『平家物語』原文・現代語訳を全文公開! 品詞分解も順次追加中! 『平家物語』を読む

『平家物語』第9巻 現代語訳全文

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目次

生食之沙汰

 寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫成忠の宿所である六条西洞院にあった。御所としてふさわしい造りではなく、礼儀を行える状態でもなかったので、拝礼もなかった。院の拝礼がなかったため、内裏の小朝拝も行われなかった。平家は讃岐国八島の磯で年を送り迎えした。年の初めではあったが、元日や正月三が日の儀式をふさわしく行えず、主上がおいでになっても節会は行われず、四方拝もなかった。鱸魚を差し上げることもなく、吉野のくずも参上しなかった。

「世の中が乱れてはいたが、都ではさすがにこれほどではなかったのに」

 と、それぞれにおっしゃり合った。明るい春も訪れ、浦を吹く風も柔らかく、日ざしも穏やかになっていった。しかし平家の人々だけは、いつも氷の中に閉じ込められたような気持ちで、寒苦鳥と変わりがなかった。東の岸と西の岸の柳は芽吹きの早さがまちまちで、南の枝と北の枝の梅も、花の咲くものと散るものとがすでに異なっていた。花の咲く朝や月の照る夜に、詩歌、管絃、鞠、小弓、扇合、絵合、草尽、虫尽など、さまざまに楽しんだことを思い出して語り続け、長い一日を過ごしかねていらっしゃるのは、いたわしかった。

 同じ正月十一日、木曽左馬頭義仲は院に参上し、平家追討のために西国へ出陣することを奏上した。同十三日にはもう出発すると伝わったころ、東国から前兵衛佐頼朝が、木曽の乱暴を鎮めようと数万騎の兵を差し向けられた。その軍勢がすでに美濃国と伊勢国に着いたと聞くと、木曽は大いに驚き、宇治と勢田の橋を取り外して、兵を分けて遣わした。折しも兵力が不足していた。勢田の橋は正面の攻め口に当たるので、今井四郎兼平を八百余騎で遣わした。宇治橋へは仁科、高梨、山田次郎を五百余騎で遣わし、芋洗へは伯父の志太三郎先生義教を三百余騎で向かわせた。東国から攻め上る正面の軍の大将軍は蒲の御曹司範頼、別の方向から攻める軍の大将軍は九郎御曹司義経で、主だった大名は三十余人、軍勢は合わせて六万余騎と伝えられた。

 そのころ鎌倉殿には、生食と摺墨という名馬がいた。生食を梶原源太景季がしきりに所望したが、鎌倉殿は、

「万一のことがあったとき、武具を着けて頼朝が乗るための馬だ。摺墨もこれに劣らない名馬だぞ」

 と言って、梶原には摺墨を与えられた。佐々木四郎高綱が別れの挨拶を申し上げに参ったとき、鎌倉殿はどうお思いになったのか、

「欲しがる者はいくらもいるが、そのことを心に留めておけ」

 と言って、生食を佐々木にお与えになった。佐々木はかしこまって申し上げた。

「高綱はこの御馬で、宇治川を真っ先に渡りましょう。宇治川で死んだとお聞きになったら、人に先を越されたのだとお思いください。まだ生きているとお聞きになったら、きっと先陣を果たしたのだとお思いください」

 そう言って御前を退出した。その場に集まっていた大名も小名も、皆、

「大言壮語な物言いだな」

 とささやき合った。それぞれ鎌倉を出発し、足柄を越える者もあれば、箱根を通る者もいて、思い思いに都へ上った。駿河国浮島原で梶原源太景季は高い所へ馬を進め、しばらく止まって多くの馬を見た。思い思いの鞍を置き、さまざまな鞦を掛け、乗る側から引かせるものも、両側から引かせるものもあった。何千、何万と数も分からないほどの馬が次々に引かれて通る中に、景季の頂いた摺墨に勝る馬はないと、うれしく思って見ていたところ、生食と思われる馬が現れた。

 金覆輪の鞍を置き、小総の鞦を掛け、口から白い泡を吹かせていた。舎人が大勢付き添っていたが、それでも引き止められず、跳ねながらやって来た。梶原源太は馬を寄せて、

「それはどなたの御馬だ」

「佐々木殿の御馬でございます」

 そのとき梶原は、

「腹立たしいことだ。同じように仕えている景季を、佐々木より軽くお扱いになったのは恨めしい。都へ上って、木曽殿の配下で四天王と呼ばれる今井、樋口、楯、根井と組み合って死ぬか、それができなければ西国へ向かい、一人当千と評判の平家の侍たちと戦って死のうと思っていた。しかしこのお扱いでは、それも意味がない。ここで佐々木と組み合って刺し違え、優れた侍を二人死なせて、兵衛佐殿に損をさせてやろう」

 と思った。佐々木四郎は何も知らずに馬を歩ませてやって来た。梶原は、馬を並べて組み合おうか、正面から馬をぶつけて落とそうかと思ったが、まず言葉を掛けた。

「これは佐々木殿、生食を頂かれたそうですね」

 と言うと、佐々木は、

「ああ、この人もひそかに所望していると聞いたものだった」

 と思い出し、

「そうなのです。今度の大事のために上るのですが、きっと宇治や勢田の橋は取り外されているでしょう。乗って川を渡れる馬がありません。生食をお願いしようとは思いましたが、梶原殿がお申し出になってもお許しがなかったと伺いましたので、まして高綱が申し上げても、とても頂けまいと思っていました。そこで後日どんな処分を受けても構わないと覚悟して、明け方に出立する前の晩、舎人と示し合わせ、あれほど大切になさっている生食を、うまく盗んで上って来たのです。どうですか」

 と言うと、梶原はこの言葉に気が収まって、

「悔しい。それなら景季も盗めばよかったものを」

 と言い、大声で笑って引き下がった。

宇治川先陣

 佐々木四郎が頂いた御馬は黒栗毛で、極めて太くたくましく、馬にも人にも、そばに寄るものを片端から食いついたので、生食と名付けられていた。八寸の馬と伝えられた。梶原の頂いた摺墨も極めて太くたくましかったが、まことに黒かったので、摺墨と名付けられていた。どちらも劣らない名馬である。

 尾張国から、正面を攻める軍と別の方向から攻める軍との二手に分かれて攻め上った。正面の軍の大将軍は蒲御曹司範頼で、同行する人々は武田太郎、加賀見次郎、一条次郎、板垣三郎、稲毛三郎、榛谷四郎、熊谷次郎、猪俣小平六をはじめ、合わせて三万五千余騎。近江国の野路、篠原に到着した。別の方向から攻める軍の大将軍は九郎御曹司義経で、同行する人々は安田三郎、大内太郎、畠山庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、渋谷右馬允、平山武者所をはじめ、合わせて二万五千余騎。伊賀国を通って宇治橋のたもとに押し寄せた。

 宇治も勢田も橋を取り外し、水の底には乱杭を打って大綱を張り、逆茂木をつなぎ、流れに仕掛けてあった。時は正月二十日過ぎのことなので、比良の高嶺や志賀の山では、前から積もっていた雪も消え、谷々の氷も解けて、川の水は折しも増していた。白波が激しく湧き立って流れ落ち、瀬の岩にぶつかって大きな滝のような音を立て、逆巻く水の流れも速かった。夜はすでにほのぼのと明けていったが、川霧が深く立ち込めて、馬の毛色も鎧の色もはっきり見えなかった。

 そこで大将軍九郎御曹司は川岸へ進み出て、水面を見渡し、人々の気持ちを確かめようと思われたのか、

「どうしよう。淀や芋洗へ回るべきか、水の引くのを待つべきか」

 とおっしゃった。畠山はそのころ、まだ二十一歳だったが、進み出て申し上げた。

「鎌倉で、この川については十分に話し合われましたではありませんか。ご存じない海や川が突然現れたのならともかく、この川は近江の湖から流れてくるのですから、待っても待っても水は引きません。また、誰が橋を架けてくださるのでしょう。治承の合戦で、足利又太郎忠綱は鬼神だったから渡れたというわけではありません。重忠が浅瀬を確かめましょう」

 そう言って丹の党を中心に、五百余騎が隙間なく馬を並べた。そのとき、平等院の北東、橘の小島が崎から、武者二騎が馬を走らせてやって来た。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱である。人目には何とも見えなかったが、ひそかに先陣を心に掛けていたので、梶原は佐々木より一段ほど先へ進んでいた。佐々木四郎は、

「この川は西国一の大河ですよ。腹帯が緩んで見えます。締めなさい」

 と言った。そう言われた梶原は、そうかもしれないと思ったのだろうか。左右の鐙から足を浮かせ、手綱を馬のたてがみに放り、腹帯を解いて締め直した。その間に佐々木は、すっと駆け抜け、さっと川へ乗り入れた。梶原はだまされたと思ったのだろうか。すぐに続いて乗り入れた。

「佐々木殿、手柄を立てようとして、しくじってはなりませんぞ。水の底には大綱があるでしょう」

 と言うと、佐々木は太刀を抜き、馬の足に掛かった大綱を次々に断ち切った。生食という世に並ぶもののない馬に乗っていたので、宇治川の流れが速いとはいっても、真っすぐにさっと渡り、向こう岸へ駆け上がった。梶原の乗っていた摺墨は、川の中ほどから斜めに押し流され、はるか下流から岸に上がった。佐々木は鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で名乗った。

「宇多天皇から九代の子孫、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣だ。われこそはと思う者は、高綱と組み合え」

 そう言って叫びながら駆けた。

 畠山も五百余騎で続いて渡った。向こう岸から山田次郎の放つ矢に、馬の額を矢柄が深く入るまで射られ、馬が弱ったので、畠山は川の中で弓を杖にして下り立った。岩にぶつかる波が兜の正面へさっと押し上がったが、気にも留めなかった。水の底を潜って向こう岸に着いた。上がろうとすると、後ろから何かがぐっと引いた。

「誰だ」

 と尋ねると、

「重親です」

 と答えた。

「大串か」

「そうでございます」

 大串次郎は畠山の烏帽子子だった。

「水の流れがあまりに速く、馬はすっかり押し流されてしまいました。力が及ばず、おすがりしたのです」

 と言うと、

「いつもそなたたちは、重忠のような者に助けられることになるのだな」

 と言うなり、大串を持ち上げて岸の上へ投げ上げた。投げ上げられた大串は姿勢を立て直し、

「武蔵国の住人、大串次郎重親が宇治川の先陣だ」

 と名乗った。敵も味方もこれを聞き、一斉にどっと笑った。その後、畠山は替えの馬に乗って進んだ。魚綾の直垂に緋威の鎧を着て、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗り、敵の先頭を駆けてくる者に、

「ここへ駆けてくるのは何者だ。名乗れ」

 と言うと、

「木曽殿の家の子、長瀬判官代重綱だ」

 と名乗った。畠山は今日の軍神に捧げる祝いにしようと、馬を並べてぐっとつかみ、引き落として首をねじ切り、本田次郎の鞍のとつけに付けさせた。これを皮切りに、木曽殿の側で宇治橋を守っていた軍勢も、しばらくは持ちこたえて防いだ。しかし東国の大軍が川を渡り、続々と加わって攻めたので、散々に蹴散らされ、木幡山、伏見を目指して逃げていった。勢田では稲毛三郎重成の計らいで、田上供御瀬を渡った。

河原合戦

 木曽の軍が破れたので、鎌倉殿へ飛脚を送り、合戦の様子を書いて報告した。鎌倉殿はまず使者に、

「佐々木はどうした」

 とお尋ねになると、

「宇治川を真っ先に渡りました」

 と申し上げた。記録を開いてご覧になると、

「宇治川の先陣、佐々木四郎高綱。二陣、梶原源太景季」

 と書かれていた。宇治と勢田が破られたと伝わると、木曽左馬頭は最後の別れを申し上げようと、院の御所である六条殿へ駆けつけた。御所では法皇をはじめ、公卿や殿上人が、

「世は今にも滅びてしまう。どうしよう」

 と手を握り合わせ、ありとあらゆる願をお立てになっていた。木曽は門前まで参ったが、東国の軍勢がすでに河原まで攻め込んだと聞いたので、事情を奏上することもできず、引き返した。六条高倉に、木曽が初めて心を寄せた女房がいらっしゃったので、そこへ乗り入り、最後の別れを惜しもうと、すぐには出立しなかった。新しく仕えた越後中太家光という者が、

「どうしてこのように気を許していらっしゃるのです。敵はすでに河原まで攻め込んでいます。このままでは犬死になさいます」

 と申し上げたが、それでも出立しなかったので、

「それでは、まず私が先に行かせていただき、死出の山でお待ち申し上げましょう」

 と言って、腹を切って死んだ。木曽殿は、

「私を出立させるための自害なのだな」

 と言い、すぐに出立した。上野国の住人、那波太郎広純をはじめ、その軍勢は百騎ほどにすぎなかった。六条河原に出てみると、東国の軍勢と思われる三十騎ほどが、まず現れた。その中から武者二騎が進み出た。一騎は塩屋五郎惟広、一騎は勅使河原三郎有直である。塩屋は、

「後続の軍勢を待つべきか」

 と言い、勅使河原は、

「第一陣が破れたなら、残った者たちも無事ではあるまい。ただ駆けよ」

 と言って叫びながら駆けた。木曽は今日を最後と覚悟して戦い、東国の軍勢は、われこそ討ち取ろうと進んだ。

 大将軍九郎義経は兵たちに戦わせ、院の御所が気がかりだったので、お守りしようと、まず自分を含めて兜を着けた五、六騎で六条殿へ駆けつけた。御所では大膳大夫成忠が東の築垣の上に上がり、震えながら見回していた。すると白旗をさっと掲げた武士五、六騎が、兜を後ろへ反らせて着け、左の袖を風になびかせ、黒い土煙を蹴立てて駆けてきた。成忠は、

「また木曽が参りました。ああ、何ということだ」

 と申し上げたので、

「今度こそ世が滅び尽くす」

 と、君も臣もお騒ぎになった。成忠は重ねて申し上げた。

「今駆けてくる武士たちは、笠験が違っております。今日初めて都へ入る東国の軍勢と思われます」

 そう申し上げ終わらないうちに、九郎義経は門前へ駆けつけて馬から下り、門をたたかせ、大声で、

「東国から、前兵衛佐頼朝の弟、九郎義経が参りました。お開けください」

 と申し上げた。成忠はあまりのうれしさに、築垣から急いで飛び下り、腰を打って痛めた。しかし痛みはうれしさに紛れて感じず、這いながら参って、このことを奏上した。法皇は大いにお喜びになり、すぐに門を開かせて義経をお入れになった。

 九郎義経のその日の装束は、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒を締め、金作の太刀を帯び、切斑の矢を背負っていた。滋籐の弓の鳥打には、幅一寸ほどに切った紙を左巻きに巻いていた。今日の大将軍の目印と思われた。法皇は中門の格子からご覧になり、

「勇ましい者たちだな。皆に名乗らせよ」

 とお命じになった。まず大将軍九郎義経、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷右馬允重資と名乗った。義経を含めて武士は六人、鎧の色はそれぞれ違っていたが、顔つきや風格はどれも劣らなかった。大膳大夫成忠はお言葉を承り、九郎義経を大床のそばへ呼び寄せた。法皇が合戦の様子を詳しくお尋ねになると、義経はかしこまって申し上げた。

「義仲の謀叛に頼朝は大いに驚き、範頼、義経をはじめ、主だった武士三十余人、軍勢六万余騎を差し向けました。範頼は勢田からこちらへ向かっておりますが、まだ到着しておりません。義経は宇治の軍を攻め落とし、まずこの御所をお守りするために駆けつけました。義仲は河原を北へ逃げていきましたので、兵たちに追わせました。今ごろはきっと討ち取っているでしょう」

 と、まるで何でもないことのように申し上げた。法皇は大いにお喜びになり、

「見事である。木曽の残党などがやって来て、騒ぎを起こすかもしれない。そなたたちは、この御所を十分に守れ」

 とお命じになった。義経はかしこまって承り、四方の門を固めて待っていると、兵たちが駆け集まり、ほどなく一万騎ほどになった。

 木曽は万一のことがあったら、法皇をお連れして西国へ落ち下り、平家と一つになろうと、力者二十人を選びそろえていた。しかし御所には九郎義経が駆けつけ、法皇をお守りしていると聞いたので、

「それならば」

 と言って、数万騎の大軍の中へ叫びながら駆け込んだ。すでに討たれそうになることが何度もあったが、敵を突破し、突破しながら進んだ。木曽は涙を流して、

「こうなると知ってさえいたなら、今井を勢田へは遣わさなかったのに。幼いころ、竹馬で遊んだ昔から、死ぬなら同じ所で死のうと約束していたのに、別々の所で討たれるのが悲しい。今井の行方を知りたい」

 と言って河原を北へ駆けていった。六条河原と三条河原の間で敵が襲いかかると、何度も引き返し、わずかな兵で雲や霞のような敵の大軍を五、六度まで追い返した。鴨川をさっと渡り、栗田口、松坂へ駆けた。去年信濃を出たときには五万余騎と伝えられたのに、今日、四宮河原を過ぎるときには主従七騎になっていた。まして死後の中有の旅のありさまは、なおさら思いやられていたわしい。

木曽最期

 木曽殿は信濃から、巴、山吹という二人の便女を連れていらっしゃった。山吹は病気になって都に留まった。中でも巴は色白で髪が長く、顔立ちもまことに優れていた。めったにない強弓の名手で、えり抜きの精鋭であり、馬上でも徒歩でも、武器を持たせれば鬼でも神でも相手にしようという一人当千の勇士だった。荒馬を巧みに乗りこなし、険しい所も馬で下る、極めて優れた武者で、戦といえば、実によい鎧を着せ、大太刀と強弓を持たせて、まず一方面の大将として差し向けられた。たびたび立てた戦功は、肩を並べる者がなかった。そのため今度も、多くの者が逃げたり討たれたりする中で、残り七騎になっても巴は討たれなかった。

 木曽は長坂を経て丹波路へ向かうとも伝えられた。また竜華越を通って北国へ向かうとも伝えられた。しかし、

「今井の行方を知りたい」

 と、勢田の方へ逃げていった。今井四郎兼平も八百余騎で勢田を守っていたが、わずか五十騎ほどに討ち減らされた。旗を巻かせ、主君の安否が気がかりで都へ引き返していたところ、大津の打出浜で木曽殿にお会いした。一町ほど離れた所から互いに相手を見分け、主従は馬を速めて寄り合った。木曽殿は今井の手を取っておっしゃった。

「義仲は六条河原で死ぬつもりだったが、お前の行方が気がかりで、多くの敵の中を突破し、ここまでは逃れてきたのだ」

 今井四郎は、

「お言葉、まことにありがたく存じます。兼平も勢田で討ち死にいたすつもりでしたが、殿の行方が心配で、ここまで参りました」

 と申し上げた。木曽殿が、

「約束はまだ朽ちていなかったのだな。義仲の軍勢は敵に押し隔てられ、林に散って、この辺にもいるだろう。お前が巻かせて持たせている旗を上げさせよ」

 とおっしゃると、今井の旗を掲げた。都から逃げてきた軍勢も、勢田から逃げてきた者も、今井の旗を見つけて三百余騎が駆け集まった。木曽殿は大いに喜び、

「これだけの軍勢があれば、どうして最後の戦をせずにいられよう。ここに群がって見えるのは誰の軍勢だ」

「甲斐の一条次郎殿と伺っております」

「それなら、よい敵だな。どうせ死ぬなら、ふさわしい敵と戦って、大軍の中で討ち死にしよう」

 と言い、真っ先に進んだ。

 木曽左馬頭のその日の装束は、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒を締め、いか物作の大太刀を帯びていた。その日の戦で射て少し残った石打の矢を、先が肩越しに高く出るように背負い、滋籐の弓を持っていた。名高い木曽の鬼葦毛という、極めて太くたくましい馬に金覆輪の鞍を置いて乗っていた。鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で名乗った。

「これまで木曽冠者の名を聞いていただろう。今はその姿を見るがよい。左馬頭兼伊予守、朝日将軍源義仲だ。甲斐の一条次郎と聞いている。互いによい敵だぞ。義仲を討って兵衛佐に見せよ」

 そう言って叫びながら駆けた。一条次郎は、

「今名乗ったのは大将軍だ。逃がすな、取り逃すな、若党ども、討て」

 と言い、大軍の中に取り囲んで、われこそ討ち取ろうと進んだ。木曽の三百余騎は六千余騎の中を、縦に、横に、四方八方へ、十文字に駆け破った。後ろへすっと抜け出たときには、五十騎ほどになっていた。そこを突破していくと、土肥次郎実平が二千余騎で立ちはだかった。そこも突破し、あちらでは四、五百騎、こちらでは二、三百騎、百四十、百五十騎、百騎ほどの中を、次々に駆け破っていくうちに、主従五騎になった。五騎になっても巴は討たれなかった。木曽殿は、

「お前は早く、女なのだから、どこへでも逃げていけ。義仲は討ち死にしようと思う。もし敵の手にかかりそうになれば自害するつもりだから、木曽殿は最後の戦に女を連れていたなどと言われるのも、ふさわしくない」

 とおっしゃった。それでも巴は逃げていかなかったが、あまりにも強くおっしゃるので、

「ああ、よい敵がいてほしい。最後の戦をしてお目に掛けよう」

 と、馬を止めていた。そこへ、武蔵国で名高い大力の御田八郎師重が三十騎ほどで現れた。巴はその中へ駆け込み、御田八郎に馬を並べ、ぐっとつかんで引き落とした。自分の乗った鞍の前輪に押し付け、少しも身動きさせず、首をねじ切って捨てた。その後、武具を脱ぎ捨て、東国の方へ逃げていった。手塚太郎は討ち死にし、手塚の別当は逃げた。

 今井四郎と木曽殿の主従二騎になったとき、木曽殿はおっしゃった。

「日ごろは何とも思わない鎧が、今日は重くなったぞ」

 今井四郎は申し上げた。

「お体はまだお疲れではありません。御馬も弱っておりません。どうして鎧一領を重くお感じになるのでしょう。味方に軍勢がいないので、気弱になってそうお感じになるのです。兼平一人でも、ほかの武者千騎と思ってください。矢が七、八本ありますから、しばらく防ぎ矢を射ましょう。あそこに見えるのは粟津の松原と申します。あの松の中でご自害ください」

 そう言って馬を進めていくと、また新手の武者が五十騎ほど現れた。

「殿はあの松原へお入りください。兼平はこの敵を防ぎましょう」

 と申し上げると、木曽殿はおっしゃった。

「義仲は都で死ぬつもりだったが、ここまで逃れてきたのは、お前と同じ所で死のうと思ったからだ。別々の所で討たれるより、同じ所で討ち死にしよう」

 そう言って馬の鼻を並べ、駆け出そうとなさった。今井四郎は馬から飛び下り、主君の馬の口に取り付いて申し上げた。

「武士は長年どれほど手柄を立てても、最後にしくじれば、いつまでも不名誉が残ります。殿はお疲れになっています。後に続く軍勢はありません。敵に押し隔てられ、取るに足りない者の郎等に組み落とされて討たれたら、あれほど日本国で名高かった木曽殿を、誰それの郎等が討ったなどと言われるのは口惜しいことです。ただあの松原へお入りください」

 と申し上げると、木曽は、

「それならば」

 と言って、粟津の松原へ駆けていかれた。

 今井四郎はただ一騎で五十騎ほどの中へ駆け込み、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で名乗った。

「日ごろは名を聞いていただろう。今は目でも見ていただこう。木曽殿の乳母子、今井四郎兼平、歳は三十三になる。そういう者がいるとは、鎌倉殿までもご存じだろう。兼平を討って、お目に掛けよ」

 そう言って、射残した八本の矢を次々につがえ、十分に引き絞って激しく射た。生死は分からないが、その場で敵八騎を射落とした。その後、武器を抜いてあちらの敵、こちらの敵へ駆け寄り、斬って回ったが、正面から立ち向かう者はいなかった。多くの首を取った。

「ただ射取れ」

 と言って、敵は今井を取り囲み、雨が降るように矢を射た。しかし鎧がよいので矢は貫き通らず、鎧の隙間にも当たらなかったので、傷を負わなかった。

 木曽殿はただ一騎で粟津の松原へ駆けていかれた。正月二十一日の夕暮れどきで、薄氷が張っていた。深田があるとも知らず、馬をさっと乗り入れると、馬の頭も見えなかった。駆り立てても駆り立てても、打っても打っても動かなかった。今井の行方が気がかりで振り仰いだとき、兜の内側に見える顔を、追いかけてきた三浦の石田次郎為久が、弓を十分に引き絞ってひゅうと射た。深い傷だったので、額を馬の首に当ててうつ伏せになられた。そのとき石田の郎等二人が駆けつけ、ついに木曽殿の首を取った。太刀の先に貫いて高く掲げ、大声で、

「この日ごろ日本国で名高かった木曽殿を、三浦石田次郎為久が討ち申し上げたぞ」

 と名乗った。今井四郎は戦っていたが、これを聞き、

「今となっては誰をかばうために戦えばよいのか。これをご覧あれ、東国の方々。日本一の剛の者が自害する手本だ」

 と言って、太刀の先を口に含み、馬から逆さまに飛び落ち、体を貫かれて死んだ。こうして粟津の戦は終わった。

樋口誅罰

 今井の兄、樋口次郎兼光は、十郎蔵人を討とうと河内国長野城へ向かったが、そこでは討ち漏らした。紀伊国名草にいると聞くと、すぐに続いて向かった。しかし都で戦があると聞き、駆け上った。淀の大渡の橋で、今井の下人と出会った。

「ああ、おいたわしい。これはどちらへ向かわれるのですか。殿は討たれました。今井殿は自害なさいました」

 と申し上げたので、樋口次郎は涙をはらはらと流し、

「これをお聞きください、皆さん。殿をお慕い申し上げる方々は、ここからどこへでも逃げて、出家して入道となり、食を乞い歩く修行も行って、殿の後世をお弔いください。兼光は都へ上って討ち死にし、冥途で殿のお目に掛かり、今井四郎にもう一度会おうと思う」

 と言った。五百余騎の軍勢は、あちらで引き返し、こちらで引き返して逃げていき、鳥羽の南門を出るころには、わずか二十余騎になった。樋口次郎が今日にも都へ入ると伝わると、武士の党の者も名門の者も、七条、朱雀、四塚の方へ駆け向かった。樋口の配下に茅野太郎という者がいた。四塚に大勢駆けつけていた敵の中へ駆け込み、大声で、

「この中に甲斐の一条次郎殿の配下の方はいらっしゃいますか」

 と尋ねた。すると、

「どうしてわざわざ一条次郎殿の配下と戦うのだ。誰とでも戦えばよいではないか」

 と言って、どっと笑った。笑われて、茅野は名乗った。

「こう申す者は、信濃国諏訪上宮の住人、茅野大夫光家の子、茅野太郎光広です。どうしても一条次郎殿の配下と戦いたいというわけではありません。弟の茅野七郎がそこにいるのです。光広の子が二人、信濃国におりますが、ああ、父は立派に死んだのだろうか、見苦しく死んだのだろうかと嘆くでしょうから、弟の七郎の前で討ち死にして、子供たちに確かに聞かせたいと思うためです。敵を選り好みするつもりはありません」

 そう言って、あちらの敵、こちらの敵へ駆け寄り、敵三騎を斬り落とした。四人目の敵に馬を並べ、組み合ってどっと落ち、刺し違えて死んだ。

 樋口次郎は児玉党と縁を結んでいたので、児玉の人々が集まって、

「武士は誰も広く交わりを結ぼうとするものだ。それは万一のことがあったとき、ひとまず息を休め、しばらくでも命をつなごうと思うためだ。樋口次郎がわれらと縁を結んだのも、そのように思ったからだろう。今度のわれらの戦功の恩賞には、樋口の命を助けていただこう」

 と言って使者を立て、

「これまでは木曽殿の配下で今井、樋口と名高くいらっしゃいましたが、今は木曽殿も討たれました。何を気兼ねすることがありましょう。われらのもとへ降伏なさい。戦功の恩賞に替えてお願いし、お命だけはお助けしましょう。出家して入道となり、殿の後世をお弔いください」

 と伝えた。樋口次郎は名高い勇士だったが、運が尽きたのだろうか。児玉党に降伏した。このことを九郎御曹司に申し上げ、御所へ奏上して許された。しかしそばにいた公卿や殿上人、局の女房たちが、

「木曽が法住寺殿へ押し寄せ、鬨の声を上げて君をお苦しめし、火を掛けて多くの人々を滅ぼしたときには、あちらでもこちらでも今井、樋口という声ばかりがしていた。この者たちをお許しになるのは口惜しいことです」

 とそれぞれ申し上げたので、また死罪と決まった。

 同じ正月二十二日、新摂政殿は摂政を解かれ、もとの摂政がお戻りになった。わずか六十日のうちに替わられたので、まだ見終わらない夢のようだった。昔、粟田の関白は就任のお礼を申し上げた後、わずか七日しか在任なさらなかった。こちらは六十日とはいっても、その間に節会も除目も行われたので、思い出がないわけでもなかった。

 同二十四日、木曽左馬頭と今井の首、残党五人の首が大路を引き回された。樋口次郎は降伏した者だったが、しきりに首のお供をしたいと願い出たので、藍摺の水干に立烏帽子を着けて引き回された。同二十五日、樋口次郎はついに斬られた。範頼と義経はさまざまに申し上げたが、

「今井、樋口、楯、根井と呼ばれる、木曽の四天王の一人である。この者たちを許せば、虎を養うように、後で災いを受ける恐れがある」

 と、特に議論されて斬られたと伝えられた。

 伝え聞くところでは、虎や狼のような国が衰え、諸侯が蜂のように立ち上がったとき、沛公は先に咸陽宮へ入った。しかし後から項羽が来ることを恐れ、美人も犯さず、金銀や珠玉も奪わず、ただ函谷の関を守り、少しずつ敵を滅ぼして天下を治めることができたという。それゆえ木曽左馬頭も、先に都へ入ったとはいえ、頼朝朝臣の命に従っていたなら、あの沛公の策略に劣らなかっただろう。

 平家は去年の冬ごろから、讃岐国八島の磯を出て摂津国難波潟へ渡り、福原の旧都に住んでいた。西は一谷を城郭とし、東は生田森を正面の木戸口と定めた。その内側の福原、兵庫、板宿、須磨に籠もる軍勢は、山陽道八か国、南海道六か国、合わせて十四か国を従わせ、召し集めた兵である。十万余騎と伝えられた。

 一谷は北に山、南に海があり、入口は狭くて奥は広かった。崖は高く、屏風を立てたのと変わりなかった。北の山際から南の海の遠浅の所まで大石を積み上げ、大木を切って逆茂木として並べ、深い所では大船を壊して掻楯を組んだ。城の正面の高櫓には、一人当千と名高い四国や鎮西の勇士たちが、甲冑を着け、弓矢を携えて、雲や霞のように大勢並んでいた。櫓の下には鞍を置いた馬を十重、二十重に並べていた。絶えず太鼓を打ち、乱声を上げていた。一張りの弓の形は、半月を胸の前に掛けたようであり、三尺の剣の光は、秋の霜を腰の間に横たえたようだった。高い所には赤旗を多く立てていたので、春風に吹かれて空にひるがえる様子は、炎が燃え上がるのと変わりなかった。

六箇度軍

 平家が福原へお渡りになった後は、四国の兵たちが従わなくなった。中でも阿波と讃岐の在庁の者たちは、平家に背いて源氏に付こうとしたが、

「そもそもわれらは、昨日今日まで平家に従っていた者だ。今日初めて源氏の方へ行っても、とても用いられまい。さあ、平家に矢を一本射掛け、それを手柄にして参ろう」

 と言った。門脇中納言と子息の越前三位、能登守の父子三人が備前国下津井にいらっしゃると聞いたので、討とうと、兵船十余艘で押し寄せた。能登守はこれを聞き、

「けしからぬ奴らだ。昨日今日までわれらの馬の草を刈っていた奴らが、もう心変わりしたのだな。そういうことなら、一人も逃さず討て」

 と言い、小船に乗って、

「逃がすな、取り逃すな」

 と攻められた。四国の兵たちは、人に見せるだけのつもりで矢を一本射て退こうと思っていたのに、手厳しく攻められた。とてもかなわないと思ったのだろうか。敵が近づく前に負けを認めて引き退き、都の方へ逃げ上るうちに、淡路国福良の泊に着いた。その国には源氏が二人おり、故六条判官為義の末子、賀茂冠者義嗣と淡路冠者義久と呼ばれていた。西国の兵たちはこの二人を大将として頼み、城郭を構えて待っていた。そこへ能登殿がすぐに押し寄せて攻められ、一日戦って賀茂冠者は討ち死にした。淡路冠者は深い傷を負って自害した。能登殿は防ぎ矢を射ていた兵百三十余人の首を斬り、討ち手の名簿を書いて福原へ送られた。

 門脇中納言はそこから福原へお上りになった。子息たちは、伊予の河野四郎が召しても参らないのを攻めようと、四国へお渡りになった。まず兄の越前三位通盛卿は阿波国花園城にお着きになった。弟の能登守が讃岐の八島へお渡りになると聞くと、河野四郎通信は、安芸国の住人、沼田次郎が母方の伯父だったので、合流しようと安芸国へ渡った。

 能登守はこれを聞くと、すぐに讃岐の八島を出て追われた。備後国蓑島に差しかかり、翌日、沼田城へ押し寄せられた。沼田次郎と河野四郎は力を合わせて防ぎ戦った。能登殿がすぐに押し寄せて攻められたので、一日一夜、防ぎ戦ったが、沼田次郎はかなわないと思ったのだろうか。兜を脱いで降伏した。河野四郎はなおも従わなかった。その軍勢は五百余騎いたが、わずか五十騎ほどに討ち減らされ、城を出ていった。すると能登殿の侍、平八兵衛為員の二百騎ほどに取り囲まれ、主従七騎に討ち減らされた。

 救援の船に乗ろうと細道を通り、渚の方へ逃げていくと、平八兵衛の子息、讃岐七郎義範は極めて優れた弓の名手だったので、追いかけ、七騎のうち五騎をその場で射落とした。河野四郎は主従二騎だけになった。なおも射ようと弓を引くところへ、河野の郎等が引き返し、讃岐七郎に馬を並べて組み合い、ともに落馬した。讃岐七郎が郎等を押さえ付け、首をかこうとしているところに、河野四郎が引き返し、郎等の上になっていた讃岐七郎の首をかき切って深田へ投げ入れ、大声で、

「河野四郎越智通信、歳は二十一。こうして戦うのだ。われこそはと思う者は、ここに留まれ」

 と言った。郎等を肩に担ぎ、そこをさっと逃げて小船に乗り、伊予国へ渡った。能登殿は河野も討ち漏らされたが、降伏した沼田次郎を連れ、福原へ参られた。

 また淡路国の住人、安摩六郎忠景が平家に背き、源氏と心を通わせた。大船二艘に兵糧米や武具を積んで都の方へ上っていくと、能登殿は福原でこれを聞き、小船十艘ほどを浮かべて追われた。安摩六郎は西宮の沖で向き直り、防ぎ戦った。手厳しく攻められ、かなわないと思ったのだろうか。引き退いて和泉国吹飯の浦に着いた。紀伊国の住人、園辺兵衛忠康も平家に背いて源氏に付こうとしていた。安摩六郎が能登殿に攻められ、吹飯にいると聞くと、軍勢百騎ほどで駆けつけて合流した。

 能登殿がすぐに追って攻められたので、一日一夜、防ぎ戦った。しかし安摩六郎と園辺兵衛はかなわないと思ったのだろうか。家の子や郎等に防ぎ矢を射させ、自分たちは逃げて都へ上った。能登殿は防ぎ矢を射た兵二百余人の首を斬って掛け、福原へ参られた。

 また伊予国の住人、河野四郎通信と、豊後国の住人、臼杵次郎惟高、緒方三郎惟義が心を合わせ、総勢二千余人で備前国へ渡り、今木城に籠もった。能登守はこれを聞き、福原から三千余騎で駆け下り、今木城を攻められた。能登殿は、

「あの奴らは手ごわい敵です。さらに兵を頂きたい」

 と申し上げた。福原から数万騎の大軍を差し向けると伝わったころ、城内の兵たちは力の限り戦い、首を取り、手柄を立て尽くして、

「平家は大軍でいらっしゃる。われらは少人数だ。どうしてもかなうまい。ここから逃げて、しばらく命をつなごう」

 と言い、臼杵次郎と緒方三郎は船に乗って鎮西へ渡った。河野は伊予へ渡った。能登殿は、

「今は討つべき敵がいない」

 と言って、福原へ参られた。大臣殿をはじめ、平家一門の公卿や殿上人が集まり、能登殿のたびたびの戦功をそろってお褒めになった。

三草勢揃

 正月二十九日、範頼と義経は院に参上し、平家追討のために西国へ出陣することを奏上した。すると、

「わが国には神代から伝わる三つの御宝がある。内侍所、神璽、宝剣がそれである。必ず無事に都へお戻し申し上げよ」

 とお命じになった。二人はかしこまって承り、退出した。

 同じ年の二月四日、福原では故入道相国の命日ということで、形ばかりの仏事が行われた。朝夕の戦の支度で、過ぎていく月日にも気付かなかったが、去年は今年へと巡り、つらい春になっていた。世の中が平穏であったなら、どれほど寺院や塔婆を建て、仏に供え物をし、僧に施す営みがあっただろう。しかし、ただ男女の君達が集まって、泣くほかにすることがなかった。この折に叙位と除目が行われ、僧も俗人も皆、役職を与えられた。門脇中納言が正二位大納言におなりになるよう、大臣殿からお勧めになったところ、

 今日まで生きてはいるが、生きているとは思えないわが身。夢の中で、さらに夢を見ていることよ。

 と歌でお返事を申し上げ、ついに大納言にもおなりにならなかった。大外記中原師直の子、周防介師純が大外記になった。兵部少輔正明は五位蔵人に任じられ、蔵人少輔と呼ばれた。

 昔、将門が東の八か国を従わせ、下総国相馬郡に都を置き、自ら平親王と称して百官を任じたときには、暦博士がいなかった。しかし今の平家をそれと同じにはできない。旧都からお逃げになったとはいえ、主上は三種の神器を携え、天皇の位にお就きになっている。叙位と除目が行われても、間違いではなかった。

 平氏がすでに福原まで攻め上り、都へ帰り入ると伝わると、故郷に残っている人々の喜びは並々でなかった。二位僧都専親は梶井宮と長年同じ所にお住まいになっていたので、折々の便りにお手紙を差し上げた。宮からもまた、いつもお便りがあった。

「旅先でのご様子を思いやると、おいたわしく思います。都も静まりません」

 などとお書きになり、最後には歌が一首あった。

 人知れずそちらを慕う心を、西へ傾く月に託して送ります。

 僧都はこれを顔に押し当て、悲しみの涙を抑えられなかった。

 そのころ小松三位中将維盛卿は、年が改まり、日が重なるにつれて、故郷に残してきた北の方や幼い人々のことばかりを嘆き悲しまれた。商人の便によって、ときに手紙などが行き来しても、北の方の都でのご様子をおいたわしく聞かれた。それなら迎え寄せ、同じ所でともに死のうかとは思ったが、自分の身はともかく、人には気の毒だなどと思って耐え、一日一日をお過ごしになった。そこに、深い愛情がいっそう表れていた。

 さて、源氏は四日に攻め寄せるはずだったが、故入道相国の命日と聞き、仏事を終えさせるために攻めなかった。

 五日は西の方角が塞がる日、六日は道虚日なので、七日の卯の刻、一谷の東西の木戸口で源平の矢合わせをすると定めた。それでも四日は吉日だからと、正面を攻める軍と別の方向から攻める軍の大将軍は、兵を二手に分けて都を出発した。

 正面の軍の大将軍は蒲御曹司範頼。同行する人々は武田太郎信義、加賀美次郎遠光、加賀美小次郎長清、山名次郎教義、山名三郎義行。侍大将は梶原平三景時、嫡子の源太景季、次男の平次景高、梶原三郎景家、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、榛谷五郎行重、小山小四郎朝政、同族の中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫広綱、小野寺前司太郎道綱、曾我太郎資信、中村太郎時経、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎広行、庄三郎忠家、庄四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、河原次郎盛直、藤田三郎大夫行泰をはじめ、総勢五万余騎である。二月四日の辰の一点に都を出発し、その日の申、酉の刻に摂津国昆陽野で陣を取った。

 別の方向から攻める軍の大将軍は九郎御曹司義経。同行する人々は安田三郎義貞、大内太郎惟義、村上判官代康国、田代冠者信綱。侍大将は土肥次郎実平、子息の弥太郎遠平、三浦介義澄、子息の平六義村、畠山庄司次郎重忠、同族の長野三郎重清、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、和田次郎義茂、和田三郎宗実、佐々木四郎高綱、佐々木五郎義清、熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直経、小河次郎資能、原三郎清益、金子十郎家忠、金子与一親範、渡柳弥五郎清忠、別府小太郎清重、多々羅五郎義春、その子の太郎光義、片岡太郎経春、源八広綱、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤三郎嗣信、佐藤四郎忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶をはじめ、総勢一万余騎である。同日の同じ時刻に都を出発し、丹波路を通り、二日がかりの道を一日で進んで、播磨と丹波の境にある三草山の東の入口、小野原に着いた。

三草合戦

 平家の方は、大将軍が小松新三位中将資盛、同少将有盛、丹後侍従忠房、備中守師盛。侍大将は平内兵衛清家、海老次郎盛方をはじめ、総勢三千余騎で、小野原から三里離れた三草山の西の入口に陣を取った。その夜の戌の刻ごろ、九郎御曹司は土肥次郎を呼び、

「平家はここから三里離れた三草山の西の入口に、大軍で待ち構えているという。今夜、夜討ちに攻めるべきか、それとも明日戦うか」

 とおっしゃった。田代冠者が進み出て申し上げた。

「明日の戦まで延ばされたら、平家には援軍が加わるでしょう。平家は三千余騎、味方の軍勢は一万余騎で、はるかに有利です。夜討ちがよろしいと思います」

 と申し上げると、土肥次郎は、

「よくおっしゃった、田代殿。それではその言葉をお聞き入れになり、お攻めください」

 と言って出発した。兵たちが、

「まことに暗い。どうしよう」

 と口々に申し上げると、九郎御曹司は、

「いつもの大たいまつはどうした」

 とおっしゃった。土肥次郎は、

「そういう手がございます」

 と言って、小野原の民家に火を掛けた。これを皮切りに、野にも山にも草にも木にも火を付けたので、昼と少しも変わらない明るさで、三里の山道を越えていった。

 この田代冠者という人の父は、伊豆国の前の国司で、中納言為綱の子孫である。母は狩野介茂光の娘で、父はこの娘を愛して子をもうけた。母方の祖父に預けて武士に育てた。家系をたどると、後三条院の第三の皇子、資仁親王から五代の子孫である。家柄がよいうえに、武士としても優れていた。

 平家の方は、その夜に夜討ちをされるとは知らず、

「戦はきっと明日だろう。戦で眠いのは重大なことだ。よく眠って戦え」

 と言っていた。先陣には用心する者もいたが、後陣の者たちは兜を枕にしたり、鎧の袖や箙などを枕にしたりして、前後も分からないほど眠り込んでいた。夜中ごろ、源氏一万騎が押し寄せ、鬨の声をどっと上げた。平家の方はあまりにもあわて騒ぎ、弓を取る者は矢を探せず、矢を取る者は弓を探せず、馬にぶつかられまいと、間を開けて敵を通した。

 源氏は逃げる敵をあちらで追いかけ、こちらで追い詰めて攻めたので、平家の兵はその場で五百余騎が討たれた。傷を負った者も多かった。大将軍小松新三位中将、同少将、丹後侍従は面目ないとお思いになったのだろうか。播磨国高砂から船に乗り、讃岐の八島へお渡りになった。備中守は平内兵衛と海老次郎を連れ、一谷へ参られた。

老馬

 大臣殿は安芸右馬助能行を使者にし、平家の君達それぞれのもとへ、

「九郎義経が三草の軍を攻め落とし、すでに攻め込んでくると聞きます。山側の守りが重要です。それぞれお向かいください」

 とお伝えになったが、皆お断りになった。能登殿のもとへ、

「何度もお願いすることですが、あなたに向かっていただけませんか」

 とお伝えになると、能登殿は返事に、

「戦は自分一人にかかった大事だと思ってこそ、うまくいくものです。狩りや漁のように、足場のよい方へは向かおう、悪い方へは向かうまいなどと言っていては、とても戦に勝てません。何度でも、手ごわい方へは教経が承って向かいましょう。一方面だけは打ち破りましょう。ご安心ください」

 と、頼もしく申し上げた。大臣殿はたいそう喜ばれ、越中前司盛俊をはじめ、一万余騎を能登殿にお付けになった。兄の越前三位通盛卿とともに、山側を固められた。山側というのは鵯越の麓である。通盛卿は能登殿の仮屋に北の方を迎え、最後の別れを惜しんでいらっしゃった。能登殿は大いに怒って、

「この方面は敵が手ごわいからと、教経を向かわせたのです。実際に手ごわいでしょう。今すぐにでも上の山から源氏がさっと攻め下ってきたら、取る物も取りあえないでしょう。たとえ弓を持っていても、矢をつがえなければどうにもなりません。たとえ矢をつがえていても、引かなければなおいけません。ましてそのように気を許していらっしゃっては、何の役にお立ちになれるでしょう」

 と諫められた。通盛卿も、もっともだと思われたのだろうか。急いで武具を着け、北の方をお帰しになった。

 五日の暮れ方、源氏は昆陽野を出発し、次第に生田森へ攻め近づいた。雀松原、御影の松、昆陽野の方を見渡すと、源氏はそれぞれの部隊で陣を取り、篝火をたいていた。夜が更けていくにつれて眺めると、山の端から出る月のようだった。平家も、

「篝火をたけ」

 と言って、生田森に形ばかりの火をたいた。夜が明けていくにつれて見渡すと、晴れた空の星のようだった。昔、河辺の蛍と詠じられたのもこれなのかと、今になって思い知られた。源氏は、あちらに陣を取って馬を休ませ、こちらに陣を取って馬に餌を与えるなどして、急がなかった。平家の方は、

「今にも攻めてくるか、今にも攻めてくるか」

 と、気の休まることがなかった。

 六日の明け方、九郎御曹司は一万余騎を二手に分け、まず土肥次郎実平を七千余騎で一谷の西側へ遣わした。自分は三千余騎で一谷の後ろの鵯越を攻め下ろうと、丹波路から裏手へお回りになった。兵たちは、

「ここは名高い難所なのだ。どうせ死ぬにしても、敵と戦って死にたい。険しい所へ落ちて死にたくはない。ああ、この山を案内する者はいないだろうか」

 と、それぞれ申し上げた。武蔵国の住人、平山武者所が進み出て申し上げた。

「季重が道を存じております」

 御曹司は、

「そなたは東国で育った者なのに、今日初めて見る西国の山の案内ができるとは、まことに信じがたい」

 とおっしゃった。平山は重ねて申し上げた。

「お言葉とも思われません。吉野や泊瀬の花は歌人が知り、敵の籠もる城の後ろの道は、剛の者が知っております」

 と申し上げたので、これもまた傍若無人に聞こえた。また武蔵国の住人、別府小太郎清重という、歳は十八になる若武者が進み出て申し上げた。

「父の義重法師が教えてくれたのは、『敵に襲われたときでも、山越えの狩りをしたときでも、深山に迷ったなら、老馬に手綱を掛け、先に追い立てて行け。必ず道へ出るぞ』ということでした」

 御曹司は、

「よく言ったものだ。雪は野原を埋めても、老いた馬は道を知っているという言葉がある」

 と言い、白葦毛の老馬に鏡鞍を置き、白轡をはめ、手綱を結んで掛けた。先へ追い立て、まだ知らない深山へお入りになった。二月の初めのことなので、峰の雪はところどころ消え、花かと見える所もあった。谷から鶯の声が聞こえ、霞に紛れてよく見えない所もあった。上れば白い雪が明るくそびえ、下れば青い山が険しく、崖が高かった。松に積もった雪さえまだ消えず、苔の細道はかすかに見えた。山風に吹かれて散る折々には、梅の花かとも思われた。東へ西へと鞭を上げ、馬を速めていったが、山道で日が暮れたので、皆、馬を下りて陣を取った。

 武蔵坊弁慶が老人を一人連れて参った。御曹司は、

「あれは何者だ」

 とお尋ねになると、

「この山の猟師でございます」

 と申し上げた。

「それなら道は知っているだろう。ありのままに申せ」

「もちろん存じております」

「ここから平家の城郭へ攻め下ろうと思うが、どうだ」

「とてもできません。三十丈の谷や十五丈の岩の崖などという所は、人が通れるようなものではありません。まして御馬などは思いも寄りません。そのうえ城の中では、落とし穴を掘り、ひしを植えてお待ちしているでしょう」

 と申し上げた。

「では、そのような所を鹿は通るか」

「鹿は通ります。季節が暖かくなると、草の深い所に臥そうと、播磨の鹿は丹波へ越えます。季節が寒くなると、雪の浅い所で草を食べようと、丹波の鹿は播磨の印南野へ通います」

 と申し上げた。御曹司は、

「それなら馬場なのだな。鹿が通る所を、馬が通れないことがあるものか。すぐにお前が案内せよ」

 とおっしゃった。老人は、自分は年老いているのでできないと申し上げた。

「お前に子はいないか」

「おります」

 と言い、熊王という十八歳の少年を差し出した。すぐに髻を結い上げ、父が鷲尾庄司武久というので、鷲尾三郎義久と名乗らせた。先頭を進ませ、案内人としてお連れになった。平家追討の後、義経が鎌倉殿と仲たがいし、奥州で討たれたとき、鷲尾三郎義久といって、ともに死んだ武士である。

一二之懸

 六日の夜中ごろまでは、熊谷と平山は裏手を攻める軍にいた。熊谷次郎は子息の小次郎を呼んで言った。

「こちらの軍は険しい所を攻め下るのだから、誰が先陣かということもあるまい。さあ、ここから土肥が命を受けて向かった播磨路へ向かい、一谷へ真っ先に攻めよう」

 と言うと、小次郎は、

「よろしいでしょう。直家もそう申し上げたかったのです。それではすぐにお攻めください」

 と申し上げた。熊谷は、

「そうだ、平山もこちらの軍にいるぞ。大勢で一度に攻め込む戦を好まない者だ。平山の様子を見てこい」

 と言って下人を遣わした。思ったとおり、平山は熊谷より先に出発の支度をし、

「人はどうあれ、季重は一歩も引くまい」

 と独り言を言っていた。下人が馬に餌を与えながら、

「憎らしい馬だ。いつまでも食べている」

 と言って打つと、平山は、

「そうするな。その馬とも今夜限りの付き合いだ」

 と言って出発した。熊谷の下人は走って帰り、急いでこのことを告げた。

「やはりそうか」

 と言って、熊谷もすぐに出発した。

 熊谷は濃い藍色の直垂に赤革威の鎧を着て、紅の母衣を掛け、権太栗毛という名高い名馬に乗っていた。小次郎は沢潟の模様を一度摺った直垂に節縄目の鎧を着て、西楼という白月毛の馬に乗っていた。旗差は黄緑色の直垂に、小桜を黄に返した鎧を着て、黄河原毛の馬に乗っていた。

 攻め下るはずの谷を左にして、右へ馬を歩ませた。長年、人も通らない田井の畑という古い道を通り、一谷の波打ち際へ出た。一谷に近い塩屋という所には、まだ夜が深かったので、土肥次郎実平が七千余騎で待機していた。熊谷は波打ち際から夜に紛れ、そこをすっと通り抜けて、一谷の西の木戸口へ押し寄せた。そのときはまだ夜が深く、敵の方も静まり返って音もせず、味方も一騎として続いてこなかった。熊谷次郎は子息の小次郎を呼んで言った。

「われもわれもと先陣を心に掛けている人は多いだろう。狭い考えで直実だけだと思ってはならない。もう攻め寄せたが、まだ夜明けを待って、この辺にも控えているだろう。さあ、名乗ろう」

 そう言って掻楯のそばへ馬を歩ませ、大声で、

「武蔵国の住人、熊谷次郎直実と子息の小次郎直家が、一谷の先陣だ」

 と名乗った。平家の方は、

「よいよい、声を出すな。敵に馬の足を疲れさせ、矢を射尽くさせよ」

 と言って、応じる者もいなかった。そのうち、後ろから武者一騎が旗差を連れて続いてきた。

「ここに控えているのは熊谷殿ですか。季重でございますよ」

「熊谷殿はいつからここへ」

「直実は宵からだ」

 と答えた。

「季重もすぐに続いて攻めるはずだったのに、成田五郎にだまされて、今まで遅れたのです。成田が、死ぬなら同じ所で死のうと約束したので、『それなら』と連れ立って来たところ、『平山殿、それほど先陣を急ぎなさるな。先陣というのは、味方の軍勢を後ろに置いて攻めるからこそ、手柄も失敗も人に知られるのです。ただ一騎で大軍の中へ駆け込んで討たれては、何の意味がありましょう』と止めました。もっともだと思い、小坂があったので先に駆け上がり、馬の頭を坂の下へ向け、味方の軍勢を待っていました。そこへ成田も続いて来たので、馬を並べて戦い方を話し合うのかと思ったのです。ところがそうではなく、季重をそっけなく見て、すっと駆け抜けていきました。ああ、この者は私をだまして先陣を取ろうとしていたのだと思い、五、六段ほど先へ出たのを見て、あの馬は私の馬より弱そうだと目を付けました。一気に馬を駆って追いつき、『卑怯にも季重ほどの者をだますとは』と言い捨て、置き去りにして攻めてきたのです。はるかに後ろへ下がったでしょうから、私の後ろ姿さえ見られなかったでしょう」

 と言った。

 そのうち、東の空が次第に明けていった。熊谷と平山は合わせて五騎で控えていた。熊谷は先に名乗ったが、平山の聞いている前で名乗ろうと思ったのだろうか。また掻楯のそばへ馬を歩ませ、大声で、

「先ほど名乗った武蔵国の住人、熊谷次郎直実と子息の小次郎直家が、一谷の先陣だ。われこそはと思う平家の侍たちよ、直家の相手をせよ、相手をせよ」

 と叫んだ。これを聞いて、

「さあ、一晩中名乗っている熊谷親子を引っ捕らえてこよう」

 と進んだ平家の侍は誰だったか。越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、後藤内定経をはじめ、主だった勇士二十余騎が木戸を開いて駆け出した。平山は滋目結の直垂に緋威の鎧を着て、二つ引両の母衣を掛け、目糟毛という名高い名馬に乗っていた。旗差は黒革威の鎧に兜を首まで深くかぶり、さび月毛の馬に乗っていた。

「保元、平治の二度の合戦で先陣を務めた、武蔵国の住人、平山武者所季重だ」

 と名乗り、旗差と二騎、馬の鼻を並べて叫びながら駆けた。熊谷が駆ければ平山が続き、平山が駆ければ熊谷が続いた。互いに負けまいと入れ替わり、入れ替わり、激しく馬を駆り、火が出るほど攻めた。平家の侍たちは手厳しく攻められ、かなわないと思ったのだろうか。城内へさっと引き、敵を外に残して木戸を閉じた。

 熊谷は馬の腹を射られて馬が跳ねたので、足を返して下り立った。子息の小次郎直家も、歳は十六と名乗り、掻楯に馬の鼻が触れるほど攻め寄せて戦ったが、左の肘を射られた。馬から飛び下り、父と並んで立った。

「小次郎、傷を負ったか」

「はい」

「いつも矢は鎧に当たるようにしろ。貫かせるな。錣を傾けろ。兜の内側の顔を射られるな」

 と教えた。熊谷は鎧に刺さった矢をむしり捨て、城内をにらみ、大声で、

「去年の冬ごろ鎌倉を出てから、命は兵衛佐殿に差し上げ、死骸は一谷にさらそうと決心した直実だ。室山、水島の二度の合戦で手柄を立てたと名乗る越中次郎兵衛はいないか。上総五郎兵衛、悪七兵衛はいないか。能登殿はいらっしゃらないか。手柄は敵次第で立てられるものだ。誰と戦っても立てられるわけではない。直実の相手をせよ、相手をせよ」

 と叫んだ。これを聞いた越中次郎兵衛は、好みの装束なので紺村濃の直垂に赤威の鎧を着て、白葦毛の馬に乗り、熊谷父子を狙って馬を歩ませてきた。熊谷父子は間を突破されまいと並び立ち、太刀を額の前に構え、後ろへは一歩も引かず、いよいよ前へ進んだ。越中次郎兵衛はかなわないと思ったのだろうか。引き返した。熊谷はこれを見て、

「おや、あれは越中次郎兵衛と見える。敵としてどこが気に入らないのか。直実に馬を並べて組み合え、組み合え」

 と言ったが、

「そうしましょう」

 と言って引き返した。悪七兵衛はこれを見て、

「卑怯な方々の振る舞いだな」

 と言い、組み合おうと駆け出すところを、鎧の袖を引き止められ、

「君の大事はこの一戦だけではあるまい。そんなことはしてはならぬ」

 と止められて、組み合わなかった。その後、熊谷は替えの馬に乗って叫びながら駆けた。平山も熊谷父子が戦っている間に馬の息を休め、また続いた。平家の方には馬に乗った武者が少なく、櫓の上の兵たちが矢先をそろえて雨の降るように射た。しかし敵は少なく、味方の平家は多かったので、熊谷たちは軍勢に紛れ、矢も当たらなかった。

「ただ馬を並べて組み合え、組み合え」

 と命じたが、平家の馬は乗ることが多く、餌を与えることが少なかった。船の中で長い間立ち続け、彫刻した馬のようになっていた。熊谷と平山の馬は十分に餌を与えられた大きな馬だった。一度ぶつかれば皆蹴倒されてしまいそうなので、馬を並べて組み合う武者は一騎もいなかった。平山は自分の身にも替えたいほど大切にしていた旗差を射られ、敵の中へ突入し、すぐにその敵の首を取って出てきた。熊谷も多くの首を取った。熊谷は先に攻め寄せたが、木戸が開かなかったので駆け込めず、平山は後から攻め寄せたが、木戸が開いたので駆け込んだ。こうして熊谷と平山は、一番、二番の駆け入りを争った。

二度之懸

 そのうち成田五郎も現れた。土肥次郎が真っ先に駆け、その軍勢七千余騎は色とりどりの旗を掲げ、叫びながら攻め戦った。正面の生田森にも源氏が五万余騎で構えていた。その軍勢の中に、武蔵国の住人、河原太郎と河原次郎という者がいた。河原太郎は弟の次郎を呼んで言った。

「大名は自分で手を下さなくても、家来の手柄をもって名誉とする。われらは自分で手を下さなければどうにもならない。敵を前にしながら矢を一本も射ずに待っているのが、あまりにじれったいので、高直はまず城内へ紛れ込み、一矢射ようと思う。そうなれば生きて帰ることは、千万に一つも難しい。そなたは残って、後の証人になれ」

 と言うと、河原次郎は涙をはらはらと流し、

「残念なことをおっしゃるものです。兄弟はただ二人なのに、兄を討たせて弟一人が残ったとして、どれほどの栄華を保てるでしょう。別々の所で討たれるより、同じ所で死にましょう」

 と言った。下人たちを呼び寄せ、最後の様子を妻子のもとへ伝えるよう言い付けた。馬にも乗らず、草履を履き、弓を杖にして、生田森の逆茂木を乗り越え、城内へ入った。星明かりでは鎧の色もはっきり見えなかった。河原太郎は大声で、

「武蔵国の住人、河原太郎私市高直と河原次郎盛直が、源氏の正面の軍、生田森の先陣だ」

 と名乗った。平家の方はこれを聞き、

「東国の武士ほど恐ろしい者はいない。この大軍の中に、ただ二人で入ったところで、どれほどのことができよう。よいよい、しばらく可愛がってやれ」

 と言って、討とうという者はいなかった。この兄弟は極めて優れた弓の名手だったので、次々に矢をつがえ、十分に引き絞って激しく射た。すると、

「可愛がってもいられぬ。討て」

 と言う間もなく、西国で名高い強弓の精兵、備中国の住人、真名辺四郎、真名辺五郎という兄弟のうち、四郎は一谷に置かれ、五郎は生田森にいたが、これを見て十分に引き絞り、ひゅう、ふつっと射た。河原太郎は鎧の胸板を背中まで射抜かれ、弓を杖にしてすがり、身をすくめた。弟の次郎は走り寄り、兄を肩に担いで逆茂木を乗り越えようとしたが、真名辺の二の矢に鎧の草摺の外れを射られ、兄と同じ所に倒れた。真名辺の下人が駆けつけ、河原兄弟の首を取った。これを新中納言にお目に掛けると、

「ああ、剛の者だ。この者たちこそ一人当千の勇士というべきだ。惜しい者たちを、助けて会えなかったことよ」

 とおっしゃった。そのとき下人たちが、

「河原殿の兄弟は、今、城内へ真っ先に駆け入って討たれましたぞ」

 と叫んだ。梶原はこれを聞き、

「私党の方々がしくじったために、河原兄弟を討たせたのだ。今は時が来た。攻めよ」

 と言って鬨の声をどっと上げた。すぐに続いて五万余騎が一斉に鬨の声を上げた。

 足軽たちに逆茂木を取り除かせ、梶原は五百余騎で叫びながら駆けた。次男の平次景高が、あまりにも先陣を取ろうと進むので、父の平三は使者を立てて、

「後続の軍勢が続かないうちに先陣を取った者には、恩賞を与えないとの大将軍のご命令だ」

 と伝えた。平次はしばらく馬を止め、

「武士が代々受け継いできた梓弓。いったん引けば、引き返すものではありません。そうお伝えください」

 と言って叫びながら駆けた。

「平次を討たせるな。続け、者ども。景高を討たせるな。続け、者ども」

 と言って、父の平三、兄の源太、同じく三郎が続いた。梶原の五百余騎は大軍の中へ駆け込み、激しく戦ったが、わずか五十騎ほどに討ち減らされ、さっと退いて外へ出た。どうしたのか、その中に景季が見えなかった。梶原平三は、

「源太はどうした、郎等ども」

 と尋ねると、

「深く入り込んで、討たれたのでしょうか」

 と申し上げた。梶原平三はこれを聞き、

「この世に生きていたいと思うのも、子供たちのためだ。源太を討たせて、生きていて何になろう。引き返せ」

 と言って引き返した。梶原は大声で名乗った。

「昔、八幡殿の後三年の戦で、出羽国千福の金沢城をお攻めになったとき、十六歳で真っ先に駆け、左の目を兜の鉢付の板に射付けられながら、その矢を射返して敵を射落とし、後の世まで名を上げた鎌倉権五郎景正の子孫、梶原平三景時、一人当千の勇士だ。われこそはと思う者は、景時を討ってお目に掛けよ」

 そう言って叫びながら駆けた。新中納言は、

「梶原は東国で名高い勇士だ。逃がすな、取り逃すな、討て」

 と言って、大軍の中に取り囲んで攻められた。梶原はまず自分のことを気にも留めず、源太はどこにいるのかと、数万騎の中を縦に、横に、四方八方へ、十文字に駆け破り、駆け回って捜した。

 源太は兜を後ろへ反らせて着け、馬も射られて徒歩になり、二丈ほどの崖を背に、敵五人に取り囲まれていた。郎等二人が左右にいて、目をそらさず、命も惜しまず、ここを最後と防ぎ戦っていた。梶原はこれを見つけ、

「まだ討たれていなかった」

 と、急いで馬から飛び下り、

「景時はここだ。源太、たとえ死んでも敵に背を見せるな」

 と言い、親子で五人の敵のうち三人を討ち取り、二人に傷を負わせた。

「武士は攻めるのも退くのも、時によるものだ。さあ、源太」

 と言って、一緒に出てきた。梶原の二度の駆け入りとは、このことである。

坂落

 これを皮切りに、秩父、足利、三浦、鎌倉、党では猪俣、児玉、野与、横山、西党、都筑党、私党の兵たちが、源平入り乱れて戦った。入れ替わり、入れ替わり、代わる代わる名乗り、叫ぶ声は山に響き、馬が駆け違う音は雷のようだった。射合う矢は雨が降るのと変わらなかった。傷を負った者を肩に担いで後ろへ退く者もあった。浅い傷を負って戦う者もあった。深い傷を負って討ち死にする者もあった。馬を並べて組み落ち、刺し違えて死ぬ者もあった。相手を押さえて首をかく者もあり、かかれる者もあった。どこにも隙があるとは見えなかった。

 こうして戦ったが、源氏は正面の軍だけでは勝てそうもなかった。九郎御曹司は裏手へ回り、七日の明け方、一谷の後ろの鵯越へ上った。まさに攻め下ろうとなさったとき、その軍勢に驚いたのだろうか。雄鹿二頭、雌鹿一頭が、平家の城郭である一谷へ下っていった。城内の兵たちはこれを見て、

「里の近くにいる鹿でさえ、われらを恐れれば山深く入るはずなのに、これほどの大軍の中へ鹿が下ってくるのは怪しい。どうやら上の山から源氏が攻め下るのだ」

 と騒いだ。伊予国の住人、武知の武者所清教が進み出て、

「何であれ、敵の方から出てきたものを逃がしてはならぬ」

 と言い、雄鹿二頭を射止め、雌鹿は射ずに通した。越中前司は、

「無益なことだ、方々の鹿の射方は。今の矢一本で、敵十人を防げるものを。罪を作り、矢もむだにして」

 と諫めた。

 御曹司は城郭をはるかに見渡していらっしゃったが、

「馬を下らせてみよう」

 と言って、鞍を置いた馬を追い下した。足を折って転がり落ちるものもあり、無事に下っていくものもあった。鞍を置いた馬三頭は、越中前司の屋形の上に下り着き、身震いして立った。御曹司はこれを見て、

「馬は、それぞれの主人が心得て下らせれば、けがをするまい。さあ、下れ。義経を手本にせよ」

 と言って、まず三十騎ほどで真っ先に駆け下りられた。大軍は皆、続いて下った。後から下る人々の鎧の端が、先陣の鎧や兜に当たるほどだった。小石交じりの砂なので、流れるように二町ほどをさっと下り、段になった所で馬を止めた。そこから下を見下ろすと、苔むした大きな岩が、釣瓶を落とすように十四、五丈も下がっていた。兵たちは後ろへ引き返すこともできず、先へ下れそうにも見えなかった。

「ここが最期だ」

 と言い、途方に暮れて馬を止めていた。佐原十郎義連が進み出て申し上げた。

「三浦の方では、われらは鳥が一羽飛び立っても、朝夕このような所を駆けています。三浦の方の馬場だ」

 そう言って真っ先に駆け下ると、兵たちは皆、続いて下った。「えい、えい」と声を抑えて、馬に力を付けながら下った。あまりの恐ろしさに目を閉じて下った。およそ人間の仕業には見えず、ただ鬼神の仕業と見えた。下り終わらないうちに、鬨の声をどっと上げた。三千余騎の声だったが、山彦が返して十万余騎の声と聞こえた。

 村上判官代康国の部隊から火を掛け、平家の屋形や仮屋を皆焼き払った。折しも風は激しく、黒煙が押しかぶさったので、平氏の兵たちはひどくあわて騒ぎ、

「もしかしたら助かるかもしれない」

 と、前の海へ大勢駆け込んだ。渚には用意した船がいくらもあったが、われ先に乗ろうと、一艘に武具を着けた者が四、五百人も押し乗ろうとするので、無事でいられるはずがなかった。渚からわずか三町ほど漕ぎ出したところで、目の前で大船三艘が沈んだ。

 その後は、身分の高い人は乗せても、雑人たちは乗せてはならないと、太刀や長刀で追い払った。そうされると分かっていながら、乗せまいとする船に取り付き、つかみ付き、腕を斬り落とされたり、肘を斬り落とされたりして、一谷の渚に血まみれで並び倒れた。

 能登守教経は、たびたびの戦で一度もしくじらなかった人だが、今度はどうお思いになったのだろうか。薄墨という馬に乗り、西を目指して逃げられた。播磨国明石浦から船に乗り、讃岐の八島へお渡りになった。

越中前司最期

 正面でも浜側でも、武蔵と相模の兵たちは命を惜しまず攻め戦った。新中納言が東へ向かって戦っていらっしゃると、山のそばから攻め寄せた児玉党が使者を送り、

「君は武蔵国司でいらっしゃいましたので、児玉の者たちから申し上げます。お後ろをご覧になっていないのでしょうか」

 と伝えた。新中納言をはじめ、人々が後ろを振り返ると、黒煙が押し寄せていた。

「ああ、西側は破られたのだ」

 と言う間もなく、取る物も取りあえず、われ先に逃げていった。

 越中前司盛俊は山側の侍大将だったが、今となっては逃げても無駄だと思ったのだろうか。馬を止めて敵を待っていた。猪俣小平六則綱はよい敵だと目を付け、鞭を打ち、鐙で馬を駆って追いつき、馬を並べてぐっと組み合い、どっと落馬した。

 猪俣は東の八か国で名高い強者だった。鹿の角の一番目、二番目の枝を、たやすく引き裂いたと伝えられた。越中前司は二、三十人分の力を出すと、人目には見えていた。しかし実際には、六、七十人がかりで上げ下ろしする船を、ただ一人で押し上げ、押し下ろすほどの大力だった。そこで猪俣を押さえ付け、少しも身動きさせなかった。猪俣は下に伏したまま刀を抜こうとしたが、指が開いたままで、刀の柄を握ることさえできなかった。何か言おうとしても、あまりに強く押さえられ、声も出なかった。もう首をかかれようとしていたが、力は劣っても心は強かったので、猪俣は少しも騒がず、しばらく息を休め、何でもないようにして言った。

「そもそも私の名乗りをお聞きになりましたか。敵を討つというのは、自分も名乗って聞かせ、敵にも名乗らせて首を取ってこそ、大きな手柄なのです。名も知らない首を取って、何になさるのですか」

 と言われ、もっともだと思ったのだろうか。

「私はもと平家の一門だったが、身がふがいないため、今は侍となっている越中前司盛俊という者だ。そなたは何者だ。名乗れ、聞こう」

 と言った。猪俣は、

「武蔵国の住人、猪俣小平六則綱」

 と名乗った。

「よくよくこの世のありさまを見ると、源氏の方は強く、平家の方は負け模様にお見受けします。今もご主君の世であれば、敵の首を取って差し上げ、戦功による恩賞にもお預かりになれるでしょうが。道理を曲げて、則綱をお助けください。あなたの一門が何十人いらっしゃっても、則綱の戦功の恩賞に替えてお願いし、お助けしましょう」

 と言うと、越中前司は大いに怒って、

「盛俊はふがいないとはいえ、やはり平家の一門だ。源氏を頼もうとは思わない。源氏もまた、盛俊に頼られようとは思うまい。けしからぬ物言いだ」

 と言い、そのまま首をかこうとした。猪俣は、

「卑怯な。降伏した者の首をかくことがありますか」

 越中前司は、

「それなら助けよう」

 と言って引き起こした。前は畑のように干上がって極めて固かったが、後ろは泥の深い水田だった。その畔に二人は腰を掛け、息をついていた。

 しばらくすると、黒革威の鎧を着て、月毛の馬に乗った武者一騎が駆けてきた。越中前司が怪しむように見たので、

「あれは則綱と親しい、人見四郎という者です。則綱がいるのを見て、こちらへ来るのだと思います。心配ありません」

 と言った。しかし、あの者が近づいたときに越中前司と組み合えば、さすがに加勢してくれるだろうと思って待っていた。人見四郎が一段ほどの距離まで近づいた。越中前司は初め二人を一目ずつ見ていたが、次第に近づいてきたので、駆けてくる敵をじっと見つめ、猪俣を見なかった。その隙に猪俣は力を入れて踏ん張り、さっと立ち上がった。「えい」と言って両手で越中前司の鎧の胸板をばっと突き、後ろの水田へ仰向けに突き倒した。

 起き上がろうとするところへ、猪俣はぐっと上に乗りかかり、すぐに越中前司の腰の刀を抜いた。鎧の草摺を引き上げ、柄も拳も通れとばかりに三度刺して、首を取った。そのうち人見四郎が駆けつけた。このようなときには手柄を争うこともあると思い、首を太刀の先に貫いて高く掲げ、大声で、

「この日ごろ鬼神と呼ばれていた平家の侍、越中前司盛俊を、猪俣小平六則綱が討ったぞ」

 と名乗った。そしてその日の手柄の第一に記された。

忠度最期

 薩摩守忠度は一谷の西側の大将軍でいらっしゃった。紺地の錦の直垂に黒糸威の鎧を着て、太くたくましい黒馬に沃懸地の鞍を置いて乗っておられた。軍勢百騎ほどに取り囲まれ、少しも騒がず、時々馬を止めながら逃げていかれた。猪俣党の岡部六弥太忠純は、大将軍だと目を付け、鞭を打ち、鐙で馬を駆って追いつき、

「そもそもどなたでいらっしゃいますか。お名乗りください」

 と申し上げた。すると、

「私は味方だ」

 と言って振り仰がれたので、兜の内側をのぞくと、お歯黒を付けていた。

「ああ、味方にはお歯黒を付けた人はいない。平家の君達でいらっしゃるのだ」

 と思い、馬を並べてぐっと組み付いた。これを見て、百騎ほどの兵たちは国々から一時的に集まった武者だったので、一騎も助けに来ず、われ先に逃げていった。薩摩守は、

「けしからぬ奴だ。味方だと言ったら、そう言わせておけばよいものを」

 と言い、六弥太の兜の鉢をつかんで持ち上げた。六弥太は馬の上で二度、地面に落ちたところで一度、合わせて三度まで刺された。二度は鎧の上なので通らなかった。一度は兜の内側へ刺し込まれたが、浅い傷だったので死ななかった。忠度が六弥太を押さえて首をかこうとなさったところへ、六弥太の童が後から駆けつけ、打刀を抜き、薩摩守の腕を肘の付け根からさっと斬り落とした。もはやこれまでとお思いになったのだろうか。

「しばらく退け。十念を唱えよう」

 と言って六弥太を突きのけ、弓の長さほど向こうへお投げになった。その後、西に向かって大声で十念を唱え、

「光はあまねく十方の世界を照らし、念仏する人々を救い取って、見捨てることがない」

 とおっしゃり終わらないうちに、六弥太が後ろから寄り、薩摩守の首を斬った。立派な大将を討ったと思ったが、名を誰とも知らなかった。箙に結び付けられた文をほどいて見ると、「旅宿花」という題で、歌を一首詠まれていた。

 道を行くうちに日が暮れ、木の下陰を宿にするなら、花が今夜の宿の主人になってくれるのだろう。

 忠度と書かれていたので、薩摩守と知った。首を太刀の先に貫いて高く掲げ、大声で、

「この日ごろ平家の方で名高かった薩摩守殿を、岡部六弥太忠純が討ち申し上げたぞ」

 と名乗った。敵も味方もこれを聞いて、

「ああ、おいたわしい。武芸にも歌道にも優れていらっしゃった方を。惜しい大将軍を」

 と言い、涙を流して袖を濡らさない者はいなかった。

重衡生捕

 本三位中将重衡卿は生田森の副将軍でいらっしゃったが、軍勢が皆逃げ去り、ただ主従二騎になられた。三位中将はその日、濃い藍色の地に白い糸と黄色い糸で群千鳥を縫った直垂に紫下濃の鎧を着て、童子鹿毛という名高い名馬に乗っておられた。乳母子の後藤兵衛盛長は滋目結の直垂に緋威の鎧を着て、三位中将が大切にされていた夜目無月毛に乗せていただいていた。梶原源太景季と庄四郎高家は大将軍だと目を付け、鞭を打ち、鐙で馬を駆って追いかけた。

 渚には救援の船がいくらもあったが、後ろから敵が追いかけ、逃れる隙もなかったので、湊川、苅藻川を渡り、蓮の池を右に、駒の林を左にして、板宿、須磨も通り過ぎ、西を目指して逃げられた。極めて優れた名馬に乗っていらっしゃったので、酷使された馬たちは追いつけそうにもなく、ただ引き離されていった。梶原源太景季は鐙を踏ん張って立ち上がり、当たるかもしれないと、遠矢を十分に引き絞って射た。三位中将の馬は尻を矢柄が深く入るまで射られ、弱った。後藤兵衛盛長は、

「私の馬をお召しになるだろう」

 とでも思ったのだろうか。鞭を上げて逃げていった。三位中将はこれを見て、

「盛長、長年の約束はそうではなかったものを。私を見捨ててどこへ行くのだ」

 とおっしゃったが、聞こえないふりをし、鎧に付けた赤印をむしり捨て、ひたすら逃げた。

 三位中将は敵が近づき、馬も弱ったので、海へ乗り入れられた。しかしその場所は遠浅で、沈むこともできなかった。馬から下り、鎧の上帯を切り、高紐を外し、武具を脱ぎ捨て、腹を切ろうとなさった。梶原より先に庄四郎高家が鞭を打ち、鐙で馬を駆って追いつき、急いで馬から飛び下りた。

「卑怯でございます。どこまでもお供しましょう」

 そう言って自分の馬にお乗せし、鞍の前輪に縛り付け、自分は替えの馬に乗って帰った。

 後藤兵衛は長く走り続けられる極めて優れた馬に乗っていた。何の妨げもなく逃げ延び、後には熊野法師の尾中法橋を頼って暮らしていた。法橋が死んだ後、後家の尼公が訴訟のために都へ上ったとき、盛長も供をして上った。三位中将の乳母子なので、身分の高い者から低い者まで多くの人に顔を知られていた。

「ああ、恥知らずの盛長よ。あれほど可愛がってくださったのに、ともに死なず、思いも掛けない尼公の供をしている憎らしさよ」

 と、爪弾きをして非難されたので、盛長もやはり恥ずかしそうに扇で顔を隠したと伝えられた。

敦盛最期

 平家の軍が破れたので、熊谷次郎直実は、

「平家の君達は救援の船に乗ろうと、渚の方へ逃げていかれるだろう。ああ、よい大将軍と組み合いたい」

 と思い、磯の方へ馬を歩ませた。すると、練貫に鶴を縫った直垂に萌黄匂の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒を締め、金作の太刀を帯び、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持った武者一騎がいた。連銭葦毛の馬に黄覆輪の鞍を置いて乗り、沖の船を目指して海へさっと乗り入れ、五、六段ほど泳がせていた。熊谷は、

「大将軍とお見受けします。卑怯にも敵に背をお見せになるものですね。お引き返しください」

 と扇を上げて招いた。招かれて引き返し、渚へ上がろうとするところに馬を並べ、ぐっと組み合ってどっと落ち、押さえ付けた。首をかこうと兜を後ろへ押し上げて見ると、歳は十六、七ほどで、薄化粧をし、お歯黒を付けていた。わが子の小次郎と同じ年ごろで、顔立ちはまことに美しかったので、どこへ刀を突き立てればよいのか分からなかった。

「そもそもどなたでいらっしゃいますか。お名乗りください。お助けしましょう」

 と申し上げると、

「お前は誰だ」

 とお尋ねになった。

「大した者ではございませんが、武蔵国の住人、熊谷次郎直実です」

 と名乗って申し上げた。

「それなら、お前に名乗ることはあるまい。お前にはよい敵だ。名乗らなくても、首を取って人に尋ねよ。見分けるだろう」

 とおっしゃった。

「ああ、立派な大将軍だ。この方お一人を討ち申し上げても、負けるはずの戦に勝てるわけではない。また討ち申し上げなくても、勝つはずの戦に負けることもあるまい。小次郎が浅い傷を負っただけでも、直実はつらく思うのに、この殿の父は討たれたと聞いて、どれほどお嘆きになるだろう。ああ、お助けしたい」

 と思い、後ろをさっと見ると、土肥と梶原が五十騎ほどで続いていた。熊谷は涙を抑えて申し上げた。

「お助けしようとは思いますが、味方の兵は雲や霞のように大勢おります。とてもお逃がしはしないでしょう。ほかの者の手にお掛けするより、どうせなら直実の手にお掛けし、後のご供養をいたしましょう」

 と申し上げると、

「ただ早く首を取れ」

 とおっしゃった。熊谷はあまりに気の毒で、どこへ刀を突き立てればよいのか分からず、目の前が暗くなり、心も消え尽くし、前後も分からない思いだった。しかしそのままにしておくこともできず、泣く泣く首をかいた。

「ああ、武士の身ほどつらいものはない。武芸の家に生まれなかったなら、どうしてこのようなつらい目を見るだろう。情けなくも、お討ち申し上げてしまった」

 と嘆き、袖を顔に押し当て、さめざめと泣いていた。しばらくたったが、そのままでもいられないので、鎧直垂を取って首を包もうとしたところ、錦の袋に入れた笛を腰に差していらっしゃった。

「ああ、おいたわしい。今朝、城内で管絃をしていらっしゃったのは、こういう方々だったのだ。今、味方には東国の軍勢が何万騎もいるが、戦の陣へ笛を持ってくる人はあるまい。身分の高い方は、やはり風雅なのだ」

 と言って、九郎御曹司にお目に掛けた。これを見る人は、誰も涙を流さずにはいられなかった。後で聞くと、修理大夫経盛の子息、大夫敦盛という、十七歳の方だった。そのことから熊谷の出家を志す思いは、いっそう強くなった。

 この笛は、祖父の忠盛が笛の名手で、鳥羽院から頂いたものと伝えられた。経盛が受け継がれ、敦盛が笛の才に優れていたので持っていたという。名を小枝といった。詩歌や音楽は狂言綺語とされるとはいえ、最後には仏の教えを讃えるきっかけになるのは、しみじみと心に響くことである。

知章最期

 門脇中納言教盛卿の末子、蔵人大夫成盛は、常陸国の住人、土屋五郎重行と組み合って討たれた。修理大夫経盛の嫡子、皇后宮亮経正は救援の船に乗ろうと渚の方へ逃げていかれたが、河越小太郎重房の軍勢に取り囲まれて討たれた。その弟、若狭守経俊と、淡路守清房、尾張守清定は、三騎連れ立って敵の中へ駆け込み、激しく戦って多くの首を取り、同じ所で討ち死にした。

 新中納言知盛卿は生田森の大将軍だったが、軍勢は皆逃げ去った。今は子息の武蔵守知明と、侍の監物太郎頼方だけになり、主従三騎で救援の船に乗ろうと渚の方へ逃げていかれた。そこへ児玉党と思われる、団扇の旗を差した者たちが十騎ほど、叫びながら追いかけた。監物太郎は極めて優れた弓の名手だったので、真っ先に進んだ旗差の首の骨をひゅう、ふつっと射て、馬から逆さまに射落とした。

 その中の大将と思われる者が、新中納言と組み合おうと馬を並べてきた。子息の武蔵守知明は間に入り、馬を並べてぐっと組み合い、どっと落馬した。相手を押さえて首をかき、立ち上がろうとなさったところへ、敵の童が駆けつけ、武蔵守の首を斬った。監物太郎がそこへ駆けつけ、武蔵守を討った敵の童も討ち取った。その後、矢をあるだけ射尽くし、武器を抜いて戦い、多くの敵を討ち取った。左の膝を射られ、立ち上がれないまま、座って討ち死にした。

 この間に、新中納言は極めて優れた名馬に乗っていらっしゃったので、海上を二十余町泳がせ、大臣殿の御船に着かれた。御船には大勢が乗り込み、馬を乗せる場所もなかったので、阿波民部重能が、

「御馬が敵のものになってしまいます。射殺しましょう」

 と、片手で矢をつがえて出てきた。新中納言は、

「誰のものになっても構わない。私の命を助けたものだ。射てはならない」

 とおっしゃったので、どうにもできず、射なかった。この馬は主人との別れを惜しみ、しばらくは船から離れようとせず、沖の方へ泳いでいった。しかし次第に船が遠くなったので、人のいない渚へ泳ぎ帰った。足が底に届くほどになると、なお船の方を振り返り、二、三度いなないた。

 その後、陸に上がって休んでいたところを、河越小太郎重房が捕らえて院へ差し上げたので、すぐに院の御厩に入れられた。もともと院が大切になさっていた御馬で、一の御厩に入れられていたが、宗盛公が内大臣となり、就任のお礼を申し上げたときに頂いたものと伝えられた。新中納言に預けられたのを、中納言はたいそう大切にし、馬のための祈りとして、毎月一日には泰山府君を祭られた。そのためなのか、馬の命も長らえ、主人の命も助けたのは、喜ばしいことである。この馬は信濃国井上で育ったので、井上黒と呼ばれた。後には河越が捕らえて差し上げたので、河越黒とも呼ばれた。

 新中納言は大臣殿の御前に参り、申し上げた。

「武蔵守に先立たれました。監物太郎も討たせてしまいました。今は心細くなりました。いったいどのような親だから、子が親を助けようと敵に組み付くのを見ながら、いったいどのような親だから、子が討たれるのを助けず、このように逃げて参ったのでしょう。人のことなら、どれほど歯がゆく思うでしょうに、自分のことになると、これほど命は惜しいものだったと、今になって思い知らされました。人々がどう思っているだろうかと、恥ずかしく思います」

 と言い、袖を顔に押し当て、さめざめと泣かれた。大臣殿はこれをお聞きになり、武蔵守が父の命に代わって死んだことをいたわしく思って、

「宗と同じ年で、今年十六だったということだ。武芸に長け、心も強く、よい大将軍でいらっしゃった方を」

 と、子息の衛門督のいらっしゃる方をご覧になって涙ぐまれた。大勢並んでいた平家の侍たちは、情けを知る者も知らない者も、皆、鎧の袖を濡らした。

落足

 小松殿の末の子、備中守師盛は主従七人で小船に乗って逃げていかれた。そこへ新中納言の侍、清衛門公長という者が駆けてきて、

「あれは備中守殿の御船とお見受けします。参りましょう」

 と申し上げたので、船を渚に寄せた。大男が鎧を着たまま、馬から船へがばっと飛び乗ろうとするのだから、無事でいられるはずがなかった。船は小さく、飛び乗った拍子にくるりとひっくり返った。備中守が浮いたり沈んだりしていらっしゃるところへ、畠山の郎等、本田次郎が十四、五騎で駆けつけ、熊手に掛けて引き上げ、ついに首をかいた。十四歳と伝えられた。

 越前三位通盛卿は山側の大将軍だった。その日は赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧を着て、黄河原毛の馬に白覆輪の鞍を置いて乗っていらっしゃった。兜の内側の顔を射られ、敵に押し隔てられて、弟の能登殿と離れられた。静かな所で自害しようと、東へ向かって逃げていかれたが、近江国の住人、佐々木木村三郎成綱と、武蔵国の住人、玉井四郎資景たち七騎に取り囲まれ、ついに討たれた。そのときまでは侍が一人付き添っていたが、その者も最後には加勢しなかった。

 東西の木戸口での戦は、かなりの時間がたったので、源平の数多くの者が討たれた。櫓の前や逆茂木の下には、人馬の死骸が山のようだった。一谷の小篠原は緑の色が変わり、薄紅になっていた。生田森、山のそば、海の渚で射られ、斬られて死んだ者は数えられないが、源氏の方に斬って掛けられた首は二千余人だった。

 今度討たれた主だった人々は、越前三位通盛、その弟の蔵人大夫成盛、薩摩守忠度、武蔵守知明、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、修理大夫経盛の嫡子の皇后宮亮経正、その弟の若狭守経俊、その弟の大夫敦盛、以上十人と伝えられた。

 軍が破れたので、主上をはじめ、人々が皆、御船に乗って出ていかれる心のうちは悲しいものだった。潮に引かれ、風に従って紀伊路へ向かう船もあった。葦屋の沖に漕ぎ出し、うねる波に揺られる船もあった。須磨から明石へ浦伝いに行き、泊まる所も定めず、梶を枕にし、敷く片袖も濡れていた。おぼろに霞む春の月に、心を痛めない人はなかった。

 淡路の瀬戸を漕ぎ通り、絵島の磯に漂う船もあった。波路をかすかに鳴き渡る、仲間とはぐれた夜の千鳥は、これもわが身のようだった。行く先をまだどことも定めていないと思われ、一谷の沖でためらう船もあった。こうして風に任せ、波に従い、浦々、島々に漂っていたので、互いの生死も分からなかった。

 従えた国も十四か国、集まった軍勢も十万余騎だった。都までわずか一日の道のりに近づいたので、今度はさすがにと頼もしく思われていた。しかし一谷も攻め落とされ、人々は皆、心細くなられた。

小宰相身投

 越前三位通盛卿の侍に、見田滝口時員という者がいた。北の方の御船に参って申し上げた。

「殿は湊川の下流で敵七騎に取り囲まれ、ついに討たれました。その中で特に手を下して討ったのは、近江国の住人、佐々木木村三郎成綱と、武蔵国の住人、玉井四郎資景と名乗っておりました。時員も同じ所で死に、最後のお供をいたすはずでしたが、かねてから『通盛がどうなっても、お前は命を捨ててはならぬ。何としても生き長らえ、北の方のその後をお尋ね申し上げよ』とお命じでしたので、かいのない命を生き長らえ、薄情にもここまで逃げて参りました」

 と申し上げた。しかし北の方は何の返事もなされず、衣を引きかぶって伏せられた。確かに討たれたとお聞きになっても、もし間違いなのではないか、生きて帰られるのではないかと、二、三日はちょっと出掛けた人を待つような気持ちでいらっしゃった。しかし四、五日も過ぎると、もしやという望みもすっかり弱まり、ますます心細くなられた。ただ一人付き添っていた乳母の女房も、同じ枕に伏して悲しみに沈んでいた。

 こうした知らせのあった七日の暮れ方から十三日の夜までは、起き上がることもなかった。明ければ十四日、八島に着くという夜、宵を過ぎるまで伏せていらっしゃったが、夜が更けるにつれて船の中も静まったので、北の方は乳母の女房におっしゃった。

「このところ、三位が討たれたと聞いても本当とは思わずにいたけれど、今日の暮れごろから、そうなのだろうと思い定めました。誰もが湊川とかいう所の下流で討たれたと言うけれど、その後、生きて会ったという者は一人もいません。明日出陣するという夜、何でもない所で会ったとき、ひどく心細そうに嘆いて、『明日の戦では、必ず討たれるように思うのです。私が死んだ後、あなたはどうなさるのですか』などと言いました。しかし戦はいつものことなので、きっとそうなるとは思わなかったのが悔やまれます。それを最後と思ってさえいたなら、どうして来世も一緒にと約束しなかったのだろうと、思うだけでも悲しいのです。

身ごもったことも、これまでは隠して言いませんでしたが、心を打ち明けない者と思われまいと話すと、たいそううれしそうに、『通盛はもう三十になるまで、子というものがなかった。ああ、男の子であってほしい。この浮世に残していく形見にも思っておける。さて、何か月ほどになったのだろう。具合はどうなのだろう。いつも波の上、船の中で暮らしているから、静かに出産するときも、どうしたらよいのだろう』などと言いました。あれはむなしい先々の話だったのですね。

本当なのか、女はそのようなとき、十人のうち九人は必ず死ぬというので、恥ずかしい目に遭って死ぬのもつらいことです。静かに出産した後、幼い子を育て、亡い人の形見として見たいとは思います。しかし幼い子を見るたびに、昔の人ばかりが恋しく、悲しみは増しても、慰められることはないでしょう。結局は逃れられない道です。もし不思議にもこの世を耐えて生きても、心のままにならない世の常として、思いも寄らないことも起きます。それを思うのもつらいのです。

まどろめば夢に見え、目覚めればただ面影が浮かびます。生きていて何かにつけあの人を恋しく思うより、ただ水の底へ入ろうと思い定めました。あなたが一人残って嘆くのは気の毒ですけれど、私の装束を取り出し、どのような僧にでも差し上げて、亡い人の菩提を弔い、私の後世もお助けください。書き置いた手紙は、都へ届けてください」

 などと、こまごまとおっしゃった。乳母の女房は涙をはらはらと流し、

「幼い子を振り捨て、年老いた親を残し、はるばるここまで付き従った私の心を、どれほどにお思いでしょう。そのうえ、今度一谷で討たれた人々の北の方は、どなたの悲しみも浅いはずがありません。ですから、お一人だけのこととお思いになってはなりません。静かにご出産なさった後、幼い方をお育てし、どのような岩や木の間でも、姿を変えて尼となり、仏の御名を唱えて亡い方の菩提をお弔いください。

必ず同じ蓮にと思われても、生まれ変わった後、六道四生のうち、どの道へおいでになるのでしょう。お会いになれることも定かでないのですから、身を投げても意味はありません。そのうえ都のことなどを、誰に引き続きお世話させようと、そのようにおっしゃるのでしょう。恨めしく伺います」

 と、さめざめと嘆いた。北の方は、このことをまずく聞かれてしまったと思われたのだろうか。

「それは私の心になって、お察しください。人との別れが悲しいとき、世の中全体が恨めしく、身を投げようなどと言うのはよくあることです。しかしそのようなことは、めったにない例です。本当に思い立ったなら、あなたに知らせずにいるはずはありません。夜も更けました。さあ、寝ましょう」

 とおっしゃった。乳母の女房は、この四、五日、お湯や水さえろくにお飲みにならない方が、こうおっしゃるのは、本当に決心されたのだと思って悲しく、

「都のこともそれはそれとしてございますが、そのようにお決めになったなら、千尋の底までもお連れください。お別れした後、片時も生き長らえられるとは思えません」

 などと申し上げ、おそばにいた。しかし少しまどろんだ隙に、北の方はそっと船端へ起き出られた。果てしなく広がる海上なので、どちらが西かは分からなかったが、月の入る山の端をその方角と思われたのだろうか。静かに念仏を唱えられた。沖の白洲に鳴く千鳥、天戸を渡る櫂の音も、折しも悲しさを増したのだろうか。声を抑えて念仏を百遍ほど唱えられ、

「西方極楽世界の教主、弥陀如来に帰依いたします。本願にたがわず、浄土へお導きください。別れを惜しみながら離れた夫婦を、必ず同じ蓮にお迎えください」

 と、泣く泣くはるかに嘆き訴え、南無と唱える声とともに海へ沈まれた。一谷から八島へ渡る夜中ごろのことだったので、船の中は静かで、人はこのことを知らなかった。その中に一人、眠っていなかった梶取が見つけ、

「あれはどうしたことだ。あの御船から、たいそう美しい女房が、今、海へお入りになったぞ」

 と叫んだ。乳母の女房は驚いて目を覚まし、そばを探ったが、いらっしゃらなかったので、

「ああ、ああ」

 と途方に暮れた。大勢を海へ下ろし、お引き上げしようとしたが、ただでさえ春の夜は霞むものなのに、四方から群れた雲が漂ってきた。潜っても潜っても、月がおぼろで見えなかった。しばらくしてお引き上げしたが、すでにこの世の人ではなくなっていらっしゃった。練貫の二つ衣に白い袴を着ておられた。髪も袴も潮に濡れ、引き上げてもかいがなかった。乳母の女房は手を取り、顔を押し当て、

「どうしてこれほど決心されたのなら、千尋の底までもお連れくださらなかったのです。恨めしくも、私を残されましたね。それでも、もう一度、一言だけでもおっしゃって、お聞かせください」

 と、もだえ苦しんだが、一言の返事もなく、かすかに通っていた息も、すっかり絶えた。

 そのうち春の夜の月も空に傾き、霞んだ空も明けていった。名残は尽きないと思っても、そのままにしておくことはできなかった。浮き上がってこられるかもしれないので、故三位殿の鎧が一領残っていたのを体に巻き付け、ついに海へ沈めた。乳母の女房は今度こそお別れすまいと、続いて入ろうとしたが、人々があれこれと引き止めたので、どうにもならなかった。

 せめて、この悲しみをどうにもできないためだったのか、自分の手で髪を切り下ろし、故三位殿の弟、中納言律師忠快に剃っていただいた。泣く泣く戒を受け、主の後世を弔った。昔から夫に先立たれた例は多いが、姿を変えて尼になるのはよくあることでも、身を投げるまでのことは、めったにない例である。忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫にまみえずとは、このようなことを言うのだろう。

 この北の方は、頭刑部卿則方の娘で、上西門院の女房、宮中一の美人、名を小宰相殿といった。この女房が十六歳だった安元の春ごろ、女院が法勝寺へ花見にお出ましになった。通盛卿はそのとき、まだ中宮の亮で、お供していた。この女房をただ一目見て慕い始めてから、その面影がいつも身にぴったりと寄り添い、忘れる暇もなかった。

 いつも歌を詠み、手紙に思いの限りを書いて恋い悲しまれたが、手紙の数ばかりが積もり、受け入れられることもなかった。すでに三年になったので、通盛卿はこれを最後とする手紙を書き、小宰相殿のもとへ遣わした。折しも手紙を取り次ぐ女房にも会えず、使いはむなしく帰ろうとしていた。その道で、小宰相殿はちょうど自分の里から御所へ参上するところだった。使いは道でお会いし、むなしく帰るのが残念で、御車のそばをすっと走り抜けるようにして、通盛の手紙を、小宰相殿の乗った車の簾の内へ投げ入れた。供の者たちにお尋ねになると、

「知りません」

 と申し上げた。そこで手紙を開いてご覧になると、通盛卿の手紙だった。車に置いておくわけにもいかなかった。大路に捨てるのもためらわれ、袴の腰に挟んで御所へ参られた。宮仕えをなさっているうち、ほかにも場所はあるのに、女院の御前で手紙を落とされた。女院はこれをご覧になり、急いで取らせ、お召し物の袂にお隠しになって、

「珍しい物を拾った。この持ち主は誰だろう」

 とおっしゃった。女房たちはあらゆる神仏に誓って、

「知りません」

 とばかり、皆申し上げた。その中で小宰相殿は顔を赤らめ、何も申し上げられなかった。女院も通盛卿が言い寄っていることは、かねてご存じだった。手紙を開いてご覧になると、女性が香をたく炉の煙の香りがことに心になじみ、筆遣いも並々ではなかった。あまりにあなたがつれないことも、かえって今はうれしくて、などと細々と書かれ、最後には一首の歌があった。

 私の恋は細谷川の丸木橋のようなもの。踏んでひっくり返されるようにつれなくされて、涙で袖が濡れることよ。

 容貌は世に優れ、恋の思いを受け入れることが容易でなかったので、見る人、聞く人で心を痛めない者はいなかった。それでも、薄情者という評判を立てられたのだろうか。後には人々の思いが積もったために、風を防ぐすべも、雨を漏らさないすべもなくなった。宿に曇りなく見える月や星を涙に浮かべ、野辺の若菜や沢の根芹を摘み、露のようにはかない命をつないだ。女院は、

「これは、どうしても返事をしなければならない」

 とおっしゃり、ありがたくも御硯を取り寄せ、ご自身で返事をお書きになった。

 ただ頼みにしてください。細谷川の丸木橋は、踏んでひっくり返せば落ちずにいられるはずがありません。

 胸の内の思いは富士の煙となって現れ、袖の上の涙は清見が関の波のようだった。美しい容貌は幸いをもたらす花なので、三位中将は女房を妻として頂き、互いの愛情は浅くなかった。それで西海の旅先、波の上、船の中の暮らしにまでお連れし、同じ道へ向かわれた。

 門脇中納言は嫡子の越前三位にも、末子の成盛にも先立たれた。今頼みにしていらっしゃる人は能登守教経、僧では中納言律師忠快だけだった。故三位殿の形見としてこの女房をご覧になっていたのに、その人さえこのようになったので、たいそう心細くなられた。

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