東の院造りたてて、花散里と聞こえし、移ろはしたまふ。西の対、渡殿などかけて、政所、家司など、あるべきさまにし置かせたまふ。東の対は、明石の御方と思しおきてたり。北の対は、ことに広く造らせたまひて、仮にてもあはれと思して、行く末かけて契り頼めたまひし人々集ひ住むべきさまに、隔て隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう見所ありてこまかなる、寝殿はふたげたまはず、時々渡りたまふ御住み所にして、さるかたなる御しつらひどもし置かせたまへり。
明石には御消息絶えず、今はなほ上りたまひぬべきことをばのたまへど、女はなほわが身のほどを思ひ知るに、こよなくやむごとなき際の人々だに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれなきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして何ばかりのおぼえなりとてか、さし出でまじらはむ、この若君の御面伏せに、数ならぬ身のほどこそあらはれめ、たまさかにはひ渡りたまふついでを待つことにて、人笑へにはしたなきこといかにあらむ、と思ひ乱れても、またさりとて、かかる所に生ひ出で、数まへられたまはざらむもいとあはれなれば、ひたすらにもえ恨み背かず、親たちもげにことわりと思ひ嘆くに、なかなか心も尽き果てぬ。
昔、母君の御祖父、中務宮と聞こえけるが領じたまひける所、大堰川のわたりにありけるを、その御のちはかばかしうあひ継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを思ひ出でて、かの時より伝はりて宿守のやうにてある人を、呼びとりて語らふ。
「世の中を今はと思ひ果てて、かかる住まひに沈みそめしかども、末の世に思ひかけぬこと出で来てなん、さらに都の住みか求むるを、にはかにまばゆき人中いとはしたなく、田舎びにける心地も静かなるまじきを、古き所尋ねてとなむ思ひ寄る。さるべきものは上げ渡さむ。修理などして、かたのごと人住みぬべくはつくろひなされなむや」
と言ふ。預り、
「この年ごろ領ずる人もものしたまはず、あやしきやうになりてはべれば、下屋にぞつくろひて宿りはべるを、この春のころより内大殿の造らせたまふ御堂近くて、かのわたりなむ、いとけさわがしうなりにてはべる。いかめしき御堂ども建てて、多くの人なむ造りいとなみはべるめる。静かなる御本意ならば、それや違ひはべらむ」
「何か、それもかの殿の御蔭にかたかけて、と思ふことありて。おのづからおひおひに内のことどもはしてむ。まづ急ぎて大方のことどもをものせよ」
と言ふ。
「みづから領ずる所にはべらねど、また知り伝へたまふ人もなければ、かこかなるならひにて、年ごろ隠ろへはべりつるなり。御荘の田畠などいふことのいたづらに荒れはべりしかば、故民部大輔の君に申したまはりて、さるべき物などたてまつりてなん、領じつくりはべる」
など、そのあたりの貯へのことどもを危ふげに思ひて、鬚がちにつなしにくき顔を、鼻などうち赤めつつはちぶき言へば、
「さらにその田などやうのことは、ここには知るまじ。ただ年ごろのやうに思ひてものせよ。券などはここになむあれど、すべて世の中を捨てたる身にて、年ごろともかくも尋ね知らぬを、そのことも今くはしくしたためむ」
など言ふにも、大殿のけはひをかくれば、わづらはしくて、そののち、物など多く受け取りてなん急ぎ造りける。
かやうに思ひ寄るらんとも知りたまはで、上らむことをものうがるも心得ず思し、若君のさてつくづくとものしたまふを、後の世に人の言ひ伝へん、今一際、人悪ろき疵にやと思ほすに、造り出でてぞ、
「しかしかの所をなむ思ひ出でたる」
と聞こえさせける。人にまじらはむことを苦しげにのみものするは、かく思ふなりけり、と心得たまふ。口惜しからぬ心の用意かな、と思しなりぬ。惟光朝臣、例の忍ぶる道はいつとなくいろひ仕うまつる人なれば、遣はして、さるべきさまに、ここかしこの用意などせさせたまひけり。
「あたりをかしうて、海づらに通ひたる所のさまになむはべりける」
と聞こゆれば、さやうの住まひによしなからずはありぬべし、と思す。造らせたまふ御堂は大覚寺の南にあたりて、滝殿の心ばへなど劣らずおもしろき寺なり。これは川面に、えもいはぬ松蔭に、何のいたはりもなく建てたる寝殿のことそぎたるさまも、おのづから山里のあはれを見せたり。内のしつらひなどまで思し寄る。
親しき人々、いみじう忍びて下し遣はす。逃れがたくて今はと思ふに、年経つる浦を離れなむことあはれに、入道の心細くて一人とまらむことを思ひ乱れて、よろづに悲し。すべてなどかく心尽くしになりはじめけむ身にかと、露のかからぬたぐひうらやましくおぼゆ。親たちも、かかる御迎へにて上る幸ひは、年ごろ寝ても覚めても願ひわたりし心ざしのかなふと、いとうれしけれど、あひ見で過ぐさむいぶせさの、たへがたう悲しければ、夜昼思ひほれて、同じことをのみ、
「さらば、若君をば見たてまつらでははべるべきか」
と言ふよりほかのことなし。
母君も、いみじうあはれなり。年ごろだに同じ庵にも住まずかけ離れつれば、まして誰によりてかはかけとまらむ。ただ、あだにうち見る人のあさはかなる語らひだに見なれそなれて、別るるほどはただならざめるを、ましてもてひがめたる頭つき、心おきてこそ頼もしげなけれど、またさる方に、これこそは世を限るべき住みかなれと、あり果てぬ命を限りに思ひて契り過ぐし来つるを、にはかに行き離れなむも心細し。若き人々のいぶせう思ひ沈みつるは、うれしきものから、見捨てがたき浜のさまを、または、えしも帰らじかしと、寄する波に添へて、袖濡れがちなり。
秋のころほひなれば、もののあはれ取り重ねたる心地して、その日とある暁に、秋風涼しくて、虫の音もとりあへぬに、海の方を見出だしてゐたるに、入道、例の、後夜より深う起きて、鼻すすりうちして、行なひいましたり。いみじう言忌すれど、誰も誰もいとしのびがたし。若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖よりほかに放ちきこえざりつるを、見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまで、かく、人に違へる身をいまいましく思ひながら、片時見たてまつらでは、いかでか過ぐさむとすらむ、とつつみあへず。
行く先をはるかに祈る別れ路に堪へぬは老いの涙なりけり
「いともゆゆしや」
とて、おしのごひ隠す。尼君、
もろともに都は出で来このたびやひとり野中の道に惑はむ
とて、泣きたまふさま、いとことわりなり。ここら契り交はして積もりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼みて、捨てし世に帰るも、思へばはかなしや。御方、
いきてまたあひ見むことをいつとてか限りも知らぬ世をば頼まむ
「送りにだに」
と切にのたまへど、方々につけて、えさるまじきよしを言ひつつ、さすがに道のほども、いとうしろめたなきけしきなり。
「世の中を捨てはじめしに、かかる人の国に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやうに明け暮れの御かしづきも、心にかなふやうもやと思ひたまへ立ちしかど、身のつたなかりける際の思ひ知らるること多かりしかば、さらに都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて貧しき家の蓬葎、元のありさま改むることもなきものから、公私にをこがましき名を広めて、親の御亡き影を恥づかしめむことのいみじさになむ、やがて世を捨てつる門出なりけりと人にも知られにしを、その方につけてはよう思ひ放ちてけりと思ひはべるに、君のやうやうおとなびたまひ、もの思ほし知るべきに添へては、などかう口惜しき世界にて錦を隠しきこゆらんと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりはべりしままに、仏神を頼みきこえて、さりともかうつたなき身に引かれて、山賤の庵には混じりたまはじ、と思ふ心一つを頼みはべりしに、思ひ寄りがたくてうれしきことどもを見たてまつりそめても、なかなか身のほどをとざまかうざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君のかう出でおはしましたる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまはむも、いとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たてまつらざらむ心惑ひは、静めがたけれど、この身は長く世を捨てし心はべり。君達は、世を照らしたまふべき光しるければ、しばし、かかる山賤の心を乱りたまふばかりの御契りこそはありけめ。天に生まるる人の、あやしき三つの途に帰るらむ一時に思ひなずらへて、今日、長く別れたてまつりぬ。命尽きぬと聞こしめすとも、後のこと思しいとなむな。さらぬ別れに御心動かしたまふな」
と言ひ放つものから、
「煙ともならむ夕べまで、若君の御ことをなむ、六時の勤めにも、なほ心きたなくうちまぜはべりぬべき」
とて、これにぞうちひそみぬる。
御車はあまた続けむも所狭く、片へづつ分けむもわづらはしとて、御供の人々も、あながちに隠ろへ忍ぶれば、舟にて忍びやかにと定めたり。辰の時に舟出したまふ。昔の人もあはれと言ひける浦の朝霧隔たりゆくままに、いともの悲しくて、入道は、心澄み果つまじく、あくがれ眺めゐたり。ここら年を経て、今さらに帰るも、なほ思ひ尽きせず、尼君は泣きたまふ。
かの岸に心寄りにし海人舟の背きしかたに漕ぎ返るかな
御方、
いく返り行きかふ秋を過ぐしつつ浮木に乗りてわれ返るらむ
思ふ方の風にて、限りける日違へず入りたまひぬ。人に見咎められじの心もあれば、路のほども軽らかにしなしたり。
家のさまもおもしろうて、年ごろ経つる海づらにおぼえたれば、所変へたる心地もせず。昔のこと思ひ出でられて、あはれなること多かり。造り添へたる廊など、ゆゑあるさまに、水の流れもをかしうしなしたり。まだこまやかなるにはあらねども、住みつかばさてもありぬべし。親しき家司に仰せ賜ひて、御まうけのことせさせたまひけり。渡りたまはむことは、とかう思したばかるほどに、日ごろ経ぬ。
なかなかもの思ひ続けられて、捨てし家居も恋しう、つれづれなれば、かの御形見の琴を掻き鳴らす。折の、いみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響きあひたり。尼君、もの悲しげにて寄り臥したまへるに、起き上がりて、
身を変へて一人返れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
御方、
古里に見し世の友を恋ひわびてさへづることを誰か分くらん
かやうにものはかなくて明かし暮らすに、大臣、なかなか静心なく思さるれば、人目をもえ憚りあへたまはで、渡りたまふを、女君は、かくなむとたしかに知らせたてまつりたまはざりけるを、例の、聞きもや合はせたまふとて、消息聞こえたまふ。
「桂に見るべきことはべるを、いさや、心にもあらでほど経にけり。訪らはむと言ひし人さへ、かのわたり近く来ゐて、待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも、飾りなき仏の御訪らひすべければ、二、三日ははべりなん」
と聞こえたまふ。桂の院といふ所、にはかに造らせたまふと聞くは、そこに据ゑたまへるにや、と思すに心づきなければ、
「斧の柄さへ改めたまはむほどや、待ち遠に」
と心ゆかぬ御けしきなり。例の比べ苦しき御心、いにしへのありさま名残なし、と世人も言ふなるものを、何やかやと御心とりたまふほどに、日たけぬ。
忍びやかに、御前疎きは混ぜで、御心づかひして渡りたまひぬ。たそかれ時におはし着きたり。狩の御衣にやつれたまへりしだに世に知らぬ心地せしを、まして、さる御心してひきつくろひたまへる御直衣姿、世になくなまめかしうまばゆき心地すれば、思ひむせべる心の闇も晴るるやうなり。めづらしうあはれにて、若君を見たまふも、いかが浅く思されむ。今まで隔てける年月だに、あさましく悔しきまで思ほす。大殿腹の君をうつくしげなりと、世人もて騒ぐは、なほ時世によれば、人の見なすなりけり。かくこそは、すぐれたる人の山口はしるかりけれ、とうち笑みたる顔の何心なきが愛敬づき匂ひたるを、いみじうらうたしと思す。乳母の、下りしほどは衰へたりし容貌、ねびまさりて、月ごろの御物語など馴れ聞こゆるを、あはれに、さる塩屋のかたはらに過ぐしつらむことを、思しのたまふ。
「ここにも、いと里離れて、渡らむこともかたきを、なほ、かの本意ある所に移ろひたまへ」
とのたまへど、
「いとうひうひしきほど過ぐして」
と聞こゆるも、ことわりなり。夜一夜、よろづに契り語らひ明かしたまふ。
つくろふべき所、所の預かり、今加へたる家司などに仰せらる。桂の院に渡りたまふべしとありければ、近き御荘の人々、参り集まりたりけるも、みな尋ね参りたり。前栽どもの折れ伏したるなどつくろはせたまふ。
「ここかしこの立石どもも皆転び失せたるを、情けありてしなさば、をかしかりぬべき所かな。かかる所をわざと繕ふも、あいなきわざなり。さても過ぐし果てねば、立つ時もの憂く、心とまる、苦しかりき」
など、来し方のことものたまひ出でて、泣きみ笑ひみ、うちとけのたまへる、いとめでたし。
尼君、のぞきて見たてまつるに、老いも忘れ、もの思ひも晴るる心地してうち笑みぬ。東の渡殿の下より出づる水の心ばへつくろはせたまふとて、いとなまめかしき袿姿うちとけたまへるを、いとめでたううれしと見たてまつるに、閼伽の具などのあるを見たまふに、思し出でて、
「尼君は、こなたにか。いとしどけなき姿なりけりや」
とて、御直衣召し出でて、たてまつる。几帳のもとに寄りたまひて、
「罪軽く生ほし立てたまへる、人のゆゑは、御行なひのほどあはれにこそ、思ひなしきこゆれ。いといたく思ひ澄ましたまへりし御住みかを捨てて、憂き世に帰りたまへる心ざし、浅からず。またかしこには、いかにとまりて、思ひおこせたまふらむと、さまざまになむ」
と、いとなつかしうのたまふ。
「捨てはべりし世を、今さらにたち帰り、思ひたまへ乱るるを、推し量らせたまひければ、命長さのしるしも、思ひたまへ知られぬる」
とうち泣きて、
「荒磯陰に、心苦しう思ひきこえさせはべりし二葉の松も、今は頼もしき御生ひ先と、祝ひきこえさするを、浅き根ざしゆゑや、いかがと、かたがた心尽くされはべる」
など聞こゆるけはひ、よしなからねば、昔物語に、親王の住みたまひけるありさまなど、語らせたまふに、繕はれたる水の音なひ、かことがましう聞こゆ。
住み馴れし人は帰りてたどれども清水は宿の主人顔なる
わざとはなくて、言ひ消つさま、みやびかによし、と聞きたまふ。
いさらゐははやくのことも忘れじをもとの主人や面変はりせる
「あはれ」
と、うち眺めて立ちたまふ姿、にほひ、世に知らずとのみ思ひきこゆ。
御寺に渡りたまうて、月ごとの十四、五日、晦日の日、行はるべき普賢講、阿弥陀、釈迦の念仏の三昧をばさるものにて、またまた加へ行はせたまふべきことなど、定め置かせたまふ。堂の飾り、仏の御具など、めぐらし仰せらる。月の明きに帰りたまふ。
ありし夜のこと、思し出でらるる、折過ぐさず、かの琴の御琴さし出でたり。そこはかとなくものあはれなるに、え忍びたまはで、掻き鳴らしたまふ。まだ調べも変はらず、ひきかへし、その折今の心地したまふ。
契りしに変はらぬ琴の調べにて絶えぬ心のほどは知りきや
女、
変はらじと契りしことを頼みにて松の響きに音を添へしかな
と聞こえかはしたるも、似げなからぬこそは、身にあまりたるありさまなめれ。こよなうねびまさりにける容貌、けはひ、え思ほし捨つまじう、若君、はた、尽きもせずまぼられたまふ。いかにせまし。隠ろへたるさまにて生ひ出でむが、心苦しう口惜しきを、二条の院に渡して、心のゆく限りもてなさば、後のおぼえも罪免れなむかし、と思ほせど、また、思はむこといとほしくて、えうち出でたまはで、涙ぐみて見たまふ。幼き心地に、すこし恥ぢらひたりしが、やうやううちとけて、もの言ひ笑ひなどして、むつれたまふを見るままに、匂ひまさりてうつくし。抱きておはするさま、見るかひありて、宿世こよなしと見えたり。
またの日は京へ帰らせたまふべければ、すこし大殿籠り過ぐして、やがてこれより出でたまふべきを、桂の院に人々多く参り集ひて、ここにも殿上人あまた参りたり。御装束などしたまひて、
「いとはしたなきわざかな。かく見あらはさるべき隈にもあらぬを」
とて、騒がしきに引かれて出でたまふ。心苦しければ、さりげなく紛らはして立ちとまりたまへる戸口に、乳母、若君抱きてさし出でたり。あはれなる御けしきに、かき撫でたまひて、
「見では、いと苦しかりぬべきこそ、いとうちつけなれ。いかがすべき。いと里遠しや」
とのたまへば、
「遥かに思ひたまへ絶えたりつる年ごろよりも、今からの御もてなしの、おぼつかなうはべらむは、心尽くしに」
など聞こゆ。若君手をさし出でて、立ちたまへるを慕ひたまへば、ついゐたまひて、
「あやしう、もの思ひ絶えぬ身にこそありけれ。しばしにても苦しや。いづら。など、もろともに出でては、惜しみたまはぬ。さらばこそ人心地もせめ」
とのたまへば、うち笑ひて、女君にかくなむと聞こゆ。なかなかもの思ひ乱れて臥したれば、とみにしも動かれず。あまり上衆めかしと思したり。人々もかたはらいたがれば、しぶしぶにゐざり出でて、几帳にはた隠れたるかたはら目、いみじうなまめいてよしあり、たをやぎたるけはひ、御子たちといはむにも足りぬべし。帷子引きやりて、こまやかに語らひたまふとて、とばかり返り見たまへるに、さこそ静めつれ、見送りきこゆ。いはむかたなき盛りの御容貌なり。いたうそびやぎたまへりしが、すこしなりあふほどになりたまひにける御姿など、かくてこそものものしかりけれと、御指貫の裾までなまめかしう愛敬のこぼれ出づるぞ、あながちなる見なしなるべき。
かの解けたりし蔵人も、還りなりにけり。靭負尉にて、今年かうぶり得てけり。昔に改め、心地よげにて、御佩刀取りに寄り来たり。人影を見つけて、
「来し方のもの忘れしはべらねど、かしこければえこそ。浦風おぼえはべりつる暁の寝覚にも、おどろかしきこえさすべきよすがだになくて」
と、けしきばむを、
「八重立つ山は、さらに島隠れにも劣らざりけるを、松も昔のと、たどられつるに、忘れぬ人もものしたまひけるに、頼もし」
など言ふ。こよなしや。我も思ひなきにしもあらざりしを、などあさましうおぼゆれど、
「今ことさらに」
と、うちけざやぎて、参りぬ。いとよそほしくさし歩みたまふほど、かしかましう追ひ払ひて、御車の尻に、頭中将、兵衛督乗せたまふ。
「いと軽々しき隠れ家、見あらはされぬるこそねたう」
と、いたうからがりたまふ。
「よべの月に、口惜しう御供に後れはべりにけると思ひたまへられしかば、今朝、霧を分けて参りはべりつる。山の錦は、まだしうはべりけり。野辺の色こそ、盛りにはべりけれ。なにがしの朝臣の、小鷹にかかづらひて、立ち後れはべりぬる、いかがなりぬらむ」
など言ふ。今日はなほ桂殿にとて、そなたざまにおはしましぬ。にはかなる御饗応と騷ぎて、鵜飼ども召したるに、海人のさへづり思し出でらる。野に泊りぬる君達、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝など、苞にして参れり。大御酒あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。おのおの絶句など作りわたして、月はなやかにさし出づるほどに、大御遊び始まりて、いと今めかし。
弾物、琵琶、和琴ばかり、笛ども上手の限りして、折に合ひたる調子吹き立つるほど、川風吹き合はせておもしろきに、月高くさし上がり、よろづのこと澄める夜のやや更くるほどに、殿上人四、五人ばかり連れて参れり。上にさぶらひけるを、御遊びありけるついでに、
「今日は、六日の御物忌明く日にて、かならず参りたまふべきを、いかなれば」
と仰せられければ、ここに、かう泊らせたまひにけるよし聞こし召して、御消息あるなりけり。御使は、蔵人弁なりけり。
月のすむ川のをちなる里なれば桂の影はのどけかるらむ
「うらやましう」
とあり。かしこまりきこえさせたまふ。上の御遊びよりも、なほ所からの、すごさ添へたるものの音をめでて、また酔ひ加はりぬ。ここにはまうけの物もさぶらはざりければ、大堰に、
「わざとならぬまうけの物や」
と、言ひつかはしたり。取りあへたるに従ひて参らせたり。衣櫃二荷にてあるを、御使の弁はとく帰り参れば、女の装束かづけたまふ。
久方の光に近き名のみして朝夕霧も晴れぬ山里
行幸待ちきこえたまふ心ばへなるべし。
「中に生ひたる」
と、うち誦んじたまふついでに、かの淡路島を思し出でて、躬恒が所からかとおぼめきけむことなどのたまひ出でたるに、ものあはれなる酔ひ泣きどもあるべし。
めぐり来て手に取るばかりさやけきや淡路島のあはと見し月
頭中将、
浮雲にしばしまがひし月影のすみはつる夜ぞのどけかるべき
左大弁、すこしおとなびて、故院の御時にもむつましう仕うまつりなれし人なりけり。
雲の上のすみかを捨ててよはの月いづれの谷にかげ隠しけむ
心々にあまたあめれど、うるさくてなむ。気近ううち静まりたる御物語すこしうち乱れて、千年も見聞かまほしき御ありさまなれば、斧の柄も朽ちぬべけれど、今日さへはとて急ぎ帰りたまふ。物ども品々にかづけて、霧の絶え間に立ちまじりたるも、前栽の花に見えまがひたる色あひなど、ことにめでたし。近衛府の名高き舎人、ものの節どもなどさぶらふに、さうざうしければ其駒など乱れ遊びて、脱ぎかけたまふ色々、秋の錦を風の吹きおほふかと見ゆ。ののしりて帰らせたまふ響き、大堰にはもの隔てて聞きて、名残さびしう眺めたまふ。御消息をだにせでと、大臣も御心にかかれり。
殿におはして、とばかりうち休みたまふ。山里の御物語など聞こえたまふ。
「暇聞こえしほど過ぎつれば、いと苦しうこそ。この好き者どもの尋ね来て、いといたう強ひとどめしに、引かされて。今朝は、いとなやまし」
とて、大殿籠れり。例の、心とけず見えたまへど、見知らぬやうにて、
「なずらひならぬほどを、思し比ぶるも、悪きわざなめり。我は我と思ひなしたまへ」
と、教へきこえたまふ。暮れかかるほどに、内裏へ参りたまふに、ひきそばめて急ぎ書きたまふは、かしこへなめり。側目こまやかに見ゆ。うちささめきて遣はすを、御達など、憎みきこゆ。
その夜は内裏にもさぶらひたまふべけれど、解けざりつる御けしきとりに、夜更けぬれど、まかでたまひぬ。ありつる御返り持て参れり。え引き隠したまはで、御覧ず。ことに憎かるべきふしも見えねば、
「これ破り隠したまへ。むつかしや。かかるものの散らむも、今はつきなきほどになりにけり」
とて、御脇息に寄りゐたまひて、御心のうちには、いとあはれに恋しう思しやらるれば、燈をうち眺めて、ことにものものたまはず。文は広ごりながらあれど、女君、見たまはぬやうなるを、
「せめて見隠したまふ御目尻こそ、わづらはしけれ」
とて、うち笑みたまへる御愛敬、所狭きまでこぼれぬべし。
さし寄りたまひて、
「まことは、らうたげなるものを見しかば、契り浅くも見えぬを、さりとて、ものめかさむほども憚り多かるに、思ひなむわづらひぬる。同じ心に思ひめぐらして、御心に思ひ定めたまへ。いかがすべき。ここにて育みたまひてむや。蛭の子が齢にもなりにけるを、罪なきさまなるも思ひ捨てがたうこそ。いはけなげなる下つ方も、紛らはさむなど思ふを、めざましと思さずは、引き結ひたまへかし」
と聞こえたまふ。
「思はずにのみとりなしたまふ御心の隔てを、せめて見知らず、うらなくやはとてこそ。いはけなからむ御心には、いとようかなひぬべくなむ。いかにうつくしきほどに」
とて、すこしうち笑みたまひぬ。稚児をわりなうらうたきものにしたまふ御心なれば、得て抱きかしづかばやと思す。
いかにせまし。迎へやせまし、と思し乱る。渡りたまふこといとかたし。嵯峨野の御堂の念仏など待ち出でて、月に二度ばかりの御契りなめり。年のわたりには、立ちまさりぬべかめるを、及びなきことと思へども、なほいかがもの思はしからぬ。

