
このページでは、『源氏物語』第25帖「蛍」の現代語訳全文を掲載しています。原文の内容をそのまま訳しつつ、必要に応じて主語を補い、敬語表現をわかりやすく改めるなど、現代の読者が読みやすい口語訳にしています。
原文を確認しながら読みたい方は、『源氏物語』第25帖「蛍」原文全文をご覧ください。
玉鬘を悩ませる源氏の思い
源氏も今では重々しい身分となり、何事にもゆったりと落ち着いた暮らしをしている。源氏を頼って生きている女君たちも、それぞれにふさわしい場所へ収まり、浮き沈みすることもなく、まず申し分のない日々を送っていた。
ただ、西の対の玉鬘だけは気の毒だった。まったく思いもしなかった悩みまで加わって、これからどうすればよいのかと心を乱している。筑紫にいたころ、あの大夫監から迫られた嫌な思いと同じようなものではない。けれど、まさか源氏が自分にこんな心を抱いているとは、誰ひとり夢にも思うはずがない。それだけに誰にも打ち明けられず、玉鬘は一人で思い悩みながら、源氏のことを「なんとも普通ではない、嫌なお心だ」と思っていた。
もう物事の分別がつく年齢である。あれこれ考えれば考えるほど、母の夕顔が亡くなってしまったことが、今になって改めて悔しく、悲しく、恋しく思われるのだった。
源氏のほうも、一度自分の思いを口に出してしまってからは、かえって苦しくなっていた。人目をはばかるため、ちょっとした言葉さえ自由にかけることができない。それがつらくて、西の対へしきりに通うようになる。女房たちが遠くへ下がり、あたりが静かな時などには、ただの父親とは思えないような気配を折々に見せる。そのたびに玉鬘は胸がつぶれるような思いをした。
とはいえ、あからさまに拒絶し、源氏に恥をかかせるようなこともできない。ただ何も気づいていないように振る舞って、やり過ごすしかなかった。
もともと玉鬘は、のびやかで親しみやすい人柄だった。本人はいよいよ真面目に、慎重に振る舞おうとしているのに、それでも自然にこぼれるような美しさと愛嬌ばかりが目立ってしまう。
兵部卿宮を玉鬘に近づける源氏
兵部卿宮は相変わらず熱心に玉鬘へ思いを訴えていた。まだそれほど長い年月を思い続けてきたわけでもないのに、五月雨の季節になった今の苦しさを嘆いて、こんな便りを寄こした。
「せめてもう少し近くまで伺うことだけでもお許しいただけたら、胸にたまった思いのほんの一端でも晴らしたいものです」
源氏はその手紙を見ると、「いいじゃないか。こういう若君たちが恋に夢中になるのを眺めるのも、なかなか面白いものだよ。あまり冷たく突き放すのはおよしなさい。時々はお返事くらい差し上げなさい」と、玉鬘に言い聞かせ、返事まで書かせようとする。
けれど玉鬘にしてみれば、源氏自身のことでただでさえ嫌な思いが募っているところである。「気分が悪うございます」と言って、返事を書こうとはしなかった。
玉鬘のそばには、とりわけ身分が高く、後ろ盾として頼れる女房がそれほど揃っているわけではなかった。ただ、亡き母夕顔の叔父にあたる宰相ほどの身分の人に娘がいて、家が衰えたあとも残っていたのを、源氏が探し出して引き取っていた。その人を宰相の君と呼んでいる。筆跡もまずまずで、物腰も大人びた女なので、玉鬘に代わってしかるべき折の返事を書かせることがあった。
この時も源氏は宰相の君を呼び出し、言葉を指図して返事を書かせた。どうやら源氏自身、兵部卿宮が玉鬘に何を語るのか、興味があったらしい。
玉鬘本人も、源氏からあのような嫌な思いをさせられるようになってからは、兵部卿宮がいかにも切なげな手紙を寄こす時には、以前より少し気に留めることもあった。別に宮を恋しく思っているわけではない。ただ、「こんな嫌な源氏のお顔を見ずに済むようなことになれば」と、さすがに若い女らしい気持ちで思うことがあるのだった。
ところが源氏は、自分が勝手に恋の世話役になって兵部卿宮を待ち構えているなどとは宮に知らせないまま、玉鬘からいつもより少しましな返事が届いたのを宮が珍しく思い、ひどく人目を忍んで六条院へやって来た。
妻戸の間に宮のための敷物を用意し、玉鬘との間には御几帳一つを置くだけにした。かなり近い距離である。
源氏はひどく念を入れて、空薫物も、いかにも奥ゆかしいほどの香りに焚きしめ、あれこれ世話を焼いている。父親というより、余計なお節介をする世話好きな人のようで、それでもその姿はさすがに美しかった。
宰相の君などは、兵部卿宮への返事を自分が取り次ぐことさえ恥ずかしくて、何を言えばよいのかわからず黙っている。源氏はそれを「なんだ、ずいぶん引っ込み思案だな」とせき立てるのだから、宰相の君にはどうしようもない。
闇の中に放たれた蛍
夕闇もすっかり深まり、どことなく心細い空が曇っている。湿り気を帯びた夜の中で、兵部卿宮の気配はいかにも艶やかだった。御簾のこちらへほのかに吹き込んでくる風にも、宮の衣に焚きしめたひときわ強い香りが加わり、あたりには濃く薫りが満ちている。
玉鬘も、あらかじめ想像していた以上に宮の気配が魅力的なのを感じ、少し心を留めた。
宮が口に出して語る恋心も、落ち着いた大人の言葉で、ひたすら軽薄に色めいているわけではない。その物腰には格別の品があった。源氏も離れたところでその言葉をこっそり聞きながら、なかなかいいものだと思っている。
ところが玉鬘は、宮から離れて東側へ引っ込み、もう横になってしまった。宰相の君が宮の言葉を伝えるため、膝を進めて玉鬘のところへ入っていく。その機会に源氏はまた口を出した。
「それにしても、あまりにも子供っぽい御振る舞いじゃないか。何事も立場に応じて振る舞うのが見苦しくないというものだよ。もう、いつまでも幼い娘のようにしていればよい年でもない。この宮ほどの方にまで、ずっと遠く離れた人を介してしかお返事しないなんて、そんなものではないよ。お声をお聞かせになるのが恥ずかしいというなら、それでもせめて、もう少し近いところへ」
そう諭しても、玉鬘にはどうにも耐えがたい。源氏は、何か口実さえあれば自分のほうまで入り込んできそうな心の持ち主なのだから、あちらへ行ってもこちらへ行っても気が休まらない。とうとう玉鬘はそっと滑るように出て、母屋近くの御几帳のそばへ横になった。
宮への長い返事をするでもなく、どうしようかとためらっている。その時、源氏がそっと近づいた。
そして御几帳の帷子を一枚持ち上げた、その瞬間――あたりがぱっと光った。
玉鬘は、誰かが紙燭を差し出したのかと思って、驚いた。
実は源氏は、この夕方にたくさんの蛍を薄い布の袋に包んで用意し、その光が漏れないよう隠していたのである。何げなく御几帳を直すように見せかけながら、突然その蛍を放ったのだった。
闇の中で、思いもかけずはっきりと蛍の光が輝いたものだから、玉鬘は驚き、扇で顔を隠した。その時、横から見えた姿が実に美しかった。
――これほど意外な光が見えれば、宮もきっと中を覗くだろう。宮は、私が実の娘として大切にしているからこれほど褒めているだけだと思っているに違いない。この人が、顔立ちも人柄もここまで何もかも揃った女性だとは、とても想像していないだろう。女好きの宮の心を、すっかり惑わせてやろう。
源氏はそんなことを考えて、わざわざ仕掛けを用意していたのである。本当の実の娘であったなら、こんなふうに人目へさらして大騒ぎすることなどなかっただろうに。なんとも困ったお心である。
源氏は別のところから、そっと抜け出して自分の御殿へ戻った。
一方の兵部卿宮は、そこに人がいることはわかっていた。それまで遠くに感じていた玉鬘の気配が少し近くなったので、胸が高鳴ってしかたがない。美しい薄物の帷子の隙間から中を覗き込むと、一間ほど離れた向こうで、思いもよらない光が一瞬ほのめいた。
宮は、なんとも美しい眺めだと思った。
光はすぐに隠されてしまった。それでも、ほんのわずかな蛍の光が、かえって艶めいた想像を誘うきっかけになった。ほのかに見えただけとはいえ、すらりとした玉鬘が横になっている姿はたいそう美しかった。宮はもっと見たかったと名残惜しく思い、それ以来、本当にこの恋が心の奥深く染みついてしまった。
鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは
鳴く声さえ聞こえない蛍の火のような思いでさえ、人が消そうとして消えるものではありません。まして私のこの恋心が、消えるものでしょうか。
この思いを、おわかりになっていただけましたか。
こんな歌にきちんと応じようと、あれこれ考え回すのもかえってひねくれて見えるので、玉鬘はとっさにこれだけを返した。
声はせで身をのみ焦がす蛍こそ言ふよりまさる思ひなるらめ
声には出さず、ただ自分の身だけを焦がしている蛍の火こそ、口に出して言う恋心よりも、もっと深い思いなのではないでしょうか。
そんなふうにかすかな返事だけをして、玉鬘自身はまた奥へ引っ込んでしまった。あまりにも遠く離れたまま接する玉鬘の冷たさを、宮はひどく恨んだ。
いくら恋に熱心とはいえ、ここで一晩中座り明かすのも、あまりに色好みらしい。軒から落ちる雫に濡れるのもつらく、宮は夜もかなり更けたころ、雨露に濡れながら帰っていった。きっと時鳥なども鳴いたことだろう。けれど、いちいち書き留めるのも煩わしいので、聞かなかったことにしておこう。
女房たちは、「兵部卿宮の優雅な御様子は、源氏の大臣によく似ていらっしゃいますね」と感心していた。昨夜、源氏がまるで娘の母親のようにあれこれ世話を焼いていた、その真意など内々には誰も知らない。「なんと愛情深く、ありがたいお父君でしょう」と、皆が口を揃えるのだった。
端午の日、兵部卿宮から届く菖蒲
玉鬘は、源氏がこんなにも普通ではない心を自分に向けるのを、すべて自分の不運のせいなのだと思った。
――もし本当の父上に娘だと知られ、世間並みにきちんとした身の上になったうえで、源氏がこんな思いをお持ちになるのであれば、これほど身の置き所がないことではなかったかもしれない。けれど今の私は、世間の誰にも似ない、妙な立場に置かれている。このままでは、いつか世間の語り草になってしまうのではないだろうか。
そんなことばかり、寝ても覚めても思い悩んでいる。
とはいえ、源氏も本当に玉鬘を逃げ場のないところまで追いつめようとは思っていなかった。もともとそういう心の癖がある人なのである。中宮ほど尊い女性に対してさえ、ただ純粋な親愛だけを抱いていたかといえば、そうとも言い切れず、折々には心を動かすような言葉をかけたこともある。しかし中宮には高貴な身分ゆえの近づきがたさと煩わしさがあり、露骨に思いを示すところまではいかなかった。
ところが玉鬘は、人柄も今風で親しみやすく、距離が近い。源氏も自然と自分の気持ちを抑えにくくなる。時には、もし誰かに見つかれば疑われても仕方がないような態度まで混じるのだが、そのたびに珍しく自分を抑え直す。そんな危うい距離を保った二人の仲だった。
五月五日、源氏は馬場の御殿へ出るついでに、玉鬘のところへ立ち寄った。
「どうだった。宮は昨夜ずいぶん遅くまでいらしたのかな。あまり宮を馴れ馴れしく近づけないほうがいいよ。少し面倒な気性もお持ちの方だからね。人の心を傷つけず、男女のことで失敗もしない人など、なかなかいるものではない」
宮を勧めたり止めたり、持ち上げたり戒めたり――勝手なことばかり言う源氏自身は、相変わらずどこまでも若々しく、美しかった。
艶も色もこぼれそうな衣に、直衣を何げなく重ねただけなのに、いったい何を加えたらこれ以上美しくなるのだろう。人の手で染め出した色とは思えない。いつもと同じ色、いつもと同じ文様なのに、今日だけは珍しいもののように美しく見え、衣から漂う香りまで格別だった。
玉鬘も、こんな悩みさえなかったなら、本当に美しい方だと思って眺められたでしょうに、と感じる。
そこへ兵部卿宮から手紙が届いた。白い薄様の紙に、風情ある美しい筆跡で書かれている。実物を見ればいかにも美しいが、こうして内容だけを書き写してしまえば、それほど珍しいことでもない。
今日さへや引く人もなき水隠れに生ふる菖蒲の根のみ泣かれむ
端午の今日でさえ、私を引き上げてくださる人はいないのでしょうか。水の陰に隠れて生える菖蒲の根のように、ただ根を――声を上げて泣くばかりなのでしょうか。
見事な菖蒲の根に歌を結びつけてあったので、源氏は「今日はぜひお返事を差し上げなさい」などと言い残し、馬場へ出ていった。女房たちも口々に「やはりお返事を」と勧めるので、玉鬘自身はどんな気持ちだったのか、ほんのわずかにこう書いた。
あらはれていとど浅くも見ゆるかな菖蒲もわかず泣かれける根の
こうして表へ現れてしまうと、かえって浅いお心に見えるものですね。菖蒲の節句だからという区別もなく、ただ泣いていらっしゃる、その「根」が。
いかにも若々しい歌だった。
兵部卿宮は風流好きな方だから、せめてもう少し筆跡にも趣があれば、と、わずかに物足りなく感じたことだろう。
薬玉なども、それは見事なものがあちらこちらからたくさん届いた。玉鬘も、長いあいだ悲しい境遇に沈んでいたころの面影はすっかりなくなり、今では心のほぐれることも多くなった。それだけに、できることなら、誰かが傷つくようなこともなく、このまま穏やかにすべてが収まってほしい――そう思わずにはいられなかっただろう。
馬場の競技を眺める女君たち
源氏は東の御方――花散里のところへも顔を出した。
「中将が、今日の左右の馬寮の手結のついでに、男たちを大勢引き連れてこちらへ来るようなことを言っていた。そちらもそのつもりで用意しておいてください。まだ明るいうちに来るだろうから。どういうわけか、ここでは大げさなことにするつもりもなく、ひっそり行おうとしているようなことまで、親王たちが聞きつけて見物にいらっしゃる。それで自然と大がかりになってしまうんだ。準備しておいてください」
馬場の御殿は、こちらの廊から見通しても、それほど遠くない。
「若い人たちは渡殿の戸を開けて、見物するといい。今は左馬寮に、とても風情のある役人が大勢いる。ちょっとした殿上人にも劣らない人たちだよ」
そう言われて、若い女房たちは見物できるのを大喜びした。
西の対からも、童女などが見物にやって来た。廊の戸口には青々とした御簾を一面に掛け、今風の裾濃の御几帳を並べて立てる。その間を童女や下仕えたちが行き来していた。
菖蒲襲の衵に、二藍の薄物の汗衫を着た童女たちが、西の対から来た者らしい。姿がよく、こうした場にも慣れた子を四人選んである。下仕えたちは、楝の裾濃の裳に、撫子の若葉のような色の唐衣をまとっていた。どれも今日のための装いである。
こちらの女童たちは、濃い色の一襲に撫子襲の汗衫などをゆったりと着ている。それぞれが相手には負けまいという顔をしているのも、眺めていて面白かった。
若い殿上人などは、御簾のあたりへ目を向け、いかにも中の女房たちを意識した様子を見せる。
未の刻、源氏が馬場の御殿へ出ると、なるほど親王たちも大勢集まっていた。本来なら左右の馬寮の役人が行う公的な手結の行事なのだが、今日はまるで様子が違い、近衛府の次将たちまで連れ立って参上して、華やかな遊びとして日暮れまで楽しんだ。
女たちには、競技の細かな決まりなど何もわからない。それでも舎人たちまで美しい装束を尽くし、馬上から身を投げ出すような巧みな手さばきや、目まぐるしい技を見せるのは、見ていてたいそう面白かった。
南の町まで広く見通せる場所なので、そちらにいる若い女房たちも同じように見物した。「打毬楽」「落蹲」などを演奏し、勝負が決まった時の乱声が大きく響くころには、すっかり夜になり、もう何も見えなくなっていた。
舎人たちには、それぞれ身分に応じて禄が与えられた。夜もかなり更けたころ、人々はようやく散っていった。
花散里と交わす静かな夜
その夜、源氏は花散里のところに泊まった。二人であれこれ話をするうち、源氏は兵部卿宮のことを話題にした。
「あの兵部卿宮は、ほかの方々よりずっといいね。顔立ちそのものが特別優れているわけではないけれど、身のこなしや物腰には趣があり、愛嬌のある方だ。あなたもこっそり御覧になっただろう。まあ、いいと言っても、それはそれだけれどね」
花散里は答えた。
「あなたの弟君でいらっしゃいますけれど、ずっと年上の方のように落ち着いて見えました。長年、折々にこちらへお越しになって、あなたと親しくしていらっしゃるとは聞いておりましたが、私がお姿を拝見したのは、昔の宮中でちらりとお見かけして以来で、ずっと御無沙汰でした。本当に、顔立ちもずいぶん立派におなりでしたね。帥の親王も美しい方だそうですけれど、雰囲気は宮より劣って、いかにもただの親王様という感じでいらっしゃいました」
源氏は、ほんの一目でそこまで見分けたのか、と感心した。けれど微笑むだけで、花散里の人物評がよいとも悪いとも口にはしなかった。
源氏は、人の欠点を探したり、誰かを見下すようなことを言う人を嫌っていた。
花散里は右大将のことさえ、なかなか奥ゆかしい人だと思っているらしい。けれど源氏から見れば、あの人にいったいどれほどのものがあるというのだろう。身近な縁者として暮らすことになれば、物足りなく思うのではないか――そう考えはしたものの、口には出さなかった。
今では、源氏と花散里との間は、ただ深く信頼し合う親しい間柄になっている。寝所も別々にして、その夜もそれぞれ離れて休んだ。
源氏は、「どうして、いつからこんなふうに離れて寝るようになってしまったのだろう」と、少し寂しそうに言った。
花散里はこれまで、何かにつけて源氏を恨んだり、横を向いたりしたこともなかった。長い年月、六条院で行われる華やかな遊びを人づてに見聞きしてきたが、今日ほど珍しいものを間近に見たことはなかったので、この夏の町まで急に華やかな場所になったように感じていた。
その駒もすさめぬ草と名に立てる汀の菖蒲今日や引きつる
馬さえ好んで食べない草といわれる菖蒲ですが、今日はその水辺の菖蒲を、とうとうお引きになったのでしょうか。
花散里がおっとりとそう言うと、たいした歌ではないものの、源氏はしみじみと心を動かされた。
鳰鳥に影をならぶる若駒はいつか菖蒲に引き別るべき
鳰鳥のように寄り添って影を並べる若駒が、いつ菖蒲から引き離されることなどありましょう。
なんとも遠慮のない、親しい者同士の歌のやり取りである。
「朝夕、離れて暮らしているようではあるけれど、こうしてお姿を見られるのは、かえって気楽でいいものだ」
冗談めいた言葉ではあったが、花散里はもともと穏やかな人なので、落ち着いて受け流した。
花散里は床を源氏に譲り、自分は御几帳を隔てて休んだ。今さら男女として身近に寄り添うような関係は、まったく似つかわしくないことだと、花散里のほうではすっかり思い切っている。だから源氏も、無理に何かを求めるようなことはしなかった。
五月雨の日々と、源氏の物語論
その年の長雨は例年よりひどく、いつまでたっても空が晴れなかった。何もすることがなく退屈なので、女君たちは絵や物語を楽しみながら日を暮らしていた。
明石の御方は、そういうものにも趣向を凝らすのが上手で、きれいに整えた絵や物語を姫君のところへ贈っていた。
西の対の玉鬘にとっては、物語を読むこと自体が、これまであまり経験のない珍しい楽しみだった。それで朝から晩まで、書いたり読んだりして過ごしていた。そばには、こうしたことにふさわしい若い女房も大勢いる。
物語には、さまざまな珍しい人物の身の上が、事実なのか作り話なのかわからないほどたくさん書かれている。玉鬘はそれらを読んでも、「私のような境遇の人は、どこにも出てこないのだわ」と思った。
住吉の姫君などは、物語の中で実際に苦労していた時はもちろん、最後には今の世でも特別に誉れ高い身の上になったらしい。そこへ求婚した主計頭が、ひどく困った男だったという話などを読むと、玉鬘は筑紫で自分に迫った大夫監の恐ろしさを思い出し、重ね合わせるのだった。
源氏も、あちらこちらの御殿にこうした物語が散らばり、いつも目につくので、ある時言った。
「まったく、やっかいなものだね。女というものは、こんなものを面倒がりもせず、いったい人に騙されるために生まれてきたのかと思うほどだ。こんなにたくさんある話のうち、本当のことなどごくわずかだろうと知っていながら、こんな作り話に夢中になって、すっかり騙されている。蒸し暑い五月雨の季節に、髪が乱れていることにも気づかず、夢中で書き写しているんだから」
源氏は笑った。
しかし、少ししてからまた言う。
「とはいえ、こういう昔から伝わる物語でもなかったら、本当に何で退屈を紛らわせればいいのだろうね。それに、作り話の中でも、『本当にこんなことがあったのかもしれない』と思わせて、しみじみとした気持ちにさせ、話をもっともらしく続けてあるものは、嘘だと知っていてもつい心を動かされる。かわいらしい姫君が物思いしている場面などを読むと、片方だけでもつい肩入れしたくなるものだ。
反対に、『こんなことがあるものか』と思いながら読んでいても、あまりにも大げさに書き立ててあると、つい目を見張ってしまう。そしてしばらくたってから、また人が読んでいるのを聞くと、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、ふっと面白く感じるところや、なるほどと思わせるところもある。
最近、小さい姫君の女房などに時々物語を読ませているのを、立ち聞きすることがあるけれど、よくもまあ、あんなに巧みに話を作る人が世の中にはいるものだと思うよ。嘘をつくことにすっかり慣れた口から、あんな話が次々と出てくるのだろうか、とも思うけれど、まさかそれだけではないのだろうね」
玉鬘は、「本当に、日ごろから嘘をつくのに慣れた人なら、あれほどいろいろな話を思いつくのかもしれませんね。私はただ、全部本当のことなのだと思って読んでおりました」と答え、もう書く気をなくしたように硯を向こうへ押しやった。
すると源氏は、「これはずいぶん乱暴に物語をけなしてしまったものだな」と言った。
「物語というものは、神代の昔からこの世に起こったことを、書き記して残したものなのだろう。『日本紀』などは、そのほんの一面を書いたものにすぎない。人の世の細かなことは、むしろこうした物語の中にこそ、詳しく残されているのかもしれないよ」
源氏は笑いながら、今度は物語をずいぶん持ち上げはじめた。
「もちろん、誰それという一人の人のことを、そのまま事実どおり書いたものではない。けれど、よいことも悪いことも、この世に生きる人々の姿を見ていて、見ても見足りず、聞いてもそのまま忘れてしまうには惜しいと思ったことを、後の世にも語り伝えたいと思う。そういう一つ一つの出来事を胸の内にしまっておけなくなって、物語として書き始めたのだろう。
ある人をよく書こうと思えば、世の中にあるよいことばかりを選んで集める。読み手の興味を引くために悪い人物を書くなら、今度は世の中にある珍しい悪事ばかりを取り集める。それでも、どちらも結局は、この世とは無関係なものではないのだよ。
外国の文章や学問とは書き方も違うし、同じ日本の中でも昔と今では表し方が変わる。深いものと浅いものの違いこそあるだろうけれど、全部をひとまとめに『嘘だ』と言ってしまうのも、物語というものの本当の意味から外れている。
仏がまことに正しい心で説かれた教えにさえ、『方便』というものがある。悟りのない人が読めば、あちらとこちらで話が違うではないかと疑いたくなるところもある。方等経などには、そういうことがたくさんあるけれど、結局たどり着くところは一つだ。悟りと煩悩との違いほど大きくはないにしても、物語の中の善人と悪人の違いも、似たようなものなのだろう。
うまく語ることさえできれば、この世のどんなことも、決して無意味なものではなくなるのではないかな」
いつの間にか源氏は、物語というものをたいそう大事なものとして論じてしまった。
「世にも珍しい親子」の物語
そして源氏は、また玉鬘へ近づいていった。
「ところで、そんな昔の物語の中に、私のような馬鹿正直で愚かな人間の話はあるのかな。あれほどよそよそしい物語の姫君たちでさえ、自分の思う男に対して、あなたほど冷たく、何も知らないような顔をし続ける人はいないだろうね。さあ、私たちのことを世にも例のない物語にして、後の世まで語り伝えてもらおうじゃないか」
そう言いながら、また近くへ寄る。
玉鬘は顔を引っ込めて、「そんなことをなさらなくても、これほど珍しい出来事なら、きっと世間の語り草になってしまうでしょう」と答えた。
「あなたには、そんなに珍しいことに思えるのかい。なるほど、私にも本当に二つとないことのような気がするよ」
そう言って玉鬘のそばへ寄り座る源氏の姿は、ひどく色めいていた。
思ひあまり昔の跡を訪ぬれど親に背ける子ぞたぐひなき
思い余って昔の物語をいろいろ探してみても、これほど親に冷たく背を向ける子供というのは、ほかに例がないようだ。
親不孝というものは、仏の道でもたいへんな罪だと言うのにね。
源氏がそう言っても、玉鬘は顔さえ上げない。源氏はその髪をかきやりながら、ひどく恨み言を言う。
玉鬘はようやく、どうにか返した。
古き跡を訪ぬれどげになかりけりこの世にかかる親の心は
昔の物語をいくら探してみても、本当にありませんでした。この世に、あなたのような心を持つ「親」の話など。
その答えには源氏も気恥ずかしくなり、それ以上ひどく乱れた振る舞いはしなかった。
こんな二人の仲は、この先いったいどうなってしまうのだろう。
紫の上と源氏が語る物語の姫君たち
紫の上も、明石の姫君が読みたがるということを口実にしてはいたが、やはり物語を捨てがたい楽しみにしていた。
「くまのの物語」という物語の絵があり、「まあ、とてもよく描けた絵ですね」と言って眺めている。
絵の中では、小さな姫君が何の悩みもなく昼寝している。紫の上はそれを見ながら、自分の幼いころを思い出していた。
すると源氏が言った。
「こんな小さな女の子たちでさえ、ずいぶんませているものなんだね。それを思えば、やっぱりあなたくらい、世にも珍しくのんびりした子供はいなかったな。お手本にしてもいいくらい、人並み外れて何も警戒しない人だった」
確かに源氏は、世にも珍しいことばかり、よくもこれほど自分の身の上に集めたものだった。
そして源氏は、「姫君の前では、あまり世慣れた恋物語などを読んで聞かせないようにしてください。もともと妙な好奇心を持っている娘ならともかく、そうでない子まで、『世の中にはこんなこともあるのだ』と、恋の話を見慣れてしまうのはよくないからね」と言う。
もし西の対の玉鬘がこれを聞いたなら、あまりにも自分に対する言い草とは違うので、きっと源氏に不信感を抱いたことだろう。
紫の上は言った。
「考えの浅い人をそのまま真似したような人物が出てくると、読んでいてこちらまで恥ずかしくなります。『宇津保物語』の藤原君の娘などは、とても重々しく、しっかりした人として書かれていて、これといった過ちも犯さないようですけれど、きっぱり言うことも、することも、女らしいやわらかさがないように思えて、どこか一面的ですよね」
源氏も答える。
「現実の人間だって、たぶん同じようなものだよ。立派な人物だと決めて一つの型にはめ、ほどよく作り上げてしまうのだろうね。身分の悪くない親が、心を尽くして育てた娘なのに、まるで子供じみて、生きているのが不思議なくらい何もできないことが多いと、いったい親はどういうふうに大事に育ててきたのだろうと、その親のやり方まで想像されて、気の毒になってしまう。
とはいえ、どこかに『なるほど、この人ならではだ』と思わせる雰囲気があれば、書いた甲斐もあるし、その人物の名誉にもなる。ところが言葉を尽くしてまぶしいほど褒め立てておきながら、実際にその人がしたことや口にしたことの中に、『なるほど立派だ』と思えるところが一つもないと、本当に見劣りするものだ。
とにかく、よくない人間を、無理に立派な人として褒めさせたくはないものだね」
何を話していても結局、明石の姫君が将来、誰からも欠点を指摘されることのない人に育ってほしい――源氏はそのことばかりを考え、あれこれ口を出すのだった。
昔の物語には、意地悪な継母が出てくる話もたくさんある。源氏は近ごろ、そういうものは人の悪い心があまり露骨に見えて気に入らないと思うようになっていた。そのため姫君に読ませる物語はよく選び、文章もきれいに書き直させ、絵にも描かせていた。
夕霧と明石の姫君、そして雲居雁
紫の上は、夕霧を自分のところでは少し遠慮のある立場として扱っていたが、明石の姫君のところでは、そこまで遠ざけず、親しく出入りすることに慣れさせていた。
「私が生きている間は、どうしてもこうしても大きな違いはないでしょう。けれど私がいなくなったあとのことを考えると、やはり幼いころから顔を見慣れ、心から親しんだ人同士というものが、とりわけ頼りになるだろうと思うのです」
そう考えて、南面の御簾の内までは夕霧が入ることを許していた。ただし、台盤所や女房たちの中にまで自由に出入りすることは許さない。源氏の子供はそれほど多くないので、紫の上は兄妹同然の二人を、どちらもたいそう大切にしていた。
夕霧はもともと物腰も重々しく、実直な若君だった。それだけに紫の上も、将来のことを任せても安心だと思っている。
姫君の部屋には、まだ幼い雛遊びの道具などが見える。それを見ると、紫の上は昔、あの人――源氏と一緒に雛遊びをしながら過ごした自分の幼い年月を、何より先に思い出す。源氏が雛の御殿の宮仕えまで熱心にしてくれた、あのころを思い出して、時折ひそかに涙ぐむのだった。
一方の夕霧には、若い男として、ちょっとした言葉をかける女性はいくらでもいた。それでも本気で将来を託すような相手にはしない。「女性として見ないわけではない」と心を引かれそうになる相手がいても、あえて軽い付き合いにしてしまう。
夕霧の心の奥に、何より大切なものとして残り続けているのは、やはり昔のあの緑の袖をもう一度目の前に見たい――雲居雁に再び会いたい、という思いだけだった。
もし夕霧が何もかも忘れるほど執拗に思い詰めて迫り続けたなら、内大臣も最後には根負けして許したかもしれない。けれど夕霧には、雲居雁との仲を引き裂かれ、「ひどい」と思ったあの時々のことが忘れられなかった。
――いつか内大臣にも、自分がしたことを人に筋道立てて批判されるようにしてみたい。
そう心に決めていたため、雲居雁本人に対してだけは変わらない深い愛情を示しながら、表向きにはそれほど焦っているようには振る舞わなかった。
雲居雁の兄弟たちは、そんな夕霧を何となく気に入らないと思うことも多かった。
その兄弟の一人、右中将の柏木は、西の対の玉鬘をひどく深く思い詰めていた。けれど玉鬘へ直接思いを伝える手だてもほとんどない。それで友人である夕霧に、たびたび恋の愚痴をこぼしていた。
すると夕霧は、「人のこととなると、あれこれ批判したくなるものなのだね」と、いかにもそっけない返事をする。
二人の仲は、どこか昔の源氏と内大臣との関係にも似ているのだった。
失った娘を忘れられない内大臣
内大臣には、母親の違う子供がたいそう多かった。それぞれが成長して見せる才能や人柄に応じて、内大臣は自分の権勢を存分に使い、皆をそれぞれ立派な身分へと押し上げていた。
ただ、娘はそれほど多くない。女御については、期待していたことが思いどおりに進んでおらず、もう一人の姫君も、これまた思っていたのとは違う成り行きになっている。そのことを内大臣はひどく残念に思っていた。
そして、昔の「撫子」――夕顔との間にできた娘のことを、今でも忘れてはいなかった。何かの折には、以前からその娘の話を口にすることもあった。
「今ごろ、どうなっているのだろう。頼りない母親の気まぐれのせいで、あれほどかわいらしかった子の行方までわからなくなってしまった。まったく、娘というものは、どんな事情があろうと決して目を離してはいけないのだな。誰かが勝手に自分の娘だと言って、ひどい境遇のままどこかをさまよっているのではないだろうか。どんな姿になっていてもいい。せめて噂だけでも聞こえてくればいいのだが」
内大臣は長年、そう思い続けていた。
息子たちにも、いつもこう言っている。
「もし、そんな素性を名乗る女がいるという話を聞いたら、気に留めておいてくれ。若いころは心の赴くまま、してはいけないようなこともいろいろしてきたけれど、その中でもあの人だけは、決してそこらの女と同じ程度に思っていたわけではなかった。それなのに、あの人がつまらないことで世を嫌になり、私のもとを離れてしまい、そのせいで数少ない娘の一人まで失ってしまった。それが今でも本当に残念なのだ」
一時期はそれほどでもなく、娘のことをほとんど忘れていたころもあった。けれど近ごろ、世間の人々がそれぞれ娘を大切に育てているのを見るにつけ、自分の娘たちが思い描いていたとおりにはならないことが、ひどくつらく、残念に思われるようになっていたのである。
そんなころ、内大臣はある夢を見た。
そこで夢占いのよく当たる者を呼び、夢の意味を占わせた。
するとその者は、こう申し上げた。
「もしかすると、長いあいだ御自身でも御存じなかったお子様が、ほかの方の子供として育てられており、その存在をこれからお耳になさる、ということではございませんでしょうか」
内大臣は考え込んだ。
「娘が他人の子供になるというのは、そうそうあることではない。いったい、これは何を意味するのだろう」
このころの内大臣は、そんなことをしきりに思い、口にもしていたらしい。
