山門御幸
寿永二年七月二十四日の夜半ごろ、法皇は按察使大納言資方卿の子息、右馬頭資時だけをお供に、ひそかに御所をお出になり、鞍馬へ御幸なさった。鞍馬寺の僧たちは、
「ここは、まだ都に近く、よくないでしょう」
と申し上げた。篠の峰、薬王坂などという険しい難所をお越しになり、横川の解脱谷にある寂場坊を御所となさった。僧たちが立ち上がり、
「東塔へ御幸なさるべきです」
と申し上げたので、東塔の南谷にある円融房を御所となさった。
こうして、僧たちも武士も、円融房をお守り申し上げた。法皇は仙洞を出て天台山へ、主上は宮殿を去って西海へ、摂政殿は芳野の奥へ行かれたという。女院や宮たちは、八幡、賀茂、嵯峨、太秦、西山、東山の片隅に身を寄せ、逃げ隠れていらっしゃった。平家は落ちていったが、源氏はまだ入れ替わっていなかった。すでにこの京は主のいない里となっていた。世の始まり以来、このようなことがあるとは思われない。聖徳太子の未来記にも、今日のことがどう書かれているか、知りたいものである。
法皇が天台山にいらっしゃると聞こえると、人々が駆け参った。そのころ入道殿と呼ばれたのは前関白松殿、当殿とは近衛殿である。太政大臣、左右大臣、内大臣、大納言、中納言、宰相、三位、四位、五位の殿上人など、すべて世間で一人前の人物と数えられ、官職や位階の昇進を望み、領地や職を持つほどの人で、漏れる者は一人もなかった。円融房には、あまりに多くの人々が参り集まり、堂の上も下も、門の外も内も、隙間なく満ちていた。山門の繁栄であり、門跡の面目と見えた。
同じ二十八日、法皇は都へお戻りになった。木曽が五万余騎でお守り申し上げた。近江源氏の山本冠者義高は、白旗を掲げ、先陣としてお供した。この二十余年、見られなかった白旗が、今日、初めて都へ入るのは、珍しいことだった。
そのころ十郎蔵人行家は宇治橋を渡って都へ入った。陸奥新判官義康の子、矢田判官代義清は、大江山を通って上洛した。摂津国や河内の源氏たちも、雲や霞のように多く、同じく都へ入り乱れた。およそ京の中には、源氏の軍勢が満ちていた。
勘解由小路中納言経房卿と、検非違使別当左衛門督実家が、院の殿上の簀子に控え、義仲と行家を召した。木曽は赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧を着け、厳物作りの太刀を帯び、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を脇に挟んでいた。兜は脱ぎ、鎧の高紐に掛けて控えていた。十郎蔵人は紺地の錦の直垂に緋威の鎧を着け、金造りの太刀を帯び、大中黒の矢を背負い、塗籠籐の弓を脇に挟んでいた。こちらも兜は脱いで高紐に掛け、ひざまずいて控えていた。
前内大臣宗盛公以下、平家の一族を討伐するようにと命じられた。二人は庭にかしこまり、承った。それぞれ宿所がないと申し上げた。木曽には、大膳大夫成忠の宿所、六条西洞院が与えられた。十郎蔵人には、法住寺殿の南殿という、萱の御所が与えられた。
法皇は主上が外戚の平家に連れ去られ、西海の波の上を漂っていらっしゃることをお嘆きになった。主上と三種の神器を都へお戻し申し上げるようにと、西国へ院宣を下されたが、平家はお従い申し上げなかった。
高倉院の皇子は、主上のほかに三人いらっしゃった。二の宮は皇太子にお立てしようと、平家がお誘い申し上げ、西国へ落ちていかれた。三の宮と四の宮は、都にいらっしゃった。同じ八月五日、法皇はこの宮たちをお迎えになった。まず五歳になられた三の宮に、
「こちらへ」
とおっしゃったが、法皇をご覧になって、ひどくむずかったので、
「早く、早く」
と、外へお出しになった。その後四歳になられた四の宮に、
「こちらへ」
とおっしゃると、少しもためらわず、すぐに法皇の膝の上へお寄りになり、たいそうなついていらっしゃった。法皇は涙をはらはらとお流しになり、
「本当に、縁のない子なら、このような老法師を見て、どうしてなつこうと思うだろう。この宮こそ、私の実の孫でいらっしゃる。亡き院の幼いころと、少しも違わないことよ。このような忘れ形見に、今まで会わずにいたとは」
と、涙を抑えきれずにいらっしゃった。浄土寺の二位殿は、その時はまだ丹後殿と呼ばれ、御前に仕えていたが、
「それでは、皇位をお譲りになるのは、この宮でございましょう」
と申し上げると、法皇は
「異存があろうか」
とおっしゃった。ひそかに占いをなさった時にも、
「四の宮が位にお就きになれば、百代の帝の御代までも、日本国の主でいらっしゃるでしょう」
と占って申し上げた。
御母は、七条修理大夫信隆卿の娘である。建礼門院がまだ中宮でいらっしゃった時、その御方に宮仕えをしていた。主上がしばしばお召しになったので、次々に多くの宮がお生まれになった。
信隆卿には娘が多くいらっしゃり、何とかして女御や后にお立てしたいと願っていた。人の家で白い鶏を千羽飼うと、その家から必ず后が出るという話があると、白い鶏を千羽そろえて飼っていた。そのためだろうか、この娘が多くの皇子をお生み申し上げた。
信隆卿は、内心ではうれしく思っていたが、平家にも気兼ねし、中宮にも恐れ申し上げて、お世話をすることもなかった。入道相国の北の方、八条の二位殿は、
「差し支えあるまい。私がお育て申し上げ、皇太子にお立てしよう」
と、改めて乳母たちを付け、お育て申し上げた。中でも四の宮は、二位殿の兄、法勝寺の執行能円法師の養い君でいらっしゃった。法印が平家とともに西国へ落ちていった時、あまりに慌てて、北の方も宮も京都に置いたまま下った。西国から急いで人を上らせ、
「妻よ、宮をお連れ申し上げ、よくよく気を付けて下ってきてください」
と申し伝えた。北の方はたいそう喜び、宮をお誘い申し上げ、西の七条にある所まで出た。女房の兄、紀伊守教光は、
「何かに取りつかれて、気が狂ったのですか。この宮のご運は、たった今、開けようとしているのに」
と、お引き止め申し上げた。その次の日、法皇からお迎えの車が参った。何事も、そうなるべくしてなるとは申しながら、四の宮にとっては、紀伊守教光はよく仕えた人と見えた。
しかし四の宮は位にお就きになった後、そのめでたい出来事を思い出されず、朝廷からの恩賞もないまま、教光は年月を過ごした。思いがあまりに募ったためだろうか、二首の歌を詠み、宮中へ落書をした。
ほととぎすよ、老蘇の森での夜半の昔を思い出し、一声鳴いておくれ。
夕顔の咲く宿にわが身の境遇を隠す私には、籠の中の山がらさえ、やはり羨ましい。
主上はこれをご覧になり、
「ああ、気の毒なことだ。そうか、まだ生きていたのだな。今日まで、この者のことに思い至らなかったのは、愚かだった」
そう言われて、教光は朝廷の恩賞を受け、正三位に叙せられたという。
名虎
同じ八月十日、院の殿上で除目が行われた。木曽は左馬頭となり、越後国を賜った。そのうえ、朝日の将軍という院宣を下された。十郎蔵人は備後守となった。木曽は越後を嫌ったので、伊予を賜った。十郎蔵人は備後を嫌ったので、備前を賜った。そのほか、源氏十余人が、受領、検非違使、靱負尉、兵衛尉となった。
同じ十六日、平家の一門百六十余人の官職が解かれ、殿上の名札から名前が削られた。その中で、平大納言時忠卿、内蔵頭信基、讃岐中将時実の三人は削られなかった。主上と三種の神器を都へお戻し申し上げるようにと、あの時忠卿へ、たびたび院宣を下されていたためである。
同じ八月十七日、平家は筑前国御笠郡の太宰府へ着かれた。菊池二郎高直は、都から平家のお供をしていたが、大津山の関を開けて差し上げようと、肥後国へ越えていった。そして、自分の城へこもり、何度呼んでも参らなかった。このころは、岩戸の諸卿、大蔵種直だけが仕えていた。九州二島の兵たちも、すぐに参るようにとの命令を承知したと申し上げながら、参らなかった。
平家は安楽寺へ参り、歌を詠み、連歌をして、お仕えになった。本三位中将重衡卿は、
住み慣れた古い都の恋しさは、神も、ご自身の昔を思い出してお分かりになるだろう。
人々はこれを聞き、みな涙を流された。
同じ二十日、都では、法皇の宣命によって、四の宮が閑院殿で位にお就きになった。摂政は、もとの摂政の近衛殿で、お替わりにならなかった。蔵人頭や蔵人を置き、人々はみな退出した。三の宮の乳母は泣き悲しみ、後悔したが、かいがなかった。天に二つの太陽はなく、国に二人の王はいないとはいうものの、平家の悪行によって、京と地方に、二人の王がいらっしゃった。
昔、文徳天皇は、天安二年八月二十三日にお亡くなりになった。御子の宮たちには、皇位を望んでいらっしゃる方が多く、ひそかに祈りを行っていた。一の御子の惟高親王は、小原皇子とも申し上げた。王者としての才能と度量をお持ちになり、天下の安危を手のひらの中で見通し、歴代の帝の御代の治乱を心に掛けていらっしゃった。それで、賢く聖なる帝という名もお得になるに違いない君と見えた。
二の宮の惟仁親王は、そのころの執柄、忠仁公の娘、染殿の后がお生みになった。一門の公卿が列をなしてお引き立て申し上げたので、こちらも、お退けしがたいことだった。一の宮には、先帝の政治を守り、皇位を継ぐ器量があった。二の宮には、政治の万事を補佐する臣下がいた。帝はどちらにも心を痛め、どちらにすべきかお迷いになっていた。
一の宮惟高親王の祈りを行うのは、柿本紀僧正信済といい、東寺の一の長者で、弘法大師の弟子だった。二の宮惟仁親王の祈りは、外祖父の忠仁公に仕える僧、比叡山の恵亮和尚が承った。互いに劣らない高僧たちなので、すぐには決まらないだろうと、人々はささやき合った。帝がお亡くなりになると、公卿たちが話し合った。
「そもそも、われら臣下の考えで選び、位にお就け申し上げるのは、どちらを採り、どちらを退けるかに私情があるように見える。万人が非難するだろう。それより、競馬と相撲の儀式を行って、その運を知り、勝敗によって皇位をお授け申し上げよう」
と、決定した。
同じ年の九月二日、二人の宮たちは右近馬場へお出になった。王公や公卿たちは、美しい衣の袂を装い、玉で飾ったくつわを並べ、雲のように重なり、星のように列をなした。これは世にもまれな、すばらしい出来事で、天下の壮観だった。日ごろ心を寄せ申し上げていた公卿や殿上人は、両方に分かれ、手を握り、心を砕いた。祈りを行う高僧たちも、どうしておろそかにすることがあろう。信済は東寺に壇を立て、恵亮は大内の真言院に壇を立てて祈った。恵亮が死んだと公表すれば、信済僧正も気を緩めるだろうと、恵亮和尚は、死んだと公表させ、心を尽くして祈った。
いよいよ十番の競馬が始まった。初めの四番は、一の宮惟高親王が勝たれた。後の六番は、二の宮惟仁親王が勝たれた。
すぐに相撲の儀式が行われることになった。惟高の御方からは、名虎右兵衛督といい、六十人分の力を現す、たいへんな人を出された。惟仁親王の御方からは、能雄少将といって、背が低く、ひどく小柄で、相手の片手にも対抗できそうに見えない人を、夢のお告げがあったと、願い出て出された。
名虎と能雄は寄り合い、激しく足先を取り合って、いったん退いた。しばらくして、名虎は能雄少将をつかんで持ち上げ、二丈ほど投げた。能雄は、そのまま立ち直り、倒れなかった。能雄もさっと寄り、「えい」と声を上げ、名虎をつかんで倒そうとした。名虎も同じく声を上げ、能雄を倒そうとした。どちらも劣っているとは見えなかった。しかし名虎は大きな男なので、上から圧倒した。
能雄が危なく見えたので、二の宮惟仁親王の御母、染殿の后は、櫛の歯が並ぶように、次々と使いを走らせ、
「こちらが、すでに負けそうに見えます。どうしましょう」
とおっしゃった。恵亮和尚は大威徳の法を修していたが、
「これは情けないことだ」
と、独鈷で自分の脳を突き砕き、乳に混ぜて護摩で焼き、黒い煙を立て、ひとしきり力を込めて祈った。すると、能雄は相撲に勝った。親王は位にお就きになった。清和の帝が、この方である。後には水尾天皇と申し上げた。
それ以来、山門では、ちょっとしたことにも、恵亮が脳を砕くと二人の帝が位に就き、尊意が智剣を振ると菅相が祈りを受け入れられたと伝えている。ただ、このことだけが法力によるものだったのだろうか。そのほかは、みな天照大神のお計らいだったと伺っている。
平家は西国で、このことを伝え聞いた。
「心穏やかではない。三の宮も四の宮も、お連れして落ちてくるべきだったのに」
と後悔した。平大納言時忠卿は、
「そうなれば、木曽が主君としてお仕え申し上げている高倉宮の御子が、位にお就きになるだろう。御乳母の讃岐守重秀が出家をおさせ申し上げ、お連れして北国へ落ちていった、その宮だ」
とおっしゃった。またある人々は、
「出家なさった宮を、どうして位にお就け申し上げられよう」
と言った。時忠は
「そうでもない。還俗した国王の例は、異国にも先例があるだろう。わが国では、まず天武天皇は、まだ東宮でいらっしゃった時、大伴皇子をはばかられ、髪を剃り、芳野の奥に隠れていらっしゃった。しかし大伴皇子を滅ぼし、ついには位にお就きになった。また孝謙天皇も、大きな菩提心を起こし、髪をおろされ、法基尼と申し上げたが、再び位に就かれ、称徳天皇と申し上げたではないか。まして、木曽が主君としてお仕え申し上げている還俗の宮なら、問題はあるまい」
とおっしゃった。
同じ九月二日、法皇は伊勢へ公卿の勅使をお立てになった。勅使は参議長教と聞いている。太上天皇が伊勢へ公卿の勅使を立てられることは、朱雀、白河、鳥羽の三代に先例があるが、これはみな出家以前だった。出家以後の例は、これが初めてと伺っている。
緒環
やがて筑紫では、内裏を造ることが話し合われたが、まだ都を置く所も決められなかった。主上は岩戸の諸卿、大蔵種直の宿所にいらっしゃった。人々の家は野や田の中にあったので、麻の衣を打ちはしなかったが、十市の里とも言えた。内裏は山の中だったので、あの木の丸殿もこのようだったろうと思われ、かえって優雅な趣もあった。
まず、宇佐宮へ行幸なさった。大宮司公道の宿所が皇居となった。社頭は、公卿や殿上人の居所となった。廊には五位、六位の官人、庭には四国、鎮西の兵たちが、甲冑を着け、弓矢を帯び、雲や霞のように多く並んでいた。古くなった朱塗りの玉垣が、再び飾られたように見えた。七日間こもって祈った、その明け方、大臣殿に夢のお告げがあった。御宝殿の扉が押し開けられ、たいそう気高い声で、
世の中の憂さを晴らす神は、宇佐にもいないのに、なぜ心を尽くして祈っているのだろう。
大臣殿は、はっと目を覚まし、胸が騒いだ。
それでも、と望みをかける心も、虫の声も、すっかり弱ってしまった秋の暮れであることよ。
という古歌を、心細そうに口ずさまれた。
やがて九月十日を過ぎた。荻の葉を裏返す夕嵐が吹き、独りで衣を着たまま寝る床では、下に敷く片袖も涙に濡れていた。深まる秋の悲しさは、どこでも同じとはいうものの、旅先では、いっそう耐えがたかった。九月十三夜は名月とされるが、その夜は、都を思い出す涙で、自分から月を曇らせ、はっきり見えなかった。宮中で月に思いを述べた夕べも、今のことのように思われた。薩摩守忠度は、
去年の今夜、月を一緒に見た友だけは、都で私を思い出しているだろうか。
修理大夫経盛は、
恋しいことよ。去年の今夜、夜通し契りを交わした人が思い出されて。
皇后宮亮経正は、
分け入ってきた野辺の露とともに消えることもなく、思いもしなかった里の月を見ていることよ。
豊後国は、刑部卿三位頼資卿の任国だった。子息の頼経朝臣を、代官として置いていた。京から頼経のもとへ、
「平家は神々にも見放され、君にもお見捨てになられ、帝都を出て、波の上を漂う落人となった。それを鎮西の者たちが受け入れ、もてなすのは、けしからぬことだ。当国では、従ってはならない。心を一つにして、追い出せ」
と命じて遣わされたので、頼経朝臣は、これを当国の住人、緒方三郎維義に命じた。
あの維義は、恐ろしいものの子孫だった。というのは、昔、豊後国の、山の片隅の里に女がいた。ある人の一人娘で、夫もいなかったが、そのもとへ、母にも知らせず、男が毎夜通っていた。年月を重ねるうちに、身ごもった。母はこれを不審に思い、
「お前のもとへ通うのは、どのような者なのか」
と尋ねた。
「来るのは見ますが、帰るのは分かりません」
と答えた。
「それなら、男が帰る時、しるしを付け、行き先をたどってみなさい」
と教えた。娘は母の教えに従った。朝帰る男は、水色の狩衣を着ていた。その襟首に針を刺し、賤の小手巻という糸巻きに糸をつないだ。延びていく糸をたどると、豊後国の中でも日向との境にある姥嶽という山の裾で、大きな岩屋の中へ続いていた。
女が岩屋の入り口に立って聞くと、大きなうめき声がした。
「私がここまで尋ねて参りました。お目にかかりたいのです」
と言うと、
「私は、人の姿ではない。お前が私の姿を見たら、肝も魂も身にとどまるまい。早く、早く帰れ。お前が身ごもっている子は、男の子だろう。弓矢や刀を取れば、九州二島に並ぶ者もあるまい」
と言った。女は、重ねて申し上げた。
「たとえ、どのようなお姿でも、これまでの親しい間柄を、どうして忘れられましょう。互いに姿を見たり、見せたりいたしましょう」
と言われ、
「それなら」
と、岩屋の中から、伏せた時の高さは五、六尺、尾から頭までは十四、五丈もありそうな大蛇が、身を揺り動かして這い出てきた。狩衣の襟首に刺したと思っていた針は、大蛇のあごに刺さっていた。女はこれを見て、肝も魂も身にとどまらないほど驚いた。連れていた従者十余人は、倒れ、取り乱し、叫んで逃げ去った。
女は帰り、ほどなく子を産むと、男の子だった。母方の祖父の大太夫は、育ててみようと養った。まだ十歳にもならないのに、体が大きく、顔が長く、背が高かった。七歳で元服させた。母方の祖父を大太夫というので、この子には大太と名づけた。夏も冬も、手足に大きなあかぎれができ、絶えず割れていたので、胝大太と呼ばれた。
あの大蛇は、日向国でお祀りされる、高知尾の明神の神体である。この緒方三郎は、あかがり大太の五代の子孫だった。このように恐ろしいものの子孫だったので、国司の命令を院宣と称し、九州二島へ回し文を送ると、主だった兵たちが維義に付き従った。
太宰府落
平家では、今は筑紫に都を定め、内裏を造ろうということになっていた。そこへ維義が謀反を起こしたと伝わり、これはどうしたことかと騒ぎになった。平大納言時忠卿は申し上げた。
「あの維義は小松殿の御家人です。小松殿のご子息のどなたかお一人が出向かれ、なだめてご覧になってはいかがでしょうか」
もっともだというので、小松の新三位中将資盛卿が五百余騎を率いて豊後国へ向かい、さまざまになだめられた。しかし維義は従わなかった。それどころか、
「今ここであなたを捕らえて閉じ込めることもできますが、大事の中の小事ですから、捕らえずにおいても何ほどのことがおできになるでしょう。早く太宰府へお帰りになり、皆さん一緒にどうとでもおなりください」
と言って追い返した。
維義は次男の野尻次郎維村を使者に立て、太宰府へこう申し送った。
「平家は深い恩を受けた主君でいらっしゃいますので、兜を脱ぎ、弓の弦を緩めて参るべきところです。しかし一院から、速やかに九国のうちから追い出し申し上げよとのご命令を受けています。急いでお出になってはいかがでしょうか」
これを受けた平大納言時忠卿は、紺織の袴に綵葛の直垂を着て立烏帽子をかぶり、維村を迎えて言われた。
「そもそも我が君は、天孫から四十九代目の正統、人王八十一代の帝でいらっしゃる。天照大神も正八幡宮も、我が君をお守り申し上げているに違いない。何より故太政大臣入道殿は、保元と平治の二度の反乱を鎮め、そのうえ鎮西の者たちを身内のように扱って召し使われた。東国や北国の賊どもが頼朝や義仲と示し合わせ、事を成し遂げたら国を任せよう、荘園を与えようと言っている。それを本当のことと思って、あの鼻豊後の命令に従うとは、あるまじきことだ」
豊後国司の刑部卿三位頼資卿は、たいそう鼻が大きかったので、このように言われたのである。
維村が帰って父にこのことを告げると、維義は、
「これはどうしたことだ。昔は昔、今は今だ。そのような態度なら、速やかに九国のうちから追い出し申し上げよ」
と言い、兵をそろえていると伝わった。そこで平家の侍、源太夫判官季定と摂津判官守澄は、
「このままでは、今後、同輩たちのためにもけしからぬことです。捕らえましょう」
と言って三千余騎を率い、筑後国の高野本庄へ向かって一日一夜攻め戦った。しかし維義の軍勢は雲や霞のように幾重にも重なっていたので、力が及ばず退いた。
平家は緒方三郎維義が三万余騎を率いてすでに攻め寄せていると聞くと、取る物も取りあえず太宰府を落ちていかれた。あれほど頼りにしていた天満天神の注連縄の辺りを、心細い思いで離れた。駕輿丁もいないので葱花鳳輦は名ばかりで、主上は腰輿にお乗りになった。国母をはじめ身分の高い女房たちは袴の裾を取り、大臣殿以下の公卿や殿上人たちは指貫の裾を挟んで、水城の戸を出た。裸足で歩き、我先にと箱崎の津へ落ちていかれた。
折しも雨は車軸のように激しく降り、風は砂を巻き上げるほどだった。流れる涙と降る雨は見分けもつかなかった。住吉、箱崎、香椎、宗像を伏し拝み、ひたすら主上が旧都へお帰りになることを祈られた。たるみ山や鶉浜という険しい難所を越え、はるかに広がる平らな砂浜へ向かわれた。このようなことに慣れていらっしゃるはずもなく、足から流れた血が砂を染め、紅の袴はさらに色を増し、白袴は裾が紅になった。
あの玄奘三蔵が流沙や葱嶺を越えられた苦しみも、どうしてこれ以上であっただろう。しかしそれは仏法を求めるためだったので、自分にも他人にも功徳があっただろう。こちらは怨敵に追われてのことなので、来世の苦しみまで同時に思われるのが悲しい。
原田大夫種直は二千余騎を率いて平家のお供に参った。山鹿兵藤次秀遠も数千騎で平家を迎えに参ったが、種直と秀遠がひどく仲たがいしたので、種直はこのままではまずいことになると思い、途中から引き返した。あし屋の津という所を通り過ぎる時も、これは都から福原へ通った折の里と同じ名だからと、どの里よりも懐かしく感じられ、今さらながらしみじみとした思いを催された。
新羅、百済、高麗、契丹、雲の果て、海の果てまでも逃れていきたいと思われたが、波風が逆らってかなわなかった。そこで兵藤次秀遠に伴われて山賀城にこもられた。山賀へも敵が攻め寄せると聞くと、小舟に乗って夜通し渡り、豊前国の柳浦へお着きになった。ここでも内裏を造ろうという話になったが、それだけの力がなく造られなかった。また長門から源氏が攻め寄せると聞き、漁師の小舟に乗って海上へ出られた。
小松殿の三男、左中将清経は、もともと何事も深く考え込む人だったので、
「都では源氏に攻め落とされ、鎮西では維義に追い出される。網にかかった魚のようなものだ。どこへ行けば逃れられよう。生き長らえていける身でもない」
と言い、月の出ている夜に心を澄まし、舟の屋形に出て横笛の音取を吹き、朗詠をして楽しまれた。その後、静かに経を読み、念仏を唱えて海に身を沈められた。男も女も泣き悲しんだが、どうすることもできなかった。
長門国は新中納言知盛卿の任国だった。目代は紀伊刑部大夫通資という者だった。平家が小舟にお乗りになっていると聞き、大船百余艘を徴発して差し出した。平家はこれに乗り移り、四国の地へ渡られた。重能が取り仕切って四国内の人々を動員し、讃岐の八島に形ばかりの板屋の内裏や御所を造らせた。その間は、粗末な民家を皇居にするわけにもいかず、船を御所と定められた。
大臣殿以下の公卿や殿上人たちは、漁師の蓬屋で日を送り、賤しい者の寝床で夜を重ねた。龍頭鷁首の船を海上に浮かべ、波の上の仮の御所には静かな時もなかった。月を映す潮のように深い憂いに沈み、霜に覆われた葦の葉のように脆い命を危ぶんだ。洲崎で騒ぐ千鳥の声は明け方の恨みを増し、そはるに当たる櫂の音は夜中に心を痛めた。遠くの松に白鷺が群れているのを見ては源氏が旗を揚げているのかと疑い、野雁が広い海で鳴くのを聞いては兵たちが一晩中船を漕いでいるのかと驚かれた。
晴れた日の山風が肌に吹きつけ、美しい眉や紅の顔の色も次第に衰えた。青い波が目に刺さり、異郷で故郷を思う涙は抑えられなかった。
緑の帳を垂らした紅の寝室に代わったのは、土をむき出しにした小屋の葦簾だった。香炉の煙とは違い、葦を燃やす家の粗末さにつけても、女房たちは尽きない物思いに沈んだ。血の涙を抑えることもできず、つややかな眉墨も乱れ、以前のその人とは見えないお姿だった。
征夷将軍院宣
そうするうちに、鎌倉の前右兵衛佐頼朝は、鎌倉にいながら征夷将軍の院宣を受けた。使者は左史生中原泰定という者だった。十月十四日に関東へ到着した。兵衛佐は言われた。
「頼朝は長年勅勘を受けていたが、今は武勇の名声が高まったため、ここにいながら征夷将軍の院宣を賜った。どうして私の邸でお受けすることができよう。若宮の社で頂戴しよう」
そう言って若宮へ参られた。
八幡は鶴岡に鎮座しておられた。地形は石清水と変わらず、回廊があり、楼門があり、十余町に及ぶ参道を見下ろしていた。
「さて、院宣は誰に受け取らせるべきか」
と相談した。三浦介義澄に受け取らせることになった。その理由は、義澄が、八箇国に名を知られた武人、三浦平太郎為継の子孫であることだった。そのうえ父の大介は、主君のために命を捨てた武士なので、その義明がいる黄泉の暗闇を照らすためだということだった。
院宣の使者泰定は、家子二人と郎等十人を連れていた。院宣は文袋に入れ、雑色の首に掛けさせていた。三浦介義澄も家子二人と郎等十人を連れていた。二人の家子は和田三郎宗実と比企藤四郎能員だった。十人の郎等は、大名十人が急きょ一人ずつ出して用意した。
三浦介はその日、濃い藍色の直垂に黒糸威の鎧を着て、厳物造りの大太刀を帯びていた。二十四本の大中黒の矢を背負い、滋籐の弓を脇に挟んで、兜を脱いで高紐に掛け、腰をかがめて院宣を受け取った。泰定は、
「院宣を受け取るのは、どのような人か。名乗られよ」
と言った。義澄は三浦介とは名乗らず、本来の名で三浦の荒次郎義澄と名乗った。
院宣は覧箱に入れられ、兵衛佐に差し上げられた。しばらくして覧箱が返された。重かったので泰定が開けてみると、砂金百両が入れてあった。若宮の拝殿で泰定に酒が勧められた。斎院次官親義が陪膳を勤め、五位の者一人が役送を勤めた。馬三匹が引き出され、そのうち一匹には鞍が置いてあった。大宮の侍、狩野工藤一臈資経がこれを引いた。
古い萱葺きの家を整え、泰定を入れた。厚綿の衣二着と小袖十枚を長持に入れて用意し、紺と藍摺と白の布を千反積んであった。酒や料理は豊富で美しかった。
翌日、泰定は兵衛佐の館へ向かった。内外に侍所があり、ともに十六間だった。外の侍所には家子や郎等が肩を並べ、膝を組んで座っていた。内の侍所には一門の源氏が上座に座り、末座には大名、小名が順に座っていた。泰定は源氏の人々よりも上座に据えられた。
しばらくして寝殿へ向かった。広廂に紫の縁の畳を敷いて、泰定を座らせた。上座には高麗縁の畳を敷き、御簾を高く上げさせて、兵衛佐殿が出てこられた。布衣に立烏帽子という姿だった。顔が大きく、背は低かった。容貌は優美で、言葉は明瞭だった。まず事情を一つ一つ述べられた。
「平家は頼朝の勢いを恐れて都を落ちた。その後に木曽冠者と十郎蔵人が入り、自分の手柄だという顔をして、官位を思いのままに得たうえ、与えられた国を嫌って申し出ている。けしからぬことだ。奥の秀衡は陸奥守になり、佐竹四郎隆義は常陸守になったと言って、頼朝の命令に従わない。急いで追討せよとの院宣を賜りたい」
左史生は申し上げた。
「このたび泰定も、臣従の名簿を差し上げたく存じますが、今は使者として参っています。まず都へ上り、それからすぐに書いて差し上げましょう。弟の史大夫重能も、同じことを申しています」
兵衛佐は笑って、
「今の頼朝の身では、皆さんから名簿を頂くなど思いもよらない。しかし、そう言われるのなら、そのように心得よう」
と言われた。泰定が、そのまま今日上洛したいと申し上げると、今日一日くらいは滞在するようにと言って留められた。
翌日、泰定は兵衛佐の館へ向かった。萠黄糸威の腹巻一領、白く仕立てた太刀一振り、滋籐の弓に野矢を添えたものを贈られた。馬十三匹が引き出され、そのうち三匹には鞍が置いてあった。家子、郎等十二人にも、直垂、小袖、大口、馬、鞍まで与えられ、荷を掛けた駄馬は三十匹になった。鎌倉を出て最初の宿から鏡宿まで、宿ごとに米十石ずつを置かれた。あまりに多かったので、施しに回したということだった。
猫間
泰定は都へ上り、院に参って、庭の中で関東の様子を詳しく申し上げた。法皇も感心され、公卿や殿上人もみな感嘆された。兵衛佐がこのように立派でいらっしゃるのに、都を守っていた木曽左馬頭は、立ち居振る舞いが無骨で、言葉遣いもひどく粗野だった。それも道理である。二歳から三十歳まで、信濃国の木曽という山里に住み慣れていたのだから、どうして洗練されていよう。
ある時、猫間中納言光高卿という人が、木曽に相談することがあって訪ねてこられた。郎等が、
「猫間殿が、お目にかかって申し上げたいことがあると、おいでになっています」
と告げると、木曽は大いに笑って、
「猫が人に面会するのか」
「この方は猫間中納言殿という公卿でいらっしゃいます。お住まいの名だと思われます」
と郎等が申し上げたので、木曽は、
「それなら」
と言って対面した。それでも猫間殿とは言えず、
「猫殿が珍しくおいでになったのだから、食事を用意せよ」
と言った。中納言はこれを聞いて、
「今、頂くには及びません」
と言われたが、木曽は、
「どうしてだ。せっかくおいでになったのに、何も出さずにいられようか」
と言った。新しい物は何でも無塩というのだと思い込んで、
「ここに無塩の平茸がある。早く、早く」
と急がせた。根井小弥太が陪膳を勤めた。田舎の合子で、たいそう大きく深い器に、飯を山盛りによそい、おかず三種と平茸の汁を添えて差し上げた。木曽の前にも同じように置いてあった。木曽は箸を取って食べた。猫間殿はその合子が気味悪くて召し上がらなかったので、木曽は、
「それは義仲が精進に使う合子だ」
と言った。中納言は食べないのもさすがに失礼だろうと思い、箸を取って食べるふりをされた。木曽はこれを見て、
「猫殿は小食でいらっしゃるな。よくいう猫おろしで、上だけ食べて残しておられる。召し上がれ」
としつこく勧めた。中納言殿はこうしたことで興をそがれ、相談しようとしていたことも一言も口にせず、そのまま急いで帰られた。
木曽は、官位を上げられた者が直垂で出仕するわけにはいかないと、初めて布衣を着た。装束は烏帽子の際から指貫の裾まで、まことにぎこちなかった。それでも身をかがめて車に乗った。鎧を着け、矢を背負い、弓を持って馬に乗った姿とは似ても似つかず、見苦しかった。牛車は八島の大臣殿の牛車で、牛飼もその時の者だった。その時の世に従うのが習いなので、捕らえられて使われていたが、あまりに気に障ったので、よく飼い肥やした優れた牛に、門を出る時、鞭を一つ当てた。これでは穏やかに進むはずもない。
牛は飛び出し、木曽は車の中で仰向けに倒れた。蝶が羽を広げたように左右の袖を広げ、起きよう起きようとしたが、どうして起きられよう。木曽は牛飼とは言えず、
「やれ、小牛健児。やれ、小牛健児」
と言った。牛飼は車を進めろという意味だと受け取り、五、六町も走らせた。今井四郎兼平が鞭を当て、鐙で馬を急がせて追いつき、
「どうしてお車をこんなふうに扱うのだ」
と叱ると、牛飼は、
「牛の鼻が強く、言うことを聞きません」
と述べた。牛飼は仲直りをしようと思ったのだろうか、
「そちらにある手形につかまってください」
と申し上げた。木曽は手形にむんずとつかまり、
「見事な仕掛けだ。これは牛健児が工夫したのか、殿様方のしきたりなのか」
と尋ねた。
やがて院の御所に着き、牛から車を外させ、後ろから降りようとした。雑色として使っていた京の者が、
「車にお乗りになる時は後ろからお乗りになりますが、お降りになる時は前からお降りになるものです」
と申し上げた。しかし木曽は、
「車だからといって、どうして中を通り抜けなければならないのだ」
と言い、とうとう後ろから降りた。このほかにも滑稽なことは多かったが、人々は恐れて口に出さなかった。
水島合戦
平家は讃岐の八島にいながら、山陽道八箇国と南海道六箇国、合わせて十四箇国を攻め取った。木曽左馬頭はこれを聞き、放っておけないことだと、すぐに討手を差し向けた。討手の大将は矢田判官代義清、侍大将は信濃国の住人、海野弥平四郎行広だった。総勢七千余騎が山陽道へ駆け下り、備中国の水島の渡しに舟を浮かべ、今にも八島へ攻め寄せようとしていた。
同じ年の閏十月一日、水島の渡しに小舟一艘が現れた。漁師の舟か釣り舟かと思って見ると、そうではなく、平家方から書状を届けに来た使いの舟だった。これを見て、源氏は陸に引き上げていた五百余艘の舟を、大声を上げて海へ下ろした。平家は千余艘で押し寄せた。平家方の大手の大将軍は新中納言知盛卿、搦手の大将軍は能登守教経だった。
能登殿は言われた。
「おい、者ども、なぜ緩い戦い方をしているのだ。北国の連中に生け捕られるのを、情けないと思わないか。味方の船をつなぎ合わせよ」
そう言って、千余艘の船の艫綱と舳綱を組み合わせ、間に舫い綱を入れ、歩くための板を渡したので、船の上は平らになった。源平双方が鬨の声を上げ、矢を射交わし、互いの舟を押し寄せて激しく戦った。遠くの敵は弓で射、近くの敵は太刀で斬った。熊手で引っ掛けて捕らえる者も、捕らえられる者もいた。組み合って海へ落ちる者も、互いに刺し合って死ぬ者もいた。それぞれが思い思いに勝負した。
源氏方の侍大将、海野弥平四郎は討たれた。これを見た大将軍の矢田判官代義清は、主従七人で小舟に乗り、真正面へ進んで戦っていた。どうしたことか、舟を踏み沈めて全員死んでしまった。平家は鞍を置いた馬を船内に立たせていたので、船を寄せ、馬を引き下ろして乗り、泳がせて攻めかかった。源氏の軍勢は大将軍を討たれ、我先にと落ちていった。平家は水島の戦いに勝ち、ようやく会稽の恥をそそいだのであった。
瀬尾最期
木曽左馬頭はこれを聞き、放っておけないことだと、一万騎を率いて山陽道へ駆け下った。平家の侍で備中国の住人、瀬尾太郎兼康は、北国の戦いで加賀国の住人、蔵光次郎成澄に生け捕られ、成澄の弟の蔵光三郎成氏に預けられていた。名高い勇士で大力だったので、木曽殿は、惜しい男を失うことがあろうかと、斬らずにおいた。人をかばう心が優しく情け深かったので、蔵光も親切にもてなしていた。
蘇子卿が胡国に捕らわれ、李少卿が漢の朝廷へ帰れなかったようなものである。遠く異国の者に従うことは、昔の人も悲しんだことだといわれている。
革の腕覆いと毛織りの幕で風雨を防ぎ、臭い獣肉と乳の飲み物で飢えや渇きを満たす。
夜は眠ることもなく、昼は一日中仕えた。木を切り、草を刈ること以外は、何でも言われるままに働きながら、どうにか敵の隙をうかがって討ち、もう一度もとの主君にお目にかかろうと思っていた兼康の心の内は、恐ろしいものだった。
ある時、瀬尾太郎は蔵光三郎に会って言った。
「この五月から、取るに足りない命をお助けいただいておりますので、あなた方を他人と思うことなどできましょうか。今後合戦があれば真っ先に駆け、木曽殿に命を差し上げましょう。兼康が領有しておりました備中の瀬尾は、馬に食わせる草のよい所です。あなたがお申し出になって、頂いてください」
そう言ったので、蔵光はこのことを申し上げた。木曽殿は、
「殊勝なことを言うようだな。それならお前は、瀬尾を案内役にして、先に下れ。馬に食わせる草なども用意させよ」
と言われた。蔵光三郎はかしこまって喜び、三十騎ほどを率い、兼康を先頭にして備中へ下った。
瀬尾の嫡子、小太郎宗康は平家方にいた。父が木曽殿から暇を許されて下ると聞くと、長年の郎等を集め、五十騎ほどで迎えに上った。播磨の国府で父と出会い、一緒に下った。備前国の三石の宿に泊まると、瀬尾と親しい者たちが酒を持ってやって来た。その夜は一晩中、喜びの酒盛りをした。兼康を預かっていた武士、蔵光三郎とその従者、合わせて三十余人を酔いつぶれさせて起き上がれなくし、一人一人、全員を刺し殺した。
備前国は十郎蔵人の任国だった。その代官が国府にいたので、そこへも押し寄せて討った。
「兼康は暇を頂いて下ってきた。平家に忠義を尽くそうと思う人々は、兼康を先頭にして、木曽殿が下ってくるところへ矢の一つも射かけ申し上げよ」
と触れ回ると、備前、備中、備後の三箇国の武士たちが馳せ集まった。馬や武具、しかるべき従者を平家方へ送り、自分は休んでいた老人たちである。柿色の直垂に縮め紐を付ける者も、布の小袖の裾を左右にからげる者もいた。継ぎ合わせた鎖腹巻を着け、山靭や竹箙に少しばかりの矢を差して背負い、瀬尾のもとへ集まった。
総勢二千余人が瀬尾太郎を先頭に、備前国の福龍寺縄手の篠の迫に城郭を構えた。幅二丈、深さ二丈の堀を掘り、逆茂木を並べ、高い櫓を上げ、抱え楯を据えた。矢先をそろえ、今か今かと待ち構えていた。
十郎蔵人が備前国に置いていた代官が瀬尾に討たれたので、その下人たちは逃げて京へ上った。途中、播磨と備前の境の船坂という所で木曽殿に出会い、このことを申し上げた。木曽殿は、
「けしからぬ。斬り捨てておくべきだったものを」
と後悔された。今井四郎は申し上げた。
「だからこそ、あやつの面構えはただ者とは見えませんので、斬りましょうと千度も申し上げたのです。それをお助けになって」
と言った。
「考えてみれば、どれほどのことができよう。追いかけて討て」
と木曽殿は言われた。今井四郎は、
「まず下って見て参りましょう」
と言い、三千余騎で駆け下った。
福龍寺縄手は、弓杖で測って幅が一丈ほど、長さは西国道の一里だった。左右は深い田で、馬も足が立たないので、三千余騎の心は先へ進んでも、馬を一列に歩ませるしかなかった。兼平が押し寄せてみると、瀬尾太郎が櫓に出て、大声を上げた。
「この五月から今まで、取るに足りない命を助けてくださった皆様のご厚意には、このようにご用意しておきました」
そう言って、強弓を引く腕の優れた射手数百人を選りすぐり、矢先をそろえて、矢をつがえては弓を引き、激しく射た。顔を向けることもできなかった。
今井四郎をはじめ、樋口、楯、矢崎二郎、諏訪、藤沢という勇猛な武士たちは、兜の錣を傾けて矢を防ぎながら、射殺された人馬を引き寄せて堀に入れ、埋めた。大声を上げて激しく戦った。左右の深田へ馬を乗り入れ、馬の胸先まで、胸繋がすっかり浸かるほどまで、あるいは腹まで沈む所も気にせず、勢いをつけて攻め寄せる者もいた。谷が深いことも構わず駆け入る者もいて、一日中戦った。夜になると、瀬尾が集めた駆け武者たちはすべて攻め崩され、生き残る者は少なく、討たれる者が多かった。
瀬尾太郎は篠の迫の城郭を破られて退き、備中国の板倉河のほとりに掻楯を据えて待ち構えた。今井四郎がすぐに押し寄せて攻めると、山靭や竹箙に矢がある間は防いだが、すべて射尽くすと、我先にと落ちていった。瀬尾太郎は主従三騎だけになり、板倉河沿いをみそろ山の方へ逃げていった。
北国で瀬尾を生け捕りにした蔵光次郎成澄は、弟を討たれていたので、
「けしからぬことだ。瀬尾はまた生け捕りにしてみせよう」
と言い、一団を抜けて追っていった。一町ほどの距離まで追いつき、
「おい、瀬尾殿。卑怯にも敵に背を向けるものか。返せ、返せ」
と呼びかけた。瀬尾は板倉河を西へ渡っていたが、川の中で引き返し、待ち構えた。蔵光が駆けてきて馬を並べ、むんずと組みついて、二人はどっと落ちた。互いに劣らない大力なので、上になり下になりして転がり合い、川岸にある淵へ転げ込んだ。蔵光は泳げず、瀬尾は泳ぎの達人だったので、水底で蔵光を押さえつけ、鎧の草摺を引き上げた。刀の柄も拳も通れとばかりに三度刺し、首を取った。
自分の馬は乗れなくなっていたので、敵の蔵光の馬に乗って逃げていった。瀬尾の嫡子、小太郎宗康は馬に乗らず、郎等を連れて徒歩で逃げていた。まだ二十二歳の男だったが、あまりに太っていて、一町も走れなかった。武具を脱ぎ捨てて歩いても、追いつけなかった。父はこれを置き去りにし、十余町も逃げ延びた。
郎等に会うと、兼康は言った。
「兼康はいつもなら、千万の敵に向かって戦っても、四方が晴れ渡るように感じる。ところが今回は小太郎を捨ててきたせいか、先がまったく暗くて見えない。たとえ命を保って再び平家方へ参っても、仲間たちは、『兼康はもう六十を過ぎた者なのに、あとどれほどの命を惜しんで、たった一人の子を捨てて逃げたのだろう』と言うだろう。それが残念でならない」
郎等は申し上げた。
「だからこそ、お二人一緒にどうとでもおなりくださいと申し上げたのです。お戻りください」
そう言ったので、兼康は、
「それなら」
と引き返した。小太郎は足がひどく腫れて倒れていた。
「お前が追いつけないので、一緒に討ち死にしようと思って戻ってきた。どうだ」
と言うと、小太郎は涙をはらはらと流して、
「私は役に立たない者ですから、自害すべき身なのに、私のために父上のお命まで失わせてしまうのは、五逆罪に当たるのではないでしょうか。ただ、早く、早くお逃げください」
と申し上げた。兼康は、
「もう覚悟を決めたのだから」
と言い、休んでいた。そこへ今井四郎が先頭に立ち、五十騎ほどを率いて、大声を上げながら追ってきた。
瀬尾太郎は射残していた七、八本の矢を、つがえては引き、激しく射た。死んだか生きたかは分からないが、たちまち敵五、六騎を射落とした。その後、刀を抜いて、まず小太郎の首を斬り落とした。敵の中へ突入し、激しく戦って多くの敵を討ち取り、ついに討ち死にした。
郎等も主君に少しも劣らず戦ったが、重い傷をいくつも負い、戦い疲れて自害しようとしたところを生け捕られた。一日を置いて死んだ。この主従三人の首は、備中国の鷺が森に掛けられた。
木曽殿はこれをご覧になり、
「ああ、見事な勇士だ。このような者こそ、一人で千人に当たる武士というべきだろう。惜しい者たちを、生かして使ってみることもできずに」
と言われた。
室山
そうするうちに、木曽殿は備中国の万寿の庄で軍勢をそろえ、今にも八島へ攻め寄せようとしていた。その間、都の留守を任されていた樋口次郎兼光が使者を立て、
「十郎蔵人殿が、殿のお留守の間に院のお気に入りとなり、さまざまに讒言しているようです。西国での戦いはひとまずお置きになり、急いでお上りください」
と申し上げた。木曽は、
「それなら」
と、夜も昼も続けて駆け上った。十郎蔵人は、まずいことになると思ったのだろうか、木曽と行き違おうと丹波路を通って播磨へ下った。木曽は摂津国を経て都へ入った。
平家もまた木曽を討とうとした。大将軍は新中納言知盛卿と本三位中将重衡卿、侍大将は越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、伊賀平内左衛門家長だった。総勢二万余騎が千余艘の舟に乗って播磨へ渡り、室山に陣を取った。十郎蔵人は、平家と戦って木曽と仲直りしようと思ったのだろうか、五百余騎で室山へ押し寄せた。
平家は陣を五つに張った。第一陣は越中次郎兵衛盛嗣の二千余騎、第二陣は伊賀平内左衛門家長の二千余騎、第三陣は上総五郎兵衛忠光と悪七兵衛景清の二千余騎、第四陣は本三位中将重衡卿の三千余騎、第五陣は新中納言知盛卿の一万余騎で固めた。
十郎蔵人行家は五百余騎で大声を上げて攻めかかった。第一陣の越中次郎兵衛盛嗣は、しばらく相手をするように見せかけてから、中央をさっと開けて通した。第二陣の伊賀平内左衛門家長も同じように開けて通した。第三陣の上総五郎兵衛と悪七兵衛もともに開けて通した。第四陣の本三位中将重衡卿も開けて入れた。第一陣から第五陣まで、あらかじめ示し合わせていたので、敵を中に閉じ込め、一斉にどっと鬨の声を上げた。
十郎蔵人はもはや逃れる方角もなく、だまされたと思い、顔もそむけず、命も惜しまず、ここが最期と激しく戦った。平家の侍たちは、
「源氏の大将に組みつけ」
と言って我先に進んだが、さすがに十郎蔵人と馬を並べて組みつく武者は一騎もいなかった。新中納言がとりわけ頼りにしていた紀七左衛門、紀八衛門、紀九郎という武士たちは、そこでみな十郎蔵人に討ち取られた。
こうして十郎蔵人の五百余騎は、わずか三十騎ほどに減らされた。四方はすべて敵で、味方は少なかった。どうすれば逃げられるとも思えなかったが、覚悟を決め、雲や霞のように多い敵の中を突き破って通った。しかし自分は傷も負わず、家子、郎等二十余騎はほとんどが傷を負った。播磨国の高砂から船に乗って漕ぎ出し、和泉国の吹飯の浦へ着いた。そこから河内へ移り、長野城にこもった。
平家は室山と水島の二度の戦いに勝ち、いよいよ勢いを増したのであった。
鼓判官
京中は源氏の軍勢で埋まり、あちこちで略奪が行われていた。賀茂や八幡の御領も構わず、青田を刈って馬の草にした。人の倉を開けて物を取り、持って通る物を奪い、衣服を剥ぎ取った。
「平家が都にいた時は、六波羅殿といって、ただ全体として恐ろしかっただけだ。衣服を剥ぎ取ることまではなかったのに、平家から源氏に替わって、かえって悪くなった」
と人々は言った。
木曽左馬頭のもとへ、法皇から使者が来た。
「乱暴な行いを鎮めよ」
とのご命令だった。使者は壱岐守知親の子で、壱岐判官知康という者だった。天下に並ぶ者のない鼓の名手なので、当時の人は鼓判官と呼んでいた。木曽は対面すると、ご命令への返事もせず、まず、
「ところで、そなたを鼓判官というのは、万人に打たれたのか、張られたのか」
と尋ねた。知康は返事もせず、院の御所へ帰って、
「義仲は愚か者です。今にも朝敵となりましょう。急いで追討をお命じください」
と申し上げた。法皇は、そうかと思い立たれた。それならしかるべき武士にお命じになればよいのに、山の座主と寺の長吏に仰せ付け、山と三井寺の荒法師たちを召された。公卿や殿上人が集めた兵力というのは、向礫や印地の石合戦をする者、取るに足りない辻冠者たち、乞食法師たちだった。
法皇が木曽左馬頭を不快に思われていると伝わると、初め木曽に従っていた五畿内の者たちはみな背き、院方へ参った。信濃源氏の村上三郎判官代も木曽に背き、法皇のもとへ参った。
今井四郎は申し上げた。
「これはたいへんな一大事です。そうはいっても、十善の帝王に向かって、どうして戦うことができましょう。兜を脱ぎ、弓の弦を緩めて、降伏してお出になってください」
そう申し上げると、木曽は激しく怒った。
「私が信濃を出た時、小見と合田の戦いをはじめ、北国では砥浪山、黒坂、塩坂、篠原、西国では福龍寺縄手、篠の迫、板倉の城を攻めたが、まだ敵に背を向けたことはない。たとえ十善の帝王でいらっしゃっても、兜を脱ぎ、弓の弦を緩めて、降伏することなどできない。
そもそも都を守る者が、馬を一匹ずつ飼って乗ってはいけないのか。いくらでもある田を刈らせ、馬の草にしたからといって、法皇がむやみにおとがめになる理由があるか。兵糧米もないのだから、若い者たちが片隅で時々物を奪うのも、どうしてそれほどの過ちだろう。大臣家や宮々の御所へも押しかけるのなら、過ちであろうが。
これは鼓判官のたくらみだと思うぞ。その鼓めを打ち破って捨てよ。今度は義仲の最後の戦いとなるだろう。頼朝が伝え聞くこともある。よく戦え、者ども」
と言って出陣した。
北国の軍勢はみな逃げ下り、わずか六、七千騎しかいなかった。これまでの合戦で縁起がよいというので、七手に分けた。まず樋口次郎兼光を二千余騎で新熊野の方へ、搦手として差し向けた。残りの六手には、それぞれ今いる通りや小路から河原へ出て、七条河原で合流するようにと、合図を決めて出発した。
戦いは十一月十九日の朝だった。院の御所、法住寺殿にも、二万余人の軍兵がこもっていると伝わっていた。味方の笠標には松の葉を付けていた。木曽が法住寺殿の西門へ押し寄せて見ると、鼓判官知康が合戦の指揮を仰せ付かり、赤地の錦の直垂を着ていた。鎧はうまく着られず、兜だけをかぶっていた。兜には四天王の絵を描いて貼っていた。
御所の西の築垣の上に登って立ち、片手に鉾、片手に金剛鈴を持って、鈴を振り、時には舞うこともあった。若い公卿や殿上人たちは、くだらぬことだと、
「知康には天狗が取りついた」
と笑われた。
知康は大声を上げて、
「昔は宣旨を向かって読めば、枯れた草木も花を咲かせ、実を結び、悪鬼や悪神も従った。末の世だからといって、どうして十善の帝王に向かって弓を引くことができよう。お前たちの放つ矢は、かえって自分の身に当たるだろう。抜く太刀は自分の身を斬るだろう」
などと叫んだ。木曽は、
「そんなことを言うな」
と言い、どっと鬨の声を上げた。
そのうちに搦手へ遣わしていた樋口次郎兼光が、新熊野の方から鬨の声を合わせた。鏑の中に火を入れ、法住寺殿の御所へ射込んだ。折しも風は激しく、猛火が天へ燃え上がり、炎は空に隙間なく広がった。合戦を指揮していた知康は、人より先に逃げてしまった。指揮する者が逃げたので、二万余人の官軍も我先にと落ちていった。
あまりに慌て、弓を取る者は矢を忘れ、矢を取る者は弓を忘れた。長刀を逆さに突いて自分の足を刺し貫く者も、弓の弭を物に引っ掛けて外せず、捨てて逃げる者もいた。
七条の端は摂津国の源氏が固めていたが、その者たちも七条を西へ逃げていった。あらかじめ合戦の前から、
「落人が来たら、用意して打ち殺せ」
と御所から触れられていたので、京に住む者たちは屋根に上って楯を立て、屋根を押さえる石を集めて待ち構えていた。そこへ摂津国の源氏が逃げてきたので、
「あれ、落人だ」
と言って石を投げ、激しく打ちつけた。
「こちらは院方だ。間違えるな」
と言っても、
「そんなことを言わせるな。院宣なのだ。ただ打ち殺せ、打ち殺せ」
と打ち続けたので、馬を捨ててやっとのことで逃げる者も、打ち殺される者もいた。
八条の端は山の僧たちが固めていた。恥を知る者は討ち死にし、恥知らずな者は逃げていった。主水正親成は、薄青の狩衣の下に萠黄威の腹巻を着け、白葦毛の馬に乗って、河原を上流へ逃げていった。今井四郎兼平が追いかけ、首の骨を射抜いて馬から落とした。親成は清大外記頼業の子だった。
「明経道の博士が甲冑を着けるのは、あるまじきことだ」
と人々は言った。
木曽に背いて院方へ参った信濃源氏、村上三郎判官代も討たれた。これをはじめ、院方では近江中将為清と越前守信行も射殺され、首を取られた。伯耆守光長と子息の判官光経も、父子ともに討たれた。按察大納言資方卿の孫、播磨少将雅方も、鎧に立烏帽子で戦場へ出ておられたが、樋口次郎に生け捕られた。
天台座主明雲大僧正と寺の長吏円慶法親王も御所にこもっておられたが、黒煙がすでに迫ってきたので、馬に乗って急いで河原へ出られた。武士たちが激しく矢を射かけた。明雲大僧正も円慶法親王も馬から射落とされ、首を取られた。
豊後国司の刑部卿三位頼資卿も御所にこもっておられたが、火がすでに迫ったので、急いで河原へ逃げ出された。武士の下部たちに衣服をすべて剥ぎ取られ、真裸で立っておられた。十一月十九日の朝だったので、河原の風はさぞ冷たかっただろう。
三位の小舅に、越前法橋性意という僧がいた。その中間の法師が、合戦を見ようと河原へ出ていたが、三位が裸で立っておられるのを見つけ、
「なんとひどいことだ」
と走り寄った。この法師は白小袖を二枚着て、その上に衣を着ていた。それなら小袖も脱いでお着せすればよいものを、そうはせず、衣を脱いで投げ掛けた。三位は短い衣を素肌にそのままかぶり、帯もしなかった。後ろ姿はさぞ見苦しかっただろう。
白い小袖姿の法師を供に連れておいでになったが、急いで歩くこともせず、あちらこちらで立ち止まり、
「あれは誰の家だ。これはどのような者の宿所だ。ここはどこだ」
と道中で尋ねられたので、見ている人はみな手をたたいて笑い合った。
法皇は輿に乗り、よそへお移りになった。武士たちが激しく矢を射かけた。豊後少将宗長が木蘭地の直垂に折烏帽子でお供していたが、
「これは法皇のお出ましだ。間違えるな」
と言うと、武士たちはみな馬から下り、かしこまった。
「何者か」
とお尋ねがあったので、
「信濃国の住人、八島四郎行綱です」
と名乗って申し上げた。そのまま輿に手を掛け、法皇を五条内裏に閉じ込め申し上げ、厳しく警固した。
主上は池に舟を浮かべて乗っておられた。武士たちがしきりに矢を射かけたので、御船にいた七条侍従信清と紀伊守教光が、
「こちらには帝がいらっしゃる。間違えるな」
と言うと、武士たちはみな馬から下り、かしこまった。主上には閑院殿へお移りいただいた。その行幸の儀式の惨めさは、口にするのもかえって愚かしいほどだった。
法住寺合戦
院方にいた近江守源蔵人仲兼は、五十騎ほどで法住寺殿の西門を固めて防いでいた。そこへ近江源氏の山本冠者義高が駆けてきて、
「皆さんは、誰をかばおうと戦っておられるのですか。法皇も主上も、よそへお移りになったと伺っています」
と言った。仲兼は、
「それなら」
と、敵の大軍の中へ大声を上げて駆け入り、激しく戦って突き破った。主従八騎にまで減らされた。その八騎の中に、河内の草香党の加賀房という法師武者がいた。白葦毛の馬で、たいそう口の強いものに乗っていた。
「この馬はあまりに危なくて、乗っていられるとも思えません」
と申し上げると、蔵人は、
「さあ、それなら私の馬に乗り替えよ」
と言った。加賀房は尾の下が白い栗毛の馬に乗り替えた。一行は根井小弥太が二百騎ほどで待機していた河原坂の軍勢の中へ、大声を上げて駆け入った。そこで八騎のうち五騎が討たれ、主従三騎だけになった。加賀房は自分の馬が危ないからと主君の馬に乗り替えたが、そこでとうとう討たれた。
源蔵人の家子に、信濃次郎蔵人仲頼という者がいた。敵に隔てられて蔵人の行方が分からなくなっていたが、尾の下が白い栗毛の馬が走り出てきたのを見て、下人を呼び、
「ここの馬は源蔵人の馬に見える。もう討たれたのだろう。死ぬ時は一緒に死のうと約束したのに、別々の所で討たれるのは悲しい。この軍勢の中へ入られたと見たのか」
「河原坂の軍勢の中へ駆け入られたようです。ちょうどあの軍勢の中から、お馬も出てきました」
と下人が答えたので、仲頼は、
「それなら、お前は早くここから帰れ」
と言い、最期の様子を故郷へ言い送った。そしてただ一騎で敵の中へ駆け入り、大声を上げて名乗った。
「敦弥親王から九代の子孫、信濃守仲重の次男、信濃次郎蔵人仲頼、年は二十七歳。我こそはと思う者は寄ってこい。勝負しよう」
そう言って縦横に、四方へ、十文字に駆け破り、駆け回って戦った。多くの敵を討ち取り、ついに討ち死にした。
蔵人はこのことを夢にも知らず、兄の河内守と郎等一騎を伴い、主従三騎で南へ逃げていった。摂政殿は都の戦を恐れて宇治へお出になるところだったので、木幡山で追いつき申し上げた。摂政殿は木曽の残党かと思われ、車を止めて、
「何者か」
とお尋ねになったので、
「仲兼、仲信です」
と名乗って申し上げた。
「これはどうしたことだ。北国の賊かと思ったが、殊勝にも来てくれた。そばにいて警護せよ」
と仰せになったので、かしこまって承り、宇治の富家殿までお送り申し上げた。そのままこの人々は河内国へ落ちていった。
翌二十日、木曽左馬頭は六条河原に出て、前日に斬った首を並べて掛け、書き留めさせた。六百三十余人の首だった。その中には天台座主明雲大僧正と寺の長吏円慶法親王の首も掛けられていた。これを見る人で涙を流さない者はいなかった。木曽は七千余騎の馬の鼻を東へ向け、天も響き、大地も揺らぐほどに、三度鬨の声を上げた。京中はまた騒ぎになった。ただし、これは喜びの鬨の声だということだった。
故少納言入道信西の子息、宰相長教が、法皇のいらっしゃる五条内裏に参り、
「君に申し上げることがある。開けて通せ」
と言われた。しかし武士たちは通さなかった。どうすることもできず、ある小屋に入って急に髪をそり、僧となって墨染の衣と袴を着て、
「これなら何の差し支えがあろう。入れよ」
と言われると、その時は通した。御前へ参り、今度討たれた主な人々のことを詳しく申し上げた。法皇は涙をはらはらと流され、
「明雲が非業の死を遂げる者だとは、少しも思わなかった。今度は、命を落とすはずだった私の身代わりとなったのだ」
と、涙を抑えきれなかった。
同じ月の二十一日、木曽は家子と郎等を集めて相談した。
「さて、義仲は天下の君に向かって戦い、勝った。主上になろうか、法皇になろうか。主上になろうと思っても、子どもになるのはよくない。法皇になろうと思っても、僧になるのはおかしいだろう。よし、よし、それなら関白になろう」
そう言うと、書記として連れていた大夫房覚明が申し上げた。
「関白には、大織冠の子孫である藤原氏がおなりになります。殿は源氏でいらっしゃいますので、それはかないません」
「それでは仕方がない」
と言い、院の御厩別当に強引になり、丹波国を領有した。院が出家なさると法皇と申し上げることや、主上はまだ元服していない間、童形でいらっしゃることを知らなかったとは、情けないことである。前関白松殿の姫君を妻に迎え、強引に松殿の婿となった。
同じ十一月二十三日、三条中納言朝方卿をはじめ、公卿と殿上人四十九人の官職を止め、閉じ込めた。平家の時は四十三人を解官したのに、こちらは四十九人なので、平家の悪行を上回っていた。
そうするうちに、鎌倉の前兵衛佐頼朝は、木曽の乱暴を鎮めようと、弟の蒲冠者範頼と九郎冠者義経を京へ差し向けた。しかし木曽がすでに法住寺殿を焼き払い、院を捕らえ申し上げ、天下が闇になったと伝わったので、範頼と義経はすぐに上って戦うわけにはいかなかった。ここから関東へ事情を伝えようと、二人は尾張国の熱田の大宮司のもとにいらっしゃった。
このことを訴えようと、北面に仕えていた宮内判官公朝と藤内左衛門時成が尾張国へ駆け下り、事の次第を一つ一つ訴えた。九郎御曹司は、
「これは宮内判官が関東へ下るべきです。事情を知らない使者では、問い返された時に疑問が残りますから」
と言われたので、公朝は鎌倉へ駆け下った。戦を恐れて下人たちはみな逃げていなくなっていたので、十五歳になる嫡子の宮内所公茂を連れていた。
関東へ参ってこのことを申し上げると、兵衛佐は大いに驚き、
「まず鼓判官知康が不可解なことを言い出し、御所を焼かせ、高僧や貴僧の命を奪ったとは、けしからぬことだ。知康はすでに勅命に背いた者である。お召し使いになれば、また一大事が起こりましょう」
と早馬を使って都へ申し送られた。鼓判官は弁明しようと、夜も昼も続けて駆け下った。兵衛佐は、
「あやつを私に会わせるな。相手にするな」
と言われたが、知康は毎日、兵衛佐の館へ向かった。ついに面目を失い、都へ帰り上った。後には稲荷の辺りのある所で、ただ命だけをつなぎながら暮らしたということだった。
木曽左馬頭は平家方へ使者を送り、
「都へお上りください。一つになって東国を攻めましょう」
と申し送った。大臣殿は喜ばれたが、平大納言と新中納言は、
「いくら世が末になっているとはいえ、義仲と示し合わせて都へお帰りになるのは、あってはならないことです。十善の帝王が三種神器を帯びていらっしゃるのですから、兜を脱ぎ、弓の弦を緩め、降伏してこちらへ参れと仰せになるべきです」
と申し上げた。そのとおりに返事を送ったが、木曽は従わなかった。
松殿入道殿は木曽をご自分のもとへ召して、
「清盛公はあれほど悪行を働く人だったが、めったにないほどの善根を積んだので、世を穏やかに二十余年保ったのだ。悪行ばかりで世を保つことはないものを。これという理由もなく官職を止めた人々には、みな官職を戻すべきだ」
と仰せになった。木曽はまったくの荒夷のような者だったが、これには従い、解官した人々の官職を戻した。
松殿の御子、師家殿はその時まだ中納言中将でいらっしゃったが、木曽の計らいで大臣、摂政となられた。折しも大臣の席が空いていなかったので、そのころ内大臣だった徳大寺左大将実定公の席を借り、師家殿を内大臣にした。とかく人の口はうるさいもので、新摂政殿を「かるの大臣」と呼んだ。
同じ年の十二月十日、法皇は五条内裏を出られ、大膳大夫成忠の宿所である六条西洞院へお移りになった。同じ月の十三日、歳末の御修法が行われた。その後、叙位と除目が行われ、木曽の計らいによって、人々の官位は思いのままになった。
平家は西国で、兵衛佐は東国で、木曽は都で、それぞれ勢力を張っていた。前漢と後漢の間に、王莽が天下を奪い、十八年治めたようなものである。四方の関所がすべて閉じられたので、朝廷への貢ぎ物も納められず、秋の年貢も上ってこなかった。京中の身分の高い者も低い者も、みな水の少ない所にいる魚と変わらなかった。危うい状態のまま年が暮れ、寿永も三年となった。



