『源氏物語』第40帖「御法」現代語訳全文を読む|わかりやすい口語訳

出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」尾形月耕『源氏五十四帖』

 このページでは、『源氏物語』第40帖「御法」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。

 原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第40帖「御法」原文全文をご覧ください。

目次

紫の上、なお出家を願い続ける

 以前ひどく患ったあと、紫の上はすっかり身体が弱くなり、これという一つの病ではないまま、長いこと不調が続いていた。激しく苦しむような病状ではない。それだけに月日が重なるほど頼りなく、もともと華奢だった身体はいっそう細くなっていく。源氏が嘆くことは限りなかった。ほんの少しの間でも紫の上に先立たれるなど、考えるだけで耐え難い。

 一方、紫の上自身には、もうこの世で「まだ見たい、まだ欲しい」と思うものはなく、気がかりな子供を残しているわけでもない。だから命そのものに強く執着してはいなかった。ただ、長年連れ添ってきた源氏との縁を断ち、自分が先に逝って、あとに残った源氏を深く悲しませること――そのことだけが、人知れず胸にしみるほどつらかった。来世のために数々の功徳を積みながら、「どうか今こそ、前から願っていたとおりの身になりたい。たとえ残る命がわずかでも、その間だけは何にも妨げられず仏道修行をしたい」と、何度も出家を願ったが、源氏はどうしても許さなかった。

 本当は源氏自身にも、昔から出家したいという思いがある。紫の上がこれほど熱心に仏道を願う姿を見れば、自分も一緒に同じ道へ入ってしまいたいという気持ちは起こる。しかし一度家を出たなら、仮にも俗世を振り返るつもりはない。来世では同じ蓮の座を分け合おうと約束し、それを頼みにしている二人ではあるけれど、この世で修行する間は、たとえ同じ山へ入っても峰を隔て、会わずに暮らそうと源氏は考えていた。それなのに今、紫の上がこれほど頼りない病身になっている。いざという時、この弱った人を残して自分だけ山へ去ることなど、どうしてもできなかった。

 そのため源氏の出家も延び続けた。思いつくまま簡単に世を捨ててしまう人に比べれば、かえってずいぶん遅れてしまいそうだった。紫の上も、源氏の許しがないまま自分一人で髪を下ろすのは、美しいことではなく、本意にもかなわないと思っている。けれどこの一点だけは、源氏を恨めしく思わずにはいられなかった。「このまま出家できずに死んだら、自分の罪も決して軽くはないのではないか」と、それも気がかりだった。

法華経千部の供養

 紫の上は、長年ひそかに願を立てて書写させていた法華経一千部を、急いで供養することにした。場所は、自分の邸と思って大切にしてきた二条院である。七僧へ贈る法服も、それぞれの身分に合わせて用意した。色の取り合わせから縫い目の一つ一つまで、何もかもこの上なく美しい。供養全体もたいそう盛大だった。

 紫の上はこの願について大げさに人へ話してこなかったため、源氏でさえ詳しいところまでは知らなかった。それだけに、女の身でありながら何事にも行き届いた紫の上が、仏道のことにまでこれほど深く心を通わせていたのかと知り、源氏は改めて感嘆した。源氏が担当したのは全体のしつらえなどで、楽人や舞人の手配は夕霧が中心になって仕えた。

 内裏、春宮、后の宮々をはじめ、六条院の各御方からも誦経や捧物が寄せられた。それだけでも置き場所に困るほどなのに、このころは紫の上の供養に関わらない人がないほどで、たいそうな騒ぎになった。「いったいいつから、これほどさまざまな準備をしていらしたのだろう。本当に、気の遠くなるほど昔から願い続けてきたように見える」と、人々は驚いた。

 花散里も明石の御方も二条院へ来ていた。紫の上は寝殿西側の塗籠近くに座り、北の廂にはそれぞれの御方の局が、障子一つを隔てるように設けられていた。

三月十日――紫の上が見つめる最後の春

 三月十日。ちょうど花の盛りだった。空はうららかに晴れ、あたりの景色は、この世にいながら仏の国を遠くないところへ思い描かせるほど美しい。仏道にそれほど深い心を持たない人でさえ、今日一日で罪が消えてしまいそうに思われる。大勢が唱える「薪こる」の讃嘆は堂々と響き、ふっと声が途絶えて静まり返る瞬間さえ胸にしみた。まして紫の上には、このごろ何につけても、これが最後かもしれないという心細さが先に立つ。

 紫の上は三の宮を使いにして、明石の御方へ歌を送った。

惜しからぬこの身ながらもかぎりとて薪尽きなむことの悲しさ

惜しいと思うほどのこの身ではありません。それでも、これが最後だと、命の薪が燃え尽きてしまうことを思うと、やはり悲しいのです。

 明石の御方から返事があった。あまり露骨に「死」を言葉にするのは、あとで思えば心の足りないことにもなるのだろうか、心細さを正面から受けるというより、少しぼかして詠んでいる。

薪こる思ひは今日を初めにてこの世に願ふ法ぞはるけき

仏のために薪を集めるようなこの思いは、今日が終わりではなく、むしろ今日から始まるのです。この世で願う仏の道は、はるか先まで続いているのですから。

 夜通し、尊い法会に合わせて鼓の音が絶えず響いた。ほのぼの明けていく朝、霞の間から見える色とりどりの花は、なおこの春に心を引き止めるかのように咲き匂っている。無数の鳥のさえずりまで笛の音に劣らず美しく聞こえた。陵王の舞が急調に入り、終盤の楽が華やかに鳴り響くころには、人々が肩に脱ぎ掛けた色鮮やかな衣まで、今この時だからこその美しさを見せていた。

 親王や上達部の中でも、音楽にすぐれた人々は持てる技のすべてを尽くした。身分の上下を問わず、誰もが気持ちよさそうに興に乗っている。その晴れやかな光景を眺めながらも、紫の上の心には、「自分に残された時間はもう少ない」という思いがある。そのため何を見ても、ただただ胸にしみた。

 前日、いつになく長く起きていたためだろうか。翌日はひどく苦しくなり、紫の上は横になったままだった。これまで、このような催しのたびに集まり、音楽を奏で、遊んできた人々の顔を見るにつけても、「この人たちの姿を見、それぞれの才を見聞きし、琴や笛の音を聞くのも、昨日が最後だったのかもしれない」と思われる。普段ならさほど目に留まらない人の顔まで、一人一人が懐かしく見えた。

 まして、夏や冬のさまざまな遊びを一緒に過ごし、時には心の底で競い合うような思いも交じりながら、長い年月、情を交わしてきた女君たちである。誰一人、この世へ永遠に残るわけではない。それでも、自分一人がまず先に行方知れずになるのだと思えば、たまらなく悲しかった。供養が終わり、それぞれが帰ろうとする姿まで、遠い別れのように惜しまれた。

 紫の上は花散里へ歌を送った。

絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる世々にと結ぶ中の契りを

この法会そのものはこれで終わるでしょう。それでも、幾世にも続くようにと結んできた私たちの縁だけは、絶えないものと頼みにしています。

 花散里も返した。

結びおく契りは絶えじおほかたの残りすくなき御法なりとも

こうして結んだ私たちの縁は、決して絶えません。この世で共にする仏の営みが、もう残り少ないとしても。

 紫の上はこの供養を機に、不断の読経や懺法など、尊い仏事を絶えず続けさせた。修法は特別な効験が見えないまま長くなり、やがて日常のようになって、しかるべき寺々でも引き続き行わせることになった。

中宮との別れを予感して

 夏になると、ただでさえ身体にこたえる暑さのため、紫の上は今にも消えてしまいそうになることが何度もあった。これという大病ではない。ただひどく弱っているので、苦しげに身をもがいたり、大げさに病み伏したりすることさえなかった。それだけに仕える女房たちは、「いったい、これからどうなってしまわれるのだろう」と思うだけで、まず目の前が暗くなった。これほどすばらしい人が、そのまま静かに消えてしまいそうなのが惜しく、悲しくてならない。

 このような状態が続くので、明石中宮が二条院へ里下がりした。東の対を御座所にすることになったが、紫の上もこちらで中宮を待ち受けた。儀式は普段と変わらない。それでも紫の上には、「もう、この世のこうした光景を最後まで見届けることはないのだろう」という思いがあるから、何もかもがしみじみと胸に迫った。参上した人々の名を読み上げるのを聞いても、「あの人も来た、この人も来た」と、一人一人へ耳を留める。上達部も大勢仕えていた。

 中宮とは久しぶりにゆっくり顔を合わせることができ、紫の上は細やかに話をした。そこへ源氏が入ってきたが、「今夜は、親子水入らずのところへ私一人、巣から離れた鳥のようで居場所がありませんね。私は向こうで休むことにしましょう」と言って退出した。紫の上がこうして起きて中宮と話せている。ただそれだけのことを源氏が心から喜んでいる。その姿を見れば、紫の上にもかえって胸が痛んだ。

 紫の上は、「皆さまがそれぞれの御殿においでになっては、中宮にこちらへ渡っていただくのも恐れ多いでしょう。かといって、私のほうから伺うのはもう難しくなってしまいましたから」と言い、しばらく中宮を自分のそばへ留めた。明石の御方もこちらへ来て、三人で静かに、心の深い話を交わした。

 紫の上の胸には、思うことがいくらでもあった。しかし賢そうな顔をして、「私が死んだあとは」などと露骨なことを言い出したりはしない。ただ、この世がいつまでも同じではないことを、おっとりした少ない言葉で語る。その言葉は決して浅くはなく、むしろ「死んだあとは」とはっきり言うよりも、心細さがはっきり伝わってきた。

 皇子や皇女たちを見ながら、紫の上は言った。「皆さまがそれぞれどんな大人におなりになるのか、それを見たいと思っていたからこそ、こんな頼りない命まで少し惜しいと思う心が残っていたのでしょうね」。そう言って涙ぐむ顔は、弱ってなお匂い立つほど美しかった。中宮は「どうして、こんなことばかりおっしゃるの」と思い、泣いてしまう。

 紫の上は縁起でもないこととして大げさに言うのではなく、何かのついでに、長年自分へ仕えてきた女房の中でも、ほかに頼るところがなく心細そうな者を一人一人挙げ、「私がいなくなったあとには、どうか心に留めて、時々様子を見てあげてください」と中宮へ頼んだ。読経などのため、中宮はいったんいつもの御方へ戻っていった。

 中宮の皇子のうち、三の宮は特にかわいらしく、元気に歩き回っていた。紫の上は少し体調のよい時には三の宮を自分の前へ座らせ、人の聞いていない時に尋ねた。

 「私がいなくなったら、あなたは私のことを思い出してくださいますか」

 三の宮は、「とても恋しくなるよ。ぼくは内裏の帝よりも、宮さまよりも、婆さまのほうがずっと好きだから。婆さまがいなくなったら、きっと気分が悪くなるよ」と答え、涙が出そうなのをごまかすように目をこすった。その幼い姿がおかしくも愛しく、紫の上は微笑んだが、自分の目からは涙が落ちた。

 「大人になったら、ここに住んでくださいね。そして、この対の前にある紅梅と桜を、花の咲く季節には大切にして楽しんでください。ふさわしい時には、その花を仏さまにも差し上げてください」

 三の宮は素直にうなずき、じっと紫の上の顔を見ていた。紫の上はまた涙が落ちそうになり、立たせて帰した。自分が特に手元でかわいがって育ててきただけに、この三の宮と姫宮の行く末を見届けられないことが、たまらなく残念だった。

萩の露――紫の上、最後の夕暮れ

 ようやく秋になり、世の中が少し涼しくなると、紫の上の気分もわずかに晴れるようだった。それでも何かというと具合が悪くなる。身にしみるほど激しい秋風ではないのに、涙の露に濡れるような日々ばかりを過ごしていた。

 明石中宮はそろそろ内裏へ戻ろうとしていた。紫の上は「もう少しだけいてください」と言いたかったけれど、そんなことを言えば死を予感しているようで賢しらに聞こえるだろうし、内裏から絶えず使者が来るのも煩わしい。自分から中宮のいる東の対へ渡ることもできないので、中宮のほうが紫の上のもとへやって来た。

 人前へ出るのは気恥ずかしいほど痩せ細っていたが、それでも会わずに終わるよりはと、特にこちらへ中宮の座を整えさせた。紫の上は以前よりずっと痩せていた。しかし今の姿には、かえって高貴で優艶な美しさが極まったようなところがある。かつて、あまりにも鮮やかに匂い立つ盛りのころは、この世の花の香りそのものにたとえられるようだった。今はそれとは違い、この上なく愛らしく、かわいらしく、すでにこの世を仮の宿としか思っていないような気配がある。それが、ほかに似るものもないほど痛ましく、わけもなく悲しかった。

 風が荒々しく吹き始めた夕暮れ、紫の上は前栽を眺めようと脇息に寄りかかって座っていた。そこへ源氏が来て、その姿を見ると、嬉しそうに言った。

 「今日はずいぶんよく起きていらっしゃいますね。やはり中宮がこちらにいらっしゃると、いつもよりずっと気持ちも晴れやかになるようですね」

 紫の上は、ほんのこれほど体調がよいだけでも源氏が心から喜んでいるのを見ると、かえって気の毒になった。「私が本当にいなくなったら、この方はいったいどれほど取り乱すのだろう」。そう思えば胸がいっぱいになり、庭の萩を見ながら詠んだ。

おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩のうは露

萩の葉に露が置いていると見える、そのほんのわずかな間さえはかないものです。少し風が吹けば、たちまち散り乱れてしまうのですから。

 目の前の紫の上自身が、まさに風に吹かれれば今にも消えそうな露そのものに見える。源氏はもう堪えることができず、庭を見ながら返した。

ややもせば消えをあらそふ露の世に後れ先だつほど経ずもがな

ともすれば誰が先に消えるかを競うような、露のようにはかないこの世です。せめて私たちだけは、先立つ者と残される者との間に、長い時がなければよいのに。

 源氏は涙を拭いきれなかった。中宮も詠んだ。

秋風にしばしとまらぬ露の世を誰か草葉のうへとのみ見む

秋風に吹かれれば少しも留まってはいられない、露のようなこの世です。どうしてそれを、ただ草葉の上の露だけのこととして眺めていられるでしょう。

 三人が歌を交わすその姿は、どこを見ても理想的で、これほど見応えのある人々がいるだろうかと思われた。だからこそ源氏には、「このまま千年でも三人で過ごせたら」と願わずにはいられない。しかし人の願いどおりにはならない。それを引き止める方法がないことだけが、どうしようもなく悲しかった。

 やがて紫の上が言った。「もう、そちらへお戻りください。急に気分がひどく悪くなりました。こんな、もう何の役にも立たない身体になっておきながら、失礼なことですね」。几帳を引き寄せて横になる。その姿がいつも以上に頼りなく見えたので、中宮は「どうなさったのですか」と紫の上の手を取り、泣きながら見つめた。

 それは本当に、露が消えていくようだった。見る間にこれが最期と思われる状態になり、誦経の使者たちも数え切れないほど走り回った。これまでにも同じように意識を失いながら生き返ったことがあるので、源氏は今回も物の怪ではないかと疑い、一晩中あらゆる祈祷を尽くさせた。しかし、何の甲斐もなかった。

 夜がすっかり明けるころ、紫の上はそのまま息を引き取った。

紫の上の死

 中宮は内裏へ帰らないまま、紫の上の最期を見届けた。その悲しみは限りない。誰一人として、これは人なら誰にでも訪れる当然の別れだなどとは思えなかった。こんなことが世にあるのかと思うほど異常で、耐え難い出来事に感じられ、明け方の悪夢の中をさまよっているようだった。

 冷静に物事を判断できる人など、一人もいなかった。長く仕えてきた女房たちも、皆、何もわからなくなっている。まして源氏には、自分の心をどう静めればよいのか、その方法さえなかった。それでも夕霧が近くへ参上していたので、几帳のそばへ呼び寄せ、必死に自分を抑えながら言った。

 「もう、本当にこれで終わりのようです。長年、本人が願ってきたことがある。この最期の時に、その願いまでかなえずに終わらせるのが、あまりにもかわいそうでならない。加持をしていた僧たちも、読経の僧も、もう声を止めて退出したそうですが、まだ何人かは残っているでしょう。私はもう、この世のことは何もかも空しく感じています。せめて仏の力を、これから暗い道へ向かわれる方のために頼みたい。髪を下ろして差し上げるよう手配してください。ふさわしい僧で、誰か残っていませんか」

 強く心を持とうとしているらしいが、源氏の顔にはまるで血の気がなく、涙は止まらない。夕霧も、それは当然の悲しみだと思いながら見ていた。

 「これまで何度も物の怪が、人の心を乱そうとして、死んだように見せることがございました。今回も、あるいはそうなのかもしれません。それに、御本人が望んでおられた出家そのものは、決して悪いことではございません。一日一夜でも戒を守ることには、むなしくない功徳があるといいます。しかし本当にすべて終わってしまったあとで、御髪だけを下ろしても、それが来世で特別な光になるわけではないでしょう。それより、今目の前で御姿を変えてしまえば、悲しみばかりが増すのではございませんか」

 夕霧はそう申し上げ、忌中に残って勤めるつもりで退出していなかった僧たちを呼び、必要な仏事の手配を自ら行った。

 夕霧自身にも、胸の奥へ秘めてきた思いがあった。長年、けしからぬ恋心を抱いていたわけではない。ただ、「いつかもう一度、あの野分の日に見たくらいでも御姿を拝見したい。ほんの少しでよいから御声を聞いてみたい」と、心のどこかでずっと思い続けていた。それなのに、結局、生きている紫の上の声を直接聞くことはできなかった。

 「せめて亡骸となった今、もう一度御姿を拝見できる機会があるとすれば、今しかない」。そう思うと涙を抑えられなかった。女房たちが皆、泣き叫んでいる中で、「静かに、少しだけ」と落ち着かせるように言い、何かを指図するふりをしながら、夕霧は几帳の帷子をそっと持ち上げた。

 明け始めたばかりで光はまだ薄い。そこで大殿油を近くに掲げさせて見ると、紫の上の顔は、生きている時と変わらず、見飽きることなどあり得ないほど美しく、清らかだった。源氏も、夕霧がこうして覗いているのを見ながら、今さら強く隠そうという気持ちにはなれなかったようだった。

 「何もかも、まだ少しも変わっていないようなのに。それでも、もう終わってしまったことだけは、こんなにはっきりわかるのですね」

 源氏が袖を顔へ押し当てる。夕霧も涙に目が閉ざされ、何も見えない。それでも無理に目を開け、もう一度紫の上を見た。見れば見るほど名残惜しく、これほど悲しいことはほかにない。本当に気が狂いそうだった。豊かな髪は無造作に横へ流れているだけなのに、一筋も乱れているようには見えず、つややかで、あまりにも美しかった。

 明るい灯の下では肌が白く光るように見える。生きていたころなら身じろぎや衣の扱いで自然と隠れていたところまで、今は何の意識もなく静かに横たわっている。その姿は、どこにも不足などないという言葉さえ足りないほどだった。「死んでいく自分の魂が、この亡骸の中へそのままとどまってしまえばよい」とさえ思われる。それほど離れがたい姿だった。

煙となって消えた紫の上

 長年仕えてきた女房たちは、何をするべきか判断できる者さえいなかった。源氏も何も考えられない心地だったが、無理に気持ちを抑え、最期の儀式を一つ一つ取り仕切った。これまでにも多くの悲しい死を見てきた源氏だった。しかし、自分がこれほど深くその場へ入り込み、何もかもを失う悲しみは、これまで一度も経験していなかった。過去にも未来にも、これに並ぶものなどないと思われた。

 その日のうちに葬送しなければならなかった。人の世には決まりがあり、どれほど愛する亡骸でも、いつまでも見ながら過ごすことは許されない。それこそが、この世のつらさだった。果てしなく広い野いっぱいに人々が立ち並び、この上なく壮大な葬送の儀式が行われた。それでも最後には、紫の上もほんの一筋の煙となって、あっけなく空へ昇っていった。

 源氏は空を歩いているような心地で、自分ではまともに歩けず、人に支えられていた。その姿を見れば、「あれほど威厳ある御方が」と、物の道理など知らない身分の低い者まで、泣かない人はいなかった。葬送に付き添った女房たちはなおさらである。夢の道をさまよっているようで、車から転げ落ちそうになる者まであり、人々が支えてやらなければならなかった。

 夕霧は、自分の母葵の上が亡くなった時の明け方を思い出した。あの時も悲しかった。それでも、まだ何かを感じ取る余裕はあったのだろう。あの夜の月の顔は、今でもはっきり思い出せる。しかし今夜は、ただ真っ暗な中を迷っているようで、何も目に入らなかった。

 紫の上が亡くなったのは十四日。葬送は十五日の明け方だった。やがて日はあまりにも明るく昇り、野辺の露まで隠れるところなく照らし出された。源氏は世の中のことを思い続けるほど、何もかもがいっそう厭わしく、耐え難くなっていった。

 「私だって、あと何年生きられるというのだろう。この悲しみに心を奪われている今こそ、昔からの願いどおり出家してしまいたい」

 本気でそう思った。しかし、紫の上を失った悲しみに耐えられず、取り乱した勢いで世を捨てたのだと後世から「心の弱い人だった」と言われることを思うと、それもできない。「せめてこの忌中だけは過ごしてから」と自分を抑えたが、胸の底から込み上げる悲しみは、とても耐えられるものではなかった。

夕霧が胸に秘める、野分の日の面影

 夕霧もそのまま忌に籠もり、ほんの少しも外へ出ず、朝から晩まで源氏のそば近くに仕えた。あまりにも痛ましく取り乱す父の姿を見ると、それが当然だと思われ、何とか慰めようと心を尽くした。

 ある夕暮れ、野分のような風が激しく吹き始めた。夕霧は昔のことを思い出した。「あの秋の夕暮れ、私はこの方をほんの一瞬だけ見たのだった」。その面影が恋しくてならない。それに今度は、最期の明け方、まるで夢のような気持ちで亡骸を見たことまで重なって思い出される。

 悲しみはとても堪えられなかった。しかし人前ではそれほど深く思っているように見せまいとし、数珠を繰りながら、「阿弥陀仏、阿弥陀仏」と唱える。その数珠の玉へ紛らわせるように、涙の玉を拭い消していた。

いにしへの秋の夕べの恋しきに今はと見えし明けぐれの夢

あの昔、秋の夕暮れにほんの一度見たお姿が恋しくてならない。そのうえ、もうこれまでという最期の明け方に見た、夢のようなお姿まで忘れられないのです。

 その記憶が残っていることさえ、夕霧にはつらかった。身分の高い僧たちをそばへ置き、決まった念仏だけでなく法華経なども読ませた。父にも息子にも、それぞれ別の深い悲しみがあった。

 源氏は寝ても起きても涙の乾く時がなく、濃い霧に閉ざされたような心で朝から晩まで過ごしていた。幼いころから今日までの自分の人生を、一つ一つ思い返す。

 「鏡に映る姿からして、人とは違う身として生まれた。それなのに幼いころから、大切な人を失い、この世が悲しく無常なものだと思い知ることばかりだった。仏が『早くこの世を離れなさい』と勧めてくださっていたような人生だったのに、私は心を強く持って俗世を生き続けてきた。そして最後には、過去にも未来にも例がないと思うほどの悲しみを味わうことになった。

 「もう、この世に気がかりなものは何も残っていない。ひたすら仏道へ向かうのに妨げになるものもないはずだ。それなのに、こんなふうに自分でもどう始末してよいかわからないほど悲しみに取り乱していては、願ってきた仏の道へさえ入ることができないのではないか」

 それが苦しく、「どうか、この悲しみをほんの少しだけでも和らげ、忘れさせてください」と、阿弥陀仏をひたすら念じた。

世のすべてが紫の上を惜しむ

 内裏をはじめ、あちらこちらから絶えず弔問が届いた。単なる儀礼の範囲を越え、誰もが心から紫の上の死を惜しんでいる。しかし今の源氏には、何を見ても何を聞いても心に届かない。本当なら人からどう見られようとかまわないはずだった。

 それでも、「ぼんやり正気を失った老人に見られたくない。人生の最後になって、女一人を失った悲しみに取り乱し、その弱さのため世を捨てたのだと後世へ言い残されるのもみっともない」と、世間へ残る自分の名を気にしてしまう。そのため思うままに出家することもできない。それがまた、新たな嘆きになった。

 致仕の大臣は、情のある人で、折々の哀れを見過ごすような人ではない。この世に並ぶものもないほどすばらしかった紫の上が、あっけなく亡くなったことを心から惜しみ、何度も丁寧な弔問を送った。

 「昔、夕霧の母が亡くなったのも、ちょうどこの季節だったな」と大臣は思い出した。「あの時、葵の上の死を惜しんでいた人々も、今ではずいぶん多く亡くなってしまった。人が先立ち、あとから追うまでの時間など、本当にわずかなものなのだな」。しめやかな夕暮れ、空の気配まで物悲しく感じられ、大臣は息子の蔵人少将を使いにして手紙を届けた。

いにしへの秋さへ今の心地して濡れにし袖に露ぞおきそふ

昔のあの秋の悲しみまで、まるで今日のことのように思い出されます。あの時涙に濡れた袖へ、今また新しい露が重なりました。

 源氏は返した。

露けさは昔今ともおもほえずおほかた秋の夜こそつらけれ

涙に濡れるこの心には、昔の秋も今の秋も区別がつきません。ただもう、秋の夜というものすべてがつらく思われるのです。

 本当の気持ちのまま書けば、致仕の大臣ならかえって「心の弱いことだ」と気づくだろう。それを思い、源氏は表向きには節度を保って、「何度も心のこもったお見舞いをいただき、ありがたく思っています」と礼を述べた。

 喪の衣も、以前「薄墨」と詠んだころより、今度はもう少し濃い色を着ていた。この世で幸福に恵まれた人は、何の理由もなく世間から妬まれることもある。また、よい境遇に任せて驕り、人を苦しめる者もいる。ところが紫の上は、不思議なほど、特別な縁もない人からまで好かれた。ほんの些細な振る舞い一つまで世間から褒められ、何事にも奥ゆかしく、その時々に応じた気配りのできる、本当に稀有な人だった。

 だから、たいして縁のない世間の人でさえ、この秋は風の音や虫の声を聞くたびに涙をこぼさない者がなかった。まして一度でも紫の上の姿をほのかに見たことのある人には、気持ちを慰められる時などなかった。長年親しく仕えてきた女房たちは、「どうして自分だけがわずかな命を残してしまったのだろう」と嘆き、尼になったり、人里離れた山へ入って暮らそうと決意したりする者までいた。

秋好中宮の弔いと、源氏の残された日々

 冷泉院の秋好中宮からも、絶えず心のこもった消息が届いた。尽きることのない悲しみを細やかに書き、その中に歌があった。

枯れ果つる野辺を憂しとや亡き人の秋に心をとどめざりけむ

やがてすべて枯れ果ててしまう野辺がつらいとお思いだったからでしょうか。亡くなったあの方は、この秋の世に心を残さず去ってしまわれたのでしょうか。

今になって、そのお気持ちがわかるように思われます。

 何もまともに考えられなくなっている源氏も、この手紙だけは何度も読み返し、手放しがたく眺めた。「今の自分が言葉を交わし、少しでも心を慰められる相手といえば、この中宮くらいしかいない」。そう思えばほんの少し気持ちが紛れるようでもあるが、それでも涙は絶えず、袖を拭く暇もない。満足に返事を書くことさえできなかった。

昇りにし雲居ながらもかへり見よわれ飽きはてぬ常ならぬ世に

雲の上へ昇ってしまった今も、どうかこちらを振り返ってください。私はまだ、この無常な世を完全に厭いきって、あなたを忘れることなどできないのです。

 手紙を包んでからも、源氏はしばらくぼんやり眺め続けていた。

 自分でも驚くほど、きっぱり心を立て直すことができない。これほどまで茫然としてしまうものなのかと思い知らされることが多かった。その気持ちをほんの少しでも紛らわせようとして、時には六条院の女君たちのところへも顔を出した。

 しかし仏の御前だけは人を少なくし、静かに勤行を続けた。紫の上とは、千年でも一緒に生きようと思っていた。それでも人には定められた別れがある。どうしても逃れられないそのことが、ただ悔しかった。

 今となっては、来世で同じ蓮の露となることだけを願い、ほかのことへ心を紛らわせず、ひたすら仏道へ向かおうとする思いに怠りはなかった。それでもなお、人がどう見るかを気にして、すぐには俗世を捨てられない。そのことだけが、何ともむなしかった。

 紫の上は、自分の死後に行う仏事について、これといった細かな指示を残していなかった。そのため追善のことは、夕霧が中心になってすべて取り仕切った。源氏自身も、以前から「今日が最後かもしれない」と自分の命を意識することは何度もあった。それなのに紫の上は、そんな心構えをする間もないまま、あっけなく亡くなってしまった。そのことも、夢のようにしか思えない。

 明石中宮もまた、ほんのひとときたりとも紫の上を忘れることはなく、いつまでも恋しく思い続けるのだった。

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