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『平家物語』第7巻 原文全文

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目次

清水冠者

 寿永(じゆえい)二年(にねん)三月(さんぐわつ)上旬(じやうじゆん)に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)と木曽(きそ)冠者(くわんじや)義仲(よしなか)、不(ふ)快(くわい)の事(こと)ありけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)木曽(きそ)追討(ついたう)のために、その勢(せい)十万(じふまん)余騎(よき)で、信濃国(しなののくに)へ発向(はつかう)す。木曽(きそ)は依田城(よだのしろ)にありけるが、これを聞(き)いて、依田(よだ)の城(しろ)を出(い)でて信濃(しなの)と越後(ゑちご)の境(さかひ)熊坂山(くまさかやま)に陣(ぢん)を取(と)る。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は同(おな)じき信濃国(しなののくに)、善光寺(ぜんくわうじ)に著(き)きたまふ。木曽(きそ)、乳母(めのと)子(こ)の今(いま)井(ゐ)四郎(しらう)兼平(かねひら)を使者(ししや)で、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許(もと)へ遣(つか)はす。

「いかなる子細(しさい)のあれば義仲(よしなか)討(う)たむとはのたまふなるぞ。御辺(ごへん)は東八箇国(とうはつかこく)を打(う)ち随(したが)へて、東海道(とうかいだう)より攻(せ)め上(のぼ)り、平家(へいけ)を追(お)ひおとさむとしたまふなり。義仲(よしなか)も東山北陸両道(とうさんほくろくりやうだう)を従(したが)へて、今(いま)一日(いちにち)も先(さき)に平家(へいけ)を攻(せ)め落(お)とさむとする事(こと)でこそあれ。なんの故(ゆゑ)に、御辺(ごへん)と義仲(よしなか)と中(なか)を違(たが)へて、平家(へいけ)に笑(わら)はれんとは思(おも)ふべき。ただし十郎蔵人(じふらうくらんど)殿(どの)こそ、御辺(ごへん)を恨(うら)むる事(こと)ありとて、義仲(よしなか)が許(もと)へおはしたるを、義仲(よしなか)さへすげなうもてなし申(まう)さむ事(こと)、いかがぞや候(さうら)へば、打(う)ち連(つ)れ申(まう)したり。全(まつた)く義仲(よしなか)においては、御辺(ごへん)に意趣(いしゆ)思(おも)ひ奉(たてまつ)らず」

 といひ遣(つか)はす。兵衛佐(ひやうゑのすけ)の返事(へんじ)には、

「今(いま)こそさやうにはのたまへども、たしかに頼朝(よりとも)討(う)つべき由(よし)謀反(むほん)の企(くはだ)てありと、申(まう)す者(もの)あり。それにはよるべからず」

 さて、土肥(どひ)、梶(かぢ)原(はら)を先(さき)として、既(すで)に討手(うつて)を差(さ)し向(む)けらるる由(よし)聞(き)こえしかば、木曽(きそ)まことに意趣(いしゆ)なき由(よし)を顕(あらは)さむがために、嫡子(ちやくし)清水(しみづ)冠者(くわんじや)義重(よししげ)とて、生年(しやうねん)十(じふ)一(いち)歳(さい)になる小冠者(こくわんじや)に、海野(うんの)、望月(もちづき)、諏訪(すは)、藤沢(ふぢさは)などいふ聞(き)こゆる兵(つはもの)どもをつけて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許(もと)へ遣(つか)はす。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、

「この上(うへ)はまことに意趣(いしゆ)なかりけり。頼朝(よりとも)未成人(みせいじん)の子(こ)を持(も)たず。よしよしさらば子(こ)にし申(まう)さむ」

 とて、清水(しみづ)冠者(くわんじや)を相具(あひぐ)して、鎌倉(かまくら)へこそ帰(かへ)られけれ。

北国下向

 さるほどに、木曽(きそ)、東山北陸両道(とうさんほくろくりやうだう)を随(したが)へて、五(ご)万(まん)余騎(よき)の勢(せい)にて既(すで)に京(きやう)へ攻(せ)め上(のぼ)る由(よし)聞(き)こえしかば、平家(へいけ)は去年(きよねん)よりして、

「明年(みやうねん)は、馬(むま)の草(くさ)飼(が)に附(つ)いて、軍(いくさ)あるべし」

 と披露(ひろう)せられたりければ、山陰(さんいん)、山陽(さんやう)、南海(なんかい)、西海(さいかい)の兵(つはもの)ども、雲霞(うんか)の如(ごと)くに馳(は)せ参(まゐ)る。東山道(とうさんだう)は近江(あふみ)、美濃(みの)、飛騨(ひだ)の兵(つはもの)どもは参(まゐ)ったれども、東海道(とうかいだう)は遠江(とほたふみ)より東(ひがし)は参(まゐ)らず、西(にし)は皆(みな)参(まゐ)ったり。北陸道(ほくろくだう)は若狭(わかさ)より北(きた)の兵(つはもの)ども一人(ひとり)も参(まゐ)らず。先(さき)づ木曽(きそ)冠者(くわんじや)義仲(よしなか)を追討(ついたう)してその後(のち)兵衛佐(ひやうゑのすけ)を討(う)たんとて、北陸道(ほくろくだう)へ討手(うつて)を遣(つか)はす。大将軍(たいしやうぐん)には小松三位中将(こまつのさんみのちゆうじやう)維盛(これもり)、越前(ゑちぜん)三位(さんみ)通盛(みちもり)、但馬守(たぢまのかみ)経正(つねまさ)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、参河守(みかはのかみ)知度(とものり)、淡路守(あはぢのかみ)清房(きよふさ)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、越中前司(ゑつちゆうのぜんじ)盛俊(もりとし)、上総大夫判官(かづさだいぶはうぐわん)忠綱(ただつな)、飛騨大夫判官(ひだだいぶはうぐわん)景高(かげたか)、高橋判官(たかはしはうぐわん)長綱(ながつな)、河内判官(かはちはうぐわん)秀国(ひでくに)、武蔵(むさし)三郎(さぶらう)左衛門(さゑもん)有国(ありくに)、越中(ゑつちゆう)二郎(じらう)兵衛(ひやうゑ)盛嗣(もりつぐ)、上総(かづさ)五郎(ごらう)兵衛(ひやうゑ)忠光(ただみつ)、悪七兵衛景清(あくしちびやうゑかげきよ)を先(さき)として、以上(いじやう)大将軍(たいしやうぐん)六人(ろくにん)、しかるべき侍(さぶらひ)三(さん)百(ひやく)四(し)十余人(じふよにん)、都合(つがふ)その勢(せい)十万(じふまん)余騎(よき)、寿永(じゆえい)二年(にねん)四月(しぐわつ)十七日(じふしちにち)辰(たつ)の一(いち)点(てん)に都(みやこ)を立(た)って、北国(ほくこく)へこそ趣(おもむ)きけれ。片(かた)道(みち)をたまはってければ、相坂(あふさか)の関(せき)より始(はじ)めて、路次(ろじ)にもて逢(あ)ふ権門勢家(けんもんせいか)の正税(しやうぜい)官物(くわんもつ)をも恐(おそ)れず、一々(いちいち)に皆(みな)奪(うば)ひ取(と)る。志賀(しが)、唐崎(からさき)、三河尻(みかはじり)、真野(まの)、高島(たかしま)、塩津(しほづ)、貝津(かひづ)の道(みち)の辺(ほとり)を、次第(しだい)に追捕(ついぶ)して通(とほ)りければ、人民(じんみん)こらへずして、山野(さんや)に皆(みな)逃散(てうさん)す。

竹生島詣

 大将軍(たいしやうぐん)維盛(これもり)、通盛(みちもり)は進(すす)みたまへども、副将軍(ふくしやうぐん)経正(つねまさ)、忠度(ただのり)、知度(とものり)、清房(きよふさ)などは、いまだ近江国(あふみのくに)塩津(しほづ)、貝津(かひづ)に引(ひ)かへたり。その中(なか)にも経正(つねまさ)は、詩歌(しいか)管絃(くわんげん)に長(ちやう)じたまへる人(ひと)なればかかる乱(みだれ)の中(なか)にも、心(こころ)を澄(す)まし、湖(みづうみ)の端(はし)に打(う)ち出(い)でて、遥(はるか)に澳(おき)なる島(しま)を見(み)渡(わた)し供(とも)に具(ぐ)せられたる藤兵衛(とうびやうゑ)有教(ありのり)を召(め)して、

「あれをばいづくといふぞ」

 と問(と)はれければ、

「あれこそ聞(き)こえ候(さうら)ふ竹生島(ちくぶしま)にて候(さうら)へ」

 と申(まう)す。

「げにさる事(こと)あり。いざや参(まゐ)らん」

 とて、藤兵衛(とうびやうゑ)有教(ありのり)、安衛門(やすゑもん)守教(もりのり)以下(いげ)、侍(さぶらひ)五六人(ごろくにん)召(め)し具(ぐ)して、小(こ)船(ふね)に乗(の)り、竹生島(ちくぶしま)へぞ渡(わた)られける。ころは卯月(うづき)中(なか)の八日(やうか)の事(こと)なれば、緑(みどり)に見(み)ゆる梢(こずゑ)には、春(はる)の情(なさけ)を残(のこ)すと覚(おぼ)え、澗谷(かんこく)の鶯舌(あうぜつ)の声(こゑ)老(お)いて、初音(はつね)床(ゆか)しき郭公(ほととぎす)、折(をり)知(し)り顔(かほ)に告(つ)げ渡(わた)る。松(まつ)に藤(ふぢ)なみさきかかってまことに面白(おもしろ)かりければ、急(いそ)ぎ船(ふね)より下(お)り、岸(きし)に上(うへ)ってこの島(しま)の景色(けしき)を見(み)たまふに、心(こころ)も詞(ことば)も及(およ)ばれず。かの秦皇(しんくわう)、漢武(かんぶ)、あるいは童男丱女(どうなんくわんぢよ)を遣(つか)はし、あるいは方士(はうし)をして不(ふ)死(し)の薬(くすり)を尋(たづ)ねたまひしに、蓬莱(ほうらい)を見(み)ずばいなや帰(かへ)らじといひて、徒(いたづら)に船(ふね)の中(なか)にて老(お)い、天水茫々(てんすいばうばう)として求(もと)むる事(こと)を得(え)ざりけん蓬莱洞(ほうらいどう)の有様(ありさま)もかくやありけんとぞ見(み)えし。ある経(きやう)の文(ふみ)にいはく、

「閻浮提(えんぶだい)の内(うち)に湖(みづうみ)あり、その中(なか)に金輪際(こんりんざい)より生(お)ひ出(い)でたる水精輪(すいしやうりん)の山(やま)あり、天女(てんによ)住(す)む所(ところ)」

 といへり。即(すなは)ちこの島(しま)のことなり。経正(つねまさ)、明神(みやうじん)の御前(おんまへ)につい居(ゐ)たまひつつ、

「それ大弁功徳天(だいべんくどくてん)は、往古(わうこ)の如来(によらい)、法身(ほつしん)の大士(だいし)なり。弁才妙音(べんざいめうおん)二(に)天(てん)の名(な)は、おのおの別(べつ)なりとはいへども、本地(ほんぢ)一体(いつたい)にして、衆生(しゆじやう)を済度(さいど)したまふ。一度(いちど)参詣(さんけい)の輩(ともがら)は、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)円満(ゑんまん)すと承(うけたまは)る。憑(たのも)しうこそ候(さうら)へ」

 とて、しばらく法施(ほふせ)参(まゐ)らせたまふに、漸々(やうやう)日(ひ)暮(く)れ、居待(ゐまち)の月(つき)指(さ)し出(い)でて、海上(かいしやう)も照(て)らし渡(わた)り、社壇(しやだん)も弥(いよいよ)輝(かがや)きて、まことに面白(おもしろ)かりければ、

 常住(じやうぢゆう)の僧(そう)ども、

「聞(き)こゆる御(おん)事(こと)なり」

 とて御(おん)琵琶(びは)を参(まゐ)らせたりければ、経正(つねまさ)これを弾(ひ)きたまふに、上原石上(じやうげんせきじやう)の秘曲(ひきよく)には、宮(みや)の中(なか)も澄(すま)み渡(わた)り、明神感応(みやうじんかんおう)に堪(た)へずして、経正(つねまさ)の袖(そで)の上(うへ)に、白竜(はくりゆう)現(げん)じて見(み)えたまへり。忝(かたじけな)なく嬉(うれ)しさの余(あま)りに、なくなくかうぞ思(おも)ひつづけたまふ。

ちはやぶる神(かみ)にいのりの叶(かな)へばや、しるくも色(いろ)のあらはれにけり。

 されば怨敵(をんてき)を目(め)の前(まへ)に平(たひ)らげ、凶徒(きようと)をただ今(いま)責(せ)め落(お)とさむ事(こと)も、疑(うたが)ひなしと悦(よろこ)んで、また船(ふね)に取(と)り乗(の)って、竹生島(ちくぶしま)をぞ出(い)でられける。

火打合戦

 木曽(きそ)義仲(よしなか)、みづからは信濃(しなの)にありながら、越前国(ゑちぜんのくに)火打城(ひうちがじやう)をぞ構(かま)へける。かの城郭(じやうくわく)に籠(こも)る勢(せい)、平泉寺(へいせんじ)長吏(ちやうり)斉明(さいめい)威儀師(ゐぎし)、稲津(いなづ)新介(しんのすけ)、斉藤太(さいとうだい)、林六郎(はやしろくらう)光明(みつあきら)、富樫(とがし)入道(にふだう)仏誓(ぶつせい)、土田(つちだ)、武部(たけべ)、宮崎(みやざき)、石黒(いしぐろ)、入善(にふぜん)、佐美(さみ)を始(はじ)めとして、六千余騎(ろくせんよき)こそ籠(こも)りけれ。火打本(ひうちもと)より究竟(くつきやう)の城郭(じやうくわく)なり。磐石(ばんじやく)峙(そばだ)ち回(めぐ)って、四方(しはう)に嶺(みね)を列(つら)ねたり。山(やま)を後(うし)ろにし、山(やま)を前(まへ)にあつ。城郭(じやうくわく)の前(まへ)には能美河(のみがは)、新道河(しんだうがは)とて流(なが)れたり。二(ふた)つの河(かは)の落合(おちあひ)に、大木(たいぼく)を伐(き)って逆茂木(さかもぎ)に曳(ひ)き、柵(しがらみ)をおびただしう掻(か)き上(あ)げたれば、東西(とうざい)の山(やま)の根(ね)に、水(みづ)塞(せ)きこうで湖(みづうみ)に向(む)へるが如(ごと)し。影(かげ)南山(なんざん)を浸(ひた)して青(あを)くして滉漾(くわうやう)たり。浪(なみ)西日(せいじつ)を沈(しづ)めて紅(くれなゐ)にして隠淪(いんりん)たり。かの無熱池(むねつち)の底(そこ)には、金銀(きんぎん)の砂(いさご)を敷(し)き、昆明池(こんめいち)の渚(なぎさ)には、とくせいの船(ふね)を浮(うか)べたり。この火打城(ひうちがじやう)の築池(つきいけ)には、堤(つつみ)をつき、水(みづ)を濁(にご)して、人(ひと)の心(こころ)を誑(たぶら)かす。船(ふね)なくしては輒(たやす)う渡(わた)すべきやうなければ、平家(へいけ)の大勢(おほぜい)、向(む)ひの山(やま)に宿(やど)して、徒(いたづら)に日(ひ)数(かず)を送(おく)る。城(しろ)の内(うち)にありける平泉寺(へいせんじ)長吏(ちやうり)斉明(さいめい)威儀師(ゐぎし)、平家(へいけ)に志(こころざし)深(ふか)かりければ、山(やま)の根(ね)を回(めぐ)って、消息(せうそく)を書(か)き、蟇目(ひきめ)の中(なか)に入(い)れて忍(しの)びやかに平家(へいけ)の陣(ぢん)へぞ射(い)入(い)れたる。

「かの湖(みづうみ)は往古(わうこ)の淵(ふち)にあらず、一旦(いつたん)山川(さんせん)を塞(せ)き上(あ)げて候(さうら)ふ。夜(よ)に入(い)り、足軽(あしがる)どもを遣(つか)はして、柵(しがらみ)を切(き)り落(お)とさせたまはば、水(みづ)はほどなく落(お)つべし。馬(むま)の足(あし)立(た)つ好所(かうしよ)で候(さうら)へば急(いそ)ぎ渡(わた)させたまへ。後矢(うしろや)は射(い)て参(まゐ)らせむ。これは、平泉寺(へいせんじ)長吏(ちやうり)斉明(さいめい)威儀師(ゐぎし)が申状(まうしじやう)」

 とぞ書(か)いたりける。大将軍(たいしやうぐん)大(おほ)きに悦(よろこ)び、やがて足軽(あしがる)どもを遣(つか)はして、柵(しがらみ)を切(き)り落(お)とす。おびただしう見(み)えつれども、げにも山川(さんせん)なれば水(みづ)はほどなく落(お)ちにけり。平家(へいけ)の大勢(おほぜい)暫(しば)しの遅々(ちち)にも及(およ)ばず、さと渡(わた)す。城(しろ)の内(うち)の兵(つはもの)ども暫(しば)し支(ささ)へて防(ふせ)ぎけれども、敵(かたき)は大勢(おほぜい)なり、御方(みかた)は無勢(ぶぜい)なりければ叶(かな)ふべしとも見(み)えざりけり。平泉寺(へいせんじ)長吏(ちやうり)斉明(さいめい)威儀師(ゐぎし)、平家(へいけ)に附(つ)いて忠(ちゆう)をいたす。稲津(いなづ)新介(しんのすけ)、斉藤太(さいとうだい)、林六郎(はやしろくらう)光明(みつあきら)、富樫(とがし)入道(にふだう)仏誓(ぶつせい)ここをば落(お)ちて、なほ平家(へいけ)を背(そむ)き加賀国(かがのくに)に引(ひ)き退(の)き、白山河内(はくさんかはち)に引(ひ)き籠(こも)る。平家(へいけ)やがて加賀(かが)に打(う)ち越(こ)えて、林(はやし)、富樫(とがし)が城郭(じやうくわく)二箇所(にかしよ)焼(や)き払(はら)ふ。何(いづこ)に面(おもて)を向(む)ふべしとも見(み)えざりけり。近(ちか)き宿々(やどやど)より飛脚(ひきやく)を立(た)ててこの由(よし)都(みやこ)へ申(まう)したりければ、大臣(おとど)殿(どの)以下(いげ)残(のこ)り留(とど)まりたまふ一門(いちもん)の人々(ひとびと)勇(いさ)み悦(よろこ)ぶ事(こと)なのめならず。

 同(おな)じき五月(ごぐわつ)八日(やうか)、加賀国(かがのくに)篠原(しのはら)にて勢汰(せいぞろ)へあり、軍兵(ぐんぴやう)十万(じふまん)余騎(よき)を二手(ふたて)に分(わ)けて大手(おほて)搦手(からめて)へ向(む)はれけり。大手(おほて)の大将軍(たいしやうぐん)は小松三位中将(こまつのさんみのちゆうじやう)維盛(これもり)、越前(ゑちぜん)三位(さんみ)通盛(みちもり)、侍大将(さぶらひだいしやう)には越中前司(ゑつちゆうのぜんじ)盛俊(もりとし)を始(はじ)めとして、都合(つがふ)その勢(せい)七万余騎(しちまんよき)、加賀(かが)と越中(ゑつちゆう)の境(さかひ)なる砥浪(となみ)山(やま)へぞ向(む)はれける。搦手(からめて)の大将軍(たいしやうぐん)は、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、参河守(みかはのかみ)知度(とものり)、侍大将(さぶらひだいしやう)には、武蔵(むさし)三郎(さぶらう)左衛門(さゑもん)を先(さき)として、都合(つがふ)その勢(せい)三万余騎(さんまんよき)、能登(のと)越中(ゑつちゆう)の境(さかひ)なる志保(しほ)の山(やま)へぞ懸(か)かられける。木曽(きそ)は越後(ゑちご)の国府(こくふ)にありけるが、これを聞(き)いて、五(ご)万(まん)余騎(よき)で馳(は)せ向(む)ふ。わが軍(いくさ)の吉(きち)例(れい)なればとて、七手(ななて)に作(つく)る。先(さき)づ叔父(をぢ)の十郎蔵人(じふらうくらんど)行家(ゆきいへ)、一(いち)万(まん)余騎(よき)で志保(しほ)山(やま)へぞ向(む)ける。仁科(にしな)、高梨(たかなし)、山田(やまだ)次郎(じらう)、七(しち)千(せん)余騎(よき)で北(きた)黒坂(くろさか)へ搦手(からめて)に差(さ)し遣(つか)はす。樋口(ひぐち)次郎(じらう)兼光(かねみつ)、落合(おちあひ)五郎(ごらう)兼行(かねゆき)七(しち)千(せん)余騎(よき)で南(みなみ)黒坂(くろさか)へ遣(つか)はしけり。一(いち)万(まん)余騎(よき)をば砥浪(となみ)山(やま)の口(くち)、黒坂(くろさか)のすそ、松長(まつなが)の柳原(やなぎはら)、茱萸木林(ぐみのきばやし)に引(ひ)き隠(かく)す。今(いま)井(ゐ)四郎(しらう)兼平(かねひら)、六千余騎(ろくせんよき)で鷲(わし)の瀬(せ)を打(う)ち渡(わた)し、日宮林(ひのみやばやし)に陣(ぢん)を取(と)る。木曽(きそ)わが身(み)は一(いち)万(まん)余騎(よき)で、をやべの渡(わた)をして、砥浪(となみ)山(やま)の北(きた)のはづれはにふに陣(ぢん)をぞ取(と)ったりける。

願書

 木曽(きそ)のたまひけるは、

「平家(へいけ)は定(さだ)めて大勢(おほぜい)なれば砥浪(となみ)山(やま)打(う)ち越(こ)えて、広(ひろ)みへ出(い)でて懸(か)け合(あ)ひの軍(いくさ)にてぞあらんずらむ。ただし懸(か)け合(あ)ひの軍(いくさ)は、勢(せい)の多少(たせう)による事(こと)なり。大勢(おほぜい)かさに懸(か)けて、取(と)り籠(こ)められては悪(あし)かりなん。先(さき)づ旗(はた)差(さ)を先(さき)だてて、白旗(しろはた)を差(さ)しあげたらば平家(へいけ)これを見(み)て、『あはや源氏(げんじ)の先陣(せんぢん)は向(む)ひたるは。定(さだ)めて大勢(おほぜい)にてぞあらん。左右(さいう)なう広(ひろ)みへ打(う)ち出(い)でて、敵(かたき)は案内者(あんないしや)、われらは無案内(むあんない)なり、取(と)り籠(こ)められては叶(かな)ふまじ。この山(やま)は四方(しはう)岩石(がんせき)であんなれば、搦手(からめて)へはよも回(めぐ)らじ、暫(しばら)く下(した)居(ゐ)て馬(むま)休(やす)まん』とて、山(やま)中(なか)にぞ下(した)居(ゐ)んずらん。その時(とき)義仲(よしなか)暫(しばし)会釈(えしやら)ふやうに持(も)ちなして、日(ひ)を待(ま)ち昏(くら)し、平家(へいけ)の大勢(おほぜい)を倶利迦羅谷(くりからだに)へ追(お)ひ落(お)とさうと思(おも)ふなり」

 とて先(さき)づ白旗(しろはた)三十旒(さんじゆうりう)、先立(さきだ)てて、黒坂(くろさか)の上(うへ)にぞ打(う)ち立(た)ったる。案(あん)の如(ごと)く平家(へいけ)これを見(み)て、

「あはや源氏(げんじ)の先陣(せんぢん)は向(む)ひたるは、定(さだ)めて大勢(おほぜい)ならん。左右(さいう)なう広(ひろ)みへ打(う)ち出(い)でなば、敵(かたき)は案内者(あんないしや)、われらは無案内(むあんない)なり。取(と)りこめられては悪(あし)かりなん。この山(やま)は四方(しはう)岩石(がんせき)であんなり。搦手(からめて)へはよも回(めぐ)らじ。馬(むま)の草(くさ)飼(が)水便(すいべん)どもによげなり、暫(しばら)く下(した)居(ゐ)て馬(むま)休(やす)まん」

 とて、砥浪(となみ)山(やま)の山(やま)中(なか)、猿(さる)の馬場(ばば)といふ所(ところ)にぞ下(した)居(ゐ)たる。木曽(きそ)は羽丹生(はにふ)に陣(ぢん)取(と)って、四方(しはう)をきっと見回(みまは)せば、夏(なつ)山(やま)の峯(みね)の緑(みどり)の木(き)の間(あひだ)より朱(しゆ)の玉垣(たまがき)ほのみえて、かたそぎ作(つく)の社(やしろ)あり。前(まへ)に鳥(とり)居(ゐ)ぞ立(た)ったりける。木曽(きそ)殿(どの)国(くに)の案内者(あんないしや)を召(め)して、

「あれは何(いづ)れの宮(みや)と申(まう)すぞ、いかなる神(かみ)を崇(あが)め奉(たてまつ)るぞ」

「あれは八幡(はちまん)でましまし候(さうら)ふ。やがてこの所(ところ)は八幡(はちまん)の御領(ごりやう)で候(さうら)ふ」

 と申(まう)す。木曽(きそ)殿(どの)大(おほ)きに悦(よろこ)びて、手書(てかき)に具(ぐ)せられたる大夫房(だいぶばう)覚明(かくめい)を召(め)して、

「義仲(よしなか)こそ、幸(さいはひ)に新八幡(しんはちまん)の御宝殿(ごほうでん)に近附(ちかづ)き奉(たてまつ)って、合戦(かつせん)を既(すで)に遂(と)げんとすれ。いかやうにも今度(こんど)の軍(いくさ)には相違(さうゐ)なく勝(か)ちぬと覚(おぼ)ゆるぞ。さらんにとては、かつは後代(こうだい)のため、かつは当時(たうじ)の祈祷(きたう)にも願書(ぐわんしよ)を一筆(いつぴつ)書(か)いて参(まゐ)らせばやと思(おも)ふはいかに」

 覚明(かくめい)、

「尤(もつとも)然(しか)るべう候(さうら)ふ」

 とて、馬(むま)より下(お)りて書(か)かんとす。覚明(かくめい)が為体(ていたらく)、あかぢの直垂(ひたたれ)に黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、黒漆(くろうるし)の太刀(たち)を帯(は)き、二十四(にじふし)差(さ)たる黒(くろ)ほろの矢(や)負(お)ひ塗籠籐(ぬりごめどう)の弓(ゆみ)脇(わき)に挟(はさ)み、甲(かぶと)をば脱(ぬ)ぎ高紐(たかひも)に懸(か)け、箙(えびら)より小硯(こすずり)畳紙(たたうがみ)取(と)り出(いだ)し木曽(きそ)殿(どの)の御前(おんまへ)に畏(かしこ)まって願書(ぐわんしよ)を書(か)く。あはれ文武(ぶんぶ)二道(にだう)の達者(たつしや)かなとぞ見(み)えにける。この覚明(かくめい)は、本(もと)儒家(じゆか)の者(もの)なり、蔵人(くらんど)道広(みちひろ)とて、勧学院(くわんがくゐん)にありけるが、出家(しゆつけ)して最乗坊(さいじやうばう)信救(しんきう)とぞ名(な)乗(の)りける。常(つね)は南都(なんと)へも通(かよ)ひけり。一(いち)とせ高倉宮(たかくらのみや)の園城寺(をんじやうじ)に入(い)らせたまひし時(とき)、牒状(てふじやう)を山(やま)奈良(なら)へ遣(つか)はしたりけるに、南都(なんと)の大衆(だいしゆ)返牒(へんてふ)をばこの信救(しんきう)にぞ書(か)かせたりける。

「清盛(きよもり)は、平氏(へいじ)の糟糠(さうかう)、武家(ぶけ)の塵芥(ぢんかい)」

 と書(か)いたりしを太政入道(だいじやうにふだう)大(おほ)きに怒(いか)って、

「その信救(しんきう)法師(ほふし)めが、浄海(じやうかい)を平氏(へいじ)のぬかかす、武家(ぶけ)のちりあくたと書(か)くべきやうはいかに。その法師(ほふし)め搦(から)め捕(とら)って、死罪(しざい)に行(おこな)へ」

 とのたまふ間(あひだ)、南都(なんと)をば逃(に)げて北国(ほくこく)へ落(お)ち下(お)り、木曽(きそ)殿(どの)の手書(てかき)して、大夫坊(だいぶばう)覚明(かくめい)とぞ名(な)乗(の)りける。その願書(ぐわんしよ)にいはく、

「帰命頂礼(きみやうちやうらい)、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は日域(にちゐき)朝廷(てうてい)の本主(ほんしゆ)、累世(るゐせい)明君(めいくん)の霊祖(れいそ)なり。宝祚(ほうそ)を守(かみ)らんがため、蒼生(さうせい)を利(り)せんがために、三身(さんじん)の金容(こんよう)を顕(あらは)し、三所(さんしよ)の権扉(ごんぴ)をおし排(ひら)きたまへり。爰(ここ)に頃(ころ)の年(とし)以来(いらい)、平相国(へいしやうこく)といふ者(もの)あり、四海(しかい)を管(くわん)領(りやう)して万民(ばんみん)を悩乱(なうらん)せしむ。これ既(すで)に仏法(ぶつぽふ)の怨(おん)、王法(わうぼふ)の敵(かたき)なり。義仲(よしなか)苟(いやしく)も弓馬(きうば)の家(いへ)に生(うま)れて、僅(わづか)に箕裘(ききう)の塵(ちり)を続(つづ)ぐ。かの暴悪(ばうあく)を案(あん)ずるに、思慮(しりよ)を顧(かへり)みるに能(あた)はず。運(うん)を天道(てんだう)に任(まか)せて、身(み)を国家(こくか)に投(な)ぐ。試(こころ)みに義兵(ぎへい)を起(お)して、凶器(きようき)を退(の)けんと欲(ほつ)す。然(しか)るを闘戦(とうせん)両家(りやうけ)の陣(ぢん)を合(あ)はすといへども、士卒(しそつ)いまだ一致(いつち)の勇(ゆう)を得(え)ざる間(あひだ)区々(くく)の心(こころ)恐(おそ)れたる所(ところ)に、今(いま)一陣(いちぢん)、旗(はた)を畳(かさ)ぬる戦場(せんぢやう)にして、忽(たちまち)に三所(さんしよ)和光(わくわう)の社壇(しやだん)を拝(はい)す。機感(きかん)の純熟(じゆんじゆく)、明(あきら)かなり、凶徒(きようと)誅戮(ちゆうりく)、疑(うたが)ひなし。歓喜(くわんぎ)の涙(なみだ)こぼれて、渇仰(かつがう)肝(きも)に染(そ)む。就中(なかんづく)に曾祖父(そうそふ)前陸奥守(さきのむつのかみ)義家朝臣(よしいへのあそん)、身(み)を宗廟(そうべう)の氏族(しぞく)に帰附(きふ)して、名(な)を八幡太郎(はちまんたらう)と号(がう)せしより以来(いらい)、門葉(もんえふ)たる者(もの)の帰敬(ききやう)せずといふことなし。義仲(よしなか)その後胤(こういん)として、首(かうべ)を傾(かたむ)けて年(とし)久(ひさ)し。今(いま)この大功(たいこう)を発(おこ)す事(こと)、譬(たと)へば嬰児(えいじ)の貝(かひ)を以(もつ)て巨海(こかい)を量(はか)り、蟷螂(たうらう)が斧(をの)を怒(いか)かして隆車(りゆうしや)に向(む)ふが如(ごと)し。然(しか)れども国(くに)のため、君(きみ)のためにしてこれを発(おこ)す、家(いへ)のため身(み)のためにしてこれを起(お)さず。志(こころざし)の至(いた)り神感(しんかん)天(てん)にあり。憑(たの)もしきかな、悦(よろこ)ばしきかな。伏(ふ)して願(ねが)くは、冥顕(めいけん)威(ゐ)を加(くは)へ、霊神(れいじん)力(ちから)を戮(あは)せて勝事(しようじ)を一時(いちじ)に決(けつ)し、怨(おん)を四方(しはう)に退(の)けたまへ。然(しか)らば則(すなは)ち丹祈(たんき)冥慮(めいりよ)に叶(かな)ひ、玄鑑(げんかん)加護(かご)をなすべくば、先(さき)づ一(いち)の瑞相(ずゐさう)を見(み)せしめたまへ。
寿永(じゆえい)二年(にねん)五月(ごぐわつ)十一日(じふいちにち) 源義仲(みなもとのよしなか)敬白(けいびやく)」

 と書(か)いて、わが身(み)を始(はじ)めて、十三人(じふさんにん)が上矢(うはや)の鏑(かぶら)を抜(ぬ)き、願書(ぐわんしよ)に取(と)り具(ぐ)して、大菩薩(だいぼさつ)の御宝殿(ごほうでん)にぞ納(をさ)めける。憑(たの)もしきかな、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の真実(しんじつ)の志(こころざし)二(に)なきをや遥(はるか)に照覧(せうらん)したまひけん、雲(くも)の中(なか)より山(やま)鳩(はと)三(み)つ飛(と)び来(き)たって源氏(げんじ)の白旗(しろはた)の上(うへ)に翩翻(へんぽん)す。昔(むかし)神功皇后(じんぐうくわうごう)新羅(しんら)を攻(せ)めさせたまひしに、御方(みかた)の戦(たたか)弱(よわ)く、異国(いこく)の軍(いくさ)強(つよ)くして、既(すで)にかうと見(み)えし時(とき)、皇后(くわうごう)天(てん)に御祈誓(ごきせい)ありしかば、霊鳩(れいきう)三(み)つ飛(と)び来(き)たって、楯(たて)の面(おもて)に顕(あらは)れて、異国(いこく)の軍(いくさ)敗(やぶ)れにけり。またこの人々(ひとびと)の先祖(せんぞ)、頼義(よりよし)の朝臣(あそん)、貞任(さだたふ)、宗任(むねたふ)を攻(せ)めたまひしにも、御方(みかた)の戦(たたか)弱(よわ)くして、凶徒(きようと)の軍(いくさ)強(つよ)かりしかば、頼義(よりよし)朝臣(あそん)敵(かたき)の陣(ぢん)に向(む)って、

「これは全(まつた)く私(わたくし)の火(ひ)にはあらず、神火(しんくわ)なり」

 とて火(ひ)を放(はな)つ。風(かぜ)忽(たちまち)に夷賊(いぞく)の方(かた)へ吹(ふ)き掩(おほ)ひ、貞任(さだたふ)が館(やかた)厨河(くりやがは)の城(しろ)焼(や)けぬ。その後(のち)軍(いくさ)敗(やぶ)れて貞任(さだたふ)、宗任(むねたふ)亡(ほろ)びにき。木曽(きそ)殿(どの)かやうの先蹤(せんしよう)を忘(わす)れたまはず、馬(むま)より下(お)り、甲(かぶと)を脱(ぬ)ぎ、手水(てうづ)鵜飼(うがひ)をして、今(いま)霊鳩(れいきう)を拝(はい)したまひけん心(こころ)の中(なか)こそ憑(たの)もしけれ。

倶利迦羅落

 さるほどに源平(げんぺい)両方(りやうはう)陣(ぢん)を合(あ)はす。陣(ぢん)のあはひ僅(わづか)に三町(さんぢやう)ばかりに寄(よ)せ合(あ)はせたり。源氏(げんじ)も進(まゐ)まず、平家(へいけ)も進(まゐ)まず。源氏(げんじ)の方(かた)より、精兵(せいびやう)十五(じふご)騎(き)楯(たて)の面(おもて)に進(まゐ)ませて、十五(じふご)騎(き)が上矢(うはや)の鏑(かぶら)を、平家(へいけ)の陣(ぢん)へぞ射(い)入(い)れたる。平家(へいけ)また策(さく)とも知(し)らず、十五(じふご)騎(き)を出(いだ)いて、十五(じふご)の鏑(かぶら)を射(い)返(かへ)す。源氏(げんじ)三(さん)十(じふ)騎(き)を出(いだ)いて、射(い)さすれば、平家(へいけ)三(さん)十(じふ)騎(き)を出(いだ)いて、三(さん)十(じふ)の鏑(かぶら)を射(い)返(かへ)す。五十(ごじふ)騎(き)を出(いだ)せば五十(ごじふ)騎(き)を出(いだ)し合(あ)はせ、百(ひやく)騎(き)を出(いだ)せば百(ひやく)騎(き)を出(いだ)し合(あ)はせ、両方(りやうはう)百(ひやく)騎(き)づつ陣(ぢん)の面(おもて)に進(まゐ)んだり。互(たがひ)に勝負(しようぶ)をせんと疾(はや)りけれども、源氏(げんじ)の方(かた)より制(せい)して、勝負(しようぶ)をせさせず。源氏(げんじ)はかやうにして日(ひ)を暮(く)し、平家(へいけ)の大勢(おほぜい)を倶利迦羅谷(くりからだに)へ追(お)ひ落(お)とさうとたばかりけるを、少(すこ)しも悟(さと)らずして、共(とも)に会釈(えしやら)ひ日(ひ)を暮(く)すこそはかなけれ。次第(しだい)に闇(くら)うなりければ北(きた)南(みなみ)より回(めぐ)れる搦手(からめて)の勢(せい)一(いち)万(まん)余騎(よき)、倶利迦羅(くりから)の堂(だう)の辺(ほとり)にまゐり合(あ)ひ、箙(えびら)の方立(ほうだて)打(う)ち敲(たた)き、鬨(とき)をどっとぞ作(つく)りける。平家(へいけ)後(うしろ)を顧(かへり)みければ、白旗(しろはた)雲(くも)の如(ごと)く差(さ)し上(のぼ)りあり。この山(やま)は四方(しはう)巌石(がんせき)であんなれば搦手(からめて)よもまはらじとこそ思(おも)ひつるに、こはいかにとて噪(さわ)ぎあへり。去(さ)るほどに、木曽(きそ)殿(どの)大手(おほて)より鬨(とき)の声(こゑ)をぞ作(つく)り合(あ)はせたまふ。松長(まつなが)の柳原(やなぎはら)、茱萸木林(ぐみのきばやし)に一(いち)万(まん)騎(き)引(ひ)かへたりける勢(せい)も、今(いま)井(ゐ)四郎(しらう)が六千余騎(ろくせんよき)で、日宮林(ひのみやばやし)にありけるも同(おな)じう鬨(とき)をぞ作(つく)りける。前後(ぜんご)四(し)万(まん)騎(き)が喚(をめ)く声(こゑ)、山(やま)も河(かは)もただ一度(いちど)に崩(くづ)るるとこそ聞(き)こえけれ。案(あん)の如(ごと)く平家(へいけ)、次第(しだい)に闇(くら)うはなる、前後(ぜんご)より敵(かたき)は攻(せ)め来(く)る、

「きたなしや返(かへ)せや返(かへ)せ」

 といふ族(やから)多(おほ)かりけれども、大勢(おほぜい)の傾(かたぶ)立(た)ちぬるは、左右(さいう)なう取(と)って返(かへ)す事(こと)難(かた)ければ、倶利迦羅谷(くりからだに)へ、われ先(さき)にとぞ落(お)としける。ま先(さき)に落(お)としたる者(もの)が見(み)えねば、この谷(たに)の底(そこ)に、道(みち)のあるにこそとて、親(おや)落(お)とせば子(こ)も落(お)とし、兄(あに)落(お)とせば弟(おとと)も続(つづ)く。主(ぬし)落(お)とせば家(いへ)子(こ)郎等(らうどう)落(お)としけり。馬(むま)には人(ひと)、人(ひと)には馬(むま)、落(お)ち重(おも)り落(お)ち重(おも)りさばかり深(ふか)き谷(たに)一(ひと)つを、平家(へいけ)の勢(せい)七万余騎(しちまんよき)でぞ埋(うづ)めたりける。巌泉(がんせん)血(ち)を流(なが)し、死骸岳(しがいたけ)をなせり。さればその谷(たに)の辺(ほとり)には、矢(や)の穴(あな)刀(かたな)の瑕(きず)今(いま)にありとぞ承(うけたまは)る。平家(へいけ)には宗(むね)と憑(たの)まれたりける上総大夫判官(かづさだいぶはうぐわん)忠綱(ただつな)、飛騨大夫判官(ひだだいぶはうぐわん)景高(かげたか)、河内判官(かはちはうぐわん)秀国(ひでくに)も、この谷(たに)に埋(うづ)もれて失(う)せにけり。備中国(びつちゆうのくに)住人(ぢゆうにん)瀬尾太郎兼康(せのをのたらうかねやす)といふ聞(き)こゆる大力(だいぢから)も、そこにて加賀国(かがのくに)住人(ぢゆうにん)蔵光(くらみつ)次郎(じらう)成澄(なりずみ)が手(て)に懸(か)って、生(う)け捕(ど)りにせらる。越前国(ゑちぜんのくに)火打(ひうち)が城(しろ)にて、返忠(かへりちゆう)したりける平泉寺(へいせんじ)の長吏(ちやうり)斉明(さいめい)威儀師(ゐぎし)も捕(とら)はれぬ。木曽(きそ)殿(どの)、

「あまりに憎(にく)きにその法師(ほふし)をば先(さき)づ斬(き)れ」

 とて、斬(き)られけり。平氏(へいじ)の大将(たいしやう)維盛(これもり)、通盛(みちもり)、希有(けう)の命(いのち)生(い)きて加賀国(かがのくに)へ引(ひ)き退(の)く。七万余騎(しちまんよき)が中(なか)より、僅(わづか)に二十(にじふ)余騎(よき)ぞ遁(のが)れたりける。

 明(あく)る十二日(じふににち)奥(おく)の秀衡(ひでひら)が許(ゆる)より、木曽(きそ)殿(どの)へ竜蹄(りようてい)二(に)匹(ひき)奉(たてまつ)る。一匹(いつぴき)はつき毛(け)一匹(いつぴき)は連銭葦毛(れんぜんあしげ)なり。やがてこれに鏡鞍(かがみくら)置(お)いて白山社(はくさんのやしろ)へ神馬(しんめ)に立(た)てられたり。木曽(きそ)殿(どの)のたまひけるは、

「今(いま)は思(おも)ふ事(こと)なし。ただし十郎蔵人(じふらうくらんど)殿(どの)の、志保(しほ)の戦(たたか)こそ覚束(おぼつか)なけれ。いざ行(ゆ)きて見(み)ん」

 とて、四万余騎(しまんよき)が中(なか)より、馬(むま)や人(ひと)を勝(すぐ)って、一(いち)万(まん)余騎(よき)で馳(は)せ向(む)ふ。氷見湊(ひみのみなと)を渡(わた)さんとするに、折節(をりふし)潮(しほ)満(み)ちて深(ふか)さ浅(あさ)さを知(し)らざりければ、鞍(くら)置(お)馬(むま)十四(じふし)ばかり追(お)ひ入(い)れたり。鞍爪(くらつめ)浸(ひた)るほどにて、相違(さうゐ)なく向(む)ひの岸(きし)へ著(き)きにけり。

「浅(あさ)かりけるぞ、渡(わた)せや」

 とて一(いち)万(まん)余騎(よき)の大勢(おほぜい)、皆(みな)打(う)ち入(い)れて渡(わた)しけり。案(あん)の如(ごと)く十郎蔵人(じふらうくらんど)行家(ゆきいへ)、散々(さんざん)に懸(か)けなされ、引(ひ)き退(の)いて、馬(むま)の息(いき)休(やす)むる所(ところ)に、木曽(きそ)殿(どの)、

「さればこそ」

 とて、荒手(あらて)三万余騎(さんまんよき)、入(い)れ替(か)って平家(へいけ)三万余騎(さんまんよき)が中(なか)へをめいて駆(かけ)け入(い)り、揉(も)みに揉(も)んで火(ひ)出(い)づるほどにぞ攻(せ)めたりける。平家(へいけ)の兵(つはもの)ども暫(しば)し支(ささ)へて防(ふせ)ぎけれども、こらへずして、そこをも遂(つひ)に攻(せ)め落(お)さる。平家(へいけ)の方(かた)には大将軍(たいしやうぐん)参河守(みかはのかみ)知度(とものり)討(う)たれたまひぬ。これは入道相国(にふだうしやうこく)の末(すゑ)子(こ)なり。侍(さぶらひ)ども多(おほ)く亡(ほろ)びにけり。木曽(きそ)殿(どの)は志保(しほ)山(やま)打(う)ち越(こ)えて、能登(のと)の小(こ)田(た)中(なか)、親王(しんわう)の塚(つか)の前(まへ)に陣(ぢん)を取(と)る。

篠原合戦

 そこにて諸社(しよしや)へ神領(しんりやう)を寄(よ)せられけり。白山社(はくさんのやしろ)へは横(よこ)江(え)、宮(みや)丸(まる)、菅生(すがう)社(やしろ)へは能美(のみ)の庄(しやう)、多田(ただ)の八幡(はちまん)へは蝶屋(てふや)の庄(しやう)、気比(けひ)社(やしろ)へは飯原(いひはら)庄(しやう)を寄進(きしん)す。平泉寺(へいせんじ)へは藤島七郷(ふぢしましちがう)を寄(よ)せられけり。

 一年(ひととせ)石橋山(いしばしやま)の合戦(かつせん)の時(とき)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)射(い)奉(たてまつ)りし者(もの)ども、都(みやこ)へ逃(に)げ上(うへ)って、平家(へいけ)の方(かた)にぞ候(さうら)ひける。宗(むね)との者(もの)には俣野(またの)五郎(ごらう)景久(かげひさ)、長井(ながゐ)斉藤別当(さいとうべつたう)実盛(さねもり)、伊藤(いとう)九(く)郎(らう)助氏(すけうぢ)、浮巣(うきす)三郎(さぶらう)重親(しげちか)、真下(まつしも)四郎(しらう)重直(しげなほ)、これらは暫(しばら)く軍(いくさ)のあらん時(とき)まで休(やす)まんとて、日(ひ)毎(ごと)に寄合々々(よりあひよりあひ)、巡酒(じゆんしゆ)をしてぞ慰(なぐさ)みける。先(さき)づ実盛(さねもり)が許(もと)に寄合(よりあ)ひたりける日(ひ)、斉藤別当(さいとうべつたう)申(まう)しけるは、

「倩(つらつら)この世(よ)の中(なか)の有様(ありさま)を見(み)るに、源氏(げんじ)の御方(みかた)は強(つよ)く、平家(へいけ)の御方(みかた)は、負色(まけいろ)に見(み)えさせたまひけり。いざおのおの木曽(きそ)殿(どの)へ参(まゐ)らう」

 と申(まう)しければ、皆(みな)、

「さなう」

 と同(おな)じけり。次(つぎ)の日(ひ)浮巣(うきす)三郎(さぶらう)が許(もと)に寄合(よりあ)ひたりける時(とき)、斉藤別当(さいとうべつたう)、

「さても昨日(きのふ)申(まう)しし事(こと)はいかに、おのおの」

 その中(なか)に俣野(またの)五郎(ごらう)、進(すす)み出(い)でて申(まう)しけるは、

「われらはさすが、東国(とうごく)では皆(みな)人(ひと)に知(し)られて、名(な)ある者(もの)でこそあれ。好(よしみ)きに附(つ)いて彼方(あなた)へ参(まゐ)り、此方(こなた)へ参(まゐ)らう事(こと)も、見(み)苦(くる)しかるべし。人(ひと)をば知(し)り参(まゐ)らせず候(さうら)ふ。景久(かげひさ)においては、平家(へいけ)の御方(みかた)にて、いかにも成(な)らう」

 と申(まう)しければ、斉藤別当(さいとうべつたう)あざ笑(わら)って、

「まことにはおのおのの御心(みこころ)どもをがな引(ひ)き奉(たてまつ)らんとてこそ申(まう)したれ。その上(うへ)実盛(さねもり)は今度(こんど)の軍(いくさ)に討(う)ち死(し)にせうと思(おも)ひ切(き)って候(さうら)ふ。二度(にど)都(みやこ)へ参(まゐ)るまじき由(よし)、人々(ひとびと)にも申(まう)し置(お)いたり。大臣(おとど)殿(どの)へもこのやうを申(まう)し上(あ)げて候(さうら)ふぞ」

 といひければ、皆(みな)人(ひと)この議(ぎ)にぞ同(おな)じける。さればその約束(やくそく)を違(たが)へじとや、当座(たうざ)にありし者(もの)ども、一人(ひとり)も残(のこ)らず北国(ほくこく)にて皆(みな)死(し)にけるこそ無慚(むざん)なれ。

 さるほどに平家(へいけ)は人(ひと)馬(むま)の息(いき)を休(やす)めて加賀国(かがのくに)篠原(しのはら)に陣(ぢん)をとる。同(おな)じき五月(ごぐわつ)廿一日(にじふいちにち)の辰(たつ)の一(いち)点(てん)に、木曽(きそ)、篠原(しのはら)に押(お)し寄(よ)せて鬨(とき)をどと作(つく)る。平家(へいけ)の方(かた)には、畠山(はたけやま)庄司(しやうじ)重能(しげよし)、小山田(をやまだ)別当(べつたう)有重(ありしげ)、去(さ)る治承(ぢしやう)より今(いま)まで召(め)し籠(こ)められたりしを、

「なんぢらは故(ゆゑ)い者(もの)どもなり。軍(いくさ)のやうをもおきてよ」

 とて、北国(ほくこく)へ向(む)けられたり。これら兄弟(きやうだい)三百余騎(さんびやくよき)で陣(ぢん)の面(おもて)に進(まゐ)んだり。源氏(げんじ)の方(かた)より今(いま)井(ゐ)四郎(しらう)三百余騎(さんびやくよき)でうちむかふ。今(いま)井(ゐ)四郎(しらう)、畠山(はたけやま)始(はじ)めは互(たがひ)に五(ご)騎(き)十(じふ)騎(き)づつ出(いだ)し合(あ)はせて、勝負(しようぶ)をせさせ、後(のち)には両方(りやうはう)乱(みだ)れ合(あ)ってぞ戦(たたか)ひける。五月(ごぐわつ)廿一日(にじふいちにち)午刻(うまのこく)、草(くさ)もゆるがず照(て)す日(ひ)に、われ劣(おと)らじと戦(たたか)へば、遍身(へんしん)より汗(あせ)出(い)でて、水(みづ)を流(なが)すに異(こと)ならず。今(いま)井(ゐ)が方(かた)にも兵(つはもの)多(おほ)く亡(ほろ)びにけり。畠山(はたけやま)、家(いへ)子(こ)郎等(らうどう)残(のこ)り少(すく)なに討(う)ちなされ力(ちから)及(およ)ばで引(ひ)き退(の)く。次(つぎ)に平家(へいけ)の方(かた)より、高橋判官(たかはしはうぐわん)長綱(ながつな)、五百余騎(ごひやくよき)で進(まゐ)んだり。木曽(きそ)殿(どの)の方(かた)より樋口(ひぐち)次郎(じらう)兼光(かねみつ)、落合(おちあひ)五郎(ごらう)兼行(かねゆき)、三百余騎(さんびやくよき)で馳(は)せ向(む)ふ。暫(しばら)く支(ささ)へて戦(たたか)ひけるが、高橋(たかはし)勢(せい)は、国々(くにぐに)の駆(かけ)武者(むしや)なれば、一(いち)騎(き)も落(お)ち合(あ)はず、われ先(さき)にとこそ落(お)ち行(ゆ)きけれ。高橋(たかはし)心(こころ)は猛(たけ)く思(おも)へども、後(のち)あらはに成(な)りければ、力(ちから)及(およ)ばで引(ひ)き退(の)く。ただ、一(いち)騎(き)落(お)ちて行(ゆ)く所(ところ)に越中国(ゑつちゆうのくに)の住人(ぢゆうにん)入善(にふぜん)小太郎(こたらう)行重(ゆきしげ)、よき敵(かたき)と目(め)を懸(か)け、鞭鐙(むちあぶみ)を合(あ)せ馳(は)せ来(きた)り、押(お)し双(なら)べてむずと組(く)む。高橋(たかはし)、入善(にふぜん)を掴(つか)うで鞍(くら)の前輪(まへわ)に押(お)し付(つ)け、

「わ君(きみ)は何者(なにもの)ぞ、名(な)乗(の)れ聞(き)かう」

 といひければ、

「越中国(ゑつちゆうのくに)の住人(ぢゆうにん)入善(にふぜん)小太郎(こたらう)行重(ゆきしげ)、生年(しやうねん)十八(じふはち)歳(さい)」

 と名(な)乗(の)る。

「あら無慚(むざん)、去年(きよねん)おくれし長綱(ながつな)が子(こ)も今年(ことし)はあらば十八(じふはち)ぞかし。わ君(きみ)ねぢ切(き)って捨(す)つべけれども、助(たす)けん」

 とて許(ゆる)しけり。わが身(み)も馬(むま)より下(お)り、暫(しばら)く御方(みかた)の勢(せい)待(ま)たんとて休(やす)み居(ゐ)たり。入善(にふぜん)、

「われをば助(たす)けたれども、あはれ敵(かたき)や、いかにもして討(う)たばや」

 と思(おも)ひ居(ゐ)たる所(ところ)に、高橋(たかはし)打(う)ち解(と)けて物語(ものがたり)しけり。入善(にふぜん)勝(すぐ)れたる早(はや)わざの士(し)で、刀(かたな)を抜(ぬ)き、取(と)って懸(か)り、高橋(たかはし)が内甲(うちかぶと)を二刀(ふたかたな)さす。さるほどに、入善(にふぜん)が郎党(らうどう)二(に)騎(き)後駆(あとがけ)に来(き)たって落(お)ち合(あ)ひたり。高橋(たかはし)心(こころ)は猛(たけ)く思(おも)へども、運(はこ)や尽(つ)きにけん、敵(かたき)はあまたあり、痛手(いたで)は負(お)うつ、そこで遂(つひ)に討(う)たれにけり。

 また平家(へいけ)の方(かた)より武蔵(むさし)三郎(さぶらう)左衛門(さゑもん)有国(ありくに)、二(に)百(ひやく)騎(き)ばかりで喚(をめ)いて懸(か)く。源氏(げんじ)の方(かた)より、仁科(にしな)、高梨(たかなし)、山田(やまだ)次郎(じらう)、五百余騎(ごひやくよき)で馳(は)せ向(む)ふ。暫(しばら)く支(ささ)へて戦(たたか)ひけるが、有国(ありくに)が方(かた)の勢(せい)多(おほ)く討(う)たれぬ。有国(ありくに)深入(ふかいり)りして戦(たたか)ふほどに、矢(や)種(たね)皆(みな)射(い)尽(つ)して馬(むま)をも射(い)させ、歩立(かちだ)ちになり、打物(うちもの)抜(ぬ)いて戦(たたか)ひけるが、敵(かたき)あまた討(う)ち取(と)り、矢(や)七(しち)つ八(はち)つ射(い)立(た)てられて、立(た)ち死(し)ににこそ死(し)にけれ。大将(たいしやう)かやうになりしかば、その勢(せい)皆(みな)落(お)ち行(ゆ)きぬ。

実盛

 また武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん)長井(ながゐ)斉藤別当(さいとうべつたう)実盛(さねもり)御方(みかた)は皆(みな)落(お)ち行(ゆ)けども、只(ただ)一(いち)騎(き)返(かへ)し合(あ)はせ返(かへ)し合(あ)はせ防(ふせ)ぎ戦(たたか)ふ。存(ぞん)ずる旨(むね)ありければ、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、萠黄威(むえぎをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、鍬形(くはがた)打(う)ったる甲(かぶと)の緒(を)をしめ、金作(こがねづく)りの大刀(たち)を帯(は)き、切斑(きりふ)の矢(や)負(お)ひ、滋籐(しげどう)の弓(ゆみ)持(も)って、連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる馬(むま)に金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)置(お)いてぞ乗(の)ったりける。木曽(きそ)殿(どの)の方(かた)より、手塚太郎(てづかたらう)光盛(みつもり)よい敵(かたき)と目(め)をかけ、

「あなやさし。いかなる人(ひと)にてましませば、御方(みかた)の御(おん)勢(せい)は皆(みな)落(お)ち候(さうら)ふに、ただ一(いち)騎(き)残(のこ)らせたまひたるこそゆかしけれ。名(な)乗(の)らせたまへ」

 と言葉(ことのは)を懸(か)ければ、

「かういふわ殿(どの)は誰(たれ)ぞ」

「信濃国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん)手塚太郎(てづかたらう)金刺(かなさし)光盛(みつもり)」

 とこそ名(な)乗(の)ったれ。

「さては互(たがひ)によい敵(かたき)ぞ。ただしわ殿(どの)をさぐるにはあらず、存(ぞん)ずる旨(むね)があれば、名(な)乗(の)るまじいぞよれ組(く)まう手塚(てづか)」

 とて、押(お)し双(なら)ぶる所(ところ)に、手塚(てづか)が郎党(らうどう)、後駆(あとがけ)に馳(は)せ来(き)たって、主(ぬし)を討(う)たせじと中(なか)に隔(へだ)ったり、斉藤別当(さいとうべつたう)にむずと組(く)む。

「あはれ己(おのれ)は日本(にほん)一(いち)の剛(がう)の者(もの)にくんでうずな、うれ」

 とて、取(と)って引(ひ)き寄(よ)せ鞍(くら)の前輪(まへわ)に押(お)し付(つ)け、頸(くび)掻(か)き切(き)って捨(す)てけり。手塚太郎(てづかたらう)、郎等(らうどう)が討(う)たるるを見(み)て、弓手(ゆんで)に回(めぐ)り合(あ)ひ、鎧(よろひ)の草(くさ)摺(ずり)引(ひ)き上(あ)げて、二刀(ふたかたな)刺(さ)し、弱(よわ)る所(ところ)に組(く)んで落(お)つ。斉藤別当(さいとうべつたう)心(こころ)は猛(たけ)く思(おも)へども、軍(いくさ)にはし疲(つか)れぬ、その上(うへ)老武者(おいむしや)ではあり、手塚(てづか)が下(した)に成(な)りにけり。また手塚(てづか)が郎等(らうどう)後(おく)れ馳(は)せに出(い)で来(き)たるに首(くび)取(と)らせ、木曽(きそ)殿(どの)の御前(おんまへ)に馳(は)せ参(まゐ)って、

「光盛(みつもり)こそ奇異(きい)の曲者(くせもの)組(く)んで討(う)って候(さうら)へ。侍(さぶらひ)かと見(み)候(さうら)へば、錦(にしき)の直垂(ひたたれ)を著(き)て候(さうら)ふ。また大将軍(たいしやうぐん)かと見(み)候(さうら)へば、続(つづ)く勢(せい)も候(さうら)はず。名(な)乗(の)れ名(な)乗(の)れと責(せ)め候(さうら)ひつれども、遂(つひ)に名(な)乗(の)り候(さうら)はず。声(こゑ)は坂東(ばんどう)声(こゑ)にて候(さうら)ひつる」

 と申(まう)さば、木曽(きそ)殿(どの)、

「あはれこれは斉藤別当(さいとうべつたう)でござんなれ。それならば、義仲(よしなか)が上野(かうづけ)へこえたりし時(とき)、少目(すくめ)に見(み)しかば、白髪(しらが)の糟尾(かすを)なりしぞ。今(いま)は定(さだ)めて、白髪(しらが)にこそなりぬらんに、鬢鬚(びんひげ)の黒(くろ)いこそ怪(あや)しけれ。樋口(ひぐち)次郎(じらう)は、馴(な)れ遊(あそ)んで、見(み)知(し)りたるらん樋口(ひぐち)召(め)せ」

 とて召(め)されけり。樋口(ひぐち)次郎(じらう)ただ一目(ひとめ)見(み)て、

「あな無慚(むざん)や、斉藤別当(さいとうべつたう)で候(さうら)ひけり」

 木曽(きそ)殿(どの)、

「それならば、今(いま)は七(しち)十(じふ)にも余(あま)り、白髪(しらが)にこそなりぬらんに、鬢鬚(びんひげ)の黒(くろ)いは何(なに)に」

 とのたまへば、樋口(ひぐち)次郎(じらう)涙(なみだ)をはらはらと流(なが)いて、

「さ候(さうら)へばそのやうを申(まう)し上(あ)げうと仕(つかまつ)り候(さうら)ふが、余(あま)りに哀(あはれ)で、不覚(ふかく)の涙(なみだ)のこぼれ候(さうら)ふぞや。弓矢(ゆみや)とりは、聊(いささか)の所(ところ)でも、思(おも)ひ出(いだ)の詞(ことば)をば棄(す)て仕(し)置(お)くべきで候(さうら)ひける者(もの)故(ゆゑ)、斉藤別当(さいとうべつたう)、兼光(かねみつ)に逢(あ)って、常(つね)は物語(ものがたり)に仕(つかまつ)り候(さうら)ひし。『六十(ろくじふ)に余(よ)って、軍(いくさ)の陣(ぢん)へ向(む)はん時(とき)は、鬢鬚(びんひげ)を黒(くろ)う染(そ)めて、若(わか)やがうと思(おも)ふなり。その故(ゆゑ)は若(わか)殿(どの)原(はら)に争(あらそ)ひて、先(さき)を懸(か)けんも長(なが)げなし。また老武者(おいむしや)とて人(ひと)の侮(あなど)らんも口惜(くちを)かるべし』と申(まう)し候(さうら)ひしが、まことに染(そ)めて候(さうら)ひけるぞや。洗(あら)はせて御覧(ごらん)じ候(さうら)へ」

 と申(まう)しければ、さもあらんとて、洗(あら)はせて見(み)たまへば、白髪(しらが)にこそなりにけれ。

 錦(にしき)の直垂(ひたたれ)を著(き)たりける事(こと)は、斉藤別当(さいとうべつたう)最後(さいご)の暇(いとま)申(まう)すに大臣(おとど)殿(どの)へ参(まゐ)って申(まう)しけるは、

「実盛(さねもり)が身(み)一(ひと)つの事(こと)では候(さうら)はねども、一年(ひととせ)東国(とうごく)へ向(む)ひ候(さうら)ひし時(とき)、水(みづ)鳥(とり)の羽(はね)音(おと)に驚(おどろ)いて矢(や)一(ひと)つだにも射(い)ずして、駿河国(するがのくに)の蒲原(かんばら)より逃(に)げ上(うへ)って候(さうら)ひし事(こと)、老後(らうご)の恥辱(ちじよく)、ただこの事(こと)に候(さうら)ふ。今度(こんど)北国(ほくこく)へ向(む)ひては、討(う)ち死(し)に仕(つかまつ)り候(さうら)ふべし。さらんにさては、実盛(さねもり)、本(もと)は越前国(ゑちぜんのくに)の者(もの)で候(さうら)ひしかども、近年(きんねん)御領(ごりやう)に就(つ)いて、武蔵(むさし)の長井(ながゐ)に居住(きよぢゆう)せしめ候(さうら)ひき。事(こと)の譬(たと)へ候(さうら)ふぞかし。故郷(こきやう)へは錦(にしき)を著(き)て帰(かへ)れとこそ承(うけたまは)る事(こと)の候(さうら)へ。錦(にしき)の直垂(ひたたれ)御(おん)許(ゆる)し候(さうら)へ」

 と申(まう)しければ、大臣(おとど)殿(どの)、

「優(いう)うも申(まう)したるもの哉(かな)」

 とて、錦(にしき)の直垂(ひたたれ)を御免許(ごめんきよ)ありけるとぞ聞(き)こえし。昔(むかし)の朱買臣(しゆばいしん)は、錦(にしき)の袂(たもと)を会稽山(くわいけいざん)に翻(ひるがへ)し、今(いま)の斉藤別当(さいとうべつたう)は、その名(な)を北国(ほくこく)の巷(ちまた)に揚(あ)ぐとかや。朽(く)ちもせぬ空(むな)き名(な)のみ留(と)め置(お)き、骸(むくろ)は越路(こしぢ)の末(すゑ)の塵(ちり)となるこそ悲(かなし)しけれ。

 去(さ)んぬる四月(しぐわつ)十七日(じふしちにち)、十万(じふまん)余騎(よき)にて都(みやこ)を立(た)ちし事柄(ことがら)は、何(いづこ)に面(おもて)を向(む)ふべしとも見(み)えざりしに、今(いま)五月(ごぐわつ)下旬(げじゆん)に帰(かへ)り上(のぼ)るには、その勢(せい)僅(わづか)に万(まん)余騎(よき)、

「流(なが)を尽(つ)して漁(すなど)る時(とき)は、多(おほ)くの魚(うを)を得(え)といへども、明年(みやうねん)に魚(うを)なし。林(はやし)を焼(や)て猟(か)る時(とき)は、多(おほ)くの獣(けもの)を得(え)といへども、明年(みやうねん)に獣(けもの)なし。後(のち)を存(ぞん)じて、少々(せうせう)は残(のこ)さるべかりけるものを」

 と、申(まう)す人々(ひとびと)もありけるとかや。

還亡

 上総守忠清(かづさのかみただきよ)、飛騨守(ひだのかみ)景家(かげいへ)はをととし入道相国(にふだうしやうこく)薨(こう)ぜられける時(とき)、ともに出家(しゆつけ)したりけるが、今度(こんど)北国(ほくこく)にて子(こ)ども皆(みな)亡(ほろ)びぬときいてそのおもひのつもりにや、終(つひ)に歎(なげ)き死(し)にぞ死(し)にける。これを始(はじ)めて親(おや)は子(こ)に後(おく)れ、婦(つま)は夫(をつと)に別(わか)れ、およそ遠国近国(をんごくきんごく)もさこそありけめ。京中(きやうぢゆう)には、家々(いへいへ)に門戸(もんこ)を閉(と)ぢて、声々(こゑごゑ)に念仏(ねんぶつ)申(まう)し、喚(をめ)き叫(さけ)ぶ事(こと)おびただし。

 六月(ろくぐわつ)一日(いちにち)蔵人(くらんど)右衛門権佐(うゑもんのごんのすけ)定長(さだなが)、神祇権少副(じんぎのごんのせうふく)大中臣(おほなかとみ)親俊(ちかとし)を、殿上(てんじやう)の下口(おりくち)へ召(め)して、兵革(ひやうかく)靖(しづ)まらば、大神宮(だいじんぐう)へ行幸(ぎやうかう)なるべき由(よし)おほせ下(くだ)さる。大神宮(だいじんぐう)は高天原(たかまのはら)より天降(あまくだ)せたまひしを垂仁(すゐにん)天(てん)皇(わう)の御宇(ぎよう)、廿(にじふ)五年(ごねん)三月(さんぐわつ)に、大和国(やまとのくに)笠縫(かさぬひ)の里(さと)より、伊勢国(いせのくに)渡会(わたらひ)の郡(こほり)、五十鈴(いすず)の河(かは)上(うへ)、下津磐根(したついはね)に大宮(おほみや)柱(はしら)をふとしきたて、祝(いは)ひ初(はじ)め奉(たてまつ)ってより以降(いかう)、日本(にほん)六十(ろくじふ)余(よ)州(しう)、三千(さんぜん)七(しち)百(ひやく)五十(ごじふ)余(よ)社(やしろ)の、大小(だいせう)の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)の中(なか)には無双(むさう)なり。されども、代々(だいだい)の御門(みかど)臨幸(りんかう)はなかりしに、奈良(なら)の御門(みかど)の御時(おんとき)左大臣(さだいじん)不比等(ふひと)の孫(まご)、参議(さんぎ)式(しき)部(ぶ)卿(きやう)宇合(うまかひ)の子(こ)、右近衛権少将(うこんゑのごんのせうしやう)兼(けん)大宰少弐(だざいのせうに)藤原(ふぢはら)広嗣(ひろつぐ)といふ人(ひと)ありけり。天平(てんぴやう)十五(じふご)年(ねん)十月(じふぐわつ)、肥前国(ひぜんのくに)松浦(まつら)郡(こほり)にして、数万(すうまん)の凶賊(きようぞく)を語(かた)らって、国家(こくか)を既(すで)に危(あやふ)めんとす。これによって大野東人(おほののあづまびと)を大将軍(たいしやうぐん)にて、広嗣(ひろつぐ)追討(ついたう)せられし時(とき)、始(はじ)めて大神宮(だいじんぐう)へ行幸(ぎやうかう)なりけるとかや、その例(れい)とぞ聞(き)こえし。かの広嗣(ひろつぐ)は肥前(ひぜん)の松浦(まつら)より都(みやこ)へ一日(ひとひ)に下(くだ)り上(のぼ)る馬(むま)を持(も)たりけり。追討(ついたう)せられし時(とき)も、御方(みかた)の凶賊(きようぞく)落(お)ち行(ゆ)き、皆(みな)亡(ほろ)びて後(のち)、件(くだん)の馬(むま)に打(う)ち乗(の)って、海中(かいちゆう)へ馳(は)せ入(い)りけるとぞ聞(き)こえし。その亡霊(ばうれい)あれて、怖(こは)き事(こと)ども多(おほ)かりける中(なか)に、天平(てんぴやう)十六(じふろく)年(ねん)六月(ろくぐわつ)十八日(じふはちにち)、筑前国(ちくぜんのくに)御笠(みかさ)郡(こほり)、大宰府(だざいふ)の観世音寺(くわんぜおんじ)、供養(くやう)せられし導(だう)師(し)には、玄昉(げんばう)僧正(そうじやう)とぞ聞(き)こえし。高座(かうざ)に上(のぼ)り敬白(けいびやく)の鐘(かね)打(う)ち鳴(な)らす時(とき)、俄(にはか)に空(そら)掻(か)き曇(くも)り雷(いかづち)おびただしう鳴(な)って、玄昉(げんばう)の上(うへ)に落(お)ち懸(か)り、その首(くび)を取(と)って雲(くも)の中(なか)へぞ入(い)りにける。これは広嗣(ひろつぐ)調伏(てうぶく)したりける故(ゆゑ)とぞ聞(き)こえし。

 この僧正(そうじやう)は吉備(きび)大臣(おとど)入唐(にふたう)の時(とき)、相伴(あひともな)って渡(わた)り、法相宗(ほつさうしゆう)渡(わた)したりし人(ひと)なり。唐人(たうじん)が玄昉(げんばう)といふ名(な)を笑(わら)って、

「玄昉(げんばう)は還(かへ)り亡(ほろ)ぶといふ音(おと)あり。いかやうにも、帰朝(きてう)の後(のち)事(こと)に逢(あ)ふべき人(ひと)なり」

 と相(さう)したりけるとかや。同(おな)じき天平(てんぴやう)十九(じふく)年(ねん)六月(ろくぐわつ)十八日(じふはちにち)、髑髏(どくろ)に玄昉(げんばう)といふ銘(めい)を書(か)いて、興福寺(こうふくじ)の庭(には)に落(お)とし、虚空(こくう)に人(ひと)ならば千人(せんにん)ばかりが声(こゑ)にて、どと笑(わら)ふ事(こと)ありけり。興福寺(こうふくじ)は法相宗(ほつさうしゆう)の寺(てら)たるによってなり。かの僧正(そうじやう)の弟子(でし)どもこれを取(と)って、塚(つか)を築(つ)き、その首(くび)を納(をさ)めて、頭墓(かしらづか)と名(な)づけて、今(いま)にあり。これ即(すなは)ち広嗣(ひろつぐ)が霊(れい)の致(いた)す所(ところ)なり。これによってかの亡霊(ばうれい)を崇(あが)められて、今(いま)松浦(まつら)の鏡宮(かがみのみや)と号(がう)す。

 嵯峨(さが)皇帝(くわうてい)の御時(おんとき)は平城(へいぜい)先帝(せんてい)、尚侍(ないしのかみ)の勧(すす)めによって、世(よ)を乱(みだ)りたまひし時(とき)、その御(おん)祈(いの)りのために、御門(みかど)第三(だいさん)皇女(わうぢよ)祐智子(うちこ)内親王(ないしんわう)を、賀茂(かも)の斎(さい)院(ゐん)に奉(たてまつ)らせたまひけり。これ斎(さい)院(ゐん)の始(はじ)めなり。朱雀院(すざくゐん)の御宇(ぎよう)には、将門(まさかど)純友(すみとも)が兵乱(ひやうらん)によって八幡(はちまん)の臨時(りんじ)の祭(まつり)を始(はじ)めらる。今度(こんど)もかやうの例(れい)を以(もつ)てさまざまの御(おん)祈(いの)りども始(はじ)められけり。

木曽山門牒状

 木曽(きそ)、越前(ゑちぜん)の国府(こくふ)について、家(いへ)子(こ)郎等(らうどう)召(め)し集(あつ)めて評定(ひやうぢやう)す。

「そもそも義仲(よしなか)近江国(あふみのくに)を経(へ)てこそ、都(みやこ)へは入(い)らんずるに、例(れい)の山(やま)僧(そう)どもは防(ふせ)ぐ事(こと)もやあらんずらん。懸(か)け破(やぶ)って通(とほ)らん事(こと)は安(やす)けれども、平家(へいけ)こそ当時(たうじ)は仏法(ぶつぽふ)ともいはず、寺(てら)を亡(ほろ)ぼし、僧(そう)を失(うしな)ひ、悪行(あくぎやう)をば致(いた)せ。それを守護(しゆご)のために上洛(じやうらく)せん者(もの)が、平家(へいけ)と一(ひと)つになればとて、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)に向(む)って、軍(いくさ)せん事(こと)、少(すこ)しも違(たが)はぬ二(に)の舞(まひ)なるべし。これこそさすが安大事(やすだいじ)よ。いかにせん」

 とのたまへば手書(てかき)に具(ぐ)せられたる大夫坊(だいぶばう)覚明(かくめい)進(すす)み出(い)でて申(まう)しけるは、

「山門(さんもん)の衆徒(しゆと)は三千(さんぜん)候(さうら)ふ、必(かなら)ず一(いち)味(み)同心(どうしん)なる事(こと)は候(さうら)はず、皆(みな)思々(おもひおもひ)心々(こころごころ)に候(さうら)ふなり。あるいは源氏(げんじ)に付(つ)かんと申(まう)す衆徒(しゆと)も候(さうら)ふらん、あるいは平家(へいけ)に同心(どうしん)せんといふ大衆(だいしゆ)も候(さうら)ふらん、牒状(てふじやう)を遣(つか)はして御覧(ごらん)候(さうら)へ。事(こと)のやう返牒(へんてふ)に見(み)え候(さうら)はんずらん」

 と申(まう)しければ、

「この議(ぎ)尤(もつとも)も然(しか)るべし、さらば書(か)け」

 とて、覚明(かくめい)に牒状(てふじやう)書(か)かせて、山門(さんもん)へ送(おく)る。その状(じやう)にいはく、

「義仲(よしなか)倩(つらつら)平家(へいけ)の悪逆(あくぎやく)を見(み)るに、保元平治(ほうげんへいぢ)より以来(いらい)、永(なが)く人臣(じんしん)の礼(れい)を失(うしな)ふ。然(しか)りといへども、貴賤(きせん)手(て)を束(つか)ね、緇素(しそ)足(あし)を戴(いただ)く。恣(ほしいまま)に帝位(ていゐ)を進退(しんたい)し、飽(あ)くまで国郡(こくぐん)を掠領(りやくりやう)す。道理(だうり)非理(ひり)を論(ろん)ぜず、権門勢家(けんもんせいか)を追捕(ついぶ)し、有罪無罪(うざいむざい)をいはず、卿相(けいしやう)侍臣(じしん)を損亡(そんまう)す。その資財(しざい)を奪(うば)ひ取(と)って、悉(ことごと)く郎従(らうじゆう)に与(あた)へ、かの庄園(しやうゑん)を没収(もつしゆ)して、猥(みだ)しく子孫(しそん)に省(かへり)む。就中(なかんづく)、去(さ)んぬる治承(ぢしやう)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)、法皇(ほふわう)を城南(じやうなん)の離宮(りきゆう)に遷(うつ)し奉(たてまつ)り、博陸(はくりく)を海西(かいせい)の絶域(ぜつゐき)に流(なが)し奉(たてまつ)る。衆庶(しゆうしよ)言(い)はず、道路(だうろ)目(め)を以(もつ)てす。加之(しかのみならず)同(おな)じき四年(しねん)五月(ごぐわつ)、二(に)の宮(みや)の朱閣(しゆかく)を囲(かこ)み奉(たてまつ)り、九重(ここのへ)の垢塵(くぢん)を驚(おどろ)かさしむ。爰(ここ)に帝子(ていし)非分(ひぶん)の害(がい)を逃(に)れんがために、竊(ひそか)に園城寺(をんじやうじ)へ入御(じゆぎよ)の時(とき)、義仲(よしなか)先日(せんじつ)に令旨(りやうじ)をたまはるによって、鞭(むち)を揚(あ)げんとする所(ところ)に、怨敵(をんてき)巷(ちまた)に満(み)ちて、予(よ)参路(さんろ)を失(うしな)ふ。近境(きんけい)の源氏(げんじ)、なほ参候(さんこう)せず、況(いはん)や遠境(ゑんけい)においてをや。然(しか)るを園城(をんじやう)は分限(ぶんげん)なきによって、南都(なんと)へ趣(おもむ)かしめたまふ間(あひだ)に宇治(うぢ)橋(はし)にて合戦(かつせん)す。大将(たいしやう)三位入道(さんみのにふだう)頼政(よりまさ)父子(ふし)、命(いのち)を軽(かろ)んじ義(ぎ)を重(おも)んじて、一戦(いつせん)の功(こう)を励(はげ)ますといへども、多勢(たぜい)の責(せめ)を免(まぬか)かれず、形骸(けいがい)を古岸(こがん)の苔(こけ)にさらし、生命(せいめい)を長河(ちやうが)の波(なみ)に流(なが)す。令旨(りやうじ)の趣(おもむ)、肝(きも)に銘(めい)じ、同類(どうるゐ)の悲(かなし)、魂(たましひ)を消(き)す。これによって東国(とうごく)北国(ほくこく)の源氏(げんじ)等(ら)、おのおの参洛(さんらく)を企(くはだ)て、平家(へいけ)を亡(ほろ)ぼさんと欲(ほつ)す。義仲(よしなか)去年(きよねん)の秋(あき)、宿意(しゆくい)を達(たつ)せんがために、旗(はた)を挙(あ)げ剣(つるぎ)を取(と)って、信州(しんしう)を出(い)でし日(ひ)、越後国(ゑちごのくに)の住人(ぢゆうにん)、城(しろ)の四郎(しらう)長茂(ながもち)、数万(すうまん)の軍兵(ぐんぴやう)を率(ひきゐ)して発向(はつかう)せしむる間(あひだ)、当国(たうごく)横田河原(よこたがはら)にして合戦(かつせん)す。義仲(よしなか)僅(わづか)に三千余騎(さんぜんよき)を以(もつ)て、かの数万(すうまん)の兵(つはもの)を破(やぶ)り畢(をはん)ぬ。風聞(ふうぶん)広(ひろ)きに及(およ)んで、平氏(へいじ)の大将(たいしやう)十万(じふまん)の軍士(ぐんし)を率(ひきゐ)して、北陸(ほくろく)に発向(はつかう)す。越州(ゑつしう)、加州(かしう)、砥浪(となみ)、黒坂(くろさか)、塩坂(しほさか)、篠原(しのはら)以下(いげ)の城郭(じやうくわく)にして、数箇度(すかど)合戦(かつせん)す。策(さく)を帷幄(ゐあく)の中(なか)に運(めぐ)らして、勝事(しようじ)を咫尺(しせき)のもとに得(え)たり。然(しか)るを討(う)っては必(かなら)ず伏(ふ)し、攻(せ)むれば必(かなら)ず降(くだ)る。秋(あき)風(かぜ)の芭蕉(ばせう)を破(やぶ)るに異(こと)ならず。冬(ふゆ)の霜(しも)の群葉(ぐんえふ)を枯(か)すに同(おな)じ。これ偏(ひとへ)に神明(しんめい)仏陀(ぶつだ)の助(たす)けなり、更(さら)に義仲(よしなか)が武略(ぶりやく)にあらず。平氏(へいじ)敗北(はいぼく)の上(うへ)は、参洛(さんらく)を企(くはだ)つるものなり。今(いま)叡岳(えいがく)の麓(ふもと)を過(す)ぎて、洛陽(らくやう)の衢(ちまた)に入(い)るべし。この時(とき)に当(あた)って、竊(ひそか)に疑殆(ぎたい)あり。そもそも天台(てんだい)の衆徒(しゆと)、平家(へいけ)に同心(どうしん)か、源氏(げんじ)に与力(よりき)か。若(わか)しかの逆徒(ぎやくと)を助(たす)けらるべくば、衆徒(しゆと)に向(む)って合戦(かつせん)すべし。若(わか)し合戦(かつせん)をいたさば、叡岳(えいがく)の滅亡(めつばう)踵(くびす)をめぐらすべからず。悲哉(かなしきかな)、平氏(へいじ)宸襟(しんきん)を悩(なや)し、仏法(ぶつぽふ)を滅(めつ)す間(あひだ)、悪逆(あくぎやく)を静(しづ)めんがために、義兵(ぎへい)を発(おこ)す所(ところ)に、忽(たちまち)ち三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)に向(む)って、不慮(ふりよ)の合戦(かつせん)を致(いた)さんことを。痛哉(いたましきかな)、医王(いわう)、山王(さんわう)に憚(はばか)り奉(たてまつ)って、行程(かうてい)に逗留(とうりう)せしめば、朝廷(てうてい)緩怠(くわんたい)の臣(しん)として、永(なが)く武略(ぶりやく)瑕瑾(かきん)の謗(そしり)を遺(のこ)さんことを。猥(みだ)しく進退(しんたい)に迷(まよひ)って、案内(あんない)を啓(けい)する所(ところ)なり。庶幾(こひねがはくは)三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)神(かみ)のため、仏(ほとけ)のため国(くに)のため、君(きみ)のために源氏(げんじ)に同心(どうしん)して、凶徒(きようと)を誅(ちゆう)し、鴻化(こうくわ)に浴(よく)せん。懇丹(こんたん)の至(いたり)に堪(た)へず。義仲(よしなか)恐惶(きようくわう)謹言(きんげん)。
寿永(じゆえい)二年(にねん)六月(ろくぐわつ)十日(とをか) 源義仲(みなもとのよしなか)
進上(しんじやう) 恵光坊(ゑくわうばう)律師(りつし)御房(ごばう)」

 とぞかいたりける。

返牒

 案(あん)の如(ごと)く、山門(さんもん)の大衆(だいしゆ)この状(じやう)を披見(ひけん)して、僉議(せんぎ)区々(くく)なり。あるいは源氏(げんじ)に付(つ)かんといふ衆徒(しゆと)もあり、あるいはまた平家(へいけ)に同心(どうしん)せんといふ大衆(だいしゆ)もあり。思々(おもひおもひ)異議(いぎ)区々(くく)なり。老僧(らうそう)どもの僉議(せんぎ)しけるは、

「詮(せん)ずる所(ところ)、われら専(もつぱ)ら金輪(こんりん)聖主(せいしゆ)天長地久(てんちやうちきう)と祈(いの)り奉(たてまつ)る。平家(へいけ)は当代(たうだい)の御外戚(ごぐわいせき)、山門(さんもん)において帰敬(ききやう)を致(いた)さる。されば今(いま)に至(いた)るまでかの繁昌(はんじやう)を祈誓(きせい)す。然(しか)りといへども悪行(あくぎやう)法(ほふ)に過(す)ぎて、万人(ばんにん)これを背(そむ)く。討手(うつて)を国々(くにぐに)へ遣(つか)はすといへども、却(かへ)って異賊(いぞく)のためにほろぼさる。源氏(げんじ)は近年(きんねん)より以降(いかう)、度々(たびたび)の軍(いくさ)に討(う)ち勝(すぐ)って、運命(うんめい)開(ひら)けんとす。何(なに)ぞ当山(たうざん)独(ひとり)宿運(しゆくうん)尽(つ)きぬる平家(へいけ)に同心(どうしん)して、運命(うんめい)開(ひら)くる源氏(げんじ)を背(そむ)かんや。須(すべか)く平家(へいけ)値遇(ちぐ)の義(ぎ)を翻(ひるがへ)して、源氏(げんじ)合力(かうりよく)の旨(むね)に任(にん)ずべき」

 由(よし)、一(いち)味(み)同心(どうしん)に僉議(せんぎ)して、返牒(へんてふ)を送(おく)る。木曽(きそ)殿(どの)また家(いへ)の子(こ)郎等(らうどう)を召(め)し集(あつ)めて、覚明(かくめい)にこの返牒(へんてふ)を開(ひら)かせらる。

「六月(ろくぐわつ)十日(とをか)の牒状(てふじやう)、同(おな)じき十六日(じふろくにち)到来(たうらい)、披閲(ひえつ)の所(ところ)に数日(すじつ)の鬱念(うつねん)一時(いちじ)に解散(げさん)す。およそ平家(へいけ)の悪逆(あくぎやく)累年(るゐねん)に及(およ)んで朝廷(てうてい)の騒動(さうどう)止(や)む時(とき)なし。事(こと)人口(じんこう)にあり、遺失(ゐしつ)するに能(あた)はず。それ叡岳(えいがく)に至(いた)っては、帝都(ていと)東北(とうほく)の仁祠(じんし)として、国家(こくか)静謐(せいひつ)の精祈(せいき)を致(いた)す。然(しか)るを、一天(いつてん)久(ひさ)しくかの天逆(てんぎやく)に侵(をか)されて、四海(しかい)鎮(しづ)に、その安全(あんぜん)を得(え)ず。顕密(けんみつ)の法輪(ほふりん)なきが如(ごと)く、擁護(ようご)の神威(しんゐ)屡(しばしば)すたる。爰(ここ)に貴家(きか)適(たまたま)累代(るゐだい)武備(ぶび)の家(いへ)に生(うま)れて、幸(さいはひ)に当時(たうじ)清選(せいせん)の仁(じん)たり。予(あらか)じめ奇謀(きぼう)を回(めぐ)らして忽(たちまち)に義兵(ぎへい)を起(お)す。万死(ばんし)の命(いのち)を忘(わす)れて一戦(いつせん)の功(こう)をたつ。その労(らう)いまだ両年(りやうねん)を過(す)ぎざるに、その名(な)既(すで)に四海(しかい)に流(なが)る。吾山(ごさん)の衆徒(しゆと)、且々(かつがつ)以(もつ)て承悦(しようえつ)す。国家(こくか)のため、累家(るゐけ)のため、武功(ぶこう)を感(かん)じ、武略(ぶりやく)を感(かん)ず。この如(ごと)くならば、則(すなは)ち山上(さんじやう)の精祈(せいき)空(むな)しからざる事(こと)を悦(よろこ)び、海内(かいだい)の衛護(ゑご)怠(おこた)りなき事(こと)を知(し)んぬ。自寺(じじ)、他寺(たじ)、常住(じやうぢゆう)の仏法(ぶつぽふ)、本社(ほんしや)、末社(まつしや)、祭奠(さいてん)の神明(しんめい)、定(さだ)めて教法(けふぼふ)の再(ふたた)び栄(さか)えんことを喜(よろこ)び、崇敬(そうきやう)のふるきに復(かへ)せんことを随喜(ずゐき)したまふらむ。衆徒(しゆと)等(ら)が心中(しんちゆう)、ただ賢察(けんさつ)を垂(た)れよ。然(しか)らば則(すなは)ち、冥(みやう)には十二神将(じふにしんしやう)、医王(いわう)善逝(ぜんぜい)の使者(ししや)として凶賊(きようぞく)追討(ついたう)の勇士(ゆうし)にあひ加(くは)り、顕(けん)には三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)、暫(しばら)く修学(しゆがく)鑽仰(さんがう)の勤節(きんせつ)を止(とど)めて、悪侶(あくりよ)治罰(ぢばつ)の官軍(くわんぐん)を扶(たす)けしめん。止観十乗(しくわんじゆうじよう)の梵風(ぼんぷう)は、奸侶(かんりよ)を和朝(わてう)の外(ほか)に払(はら)ひ、瑜伽三密(ゆがさんみつ)の法雨(ほふう)は、時俗(じぞく)を堯年(げうねん)の昔(むかし)に回(めぐ)さん。衆議(しゆうぎ)かくの如(ごと)し。倩(つらつら)これを察(さつ)せよ。
寿永(じゆえい)二年(にねん)七月(しちぐわつ)二日(ふつか) 大衆(だいしゆ)等(ら)」

 とぞ書(か)いたりける。

平家山門連署

 平家(へいけ)はこれを夢(ゆめ)にも知(し)らずして、興福(こうふく)園城(をんじやう)両(りやう)寺(てら)は、鬱憤(うつぷん)を含(ふく)める折節(をりふし)なれば、語(かた)らふとも靡(なび)かじ。当家(たうけ)はいまだ山門(さんもん)のために怨(おん)を結(むす)ばず、山門(さんもん)また当家(たうけ)のために不(ふ)忠(ちゆう)を存(ぞん)ぜず。山王(さんわう)大(だい)師(し)に祈誓(きせい)して、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)を語(かた)らはばやとて、一門(いちもん)公卿(くぎやう)十人(じふにん)、同心(どうしん)連署(れんしよ)の願書(ぐわんしよ)を書(か)いて、山門(さんもん)へ送(おく)る。その状(じやう)にいはく、

「敬白(けいびやく)
延暦寺(えんりやくじ)を以(もつ)て氏寺(うぢでら)に准(なぞら)じ、日吉社(ひえのやしろ)を以(もつ)て氏社(うぢやしろ)として、一向(いつかう)天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ)を仰(あふ)ぐべき事(こと)
右(みぎ)当家(たうけ)一族(いちぞく)の輩(ともがら)、殊(こと)に祈誓(きせい)する事(こと)あり。旨趣(ししゆ)いかんとなれば、叡山(えいざん)はこれ桓武天皇(くわんむてんわう)の御宇(ぎよう)、伝教大師(でんげうだいし)入唐(にふたう)帰朝(きてう)の後(のち)、円頓(ゑんどん)の教(をしへ)をこの所(ところ)に広(ひろ)め、遮那(しやな)の大戒(だいかい)をその内(うち)に伝(つた)へてより以降(いかう)、専(もつぱ)ら仏法(ぶつぽふ)繁昌(はんじやう)の霊崛(れいくつ)として、鎮護国家(ちんごこくか)の道場(だうぢやう)に備(そな)ふ。方(かた)に今(いま)伊豆国(いづのくに)流人(るにん)、源頼朝(みなもとのよりとも)、身(み)の咎(とが)を悔(くや)いず、却(かへ)って朝憲(てうけん)を嘲(あざけ)る。加之(しかのみならず)奸謀(かんぼう)に与(あた)して、同心(どうしん)を致(いた)す源氏(げんじ)等(ら)、義仲(よしなか)、行家(ゆきいへ)以下(いげ)党(たう)を結(むす)んで数(かず)あり。隣境(りんけい)遠境(ゑんけい)数国(すこく)を掠領(りやくりやう)し、土宜土貢(どぎどこう)万物(ばんぶつ)を押領(あふりやう)す。これによってあるいは累代(るゐだい)勲功(くんこう)の跡(あと)を逐(お)ひ、あるいは当時(たうじ)弓馬(きうば)の芸(げい)に任(まか)せて、速(すみやか)に賊徒(ぞくと)を追討(ついたう)し、凶(きよう)党(たう)を降伏(かうぶく)すべき由(よし)、苟(いやしく)くも勅命(ちよくめい)を含(ふく)んで類(るゐ)に征伐(せいばつ)を企(くはだ)つ。爰(ここ)に魚鱗鶴翼(ぎよりんかくよく)の陣(ぢん)、官軍(くわんぐん)利(り)を得(え)ず、星旄電戟(せいばうでんげき)の威(ゐ)、逆類(ぎやくるゐ)勝(かち)に乗(の)るに似(に)たり。若(わか)し神明(しんめい)仏陀(ぶつだ)の加被(かひ)にあらずば、いかでか反逆(はんぎやく)の凶乱(きようらん)を鎮(しづ)めん。これを以(もつ)て、一向(いつかう)天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ)に帰(かへ)し、併(あは)せて日吉(ひえ)の神恩(しんおん)を憑(たの)み奉(たてまつ)らまくのみ。何(なに)ぞ況(いはん)や忝(かたじけな)なく、臣等(しんら)が曩祖(なうそ)を思(おも)へば本願(ほんぐわん)の余裔(よえい)といひつべし。弥(いよいよ)、崇重(そうぢゆう)すべし、弥(いよいよ)、恭敬(くぎやう)すべし。自今以後(じこんいご)、山門(さんもん)に悦(よろこ)びあらば一門(いちもん)の悦(よろこ)びとし、社家(しやけ)に憤(いきどほ)りあらば一家(いつけ)の憤(いきどほ)りとして、おのおの子孫(しそん)に伝(つた)へて永(なが)く失墜(しつつゐ)せじ。藤氏(とうし)は春日(かすが)社(やしろ)興福寺(こうふくじ)を以(もつ)て氏社(うぢやしろ)氏寺(うぢでら)として、久(ひさ)しく法相大乗(ほつさうだいじよう)の宗(むね)に帰(かへ)す。平氏(へいじ)は日吉社(ひえのやしろ)延暦寺(えんりやくじ)を以(もつ)て、氏社(うぢやしろ)氏寺(うぢでら)として、目(め)の当(あた)り円実頓悟(ゑんじつとんご)の教(をしへ)に値遇(ちぐ)せん。かれは昔(むかし)の遺跡(ゐせき)なり、家(いへ)のため栄幸(えいかう)を思(おも)ふ。これは今(いま)の誓祈(せいき)なり、君(きみ)のため追罰(ついばつ)を請(う)ふ。仰(あふ)ぎ願(ねが)くは、山王七社(さんわうしちしや)、王子眷属(わうじけんぞく)、東西(とうざい)満山(まんざん)護法聖衆(ごほふしやうじゆ)、十二上願(じゆうにじやうぐわん)医王(いわう)善逝(ぜんぜい)、日光(につくわう)月光(ぐわつくわう)十二神将(じふにしんしやう)、無二(むに)の丹誠(たんせい)を照(て)して、ただ一(いち)の玄応(げんおう)を垂(た)れたまへ。然(しか)る間(あひだ)邪謀(じやぼう)逆心(ぎやくしん)の賊(ぞく)、手(て)を軍門(ぐんもん)につかね、暴逆(ばうぎやく)残害(ざんがい)の輩(ともがら)、首(かうべ)を京土(けいど)に伝(つた)へん。よって当家(たうけ)の公卿(くぎやう)等(ら)、異口同音(いくどうおん)に礼(れい)をなして祈誓如件(きせいくだんのごとし)。
従三位(じゆさんゐ)行兼(ぎやうけん)越前守(ゑちぜんのかみ)平朝臣(たひらのあそん)通盛(みちもり)
従三位(じゆさんゐ)行兼(ぎやうけん)右近衛中将(うこんゑのちゆうじやう)平朝臣(たひらのあそん)資盛(すけもり)
正三位(しやうさんゐ)行(ぎやう)右近衛権中将(うこんゑのごんのちゆうじやう)兼(けん)伊予守(いよのかみ)平朝臣(たひらのあそん)維盛(これもり)
正三位(しやうさんゐ)行(ぎやう)左近衛中将(さこんゑのちゆうじやう)兼(けん)播磨守(はりまのかみ)平朝臣(たひらのあそん)重衡(しげひら)
正三位(しやうさんゐ)行(ぎやう)右衛門督(うゑもんのかみ)兼(けん)近江(あふみ)遠江(とほたふみ)守(かみ)平朝臣(たひらのあそん)清宗(きよむね)
参議(さんぎ)正三位(しやうさんゐ)皇太后宮(くわうたいごうぐう)大夫(だいぶ)兼(けん)修理(しゆり)大夫(だいぶ)加賀(かが)越中(ゑつちゆう)守(かみ)平朝臣(たひらのあそん)経盛(つねもり)
従二位(じゆにゐ)行(ぎやう)中納言(ちゆうなごん)兼(けん)左兵衛督(さひやうゑのかみ)征夷大将軍(せいいたいしやうぐん)平朝臣(たひらのあそん)知盛(とももり)
従二位(じゆにゐ)行権(ぎやうごん)中納言(ちゆうなごん)兼(けん)肥前守(ひぜんのかみ)平朝臣(たひらのあそん)教盛(のりもり)
正二位(しやうにゐ)行権(ぎやうごん)大納言(だいなごん)兼(けん)出羽(では)陸奥(むつ)按察使(あぜち)平朝臣(たひらのあそん)頼盛(よりもり)
従一位(じゆいちゐ)平朝臣(たひらのあそん)宗盛(むねもり)
寿永(じゆえい)二年(にねん)七月(しちぐわつ)五日(いつか) 敬白(けいびやく)」

 とぞ書(か)かれたる。

 貫首(くわんじゆ)これを憐(あはれ)みたまひて、左右(さいう)なう披露(ひろう)せられず。十禅師(じふぜんじ)権(ごん)現(げん)の御殿(ごてん)に籠(こも)って、三日(みつか)加持(かぢ)して、その後(のち)衆徒(しゆと)に披露(ひろう)せらる。始(はじ)めはありとも見(み)えざりし一首(いつしゆ)の歌(うた)願書(ぐわんしよ)の上巻(うはまき)に、出(い)で来(き)たり。

平(へい)かに花(はな)咲(さ)く宿(やど)も年(とし)ふれば、西(にし)へ傾(かたぶ)く月(つき)とこそなれ。

 山王(さんわう)大(だい)師(し)これに憐(あはれ)みを垂(た)れたまひ、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)力(ちから)を合(あ)せよとなり。されども年(とし)ごろ日(ひ)ごろの振舞(ふるま)ひ、神慮(しんりよ)にも違(たが)ひ、人望(じんばう)にも背(そむ)きにければ、祈(いの)れども叶(かな)はず語(かた)らへども靡(なび)かざりけり。大衆(だいしゆ)まことに、事(こと)の体(てい)を憐(あはれ)みけれども、

「既(すで)に源氏(げんじ)に同心(どうしん)の返牒(へんてふ)を送(おく)る。今(いま)また軽々(かるがる)しく、その議(ぎ)を改(あらた)むるに能(あた)はず」

 とてこれを許容(きよよう)する衆徒(しゆと)もなし。

主上都落

 同(おな)じき七月(しちぐわつ)十四日(じふよつか)、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)、鎮西(ちんぜい)の謀反(むほん)平(たひ)らげて、菊池(きくち)、原田(はらだ)、松浦党(まつらたう)以下(いげ)、三千余騎(さんぜんよき)を召(め)し具(ぐ)して上洛(じやうらく)す。鎮西(ちんぜい)は、纔(わづか)に平(たひ)らげども、東国(とうごく)、北国(ほくこく)の軍(いくさ)いかにも静(しづ)まらず。

 同(おな)じき二十二日(にじふににち)の夜半(よなか)ばかり、六波羅(ろくはら)の辺(ほとり)おびただしう騒動(さうどう)す。馬(むま)に鞍(くら)置(お)き腹帯(はらおび)しめ、物(もの)ども東西(とうざい)南北(なんぼく)へ運(はこ)び隠(かく)す。ただ今(いま)敵(かたき)の打(う)ち入(い)りたるやうなり。明(あ)けて後(のち)聞(き)こえしは、美濃(みの)源氏(げんじ)、佐渡衛門尉(さどのゑもんのじよう)重貞(しげさだ)といふ者(もの)あり。一年(ひととせ)保元(ほうげん)の合戦(かつせん)の時(とき)、鎮西(ちんぜい)八(はち)郎(らう)為朝(ためとも)が、方(かた)の軍(いくさ)に負(ま)けて、落人(おちうど)となりたりしを搦(から)めて出(いだ)だしたりし勧賞(けんじやう)に、本(もと)は兵衛尉(ひやうゑのじよう)たりしが、その時(とき)右衛門尉(うゑもんのじよう)になりぬ。これによって一門(いちもん)にはあたまれて、平家(へいけ)に諂(へつら)ひけるが、その夜(よ)の夜半(よなか)ばかり六波羅(ろくはら)に馳(は)せ参(まゐ)って申(まう)しけるは、木曽(きそ)すでに北国(ほくこく)より五(ご)万(まん)余騎(よき)で攻(せ)め上(のぼ)り、比叡山(ひえいざん)東坂本(ひがしざかもと)に充満(じゆうまん)って候(さうら)ふ。郎等(らうどう)に楯(たて)六(ろく)郎(らう)親忠(ちかただ)、手書(てかき)に大夫坊(だいぶばう)覚明(かくめい)、六千余騎(ろくせんよき)で、天台山(てんだいさん)に競(きほ)ひ登(のぼ)り、三千(さんぜん)の衆徒(しゆと)皆(みな)同心(どうしん)して、ただ今(いま)都(みやこ)へ攻(せ)め入(い)る由(よし)申(まう)したりける故(ゆゑ)なり。平家(へいけ)の人々(ひとびと)大(おほ)に噪(さわ)いで、方々(はうばう)へ討手(うつて)を向(む)けられけり。大将軍(たいしやうぐん)には新中納言(しんちゆうなごん)知盛(とももり)卿(きやう)、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿(きやう)、都合(つがふ)その勢(せい)三千余騎(さんぜんよき)都(みやこ)を立(た)って先(さき)づ山階(やましな)に宿(やど)せらる。越前(ゑちぜん)三位(さんみ)通盛(みちもり)、能登守教経(のとのかみのりつね)、二(に)千(せん)余騎(よき)で宇治(うぢ)橋(はし)をかためらる。左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、一千余騎(せんよき)で淀路(よどぢ)を守護(しゆご)せられけり。陸奥(むつ)新(しん)判(はん)官(くわん)義康(よしやす)が源氏(げんじ)の方(かた)には、十郎蔵人(じふらうくらんど)行家(ゆきいへ)、数千騎(すせんき)で宇治(うぢ)橋(はし)より入(い)るとも聞(き)こえけり。摂津河内(せつつかはち)の源氏(げんじ)等(ら)雲霞(うんか)の如(ごと)くに同(おな)じう都(みやこ)へ乱入(らんにふ)の由(よし)聞(き)こえしかば、平家(へいけ)の人々(ひとびと)この上(うへ)はただ一所(いつしよ)にていかにもなりたまへとて、方々(はうばう)へ向(む)はれたる討手(うつて)ども都(みやこ)へ皆(みな)呼(よ)び返(かへ)されけり。帝都(ていと)、名利(みやうり)の地(ち)、鶏鳴(けいめい)て安(やす)き事(こと)なし。治(をさま)れる世(よ)だにもかくの如(ごと)し。況(いはん)や乱(みだ)れたる世(よ)においてをや。吉野(よしの)山(やま)の奥(おく)の奥(おく)へも入(い)らばやとは思(おも)はれけれども、諸国(しよこく)七道(しちだう)、悉(ことごと)く背(そむ)きぬ。何(いづ)れの浦(うら)か穏(おだひ)しかるべき。三界無安(さんがいむあん)なほ如火宅(によくわたく)とて如来(によらい)の金言(きんげん)一乗(いちじよう)の妙文(めうもん)なれば、なじかは少(すこ)しも違(たが)ふべき。

 同(おな)じき七月(しちぐわつ)廿四日(にじふよつか)の小夜更方(さよふけがた)に、前内大臣(さきのないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、建礼門院(けんれいもんゐん)の渡(わた)らせたまふ六波羅(ろくはら)殿(どの)へ参(まゐ)って申(まう)されけるは、

「この世(よ)の中(なか)の有様(ありさま)、さりともと存(ぞん)じ候(さうら)ひつるに今(いま)はかうにこそ候(さうら)ふなれ。ただ都(みやこ)の内(うち)でいかにもならんと人々(ひとびと)は申(まう)しあはれ候(さうら)へども、目(め)のあたり浮目(うきめ)を見(み)せ参(まゐ)らせんも口惜(くちを)しう候(さうら)へば、院(ゐん)をも内(うち)をも取(と)り奉(たてまつ)って、西国(さいこく)の方(かた)へ御幸(ごかう)行幸(ぎやうかう)をもなし参(まゐ)らせて見(み)ばやとこそ思(おも)ひなって候(さうら)へ」

 と申(まう)されければ、女院(にようゐん)、

「今(いま)はただともかうもそこの計(はか)らひにてこそあらんずらめ」

 とて御衣(ぎよい)の御(おん)袂(たもと)に余(よ)る御涙(おんなみだ)塞(せ)きあへさせたまはず。大臣(おとど)殿(どの)も直衣(なほし)の袖(そで)絞(しぼ)るばかりに見(み)えられけり。その夜(よ)法皇(ほふわう)をば内々(ないない)平家(へいけ)の取(と)り奉(たてまつ)って、都(みやこ)の外(ほか)へ落(お)ち行(ゆ)くべしといふ事(こと)をきこしめされてやありけん、按察使(あぜち)大納言(だいなごん)資方卿(すけかたのきやう)の子息(しそく)右馬頭(うまのかみ)資時(すけとき)ばかり御伴(おんとも)にて、竊(ひそか)に御所(ごしよ)を出(い)でさせたまひ鞍馬(くらま)へ御幸(ごかう)なる。

 平家(へいけ)の侍(さぶらひ)橘内(きつない)左衛門尉(さゑもんのじよう)季康(すゑやす)といふ者(もの)あり。人(ひと)これを使(つか)はれけり。その夜(よ)しも法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に御宿直(おんとのゐ)して候(さうら)ひけるに、常(つね)の御所(ごしよ)の方(かた)に喋(かしま)がしうさうめきあひて、女房達(にようばうたち)忍(しのび)ねに泣(な)くなどしたまへば、何事(なにごと)やらんと聞(き)くほどに、

「法皇(ほふわう)の俄(にはか)に見(み)えさせたまはぬは、何方(いづかた)へ御幸(ごかう)やらん」

 といふ声(こゑ)を聞(き)きなしつ。

「あな浅(あさ)まし」

 とて、やがて六波羅(ろくはら)へ馳(は)せ参(まゐ)り、大臣(おとど)殿(どの)にこの由(よし)申(まう)しければ、

「いで僻(ひが)事(こと)でぞあらん」

 とのたまひながら、聞(き)きもあへず、急(いそ)ぎ法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ馳(は)せ参(まゐ)って見参(げんざん)させたまへども、げに見(み)えさせたまはず。御前(おんまへ)に候(さうら)はせたまふ女房達(にようばうたち)、二位殿(にゐどの)、丹後(たんご)殿(どの)以下(いげ)、一人(ひとり)もはたらきたまはず、

「いかにやいかに」

 と申(まう)されけれども、

「われこそ御(おん)行方(ゆくへ)知(し)り参(まゐ)らせたれ」

 と申(まう)さるる人(ひと)、一人(ひとり)もおはせず、皆(みな)あきれたるやうなりけり。

 さるほどに、法皇(ほふわう)都(みやこ)の内(うち)にも渡(わた)らせたまはずと申(まう)すほどこそありけれ、京中(きやうぢゆう)の騒動(さうどう)斜(ななめ)ならず。況(いはん)や平家(へいけ)の人々(ひとびと)の遽(あわ)て噪(さわ)がれける有様(ありさま)、家々(いへいへ)に敵(かたき)の打(う)ち入(い)りたりとも、限(かぎ)あればこれには過(す)ぎじとぞ見(み)えし。日(ひ)ごろは平家(へいけ)院(ゐん)をも内(うち)をも取(と)り参(まゐ)らせて、西国(さいこく)の方(かた)へ御幸(ごかう)行幸(ぎやうかう)をもなしたてまつらんと支度(したく)せられたりしに、かく打(う)ち捨(す)てさせたまひぬれば、憑(たの)む木(き)の本(もと)に雨(あめ)のたまらぬ心地(ここち)ぞせられける。

 さりとては行幸(ぎやうかう)ばかりなりともなし参(まゐ)らせよとて、卯刻(うのこく)ばかりに既(すで)に行幸(ぎやうかう)の御輿(おんこし)寄(よ)せたりければ、主上(しゆしやう)は今年(ことし)六歳(ろくさい)、いまだ幼(をさな)なうましませば何(なに)心(こころ)もなう召(め)されけり。御母儀(ごぼぎ)建礼門院(けんれいもんゐん)御同輿(ごどうよ)に参(まゐ)らせたまふ。

「内侍所(ないしどころ)、神璽(しんじ)、宝剣(ほうけん)、渡(わた)し奉(たてまつ)る。印鑰(いんやく)、時札(ときふだ)、玄上(げんじやう)、鈴鹿(すずか)などをも取(と)り具(ぐ)せよ」

 と平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)下知(げぢ)せられけれども、余(あま)りに遽(あわて)噪(さわ)いで、取(と)り落(お)とす物(もの)ぞ多(おほ)かりける。昼(ひ)の御座(ぎよざ)の御剣(みつるぎ)などをも取(と)り忘(わす)れさせたまひけり。やがてこの時忠(ときただ)卿(きやう)、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)、讃岐(さぬき)中将(ちゆうじやう)時実(ときざね)三人(さんにん)ばかりぞ、衣冠(いくわん)にて供奉(ぐぶ)せられける。近衛司(このゑづかさ)、御綱佐(みつなのすけ)、甲冑(かつちう)をよろひ弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して、供奉(ぐぶ)せらる。七条(しちでう)を西(にし)へ朱雀(すざく)を南(みなみ)へ行幸(ぎやうかう)なる。

 明(あ)くれば七月(しちぐわつ)廿(にじふ)五日(いつか)なり。漢天(かんてん)既(すで)に開(ひら)きて、雲(くも)東嶺(とうれい)にたなびき、明方(あけがた)の月(つき)白(しろ)く冴(さ)えて、鶏鳴(けいめい)また忙(いそが)し。夢(ゆめ)にだにかかる事(こと)は見(み)ず。一年(ひととせ)都遷(みやこうつり)とて俄(にはか)にあわただしかりしは、かかるべかりける先表(せんべう)とも今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られけれ。

 摂政(せつしやう)殿(どの)も行幸(ぎやうかう)に供奉(ぐぶ)して、御出(ぎよしゆつ)なりけるが、七条(しちでう)大宮(おほみや)にて、髫結(うなゐ)たる童子(どうじ)の、御(おん)車(くるま)の前(まへ)をつと走(はし)り通(とほ)るを御覧(ごらん)ずれば、かの童子(どうじ)の左(ひだり)の袂(たもと)に、

「春(はる)の日(ひ)」

 といふ文字(もんじ)ぞ顕(あらは)れたる。

「春(はる)の日(ひ)」

 と書(か)いては

「春日(かすが)」

 と読(よ)めば、法相(ほつさう)擁護(ようご)の春日大明神(かすがだいみやうじん)、大織冠(たいしよくくわん)の御末(おんすゑ)を守(かみ)らせたまひけりと、憑(たの)もしくおぼしめす所(ところ)に、件(くだん)の童子(どうじ)の声(こゑ)と覚(おぼ)しくて、

いかにせん藤(ふぢ)の末葉(ばつえふ)のかれゆくを、ただ春(はる)の日(ひ)に任(まか)せてや見(み)ん。

 御伴(おんとも)に候(さうら)ふ進藤(しんどう)左衛門尉(さゑもんのじよう)高直(たかなほ)を近(ちか)う召(め)して、

「倩(つらつら)事(こと)の体(てい)を案(あん)ずるに行幸(ぎやうかう)はなれども、御幸(ごかう)もならず、行末(ゆくすゑ)憑(たの)もしからずおぼしめすはいかに」

 とおほせければ、御牛飼(おんうしかひ)に目(め)を見(み)合(あ)せたり。やがて心(こころ)得(え)て、御(おん)車(くるま)を遣(つか)りかへし、大宮(おほみや)を上(のぼ)りに飛(とば)ぶが如(ごと)くに仕(つかまつ)り、北(きた)山(やま)の辺(ほとり)、知足院(ちそくゐん)へ入(い)らせたまふ。

維盛都落

 平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中(ゑつちゆう)次郎(じらう)兵衛(ひやうゑ)盛嗣(もりつぐ)これを承(うけたまは)って逐(お)ひ留(と)め参(まゐ)らせんと頻(しきり)に進(すす)み出(い)でけるが、人々(ひとびと)に制(せい)せられて留(とど)まりけり。

 小松三位中将(こまつのさんみのちゆうじやう)維盛(これもり)卿(きやう)は、日(ひ)ごろよりおぼしめし設(まう)けられたりけれども、指当(さしあた)っては悲(かなし)しかりけり。北方(きたのかた)と申(まう)すは、故(こ)中御門(なかのみかど)新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)卿(きやう)の御娘(おんむすめ)なり。桃顔(たうがん)露(つゆ)に綻(ほころ)び、紅粉(こうふん)眼(まなこ)に媚(こび)をなし、柳髪(りうはつ)風(かぜ)に乱(みだ)るる粧(よそほひ)、また人(ひと)あるべしとも見(み)えたまはず。六代(ろくだい)御前(おんまへ)とて、生年(しやうねん)十(じふ)になりたまふ若(わか)君(きみ)、その妹(いもうと)八歳(はつさい)の姫(ひめ)君(きみ)おはしけり。この人々(ひとびと)皆(みな)後(おく)れじと慕(した)ひたまへば、三位中将(さんみのちゆうじやう)のたまひけるは、

「日(ひ)ごろ申(まう)ししやうに、われは一門(いちもん)に具(ぐ)して、西国(さいこく)の方(かた)へ落(お)ち行(ゆ)くなり。いづくまでも具足(ぐそく)し奉(たてまつ)るべけれども、道(みち)にも敵(かたき)待(ま)つなれば、心(こころ)安(やす)う通(とほ)らん事(こと)もありがたし。縦(たと)ひわれ討(う)たれたりと聞(き)きたまふとも、やうなど替(か)へたまふ事(こと)はゆめゆめあるべからず。その故(ゆゑ)は、いかならん人(ひと)にも見(み)えて、身(み)をも助(たす)け、少(ちひさ)き者(もの)どもをも育(はぐく)みたまふべし。情(なさけ)を懸(か)くる人(ひと)も、などかなかるべき」

 と、慰(なぐさ)めたまへども、北方(きたのかた)とかうの返事(へんじ)もしたまはず引(ひ)き被(かづ)いてぞ臥(ふ)したまふ。既(すで)に打(う)ち立(た)たんとしたまへば、袖(そで)にすがって、

「都(みやこ)には父(ちち)もなし母(はは)もなし、捨(す)てられ参(まゐ)らせて後(のち)、誰(たれ)にかは身(み)をなげき、いかならん人(ひと)にも見(み)えよなど承(うけたまは)るこそ恨(うら)めしけれ。前世(ぜんぜ)の契(ちぎ)りありければ、人(ひと)こそ憐(あはれ)みたまふとも、また人(ひと)毎(ごと)にもや情(なさけ)を懸(か)くべき。いづくまでも伴(ともな)ひ奉(たてまつ)り、同(おな)じ野原(のはら)の露(つゆ)とも消(き)え、一(ひと)つ底(そこ)の水(みづ)屑(くづ)ともならんとこそ契(ちぎ)りしに、されば小夜(さよ)の寝覚(ねざめ)の睦語(むつごと)は、皆(みな)偽(いつはり)になりにけり。責(せ)めては身(み)一(ひと)つならばいかにがせん。捨(す)てられ奉(たてまつ)る身(み)の憂(う)さ、思(おも)ひ知(し)りても留(とど)まりなん。少(ちひさ)き者(もの)どもをば、誰(たれ)に見(み)譲(ゆづ)り、いかににせよとかおぼしめす。恨(うら)めしうも留(と)めたまふもの哉(かな)」

 と、且(かつ)は恨(うら)み且(かつ)は慕(した)ひたまへば、三位中将(さんみのちゆうじやう)のたまひけるは、

「まことに人(ひと)は十三(じふさん)、われは十五(じふご)より見初(みそ)め奉(たてまつ)り、火(ひ)の中(なか)水(みづ)の底(そこ)へも、倶(とも)に入(い)り倶(とも)に沈(しづ)み、限(かぎ)ある別路(わかれぢ)までも後(おく)れ先立(さきだ)たじとこそ申(まう)ししかども、かく心(こころ)憂(う)き有様(ありさま)にて、軍(いくさ)の陣(ぢん)へ趣(おもむ)けば、具足(ぐそく)し奉(たてまつ)って、行方(ゆくへ)も知(し)らぬ旅(たび)の空(そら)にて、憂目(うきめ)を見(み)せ奉(たてまつ)らんも、うたてかるべし。その上(うへ)今度(こんど)は用意(ようい)も候(さうら)はず。いづくの浦(うら)にも心(こころ)安(やす)う落(お)ち著(き)いたらば、それよりこそ迎(むか)へに人(ひと)をも奉(たてまつ)らめ」

 とて、思(おも)ひ切(き)ってぞ立(た)たれける。中門(ちゆうもん)の廊(らう)に出(い)でて、鎧(よろひ)取(と)って著(き)、馬(むま)引(ひ)き寄(よ)せさせ、既(すで)に乗(の)らんとしたまへば、若(わか)君(きみ)姫(ひめ)君(きみ)走(はし)り出(い)でて、父(ちち)の鎧(よろひ)の袖(そで)、草(くさ)摺(ずり)に取(と)り付(つ)き、

「これはされば何地(いづち)へとて、渡(わた)せたまふぞ。われも参(まゐ)らん、われも行(ゆ)かん」

 と面々(めんめん)に慕(した)ひ泣(な)きたまふにぞ、浮世(うきよ)のきづなと覚(おぼ)えて、三位中将(さんみのちゆうじやう)、いとど為方(せんかた)なげには見(み)えられける。

 さるほどに御弟(おんおとと)新三位中将(しんさんみのちゆうじやう)資盛(すけもり)卿(きやう)、左中将(さちゆうじやう)清経(きよつね)、同(おな)じき少将(せうしやう)有盛(ありもり)、丹後(たんご)侍従(じじゆう)忠房(ただふさ)、備中守(びつちゆうのかみ)師盛(もろもり)、兄弟(きやうだい)五(ご)騎(き)馬(むま)に乗(の)りながら、門(もん)の中(なか)へ打(う)ち入(い)り、庭(には)にひかへて、

「行幸(ぎやうかう)は遥(はるか)に延(の)させたまひぬらん、いかにや今(いま)まで」

 と、声々(こゑごゑ)に申(まう)されければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)馬(むま)に打(う)ち乗(の)って出(い)でたまふが、なほ引(ひ)き返(かへ)し、縁(えん)の際(きは)へうち寄(よ)せて、弓(ゆみ)の弭(はず)で御簾(みす)をさと掻(か)き揚(あ)げ、

「これ御覧(ごらん)ぜよおのおの、少(ちひさ)き者(もの)どもが余(あま)りに慕(した)ひ候(さうら)ふを、とかうこしらへ置(お)かんと仕(つかまつ)るほどに、存(ぞん)の外(ほか)の遅参(ちさん)」

 とのたまひもあへず、泣(な)かれければ、庭(には)にひかへたまへる人々(ひとびと)、皆(みな)鎧(よろひ)の袖(そで)をぞ濡(ぬ)されける。

 ここに斉藤五(さいとうご)、斉藤六(さいとうろく)とて、兄(あに)は十九(じふく)、弟(おとと)は十七(じふしち)になる侍(さぶらひ)あり。三位中将(さんみのちゆうじやう)の御馬(おんむま)の左右(さいう)のみづつきに取著(とりつ)き、いづくまでも御(おん)とも仕(つかまつ)るべき由(よし)申(まう)せば、三位中将(さんみのちゆうじやう)のたまひけるは、

「己等(おのら)が父(ちち)斉藤別当(さいとうべつたう)北国(ほくこく)へ下(くだ)りし時(とき)、なんぢ等(ら)が頻(しきり)に伴(ともな)せうといひしかども、存(ぞん)ずる旨(むね)があるぞとて、なんぢ等(ら)を留(と)め置(お)き、北国(ほくこく)へ下(した)って遂(つひ)に討(う)ち死(し)にしたりけるは、かかるべかりける事(こと)を、故(ゆゑ)い者(もの)で、兼(か)ねて知(し)りたりけるにこそ。あの六代(ろくだい)を留(と)めて行(ゆ)くに、心(こころ)安(やす)う扶持(ふち)すべき者(もの)のなきぞ。誰(たれ)理(ことわり)を枉(ま)げて留(とど)まれ」

 とのたまへば、力(ちから)及(およ)ばず、涙(なみだ)を押(お)へて留(とど)まりぬ。北方(きたのかた)は、

「年(とし)ごろ日(ひ)ごろ、これほど情(なさけ)なかりける人(ひと)とこそ、兼(か)ねても思(おも)はざりしか」

 とて臥(ふ)しまろびてぞ泣(な)かれける。若(わか)君(きみ)姫(ひめ)君(きみ)女房達(にようばうたち)は、御簾(みす)の外(ほか)までまろびいで、人(ひと)の聞(き)きをも憚(はばか)らず声(こゑ)をはかりにぞ喚(をめ)き叫(さけ)びたまひける。この声々(こゑごゑ)耳(みみ)の底(そこ)に留(とど)まって、西海(さいかい)の立(た)つ浪(なみ)の上(うへ)、吹(ふ)く風(かぜ)の音(おと)までも聞(き)くやうにこそ思(おも)はれけめ。

 平家(へいけ)都(みやこ)を落(お)ち行(ゆ)くに、六波羅(ろくはら)、池殿(いけどの)、小松(こまつ)殿(どの)、八条(はちでう)、西八条(にしはちでう)以下(いげ)、一門(いちもん)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)の家々(いへいへ)、二十(にじふ)余(よ)箇所(かしよ)、次々(つぎつぎ)の輩(ともがら)の宿所々々(しゆくしよしゆくしよ)、京(きやう)白川(しらかは)に四五万(しごまん)の在家(ざいけ)一度(いちど)に火(ひ)をかけて、皆(みな)焼(や)き払(はら)ふ。

聖主臨幸

 あるいは聖主(せいしゆ)臨幸(りんかう)の地(ち)なり。鳳闕(ほうけつ)空(むな)しく礎(いしずゑ)を残(のこ)し、鸞輿(らんよ)ただ跡(あと)を留(とど)む。あるいは后妃(こうひ)遊宴(いうえん)の砌(みぎり)なり。椒房(せうばう)の嵐(あらし)声(こゑ)悲(かなし)み、掖庭(えきてい)の露(つゆ)色(いろ)愁(うれへ)ふ。粧鏡翠帳(さうきやうすゐちやう)の基(もと)、戈林釣渚(かりんてうしよ)の館(やかた)、槐棘(くわいきよく)の座(ざ)、鴛鸞(ゑんらん)の栖(すみか)、多日(たじつ)の経営(けいえい)を空(むな)うして、片時(へんじ)の灰燼(くわいじん)となり果(は)てぬ。況(いはん)や郎従(らうじゆう)の蓬篳(ほうひつ)においてをや。況(いはん)や雑人(ざふにん)の屋舎(をくしや)においてをや。余炎(よえん)の及(およ)ぶ所(ところ)、在々所々(ざいざいしよしよ)数十町(すじふちやう)なり。強呉(きやうご)忽(たちまち)に亡(ほろ)びて、姑蘇台(こそだい)の露(つゆ)荊棘(けいきよく)に移(うつ)り、暴秦(ばうしん)既(すで)に衰(おとろ)へて、咸陽宮(かんやうきゆう)の烟(けぶり)陛階(へいけい)を隠(かく)しけんも、かくやと覚(おぼ)えて哀(あはれ)なり。日(ひ)ごろは函谷二崤(かんこくにかう)の嶮(けは)しきを固(かた)うせしかども、北狄(ほくてき)のためにこれを破(やぶ)られ、今(いま)は江河涇渭(かうがけいゐ)の深(ふか)きを憑(たの)みしかども、東夷(とうい)のためにこれを取(と)られたり。豈(あに)図(はか)らんや、忽(たちまち)に礼儀(れいぎ)の郷(さと)を攻(せ)め出(いだ)されて、泣(な)く泣(な)く無智(むち)の境(さかひ)に身(み)を寄(よ)せんとは。昨日(きのふ)は雲(くも)の上(うへ)にて雨(あめ)を降(ふ)らす神龍(しんりよう)たりき。今日(けふ)は肆(いちくら)の辺(ほとり)に水(みづ)を失(うしな)ふ枯魚(こぎよ)の如(ごと)し。禍福(くわふく)道(みち)を同(どう)うし、盛衰(せいすゐ)掌(たなごころ)を反(かへ)す。今(いま)目前(もくぜん)にあり、誰(たれ)かこれを悲(かなし)しまざらん。

 保元(ほうげん)の昔(むかし)は春(はる)の花(はな)と栄(さか)えしかども、寿永(じゆえい)の今(いま)は秋(あき)の紅葉(もみぢ)と落(お)ち果(は)てぬ。去(さ)んぬる治承(ぢしやう)四年(しねん)七月(しちぐわつ)大番(おほばん)のために上洛(じやうらく)したりける畠山(はたけやま)庄司(しやうじ)重能(しげよし)、小山田(をやまだ)別当(べつたう)有重(ありしげ)、宇都宮(うつのみや)左衛門尉(さゑもんのじよう)朝綱(ともつな)、寿永(じゆえい)まで、召(め)し籠(こ)められたりしが、その時(とき)既(すで)に斬(き)るべかりしを、新中納言(しんちゆうなごん)知盛(とももり)卿(きやう)申(まう)されけるは、

「御運(ごうん)だに尽(つ)きさせたまひなば、これら百千(ひやくせん)人(ひと)が頸(くび)を斬(き)らせたまひたりとも、世(よ)を取(と)らせたまはん事(こと)難(かた)かるべし。故郷(こきやう)には妻子(さいし)所従等(しよじゆうら)いかにに歎(なげ)き悲(かなし)み候(さうら)ふらん。若(わか)し不思議(ふしぎ)に運命(うんめい)開(ひら)けて、また都(みやこ)へ立(た)ち帰(かへ)らせたまはん時(とき)は、ありがたき御(おん)情(なさけ)でこそ候(さうら)はんずれ。ただ理(ことわり)を枉(ま)げて、本国(ほんごく)へ返(かへ)し遣(つか)はさるべうや候(さうら)ふらむ」

 と申(まう)されければ、大臣(おとど)殿(どの)、

「この議(ぎ)尤(もつとも)も然(しか)るべし」

 とて暇(いとま)をたまふ。これら首(かうべ)を地(ち)に著(き)け、涙(なみだ)を流(なが)いて申(まう)しけるは、

「去(さ)んぬる治承(ぢしやう)より今(いま)までかひなき命(いのち)を扶(たす)けられ参(まゐ)らせて候(さうら)へば、いづくまでも御供(おんとも)仕(つかまつ)って行幸(ぎやうかう)の御(おん)ゆくへを見参(み)らせん」

 と頻(しきり)に申(まう)しけれども、大臣(おとど)殿(どの)、

「なんぢ等(ら)が魂(たましひ)は皆(みな)東国(とうごく)にこそあるらんに、ぬけがらばかり西国(さいこく)へ召(め)し具(ぐ)すべきやうなし。急(いそ)ぎ下(くだ)れ」

 とおほせられければ、涙(なみだ)を押(お)へて下(くだ)りけり。これらも二十余年(にじふよねん)の主(ぬし)なれば、別(わか)れの涙(なみだ)押(お)へ難(かた)し。

忠度都落

 薩摩守忠度(さつまのかみただのり)は、いづくよりか帰(かへ)られたりけん、侍(さぶらひ)五(ご)騎(き)、童(わらは)一人(ひとり)、わが身(み)共(とも)に七(しち)騎(き)取(と)って返(かへ)し、五(ご)条(でう)の三位(さんみ)俊成(としなり)卿(きやう)の宿所(しゆくしよ)におはして見(み)たまへば門戸(もんこ)をとぢて開(ひら)かず。忠度(ただのり)と名(な)乗(の)りたまへば、落人(おちうど)帰(かへ)り来(き)たりとて、その内(うち)噪(さわ)ぎあへり。

 薩摩守(さつまのかみ)馬(むま)より下(お)り、みづから高(たか)らかにのたまひけるは、

「別(べつ)の子細(しさい)候(さうら)はず、三位(さんみ)殿(どの)に申(まう)すべき事(こと)あって、忠度(ただのり)が帰(かへ)り参(まゐ)って候(さうら)ふ。門(もん)を開(ひら)かれずとも、この際(きは)まで立(た)ち寄(よ)らせたまへ」

 とのたまへば、俊成(としなり)卿(きやう)、

「さる事(こと)あるらん。その人(ひと)ならば苦(くる)しかるまじ。入(い)れ申(まう)せ」

 とて、門(もん)をあけて対面(たいめん)あり。事(こと)の体(てい)何(なに)となうあはれなり。薩摩守(さつまのかみ)のたまひけるは、

「年(とし)ごろ申(まう)し承(うけたまは)って後(のち)、愚(をろか)ならぬ御(おん)事(こと)に思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)へども、この二三年(にさんねん)は京都(きやうと)の噪(さわぎ)、国々(くにぐに)の乱(みだれ)併(しかしながら)当家(たうけ)の身(み)の上(うへ)の事(こと)に候(さうら)ふ間(あひだ)疎(そ)略(りやく)を存(ぞん)せずといへども、常(つね)に参(まゐ)り寄(よ)る事(こと)も候(さうら)はず。君(きみ)既(すで)に都(みやこ)を出(い)でさせたまひぬ。一門(いちもん)の運命(うんめい)はや尽(つ)き候(さうら)ひぬ。撰集(せんじふ)のあるべき由(よし)承(うけたまは)りしかば、生涯(しやうがい)の面目(めんぼく)に、一首(いつしゆ)なりとも御恩(ごおん)を蒙(かうぶ)らうと存(ぞん)じて候(さうら)ひしに、やがて世(よ)の乱(みだれ)出(い)で来(き)て、その沙汰(さた)なく候(さうら)ふ条(でう)、ただ一身(いつしん)の歎(なげ)きと存(ぞん)じ候(さうら)ふ。世(よ)静(しづ)まり候(さうら)はなば勅(ちよく)撰(せん)の御(おん)沙汰(さた)候(さうら)はんずらん。これに候(さうら)ふ巻物(まきもの)の中(なか)に、さりぬべきもの候(さうら)はば、一首(いつしゆ)なりとも御恩(ごおん)を蒙(かうぶ)って、草(くさ)の蔭(かげ)にても嬉(うれ)しと存(ぞん)じ候(さうら)はば、遠(とほ)き御守(おんまもり)りとこそなり参(まゐ)らせ候(さうら)はんずれ」

 とて、日(ひ)ごろ詠(よ)み置(お)かれたる歌(うた)どもの中(なか)に、秀歌(しうか)と覚(おぼ)しきを百余首(ひやくよしゆ)書(か)き集(あつ)められたる巻物(まきもの)を、今(いま)はとて打(う)ち立(た)たれける時(とき)、これを取(と)って持(も)たれたりしが、鎧(よろひ)の引合(ひきあは)せより取(と)り出(い)でて、俊成(としなり)卿(きやう)に奉(たてまつ)る。三位(さんみ)これをあけて見(み)て、

「かかる忘(わす)れ形(かた)見(み)をたまはり置(お)き候(さうら)ひぬる上(うへ)は、ゆめゆめ疎(そ)略(りやく)を存(ぞん)ずまじう候(さうら)ふ。御疑(おんうたがひ)あるべからず。さてもただ今(いま)の御渡(おんわた)りこそ情(なさけ)も勝(すぐ)れて深(ふか)う、哀(あはれ)も殊(こと)に思(おも)ひしられて感涙(かんるゐ)抑(おさ)へ難(かた)う候(さうら)へ」

 とのたまへば、薩摩守(さつまのかみ)悦(よろこ)びて、

「今(いま)は西海(さいかい)の浪(なみ)の底(そこ)に沈(しづ)まば沈(しづ)め、山野(さんや)に尸(かばね)をさらさばさらせ、浮世(うきよ)に思(おも)ひ置(お)く事(こと)候(さうら)はず。さらば暇(いとま)申(まう)して」

 さて、馬(むま)に打(う)ち乗(の)り、甲(かぶと)の緒(を)をしめ、西(にし)を指(さ)いてぞ歩(あゆ)ませたまふ。三位(さんみ)後(のち)を遥(はるか)に見(み)送(おく)って立(た)たれたれば、忠度(ただのり)の声(こゑ)と覚(おぼ)しくて、

「前途(ぜんと)程(ほど)遠(とほ)し、思(おも)を雁山(がんざん)の夕(ゆふ)の雲(くも)に馳(は)す」

 と、高(たか)らかに口(くち)ずさみたまへば、俊成(としなり)卿(きやう)、いとど名残(なごり)惜(を)しう覚(おぼ)えて、涙(なみだ)を抑(おさ)へてぞ入(い)りたまふ。

 その後世(のちよ)静(しづ)まって、千載集(せんざいしふ)を撰(せん)ぜられけるに、忠度(ただのり)のありし有様(ありさま)、言(い)ひ置(お)きし言(い)の葉(は)、今更(いまさら)思(おも)ひ出(い)でて哀(あはれ)なりければ、かの巻物(まきもの)の中(なか)に、さりぬべき歌(うた)幾(いく)らもありけれども、勅勘(ちよくかん)の人(ひと)なれば、名字(みやうじ)をば顕(あらは)されず、

「故郷花(こきやうのはな)」

 といふ題(だい)にて詠(よ)まれたりける歌(うた)一首(いつしゆ)ぞ、読人(よみびと)しらずと入(い)られける。

さざ浪(なみ)や志賀(しが)の都(みやこ)はあれにしを、昔(むかし)ながらの山(やま)桜(さくら)かな。

 その身(み)朝敵(てうてき)となりにし上(うへ)は、子細(しさい)に及(およ)ばずといひながら、恨(うら)めしかりし事(こと)どもなり。

経正都落

 修理(しゆり)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)の子息(しそく)、皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)経正(つねまさ)、幼少(えうせう)にては、仁和寺(にんなじ)の御室(おむろ)の御所(ごしよ)に、童形(どうぎやう)にて、候(さうら)はれしかば、かかる怱劇(そうげき)の中(なか)にも、その御名残(おんなごり)惜(を)しとおぼし出(い)でて、侍(さぶらひ)五(ご)六(ろく)騎(き)具(ぐ)して、仁和寺(にんなじ)殿(どの)へ馳(は)せ参(まゐ)り、門前(もんぜん)にて馬(むま)より下(お)り、申(まう)し入(い)られけるは、

「一門(いちもん)運(うん)尽(つ)きて今日(けふ)既(すで)に帝都(ていと)を罷(まか)り出(い)で候(さうら)ふ。浮世(うきよ)に思(おも)ひ残(のこ)す事(こと)とては、ただ君(きみ)の御名残(おんなごり)ばかりなり。八歳(はつさい)の時(とき)参(まゐ)り始(はじ)め候(さうら)ひて、十三(じふさん)で元服(げんぶく)仕(つかまつ)り候(さうら)ひしまでは、相(あひ)労(いたは)る事(こと)の候(さうら)はぬ外(ほか)は、白地(あからさま)にも御前(おんまへ)を立(た)ち去(さ)る事(こと)も候(さうら)はざりしに、今日(けふ)より後(のち)西海(さいかい)千里(せんり)の浪(なみ)路(ぢ)に趣(おもむ)いて、また何(なに)の日(ひ)、何(なに)の時(とき)、帰(かへ)り参(まゐ)るべしとも覚(おぼ)えぬこそ口惜(くちを)う候(さうら)へ。今一度(いまいちど)御前(おんまへ)へ参(まゐ)って、君(きみ)をも見参(み)らせたう候(さうら)へども、既(すで)に甲冑(かつちう)を鎧(よろ)ひ弓箭(きゆうせん)を帯(たい)し、あらぬやうなる粧(よそほひ)に罷(まか)りなって候(さうら)へば、憚(はばか)り存(ぞん)じ候(さうら)ふ」

 とぞ申(まう)されける。御室(おむろ)哀(あはれ)におぼしめし、

「ただその姿(すがた)を改(あらた)めずして参(まゐ)れ」

 とこそおほせけれ。経正(つねまさ)その日(ひ)は、紫地(むらさきぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、萠黄匂(むえぎにをひ)の鎧(よろひ)著(き)て、長覆輪(ながふくりん)の太刀(たち)を帯(は)き、切斑(きりふ)の矢(や)負(お)ひ、滋籐(しげどう)の弓(ゆみ)脇(わき)に挟(はさ)み、甲(かぶと)をば脱(ぬ)ぎ高紐(たかひも)にかけ、御前(おんまへ)の御坪(おんつぼ)に畏(かしこ)まる。御室(おむろ)やがて御出(ぎよしゆつ)あって、御簾(みす)高(たか)く揚(あ)げさせ、

「これへこれへ」

 と召(め)されければ、大床(おほゆか)へこそ参(まゐ)られけれ。供(とも)に具(ぐ)せられたる藤兵衛(とうびやうゑ)有教(ありのり)を召(め)す。赤地(あかぢ)の錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れたる御(おん)琵琶(びは)持(も)って参(まゐ)ったり。経正(つねまさ)これを取(と)り次(つ)いで、御前(おんまへ)にさし置(お)き申(まう)されけるは、

「先年(せんねん)下(くだ)し預(あづ)かって候(さうら)ひし青山(せいざん)持(も)たせて参(まゐ)って候(さうら)ふ。余(あま)りに名残(なごり)は惜(を)しう候(さうら)へども、さしもの名物(めいぶつ)を、田舎(ゐなか)の塵(ちり)にならん事(こと)口惜(くちを)う候(さうら)ふ。若(わか)し不思議(ふしぎ)に運命(うんめい)開(ひら)けて、また都(みやこ)へ立(た)ち帰(かへ)る事(こと)候(さうら)はば、その時(とき)こそなほ下(くだ)し預(あづ)かり候(さうら)はめ」

 と泣(な)く泣(な)く申(まう)されければ、御室(おむろ)哀(あはれ)におぼしめし一首(いつしゆ)の御詠(ぎよえい)をあそばいて下(くだ)されけり。

あかずして別(わか)るる君(きみ)が名残(なごり)をば、後(のち)の形(かた)見(み)につつみてぞおく。

 経正(つねまさ)御(おん)硯(すずり)下(くだ)されて、

呉竹(くれたけ)のかけひの水(みづ)はかはれども、なほすみあかぬ宮(みや)の中(なか)かな。

 さては暇(いとま)申(まう)して出(い)でられけるに、数輩(すはい)の童形(どうぎやう)、出世者(しゆつせしや)、坊官(ばうくわん)、侍僧(じそう)に至(いた)るまで、経正(つねまさ)の袂(たもと)にすがり、袖(そで)を引(ひ)かへて、名残(なごり)を惜(をし)み、涙(なみだ)を流(なが)さぬはなかりけり。その中(なか)にも経正(つねまさ)幼少(えうせう)の時(とき)、小師(せうし)でおはせし大納言(だいなごん)法印(ほふいん)行慶(ぎやうけい)と申(まう)すは、葉室(はむろ)大納言(だいなごん)光頼(みつより)卿(きやう)の御子(おんこ)なり。余(あま)りに名残(なごり)を惜(をし)みて、桂(かつら)河(かは)の端(はし)まで打(う)ち送(おく)り、さてもあるべきならねばそれより暇(いとま)請(う)うて泣(な)く泣(な)く別(わか)れたまふに、法印(ほふいん)かうぞ思(おも)ひ続(つづ)けたまふ。

あはれなり老木(おいき)若(わか)木(き)も山(やま)桜(さくら)、おくれ先(さき)だち花(はな)は残(のこ)らじ。

 経正(つねまさ)の返事(へんじ)には、

旅衣(たびごろも)よなよな袖(そで)をかたしきて、思(おも)へばわれは遠(とほ)くゆきなん。

 さて、巻(ま)いて持(も)たせられたる赤旗(あかはた)、さと指(さ)し上(あ)げたり。あそこここにひかへて待(ま)ち奉(たてまつ)る侍(さぶらひ)ども、

「あはや」

 とて馳(は)せ集(あつ)まり、その勢(せい)百(ひやく)騎(き)ばかり鞭(むち)をあげ、駒(こま)を早(はや)めて、ほどなく行幸(ぎやうかう)に逐(お)ひつき奉(たてまつ)る。

青山之沙汰

 この経正(つねまさ)十七(じふしち)の年(とし)、宇佐(うさ)の勅使(ちよくし)を承(うけたまは)ってくだられけるに、その時(とき)青山(せいざん)をたまはって、宇佐(うさ)へ参(まゐ)り、御殿(ごてん)に向(む)ひ奉(たてまつ)り、秘曲(ひきよく)を弾(ひ)きたまひしかば、いつ聞(き)き馴(な)れたる事(こと)はなけれども、供(とも)の宮人(みやびと)推(お)し並(なら)べて、緑衣(りよくい)の袖(そで)をぞ絞(しぼ)りける。聞(き)き知(し)らぬ奴子(やつこ)までも村雨(むらさめ)とは紛(まぎ)はじな。目出(めで)たかりし事(こと)どもなり。

 かの青山(せいざん)と申(まう)す御(おん)琵琶(びは)は、昔(むかし)仁明(にんみやう)天(てん)皇(わう)御宇(ぎよう)、嘉祥(かしやう)三年(さんねん)の春(はる)、掃部頭(かもんのかみ)貞敏(さだとし)渡唐(とたう)の時(とき)、大唐(だいたう)の琵琶(びは)博士(はかせ)廉姜夫(れんしやうふ)に逢(あ)ひ、三曲(さんきよく)を伝(つた)へて帰朝(きてう)せしに、玄象(げんじやう)、獅子丸(ししまる)、青山(せいざん)、三面(さんめん)の琵琶(びは)を相伝(さうでん)して渡(わた)りけるが、龍神(りようじん)や惜(をし)みたまひけん、浪(なみ)風(かぜ)荒(あ)く立(た)ちければ、獅子丸(ししまる)をば海底(かいてい)に沈(しづ)めぬ。今(いま)二面(にめん)の琵琶(びは)を渡(わた)して、吾朝(ごてう)の御門(みかど)の御宝(おんたから)とす。

 村上(むらかみ)聖代(せいだい)応和(おうわ)のころほひ、三五夜中(さんごやちう)の新月(しんげつ)白(しろ)く冴(さ)え、涼風(りやうふう)颯々(さつさつ)たりし夜半(よなか)に、御門(みかど)清涼殿(せいりやうでん)にして、玄象(げんじやう)をぞ遊(あそ)されける。時(とき)に影(かげ)の如(ごと)くなる者(もの)、御前(おんまへ)に参(さん)じて、優(いう)にけだかき声(こゑ)にて、唱歌(しやうが)を目出(めで)たう仕(つかまつ)る。御門(みかど)御(おん)琵琶(びは)を差(さ)し置(お)かせたまひて、

「そもそもなんぢはいかなる者(もの)ぞ。いづくより来(きた)れるぞ」

 と御尋(おんたづ)ねあれば、

「これは昔(むかし)貞敏(さだとし)に三曲(さんきよく)を伝(つた)へし大唐(だいたう)の琵琶(びは)博士(はかせ)、廉姜夫(れんしやうふ)と申(まう)す者(もの)で候(さうら)ふが、三曲(さんきよく)の中(なか)、秘曲(ひきよく)を一曲(いつきよく)残(のこ)せるによって、魔道(まだう)に沈淪(ちんりん)仕(つかまつ)って候(さうら)ふ。今(いま)御(おん)琵琶(びは)の御撥音(おんばちおと)妙(めう)に聞(き)こえて侍(さぶらひ)る間(あひだ)、参入(さんにふ)仕(つかまつ)る所(ところ)なり。願(ねが)くはこの曲(きよく)を君(きみ)に授(さづ)け奉(たてまつ)り、仏果菩提(ぶつくわぼだい)を証(しよう)すべき」

 由(よし)申(まう)して、御前(おんまへ)に立(た)てられたる青山(せいざん)を取(と)り、転手(てんじゆ)をねぢて、秘曲(ひきよく)を君(きみ)に授(さづ)け奉(たてまつ)る。三曲(さんきよく)の中(なか)に上玄(じやうげん)、石上(せきじやう)これなり。その後(のち)は、君(きみ)も臣(しん)も恐(おそ)れさせたまひて、この御(おん)琵琶(びは)を遊(あそ)し弾(ひ)く事(こと)もせさせたまはず、御室(おむろ)へ参(まゐ)らせられたりけるを、経正(つねまさ)の幼少(えうせう)の時(とき)御最愛(ごさいあい)の童形(どうぎやう)たるによって、下(くだ)し預(あづ)かりたりけるとかや。甲(かふ)は紫藤(しとう)の甲(かふ)、夏(なつ)山(やま)の嶺(みね)の緑(みどり)の木間(このま)より、有明(ありあけ)の月(つき)の出(い)づるを、撥面(ばちめん)に書(か)かれたりける故(ゆゑ)にこそ、青山(せいざん)とは付(つ)けられたれ。玄象(げんじやう)にも相(あひ)劣(おと)らぬ希代(きたい)の名物(めいぶつ)なりけり。

一門都落

 池(いけ)の大納言(だいなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)も、池殿(いけどの)に火(ひ)を懸(か)けて出(い)でられけるが、鳥羽(とば)の南(みなみ)の門(もん)に引(ひ)かへつつ、

「忘(わす)れたる事(こと)あり」

 とて、赤印(あかじるし)切(き)り捨(す)て、その勢(せい)三百余騎(さんびやくよき)都(みやこ)へ取(と)って帰(かへ)られけり。平家(へいけ)の侍(さぶらひ)越中(ゑつちゆう)次郎(じらう)兵衛(ひやうゑ)盛嗣(もりつぐ)、大臣(おとど)殿(どの)の御前(おんまへ)に馳(は)せ参(まゐ)って、

「あれ、御覧(ごらん)候(さうら)へ、池殿(いけどの)の御(おん)留(とど)まり候(さうら)ふに、多(おほ)くの侍(さぶらひ)どもの付(つ)き参(まゐ)らせて、罷(まか)り留(とど)まるが、奇怪(きつくわい)に覚(おぼ)え候(さうら)ふ。大納言(だいなごん)殿(どの)までは恐(おそ)れも候(さうら)ふ、侍(さぶらひ)どもに矢(や)一(ひと)つ射(い)懸(か)け候(さうら)はん」

 と申(まう)しければ、

「年(とし)ごろの重恩(ぢゆうおん)を忘(わす)れて、今(いま)この有様(ありさま)を見(み)果(は)てぬ不当人(ふたうじん)をば、さなくともあらなん」

 とのたまへば、力(ちから)及(およ)ばで留(とど)まりけり。

「さて小松(こまつ)殿(どの)の君達(きんだち)はいかに」

 とのたまへば、

「いまだ御一所(おんひとところ)も見(み)えさせたまはず」

 と申(まう)す。その時(とき)、新中納言(しんちゆうなごん)殿(どの)、涙(なみだ)をはらはらと流(なが)いて、

「都(みやこ)を出(い)でていまだ一日(いちにち)だにも過(す)ぎざるに、何(なに)しか人(ひと)の心(こころ)どもの変(かは)り行(ゆ)くうたてさよ。まして行末(ゆくすゑ)とてもさこそはあらんずらめとおぼしかば都(みやこ)の内(うち)でいかにもならんと、申(まう)しつるものを」

 とて、大臣(おとど)殿(どの)の御方(おんかた)を、世(よ)にも恨(うら)げにこそ見(み)たまひけれ。

 そもそも池殿(いけどの)の留(とど)まりたまふ事(こと)をいかにといふに兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、常(つね)は頼盛(よりもり)に情(なさけ)をかけて、

「御方(おんかた)をば全(まつた)く愚(をろか)に思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)はず。ただ故(こ)池殿(いけどの)の渡(わた)らせたまふとこそ存(ぞん)じ候(さうら)へ。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)も御照覧(ごせうらん)候(さうら)へ」

 など、度々(たびたび)誓(せい)状(じやう)を以(もつ)て申(まう)されける上(うへ)、平家(へいけ)追討(ついたう)のために討手(うつて)の使(つかひ)の上(のぼ)る度(ど)ごとに、

「相構(あひかま)へて池殿(いけどの)の侍(さぶらひ)どもに向(む)って弓(ゆみ)引(ひ)くな」

 と情(なさけ)を懸(か)くれば、

「一門(いちもん)の平家(へいけ)は運(うん)尽(つ)き既(すで)に都(みやこ)を落(お)ちぬ。今(いま)は兵衛佐(ひやうゑのすけ)に助(たす)けられんずるにこそ」

 とのたまひて、都(みやこ)へ帰(かへ)られけるとぞ聞(き)こえし。八条(はちでう)女院(にようゐん)の仁和寺(にんなじ)の常磐(ときは)殿(どの)に渡(わた)らせたまふに参(まゐ)り籠(こも)られけり。女院(にようゐん)の御(おん)乳母(めのと)子(こ)宰相(さいしやう)殿(どの)と申(まう)す女房(にようばう)に、相具(あひぐ)したまへるによってなり。

「自然(じねん)の事(こと)候(さうら)はば、頼盛(よりもり)構(かま)へて助(たす)けさせたまへ」

 と申(まう)されけれども、女院(にようゐん)、

「今(いま)は世(よ)の世(よ)にてもあらばこそ」

 とて、憑気(たのもしげ)もなうぞおほせける。およそは兵衛佐(ひやうゑのすけ)ばかりこそ、芳心(はうしん)は存(ぞん)ぜらるるとも、自余(じよ)の源氏(げんじ)どもはいかにあらんずらん。憖(なまじひ)に一門(いちもん)には離(はな)れたまひぬ。浪(なみ)にも磯(いそ)にも付(つ)かぬ心地(ここち)ぞせられける。

 さるほどに、小松(こまつ)殿(どの)の君達(きんだち)は三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛(これもり)卿(きやう)を始(はじ)め奉(たてまつ)って、兄弟(きやうだい)六人(ろくにん)その勢(せい)千(せん)騎(き)ばかりにて淀(よど)の六田河原(むたがはら)にて、行幸(ぎやうかう)に追(お)ひ付(つ)き奉(たてまつ)る。大臣(おとど)殿(どの)待(ま)ちうけ奉(たてまつ)り嬉(うれし)げにて、

「いかにや今(いま)まで」

 とのたまへば、三位中将(さんみのちゆうじやう)、

「少(ちひさ)き者(もの)どもが余(あま)りに慕(した)ひ候(さうら)ふを、とかうこしらへ置(お)かんと遅参(ちさん)仕(つかまつ)り候(さうら)ひぬ」

 と申(まう)されければ、大臣(おとど)殿(どの)、

「などや心(こころ)つよう六代(ろくだい)殿(どの)をば具(ぐ)し奉(たてまつ)りたまひ候(さうら)はぬぞ」

 とのたまへば、維盛(これもり)卿(きやう)、

「行末(ゆくすゑ)とても憑(たのも)しうも候(さうら)はず」

 とて、問(と)ふにつらさの涙(なみだ)を流(なが)されけるこそ悲(かなし)しけれ。

 落(お)ち行(ゆ)く平家(へいけ)は誰々(たれたれ)ぞ。前内大臣(さきのないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、平(へい)大納言(だいなごん)時忠(ときただ)、平(へい)中納言(ちゆうなごん)教盛(のりもり)、新中納言(しんちゆうなごん)知盛(とももり)、修理(しゆり)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)、右衛門督(うゑもんのかみ)清宗(きよむね)、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)、小松三位中将(こまつのさんみのちゆうじやう)維盛(これもり)、新三位中将(しんさんみのちゆうじやう)資盛(すけもり)、越前(ゑちぜん)三位(さんみ)通盛(みちもり)、殿上人(てんじやうびと)には、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)、讃岐(さぬき)中将(ちゆうじやう)時実(ときざね)、左中将(さちゆうじやう)清経(きよつね)、小松(こまつ)少将(せうしやう)有盛(ありもり)、丹後(たんご)侍従(じじゆう)忠房(ただふさ)、皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)経正(つねまさ)、左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、能登守教経(のとのかみのりつね)、武蔵守(むさしのかみ)知明(ともあきら)、備中守(びつちゆうのかみ)師盛(もろもり)、淡路守(あはぢのかみ)清房(きよふさ)、尾張守(をはりのかみ)清定(きよさだ)、若狭守(わかさのかみ)経俊(つねとし)、兵部少輔(ひやうぶのせうふ)正明(まさあきら)、蔵人(くらんど)大夫(だいぶ)成盛(なりもり)、大夫(だいぶ)敦盛(あつもり)、僧(そう)には二位僧都(にゐのそうづ)専親(せんしん)、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん)、中納言(ちゆうなごん)律師(りつし)仲快(ちうくわい)、経誦坊(きやうじゆばう)阿闍梨(あじやり)祐円(いうゑん)、侍(さぶらひ)には受領(ずりやう)、検非違使(けびゐし)、衛府(ゑふ)、諸司(しよし)百六十人(ひやくろくじふにん)、都合(つがふ)その勢(せい)七(しち)千(せん)余騎(よき)、これは東国(とうごく)北国(ほくこく)度々(たびたび)の軍(いくさ)にこの二(に)三(さん)箇年(かねん)が間(あひだ)、討(う)ち洩(も)れて、僅(わづか)に残(のこ)る所(ところ)なり。

 山(やま)崎(さき)関戸院(せきどゐん)に玉(たま)の御輿(おんこし)を舁(か)き居(ゐ)て、男(をとこ)山(やま)を伏(ふ)し拝(をが)み、平大納言時忠卿(へいだいなごんときただのきやう)、

「南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、君(きみ)を始(はじ)め参(まゐ)らせて、われら都(みやこ)へ帰(かへ)し入(い)れさせたまへ」

 と祈(いの)られけるこそ悲(かなし)しけれ。おのおの後(のち)を顧(かへり)みたまへば、霞(かすみ)める空(そら)の心地(ここち)して、烟(けぶり)のみ心細(こころぼそ)く立(た)ちのぼる。平(へい)中納言(ちゆうなごん)教盛(のりもり)卿(きやう)、

はかなしな主(ぬし)は雲井(くもゐ)に別(わか)るれば、跡(あと)は烟(けぶり)とたちのぼるかな。

 まことに故郷(こきやう)をやけの原(はら)にかへり見(み)て、末(すゑ)もけぶりのなみぢをぞ行(ゆ)く。

故郷(こきやう)をば、一片(いつぺん)の烟塵(えんぢん)に隔(へだ)てつつ、前途(ぜんと)万里(ばんり)の雲(くも)路(ぢ)に赴(おもむ)かれけん人々(ひとびと)の心(こころ)の中(なか)、推量(おしはか)られて哀(あはれ)なり。

 肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)は、川尻(かはじり)に源氏(げんじ)待(ま)つと聞(き)いて、蹴(け)散(ち)さんとて、五百余騎(ごひやくよき)で発向(はつかう)したりけるが、僻(ひが)事(こと)なれば帰(かへ)り上(のぼ)るほどに、宇度野(うどの)の辺(ほとり)にて行幸(ぎやうかう)に参(まゐ)り合(あ)ふ。貞能(さだよし)馬(むま)より飛(と)び下(お)り、弓(ゆみ)脇(わき)挟(はさ)み大臣(おとど)殿(どの)の御前(おんまへ)に、畏(かしこ)まって申(まう)しけるは、

「これは、そもそも何地(いづち)へとて落(お)とさせたまふやらん。西国(さいこく)へ下(くだ)させたまひたらば、落人(おちうど)とて、あそこここにて討(う)ち散(ち)らされ浮名(うきな)を流(なが)させたまはん事(こと)こそ口惜(くちを)う候(さうら)へ。ただ都(みやこ)のうちでこそ、いかにもならせたまはめ」

 と申(まう)しければ、大臣(おとど)殿(どの)、

「貞能(さだよし)は知(し)らぬか。木曽(きそ)すでに北国(ほくこく)より五(ご)万(まん)余騎(よき)で攻(せ)め上(のぼ)り、比叡山(ひえいざん)東坂本(ひがしざかもと)に満々(まんまん)たんなり。この夜半(よなか)ばかり法皇(ほふわう)も渡(わた)らせたまはず。おのおのが身(み)ばかりならばいかにがせん、女院(にようゐん)二位殿(にゐどの)に目(め)の当(あた)り憂目(うきめ)を見(み)せ参(まゐ)らせんも、心(こころ)苦(くる)しければ、行幸(ぎやうかう)をもなし参(まゐ)らせ、人々(ひとびと)をも引(ひ)き具(ぐ)し奉(たてまつ)って、一(いち)まともやと思(おも)ふぞかし」

 とおほせられければ、

「さ候(さうら)はば、貞能(さだよし)は暇(いとま)たまはって、都(みやこ)でいかにもなり候(さうら)はん」

 とて、召(め)し具(ぐ)したる五百余騎(ごひやくよき)の勢(せい)をば、小松(こまつ)殿(どの)の君達(きんだち)に付(つ)け奉(たてまつ)り、手(て)勢(せい)三(さん)十(じふ)騎(き)ばかりで都(みやこ)へ引(ひ)かへす。

 京中(きやうぢゆう)に残(のこ)り留(とど)まる平家(へいけ)の余(よ)党(たう)を伐(き)たんとて、貞能(さだよし)が帰(かへ)り入(い)る由(よし)聞(き)こえしかば、池(いけ)大納言(だいなごん)、

「頼盛(よりもり)が身(み)の上(うへ)でぞあらん」

 とて、大(おほ)に怖(こは)れ噪(さわ)がれけり。貞能(さだよし)は、西八条(にしはちでう)の焼跡(やけあと)に、大幕(おほまく)ひかせ一夜(いちや)宿(やど)したりけれども、帰(かへ)り入(い)りたまふ平家(へいけ)の君達(きんだち)一所(いつしよ)もましまさねば、さすが心細(こころぼそ)うや思(おも)ひけん、源氏(げんじ)の馬(むま)の蹄(てい)に懸(か)らじとて、小松(こまつ)殿(どの)の御(おん)墓(はか)掘(ほ)らせ、御(おん)骨(ほね)に向(む)ひ奉(たてまつ)って、泣(な)く泣(な)く申(まう)しけるは、

「あな浅(あさ)まし、御(おん)一門(いちもん)の御果(おんはて)御覧(ごらん)候(さうら)へ。『生(う)ある者(もの)は必滅(ひつめつ)す。楽(たの)しみ尽(つ)きて悲(かなし)み来(く)る』と古(ふる)より書(か)き置(お)きたる事(こと)にて候(さうら)へども、まのあたりかかる憂事(うきこと)候(さうら)はず。君(きみ)はかやうの事(こと)を先(さき)づ悟(さと)らせたまひて、兼(か)ねて仏神(ぶつじん)三宝(さんぼう)に御祈誓(ごきせい)あって、御(おん)世(よ)を早(はや)うせさせましましけるにこそ。有(あり)難(かた)うこそ覚(おぼ)え候(さうら)へ。その時(とき)貞能(さだよし)も最後(さいご)の御供(おんとも)仕(つかまつ)るべう候(さうら)ひけるものを、かひなき命(いのち)を生(い)きて、今(いま)はかかる憂目(うきめ)に逢(あ)ひ候(さうら)ふ事(こと)こそ口惜(くちを)う候(さうら)へ。死(し)期(ご)の時(とき)は、必(かなら)ず一仏土(いちぶつど)へ迎(むか)へさせたまへ」

 と泣(な)く泣(な)く遥(はるか)に掻(か)き口説(くど)き、骨(ほね)をば高野(かうや)へ送(おく)り、あたりの土(つち)をば賀茂(かも)川(かは)に流(なが)させ、世(よ)の有様(ありさま)たのもしからずや思(おも)ひけん、主(ぬし)と後合(しりあはせ)に、東国(とうごく)へこそ落(お)ち行(ゆ)けれ。宇都宮(うつのみや)をば貞能(さだよし)が申(まう)し預(あづ)かって、情(なさけ)ありければ、その好(よしみ)にや貞能(さだよし)また宇都宮(うつのみや)を頼(たの)うで下(くだ)られければ芳心(はうしん)しけるとぞ聞(き)こえし。

福原落

 平家(へいけ)は小松三位中将(こまつのさんみのちゆうじやう)維盛(これもり)卿(きやう)の外(ほか)は、大臣(おとど)殿(どの)以下(いげ)妻子(さいし)を具(ぐ)せられけれども、次様(つぎざま)の人(ひと)どもはさのみ引(ひ)きしろふに及(およ)ばねば、後会(ごくわい)その期(ご)を知(し)らず、皆(みな)打(う)ち捨(す)ててぞ落(お)ち行(ゆ)ける。人(ひと)は何(いづ)れの日(ひ)、何(いづ)れの時(とき)、必(かなら)ず立(た)ち帰(かへ)るべしとその期(ご)を定(さだ)め置(お)くだにも、久(ひさ)しきぞかし。況(いはん)やこれは今日(けふ)を最後(さいご)、ただ今(いま)限(かぎ)りの事(こと)なれば、行(ゆ)くも止(と)まるも、互(たがひ)に袖(そで)をぞ湿(しめ)しける。相伝(さうでん)譜代(ふだい)の好(よしみ)、年(とし)ごろ日(ひ)ごろの重恩(ぢゆうおん)、いかでか忘(わす)るべきなれば、老(お)いたるも若(わか)きも、後(うしろ)のみ帰(かへ)り見(み)て、前(まへ)へは進(すす)みもやらざりけり。あるいは磯(いそ)辺(ほとり)の波(なみ)枕(まくら)、八重(やへ)の潮(しほ)路(ぢ)に日(ひ)を暮(く)し、あるいは遠(とほ)きを分(わ)け、嶮(けは)しきを凌(しの)ぎつつ、駒(こま)に鞭(むち)打(う)つ人(ひと)もあり舟(ふね)にさをさす者(もの)もあり、思々(おもひおもひ)心々(こころごころ)に落(お)ち行(ゆ)けり。

 平家(へいけ)は福原(ふくはら)の旧都(きうと)に著(き)いて、大臣(おとど)殿(どの)然(しか)るべき侍(さぶらひ)ども老少(らうせう)数(すう)百人(ひやくにん)召(め)しておほせられけるは、

「積善(せきぜん)の余慶(よけい)家(いへ)に尽(つ)き、積悪(せきあく)の余殃(よわう)身(み)に及(およ)ぶ故(ゆゑ)に、神明(しんめい)にも放(はな)たれ奉(たてまつ)り、君(きみ)にも捨(す)てられ参(まゐ)らせて、帝都(ていと)を出(い)でて旅泊(りよはく)に漂(ただよ)ふ上(うへ)は、何(なに)の憑(たの)みかあるべきなれども、一樹(いちじゆ)の蔭(かげ)に宿(やど)るも、前世(ぜんぜ)の契(ちぎ)浅(あさ)からず、同(おな)じ流(なが)を掬(むす)ぶも、他生(たしやう)の縁(えん)なほ深(ふか)し。いかに況(いはん)や、なんぢ等(ら)は一旦(いつたん)随(したが)ひ付(つ)く門客(もんかく)にあらず、累祖(るゐそ)相伝(さうでん)の家人(けにん)なり。あるいは近親(きんしん)の好(よしみ)他(た)に異(こと)なるもあり、あるいは重代芳恩(ぢゆうだいはうおん)これ深(ふか)きもあり。家門(かもん)繁昌(はんじやう)の古(いにし)へは、恩波(おんぱ)によって、私(わたくし)を顧(かへり)みき。今(いま)何(なに)ぞ芳(はう)恩(おん)を酬(むく)ひざらんや。且(かつ)は十善(じふぜん)帝王(ていわう)、三種神器(さんしゆのしんぎ)を帯(たい)して渡(わた)らせたまへば、いかならん野(の)の末山(すゑやま)の奥(おく)までも、行幸(ぎやうかう)の御供(おんとも)仕(つかまつ)らんとは思(おも)はずや」

 とおほせられければ老少(らうせう)皆(みな)涙(なみだ)を流(なが)いて申(まう)しけるは、

「怪(あや)しの鳥獣(てうじゆう)も、恩(おん)を報(ほう)じ徳(とく)を酬(むく)ふ心(こころ)は候(さうら)ふなり。況(いはん)や、人倫(じんりん)の身(み)として、いかがその理(ことわり)を存知(ぞんぢ)仕(つかまつ)らでは候(さうら)ふべき。廿余年(にじふよねん)の間(あひだ)、妻子(さいし)を育(はぐく)み、所従(しよじゆう)を顧(かへり)み候(さうら)ふ事(こと)、併(しかしながら)君(きみ)の御恩(ごおん)ならずといふ事(こと)なし。就中(なかんづく)に弓箭(きゆうせん)馬上(ばじやう)に携(たづさ)はる習(なら)ひ、二心(ふたごころ)あるを以(もつ)て恥(はぢ)とす。然(しか)らば則(すなは)ち日本(にほん)の外(ほか)、新羅(しんら)、百済(くだら)、高麗(かうらい)、契丹(きつたん)、雲(くも)の果(はて)海(うみ)の果(は)までも、行幸(ぎやうかう)の御供(おんとも)仕(つかまつ)って、いかにもなり候(さうら)はん」

 と、異口同音(いくどうおん)に申(まう)しければ、人々(ひとびと)皆(みな)憑気(たのもしげ)にぞ見(み)えられける。

 福原(ふくはら)の旧里(きうり)に、一夜(いちや)をこそ明(あ)されけれ。折節(をりふし)秋(あき)の初(はじ)の月(つき)は下(した)の弦(げん)なり。深更(しんかう)空(そら)夜(よ)閑(しづか)にして、旅寝(たびね)の床(ゆか)の草(くさ)枕(まくら)、露(つゆ)も涙(なみだ)も争(あらそ)ひて、ただ物(もの)のみぞ悲(かなし)しき。何(いつ)帰(かへ)るべしとも覚(おぼ)えねば、故(こ)入道相国(にふだうしやうこく)の造(つく)り置(お)きたまひし所々(ところどころ)を見(み)たまふに、春(はる)は花(はな)見(み)の岡(をか)の御所(ごしよ)、秋(あき)は月(つき)見(み)の浜(はま)の御所(ごしよ)、泉(いづみ)殿(どの)、松陰殿(まつかげどの)、馬場(ばば)殿(どの)、二階(にかい)の桟敷(さじき)殿(どの)、雪(ゆき)見(み)の御所(ごしよ)、萱(かや)の御所(ごしよ)、人々(ひとびと)の館(やかた)ども五条大納言(ごでうのだいなごん)国綱卿(くにつなのきやう)の承(うけたまは)って造(つく)り進(すす)せられし里(さと)内裏(だいり)、鴦(わう)の瓦(かはら)、玉(たま)の甃(いしだたみ)、何(いづ)れも何(いづ)れも三年(さんねん)がほどに荒(あ)れ果(は)てて、旧苔(きうたい)径(こみち)を塞(ふさ)ぎ、秋(あき)の草(くさ)門(もん)を閉(とざ)づ。瓦(かはら)に松(まつ)生(お)ひ垣(がき)に蔦(つた)茂(しげ)れり。台(たい)傾(かたぶ)いて苔(こけ)むせり、松風(まつかぜ)ばかりや通(かよ)ふらん。簾(すだれ)絶(た)え閨(ねや)露(あら)はなり、月(つき)影(かげ)のみぞ差(さ)し入(い)りける。

 明(あ)けぬれば福原(ふくはら)の内裏(だいり)に火(ひ)を懸(か)けて、主上(しゆしやう)を始(はじ)め奉(たてまつ)って人々(ひとびと)皆(みな)御(おん)船(ふね)に召(め)す。都(みやこ)を立(た)ちしほどこそなけれどもこれも名残(なごり)は惜(を)しかりけり。海士(あま)の焼藻(やくも)の夕(ゆふ)煙(けぶり)、尾上(をのへ)の鹿(しか)の暁(あかつき)の声(こゑ)、渚々(なぎさなぎさ)に寄(よ)する浪(なみ)の音(おと)、袖(そで)に宿(やど)かる月(つき)の影(かげ)、千草(ちぐさ)にすだく蟋蟀(しつそつ)のきりきりす、総(そう)じて目(め)に見(み)え耳(みみ)に触(ふ)る事(こと)、一(いち)として哀(あはれ)を催(もよほ)し、心(こころ)を痛(いた)ましめずといふ事(こと)なし。

 昨日(きのふ)は東関(とうくわん)の麓(ふもと)に轡(くつわ)を並(なら)べて十万(じふまん)余騎(よき)、今日(けふ)は西海(さいかい)の浪(なみ)に纜(ともづな)を解(と)いて七千余人(しちせんよにん)、雲海(うんかい)沈々(ちんちん)として、青天(せいてん)既(すで)に暮(く)れなんとす。孤島(こたう)に夕(ゆふ)霧(きり)隔(へだ)て、月(つき)海上(かいしやう)に浮(うか)べり。極浦(きよくほ)の浪(なみ)を分(わ)け、艪(ろ)に引(ひ)かれて行(ゆ)く船(ふね)は、半天(はんてん)の雲(くも)に泝(さかのぼ)る。日(ひ)数(かず)経(へ)れば、都(みやこ)は既(すで)に山川(やまかは)ほどを隔(へだ)て、雲井(くもゐ)のよそにぞなりにける。遥々(はるばる)来(き)ぬと思(おも)ふにも、ただ尽(つ)きぬ者(もの)は涙(なみだ)なり。浪(なみ)の上(うへ)に白(しろ)き鳥(とり)のむれゐるを見(み)たまひては、かれならん、在(あり)原(はら)のなにがしの隅(すみ)田(た)川(かは)にて言問(ことと)ひけん、名(な)も睦(むつ)まじき都(みやこ)鳥(とり)にやと哀(あはれ)なり。寿永(じゆえい)二年(にねん)七月(しちぐわつ)二十五日(にじふごにち)に、平家(へいけ)都(みやこ)を落(お)ち果(は)てぬ。

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