発心集「市正時光と茂光」現代語訳・原文・語釈

目次

発心集「市正時光と茂光」原文・語釈・現代語訳

中ごろ、市正時光といふ笙吹きありけり

原文

 中ごろ、市正いちのかみ時光ときみつといふしやう吹きありけり。茂光もちみつといふ篳篥ひちりき囲碁ゐごを打ちて、同じ声に裹頭楽くわとうらく唱歌しやうがにしけるが、おもしろく覚えけるほどに、内裏うちよりとみのことにて、時光ときみつを召しけり。

語釈

  • 中ごろ:あまり遠くない昔。
  • 市正いちのかみ時光ときみつ:豊原時光。生没年未詳。豊原氏は笙を主業として、代々朝廷に仕える京方楽人の家系。市正は、京都の市をつかさどる市司いちのつかさの長官のこと。
  • 茂光もちみつ和邇部わにべの茂光もちみつ(用光とも)。生没年未詳。篳篥の名人として知られていた。
  • 裹頭楽くわとうらく:雅楽の曲名。
  • 唱歌しやうが:楽曲の旋律を口で歌うこと。
  • とみのこと:急用。

現代語訳

 少し前に、市正いちのかみ時光ときみつという笙吹きがいた。茂光もちみつという篳篥ひちりきと囲碁を打ちながら、同時に声で『裹頭楽くわとうらく』の曲を歌っていたが、音楽に乗ってきたとき、内裏から急用とのことで、時光をお召しになった。

御使至りて、この由を言ふに

原文

 御使至りて、このよしを言ふに、いかにも、耳にも聞き入れず。ただもろともにゆるぎあひて、ともかくも申さざりければ、御使帰り参りて、このよしをありのままにぞ申す。

 いかなる御いましめかあらんと思ふほどに、

語釈

  • よし:旨。
  • もろともに:そろって。一緒に。
  • ゆるぐ:(音楽の乗って)体を揺らす。
  • いましめ:注意。処罰。とがめること。
  • とみのこと:急用。

現代語訳

 御使いが来て、この旨を言うも、どんなに声を張っても、耳にも入らない。ただ二人して体を揺らしあって、何も返事をしなかったので、御使いは内裏に帰参して、この旨をありのままに申し上げた。

 どんな御注意があるだろうかと思っていると、

いとあはれなる者どもかな

原文

「いとあはれなる者どもかな。さほどにがくにめでて、何事も忘るるばかり思ふらんこそ、いとやんごとなけれ。王位はくちしきものなりけり。行きてもえ聞かぬこと」

 とて涙ぐみたまへりければ、思ひのほかになんありける。

 これらを思へば、この世のこと思ひ捨てんことも、数寄すきはことにたよりとなりぬべし。

語釈

  • あはれ:尊い。すぐれている。
  • 思ひ捨つ:見捨てる。見放す。
  • 数寄すき:和歌や音楽の道をたしなむこと。

現代語訳

「なんて尊い者たちなのだ。それほどまでに音楽を愛し、何事も忘れるほど思いを入れるのは、たいそう素晴らしいことではないか。王位とは残念なものである。こちらから行って聞くことができないなんて」

 と言って涙ぐんでいらっしゃったのだから、思いもよらないこともあるものだ。

 これらのことを思えば、この世の俗事への思いを捨てることにも、音楽の道に没頭することは特別なよりどころとなるだろう。

発心集「市正時光と茂光」原文全文

 中ごろ、市正いちのかみ時光ときみつといふしやう吹きありけり。茂光もちみつといふ篳篥ひちりき囲碁ゐごを打ちて、同じ声に裹頭楽くわとうらく唱歌しやうがにしけるが、おもしろく覚えけるほどに、内裏うちよりとみのことにて、時光ときみつを召しけり。

 御使至りて、このよしを言ふに、いかにも、耳にも聞き入れず。ただもろともにゆるぎあひて、ともかくも申さざりければ、御使帰り参りて、このよしをありのままにぞ申す。

 いかなる御いましめかあらんと思ふほどに、

「いとあはれなる者どもかな。さほどにがくにめでて、何事も忘るるばかり思ふらんこそ、いとやんごとなけれ。王位はくちしきものなりけり。行きてもえ聞かぬこと」

 とて涙ぐみたまへりければ、思ひのほかになんありける。

 これらを思へば、この世のこと思ひ捨てんことも、数寄すきはことにたよりとなりぬべし。

発心集「市正時光と茂光」現代語訳全文

 少し前に、市正いちのかみ時光ときみつという笙吹きがいた。茂光もちみつという篳篥ひちりきと囲碁を打ちながら、同時に声で『裹頭楽くわとうらく』の曲を歌っていたが、音楽に乗ってきたとき、内裏から急用とのことで、時光をお召しになった。

 御使いが来て、この旨を言うも、どんなに声を張っても、耳にも入らない。ただ二人して体を揺らしあって、何も返事をしなかったので、御使いは内裏に帰参して、この旨をありのままに申し上げた。

 どんな御注意があるだろうかと思っていると、

「なんて尊い者たちなのだ。それほどまでに音楽を愛し、何事も忘れるほど思いを入れるのは、たいそう素晴らしいことではないか。王位とは残念なものである。こちらから行って聞くことができないなんて」

 と言って涙ぐんでいらっしゃったのだから、思いもよらないこともあるものだ。

 これらのことを思えば、この世の俗事への思いを捨てることにも、音楽の道に没頭することは特別なよりどころとなるだろう。

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当サイトの管理人

生きづらさを抱えていた30代の頃、物事の本質を知ろうとしているうちに、古典文学へとたどり着きました。中高生の頃は、受験のためでしかなかった古文・漢文。その魅力にもっと早く気づきたかった人生でした。今はライフワークとして、古典文学の現代語訳や歴史探訪を楽しんでいます。

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