『発心集』第2巻 原文全文|ひらがなルビ(ふりがな)付きで読む

 このページでは、鴨長明『発心集』第2巻(第13話~第25話)の原文全文を掲載しています。本文を読みやすくするため、漢字に歴史的仮名遣いによる振り仮名を付けました。

 現代語訳と照らし合わせたい方は、『発心集』第2巻 現代語訳全文をご覧ください。本文の表記や説話ごとの区分は、以下の文献を参考に、当サイトの判断で読みやすく整えています。

目次

第13話 近ごろ、安居院に住む聖ありけり

 ちかごろ、安居院あぐゐひじりありけり。なすべきことあつてきやうでけるみちに、大路おほぢつらなるのかたはらに、下種げすあま物洗ものあらふありけり。このひじりて、

「ここにひとひたてまつらむとはべるなり」

 とふ。

たれまうすぞ」

 とへば、

いま対面たいめんでぞのたまはせんずらん」

 とひて、

「ただ、きとりたまへ」

 と切々せちせちひければ、おもひながら、あまさきててき、はいつてれば、はるかに奥深おくふかなるいへの、ちひさくつくれるに、としたけたるそう一人いちにんあり。そのふことをけば、

「いまだりたてまつらざるに、まうすはうちつけなれど、かくてかたのごとく後世ごせつとめをつかまつりてはべりつれど、れるひともなければ、善知識ぜんちしきもなし。また、まかりかくれけんのちは、とかくすべきひとおぼえはべらぬによりて、

たれにても、後世者ごせしやゆるひとぎたまはば、かならびたてまつれ』

と、うはそらまうしてはべりつるなり。さて、もしうちひきたまはば、あやしげなれども、あとのこるべきひともなし。ゆづりたてまつらんとおもひたまへるなり。それにとりて、かくてはべるをしくもはべらず。なかなかしづかにはべるを、となり検非違使けびゐしのはべりつるあひだに、罪人ざいにんへるおとなんどのこえてうるさくはべりつれば、まかりりなばやとおもひたまふれど、さてもいくほどもあるまじきをとなんおもひわづらひはべる」

 なんど、こまやかにかたる。このひじり

「かやうにうけたまはるは、さるべきにこそ。のたますることは、いとやすきことにはべり」

 とて、あさからずちぎりて、おぼつかなからぬほどにとぶらひつつぎけり。

 そののち、いくほどなくかくれけるとき本意ほいのごとくきあひて、これをあつかふ。弥勒みろく持者ぢしやなりければ、その名号みやうがうとなへ、真言しんごんなんどみてて、臨終りんじゆうおもふやうにてはりにけり。ひしがごとく、とかくのことなんど、また、くちれするひともなし。されど、このいへをばそのあまになんらせたりける。

 さて、かのあまに、

「いかなるひとにておはせしぞ。また、何事なにごとえんにてをばわたりたまひしぞ」

 なんどひければ、

「われもくはしきことはえりはべらず。おもひがけぬゆかりにてつきたてまつりて、としごろつかうまつりつれど、たれとかまうしけん。また、れるひとたづねはべるもなかりき。ただつくづくと一人ひとりのみおはせしに、時料じれう二人ふたりがほどを、たれひとともらぬひとの、するほどをはからひてなんまかりぎし」

 とぞかたりける。これもやうありけるひとにこそ。

第14話 永観律師といふ人ありけり

 永観律師えうくわんりつしといふひとありけり。としごろ、念仏ねんぶつのこころざしふかく、名利みやうりおもはず、てたるがごとくなりけれど、さすがに、あはれにもつかうまつりれるひとわすれざりければ、ことさら深山しんざんもとむることもなかりけり。東山禅林寺ひがしやまぜんりんじといふところ籠居らうきよしつつ、ひとにものをしてなん、おくるはかりことにしける。ときも、かへときも、ただたるひとこころにまかせて沙汰さたしければ、なかなかほとけのものをとて、いささかも不法ふほふのことはせざりけり。いたくまずしきものかへさぬをば、まへせて、もののほどにしたがひて念仏ねんぶつまうさせてぞ、あがはせける。

 東大寺とうだいじ別当べつたうきたりけるに、白河院しらかはのゐん、このひとをなしたまふ。ひとみみおどろかして、「よもらじ」とふほどに、おもはずにいなびまうすことなかりけり。

 そのときとしごろの弟子でし使つかはれしひとなんど、われわれもとあらそひて、東大寺とうだいじ荘園しやうゑんのぞみにけれども、一所いつしよひとのかへりみにもせずして、みなてら修理しゆり用途ようどせられたりける。みづから本寺ほんじかふときには、異様ことやうなるうまつて、かしこにいるべきほどの時料じれう小法師こぼふしたせてぞりける。

 かくしつつ三年さんねんのうちに、修理事しゆりことはりて、すなはちまうす。きみ、またとかくのおほせもなくて、異人ことひとをなされにけり。よくよくひとこころあはせたるしわざのやうなりければ、ときひとは、

てらやぶれたることを、このひとならでは、こころやすく沙汰さたすべきひともなしとおぼしめして、おほせつけけるを、律師りつし心得こころえたまひたりけるなんめり」

 とぞひける。ふかつみおそれけるゆゑに、としごろ、てらのことおこなひけれど、寺物じもつをつゆばかりもようのことなくてやみにけり。

 この禅林寺ぜんりんじに、むめあり。なるころになりぬれば、これをあだにらさず、としごとにつて、薬王寺やくわうじといふところおほかる病人びやうにんに、日々にちにちといふばかりにほどこさせられければ、あたりのひと、この悲田梅ひでんばいとぞ名付なづけたりける。いまもことのほかに古木ふるきになりて、はなもわづかにき、木立こだちもかしげつつ、むかし形見かたみのこりてはべるとぞ。

 あるとき、かのだう客人きやくじんまうたりけるに、さんをいくらともなくひろげて、ひとにはもえかけざりければ、客人まらうどおもふやう、

律師りつし出挙すいこをして、いのちつぐばかりをことにしたまへりとくに、あはせて、そののほどかずへたまふにこそ」

 とるほどに、きはてて、おさめて、対面たいめんせらる。そのとき、

さんきたまひつるは、なに御用ごようぞ」

 とひければ、

としごろまうあつめたる念仏ねんぶつの、かずのおぼつかなくて」

 とぞこたへられける。さまでおどろくべきことならねど、ぬしからに、たふとおぼえし。のちにひとかたりけるなり。

第15話 村上の御代に、内記入道寂心といふ人

 村上むらかみ御代みよに、内記入道寂心ないきにふだうじやくしんといふひとありけり。そのかみ、みやつかへけるときより、こころ仏道ぶつだうのぞねがうて、ことにふれてあはれみふかくなんありける。

 大内記だいないきにて、しるすべきことあつて内裏うちまゐりけるに、左衛門さゑもんじんかたに、をんななみだながしててるあり。

なにごとによりてくぞ」

 とひければ、

しゆ使つかひにて、いしおびひとりてもちてまかりつるみちおとしてはべれば、あるじにもおもいましめられむずらん。さばかりの大事だいじのものをうしなひたるかなしさに、かへそらおぼえずおもひやるかたなくて」

 となんふ。こころうちにはかるに、「げに、さぞおもふらん」といとほしうて、わがしたるおびきて、らせてけり。

「もとのおびにあらねど、むなしううしなうて、まうかたなからんよりも、これをもちてまかりたらむは、おのづからつみもよろしからん」

 とて、をすり、よろこびて、まかりにけり。

 さて、片角かたすみおびもなくて、かくたりけるほどに、ことはじまりにければ、「おそし、おそし」ともよほされて、異人ことひとおびりて、その公事くじをばつとめける。

 中務なかつかさみやの、ぶんならひたまひけるときも、すこをしへたてまつりては、ひまひまにをひさぎつつ、つねほとけをぞねんじたてまつりける。

 あるとき、かのみやより、うまをたまはらせたりければ、りてまゐりける。みちあひだ堂塔だうたふのたぐひはいはず、いささか卒塔婆そとば一本いつぽんあるところには、かならうまよりくだりて、恭敬くぎやう礼拝らいはいし、また、くさゆるところごとに、うまとまるに、こころにまかせつつ、こなたかなたへくほどに、たけて、あしたいへづるひと未申ひつじさるときまでになんなりにけり。舎人とねり、いみじくこころづきなくおぼえてうまあららかにちたりければ、なみだながこゑててかなしみていはく、

おほかる畜生ちくしやうなかに、かく近付ちかづくことはふか宿縁しゆくえんにあらずや。過去くわこ父母ぶもにもやあるらん。いかにおほきなるつみをばつくるぞ。いとかなしきことなり」

 とおどろさわぎければ、舎人とねりふはかりなくて、まかりてぞかへりける。かやうのこころなりければ、『池亭記ちていき』とてきたるぶんにも、「てうにありて、こころいんにあり」とぞはべるなる。

 としたけてのち、かしらおろして、横川よかはのぼり、法文ほふもんならひけるに、増賀上人ぞうがしやうにん、いまだ横川よかはみたまひけるほどに、これををしゆとて、

止観しくわん明静みやうしやうなること前代ぜんだいいまかず」

 とまるるに、この入道にふだう、ただきにく。ひじり

「さるこころにて、かくやはいつしかくべき。あな、愛敬あいぎやうなのそう道心だうしんや」

 とて、こぶしにぎりてちたまひければ、「われもひともこそ」とまかりてちにけり。

 ほどて、

「さてしもやははべるべき。このぶんけたてまつらん」

 とふ。さらばとおもうてまるるに、さきのごとくく。また、はしたなくさいなまるるほどに、のちことばかで、みにけり。

 ごろて、なほりずまに、御気色おんきしよくりて、おそおそまうしけるにも、ただおなじやうに、いとどきけるとき、そのひじりも、なみだをこぼして、

「まことにふか御法みのりたふとおぼゆるにこそ」

 と、あはれがりて、しづかにさづけられける。かくしつつ、やむごとなく、とくいたりにければ、御堂みだう入道にふだう殿とのも、御戒おんかいなんどけたまひけり。

 さて、聖人しやうにん往生わうじやうしけるときは、御諷誦おんふじゆなんどしたまひて、さらしぬの百千ひやくせんたまはせける。請文うけぶみには、三河入道みかはのにふだう秀句しうくきとめたりけるとぞ。

むかしは、ずい煬帝やうだい智者ちしやほうぜし、千僧せんそう一人ひとりあま
いまは、左丞相さしようじやう寂公じやくこうとぶらふ、さらし布百千ぬのももちてり

 とぞかれたりける。

第16話 三河の聖といふは、大江定基といふ博士

 三河みかはひじりといふは、大江定基おほえのさだもとといふ博士はかせこれなり。三河守みかはのかみになりたりけるとき、もとのてて、たぐひなくおぼえけるをんなをあひしてくだりけるほどに、くににて、をんなやまひけて、つひにはかなくなりにければ、なげかなしむことかぎりなし。恋慕れんぼのあまりに、つるわざもせず、ごろるままに、なりゆくさまをるに、いとどのいとはしさおもられて、こころおこしたりけるなり。

 かしらおろしてのち、乞食こつじきありきけるに、わが道心だうしんは、まことにおこりたるやと、こころみんとて、つまのもとへきて、ものをひければ、をんなこれをて、

「われにせしほうひに、かかれとこそはおもひしか」

 とて、うらみをしてかひたりけるが、なんともおぼえざりければ、

御徳おんとくほとけになりなんずること」

 とて、をすりよろこびてでにけり。

 さて、かの内記ないきひじり弟子でしになりて、東山如意輪寺ひがしやまによいりんじむ。そののち、横川よかはのぼりて、源信僧都げんしんそうづひたてまつりてぞ、ふかみのりをばならひける。かくて、つひにたうわたつて、いひしらぬしるしどもあらはしたりければ、大師だいして、円通大師ゑんづうだいしまうしける。往生わうじやうしけるに、ほとけおんむかひのらくきて、つくり、うたまれたりけるよしたうよりしるおくりてはべり。

笙歌遥聞孤雲上せいかはるかにきこゆこうんのうへ聖衆来迎落日前しやうじゆらいがうすらくじつのまへ

くもうへにはるかにらくおとすなりひとくらんひがみみかもし

第17話 近ごろ、山に仙命上人とて

 ちかごろ、やま仙命上人せんみやうしやうにんとて、たふとひとありけり。そのつとめ、理観りくわんむねとして、つね念仏ねんぶつをぞまうしける。あるとき持仏堂ぢぶつだうにて観念くわんねんするあひだに、そらこゑありて、

「あはれ、たふときことをのみくわんじたまふものかな」

 とふ。あやしみて、

そ、かくはのたまふぞ」

 とひければ、

「われは、当所たうしよ三聖さんしやうなり。発心ほつしんしたまひしときより、三度さんどあまがけりて、りたてまつるなり」

 とぞこたへたまひける。

 このひじり、さらにみづから朝夕てうせきのことをらず。一人ひとり使つかひける小法師こぼふしやまばうごとに、一度ひとたびまはりて、一日いちにちかれひふてやしなひけるほかには、なにひとけざりけり。

 とききさきみやぐわんをおこして、すぐれてたふとからんそう供養くやうせんとこころざして、あまねくたづねたまひけるに、このひじりのやんごとなきよしきたまひて、すなはち、おんみづから布袈裟ぬのげさひたまひて、「ありのままにはば、よもけじ」とおぼして、とかくかまへてこの小法師こぼふしこころあはせてなん、

おもひがけぬひとの、たまはせたりつる」

 とて、たてまつりければ、ひじりこれをつて、よくよく

三世さんぜほとけたまへ」

 とてたにててければ、いふかひなくてやみにけり。

 おほかた、ひとふもの、さらにひとしむことなかりけり。板敷いたじきいたをほしがるひとのありければ、わがばういた三枚さんまいはなしてらせたりけるあひだに、東塔とうたふ鎌倉かまくら覚尊聖人かくそんしやうにん得意とくいにてくらときたりけるが、板敷いたじきいたきことをらずしてあひだに、「あな、かなし」とひけるをきて、

御房ごばう不覚ふかくひとかな。もし、さてやがてなんこともかたかるべきかは。あな、かなしとはりのごんやはあるべき。南無阿弥陀仏なむあみだぶつとこそまうさめ」

 なんどひける。

 この仙命上人せんみやうしやうにん、かの覚尊かくそん鎌倉かまくらきたりけるに、とみのことありて、客人まらうどきながら、きとほかへくとて、いそづるひとの、さらにうちかへつて、ややひさしくものをしたためければ、あやしうて、でてのち、あとたまふに、よろづのものにことごとくふうけたり。このひじりおもふやう、

「いとこころわるきしわざかな。よもありきのたびに、かくしもしたためじ。われをうたがこころにこそ。はやかへれがし。このことをぢしめむ」

 とふ。

 かくおもひたるほどに、かへたれり。おもひまうけたることなれば、見付みつくるやおそしとこのことをふ。覚尊かくそんのいはく、

「つねに、かくしたたむるにあらず。また、ひとのものをるをしむにもあらず。されども、御房ごばうのおはすれば、かくりおさめはべるなり。そのゆゑは、もし、これらいささかもせたることあらば、凡夫ぼんぷなれば、みづから御房ごばううたがひたてまつるこころのあらんことの、いみじう罪障ざいしやうありぬべくおぼえて、わがこころうたがはしさになん。なにばかりのものをかは、しみはべらん」

 とぞひける。

 かくて、鎌倉かまくらひじりさきかくれぬときて、

かなら往生わうじやうしぬらむ。ものにふうづけけしほどの、こころのたくみなれば」

 とぞ、仙命聖人せんみやうしやうにんひける。

 そののち、ゆめ覚尊かくそんへり。まづはじめの言葉ことばには、

「いづれのほんぞ」

 とひければ、

下品下生げぼんげしやうなり。それだにも、ほとほとしかりつるを、御房ごばう御徳おんとく往生わうじやうとげたるなり。ごろはしわたし、みちつくりしぎやうばかりにてはかなはざらまし。おんすすめによりて時々ときどき念仏ねんぶつをせしかば」

 とぞひける。またいはく、

仙命せんみやう往生わうじやうはかなひなんや」

 とふ。

「そのことうたがひなし。はやく、上品上生じやうぼんじやうしやうさだまりたまへり」

 とふとぞえたりける。

第18話 津の国和田の奥に、妙法寺といふ山寺あり

 くに和田わだおくに、妙法寺めうほふじといふ山寺やまでらあり。かしこに楽西らくさいといふ聖人しやうにんみけり。もとは出雲国いづものくにひとなり。わが、いまだをとこなりけるときひとつくるとて、うしへがたげなるをめて、かきすきけるをて、「かく有情うじやうなやましつつ、わりなくしてつくりたてたるものを、なすことなくて受用じゆやうすることこそ、いみじう罪深つみぶかけれ」とおもひけるより、こころおこつて、やがて出家しゆつけしたりけり。

 そののち、居処ゐどころもとむとてくにをあまねくきけるに、えんやありけん、このところの、こころにつきておぼえければ、ここにまんとおもひて、あるそういほりたづきたるに、あるじはあからさまにでたるに、ほだといふものをさしあはせてきたるをて、このひじり、とかくもはではひりて、おほくとりくべて、背中せなかあぶりしてたりける。

 あるじかへふやう、

何者なにものなれば、ひとのもとにきて案内あんないはで、したりかほきてはたるぞ」

 とふ。

希有けうのしわざや」

 とはらてければ、

「われは、いささかこころおこしてまよあり修行者しゆぎやうじやなり。なんぢ、もろともにほとけおん弟子でしにあらずや。あながちに、られずとふべきことかは。かぜのおこりてなやましうおぼえければ、こののあたりごしがたくてたるぞかし。、いくばくかはきたる。しくおもはれば、こりてかへまうさむ。また、なほこのにあてじとならばるべし。慳貪けんどんなるにはあたらでこそはあらめ。やすきことなり。まかでなん」

 とふ。

 あるじもいささか道心だうしんあるものにて、

事柄ことがら心得こころえおぼゆれば、まうすばかりぞ。はるるところもまたことはりなり。さらば、しづかにたまへ」

 とて、ことのこころふ。わがこころざしあるやうなんどひけるほどに、やがてこのそう得意とくいになつて、やまなかひとはなれたるところはらひ、かたちのごとくいほりむすびてはじめたるになんありける。

 かくて、たふとおこなひて、としごろになりければ、ちかきほどにて、福原入道大臣ふくはらのにふだうだいじん、このひじりのことをきたまひて、

「まことにたふとひとかな。ことざまよ」

 とて、守俊もりとし使つかひにて、消息せうそこしたまひたりけり。

ちかきほどに、かくてはべれば、たのみたてまつる。また、いかなることなりともさぶらはば、かならずのたまはせよ」

 なんどねんごろにはせたまひて、おくりものどもせられたりけり。聖人しやうにんのいはく、

おほせはかしこまりはべり。ただし、ぎやうもなくとくもなければ、かやうのおほかうむるべきにてはゆめゆめはべらず。いかやうにこしめして、なほざりにておん使つかひなんどたまひてかはべるらん。このことおどろおもひたまへはべり。このたまはせるものもかへしたてまつるべきにてはべれど、おそれさりがたくて今度このたびばかりはとどめはべり。いまよりのちは、さぶらふまじきことなり。さらさらまうしはべるべきようなくはべり。また、られまゐらせて御用ごようにかなふべきことは、いささかもはべらず」

 と、いとことのほかにまうしたりける。

 使つかひかへまゐりて、このよしこえければ、

「まことにたふとひとにこそ。されど、さやうにもてはなれむをば、いかがはせむ。なほ、とかくふは、こころにたがひなん」

 とて、またおとづれたまはずしてぞ、やみにけり。

 さて、このおくりものをばてらそうともに方々はうはうらせて、われはいささかもらず。あるそう、あやしめて、

なにかは、これをけたまはぬ。まずしきものの、わりなくしていささかのものなんどたてまつるこそ、こころざしをばおもる。それをばけたまふめり。これほどのもの、かのおんためにはなにのもののかずにてはあらん」

 とひければ、

「のたまふところ、いはれたり。げに、まづしきひとのこころざし、おも信施しんせなれど、われけずはたれかは、すくなきものをおもふばかりそのこころざしをむくはむとする。これをかへすものならば、わがつみをのみおそれてひとすくこころけぬべし。しかれば、さだめて、ほとけ御意ぎよいにもそむきぬらんとおもひたまへば、なまじひにけたまふなり。さて、この入道にふだう殿との功徳くどくをなしたまはむには、いづれのことかこころにかなはざらむ。善知識ぜんちしきたづねたまはんにも、また行徳ぎやうとくたかひとおほし。たれまゐらざらむ。この法師ほふしりたまはずともさらさら事欠ことかくまじ。いきほひいかめしうおはすめれば、さだめてつみもおはすらん。させるとくなきにて、きかづきてよしなしとて、のがまうすなり」

 とぞひける。

 ここかしこよりものをるほどに、おほくなりぬれば、てらそうあつめて、これをほどこす。さらにのちれうおもへることなし。かの山寺やまでらちかく、やまめなるいうばの、へがたくまずしきあり。これをあはれみて、つねにものなんどらせける。師走しはす晦日つごもりに、ひとよりもちをあまたたりけるとき、かのうばをおもだして、いたふけて、みづからもちきけるほどに、としごろもちたりける念珠ねんじゆおとしてけり。かへりてのち、おもだしたりけれど、しげきやまみちなれば、いづくにかちにけん、もとめにもかず。

多年たねん薫修くんじゆみつる念珠ねんじゆを」

 と、なげきながら、数珠引ずずひかたらひて、あつらへむとするほどに、からすの、ものをひて、だううへにからからとらすをれば、わがおとしたりける念珠ねんじゆなりけり。

からす、いとどあはれなり」

 とて、これをかへりつ。

 それより、このからす得意とくいになりて、ひとの、ものもちべきときには、かならく。そのたるとほさに、いま幾日いくかなりとはからふに、つゆもたがはず。ほとほと、護法ごほふなんども、いひつべきさまにぞありける。

 また、このいほりまへちいさきいけあり。はちすおほくて、はなさかりにはみづえず。ひとへに、紅梅こうばいきぬおほへるがごとし。あるときなつ、いささかもはなかざりけるを、ひとあやしみければ、「今年ことしは、われ、このかいるべきとしなれば、『くべきところかん』とて、ここにはかぬなり」とこたへける。まことに、そのとし臨終正念りんじゆうしやうねんにめでたくてぞはりにける。かやうの不思議ふしぎおほこえはべりしかど、ことしげければ、しるさず。

第19話 津の国の渡辺といふ所に、長柄の別所といふ寺あり

 くに渡辺わたなべといふところに、長柄ながら別所べつしよといふてらあり。それに、ちかごろ暹俊せんしゆんといふそうありけり。わかくては、やま学問がくもんなんどしてありけるが、おのづからここに居付きゐつきたりけるなり。

 このそう、いかでかつたもちたりけん、むかし文殊もんじゆみのりきたまひけるときおん袈裟けさとて、はすいとにてれる袈裟けさなり。もとは、やま禅瑜僧都ぜんゆそうづつたへたりけるを、池上いけがみ皇慶阿闍梨くわうけいあじやりときおつ護法ごほふして、無熱池むねつちにてあらはせたまひけるよしつたへたる袈裟けさなり。

 この暹俊せんしゆんとし八十やそぢばかりまで、ことなる弟子でしなし。そのあたりちかく、柳津やないづ別所べつしよといふところに、相真さうしんといふそうあり。六十ろくじふあまれり。この袈裟けさつたへ、やむごとなきことをきて、これをゆづんとおもひて、弟子でしになりぬ。暹俊せんしゆんふやう、

袈裟けさつたへむがために弟子でしになりたまへるこころざし、あさからず。しからば、三衣さんえうち、まづ五条ごでう当時たうじゆづりたてまつらむ。のこりをば死後しごつたりたまへ」

 とふ。相真さうしんよろこびて、これをかへりぬ。

 そののちおもひのほかに相真さうしんさきつて、やまひけてするとき、この袈裟けさをかけて弟子でしどもにふやう、

「われなんには、この袈裟けさかならあひしてうづめ」

 ときてはりにければ、弟子でしどもふごとくにしてごろぎにけり。

 そののち暹俊せんしゆん、かの相真さうしん弟子中でしぢゆうおくる。

袈裟けさみな亡者まうじやゆづまうしさぶらふべきよしちぎこえしかど、本意ほいならず先立さきだたれぬれば、ともにはなれてあるべきにあらず。かへしたまはむ」

 とふ。亡者まうじやきしさまなんど、ありのままにひけれどなほしんぜず。かさねてたづねたりければ、このことよしなしとて、相真さうしん弟子でしども、誓文せいもんをなんきてぞおくりたりける。

 そのうへには、とかくふべきならねば、なげきながら年月としつきおくるほどに、中一年なかいちねん長寛二年ちやうくわんにねんあき暹俊せんしゆんゆめるやう、亡者まうじや相真さうしんたりていはく、

「われ、この袈裟けさをかけたりし功徳くどくによりて兜率内院とそつないゐんまれたり。ただし、袈裟けさをばわがまうしたりしままにしてうづみたりしかど、不具ふぐになることをふかなげきたまへばかへしたてまつる。はやく、もとはこけてたまふべし」

 とふ。ゆめめて、この三衣さんえはこけてれば、もとのごとくたたみて、はこなかにあり。まことに不思議ふしぎのことなれば、なみだながしつつ、これを恭敬くぎやうす。

 そののち、かの暹俊せんしゆんをはとき、また、この袈裟けさをかけて往生わうじやうす。その弟子でしに、弁永べんえいといふそう、これをつたへて、また、往生わうじやうすること、さきのごとし。かの弁永べんえい往生わうじやうせしことは、十年じふねんうちのことなれば、みなひとつたへけることなり。

 むかし物語ものがたりなんどには、いみじきことおほかれど、そののこり、としにそへてほろしつす。まれまれのこりたるも、くだり、ひとおとろへて、不思議ふしぎをあらはすこと、ありがたし。これは、にごれるすゑに、たぐひすくなきほどのことなり。されば、結縁けちえんのため、わざとまうでつつ、をがひとおほくはべるべし。

第20話 近ごろ、鳥羽の僧正とてやんごとなき人

 ちかごろ、鳥羽とば僧正そうじやうとてやんごとなきひとおはしけり。その弟子でしにて、としごろ同宿どうしゆくしたりけるそうあり。をば真浄房しんじやうばうとぞいひける。 往生わうじやうねがこころふかくして、僧正そうじやうこへけるやう、

月日つきひにそへて、後世ごせおそしくはべれば、修学しうがくみちてて、ひとへに念仏ねんぶつをいとなまむとおもひはべるに、りよく法勝寺ほつしようじ三昧さんまいあきてはべり。かしこにまうしなしたまへ。非人ひにんになして、かの三昧さんまいのことにいのちいで、後世ごせりはべらん」

 とこえければ、

「かくおもる、あはれなり」

 とて、すなはちまうしなされにけり。

 そののち、本意ほいのごとく、のどかに三昧僧坊さんまいそうばうて、ひまなく念仏ねんぶつして日月じつげつおくる。 となりばうに、叡泉坊えいせんばうといふそうおなじく後世ごせおもへるにとりて、そのつとことなり。かれは地蔵ぢざう本尊ほんぞんとして、さまざまにおこなひぬ。もろもろのかつたゐをあはれみて、朝夕てうせきものをらす。真浄房しんじやうばうかたには、阿弥陀あみだたのみたてまつりて、ひまなく名号みやうがうとなへ、極楽ごくらくねがふ。これまた、乞食こつじきをあはれみければ、さまざまの乞食こつじきども、きほひあつまる。二人ふたり道心だうしんものは、まちかかきひとへだてたれども、おのおのならひにければ、かつたいもこなたへかげささず、乞食こつじきとなりのぞむことなし。

 かかるほどに、かの僧正そうじやうやまひけてかぎりになりたまへるよしきて、真浄房しんじやうばうとぶらひにまうでたりけり。ことのほかによわくなりてしたまへるところれて、

としごろ、むつまじうおもならはせるを、この三年さんねんうとうとしくなれるだにこいしくおぼえつるに、いまながわかれなんとす。今日けふかぎりならむ」

 とひもやらずかれければ、真浄房しんじやうばういとあはれにおぼえて、なみだおさへて、

「さなおぼしめしそ。今日けふこそわかれたてまつるとも、後世ごせにはかならひてつかうまつるべきなり」

 とこゆ。

「かく同心どうしんおもひけるこそ、いとどうれしけれ」

 とてしたまひぬれば、かへりぬ。そののちほどなく、僧正そうじやうかくれたまひにけり。

 かくて、としごろるほどに、となり叡泉房えいせんばう心地ここちなやましくて、二十四日にじふよつかあかつきに、地蔵ぢざう御名みなとなへて、いとめでたくはりぬれば、見聞けんもんひとたふとみあへり。この真浄房しんじやうばうおとらぬ後世者ごせしやなりければ、かなら往生人わうじやうにんなりとさだむるほどに、二年ふたとせばかりあつて、いと心得こころえずものくるはしきやまひをして、かくれにけり。あたりのひと、あやしく本意ほいなきことにおもひつつ年月としつきおくるほどに、ひたるははのおくれゐてなげきけるが、またものめかしきことどもありけるを、したしきひとどもあつまりてもてさわぐほどに、このははふやう、

「われはことなるもののあやにあらず。せにし真浄房しんじやうばうまうたるなり。わがありさまをたれ心得こころえがたくおもはれたれば、かつはそのことをもこえんとなり。われ、ひとへに名利みやうりてて後世ごせつとめよりほかにいとなみなかりしかば、生死しやうじにとどまるべきにてはなきを、わが僧正そうじやうわかれをしみたまひしとき

後世ごせにはかならまゐうて、したがひたてまつらむ』

こえたりしことを、いま券契けんけいのごとくして、

『さこそひしが』

とて、いかにもいとまをたまはせぬによりておもはぬみちられはべるなり。ひとへにほとけのごとくたのみたてまつりしままに、ゆゑなきことをまうしてかくおもひのほかなることこそはべりつれ。ただ、天狗てんぐまうすことはあることなり。来年らいねん六年ろくねんちなんとす。かのつきめに、かまへてこのみちでて、極楽ごくらくまゐらばやとおもひたまへるに、かならさわりなく苦患くげんまぬかるべきやうにとぶらひたまへ。さても、にはべりしとき

本意ほいのごとく、おくれたてまつるならば、ははおんため善知識ぜんちしきとなりて、後世ごせをとぶらひたてまつらむ。もしまた、おもひのほかにさきまゐらせば、引摂いんぜふしたてまつらん』

とこそねがひはべりしか。おもはざるに、いまかかるとなりて、近付ちかづまうるにつけても、なやましたてまつるべし」

 とはひもやらず、さめざめとく。ひと、さながらなみだながしてあはれみあへり。とばかりのどかにものかたりしつつ、あくびたびたびして、れいざまになりにければ、仏経ぶつきやうなんど、こころおよぶほど供養くやうしけり。

 かかるほどにとしもかへりぬ。そのふゆになつて、またそのははわづらふ。とかくふあひだに、ははふやう、

誰々たれたれも、さばかりありし真浄房しんじやうばうがまたまうたるぞ。そのゆゑは、真心まごころに、後世ごせとぶらひたまへるうれしさもこへんとおもひたまふうへに。あかつき、すでに得脱とくだつしはべり。いかんとなれば、そのしるしせたてまつらんためなり。ごろ、わがくさけがらはしき、かぎたまへ」

 とて、いきをためてだしたるに、一家いつけうちくさくて、しのぶべくもあらず。さて、もすがらものかたりして、あかつきおよびて、

「ただいまぞ。すでに不浄身ふじやうしんをあらためて、極楽ごくらくまゐりはべる」

 とて、またいきをしたりければ、そのたびはかうばしく、いへうちかをちたりけり。それをひと

「たとひ行徳ぎやうとくたかひとなりとも『かならずこれに値遇ちぐうせんといふちかひをば、おこすまじかりけり。かれはりはづして、しきみちりたれば、あへなくかかるわざなり」

 とぞひける。

第21話 永久のころ、前滝口助重といふ者

 永久えいきうのころ、前滝口助重さきのたきぐちすけしげといふものありけり。近江国あふみのくに蒲生がまふこほりひとなり。盗人ぬすびとひて、射殺いころされけるあひだに、その背中せなかあたときこゑげて「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」とただ一声いつせいまうしてしぬ。そのこゑたかく、となりさとこえけり。ひとて、これをければ、西にしかひて、ながらまなこぢてなんありけり。

 ときに、入道寂因にふだうじやくいんといふものありけり。助重すけしげがあひれるものなれど、いへちかからねば、このことをらず。そのゆめるやう、ひろくに、かたはらに死人しにびとあり。そうおほあつまりてふ、

「ここに往生人わうじやうにんあり。なんぢ、これをるべし」

 とふ。きてれば、助重すけしげなりけりとて、ゆめめぬ。あやしとおもふほどに、あしたに、助重すけしげ使つかわらはたつて、このよしげけり。

 また、あるそう近江国あふみのくに修行しゆぎやうしけり。ゆめうちに、ひとぐるやう、

いま往生人わうじやうにんあり。きてえんむすぶべし」

 とふ。そのところ助重すけしげいへなりけり。月日つきひ、またたがはずありけり。

 かの僧正そうじやう年来としごろ行徳ぎやうとく助重すけしげ一声いつせい念仏ねんぶつのほかのことなれど、かれは悪道あくだうまり、これは浄土じやうどうまる。ここにんぬ、凡夫ぼんぷおろかなるこころにて、ひととくほど、はかりがたきことなり。

第22話 中ごろ、常磐橘大夫守助といふ者

 なかごろ、常磐橘大夫守助ときはのたちばなのたいふもりすけといふものありけり。とし八十やそぢにあまりて、仏法ぶつぽふらず。斎日さいにちといへども精進しやうじんせず。法師ほふしれどもたふとこころなし。もし、をしすすむるひとあれば、かへりてこれをあざむく。すべて、愚痴ぐちきはれるひととぞける。

 しかるを、伊予国いよのくにところありてくだりける。ころは永長えいちやうあき、ことなるやまひもなくて、臨終正念りんじゆうしやうねんにして往生わうじやうせり。須磨すまかたより、むらさきくもあらはれて、馨香かうばしきかちて、めでたき瑞相ずいさうあらたなりけり。

 これをひと、あやしんでそのつまに、

「いかなるつとめをかせし」

 とふ。つまがいはく、

こころ、もとより邪見じやけんにて功徳くどくつくることなし。ただし、一昨年をととし六月ろくぐわつより、ゆふべごとに不浄ふじやうをかへりみず、衣服いふくをととのへず、西にしむかうて一枚いちまいばかりなるぶんみ、てのひらあはせてをがむことこそありしが」

 とふ。

 そのぶんたづだしてるに、発願ほつぐわんぶんあり。その言葉ことばにいはく、

弟子でしうやまつて、西方極楽化主阿弥陀如来さいはうごくらくけしゆあみだによらい観音くわんおん勢至せいし諸々もろもろ聖衆しやうじゆおどろかしてまうす。われ、けがたき人身にんじんけてたまたま仏法ぶつぽふへりといへども、こころもとより愚痴ぐちにして、さらにつとおこなふことなし。いたづらにかしらして、むなしく三途さんづかへりなんとす。しかるを、阿弥陀如来あみだによらい、われとえんふかくおはしますによつて、にごれるすゑ衆生しゆじやうすくはんがため、大願だいぐわんほつしたまへることありき。そのおもむきたづぬれば、たとひ、四重五逆しぢゆうごぎやくつくれるひとなりとも、命終みやうじゆうらんとき、わがくにまれんとねがひ、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ十度じふどまうさば、かならむかへんとちかひたまへり。いま、この本願ほんぐわんたのむがゆゑに、今日けふよりのちいのちかぎりにてゆふべごとに西にしかひ、宝号はうがうとなふ。ねがはくは、今夜こんやまどろめるなかにもいのちきなんことあらば、これをはりの十念じふねんとして、本願ほんぐわんあやまたず極楽ごくらくむかへたまへ。たとひ、のこりのいのちあつて今宵こよひぎたりとも、はりねがひのごとくならずして弥陀みだとなへずは、ごろの念仏ねんぶつをもつてはりの十念じふねんとせむ。われ、つみおもしといへどもいまだ五逆ごぎやくつくらず。功徳くどくすくなしといへどもふか極楽ごくらくねがふ。すなはち、本願ほんぐわんにそむくことなし。かなら引摂いんぜふしたまへ

 とけり。これをひとなみだおとしてたふとびけり。そののち、あまねくこのぶんりて、しんおこなひて、あかしたるひとおほかりけり。

 また、ある聖人しやうにん、かやうに発願ほつぐわんぶんむことはなけれども、まどろめるほかには、ときかはるごとに、最後さいごおもひをなして、十念じふねんとなへつつ、こればかりをぎやうとして、往生わうじやうをとげたりとなん。つとむるところはすくなけれども、つね無常むじやうおもひて、往生わうじやうこころにかけむこと、えうなかえうなり。もし、ひとこころわすれず極楽ごくらくおもへば、命終みやうじゆうときかならしやうず。たとへば、うゑきまがれるかたたふるるがごとし、なんどへり。

第23話 年ごろ、道心深くして、念仏怠らぬ聖

 としごろ、道心だうしんふかくして、念仏ねんぶつおこたらぬひじりありけり。あひりたりけるひとの、対面たいめんせんとてわざとたづねてたりければ、

大切たいせついとまふたがりたることありて、えひたてまつるまじき」

 とふ。弟子でしあやしとおもひて、そのひとかへりてのち、

「など本意ほいなくてはかへしたまへるぞ。さしあふこともえはべらぬを」

 とへば、

「あひがたくして人身にんじんたり。このたび生死しやうじはなれて、極楽ごくらくまれんとおもふ。これ、にとりてきはまりたるいとなみなり。なにごとかこれにぎたる大事だいじあらん」

 とぞひける。このこと、あまりきびしくおぼゆるは、わがこころおよばぬなるべし。

 坐禅三昧経ざぜんざんまいきやうにいはく、

今日こんにちこのことをいとなみ、明日みやうにちかのことをつくる。
楽著らくちゃくしてくわんぜず、死賊しぞくいたるをおぼえず、云々うんぬん

 なかにあるひと、さすがに後世ごせおもはざるなし。今日けふはこのことをせん。明日あすはかのことをいとなまむとおもふほどに、無常むじやうかたきのやうやく近付ちかづきて、いのちうしなふことをばらざるなり。

第24話 昔、釈迦如来、舎衛国におはしましし時

 むかし釈迦如来しやかによらい舎衛国しやゑこくにおはしまししとき阿難尊者あなんそんじやまうおん弟子でししたまひて、じやうのほとりをでたまふに、あやしげなりけるおきなをんな二人ふたりして、みちにてひたてまつる。ともにかしらかみしろく、おもてしわたたみて、ほねかはくろおとろへたり。にはきたなげなるものを、わづかにむすあつめつつたれど、はだへもかくれず。いささかあゆみては、おほきにあへたき、ひまなくやすむ。

 ほとけ、これを御覧ごらんじて、

阿難あなん、これはるや。このおきなおほきなる宿善しゆくぜんあり。としはじめてさかんなりしときつとおこなひてこのいのらましかば、舎衛国しやゑこく第一だいいち長者ちやうじやとはなりなまし。出離しゆつりのためにつとめましかば、三明六通さんみやうろくつう羅漢らかんとはなりなまし。つぎさかりなりしときつとめましかば、第二だいに長者ちやうじやとなり、得脱とくだつおもはば阿那含あなごんひじりとはなりなまし。つぎさかりなりしときつとめましかば、第三だいさん長者ちやうじやとなり、証果しようくわこころざさば斯陀含しだごんひじりとはなりなまし。おろかにものうくしてそのさかりぐし、宿善しゆくぜんもちながらねがはざりしゆゑに、いまつたなきとしてけがたき人界の生にんがいのしやうむなしくごしつるなり」

 とおほせられき。

 われたまたま法華経ほけきやうにあひたてまつり、弥陀仏みだぶつ悲願ひぐわんきながらつとおこなはずして、いたづらにあたら月日つきひごす。つゆもたがはず乞者こつじやおきななり。

第25話 唐の善導和尚は、道綽の御弟子なり

 もろこし善導和尚ぜんだうくわしやうは、道綽だうしやくおん弟子でしなり。しかあれど、そのにもえて、ぢやうのうちに、阿弥陀あみだたてまつり、おぼつかなきことをひたてまつり、あかしたまへり。道綽だうしやく善導ぜんだうにあつらへていはく、

「われ、朝夕てうせき往生わうじやう極楽ごくらくねがふことはかなひなんや。これ、きはめておぼつかなし。ほとけひたてまつりて、かせたまへ」

 とのたまひければ、たちまちにぢやうつて、このことをひたてまつる。ほとけののたまはく、

るにはおのくだす。いへかへるにはすることなし」

 とのたまふ。このふたつのことをきて、道綽だうしやくかたりたまひけりとなん。

 かくいへるこころは、るには、いかにおほなるといへども、たゆみなくこれをれば、つひにとしてたふさずといふことなし。おこたりて、やすむべからず。いへかへるには、また、くるしとて、ちうにとどまることなかれ。ふも、かならくべし。こころざしふかくしておこたらずは、うたがひあらざるよしをしへたまへるなり。このこと、道綽だうしやくかぎるべからず。もろもろの行者ぎやうじやおなじかるべし。

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当サイトの管理人

生きづらさを抱えていた30代の頃、物事の本質を知ろうとしているうちに、古典文学へとたどり着きました。中高生の頃は、受験のためでしかなかった古文・漢文。その魅力にもっと早く気づきたかった人生でした。今はライフワークとして、古典文学の現代語訳や歴史探訪を楽しんでいます。

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