発心集「少納言統理、遁世の事」原文・語釈・現代語訳
少納言統理と聞こえける人
原文
少納言統理と聞こえける人、年ごろ世を背かんと思ふこころざし深かりしが、月くまなかりけるころ、心を澄ましつつつくづくと思ひ居たるに、
語釈
- 少納言統理:伊勢守藤原祐之の子。長保元年(999年)3月29日に出家(日本紀略)。
- 年ごろ:これまでの何年かの間。数年来。長年。
- 世を背く:出家遁世する。
- くまなし:曇りがない。影がない。
- つくづく:物思いにふけるさま。しみじみ。じっと。
現代語訳
少納言統理と申し上げる人、ここ数年の間、出家遁世しようという意志が深かった方が、月が曇りなく美しい夜に、心を澄ませてしみじみと物思いにふけっているうちに、
山深く住まんことの
原文
山深く住まんことのなほ切におぼえければ、まづ家に、
「ゆするまうけせよ。物へ行かん」
と言ひて、髪洗ひ梳り、帽子なんどしける。
語釈
- ゆする【泔】:洗髪・整髪用の湯水。
- まうけ:準備。用意。
- 物:出向いて行くべき場所。
- 梳る:髪をくしでとかす。
- 帽子:烏帽子の略称。
現代語訳
山深いところに住みたいという気持ちが、どうしようもなく切実にわきおこってきたので、まず家族に、
「洗髪の用意をせよ。しかるべきところへ行こうと思う」
と言って、髪を洗い、くしで整えて、烏帽子などをかぶった。
気色や知りたりけん
原文
気色や知りたりけん、妻なりける人心得て、さめざめとなむ泣きける。されども、かたみにとかく言ふこともなくて、明る日、うるはしき装ひにて、その時の関白の御もとに詣でけり。
語釈
- 気色:ふつうと違ったおもむき。
- さめざめと:しきりに涙を流し、泣くようす。
- かたみい:お互いに。
- うるはしき装ひ:正装。
- 関白:この時の関白は藤原道長。道長の日記『御堂関白記』にも記されている。
現代語訳
ただならぬ意志を感じたのか、妻である人は夫の心に気づいて、おろおろと涙を流して泣く。けれども、お互いに何か言うこともなく、夜が明けると統理は正装して、時の関白藤原道長卿の御もとに参上した。
このこと案内聞こえむとすれど
原文
このこと案内聞こえむとすれど、申し入る人もなし。やや久しうありて、からうじて、山里にまかり籠るべき暇申せし間に、
「しばし」
とて対面したまひて、御念珠たまはせて、
「後の世には頼むぞ」
とのたまひければ、涙をおさへつつ数珠をば納めて、拝したてまつりて出でにけり。
語釈
- 案内:取り次ぎを請うこと。
- まかる【罷る】:おいとまする。出て行く。
- 後の世:死後の世界。来世。後世。
- 頼む:頼りにする。あてにする。
現代語訳
お暇乞いの取り次ぎを頼もうとするけれども、申し入れてくれる人もいない。かなり長いこと待って、ようやく、山里に下がって籠る旨のご挨拶を申し上げたところ、
「しばし待ちたまえ」
と言って対面してくださり、御念珠をお与えになって、
「来世の安楽を願っておるぞ」
とおっしゃったので、涙をこらえながら数珠を大事にしまって、拝礼して退出した。
僧賀聖の室に至りて
原文
僧賀聖の室に至りて、本意のごとく頭おろしてげれど、つくづくとながめがちにて、勤め行ふこともなし。物思へる様にて、常は涙ぐみつつ居たりければ、聖のあやしみて、故を問ひけり。
語釈
- 僧賀聖:現在の奈良県桜井市にある多武峰に隠棲していた僧。奇行と高徳で知られ、数多くの逸話が残っている。
- 室:僧房。庵室。
- 本意:本来の志。前からの望み。宿願。
- 頭おろす:髪を切って出家する。
- ながむ:物思いにふける。
- 勤め行ふ:仏道修行をする。
現代語訳
僧賀聖の僧房に入って、折からの望み通りに頭を丸めたけれども、ついつい物思いにふけりがちで、仏道修行に身が入らない。物思いに沈んだ様子で、常に涙ぐみながら過ごしていたので、聖はどうしたのかと、その理由を尋ねた。
言ひやる方なくて
原文
言ひやる方なくて、余りのままに、
「子産みはべるべき月に当りたる女のはべるが、思ひ捨てはべれど、さすがに心にかかりて」
と言ふ。聖これを聞きて、やがて都に入りて、その家におはして尋ねたまふに、今、子を産みやらで悩み煩ふ折なりけり。聖祈りて産ませなんどして、人に尋ねつつ産養ひてなん、ともしからぬほどにとぶらひたまひける。
語釈
- やがて:そのまま。すぐに。
- 悩み煩ふ:出産で苦しむ。難産。
- 産養ひ:新生児と産婦の健康を祈る儀式。初夜および産後3・5・7・9日目に行われる祝宴。
- ともしからぬほど:不足しない程度に。
- とぶらふ:見舞う。
現代語訳
統理はすべてを話してしまおうと、思い余るままに、
「子供が産まれる月に当たる妻がおりまして、思い捨てたことでございますが、さすがに心にかかりまして⋯⋯」
と言う。聖はこれを聞いてすぐに都に入り、その家にいらっしゃって様子をお尋ねになると、今まさに、難産で苦しんでいる最中であった。聖は祈祷をして無事に産ませたりして、人に尋ねながら産後の儀式も行い、不足のない程度に見舞われた。
かくて統理大徳
原文
かくて統理大徳、ひと方は心やすくなりぬれど、三条院、東宮と申しける時、常に仕へたてまつりしことの忘れがたくおぼえければ、たてまつれりける。
君に人なれな習ひそ奥山に入りての後はわびしかりけり
語釈
- 大徳:徳の高い僧。
- ひと方:片一方。
- 三条院:三条天皇。第67代天皇。
- 東宮:皇太子。三条天皇が冷泉天皇の第二皇子であった時。
現代語訳
こうして統理大徳は、この一件では心が軽くなったけれども、三条院が東宮でいらっしゃった時、いつもお仕え申し上げていたことが忘れがたく思われたので、和歌をお贈りした。
君に人なれな習ひそ奥山に入りての後はわびしかりけり
わが君に私以外の人がなれ親しまないでほしい。奥山に入った後の私は、わびしく過ごしております
御返し、忘られず思ひ出でつつ山人を
原文
御返し、
忘られず思ひ出でつつ山人をしかぞ恋しき我もながむる
とてたまはりけるに、涙のこぼれけるをおさへつつ居たりけるほどに、聖聞きて、
「東宮より歌たまはりたらん、仏にやはなるべき。この心にては、いかでか生死を離れんぞ」
と恥ぢしめけり。
語釈
- 生死:⦅仏教語⦆生・老・病・死の四つの苦しみに迷う世界。
- 恥ぢしむ:戒める。気を引きしめさせる。
現代語訳
東宮からの御返歌、
忘られず思ひ出でつつ山人をしかぞ恋しき我もながむる
私も忘れられず、懐かしい日々を思い出しながら、山人となったお前を恋しく思い、物思いにふけっている
という歌を頂き、涙がこぼれるのをおさえつつ過ごしているうちに、聖はこれを聞いて、
「東宮から歌をたまわれば、仏にでもなれるというのか。そんな心持ちでは、どうやっても迷いの世界から離れられんぞ」
と戒めた。
発心集「少納言統理、遁世の事」原文全文
少納言統理と聞こえける人、年ごろ世を背かんと思ふこころざし深かりしが、月くまなかりけるころ、心を澄ましつつつくづくと思ひ居たるに、山深く住まんことのなほ切におぼえければ、まづ家に、
「ゆするまうけせよ。物へ行かん」
と言ひて、髪洗ひ梳り、帽子なんどしける。
気色や知りたりけん、妻なりける人心得て、さめざめとなむ泣きける。されども、かたみにとかく言ふこともなくて、明る日、うるはしき装ひにて、その時の関白の御もとに詣でけり。
このこと案内聞こえむとすれど、申し入る人もなし。やや久しうありて、からうじて、山里にまかり籠るべき暇申せし間に、
「しばし」
とて対面したまひて、御念珠たまはせて、
「後の世には頼むぞ」
とのたまひければ、涙をおさへつつ数珠をば納めて、拝したてまつりて出でにけり。
僧賀聖の室に至りて、本意のごとく頭おろしてげれど、つくづくとながめがちにて、勤め行ふこともなし。物思へる様にて、常は涙ぐみつつ居たりければ、聖のあやしみて、故を問ひけり。
言ひやる方なくて、余りのままに、
「子産みはべるべき月に当りたる女のはべるが、思ひ捨てはべれど、さすがに心にかかりて」
と言ふ。聖これを聞きて、やがて都に入りて、その家におはして尋ねたまふに、今、子を産みやらで悩み煩ふ折なりけり。聖祈りて産ませなんどして、人に尋ねつつ産養ひてなん、ともしからぬほどにとぶらひたまひける。
かくて統理大徳、ひと方は心やすくなりぬれど、三条院、東宮と申しける時、常に仕へたてまつりしことの忘れがたくおぼえければ、たてまつれりける。
君に人なれな習ひそ奥山に入りての後はわびしかりけり
御返し、
忘られず思ひ出でつつ山人をしかぞ恋しき我もながむる
とてたまはりけるに、涙のこぼれけるをおさへつつ居たりけるほどに、聖聞きて、
「東宮より歌たまはりたらん、仏にやはなるべき。この心にては、いかでか生死を離れんぞ」
と恥ぢしめけり。
発心集「少納言統理、遁世の事」現代語訳全文
少納言統理と申し上げる人、ここ数年の間、出家遁世しようという意志が深かった方が、月が曇りなく美しい夜に、心を澄ませてしみじみと物思いにふけっているうちに、山深いところに住みたいという気持ちが、どうしようもなく切実にわきおこってきたので、まず家族に、
「洗髪の用意をせよ。しかるべきところへ行こうと思う」
と言って、髪を洗い、くしで整えて、烏帽子などをかぶった。
ただならぬ意志を感じたのか、妻である人は夫の心に気づいて、おろおろと涙を流して泣く。けれども、お互いに何か言うこともなく、夜が明けると統理は正装して、時の関白藤原道長卿の御もとに参上した。
お暇乞いの取り次ぎを頼もうとするけれども、申し入れてくれる人もいない。かなり長いこと待って、ようやく、山里に下がって籠る旨のご挨拶を申し上げたところ、
「しばし待ちたまえ」
と言って対面してくださり、御念珠をお与えになって、
「来世の安楽を願っておるぞ」
とおっしゃったので、涙をこらえながら数珠を大事にしまって、拝礼して退出した。
僧賀聖の僧房に入って、折からの望み通りに頭を丸めたけれども、ついつい物思いにふけりがちで、仏道修行に身が入らない。物思いに沈んだ様子で、常に涙ぐみながら過ごしていたので、聖はどうしたのかと、その理由を尋ねた。
統理はすべてを話してしまおうと、思い余るままに、
「子供が産まれる月に当たる妻がおりまして、思い捨てたことでございますが、さすがに心にかかりまして⋯⋯」
と言う。聖はこれを聞いてすぐに都に入り、その家にいらっしゃって様子をお尋ねになると、今まさに、難産で苦しんでいる最中であった。聖は祈祷をして無事に産ませたりして、人に尋ねながら産後の儀式も行い、不足のない程度に見舞われた。
こうして統理大徳は、この一件では心が軽くなったけれども、三条院が東宮でいらっしゃった時、いつもお仕え申し上げていたことが忘れがたく思われたので、和歌をお贈りした。
君に人なれな習ひそ奥山に入りての後はわびしかりけり
わが君に私以外の人がなれ親しまないでほしい。奥山に入った後の私は、わびしく過ごしております
東宮からの御返歌、
忘られず思ひ出でつつ山人をしかぞ恋しき我もながむる
私も忘れられず、懐かしい日々を思い出しながら、山人となったお前を恋しく思い、物思いにふけっている
という歌を頂き、涙がこぼれるのをおさえつつ過ごしているうちに、聖はこれを聞いて、
「東宮から歌をたまわれば、仏にでもなれるというのか。そんな心持ちでは、どうやっても迷いの世界から離れられんぞ」
と戒めた。

