横穴式石室とは、古墳の側面から内部へ入ることができる構造の石室です。
古墳時代後期の6世紀ごろから全国的に広がり、それまで主流だった竪穴式石室とは、構造や利用の仕方に大きな違いがあります。
この記事では横穴式石室について、構造の特徴や竪穴式石室との違い、そしていつからどのような理由で広がっていったのかを考察します。
横穴式石室とは
横穴式石室とは、古墳の側面に入口を設け、横から出入りできる構造の埋葬施設です。
横穴式石室の構造

横穴式石室は、主に次の3つの部分から構成されています。
- 羨道(せんどう):古墳の外部と玄室を結ぶ通路
- 前室(ぜんしつ):玄室の手前に設けられる空間(ない場合もある)
- 玄室(げんしつ):棺を納め、遺体を安置する部屋
構造は大きく分けて、「両袖式」「片袖式」「無袖式」の3つに分類されます。
- 両袖式(りょうそでしき):玄室の幅が羨道よりも左右両側に広がる構造
- 片袖式(かたそでしき):玄室の幅が左右どちらか一方に広がる構造
- 無袖式(むそでしき):玄室の幅が羨道とほぼ同じで、袖がない構造
天井の形状も、石材がアーチ状に積み重ねられたものもあれば、大きな石を載せた平らなものなどがあり、横穴式石室の構造は地域や時期によってさまざまです。
竪穴式石室との違い
横穴式石室広まる前は、竪穴式石室が主流でした。
竪穴式石室は、古墳の上部から穴を掘って石室をつくり、天井を石板でふさぎます。
その上に土をかぶせて埋める構造のため、基本的には完成後に再び開けることはありません。
それに対して横穴式石室は、玄室の前に羨道があり、古墳の側面に入口が設けられます。
入口は石でふさがれていますが、固定はされていないため、石を取り除けば何度でも出入りできます。
このような構造により追葬が可能となり、家族や集団の共同墓として使われるようになった点が、竪穴式石室との大きな違いです。
竪穴式石室は基本的に一人のための墓で、副葬品は権威を示す武器や玉類が中心でした。
一方、横穴式石室は広い空間をもち、日常生活で使用する土器が副葬品の中心となっていきます。
石室の構造や利用の仕方に違いが見られるようになった背景には、流れゆく時代の中で人々の死生観が変化したことも一因と考えられています。
横穴式石室はいつから広まったのか
横穴式石室が日本で全国的に広まったのは、古墳時代後期の6世紀からです。
日本で独自に生まれたものではなく、中国から朝鮮半島を経由して、4世紀後半に北部九州へ伝わったと考えられています。
福岡県福岡市の老司古墳や鋤崎古墳では、4世紀後半につくられた横穴式石室が確認されています。
その後、およそ100年をかけて、5世紀後半には九州南部にまで広がっていきます。
しかし、九州以東の地域では依然として竪穴式石室が主流であり、横穴式石室が全国的に一般化するのは6世紀に入ってからでした。
6世紀になると、横穴式石室は大小さまざまな古墳に広く採用されるようになります。
畿内では大王クラスの巨大古墳にも取り入れられ、奈良県明日香村の石舞台古墳や、同県橿原市の丸山古墳などでも確認されています。
なかでも丸山古墳は、石室だけで全長28.4mにおよび、全国最大級の横穴式石室です。
横穴式石室が広まった背景と死生観の変化
横穴式石室が普及した背景には、人々の死生観の変化もあったと考えられています。
それまで主流だった竪穴式石室は、基本的には一人のためにつくられる墓で、一度閉じると再び開けることはありませんでした。
副葬品は武器や玉類など、死者の権威を示すものが多く、故人を「あの世」へ送るというよりも、生前の権威を保つことに重きが置かれていたようです。
それに対して横穴式石室は、何度でも出入りができる広い空間をもち、家族や集団の共同墓として追葬が行われることもありました。
土器などの日用品が副葬品の中心となり、「死後もあの世で変わらぬ生活を送れるように」と願っていたのかもしれません。
このような死生観は、『古事記』に描かれる黄泉の国にも通じるものがあります。
妻イザナミを追って黄泉の国へ行ったイザナギは、腐敗したその姿を見て逃げ帰り、巨大な岩で黄泉の国への入口を塞ぎました。
横穴式石室の構造もまた、死者の世界への入口と、そこへ至る通路をイメージしたものなのかもしれません。
横穴式石室を見に行こう!
横穴式石室は全国各地に残されており、石室の内部を見学できる古墳も多くあります。
実際に入ると、明らかに空気が変わり、どこか異世界へと導かれるような感覚を味わうことができますよ。
ぜひ足を運んで、その雰囲気を体感してみてください。


