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『源氏物語』第18帖「松風」原文全文

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出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」国貞『源氏香の図』

 このページでは、『源氏物語』第18帖「松風」の原文全文を掲載しています。原文のままでも読みやすいよう、漢字には歴史的仮名遣いによるルビ(ふりがな)を付けました。現代語訳とあわせて読みたい方は、『源氏物語』第18帖「松風」現代語訳全文をご覧ください。

目次

東の院造りたてて

 東ひむがしの院ゐん造つくりたてて、花散里はなちるさとと聞きこえし、移うつろはしたまふ。西にしの対たい、渡殿わたどのなどかけて、政所まどころ、家司けいしなど、あるべきさまにし置おかせたまふ。東ひむがしの対たいは、明石あかしの御方おほんかたとおぼしおきてたり。北きたの対たいは、ことに広ひろく造つくらせたまひて、仮かりにてもあはれとおぼして、行ゆく末すゑかけて契ちぎり頼たのめたまひし人々ひとびと集つどひ住すむべきさまに、隔へだて隔へだてしつらはせたまへるしも、なつかしう見所みどころありてこまかなる、寝殿しんでんは塞ふたげたまはず、時々ときどき渡わたりたまふ御住おほんすみ所どころにして、さるかたなる御おほんしつらひどもし置おかせたまへり。

 明石あかしには御消息おほんせうそこ絶たえず、今いまはなほ上のぼりたまひぬべきことをばのたまへど、女をんなはなほわが身みのほどを思おもひ知しるに、こよなくやむごとなき際きはの人々ひとびとだに、なかなかさてかけ離はなれぬ御おほんありさまのつれなきを見みつつ、もの思おもひまさりぬべく聞きくを、まして何なにばかりのおぼえなりとてか、さし出いでまじらはむ、この若君わかぎみの御面伏おほんおもてぶせに、数かずならぬ身みのほどこそあらはれめ、たまさかにはひ渡わたりたまふついでを待まつことにて、人ひと笑わらへにはしたなきこといかにあらむ、と思おもひ乱みだれても、またさりとて、かかる所ところに生おひ出いで、数かずまへられたまはざらむもいとあはれなれば、ひたすらにもえ恨うらみ背そむかず、親おやたちもげにことわりと思おもひ嘆なげくに、なかなか心こころも尽つき果はてぬ。

昔、母君の御祖父

 昔むかし、母君ははぎみの御祖父おほんおほぢ、中務宮なかつかさのみやと聞きこえけるが領らうじたまひける所ところ、大堰川おほゐがはのわたりにありけるを、その御後おほんのちはかばかしうあひ継つぐ人ひともなくて、年としごろ荒あれまどふを思おもひ出いでて、かの時ときより伝つたはりて宿守やどもりのやうにてある人ひとを、呼よびとりて語かたらふ。

「世よの中なかを今いまはと思おもひ果はてて、かかる住すまひに沈しづみそめしかども、末すゑの世よに思おもひかけぬこと出いで来きてなん、さらに都みやこの住すみか求もとむるを、にはかにまばゆき人中ひとなかいとはしたなく、田舎ゐなかびにける心地ここちも静しづかなるまじきを、古ふるき所ところ尋たづねてとなむ思おもひ寄よる。さるべきものは上あげ渡わたさむ。修理すりなどして、かたのごと人ひと住すみぬべくはつくろひなされなむや」

 と言いふ。預あづかり、

「この年としごろ領らうずる人ひともものしたまはず、あやしきやうになりてはべれば、下屋しもやにぞつくろひて宿やどりはべるを、この春はるのころより内大殿うちのおほとのの造つくらせたまふ御堂みだう近ちかくて、かのわたりなむ、いとけさわがしうなりにてはべる。いかめしき御堂みだうども建たてて、多おほくの人ひとなむ造つくりいとなみはべるめる。静しづかなる御本意おほんほいならば、それや違たがひはべらむ」

「何なにか、それもかの殿とのの御蔭おほんかげにかたかけて、と思おもふことありて。おのづからおひおひに内うちのことどもはしてむ。まづ急いそぎて大方おほかたのことどもをものせよ」

 と言いふ。

「みづから領らうずる所ところにはべらねど、また知しり伝つたへたまふ人ひともなければ、かごかなるならひにて、年としごろ隠かくろへはべりつるなり。御荘みさうの田畠たはたけなどいふことのいたづらに荒あれはべりしかば、故民部大輔こみんぶのたいふの君きみに申まうしたまはりて、さるべき物ものなどたてまつりてなん、領らうじつくりはべる」

 など、そのあたりの貯たくはへのことどもを危あやふげに思おもひて、鬚ひげがちにつなしにくき顔かほを、鼻はななどうち赤あかめつつはちぶき言いへば、

「さらにその田たなどやうのことは、ここには知しるまじ。ただ年としごろのやうに思おもひてものせよ。券けんなどはここになむあれど、すべて世よの中なかを捨すてたる身みにて、年としごろともかくも尋たづね知しらぬを、そのことも今いまくはしくしたためむ」

 など言いふにも、大殿おほとののけはひをかくれば、わづらはしくて、そののち、物ものなど多おほく受うけ取とりてなん急いそぎ造つくりける。

かやうに思ひ寄るらむとも

 かやうに思おもひ寄よるらんとも知しりたまはで、上のぼらむことをものうがるも心こころ得えずおぼし、若君わかぎみのさてつくづくとものしたまふを、後のちの世よに人ひとの言いひ伝つたへん、今いま一際ひときは、人ひと悪わるき疵きずにやと思おもほすに、造つくり出いでてぞ、

「しかしかの所ところをなむ思おもひ出いでたる」

 と聞きこえさせける。人ひとにまじらはむことを苦くるしげにのみものするは、かく思おもふなりけり、と心こころ得えたまふ。口惜くちをしからぬ心こころの用意よういかな、とおぼしなりぬ。惟光これみつ朝臣あそむ、例れいの忍しのぶる道みちはいつとなくいろひ仕つかうまつる人ひとなれば、遣つかはして、さるべきさまに、ここかしこの用意よういなどせさせたまひけり。

「あたりをかしうて、海うみづらに通かよひたる所ところのさまになむはべりける」

 と聞きこゆれば、さやうの住すまひによしなからずはありぬべし、とおぼす。造つくらせたまふ御堂みだうは大覚寺だいかくじの南みなみにあたりて、滝殿たきどのの心こころばへなど劣おとらずおもしろき寺てらなり。これは川面かはづらに、えもいはぬ松蔭まつかげに、何なにのいたはりもなく建たてたる寝殿しんでんのことそぎたるさまも、おのづから山里やまざとのあはれを見みせたり。内うちのしつらひなどまでおぼし寄よる。

親しき人々、いみじう忍びて

 親したしき人々ひとびと、いみじう忍しのびて下くだし遣つかはす。逃のがれがたくて今いまはと思おもふに、年とし経へつる浦うらを離はなれなむことあはれに、入道にふだうの心細こころぼそくて一人ひとりとまらむことを思おもひ乱みだれて、よろづに悲かなし。すべてなどかく心尽こころづくしになりはじめけむ身みにかと、露つゆのかからぬたぐひうらやましくおぼゆ。親おやたちも、かかる御迎おほんむかへにて上のぼる幸さいはひは、年としごろ寝ねても覚さめても願ねがひわたりし心こころざしのかなふと、いとうれしけれど、あひ見みで過すぐさむいぶせさの、たへがたう悲かなしければ、夜昼よるひる思おもひほれて、同おなじことをのみ、

「さらば、若君わかぎみをば見みたてまつらでははべるべきか」

 と言いふよりほかのことなし。

 母君ははぎみも、いみじうあはれなり。年としごろだに同おなじ庵いほりにも住すまずかけ離はなれつれば、まして誰たれによりてかはかけとまらむ。ただ、あだにうち見みる人ひとのあさはかなる語かたらひだに見みなれそなれて、別わかるるほどはただならざめるを、ましてもてひがめたる頭かしらつき、心こころおきてこそ頼たのもしげなけれど、またさる方かたに、これこそは世よを限かぎるべき住すみかなれと、あり果はてぬ命いのちを限かぎりに思おもひて契ちぎり過すぐし来きつるを、にはかに行ゆき離はなれなむも心細こころぼそし。若わかき人々ひとびとのいぶせう思おもひ沈しづみつるは、うれしきものから、見み捨すてがたき浜はまのさまを、または、えしも帰かへらじかしと、寄よする波なみに添そへて、袖そで濡ぬれがちなり。

秋のころほひなれば

 秋あきのころほひなれば、もののあはれ取とり重かさねたる心地ここちして、その日ひとある暁あかつきに、秋風あきかぜ涼すずしくて、虫むしの音ねもとりあへぬに、海うみの方かたを見み出いだしてゐたるに、入道にふだう、例れいの、後夜ごやより深ふかう起おきて、鼻はなすすりうちして、行おこなひいましたり。いみじう言忌こといみすれど、誰たれも誰たれもいとしのびがたし。若君わかぎみは、いともいともうつくしげに、夜よる光ひかりけむ玉たまの心地ここちして、袖そでよりほかに放はなちきこえざりつるを、見み馴なれてまつはしたまへる心こころざまなど、ゆゆしきまで、かく、人ひとに違たがへる身みをいまいましく思おもひながら、片時かたとき見みたてまつらでは、いかでか過すぐさむとすらむ、とつつみあへず。

行ゆく先さきをはるかに祈いのる別わかれ路ぢに堪たへぬは老おいの涙なみだなりけり

「いともゆゆしや」

 とて、おしのごひ隠かくす。尼君あまぎみ、

もろともに都みやこは出いで来きこのたびやひとり野中のなかの道みちに惑まどはむ

 とて、泣なきたまふさま、いとことわりなり。ここら契ちぎり交かはして積つもりぬる年とし月つきのほどを思おもへば、かう浮うきたることを頼たのみて、捨すてし世よに帰かへるも、思おもへばはかなしや。御方おほんかた、

いきてまたあひ見みむことをいつとてか限かぎりも知しらぬ世よをば頼たのまむ

「送おくりにだに」

 と切せちにのたまへど、方々かたがたにつけて、えさるまじきよしを言いひつつ、さすがに道みちのほども、いとうしろめたなきけしきなり。

世の中を捨てはじめしに

「世よの中なかを捨すてはじめしに、かかる人ひとの国くにに思おもひ下くだりはべりしことども、ただ君きみの御おほんためと、思おもふやうに明あけ暮くれの御おほんかしづきも、心こころにかなふやうもやと思おもひたまへ立たちしかど、身みのつたなかりける際きはの思おもひ知しらるること多おほかりしかば、さらに都みやこに帰かへりて、古受領ふるずりゃうの沈しづめるたぐひにて貧まづしき家いへの蓬葎よもぎむぐら、元もとのありさま改あらたむることもなきものから、公私おほやけわたくしにをこがましき名なを広ひろめて、親おやの御おほん亡なき影かげを恥はづかしめむことのいみじさになむ、やがて世よを捨すてつる門出かどでなりけりと人ひとにも知しられにしを、その方かたにつけてはよう思おもひ放はなちてけりと思おもひはべるに、君きみのやうやうおとなびたまひ、もの思おもほし知しるべきに添そへては、などかう口惜くちをしき世界せかいにて錦にしきを隠かくしきこゆらんと、心こころの闇やみ晴はれ間まなく嘆なげきわたりはべりしままに、仏神ほとけかみを頼たのみきこえて、さりともかうつたなき身みに引ひかれて、山賤やまがつの庵いほりには混まじりたまはじ、と思おもふ心こころ一ひとつを頼たのみはべりしに、思おもひ寄よりがたくてうれしきことどもを見みたてまつりそめても、なかなか身みのほどをとざまかうざまに悲かなしう嘆なげきはべりつれど、若君わかぎみのかう出いでおはしましたる御宿世おほんすくせの頼たのもしさに、かかる渚なぎさに月つき日ひを過すぐしたまはむも、いとかたじけなう、契ちぎりことにおぼえたまへば、見みたてまつらざらむ心こころ惑まどひは、静しづめがたけれど、この身みは長ながく世よを捨すてし心こころはべり。君達きむだちは、世よを照てらしたまふべき光ひかりしるければ、しばし、かかる山賤やまがつの心こころを乱みだりたまふばかりの御おほん契ちぎりこそはありけめ。天てんに生うまるる人ひとの、あやしき三みつの途みちに帰かへるらむ一時ひとときに思おもひなずらへて、今日けふ、長ながく別わかれたてまつりぬ。命いのち尽つきぬと聞きこしめすとも、後のちのことおぼしいとなむな。さらぬ別わかれに御心みこころ動うごかしたまふな」

 と言いひ放はなつものから、

「煙けぶりともならむ夕ゆふべまで、若君わかぎみの御おほんことをなむ、六時ろくじの勤つとめにも、なほ心こころきたなくうちまぜはべりぬべき」

 とて、これにぞうちひそみぬる。

御車はあまた続けむも

 御車おほんくるまはあまた続つづけむも所狭ところせく、片かたへづつ分わけむもわづらはしとて、御供おほんともの人々ひとびとも、あながちに隠かくろへ忍しのぶれば、舟ふねにて忍しのびやかにと定さだめたり。辰たつの時ときに舟出ふなでしたまふ。昔むかしの人ひともあはれと言いひける浦うらの朝霧あさぎり隔へだたりゆくままに、いともの悲がなしくて、入道にふだうは、心こころ澄すみ果はつまじく、あくがれ眺ながめゐたり。ここら年としを経へて、今いまさらに帰かへるも、なほ思おもひ尽つきせず、尼君あまぎみは泣なきたまふ。

かの岸きしに心こころ寄よりにし海人舟あまぶねの背そむきしかたに漕こぎ返かへるかな

 御方おほんかた、

いく返かへり行ゆきかふ秋あきを過すぐしつつ浮木うきぎに乗のりてわれ返かへるらむ

 思おもふ方かたの風かぜにて、限かぎりける日ひ違たがへず入いりたまひぬ。人ひとに見み咎とがめられじの心こころもあれば、路ぢのほども軽かろらかにしなしたり。

家のさまもおもしろうて

 家いへのさまもおもしろうて、年としごろ経へつる海うみづらにおぼえたれば、所ところ変かへたる心地ここちもせず。昔むかしのこと思おもひ出いでられて、あはれなること多おほかり。造つくり添そへたる廊らうなど、ゆゑあるさまに、水みづの流ながれもをかしうしなしたり。まだこまやかなるにはあらねども、住すみつかばさてもありぬべし。親したしき家司けいしに仰おほせ賜たまひて、御おほんまうけのことせさせたまひけり。渡わたりたまはむことは、とかうおぼしたばかるほどに、日ひごろ経へぬ。

 なかなかもの思おもひ続つづけられて、捨すてし家居いへゐも恋こひしう、つれづれなれば、かの御形見おほんかたみの琴きんを掻かき鳴ならす。折をりの、いみじう忍しのびがたければ、人ひと離はなれたる方かたにうちとけてすこし弾ひくに、松風まつかぜはしたなく響ひびきあひたり。尼君あまぎみ、もの悲かなしげにて寄より臥ふしたまへるに、起おき上あがりて、

身みを変かへて一人ひとり返かへれる山里やまざとに聞ききしに似にたる松風まつかぜぞ吹ふく

 御方おほんかた、

古ふる里さとに見みし世よの友ともを恋こひひわびてさへづることを誰たれか分わくらん

かやうにものはかなくて

 かやうにものはかなくて明あかし暮くらすに、大臣おとど、なかなか静心しづこころなくおぼさるれば、人目ひとめをもえ憚はばかりあへたまはで、渡わたりたまふを、女君をんなぎみは、かくなむとたしかに知しらせたてまつりたまはざりけるを、例れいの、聞ききもや合あはせたまふとて、消息せうそこ聞きこえたまふ。

「桂かつらに見みるべきことはべるを、いさや、心こころにもあらでほど経へにけり。訪とぶらはむと言いひし人ひとさへ、かのわたり近ちかく来きゐて、待まつなれば、心苦こころぐるしくてなむ。嵯峨野さがのの御堂みだうにも、飾かざりなき仏ほとけの御訪おほんとぶらひすべければ、二ふつか、三日みかははべりなん」

 と聞きこえたまふ。桂かつらの院ゐんといふ所ところ、にはかに造つくらせたまふと聞きくは、そこに据すゑたまへるにや、とおぼすに心こころづきなければ、

「斧をのの柄えさへ改あらためたまはむほどや、待まち遠とほに」

 と心こころゆかぬ御みけしきなり。例れいの比くらべ苦くるしき御心みこころ、いにしへのありさま名残なごりなし、と世人よひとも言いふなるものを、何なにやかやと御心みこころとりたまふほどに、日ひたけぬ。

忍びやかに、御前疎きは混ぜで

 忍しのびやかに、御前ごぜん疎うときは混まぜで、御心みこころづかひして渡わたりたまひぬ。たそかれ時どきにおはし着つきたり。狩かりの御衣おほんぞにやつれたまへりしだに世よに知しらぬ心地ここちせしを、まして、さる御心みこころしてひきつくろひたまへる御直衣おほんなほし姿すがた、世よになくなまめかしうまばゆき心地ここちすれば、思おもひむせべる心こころの闇やみも晴はるるやうなり。めづらしうあはれにて、若君わかぎみを見みたまふも、いかが浅あさくおぼされむ。今いままで隔へだてける年とし月つきだに、あさましく悔くやしきまで思おもほす。大殿腹おほとのばらの君きみをうつくしげなりと、世人よひともて騒さわぐは、なほ時世ときよによれば、人ひとの見みなすなりけり。かくこそは、すぐれたる人ひとの山口やまぐちはしるかりけれ、とうち笑ゑみたる顔かほの何心なにごころなきが愛敬あいぎゃうづき匂にほひたるを、いみじうらうたしとおぼす。乳母めのとの、下くだりしほどは衰おとろへたりし容貌かたち、ねびまさりて、月つきごろの御物語おほんものがたりなど馴なれ聞きこゆるを、あはれに、さる塩屋しほやのかたはらに過すぐしつらむことを、おぼしのたまふ。

「ここにも、いと里さと離はなれて、渡わたらむこともかたきを、なほ、かの本意ほいある所ところに移うつろひたまへ」

 とのたまへど、

「いとうひうひしきほど過すぐして」

 と聞きこゆるも、ことわりなり。夜一夜よひとよ、よろづに契ちぎり語かたらひ明あかしたまふ。

つくろふべき所

 つくろふべき所ところ、所ところの預あづかかり、今いま加くはへたる家司けいしなどに仰おほせらる。桂かつらの院ゐんに渡わたりたまふべしとありければ、近ちかき御荘みさうの人々ひとびと、参まゐり集あつまりたりけるも、みな尋たづね参まゐりたり。前栽せんざいどもの折をりれ伏ふしたるなどつくろはせたまふ。

「ここかしこの立石たていしどもも皆みな転まろび失うせたるを、情なさけありてしなさば、をかしかりぬべき所ところかな。かかる所ところをわざと繕つくろふも、あいなきわざなり。さても過すぐし果はてねば、立たつ時ときもの憂うく、心こころとまる、苦くるしかりき」

 など、来きし方かたのことものたまひ出いでて、泣なきみ笑わらひみ、うちとけのたまへる、いとめでたし。

 尼君あまぎみ、のぞきて見みたてまつるに、老おいも忘わすれ、もの思おもひも晴はるる心地ここちしてうち笑ゑみぬ。東ひむがしの渡殿わたどのの下したより出いづる水みづの心こころばへつくろはせたまふとて、いとなまめかしき袿姿うちきすがたうちとけたまへるを、いとめでたううれしと見みたてまつるに、閼伽あかの具ぐなどのあるを見みたまふに、おぼし出いでて、

「尼君あまぎみは、こなたにか。いとしどけなき姿すがたなりけりや」

 とて、御直衣おほんなほし召めし出いでて、たてまつる。几帳きちゃうのもとに寄よりたまひて、

「罪つみ軽かろく生おほし立たてたまへる、人ひとのゆゑは、御行おほんおこなひのほどあはれにこそ、思おもひなしきこゆれ。いといたく思おもひ澄すましたまへりし御住おほんすみかを捨すてて、憂うき世よに帰かへりたまへる心こころざし、浅あさからず。またかしこには、いかにとまりて、思おもひおこせたまふらむと、さまざまになむ」

 と、いとなつかしうのたまふ。

「捨すてはべりし世よを、今いまさらにたち帰かへり、思おもひたまへ乱みだるるを、推おし量はからせたまひければ、命いのち長ながさのしるしも、思おもひたまへ知しられぬる」

 とうち泣なきて、

「荒磯陰あらいそかげに、心苦こころぐるしう思おもひきこえさせはべりし二葉ふたばの松まつも、今いまは頼たのもしき御生おほんおひ先さきと、祝いはひきこえさするを、浅あさき根ねざしゆゑや、いかがと、かたがた心尽こころづくされはべる」

 など聞きこゆるけはひ、よしなからねば、昔物語むかしものがたりに、親王みこの住すみたまひけるありさまなど、語かたらせたまふに、繕つくろはれたる水みづの音おとなひ、かことがましう聞きこゆ。

住すみ馴なれし人ひとは帰かへりてたどれども清水しみづは宿やどの主人顔あるじがほなる

 わざとはなくて、言いひ消きつさま、みやびかによし、と聞ききたまふ。

いさらゐははやくのことも忘わすれじをもとの主人あるじや面変おもがはりせる

「あはれ」

 と、うち眺ながめて立たちたまふ姿すがた、にほひ、世よに知しらずとのみ思おもひきこゆ。

御寺に渡りたまうて

 御寺みてらに渡わたりたまうて、月つきごとの十四じふし、五日じふご、晦日つごもりの日ひ、行おこなはるべき普賢講ふげんかう、阿弥陀あみだ、釈迦さかの念仏ねんぶつの三昧さんまいをばさるものにて、またまた加くはへ行おこなはせたまふべきことなど、定さだめ置おかせたまふ。堂だうの飾かざり、仏ほとけの御具おほんぐなど、めぐらし仰おほせらる。月つきの明あきに帰かへりたまふ。

 ありし夜よのこと、おぼし出いでらるる、折をり過すぐさず、かの琴きんの御琴おほんことさし出いでたり。そこはかとなくものあはれなるに、え忍しのびたまはで、掻かき鳴ならしたまふ。まだ調しらべも変かはらず、ひきかへし、その折をり今いまの心地ここちしたまふ。

契ちぎりしに変かはらぬ琴ことの調しらべにて絶たえぬ心こころのほどは知しりきや

 女をんな、

変かはらじと契ちぎりしことを頼たのみにて松まつの響ひびきに音ねを添そへしかな

 と聞きこえかはしたるも、似にげなからぬこそは、身みにあまりたるありさまなめれ。こよなうねびまさりにける容貌かたち、けはひ、え思おもほし捨すつまじう、若君わかぎみ、はた、尽つきもせずまぼられたまふ。いかにせまし。隠かくろへたるさまにて生おひ出いでむが、心苦こころぐるしう口惜くちをしきを、二条にでうの院ゐんに渡わたして、心こころのゆく限かぎりもてなさば、後のちのおぼえも罪つみ免まぬかれなむかし、と思おもほせど、また、思おもはむこといとほしくて、えうち出いでたまはで、涙なみだぐみて見みたまふ。幼をさなき心地ここちに、すこし恥はぢらひたりしが、やうやううちとけて、もの言いひ笑わらひなどして、むつれたまふを見みるままに、匂にほひまさりてうつくし。抱だきておはするさま、見みるかひありて、宿世すくせこよなしと見みえたり。

またの日は京へ帰らせ

 またの日ひは京きやうへ帰かへらせたまふべければ、すこし大殿籠おほとのごもり過すぐして、やがてこれより出いでたまふべきを、桂かつらの院ゐんに人々ひとびと多おほく参まゐり集つどひて、ここにも殿上人てんじゃうびとあまた参まゐりたり。御装束おほんさうぞくなどしたまひて、

「いとはしたなきわざかな。かく見みあらはさるべき隈くまにもあらぬを」

 とて、騒さわがしきに引ひかれて出いでたまふ。心苦こころぐるしければ、さりげなく紛まぎらはして立たちとまりたまへる戸口とぐちに、乳母めのと、若君わかぎみ抱だきてさし出いでたり。あはれなる御みけしきに、かき撫なでたまひて、

「見みでは、いと苦くるしかりぬべきこそ、いとうちつけなれ。いかがすべき。いと里さと遠とほしや」

 とのたまへば、

「遥はるかに思おもひたまへ絶たえたりつる年としごろよりも、今いまからの御おほんもてなしの、おぼつかなうはべらむは、心尽こころづくしに」

 など聞きこゆ。若君わかぎみ手てをさし出いでて、立たちたまへるを慕したひたまへば、ついゐたまひて、

「あやしう、もの思おもひ絶たえぬ身みにこそありけれ。しばしにても苦くるしや。いづら。など、もろともに出いでては、惜をしみたまはぬ。さらばこそ人心地ひとごこちもせめ」

 とのたまへば、うち笑わらひて、女君をんなぎみにかくなむと聞きこゆ。なかなかもの思おもひ乱みだれて臥ふしたれば、とみにしも動うごかれず。あまり上衆じゃうずめかしとおぼしたり。人々ひとびともかたはらいたがれば、しぶしぶにゐざり出いでて、几帳きちゃうにはた隠かくれたるかたはら目め、いみじうなまめいてよしあり、たをやぎたるけはひ、御子みこたちといはむにも足たりぬべし。帷子かたびら引ひきやりて、こまやかに語かたらひたまふとて、とばかり返かへり見みたまへるに、さこそ静しづめつれ、見み送おくりきこゆ。いはむかたなき盛さかりの御容貌おほんかたちなり。いたうそびやぎたまへりしが、すこしなりあふほどになりたまひにける御姿おほんすがたなど、かくてこそものものしかりけれと、御指貫おほんさしぬきの裾すそまでなまめかしう愛敬あいぎゃうのこぼれ出いづるぞ、あながちなる見みなしなるべき。

 かの解とけたりし蔵人くらうども、還かへりなりにけり。靭負尉ゆげひのぜうにて、今年ことしかうぶり得えてけり。昔むかしに改あらため、心地ここちよげにて、御佩刀みはかし取とりに寄より来きたり。人ひと影かげを見みつけて、

「来きし方かたのもの忘わすれしはべらねど、かしこければえこそ。浦風うらかぜおぼえはべりつる暁あかつきの寝覚ねざめにも、おどろかしきこえさすべきよすがだになくて」

 と、けしきばむを、

「八重やへ立たつ山やまは、さらに島しま隠かくれにも劣おとらざりけるを、松まつも昔むかしのと、たどられつるに、忘わすれぬ人ひともものしたまひけるに、頼たのもし」

 など言いふ。こよなしや。我われも思おもひなきにしもあらざりしを、などあさましうおぼゆれど、

「今いまことさらに」

 と、うちけざやぎて、参まゐりぬ。

いとよそほしくさし歩みたまふ

 いとよそほしくさし歩あゆみたまふほど、かしかましう追おひ払はらひて、御車おほんくるまの尻しりに、頭中将とうのちゆうじやう、兵衛督ひやうゑのかみ乗のせたまふ。

「いと軽々かるがるしき隠かくれ家が、見みあらはされぬるこそねたう」

 と、いたうからがりたまふ。

「よべの月つきに、口惜くちをしう御供おほんともに後おくれはべりにけると思おもひたまへられしかば、今朝けさ、霧きりを分わけて参まゐりはべりつる。山やまの錦にしきは、まだしうはべりけり。野辺のべの色いろこそ、盛さかりにはべりけれ。なにがしの朝臣あそむの、小鷹こたかにかかづらひて、立たち後おくれはべりぬる、いかがなりぬらむ」

 など言いふ。今日けふはなほ桂殿かつらどのにとて、そなたざまにおはしましぬ。にはかなる御饗応おほんあるじと騷さわぎて、鵜飼うかひども召めしたるに、海人あまのさへづりおぼし出いでらる。野のに泊とまりぬる君達きむだち、小鳥ことりしるしばかりひき付つけさせたる荻をぎの枝えだなど、苞つとにして参まゐれり。大御酒おほみきあまたたび順流ずんながれて、川かはのわたり危あやふげなれば、酔ゑひに紛まぎれておはしまし暮くらしつ。

おのおの絶句など作りわたして

 おのおの絶句ぜくなど作つくりわたして、月つきはなやかにさし出いづるほどに、大御遊おほみあそび始はじまりて、いと今いまめかし。

 弾物ひきもの、琵琶びは、和琴わごんばかり、笛ふえども上手じゃうずの限かぎりして、折をりに合あひたる調子てうし吹ふき立たつるほど、川風かはかぜ吹ふき合あはせておもしろきに、月つき高たかくさし上あがり、よろづのこと澄すめる夜よのやや更ふくるほどに、殿上人てんじゃうびと四よたり、五人いつたりばかり連つれて参まゐれり。上うへにさぶらひけるを、御遊おほんあそびありけるついでに、

「今日けふは、六日むいかの御物忌おほんものいみ明あく日ひにて、かならず参まゐりたまふべきを、いかなれば」

 と仰おほせられければ、ここに、かう泊とまらせたまひにけるよし聞きこし召めして、御消息おほんせうそこあるなりけり。御使おほんつかひは、蔵人弁くらうどのべんなりけり。

月つきのすむ川かはのをちなる里さとなれば桂かつらの影かげはのどけかるらむ

「うらやましう」

 とあり。かしこまりきこえさせたまふ。上うへの御遊おほんあそびよりも、なほ所ところからの、すごさ添そへたるものの音ねをめでて、また酔ゑひ加くははりぬ。ここにはまうけの物ものもさぶらはざりければ、大堰おほゐに、

「わざとならぬまうけの物ものや」

 と、言いひつかはしたり。取とりあへたるに従したがひて参まゐらせたり。衣櫃きぬびつ二荷ふたかけにてあるを、御使おほんつかひの弁べんはとく帰かへり参まゐれば、女をんなの装束さうぞかづけたまふ。

久ひさ方かたの光ひかりに近ちかき名なのみして朝夕あさゆふ霧きりも晴はれぬ山里やまざと

 行幸ぎゃうがう待まちきこえたまふ心こころばへなるべし。

「中なかに生おひたる」

 と、うち誦ずんじたまふついでに、かの淡路島あはぢしまをおぼし出いでて、躬恒みつねが所ところからかとおぼめきけむことなどのたまひ出いでたるに、ものあはれなる酔ゑひ泣なきどもあるべし。

めぐり来きて手てに取とるばかりさやけきや淡路島あはぢしまのあはと見みし月つき

 頭中将とうのちゆうじやう、

浮雲うきぐもにしばしまがひし月影つきかげのすみはつる夜よぞのどけかるべき

 左大弁さだいべん、すこしおとなびて、故院こゐんの御時おほんときにもむつましう仕つかうまつりなれし人ひとなりけり。

雲くもの上うへのすみかを捨すててよはの月つきいづれの谷たににかげ隠かくしけむ

 心々こころごころにあまたあめれど、うるさくてなむ。気近けぢかううち静しづまりたる御物語おほんものがたりすこしうち乱みだれて、千年ちとせも見み聞きかまほしき御おほんありさまなれば、斧をのの柄えも朽くちぬべけれど、今日けふさへはとて急いそぎ帰かへりたまふ。物ものども品々しなじなにかづけて、霧きりの絶たえ間まに立たちまじりたるも、前栽せんざいの花はなに見みえまがひたる色いろあひなど、ことにめでたし。近衛府このゑづかさの名高なだかき舎人とねり、ものの節ふしどもなどさぶらふに、さうざうしければ其駒そのこまなど乱みだれ遊あそびて、脱ぬぎかけたまふ色々いろいろ、秋あきの錦にしきを風かぜの吹ふきおほふかと見みゆ。ののしりて帰かへらせたまふ響ひびき、大堰おほゐにはもの隔へだてて聞ききて、名残なごりさびしう眺ながめたまふ。御消息おほんせうそこをだにせでと、大臣おとども御心みこころにかかれり。

殿におはして

 殿とのにおはして、とばかりうち休やすみたまふ。山里やまざとの御物語おほんものがたりなど聞きこえたまふ。

「暇いとま聞きこえしほど過すぎつれば、いと苦くるしうこそ。この好すき者ものどもの尋たづね来きて、いといたう強しひとどめしに、引ひかされて。今朝けさは、いとなやまし」

 とて、大殿籠おほとのごもれり。例れいの、心こころとけず見みえたまへど、見み知しらぬやうにて、

「なずらひならぬほどを、おぼし比くらぶるも、悪わるきわざなめり。我われは我われと思おもひなしたまへ」

 と、教をしへきこえたまふ。暮くれかかるほどに、内裏うちへ参まゐりたまふに、ひきそばめて急いそぎ書かきたまふは、かしこへなめり。側目そばめこまやかに見みゆ。うちささめきて遣つかはすを、御達ごたちなど、憎にくみきこゆ。

その夜は内裏にもさぶらひたまふ

 その夜よは内裏うちにもさぶらひたまふべけれど、解とけざりつる御みけしきとりに、夜更よふけぬれど、まかでたまひぬ。ありつる御おほん返かへり持もて参まゐれり。え引ひき隠かくしたまはで、御覧ごらんず。ことに憎にくかるべきふしも見みえねば、

「これ破やり隠かくしたまへ。むつかしや。かかるものの散ちらむも、今いまはつきなきほどになりにけり」

 とて、御脇息おほんけふそくに寄よりゐたまひて、御心みこころのうちには、いとあはれに恋こひしうおぼしやらるれば、燈ひをうち眺ながめて、ことにものものたまはず。文ふみは広ひろごりながらあれど、女君をんなぎみ、見みたまはぬやうなるを、

「せめて見み隠かくしたまふ御目尻おほんまじりこそ、わづらはしけれ」

 とて、うち笑ゑみたまへる御愛敬おほんあいぎゃう、所狭ところせきまでこぼれぬべし。

 さし寄よりたまひて、

「まことは、らうたげなるものを見みしかば、契ちぎり浅あさくも見みえぬを、さりとて、ものめかさむほども憚はばかり多おほかるに、思おもひなむわづらひぬる。同おなじ心こころに思おもひめぐらして、御心みこころに思おもひ定さだめたまへ。いかがすべき。ここにて育はぐくみたまひてむや。蛭ひるの子こが齢よはひにもなりにけるを、罪つみなきさまなるも思おもひ捨すてがたうこそ。いはけなげなる下しもつ方かたも、紛まぎらはさむなど思おもふを、めざましとおぼさずは、引ひき結ゆひたまへかし」

 と聞きこえたまふ。

「思おもはずにのみとりなしたまふ御心みこころの隔へだてを、せめて見み知しらず、うらなくやはとてこそ。いはけなからむ御心みこころには、いとようかなひぬべくなむ。いかにうつくしきほどに」

 とて、すこしうち笑ゑみたまひぬ。稚児ちごをわりなうらうたきものにしたまふ御心みこころなれば、得えて抱だきかしづかばやとおぼす。

 いかにせまし。迎むかへやせまし、とおぼし乱みだる。渡わたりたまふこといとかたし。嵯峨野さがのの御堂みだうの念仏ねんぶつなど待まち出いでて、月つきに二度ふたたびばかりの御おほん契ちぎりなめり。年としのわたりには、立たちまさりぬべかめるを、及およびなきことと思おもへども、なほいかがもの思おもはしからぬ。

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