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『源氏物語』第5帖「若紫」原文全文

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出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第5帖「若紫」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第5帖「若紫」現代語訳全文をご覧ください。

目次

明石入道の娘のうわさ|わらは病にわづらひたまひて

 わらは病やみにわづらひたまひて、よろづにまじなひ、加か持ぢなど参まゐらせたまへど、しるしなくてあまたたびおこりたまひければ、ある人ひと、

「北山きたやまになむなにがし寺でらといふ所ところに、かしこきおこない人びとはべる。去年こぞの夏なつも世よにおこりて、人ひと々まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひあまたはべりき。ししこらかしつる時ときはうたてはべるを、とくこそこころみさせたまはめ」

 など聞きこゆれば、召めしに遣つかはしたるに、

「老おいかがまりて、室むろの外とにもまかでず」

 と申まうしたれば、

「いかがはせむ。いと忍しのびてものせん」

 とのたまひて、御おほん供ともにむつましき四し、五ご人にんばかりして、まだ暁あかつきにおはす。

 やや深ふかう入いる所ところなりけり。三月やよひのつごもりなれば、京きゃうの花盛はなさかりはみな過すぎにけり。山やまの桜さくらはまだ盛さかりにて、入いりもておはするままに、霞かすみのたたずまひもをかしう見みゆれば、かかるありさまもならひたまはず、所狭ところせき御身おほんみにて、めづらしうおぼされけり。寺てらのさまもいとあはれなり。峰みね高たかく、深ふかき岩いはの中なかにぞ、聖ひじり入いりゐたりける。上のぼりたまひて、誰たれとも知しらせたまはず、いといたうやつれたまへれど、しるき御おほんさまなれば、

「あな、かしこや。一ひと日ひ召めしはべりしにやおはしますらむ。今いまはこの世よのことを思おもひたまへねば、験方げんがたのおこなひも捨すて忘わすれてはべるを、いかでかうおはしましつらむ」

 と、おどろき騒さわぎ、うち笑ゑみつつ見みたてまつる。いと尊たふとき大徳だいとこなりけり。さるべきもの作つくりてすかせたてまつり、加か持ぢなど参まゐるほど、日ひ高たかくさし上あがりぬ。

 すこし立たち出いでつつ見み渡わたしたまへば、高たかき所ところにて、ここかしこ、僧坊そうばうどもあらはに見みおろさるる、ただこのつづらをりの下しもに、同おなじ小こ柴しばなれど、うるはしくしわたして、清きよげなる屋や、廊らうなど続つづけて、木こ立だちいとよしあるは、

「何人なにびとの住すむにか」

 と問とひたまへば、御おほん供ともなる人ひと、

「これなんなにがし僧そう都づの二年ふたとせ籠こもりはべる方かたにはべるなる」

「心恥こころはづかしき人ひと住すむなる所ところにこそあなれ。あやしうも、あまりやつしけるかな。聞ききもこそすれ」などのたまふ。

 清きよげなる童わらはなどあまた出いで来きて、閼伽あかたてまつり、花はな折をなどするもあらはに見みゆ。

「かしこに、女をんなこそありけれ」

「僧そう都づは、よも、さやうには、据すゑたまはじを」

「いかなる人ひとならむ」

 と口くち々言いふ。下くだりてのぞくもあり。

「をかしげなる女子をんなごども、若わかき人ひと、童女わらはべなん見みゆる」と言いふ。

 君きみはおこなひしたまひつつ、日ひたくるままに、いかならんとおぼしたるを、

「とかう紛まぎらはさせたまひて、おぼし入いれぬなんよくはべる」

 と聞きこゆれば、しりへの山やまに立たち出いでて、京きゃうの方かたを見みたまふ。はるかに霞かすみわたりて、四方よもの梢こずゑそこはかとなう煙けぶりりわたれるほど、

「絵ゑにいとよくも似にたるかな。かかる所ところに住すむ人ひと、心こころに思おもひ残のこすことはあらじかし」

 とのたまへば、

「これはいと浅あさくはべり。人ひとの国くになどにはべる海うみ山やまのありさまなどを御ご覧らんぜさせてはべらば、いかに御絵おほんゑいみじうまさらせたまはむ。富ふ士じの山やま、なにがしの嶽たけ」

 など語かたりきこゆるもあり。また西国にしくにのおもしろき浦うら々、磯いその上うへを言いひ続つづくるもありて、よろづに紛まぎらはしきこゆ。

「近ちかき所ところには播はり磨まの明あか石しの浦うらこそ、なほことにはべれ。何なにの至いたり深ふかき隈くまはなけれど、ただ海うみのおもてを見みわたしたるほどなん、あやしく異こと所どころに似にずゆほびかなる所ところにはべる。かの国くにの前さきの守かみ、新発意しぼちの、むすめかしづきたる家いへいといたしかし。大臣だいじんののちにて出いで立たちもすべかりける人ひとの、世よのひがものにてまじらひもせず、近こ衛のゑの中ちう将じゃうを捨すてて申まうしたまはれりける司つかさなれど、かの国くにの人ひとにもすこしあなづられて、何なにの面目めいぼくにてかまた都みやこにも帰かへらんと言いひて頭かしらも下おろしはべりにけるを、すこし奥おくまりたる山やま住ずみもせで、さる海うみづらに出いでゐたる、ひがひがしきやうなれど、げに、かの国くにのうちにさも人ひとの籠こもりゐぬべき所ところ々はありながら、深ふかき里さとは人ひと離はなれ、心こころすごく、若わかき妻さい子しの思おもひわびぬべきにより、かつは心こころをやれる住すまひになんはべる。さいつころ、まかり下くだりてはべりしついでに、ありさま見みたまへに寄よりてはべりしかば、京きゃうにてこそ所得ところえぬやうなりけれ、そこらはるかにいかめしう占しめて造つくれるさま、さは言いへど、国くにの司つかさにてしおきける事ことなれば、残のこりの齢よはひゆたかに経ふべき心こころ構かまへも二になくしたりけり。後のちの世よの勤つとめもいとよくして、なかなか法ほふ師しまさりしたる人ひとになんはべりける」

 と申まうせば、

「さて、そのむすめは」

 と問とひたまふ。

「けしうはあらず、かたち心こころばせなどはべるなり。代か々の国くにの司つかさなど、用よう意いことにして、さる心こころばへ見みすなれど、さらにうけひかず。我わが身みのかくいたづらに沈しづめるだにあるを、この人ひとひとりにこそあれ、思おもふさまことなり。もし我われにおくれてその志こころざし遂とげず、この思おもひおきつる宿すく世せ違たがはば、海うみに入いりねと、常つねに遺言ゆいごむしおきてはべるなる」

 と聞きこゆれば、君きみもをかしと聞ききたまふ。人ひと々、

「海龍王かいりうわうの后きさきになるべきいつきむすめななり。心こころ高たかさ苦くるしや」

 とて笑ゑふ。

 かく言いふは播はり磨まの守かみの子この、蔵人くらうどより今こと年しかうぶり得えたるなりけり。

「いと好このきたる者ものなれば、かの入道にふだうの遺言ゆいごむ破やぶりつべき心こころはあらんかし」

「さてたたずみ寄よるならむ」

 と言いひあへり。

「いで、さ言いふとも、田ゐ舎なかびたらむ。幼をさなくよりさる所ところに生おひ出いでて、古ふるめいたる親おやにのみ従したがひたらむは」

「母ははこそゆゑあるべけれ。よき若人わかうど、童わらはなど、都みやこのやむごとなき所ところ々より類るいにふれて尋たづねとりて、まばゆくこそもてなすなれ」

「情なさけなき人ひとなりて行ゆかば、さて心こころ安やすくてしもえ置おきたらじをや」

 など言いふもあり。君きみ、

「何なに心ごころありて、海うみの底そこまで深ふかう思おもひ入いるらむ。底そこのみるめもものむつかしう」

 などのたまひて、ただならずおぼしたり。かやうにてもなべてならずもてひがみたる事好ことこのみたまふ御心みこころなれば、御おほん耳みみとどまらむをや、と見みたてまつる。

「暮くれかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ。はや帰かへらせたまひなん」

 とあるを、大徳だいとこ、

「御おほんもののけなど加くははれるさまにおはしましけるを、今こ宵よひはなほ静しづかに加か持ぢなど参まゐりて、出いでさせたまへ」

 と申まうす。

「さもある事こと」

 とみな人ひと申まうす。君きみも、かかる旅たび寝ねも慣ならひたまはねば、さすがにをかしくて、

「さらば暁あかつきに」

 とのたまふ。

若紫との出会い|日もいと長きにつれづれなれば

 日ひもいと長ながきに、つれづれなれば、夕ゆふ暮ぐれのいたう霞かすみたるに紛まぎれて、かの小こ柴垣しばがきのもとに立たち出いでたまふ。人々ひとびとは帰かへしたまひて、惟光これみつ朝臣あそんとのぞきたまへば、ただこの西にし面おもてにしも持ぢ仏ぶつ据すゑたてまつりておこなふ、尼あまなりけり。簾すだれすこし上あげて、花はなたてまつるめり。中なかの柱はしらに寄よりゐて、脇息けふそくの上うへに経きゃうを置おきて、いとなやましげに読よみゐたる尼君あまぎみ、ただ人びとと見みえず。四し十じふ余よばかりにて、いと白しろうあてに痩やせたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪かみのうつくしげにそがれたる末すゑも、なかなか長ながきよりもこよなう今いまめかしきものかな、とあはれに見みたまふ。

 清きよげなる大人おとな二人ふたりばかり、さては童わらはべぞ出いで入いり遊あそぶ。中なかに十とをばかりにやあらむと見みえて、白しろき衣きぬ、山吹やまぶきなどの萎なえたる着きて走はしり来きたる女子をんなご、あまた見みえつる子こどもに似にるべうもあらず、いみじく生おひさき見みえてうつくしげなるかたちなり。髪かみは扇あふぎを広ひろげたるやうにゆらゆらとして、顔かほはいと赤あかくすりなして立たてり。

「何事なにごとぞや。童わらはべと腹はら立だちたまへるか」

 とて尼君あまぎみの見み上あげたるに、すこしおぼえたるところあれば、子こなめりと見みたまふ。

「雀すずめの子こを犬いぬ君きが逃にがしつる。伏ふせ籠ごのうちに籠こめたりつるものを」

 とて、いと口くち惜をしと思おもへり。このゐたる大人おとな、

「例れいの、心こころなしのかかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心こころづきなけれ。いづ方かたへかまかりぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏からすなどもこそ見みつくれ」

 とて立たちてゆく。髪かみゆるるかにいと長ながく、めやすき人ひとなめり。少せう納な言ごんの乳母めのととぞ人ひと言いふめるは、この子この後見うしろみなるべし。

 尼君あまぎみ、

「いで、あな幼をさなや。言いふかひなうものしたまふかな。おのがかく今日けふ明日あすにおぼゆる命いのちをば何なにともおぼしたらで、雀すずめ慕したひたまふほどよ。罪つみ得えることぞと、常つねに聞きこゆるを、心憂こころうく」

 とて、

「こちや」

 と言いへば、ついゐたり。

 つらつきいとらうたげにて、眉まゆのわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額ひたひつき、髪かみざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人ひとかな、と目めとまりたまふ。さるは、限かぎりなう心こころを尽つくしきこゆる人ひとにいとよう似にたてまつれるが、まもらるるなりけり、と、思おもふにも涙なみだぞ落おつる。

 尼君あまぎみ、髪かみをかき撫なでつつ、

「梳けづることをうるさがりたまへど、をかしの御み髪ぐしや。いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人ひともあるものを。故こ姫君ひめぎみは十とをばかりにて殿とのにおくれたまひしほど、いみじうものは思おもひ知しりたまへりしぞかし。ただいまおのれ見み捨すてたてまつらば、いかで世よにおはせむとすらむ」

 とて、いみじく泣なくを見みたまふも、すずろに悲かなし。幼心地をさなごこちにも、さすがにうちまもりて、伏ふし目めになりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪かみつやつやとめでたう見みゆ。

生おひ立たたむありかも知しらぬ若草わかくさをおくらす露つゆぞ消きえむ空そらなき

 またゐたる大人おとな、

「げに」

 とうち泣なきて、

初草はつくさの生おひ行ゆく末すゑも知しらぬまにいかでか露つゆの消きえむとすらむ

 と聞きこゆるほどに、僧そう都づ、あなたより来きて、

「こなたはあらはにやはべらむ。今日けふしも端はしにおはしましけるかな。この上かみの聖ひじりの方かたに、源げん氏じの中ちう将じゃうのわらは病やみまじなひにものしたまひけるを、ただ今いまなむ聞ききつけはべる。いみじう忍しのびたまひければ、知しりはべらで、ここにはべりながら御おほんとぶらひにもまうでざりける」

 とのたまへば、

「あないみじや。いとあやしきさまを人ひとや見みつらむ」

 とて、簾すだれ下おろしつ。

「この世よにののしりたまふ光源氏ひかるげんじ、かかるついでに見みたてまつりたまはむや。世よを捨すてたる法ほふ師しの心ここ地ちにも、いみじう世よの憂うれへ忘わすれ、齢よはひ延のぶる人ひとの御おほんありさまなり。いで、御おほん消息せうそこ聞きこえむ」

 とて立たつ音おとすれば、帰かへりたまひぬ。

 あはれなる人ひとを見みつるかな。かかれば、この好すき者ものどもはかかる歩ありきをのみして、よくさるまじき人ひとをも見みつくるなりけり。たまさかに立たち出いづるだに、かく思おもひのほかなることを見みるよ、とをかしうおぼす。さても、いとうつくしかりつる児ちごかな。何人なにびとならむ、かの人ひとの御代おほんかはりに、明あけ暮くれの慰なぐさめにも見みばや、と思おもふ心こころ深ふかうつきぬ。

若紫と光源氏|うち臥したまへるに

 うち臥ふしたまへるに、僧そう都づの御み弟子でし、惟光これみつを呼よび出いでさす。ほどなき所ところなれば、君きみもやがて聞ききたまふ。

「過よぎりおはしましけるよし、ただ今いまなむ人ひと申まうすに、おどろきながらさぶらべきを、なにがしこの寺てらに籠こもりはべりとはしろしめしながら、忍しのびさせたまへるを、憂うれはしく思おもひたまへてなん。草くさの御おほんむしろも、この坊ばうにこそ設まうけはべるべけれ。いと本ほ意いなきこと」

 と申まうしたまへり。

「いぬる十じふ余よ日にちのほどよりわらは病やみにわづらひはべるを、たび重かさなりて耐たへがたくはべれば、人ひとの教をしへのまま、にはかに尋たづね入いりはべりつれど、かやうなる人ひとのしるしあらはさぬ時とき、はしたなかるべきも、ただなるよりはいとほしう思おもひたまへつつみてなむ、いたう忍しのびはべりつる。今いま、そなたにも」

 とのたまへり。

 すなはち僧そう都づ参まゐりたまへり。法ほふ師しなれどいと心恥こころはづかしく、人柄ひとがらもやむごとなく世よに思おもはれたまへる人ひとなれば、軽かる々しき御おほんありさまをはしたなうおぼす。かく籠こもれるほどの御おほん物もの語がたりなど聞きこえたまひて、

「同おなじ柴しばの庵いほりなれど、すこし涼すずしき水みづの流ながれも御ご覧らんぜさせむ」

 と、せちに聞きこえたまへば、かの、まだ見みぬ人ひと々にことことしう言いひ聞きかせつるをつつましうおぼせど、あはれなりつるありさまもいぶかしくて、おはしぬ。

 げに、いと心こころことによしありて、同おなじ木き草くさをも植うゑなしたまへり。月つきもなきころなれば、遣水やりみづに篝火かがりびともし、灯とう籠ろなども参まゐりたり。南みなみ面おもていと清きよげにしつらひたまへり。そらだきものいと心こころにくくかをり出いで、名みゃう香がうの香かなどにほひ満みちたるに、君きみの御おほん追風おひかぜいとことなれば、内うちの人ひと々も心こころづかひすべかめり。

 僧そう都づ、世よの常つねなき御おほん物もの語がたり、後のちの世よのことなど聞きこえ知しらせたまふ。我わが罪つみのほどおそろしう、あぢきなきことに心こころをしめて、生いける限かぎりこれを思おもひ悩なやむべきなめり。まして後のちの世よのいみじかるべきおぼし続つづけて、かうやうなる住すまひもせまほしうおぼえたまふものから、昼ひるの面影おもかげ心こころにかかりて恋こひしければ、

「ここにものしたまふは、誰たれにか。尋たづねきこえまほしき夢ゆめを見みたまへしかな。今日けふなむ思おもひあはせつる」

 と聞きこえたまへば、うち笑ゑひて、

「うちつけなる御おほん夢語ゆめがたりにぞはべるなる。尋たづねさせたまひても、御心みこころおとりせさせたまひぬべし。故こ按察使あぜち大だい納な言ごんは世よに亡なくて久ひさしくなりはべりぬれば、えしろしめさじかし。その北きたの方かたなむなにがしが妹いもにはべる。かの按察あぜちかくれてのち、世よを背そむきてはべるが、このごろわづらふ事ことはべるにより、かく京きゃうにもまかでねば、頼たのもし所ところに籠こもりてものしはべるなり」

 と聞きこえたまふ。

「かの大だい納な言ごんの御女みむすめものしたまふと聞ききたまへしは。好このき好このきしき方かたにはあらで、まめやかに聞きこゆるなり」

 と、おしあてにのたまへば、

「むすめただ一ひと人りはべりし。亡うせてこの十じふ余よ年ねんにやなりはべりぬらん。故こ大だい納な言ごん、内裏うちにたてまつらむなどかしこういつきはべりしを、その本ほ意いのごとくもものしはべらで過すぎはべりにしかば、ただこの尼君あまぎみ一ひと人りもてあつかひはべりしほどに、いかなる人ひとのしわざにか、兵部ひゃうぶ卿きゃうの宮みやなむ忍しのびて語かたらひつきたまへりけるを、もとの北きたの方かたやむごとなくなどして、安やすからぬ事こと多おほくて、明あけ暮くれ物ものを思おもひてなん亡なくなりはべりにし。もの思おもひに病やまひづくものと目めに近ちかく見みたまへし」

 など申まうしたまふ。

 さらば、その子こなりけり、と思おぼしあはせつ。親王みこの御おほん筋すぢにて、かの人ひとにも通かよひきこえたるにや、といとどあはれに見みまほし。人ひとのほどもあてにをかしう、なかなかのさかしら心こころなく、うち語かたらひて心こころのままに教をしへ生おほし立たてて見みばや、とおぼす。

「いとあはれにものしたまふ事ことかな。それはとどめたまふ形かた見みもなきか」

 と、幼をさなかりつるゆくへの、なほ確たしかに知しらまほしくて問とひたまへば、

「亡なくなりはべりしほどにこそはべりしか。それも女をんなにてぞ。それにつけて、もの思おもひのもよほしになむ齢よはひの末すゑに思おもひたまへ嘆なげきはべるめる」

 と聞きこえたまふ。さればよ、とおぼさる。

「あやしきことなれど、幼をさなき御おほん後見うしろみにおぼすべく聞きこえたまひてんや。思おもふ心こころありて、行ゆきかかづらふ方かたもはべりながら、世よに心こころの染そまぬにやあらん、ひとり住ずみにてのみなむ。まだ似にげなきほどと、常つねの人ひとにおぼしなずらへて、はしたなくや」

 などのたまへば、

「いとうれしかるべき仰おほせ言ことなるを、まだむげにいはきなきほどにはべるめれば、たはぶれにても御ご覧らんじがたくや。そもそも女人にょにんは人ひとにもてなされて大人おとなにもなりたまふものなれば、詳くはしくはえとり申まうさず、かのおばに語かたらひはべりて聞きこえさせむ」

 とすくよかに言いひて、ものごはきさましたまへれば、若わかき御心みこころに恥はづかしくて、えよくも聞きこえたまはず。

「阿弥陀仏あみだぶつものしたまふ堂だうにする事ことはべるころになむ。初そ夜やいまだ勤つとめはべらず。過すぐしてさぶらはむ」

 とて上のぼりたまひぬ。

 君きみは心ここ地ちもいと悩なやましきに、雨あめすこしうちそそき、山風やまかぜひややかに吹ふきたるに、滝たきのよどみもまさりて音おと高たかう聞きこゆ。すこしねぶたげなる読経どきゃうの絶たえ絶たえすごく聞きこゆるなど、すずろなる人ひとも所ところからものあはれなり。ましておぼしめぐらすこと多おほくて、まどろませたまはず。初そ夜やと言いひしかども、夜よるもいたう更ふけにけり。内うちにも人ひとの寝ねぬけはひしるくて、いと忍しのびたれど、数珠ずずの脇息けふそくに引ひき鳴ならさるる音おとほの聞きこえ、なつかしううちそよめく音おとなひ、あてはかなりと聞ききたまひて、ほどもなく近ちかければ、外とに立たてわたしたる屏風びゃうぶの中なかをすこし引ひき開あけて、扇あふぎを鳴ならしたまへば、おぼえなき心ここ地ちすべかめれど、聞きき知しらぬやうにやとてゐざり出いづる人ひとあなり。すこし退しぞきて、

「あやし、ひが耳みみにや」

 とたどるを聞ききたまひて、

「仏ほとけの御おほんしるべは暗くらきに入いりても、さらに違たがふまじかなるものを」

 とのたまふ御おほん声こゑのいと若わかうあてなるに、うち出いでむ声こわづかひも恥はづかしけれど、

「いかなる方かたの御おほんしるべにか。おぼつかなく」

 と聞きこゆ。

「げに、うちつけなりとおぼめきたまはむもことわりなれど、

初草はつくさの若わか葉ばの上うへを見みつるより旅たび寝ねの袖そでも露つゆぞ乾かはかぬ

と聞きこえたまひてむや」

 とのたまふ。

「さらにかやうの御おほん消息せうそこうけたまはり分わくべき人ひともものしたまはぬさまは、しろしめしたりげなるを、誰たれにかは」

 と聞きこゆ。

「おのづから、さるやうありて聞きこゆるならんと思おもひなしたまへかし」

 とのたまへば、入いりて聞きこゆ。

「あな、今いまめかし。この君きみや世よづいたるほどにおはするとぞ、おぼすらん。さるにては、かの若草わかくさをいかで聞きいたまへることぞ」

 と、さまざまあやしきに心こころ乱みだれて、久ひさしうなればなさけなしとて、

枕まくら結むすふ今こ宵よひばかりの露つゆけさを深み山やまの苔こけに比くらべざらなむ

「ひがたうはべるものを」

 と聞きこえたまふ。

「かうやうのついでなる御おほん消息せうそこはまださらに聞きこえ知しらず、ならはぬ事ことになむ。かたじけなくとも、かかるついでにまめまめしう聞きこえさすべきことなむ」

 と聞きこえたまへれば、尼君あまぎみ、

「ひが事こと聞ききたまへるならむ。いとむつかしき御おほんけはひに、何なにごとをかは答いらへきこえむ」

 とのたまへば、

「はしたなうもこそおぼせ」と人ひと々聞きこゆ。

「げに、若わかやかなる人ひとこそうたてもあらめ、まめやかにのたまふ、かたじけなし」

 とて、ゐざり寄よりたまへり。

「うちつけに、あさはかなりと御ご覧らんぜられぬべきついでなれど、心こころにはさもおぼえはべらねば。仏ほとけはおのづから」

 とて、おとなおとなしう恥はづかしげなるにつつまれて、とみにもえうち出いでたまはず。

「げに思おもひたまへ寄よりがたきついでに、かくまでのたまはせ聞きこえさするも、いかが」とのたまふ。

「あはれにうけたまはる御おほんありさまを、かの過すぎたまひにけむ御み代よはりにおぼしないてむや。言いふかひなきほどの齢よはひにて、むつましかるべき人ひとにも立たちおくれはべりにければ、あやしう浮うきたるやうにて年月としつきをこそ重かさねはべれ。同おなじさまにものしたまふなるを、たぐひになさせたまへ、といと聞きこえまほしきを、かかる折をはべりがたくてなむおぼされんところをも憚はばからず、うち出いではべりぬる」

 と聞きこえたまへば、

「いとうれしう思おもうたまへぬべき御おほんことながらも、聞きこしめしひがめたることなどやはべらん、とつつましうなむ。あやしき身み一ひとつを頼たのもし人ひとにする人ひとなむはべれど、いとまだ言いふかひなきほどにて、御ご覧らんじ許ゆるさるる方かたもはべりがたげなれば、えなむうけたまはりとどめられざりける」

 とのたまふ。

「みなおぼつかなからずうけたまはるものを、所狭ところせうおぼし憚はばからで、思おもひたまへ寄よるさまことなる心こころのほどを御ご覧らんぜよ」

 と聞きこえたまへど、いと似にげなきことをさも知しらでのたまふ、とおぼして、心こころ解とけたる御おほん答いらへもなし。僧そう都づおはしぬれば、

「よし、かう聞きこえそめはべりぬれば、いと頼たのもしうなむ」

 とて、おし立たてたまひつ。暁あかつき方がたになりにければ、法ほ華け三昧ざんまい行おこなふ堂だうの懺法せんぼふの声こゑ、山やまおろしにつきて聞きこえくるいと尊たふとく、滝たきの音おとに響ひびきあひたり。

吹ふきまよふ深み山やまおろしに夢ゆめさめて涙なみだもよほす滝たきの音おとかな

さしぐみに袖そでぬらしける山水やまみづに澄すめる心こころは騒さわぎやはする

「耳みみ馴なれはべりにけりや」

 と聞きこえたまふ。

 明あけゆく空そらはいといたう霞かすみて、山やまの鳥とりどもそこはかとなうさへづりあひたり。名なも知しらぬ木き草くさの花はなども色いろ々に散ちりまじり、錦にしきを敷しけると見みゆるに、鹿しかのたたずみ歩ありくもめづらしく見みたまふに、悩なやましさも紛まぎれ果はてぬ。聖ひじり、動うごきもえせねど、とかうして護ご身しん参まゐらせたまふ。かれたる声こゑのいといたうすきひがめるも、あはれに功くうづきて、陀だ羅ら尼に誦よみたり。

 御おほん迎むかへの人ひと々参まゐりて、おこたりたまへる喜よろこび聞きこえ、内裏うちよりも御おほんとぶらひあり。僧そう都づ、世よに見みえぬさまの御おほんくだもの、何なにくれと谷たにの底そこまで堀ほり出いでいとなみきこえたまふ。

「今こと年しばかりの誓ちかひ深ふかうはべりて、御おほん送おくりにもえ参まゐりはべるまじきこと。なかなかにも思おもひたまへらるべきかな」

 など聞きこえたまひて、大おほ御み酒き参まゐりたまふ。

「山水やまみづに心こころとまりはべりぬれど、内裏うちよりもおぼつかながらせたまへるもかしこければなむ。今いま、この花はなの折を過すぐさず参まゐり来こむ。

宮人みやびとに行ゆきて語かたらむ山やま桜ざくら風かぜよりさきに来きても見みるべく」

 とのたまふ御おほんもてなし、声こわづかひさへ目めもあやなるに、

優曇華うどんげの花はな待まち得えたる心ここ地ちして深ふか山やま桜ざくらに目めこそ移うつらね

 と聞きこえたまへば、ほほ笑ゑみて、

「時ときありて、一度ひとたび開あくなるは、かたかなるものを」

 とのたまふ。聖ひじり、御おほんかわらけたまはりて、

 奥山おくやまの松まつのとぼそをまれに開あけてまだ見みぬ花はなの顔かほを見みるかな

と、うち泣なきて見みたてまつる。

 聖ひじり、御おほんまもりに独鈷とこたてまつる。見みたまひて、僧そう都づ、聖徳太さうとくたい子しの百済くだらより得えたまへりける金剛こんがう子じの数珠ずずの玉たまの装束さうぞくしたる、やがてその国くにより入いれたる箱はこの唐からめいたるを、透すきたる袋ふくろに入いれて、五ご葉えふの枝えでにつけて、紺こん瑠る璃りの壺つぼどもに御おほん薬くすりども入いれて、藤ふぢ、桜さくらなどにつけて、所ところにつけたる御おほんおくりものどもささげたてまつりたまふ。君きみ、聖ひじりよりはじめ、読経どきゃうしつる法ほふ師しの布ふ施せども、まうけの物ものども、さまざまに取とりに遣つかはしたりければ、そのわたりの山やまがつまでさるべき物ものどもたまひ、御み誦経ずきゃうなどして出いでたまふ。

 内うちに僧そう都づ入いりたまひて、かの聞きこえたまひしことまねびきこえたまへど、

「ともかくもただ今いまは聞きこえむ方かたなし。もし、御心みこころざしあらば、いま四よとせ、五年いつとせを過すぐしてこそはともかくも」

 とのたまへば、さなむ、と同おなじさまにのみあるを、本ほ意いなしと思おぼす。御おほん消息せうそこ、僧そう都づのもとなる小ちひさき童わらはして、

「夕ゆふまぐれほのかに花はなの色いろを見みて今朝けさは霞かすみの立たちぞわづらふ」

 御おほん返かへし、

「まことにや花はなのあたりは立たち憂うきと霞かすみむる空そらの気け色しきをも見みむ」

 と、よしある手てのいとあてなるを、うち捨すて書ふみいたまへり。

 御車みくるまにたてまつるほど、大おほ殿いどのより、

「いづちともなくて、おはしましにけること」

 とて、御おほん迎むかへの人ひと々、君きみたちなどあまた参まゐりたまへり。頭とうの中ちう将じゃう、左さ中ちう弁べん、さらぬ君きみたちも慕したひきこえて、

「かうやうの御おほん供ともには仕つかうまつりはべらむ、と思おもひたまふるを、あさましくおくらさせたまへること」

 と恨うらみきこえて、

「いといみじき花はなの蔭かげに、しばしもやすらはず、立たち帰かへりはべらむは飽あかぬわざかな」

 とのたまふ。岩隠いはがくれの苔こけの上うへに並ならみゐてかはらけ参まゐる。落おちくる水みづのさまなど、ゆゑある滝たきのもとなり。

 頭とうの中ちう将じゃう、懐ふところなりける笛ふえ取とり出いでて、吹ふきすましたり。弁べんの君きみ、扇あふぎはかなう打うち鳴ならして、

「豊とよ浦らの寺てらの西にしなるや」

 と歌うたふ。人ひとよりは異ことなる君きみたちを、源げん氏じの君きみいといたううち悩なやみて、岩いはに寄よりゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御おほんありさまにぞ何なにごとにも目め移うつるまじかりける。例れいの、篳篥ひちりき吹ふく随身ずいじん、笙しゃうの笛ふえ持もたせる好このき者ものなどあり。僧そう都づ、琴きんをみづから持もて参まゐりて、

「これ、ただ御手おほんて一ひとつあそばして、同おなじうは山やまの鳥とりもおどろかしはべらむ」

 と切せちに聞きこえたまへば、

「乱みだり心ごこ地ち、いと耐たへがたきものを」

 と聞きこえたまへど、けに憎にくからずかき鳴ならしてみな立たちたまひぬ。

 飽あかず口くち惜をし、と言いふかひなき法ほふ師し、童わらはべも涙なみだを落おとしあへり。まして、内うちには年とし老おいたる尼君あまぎみたちなど、まださらにかかる人ひとの御おほんありさまを見みざりつれば、

「この世よのものともおぼえたまはず」

 と聞きこえあへり。僧そう都づも、

「あはれ、何なにの契ちぎりにて、かかる御おほんさまながら、いとむつかしき日本ひのもとの末すゑの世よに生むまれたまへらむと見みるに、いとなむ悲かなしき」

 とて、目めおしのごひたまふ。

 この若君わかぎみ、幼をさな心ごこ地ちに、めでたき人ひとかな、と見みたまひて、

「宮みやの御おほんありさまよりもまさりたまへるかな」

 などのたまふ。

「さらばかの人ひとの御み子こになりておはしませよ」

 と聞きこゆれば、うちうなづきて、いとようありなむ、とおぼしたり。ひいな遊あそびにも、絵ゑ描かいたまふにも、源げん氏じの君きみと作つくり出いでて、きよらなる衣きぬ着きせかしづきたまふ。

光源氏と葵の上|君はまづ内裏に参りたまひて

 君きみはまづ内裏うちに参まゐりたまひて、日ひごろの御おほん物もの語がたりなど聞きこえたまふ。いといたう衰おとろへにけりとて、ゆゆしとおぼし召めしたり。聖ひじりの尊たふとかりけることなど問とはせたまふ。詳くはしく奏そうしたまへば、

「阿闍梨あざりなどにもなるべき者ものにこそあなれ。おこなひの労らうは積つもりて、おほやけにしろしめされざりけること」

 とらうたがりのたまはせけり。

 大おほ殿いどの参まゐりあひたまひて、

「御おほん迎むかへにもと思おもひたまへつれど、忍しのびたる御おほん歩ありきに、いかがと思おもひ憚はばかりてなむ。のどやかに一いち、二に日にちうち休やすみたまへ」

 とて、

「やがて、御おほん送おくり仕つかうまつらむ」

 と申まうしたまへば、さしもおぼさねど、引ひかされてまかでたまふ。我わが御車みくるまに乗のせたてまつりたまうて、自みづからは引ひき入いりてたてまつれり。もてかしづききこえたまへる御心みこころばへのあはれなるをぞ、さすがに心こころ苦くるしくおぼしける。

 殿とのにも、おはしますらむと心こころづかひしたまひて、久ひさしく見みたまはぬほど、いとど玉たまの台うてなに磨みがきしつらひ、よろづをととのへたまへり。女をんな君ぎみ例れいのはひ隠かくれて、とみにも出いでたまはぬを、大臣おとど切せちに聞きこえたまひて、からうして渡わたりたまへり。ただ絵ゑに描かきたるものの姫君ひめぎみのやうにし据すゑられて、うちみじろきたまふこともかたく、うるはしうてものしたまへば、思おもふこともうちかすめ、山道やまみちの物もの語がたりをも聞きこえむ、言いふかひありてをかしう答いらへたまはばこそあはれならめ、世よには心こころも解とけず、うとく恥はづかしきものにおぼして、年としのかさなるに添そへて御心みこころの隔へだてもまさるを、いと苦くるしく思おもはずに、

「時とき々は世よの常つねなる御み気け色しきを見みばや。耐たへがたうわづらひはべりしをも、いかがとだに、問とひたまはぬこそ、めづらしからぬ事ことなれどなほうらめしう」

 と聞きこえたまふ。からうして、

「問とはぬはつらきものにやあらん」

 と後しり目めに見みおこせたまへるまみいと恥はづかしげに、気け高だかううつくしげなる御おほんかたちなり。

「まれまれは、あさましの御おほんことや。問とはぬ、など言いふ際きはは異ことにこそはべなれ。心憂こころうくものたまひなすかな。世よとともにはしたなき御おほんもてなしを、もしおぼし直なほる折をもやと、とさまかうざまに心こころみきこゆるほど、いとど思おもほし疎うとむなめりかし。よしや、命いのちだに」

 とて、夜よるの御お座ましに入いりたまひぬ。女をんな君ぎみ、ふとも入いりたまはず。聞きこえわづらひたまひてうち嘆なげきて臥ふしたまへるも、なま心こころづきなきにやあらむ、ねぶたげにもてなして、とかう世よをおぼし乱みだるること多おほかり。

 この若草わかくさの生おひ出いでむほどのなほゆかしきを、似にげないほどと思おもへりしもことわりぞかし。言いひ寄よりがたきことにもあるかな。いかにかまへて、ただ心こころやすく迎むかへ取とりて明あけ暮くれの慰なぐさめに見みむ。兵部ひゃうぶ卿きゃうの宮みやはいとあてになまめいたまへれど、にほひやかになどもあらぬを、いかでかの一族ひとぞうにおぼえたまふらむ。ひとつ后きさき腹ばらなればにや、などおぼす。ゆかりいとむつましきに、いかでか、と深ふかうおぼゆ。

若紫への手紙|またの日、御文たてまつれたまへり

 またの日ひ、御おほん文ふみたてまつれたまへり。僧そう都づにもほのめかしたまふべし。尼上あまうへには、

「もて離はなれたりし御み気け色しきのつつましさに、思おもひたまふるさまをもえあらはし果はてはべらずなりにしをなむ。かばかり聞きこゆるにても、おしなべたらぬ志こころざしのほどを御ご覧らんじ知しらば、いかにうれしう」

 などあり。中なかに、小ちひさく引ひき結むすびて、

面影おもかげは身みをも離はなれず山やま桜ざくら心こころの限かぎりとめて来きしかど

 夜よの間まの風かぜもうしろめたくなむ。

 とあり。御手おほんてなどはさるものにて、ただはかなうおし包つつみたまへるさまも、さだすぎたる御目おほんめどもには、目めもあやにこのましう見みゆ。あなかたはらいたや。いかが聞きこえん、とおぼしわづらふ。

「ゆくての御おほんことはなほざりにも思おもひたまへなされしを、ふりはへさせたまへるに、聞きこえさせむかたなくなむ。まだ難波なには津づをだにはかばかしう続つづけはべらざめれば、かひなくなむ。さても、

嵐あらし吹ふく尾をの上への桜さくら散ちらぬ間まを心こころとめけるほどのはかなさ

いとどうしろめたう」

 とあり。僧そう都づの御おほん返かへりも同おなじさまなれば、口くち惜をしくて、二に、三日さんにちありて、惟光これみつをぞたてまつれたまふ。

「少せう納な言ごんの乳母めのとと言いふ人ひとあべし。尋たづねて詳くはしう語かたらへ」

 などのたまひ知しらす。さもかからぬ隈くまなき御心みこころかな。さばかりいはけなげなりしけはひをと、まほならねども見みしほどを思おもひやるもをかし。

 わざとかう御おほん文ふみあるを、僧そう都づもかしこまり聞きこえたまふ。少せう納な言ごんに消息せうそこして会あひたり。詳くはしくおぼしのたまふさま、大方おほかたの御おほんありさまなど語かたる。言こと葉ば多おほかる人ひとにて、つきづきしう言いひ続つづくれど、いとわりなき御おほんほどを、いかにおぼすにか、とゆゆしうなむ誰たれも誰たれもおぼしける。御おほん文ふみにもいとねむごろに書ふみいたまひて、例れいの、中なかに、

「かの御おほん放はなち書かきなむ、なほ見みたまへまほしき」

 とて、

あさか山やま浅あさくも人ひとを思おもはぬになど山やまの井ゐのかけ離はなるらむ

 御おほん返かへし、

汲くみ初はじめてくやしと聞ききし山やまの井ゐの浅あさきながらや影かげを見みるべき

 惟光これみつも同おなじことを聞きこゆ。

「このわづらひたまふことよろしくは、このごろ過すぐして、京きゃうの殿とのに渡わたりたまひてなむ、聞きこえさすべき」

 とあるを、心こころもとなうおぼす。

藤壺との密会・懐妊|藤壺の宮、悩みたまふことありて

 藤壺ふぢつぼの宮みや、悩なやみたまふことありて、まかでたまへり。上うへのおぼつかながり嘆なげききこえたまふ御み気け色しきも、いといとほしう見みたてまつりながら、かかる折をだに、と心こころもあくがれ惑まどひて、何処いづこにも何処いづこにも参まうでたまはず、内裏うちにても里さとにても、昼ひるはつれづれとながめ暮くれらして、暮くるれば、王命婦わうみゃうぶを責せめ歩ありきたまふ。いかがたばかりけむ、いとわりなくて見みたてまつるほどさへ現うつつとはおぼえぬぞわびしきや。

 宮みやもあさましかりしをおぼし出いづるだに、世よとともの御おほんもの思おもひなるを、さてだにやみなむ、と深ふかうおぼしたるに、いと憂うくて、いみじき御み気け色しきなるものから、なつかしうらうたげに、さりとてうちとけず心こころ深ふかう恥はづかしげなる御おほんもてなしなどのなほ人ひとに似にさせたまはぬを、などかなのめなることだにうち交まじりたまはざりけむ、とつらうさへぞおぼさるる。何事なにごとをか聞きこえ尽つくしたまはむ、くらぶの山やまに宿やどりも取とらまほしげなれど、あやにくなる短みじか夜よにて、あさましうなかなかなり。

見みてもまた逢あふ夜よまれなる夢ゆめのうちにやがて紛まぎるる我わが身みともがな

 と、むせかへりたまふさまも、さすがにいみじければ、

世よ語かたりに人ひとや伝つたへむたぐひなく憂うき身みを覚さめぬ夢ゆめになしても

 おぼし乱みだれたるさまもいとことわりにかたじけなし。命婦みゃうぶの君きみぞ御直衣おほんなほしなどは、かき集あつめ持もて来きたる。

 殿とのにおはして、泣なき寝ねに臥ふし暮くれらしたまひつ。御おほん文ふみなども例れいの御ご覧らんじ入いれぬよしのみあれば、常つねのことながらも、つらういみじうおぼしほれて、内裏うちへも参まゐらで二に、三日さんにち籠こもりおはすれば、またいかなるにかと御心みこころ動うごかせたまふべかめるも、恐おそろしうのみおぼえたまふ。

 宮みやも、なほいと心憂こころうき身みなりけり、とおぼし嘆なげくに、悩なやましさもまさりたまひて、とく参まゐりたまふべき御おほん使つかひしきれど、おぼしも立たず。まことに御み心ここ地ち、例れいのやうにもおはしまさぬは、いかなるにか、と人ひと知しれずおぼすこともありければ、心憂こころうくいかならむとのみおぼし乱みだる。暑あつきほどはいとど起おきも上あがりたまはず。三月やよひになりたまへば、いとしるきほどにて、人ひと々見みたてまつりとがむるに、あさましき御み宿すく世せのほど心憂こころうし。人ひとは思おもひ寄よらぬことなれば、この月つきまで奏そうせさせたまはざりける事こと、と驚おどろききこゆ。我わが御心みこころ一ひとつには、しるうおぼし分わく事こともありけり。

 御お湯ゆ殿どのなどにも親おやしう仕つかうまつりて、何事なにごとの御み気け色しきをもしるく見みたてまつり知しれる御おほん乳母めのと子ごの弁べん、命婦みゃうぶなどぞあやしと思おもへど、かたみに言いひ合あはすべきにあらねば、なほ逃のがれがたかりける御み宿すく世せをぞ命婦みゃうぶはあさましと思おもふ。内裏うちには、御おほん物ものの怪けの紛まぎれにてとみに気け色しきなうおはしましけるやうにぞ奏そうしけむかし。見みる人ひともさのみ思おもひけり。いとどあはれに限かぎりなうおぼされて、御おほん使つかひなどのひまなきも空そら恐おそろしう、ものをおぼす事ことひまなし。

 中ちう将じゃうの君きみもおどろおどろしうさま異ことなる夢ゆめを見みたまひて、合あはする者ものを召めして問とはせたまへば、及およびなうおぼしもかけぬ筋すぢのことを合あはせけり。

「その中なかに違たがひ目めありてつつしませたまふべきことなむはべる」

 と言いふに、わづらはしくおぼえて、

「みづからの夢ゆめにはあらず。人ひとの御おほん事ことを語かたるなり。この夢ゆめ合あふまでまた人ひとにまねぶな」

 とのたまひて、心こころのうちにはいかなる事ことならむとおぼしわたるに、この女をんな宮みやの御おほん事こと聞ききたまひて、もしさるやうもやとおぼし合あはせたまふに、いとどしくいみじき言ことの葉は尽つくしきこえたまへど、命婦みゃうぶも思おもふに、いとむくつけうわづらはしさまさりて、さらにたばかるべき方かたなし。はかなき一ひとくだりの御おほん返かへりのたまさかなりしも絶たえ果はてにたり。

藤壺の宮中復帰|七月になりてぞ参りたまひける

 七月ふづきになりてぞ参まゐりたまひける。めづらしうあはれにて、いとどしき御おほん思おもひのほど限かぎりなし。すこしふくらかになりたまひて、うちなやみ面おも痩やせたまへるはた、げに似にるものなくめでたし。例れいの、明あけ暮くれこなたにのみおはしまして、御おほん遊あそびもやうやうをかしき空そらなれば、源げん氏じの君きみも暇いとまなく召めしまつはしつつ、御おほん琴こと、笛ふえなどさまざまに仕つかうまつらせたまふ。いみじうつつみたまへど、忍しのびがたき気け色しきの漏もり出いづる折を々、宮みやもさすがなる事ことどもを多おほくおぼし続つづけけり。

尼君の死・若紫への再訪|かの山寺の人はよろしくなりて

 かの山寺やまでらの人ひとはよろしくなりて出いでたまひにけり。京きゃうの御住おほんすみか尋たづねて、時とき々の御おほん消息せうそこなどあり。同おなじさまにのみあるもことわりなるうちに、この月つきごろはありしにまさる物思ものおもひに、ことごとなくて過すぎゆく。

 秋あきの末すゑつ方かた、いともの心こころ細ぼそくて嘆なげきたまふ。月つきのをかしき夜よ、忍しのびたる所ところにからうして思おもひ立たちたまへるを、時雨しぐれめいてうちそそく。おはする所ところは六条ろくでう京きゃう極ごくわたりにて、内裏うちよりなれば、すこしほど遠とほき心ここ地ちするに、荒あれたる家いへの木こ立だちいともの古ふるりて木こ暗ぐらく見みえたるあり。例れいの御おほん供ともに離はなれぬ惟光これみつなむ、

「故こ按察あぜちの大だい納な言ごんの家いへにはべりて、もののたよりにとぶらひてはべりしかば、かの尼上あまうへいたう弱よわりたまひにたれば何事なにごともおぼえず、となむ申まうしてはべりし」

 と聞きこゆれば、

「あはれの事ことや。とぶらふべかりけるを。などかさなむとものせざりし。入いりて消息せうそこせよ」

 とのたまへば、人ひと入いれて案内あないせさす。わざとかう立たち寄よりたまへる事ことと言いはせたれば、入いりて、

「かく御おほんとぶらひになむおはしましたる」

 と言いふに、おどろきて、

「いとかたはらいたき事ことかな。この日ひごろ、むげにいと頼たのもしげなくならせたまひにたれば、御おほん対面たいめんなどもあるまじ」

 と言いへども、帰かへしたてまつらむはかしこし、とて南みなみの廂ひさしひきつくろひて入いれたてまつる。

「いとむつかしげにはべれど、かしこまりをだにとて。ゆくりなう、もの深ふかき御座所おましどころになむ」

 と聞きこゆ。げにかかる所ところは例れいに違たがひておぼさる。

「常つねに思おもひたまへ立たちながら、かひなきさまにのみもてなさせたまふにつつまれはべりてなむ。悩なやませたまふこと重おもく、ともうけたまはらざりけるおぼつかなさ」

 など聞きこえたまふ。

「乱みだり心ごこ地ちはいつともなくのみはべるが、限かぎりのさまになりはべりて、いとかたじけなく立たち寄よらせたまへるに、みづから聞きこえさせぬこと。のたまはすることの筋すぢたまさかにもおぼし召めし変かははらぬやうはべらば、かくわりなき齢よはひ過すぎはべりて、かならず数かずまへさせたまへ。いみじう心こころ細ぼそげに見みたまへおくなん、願ねがひはべる道みちのほだしに思おもひたまへられぬべき」

 など聞きこえたまへり。

 いと近ちかければ、心こころ細ぼそげなる御おほん声こゑ絶たえ絶たえ聞きこえて、

「いとかたじけなきわざにもはべるかな。この君きみだにかしこまりも聞きこえたまつべきほどならましかば」

 とのたまふ。あはれに聞ききたまひて、

「何なにか、浅あさう思おもひたまへむ事ことゆゑ、かう好このき好このきしきさまを見みえたてまつらむ。いかなる契ちぎりにか、見みたてまつりそめしよりあはれに思おもひきこゆるも、あやしきまでこの世よの事ことにはおぼえはべらぬ」

 などのたまひて、

「かひなき心ここ地ちのみしはべるを、かのいはけなうものしたまふ御おほん一声ひとこゑいかで」

 とのたまへば、

「いでや、よろづおぼし知しらぬさまに大殿おほとの籠ごもり入いりて」

 など聞きこゆる折をしも、あなたより来くる音おとして、

「上うへこそ、この寺てらにありし源げん氏じの君きみこそおはしたなれ。など見みたまはぬ」

 とのたまふを、人ひと々、いとかたはらいたしと思おもひて、

「あなかま」

 と聞きこゆ。

「いさ、見みしかば心ここ地ちの悪あしさ慰なぐさみきとのたまひしかばぞかし」

 と、かしこきこと聞きこえたり、とおぼしてのたまふ。いとをかしと聞きいたまへど、人ひと々の苦くるしと思おもひたれば聞きかぬやうにて、まめやかなる御おほんとぶらひを聞きこえおきたまひて帰かへりたまひぬ。げに言いふかひなのけはひや、さりともいとよう教をしへてむ、とおぼす。

 またの日ひも、いとまめやかにとぶらひきこえたまふ。例れいの小ちひさくて、

いはけなき鶴つるの一声ひとこゑ聞ききしより葦あし間まになづむ舟ふねぞえならぬ

「同おなじ人ひとにや」

 と、ことさら幼をさなく書かきなしたまへるも、いみじうをかしげなれば、

「やがて御手おほんて本もとに」

 と人ひと々聞きこゆ。少せう納な言ごんぞきこえたる。

「問とはせたまへるは、今日けふをも過すぐしがたげなるさまにて、山寺やまでらにまかりわたるほどにて。かう問とはせたまへるかしこまりは、この世よならでも聞きこえさせむ」

 とあり。いとあはれとおぼす。

 秋あきの夕ゆふべはまして心こころのいとまなく、おぼし乱みだるる人ひとの御おほんあたりに心こころをかけて、あながちなる、ゆかりも尋たづねまほしき心こころもまさりたまふなるべし。「消きえむ空そらなき」とありし夕ゆふべおぼし出いでられて、恋こひしくも、また見みば劣おとりやせむ、とさすがにあやふし。

手てに摘つみていつしかも見みむ紫むらさきの根ねにかよひける野の辺べの若草わかくさ

 十月かんなづきに朱す雀ざく院ゐんの行ぎゃう幸がうあるべし。舞人まひびとなどやむごとなき家いへの子こども、上達部かむだちめ、殿てん上じゃう人びとどもなども、その方かたにつきづきしきはみな選えららせたまへれば、親王みこ達たち、大臣だいじんよりはじめてとりどりの才ざえども習ならひたまふ、いとまなし。

 山やま里人さとびとにも久ひさしく訪おとづれたまはざりけるをおぼし出いでて、ふりはへ遣つかはしたりければ、僧そう都づの返かへり事ことのみあり。

「立たちぬる月つきの廿はつ日かのほどになむつひにむなしく見みたまへなして、世よ間まの道理ことわりなれど、悲かなしび思おもひたまふる」

 などあるを見みたまふに、世よの中なかのはかなさもあはれに、うしろめたげに思おもへりし人ひともいかならむ。幼をさなきほどに恋こひやすらむ。故御息所こみやすんどころに後おくれたてまつりしなど、はかばかしからねど思おもひ出いでて、浅あさからずとぶらひたまへり。少せう納な言ごん、ゆゑなからず御おほん返かへりなど聞きこえたり。

 忌いみなど過すぎて京きゃうの殿とのに、など聞ききたまへば、ほど経へてみづからのどかなる夜よおはしたり。いとすごげに荒あれたる所ところの、人ひと少ずくななるに、いかに幼をさなき人ひと恐おそろしからむと見みゆ。例れいの所ところに入いれたてまつりて、少せう納な言ごん、御おほんありさまなどうち泣なきつつ聞きこえ続つづくるに、あいなう御おほん袖そでもただならず。

「宮みやに渡わたしたてまつらむとはべめるを、故こ姫君ひめぎみのいと情なさけなく憂うきものに思おもひきこえたまへりしに、いとむげに児ちごならぬ齢よはひの、またはかばかしう人ひとのおもむけをも見み知しりたまはず、なかぞらなる御おほんほどにて、あまたものしたまふなる中なかの、あなづらはしき人ひとにてや交まじりたまはん、など過すぎたまひぬるも世よとともにおぼし嘆なげきつること。しるきこと多おほくはべるに、かくかたじけなきなげの御おほん言ことの葉は、のちの御心みこころもたどりきこえさせず、いとうれしう思おもひたまへられぬべき折節をりふしにはべりながら、すこしもなぞらひなるさまにもものしたまはず、御おほん年としよりも若わかびてならひたまへれば、いとかたはらいたくはべる」

 と聞きこゆ。

「何なにか、かう繰くり返かへし聞きこえ知しらする心こころのほどをつつみたまふらむ。その言いふかひなき御心みこころのありさまの、あはれにゆかしうおぼえたまふも、契ちぎりことになむ心こころながら思おもひ知しられける。なほ人ひと伝づてならで聞きこえ知しらせばや。

あしわかの浦うらにみるめはかたくともこは立たちながらかへる波なみかは

めざましからむ」

 とのたまへば、

「げにこそ、いとかしこけれ」

 とて、

寄よる波なみの心こころも知しらでわかの浦うらに玉たま藻もなびかむほどぞ浮うきたる

「わりなきこと」

 と聞きこゆるさまの馴なれたるに、すこし罪つみゆるされたまふ。

「なぞ越こえざらん」

 とうち誦ずじたまへるを、身みにしみて若わかき人ひと々思おもへり。

 君きみは、上うへを恋こひきこえたまひて泣なき臥ふしたまへるに、御おほん遊あそびがたきどもの、

「直なほ衣し着きたる人ひとのおはする、宮みやのおはしますなめり」

 と聞きこゆれば、起おき出いでたまひて、

「少せう納な言ごんよ。直なほ衣し着きたりつらむは、いづら。宮みやのおはするか」

 とて寄よりおはしたる御おほん声こゑ、いとらうたし。

「宮みやにはあらねど、またおぼし放はなつべうもあらず。こち」

 とのたまふを、恥はづかしかりし人ひととさすがに聞ききなして、悪あしう言いひてけり、とおぼして、乳母めのとにさし寄よりて、

「いざかし、ねぶたきに」

 とのたまへば、

「今いまさらに、など忍しのびたまふらむ。この膝ひざの上うへに大殿おほとの籠ごもれよ。今いますこし寄よりたまへ」

 とのたまへば、乳母めのとの、

「さればこそ。かう世よづかぬ御おほんほどにてなむ」

 とて押おし寄よせたてまつりたれば、何なに心ごころもなくゐたまへるに、手てをさし入いれて探さぐりたまへれば、なよらかなる御衣おほんぞに髪かみはつやつやとかかりて、末すゑのふさやかに探さぐりつけられたる、いとうつくしう思おもひやらる。手てをとらへたまへれば、うたて例れいならぬ人ひとのかく近ちかづきたまへるは恐おそろしうて、

「寝ねなむと言いふものを」

 と強しひて引ひき入いりたまふにつきてすべり入いりて、

「今いまは、まろぞ思おもふべき人ひと。な疎うとみたまひそ」

 とのたまふ。乳母めのと、

「いで、あなうたてや。ゆゆしうもはべるかな。聞きこえさせ知しらせたまふとも、さらに何なにのしるしもはべらじものを」

 とて苦くるしげに思おもひたれば、

「さりとも、かかる御おほんほどをいかがはあらん。なほただ世よに知しらぬ心こころざしのほどを見み果はてたまへ」

 とのたまふ。

 霰あられ降ふり荒あれてすごき夜よのさまなり。

「いかで、かう人ひと少ずくなに心こころ細ぼそうて、過すぐしたまふらむ」

 と、うち泣ないたまひて、いと見み棄すてがたきほどなれば、

「御み格かう子し参まゐりね。もの恐おそろしき夜よのさまなめるを、宿直とのゐ人びとにてはべらむ。人ひと々、近ちかうさぶらはれよかし」

 とて、いと馴なれ顔かほに御帳みちゃうの内うちに入いりたまへば、あやしう思おもひのほかにも、とあきれて誰たれも誰たれもゐたり。乳母めのとは、うしろめたなうわりなし、と思おもへど、荒あましう聞きこえ騒さわぐべきならねば、うち嘆なげきつつゐたり。若君わかぎみは、いと恐おそろしう、いかならむとわななかれて、いとうつくしき御おほん肌はだつきもそぞろ寒さむげにおぼしたるを、らうたくおぼえて、単衣ひとへばかりを押おしくくみて、わが御み心ここ地ちもかつはうたておぼえたまへど、あはれにうち語かたらひたまひて、

「いざ、たまへよ。をかしき絵ゑなど多おほく、雛ひひな遊あそびなどする所ところに」

 と、心こころにつくべきことをのたまふけはひのいとなつかしきを、幼をさなき心ここ地ちにもいといたう怖おぢず、さすがにむつかしう寝ねも入いらずおぼえて身みじろき臥ふしたまへり。

 夜よ一ひと夜よ、風かぜ吹ふき荒あるるに、

「げに、かうおはせざらましかば、いかに心こころ細ぼそからまし」

「同おなじくはよろしきほどにおはしまさましかば」

 とささめきあへり。乳母めのとはうしろめたさにいと近ちかうさぶらふ。風かぜすこし吹ふきやみたるに、夜よ深ぶかう出いでたまふもことあり顔かほなりや。

「いとあはれに見みたてまつる御おほんありさまを、今いまはまして片時かたときの間まもおぼつかなかるべし。明あけ暮くれ眺ながめはべる所ところに渡わたしたてまつらむ。かくてのみはいかが。もの怖おぢしたまはざりけり」

 とのたまへば、

「宮みやも御おほん迎むかへになど聞きこえのたまふめれど、この御おほん四十九日なななぬか過すぐしてや、など思おもうたまふる」

 と聞きこゆれば、

「頼たのもしき筋すぢながらも、よそよそにてならひたまへるは、同おなじうこそ疎うとうおぼえたまはめ。今いまより見みたてまつれど、浅あさからぬ心こころざしはまさりぬべくなむ」

 とて、かい撫なでつつ返かへり見みがちにて出いでたまひぬ。

 いみじう霧きりりわたれる空そらもただならぬに、霜しもはいと白しろうおきて、まことの懸け想さうもをかしかりぬべきに、さうざうしう思おもひおはす。いと忍しのびて通かよひたまふ所ところの道みちなりけるをおぼし出いでて、門かどうちたたかせたまへど、聞ききつくる人ひとなし。かひなくて、御おほん供ともに声こゑある人ひとしてうたはせたまふ。

朝あさぼらけ霧きり立たつ空そらのまよひにも行ゆき過すぎがたき妹いもが門かどかな

 と、二に返かへりばかりうたひたるに、よしある下仕しもづかひを出いだして、

立たちとまり霧きりのまがきの過すぎうくは草くさのとざしにさはりしもせじ

 と言いひかけて、入いりぬ。また人ひとも出いで来こねば、帰かへるも情なさけなけれど、明あけゆく空そらもはしたなくて殿とのへおはしぬ。

 をかしかりつる人ひとのなごり恋こひしく、独ひとり笑ゑみしつつ臥ふしたまへり。日ひ高たかう大殿おほとの籠ごもり起おきて、文ふみやりたまふに、書かくべき言こと葉ばも例れいならねば、筆ふでうちおきつつすさびゐたまへり。をかしき絵ゑなどをやりたまふ。

 かしこには、今日けふしも宮みやわたりたまへり。年としごろよりもこよなう荒あれまさり、広ひろうもの古ふるりたる所ところの、いとど人ひと少ずくなに久ひさしければ、見みわたしたまひて、

「かかる所ところにはいかでかしばしも幼をさなき人ひとの過すぐしたまはむ。なほかしこに渡わたしたてまつりてむ。何なにの所狭ところせきほどにもあらず。乳母めのとは、曹ざう司しなどしてさぶらひなむ。君きみは若わかき人ひと々あればもろともに遊あそびていとようものしたまひなむ」

 などのたまふ。

 近ちかう呼よび寄よせたてまつりたまへるに、かの御おほん移うつり香かをりの、いみじう艶えんに染そみかへらせたまへれば、をかしの御おほん匂にほひや。御衣おほんぞはいと萎なえて、と心こころ苦くるしげに思おもいたり。

「年としごろもあづしくさだ過すぎたまへる人ひとに添そひたまへるよ、かしこにわたりて見みならしたまへなど、ものせしを、あやしう疎うとみたまひて、人ひとも心こころ置おくめりしを、かかる折をにしもものしたまはむも、心こころ苦くるしう」

 などのたまへば、

「何なにかは。心こころ細ぼそくとも、しばしはかくておはしましなむ。すこしものの心こころ思おぼし知しりなむにわたらせたまはむこそ、よくははべるべけれ」

 と聞きこゆ。

「夜昼よるひる恋こひきこえたまふに、はかなきものもきこしめさず」

 とて、げにいといたう面おも痩やせたまへれど、いとあてにうつくしくなかなか見みえたまふ。

「何なにか、さしもおぼす。今いまは世よに亡なき人ひとの御おほん事ことはかひなし。おのれあれば」

 など語かたらひきこえたまひて、暮くるれば帰かへらせたまふを、いと心こころ細ぼそしとおぼいて泣ないたまへば、宮みやうち泣なきたまひて、

「いとかう思おもひな入いりたまひそ。今日けふ明日あす、渡わたしたてまつらむ」

 など、返かへす返かへすこしらへおきて出いでたまひぬ。なごりも慰なぐさめがたう泣なきゐたまへり。

 行ゆく先さきの身みのあらむ事ことなどまでもおぼし知しらず、ただ年としごろ立たち離はなるる折をなうまつはしならひて、今いまは亡なき人ひととなりたまひにける、とおぼすがいみじきに、幼をさなき御み心ここ地ちなれど、胸むねつとふたがりて、例れいのやうにも遊あそびたまはず、昼ひるはさても紛まぎらはしたまふを、夕暮ゆふぐれとなればいみじく屈くしたまへば、かくてはいかでか過すごしたまはむ、と慰なぐさめわびて乳母めのとも泣なきあへり。

 君きみの御おほんもとよりは惟光これみつをたてまつれたまへり。

「参まゐり来くべきを、内裏うちより召めしあればなむ。心こころ苦くるしう見みたてまつりしも静しづ心こころなく」

 とて、宿直とのゐ人びとたてまつれたまへり。

「あぢきなうもあるかな。戯たはぶれにてももののはじめにこの御おほん事ことよ。宮みや聞きこし召めしつけば、さぶらふ人ひと々のおろかなるにぞさいなまむ。あなかしこ、もののついでにいはけなくうち出いできこえさせたまふな」

 など言いふも、それをば何なにともおぼしたらぬぞあさましきや。

 少せう納な言ごんは惟光これみつにあはれなる物もの語がたりどもして、

「あり経へてのちやさるべき御み宿すく世せ、逃のがれきこえたまはぬやうもあらむ。ただ今いまはかけてもいと似にげなき御おほん事ことと見みたてまつるを、あやしうおぼしのたまはするも、いかなる御心みこころにか、思おもひ寄よる方かたなう乱みだれはべる。今日けふも宮みや渡わたらせたまひて、うしろやすく仕つかうまつれ。心こころ幼をさなくもてなしきこゆなとのたまはせつるも、いとわづらはしう、ただなるよりはかかる御おほん好このき事ことも思おもひ出いでられはべりつる」

 など言いひて、「この人ひとも事ことあり顔かほにや思おもはむ」など、あいなければ、いたう嘆なげかしげにも言いひなさず。大たい夫ふも「いかなることにかあらむ」と、心得こころえがたう思おもふ。

 参まゐりてありさまなど聞きこえければ、あはれにおぼししやらるれど、さて通かよひたまはむもさすがにすずろなる心ここ地ちして、軽かる々しうもてひがめたると人ひともや漏もり聞きかむ、などつつましければ、ただ迎むかへてむ、とおぼす。御おほん文ふみはたびたびたてまつれたまふ。暮くるれば例れいの大たい夫ふをぞたてまつれたまふ。

「障さははる事ことどものありて、え参まゐり来こぬを、おろかにや」

 などあり。

「宮みやより、明日あすにはかに御おほん迎むかへにとのたまはせたりつれば、心こころあわたたしくてなむ。年としごろの蓬生よもぎふを離かれなむもさすがに心こころ細ぼそく、さぶらふ人ひと々も思おもひ乱みだれて」

 と、言少ことずくなに言いひて、をさをさあへしらはず、もの縫ぬひいとなむけはひなどしるければ、参まゐりぬ。

若紫を二条院へ|君は大殿におはしけるに

 君きみは大おほ殿いどのにおはしけるに、例れいの、女をんな君ぎみとみにも対面たいめんしたまはず。ものむつかしくおぼえたまひて、あづまをすが掻かきて、「常陸ひたちには田たをこそ作つくれ」といふ歌うたを、声こゑはいとなまめきてすさびゐたまへり。参まゐりたれば、召めし寄よせてありさま問とひたまふ。しかしかなど聞きこゆれば、口くち惜をしうおぼして、かの宮みやに渡わたりなばわざと迎むかへ出いでむも好このき好このきしかるべし。幼をさなき人ひとを盗ぬすみ出いでたりともどき負おひなむ。そのさきに、しばし人ひとにも口固くちがためて渡わたしてむ、とおぼして、

「暁あかつきかしこにものせむ。車くるまの装束さうぞくさながら随身ずいじん一ひと人り二人ふたり仰おほせおきたれ」

 とのたまふ。うけたまはりて立たちぬ。

 君きみ、いかにせまし、聞きこえありて好このきがましきやうなるべきこと、人ひとのほどだにものを思おもひ知しり、女をんなの心こころかはしける事こととおしはかられぬべくは世よの常つねなり。父宮ちちみやの尋たづね出いでたまへらむもはしたなうすずろなるべきを、とおぼし乱みだるれど、さてはづしてむはいと口くち惜をしかべければ、まだ夜よ深ぶかう出いでたまふ。女をんな君ぎみ、例れいのしぶしぶに心こころもとけずものしたまふ。

「かしこにいとせちに見みるべき事ことのはべるを思おもひたまへ出いでて、立たちかへり参まゐり来きなむ」

 とて出いでたまへば、さぶらふ人ひと々も知しらざりけり。わが御おほん方かたにて、御直衣おほんなほしなどはたてまつる。惟光これみつばかりを馬むまに乗のせておはしぬ。

 門かどうちたたかせたまへば、心こころ知しらぬ者ものの開あけたるに、御車みくるまをやをら引ひき入いれさせて、大たい夫ふ、妻つま戸どを鳴ならしてしはぶけば、少せう納な言ごん聞きき知しりて出いで来きたり。

「ここにおはします」

 と言いへば、

「幼をさなき人ひとは御殿籠おほんとのごもりてなむ。などかいと夜よ深ぶかうは出いでさせたまへる」

 と、もののたよりと思おもひて言いふ。

「宮みやへ渡わたらせたまふべかなるを、そのさきに聞きこえおかむとてなむ」

 とのたまへば、

「何事なにごとにかはべらむ。いかにはかばかしき御おほん答いらへ聞きこえさせたまはむ」

 とて、うち笑ゑひてゐたり。

 君きみ、入いりたまへば、いとかたはらいたく、

「うちとけて、あやしき古人ふるびとどものはべるに」

 と聞きこえさす。

「まだおどろいたまはじな。いで、御おほん目め覚さましきこえむ。かかる朝霧あさぎりを知しらでは寝ねるものか」

 とて入いりたまへば、や、ともえ聞きこえず。君きみは何なに心ごころもなく寝ねたまへるを、抱いだきおどろかしたまふに、おどろきて、宮みやの御おほん迎むかへにおはしたると寝ねおびれておぼしたり。

 御み髪ぐしかき繕つくろひなどしたまひて、

「いざたまへ。宮みやの御おほん使つかひにて参まゐり来きつるぞ」

 とのたまふに、あらざりけり、とあきれて、恐おそろし、と思おもひたれば、

「あな心こころう。まろも同おなじ人ひとぞ」

 とてかき抱いだきて出いでたまへば、大たい夫ふ、少せう納な言ごんなど、

「こはいかに」

 と聞きこゆ。

「ここには、常つねにもえ参まゐらぬがおぼつかなければ、心こころやすき所ところにと聞きこえしを、心憂こころうく渡わたりたまへるなれば、まして聞きこえがたかべければ。人ひと一ひと人り参まゐれられよかし」

 とのたまへば、心こころあわたたしくて、

「今日けふはいと便たよりなくなむはべるべき。宮みやの渡わたらせたまはんにはいかさまにか聞きこえやらん。おのづからほど経へてさるべきにおはしまさば、ともかうもはべりなむを、いと思おもひやりなきほどのことにはべれば、さぶらふ人ひと々苦くるしうはべるべし」

 と聞きこゆれば、

「よし、のちにも人ひとは参まゐりなむ」

 とて御車みくるま寄よせさせたまへば、あさましう、いかさまに、と思おもひあへり。若君わかぎみもあやしとおぼして泣ないたまふ。少せう納な言ごん、とどめきこえむ方かたなければ、よべ縫ぬひし御衣おほんぞども引ひきさげて自みづからもよろしき衣きぬ着き替がへて乗のりぬ。

 二条院にでうのゐんは近ちかければ、まだ明あかかうもならぬほどにおはして、西にしの対たいに御車みくるま寄よせて下くだりたまふ。若君わかぎみをばいと軽かろらかにかき抱いだきて下おろしたまふ。少せう納な言ごん、

「なほいと夢ゆめの心ここ地ちしはべるを、いかにしはべるべき事ことにか」

 とやすらへば、

「そは心こころななり。御おほん自みづから渡わたしたてまつりつれば、帰かへりなむとあらば送おくりせむかし」

 とのたまふに、笑ゑひて下くだりぬ。にはかに、あさましう、胸むねも静しづかならず。宮みやのおぼしのたまはむこと、いかになり果はてたまふべき御おほんありさまにか、とてもかくても頼たのもしき人ひと々におくれたまへるがいみじさ、と思おもふに涙なみだの止とまらぬを、さすがにゆゆしければ念ねんじゐたり。

 こなたは住すみたまはぬ対たいなれば、御帳みちゃうなどもなかりけり。惟光これみつ召めして、御帳みちゃう、御み屏風びゃうぶなどあたりあたり仕つか立たてさせたまふ。御み几帳きちゃうの帷子かたびら引ひき下おろし、御お座ましなどただひき繕つくろふばかりにてあれば、東ひんがしの対たいに御宿直物おほんとのゐもの召めしに遣つかはして、大殿おほとの籠ごもりぬ。若君わかぎみはいとむくつけく、いかにする事ことならむ、とふるはれたまへど、さすがに声こゑ立たててもえ泣なきたまはず。

「少せう納な言ごんがもとに寝ねむ」

 とのたまふ声こゑ、いと若わかし。

「今いまはさは大殿おほとの籠ごもるまじきぞよ」

 と教をしへきこえたまへば、いとわびしくて泣なき臥ふしたまへり。乳母めのとはうちも臥ふされず、ものもおぼえず起おきゐたり。

 明あけゆくままに見みわたせば、御殿おとどの造つくりざま、しつらひざまさらにも言いはず、庭にはの砂すな子ごも玉たまを重かさねたらむやうに見みえて、かかやく心ここ地ちするに、はしたなく思おもひゐたれど、こなたには女をんななどもさぶらはざりけり。け疎うとき客人まらうとなどの参まゐる折節をりふしの方かたなりければ、男をどもぞ御み簾すの外とにありける、かく人ひと迎むかへたまへりと聞きく人ひと、

「たれならむ。おぼろけにはあらじ」

 とささめく。御み手水てうづ、御おほん粥かゆなど、こなたに参まゐる。日ひ高たかう寝ね起おきたまひて、

「人ひとなくて悪あしかめるを、さるべき人ひと々、夕ゆふづけてこそは迎むかへさせたまはめ」

 とのたまひて、対たいに童女わらはべ召めしにつかはす。

「小ちひさき限かぎり、ことさらに参まゐれ」

 とありければ、いとをかしげにて四人よたり参まゐりたり。君きみは御衣おほんぞにまとはれて臥ふしたまへるを、せめて起おこして、

「かう心こころうくなおはせそ。すずろなる人ひとはかうはありなむや。女をんなは心こころ柔やはらかなるなむよき」

 など今いまより教をしへきこえたまふ。御おほんかたちはさし離はなれて見みしよりもきよらにて、なつかしううち語かたらひつつ、をかしき絵ゑ、遊あそびものども取とりに遣つかはして、見みせたてまつり、御心みこころにつくことどもをしたまふ。やうやう起おきゐて見みたまふに、鈍色にびいろのこまやかなるがうち萎なえたるどもを着きて、何なに心ごころなくうち笑ゑみなどしてゐたまへるがいとうつくしきに、我われもうち笑ゑまれて見みたまふ。

 東ひんがしの対たいに渡わたりたまへるに、立たち出いでて、庭にはの木こ立だち、池いけの方かたなどのぞきたまへば、霜しも枯がれの前栽せんざい、絵ゑに描かけるやうにおもしろくて、見みも知しらぬ四し位ゐ、五ご位ゐこきまぜに、隙ひまなう出いで入いりつつ、げにをかしき所ところかな、とおぼす。御み屏風びゃうぶどもなどいとをかしき絵ゑを見みつつ、慰なぐさめておはするもはかなしや。

 君きみは、二に、三日さんにち、内裏うちへも参まゐりたまはで、この人ひとをなつけ語かたらひきこえたまふ。やがて本もとにとおぼすにや、手て習なら、絵ゑなどさまざまに書かきつつ、見みせたてまつりたまふ。いみじうをかしげに書かき集あつめたまへり。

「武蔵むさし野のと言いへばかこたれぬ」

 と、紫むらさきの紙かみに書ふみいたまへる墨すみつきの、いとことなるを取とりて見みゐたまへり。すこし小ちひさくて、

ねは見みねどあはれとぞ思おもふ武蔵むさし野の露つゆ分わけわぶる草くさのゆかりを

 とあり。

「いで、君きみも書ふみいたまへ」

 とあれば、

「まだ、ようは書かかず」

 とて見み上あげたまへるが、何なに心ごころなくうつくしげなれば、うちほほ笑ゑみて、

「よからねど、むげに書かかぬこそ悪わろけれ。教をしへきこえむかし」

 とのたまへば、うちそばみて書ふみいたまふ手てつき、筆ふでとりたまへるさまの幼をさなげなるも、らうたうのみおぼゆれば、心こころながらあやしと思おぼす。

「書かきそこなひつ」

 と恥はぢて隠かくしたまふを、せめて見みたまへば、

かこつべきゆゑを知しらねばおぼつかないかなる草くさのゆかりなるらん

 と、いと若わかけれど生おひ先さき見みえて、ふくよかに書ふみいたまへり。故こ尼君あまぎみのにぞ似にたりける。今いまめかしき手て本もと習ならはば、いとよう書ふみいたまひてむ、と見みたまふ。雛ひひななどわざと屋やども作つくり続つづけて、もろともに遊あそびつつ、こよなきもの思おもひの紛まぎらはしなり。

 かのとまりにし人ひと々、宮みや渡わたりたまひて尋たづねきこえたまひけるに、聞きこえやる方かたなくてぞわびあへりける。

「しばし人ひとに知しらせじ」

 と君きみものたまふ、少せう納な言ごんも思おもふ事ことなれば、せちに口固くちがためやりたり。ただ、

「ゆくへも知しらず、少せう納な言ごんが率ゐて隠かくしきこえたる」

 とのみ聞きこえさするに、宮みやも言いふかひなうおぼして、故こ尼君あまぎみもかしこに渡わたりたまはむことをいとものしとおぼしたりし事ことなれば、乳母めのとのいとさし過すぐしたる心こころばせのあまり、おいらかに渡わたさむを便たよりなしなどは言いはで、心こころにまかせ率ゐてはふらかしつるなめり、と泣なく泣なく帰かへりたまひぬ。

「もし聞きき出いでたてまつらば、告つげよ」

 とのたまふもわづらはしく、僧そう都づの御おほんもとにも尋たづねきこえたまへど、あとはかなくて、あたらしかりし御おほんかたちなど恋こひしく悲かなしとおぼす。北きたの方かたも、母君ははぎみを憎にくしと思おもひきこえたまひける心こころも失うせて、わが心こころにまかせつべうおぼしけるに違たがひぬるは口くち惜をしうおぼしけり。

 やうやう人ひと参まゐり集あつまりぬ。御おほん遊あそびがたきの童女わらはべ、児ちごども、いとめづらかに今いまめかしき御おほんありさまどもなれば、思おもふことなくて遊あそびあへり。君きみは、男をとこ君ぎみのおはせずなどしてさうざうしき夕ゆふ暮ぐれなどばかりぞ尼君あまぎみを恋こひきこえたまひて、うち泣なきなどしたまへど、宮みやをばことに思おもひ出いできこえたまはず。もとより見みならひきこえたまはでならひたまへれば、今いまはただこの後のちの親おやを、いみじうむつびまつはしきこえたまふ。ものよりおはすればまづ出いでむかひて、あはれにうち語かたらひ、御おほん懐ふところに入いりゐて、いささか疎うとく恥はづかしとも思おもひたらず。さる方かたにいみじうらうたきわざなりけり。

 さかしら心こころあり、何なにくれとむつかしき筋すぢになりぬれば、わが心ここ地ちもすこし違たがふふしも出いで来くやと心こころおかれ、人ひとも恨うらみがちに、思おもひのほかの事こと、おのづから出いで来くるを、いとをかしきもてあそびなり。むすめなどはた、かばかりになれば、心こころやすくうちふるまひ、隔へだてなきさまに臥ふし起おきなどは、えしもすまじきを、これはいとさま変かははりたるかしづき種ぐさくさなりと、思おもほいためり。

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