛手に入り乱れ、悲しかった。

 浜名の橋を渡られると、松の梢を吹く風は冷たく、入江に波の音が騒いでいた。ただでさえ旅は気が晴れないのに、夕暮れはいっそう心を痛めた。池田の宿にもお着きになった。

 その宿の長者、湯屋の娘である侍従のもとに、その夜は泊まられた。

 侍従は三位中将を拝見し、

「昔は、人を介してさえお心に掛けてくださらなかったのに、今日はこのような所へおいでになるとは、不思議なことです」

 と、歌を一首差し上げた。

 旅先で、粗末な小屋に晴れない思いでいらっしゃると、故郷がどれほど恋しいことでしょう。

 三位中将の返事は、

 旅先にあっても、故郷は恋しくない。都も、最後まで住む所ではないのだから。

 中将は、

「風雅に詠んだものだ。この歌の主は、どのような者なのだろう」

 とお尋ねになった。景時はかしこまって申し上げた。

「君はまだご存じありませんか。あの者は、八島の大臣殿がこの国の守でいらっしゃったときに召され、たいそう寵愛されていました。老いた母をここに残していたので、しきりに暇を願いましたが許されず、三月の初めに、

どうしたらよいでしょう。都の春も惜しいけれど、なじみのある東国の花は、散ってしまうでしょうか。

と詠み、暇を頂いて下った、海道一の名人でございます」

 と申し上げた。

 都を出て日数がたち、三月も半ばを過ぎ、春もすでに暮れようとしていた。

 遠山の花は残った雪かと見え、浦々、島々に霞がかかっていた。過ぎたこと、これからのことを思い続けられ、

「これは、何という前世の罪の恐ろしさなのか」

 とおっしゃり、ただ尽きないのは涙だった。

 子が一人もいらっしゃらないことを、母の二位殿も嘆き、北の方の大納言佐殿も残念に思い、あらゆる神仏に祈られたが、その験はなかった。

「いなくてよかった。子がいたなら、どれほどつらいことだろう」

 とおっしゃったのは、こらえきれない思いからだった。

 佐夜中山に差しかかられても、再び越えられるとは思えず、いっそう悲しみが増し、袂もひどく濡れていった。

 宇都の山辺の蔦の道を心細く越え、手越を過ぎて行くと、北の遠くに雪の白い山があった。

 尋ねると、甲斐の白根という。

 そのとき三位中将は、落ちる涙を抑え、こう思い続けられた。

 惜しくない命だが、今日まで平然と生き長らえ、甲斐の白根まで見たことだ。

 清見が関を過ぎ、富士の裾野へ来ると、北には青い山が険しくそびえ、松を吹く風がざわざわと鳴っていた。

 南には青い海が果てしなく広がり、岸を打つ波も広々と続いていた。

 恋をすれば痩せるはずだが、恋せずともいられた、と明神が初めて歌を詠まれた足柄山も越え、こゆるぎの森、鞠子川、小磯、大磯の浦、やつまと、砥上が原、御輿が崎も過ぎた。急がない旅だと思っていても、日数が次第に重なり、ついに鎌倉へ入られた。

千手前

 兵衛佐は急いで対面し、こう言った。

「そもそも君のお怒りをお鎮めし、父の恥をすすごうと決意した以上、平家を滅ぼすことは考えていたことでしたが、あなたと直接お会いすることになるとは思ってもいませんでした。この様子では、八島の大臣殿にもお会いすることになりそうです。それにしても、南都を滅ぼされたのは、故太政入道殿のご命令だったのでしょうか。それとも、その場であなたが判断なさったことなのでしょうか。大変な罪を犯されたものです」

 こう言うと、三位中将は答えた。

「まず南都の炎上については、故入道の命令でもなく、重衡が愚かな考えを起こして行ったことでもありません。衆徒の悪行を鎮めるために向かいましたところ、思いがけず伽藍が滅びることになったのであって、どうすることもできなかったのです。昔は源氏と平氏が左右に並んで競い合い、朝廷をお守りしていましたが、近ごろ源氏の運が傾いていたことは、今さら改めて申し上げるまでもありません。当家は保元・平治以来、たびたび朝敵を平らげ、身に余る恩賞を受けました。恐れ多くも天皇の外戚となり、一族で昇進した者は六十余人。二十余年にわたる楽しみと栄華は、言い尽くせないほどでした。ところが今また運が尽き、重衡は捕らえられて、ここまで下ってきました。それにつけても、帝王の敵を討った者は七代まで朝廷の恩が尽きないというのは、まったく間違った話でした。実際、故入道殿は君のために、もう少しで命を失うということが何度もあったのです。それでも、わずかにその身一代だけの幸せで、子孫はこのようなことになってしまうのでしょうか。ですから、運が尽きて都を出た後は、死骸を山野にさらし、名を西海の波に流すことになるだろうとは思っていましたが、ここまで下ってくるとは、まったく思いませんでした。ただ、前世からの宿業が悔しく思われます。しかし、殷の湯王は夏台に捕らえられ、文王は羑里に捕らえられたという文章があります。大昔でさえこのようなことがありました。まして末の世では、なおさらでしょう。弓矢を取る者が敵の手にかかって命を失うのは、恥ではあっても、恥とはいえません。ただ、ご恩情としては、早く首をおはねください」

 そう言って、その後は何も言わなかった。

 景時はこれを聞き、

「ああ、立派な大将軍だ」

 と言って涙を流した。

 その場に並んで座っていた人々も、皆、袖をぬらした。

 兵衛佐も、

「平家を特別に、私自身の敵と思っているわけでは決してありません。ただ、帝王のご命令が重いのです」

 と言った。

「南都を滅ぼした、大伽藍の敵なのだから、衆徒たちにもきっと申し立てることがあるだろう」

 と言って、伊豆国の住人、狩野介宗茂に預けた。

 その様子は、冥土で娑婆世界の罪人が七日ごとに十王の手へ渡されるのも、このようなものかと思われ、哀れであった。

 しかし、狩野介は情けのある者で、ひどく厳しくは扱わず、さまざまにいたわり、湯殿を用意するなどして、湯に入ってもらった。

 道中の汗で気持ちが悪かったので、体を清めてから処刑するつもりなのだろうと思っていると、二十歳ほどの女房が湯殿の戸を押し開けて入ってきた。色白でさっぱりと美しく、まことに優雅で愛らしい女で、目結の帷に染め付けの湯巻を着けていた。

 また、しばらくすると、十四、五歳ほどの少女が、小村濃の帷を着て入ってきた。髪は袙ほどの長さで、楾と櫛を入れた盥を持っていた。

 この女房が世話をし、中将はしばらく湯を浴びて髪を洗い、湯から上がった。

 さて、その女房は退出を願って帰るときに、こう言った。

「男などでは無骨にお感じになるかもしれません。かえって女ならお気詰まりもないだろうということで、こちらへ参りました。兵衛佐殿は、『何でもお望みのことを伺って、報告せよ』とおっしゃっていました」

 中将は、

「今はこれほどの身になって、何を申し上げることがあるでしょう。ただ願うことといえば、出家したいことです」

 と言ったので、女房は帰って、このことを伝えた。

 兵衛佐は、

「それは思いもよらない。頼朝自身の敵ならともかく、朝敵としてお預かりしている人だ。決して許せることではない」

 と言った。

 三位中将は、警固の武士にこう言った。

「それにしても、先ほどの女房は優雅な人でしたね。名は何というのでしょう」

 と尋ねると、

「あれは手越の長者の娘です。顔かたちも心持ちも、この上なく優れた者だということで、この二、三年お召し使いになっています。名は千手前と申します」

 と答えた。

 その夕方、雨が少し降って、何もかもがもの寂しく感じられるころ、例の女房が琵琶と琴を持たせてやってきた。

 狩野介は酒を勧めた。

 自分も家子・郎等十余人を連れて来て、中将の前近くに控えた。

 千手前が酌をした。

 中将は少し飲んだものの、まったく興が乗らない様子でいたので、狩野介はこう言った。

「すでにお聞きになっているかもしれません。鎌倉殿は、『くれぐれも、十分にお慰めせよ。怠って、後で頼朝を恨むな』とおっしゃいました。宗茂は伊豆国の者ですので、鎌倉では旅の身ですが、心の及ぶ限りお仕えいたします。何でもおっしゃって、私どもにお世話をさせてください」

 こう言うと、千手は酌を置き、

「綾や薄絹の衣が幾重にも重ねられている。その衣の無情さを、織った女のせいだと恨む」

 という朗詠を一、二度うたったので、三位中将はこう言った。

「この朗詠をする人は、北野天神が一日に三度飛んできてお守りになると、お誓いになっています。しかし、重衡はこの世ではもうお見捨てになりました。唱和したところで、何になるでしょう。罪が軽くなるようなことなら、唱和しましょう」

 そう言うと、千手前はすぐに、

「十悪を犯したといっても、阿弥陀仏は救い取ってくださる」

 という朗詠をし、

「極楽を願う人は、皆、弥陀の名号を唱えるべきだ」

 という今様を四、五度、見事に歌い上げた。そのとき、中将は盃を傾けた。

 千手前は盃を受け取り、狩野介に差し出した。

 宗茂が飲む間に、千手前は琴を見事に弾いた。

 三位中将はこう言った。

「この曲は、普通は五常楽といいますが、重衡にとっては、後生楽だと思うべきでしょう」

「すぐに往生の急を弾こう」

 と冗談を言い、琵琶を取って糸巻きをねじり、皇麞急を弾いた。

 夜がだんだん更け、何につけても心が澄んでいくにつれて、

「ああ、思いがけないことです。吾妻にも、これほど優雅な人がいたとは。何でもよいから、もう一曲」

 と言うと、千手前はまた、

「一つの木の陰に共に宿り、同じ川の水をすくうのも、すべて前世からの縁である」

 という白拍子を、まことに趣深く歌い上げた。中将も、

「灯が暗くなると、虞氏は幾筋もの涙を流す」

 という朗詠をした。

 この朗詠の意味は、こういうことである。昔、中国で漢の高祖と楚の項羽が帝位を争い、七十二度戦ったが、戦うたびに項羽が勝った。

 しかし、ついに項羽が戦いに敗れて滅びるとき、一日に千里を駆ける騅という馬に乗り、虞氏という后と共に逃れようとした。ところが、馬はどう思ったのか、足をそろえて動かなかった。

 項羽は涙を流して、

「私の勢いは、すでに衰えてしまった。今は逃れる道もない。敵が襲ってくるのは、ものの数ではない。この后と別れることの、何と悲しいことか」

 と言って、一晩中嘆き悲しんだ。

 灯が暗くなると、虞氏は心細くなって涙を流した。

 夜が更けるにつれて、兵たちが四方で鬨の声を上げた。

 このことを橘相公が賦に作ったのを、三位中将は思い出したのだろうか。まことに優雅に聞こえた。

 そうしているうちに夜が明けたので、武士たちは退出を願って帰っていった。

 千手前も帰った。

 その朝、兵衛佐殿が、折しも持仏堂で法華経を読んでいるところへ、千手前が参上した。

 兵衛佐殿はほほえんで、

「千手は、中人をずいぶん楽しませたものだな」

 と言った。斎院次官親義が、そのとき御前で書き物をしていたが、

「何のお話でしょうか」

 と尋ねた。

「あの平家の人々は、甲冑や弓矢のほかには何もないと、日ごろ思っていたのだ。ところが、この三位中将の琵琶の撥の音や口ずさむ声を、一晩中立ち聞きしていたところ、この上なく優雅な方であった」

 親義はこう言った。

「私も昨夜はお聞きするはずでしたが、折悪しく体調を崩していて、聞けませんでした。これからは、いつも立ち聞きいたしましょう。平家はもともと、代々、歌や諸芸に優れた方々です。先年、この方々を花にたとえたとき、この三位中将殿は牡丹の花にたとえたのでした」

 こう申し上げると、

「まことに優雅な方であった」

 と言い、

「あの琵琶の撥の音や朗詠のありさまは、後の世までもめったにないものだ」

 と言った。

 千手前にとっては、かえって物思いの種になったのだろうか。

 そのため、中将が南都へ渡されて斬られたと聞くと、すぐに尼になり、濃い墨染の衣を着て、すっかり身をやつした。信濃国の善光寺で修行に励み、中将の後世の菩提を弔い、自分も往生の願いを遂げたということである。

横笛

 さて、小松三位中将維盛卿は、身は八島にありながら、心は都へ通っていた。

 故郷に残してきた妻や幼い子供たちの面影ばかりが身に付きまとい、忘れる間もなかったので、

「生きていても仕方のないわが身だ」

 と言い、寿永三年三月十五日の明け方、ひそかに八島の館を抜け出した。与三兵衛重景と、石童丸という童、それに舟の扱いを心得ているということで、武里という舎人を連れた。この三人を伴い、阿波国の結城の浦から小舟に乗り、鳴門の浦を漕ぎ抜けて紀伊路へ向かった。

 和歌、吹上、衣通姫が神となって現れた玉津島の明神、日前・国懸の御前を通り過ぎ、紀伊の湊に着いた。

 ここから山伝いに都へ上り、恋しい人々と、もう一度会って互いの姿を見たいとは思ったが、

「本三位中将が生け捕りにされ、大路を引き回されて、京や鎌倉で恥をさらすだけでも悔しいのに、この身まで捕らえられ、父の死骸に血を浴びせることになるのもつらい」

 と考えた。幾度となく心は都へ向かおうとしたが、その心を自分で抑え、高野山へ参った。

 高野には、長年の知り合いの聖がいた。

 三条の斎藤左衛門茂頼の子で、斎藤滝口時頼といった者である。

 もとは小松殿の侍であった。

 十三歳のときに主君のもとへ出仕したが、建礼門院の雑仕に、横笛という女がいた。

 滝口はこの女を深く愛した。

 父はこれを伝え聞き、

「世間で重んじられる者の婿にして、出仕なども心配なくできるようにしてやろうと思っているのに、世間で重んじられない者を好きになって」

 と強く諫めた。滝口はこう言った。

「西王母という人は、昔はいましたが、今はいません。東方朔という者も、名だけを聞いて、目で見たことはありません。年寄りも若者も、いつ死ぬかわからない世の中は、火打ち石の火花と変わりません。たとえ人が長生きしても、七十、八十を超えることはなく、そのうち栄えるのは、わずか二十余年です。夢や幻のような世の中で、醜い人を、ほんのしばらくでも見て何になりましょう。慕わしい人を見ようとすれば、父の言いつけに背くことになる。これは、仏道へ導いてくれる縁だ。それならば、この浮世を厭い、まことの道に入ろう」

 そう言って、十九歳のときに髻を切り、嵯峨の往生院で修行に専念していた。

 横笛はこれを伝え聞き、

「私を捨てるのは仕方ないとしても、出家までなさったとは、何と恨めしいことだろう。たとえ世を捨てるにしても、どうしてそう知らせてくださらなかったのか。あの方は心が強くても、訪ねて恨みを申し上げよう」

 と思い、ある夕暮れに都を出て、嵯峨の方へさまよっていった。

 時は二月十日過ぎのことだったので、梅津の里の春風に運ばれてくる、よそから漂う香りにも心が引かれ、大井河の月の光も霞に包まれておぼろであった。

 並々ならぬこの悲しみも、誰のためなのかと思ったことだろう。

 往生院とは聞いていたが、どの坊かははっきり知らなかったので、ここで立ち止まり、あちらでたたずみながら訪ね歩くのが痛ましかった。

 荒れた僧房で、念仏を唱える声がした。

 滝口入道の声だと聞き取って、

「私が、ここまでお訪ねして参りました。出家なさったお姿を、もう一度拝見したいのです」

 と、連れてきた女に伝えさせた。滝口入道は胸が騒ぎ、障子の隙間からのぞくと、いかにも苦労して訪ねてきた様子が痛々しく、どのように仏道に心を寄せる者でも、心が弱くなってしまいそうであった。

 すぐに人を出して、

「ここには、そのような人はまったくいません。門をお間違えになったのでしょう」

 と言わせ、結局、会わずに帰した。

 横笛は薄情だと恨めしく思ったが、どうすることもできず、涙を抑えて帰った。

 滝口入道は、同宿の僧に会ってこう言った。

「ここもたいそう静かで、念仏の妨げはありませんが、思いを残して別れた女に、この住まいを知られてしまいました。たとえ一度は心を強く持てても、また慕って来ることがあれば、心が動くでしょう。お暇いたします」

 そう言って嵯峨を出て、高野へ上り、清浄心院に住んだ。

 横笛も尼になったと聞いたので、滝口入道は一首の歌を送った。

 髪を剃るまでは恨んでいましたが、梓弓を射るように、まことの道に入られたのはうれしいことです。

 横笛は返事に、こう詠んだ。

 髪を剃られたからといって、どうして恨みましょう。梓弓を引くように、あなたを引き留めようという心ではありませんから。

 横笛は、その思いが積もったためだろうか、奈良の法華寺にいたが、ほどなく亡くなってしまった。

 滝口入道はこのようなことを伝え聞き、いっそう深く修行に励んでいたので、父も親不孝を許した。

 親しい者たちは皆、彼を重んじ、高野の聖と呼んだ。

 三位中将はこの人を訪ねて会い、その姿を見た。都にいたときは、布衣に立烏帽子を着け、衣の着方を整え、鬢をなでつけた、華やかな武士であった。

 出家の後は、今日初めて会った。まだ三十歳にもならないのに、老僧のように痩せ衰え、濃い墨染の衣に同じ色の袈裟を着けている。深く思いを定めた修行者の姿を、羨ましいと思ったことだろう。

 晋の七賢が住んだという竹林も、漢の四皓が住んだという商山も、これにまさるありさまではあるまいと思われた。

高野之巻

 滝口入道は三位中将の姿を見て、

「これは、現実のこととも思われません。八島からここまでは、どうやってお逃げになったのでしょうか」

 と言った。三位中将はこう答えた。

「そのことなのだ。ほかの人々と同じように都を出て、西国へ落ちていったが、故郷に残してきた幼い者たちの恋しさは、いつか忘れられるとも思えなかった。その物思いの様子が、口には出さなくても、はっきり見えたのだろうか。大臣殿も二位殿も、この人は池大納言のように二心があるなどと、私をよそよそしくお扱いになった。生きていても仕方のないわが身だと思い、いよいよ心をとどめられず、さまよい出て、ここまで逃れてきたのだ。何とか山伝いに都へ上り、恋しい者たちともう一度会って、互いの姿を見たいとは思うが、本三位中将のことが悔しくて、それもかなわない。同じことなら、ここで出家して、火の中へも水の底へも入ろうと思う。ただ、熊野へ参ろうというかねてからの願いがある」

 こう言うと、滝口入道は、

「夢や幻のようなこの世は、どのようであってもよいでしょう。長く続く後世の闇こそ、つらいものです」

 と言った。

 すぐに滝口入道を案内役として堂塔を巡礼し、奥院へ参った。

 高野山は都を二百里も離れ、京の里から遠く、人の声もない。晴れた山の風が梢を鳴らし、夕日の光は静かである。

 八葉の峰と八つの谷に、まことに心も澄んでいきそうであった。

 花の色は林の霧の下でほころび、鈴の音は峰の雲に響いていた。

 瓦には松が生え、垣には苔がむして、長い年月が感じられた。

 そもそも延喜帝の御代、夢でお告げがあり、檜皮色のお衣を大師にお贈りになった。勅使の中納言資澄卿は、般若寺の僧正観賢を伴ってこの山に参り、御廟の扉を開き、お衣を着せ申し上げようとしたが、厚い霧が隔てていて、大師のお姿を拝むことができなかった。

 そこで観賢は、深く悲しんで涙を流し、

「私は母の胎内を出て、師匠のもとに入って以来、まだ戒律を破ったことはありません。それなら、お姿を拝めないはずはありません」

 と言って、五体を地に投げ、自分の罪を告白して泣いた。すると次第に霧が晴れ、月が出るように、大師のお姿を拝むことができた。

 観賢は喜びの涙を流し、お衣を着せ申し上げた。

 髪が長く伸びていたので、剃って差し上げたとは、尊いことである。

 勅使と僧正はお姿を拝んだが、僧正の弟子である石山の内供淳祐は、そのときまだ童の姿でお供しており、大師のお姿を拝めず、嘆き沈んでいた。僧正がその手を取って大師の膝に押し当てると、その手は一生の間、よい香りがしたという。

 その移り香は、石山の聖教に移り、今も残っていると聞いている。

 大師は帝への返事に、こう申し上げた。

「私は昔、薩埵に会い、目の前で印明のすべてを伝えられた。比べるもののない誓願を起こし、遠く隔たったこの異国にいる。昼も夜もすべての人々を憐れみ、普賢の慈悲の誓願のうちにいる。この肉身のまま三昧の境地を得て、慈氏がこの世に下るのを待っている」

 と申し上げたのである。

 あの摩訶迦葉が鶏足山の洞窟に籠もり、翅頭城の春風が吹く時を待っておられるのも、このようなものかと思われた。

 大師が入定したのは、承和二年三月二十一日、寅の刻の初めのことなので、すでに三百余年が過ぎている。これからもなお、五十六億七千万年の後、慈尊がこの世に現れて三度説法する暁を待っておられるのだから、何と長いことだろう。

維盛出家

「維盛の身は、何となく、雪山の鳥が鳴くというように、今日か明日かと思っているのに」

 と言って涙ぐむのが、哀れであった。

 潮風に肌が黒くなり、尽きない物思いに痩せ衰え、もとの人とは見えなかったが、それでも世の人々よりは優れていた。

 その夜は滝口入道の庵に帰り、一晩中、昔と今のことを語った。

 聖の修行のありさまを見ると、この上なく深い修行の床の上では、真理の玉を磨いているように見え、後夜や晨朝の鐘の声には、生と死を繰り返す迷いの眠りを覚ましているようにも思われた。

 逃れていられるものなら、このように暮らしたいと思ったことだろう。

 夜が明けると、東禅院の智覚上人という聖を招いて出家しようとしたが、与三兵衛と石童丸を呼び、こう言った。

「維盛は、人知れぬ思いを抱えながら、逃れる道も狭く、逃れがたい身なのだから、死んでしまうとしても、近ごろは世に栄えている人も多い。お前たちは、どのような暮らしをしても、生きていけないことがあろうか。私がどのようになるかを見届けたら、急いで都へ上り、それぞれ自分の身を助け、妻子を養い、また維盛の後世を弔ってくれ」

 こう言うと、二人はさめざめと泣き、しばらく返事もできなかった。少しして、与三兵衛は涙を抑えてこう言った。

「重景の父、与三左衛門景康は、平治の乱のとき、亡き殿のお供をしていましたが、二条堀河の辺りで鎌田兵衛に組みつき、悪源太に討たれました。重景も、どうして父に劣りましょう。そのときは、まだ二歳でしたので、少しも覚えておりません。母には七歳で死に別れました。情けをかけてくれる親しい者は一人もいませんでしたが、故大臣殿が、『あれは私の命の身代わりになった者の子だから』とおっしゃって、おそばで育ててくださいました。九歳のとき、君が元服なさった夜に、私も元服させていただきました。恐れ多くも、『盛の字は家の字なので、五代にわたって付けている。重の字は松王に』とおっしゃって、重景と名付けてくださったのです。

そのうえ、幼名を松王といったことも、生まれて五十日の忌明けのとき、父が抱いて参上すると、『家を小松というので、祝って付けるのだ』とおっしゃって、松王と名付けてくださったのです。父が立派に死んだことも、わが身の目に見えないご加護と思われます。同じく仕える者たちにも、それぞれ親切にしてもらって暮らしてきました。

ですから、ご臨終のときも、この世のことはお捨てになり、何一つおっしゃいませんでしたが、重景を近くへお呼びになって、『ああ、かわいそうに。お前は重盛を父の形見と思い、重盛はお前を景康の形見と思って暮らしてきた。今度の除目で靱負尉にして、お前の父景康を呼んだように呼ぼうと思っていたのに、死んでしまうのが悲しい。くれぐれも、少将殿のお心に背くな』とおっしゃいました。

それなのに、日ごろ、どのようなことがおありになっても、お見捨てして逃げる者だとお思いでしたか。そのお心のうちが、恥ずかしゅうございます。『近ごろは世に栄えている人も多い』とのお言葉ですが、今の様子では、皆、源氏の郎等たちではありませんか。君が神にも仏にもおなりになった後、楽しみ栄えたとしても、千年の命を生きられましょうか。たとえ万年の命を保っても、ついに終わりが来ないことがありましょうか。これにまさる、仏道へ導いてくれる縁が、ほかに何かありましょう」

 そう言って、自分の手で髻を切り、泣きながら滝口入道に髪を剃らせた。

 石童丸もこれを見て、髻の根元から髪を切った。

 この者も八歳から仕えており、重景にも劣らずかわいがられていたので、同じく滝口入道に剃ってもらった。

 彼らがこのように先に出家するのを見るにつけても、いっそう心細く思った。

 そのままでもいられないので、

「三界のうちを生まれ変わり続け、恩愛を断ち切れない。恩愛を捨てて、迷いを離れた境地に入る者こそ、まことに恩を報いる者である」

 と三度唱え、ついに髪を剃り落とした。

「ああ、変わらぬ姿で、恋しい者たちともう一度会い、互いの姿を見てから、このようになったなら、心残りもなかっただろう」

 と言ったのは、罪深いことであった。

 三位中将も与三兵衛も同い年で、今年は二十七歳であった。

 石童丸は十八歳であった。

 しばらくして、舎人の武里を呼び、

「お前は、急いでここから八島へ帰れ。都へは上ってはならない。その理由は、結局は隠しきれないだろうが、妻がこの様子を直接聞けば、すぐに出家してしまうだろうと思うからだ。八島へ参って、人々にはこう申し上げよ。

『すでにご覧になったように、世の中のことも、何もかも気が進まないようになっていました。さまざまな道理に外れたことも、ますます多く見えましたので、皆様にもお知らせせず、このようになりました。西国で左中将が亡くなり、一谷で備中守が討たれました。私までこのようになったので、皆様がどれほど心細くお思いになるだろうと、そのことばかりを心苦しく思っています。そもそも、唐皮という鎧と小烏という太刀は、平将軍貞盛から当家に伝わり、維盛までは嫡子から嫡子へ九代に当たります。もし思いがけなく世の中が立ち直ることがあれば、六代にお与えください』と申せ」

 と言った。

 武里は、

「君がどのようにおなりになるかを見届けてから、八島へも参りましょう」

 と言ったので、

「それならば」

 と言って、連れていった。

 滝口入道も、仏道へ導く者として伴った。

 山伏の修行者のような姿で高野を出て、同じ国の内の山東へ出た。

 藤代の王子をはじめ、王子ごとに伏し拝んで進むうちに、千里の浜の北、岩代王子の御前で、狩装束の者たち七、八騎ほどに行き会った。

 もう捕らえられるに違いないと思い、それぞれ腰の刀に手をかけて腹を切ろうとした。ところが、相手は近づいても危害を加える様子がなく、急いで馬から下り、深く敬意を示して通っていった。

「私を知っている者なのだろう。誰なのだろうか」

 と不思議に思い、いっそう足早に進んだ。この者は、この国の住人、湯浅権守宗重の子で、湯浅七郎兵衛宗光という者であった。

 郎等たちが、

「あれは、どのようなお方でしょうか」

 と尋ねると、七郎兵衛は涙をはらはらと流して、

「ああ、何と恐れ多いことか。あの方こそ、小松大臣殿の嫡子、三位中将殿だ。八島からここまでは、どうやってお逃げになったのだろう。もう出家なさってしまった。与三兵衛も石童丸も同じく出家して、お供している。近くへ参って、お目にかかりたかったが、お気詰まりにお感じになるかもしれないと思って通り過ぎた。ああ、何といたわしいお姿だ」

 と言い、袖を顔に押し当ててさめざめと泣いたので、郎等たちも皆、涙を流した。

熊野参詣

 次第に進んでいくうちに日数もたち、岩田河に差しかかった。

 この川の流れを一度でも渡る者は、悪業や煩悩、始まりのない昔からの罪が消えるのだからと、頼もしく思った。

 本宮に着き、証まこと殿の御前にひざまずき、しばらく経を読んで捧げた。山のありさまを拝むと、思いも言葉も及ばなかった。

 大いなる慈悲で守る霞は熊野山にたなびき、並ぶもののない霊験を示す神は、音無河に姿を現しておられる。

 一乗を修行する岸には、祈りに応じる月に曇りもなく、六根の罪を懺悔する庭には、妄想の露も結ばない。

 どこもかしこも、頼もしくないところはなかった。

 夜が更け、人が静まって祈りを申し上げると、父の大臣がこの御前で、命を召して後世をお助けくださいと申し上げたことまでも思い出され、悲しかった。

「本地は阿弥陀如来でいらっしゃいます。救い取ってお捨てにならないという本願のとおりに、浄土へお導きください」

 と申し上げる中でも、

「故郷に残してきた妻子が、安らかに暮らせますように」

 と祈ったのは、悲しいことであった。

 浮世を厭ってまことの道に入ったが、妄執はまだ尽きないのだと思われ、哀れなことであった。

 夜が明けると、本宮から舟に乗り、新宮へ参った。

 神蔵を拝むと、岩の上の松は高くそびえ、嵐は妄想の夢を破り、流れる水は清らかで、波は塵やほこりの汚れを洗い流すように思われた。

 明日の社を伏し拝み、佐野の松原を通り過ぎて、那智の山に参った。

 三重に勢いよく落ちる滝の水は、数千丈まで舞い上がり、観音の霊像が岩の上に現れて、補陀落山といってもよいほどであった。

 霞の下には法華経を読誦する声が聞こえ、霊鷲山ともいえそうであった。

 そもそも権現がこの山に姿を現して以来、わが国の貴い者も賤しい者も、身分の高い者も低い者も、足を運び、頭を下げ、手を合わせて、そのご利益を受けない者はいなかった。

 そのため、僧たちの住まいは甍を並べ、僧も俗人も袖を連ねていた。

 寛和の夏のころ、花山法皇が、十善を修めて得た帝位を離れ、九品の浄土を願って修行なさったという庵の跡には、昔をしのぶかのように、老木の桜が咲いていた。

 那智に籠もる僧たちの中に、この三位中将をよく知っていたらしい者がいて、共に修行する者にこう語った。

「ここにいる修行者は、どのような人だろうと思っていたら、小松大臣殿の嫡子、三位中将殿でいらっしゃった。あの殿がまだ四位少将と呼ばれていた安元の春のころ、法住寺殿で五十歳のお祝いがあった。父の小松殿は内大臣で左大将、伯父の宗盛卿は中納言で右大将として、階段の下に着座なさっていた。そのほか、三位中将知盛、頭中将重衡をはじめ、一門の人々が今日を晴れの場と華やかに、垣代として立っておられた。その中から、この三位中将殿が桜の花をかざして、青海波を舞って出てこられた。露に美しさを添えた花のようなお姿、風にひるがえる舞の袖は、地を照らし、天をも輝かせるほどであった。

女院から関白殿をお使いとして、お衣をお与えになると、父の大臣は席を立ってこれを受け取り、右の肩にかけ、院を拝んだ。その面目は、並ぶものも少ないほどに見えた。そばの殿上人も、どれほど羨ましく思ったことだろう。内裏の女房たちには、『深山の木々の中の楊梅のように思われます』などと言われた方だ。すぐにも大臣や大将になるのを待っておられる方だと拝見したのに、今日、このようにすっかり身をやつされたお姿は、以前には思いもよらなかった。時が移れば変わるのが世の習いとはいいながら、哀れなことだ」

 そう言って袖を顔に押し当て、さめざめと泣いたので、大勢並んでいた那智籠もりの僧たちも、皆、打衣の袖をぬらした。

維盛入水

 三つの山への参詣を無事に終えると、浜宮という王子の御前から、小さな舟に棹を差し、万里に広がる青い海へ浮かんだ。

 はるか沖に、山成の島という所があった。

 そこへ舟を漕ぎ寄せさせ、岸に上がると、大きな松の木を削り、中将は名とその由来を書き付けた。

「祖父は太政大臣平朝臣清盛公、法名は浄海。父は内大臣左大将重盛公、法名は浄蓮。その子、三位中将維盛、法名は浄円。二十七歳。寿永三年三月二十八日、那智の沖で入水する」

 と書き付け、また舟に乗って、沖へ漕ぎ出した。

 思い切って進んだ道ではあったが、最期の時になると、心細く悲しくないことはなかった。

 時は三月二十八日のことなので、海の道ははるかに霞み渡り、悲しみを誘うありさまであった。

 ただ普通の春でさえ、暮れていく空はもの憂いのに、まして今日が最後なのだから、さぞ心細かったことだろう。

 沖の釣り舟が、波の中に消えていくように見えながら、やはり沈みきりはしないのを見ても、わが身のことを思ったのだろうか。

 仲間を一列に引き連れ、もう帰る時だと越路を目指して鳴いていく雁にも、故郷へことづてを頼みたく、蘇武が胡国で抱いた恨みまでも、思い残すところがなかった。

「それにしても、これはどうしたことだ。まだ妄執が尽きていないのだ」

 と思い返し、西に向かって手を合わせ、念仏を唱える心の中でも、

「もう、今この時が最後だということを、都でどうして知ることができよう。風の便りで届く知らせも、今か今かと待っているだろう。結局は隠しきれないのだから、この世にいない者になったと聞いて、どれほど嘆くだろうか」

 などと思い続け、念仏を止め、合わせた手を離し、聖に向かってこう言った。

「ああ、人は妻子というものを持つべきではなかった。この世で物思いをさせるだけでなく、後世に悟りを得る妨げにもなるとは、何と悔しいことだろう。今も思い出してしまう。このような思いを心の中に残しておくと罪が深いだろうから、懺悔するのだ」

 と言った。

 聖も哀れに思ったが、このままではいけないと思い、涙をぬぐい、何でもないように振る舞って、こう言った。

「まことに、そのようにお思いになることでしょう。身分が高くても低くても、恩愛の道は、どうすることもできないものです。中でも夫婦は、一夜枕を並べるのも五百生の宿縁と申しますので、前世からの契りは浅くありません。生きている者は必ず死に、会った者は必ず別れるのが、この浮世の習いです。枝の先の露と根元の雫のように、先に落ちるか後に落ちるかの違いはあっても、死に遅れ、先立つ別れが、結局ないことなどありましょうか。

あの驪山宮での秋の夕べの契りも、ついには心を砕くもとになり、甘泉殿での生前の恩愛にも、終わりがないわけではありません。松子や梅生にも、生涯の恨みがありました。等覚や十地の菩薩でさえ、なお生死の定めに従います。たとえ君が長生きする楽しみを誇られても、この嘆きからは逃れられません。たとえ百年の命を保たれても、この悲しみはまったく同じだとお思いください。

第六天の魔王という外道は、欲界の六天を自分のものとして領有し、中でもこの世界の生き物が生死の迷いを離れることを惜しんで、あるときは妻となり、あるときは夫となって、これを妨げます。一方、過去・現在・未来の諸仏は、すべての生き物を一人の子のようにお思いになり、極楽浄土の、二度と迷いに戻らない世界へ導き入れようとなさいます。妻子というものは、始まりのない、はるか昔から、生死の世界をさまよう絆となるため、仏は厳しくお戒めになるのです。

だからといって、お心を弱くお持ちになってはなりません。源氏の先祖、伊予入道頼義は、勅命によって奥州の夷、安倍貞任・宗任を攻めるため、十二年の間に人の首を斬ること、一万六千余人。そのほか、山野の獣や川の魚の命を絶つことは、幾千万とも数知れませんでした。それでも、最期のときに一念の菩提心を起こしたことによって、往生の願いを遂げたと聞いています。

とりわけ出家の功徳は莫大なので、前世からの罪はすべて消えたことでしょう。たとえ人が七宝の塔を立て、その高さが三十三天に達しても、一日の出家の功徳には及びません。また、百千年の間、百人の羅漢を供養した功徳も、一日の出家の功徳には及ばないと説かれています。罪の深かった頼義も、心が強かったために往生を遂げました。まして君には、これといった罪もおありにならないでしょうから、どうして浄土へ参れないことがありましょう。

そのうえ、この山の権現は、本地が阿弥陀如来でいらっしゃいます。初めの、三つの悪い世界がないという願いから、最後の、三法忍を得させるという願いまで、一つ一つの誓願は、どれも生き物を救うための願いです。中でも第十八の願には、『もし私が仏になったとき、十方の生き物が、心から信じて私の国に生まれたいと願い、わずか十度でも念仏を唱えたのに、その国に生まれられないなら、私は正しい悟りを得ない』と説かれていますから、一念、十念でも頼みとすることができます。ただ深く信じ、決して疑いをお持ちになってはなりません。

ほかに向けることのない一心の思いで、一度でも十度でもお唱えになるなら、弥陀如来は、六十万億那由多恒河沙のお体を縮め、丈六八尺のお姿となり、観音・勢至、無数の聖者、化仏や菩薩に百重、千重に囲まれ、音楽を奏で、歌をうたいながら、今すぐ極楽の東門を出て、お迎えに来てくださるでしょう。ご自身では、青い海の底に沈むとお思いになっても、紫の雲の上にお上りになるのです。成仏して迷いを離れ、悟りをお開きになったなら、娑婆の故郷に立ち帰り、妻子をお導きになるでしょう。『穢れた国に帰ってきて、人や天人を救う』ということに、少しも疑いをお持ちになってはなりません」

 そう言って、金物を打ち鳴らし、念仏を勧めた。

 中将は、ふさわしい導き手だと思い、たちまち妄念を改め、西に向かって手を合わせ、大声で念仏を百遍ほど唱えながら、

「南無」

 と唱える声とともに、海へ入った。

 与三兵衛入道も石童丸も、同じく仏の名を唱えながら、続いて海へ入った。

三日平氏

 舎人の武里も、同じく続いて海へ入ろうとしたが、聖が引き留めたので、どうすることもできなかった。

「どうして、そのように不心得にも、ご遺言に背こうとするのだ。身分の低い者は、やはり思慮が足りない。今はただ、後世をお弔いせよ」

 と泣きながら諭した。しかし、死に後れた悲しさに、亡き後の供養のことも思えず、舟底に伏して転げ回り、泣き叫んだ。そのありさまは、昔、悉達太子が檀特山に入られたとき、舎匿舎人がこんでい駒をいただいて王宮へ帰った悲しみも、これにはまさるまいと思われた。

 しばらくは舟を巡らせ、浮かび上がってこられるかと見ていたが、三人とも深く沈んで、姿は見えなかった。

 やがて経を読み、念仏を唱え、

「亡くなった御霊が、同じ仏の浄土へ往生されますように」

 と回向したのは、哀れであった。

 そのうちに夕日は西に傾き、海の上も暗くなったので、名残は尽きないと思いながらも、空になった舟を漕いで帰った。

 海を渡る舟の櫂から落ちる雫も、聖の袖から伝う涙も、どちらとも見分けられなかった。

 聖は高野へ帰って上った。

 武里は泣きながら八島へ参った。

 維盛の弟、新三位中将殿に手紙を取り出して差し上げると、

「ああ、つらいことだ。私がお頼りするほどには、あの方は私を思ってくださらなかったとは、悔しい。『池大納言のように、頼朝と心を通わせ、都へいらっしゃったのだろう』と、大臣殿も二位殿も、私たちにも心を隔てておられた。それなのに、那智の沖で身を投げておられたということなのだな。それなら、私たちを連れて一か所に沈んでくださればよいのに、あちらこちらに伏すことになるのが悲しい。おそばでおっしゃったことはなかったか」

 と尋ねた。

「申し上げよとのお言葉は、『西国で左中将殿が亡くなりました。一谷で備中守殿が討たれました。私までこのようになったので、どれほど心細くお思いになるだろうと、そのことばかりを心苦しく思っています』というものでした」

 と、唐皮や小烏のことまで詳しく申し上げると、

「今は、私も生き長らえられるとは思えない」

 と言って、袖を顔に押し当て、さめざめと泣いた。それはまことにもっともなことだと思われ、哀れであった。

 亡き三位中将殿にたいそうよく似ていたので、見る人は涙を流した。

 侍たちも集まり、ただ泣くほかに何もなかった。

 大臣殿も二位殿も、

「この人は池大納言のように頼朝と心を通わせ、都へ行ったのだろうと思っていたのに、そうではなかったのだ」

 と言って、今さらまた嘆き悲しんだ。

 四月一日、鎌倉の前兵衛佐頼朝は、正四位下に昇った。

 もとは従五位下であったのに、たちまち五階を越えて昇ったのは、見事なことであった。

 これは木曽左馬頭義仲を追討した恩賞だということであった。

 同じ月の三日、崇徳院を神として崇め申し上げようと、昔、合戦のあった大炊御門の先に社を建て、神をお移しする儀式が行われた。

 これは院のお指図によるもので、内裏の帝はご存じなかったということである。

 五月四日、池大納言頼盛が関東へ下った。兵衛佐殿は以前から使者を送り、

「あなたを軽く思うことは、まったくありません。ただ、亡き池殿がいらっしゃると存じています。亡き尼御前のご恩を、大納言殿にお返し申し上げましょう」

 と、たびたび誓状をもって伝えていたので、頼盛は一門と別れて都に残ったのであった。

「兵衛佐だけは、このように思ってくれても、ほかの源氏たちはどうであろうか」

 と、恐れおののくほかなく過ごしていたが、鎌倉から、

「亡き尼御前にお会いするつもりで、早くお目にかかりたく存じます」

 と伝えてきたので、大納言は下っていった。

 弥平兵衛宗清という侍がいた。

 代々仕える、特に重んじられた者であったが、一緒に下らなかった。

「どうしたのだ」

 と尋ねると、

「今度はお供いたすまいと思っています。その理由は、君はこうしていらっしゃいますが、ご一門の君達が西海の波の上に漂っておられることが心苦しく、まだ心が落ち着かないからです。少し心を落ち着けてから、後を追って参りましょう」

 と言った。

 大納言は不快に、また恥ずかしく思って、

「確かに、一門と別れて残ったことは、自分のことながら、立派だとは思わない。それでも、わが身は捨てがたく、命も惜しいので、なまじ残ってしまった。そのうえは、また下らずにいられるわけではない。はるかな旅に出るのに、どうして見送らずにいられよう。気に入らないと思うなら、都に残ったときに、なぜそう言わなかったのだ。大小どんなことも、ひたすらお前に相談していたのに」

 と言った。宗清は座り直し、かしこまってこう答えた。

「身分が高くても低くても、人の身に命ほど惜しいものがありましょうか。また、世は捨てても、身は捨てないと申します。お残りになったことが悪いというのではありません。兵衛佐も、はかない命をお助けいただいたからこそ、今日、このような幸運に巡り合ったのです。流罪になったとき、亡き尼御前のご命令で、私が篠原の宿までお送りしたことなどを、今も忘れていないと聞いていますので、きっとお供して下れば、贈り物やもてなしなどもあるでしょう。

そのことにつけても、心苦しく思うことでしょう。西国にいらっしゃる君達や侍たちが伝え聞くことが、重ね重ね恥ずかしく思われますので、ぜひ今度だけは残らせていただきます。君は都に残って、このように暮らしておられるのですから、どうしてお下りにならずにいられましょう。はるかな旅にお向かいになることは、まことに心配に思いますが、敵を攻めにお下りになるなら、真っ先に一陣におりますけれども、これは私が参らなくても、お困りになることは決してありません。兵衛佐がお尋ねになったら、病気のためとおっしゃってください」

 そう言ったので、心ある侍たちは、これを聞いて皆、涙を流した。

 大納言も、さすがに恥ずかしくは思ったが、だからといって残れるわけでもないので、すぐに出発した。

 同じ月の十六日、鎌倉に着いた。

 兵衛佐は急いで対面し、まず、

「宗清はお供していますか」

 と尋ねた。

「折悪しく病気で、下っておりません」

 と答えると、

「何ですと。どのような病気なのでしょう。何か思うところがあるのでしょう。昔、宗清のもとにいたとき、何かにつけて、めったにないほどよくしてくれたことを、今も忘れていませんので、きっとお供して下るだろう、早く会いたいと、懐かしく思っていたのに、恨めしくも下ってこないものです」

 と言って、所領を与える下文をたくさん用意し、馬や鞍、武具など、さまざまな物を与えようとしていた。有力な大名たちも、我も我もと贈り物を用意していたのに、下ってこなかったので、身分の高い者も低い者も、残念に思っていた。

 六月九日、池大納言は関東から都へ上った。

 兵衛佐は、

「しばらく、ここにいらしてください」

 と言ったが、

「都では、心配しているでしょう」

 と頼盛が言って急いで上ったので、兵衛佐は、荘園や私領は一か所も侵されてはならず、また大納言に戻されるべきだと、法皇に申し上げた。

 鞍を置いた馬三十頭、鞍のない馬三十頭と、長持三十棹に羽、金、染め物、巻絹などを入れて差し上げた。

 兵衛佐がこのようにもてなしたので、大名も小名も、我も我もと贈り物を差し上げた。

 馬だけでも三百頭に及んだ。

 命が助かっただけでなく、財産まで得て都へ帰っていった。

 同じ月の十八日、肥後守定能の伯父、平田入道定次を大将として、伊賀・伊勢両国の住人たちが近江国へ出兵したので、源氏の子孫たちが出向き、合戦をした。

 両国の住人たちは、一人も残らず討ち取られた。

 平家に代々仕える家人として、昔のよしみを忘れないのは哀れであったが、思い立つことは身のほどを越えていた。

 三日平氏とは、このことである。

 さて、小松三位中将維盛卿の妻は、風の便りのことづても途絶えて久しくなったので、

「どうなってしまわれたのだろう」

 と、心を痛めていた。

「月に一度などは、必ずお便りがあったものを」

 と待っていたが、春が過ぎ、夏も盛りになった。

「三位中将は、今は八島にもいらっしゃらない」

 と言う人がいると聞き、あまりに心配なので、何とかして八島へ人を送った。ところが、すぐにも戻らず、夏が過ぎて秋になった。

 七月の末に、その使いが帰ってきた。

 妻が、

「それで、どうでしたか、どうでしたか」

 と尋ねると、

「去る三月十五日の明け方、八島をお出になり、高野へ参られました。高野で髪を剃り、それから熊野へ参られたそうです。後世のことを十分にお祈りになり、那智の沖で身をお投げになったと、お供をした舎人の武里が話しておりました」

 と申し上げた。妻は、

「だからこそ、おかしいと思っていたのに」

 と言い、衣を頭からかぶって伏した。

 若君も姫君も、声を上げて泣き悲しんだ。

 若君の乳母の女房が、泣きながらこう言った。

「これは今さら、驚かれることではありません。以前から、お覚悟になっていたことです。本三位中将殿のように生け捕りにされ、都へお戻りになったなら、どれほどおつらいことでしょう。それを、高野で髪を剃り、熊野へ参り、後世のことを十分にお祈りになり、臨終に心を正しく保ってお亡くなりになったことは、嘆きの中での喜びです。ですから、安心できることだとお思いになるべきです。今は、どのような岩や木の間に暮らすことになっても、幼い方々をお育て申し上げようとお考えください」

 と、さまざまに慰め申し上げたが、悲しみをこらえて生き長らえられるとも見えなかった。

 すぐに尼になり、ひととおりの仏事を営み、後世を弔った。

藤戸

 鎌倉の兵衛佐は、これを伝え聞いて、

「ああ、隔てなくこちらへ来てくださったなら、命だけはお助けしたものを。小松内府のことは、軽く思ってはいない。その理由は、亡き池の禅尼の使いとして、頼朝の罪を流罪に軽くするよう申し上げてくださったのは、ひとえにあの内府のご恩だったからだ。その恩をどうして忘れられよう。だから、ご子息たちを疎遠には思わない。まして出家などなさった後なら、何の問題があろうか」

 と言った。

 さて、平家は讃岐の八島へ帰った後、

「東国から、新手の兵数万騎が都に着き、攻め下ってくる」

 とも聞こえた。

「鎮西からは、臼杵、戸次、松浦党が心を合わせ、海を渡ってくる」

 とも言い合った。

 あれを聞いても、これを聞いても、ただ驚き、恐れおののくほかなかった。

 このたび一谷では、一門の人々が、残る者も少ないほどに討たれ、主だった侍たちも半数を超えて滅びた。

 今は力も尽き果て、阿波民部大夫重能の兄弟が、四国の者たちを誘って、

「それでも」

 と言うのを、高い山や深い海のように頼りにした。

 女房たちは集まり、ただ泣くほかに何もなかった。

 こうして七月二十五日になった。

「去年の今日は、都を出たのだった。ほどなく、また巡ってきた」

 と言い、驚きあわてたときのことを語り出して、泣いたり笑ったりした。

 同じ月の二十八日、新帝の即位があった。

 内侍所も神璽も宝剣もない即位の例は、神武天皇以来、八十二代の間で、これが初めてだと聞いている。

 八月六日、除目が行われ、蒲冠者範頼は参河守となった。

 九郎冠者義経は左衛門尉に任じられた。

 則使の宣旨を受け、九郎判官と呼ばれた。

 そのうち、荻の上を吹く風も次第に身にしみ、萩の下の露もいよいよ深くなった。恨めしそうに鳴く虫の声に稲の葉がそよぎ、木の葉が次々と散る様子は、物思いをしない者でさえ、深まっていく秋の旅の空に悲しくなるだろう。

 まして平家の人々の心の中は、どれほどであろうと推し量られ、哀れであった。

 昔は宮中で春の花を楽しみ、今は八島の浦で秋の月に悲しむ。

 澄み切った月を詠んでも、都の今夜はどうであろうと思いやり、心を澄まし、涙を流して日を送っていた。

 左馬頭行盛は、こう思いをつづけた。

 君が住んでおられるので、この月も宮中の月ではあるけれど、やはり恋しいのは都なのだ。

 同じ年の九月十二日、参河守範頼は平家追討のため、西国へ出発した。

 共に行った人々は、足利蔵人義兼、加賀美小次郎長清、北条小四郎義時、斎院次官親義。侍大将には、土肥次郎実平、子息の弥太郎遠平、三浦介義澄、子息の平六義村、畠山庄司次郎重忠、同じく長野三郎重清、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同じく五郎行重、小山小四郎朝政、同じく長沼五郎宗政、土屋三郎宗遠、佐々木三郎盛綱、八田四郎武者朝家、安西三郎秋益、大胡三郎実秀、天野藤内遠景、比気藤内朝宗、同じく藤四郎義員、中条藤次家長、一品房章玄、土佐坊正俊。これらをはじめとして、合わせて三万余騎が都を出て、播磨の室に着いた。

 平家方は、大将軍が小松新三位中将資盛、同じく少将有盛、丹後侍従忠房。侍大将は、飛騨三郎左衛門景経、越中次郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清をはじめとして、五百余艘の軍船に乗り、備前の小島に着くということが聞こえた。そこで源氏は室を出て、こちらも備前国の西河尻、藤戸に陣を取った。

 源氏と平家の陣の間は、海の上で五町ほど隔たっていた。

 舟がなければ簡単に渡る方法がなかったので、源氏の大軍は向かいの山に泊まり、むなしく日数を送った。

 平家方からは、勇み立つ若者たちが小舟に乗り、舟を漕ぎ出させて扇を上げ、

「ここを渡ってこい」

 と招いた。

 源氏が、

「穏やかでないことだ。どうしよう」

 と言っているうちに、同じ月の二十五日の夜、佐々木三郎盛綱は浦の男を一人誘い、白い小袖、大口、白鞘巻などを与えて言いくるめ、

「この海に、馬で渡れそうな所はあるか」

 と尋ねた。男はこう答えた。

「浦の者は多くいますが、様子を知っている者はまれです。この私こそ、よく存じています。川の瀬のような所があり、月の初めには東にあり、月の末には西にあります。両方の瀬の間は、海の上で十町ほどありましょう。この瀬なら、お馬で簡単にお渡りになれるでしょう」

 そう言ったので、佐々木はたいそう喜び、自分の家子・郎等にも知らせず、その男と二人だけでひそかに抜け出した。裸になって、その瀬のような所を渡ってみると、なるほど、それほど深くはなかった。

 膝や腰、肩まで水に漬かる所もあり、髻がぬれる所もあった。

 深い所は泳いで、浅い所へ泳ぎ着いた。

 男はこう言った。

「ここから南は、北よりもはるかに浅うございます。敵が矢先をそろえて待っている所へ、裸ではお進みになれますまい。ここからお帰りください」

 そう言うと、佐々木は、

「なるほど」

 と言って戻ったが、

「身分の低い者は、深い思慮もないので、またほかの人に誘われて、様子を教えるだろう。私だけが知っていよう」

 と思い、その男を刺し殺し、首を斬り落として捨てた。

 同じ月の二十六日、辰の刻ごろ、平家はまた小舟に乗り、舟を漕ぎ出させ、扇を上げて、

「源氏よ、ここを渡ってこい」

 と招いた。

 佐々木は、様子を前もって知っていた。

 滋目結の直垂に黒糸威の鎧を着け、白蘆毛の馬に乗り、家子・郎等七騎と、さっと海へ乗り入れて渡った。

 大将軍の参河守が、

「あれを止めよ、引き留めよ」

 と言うと、土肥次郎実平は鞭と鐙で馬を急がせ、追いついた。

「どうしたのです、佐々木殿。物の怪がついておかしくなったのですか。大将軍の許しもないのに、勝手なことです。お止まりください」

 と言ったが、耳にも入れずに渡っていったので、土肥次郎も止めきれず、すぐに一緒に渡った。

 馬の胸から脇や胸懸まで水に漬かる所も、腹に届く所も、鞍の座る所を越す所もあり、深い所は泳がせ、浅い所へ上がった。

 大将軍の参河守は、これを見て、

「佐々木にだまされた。浅かったのだな。渡れ、渡れ」

 と命じたので、三万余騎の大軍が、皆、海へ乗り入れて渡った。

 平家方は、

「あっ、危ない」

 と言って舟を浮かべ、矢先をそろえ、矢を次々とつがえて引き絞り、激しく射た。

 源氏の兵たちはこれをものともせず、兜のしころを傾け、次々と平家の舟へ乗り移り、雄叫びを上げて攻め戦った。

 源氏と平家が入り乱れ、舟を踏み沈めて死ぬ者もいた。

 また、引き返させられて、あわてふためく者もいた。

 一日中戦い、夜になると、平家の舟は沖に浮かんだ。

 源氏は小島へ上陸し、人も馬も息を休めた。

 夜が明けると、平家は八島へ漕ぎ退いた。

 源氏は勇み立つ心はあっても、舟がないので、追って攻めることはできなかった。

「昔から今まで、馬で川を渡る兵はいるが、馬で海を渡ることは、天竺や震旦は知らないけれども、わが国では世にまれな例である」

 ということで、備前の小島を佐々木に与えたことが、鎌倉殿の御教書にも記されていた。

大嘗会沙汰

 同じ月の二十七日、都では九郎判官義経が検非違使五位尉に任じられ、九郎大夫判官と呼ばれた。

 そのうちに十月になった。

 八島では浦を吹く風も激しく、磯を打つ波も高かったので、兵も攻めてこず、商人が行き交うこともまれであった。都の便りも聞きたく思うところへ、どうしたことか空が曇り、霰が降り散り、いっそう消え入るような心地がした。

 都では大嘗会を行うということで、御禊の行幸があった。

 内弁は徳大寺左大将実定公が務めた。そのころ、内大臣でいらっしゃった。

 おととし、先帝の御禊の行幸では、平家の内大臣宗盛公が節下を務め、節下の幄屋に着いて、前に竜の旗を立てて座っておられた。その様子は、冠の着け方、袖の垂れ方、表袴の裾までも、ひときわ優れて見えた。

 そのほか、一門の人々で、三位中将知盛、頭中将重衡をはじめとする近衛の官人たちが、御綱に付き添っていたときには、また並ぶ者もなかった。

 今日は九郎判官義経が、先陣としてお供をした。

 木曽などとは違って京には慣れていたが、平家の中で選び残された者よりも、なお劣っていた。

 同じ年の十一月十八日、大嘗会が行われた。

 去る治承・養和のころから、諸国七道の民たちは、源氏に苦しめられ、平家に滅ぼされ、家やかまどを捨てて山林に入り、春には田畑を耕すことも忘れ、秋には収穫の仕事もできなかった。

 どうしてこのような大礼が行えようかと思われたが、そのままで済むことではないので、ひととおりの形を整えて行われた。

 参河守範頼が、そのまま続いて攻めていれば、平家は滅びたはずであったのに、室や高砂にとどまり、遊君や遊女を集め、遊び戯れてばかり月日を送った。

 東国の大名も小名も多かったが、大将軍の指図に従うものなので、どうすることもできなかった。

 ただ国の財が費やされ、民が苦しむばかりで、今年もすでに暮れた。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

PR

目次