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『源氏物語』第13帖「明石」原文全文

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出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第13帖「明石」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第13帖「明石」現代語訳全文をご覧ください。

目次

なほ雨風やまず

 なほ雨あめ風かぜやまず、雷かみ鳴なり静しづまらで、日ひごろになりぬ。いとど、ものわびしきこと数かず知しらず、来きし方かた行ゆく先さき悲かなしき御おほんありさまに、心強こころづようしもえおぼしなさず、いかにせまし、かかりとて都みやこに帰かへらむことも、まだ世よに許ゆるされもなくては、人ひと笑ゑはれなることこそまさらめ、なほこれより深ふかき山やまを求もとめてや、あと絶たえなまし、とおぼすにも、波なみ風かぜに騒さわがれて、など人ひとの言いひ伝つたへむこと、後のちの世よまで、いと軽々かるがるしき名なをや流ながし果はてむ、とおぼし乱みだる。

 御夢おほんゆめにも、ただ同おなじさまなるもののみ来きつつ、まつはしきこゆと見みたまふ。雲くも間まもなくて、明あけ暮くるる日数ひかずに添そへて、京きゃうの方かたもいとどおぼつかなく、かくながら身みをはふらかしつるにやと、心こころ細ほそう思おぼせど、頭かしらさし出いづべくもあらぬ空そらの乱みだれに、出いで立たち参まゐる人ひともなし。

 二条院にでうのゐんよりぞ、あながちにあやしき姿すがたにて、そほち参まゐれる。道みちかひにてだに、人ひとか何なにぞとだに御覧ごらんじわくべくもあらず、まづ追おひ払はらひつべき賤しづの男をとこの、むつましうあはれにおぼさるるも、我われながらかたじけなく、屈くしにける心こころのほど思おもひ知しらる。御文おほんふみに、

「あさましくをやみなきころのけしきに、いとど空そらさへ閉とづる心地ここちして、眺ながめやる方かたなくなむ。

浦うら風かぜやいかに吹ふくらむ思おもひやる袖そでうち濡ぬらし波なみ間まなきころ」

 あはれに悲かなしきことども書かき集あつめたまへり。ひきあくるより、いとど汀みぎはまさりぬべく、かきくらす心地ここちしたまふ。

「京きゃうにも、この雨あめ風かぜ、いとあやしきもののさとしなりとて、仁王会にんわうゑなど行おこなはるべしとなむ聞きこえはべりし。内裏うちに参まゐりたまふ上達部かむだちめなども、すべて道みち閉とぢて、政治まつりごとも絶たえてなむはべる」

 など、はかばかしうもあらず、かたくなしう語かたりなせど、京きゃうの方かたのことと思おぼせばいぶかしうて、御前おまへに召めし出いでて問とはせたまふ。

「ただ、例れいの雨あめのをやみなく降ふりて、風かぜは時々ときどき吹ふき出いでて、日ひごろになりはべるを、例れいならぬことに驚おどろきはべるなり。いとかく、地ぢの底そこ徹とほるばかりの氷ひ降ふり、雷かみのしづまらぬことははべらざりき」

 など、いみじきさまに驚おどろき懼おぢてをる顔かほのいとからきにも、心こころ細ほそさぞまさりける。

かくしつつ世は尽きぬべきにや

 かくしつつ世よは尽つきぬべきにや、とおぼさるるに、そのまたの日ひの暁あかつきより風かぜいみじう吹ふき、潮しほ高たかう満みちて波なみの音おと荒あきこと、巌いはほも山やまも残のこるまじきけしきなり。雷かみの鳴なりひらめくさま、さらに言いはむ方かたなくて、落おちかかりぬとおぼゆるに、ある限かぎりさかしき人ひとなし。

「我われはいかなる罪つみを犯をかして、かく悲かなしき目めを見みるらむ。父ちち母ははにもあひ見みず、悲かなしき妻子めこの顔かほをも見みで死しぬべきこと」

 と嘆なげく。君きみは御心みこころをしづめて、何なにばかりのあやまちにてか、この渚なぎさに命いのちをば極こうめむと、強つようおぼしなせど、いともの騒さわがしければ、色々いろいろの幣帛みてぐらささげさせたまひて、

「住吉すみよしの神かみ、近ちかき境さかひをしづめ守まもりたまふ。まことに迹あとを垂たれたまふ神かみならば、助たすけたまへ」

 と、多おほくの大願だいぐわんを立たてたまふ。おのおの、みづからの命いのちをばさるものにて、かかる御身おほんみのまたなき例れいに沈しづみたまひぬべきことのいみじう悲かなしきに、心こころを起おこして、すこしものおぼゆる限かぎりは、身みに代かへてこの御身おほんみ一ひとつを救すくひたてまつらむと、とよみて、諸声もろこゑに仏ほとけ神かみを念ねんじたてまつる。

「帝王ていわうの深ふかき宮みやに養やしなはれたまひて、いろいろの楽たのしみにおごりたまひしかど、深ふかき御おほんうつくしみ、大八洲おほやしまにあまねく、沈しづめる輩ともがらをこそ多おほく浮うかべたまひしか。今いま、何なにの報むくいにか、ここら横よこ様さまなる波なみ風かぜには溺おぼれたまはむ。天あめ地ぢ、ことわりたまへ。罪つみなくて罪つみに当あたり、官つかさ、位くらゐを取とられ、家いへを離はなれ、境さかひを去いりて、明あけ暮くれ安やすき空そらなく嘆なげきたまふに、かく悲かなしき目めをさへ見み、命いのち尽つきなむとするは前さきの世よの報むくいか、この世よの犯をかしか、神かみ仏ほとけ明あらかにましまさば、この愁うれへやすめたまへ」

 と、御社みやしろの方かたに向むきて、さまざまの願ぐわんを立たてたまふ。また、海うみの中なかの龍王りうわう、よろづの神かみたちに願ぐわんを立たてさせたまふに、いよいよ鳴なりとどろきて、おはしますに続つづきたる廊らうに落おちかかりぬ。炎ほのほ燃もえ上あがりて廊らうは焼やけぬ。心こころ魂たましひなくて、ある限かぎり惑まどふ。後うしろの方かたなる大炊殿おほひどのとおぼしき屋やに移うつしたてまつりて、上うへ下したとなく立たち込こみて、いとらうがはしく泣なきとよむ声こゑ、雷かみにも劣おとらず。空そらは墨すみをすりたるやうにて、日ひも暮くれにけり。

やうやう風なほり

 やうやう風かぜなほり、雨あめの脚あししめり、星ほしの光ひかりも見みゆるに、この御座所おましどころのいとめづらかなるも、いとかたじけなくて、寝殿しんでんに返かへし移うつしたてまつらむとするに、焼やけ残のこりたる方かたも疎うとましげに、そこらの人ひとの踏ふみとどろかし惑まどへるに、御簾みすなどもみな吹ふき散ちらしてけり。夜よを明あしてこそはとたどりあへるに、君きみは御念誦おほんねんずしたまひて、おぼしめぐらすに、いと心こころあわたたし。

 月つきさし出いでて、潮しほの近ちかく満みち来きける跡あともあらはに、名残なごりなほ寄よせ返かへる波なみ荒あきを、柴しばの戸と押おし開あけて、眺ながめおはします。近ちかき世界せかいに、ものの心こころを知しり、来きし方かた行ゆく先さきのことうちおぼえ、とやかくやとはかばかしう悟さとる人ひともなし。あやしき海人あまどもなどの、貴たふとき人ひとおはする所ところとて、集あつり参まゐりて、聞ききも知しりたまはぬことどもをさへづりあへるも、いとめづらかなれど、え追おひも払はらはず。

「この風かぜ、今いましばしやまざらましかば、潮しほ上のぼりて残のこる所ところなからまし。神かみの助たすけおろかならざりけり」

 と言いふを聞ききたまふも、いと心こころ細ほそしといへばおろかなり。

「海うみにます神かみの助たすけにかからずは潮しほの八百会やほあひにさすらへなまし」

 終日ひねもすにいりもみつる雷かみの騷さわぎに、さこそいへ、いたう困こうじたまひにければ、心こころにもあらずうちまどろみたまふ。かたじけなき御座所おましどころなれば、ただ寄よりゐたまへるに、故院こゐん、ただおはしまししさまながら立たちたまひて、

「など、かくあやしき所ところにものするぞ」

 とて、御手おほんてを取とりて引ひき立たてたまふ。

「住吉すみよしの神かみの導みちびきたまふままには、はや舟ふね出いして、この浦うらを去いりね」

 とのたまはす。いとうれしくて、

「かしこき御影みかげに別わかれたてまつりにしこなた、さまざま悲かなしきことのみ多おほくはべれば、今いまはこの渚なぎさに身みをや捨すてはべりなまし」

 と聞きこえたまへば、

「いとあるまじきこと。これは、ただいささかなるものの報むくいなり。我われは、位くらゐに在ありし時とき、あやまつことなかりしかど、おのづから犯をかしありければ、その罪つみを終をふるほど暇いとまなくて、この世よをかへりみざりつれど、いみじき愁うれへに沈しづむを見みるに、堪たへがたくて、海うみに入いり、渚なぎさに上のぼり、いたく困こうじにたれど、かかるついでに内裏うちに奏そうすべきことのあるによりなむ、急いそぎ上のぼりぬる」

 とて、立たち去いりたまひぬ。

 飽あかず悲かなしくて、

「御供おほんともに参まゐりなむ」

 と泣なき入いりたまひて、見上みあげたまへれば、人ひともなく、月つきの顔かほのみきらきらとして、夢ゆめの心地ここちもせず、御おほんけはひとまれる心地ここちして、空そらの雲くもあはれにたなびけり。年としごろ、夢ゆめのうちにも見みたてまつらで、恋こひしうおぼつかなき御おほんさまを、ほのかなれど、さだかに見みたてまつりつるのみ、面影おもかげにおぼえたまひて、我われがかく悲かなしびを極こうめ、命いのち尽つきなむとしつるを、助たすけに翔かけりたまへると、あはれにおぼすに、よくぞかかる騷さわぎもありけると、名残なごりたのもしう、うれしうおぼえたまふこと限かぎりなし。胸むねつとふたがりて、なかなかなる御心みこころ惑まどひに、うつつの悲かなしきこともうち忘わすれ、夢ゆめにも御応おほんいらへを今いますこし聞きこえずなりぬることといぶせさに、またや見みえたまふと、ことさらに寝入ねいりたまへど、さらに御目おほんめも合あはで、暁あかつき方かたになりにけり。

渚に小さやかなる舟寄せて

 渚なぎさに小ちひさやかなる舟ふね寄よせて、人ひと二に、三さん人ひとばかり、この旅たびの御おほん宿やどりをさして参まゐる。何人なにびとならむと問とへば、

「明石あかしの浦うらより、前さきの守かみ新発意しぼちの御舟おほんふねよそひて参まゐれるなり。源少納言げんせうなごんさぶらひたまはば、対面たいめんしてことの心こころとり申まうさむ」

 と言いふ。良清よしきよ、おどろきて、

「入道にふだうは、かの国くにの得意とくいにて、年としごろあひ語かたらひはべりつれど、私わたくしにいささかあひ恨うらむることはべりて、ことなる消息せうそこをだに通かよはさで、久ひさしうなりはべりぬるを、波なみの紛まぎれに、いかなることかあらむ」

 と、おぼめく。君きみの、御夢おほんゆめなどもおぼし合あはすることもありて、

「はや会あへ」

 とのたまへば、舟ふねに行ゆきて会あひたり。さばかり激はげしかりつる波なみ風かぜに、いつの間まにか舟ふね出いしつらむと、心得こころえがたく思おもへり。

「去いぬる朔日ついたちの日ひの夢ゆめに、さま異ことなるものの告つげ知しらすることはべりしかば、信しんじがたきことと思おもうたまへしかど、十三日じふさんにちにあらたなるしるし見みせむ、舟ふねよそひまうけて、かならず、雨あめ風かぜ止とまば、この浦うらにを寄よせよ、と、かねて示しめすことのはべりしかば、こころみに舟ふねのよそひをまうけて待まちはべりしに、いかめしき雨あめ風かぜ、雷かみのおどろかしはべりつれば、人ひとの朝廷おほやけにも、夢ゆめを信しんじて国くにを助たすくるたぐひ多おほうはべりけるを、用もちゐさせたまはぬまでも、このいましめの日ひを過すぐさず、このよしを告つげ申まうしはべらむとて、舟ふね出いだしはべりつるに、あやしき風かぜ細ほそう吹ふきて、この浦うらに着つきはべること、まことに神かみのしるべ違たがはずなむ。ここにも、もししろしめすことやはべりつらむとてなむ。いと憚はばかり多おほくはべれど、このよし申まうしたまへ」

 と言いふ。良清よしきよ、忍しのびやかに伝つたへ申まうす。

 君きみ、おぼしまはすに、夢ゆめうつつさまざま静しづかならず、さとしのやうなることどもを、来きし方かた行ゆく末すゑおぼし合あはせて、世よの人ひとの聞きき伝つたへむのちのそしりもやすからざるべきを憚はばかりて、まことの神かみの助たすけにもあらむを、背そむくものならば、またこれよりまさりて、人ひと笑ゑはれなる目めをや見みむ、うつつざまの人ひとの心こころだになほ苦くるし。はかなきことをもつつみて、我われより齢よはひまさり、もしは位くらゐ高たかく、時とき世よの寄よせ今一いまひと際きはまさる人ひとには、なびき従したがひて、その心こころむけをたどるべきものなりけり。退のきて咎とがなしとこそ、昔むかしのさかしき人ひとも言いひ置おきけれ。げにかく命いのちを極こうめ、世よにまたなき目めの限かぎりを見み尽つくしつ、さらにのちのあとの名なをはぶくとても、たけきこともあらじ、夢ゆめの中なかにも父帝ちちみかどの御おほん教をしへありつれば、また何なにごとをか疑うたがはむ、と、おぼして、御おほん返かへりのたまふ。

「知しらぬ世界せかいに、めづらしき愁うれへの限かぎり見みつれど、都みやこの方かたよりとて、言い問とひおこする人ひともなし。ただ行方ゆくへなき空そらの月日つきひの光ひかりばかりを、故里ふるさとの友ともと眺ながめはべるに、うれしき釣つり舟ふねをなむ。かの浦うらに、静しづやかに隠かくろふべき隈くまはべりなむや」

 とのたまふ。限かぎりなくよろこび、かしこまり申まうす。ともあれかくもあれ、夜よの明あけ果はてぬ先さきに御舟おほんふねにたてまつれ、とて、例れいの親おやしき限かぎり四し、五ご人ひとばかりしてたてまつりぬ。例れいの風かぜ出いで来きて、飛とぶやうに明石あかしに着つきたまひぬ。ただはひ渡わたるほどに片時かたときの間まといへど、なほあやしきまで見みゆる風かぜの心こころなり。

浜のさま、げにいと心ことなり

 浜はまのさま、げにいと心こころことなり。人ひとしげう見みゆるのみなむ、御願おほんねがひひに背そむきける。入道にふだうの領らうじ占しめたる所々ところどころ、海うみのつらにも山やま隠かくれにも、時々ときどきにつけて興きゃうをさかすべき渚なぎさの苫屋とまや、行おこなひをしてのちの世よのことを思おもひ澄すましつべき山水やまみづのつらに、いかめしき堂だうを建たてて三昧さんまいを行おこなひ、この世よのまうけに、秋あきの田たの実みを刈かり収をさめ、残のこりの齢よはひ積つむべき稲いねの倉町くらまちどもなど、折々をりをり所ところにつけたる見みどころありてし集あつめたり。高たか潮しほにおぢて、このころ、娘むすめなどは岡辺をかべの宿やどに移うつして住すませければ、この浜はまの館たちに心こころやすくおはします。

 舟ふねより御車みくるまにたてまつり移うつるほど、日ひやうやうさし上あがりて、ほのかに見みたてまつるより、老おい忘わすれ、齢よはひ延のぶる心地ここちして、笑ゑみさかえて、まづ住吉すみよしの神かみを、かつがつ拝をがみたてまつる。月日つきひの光ひかりを手てに得えたてまつりたる心地ここちして、いとなみ仕つかうまつること、ことわりなり。所ところのさまをばさらにも言いはず、作つくりなしたる心こころばへ、木立こだち、立石たていし、前栽せんざいなどのありさま、えも言いはぬ入江いりえの水みづなど、絵ゑに描かかば、心こころのいたり少すくなからむ絵師ゑしは描かき及およぶまじと見みゆ。月つきごろの御住おほんすまひよりは、こよなくあきらかに、なつかし。御おほんしつらひなど、えならずして、住すまひけるさまなど、げに都みやこのやむごとなき所々ところどころに異ことならず、艶えんにまばゆきさまは、まさりざまにぞ見みゆる。

すこし御心静まりては

 すこし御心みこころ静しづまりては、京きゃうの御文おほんふみども聞きこえたまふ。参まゐれりし使つかは、

「今いまはいみじき道みちに出いで立たちて悲かなしき目めを見みる」

 と泣なき沈しづみて、あの須磨すまにとどまりたるを召めして、身みにあまれる物ものども多おほくたまひて遣つかはす。むつましき御おほん祈いのりの師しども、さるべき所々ところどころには、このほどの御おほんありさま、詳くはしく言いひ遣つかはすべし。入道にふだうの宮みやばかりには、めづらかにてよみがへるさまなど聞きこえたまふ。二条院にでうのゐんのあはれなりしほどの御おほん返かへりは、書かきもやりたまはず、うち置おきうち置おき、おしのごひつつ聞きこえたまふ御みけしき、なほ異ことなり。

「返かへす返かへすいみじき目めの限かぎりを尽つくし果はてつるありさまなれば、今いまはと世よを思おもひ離はなるる心こころのみまさりはべれど、鏡かがみを見みてもとのたまひし面影おもかげの離はなるる世よなきを、かくおぼつかなながらやと、ここら悲かなしきさまざまのうれはしさは、さしおかれて、

遥はるかにも思おもひやるかな知しらざりし浦うらよりをちに浦うら伝つたひして

夢ゆめのうちなる心地ここちのみして、覚さめ果はてぬほど、いかにひがこと多おほからむ」

 と、げに、そこはかとなく書かき乱みだりたまへるしもぞ、いと見みまほしき側目そばめなるを、いとこよなき御心みこころざしのほど、と人々ひとびと見みたてまつる。おのおの、故里ふるさとに心こころ細ほそげなる言い伝つたてすべかめり。をやみなかりし空そらのけしき、名残なごりなく澄すみわたりて、漁あさする海人あまども誇ほこらしげなり。須磨すまはいと心こころ細ほそく、海人あまの岩いは屋やもまれなりしを、人ひとしげき厭いとひはしたまひしかど、ここはまた、さま異ことにあはれなること多おほくて、よろづにおぼし慰なぐさまる。

あるじの入道、行なひ勤めたるさま

 あるじの入道にふだう、行おこなひ勤つとめたるさま、いみじう思おもひ澄すましたるを、ただこの娘むすめ一ひと人ひとをもてわづらひたるけしき、いとかたはらいたきまで、時々ときどき漏もらし愁うれへきこゆ。御心地みここちにもをかしと聞ききおきたまひし人ひとなれば、かくおぼえなくてめぐりおはしたるも、さるべき契ちぎりあるにやとおぼしながら、なほかう身みを沈しづめたるほどは、行おこなひより他ほかのことは思おもはじ、都みやこの人ひとも、ただなるよりは、言いひしに違たがふとおぼさむも、心恥こころはづかしうおぼさるれば、けしきだちたまふことなし。ことに触ふれて、心こころばせ、ありさま、なべてならずもありけるかなと、ゆかしうおぼされぬにしもあらず。

 ここには、かしこまりて、みづからもをさをさ参まゐらず、もの隔へだたりたる下したの屋やにさぶらふ。さるは、明あけ暮くれ見みたてまつらまほしう、飽あかず思おもひきこえて、思おもふ心こころを叶かなへむと、仏ほとけ神かみをいよいよ念ねんじたてまつる。

 年としは六ろく十じふばかりになりたれど、いときよげにあらまほしう、行おこなひさらぼひて、人ひとのほどのあてはかなればにやあらむ、うちひがみ、ほれぼれしきことはあれど、いにしへのものをも見知みしりて、ものきたなからず、よしづきたることも交かれれば、昔物語むかしものがたりなどせさせて聞ききたまふに、すこしつれづれの紛まぎれなり。

 年としごろ、公私おほやけわたくし御おほん暇いとまなくて、さしも聞きき置おきたまはぬ世よの古ふる事ことどもくづし出いでて、かかる所ところをも人ひとをも、見みざらましかば、さうざうしくや、とまで、興きゃうありとおぼすことも交かる。かうは馴なれきこゆれど、いと気高けだかう心恥こころはづかしき御おほんありさまに、さこそ言いひしか、つつましうなりて、わが思おもふことは心こころのままにもえうち出いできこえぬを、心こころもとなう口惜くちをしと、母君ははぎみと言いひ合あはせて嘆なげく。正身さうじみは、おしなべての人ひとだに、めやすきは見みえぬ世界せかいに、世よにはかかる人ひともおはしけり、と見みたてまつりしにつけて、身みのほど知しられて、いと遥はるかにぞ思おもひきこえける。親おやたちのかく思おもひあつかふを聞きくにも、似にげなきことかなと思おもふに、ただなるよりはものあはれなり。

四月になりぬ

 四月うづきになりぬ。更衣ころもがへの御装束おほんさうぞく、御帳みちゃうの帷子かたびらなど、よしあるさまにし出いでつつ、よろづに仕つかうまつりいとなむを、いとほしう、すずろなりと思おぼせど、人ひとざまのあくまで思おもひ上あがりたるさまのあてなるに、おぼしゆるして見みたまふ。京きゃうよりも、うちしきりたる御おほんとぶらひども、たゆみなく多おほかり。のどやかなる夕月夜ゆふづくよに、海うみの上うへ曇くもりなく見みえわたれるも、住すみ馴なれたまひし故郷ふるさとの池いけ水みづ、思おもひまがへられたまふに、言いはむかたなく恋こひしきこと、何なに方かたとなく行方ゆくへなき心地ここちしたまひて、ただ目めの前まへに見みやらるるは、淡路島あはぢしまなりけり。

「あはと、遥はるかに」

 などのたまひて、

「あはと見みる淡路あはぢの島しまのあはれさへ残のこるくまなく澄すめる夜よの月つき」

 久ひさしう手て触ふれたまはぬ琴きんを、袋ふくろより取とり出いでたまひて、はかなくかき鳴ならしたまへる御おほんさまを、見みたてまつる人ひともやすからず、あはれに悲かなしう思おもひあへり。広陵くわうりょうといふ手てを、ある限かぎり弾ひきすましたまへるに、かの岡辺をかべの家いへも、松まつの響ひびき波なみの音おとに合あひて、心こころばせある若人わかうどは身みにしみて思おもふべかめり。何なにとも聞ききわくまじきこのもかのものしはふる人ひとどもも、すずろはしくて、浜風はまかぜをひきありく。

入道もえ堪へで、供養法たゆみて

 入道にふだうもえ堪たへで、供養法くやうほふたゆみて、急いそぎ参まゐれり。

「さらに、背そむきにし世よの中なかも取とり返かへし思おもひ出いでぬべくはべり。のちの世よに願ねがひはべる所ところのありさまも、思おもうたまへやらるる夜よのさまかな」

 と泣なく泣なく、めできこゆ。わが御心みこころにも、折々をりをりの御おほん遊あそび、その人ひとかの人ひとの琴きん笛ふえ、もしは声こゑの出いでしさま、時々ときどきにつけて、世よにめでられたまひしありさま、帝みかどよりはじめたてまつりて、もてかしづきあがめたてまつりたまひしを、人ひとの上うへもわが御身おほんみのありさまも、おぼし出いでられて、夢ゆめの心地ここちしたまふままに、かき鳴ならしたまへる声こゑも、心こころすごく聞きこゆ。

 古人ふるびとは涙なみだもとどめあへず、岡辺をかべに、琵琶びは、箏さうの琴こと取とりにやりて、入道にふだう、琵琶びはの法師ほふしになりて、いとをかしう珍めづらしき手て一ひとつ二ふたつ弾ひきたり。箏さうの御琴おほんこと参まゐりたれば、少すくし弾ひきたまふも、さまざまいみじうのみ思おもひきこえたり。いと、さしも聞きこえぬ物ものの音ねだに、折をりからこそはまさるものなるを、はるばると物もののとどこほりなき海うみづらなるに、なかなか、春はる秋あきの花はな紅葉もみぢの盛さかりなるよりは、ただそこはかとなう茂しげれる蔭かげども、なまめかしきに、水鶏くひなのうちたたきたるは、誰たれが門かどさしてと、あはれにおぼゆ。音ねもいと二になう出いづる琴きんどもを、いとなつかしう弾ひき鳴ならしたるも、御心みこころとまりて、

「これは、女をんなのなつかしきさまにてしどけなう弾ひきたるこそ、をかしけれ」

 と、おほかたにのたまふを、入道にふだうはあいなくうち笑ゑみて、

「あそばすよりなつかしきさまなるは、いづこのかはべらむ。なにがし、延喜えんぎの御手おほんてより弾ひき伝つたへたること、四代よだいになむなりはべりぬるを、かうつたなき身みにて、この世よのことは捨すて忘わすれはべりぬるを、もののせちにいぶせき折々をりをりは、かき鳴ならしはべりしを、あやしう、まねぶ者もののはべるこそ、自然じねんにかの先大王せんだいわうの御手おほんてに通かよひてはべれ。山伏やまぶしのひが耳みみに、松風まつかぜを聞ききわたしはべるにやあらむ。いかで、これも忍しのびて聞きこしめさせてしがな」

 と聞きこゆるままに、うちわななきて、涙なみだ落おとすべかめり。

 君きみ、

「琴きんを琴きんとも聞ききたまふまじかりけるあたりに、ねたきわざかな」

 とて、押おしやりたまふに、

「あやしう、昔むかしより箏さうは、女をんななむ弾ひき取とるものなりける。嵯峨さがの御おほん伝つたへにて、女をんな五ごの宮みや、さる世よの中なかの上手じゃうずにものしたまひけるを、その御おほん筋すぢにて、取とり立たてて伝つたふる人ひとなし。すべて、ただ今いま世よに名なを取とれる人々ひとびと、掻かき撫なでの心こころやりばかりにのみあるを、ここにかう弾ひきこめたまへりける、いと興きゃうありけることかな。いかでかは聞きくべき」

 とのたまふ。

「聞きこしめさむには、何なにの憚はばかりかはべらむ。御前おまへに召めしても。商人あきびとの中なかにてだにこそ、古琴ふるごと聞ききはやす人ひとははべりけれ。琵琶びはなむ、まことの音ねを弾ひきしづむる人ひと、いにしへも難かたうはべりしを、をさをさ、とどこほることなうなつかしき手てなど、筋すぢ異ことになむ。いかでたどるにかはべらむ。荒あき波なみの声こゑに交かるは、悲かなしくも思おもうたまへられながら、かき集あつむるもの嘆なげかしさ、紛まぎるる折々をりをりもはべり」

 など、好すきゐたれば、をかしとおぼして、箏さうの琴こととりかへて賜たまはせたり。げにいとすぐしてかい弾ひきたり。今いまの世よに聞きこえぬ筋すぢ弾ひきつけて、手てづかひいといたう唐からめき、ゆの音ね深ふかう澄すましたり。伊勢いせの海うみならねど、

「清きよき渚なぎさに貝かひや拾ひろはむ」

 など、声こゑよき人ひとに歌うたはせて、我われも時々ときどき拍子ひゃうしとりて、声こゑうち添そへたまふを、琴きん弾ひきさしつつ、めできこゆ。御おほんくだものなど、めづらしきさまにて参まゐらせ、人々ひとびとに酒さけ強つよひそしなどして、おのづからもの忘わすれしぬべき夜よのさまなり。

いたく更けゆくままに

 いたく更ふけゆくままに、浜風はまかぜ涼すずしうて、月つきも入いり方かたになるままに、澄すみまさり、静しづかなるほどに、御物語おほんものがたり残のこりなく聞きこえて、この浦うらに住すみはじめしほどの心こころづかひ、後のちの世よを勤つとむるさま、かきくづし聞きこえて、この娘むすめのありさま、問とはず語かたりに聞きこゆ。をかしきものの、さすがにあはれと聞ききたまふ節ふしもあり。

「いと取とり申まうしがたきことなれど、わが君きみ、かうおぼえなき世界せかいに、仮かりにても、移うつろひおはしましたるは、もし、年としごろ老おい法師ほふしの祈いのり申まうしはべる神かみ仏ほとけのあはれびおはしまして、しばしのほど、御心みこころをも悩なやましたてまつるにやとなむ思おもうたまふる。その故こは、住吉すみよしの神かみを頼たのみはじめたてまつりて、この十八年じふはちねんになりはべりぬ。女をんなの童わらはいときなうはべりしより、思おもふ心こころはべりて、年としごとの春はる秋あきごとに、かならずかの御社みやしろに参まゐることなむはべる。昼ひる夜よの六時ろくじの勤つとめに、みづからの蓮はちすの上うへの願ねがひをば、さるものにて、ただこの人ひとを高たかき本意ほい叶かなへたまへと、なむ念ねんじはべる。前さきの世よの契ちぎりつたなくてこそ、かく口惜くちをしき山賤やまがつとなりはべりけめ、親おや、大臣おとどの位くらゐを保たもちたまへりき。みづからかく田舎ゐなかの民たみとなりにてはべり。次々つぎつぎ、さのみ劣おとりまからば、何なにの身みにかなりはべらむと、悲かなしく思おもひはべるを、これは、生むまれし時ときより頼たのむところなむはべる。いかにして都みやこの貴たふとき人ひとにたてまつらむと思おもふ心こころ、深ふかきにより、ほどほどにつけて、あまたの人ひとの嫉そねみを負まひ、身みのためからき目めを見みる折々をりをりも多おほくはべれど、さらに苦くるしみと思おもひはべらず。命いのちの限かぎりは狭せばき衣きぬにもはぐくみはべりなむ。かくながら見捨みすてはべりなば、波なみのなかにも交かり失うせね、となむ掟おきてはべる」

 など、すべてまねぶべくもあらぬことどもを、うち泣なきうち泣なき聞きこゆ。君きみも、ものをさまざまおぼし続つづくる折をりからは、うち涙なみだぐみつつ聞きこしめす。

「横よこさまの罪つみに当あたりて、思おもひかけぬ世界せかいにただよふも、何なにの罪つみにかとおぼつかなく思おもひつる、今宵こよひの御物語おほんものがたりに聞きき合あはすれば、げに浅あさからぬ前さきの世よの契ちぎりにこそはと、あはれになむ。などかは、かくさだかに思おもひ知しりたまひけることを、今いままでは告つげたまはざりつらむ。都みやこ離はなれし時ときより、世よの常つねなきもあぢきなう、行おこなひより他ほかのことなくて月日つきひを経ふるに、心こころも皆みなくづほれにけり。かかる人ひとものしたまふとは、ほの聞ききながら、いたづら人ひとをばゆゆしきものにこそ思おもひ捨すてたまふらめと、思おもひ屈くしつるを、さらば導みちびきたまふべきにこそあなれ。心こころ細ほそき一人寝ひとりねの慰なぐさめにも」

 などのたまふを、限かぎりなくうれしと思おもへり。

「一人寝ひとりねは君きみも知しりぬやつれづれと思おもひ明あかしの浦うらさびしさを

まして年月としつき思おもひたまへわたるいぶせさを、推おし量はからせたまへ」

 と聞きこゆるけはひ、うちわななきたれど、さすがにゆゑなからず。

「されど、浦うらなれたまへらむ人ひとは」

 とて、

「旅衣たびごろもうら悲かなしさに明あかしかね草くさの枕まくらは夢ゆめも結むすばず」

 と、うち乱みだれたまへる御おほんさまは、いとぞ愛敬あいぎゃうづき、言いふよしなき御おほんけはひなる。数かず知しらぬことども聞きこえ尽つくしたれど、うるさしや。ひがことどもに書かきなしたれば、いとど、をこにかたくなしき入道にふだうの心こころばへも、あらはれぬべかめり。

思ふこと、かつがつ叶ひぬる心地して

 思おもふこと、かつがつ叶かなひぬる心地ここちして、涼すずしう思おもひゐたるに、またの日ひの昼ひるつ方かた、岡辺をかべに御文おほんふみつかはす。心恥こころはづかしきさまなめるも、なかなか、かかるものの隈くまにぞ、思おもひの外ほかなることも籠こもるべかめると、心こころづかひしたまひて、高麗こまの胡桃色くるみいろの紙かみに、えならずひきつくろひて、

「をちこちも知しらぬ雲居くもゐに眺ながめわびかすめし宿やどの梢こずゑをぞ訪とふ

思おもふには」

 とばかりやありけむ。

 入道にふだうも、人ひと知しれず待まちきこゆとて、かの家いへに来きゐたりけるもしるければ、御使おほんつかひいとまばゆきまで酔ゑはす。御おほん返かへりいと久ひさし。内うちに入いりてそそのかせど、娘むすめはさらに聞きかず。恥はづかしげなる御文おほんふみのさまに、さし出いでむ手てつきも、恥はづかしうつつましう、人ひとの御おほんほど、わが身みのほど思おもふにこよなくて、心地ここち悪あしとて寄より臥ふしぬ。言いひわびて、入道にふだうぞ書かく。

「いとかしこきは、田舎ゐなかびてはべる袂たもとに、つつみあまりぬるにや。さらに見みたまへも、及およびはべらぬかしこさになむ。さるは、

眺ながむらむ同おなじ雲居くもゐを眺ながむるは思おもひも同おなじ思おもひなるらむ

となむ見みたまふる。いと好すき好すきしや」

 と聞きこえたり。陸奥紙みちのくがみに、いたう古ふるめきたれど、書かきざまよしばみたり。げにも、好すきたるかなと、めざましう見みたまふ。御使おほんつかひに、なべてならぬ玉裳たまもなどかづけたり。またの日ひ、

「宣旨書せんじがききは、見知みしらずなむ」

 とて、

「いぶせくも心こころにものを悩なやむかなやよやいかにと問とふ人ひともなみ

言いひがたみ」

 と、このたびは、いといたうなよびたる薄様うすやうに、いとうつくしげに書かきたまへり。若わかき人ひとのめでざらむも、いとあまり埋うづれいたからむ。めでたしとは見みれど、なずらひならぬ身みのほどの、いみじうかひなければ、なかなか、世よにあるものと、尋たづね知しりたまふにつけて、涙なみだぐまれて、さらに例れいの動うごなきを、せめて言いはれて、浅あさからず染そめたる紫むらさきの紙かみに、墨すみつき濃こく薄うすく紛まぎらはして、

「思おもふらむ心こころのほどややよいかにまだ見みぬ人ひとの聞ききか悩なやまむ」

 手てのさま、書かきたるさまなど、やむごとなき人ひとにいたう劣おとるまじう、上衆じゃうずめきたり。京きゃうのことおぼえて、をかしと見みたまへど、うちしきりて遣つかはさむも、人ひと目めつつましければ、二ふつか、三みか日ひ隔へだてつつ、つれづれなる夕暮ゆふぐれれ、もしは、ものあはれなる曙あけぼのなどやうに紛まぎらはして、折々をりをり、同おなじ心こころに見知みしりぬべきほど推おし量はかりて、書かき交かはしたまふに、似にげなからず、心こころ深ふかう思おもひ上あがりたるけしきも、見みではやまじとおぼすものから、良清よしきよが領らうじて言いひしけしきもめざましう、年としごろ心こころつけてあらむを、目めの前まへに思おもひ違たがへむもいとほしうおぼしめぐらされて、人ひと進すすみ参まゐらば、さる方かたにても紛まぎらはしてむと思おぼせど、女をんなはた、なかなかやむごとなき際きはの人ひとよりもいたう思おもひ上あがりて、ねたげにもてなしきこえたれば、心こころ比くらべにてぞ過すぎける。

 京きゃうのことを、かく関せき隔へだたりては、いよいよおぼつかなく思おもひきこえたまひて、いかにせまし、たはぶれにくくもあるかな、忍しのびてや、迎むかへたてまつりてましと、おぼし弱よわる折々をりをりあれど、さりとも、かくてやは、年としを重おもねむと、今いまさらに人ひと悪あろきことをばとおぼし静しづめたり。

その年、朝廷に

 その年とし、朝廷おほやけに、もののさとししきりて、もの騒さわがしきこと多おほかり。三月やよひ十三日じふさんにち、雷かみ鳴なりひらめき、雨あめ風かぜ騒さわがしき夜よ、帝みかどの御夢おほんゆめに、院ゐんの帝みかど、御前おまへの御階みはしのもとに立たたせたまひて、御みけしきいと悪あしうて、にらみきこえさせたまふを、かしこまりておはします。聞きこえさせたまふことも多おほかり。源氏げんじの御おほん事ことなりけむかし。いと恐おそろしう、いとほしとおぼして、后きさいに聞きこえさせたまひければ、

「雨あめなど降ふり、空そら乱みだれたる夜よは、思おもひなしなることはさぞはべる。軽々かるがるしきやうに、おぼし驚おどろくまじきこと」

 と聞きこえたまふ。

 にらみたまひしに、目め見合みあはせたまふと見みしけにや、御目おほんめ患わづらひたまひて、堪たへがたう悩なやみたまふ。御おほんつつしみ、内裏うちにも宮みやにも限かぎりなくせさせたまふ。太政大臣だいじゃうだいじん亡なせたまひぬ。ことわりの御おほん齢よはひなれど、次々つぎつぎにおのづから騒さわがしきことあるに、大宮おほみやもそこはかとなう患わづらひたまひて、ほど経ふれば弱よわりたまふやうなる、内裏うちにおぼし嘆なげくこと、さまざまなり。

「なほ、この源氏げんじの君きみ、まことに犯をかしなきにてかく沈しづむならば、かならずこの報むくいありなむとなむおぼえはべる。今いまは、なほもとの位くらゐをも賜たまひてむ」

 とたびたびおぼしのたまふを、

「世よのもどき、軽々かるがるしきやうなるべし。罪つみに懼おぢて都みやこを去いりし人ひとを、三さん年としをだに過すぐさず許ゆるされむことは、世よの人ひともいかが言いひ伝つたへはべらむ」

 など、后きさいかたく諌いさめたまふに、おぼし憚はばかるほどに月日つきひかさなりて、御悩おほんなやみみども、さまざまに重おもりまさらせたまふ。

明石には、例の、秋

 明石あかしには、例れいの、秋あき、浜風はまかぜのことなるに、一人寝ひとりねもまめやかにものわびしうて、入道にふだうにも折々をりをり語かたらはせたまふ。

「とかく紛まぎらはして、こち参まゐらせよ」

 とのたまひて、渡わたりたまはむことをばあるまじうおぼしたるを、正身さうじみはた、さらに思おもひ立たつべくもあらず。いと口惜くちをしき際きはの田舎人ゐなかびとこそ、仮かりに下くだりたる人ひとのうちとけ言いにつきて、さやうに軽かろらかに語かたらふわざをもすなれ、人数ひとかずにもおぼされざらむものゆゑ、我われはいみじきもの思おもひをや添そへむ、かく及およびなき心こころを思おもへる親おやたちも、世よ籠こもりて過すぐす年月としつきこそ、あいな頼たのみに、行ゆく末すゑ心こころにくく思おもふらめ、なかなかなる心こころをや尽つくさむと思おもひて、ただこの浦うらにおはせむほど、かかる御文おほんふみばかりを聞きこえかはさむこそ、おろかならね、年としごろ音おとにのみ聞ききて、いつかはさる人ひとの御おほんありさまをほのかにも見みたてまつらむなど、思おもひかけざりし御住おほんすまひにて、まほならねどほのかにも見みたてまつり、世よになきものと聞きき伝つたへし御琴おほんことの音ねをも風かぜにつけて聞きき、明あけ暮くれの御おほんありさまおぼつかなからで、かくまで世よにあるものとおぼし尋たづぬるなどこそ、かかる海人あまのなかに朽くちぬる身みにあまることなれ、など思おもふに、いよいよ恥はづかしうて、つゆも気近けぢかきことは思おもひ寄よらず。

 親おやたちは、ここらの年としごろの祈いのりの叶かなふべきを思おもひながら、ゆくりかに見みせたてまつりて、おぼし数かずまへざらむ時とき、いかなる嘆なげきをかせむと思おもひやるに、ゆゆしくて、めでたき人ひとと聞きこゆとも、つらういみじうもあるべきかな、目めにも見みえぬ仏ほとけ神かみを頼たのみたてまつりて、人ひとの御心みこころをも、宿世すくせをも知しらで、など、うち返かへし思おもひ乱みだれたり。君きみは、

「このころの波なみの音おとに、かの物ものの音ねを聞きかばや。さらずは、かひなくこそ」

 など、常つねはのたまふ。

忍びてよろしき日見て

 忍しのびてよろしき日ひ見みて、母君ははぎみのとかく思おもひわづらふを聞きき入いれず、弟子でしどもなどにだに知しらせず、心こころ一ひとつに立たちゐ、かかやくばかりしつらひて、十三日じふさんにちの月つきのはなやかにさし出いでたるに、ただ、あたら夜よの、と聞きこえたり。君きみは、好すきのさまやと思おぼせど、御直衣おほんなほしたてまつりひきつくろひて、夜更よふかして出いでたまふ。御車みくるまは二になく作つくりたれど、所狭ところせしとて、御おほん馬むまにて出いでたまふ。惟光これみつなどばかりをさぶらはせたまふ。やや遠とほく入いる所ところなりけり。道みちのほども、四し方かたの浦々うらうら見みわたしたまひて、思おもふどち見みまほしき入江いりえの月影つきかげにも、まづ恋こひしき人ひとの御おほんことを思おもひ出いできこえたまふに、やがて馬むま引ひき過すぎて、赴おもむきぬべくおぼす。

「秋あきの夜よのつきげの駒こまよ我われが恋こひふる雲居くもゐを翔かけれ時ときの間まも見みむ」

 と、うちひとりごたれたまふ。

 造つくれるさま、木き深ふかく、いたき所ところまさりて、見みどころある住すまひなり。海うみのつらはいかめしうおもしろく、これは心こころ細ほそく住すみたるさま、ここにゐて、思おもひ残のこすことはあらじとおぼしやらるるに、ものあはれなり。三昧堂さんまいだう近ちかくて、鐘かねの声こゑ、松風まつかぜに響ひびきあひて、もの悲かなしう、岩いはに生おひたる松まつの根ねざしも、心こころばへあるさまなり。前栽せんざいどもに虫むしの声こゑを尽つくしたり。ここかしこのありさまなど御覧ごらんず。娘むすめ住すませたる方かたは、心こころことに磨みがきて、月つき入いれたる真木まきの戸口とぐち、けしきばかり押おし開あけたり。

 うちやすらひ、何なにかとのたまふにも、かうまでは見みえたてまつらじ、と深ふかう思おもふに、もの嘆なげかしうて、うちとけぬ心こころざまを、こよなうも人ひとめきたるかな、さしもあるまじき際きはの人ひとだに、かばかり言いひ寄よりぬれば、心強こころづようしもあらずならひたりしを、いとかくやつれたるに、あなづらはしきにや、とねたう、さまざまにおぼし悩なやめり。情なさなうおし立たたむも、ことのさまに違たがへり。心こころ比くらべに負まけむこそ人ひと悪あろけれ、など、乱みだれ怨うらみたまふさま、げにもの思おもひ知しらむ人ひとにこそ見みせまほしけれ。

 近ちかき几帳きちゃうの紐ひもに、箏さうの琴ことの弾ひき鳴ならされたるも、けはひしどけなく、うちとけながら掻かきまさぐりけるほど見みえてをかしければ、

「この聞ききならしたる琴きんをさへや」

 など、よろづにのたまふ。

「むつごとを語かたりあはせむ人ひともがな憂うき世よの夢ゆめもなかば覚おぼむやと」

「明あけぬ夜よにやがて惑まどへる心こころにはいづれを夢ゆめとわきて語かたらむ」

 ほのかなるけはひ、伊勢いせの御息所みやすんどころにいとようおぼえたり。何心なにごころもなくうちとけてゐたりけるを、かうものおぼえぬに、いとわりなくて、近ちかかりける曹司ざうしの内うちに入いりて、いかで固かためけるにか、いと強つよきを、しひてもおし立たちたまはぬさまなり。されど、さのみもいかでかあらむ。人ひとざま、いとあてに、そびえて、心恥こころはづかしきけはひぞしたる。かうあながちなりける契ちぎりをおぼすにも、浅あさからずあはれなり。御心みこころざしの、近ちかまさりするなるべし、常つねは厭いとはしき夜よの長ながさも、とく明あけぬる心地ここちすれば、人ひとに知しられじとおぼすも、心こころあわたたしうて、こまかに語かたらひ置おきて、出いでたまひぬ。

 御文おほんふみ、いと忍しのびてぞ今日けふはある。あいなき御心みこころの鬼おになりや。ここにも、かかることいかで漏もらさじとつつみて、御使おほんつかひことことしうももてなさぬを、胸むねいたく思おもへり。かくてのちは、忍しのびつつ時々ときどきおはす。ほどもすこし離はなれたるに、おのづからもの言いひさがなき海人あまの子こもや立たちまじらむとおぼし憚はばかるほどを、さればよと思おもひ嘆なげきたるを、げに、いかならむと、入道にふだうも極楽ごくらくの願ねがひをば忘わすれて、ただこの御みけしきを待まつことにはす。今いまさらに心こころを乱みだるも、いといとほしげなり。

二条の君の、風のつてにも

 二条にでうの君きみの、風かぜのつてにも漏もり聞ききたまはむことは、たはぶれにても、心こころの隔へだてありけると、思おもひ疎うとまれたてまつらむ、心こころ苦くるしう恥はづかしうおぼさるるも、あながちなる御心みこころざしのほどなりかし。かかる方かたのことをば、さすがに、心こころとどめて怨うらみたまへりし折々をりをり、などて、あやなきすさびごとにつけても、さ思おもはれたてまつりけむ、など取とり返かへさまほしう、人ひとのありさまを見みたまふにつけても、恋こひしさの慰なぐさむ方かたなければ、例れいよりも御文おほんふみこまやかに書かきたまひて、

「まことや、我われながら心こころよりほかなるなほざりごとにて、疎うとまれたてまつりし節々ふしぶしを、思おもひ出いづるさへ胸むねいたきに、また、あやしうものはかなき夢ゆめをこそ見みはべりしか。かう聞きこゆる問とはず語かたりに、隔へだてなき心こころのほどはおぼし合あはせよ。誓ちかひしことも」

 など書かきて、

「何事なにごとにつけても、

しほしほとまづぞ泣なかるるかりそめのみるめは海人あまのすさびなれども」

 とある御おほん返かへり、何心なにごころなくらうたげに書かきて、果はてに、

「忍しのびかねたる御夢おほんゆめ語かたりにつけても、思おもひ合あはせらるること多おほかるを、

うらなくも思おもひけるかな契ちぎりしを松まつより波なみは越こえじものぞと」

 おいらかなるものから、ただならずかすめたまへるを、いとあはれに、うち置おきがたく見みたまひて、名残なごり久ひさしう、忍しのびの旅寝たびねもしたまはず。

女、思ひしもしるきに

 女をんな、思おもひしもしるきに、今いまぞまことに身みも投なげつべき心地ここちする。行ゆく末すゑ短みじかげなる親おやばかりを頼たのもしきものにて、いつの世よに人ひと並々なみなみになるべき身みと思おもはざりしかど、ただそこはかとなくて過すぐしつる年月としつきは、何なにごとをか心こころをも悩なやましけむ、かういみじうもの思おもはしき世よにこそありけれ、と、かねて推おし量はかり思おもひしよりも、よろづに悲かなしけれど、なだらかにもてなして、憎にくからぬさまに見みえたてまつる。

 あはれとは月日つきひに添そへておぼしませど、やむごとなき方かたの、おぼつかなくて年月としつきを過すぐしたまひ、ただならずうち思おもひおこせたまふらむが、いと心こころ苦くるしければ、独ひとり臥ふしがちにて過すぐしたまふ。絵ゑをさまざま描かき集あつめて、思おもふことどもを書かきつけ、返かへりこと聞きくべきさまにしなしたまへり。見みむ人ひとの心こころに染そみぬべきもののさまなり。いかでか、空そらに通かよふ御心みこころならむ、二条にでうの君きみも、ものあはれに慰なぐさむ方かたなくおぼえたまふ折々をりをり、同おなじやうに絵ゑを描かき集あつめたまひつつ、やがて我われが御おほんありさま、日記にきのやうに書かきたまへり。いかなるべき御おほんさまどもにかあらむ。

年かはりぬ。内裏に御薬のことありて

 年としかはりぬ。内裏うちに御薬みくすりのことありて、世よの中なかさまざまにののしる。当代たうだいの御おほん子こは、右大臣うだいじんの女をんな、承香殿しょうきゃうでんの女をんな御おほんの御おほん腹はらに男御子をのこみこ生むまれたまへる、二ふたつになりたまへば、いといはけなし。春宮とうぐうにこそは譲ゆづりきこえたまはめ。朝廷おほやけの御後見おほんうしろみをし、世よをまつりごつべき人ひとをおぼしめぐらすに、この源氏げんじのかく沈しづみたまふこと、いとあたらしうあるまじきことなれば、つひに后きさいの御おほん諌いさめを背そむきて、赦ゆるされたまふべき定さだめ出いで来きぬ。

 去い年としより、后きさいも御おほんもののけ悩なやみたまひ、さまざまのもののさとししきり、騒さわがしきを、いみじき御おほんつつしみどもをしたまふしるしにや、よろしうおはしましける御目おほんめの悩なやみさへ、このころ重おもくならせたまひて、もの心こころ細ほそくおぼされければ、七月ふづき二十余日はつかあまりのほどに、また重おもねて、京きゃうへ帰かへりたまふべき宣旨せんじ下くだる。

 つひのことと思おもひしかど、世よの常つねなきにつけても、いかになり果はつべきにかと嘆なげきたまふを、かうにはかなれば、うれしきに添そへても、また、この浦うらを今いまはと思おもひ離はなれむことをおぼし嘆なげくに、入道にふだう、さるべきことと思おもひながら、うち聞きくより胸むねふたがりておぼゆれど、思おもひのごと栄はええたまはばこそは、我われが思おもひの叶かなふにはあらめ、など思おもひ直なほす。

そのころは夜離れなく語らひたまふ

 そのころは夜よ離はなれなく語かたらひたまふ。六月みなづきばかりより心こころ苦くるしきけしきありて悩なやみけり。かく別わかれたまふべきほどなれば、あやにくなるにやありけむ、ありしよりもあはれにおぼして、あやしうもの思おもふべき身みにもありけるかなとおぼし乱みだる。女をんなは、さらにも言いはず思おもひ沈しづみたり。いとことわりなりや。思おもひの外ほかに悲かなしき道みちに出いで立たちたまひしかど、つひには行ゆきめぐり来こなむと、かつはおぼし慰なぐさめき。このたびはうれしき方かたの御おほん出いで立たちの、またやは帰かへり見みるべきとおぼすに、あはれなり。

 さぶらふ人々ひとびと、ほどほどにつけてはよろこび思おもふ。京きゃうよりも御迎おほんむかへへに人々ひとびと参まゐり、心地ここちよげなるを、主人あるじの入道にふだう、涙なみだにくれて、月つきも立たちぬ。ほどさへあはれなる空そらのけしきに、なぞや、心こころづから今いまも昔むかしも、すずろなることにて身みをはふらかすらむと、さまざまにおぼし乱みだれたるを、心こころ知しれる人々ひとびとは、

「あな憎にく、例れいの御おほん癖くせぞ」

 と、見みたてまつりむつかるめり。月つきごろは、つゆ人ひとにけしき見みせず、時々ときどきはひ紛まぎれなどしたまへるつれなさを、このころ、あやにくに、なかなかの、人ひとの心こころづくしにと、つきじろふ。少納言せうなごん、しるべして聞きこえ出いでし初はじめのことなど、ささめきあへるを、ただならず思おもへり。

明後日ばかりになりて

 明後日あさてばかりになりて、例れいのやうにいたくも更ふかさで渡わたりたまへり。さやかにもまだ見みたまはぬ容貌かたちなど、いとよしよししう、気高けだかきさまして、めざましうもありけるかなと、見捨みすてがたく口惜くちをしうおぼさる。さるべきさまにして迎むかへむ、とおぼしなりぬ。さやうにぞ語かたらひ慰なぐさめたまふ。

 男をとこの御おほん容貌かたち、ありさまはた、さらにも言いはず。年としごろの御おほん行おこなひにいたく面痩おもやせたまへるしも、言いふ方かたなくめでたき御おほんありさまにて、心こころ苦くるしげなるけしきにうち涙なみだぐみつつ、あはれ深ふかく契ちぎりたまへるは、ただかばかりを、幸さいはひにても、などか止とまざらむ、とまでぞ見みゆめれど、めでたきにしも、我われが身みのほどを思おもふも、尽つきせず。波なみの声こゑ、秋あきの風かぜには、なほ響ひびきことなり。塩焼しほやく煙けぶりかすかにたなびきて、とりあつめたる所ところのさまなり。

「このたびは立たち別わかるとも藻塩もしほ焼やく煙けぶりは同おなじ方かたになびかむ」

 とのたまへば、

「かきつめて海人あまのたく藻もの思おもひにも今いまはかひなき恨うらみだにせじ」

 あはれにうち泣なきて、言少ことずくななるものから、さるべき節ふしの御応おほんいらへなど浅あさからず聞きこゆ。この、常つねにゆかしがりたまふ物ものの音ねなど、さらに聞きかせたてまつらざりつるを、いみじう恨うらみたまふ。

「さらば、形見かたみにも偲しのぶばかりの一琴ひとことをだに」

 とのたまひて、京きゃうより持もておはしたりし琴きんの御琴おほんこと取とりに遣つかはして、心こころことなる調しらべをほのかにかき鳴ならしたまへる、深ふかき夜よの澄すめるは、たとへむ方かたなし。入道にふだう、え堪たへで箏さうの琴こと取とりてさし入いれたり。みづからも、いとど涙なみださへそそのかされて、とどむべき方かたなきに、誘さそはるるなるべし、忍しのびやかに調しらべたるほど、いと上衆じゃうずめきたり。入道にふだうの宮みやの御琴おほんことの音ねを、ただ今いまのまたなきものに思おもひきこえたるは、今いまめかしうあなめでたと、聞きく人ひとの心こころゆきて、容貌かたちさへ思おもひやらるることは、げにいと限かぎりなき御琴おほんことの音ねなり、これはあくまで弾ひき澄すまし、心こころにくくねたき音ねぞまされる。この御心みこころにだに、初はじめてあはれになつかしう、まだ耳みみなれたまはぬ手てなど、心こころやましきほどに弾ひきさしつつ、飽あかずおぼさるるにも、月つきごろ、など強つよひても、聞ききならさざりつらむと、悔くやしうおぼさる。心こころの限かぎり行ゆく先さきの契ちぎりをのみしたまふ。

「琴きんは、また掻かき合あはするまでの形見かたみに」

 とのたまふ。女をんな、

「なほざりに頼たのめ置おくめる一ひとことを尽つきせぬ音ねにやかけて偲しのばむ」

 言いふともなき口くちすさびを、恨うらみたまひて、

「逢あふまでのかたみに契ちぎる中なかの緒をの調しらべはことに変かはらざらなむ」

 この音ね違たがはぬさきにかならずあひ見みむ、と頼たのめたまふめり。されど、ただ別わかれむほどのわりなさを思おもひ咽むせせたるも、いとことわりなり。

立ちたまふ暁は

 立たちたまふ暁あかつきは、夜深よぶかく出いでたまひて、御迎おほんむかへへの人々ひとびとも騒さわがしければ、心こころも空そらなれど、人ひとまをはからひて、

「うち捨すてて立たつも悲かなしき浦波うらなみの名残なごりいかにと思おもひやるかな」

 御おほん返かへり、

「年とし経へつる苫屋とまやも荒あれて憂うき波なみの返かへる方かたにや身みをたぐへまし」

 と、うち思おもひけるままなるを見みたまふに、忍しのびたまへど、ほろほろとこぼれぬ。心こころ知しらぬ人々ひとびとは、なほかかる御住おほんすまひなれど、年としごろといふばかり馴なれたまへるを、今いまはとおぼすは、さもあることぞかし、など見みたてまつる。

 良清よしきよなどは、おろかならずおぼすなめりかしと、憎にくくぞ思おもふ。うれしきにも、げに、今日けふを限かぎりに、この渚なぎさを別わかるること、などあはれがりて、口々くちぐちしほたれ言いひあへることどもあめり。されど、何なにかはとてなむ。

 入道にふだう、今日けふの御おほんまうけ、いといかめしう仕つかうまつれり。人々ひとびと、下したの品しなまで、旅たびの装束さうぞくめづらしきさまなり。いつの間まにかしあへけむと見みえたり。御おほんよそひは言いふべくもあらず。御衣櫃みぞびつあまたかけさぶらはす。まことの都みやこの苞つとにしつべき御おほん贈おくり物ものども、ゆゑづきて、思おもひ寄よらぬ隈くまなし。今日けふたてまつるべき狩かりの御装束おほんさうぞくに、

「寄よる波なみに立たちかさねたる旅衣たびごろもしほどけしとや人ひとの厭いとはむ」

 とあるを御覧ごらんじつけて、騒さわがしけれど、

「かたみにぞ換かふべかりける逢あふことの日数ひかず隔へだてむ中なかの衣きぬを」

 とて、心こころざしあるをとて、たてまつりかふ。御身おほんみになれたるどもを遣つかはす。げに、今一いまひと重おも偲しのばれたまふべきことを添そふる形見かたみなめり。えならぬ御衣おほんぞに匂にほひの移うつりたるを、いかが人ひとの心こころにも染そめざらむ。入道にふだう、

「今いまはと世よを離はなれはべりにし身みなれども、今日けふの御おほん送おくりに仕つかうまつらぬこと」

 など申まうして、かひをつくるもいとほしながら、若わかき人ひとは笑ゑひぬべし。

「世よをうみにここらしほじむ身みとなりてなほこの岸きしをえこそ離はなれね

心こころの闇やみは、いとど惑まどひぬべくはべれば、境さかひまでだに」

 と聞きこえて、

「好すき好すきしきさまなれど、おぼし出いでさせたまふ折をりはべらば」

 など、御みけしき賜たまはる。いみじうものをあはれとおぼして、所々ところどころうち赤あかみたまへる御おほんまみのわたりなど、言いはむかたなく見みえたまふ。

「思おもひ捨すてがたき筋すぢもあめれば、今いまいととく見み直なほしたまひてむ。ただこの住すみかこそ見捨みすてがたけれ。いかがすべき」

 とて、

「都みやこ出いでし春はるの嘆なげきに劣おとらめや年とし経ふる浦うらを別わかれぬる秋あき」

 とて、おし拭のごひたまへるに、いとどものおぼえず、しほたれまさる。立たちゐもあさましうよろぼふ。

正身の心地、たとふべき方なくて

 正身さうじみの心地ここち、たとふべき方かたなくて、かうしも人ひとに見みえじと思おもひ沈しづむれど、身みの憂うきをもとにて、わりなきことなれど、うち捨すてたまへる恨うらみのやる方かたなきに、たけきこととは、ただ涙なみだに沈しづめり。母君ははぎみも慰なぐさめわびては、

「何なににかく心尽こころづくしなることを思おもひそめけむ。すべて、ひがひがしき人ひとに従したがひける心こころのおこたりぞ」

 と言いふ。

「あなかまや。おぼし捨すつまじきこともものしたまふめれば、さりとも、おぼすところあらむ。思おもひ慰なぐさめて、御湯おほんゆなどをだに参まゐれ。あな、ゆゆしや」

 とて、片かた隅すみに寄よりゐたり。乳母めのと、母君ははぎみなど、ひがめる心こころを言いひ合あはせつつ、

「いつしか、いかで思おもふさまにて見みたてまつらむと、年月としつきを頼たのみ過すぐし、今いまや、思おもひ叶かなふとこそ頼たのみきこえつれ、心こころ苦くるしきことをも、もののはじめに見みるかな」

 と嘆なげくを見みるにも、いとほしければ、いとどほけられて、昼ひるは日一日ひひとひ、寝ねをのみ寝ね暮くらし、夜よはすくよかに起おきゐて、数珠ずずの行方ゆくへも知しらずなりにけりとて、手てをおしすりて仰おほぎゐたり。弟子でしどもにあはめられて、月つき夜よに出いでて行道ぎゃうだうするものは、遣水やりみづに倒たふれ入いりにけり。よしある岩いはの片かた側そばに腰こしもつきそこなひて、病やまひみ臥ふしたるほどになむ、すこしもの紛まぎれける。

君は、難波の方に渡りて御祓へ

 君きみは、難波なにはの方かたに渡わたりて御祓みそぎへしたまひて、住吉すみよしにも、平たひらかにて、いろいろの願ぐわん果はたし申まうすべきよし、御使おほんつかひして申まうさせたまふ。にはかに所狭ところせうて、みづからはこのたびえ詣まうでたまはず、ことなる御おほん逍遥せうえうなどなくて、急いそぎ入いりたまひぬ。

 二条院にでうのゐんにおはしまし着つきて、都みやこの人ひとも、御供おほんともの人ひとも、夢ゆめの心地ここちして行ゆき合あひ、喜よろこび泣なきどもゆゆしきまで立たち騷さわぎたり。女をんな君きみも、かひなきものにおぼし捨すてつる命いのち、うれしうおぼさるらむかし。いとうつくしげにねびととのほりて、御おほんもの思おもひのほどに、所狭ところせかりし御髪みぐしのすこしへがれたるしも、いみじうめでたきを、今いまはかくて見みるべきぞかしと、御心みこころ落おちゐるにつけては、また、かの飽あかず別わかれし人ひとの思おもへりしさま、心こころ苦くるしうおぼしやらる。なほ世よとともに、かかる方かたにて御心みこころの暇いとまぞなきや。その人ひとのことどもなど聞きこえ出いでたまへり。おぼし出いでたる御みけしき浅あさからず見みゆるを、ただならずや見みたてまつりたまふらむ、わざとならず、身みをば思おもはずなど、ほのめかしたまふぞ、をかしうらうたく思おもひきこえたまふ。かつ見みるにだに飽あかぬ御おほんさまを、いかで隔へだてつる年月としつきぞと、あさましきまで思おもほすに、取とり返かへし、世よの中なかもいと恨うらめしうなむ。ほどもなく、元もとの御位みくらゐあらたまりて、員かずより外ほかの権大納言ごんだいなごんになりたまふ。次々つぎつぎの人ひとも、さるべき限かぎりは元もとの官つかさ返かへし賜たまはり、世よに許ゆるさるるほど、枯かれたりし木きの春はるにあへる心地ここちして、いとめでたげなり。

召しありて、内裏に参りたまふ

 召めしありて、内裏うちに参まゐりたまふ。御前おまへにさぶらひたまふに、ねびまさりて、いかで、さるものむつかしき住すまひに年とし経へたまひつらむ、と見みたてまつる。女房にょうばうなどの、院ゐんの御おほん時ときさぶらひて、老おいいしらへるどもは、悲かなしくて、今いまさらに泣なき騒さわぎめできこゆ。上うへも恥はづかしうさへおぼし召めされて、御おほんよそひなどことに引ひきつくろひて出いでおはします。御心地みここち、例れいならで、日ひごろ経へさせたまひければ、いたう衰おとろへさせたまへるを、昨日きのふ今日けふぞ、すこしよろしうおぼされける。御物語おほんものがたりしめやかにありて、夜よに入いりぬ。十五夜じふごやの月つきおもしろう静しづかなるに、昔むかしのこと、かき尽つくしおぼし出いでられて、しほたれさせたまふ。もの心こころ細ほそくおぼさるるなるべし。

「遊あそびなどもせず、昔むかし聞ききし物ものの音ねなども聞きかで、久ひさしうなりにけるかな」

 とのたまはするに、

「わたつ海うみにしなえうらぶれ蛭ひるの児ちごの脚あし立たたざりし年としは経へにけり」

 と聞きこえたまへり。いとあはれに心恥こころはづかしうおぼされて、

「宮柱みやばしらめぐりあひける時ときしあれば別わかれし春はるの恨うらみ残のこすな」

 いとなまめかしき御おほんありさまなり。

 院ゐんの御おほんために、八講はちかう行おこなはるべきこと、まづ急いそがせたまふ。春宮とうぐうを見みたてまつりたまふに、こよなくおよすげさせたまひて、めづらしうおぼしよろこびたるを、限かぎりなくあはれと見みたてまつりたまふ。御才おほんざえもこよなくまさらせたまひて、世よをたもたせたまはむに、憚はばかりあるまじく、かしこく見みえさせたまふ。入道にふだうの宮みやにも、御心みこころすこし静しづめて、御対面おほんたいめんのほどにも、あはれなることどもあらむかし。

まことや、かの明石には

 まことや、かの明石あかしには、返かへる波なみに御文おほんふみ遣つかはす。ひき隠かくしてこまやかに書かきたまふめり。

「波なみのよるよるいかに、

嘆なげきつつ明石あかしの浦うらに朝霧あさぎりの立たつやと人ひとを思おもひやるかな」

 かの帥そちの娘むすめの五節ごせち、あいなく、人ひと知しれぬもの思おもひさめぬる心地ここちして、まくなぎつくらせてさし置おかせけり。

「須磨すまの浦うらに心こころを寄よせし舟人ふなびとのやがて朽くたせる袖そでを見みせばや」

 手てなどこよなくまさりにけりと、見みおほせたまひて、遣つかはす。

「帰かへりてはかことやせまし寄よせたりし名残なごりに袖そでの干ひがたかりしを」

 飽あかずをかし、とおぼしし名残なごりなれば、おどろかされたまひて、いとどおぼし出いづれど、このごろは、さやうの御おほん振ふる舞まひ、さらにつつみたまふめり。花散里はなちるさとなどにも、ただ御消息おほんせうそこなどばかりにて、おぼつかなく、なかなか恨うらめしげなり。

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