『源氏物語』第46帖「椎本」原文全文

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第46帖「椎本」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第46帖「椎本」現代語訳全文をご覧ください。

目次

如月の二十日のほどに

 如月きさらぎの二十日はつかのほどに、兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみや、初瀬はつせに詣まうでたまふ。古ふるき御おほん願ぐわんなりけれど、思おぼしも立たたで年としごろになりにけるを、宇治うぢのわたりの御おほん中宿なかやどりのゆかしさに、多おほくは催もよほされたまへるなるべし。うらめしと言いふ人ひともありける里さとの名なの、なべて睦むつましう思おぼさるるゆゑもはかなしや。上達部かむだちめいとあまた仕つかうまつりたまふ。殿上人てんじゃうびとなどはさらにもいはず、世よに残のこる人ひと少すくなう仕つかうまつれり。

 六条院ろくでうのゐんより伝つたはりて、右大殿みぎのおほとの知しりたまふ所ところは、川かはより遠方をちに、いと広ひろくおもしろくてあるに、御おほんまうけせさせたまへり。大臣おとども、帰かへさの御おほん迎むかへに参まゐりたまふべく思おぼしたるを、にはかなる御おほん物忌ものいみの、重おもく慎つつしみたまふべく申まうしたなれば、え参まゐらぬ由よしのかしこまり申まうしたまへり。

 宮みや、なますさまじと思おぼしたるに、宰相中将さいしゃうのちうじゃう、今日けふの御おほん迎むかへに参まゐりあひたまへるに、なかなか心こころやすくて、かのわたりのけしきも伝つたへ寄よらむと、御心みこころゆきぬ。大臣おとどをば、うちとけて見みえにくく、ことことしきものに思おもひきこえたまへり。

 御子みこの君きみたち、右大弁うだいべん、侍従じじうの宰相さいしゃう、権中将ごんのちうじゃう、頭少将とうのせうしゃう、蔵人兵衛佐くらうどのひゃうゑのすけなど、さぶらひたまふ。帝みかど、后きさきも心こころことに思おもひきこえたまへる宮みやなれば、おほかたの御おほんおぼえもいと限かぎりなく、まいて六条院ろくでうのゐんの御おほん方かたざまは、次々つぎつぎの人ひとも、皆みな私わたくしの君きみに、心こころ寄よせ仕つかうまつりたまふ。

所につけて、御しつらひなど

 所ところにつけて、御おほんしつらひなどをかしうしなして、碁ご、双六すぐろく、弾棊たぎの盤ばんどもなど取とり出いでて、心々こころごころにすさび暮くらしたまふ。宮みやは、ならひたまはぬ御おほんありきに、悩なやましく思おぼされて、ここにやすらはむの御心みこころも深ふかければ、うち休やすみたまひて、夕ゆふつ方かたぞ、御琴おほんことなど召めして遊あそびたまふ。

 例れいの、かう世よ離はなれたる所ところは、水みづの音おとももてはやして、物ものの音ね澄すみまさる心地ここちして、かの聖ひじりの宮みやにも、たださし渡わたるほどなれば、追風おひかぜに吹ふき来くる響ひびきを聞ききたまふに、昔むかしのこと思おぼし出いでられて、

「笛ふえをいとをかしうも吹ふきとほしたなるかな。誰たならむ。昔むかしの六条院ろくでうのゐんの御おほん笛ふえの音ね聞ききしは、いとをかしげに愛敬あいぎゃうづきたる音ねにこそ吹ふきたまひしか。これは澄すみのぼりて、ことことしき気けの添そひたるは、致仕大臣ちじのおとどの御おほん族ぞうの笛ふえの音ねにこそ似にたなれ」など、独ひとりごちおはす。

「あはれに、久ひさしうなりにけりや。かやうの遊あそびなどもせで、あるにもあらで過すぐし来きにける年月としつきの、さすがに多おほく数かぞへらるるこそ、かひなけれ」

 などのたまふついでにも、姫君ひめぎみたちの御おほんありさまあたらしく、「かかる山懐やまふところにひき籠こめてはやまずもがな」と思おぼし続つづけらる。「宰相さいしゃうの君きみの、同おなじうは近ちかきゆかりにて見みまほしげなるを、さしも思おもひ寄よるまじかめり。まいて今いまやうの心浅こころあさからむ人ひとをば、いかでかは」など思おぼし乱みだれ、つれづれと眺ながめたまふ所ところは、春はるの夜よもいと明あかしがたきを、心こころやりたまへる旅寝たびねの宿やどりは、酔ゑの紛まぎれにいと疾とう明あけぬる心地ここちして、飽あかず帰かへらむことを、宮みやは思おぼす。

 はるばると霞かすみわたれる空そらに、散ちる桜さくらあれば今いま開あけそむるなど、いろいろ見みわたさるるに、川沿かはぞひ柳やなぎの起おきふしなびく水影みづかげなど、おろかならずをかしきを、見みならひたまはぬ人ひとは、いとめづらしく見捨みすてがたしと思おぼさる。

 宰相さいしゃうは、「かかるたよりを過すぐさず、かの宮みやにまうでばや」と思おぼせど、「あまたの人目ひとめをよきて、一人ひとり漕こぎ出いでたまはむ舟ふねわたりのほども軽かろらかにや」と思おもひやすらひたまふほどに、かれより御おほん文ふみあり。

「山風やまかぜに霞かすみ吹ふきとく声こゑはあれど隔へだてて見みゆる遠方をちの白しろ波なみ」

 草くさにいとをかしう書かきたまへり。宮みや、「思おぼすあたりの」と見みたまへば、いとをかしう思おもいて、「この御おほん返かへりはわれせむ」とて、

「遠方をちこちの汀みぎはに波なみは隔へだつともなほ吹ふきかよへ宇治うぢの川風かはかぜ」

中将は参うでたまふ

 中将ちうじゃうは参まうでたまふ。遊あそびに心こころ入いれたる君きみたち誘さそひて、さしやりたまふほど、酣酔楽かんすいらく遊あそびて、水みづに臨のぞきたる廊らうに造つくりおろしたる階はしの心こころばへなど、さる方かたにいとをかしう、ゆゑある宮みやなれば、人ひとびと心こころして舟ふねよりおりたまふ。

 ここはまた、さま異ことに、山里やまざとびたる網代屏風あじろびゃうぶなどの、ことさらにことそぎて、見所みどころある御おほんしつらひを、さる心こころしてかき払はらひ、いといたうしなしたまへり。いにしへの、音ねなどいと二になき弾ひきものどもを、わざとまうけたるやうにはあらで、次々つぎつぎ弾ひき出いでたまひて、壱越調いちこつでうの心こころに、桜人さくらびと遊あそびたまふ。

 主人あるじの宮みや、御琴おほんきんをかかるついでにと、人ひとびと思おもひたまへれど、箏さうの琴ことをぞ、心こころにも入いれず、折々をりをり掻かき合あはせたまふ。耳みみ馴なれぬけにやあらむ、「いともの深ふかくおもしろし」と、若わかき人ひとびと思おもひしみたり。

 所ところにつけたる饗応あるじ、いとをかしうしたまひて、よそに思おもひやりしほどよりは、なま孫王そんわうめくいやしからぬ人ひとあまた、大君おほいきみ、四位しゐの古ふるめきたるなど、かく人目ひとめ見みるべき折をりと、かねていとほしがりきこえけるにや、さるべき限かぎり参まゐりあひて、瓶子へいじ取とる人ひともきたなげならず、さる方かたに古ふるめきて、よしよししうもてなしたまへり。客人まらうとたちは、御おほん女むすめたちの住すまひたまふらむ御おほんありさま、思おもひやりつつ、心こころつく人ひともあるべし。

かの宮は、まいてかやすきほど

 かの宮みやは、まいてかやすきほどならぬ御おほん身みをさへ、所狭ところせく思おぼさるるを、かかる折をりにだにと、忍しのびかねたまひて、おもしろき花はなの枝えだを折をらせたまひて、御おほん供ともにさぶらふ上童うへわらはのをかしきしてたてまつりたまふ。

「山桜やまざくら匂にほふあたりに尋たづね来きて同おなじかざしを折をりてけるかな

野のを睦むつましみ」

 とやありけむ。「御おほん返かへりは、いかでかは」など、聞きこえにくく思おぼしわづらふ。

「かかる折をりのこと、わざとがましくもてなし、ほどの経ふるも、なかなか憎にくきことになむしはべりし」

 など、古人ふるびとども聞きこゆれば、中なかの君きみにぞ書かかせたてまつりたまふ。

「かざし折をる花はなのたよりに山賤やまがつの垣根かきねを過すぎぬ春はるの旅たび人ひと

野のをわきてしも」

 と、いとをかしげに、らうらうじく書かきたまへり。

 げに、川風かはかぜも心こころわかぬさまに吹ふき通かよふ物ものの音ねども、おもしろく遊あそびたまふ。御おほん迎むかへに、藤ふぢ大納言だいなごん、仰おほせ言ごとにて参まゐりたまへり。人ひとびとあまた参まゐり集つどひ、もの騒さわがしくてきほひ帰かへりたまふ。若わかき人ひとびと、飽あかず返かへり見みのみせられける。宮みやは、「またさるべきついでして」と思おぼす。

 花盛はなざかりにて、四方よもの霞かすみも眺ながめやるほどの見所みどころあるに、唐からのも大和やまとのも、歌うたども多おほかれど、うるさくて尋たづねも聞きかぬなり。

 もの騒さわがしくて、思おもふままにもえ言いひやらずなりにしを、飽あかず宮みやは思おぼして、しるべなくても御おほん文ふみは常つねにありけり。宮みやも、

「なほ、聞きこえたまへ。わざと懸想けさうだちてももてなさじ。なかなか心こころときめきにもなりぬべし。いと好すきたまへる親王みこなれば、かかる人ひとなむ、と聞ききたまふが、なほもあらぬすさびなめり」

 と、そそのかしたまふ時々ときどき、中なかの君きみぞ聞きこえたまふ。姫君ひめぎみは、かやうのこと、戯たはぶれにももて離はなれたまへる御心みこころ深ぶかさなり。

 いつとなく心細こころぼそき御おほんありさまに、春はるのつれづれは、いとど暮くらしがたく眺ながめたまふ。ねびまさりたまふ御おほんさま容貌かたちども、いよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦こころぐるしく、「かたほにもおはせましかば、あたらしう、惜をしき方かたの思おもひは薄うすくやあらまし」など、明あけ暮くれ思おぼし乱みだる。

 姉君あねぎみ二十五にじふご、中なかの君きみ二十三にじふさんにぞなりたまひける。

宮は、重く慎みたまふべき年

 宮みやは、重おもく慎つつしみたまふべき年としなりけり。もの心細こころぼそく思おぼして、御おほん行おこなひ常つねよりもたゆみなくしたまふ。世よに心こころとどめたまはねば、出いで立たちいそぎをのみ思おぼせば、涼すずしき道みちにも赴おもむきたまひぬべきを、ただこの御おほんことどもに、いといとほしく、限かぎりなき御心みこころ強づよさなれど、「かならず、今いまはと見捨みすてたまはむ御心みこころは、乱みだれなむ」と、見みたてまつる人ひとも推おし量はかりきこゆるを、思おぼすさまにはあらずとも、なのめに、さても人聞ひとぎき口惜くちをしかるまじう、見みゆるされぬべき際きはの人ひとの、真心まごころに後見うしろみきこえむ、など、思おもひ寄よりきこゆるあらば、知しらず顔がほにてゆるしてむ、一所ひとところ一所ひとところ世よに住すみつきたまふよすがあらば、それを見み譲ゆづる方かたに慰なぐさめおくべきを、さまで深ふかき心こころに尋たづねきこゆる人ひともなし。

 まれまれはかなきたよりに、好すきごと聞きこえなどする人ひとは、まだ若々わかわかしき人ひとの心こころのすさびに、物詣ものまうでの中宿なかやどり、行ゆき来きのほどのなほざりごとに、けしきばみかけて、さすがに、かく眺ながめたまふありさまなど推おし量はかり、あなづらはしげにもてなすは、めざましうて、なげのいらへをだにせさせたまはず。三さんの宮みやぞ、なほ見みではやまじと思おぼす御心みこころ深ふかかりける。さるべきにやおはしけむ。

宰相中将、その秋、中納言に

 宰相中将さいしゃうのちうじゃう、その秋あき、中納言ちうなごんになりたまひぬ。いとど匂にほひまさりたまふ。世よのいとなみに添そへても、思おぼすこと多おほかり。いかなることと、いぶせく思おもひわたりし年としごろよりも、心苦こころぐるしうて過すぎたまひにけむいにしへざまの思おもひやらるるに、罪つみ軽かろくなりたまふばかり、行おこなひもせまほしくなむ。かの老おい人ひとをばあはれなるものに思おもひおきて、いちじるきさまならず、とかく紛まぎらはしつつ、心こころ寄よせ訪とぶらひたまふ。

 宇治うぢに参まうでで久ひさしうなりにけるを、思おもひ出いでて参まゐりたまへり。七月しちがちばかりになりにけり。都みやこにはまだ入いりたたぬ秋あきのけしきを、音羽おとはの山やま近ちかく、風かぜの音おともいと冷ひややかに、槙まきの山辺やまべもわづかに色いろづきて、なほ尋たづね来きたるに、をかしうめづらしうおぼゆるを、宮みやはまいて、例れいよりも待まち喜よろこびきこえたまひて、このたびは、心細こころぼそげなる物語ものがたり、いと多おほく申まうしたまふ。

「亡なからむ後のち、この君きみたちを、さるべきもののたよりにもとぶらひ、思おもひ捨すてぬものに数かずまへたまへ」

 など、おもむけつつ聞きこえたまへば、

「一言ひとことにても承うけたまはりおきてしかば、さらに思おもうたまへおこたるまじくなむ。世よの中なかに心こころをとどめじと、はぶきはべる身みにて、何なにごとも頼たのもしげなき生おひ先さきの少すくなさになむはべれど、さる方かたにてもめぐらいはべらむ限かぎりは、変かはらぬ心こころざしを御覧ごらんじ知しらせむとなむ思おもうたまふる」

 など聞きこえたまへば、うれしと思おもいたり。

夜深き月の明らかにさし出でて

 夜深よぶかき月つきの明あきらかにさし出いでて、山やまの端近はしぢかき心地ここちするに、念誦ねんずいとあはれにしたまひて、昔物語むかしものがたりしたまふ。

「このころの世よは、いかがなりにたらむ。宮中くぢゅうなどにて、かやうなる秋あきの月つきに、御前おまへの御おほん遊あそびの折をりにさぶらひあひたる中なかに、ものの上手じゃうずとおぼしき限かぎり、とりどりにうち合あはせたる拍子ひゃうしなど、ことことしきよりも、よしありとおぼえある女御にょうご、更衣かういの御おほん局々つぼねつぼねの、おのがじしは挑いどましく思おもひ、うはべの情なさけを交かはすべかめるに、夜深よぶかきほどの人ひとの気けしめりぬるに、心こころやましく掻かい調しらべ、ほのかにほころび出いでたる物ものの音ねなど、聞きき所どころあるが多おほかりしかな。

何なにごとにも、女をんなは、もてあそびのつまにしつべく、ものはかなきものから、人ひとの心こころを動うごかすくさはひになむあるべき。されば、罪つみの深ふかきにやあらむ。子この道みちの闇やみを思おもひやるにも、男をとこは、いとしも親おやの心こころを乱みださずやあらむ。女をんなは、限かぎりありて、いふかひなき方かたに思おもひ捨すつべきにも、なほ、いと心苦こころぐるしかるべき」

 など、おほかたのことにつけてのたまへる、いかがさ思おぼさざらむ、心苦こころぐるしく思おもひやらるる御心みこころのうちなり。

「すべて、まことに、しか思おもうたまへ捨すてたるけにやはべらむ、みづからのことにては、いかにもいかにも深ふかう思おもひ知しる方かたのはべらぬを、げにはかなきことなれど、声こゑにめづる心こころこそ、背そむきがたきことにはべりけれ。さかしう聖ひじりだつ迦葉かせふも、さればや、立たちて舞まひはべりけむ」

 など聞きこえて、飽あかず一声ひとこゑ聞ききし御琴おほんことの音ねを、切せちにゆかしがりたまへば、うとうとしからぬ初はじめにもとや思おぼすらむ、御おほんみづからあなたに入いりたまひて、切せちにそそのかしきこえたまふ。箏さうの琴ことをぞ、いとほのかに掻かきならしてやみたまひぬる。いとど人ひとのけはひも絶たえて、あはれなる空そらのけしき、所ところのさまに、わざとなき御おほん遊あそびの心こころに入いりてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾ひき合あはせたまはむ。

「おのづからかばかりならしそめつる残のこりは、世よ籠こもれるどちに譲ゆづりきこえてむ」

 とて、宮みやは仏ほとけの御前おまへに入いりたまひぬ。

「われなくて草くさの庵いほりは荒あれぬともこのひとことはかれじとぞ思おもふ

かかる対面たいめんもこのたびや限かぎりならむと、もの心細こころぼそきに忍しのびかねて、かたくなしきひが言ごと多おほくもなりぬるかな」

 とて、うち泣なきたまふ。客人まらうと、

「いかならむ世よにかかれせむ長ながき世よの契ちぎりむすべる草くさの庵いほりは

相撲すまひなど、公事おほやけごとども紛まぎれはべるころ過すぎて、さぶらはむ」

 など聞きこえたまふ。

こなたにて、かの問はず語り

 こなたにて、かの問とはず語かたりの古人ふるびと召めし出いでて、残のこり多おほかる物語ものがたりなどせさせたまふ。入いり方かたの月つき、隈くまなくさし入いりて、透影すきかげなまめかしきに、君きみたちも奥おくまりておはす。世よの常つねの懸想けさうびてはあらず、心深こころぶかう物語ものがたりのどやかに聞きこえつつものしたまへば、さるべき御おほんいらへなど聞きこえたまふ。

「三さんの宮みや、いとゆかしう思おもいたるものを」と、心こころのうちには思おもひ出いでつつ、「わが心こころながら、なほ人ひとには異ことなりかし。さばかり御心みこころもて許ゆるいたまふことの、さしもいそがれぬよ。もて離はなれて、はたあるまじきこととは、さすがにおぼえず。かやうにてものをも聞きこえ交かはし、折をりふしの花はな紅葉もみぢにつけて、あはれをも情なさけをも通かよはすに、憎にくからずものしたまふあたりなれば、宿世すくせ異ことにて、他ほかざまにもなりたまはむは」、さすがに口惜くちをしかるべう、領りゃうじたる心地ここちしけり。

 まだ夜深よぶかきほどに帰かへりたまひぬ。心細こころぼそく残のこりなげに思おもいたりし御おほんけしきを、思おもひ出いできこえたまひつつ、「騒さわがしきほど過すぐして参まうでむ」と思おぼす。兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやも、この秋あきのほどに紅葉もみぢ見みにおはしまさむと、さるべきついでを思おぼしめぐらす。

 御おほん文ふみは、絶たえずたてまつりたまふ。女をんなは、まめやかに思おぼすらむとも思おもひたまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてなしつつ、折々をりをりに聞きこえ交かはしたまふ。

秋深くなりゆくままに

 秋あき深ふかくなりゆくままに、宮みやは、いみじうもの心細こころぼそくおぼえたまひければ、「例れいの、静しづかなる所ところにて、念仏ねんぶつをも紛まぎれなうせむ」と思おぼして、君きみたちにもさるべきこと聞きこえたまふ。

「世よのこととして、つひの別わかれを逃のがれぬわざなめれど、思おもひ慰なぐさまむ方かたありてこそ、悲かなしさをも覚さますものなめれ。また見み譲ゆづる人ひともなく、心細こころぼそげなる御おほんありさまどもを、うち捨すててむがいみじきこと。

されども、さばかりのことに妨さまたげられて、長ながき夜よの闇やみにさへ惑まどはむが益やくなさを。かつ見みたてまつるほどだに思おもひ捨すつる世よを、去さりなむうしろのこと、知しるべきことにはあらねど、わが身み一ひとつにあらず、過すぎたまひにし御おほん面伏おもてぶせに、軽々かるがるしき心こころどもつかひたまふな。

おぼろけのよすがならで、人ひとの言ことにうちなびき、この山里やまざとをあくがれたまふな。ただ、かう人ひとに違たがひたる契ちぎり異ことなる身みと思おぼしなして、ここに世よを尽つくしてむと思おもひとりたまへ。ひたぶるに思おもひなせば、ことにもあらず過すぎぬる年月としつきなりけり。まして、女をんなは、さる方かたに絶たえ籠こもりて、いちしるくいとほしげなる、よそのもどきを負おはざらむなむよかるべき」

 などのたまふ。ともかくも身みのならむやうまでは、思おぼしも流ながされず、ただ、「いかにしてか、後おくれたてまつりては、世よに片かた時ときもながらふべき」と思おぼすに、かく心細こころぼそきさまの御おほんあらましごとに、言いふ方かたなき御心みこころ惑まどひどもになむ。心こころのうちにこそ思おもひ捨すてたまひつらめど、明あけ暮くれ御おほんかたはらにならはいたまうて、にはかに別わかれたまはむは、つらき心こころならねど、げに恨うらめしかるべき御おほんありさまになむありける。

 明日あす、入いりたまはむとての日ひは、例れいならず、こなたかなた、たたずみ歩あゆきたまひて見みたまふ。いとものはかなく、かりそめの宿やどりにて過すぐいたまひける御おほん住すまひのありさまを、「亡なからむのち、いかにしてかは、若わかき人ひとの絶たえ籠こもりては過すぐいたまはむ」と、涙なみだぐみつつ念誦ねんずしたまふさま、いときよげなり。

 おとなびたる人ひとびと召めし出いでて、

「うしろやすく仕つかうまつれ。何なにごとも、もとよりかやすく、世よに聞きこえあるまじき際きはの人ひとは、末すゑの衰おとろへも常つねのことにて、紛まぎれぬべかめり。かかる際きはになりぬれば、人ひとは何なにと思おもはざらめど、口惜くちをしうてさすらへむ、契ちぎりかたじけなく、いとほしきことなむ、多おほかるべき。もの寂さびしく心細こころぼそき世よを経ふるは、例れいのことなり。

生むまれたる家いへのほど、おきてのままにもてなしたらむなむ、聞きき耳みみにも、わが心地ここちにも、過あやまちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数ひとかずめかむと思おもふとも、その心こころにもかなふまじき世よとならば、ゆめゆめ軽々かるがるしく、よからぬ方かたにもてなしきこゆな」

 などのたまふ。

 まだ暁あかつきに出いでたまふとても、こなたに渡わたりたまひて、

「無なからむほど、心細こころぼそくな思おぼしわびそ。心こころばかりはやりて遊あそびなどはしたまへ。何なにごとも思おもふにえかなふまじき世よを。思おぼし入いられそ」

 など、返かへり見みがちにて出いでたまひぬ。二所ふたところ、いとど心細こころぼそくもの思おもひ続つづけられて、起おき臥ふしうち語かたらひつつ、

「一人ひとり一人ひとりなからましかば、いかで明あかし暮くらさまし」

「今いま、行ゆく末すゑも定さだめなき世よにて、もし別わかるるやうもあらば」

 など、泣なきみ笑ゑひみ、戯たはぶれごともまめごとも、同おなじ心こころに慰なぐさめ交かはして過すぐしたまふ。

かの行ひたまふ三昧

 かの行おこなひたまふ三昧さんまい、今日けふ果はてぬらむと、いつしかと待まちきこえたまふ夕ゆふ暮くに、人ひと参まゐりて、

「今朝けさより、悩なやましくてなむ、え参まゐらぬ。風邪かぜかとて、とかくつくろふとものするほどになむ。さるは、例れいよりも対面たいめん心こころもとなきを」

 と聞きこえたまへり。胸むねつぶれて、いかなるにかと思おぼし嘆なげき、御衣おほんぞども綿わた厚あつくて、急いそぎせさせたまひて、たてまつれなどしたまふ。二に、三日みか怠おこたりたまはず。「いかに、いかに」と、人ひとたてまつりたまへど、

「ことにおどろおどろしくはあらず。そこはかとなく苦くるしうなむ。すこしもよろしくならば、今いま、念ねんじて」

 など、言葉ことばにて聞きこえたまふ。阿闍梨あざりつとさぶらひて仕つかうまつりける。

「はかなき御おほん悩なやみと見みゆれど、限かぎりのたびにもおはしますらむ。君きみたちの御おほんこと、何なにか思おぼし嘆なげくべき。人ひとは皆みな、御おほん宿世すくせといふもの異々ことごとなれば、御心みこころにかかるべきにもおはしまさず」

 と、いよいよ思おぼし離はなるべきことを聞きこえ知しらせつつ、「今いまさらにな出いでたまひそ」と、諌いさめ申まうすなりけり。

 八月はちがち二十日はつかのほどなりけり。おほかたの空そらのけしきもいとどしきころ、君きみたちは、朝あさ夕ゆふ、霧きりの晴はるる間まもなく、思おぼし嘆なげきつつ眺ながめたまふ。有明ありあけの月つきのいとはなやかにさし出いでて、水みづの面おもてもさやかに澄すみたるを、そなたの蔀しとみ上あげさせて、見み出いだしたまへるに、鐘かねの声こゑかすかに響ひびきて、「明あけぬなり」と聞きこゆるほどに、人ひとびと来きて、

「この夜中よなかばかりになむ、亡うせたまひぬる」

 と泣なく泣なく申まうす。心こころにかけて、いかにとは絶たえず思おもひきこえたまへれど、うち聞ききたまふには、あさましくものおぼえぬ心地ここちして、いとどかかることには、涙なみだもいづちか去いにけむ、ただうつぶし臥ふしたまへり。

 いみじき目めも、見みる目めの前まへにておぼつかなからぬこそ、常つねのことなれ、おぼつかなさ添そひて、思おぼし嘆なげくこと、ことわりなり。しばしにても、後おくれたてまつりて、世よにあるべきものと思おぼしならはぬ御心地みここちどもにて、いかでかは後おくれじと泣なき沈しづみたまへど、限かぎりある道みちなりければ、何なにのかひなし。

阿闍梨、年ごろ契りおきたまひける

 阿闍梨あざり、年としごろ契ちぎりおきたまひけるままに、後のちの御おほんこともよろづに仕つかうまつる。

「亡なき人ひとになりたまへらむ御おほんさま容貌かたちをだに、今いま一度ひとたび見みたてまつらむ」

 と思おぼしのたまへど、

「今いまさらに、なでふさることかはべるべき。日ひごろも、また会あひたまふまじきことを聞きこえ知しらせつれば、今いまはまして、かたみに御心みこころとどめたまふまじき御心みこころ遣つかひを、ならひたまふべきなり」

 とのみ聞きこゆ。おはしましける御おほんありさまを聞ききたまふにも、阿闍梨あざりのあまりさかしき聖心ひじりごころを、憎にくくつらしとなむ思おぼしける。

 入道にふだうの御おほん本意ほいは、昔むかしより深ふかくおはせしかど、かう見み譲ゆづる人ひとなき御おほんことどもの見捨みすてがたきを、生いける限かぎりは明あけ暮くれえ避さらず見みたてまつるを、よに心細こころぼそき世よの慰なぐさめにも、思おぼし離はなれがたくて過すぐいたまへるを、限かぎりある道みちには、先さきだちたまふも慕したひたまふ御心みこころも、かなはぬわざなりけり。

 中納言ちうなごん殿とのには、聞ききたまひて、いとあへなく口惜くちをしく、今いま一度ひとたび、心こころのどかにて聞きこゆべかりけること多おほう残のこりたる心地ここちして、おほかた世よのありさま思おもひ続つづけられて、いみじう泣ないたまふ。「またあひ見みること難かたくや」などのたまひしを、なほ常つねの御心みこころにも、朝あさ夕ゆふの隔へだて知しらぬ世よのはかなさを、人ひとよりけに思おもひたまへりしかば、耳みみ馴なれて、昨日きのふ今日けふと思おもはざりけるを、かへすがへす飽あかず悲かなしく思おぼさる。

 阿闍梨あざりのもとにも、君きみたちの御おほん弔とぶらひも、こまやかに聞きこえたまふ。かかる御おほん弔とぶらひなど、また訪おとづれきこゆる人ひとだになき御おほんありさまなるは、ものおぼえぬ御心地みここちどもにも、年としごろの御心みこころばへのあはれなめりしなどをも、思おもひ知しりたまふ。

「世よの常つねのほどの別わかれだに、さしあたりては、またたぐひなきやうにのみ、皆人みなひとの思おもひ惑まどふものなめるを、慰なぐさむかたなげなる御おほん身みどもにて、いかやうなる心地ここちどもしたまふらむ」と思おぼしやりつつ、後のちの御おほんわざなど、あるべきことども、推おし量はかりて、阿闍梨あざりにも訪とぶらひたまふ。ここにも、老おい人ひとどもにことよせて、御誦経みずきゃうなどのことも思おもひやりたまふ。

明けぬ夜の心地ながら

 明あけぬ夜よの心地ここちながら、九月くがちにもなりぬ。野山のやまのけしき、まして袖そでの時雨しぐれをもよほしがちに、ともすればあらそひ落おつる木この葉はの音おとも、水みづの響ひびきも、涙なみだの滝たきも、一ひとつもののやうに暮くれ惑まどひて、「かうては、いかでか、限かぎりあらむ御おほん命いのちも、しばしめぐらいたまはむ」と、さぶらふ人ひとびとは、心細こころぼそく、いみじく慰なぐさめきこえつつ。

 ここにも念仏ねんぶつの僧そうさぶらひて、おはしましし方かたは、仏ほとけを形かた見みに見みたてまつりつつ、時々ときどき参まゐり仕つかうまつりし人ひとびとの、御忌おほんいみに籠こもりたる限かぎりは、あはれに行おこなひて過すぐす。

 兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやよりも、たびたび弔とぶらひきこえたまふ。さやうの御おほん返かへりなど、聞きこえむ心地ここちもしたまはず。おぼつかなければ、「中納言ちうなごんにはかうもあらざなるを、我われをばなほ思おもひ放はなちたまへるなめり」と、恨うらめしく思おぼす。紅葉もみぢの盛さかりに、文ふみなど作つくらせたまはむとて、出いで立たちたまひしを、かく、このわたりの御おほん逍遥せうえう、便びんなきころなれば、思おぼしとまりて口惜くちをしくなむ。

御忌も果てぬ

 御忌おほんいみも果はてぬ。限かぎりあれば、涙なみだも隙ひまもやと思おぼしやりて、いと多おほく書かき続つづけたまへり。時雨しぐれがちなる夕ゆふつ方かた、

「牡鹿をじか鳴なく秋あきの山里やまざといかならむ小萩こはぎが露つゆのかかる夕ゆふ暮く

ただ今いまの空そらのけしき、思おぼし知しらぬ顔かほならむも、あまり心こころづきなくこそあるべけれ。枯かれゆく野辺のべも、分わきて眺ながめらるるころになむ」

 などあり。

「げに、いとあまり思おもひ知しらぬやうにて、たびたびになりぬるを、なほ、聞きこえたまへ」

 など、中なかの宮みやを、例れいの、そそのかして、書かかせたてまつりたまふ。

「今日けふまでながらへて、硯すずりなど近ちかくひき寄よせて見みるべきものとやは思おもひし。心憂こころうくも過すぎにける日数ひかずかな」と思おぼすに、またかきくもり、もの見みえぬ心地ここちしたまへば、押おしやりて、

「なほ、えこそ書かきはべるまじけれ。やうやうかう起おきゐられなどしはべるが、げに、限かぎりありけるにこそとおぼゆるも、疎うとましう心憂こころうくて」

 と、らうたげなるさまに泣なきしをれておはするも、いと心苦こころぐるし。

 夕ゆふ暮くのほどより来きける御おほん使つかひ、宵よひすこし過すぎてぞ来きたる。「いかでか、帰かへり参まゐらむ。今宵こよひは旅寝たびねして」と言いはせたまへど、「立たち帰かへりこそ、参まゐりなめ」と急いそげば、いとほしうて、我われさかしう思おもひしづめたまふにはあらねど、見みわづらひたまひて、

「涙なみだのみ霧きりふたがれる山里やまざとは籬まがきに鹿しかぞ諸声もろごゑに鳴なく」

 黒くろき紙かみに、夜よの墨すみつきもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、筆ふでにまかせて、おし包つつみて出いだしたまひつ。

御使は、木幡の山のほども

 御おほん使つかひは、木幡こはたの山やまのほども、雨あめもよにいと恐おそろしげなれど、さやうのもの懼おぢすまじきをや選えり出いでたまひけむ、むつかしげなる笹ささの隈くまを、駒こまひきとどむるほどもなくうち早はやめて、片かた時ときに参まゐり着つきぬ。御前おまへにても、いたく濡ぬれて参まゐりたれば、禄ろく賜たまふ。

 さきざき御覧ごらんぜしにはあらぬ手ての、今いますこしおとなびまさりて、よしづきたる書かきざまなどを、「いづれか、いづれならむ」と、うちも置おかず御覧ごらんじつつ、とみにも大殿籠おほとのごもらねば、

「待まつとて、起おきおはしまし」

「また御覧ごらんずるほどの久ひさしきは、いかばかり御心みこころにしむことならむ」

 と、御前おまへなる人ひとびと、ささめき聞きこえて、憎にくみきこゆ。ねぶたければなめり。

 まだ朝霧あさぎり深ふかき朝あさに、いそぎ起おきてたてまつりたまふ。

「朝霧あさぎりに友ともまどはせる鹿しかの音ねをおほかたにやはあはれとも聞きく

諸声もろごゑは劣おとるまじくこそ」

 とあれど、「あまり情なさけだたむもうるさし。一所ひとところの御おほん蔭かげに隠かくろへたるを頼たのみ所どころにてこそ、何なにごとも心こころやすくて過すごしつれ。心こころよりほかにながらへて、思おもはずなることの紛まぎれ、つゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思おぼしおくめりしなき御おほん魂たましひにさへ、疵きずやつけたてまつらむ」と、なべていとつつましう恐おそろしうて、聞きこえたまはず。

 この宮みやなどを、軽かろらかにおしなべてのさまにも思おもひきこえたまはず。なげの走はしり書かいたまへる御おほん筆ふでづかひ言ことの葉はも、をかしきさまになまめきたまへる御おほんけはひを、あまたは見み知しりたまはねど、見みたまひながら、「そのゆゑゆゑしく情なさけある方かたに、言ことをまぜきこえむも、つきなき身みのありさまどもなれば、何なにか、ただ、かかる山伏やまぶしだちて過すぐしてむ」と思おぼす。

中納言殿の御返りばかりは

 中納言ちうなごん殿とのの御おほん返かへりばかりは、かれよりもまめやかなるさまに聞きこえたまへば、これよりも、いとけうとげにはあらず聞きこえ通かよひたまふ。御忌おほんいみ果はてても、みづから参まうでたまへり。東ひむがしの廂ひさしの下くだりたる方かたにやつれておはするに、近ちかう立たち寄よりたまひて、古人ふるびと召めし出いでたり。

 闇やみに惑まどひたまへる御おほんあたりに、いとまばゆく匂にほひ満みちて入いりおはしたれば、かたはらいたうて、御おほんいらへなどをだにえしたまはねば、

「かやうには、もてないたまはで、昔むかしの御心みこころむけに従したがひきこえたまはむさまならむこそ、聞きこえ承うけたまはるかひあるべけれ。なよびけしきばみたる振ふる舞まひをならひはべらねば、人ひと伝つたてに聞きこえはべるは、言ことの葉はも続つづきはべらず」

 とあれば、

「あさましう、今いままでながらへはべるやうなれど、思おもひさまさむ方かたなき夢ゆめにたどられはべりてなむ、心こころよりほかに空そらの光ひかり見みはべらむもつつましうて、端近はしぢかうもえみじろきはべらぬ」

 と聞きこえたまへれば、

「ことといへば、限かぎりなき御心みこころの深ふかさになむ。月日つきひの影かげは、御心みこころもて晴はれ晴はれしくもて出いでさせたまはばこそ、罪つみもはべらめ。行ゆく方かたもなく、いぶせうおぼえはべり。また思おぼさるらむは、しばしをも、あきらめきこえまほしくなむ」

 と申まうしたまへば、

「げに、こそ。いとたぐひなげなめる御おほんありさまを、慰なぐさめきこえたまふ御心みこころばへの浅あさからぬほど」など、聞きこえ知しらす。

御心地にも、さこそいへ

 御心地みここちにも、さこそいへ、やうやう心こころしづまりて、よろづ思おもひ知しられたまへば、昔むかしざまにても、かうまではるけき野辺のべを分わけ入いりたまへる心こころざしなども、思おもひ知しりたまふべし、すこしゐざり寄よりたまへり。

 思おぼすらむさま、またのたまひ契ちぎりしことなど、いとこまやかになつかしう言いひて、うたて雄々ををしきけはひなどは見みえたまはぬ人ひとなれば、け疎うとくすずろはしくなどはあらねど、知しらぬ人ひとにかく声こゑを聞きかせたてまつり、すずろに頼たのみ顔がほなることなどもありつる日ひごろを思おもひ続つづくるも、さすがに苦くるしうて、つつましけれど、ほのかに一言ひとことなどいらへきこえたまふさまの、げに、よろづ思おもひほれたまへるけはひなれば、いとあはれと聞ききたてまつりたまふ。

 黒くろき几帳きちゃうの透影すきかげの、いと心苦こころぐるしげなるに、ましておはすらむさま、ほの見みし明あけぐれなど思おもひ出いでられて、

「色いろ変かはる浅茅あさぢを見みても墨染すみぞめにやつるる袖そでを思おもひこそやれ」

 と、独ひとり言ごとのやうにのたまへば、

「色いろ変かはる袖そでをば露つゆの宿やどりにてわが身みぞさらに置おき所どころなき

はつるる糸いとは」

 と末すゑは言いひ消きちて、いといみじく忍しのびがたきけはひにて入いりたまひぬなり。

ひきとどめなどすべきほどにも

 ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、飽あかずあはれにおぼゆ。老おい人ひとぞ、こよなき御おほん代かはりに出いで来きて、昔むかし今いまをかき集つどめ、悲かなしき御おほん物語ものがたりども聞きこゆ。ありがたくあさましきことどもをも見みたる人ひとなりければ、かうあやしく衰おとろへたる人ひととも思おぼし捨すてられず、いとなつかしう語かたらひたまふ。

「いはけなかりしほどに、故院こゐんに後おくれたてまつりて、いみじう悲かなしきものは世よなりけりと、思おもひ知しりにしかば、人ひととなりゆく齢よはひに添そへて、官位つかさくらゐ、世よの中なかの匂にほひも、何なにともおぼえずなむ。

ただ、かう静しづやかなる御おほん住すまひなどの、心こころにかなひたまへりしを、かくはかなく見みなしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめの世よの思おもひ知しらるる心こころも、もよほされにたれど、心苦こころぐるしうて、とまりたまへる御おほんことどもの、ほだしなど聞きこえむは、かけかけしきやうなれど、ながらへても、かの御言おほんことあやまたず、聞きこえ承うけたまはらまほしさになむ。

さるは、おぼえなき御おほん古ふる物語ものがたり聞ききしより、いとど世よの中なかに跡あととめむともおぼえずなりにたりや」

 うち泣なきつつのたまへば、この人ひとはましていみじく泣なきて、えも聞きこえやらず。御おほんけはひなどの、ただそれかとおぼえたまふに、年としごろうち忘わすれたりつるいにしへの御おほんことをさへとり重かさねて、聞きこえやらむ方かたもなく、おぼほれゐたり。

 この人ひとは、かの大納言だいなごんの御おほん乳母子めのとごにて、父ちちは、この姫君ひめぎみたちの母はは北きたの方かたの、母方ははかたの叔父をぢ、左中弁さちうべんにて亡うせにけるが子こなりけり。年としごろ、遠とほき国くににあくがれ、母君ははぎみも亡うせたまひてのち、かの殿とのには疎うとくなり、この宮みやには、尋たづね取とりてあらせたまふなりけり。人ひともいとやむごとなからず、宮仕みやづかへ馴なれにたれど、心地ここちなからぬものに宮みやも思おぼして、姫君ひめぎみたちの御おほん後見うしろみだつ人ひとになしたまへるなりけり。

 昔むかしの御おほんことは、年としごろかく朝あさ夕ゆふに見みたてまつり馴なれ、心こころ隔へだつる隈くまなく思おもひきこゆる君きみたちにも、一言ひとことうち出いで聞きこゆるついでなく、忍しのびこめたりけれど、中納言ちうなごんの君きみは、「古人ふるびとの問とはず語かたり、皆みな、例れいのことなれば、おしなべてあはあはしうなどは言いひ広ひろげずとも、いと恥はづかしげなめる御心みこころどもには、聞ききおきたまへらむかし」と推おし量はからるるが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、「またもて離はなれてはやまじ」と、思おもひ寄よらるるつまにもなりぬべき。

今は旅寝もすずろなる心地して

 今いまは旅寝たびねもすずろなる心地ここちして、帰かへりたまふにも、「これや限かぎりの」などのたまひしを、「などか、さしもやは、とうち頼たのみて、また見みたてまつらずなりにけむ、秋あきやは変かはれる。あまたの日数ひかずも隔へだてぬほどに、おはしにけむ方かたも知しらず、あへなきわざなりや。ことに例れいの人ひとめいたる御おほんしつらひなく、いとことそぎたまふめりしかど、いとものきよげにかき払はらひ、あたりをかしくもてないたまへりし御おほん住すまひも、大徳だいとこたち出いで入いり、こなたかなたひき隔へだてつつ、御おほん念誦ねんずの具ぐどもなどぞ、変かはらぬさまなれど、仏ほとけは皆みなかの寺てらに移うつしたてまつりてむとす」と聞きこゆるを、聞ききたまふにも、かかるさまの人影ひとかげなどさへ絶たえ果はてむほど、とまりて思おもひたまはむ心地ここちどもを汲くみきこえたまふも、いと胸むねいたう思おぼし続つづけらる。

「いたく暮くれはべりぬ」と申まうせば、眺ながめさして立たちたまふに、雁かり鳴なきて渡わたる。

「秋霧あきぎりの晴はれぬ雲居くもゐにいとどしくこの世よをかりと言いひ知しらすらむ」

兵部卿宮に対面したまふ時は

 兵部卿宮ひゃうぶきゃうのみやに対面たいめんしたまふ時ときは、まづこの君きみたちの御おほんことを扱あつかひぐさにしたまふ。「今いまはさりとも心こころやすきを」と思おぼして、宮みやは、ねむごろに聞きこえたまひけり。はかなき御おほん返かへりも、聞きこえにくくつつましき方かたに、女をんな方かたは思おもいたり。

「世よにいといたう好すきたまへる御おほん名なのひろごりて、好すましく艶えんに思おぼさるべかめるも、かういと埋うづもれたる葎むぐらの下したよりさし出いでたらむ手てつきも、いかにうひうひしく、古ふるめきたらむ」など思おもひ屈くしたまへり。

「さても、あさましうて明あけ暮くらさるるは、月日つきひなりけり。かく、頼たのみがたかりける御世みよを、昨日きのふ今日けふとは思おもはで、ただおほかた定さだめなきはかなさばかりを、明あけ暮くれのことに聞きき見みしかど、我われも人ひとも後おくれ先さきだつほどしもやは経へむ、などうち思おもひけるよ」

「来きし方かたを思おもひ続つづくるも、何なにの頼たのもしげなる世よにもあらざりけれど、ただいつとなくのどやかに眺ながめ過すぐし、もの恐おそろしくつつましきこともなくて経へつるものを、風かぜの音おとも荒あらかに、例れい見みぬ人影ひとかげも、うち連つれ声こゑづくれば、まづ胸むねつぶれて、もの恐おそろしくわびしうおぼゆることさへ添そひにたるが、いみじう堪たへがたきこと」

 と、二所ふたところうち語かたらひつつ、干ひす世よもなくて過すぐしたまふに、年としも暮くれにけり。

雪霰降りしくころは

 雪霰ゆきあられ降ふりしくころは、いづくもかくこそはある風かぜの音おとなれど、今いまはじめて思おもひ入いりたらむ山やま住すみの心地ここちしたまふ。女をんなばらなど、

「あはれ、年としは替かはりなむとす。心細こころぼそく悲かなしきことを。改あらたまるべき春はる待まち出いでてしがな」

 と、心こころを消きたず言いふもあり。「難かたきことかな」と聞ききたまふ。

 向むかひの山やまにも、時々ときどきの御おほん念仏ねんぶつに籠こもりたまひしゆゑこそ、人ひとも参まゐり通かよひしか、阿闍梨あざりも、いかがと、おほかたにまれに訪おとづれきこゆれど、今いまは何なにしにかはほのめき参まゐらむ。

 いとど人目ひとめの絶たえ果はつるも、さるべきことと思おもひながら、いと悲かなしくなむ。何なにとも見みざりし山賤やまがつも、おはしまさでのち、たまさかにさしのぞき参まゐるは、めづらしく思おもほえたまふ。このころのこととて、薪たきぎ、木この実み拾ひろひて参まゐる山やま人ひとどもあり。

 阿闍梨あざりの室むろより、炭すみなどやうのものたてまつるとて、

「年としごろにならひはべりにける宮仕みやづかへの、今いまとて絶たえはつらむが、心細こころぼそさになむ」

 と聞きこえたり。かならず冬ふゆ籠こもる山風やまかぜふせぎつべき綿わた衣きぬなど遣つかはししを、思おぼし出いでてやりたまふ。法師ほふしばら、童わらはべなどの上のぼり行ゆくも、見みえみ見みえずみ、いと雪ゆき深ふかきを、泣なく泣なく立たち出いでて見送みおくりたまふ。

「御髪みぐしなど下おろいたまうてける、さる方かたにておはしまさましかば、かやうに通かよひ参まゐる人ひとも、おのづからしげからまし」

「いかにあはれに心細こころぼそくとも、あひ見みたてまつること絶たえてやまましやは」

 など、語かたらひたまふ。

「君きみなくて岩いはのかけ道みち絶たえしより松まつの雪ゆきをもなにとかは見みる」

 中なかの宮みや、

「奥山おくやまの松まつ葉はに積つもる雪ゆきとだに消きえにし人ひとを思おもはましかば」

 うらやましくぞ、またも降ふり添そふや。

中納言の君、新しき年は

 中納言ちうなごんの君きみ、「新あたらしき年としは、ふとしもえ訪とぶらひきこえざらむ」と思おぼしておはしたり。雪ゆきもいと所狭ところせきに、よろしき人ひとだに見みえずなりにたるを、なのめならぬけはひして、軽かろらかにものしたまへる心こころばへの、浅あさうはあらず思おもひ知しられたまへば、例れいよりは見み入いれて、御座おましなどひきつくろはせたまふ。

 墨染すみぞめならぬ御おほん火桶ひおけ、奥おくなる取とり出いでて、塵ちりかき払はらひなどするにつけても、宮みやの待まち喜よろこびたまひし御おほんけしきなどを、人ひとびとも聞きこえ出いづ。対面たいめんしたまふことをば、つつましくのみ思おもいたれど、思おもひ隈くまなきやうに人ひとの思おもひたまへれば、いかがはせむとて、聞きこえたまふ。

 うちとくとはなけれど、さきざきよりはすこし言ことの葉は続つづけて、ものなどのたまへるさま、いとめやすく、心恥こころはづかしげなり。「かやうにてのみは、え過すぐし果はつまじ」と思おもひなりたまふも、「いとうちつけなる心こころかな。なほ、移うつりぬべき世よなりけり」と思おもひゐたまへり。

宮の、いとあやしく恨みたまふ

「宮みやの、いとあやしく恨うらみたまふことのはべるかな。あはれなりし御おほん一言ひとことをうけたまはりおきしさまなど、ことのついでにもや、漏もらし聞きこえたりけむ。またいと隈くまなき御心みこころのさがにて、推おし量はかりたまふにやはべらむ、ここになむ、ともかくも聞きこえさせなすべきと頼たのむを、つれなき御おほんけしきなるは、もてそこなひきこゆるぞと、たびたび怨うらじたまへば、心こころよりほかなることと思おもうたまふれど、里さとのしるべ、いとこよなうもえあらがひきこえぬを、何なにかは、いとさしももてなしきこえたまはむ。

好すいたまへるやうに、人ひとは聞きこえなすべかめれど、心こころの底そこあやしく深ふかうおはする宮みやなり。なほざりごとなどのたまふわたりの、心こころ軽かろうてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものに思おもひおとしたまふにや、となむ聞きくこともはべる。何なにごとにもあるに従したがひて、心こころを立たつる方かたもなく、おどけたる人ひとこそ、ただ世よのもてなしに従したがひて、とあるもかかるもなのめに見みなし、すこし心こころに違たがふふしあるにも、いかがはせむ、さるべきぞ、なども思おもひなすべかめれば、なかなか心こころ長ながき例れいになるやうもあり。

崩くづれそめては、龍田たつたの川かはの濁にごる名なをも汚けがし、いふかひなく名な残のこなきやうなることなども、皆みなうちまじるめれ。心こころの深ふかうしみたまふべかめる御心みこころざまにかなひ、ことに背そむくこと多おほくなどものしたまはざらむをば、さらに、軽々かるがるしく、初はじめ終をはり違たがふやうなることなど、見みせたまふまじきけしきになむ。

人ひとの見みたてまつり知しらぬことを、いとよう見みきこえたるを、もし似につかはしく、さもやと思おぼし寄よらば、そのもてなしなどは、心こころの限かぎり尽つくして仕つかうまつりなむかし。御おほん中なか道みちのほど、乱みだり脚あしこそ痛いたからめ」

 と、いとまめやかにて、言いひ続つづけたまへば、わが御おほんみづからのこととは思おぼしもかけず、「人ひとの親おやめきていらへむかし」と思おぼしめぐらしたまへど、なほ言いふべき言ことの葉はもなき心地ここちして、

「いかにとかは。かけかけしげにのたまひ続つづくるに、なかなか聞きこえむこともおぼえはべらで」

 と、うち笑ゑひたまへるも、おいらかなるものから、けはひをかしう聞きこゆ。

かならず御みづから聞こしめし負ふ

「かならず御おほんみづから聞きこしめし負おふべきこととも思おもうたまへず。それは、雪ゆきを踏ふみ分わけて参まゐり来きたる心こころざしばかりを、御覧ごらんじ分わかむ御おほんこのかみ心こころにても過すぐさせたまひてよかし。かの御心みこころ寄よせは、また異ことにぞはべべかめる。ほのかにのたまふさまもはべめりしを、いさや、それも人ひとの分わききこえがたきことなり。御おほん返かへりなどは、いづ方かたにかは聞きこえたまふ」

 と問とひ申まうしたまふに、「ようぞ、戯たはぶれにも聞きこえざりける。何なにとなけれど、かうのたまふにも、いかに恥はづかしう胸むねつぶれまし」と思おもふに、え答こたへやりたまはず。

「雪ゆき深ふかき山やまのかけはし君きみならでまたふみかよふ跡あとを見みぬかな」

 と書かきて、さし出いでたまへれば、

「御おほんものあらがひこそ、なかなか心こころおかれはべりぬべけれ」とて、

「つららとぢ駒こまふみしだく山川やまがはをしるべしがてらまづや渡わたらむ

さらばしも、影かげさへ見みゆるしるしも、浅あさうははべらじ」

 と聞きこえたまへば、思おもはずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。けざやかに、いともの遠とほくすくみたるさまには見みえたまはねど、今いまやうの若人わかうどたちのやうに、艶えんげにももてなさで、いとめやすく、のどかなる心こころばへならむとぞ、推おし量はかられたまふ人ひとの御おほんけはひなる。

 かうこそは、あらまほしけれと、思おもふに違たがはぬ心地ここちしたまふ。ことに触ふれて、けしきばみ寄よるも、知しらず顔がほなるさまにのみもてなしたまへば、心恥こころはづかしうて、昔物語むかしものがたりなどをぞ、ものまめやかに聞きこえたまふ。

暮れ果てなば、雪いとど

「暮くれ果はてなば、雪ゆきいとど空そらも閉とぢぬべうはべり」

 と、御おほん供ともの人ひとびと声こゑづくれば、帰かへりたまひなむとて、

「心苦こころぐるしう見みめぐらさるる御おほん住すまひのさまなりや。ただ山里やまざとのやうにいと静しづかなる所ところの、人ひとも行ゆき交まじらぬはべるを、さも思おぼしかけば、いかにうれしくはべらむ」

 などのたまふも、「いとめでたかるべきことかな」と、片かた耳みみに聞ききて、うち笑ゑむ女をんなばらのあるを、中なかの宮みやは、「いと見み苦くるしう、いかにさやうにはあるべきぞ」と見み聞ききゐたまへり。

 御おほんくだものよしあるさまにて参まゐり、御おほん供ともの人ひとびとにも、肴さかななどめやすきほどにて、土器かはらけさし出いでさせたまひけり。また御おほん移うつり香かもて騷さわがれし宿直人とのゐびとぞ、鬘かづら鬚ひげとかいふつらつき、心こころづきなくてある、「はかなの御おほん頼たのもし人ひとや」と見みたまひて、召めし出いでたり。

「いかにぞ。おはしまさでのち、心細こころぼそからむな」

 など問とひたまふ。うちひそみつつ、心弱こころよわげに泣なく。

「世よの中なかに頼たのむよるべもはべらぬ身みにて、一所ひとところの御おほん蔭かげに隠かくれて、三十余年さんじふよねんを過すぐしはべりにければ、今いまはまして、野山のやまにまじりはべらむも、いかなる木きのもとをかは頼たのむべくはべらむ」

 と申まうして、いとど人ひと悪わろげなり。

 おはしましし方かた開あけさせたまへれば、塵ちりいたう積つもりて、仏ほとけのみぞ花はなの飾かざり衰おとろへず、行おこなひたまひけりと見みゆる御おほん床ゆかなど取とりやりて、かき払はらひたり。本意ほいをも遂とげば、と契ちぎりきこえしこと思おもひ出いでて、

「立たち寄よらむ蔭かげと頼たのみし椎しひが本ほん空そらしき床ゆかになりにけるかな」

 とて、柱はしらに寄よりゐたまへるをも、若わかき人ひとびとは、覗のぞきてめでたてまつる。

 日暮ひぐれぬれば、近ちかき所々ところどころに、御荘みさうなど仕つかうまつる人ひとびとに、御秣みまぐさ取とりにやりける、君きみも知しりたまはぬに、田舎ゐなかびたる人ひとびとは、おどろおどろしくひき連つれ参まゐりたるを、「あやしう、はしたなきわざかな」と御覧ごらんずれど、老おい人ひとに紛まぎらはしたまひつ。おほかたかやうに仕つかうまつるべく、仰おほせおきて出いでたまひぬ。

年替はりぬれば

 年とし替かはりぬれば、空そらのけしきうららかなるに、汀みぎはの氷こほり解とけたるを、ありがたくもと眺ながめたまふ。聖ひじりの坊ばうより、「雪ゆき消きえに摘つみてはべるなり」とて、沢さはの芹せり、蕨わらびなどたてまつりたり。斎ときの御台みだいに参まゐれる。

「所ところにつけては、かかる草くさ木きのけしきに従したがひて、行ゆき交かふ月日つきひのしるしも見みゆるこそ、をかしけれ」

 など、人ひとびとの言いふを、「何なにのをかしきならむ」と聞ききたまふ。

「君きみが折をる峰みねの蕨わらびと見みましかば知しられやせまし春はるのしるしも」

「雪ゆき深ふかき汀みぎはの小芹こぜり誰たがために摘つみかはやさむ親おやなしにして」

 など、はかなきことどもをうち語かたらひつつ、明あけ暮くらしたまふ。

 中納言ちうなごん殿とのよりも宮みやよりも、折をり過すぐさず訪とぶらひきこえたまふ。うるさく何なにとなきこと多おほかるやうなれば、例れいの、書かき漏もらしたるなめり。

花盛りのころ

 花盛はなざかりのころ、宮みや、「かざし」を思おぼし出いでて、その折をり見み聞ききたまひし君きみたちなども、

「いとゆゑありし親王みこの御おほん住すまひを、またも見みずなりにしこと」

 など、おほかたのあはれを口々くちぐち聞きこゆるに、いとゆかしう思おぼされけり。

「つてに見みし宿やどの桜さくらをこの春はるは霞かすみ隔へだてず折をりてかざさむ」

 と、心こころをやりてのたまへりけり。「あるまじきことかな」と見みたまひながら、いとつれづれなるほどに、見所みどころある御おほん文ふみの、うはべばかりをもて消きたじとて、

「いづことか尋たづねて折をらむ墨染すみぞめに霞かすみこめたる宿やどの桜さくらを」

 なほ、かくさし放はなち、つれなき御おほんけしきのみ見みゆれば、まことに心憂こころうしと思おぼしわたる。

御心にあまりたまひては

 御心みこころにあまりたまひては、ただ中納言ちうなごんを、とざまかうざまに責せめ恨うらみきこえたまへば、をかしと思おもひながら、いとうけばりたる後見顔うしろみがほにうちいらへきこえて、あだめいたる御心みこころざまをも見みあらはす時々ときどきは、

「いかでか、かからむには」

 など、申まうしたまへば、宮みやも御心みこころづかひしたまふべし。

「心こころにかなふあたりを、まだ見みつけぬほどぞや」とのたまふ。

 大殿おとどの六ろくの君きみを思おぼし入いれぬこと、なま恨うらめしげに、大臣おとども思おぼしたりけり。されど、

「ゆかしげなき仲なからひなるうちにも、大臣おとどのことことしくわづらはしくて、何なにごとの紛まぎれをも見みとがめられむがむつかしき」

 と、下したにはのたまひて、すまひたまふ。

 その年とし、三条宮さんでうのみや焼やけて、入道宮にふだうのみやも、六条院ろくでうのゐんに移うつろひたまひ、何なにくれともの騒さわがしきに紛まぎれて、宇治うぢのわたりを久ひさしう訪おとづれきこえたまはず。まめやかなる人ひとの御心みこころは、またいと異ことなりければ、いとのどかに、「おのがものとはうち頼たのみながら、女をんなの心こころゆるびたまはざらむ限かぎりは、あざればみ情なさけなきさまに見みえじ」と思おもひつつ、「昔むかしの御心みこころ忘わすれぬ方かたを、深ふかく見み知しりたまへ」と思おぼす。

その年、常よりも暑さを

 その年とし、常つねよりも暑あつさを人ひとわぶるに、「川面かはづら涼すずしからむはや」と思おもひ出いでて、にはかに参まうでたまへり。朝涼あさすずみのほどに出いでたまひければ、あやにくにさし来くる日影ひかげもまばゆくて、宮みやのおはせし西にしの廂ひさしに、宿直人とのゐびと召めし出いでておはす。

 そなたの母屋もやの仏ほとけの御前おまへに、君きみたちものしたまひけるを、気近けぢかからじとて、わが御おほん方かたに渡わたりたまふ御おほんけはひ、忍しのびたれど、おのづから、うちみじろきたまふほど近ちかう聞きこえければ、なほあらじに、こなたに通かよふ障子さうじの端はしの方かたに、かけがねしたる所ところに、穴あなのすこし開あきたるを見みおきたまへりければ、外ほかに立たてたる屏風びゃうぶをひきやりて見みたまふ。

 ここもとに几帳きちゃうを添そへ立たてたる、「あな、口惜くちをし」と思おもひて、ひき帰かへる、折をりしも、風かぜの簾すだれをいたう吹ふき上あぐべかめれば、

「あらはにもこそあれ。その几帳きちゃうおし出いでてこそ」

 と言いふ人ひとあなり。をこがましきものの、うれしうて見みたまへば、高たかきも短みじかきも、几帳きちゃうを二間ふたまの簾すだれにおし寄よせて、この障子さうじに向むかひて、開あきたる障子さうじより、あなたに通かよらむとなりけり。

まづ、一人立ち出でて

 まづ、一人ひとり立たち出いでて、几帳きちゃうよりさし覗のぞきて、この御おほん供ともの人ひとびとの、とかう行ゆきちがひ、涼すずみあへるを見みたまふなりけり。濃こき鈍色にびいろの単衣ひとへに、萱草くわんざうの袴はかまもてはやしたる、なかなかさま変かはりてはなやかなりと見みゆるは、着きなしたまへる人ひとからなめり。

 帯おびはかなげにしなして、数珠ずずひき隠かくして持もたまへり。いとそびやかに、様体やうだいをかしげなる人ひとの、髪かみ、袿うちきにすこし足たらぬほどならむと見みえて、末すゑまで塵ちりのまよひなく、つやつやとこちたう、うつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげと見みえて、匂にほひやかに、やはらかにおほどきたるけはひ、女一をんないちの宮みやも、かうざまにぞおはすべきと、ほの見みたてまつりしも思おもひ比くらべられて、うち嘆なげかる。

 またゐざり出いでて、「かの障子さうじは、あらはにもこそあれ」と、見みおこせたまへる用意ようい、うちとけたらぬさまして、よしあらむとおぼゆ。頭かしらつき、髪かみざしのほど、今いますこしあてになまめかしきさまなり。

「あなたに屏風びゃうぶも添そへて立たててはべりつ。急いそぎてしも、覗のぞきたまはじ」

 と、若わかき人ひとびと、何心なにごころなく言いふあり。

「いみじうもあるべきわざかな」

 とて、うしろめたげにゐざり入いりたまふほど、気高けだかう心こころにくきけはひ添そひて見みゆ。黒くろき袷あはせ一襲ひとかさね、同おなじやうなる色いろ合あひを着きたまへれど、これはなつかしうなまめきて、あはれげに、心苦こころぐるしうおぼゆ。

 髪かみ、さはらかなるほどに落おちたるなるべし、末すゑすこし細ほそりて、色いろなりとかいふめる、翡翠ひすいだちていとをかしげに、糸いとをよりかけたるやうなり。紫むらさきの紙かみに書かきたる経きゃうを、片かた手てに持もちたまへる手てつき、かれよりも細ほそさまさりて、痩やせ痩やせなるべし。立たちたりつる君きみも、障子さうじ口くちにゐて、何なにごとにかあらむ、こなたを見みおこせて笑ゑひたる、いと愛敬あいぎゃうづきたり。

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